<油圧式カタパルト>:油圧ピストンを使用したカタパルトのこと。火薬式よりも航空機の加速が緩やかで、持続的に加速できるため、機体や乗員が損傷する危険を抑えつつ大重量の航空機を射出させることができる。参考:護衛空母入門
<油圧試験装置M型(E−767/KC−767用)>:自衛隊の機器。三徳航空電装製。参考:月刊軍事研究4,’12
<油圧システム>:Hydraulic system。油タンクに作動油を入れておき、油圧ポンプで圧力をかけて押し出し、油圧制御弁で力の大きさ・速度・向きを制御、油圧モーターやシリンダーなどのアクチュエーターに伝えて作動させるシステムのこと。流体(作動油)を使い、パスカルの原理で力を増幅・伝達するのが基本原理である。作動圧力7-35MPa、操作力30000トンまで、操作速度毎秒1メートル。作動油がシール材、潤滑油、機器冷却材を兼ねる。力の伝達に歯車などの機械的機構が要らず、配管で繋げば済む。アクチュエーターへの作動油供給量を変えることで無段階に力を制御でき、変速機構が要らない。過負荷を防ぐのもリリーフ弁を設けるだけで良い。ポンプや制御弁の遠隔制御も簡単である。油圧ポンプで上げた圧力を油圧制御弁だけで保持することができるため、アクチュエーターの作動に必要な油圧を保ちながら油圧ポンプ吐出流量をほぼゼロにすることが可能で、消費動力を最小限にできる。作動油にコンタミ(汚染物質)が混じると、目に見えない大きさのものでも作動不良、目詰まり、摺動部分の摩耗などを引き起こし、油漏れや故障の原因となるため、各部にフィルタを設置しておかないといけない。油温が上昇すると粘度が低下してアクチュエーターの作動に影響し、60℃を超えると酸化による劣化が促進され、油圧ポンプの効率が下がり、作動油の粘度低下により油膜が切れて摺動部が摩耗し油圧ポンプが焼き付く恐れもあるので、冷却装置(一般に水冷装置)が必要。20世紀初めに石油精製法の発達で潤滑性の良い作動油と耐油性に優れた合成ゴムパッキンが作れるようになり、1903年にピストン式油圧ポンプと油圧モーターを使用した戦艦ヴァージニア用砲塔駆動装置が製作された。1925年にはヴィッカーズ社が平衡形ベーンポンプを発明してパワー・ステアリングや産業機械に使用し、水圧システムに代わって流体による動力伝達システムの主役となっている。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧システム(艦船)>:可変ピッチプロペラ、舵取り機、フィン・スタビライザーなどに使用される。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧システム(航空機)>:操縦系統、降着装置、ブレーキ系統の駆動に使用され、小型軽量かつ信頼性が高いことが求められる。ハウジングにアルミ合金を使い、加圧タンクから作動油を供給、油圧ポンプを高速回転させ、出力あたり重量を一般産業用油圧ポンプの4割くらいに抑えている。定格圧力は一般に3000psi(20.85MPa・210気圧)で、一部に小型化を図って4000psi(27.8MPa・280気圧)や35MPaを使っているものもある。故障に備え、エンジンで動かす常用加圧ポンプに加えて圧縮空気や非常用電動ポンプなどによる独立第2系統を積んでおり、非常用電動ポンプの動力にはラムエアタービンを使い、常用が故障したら自動で第2系統に切り替わる。両方故障したら人力操縦に切り替えるが、独立3系統以上の油圧システムを積んで非常用人力操縦系統を省くことも多い。油漏れを防ぐ設計や整備に手間がかかる、被弾に弱い、作動油が燃える(火災予防のため難燃性のリン酸エステルを使う必要がある)、コンタミを防ぐため絶対濾過精度15-25ミクロンのフィルタを複数設置して定期的に点検しなければならないといった欠点がある。最初は降着装置の車輪用ブレーキとして使用されていたが、1930年代に入ってフラップや引き込み脚の動力として使われるようになり、基本三舵などの動翼にも進出し、キャノピーやカーゴドアや爆弾倉の開閉、翼の折り畳み、スピードブレーキの作動など、航空機の可動部分ほぼ全てに利用範囲が広がった。舵面を動かさない時に油圧作動筒が舵面の動きを抑制するような仕組みにしておけば、フラッターを防止でき、マスバランスを付ける必要が無いので軽量化に繋がる。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings10,’09別冊付録、月刊軍事研究6,’14
<油圧システム(車両)>:パワー・ステアリング、ショック・アブソーバー、ブレーキ、アンチロック・ブレーキ・システム、オートマチック・トランスミッション用遊星歯車式ギア組み替えなどに使用されていて、ブレーキは一般的な作動油でなく専用のブレーキ・オイルを使う。ターレット俯仰旋回用油圧モーターやアーム作動用油圧シリンダーなどを装備するものもある。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧ショベル>:自衛隊の車両。コベルコ建機製。参考:月刊軍事研究8,’10
<油圧ショベル(航空自衛隊)>:航空自衛隊のショベルカーで、型式名はIS200G。大型排水溝の土砂排除や掩体掘削、舗装面破壊などに使用される。全長9.22m、全幅2.8m、全高2.91m、車重18.6トン、総重量18.68トン。エンジンは6BT1T直列6気筒ディーゼル(5785cc、128馬力)で、最大速度5km。燃料タンク容量300リットル。乗員1名。参考:自衛隊装備年鑑1996
<油圧ショベル(航空自衛隊)>:全長9.49m、全幅2.81m、全高3.07m、車両総重量20トン。エンジン定格出力135kW、走行速度5.5km。乗員1名。日立建機または小松製作所製。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015
<油圧ショベル(小型)>:自衛隊の車両。ワールドビクトリーまたは日立建機が受注している。参考:月刊軍事研究8,’10、12,’12
<油圧ショベル(国際平和協力活動用)>:自衛隊の車両。住友建機製。参考:月刊軍事研究3,’17
<油圧ショベル(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の施設科部隊が装備するショベルカー。掩体などの掘削や、土砂の積み込みなどを行う。日立建機、住友重機、小松製作所、日本製鋼所、新キャタピラ三菱、神戸製鋼所、コベルコ建機に発注している。全長9.1-9.49m、全幅2.75-2.99m、全高2.8-3.07m、全備重量18.3-20.0トン。エンジン出力95-135kW、走行速度3-5.5km。バケット容量は0.7-0.8立方メートル。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、自衛隊装備年鑑1996、自衛隊装備カタログ1981
<油圧ショベル1型>:自衛隊の車両。コベルコ建機または住友建機販売が受注している。参考:月刊軍事研究9,’10、11,’12
<油圧ショベル2型>:自衛隊の車両。住友建機販売またはコベルコ建機が受注している。参考:月刊軍事研究2,’09、10,’10
<油圧シリンダー>:油圧システムのアクチュエーターの1つ。作動油の流体エネルギーを直線往復運動に変換する。ピストンの片側に油圧を掛ける単動形と両側に油圧を掛ける複動形がある。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧パワーショベル>:陸上自衛隊の施設科部隊が装備するパワーショベル。全長9.57m、全幅2.77m、全高2.84m、運転整備重量19.46トン。エンジンはコマツ4D130ディーゼルで、走行速度3.6km。最大掘削深さはホー作業時6.37m、ショベル作業時6.51m。小松製作所製で、市販のものと同じである。参考:自衛隊装備カタログ1981
<油圧ピストンモーター>:油圧モーターの1つ。ピストン内に作動油を出し入れして往復運動させ、これを連続的な回転運動に変換する。ピストンを回転軸と平行に並べたアキシアル形と、ピストンを回転軸と垂直に並べたラジアル形があり、前者は高速回転用(1200-2400rpm、定格圧力25-31.5MPa、定格トルク300-3700N・m)または減速機を噛ませた低速回転用、後者は低速回転高トルク用(70-400rpm、定格圧力21MPa、定格トルク1800-45000N・m)に使われる。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧ブースト方式>:航空機の操縦方式の1つ。操縦桿やペダルを動かすと油圧サーボに指令が送られ、力を何倍かに増幅して舵に伝える。油圧サーボが故障しても舵を動かせるよう、操縦桿やペダルと舵は直結されているが、舵が風圧などで振られるとその動きが操縦桿やペダルに伝わってしまい、操縦しにくくなるという欠点があったため、完全機力方式が開発された。参考:月刊JWings9,’10
<油圧モーター>:油圧システムのアクチュエーターの1つ。作動油の流体エネルギーを連続的な回転運動に変換するもので、油圧ポンプの逆の働きをする。作動油の圧力を上げればトルクが上がるので、馬力密度が大きく、電動モーターより質量あたりの出力が10倍高い。ギヤモーター、ベーンモーター、ピストンモーターがあり、ピストンモーターが多く使われる。参考:トコトンやさしい油圧の本
<油圧レッカー車>:航空自衛隊の6×6輪4トントラックZC-48C。全長9.3m、全幅2.45m、全高2.88m、重量13.7トン、最大牽引力5.97トン、最大吊り上げ荷重4.5トン。エンジンは日野製DS-30水冷6気筒、トランスミッションは選択摺動式前進4段・後進1段、最大速度66km、燃費は1リットルあたり4.7km。乗員2名。参考:自衛隊装備カタログ1981
<ユアンカビルカ>:S-102(潜水艦)を参照。
<ユアン級>:元級(潜水艦)を参照。
<ユアンワン1>:遠望1(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン1級>:遠望1級(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン2>:遠望2(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン3>:遠望3(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン3級>:遠望3級(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン4>:遠望4(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン4級>:遠望4級(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン5>:遠望5(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン5級>:遠望5級(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン6>:遠望6(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン7>:遠望7(衛星追跡艦)を参照。
<ユアンワン7級>:遠望7級(衛星追跡艦)を参照。
<ユィカン級>:072型(戦車揚陸艦)を参照。
<ユィシー>:566(フリゲート)を参照。
<ユィタオ級>:073U型(戦車揚陸艦)を参照。
<ユイチャン>:WZ551装甲車ファミリーを参照。
<ユィティン級>:072U型(戦車揚陸艦)を参照。
<ユィディン級>:073V型(戦車揚陸艦)を参照。
<ユィハイ級>:074型(戦車揚陸艦)を参照。
<ユイ要塞>:ベルギーのユイにある要塞で、1818年から建設され、50門の砲を備えて1723年に完成した。1848年に監獄に転用され、1876年からは記念物として展示され、第1次大戦時にドイツ軍が占領、駐屯地及び捕虜収容所として使用された。第2次大戦時にもドイツ軍が占領し、フランス・ベルギーの政治犯など6000人以上が収容された。戦後は放置されていたが、1973年にユイ市が購入して1992年に博物館となった。参考:月刊軍事研究8,’07
<ユィリエン級>:079型(汎用揚陸艇)を参照。
<ユィリン>:565(フリゲート)を参照。
<ユーイー級>:726型シリーズ(エアクッション揚陸艇)または玉翼級(エアクッション揚陸艇)を参照。
<優位戦>:日本海軍用語で、自機の方が高いところに位置して開始する空戦訓練のこと。ちなみに日本陸軍では高位戦という。参考:月刊航空ファン4,’19
<遊泳斥候員>:陸上自衛隊の水陸両用作戦用上陸地点偵察隊員。夜間に隠密裏にボートなどで目標地点に近づき、泳いで陸に上がり、上陸予定地点の状況を偵察する。ウェットスーツの上に耐水戦闘服を着て戦闘浮力器材や戦闘装着帯(弾倉などを収容)を重ね、ヘルメットでなく布製の戦闘帽を被り、メッシュ製で水はけの良い戦闘服に戦闘フィンを装着、左大腿に水中ナイフを装備し、左手首に水中コンパスも携帯、声を出すとばれるのでハンドライトにより指示や合図を行う。参考:MAMOR vol.158
<有害抗力>:Parasite drag。飛行機全体の抗力から主翼の抗力を引いたもの。主翼は揚力を生むので、ここから生じる抗力は仕方が無いが、他の部分は無駄なだけなので、纏めて有害に区分する。更に細かく解析し、揚力を作るためにやむを得ず生じる主翼の誘導抗力以外の抗力を全て有害抗力とすることもある。飛行機の前進を妨げるだけなので、各部から極力発生させないようにし、フィレットを取り付けるなどして各部間の干渉抗力も減らすような工夫をする。参考:航空用語事典増補改訂版
<有蓋指揮車>:自衛隊の車両。UDトラックスまたは北村製作所製。参考:月刊軍事研究8,’12、1,’17
<夕顔>:日本海軍若竹型駆逐艦6番艦。大正13年5月31日竣工、第12号駆逐艦と命名され、二等駆逐艦に類別された。昭和3年8月1日に夕顔と改称された。昭和15年4月1日に哨戒艇に転籍し、第46号哨戒艇に改称された。昭和19年11月10日、石廊崎西方でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没し、昭和20年1月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、日本海軍艦隊総覧
<夕風>:日本海軍峯風型駆逐艦10番艦Yukaze。大正9年12月14日起工、大正10年5月28日進水、大正10年8月24日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は第3航空戦隊に所属していた。昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和19年8月17日からヒ七一船団の護衛に参加。昭和20年7月24日、標的訓練艦を務めていた際、海鷹が触雷して航行不能に陥ったため、曳航して7月25日に別府湾日出海岸に座礁させている。8月15日、終戦時は別府湾にいた。10月5日に除籍され、特別輸送艦として使用された。昭和22年8月14日、シンガポールでイギリスに賠償艦として引き渡された。参考:月刊世界の艦船2,'24、9,’14、日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、輸送船入門
<ゆうかり>:MSI-692(掃海艇)を参照。
<友誼二〇〇四>:中国とパキスタンが2004年8月に行った合同演習。新疆ウイグル自治区のタシクルガン県で行われた。参加兵力は国境守備隊及び特殊部隊合わせて200名。中国は新疆ウイグル自治区独立を主張する東トルキスタン分離運動のテロ組織が付近で活動しているとみており、ついでにテロ掃討作戦も実施している。参考:月刊軍事研究4,’07
<友誼二〇〇六>:中国とパキスタンが2006年末にパキスタンで実施した合同演習。12月10日に中国陸軍部隊(成都軍区所属の約200名)が輸送機でイスラマバード国際空港に運ばれ、対テロ作戦を中心に12月中旬一杯まで演習を続けた。参考:月刊軍事研究4,’07
<有機ガラス>:アクリル樹脂を参照。
<悠久山蒼柴神社>:新潟県長岡市の悠久山公園内にある神社。山本五十六が長岡中学校に寄贈した魚雷と機雷(二号機雷らしい)が展示されている。所在地は新潟県長岡市悠久町707。長岡駅からバスで15分。参考:JShips
Vol.46
<ゆうぎり>:DD-153(護衛艦)を参照。
<夕霧(初代)>:日本海軍東雲型駆逐艦3番艦。明治32年3月10日竣工、水雷艇(駆逐艇)に類別された。明治33年6月22日、軍艦(駆逐艦)に類別変更。明治38年12月12日、駆逐艦に変更。大正元年8月28日、三等駆逐艦に変更。大正8年4月1日、雑役船に編入され、大正9年7月1日に特務艇となり、大正11年4月1日に除籍された。大正13年3月14日、廃船にされた。参考:日本駆逐艦史
<夕霧(2代目)>:日本海軍吹雪型駆逐艦14番艦Yugiri。昭和5年12月3日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和10年9月26日、第4艦隊事件で艦首を切断、修理に入った。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第20駆逐隊に所属していた。昭和17年4月3日、アンダマンで爆撃を受けて小破した。4月5日からセイロン島攻撃に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。8月28日、ソロモン群島ラモス島付近で爆撃を受けて中破した。昭和18年2月2日、ショートランドで触雷した。11月25日、セント・ジョージ岬沖海戦で被弾及び被雷によりブカ島西50海里で沈没し、12月15日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,’14、帝国海軍太平洋作戦史T
<ゆうぐも>:DD-121(駆逐艦)を参照。
<夕雲>:日本海軍夕雲型駆逐艦2番艦。昭和16年12月5日竣工、第10駆逐隊に編入された。太平洋戦争開戦後は東京湾外で対潜警戒を実施。昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦に参加、次いでAL作戦を支援した。8月13日、呉を出港。8月24日、第2次ソロモン海戦に参加。10月26日、南太平洋海戦に参加。11月10日からショートランド・ガダルカナル間の輸送作戦を2回実施。11月14日、第3次ソロモン海戦に参加。12月16日、ラバウルを出港してウエワク攻略作戦に参加。昭和18年2月1日、イサベル島沖海戦に参加。2月17日、パラオを出港してウエワク輸送作戦を実施。3月25日からコロンバンガラ輸送作戦を実施。5月9日、横須賀に入港した。整備と訓練を行い、6月10日に横須賀を出港、コロンバンガラ転進作戦を実施。10月6日、ベラ・ラベラ島沖夜戦で雷撃を受けて沈没し、艦長ら241名が死亡した。生存者78名は6月7日にアメリカ魚雷艇4隻に救助されている。12月1日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸4,’99
<夕雲型>:日本海軍駆逐艦Yugumo型、基本計画番号F50、甲型駆逐艦ともいう。陽炎型の小改良型で、マル四計画で建造された。艦尾水線長を0.5m延長し、プロペラ形状を変更、高角測距儀装備などで大型化した艦橋を楔形にして空気抵抗減少に努め、速力を35.5ノットに増やした。主砲は仰角が75度まで取れるD型砲に換えている。砲の発射速度が遅いため、対空用としてはあまり役に立たなかったともいわれるが、それなりの成績は修めたようで、昭和19年以降の対空兵装強化に際しても主砲を降ろすことはしていない。全長119m、水線幅10.8m、吃水3.8m、基準排水量2077トン。主機は艦本式高中低圧3胴型オールギヤードタービン(巡航タービンは高低圧の2つあり、減速歯車で1軸に纏めて中圧タービンに結合されている。巡航タービン使用時は排気で低圧タービンも作動させる)2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(蒸気圧力30気圧、蒸気温度350度)3基で、出力52000馬力、2軸推進、速力35.5ノット、燃料600トン、航続距離は18ノットで6000海里(5000海里?)。兵装は50口径三年式12.7サンチ連装砲塔D型3基、25ミリ連装機銃2基、61サンチ4連装魚雷発射管2基(次発装填装置付き)。乗員225名。30隻を建造する予定だったが、量産向きでなかったらしく竣工したのは19隻で、夕雲、巻雲、風雲、長波、巻波、高波、大波、清波、玉波、涼波、藤波、早波、濱波、沖波、岸波、朝霜、早霜、秋霜、清霜が昭和16-19年に就役した。昭和18-19年竣工の後期艦は二二号対水上電探を竣工時から搭載している。太平洋戦争中に逐次一三号対空電探を追加装備した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船10,’06、5,’11、9,’14、8,’19、日本海軍艦隊総覧、月刊丸4,’99
<ゆうぐれ>:DD-184(駆逐艦)を参照。
<夕暮(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦15番艦。明治39年5月26日竣工。大正元年8月28日に三等駆逐艦に類別変更された。大正4年10月、特別大演習で豊後水道を航行中に波浪で前艦橋を損傷、応急修理を行った。第1次大戦時には第2水雷戦隊第8駆逐隊として青島方面に出動し、膠州湾の掃海任務に就いた。大正13年12月1日に掃海艇となった。昭和3年4月1日除籍され、7月6日に廃駆逐艦第7号となった。昭和4年11月12日に売却され、昭和5年1月23日に千葉県君津沖で魚礁になった。参考:日本駆逐艦史、月刊丸1,’77
<夕暮(2代目)>:日本海軍有明型駆逐艦2番艦Yugure。昭和10年3月30日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は第27駆逐隊に所属していた。昭和17年4月下旬からMO作戦に参加。5月6日、第27駆逐隊所属で珊瑚海海戦に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。8月11日、柱島を出撃。8月17日、トラックに到着。8月21日、トラックを出撃してガダルカナルに向かった。8月24日、第2次ソロモン海戦に参加。8月26日、乗員で編成した陸戦隊がオーシャン島を占領。11月13日、第3次ソロモン海戦に参加。昭和18年5月16日、カビエン北西120海里でアメリカ海軍潜水艦の雷撃により大破した。7月12-13日、コロンバンガラ島沖夜戦に参加。7月20日(13日?)、ベラ・ラベラ沖で爆撃を受けて沈没し、10月15日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸1,’77、ラバウル航空戦、月刊世界の艦船9,’14、日本海軍艦隊総覧、歴史群像8,’17
<有鶏頭>:単発式散弾銃を参照。
<有限抑止戦略>:アメリカの核戦略。1960年11月にポラリスA1装備の戦略原潜SSBN-598ジョージ・ワシントンが就役し、非脆弱性を持つ戦略核兵器を配備したことで誕生した。大量報復戦略や対兵力戦略でなく、仮想敵の重要な工業中心部2-3カ所に対する対都市戦略をとるというものである。これに基づいてUGM-27ポラリスとLGM-30ミニットマンの配備が進められ、B-70爆撃機の開発は中止になった。参考:アメリカの核兵器
<勇虎>:M48H(戦車)を参照。
<友好2016>:ロシアとパキスタンが2016年9月24日から10月10日にカシミール高地ギルギット・バルチスタン州の陸軍高地学校と特殊部隊訓練センターで行った初の合同陸上演習。パキスタンから130名、ロシアから南部軍管区第34独立自動車化歩兵旅団(山岳戦部隊)70名が参加している。直前にカシミール地方でパキスタン武装勢力がインド軍基地に越境攻撃を仕掛け17名を殺害する事件が起きており、インドがロシアに中止を要請したが、ロシアは係争地域で訓練を行わないことや、十分な情報共有を図ることを説明している。演習中にインド特殊部隊がパキスタンに報復越境攻撃を行っており、ロシアはインド側を支持した。参考:月刊軍事研究4,’17
<有効射高>:高射砲や対空ミサイルが航空機と交戦可能な高度のこと。参考:米英軍戦闘兵器カタログVol.2
<有効射程>:最大有効射程ともいう。銃砲から発射された弾丸・弾頭が、ある程度の命中精度と殺傷能力を持つ最大距離。参考:GUN用語事典
<有効出力>:軸馬力を参照。
<有効馬力>:船舶がその速力を出すのに必要な馬力のことで、船の抵抗に船速を掛けて75で割ると求められる。ただし摩擦、プロペラ効率、天候などによる出力ロスは計算に入れていないので、実際には有効馬力の倍くらいの出力を出せるエンジンを積まないと必要な速力が出ない。参考:図解船の科学
<ユーゴ級潜水艦>:北朝鮮潜水艦Yugo級。ユーゴスラビア設計のもののうちサンオ型よりも小型のタイプを西側でこう呼んでおり、1960年代から建造されていて、いくつかのバリエーションがあるらしい。セイルが潜水員用エアロックになっている。全長20m、全幅3.1m、吃水4.6m、水上排水量90トン、水中排水量112トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、ディーゼルエンジン(320馬力)2基、1軸推進、水上速力12ノット、水中速力8ノット、水上航続距離550海里、水中航続距離50海里。潜航深度100m。兵装は406mm魚雷発射管2門。乗員4名(2名?11名?)+潜水員6-7名。30隻以上保有しており、うち12隻はP-4という名称で朝鮮労働党が運用しているとされる。また、貨物船を改造した母艦を8隻配備している。ベトナムに2隻が輸出されており、イランにも輸出されたらしい。参考:月刊軍事研究3,’02、7,’05、月刊世界の艦船7,’13、11,’16、4,'20、世界の潜水艦ハンドブック改訂第2版、現代の潜水艦
<ユーゴ級・海外シリーズ>
<ユーゴ級潜水艦(ベトナム海軍)>:ベトナム海軍潜水艦Yugo級。全長20m、水中排水量112トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、水中速力8ノット。兵装は406mm魚雷発射管2門。乗員4名+水中工作員7名。1997年に2隻が就役した。参考:月刊世界の艦船4,’20
<ユーゴ級潜水艦捕獲事件>:1998年6月22日、韓国東海岸の領海内でサンマ漁の網にユーゴ級潜水艦が引っかかった事件。6月23日から韓国海軍が曳航したが、6月24日に自沈。内部から自決した工作員4名と、射殺された5名の乗員が発見された。参考:月刊軍事研究3,’02
<ユーゴスラビア>:第1次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が解体されてセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立し、1929年にユーゴスラビア王国と改称された。しかし民族や宗教が複雑に絡み合っており、6つの共和国(クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ)、5つの民族(クロアチア、スロベニア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ)、4つの言語(クロアチア語、スロベニア語、セルビア語、マケドニア語)、3つの宗教(カトリック、正教、イスラム教)、2つの文字(ラテン、キリル)、1つの国と呼ばれる有様だった。第2次大戦が開始されると、イギリスのMI6第9セクションと国防省MI(R)がユーゴスラビアを連合軍として参戦させるよう工作を開始、その後SOEに活動が引き継がれた。1941年4月、ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻した。これを受け、ユーゴスラビア国内には元セルビア将兵からなる武装抵抗組織のチェトニックと、共産主義抵抗組織のパルチザンによる反ドイツ抵抗運動が起こり、ユーゴ亡命政府が前者を、NKVDが後者を支援した。両者は反目し合っており、チェトニックはドイツによる報復を恐れてドイツ軍を直接攻撃せず、戦後の共産主義台頭を防ぐためパルチザンの方を攻撃しており、パルチザンはドイツ軍やチェトニックを含む反共産勢力全てにゲリラ戦を仕掛けていた。ドイツがユーゴスラビアを占領すると各共和国・民族・宗教間の対立が表面化。クロアチアのファシスト集団ウスタシャがセルビア人やユダヤ人を虐殺し、セルビアのチェトニクが報復、ドイツもイスラム教徒を煽って反ドイツ勢力を抑えにかかり、凄惨な状況となった。1943年8月、イギリスはSIGINTによりドイツ軍がパルチザンの方を恐れていることを掴み、チェトニックへの支援を全面停止してパルチザンを支援。最終的にパルチザンが反独イデオロギーで各民族を纏め上げることに成功した。第2次大戦終結後、パルチザンのトップであるヨシップ・ブロズ(通称チトー)大統領を指導者とする共産党が主要勢力の座に就き、チェトニックの残党は処刑された。チトー大統領は民族の平等を掲げて多民族国家のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を創設し、6つの共和国の自治を重んじたため、中央集権制のソ連とは次第に距離が離れていった。1991年、ユーゴスラビア内戦が勃発。参考:ウォーマシン・レポートNo.26、月刊軍事研究3,’10
<ユーゴスラビア海軍>:1978-81年、サヴァ級潜水艦2隻が就役。参考:世界の潜水艦ハンドブック改訂第2版
<ユーゴスラビア海軍(1977年)>:現役兵力27000名(海兵隊1個旅団含む。うち徴兵8000名)。潜水艦5隻、駆逐艦1隻、コルベット3隻、オーサ級ミサイル艇10隻、シェルシェン級魚雷艇14隻、高速哨戒艇20隻、大型哨戒艇23隻、沿岸掃海艇4隻、内海掃海艇10隻、河川掃海艇14隻、上陸用舟艇31隻、Mi-8ヘリ、Ka-25ヘリを保有する。沿岸砲中隊25個、海兵隊1個旅団が編成されている。参考:軍事力バランス77年版
<ユーゴスラビア海軍(1989年)>:現役兵力10000名(海兵隊900名、沿岸防衛隊2300名含む。うち徴兵4400名)、予備役43000名。スプリット、プラ、シベニク、カルデルイエボ、コトルに基地がある。ヘロイ型潜水艦3隻、スチェスカ級潜水艦2隻、ウナ級潜水艦4隻、コトル級フリゲート2隻、コニ級フリゲート2隻、ラーデ・コンカール級ミサイル艇6隻、オサT級ミサイル艇10隻、シェルシェン級魚雷艇15隻、モルナル級対潜哨戒艇3隻、クラルジェビカ級哨戒艇10隻、ミルナ級哨戒艇17隻、河川哨戒艇10隻、フコフ・クラナック級機雷掃討艇4隻、ハム級掃海艇4隻、M-117掃海艇6隻、河川掃海艇6隻、DTM-211級戦車揚陸艇10隻、DJC-601級機械化揚陸艇25隻、PO-91ルビン級輸送艦3隻、サルベージ船1隻、モマ級調査船1隻、練習艦1隻、旗艦1隻を保有する。海兵隊2個旅団、沿岸砲兵中隊25個(85mm砲M-44を45門、88mm砲M-36を55門、122mm砲M-37を75門、130mm砲M-54を85門、152mm砲D-20を85門、SS-C-3シャドック、車載型P-15のブロム地対艦ミサイルを保有)が編成されている。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユーゴスラビア空軍>:1936年6月、IK戦闘機量産型が初飛行。1965年、G-2練習機を配備。1970年、J-1攻撃機を配備。1978年、G-4練習機が初飛行。J-22攻撃機の量産を開始。1979年、UTVA-75練習機を配備。参考:世界の軍用機1982、月刊JWings2,’15
<ユーゴスラビア空軍(1977年)>:現役兵力40000名(うち徴兵7000名)。F-84G戦闘機9機、クラグイ戦闘攻撃機12機、ガレブ/ヤストレブ戦闘攻撃機110機、MiG-21F/PF戦闘機110機、RT-33A偵察機21機、ガレブ/ヤストレブ偵察機25機、C-47輸送機38機、Il-38輸送機2機、Yak-40輸送機4機、カラベル輸送機1機、An-12輸送機2機、An-26輸送機9機、Li-2輸送機4機、B727-200輸送機1機、ガレブ/ヤストレブ練習機120機、T-33練習機3機、MiG-21UTI練習機18機、Mi-1ヘリ14機、Mi-4ヘリ11機、Mi-8ヘリ48機、ガゼル30機、アルエートVヘリ20機、Ka-25対潜ヘリを保有する。S-75地対空ミサイル中隊8個、S-125地対空ミサイル中隊4個が編成されている。参考:軍事力バランス77年版
<ユーゴスラビア空軍(1989年)>:現役兵力32000名(うち徴兵4000名)、予備役27000名。P-2クラギュイ戦闘攻撃機25機、J1ヤストレブ戦闘攻撃機60機、G-4スーパーガレブ戦闘攻撃機30機、IAR.93Bオラオ2戦闘攻撃機50機、MiG-21F/PF/M/bis戦闘機112機、MiG-21U戦闘機18機、MiG-29戦闘機16機、ガレブ偵察機25機、ヤストレブRJ-1偵察機20機、オラオ1偵察機25機、Mi-8強襲ヘリ70機、ガゼラ攻撃ヘリ120機、Ka-25対潜ヘリ8機、Ka-28対潜ヘリ2機、Yak-40輸送機6機、An-12輸送機12機、An-26輸送機15機、ファルコン50要人輸送機2機、リアジェット輸送機2機、CL-215捜索救難機4機、PC-6輸送機9機、ガゼラ輸送ヘリ、Mi-8輸送ヘリ、UTVA-66連絡機50機、ガゼラ連絡ヘリ14機、G-2ガレブ/TJ-1ヤストレブ練習機110機、UTVA-75/-76練習機80機、ガゼラ練習ヘリ20機、S-75地対空ミサイル、S-125地対空ミサイルを保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユーゴスラビア軍>:第2次大戦の戦訓を踏まえ、ナショナル・ディフェンス(国民全員による国土防衛)という概念を創設、ユーゴスラビア軍の他に各共和国ごとの地域防衛軍を置き、工場などにも有事抵抗運動中核要員を配置、兵器を各地に分散貯蔵した。ユーゴスラビア紛争ではこの地域防衛軍・抵抗運動要員と分散した兵器が各共和国の軍事力や民兵組織を支えることになった。参考:ウォーマシン・レポートNo.26
<ユーゴスラビア軍(1989年)>:現役総兵力180000名(うち徴兵101400名)、予備役510000名。国連アンゴラ監視団UNAVEMに7名、国連イラン・イラク軍事監視団UNIMOGにオブザーバー、ナミビア国連独立移行援助グループUNTAGに25名を派遣している。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユーゴスラビア国境警備隊(1989年)>:国防省隷下で、隊員数15000人。ミルナ級内海哨戒艇10隻、131型内海哨戒艇6隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユーゴスラビア侵攻(ドイツ)>:第2次大戦中の1941年3月26日、ベオグラードでシモノビッチ将軍が反ドイツクーデターを起こし、三国同盟から離脱、4月5日にはソ連と不可侵条約を締結した。これを受けてドイツ国防軍が4月6日から侵攻を開始。第2軍・第12軍がオーストリアとブルガリアから、第41機械化軍団がルーマニアから、ハンガリー第3軍がハンガリーから侵攻して国境を突破。4月11日、イタリア第2軍が侵攻開始。4月12日にドイツ軍はベオグラードを占領した。4月17日、ユーゴスラビアは降伏した。占領後はクロアチアが独立してドイツ保護下に置かれ、モンテネグロはドイツに併合され、セルビアはドイツの軍制下となり、一部はルーマニアとハンガリーに併合され、マケドニアはブルガリアに併合された。セルビアはクーデターが起こった場所でもあり、敗戦後は弾圧下に置かれ、この弾圧にクロアチアも加わったため、後の内戦の原因ともなった。参考:WWU欧州戦史シリーズVol.4
<ユーゴスラビア侵攻(ソ連)>:1968年夏、チェコスロバキアとハンガリーに侵攻したソ連は、軍事同盟を結んでいないユーゴスラビアにも侵攻し、ワルシャワ条約に組み込もうとした。これに対し、チェコスロバキア(ユーゴスラビア?)軍は反撃、国境付近で2ヶ月半の戦闘が続いた。結局ソ連は撤退し、この戦闘は軍事機密として処理され、ユーゴスラビア国民にも知らされることはなかった。参考:月刊軍事研究7,’99
<ユーゴスラビア内戦>:第1次大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が解体されてセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立し、1929年にユーゴスラビア王国と改称された。しかし民族や宗教が複雑に絡み合っており、6つの共和国(クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ)、5つの民族(クロアチア、スロベニア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ)、4つの言語(クロアチア語、スロベニア語、セルビア語、マケドニア語)、3つの宗教(カトリック、正教、イスラム教)、2つの文字(ラテン、キリル)、1つの国と呼ばれる有様で、水面下では不満や対立が渦巻いていた。1941年、ドイツがユーゴスラビアを占領すると対立が表面化。クロアチアのファシスト集団ウスタシャがセルビア人やユダヤ人を虐殺し、セルビアのチェトニクが報復、ドイツもイスラム教徒を煽って反ドイツ勢力を抑えにかかり、凄惨な状況となったが、チトーのパルチザンが反独イデオロギーで各民族を纏め上げることに成功した。第2次大戦後、チトー大統領を指導者とする共産党が民族の平等を掲げて多民族国家のユーゴスラビア社会主義連邦共和国を創設。6つの共和国の自治を重んじたため、中央集権制のソ連とは次第に距離が離れていった。1974年に憲法が改正され、セルビアをヴォイヴォディナ、セルビア、コソボの3つに分け、コソボとヴォイヴォディナが自治州となった。1980年5月、ユーゴスラビア連邦のチトー大統領が死去。その後、ユーゴ連邦は対外債務200億ドルを抱え、インフレに苦しむこととなり、1981年3-4月にコソボの90%を占めるアルバニア系住民がデモと暴動を繰り返し、コソボで少数派だったセルビア人は脅威を感じていた。1989年3月28日、セルビア共和国が憲法を修正し、コソボ自治州の地位を剥奪した。6月28日、セルビア共和国でコソボの戦い600周年記念大集会を実施、セルビア人数十万人が参加し、セルビアの民族主義が高められた。1990年、クロアチアではクロアチア民主同盟が選挙で圧勝。セルビア共和国大統領にスロボダン・ミロシェビッチが就任。コソボとヴォイヴォディナが自治州の地位を剥奪されたことでユーゴ連邦大統領評議会の議席がセルビアに集中し、モンテネグロ共和国と合わせるとセルビア系の議席が他の共和国の議席合計と同じくらいに達するようになった。両自治州の地位剥奪を主導していたミロシェビッチ大統領は各共和国の平等を謳う憲法を批判。1月22日、ユーゴスラビア共産主義者同盟が分裂。1月24日、コソボでアルバニア人4万人が独立を求めるデモ行進を行った。7月2日、コソボのアルバニア系議員団が独立を宣言。9月28日、セルビア議会がコソボの自治権を大幅に縮小する新憲法案を採択した。1991年6月25日、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアから独立。スロベニアは人口の88%がスロベニア人で共和国内の民族対立も少なく混乱は少なかったが、クロアチアはセルビア系住民が独立に猛反発してクロアチア内戦が勃発した。6月末、ECの仲介でスロベニアとユーゴ連邦との間に休戦が成立。9月18日、マケドニアがユーゴスラビアから独立。マケドニアのセルビア人は少数で、混乱は起きなかった。12月23日、ドイツがスロベニアとクロアチアの独立を承認した。ユーゴ崩壊による難民流入を恐れたのと、恩義を売って経済圏を拡大しようとする意図があったようである。1992年3月、ボスニア紛争が勃発。4月6日、ECがボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認。4月7日、アメリカがスロベニア、クロアチア、ボスニアの独立を承認。4月27日、セルビアとモンテネグロが新憲法を採択し、新ユーゴスラビアが設立された。5月24日、コソボ自治州が独自の選挙でコソボ民主同盟議長を大統領に選出した。1994年5月31日、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が発足した。1995年11月、デイトン合意が結ばれ、ボスニア紛争が終結。IFORが展開した。1996年頃からコソボ紛争が勃発。1996年12月20日、SFORがボスニアに展開。参考:ウォーマシン・レポートNo.26、月刊軍事研究4,’08、8,’99、8,’95、7,’99、月刊PANZER10,’99
<ユーゴスラビア陸軍>:1980年、M-80歩兵戦闘車の量産を開始。参考:ウォーマシン・レポートNo.26
<ユーゴスラビア陸軍(1977年)>:現役兵力193000名(うち徴兵130000名)。歩兵師団9個、独立戦車旅団7個、独立歩兵旅団11個、山岳旅団3個、空挺大隊1個、砲兵連隊9個、対戦車連隊5個、高射砲連隊12個からなる。T-34/T-54/T-55/M47中戦車1500両、M4中戦車650両、PT-76軽戦車、M3ハーフトラック、M8装輪装甲車、BTR-40/50/60P/152装甲兵員輸送車、M60装甲兵員輸送車、M980歩兵戦闘車、76mm/105mm/122mm/150mm/152mm/155mm榴弾砲、SU-76/SU-100自走砲、105mm自走榴弾砲、120mm迫撃砲、130mm多連装ロケット、フロッグ7、57mm/75mm/100mm対戦車砲、M18駆逐戦車、M36駆逐戦車、ASU-57、57mm/75mm/82mm/105mm無反動砲、スナッパー/サガー対戦車ミサイル、20mm/30mm/37mm/40mm高射機関砲、57mm/85mm/88mm高射砲、ZSU-57-2自走対空機関砲を装備する。参考:軍事力バランス78年版
<ユーゴスラビア陸軍(1989年)>:現役兵力138000名(うち徴兵93000名)、予備役440000名。軍管区4個、軍団司令部10個、歩兵師団2個、機甲/機械化歩兵/山岳/砲兵旅団29個、空挺旅団1個からなる。予備役部隊として民兵の国土防衛隊があり、戦時動員による兵力は860000名、機動歩兵旅団、砲兵大隊、高射砲大隊からなる。T-54/-55戦車750両、T-72/M-84戦車290両、M-47戦車45両、T-34/85戦車250両(保管中)、M-4中戦車300両(保管中)、PT-76軽戦車13両、M-3A1偵察車92両、M-8偵察車18両、BRDM-2偵察車40両、M-80歩兵戦闘車410両、BTR-40/-50装甲兵員輸送車200両、M-60P装甲兵員輸送車300両、105mm牽引砲M-18/-56/-101を516門、122mm牽引砲A19を241門、122mm牽引砲M-1938/D-30を378門、130mm牽引砲M-46を186門、152mm牽引砲M-1937/D-20/M-84を426門、155mm牽引砲M-59を150門、155mm牽引砲M-65を426門、155mm牽引砲M-114、105m自走砲M7、122mm自走砲2S1、128mm多連装ロケットランチャーM-77を160基、128mm多連装ロケットランチャーM-63、82mm迫撃砲3400門、120mm迫撃砲3000門、フロッグ7対地ミサイル4基、3M6搭載BOV-1自走対戦車ミサイル、9M14対戦車ミサイル、57mm無反動砲1550門、82mm自走無反動砲M-60PBを2000両、105mm自走無反動砲M-65を650両、75mm対戦車砲M-1943/PAL-40を748門、90mm対戦車砲M-63B2を540門、100mm対戦車砲T-12を511門、20mm高射機関砲M-55/-75を2300門、3連装20mm自走高射機関砲BOV-3、30mm高射機関砲M-53/M-59を620門、30mm自走高射機関砲BOV-30、37mm高射機関砲M-1939を418門、ボフォース60口径40mm高射機関砲M-1/ボフォース70口径40mm高射機関砲128門、57mm高射砲S-60を304門、ZSU-57-2自走高射機関砲、85mm高射砲M-1944を260門、90mm高射砲M-117を210門、3.7インチ(94mm)高射砲46門、2K12/9M32/9K31地対空ミサイルを配備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユーコン>:CC-106(輸送機)またはT-AO-202(給油艦)を参照。
<ユーザー>:P62(潜水艦)を参照。
<ユーサーパー>:P56(潜水艦)を参照。
<雄作戦>:太平洋戦争中、昭和19年2月のトラック空襲を受けて日本海軍が計画した、マーシャル群島泊地奇襲作戦。アメリカ機動部隊の前進基地だったマーシャル群島泊地に機動部隊が入泊している時を狙って空母機動部隊で夜間奇襲攻撃を仕掛け壊滅させるもので、軍令部第1課(作戦)部員の源田実中佐が発案し、3月13日から軍令部作戦課での正式検討が始まった。参加兵力は第1機動艦隊、第61航空戦隊、第14航空戦隊の一部、予備兵力は第14航空戦隊の大半、第27航空戦隊、横須賀航空隊で、作戦機1275機を準備し、翔鶴、瑞鶴、大鳳、隼鷹、飛鷹、龍鳳、瑞鳳、千代田、千歳、雲鷹、大鷹、神鷹、冲鷹に零戦200機、爆装零戦50機、九九式艦爆/彗星130機、九七式艦攻/天山150機を搭載する。乗員の訓練に2ヶ月くらいかかるので、5月上旬頃の月明かりの夜に実行する予定とし、最終的に6月8日の満月の夜を狙うことにした。3月25日、軍令部作戦課長山本親雄大佐や源田実中佐がパラオの連合艦隊旗艦武蔵を訪問し、3月26日まで連合艦隊司令部と作戦打ち合わせを実施、古賀連合艦隊司令長官は堅実に実行すべきとのことで、引き続き検討することになった。しかし直後に古賀長官が行方不明になってしまい、立ち消えになっている。参考:月刊丸9,'20、護衛空母入門
<勇士>:BJ2022(汎用車両)を参照。
<ユージーン・A・オブレゴン>:T-AK-3006(輸送船)を参照。
<ゆうしお>:SS-573(潜水艦)を参照。
<ゆうしお型>:海上自衛隊第2世代涙滴型潜水艦。計画番号は1-2番艦がS122、3-10番艦がS123。基準排水量2000トンを超えた海上自衛隊初の潜水艦である。うずしお型の船体中央を4m延長してセイル後方に船体の平行部を設け、居住性を改善、耐圧船殻をNS80高張力鋼(1-2番艦は一部NS63)に換えて潜航深度を増大させている。主機・電動機の防振支持を強化し、管系も防振に気を遣い、雑音の低減を図った。船体は完全複殻式で、耐圧船殻はシェーカー型、配置は前/上から科員居住区/ソナー室、発令所/魚雷発射管室/電池室、士官室/科員食堂/電池室、機械室、管制盤室/電動機室で、うずしお型とだいたい同じ。科員居住区、艦長室(発令所後方)、士官室、機械室に上甲板へと繋がるハッチがある。艦橋が少し艦首側に寄り、三次元自動操舵装置、遠隔自動運転装置なども搭載し、デジタル魚雷発射指揮管制装置ZYQ-1を装備して複数目標運動解析能力を得た。操縦席はサイドバイサイドで、左に横舵操作員、右に縦舵・潜舵操作員が座る。操縦には大型航空機のような操縦輪を使用し、1名で操艦できる。艦首パッシブソナーは5番艦までがZQQ-3、6番艦以降がZQQ-4ソナー。アクティブソナーはセイルのSQS-36(J)で、6番艦から潜舵下方に移した。セイル上部背面には魚雷警報装置センサーを収容した小さなフェアリングがあり、艦首パッシブソナーの死角をカバーしている。SS-579あきしおからは艦内の完全自動システム化を行った。主機の構成はうずしお型と同じで、主電動機の制御はサイリスタ・チョッパ方式、プロペラはスキュー付き5翅で、2番艦からはマスカーが付く。蓄電池はうずしお型よりも容量を増やした新型鉛蓄電池で、バラストも兼ねて480セルを4群に分けて搭載している。蓄電池2群ずつを並列に接続し、直列に繋いだ主電動機コイル2個に240ボルトを供給するとプロペラが最低速(毎分24-60回転)で回転する。蓄電池を並列に接続し、直列に繋いだ主電動機コイル2個に480ボルトを供給すると、プロペラが低速(毎分50-100回転)で回転する。同じ蓄電池接続で主電動機コイルを並列に繋ぐと、プロペラが高速(毎分100-150回転)で回転する。蓄電池を直列、コイルを並列で繋ぐと、プロペラが最高速(毎分150-234回転)で回転する。夜間衝突防止のため、それまでセイル両舷に装備していた舷灯をセイル・プレーン両端に装備するようになった。航海レーダーはZPS-6。全長76m、全幅9.9m、深さ10.2m、吃水7.4m、水上排水量2200トン(SS-576おきしお2300トン、SS-577なだしお以降2250トン)、水中排水量2900トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、川崎V8V24/30MATLディーゼル(水上2100馬力、シュノーケル潜航1950馬力)2基・主発電機2基・主電動機1基、水上出力3400馬力、水中出力7200馬力、5翅スキュードプロペラ1軸推進、水上速力12ノット、水中速力20ノット。運用潜航深度275m、最大潜航深度400m。兵装は533mm6連装水中発射管HU-603(艦前部両舷に3門ずつ。80式魚雷と72式魚雷を計20本搭載)。乗員75名。50SSから60SSとして建造され、1980-89年にSS-573ゆうしお、SS-574もちしお、SS-575せとしお、SS-576おきしお、SS-577なだしお、SS-578はましお、SS-579あきしお、SS-580たけしお、SS-581ゆきしお、SS-582さちしおの10隻が就役した。1隻ごとに順次改良が加えられている。2番艦SS-574もちしおは1985-86年にハープーン搭載改修を行った。5番艦のなだしおからは新造時からハープーンを搭載している。また、4番艦以降は1987年から船体上部右に鞘を設けてAN/BQR-15TASSを追加装備し、ZQQ-5Bソナーシステムで運用した。7番艦以降は戦闘管制装置をZYQ-2に換装してUYK-20コンピュータを2基に増やし、同時目標運動解析数を増加させている。なだしおと第一富士丸の衝突事故以降は、セイル上にレーダー反射筒を取り付けた。雑音が大きく、P-3Cなどにはすぐ見つかってしまうため、エアコンを止めるなど涙ぐましい努力をしたものの、対潜部隊の存在下では殆ど身動きが取れない状態だったらしい。2006年までに全て除籍された。参考:自衛隊装備年鑑1996、月刊世界の艦船9,'15、11,'17増刊、1,'19、11,'20、1,’04、1,’79増刊、5,’02増刊、1,’02、3,’10、10,’12、JWings1,’99、世界の潜水艦ハンドブック改訂第2版、海上自衛隊全艦艇史、月刊軍事研究10,’06、現代の潜水艦、丸スペシャルNo.76、No.78
<有視界気象条件>:VMC(Visual Meteorological Conditions)と略す。有視界飛行が行える気象条件のことで、国際民間航空機関の規定により国際的な基準が設定されている。固定翼機の場合、高度3000m以上を飛行中なら飛行視程8000m以上、雲からの距離は上方300m以上、下方300m以上、水平方向1500m以上。高度3000m未満を飛行中なら雲からの距離が上方150m以上、下方300m以上、水平方向600m以上で、飛行視程は管制空域内なら5000m以上、外なら1500m以上。他に管制空域外を300m以下で飛行する場合や、管制圏内の飛行場または管制圏外にある国土交通大臣の指定した飛行場で離着陸する場合、回転翼機の場合など、様々に規定されている。参考:航空管制のはなし、飛行機のしくみ、航空用語事典増補改訂版
<有視界飛行>:VFR(Visual Flight Rules/Reguration)と略し、有視界飛行規則ともいう。有視界気象条件の下、パイロットが外の状況を目視して飛行する方法で、ヘリコプターは殆どこれで飛ぶ。最寄りの空港事務所にフライト・プランを提出すれば飛ぶことができ、航空交通管制を受けずに飛行コースを自由に決められる。ただし飛行場管制圏内(飛行場から9km圏内)など航空交通管制区または航空交通管制圏内を飛行する際には航空交通管制を受けなければならない。最低安全高度は、エンジンが止まった際に安全に着陸・着水できる高度か、人や家屋の密集している地域では障害物上端から300m/人や家屋のまばらな地域では地上物件から150m/それ以外では地上または水面から150m/のいずれか高い方である。巡航高度は高度29000フィート(8839.2m)未満を飛行する場合、磁方位0-180度未満なら1000フィート(304.8m)の奇数倍+500フィート(152.4m)、180度以上なら1000フィート(304.8m)の偶数倍+500フィート(152.4m)。雲の中には入れないが、夜間航行設備があれば夜間飛行は可能。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings5,’04、4,’16
<有刺鉄線>:Barbed Wire。2本の針金を合わせて捻り、トゲ状にして繋ぎ合わせたもの。欧米で農地や農場の囲いとして鉄線を使っていたが、すぐ緩んで飛び越えられる、牛に突進されると突破されるといった欠点があり、別の針金でトゲを作って取り付けてみたがずれてしまうため、鉄線2本を捩ってトゲを挟み固定する方式でジョセフ・グリッデンが1878年に特許を取った。ボーア戦争から鉄条網として戦場で障害に使われるようになったが、ペンチで簡単に切断でき、厚手の布を被せれば簡単に越えられるので、あまり役に立たず、大量に張り巡らせたり、高圧電流を流したりしている。第2次大戦以降、レイザー・ワイヤーに換えられた。参考:月刊軍事研究10,’04、歴史群像8,’15
<優秀射撃手章(アメリカ陸軍)>:優秀射撃手(Marksmanship)、一級射撃手(Sharpshooter)、特級射撃手(Expart)の3種類のバッジがあり、この下に付けるバーにはライフル、拳銃、グレネード、機関銃など19種類が用意されている。参考:月刊コンバットマガジン7,’06
<優秀船建造助成施設>:日本が昭和12年に制定した制度。商船建造の際に政府が資金援助を行う代わりに、有事には徴用して輸送船や特設艦船に改造できるようにするものである。陸海軍から「新造船に要望すべき特別施設の基準要目」という建造規格が出されていて、砲座を設置するための構造強化や、兵員室に改造することを考慮しての通風装置や舷窓の設置、エレベーターへの改造を見込んだ貨物ハッチの位置などが定められた。実際に徴用して改造してみると、工事にかなりの時間を要し、空母への改造には半年から1年半くらいかかっている。参考:護衛空母入門
<有償荷重>:ペイロードを参照。
<有償搭載量>:ペイロードを参照。
<祐捷丸>:帝国サルベージのサルベージ船Yusho maru。排水能力毎時3500トン。垂線間長56.46m、幅13.03m、深さ5.18m、総トン数808トン、重量トン数762トン。主機は三連成汽機1基1軸2189馬力、航海速力11ノット、最大速力14.637ノット。船員31名、救助員39名。昭和3年1月25日竣工。昭和9年、帝国サルベージが合併で日本サルベージとなったため、そちらに移籍した。昭和12年9月から昭和13年3月、香港で座礁した日本郵船浅間丸のサルベージを実施。太平洋戦争勃発で日本海軍に徴用され、特設救難船となった。昭和18年9月5日、特設砲艦億洋丸を曳航中にスラバヤ港北水道で触雷して沈没した。昭和19年7月に浮揚されたが、修理中に終戦を迎え、そのまま放置された。参考:月刊世界の艦船8,’16
<ユージン>:PF-40(フリゲート)を参照。
<ユージン・A・グリーン>:DD-711(駆逐艦)またはDE-549(ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦)を参照。
<ユージン・E・エルモア>:DE-686(護衛駆逐艦)を参照。
<有人軌道実験室>:KH-10(偵察衛星)を参照。
<有人無人チーム化>:MUM-T(Manned-UnManned Teaming)と略す。有人操縦機材と無人操縦機材を一体連携運用するもので、状況認識能力や生残性の向上といった効果がある。人間の損失を防ぐため無人機材を遠慮無く危険地域に突入させるといった運用法を取る事から、無人機材は生産が容易で安価な物を用意する。有人・無人機材の相互運用性が重要で、アメリカ軍では相互運用レベルLOIとして5段階を設定し、開発を進めている。参考:月刊軍事研究2,’17、月刊JWings1,’21、12,’21
<有人無人チーム化(アメリカ空軍)>:有人機とUAVを組み合わせたスカイボーグ・ヴァンガード計画(XQ-58A試作機)やロイヤル・ウイングマン計画、有人機の前方で交戦するロングショットUASの開発を進めている。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(アメリカ海軍)>:2021年8月、ボーイング社がF/A-18戦闘機・E-2D早期警戒機とMQ-25A無人機の組み合わせでコンセプトを策定していると発表した。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(アメリカ陸軍AH−64E)>:AH-64Eが搭載するロングボウUTAのデータリンクにインターオペラブル機能を持たせ、他のデータリンク搭載プラットフォーム(MQ-1CなどのUAV)をAH-64Eで統制し、AH-64EがM-TADSで探知した目標をUAVに攻撃させたり、UAVからの情報を元にAH-64Eが目標を攻撃したりできる。また、あるAH-64Eや、その統制下にあるUAVが捉えた目標情報を、他のAH-64E、UAV、地上局に送ることも可能。不朽の自由作戦アフガンやポスト・イラク戦争で実戦投入された。参考:月刊軍事研究2,’17、月刊JWings1,’21
<有人無人チーム化(アメリカ陸軍戦車)>:アメリカ陸軍が無人戦車キラー構想ACT3205で検討している無人戦車・有人指揮装甲車チーム。指揮装甲車が小型有線無人機を高度100m以上に飛ばして周辺の捜索を行い、敵を見付け次第無人戦車で吹っ飛ばす。無人偵察車、無人工兵車、無人自走迫撃砲などともチームを組ませる。2019年に有人指揮装甲車2両と無人戦闘車4両を製作し、2020年から運用試験を行う予定。参考:月刊軍事研究9,’18
<有人無人チーム化(イギリス空軍)>:F-35BやタイフーンとLANCAの組み合わせで研究を行っている。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(イギリス陸軍)>:2020年9月、AW159ヘリとコーレン−レンツ・アクセサリーズ所有UAVの組み合わせで実証試験を開始。UAVの飛行経路と搭載品をAW159の乗員が制御するシステムをレオナルド社が開発してAW159に組み込み、UAVの方には自律飛行用プロセッサのゲートウェイを搭載、LOIレベル4相当の相互運用性を持たせて試験に臨み、成功裏に終了した。参考:月刊JWings1,’21
<有人無人チーム化(オーストラリア海軍)>:2017年9月、フリゲートFFHニューキャッスルからMH-60Rヘリとスキャンイーグルを発艦させてテストした。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(オーストラリア空軍)>:ボーイング空中戦闘チーミングシステムBATSを試験中。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(航空自衛隊)>:2010年8月のi3FIGHTER構想(将来の戦闘機に関する研究開発ビジョン)で将来有人戦闘機が無人機と組んで敵ステルス機と交戦するコンセプトを発表し、2040-50年代の実用化を目指していたが、技術進歩が予想以上に早かったため、2019年度から遠隔操作型支援機の研究に入った。2022年度からF-2後継機などと組んで行動する戦闘支援無人機の研究に入る予定で、2035年にF-2後継機と戦闘支援無人機を配備してチーム戦闘させる予定である。参考:月刊JWings12,’21
<有人無人チーム化(ロシア空軍)>:Su-57戦闘機とS-70無人機・グロム無人機を組ませ、2024年から運用する予定。参考:月刊JWings12,’21
<ユースー>:765(コルベット)を参照。
<遊星歯車>:プラネタリー・ギア。中央のギア(サン・ギア)を中心に、複数の小さなギア(ピニオン・ギア)が周囲を回転する構造を持つため、こう呼ばれる。ピニオン・ギアの更に外側には内側に歯が付いたインターナル・ギアがあり、ピニオン・ギアはサン・ギアとインターナル・ギアの両方に噛み合って回転する。ピニオン・ギアの中心から延びた回転軸はピニオン・ギア・キャリアという円盤状の枠に接続されていて、これが遊星歯車全体の回転軸となる。各ギアにはクラッチやブレーキが付いており、固定・空転・回転の組み合わせを替えることで、低速・高速・逆回転の切り替えができる。参考:クルマのすべてがわかる事典、自動車メカニズム図鑑
<優清丸>:東京市汚物運搬船Yusei maru。下水道の整備が追いつかないために建造された屎尿運搬船で、積んだ汚物は東京湾外に海上投棄する。垂線間長48.57m、幅9.2m、深さ11.9m、総トン数600トン、重量トン数544トン。主機はディーゼル1基1軸880馬力、航海速力11ノット、最大速力11.62ノット。昭和12年12月竣工。太平洋戦争勃発で重油輸送に転用された。昭和19年12月30日、ヒ八六船団の一員としてシンガポールを出港。昭和20年1月12日、キノン湾北方でアメリカ艦上機の攻撃を受けて被弾擱座し、放棄された。参考:月刊世界の艦船12,’14、輸送船入門
<有線整備車>:自衛隊の車両。トヨタ自動車製。参考:月刊軍事研究1,’13
<有線整備車(4×4)>:自衛隊の車両。トヨタ自動車製。参考:月刊軍事研究9,’18
<有線通信>:銅線や光ファイバーを使用して行う通信。安定的な通信が行え、傍受されにくく妨害に強い。移動通信が難しい、遠距離通信しようとすると延々と線を引かなければならない、線が切れると通信できなくなるのが欠点。切れないように道路から遠く離したり、地下深くに埋めたり、高い場所に設置したりする必要がある。ゲリラがいたりすると架空線は容易に切断されたり、傍受されたりしてしまうので、通信は暗号化し、ケーブルは地下化するのが望ましい。開発当初は単線式で、アースを地面に繋いでいたため、有線周辺に探針を刺せば傍受できたが、第1次大戦後にアースの要らない複線式となり、この方式では傍受できなくなった。そこで被覆を剥いで直接傍受する他に、電磁誘導現象を使って有線の外側から傍受する方法が開発されたが、光ファイバーが使用されるようになるとこれらも使えなくなっている。参考:月刊軍事研究9,’11、9,’13、1,’12、工兵入門、MAMOR vol.102
<有線通信(日本軍)>:下関と釜山の間に海底ケーブルを敷設して東京から哈爾浜までを地下ケーブルで繋ぎ、朝鮮各地は新京から有線電話電信を曳いた。満州では満州鉄道沿線に有線通信設備を設けたが、それ以外は無きに等しく、ノモンハン事件や関特演でも十分な通信ができなかった。そこで日満合弁の満州電信電話株式会社を設立し、関東軍司令官が有事に会社の施設、資材、従業員を自由に使えるようにしている。満州の各飛行場間を繋ぐ有線・無線通信はほぼ満州電電の担当で、能力は10個通信連隊に匹敵するともいわれた。中国北部では熱河−北京鉄道沿いに若干の有線を設けた程度で、泰山鉄道沿いに地下ケーブルを敷設する計画もあったが、架空ケーブルに終わっている。前線での有線通信は電信連隊有線中隊の担当だったが、ノモンハン事件では砲爆撃でケーブルが切断される事象が多発したため、師団の通信担当中隊長に有線と無線の両方を担任させて適宜使用する方式に変更した。ケーブルは再使用する予定で装備定数を定めていたが、これもノモンハン事件で不可能であると判明している。参考:工兵入門
<有線通信(日本陸軍)>:秘密保持に完全を期すには暗号を使う必要がある。特に電話や震動器による信号及び震動通信は、漏洩、誘導などのため敵に窃取される恐れがあり、戦線における通信線は可能なら往復線にして窃取を防止すると良い。在来線または敵が遺棄した電線を使う場合、敵や間諜の窃信に対して警戒し、かつ敵方に通じる電線を切断する必要がある。参考:作戦要務令
<有線通信網(日本陸軍)>:連絡中枢を基点または中心とし、逐次所要の方向に通信系を構成、適時不要線を撤収整理し、爾後の使用を準備する必要がある。よって、通信網の推進にあたっては、重要時期と重要方面における連絡を中絶させないことが重要である。航空通信部隊が構成する有線通信網は、在来の施設または電信部隊が構成する骨幹通信網に適宜連接させる。指揮の便否、通信の要度や繁閑などを考慮して通信系を定めるが、中継や交換が必要な複雑な通信系を構成したり、1つの通信系に多数の通信機を挿入したりすると、遅延や誤謬を来すので、なるべく避けるようにする。一通信網あたり交換機は2つ以下とし、交換機に接続された通信系に挿入すべき電話機はなるべく1つに止める。1通信系に挿入すべき通信機の数は、電信機なら5つまで、電話機は4つまでとし、重要な通信系は2所対向とする。一作業頭が行う構成速度は良好な状況で昼間毎時2km以上(裸線)/3-4km(大・中被覆線)/4km(小被覆線、徒歩)/5km(小被覆線、乗馬)とし、撤収速度は毎時2km(裸線)/3-4km(大・中・小被覆線)とする。通信網構成中にも通信を持続させたい時は、作業頭に移動通信所を行進させ、必要なら伝令などの連絡機関を準備し、関係指揮官との連絡を図る。電信部隊が構成する有線通信網の線種と構成法は、状況、用途、地形、気象などを勘案して定めるが、被覆線による通信網のうち以降も引き続き使用するものは、適当な時期に裸線で改築する。また、軍の骨幹通信網は、状況が許す限り主要兵站線に沿って最初から半永久建築で構成する。参考:作戦要務令
<有線誘導式魚雷>:発射母艦と魚雷を誘導ケーブルで繋ぎ、母艦から魚雷を目標に向けて誘導するもの。終末誘導は魚雷独自の音響誘導に切り替える。魚雷に搭載できるソナーや射撃統制装置には能力に限界があるので、それまで母艦が補う方式で、目標が回避行動を取っても適宜修正することができ、母艦側でデコイなどと識別して正確に目標へと魚雷を向かわせる事が可能で、発射後に攻撃中止指令を出せるので誤射の危険が少ない。大容量高速通信が可能な光ファイバーケーブルで双方向データリンク機能を持たせれば、魚雷のソナーが目標を探知しているか囮に惑わされているかを母艦側でモニターし、適切なタイミングで終末誘導に切り替えられる。ケーブルを引っ張っていくので、魚雷発射管の前部扉を発射後暫く開けておく必要があり、誘導を切り替えたり、異常事態が発生したりした時点でケーブルを切断して発射管前部扉を閉める。誘導方式は主に方位線誘導を使う。参考:月刊丸3,’90、月刊世界の艦船9,’12増刊、11,'17、ワイルドウエポン
<ゆうだち>:DD-103(2代目むらさめ型護衛艦)またはDD-108(初代むらさめ型護衛艦)を参照。
<夕立(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦16番艦Yudachi。明治39年7月16日竣工。大正元年8月28日に三等駆逐艦に類別変更された。大正13年12月1日に掃海艇となった。昭和3年4月1日に除籍され、7月6日に廃駆逐艦第6号になった。参考:日本駆逐艦史
<夕立(2代目)>:日本海軍白露型駆逐艦4番艦Yudachi。昭和12年1月7日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第2駆逐隊に所属していた。昭和17年2月27日、スラバヤ沖海戦に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。9月4日、ガダルカナル島揚陸作戦終了後にルンガ泊地に突入し、ガダルカナル島飛行場を砲撃した。9月5日、ガダルカナルからの帰路にアメリカ海軍APD-3グレゴリーとAPD-4リトルを発見し、初雪、叢雲と共に砲撃して撃沈した。9月11日、ガダルカナル島に青葉支隊の一部を揚陸した。11月13日、第3次ソロモン海戦で被弾して沈没し、12月15日に除籍された。平成4年8月6日、ガダルカナル島周辺770海里・深さ2500-4000フィート(762-1219.2m)の海底で発見された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像12,’09、6,’16、月刊世界の艦船9,’14、月刊航空ファン11,’92、帝国海軍太平洋作戦史T
<ゆうだちロックオン事件>:2013年1月30日1000頃、尖閣諸島北方130kmの東シナ海公海上を航行していたDD-103ゆうだちが、3km先の中国海軍江衛U型フリゲート艦番号522連雲港から3分間にわたり射撃指揮レーダーの照射を受けた。また、1月19日にも東シナ海の公海上で別の護衛艦から発艦したSH-60K艦載ヘリがジャンカイT型フリゲート艦番号526温州から射撃指揮レーダーの照射を受けており、2月5日夜に防衛大臣が緊急記者会見で発表、日本政府が中国政府に抗議した。中国外務省は会見で報道により初めて知ったと発表し、数日後に日本側によるでっち上げだと述べたが、現場指揮官の行為を把握できていなかったものと思われる。日本側は証拠映像がある(恐らく射撃指揮レーダーのアンテナがゆうだちやSH-60Kを追尾して動いている画像)としたが、切り札となるためか公開はしていない。照射は数分間続いており、海自はDD-103ゆうだちのESMで得たデータを電子情報支援隊で解析してかなりの電波情報を入手できたと思われ、恐らくアメリカ軍とも情報を共有している筈である。海自側はロックオンし返すようなことはせず、貴重な電波情報をむざむざ渡すようなことはしなかった。参考:月刊JWings5,’13、月刊世界の艦船5,’13
<ゆうちどり>:GP-445(掃海船)を参照。
<ゆうちどり型>:海上自衛隊掃海船。大元は日本海軍300トン型飛行機救難船で、戦後に連合軍の客船として改造したのを海上保安庁で掃海指揮・掃海母艦として使用し、1952年に海自に移管されて引き続き掃海部隊指揮・掃海母艦として使われた。全長46.5m、最大幅6.9m、深さ3.6m、吃水2.3m、基準排水量300トン、満載排水量330トン。主機はディーゼル2基2軸800馬力、最大速力13ノット。乗員38名。GP-445ゆうちどりが就役した。1961年、特務艇に艦種変更された。1964年の東京オリンピックの際には船体をアイボリーホワイト・甲板をコバルトブルーに塗り、キャビンに絨毯を敷き詰めるなど内装を整え、後部01甲板のクレーン支柱を撤去し、ヨット競技を観戦される明仁皇太子夫妻の迎賓艇に改造された。除籍後は調度品をはやぶさに譲っている。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊
<融着接続器>:自衛隊の機器。住友電気工業製。参考:月刊軍事研究6,’13
<ユウちゃん>:陸上自衛隊のマスコットキャラ。陸自シンボルマークの右手が意味する「優しさ」が命名の由来である。着ぐるみは2013年4月27日に幕張メッセ(ニコニコ超会議2)で初登場した。参考:朝雲、MAMOR vol.99
<ユーチン級>:068型(機動揚陸艇)または069型(機動揚陸艇)を参照。
<ユーチンT級>:072U型(揚陸艦)を参照。
<ユーチンU級>:072V型(揚陸艦)を参照。
<夕月>:日本海軍睦月型駆逐艦12番艦Yuzuki。昭和2年7月25日竣工、第34駆逐艦という名称で一等駆逐艦に類別された。昭和3年8月1日、夕月と改称された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時には建制上も兵力部署も第23駆逐隊に所属していた。12月9日、グアム攻略作戦に参加。12月21日、ウェーク島攻略戦に参加。昭和17年5月4日、ツラギで機銃掃射を受けて損傷した。昭和18年7月17日、ショートランドで爆撃を受けて小破した。昭和19年12月13日(12日?)、レイテ輸送作戦中にオルモック湾でP-38の攻撃を受けて沈没し、昭和20年1月20日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、激闘!太平洋戦争地上戦、月刊世界の艦船6,’83、9,’14、帝国海軍太平洋作戦史T
<遊底>:bolt。Breech boltともいう。自動式拳銃の場合、遊底本体はスライドという。日本海軍では砲に準じて尾栓という。銃尾を閉鎖する部分で、銃身後面に位置し、撃針、抽筒子などを組み込んでいる。回転して閉鎖するロータリーボルト、銃尾に落ち込んで閉鎖するティルト・ボルト・メカニズム(ティルティング・ブリーチ・ブロック)などがある。撃発の際には瞬間的に数トンの力がかかるので、これに耐えられる強度が必要となる。参考:火器弾薬ハンドブック、GUN用語事典、拳銃・小銃・機関銃、月刊丸7,’14
<遊底式閉鎖機>:閉鎖機を参照。
<遊底止め>:スライド・ストップを参照。
<ユーティリティ>:機上操作員(海自)を参照。
<ユーティリティ整備車>:航空自衛隊の機体整備用車両。トヨタの宅配業者用クイックデリバリーを改造したものである。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊軍事研究2,’13
<ユート>:U-21シリーズ(連絡輸送機)を参照。
<誘導型磁気検知器>:サーチコイルをセンサーとした磁気検知器で、戦車などの磁気が加えられると誘起起電力が発生する。構造が単純で消費電力が少ないが、感度がコイル巻き数に比例するため、軽量化に難がある。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<誘導抗力>:Induced drag。翼端後縁から発生する後曳き渦により生じる抗力のこと。一様な流れの中に、ある迎え角で二次元翼を置くと、翼断面周りの循環により、流れと垂直な方向に揚力が発生する。この翼の翼幅を有限にすると、翼端下流に後曳き渦が生じ、翼の近傍では下向きの速度が誘導される。この誘導された速度を一様な流れと合成すると、その流れの方向は一様な流れの方向より少し下を向く。この流れによる循環で生じる力は、一様な流れより少し下を向いた流れに垂直な方向に発生するので、二次元翼で仮定した場合の揚力より若干後ろを向く、つまり抗力が生まれる。これは流体の粘性とは関係無く生ずるもので、誘導抗力と命名された。主翼のスパン方向揚力分布が楕円分布の場合に、誘導抗力が最小になる。一様な流れが超音速の場合、翼に働く造波抗力のうち、揚力に関係して生じる部分が、この誘導抗力と同じ式で表されるため、こちらも誘導抗力に含めることがある。参考:航空用語事典増補改訂版、航空機設計法
<誘導照準>:照準器で目標を捉え、次に砲の照準線をこれと合致させる照準方式のこと。参考:月刊戦車マガジン6,’89
<誘導速度>:ホバリング中の回転翼機では、ローター・ブレードが相対気流を受け、後縁から後曳き渦を生じている。この渦はローター・ブレードにより下方に押しやられる気流に乗って吹き下ろされていくが、ローター回転面におけるこの吹き下ろし速度を誘導速度という。通常は後曳き渦がローター・ブレード後下方に流されていくので影響は無いが、誘導速度と同じくらいのスピードで降下するとローター・ブレードが渦の中に填まってボルテックス・リング状態に陥るので注意。参考:航空用語事典増補改訂版
<誘導弾>:ミサイルを参照。
<誘導弾薬の修理及び技術支援(スタンダードミサイル)>:防衛省がアメリカ海軍に発注している。参考:月刊軍事研究3,’18
<誘導弾薬の修理及び技術支援(ハープーン)>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究12,’17
<誘導電動機>:電動モーターを参照。
<誘導爆弾>:誘導装置を持つ爆弾。推進力は無い。運用に制限があるが誤差が少なく移動目標も狙えるレーザー誘導爆弾と、移動目標には使えず精度も劣るが撃ちっ放し式のGPS誘導爆弾が主に使用される。自衛隊には赤外線誘導式のGCS-1がある。参考:火器弾薬技術ハンドブック、月刊軍事研究2,’09
<誘導爆弾(アメリカ)>:第2次大戦でSWOD9を開発し、1945年5月に海防艦粟国を撃沈した。朝鮮戦争でレーゾン、ターゾンの両誘導爆弾を使用した。その後は空対地ミサイルに押されて開発が滞ったが、ベトナム戦争で復活し、ペイブウェイが完成した。GPSの登場でJDAMを配備している。参考:航空ジャーナル9,’77臨時増刊、小艦艇入門
<誘導武器教育訓練隊>:海上自衛隊の部隊。イージス・システムなど誘導武器に関する教育、新造艦の誘導武器に関する訓練、装備認定試験支援などを主任務とする。1982年6月1日、開発指導隊群隷下に横須賀基地船越地区で新編された。2002年3月22日、海上訓練指導隊群の隷下に移った。2020年10月1日に廃止された。参考:月刊世界の艦船11,’18、12,’20、8,’24
<遊動防御>:陣地防御において、防御陣地内の部隊を要点に適宜移動させて敵を撃破する戦術のこと。参考:月刊軍事研究1,’16
<誘導輪>:アイドラー・ホイール。起動輪と反対側についているホイールである。履帯ガイドの役割をするもので、動力は伝えられず、普通の丸い形をしている。下部転輪との間隔を補正することで履帯張度を維持する働きもある。超壕性を持たせるために地面から浮かせてあるタイプと、履帯接地面積を増やして射撃時の踏ん張りを効かせるために接地させてあるタイプがある。参考:月刊JWings1,’03、戦車マガジン10,’93別冊
<誘導路>:タキシーウェイを参照。
<誘導ロケット弾>:ロケット弾に誘導装置を追加したもの。ロケット推進式誘導兵器は一般にミサイルと呼ばれるが、既存のロケット弾に誘導装置を付加したタイプや、既存のロケットランチャーを使えるタイプ、慣性誘導装置など精密度の高くない誘導装置を備えるタイプを区別のために誘導ロケット弾と呼んだりする。参考:月刊航空ファン10,’14
<夕凪(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦14番艦。明治39年12月25日竣工。大正元年8月28日に三等駆逐艦に類別変更された。大正13年12月1日に除籍され、大正14年4月1日に廃船認許され、大正15年5月5日に売却された。参考:日本駆逐艦史
<夕凪(2代目)>:日本海軍神風型(2代目)駆逐艦9番艦。大正14年4月24日、第17号駆逐艦の名称で一等駆逐艦に類別された。昭和3年8月1日、夕凪に改称された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制では第29駆逐隊、兵力部署では南洋部隊ハウランド方面攻撃支援隊に所属していた。昭和17年3月5日、SR攻略作戦に参加。3月10日、アメリカ海軍機動部隊の空襲を受けて損傷した。7月12-13日、コロンバンガラ島沖夜戦に参加。8月7日1430、ラバウルを出港。8月8日、第1次ソロモン海戦に参加。8月26日、ナウルとオーシャンを攻略するため、夕張、第31駆潜隊、宮崎丸(陸戦隊搭乗)と共にトラックを出港。昭和18年10月6日、ベラ・ラベラ島沖夜戦に参加。12月14日、ニューアイルランド島付近で爆撃を受けて小破した。昭和19年8月25日、ルソン島北西でSS-382ピキュダの雷撃を受けて沈没し、10月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船6,’83、帝国海軍太平洋作戦史T
<ユーノー作戦>:ノルウェー沖海戦を参照。
<ゆうばり>:DE-227(護衛艦)を参照。
<夕張>:日本海軍夕張型軽巡洋艦。大正11年6月5日起工、大正12年3月5日進水、大正12年7月31日竣工、佐世保鎮守府に配備された。9月1日、関東大震災の災害派遣に参加。駆逐艦葵と共に、崩壊した横浜刑務所から囚人計295人を名古屋刑務所に移送させた。その後は中国方面で警備任務に就いている。大正14年4月6日、横須賀を出港。南洋方面で隠密行動を行い、太平洋で大演習を行っていたアメリカ艦隊の偵察を実施した。途中で接近しすぎて追尾されたが、機関排煙を煙幕代わりにして離脱している。6月23日、佐世保に入港。昭和初期に呉鎮守府所属となった。昭和7年、第1次上海事変勃発に伴い第1水雷戦隊旗艦として出撃。昭和12年7月7日、日華事変勃発時は第5水雷戦隊に所属していた。昭和16年11月29日、トラックを出港。12月3日、ルオット島に入港。12月8日、太平洋戦争開戦時には第4艦隊/南洋部隊ウェーク島攻略部隊第6水雷戦隊旗艦で、1515にルオットを出撃し、ウェーク島攻略作戦に参加した。12月29日、ルオットに帰還。12月31日、ルオットを出港。昭和17年1月3日、トラックに入港。1月17日、R作戦参加のためメレヨン島を出撃。作戦終了後はラバウルで待機した。2月20日、アメリカ機動部隊迎撃のためラバウル東方に向かったが、触接できず、2月23日にトラックに入港。燃料を補給して2月26日にトラックを出港し、3月1日にラバウルに帰港。3月5日1300、SR攻略作戦のためラバウルを出港。3月10日、アメリカ海軍機動部隊の空襲を受け、至近弾多数により小破、艦前後に小火災が発生し、副長を含む13名が戦死、2名が重傷、28名が軽傷を負った。3月11日午後、ラエに上陸していた陸戦隊を搭乗させてサラモアに移送。3月13日、第30駆逐隊と共に輸送船ちゃいな丸を護衛してサラモアを出港。3月14日、ラバウルに帰港。5月4日、MO作戦のため陸海軍輸送船12隻を護衛してラバウルを出港。5月6日、第6水雷戦隊所属で珊瑚海海戦に参加。5月9日、輸送船を待避させ、ショートランドで燃料補給を行い出港。5月10日、機動部隊と合流してソロモン東方に向かったが、敵艦隊追撃作戦が中止されたため、2140に機動部隊と分かれてショートランドに入港した。MO作戦中止により内地に帰還することになり、5月23日1800に横須賀に帰港。ドックインして整備に入った。6月19日1000、SN作戦参加のため横須賀を出港。6月23日1500、トラックに入港。6月29日、ガダルカナル設営隊を乗せた輸送船を護衛してトラックを出港。7月6日1330、ガダルカナルに到着。7月10日、第6水雷戦隊が解隊されたため、第2海上護衛隊に編入された。ただ船団護衛ではなく第4艦隊や第8艦隊の護衛としてソロモン方面で行動している。8月7日1430、ラバウルを出港。8月8日、第1次ソロモン海戦に参加。8月9日、機械室の復水器が故障したため、ショートランドで応急修理を実施。8月10日、ラバウルに帰港。8月26日、ナウルとオーシャンを攻略するため、夕凪、第31駆潜隊、輸送船宮崎丸(陸戦隊搭乗)と共にトラックを出港。9月2日、トラックに帰港。以降は第2海上護衛隊に復帰して内南洋で船団護衛に就いた。9月25-29日、トラックからパラオまでの船団護衛を実施。10月からパラオに拠点を移してタラワ−サイパン間の船団護衛を行った。11月9日、横須賀に入港し、ドックインして整備に入った。昭和18年3月22日、整備を終えて横須賀を出港。4月1日、第8艦隊第3水雷戦隊に編入され、ラバウルを中心に輸送作戦を行った。7月5日、ブーゲンビル島南端ブインの東南東29海里で左舷に触雷して(潜水艦の攻撃を受けて?)中破し、ラバウルに回航されて特設工作艦山彦丸による応急修理を受けた。その後トラックとサイパンを経て7月30日に横須賀に帰投、修理を行った。11月3日、ラバウルに入港。直後にラバウル増援隊を乗せてトラックを出港したT4号輸送隊が空襲を受けてカビエンに避難したという情報が入り、代わりに陸軍部隊を輸送するためカビエンに向かった。その後、ラバウルに戻って陸軍部隊を降ろしている。11月11日、ラバウルで爆撃により中破(機銃掃射で小破?)した。11月24日、ニューブリテン北方で空襲を受けて小破した。12月3日、内地で修理を行うためラバウルを出港。トラックを経由して12月9日に横須賀に入港。ドックインして修理を行い、1・4番砲を撤去して12cm高角砲と25mm機銃を搭載した。昭和19年3月9日、修理・改装を終了。3月22日1000、マリアナ諸島への兵力緊急輸送船団である東松3号船団として横須賀を出港。速力8ノットでサイパンとパラオに向かった。3月30日昼、サイパンに入港。4月23日朝、サイパンを出港。4月25日、パラオに入港。陸軍部隊と物資を載せ、4月26日にパラオを出港。4月27日、パラオ南のソンソロル島に揚陸を行い、パラオに帰投するため出港した。4月28日、SS-242ブルーギルの魚雷1本が右舷第1缶室に命中。前後区画に浸水して航行不能となり、駆逐艦五月雨で曳航することにした。鋼索では無理だったため錨鎖を使ったが、重すぎて作業が難航、浸水が激しく危険になったため曳航が打ち切られ、0541(1015?)に沈没した。死者19名で、他は沈没前に駆逐艦夕月に移乗している。6月10日に除籍された。参考:月刊世界の艦船6,’83、2,’12、5,'24、第2次大戦日本海軍作戦年誌、連合艦隊巡洋艦、ラバウル航空戦、日本海軍艦隊総覧
<ゆうばり型>:海上自衛隊護衛艦(DE)。いしかり型の拡大改良型で、全長を6m、基準排水量を180トン拡大し、戦闘区画、居住区画、倉庫区画の床面積と容積を広げている。これに合わせて船体を凌波性に優れた長船首楼型に変更したり、船体は同じにするが機関配置をいしかり型と前後逆にして戦闘区画に主機音が入らないようにしたりといった改装案が検討されたが、いしかり型が就役前で運用実績が不明だったため、いしかり型と同じ中央船楼型・機関配置となった。主機に関してもディーゼル2基2軸とする案や、主発電機をディーゼルにする案などが検討されたが、結局いしかり型と同じものを採用している。機械室の構成もいしかり型と同じだが、全体を3m前方に移し、トリム調整をしやすくした。冷房機室を前部区画から第一機械室の1甲板上に移し、戦闘区画の騒音を軽減している。上部構造物はジョン・F・ケネディとベルナップの衝突事故でベルナップのアルミ製上構が全損したのと、フォークランド紛争でシェフィールドやコヴェントリーのアルミ製上構が全焼したことから、鋼製に変更した。OPS-28レーダーはマスト中段に引き続き搭載した。ソナーはSQS-36D(J)ハル・ソナーに換わったため、艦首がセミクリッパー型となっている。艦長・司令浴室便所を独立区画にし、後部便所を第2甲板後部に設置、後部調理室付近にエレベーター(ダムウェイター)を追加して前部士官公室への給食運搬を容易とし、医務室を1甲板上に移して負傷者の搬出入をしやすくした。後で20mmCIWSを搭載できるよう、中央船楼後端にスペースが確保されたが、装備されなかった。全長91m、全幅10.8m、深さ6.2m、吃水3.6m、基準排水量1470トン、満載排水量1750トン。主機はCODOG方式、川崎ロールスロイス・オリンパスTM3Bガスタービン(22500馬力)1基・三菱6DRV35/44ディーゼル(4400馬力)1基、出力22500馬力、2軸推進、巡航速力19ノット、最大速力25ノット。兵装はオットー・メララ社製76mm単装速射砲1門(前甲板)、ハープーン4連装発射筒2基(後甲板後端両舷)、ボフォース4連装対潜ロケットランチャー1基(中央船楼前端)、3連装短魚雷発射管2基(中央船楼中央両舷)。FCSは艦橋上の射撃指揮装置2型。ESMはNOLR-6。自衛用として旗甲板両舷にMk36チャフ発射機を装備する。艦載艇は改7.9メートル型内火艇で、煙突右舷のボート・ダビットに1隻搭載している。乗員95名。1983-84年にDE-227ゆうばりとDE-228ゆうべつが就役した。艦の大きさ的に日本海の荒波の影響を受けやすく、それ以上の量産は行われていない。2010年に除籍された。参考:月刊世界の艦船11,'17増刊、1,’04、5,’83、6,’83、6,’11、艦船メカニズム図鑑、自衛隊装備年鑑1996、月刊JWings1,’99、海上自衛隊全艦艇史、丸スペシャルNo.78
<夕張型>:日本海軍軽巡洋艦。5500トン型軽巡に匹敵する兵装を最小限の船体に詰め込んだもので、八四艦隊計画の1隻を充てており、建艦実験の意味が強い。計画番号はF42で、F41(睦月型)とF43(吹雪型)の間にあり、特型駆逐艦の考えの下に計画された。小型軽量と重武装から、外国の造艦技師から「卵の殻がハンマーを持っている」と評されている。船体構造は駆逐艦式にして船殻重量を軽減し、防御重量に回した。艦首は船首楼となっており、艦首部の乾舷が高く、凌波性に優れる。ビルジキールは幅広の複板式で、船体動揺周期が長くなったため安定した射撃が可能だった。主砲は6門、発射管は4門だが、全て中心線上に配置してあるため、片舷投射力は5500トン型軽巡と同等である。砲は背負い式に搭載してあるが、単装砲は前面防楯しか装備していないため、背後に連装砲からの爆風を避ける庇が取り付けられた。艦橋の真下に缶室があるが、煙路は後方に延長されて艦橋後方の煙突から排煙されるようになっている。装甲は厚さ38mmのNVNC甲鈑で、舷側外板から1区画分内側の縦壁に船体強度部材として組み込み、重量を減らした。機関区画は前方から第1-3缶室、第1-2機械室の順で、シフト配置にはなっていない。主機は神風型と同じものを3基搭載し、前部機関室に2基、後部機関室に1基収容する。主缶は第一缶室に小型缶2基、第二缶室に大型缶4基、第三缶室に大型缶2基を収めた。従来は艦尾にあった士官室を艦橋下部に移動し、艦橋との交通を簡便にした。全長139.0m、水線長137.16m、最大幅12.04m、基準排水量2890トン(1890トン?)、満載排水量3141トン。主機は蒸気タービン3基、主缶は重油専焼缶8基、出力57900馬力、3軸推進、速力35.5ノット、航続距離は14ノットで5000海里。舵は面積9.5平方メートル。兵装は三年式四〇口径一四サンチ単装砲2門(1番・4番)、三年式四〇口径一四サンチ連装砲2門(2番・3番)、三年式四〇口径八サンチ単装高角砲1門、八年式連装魚雷発射管2基(煙突後方)。艦尾には機雷敷設用の装備(艦隊決戦時に敵前方に機雷をばらまく)を持っており、これは機密事項になっていて、普段は白い覆いがかけられており、艦尾方向からの写真撮影は禁止されていた。夕張が大正12年に竣工した。煙突が低くて排煙が逆流してくる問題があったため、大正13年に煙突を2m高くしている。太平洋戦争開戦後、1番砲塔を12.7サンチ連装(単装?)高角砲1基に換装した。参考:連合艦隊巡洋艦、近代巡洋艦史、海軍技術研究所、月刊世界の艦船6,’83、12,’10、12,’11、2,’12、9,’14、海軍操舵員よもやま物語
<雄飛>:KT-1シリーズ(練習機)を参照。
<ゆうひばり>:海上自衛隊ちよづる型掃海艇8番艇。元は駆潜特務艇第79号である。1952年8月1日に海上保安庁から移管され、掃海船MS-08となった。1954年7月1日に掃海艇に類別変更された。1956年3月31日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊
<郵便箱>:L型防空装置を参照。
<雄風1型>:台湾軍の艦対艦ミサイルHsiung
FengT(HFT)。以前は雄蜂1型と呼ばれた。ガブリエル対艦ミサイルのライセンス生産または無断コピーまたはイスラエルの協力を得たガブリエルMk2の改良型らしい。全長3.43m、重量538kg、弾頭重量150kg(75kg?)。推進は独自開発のロケットモーター、飛翔速度マッハ0.65、射程36-40km。誘導は光学+レーダー・ビーム・ライディング+セミアクティブ・レーダー。大型の多角形発射機に収容して搭載される。1977年1月に存在が公表され、1981年に制式化(1979年に配備?)された。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、中国/台湾海軍ハンドブック改訂第2版、月刊世界の艦船9,'22、1,'15増刊、6,’20
<雄風U型>:台湾軍の対艦ミサイルHsiung
FengU。雄風1型の技術にハープーンの設計とフランスのエンジンをプラスして中山科学研究院で独自開発したらしい。外観はハープーンそっくりだが、外径が0.05m大きい。炸裂すると20個前後の破片が高速で飛散し、船体を損傷させる。全長4.8m、直径0.4m、翼スパン1.15m、発射重量685kg、炸薬重量190kg。エンジンはミクロチュルボTR160ターボジェットで、固体燃料ロケットブースターにより射出され、シースキミングで巡航し、最大速度マッハ0.85、射程150-170km(43.2海里?)。誘導は中間が慣性誘導、終末がARH+赤外線画像。1983年から開発され、1991年に陸上発射型MGB-2A、1992年に艦上発射型MGB-2B(ランチャーは箱形縦2連装と、それを2基横に並べた4連装)、1993年に空中発射型MGB-2C(雄風UC型)が実用化された。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊、11,’17、6,'20、9,'22、朝雲、艦載兵器ハンドブック改訂第2版、中国/台湾海軍ハンドブック改訂第2版、月刊丸10,’97、月刊航空ファン10,’18
<雄風UE型>:台湾軍の地対艦ミサイルHsiung
Feng UE。雄風U型の射程延伸・威力強化型で、2006年7月に発射試験準備中との報道がなされたが、まだ行われていない模様である。10月10日の建国記念日に公開されるという情報もあったが、公開されていない。弾頭はHE単弾頭、貫通型、滑走路破壊用クラスター弾とみられる。弾頭重量400kg。誘導はGPS/INS+TERCOMで、画像赤外線も併用するという説がある。射程600-1200km(原型が射程300-600kmで射程延伸型が1000-1500kmという説あり)。2010年までに500基を生産予定だったが、完全量産化されたのは2011年になってかららしい。運用可能となったのはもっと後のようで、2017年現在まだ開発中という情報があった。参考:月刊世界の艦船5,'24、1,'15増刊、11,’17、月刊軍事研究5,’07、2,’08、THE MILITARY BALANCE 2016
<雄風V>:台湾軍の超音速艦対艦/地対艦ミサイル、シュンフェンV(Hsiung FengV)。台湾の中山科学研究院が1990年代から開発した。弾体周囲斜め方向に4つの二次元エアインテイクがあり、後端に4枚のフィンを持つ。弾体左右には2枚のフィンが付いた加速用ロケットブースターを装着する。固体燃料ロケットブースターで超音速に加速した後、ブースターを切り離してラムジェットエンジンに切り替え、超音速巡航する。全長6.1m、直径0.457m(0.57m?)、発射重量1500kg(660kg?1000kg?)、弾頭重量225kg(HE。120kg?)。誘導は中間が慣性+複数ウェイポイント、終末がアクティブレーダー。巡航速度マッハ2.5、巡航高度125-250m、射程150-400km(100-150km?600km?1500km?)で、中国沿岸部までを攻撃可能圏内に収めている。陸上攻撃、対レーダーミサイルとしても使用可能。2007年(2008年?2010年?)に就役した。成功級ミサイルフリゲート、康定級フリゲート、錦江級コルベット、光華Y型ミサイル艇に搭載改修が施された。2011年8月10日の台北航空国防技術展示会(TADTE)事前記者発表では、本ミサイルの模型の背景に中国海軍空母遼寧をイメージしたらしき艦船が炎上しているイラストが描かれ、空母殺しという意味の中国語が添えられていた。2012年から巡航速度マッハ3の射程延伸型を開発しているらしい。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊、7,'20、9,'22、11,’17、11,’11、10,’06、月刊軍事研究11,’03、2,’12、11,’12、月刊丸12,’11
<ユーフラテス>:イギリス海軍E級軽巡洋艦Euphrates。建造中止になった。参考:近代巡洋艦史
<ユーベイ級>:玉北級(揚陸艇)を参照。
<ゆうべつ>:DE-228(護衛艦)またはFFM-8(護衛艦)を参照。
<雄蜂1型>:雄風1型(対艦ミサイル)を参照。
<雄鳳丸>:日本海軍特設給油艦。捷一号作戦にあたり、燃料輸送のために徴用された。昭和19年11月26日、ミリ沖で雷撃を受けて沈没した。参考:月刊軍事研究12,’07
<ゆうポン>:熊本地本のマスコットキャラ。せんば山のタヌキがモチーフで、「ゆう」は熊本の熊の音読みである。手まり歌「あんたがたどこさ」で猟師から逃げているうちに、友人のえび次郎と共に地本でかくまってもらったらしい。参考:朝雲
<雄鷹>:経国シリーズ(戦闘機)または練11(練習機)を参照。
<雄鷹302>:強撃5型シリーズを参照。
<勇鷹>:T-5(練習機)を参照。
<有翼ヘリコプター>:Winged
helicopter。ヘリコプターの胴体に固定翼を追加したもの。高速飛行時に固定翼でも揚力を発生させてメインローターが担う揚力を減らし、その分だけメインローターの前傾を増して推進力を増大させ、速度性能の向上を図るものである。軍用ヘリでは外部兵装搭載用スタブウイングとして装備されている事もある。V-107改造実験機で揚力の20%を固定翼に負担させたところ、最大速度が10%向上したとされる。固定翼を追加する分だけ重量や抗力が増えるので、速度性能向上には限界がある。また、メインローターのダウンウォッシュが固定翼にぶつかるので、その分だけ全体の揚力が減り、ホバリング時や低速飛行時には不利になる。参考:航空用語事典増補改訂版
<ユーライア・ヒープ>:イギリス海軍オリヴァー・ツイスト級通船Uriah Heep。参考:月刊世界の艦船5,’83
<ユーライアラス>:F15(リアンダー級フリゲート)を参照。
<ユーライアラス>:イギリス海軍ダイドー級軽巡洋艦Euryalus。1941年竣工。1959年に解体された。参考:近代巡洋艦史
<ユーラン型>:076型(強襲揚陸艦)を参照。
<ユーリー・アンドロポフ>:ソ連海軍キーロフ級原子力ミサイル巡洋艦4番艦(11442型原子力ミサイル巡洋艦3番艦)Yuri Andoropov。1984年3月11日艦籍編入、1986年3月11日起工、1989年4月29日進水。1992年5月27日、ピョートル・ヴェリーキーに改称された。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、月刊世界の艦船3,’92増刊、3,’00
<ユーリー・イワノフ>:アドミラル・ユーリー・イワノフ(情報収集艦)を参照。
<ユーリ・オレフィレンコ>:L401(揚陸艦)を参照。
<ユーリ・ドルゴルキー>:K-535(原潜)を参照。
<ユーリャルス>:42(軽巡洋艦)を参照。
<有料荷重>:ペイロードを参照。
<ユーロ5VLRA>:VLRAはVehicule de
Liaison de Reconnaissance et d’Appui(連絡偵察支援車両)の略。フランスのアクマット社が開発した輸送車である。車体下部はレベル1-2aの耐地雷能力を持つ。戦闘重量15トン、ペイロード4.5トン。エンジンは排気量5000cc・出力190馬力のディーゼル、トランスミッションは5速オートマチックまたは6速マニュアルで、最大速度110km、航続距離1400km。乗員3名、乗車兵員14名。参考:月刊軍事研究10,’08
<ユーロMEP>:MEP(アビオニクス)を参照。
<ユーロPAAMS社>:PAAMSを開発しているジョイント・ベンチャー企業で、ユーロサムが66%、UKAMSが33%出資した。参考:月刊軍事研究2,’08
<ユーロコプター式EC225LP型>:AS332ヘリ海外シリーズを参照。
<ユーロコプター社>:1985年1月にフランスと西ドイツ政府がアエロスパシアルとMBBの統合案を承認したのに基づき、1992年にアエロスパシアル社のヘリコプター部門とDASA傘下のMBB社ヘリコプター部門が合併して誕生した。2000年、親会社が合併でEADSになったため、EADSの100%子会社になった。2014年1月2日、親会社EADSの社名がエアバス・グループに改称されたことに伴い、こちらもエアバス・ヘリコプターズに改称された。参考:月刊軍事研究12,’13、6,’07、7,’09、11,’18、月刊JWings3,’14
<ユーロコプタージャパン株式会社>:ユーロコプター社がユーロヘリの株式の90%を取得したことに伴い、2009年4月1日にユーロヘリを社名変更したものである。同年、全日空整備ヘリコプター事業部を買収し、ユーロコプターT&Eを設立した。2012年4月、神戸事業所を開設した。2014年1月8日、エアバス・ヘリコプターズ・ジャパンに改称された。参考:月刊軍事研究7,’09、11,’18、月刊JWings3,’14、7,’22
<ユーロサトリ>:1990年からパリ近郊で隔年開催されている国際兵器展示会。2012年は6月11-15日に開催され、53カ国433社が出展した。2014年は6月16-20日に開催され、1054社が参加した。日本企業が初参加して13社が出展しており、三菱重工はプライベートベンチャーの装輪装甲車MAV、川崎重工は地雷探知機画像型セット、空対空用小型標的、KLX250、日立製作所は07式機動支援橋、BM307地雷処理システム装着油圧ショベル、藤倉航装は13式空挺落下傘を発表している。2016年は6月13-17日に開催され、防衛装備庁が初出展した。2018年は6月11-15日に開催された。参考:月刊軍事研究9,’00、9,’12、9,’14、10,’16、10,’18、朝雲
<ユーロサム>:フランスとイタリアが中心に開発している拠点防空システムで、ホークの後継である。高機動トラックに射程15-40kmのミサイルを搭載した垂直発射機を備え、移動式多機能レーダーシステムと組み合わせる。参考:月刊軍事研究4,’01
<ユーロサム社>:アエロスパシアル、アリエナ、トムソンCSFが共同出資して1989年に設立したミサイル専門会社。ユーロPAAMSに66%出資している。参考:月刊軍事研究2,’08
<ユーロジェット・ターボ社>:Eurojet Turbo GmbH。EF2000ユーロファイター用EJ200エンジンの開発製造会社で、ドイツのハルベルクモースで創設された。イギリスのロールスロイス、イタリアのアヴィオ、ドイツのMTUアエロ・エンジン、スペインのITPの共同事業体である。参考:月刊JWings4,’16
<ユーロシステムズ>:BAEシステムズとフィンメカニカが2003年に設立した通信・アビオニクス関連ジョイント・ベンチャー。参考:月刊軍事研究2,’08
<ユーロドローン>:ドイツ、フランス、イタリア、スペインが共同開発しているMALE-UAV。ISRや国土安全保障などを主任務とする。2020年11月19日に開発計画管理組織の共同武力協力機構OCCARと、産業チーム(エアバス社、ダッソー・アビエーション社レオナルド社)代表のエアバス社が、開発で合意した。2022年2月24日、OCCARと産業チーム代表エアバス社が20セットの開発製造と5年間の初期サポート契約に調印した。3月25日、エンジンがイタリアのアビオエアロ社製カタリスト・ターボプロップに決まった。参考:月刊JWings3,’21、5,’22、6,’22
<ユーロネイヴァル>:2年に1度、偶数年にフランスのル・ブルジェで開催されるヨーロッパ海軍装備品展示会EURONAVAL。第23回は2012年10月22-26日に開催された。第24回は2014年10月27-31日に開催され、28カ国の企業・団体350以上が参加した。第25回は2016年10月17-21日に開催され、34カ国から403の企業・団体が参加した。日本の企業も初参加しており、東京計器が出展している。第26回は2018年10月23-26日に開催され、34カ国から480の企業・団体(三菱重工など)が参加した。参考:月刊軍事研究1,’09、1,’13、1,’15、1,’17
<ユーロ・パワーパック>:レオパルト2戦車用に新開発されたパワーパックで、MT883ディーゼルとHSWL295TM変速機から構成される。出力1650馬力。従来のエンジンより燃費が15-20%良く、全長が1m短い。参考:月刊PANZER10,’05
<ユーロファイター>:EF2000(戦闘機)を参照。
<ユーロファイター社>:Eurofighter
Jagdflugzeug GmbH(Gesellschaft
mit beschränkter Haftung、有限会社)。EF2000ユーロファイターの開発製造会社で、1986年にドイツのハルベルクモースで創設された。出資比率はBAEシステムズ33%、DASA(その後EADSドイツを経てエアバス・ディフェンス・アンド・スペース)30%、アレニア・アエルマッキ21%、EADSスペイン(その後エアバス・ディフェンス・アンド・スペース)13%。参考:月刊JWings4,’16
<ユーロヘリ>:ユーロコプター社と日本の代理店(川鉄商事とソニー)が共同で2001年に設立した、ユーロコプターの販売代理店。後に伊藤忠商事が買収し、出資比率が伊藤忠商事90%、ユーロコプター社10%になった。2006年、ユーロコプターが伊藤忠商事保有株式の8割を買収。2009年4月1日、ユーロコプター社が出資比率を90%に高め、ユーロコプター・ジャパン株式会社に社名変更した。参考:月刊軍事研究7,’09、11,’18
<ユーロ・ヘリコプター・インダストリーズ>:ヨーロッパのヘリコプター・メーカー。EH101の開発生産を行うためにアグスタ社とウェストランド社が1983年(1980年?)に対等出資で設立した合弁会社である。アグスタ社とウェストランド社が2000年7月に合併してアグスタ・ウェストランド社になったため、EH101の生産をそちらで行うことになり、2004年にアグスタ・ウェストランド社に吸収合併された。参考:月刊軍事研究1,’14、6,’07、5,’18
<ユーロホーク>:グローバル・ホーク海外シリーズ(無人機)を参照。
<ユーロホークAGS>:アメリカ及びイギリス以外のNATO諸国が導入を予定している無人地上監視機で、AGSは連合地上監視の略。ノースロップ・グラマンとEADSが開発したユーロホーク無人機にMP-RTIPレーダーを搭載したもので、高度19812mを時速340ノットで飛行し、24-36時間にわたり任務を行う。レーダーをELINT機材に積み替えればELINT任務も実行可能。2009-11年にテストを行い、その後量産される予定である。参考:月刊軍事研究10,’07
<宥和政策>:脅威となる他国との妥協点を見つけ、対立を避ける政策。参考:朝雲
<ユーワン>:UH-1B汎用ヘリ(陸上自衛隊)またはUH-1H汎用ヘリ(陸上自衛隊)またはUH-1J汎用ヘリ(陸上自衛隊)を参照。
<ユェーフェイ>:FFG1106(フリゲート)を参照。
<ユエヤン>:905(駆逐艦)を参照。
<湯川遙菜氏・後藤健二氏殺害事件>:湯川遙菜氏は本名湯川正行で、高校卒業後にインターネット通販店やミリタリーショップなどを経営していたが、2002年の店舗移転をきっかけに業績が悪化し、2004年に廃業した。2008年に局部を切断して自殺を図ったが、妻の説得で治療を受けた。2010年に妻が病死した後、自分は日華事変でスパイとして活躍した川島芳子の生まれ変わりだとして湯川遙菜に改名。2014年1月、「PMC JAPAN」という会社(ホームページでは社名として「ピーエムシー株式会社(Private Military Company)民間軍事会社」と記載されている)を設立し、最高経営責任者(CEO)になった。ホームページ上では東京に本社、タイとインドに海外支店を展開し、主要事業として国際民間軍事業、国外警備、海上護衛(武装ガード)、紛争地域における護衛、後方支援などを挙げているが、実績は不明である。3月、単身でシリアに渡航。アレッポで自由シリア軍に拘束されたが、アジア系義勇兵と打ち解けて拘束を解かれ、自由シリア軍と行動を共にしてシリアの様子を撮影し、5月にユーチューブに投稿した。6月、シリアで知り合った日本人ジャーナリストと、イラクに渡航し、下旬にはキルクークの様子をユーチューブに投稿している。7月下旬、トルコ経由でシリアに入国。8月16日、シリアのアレッポで日本人が拘束されたとの情報が在シリア日本大使館(ヨルダンに避難中)に入った。8月17日、イスラム国がシリアで湯川遙菜氏を拘束した際の映像をインターネット上に公開。顔を負傷した湯川氏が、イスラム国の構成員とみられる人物に捕らえられ、英語で押し問答をする様子が2分間ほど映されていた。この湯川氏拘束に関する情報をツイートしたアカウント名@ANS4R1が、更に「ある兄弟が送ってくれた」というアレッポで拘束された湯川氏の画像をツイッターに掲載。これに対し、ある日本人記者が、湯川氏は民間軍事会社のCEOであり、銃を撃つ写真も撮っているというリツイートを行い、経歴などを載せたブログアドレスまで書き添えしまった。これを受け、イスラム国を名乗るアカウント名@Omarjerbiが、日本人スパイである湯川遙菜氏を神の裁きの下に処刑したとツイートしたため、インターネット上では大騒ぎになったが、@Omarjerbiの発信元はチュニジアであると判明、内容は虚偽である可能性が高い。8月31日、フリージャーナリストの後藤健二氏が湯川氏救出のためシリアに入国したが、10月頃にイスラム国に拘束されたとみられる。11月、後藤健二氏がシリアで行方不明になったことを日本政府が掴み、情報収集に入った。ただイスラム国が関与している確証を得たのはイスラム国が動画を流してからで、相変わらずの情報収集能力の無さを露呈する結果になっている。2015年1月20日、イスラム国がインターネット上に動画を流し、72時間以内に2億ドルの身代金を払わなければ湯川遙菜氏と後藤健二氏を殺害するとした。1月24日、イスラム国が首を切断された湯川遙菜氏の写真を持たされた後藤健二氏の画像をインターネットに公開し、ヨルダンで収監されているサジダ・リシャウィ死刑囚との交換を要求した。ヨルダン政府はこれに応じず、1月27日にイスラム国は後藤健二氏にヨルダン軍パイロットであるモアズ・カサスベ中尉(2014年12月24日にイスラム国に捕らえられた)の写真を持たせて再びリシャウィ死刑囚の24時間以内の釈放を迫った。1月29日、イスラム国が日没までにリシャウィ死刑囚をトルコ国境に移送するよう要求。ヨルダン政府はカサスベ中尉が生存している証拠を出すよう要求して交渉は決裂し、イスラム国は2月1日に後藤健二氏の殺害映像、2月4日にカサスベ中尉を檻の中で火あぶりにする映像をインターネットで公開した(ヨルダン政府は1月3日に既に殺害されていたとしている)。2月1日、防衛大臣が幹部会議で海外に派遣されている自衛隊部隊の安全確保に万全を期すよう命じた。ヨルダンはリシャウィ死刑囚の死刑を執行し、イスラム国が制圧するシリアのラッカを爆撃している。参考:月刊軍事研究12,’14、3,’15、4,’15、6,’15、月刊JWings4,’15、朝雲
<ユギオ>:朝鮮戦争を参照。
<行き足>:艦船が機関を停止してから完全に止まるまで、慣性により動いている状態を表す日本海軍用語。前甲板にいる指揮官(とそれを復唱する航海科連絡員)がこの後に速力を付けて「行き足5」、「行き足3」…と報告し、艦船が静止したら「行き足止まりました」となる。参考:続海軍よもやま物語
<行き足がある>:日本海軍用語で、良くも悪くも並外れた行動を取る者を指す。参考:続海軍よもやま物語
<油気圧式懸架装置>:ハイドロニューマチック・サスペンション。空気ばねのひとつで、力の伝達に油圧を使い、ばね作用に空気(窒素)を使用する。ホイールトラベルが長く、車輪の上下動が大きくなると急激に腰が強くなり、トーションバー式よりも優れた不整地踏破性を発揮する。また、行進間射撃時や主砲発射時に車体振動を軽減でき、命中率を向上できる。モーターでポンプを作動させ、シリンダーに油を出し入れさせることで車高のコントロールも可能である。独立ユニット式なら地雷などで損傷した時に簡単に交換できるのも長所。構造が複雑で高価なのが欠点である。フランスで1956年に開発された2名用小型偵察戦車VP90に最初に搭載された。実用品として初使用したのはスウェーデンのSタンク(1963年)。通常型戦車として初搭載したのは74式戦車。参考:月刊PANZER4,’04、6,’04、5,’81、自動車のサスペンション
<ゆきかぜ>:DD-102(護衛艦)を参照。
<雪風>:日本海軍陽炎型駆逐艦8番艦Yukikaze。昭和13年8月2日、仮称艦名第24号艦として起工。昭和14年1月24日、雪風と命名された。3月24日進水、昭和15年1月20日竣工。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制では第16駆逐隊、兵力部署では比島部隊第4急襲(護衛)隊に所属していた。昭和17年2月27日、スラバヤ沖海戦に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。10月26日、南太平洋海戦に参加。11月13日、第3次ソロモン海戦に参加。昭和18年2月1日、イサベル島沖海戦に参加。3月2日、81号作戦に参加。4月、逆探を装備。7月12-13日、コロンバンガラ島沖夜戦に参加。昭和18年末から昭和19年初頭に改装を受け、2番砲塔を撤去し、九六式25mm機銃を追加した。昭和19年、一三号電探と二二号電探を装備。昭和19年10月22日、比島沖海戦に参加。11月16日、ブルネイ沖で爆撃を受けて損傷した。同日、第17駆逐隊の一員として第1遊撃部隊を護衛してボルネオ島ブルネイ湾を出港し、内地に向かった。11月23日、豊予海峡を通過後に大和から燃料補給を受けた。そのまま横須賀に向かう長門の護衛と、復路は呉に回航される信濃の護衛に就くことになり、2130に臼杵湾に到着して仮泊。11月24日0555、臼杵湾を出港し、横須賀に向かった。昭和20年1月31日、涼風を曳航中、大分港北突堤灯台の東北東5.2kmの地点で座礁したが、損傷は無かった。4月6日、沖縄水上特攻作戦に参加。4月7日、奄美大島北西で艦上機の攻撃を受けて損傷した。4月8日、佐世保に帰港。7月30日、京都府宮津湾で爆撃を受けて損傷。太平洋戦争で数々の海戦に参加しながら損傷は軽微な幸運艦で、甲型駆逐艦(陽炎型・夕雲型)38隻のうち唯一の終戦時残存艦だった。電波兵器なども優先的に回されており、一三号電探、二三号電探、三式探信儀をいち早く装備したという。10月5日に除籍され、特別輸送艦として使用された。昭和22年7月6日に中国に引き渡されて国府海軍所属の丹陽となり、昭和41年に廃艦とされ、昭和46年にスクラップにされた。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、連合艦隊巡洋艦、月刊丸10,’10、月刊世界の艦船8,’19、9,’14、2,'24、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T、歴史群像10,’18
<雪作戦>:オペラチオン・スニエーク。太平洋戦争開戦前、関東軍の脅威を削減するためソ連がアメリカに対して行った対日参戦推進作戦で、承認は1940年10月。KGBの前身、NKVDのビタリー・グレゴリビッチ・パブロフが米財務省次官補ハリー・D・ホワイトと接触し、モーゲンソー財務長官宛てにソ連の望む外交政策案を提出させることに成功。その案はハル国務長官とルーズベルト大統領にも伝わり、これを元にハル・ノートが製作されたとされる。ハル国務長官はもう1つ、暫定案と呼ばれる穏健な内容のもの(戦争準備が整うまでの時間稼ぎ用)も製作していたが、日本軍が5個師団規模の輸送船をインドシナに派遣したというスチムソン陸軍長官からの報告(実際は通常の補給活動だった)によりハル・ノートの方を日本に送りつけた。多分この作戦が無くても戦争になったとは思われるが。参考:歴史群像6,’04
<ゆきしお>:SS-581(潜水艦)を参照。
<ユキ車>:日本軍の試作雪上車。FB車の水上航行用プロペラを取り外し、浮嚢にカポックを詰め込んで雪上車にしている。南方作戦がメインになったので、試作だけに終わった。参考:月刊PANZER8,’01、歴史群像6,’01
<ユグ型海洋観測艦>:ロシア海軍海洋観測艦。満載排水量2540トン。ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフ、マーシャル・ゲロバニなどが就役した。参考:月刊世界の艦船9,’12、3,’15
<ユクラシス>:インド陸軍の耐地雷装輪装甲車で、開発時の名称はアディトゥヤだった。車体直下でTNT10kgが炸裂しても耐えられる。インド陸軍と治安部隊に1400両が配備される予定で、2010年現在、300両以上が生産されている。参考:月刊軍事研究9,’10
<楡渓>:566(フリゲート)を参照。
<ゆげしま>:MSC-660(うじしま型掃海艇)またはMSC-679(うわじま型掃海艇)またはMCL-731(掃海管制艇)を参照。
<輸血>:血液成分の一部が失われて生じる症状や異常所見を治療するため、他人または予め採血しておいた自分の血液成分を血管内(ときに骨髄内)に注入して補充すること。血液に生命の源が宿っているとの考えは古くからあり、古代ローマでは敗れた剣闘士の血液を観客が争って飲んだというが、これは輸血とはあまり関連が無い。17世紀に入って羊などの動物の血液を血管内に投与することが行われたが、上手くいく筈も無く、ヨーロッパでは輸血が禁止されてしまった。19世紀に入って(1818年にイギリスのジェームス・ブランデルが行ったのが初らしい)人から人への同種間輸血が試みられるようになったものの、血液型がまだ発見されておらず、輸血の方法も肘の血管を傷つけて流れ出た血を漏斗で集め、固まる前にそのまま患者の血管内に注入するという大雑把なもので、失敗する例が後を絶たなかった。1900年にランドシュタイナーがABO血液型(当時はT・U・V・W型と呼んでいた)を発見、1915年にはクエン酸ナトリウムに抗凝固作用があることが分かり、血液を保存しての輸血が可能となったため、第1次大戦時には野戦病院で輸血できるようになった。ただ冷却技術が未発達で、保存期間の面では不十分な点も見られた。1921年、国際赤十字がイギリス、オーストラリア、オランダに血液センターを創設し、血液長期保存の研究を開始。1936年、初の血液貯蔵交換所(血液銀行)がアメリカのシカゴにあるクック郡立病院に設けられた。第2次大戦中の1943年、ブドウ糖入りの抗凝血剤ACD液(Acid-Citrated Dextrose solution。クエン酸・クエン酸ナトリウム・ブドウ糖液)が開発されて保存期間が延長され、需要を徐々に満たせるようになった。また、1940年代前半には凍結乾燥血漿剤が開発され、前線でも水で戻して使用できたが、滅菌が完全でなく感染症が多発した。1948年、第17回赤十字国際会議で各国赤十字社が輸血事業に関して積極的役割を担当するという決議が行われた。現在の保存液は全血製剤がCPD液(Citrate-Phosphate-Dextrose solution。クエン酸ナトリウム26.30g、クエン酸3.27g、ブドウ糖23.20g、リン酸二水素ナトリウム二水和物2.51gを水で1000mlにしたもの)で保存期間21日、赤血球製剤がMAP液(Mannitol-Adenine-Phosphate solution。D-マンニトール14.57g、アデニン0.14g、リン酸二水素ナトリウム0.94g、クエン酸ナトリウム1.50g、クエン酸0.20g、ブドウ糖7.21g、塩化ナトリウム4.97gを水で1000mlにしたもの)で保存期間42日であり、温度は2-6℃に保つ。参考:歴史群像12,’03、一目で分かる輸血、赤十字の旗なにわに百年、日本赤十字社社史稿第6巻
<輸血(日本)>:第1次大戦で日本赤十字救護班を率いてパリで治療に当たった塩田廣重博士が、野戦病院で行われていた輸血治療の成果に感嘆し、器具と血液型判定キットを入手して帰国。大正8年に子宮出血や膿胸手術で輸血を行ったのが最初である。昭和5年、浜口雄幸首相狙撃事件で塩田博士が東京駅駅長室で輸血を行い、救命に成功したことが報道され、輸血が広まっていったものの、保存技術が欧米よりも遅れ、太平洋戦争後に至っても民間商業血液銀行の売血新鮮血による枕元輸血が主に行われていた。1948年、東大附属病院分院産婦人科で輸血梅毒事件が発生したため、GHQが日本政府に対策を下命、安全な保存血(梅毒の原因であるトレポネーマは4℃保存で病原性を失う)による輸血が推奨され、1951年3月に東京医科大学病院に院内血液銀行、11月に民間血液銀行(株式会社日本ブラッドXバンク。後のミドリ十字)が開設された。また、1948年にストックホルムで開催された赤十字国際会議で各国赤十字による輸血事業勧奨決議が採択されたのを受け、1951年5月に日本赤十字中央病院採血部が設置され、1952年4月には献血による血液事業が始まり、日赤中央病院採血部が日本赤十字社東京血液銀行業務所に改編された。保存血も大量に製造されるようになったが、民間商業血液銀行の売血が主体で、ろくに検査もしなかったため、重症貧血とウイルス性肝炎による黄疸で黄色くなった血を輸血されて治療効果が無いどころか輸血後肝炎になる例が多発。一時は発症率が50%に達し、第5福龍丸事件(犠牲者の直接死因は輸血後肝炎)やライシャワー事件(駐日大使のライシャワー氏が刺され、輸血で一命を取り留めたものの、輸血後肝炎を発症した)が起きて大問題になったため、1964年8月に政府が献血に対する閣議決定を行い、民間血液銀行での売血を中止して赤十字血液センターの献血で賄うこととなり、1966年5月にミドリ十字が買血業を廃止、1969年に預血業務も廃止し、100%献血となった。1970年からは全血でなく必要な成分のみを輸血する成分輸血が行われるようになったが、血漿製剤や血漿分画製剤の需要増大に供給が追いつかなくなった。その結果、1980年代に大量の輸入製剤が導入され、一部に安全性が不十分なものがあって薬害エイズや薬害肝炎といった大事件が発生。厚生省がガイドラインやマニュアルを作成し、血液製剤の100%国産化を目指しているが、安価なこともあって未だ血漿製剤の一部は輸入に頼っている状態である。赤血球製剤は保存液としてMAP液を使用しているが、22日以上の保存では腸内細菌の増殖による輸血副作用の可能性が高くなるため、保存期間を21日間に短縮して使用している。参考:一目で分かる輸血、日本医事新報No.4550、日本赤十字社社史稿第7巻、赤十字の旗なにわに百年
<ユジェテペ>:D-345(駆逐艦)を参照。
<油脂焼夷弾>:焼夷弾を参照。
<由式空気圧縮機>:日本海軍の魚雷用空気圧縮機で、ユンカース社製のものを元に開発した。陽炎型駆逐艦から搭載された。参考:日本駆逐艦史
<油船>:油船を参照。
<輸送(航空自衛隊職域)>:航空自衛隊の職域の1つで、空中輸送、輸送の職種を含む。輸送の計画を立てたり、貨物搭載を行ったり、国賓輸送時の客室業務をしたりするのが主任務である。参考:月刊JWings7,’12
<輸送(日本陸軍)>:軍の集中、移動、補給など用兵上きわめて重要で、鉄道と船舶は大量輸送、自動車と動物は戦場での輸送、飛行機は急を要する輸送に使用される。戦時輸送は長期間連続して実施できるようにしなければならない。輸送機関は敵飛行機の攻撃目標になり、また船舶は敵艦艇特に潜水艦の襲撃を受ける可能性があるため、これらに対する自衛の手段を整え、経路・時期・行動・隊形などを適切に選択し、偽装や陽動を行い、秘匿の手段を講じる。輸送請求・輸送計画中は軍機・機密漏洩に注意すること。参考:作戦要務令
<輸送科>:陸上自衛隊の職種の1つ。職種色は紫。主任務は人員、装備、需品などの輸送(海外派遣含む)、輸送統制、ターミナル業務、道路交通規制などで、平時は全国物流便及び方面物流便と呼ばれる駐屯地間定期輸送や演習・訓練・行事などに際しての輸送などを行い、有事には民間会社の有する輸送力も確保して輸送を統制し、駐屯地を出て各所に展開する部隊に必要な物品を送付したり、部隊や装備品を所望の場所に輸送したりする。輸入装備・物品の通関輸送業務も実施する。中央輸送業務隊/中央輸送隊(方面隊を跨ぐような長距離大量輸送や海外輸送担当)、方面輸送隊(方面隊補給処から各駐屯地への輸送担当)、師団後方支援連隊輸送隊・旅団後方支援隊輸送隊(各部隊への輸送担当。1個普通科連隊を輸送可能)がこの職種で、部隊内に自動車教習所を持ち、免許教習も行っている。職種学校は輸送学校、教育支援部隊は第311輸送中隊。以前は防衛庁長官直轄の青函地区輸送連絡隊や京浜港湾処理隊があった。法律や重量・サイズの制限に引っ掛かったり、渋滞に巻き込まれたりして輸送が滞ると、その先の作戦任務に支障を来すため、事前の段取りが大切。2010年3月末に普通科連隊が完全自動車化されたため、普通科隊員の輸送は行わずに済むようになった。参考:スピアヘッドNo.5、MAMOR vol.129、vol.111、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、陸上自衛隊地上戦力の全容、日本の防衛戦力Part1、月刊丸9,’20
<輸送学校>:陸上自衛隊の職種学校で、朝霞駐屯地にある。第311輸送中隊を隷下に置き、輸送科の教育訓練(交通統制、ターミナル業務、道路交通規制など。車両だけでなく鉄道、船舶、航空輸送も含む)を行う他、部隊輸送にも従事する。ちなみに車両操縦教育は一般部隊や師団等の自動車教習所で行い、車両整備教育は武器学校の担任である。教育に使用していた一〇〇式鉄道牽引車が復元展示されている。大元は1952年10月3日に立川で創設された業務学校第2分校で、1953年3月10日に業務学校第4部になり、1954年9月10日に独立して輸送学校となった。1955年4月15日、第101輸送大隊を隷下に置いた。1960年3月15日、朝霞駐屯地に移駐。1963年2月25日、本館を陸軍予科士官学校本館に移転。1969年4月1日、第101輸送大隊が隷下から外れた。1975年3月26日、第311輸送中隊を隷下に置いた。1993年9月27日、新庁舎に移転した。2009年6月25日、部外カウンセラーを招き、班長以上を対象にメンタルヘルス教育を実施。2011年11月28日、保存されていた一〇〇式鉄道牽引車の修復作業(関東補給処で2009年12月3日から実施)が完了し、修復記念式典が行われた。2019年6月24-27日、海上輸送部隊新編に備え、海自横須賀地方隊の支援で輸送艇研修を実施。基幹要員十数名がLCU-2002輸送艇2号で実艇実習(各部署説明、出港時見張り要領、主機運転時命令下達法、投揚錨要領など)などを行った。参考:輸送学校ホームページ、MAMOR vol.52、vol.117、朝雲、陸海軍学校と教育、月刊JWings8,’12、月刊世界の艦船10,’19
<輸送艦>:将兵や軍需品を陸地や海上船舶などに輸送する船のこと。参考:小艦艇入門
<輸送艦(海上自衛隊)>:海上自衛隊の艦種。主任務は敵侵攻地域またはその近傍への陸自増援部隊輸送(海上作戦輸送)である。海上輸送能力は敵地侵攻能力に直結するため、整備に政治的配慮が必要になる。1971年4月1日、区分・自衛艦−大分類・警備艦−中分類・輸送艦艇の下の種別として、揚陸艦から改称されて定められた。艦種記号はLST、艦番号は4001以降である。1979年4月4日、ゆら型配備に伴い、艦種記号LSUが追加された。こちらの艦番号は4171以降である。参考:月刊世界の艦船12,’12、11,'17増刊
<輸送艦(日本海軍)>:周りが海なので必須の艦種の筈だが、強力な沿岸防衛ラインを構築した敵と出会った試しが無く、昭和3年の軍備制限研究委員会で、揚陸作戦用艦艇につき別に考慮、と記載されたくらいで、太平洋戦争にあたっても哨戒艇を特型運貨船母艦に改造した程度だった。アメリカ軍による反攻が始まると、敵制空権下で使える強行輸送艦が必要になり、昭和18年4月に輸送艦第1号型、続いて6月に輸送艦第101号型・第103号型が要求され、昭和19年2月5日に輸送艦の艦種も制定された。基準排水量1000トン以上の一等輸送艦、1000トン未満の二等輸送艦(9月5日までは特設輸送艦)に分類される。駆逐艦による鼠輸送に替わる敵前上陸や強行輸送を主任務としており、実質的には戦車揚陸艦などにあたるものである。艦長は東京と神戸の商船学校を卒業した予備士官が務めた。参考:小艦艇入門、日本海軍特務艦艇史
<輸送艦第1号>:日本海軍一等輸送艦、第1号輸送艦。昭和19年5月10日竣工。5月29日、館山を出撃してサイパンに向かった。6月11日、サイパンを出撃し、パラオ行きの船団護衛に就いた。6月13日、カロリン諸島北東で爆撃を受けて大破、行動不能となり、明島丸に曳航されて6月18日にパラオに帰投した。7月18日、ガランゴル島北側錨地で海上砲台となった。7月27日、パラオ付近で艦上機の攻撃により直撃弾4発を受けて沈没した。9月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<輸送艦第2号>:日本海軍一等輸送艦、第2号輸送艦。昭和19年6月25日竣工。7月14日、横須賀を出港し、父島・硫黄島船団の護衛に就いた。7月24日、横須賀に帰投。7月29日、横須賀を出港し、父島船団の護衛に就いた。8月2日、硫黄島に向かったが、荒天で揚陸できなかった。8月3日、父島二見港に入港。8月4日、二見港で艦爆50機の攻撃を受けて座礁した。8月5日、荒天で沈没した。10月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇
<輸送艦第3号>:日本海軍一等輸送艦、第3号輸送艦。昭和19年6月29日竣工。フィリピンへの輸送任務を行った。9月14日、ダバオに物資を揚陸した後、ナランガニ海峡を航行中にチチカ岬灯台の東4.5海里で触礁して行動不能となった。9月15日、SS-362グァヴィナの雷撃を受けて魚雷4本が命中、うち2本に燃料タンクを破壊され炎上沈没した。11月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<輸送艦第4号>:日本海軍一等輸送艦、第4号輸送艦。昭和19年6月15日竣工、横須賀に回航された。6月28日、横須賀−父島間の輸送任務を実施。7月7日から硫黄島への輸送任務に就いた。8月4日、硫黄島への輸送任務から帰る途中、父島西方で艦上機40機の攻撃を受けて大破炎上し、父島湾に擱座沈没した。11月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<輸送艦第5号>:日本海軍一等輸送艦、第5号輸送艦。昭和19年8月5日竣工。8月30日、呉を出撃し、輸送のためフィリピンに向かった。9月14日、ダバオを出撃。ダバオの南15海里で艦上機20機の攻撃を受けて左舷後部に爆弾3発が命中、沈没した。11月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<輸送艦第6号>:日本海軍一等輸送艦、第6号輸送艦。昭和19年8月19日竣工。9月12日、呉を出撃し、甲標的と軍需品をマニラまで輸送する任務に就いた。9月24日、マニラ出港時に敵機延べ150機と交戦して損傷した。その後ブルネイに進出し、甲標的などを搭載してセブに寄港。10月8日、マニラに帰投。10月23日、第1次多号作戦のためマニラを出撃。10月26日、マニラに帰投。10月31日、第2次多号作戦のためマニラを出撃。350名を揚陸して11月2日にマニラに帰投した。11月8日、第4次多号作戦に参加。その後新南群島から人員を輸送した。11月24日、第5次多号作戦に参加。11月25日、第5次多号作戦中にフィリピンのマリンドウクェ島パナラカン湾で艦上機延べ50機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第7号>:日本海軍一等輸送艦、第7号輸送艦。昭和19年8月15日(10日?)竣工。8月30日、横須賀を出撃して硫黄島に輸送を行った。9月13日から横須賀−八丈島間の輸送任務を実施。9月21日から横須賀−父島間の輸送任務を実施。12月22日、横須賀を出撃して父島・硫黄島への輸送任務に就いた。12月27日、硫黄島で荷役中に巡洋艦3隻、駆逐艦4隻の砲撃を受けて沈没した。昭和20年3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第8号>:日本海軍一等輸送艦、第8号輸送艦。昭和19年9月13日竣工。9月20日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務を行った。11月28日、横須賀を出撃し、父島・硫黄島方面への輸送任務に就いた。12月24日、輸送艦157号と共に硫黄島への輸送任務を終えて帰投中、父島の南南東(南南西?)72海里でDD-418ローとDD-370ケースの砲撃を受けて沈没した。昭和20年2月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第9号>:日本海軍一等輸送艦、第9号輸送艦。昭和19年9月20日竣工。訓練の後佐世保を出港し、レイテ島オルモックへの輸送任務に就いた。10月、特殊潜航艇2隻を呉からセブ島に輸送した。10月24日から第2・第4・第5次多号作戦に参加。12月1日、第7次多号作戦に参加し、イビルに陸軍部隊を輸送するためマニラを出港。11月25日、レイテ輸送作戦中にフィリピンのパナラカン湾で艦上機の攻撃を受けて損傷した。12月4日、駆逐艦3隻、魚雷艇4隻と交戦。12月9日、第9次多号作戦に参加したが、オルモックにアメリカ軍が上陸していたため、セブに揚陸した。その後、マニラ−サンフェルナンド間の輸送を2回行った。昭和20年1月16日、佐世保に帰投。呉で整備を受け、2月21日に横須賀に到着。横須賀−八丈島−父島間の輸送任務に就いた。6月5日、父島北方で爆撃を受けて損傷した。7月18日、静岡県初島の東4海里でアメリカ艦上機の攻撃を受けて損傷した。8月12日、横須賀を出港し、佐伯に海龍を輸送。8月15日、佐伯を経て呉に入港したところで終戦となり、9月15日に除籍された。戦後は特別輸送艦となり、復員輸送に従事。昭和22年、賠償艦としてアメリカに引き渡された。その後太洋捕鯨に貸与され、捕鯨母船に改造された。昭和23年6月から石川島重工で解体された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船4,’21
<輸送艦第10号>:日本海軍一等輸送艦、第10号輸送艦。昭和19年9月25日竣工。10月15日、佐世保を出港、特殊潜航艇2隻をセブ島に輸送した。10月21日、マニラに到着。10月23日、マニラを出撃してカガヤンから陸軍部隊をオルモックに輸送。鬼怒と浦波の乗員を救助し、10月27日にマニラに入港した。10月31日、マニラを出撃して第2次多号作戦を実施。11月8日、マニラを出撃して第4次多号作戦に参加、陸軍部隊480名を揚陸した。11月12日、マニラに帰投。11月13日夜、マニラを出港して新南群島で伊勢と日向の便乗者を乗せ、マニラに帰港した。11月24日、第5次多号作戦に参加。11月25日、第5次多号作戦中にフィリピンのマリンドウクェ島パナラカン湾で仮泊していたところ、艦上機40機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第11号>:日本海軍一等輸送艦、第11号輸送艦。昭和19年11月5日竣工。11月19日、呉を出撃してマニラに輸送を行った。昭和19年12月5日、第8次多号作戦のためマニラを出港。12月7日、第8次多号作戦に従事中、レイテ島北西オルモック湾サンイシドロで揚陸作業をほぼ終えようとしていたところ、アメリカ軍機の爆撃を受けて大破擱座した。昭和22年5月3日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第12号>:日本海軍一等輸送艦、第12号輸送艦。昭和19年11月11日竣工。11月23日、呉を出撃してマニラに輸送を行った。12月12日、フィリピンから内地に向かう途中、レイテ島付近で水上艦と交戦して大破した。12月13日、高雄の南東200海里(ルソン島北西)でSS-387ピンタードの雷撃により沈没した。昭和20年2月10日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第13号>:日本海軍一等輸送艦、第13号輸送艦。昭和19年11月1日竣工。11月13日から横須賀−八丈島の輸送を実施。8月20日から父島、硫黄島への輸送を実施。昭和20年2月5日、横須賀を出撃して硫黄島に向かった。2月11日、小笠原諸島付近でB-25の爆撃により中破した。3月、横須賀で修理され、八丈島への輸送任務に就いた。5月5日、佐世保鎮守府部隊に転属となった。6月3日、佐世保に回航して整備を実施。7月10日、対馬へ輸送を行ったが、擱座して損傷した。7月16日から佐世保で修理を受け、そのまま終戦となり、11月20日に除籍された。戦後は特別輸送艦となり、艦橋前方と煙突後方に引き揚げ者収容施設を設けて復員輸送に従事した。昭和22年8月8日、賠償艦としてソ連に引き渡された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第14号>:日本海軍一等輸送艦、第14号輸送艦。昭和19年12月18日竣工。昭和20年1月6日、呉を出港してマニラへの輸送任務に就いた。1月14日、高雄に到着。特殊潜航艇2隻を降ろした。1月15日、高雄港外でアメリカ第38機動部隊艦上機18機の空襲を受け、積んでいた爆弾が誘爆して沈没した。3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第15号>:日本海軍一等輸送艦、第15号輸送艦。昭和19年12月20日竣工。昭和20年1月13日、呉を出港して基隆に向かった。1月17日、奄美大島北方でSS-199トートグの雷撃を受けて沈没した。3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第16号>:日本海軍一等輸送艦、第16号輸送艦。昭和19年12月12月31日竣工。昭和20年1月19日から横須賀−八丈島の輸送を実施。1月27日から硫黄島への輸送任務を実施。2月16日、硫黄島輸送の帰途に硫黄島南方で艦上機80機と交戦、爆撃により大破(小破?)した。2月20日から3月20日まで横須賀で修理。その後は八丈島への輸送任務を行った。5月16日、館山湾でアメリカ艦上機の攻撃を受けて航行不能になった。6月10日(17日?)、伊豆大島の南(東?)15海里で空襲を受けて小破した。6月20日から横須賀で修理に入り、そのまま終戦を迎え、9月15日に除籍された。戦後に修理を受けて特別輸送艦となり、復員輸送に従事した。昭和22年8月29日、賠償艦として国府海軍に引き渡された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第17号>:日本海軍一等輸送艦,第17号輸送艦。昭和20年2月8日竣工。3月16日から27日まで沖縄への輸送任務を実施。3月31日、蛟竜2隻を搭載して輸送艦145号・146号と共に佐世保を出港し、奄美大島に向かった。4月2日、奄美大島への揚陸を終えたが、瀬相湾内でアメリカ第38機動部隊艦上機60機の攻撃を受けて沈没した。5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第18号>:日本海軍一等輸送艦、第18号輸送艦。昭和20年2月12日竣工。訓練の後、白竜隊用の回天8基を搭載して山口県光基地を出撃し、3月10日に佐世保に入港した。3月16日、佐世保を出撃し、沖縄の慶良間諸島に向かったが、3月18日、沖縄県那覇の南西でSS-414スプリンガーの雷撃を受けて沈没した。5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第19号>:日本海軍一等輸送艦、第19号輸送艦。昭和20年4月9日、広島県大黒神島付近で触雷して損傷した。5月16日竣工。7月24日、呉で被弾損傷した。呉で終戦を迎え、10月5日に除籍された。昭和20年12月、後甲板の傾斜がクジラの水揚げに最適であることに目を付けた大洋漁業が借り受けて捕鯨母船に改造し、小笠原近海で昭和21年3月まで捕鯨を行い、日本人に貴重な蛋白源を供給した。昭和22年11月、イギリスに賠償艦として引き渡されたが、そのまま売却されて解体されることになり、神奈川県の浦賀ドックで解体された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第20号>:日本海軍一等輸送艦、第20号輸送艦。昭和20年4月23日竣工。その後は回天の輸送に従事し、5月25日に横須賀に入港。5月29日から八丈島に回天を輸送する任務に就いた。6月15日、横須賀に帰投して整備を実施。その後は海竜を呉に輸送した。8月5日、山口県小祝島付近で触雷して損傷した。呉に回航されて終戦を迎え、10月5日に除籍された。昭和21年9月20日(25日?)、膨湖島で座礁。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第21号>:日本海軍一等輸送艦、第21号輸送艦。昭和20年7月15日竣工。8月8日まで呉で訓練を行った。8月9日、輸送任務のため呉を出港したが、愛媛県神和村海岸で爆撃を受けて座礁。8月10日、愛媛県神和村海岸で艦上機の爆撃を受けて沈没した。9月15日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第22号>:日本海軍一等輸送艦、第22号輸送艦。昭和20年6月23日、工程が80%まで進んだところで建造中止になった。戦後に特別輸送艦となる予定もあったが、結局そのままとなり、昭和23年2-6月に播磨造船呉ドックで解体された。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第101号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第101号輸送艦。第101号特設輸送艦として昭和19年3月8日竣工。5月20日、呉を出港し、6月13日にアンボンに入り、輸送物資を降ろした。6月30日からアンボン−マニラ間の輸送を実施。7月15日からスラバヤ−マニラ間の輸送を実施。8月24日、マニラ−スラバヤ間の輸送を実施。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第101号輸送艦と改称された。10月3日からスラバヤ−マニラ間の輸送を実施。10月24日、カガヤンからオルモックに陸軍部隊を輸送。10月26日、タグビラランからオルモックに陸軍部隊を輸送。10月28日、レイテ島オルモック海岸で揚陸中に艦上機30機の攻撃を受けて沈没した。12月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第102号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第102号輸送艦。第102号特設輸送艦として昭和19年3月15日竣工。以降は輸送艦101号と同様の行動を取り、7月9日、スラバヤに到着した。7月24日からスラバヤ−チモール間の輸送任務を実施。8月17日からバリクパパン経由でマニラに輸送を行った。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第102号輸送艦と改称された。9月24日、コロン湾で小破し、マニラで修理を行った。10月5日、レイテ南岸に座礁した。10月24日、オルモックに陸軍部隊を輸送するためカガヤンを出撃。10月26日、オルモックに揚陸した後、ネグロス島西方ギマラス海峡で艦上機の攻撃を受けて沈没した。12月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第103号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第103号輸送艦。第103号特設輸送艦として昭和19年4月30日(5月1日?)竣工、横須賀に回航された。6月15日、横須賀を出撃して輸送任務のため硫黄島に向かった。7月4日、父島の北西80海里で艦上機の攻撃を受けて沈没した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第103号輸送艦に改称された。9月15日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第104号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第104号輸送艦。第104号特設輸送艦として昭和19年5月25日竣工。6月24日、呉から横須賀に回航された。6月26日から横須賀を出港して硫黄島や父島に輸送任務を行った。7月4日、父島で艦上機と交戦し、小破。7月18日から10月22日まで、横須賀−硫黄島−父島の輸送任務に就いた。9月2日、父島二見港で爆撃を受けて大破した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第104号輸送艦に改称された。9月16日、父島二見港内で座礁した。11月25日、輸送任務のため呉からマニラに向け出撃。マニラからの帰途の12月15日、ルソン島サンフェルナンド沖で大型機30機の爆撃を受けて沈没した。昭和20年2月20日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第105号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第105号輸送艦。第105号特設輸送艦として昭和19年6月15日竣工。6月23日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務を実施。9月1日、父島二見港で艦砲射撃(爆撃?)を受けて小破した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第105号輸送艦に改称された。10月11日、静岡県南方でSS-412トレパンの雷撃により沈没した。12月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第106号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第106号輸送艦。第106号特設輸送艦として昭和19年6月30日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第106号輸送艦に改称された。9月10日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務に就いた。10月9日、父島付近で荒天により大破した。横須賀で修理を行い、11月16日に横須賀を出撃。呉、佐世保、高雄経由でマニラに向かった。12月15日、ルソン島カイマン岬沖で艦上機30機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年2月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第107号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第107号輸送艦。第107号特設輸送艦として昭和19年7月20日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第107号輸送艦に改称された。10月23日から横須賀−父島−硫黄島の輸送を実施。昭和20年1月5日、母島西岸でアメリカ艦隊の艦砲射撃を受けて沈没した。3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第108号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第108号輸送艦。第108号特設輸送艦として昭和19年7月31日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第108号輸送艦に改称された。9月10日から横須賀−父島−硫黄島の輸送を実施。11月16日、横須賀を出港し、佐世保経由でマニラに進出。昭和20年1月9日、香港に入港。1月16日、香港でアメリカ機動部隊の攻撃を受けて中破した。終戦時は香港におり、イギリスに接収された。昭和22年5月3日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<輸送艦第110号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第110号輸送艦。第110号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日竣工、二等輸送艦に類別変更され、第110号輸送艦に改称された。9月22日、横須賀に回航された。10月2日から硫黄島への輸送を実施。11月、父島−硫黄島の輸送任務に就いた。12月1日から横須賀−硫黄島の輸送を行い、12月9日から横須賀で修理を行った。昭和20年5月31日、大島付近で敵機の攻撃を受けて中破した。7月18日、横須賀でアメリカ艦載機の爆撃を受けて損傷した。修理中に終戦を迎え、終戦後は引き揚げ輸送を実施。昭和20年9月15日に除籍された。昭和22年4月、賠償艦としてイギリスに引き渡された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第111号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第111号輸送艦。第111号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第111号輸送艦に改称された。昭和19年9月15日竣工、佐世保に回航された。10月21日、佐世保を出港。高雄を経てマニラに向かった。11月3日、ルソン島北方でアメリカ潜水艦の攻撃を受けて小破した。11月7日、マニラに進出。11月20日からレイテ輸送を実施。11月24日、フィリピンのマスバテ島カタインガン湾で敵機30機から爆撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第112号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第112号輸送艦。第112号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第112号輸送艦に改称された。昭和19年9月30日(10月5日?)竣工、佐世保に回航された。10月27日から佐世保−高雄の輸送任務を行った。11月3日、高雄を出港してマニラに向かった。11月5日、ルソン島西岸ボンドジール岬で座礁。離礁作業中の昭和20年1月7日、敵機の攻撃を受けて沈没した。1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第113号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第113号輸送艦。第113号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第113号輸送艦に改称された。昭和19年10月15日竣工、佐世保に回航された。11月14日、佐世保を出撃し、基隆・高雄経由でマニラに向かった。11月23日、高雄を出港。11月25日、マニラへの輸送任務中にルソン島サンタクルーズの南でアメリカ第38機動部隊艦上機100機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第114号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第114号輸送艦。第114号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第114号輸送艦に改称された。昭和19年10月30日竣工、佐世保に回航された。12月7日、佐世保を出港。12月30日、高雄に到着。昭和20年1月21日、高雄港内でアメリカ機動部隊の攻撃を受けて小破した。2月17日、上海への輸送途中に台湾沖で爆撃を受けて沈没した。4月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第115号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第115号輸送艦。第115号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第115号輸送艦に改称された。昭和19年11月13日竣工、呉に回航された。11月23日、呉を出港。12月27日、高雄に入港。昭和20年1月1日、ルソン島の残留搭乗員を救出する挺身輸送に投入された。2月1日、ルソン島北方のカミイグ島付近で爆撃を受け、航行不能となり擱座した。2月2日に戦没し、9月15日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第127号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第127号輸送艦。第127号特設輸送艦として昭和19年2月24日(28日?)竣工。3月24日、横須賀を出撃してグアムに向かった。3月28日、伊豆諸島付近で波浪を受けて門扉が外れ、朝風に曳航されて横須賀に戻り、修理を受けた。4月26日、横須賀を出撃してサイパンに向かった。5月6日、サイパンに入港。以降はヤップ−トラック−グアム−パラオ−ダバオの輸送を行った。6月2日、渾作戦に参加、ダバオに進出。7月3日、ダバオに帰投。7月25日、ダバオからフィリピン南部への輸送任務に就いた。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第127号輸送艦と改称された。9月17日、マニラを出港し、レガスピー−ブーランの輸送任務に就いた。9月24日(25日?)、ブーランで艦上機の攻撃を受けて沈没した。11月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第128号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第128号輸送艦。第128号特設輸送艦として昭和19年3月18日竣工。3月25日、佐世保を出港して輸送任務を実施。4月28日、横須賀を出港し、サイパン経由でパラオに向かった。5月13日、パラオで触雷して小破した。6月4日、パラオ南西で爆撃により沈没した。8月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第129号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第129号輸送艦。第129号特設輸送艦として昭和19年5月12日竣工。5月31日に呉を出撃し、南方各地で輸送任務に就いた。8月14日、バンダ海でSS-224コッドの雷撃により沈没した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第129号輸送艦に改称された。10月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第130号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第130号輸送艦。第130号特設輸送艦として昭和19年6月3日竣工、佐世保から横須賀に回航された。6月25日、横須賀を出撃。6月27日、硫黄島に到着し、揚陸作業を行った。出港しようとしたところ、スクリューに輸送艦103号の後部錨鎖がからまっており、除去作業にあたっていたが、7月4日に艦上機延べ300機の爆撃と機動部隊の艦砲射撃を受けて沈没した。9月5日、二等輸送艦に類別変更されて第130号輸送艦と改称され、除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第131号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第131号輸送艦。第131号特設輸送艦として昭和19年6月24日竣工。7月3日、佐世保を出撃し、マニラへの輸送任務に就いた。その後はメナド、バリクパパン、ホロ、タラカンなどへの輸送任務を実施、9月5日に二等輸送艦に類別変更されて第131号輸送艦と改称され、10月26日にマニラに帰投した。10月28日からオルモック輸送作戦に参加。10月31日、パナイ島北東でB-24の爆撃を受けて中破(大破?)し、輸送艦9号に曳航されてマニラに帰投、修理を受けた。昭和20年1月9日、サイゴンに到着。1月12日、ベトナムのサイゴン付近でアメリカ第38機動部隊の空襲により損傷した。修理を受けたが、上陸作戦は行えない状況だったため、2月10日に雑役船に編入されて交通船黒潮一号と改称され、後方任務に回された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第132号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第132号輸送艦。第132号特設輸送艦として昭和19年7月10日(6月28日?)竣工。7月21日、佐世保を出撃して奄美大島への輸送任務を実施。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第132号輸送艦に改称された。9月6日、横須賀に回航され、硫黄島や父島への輸送任務を行った。12月27日、硫黄島付近で空襲と水上艦の砲撃を受けて沈没した。昭和20年3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第133号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第133号輸送艦。第133号特設輸送艦として昭和19年7月4日竣工。7月23日、横須賀に到着。機銃を増設し、貨物を搭載して7月29日に横須賀を出港。8月2日、硫黄島に到着したが、荒天で揚陸できなかった。8月4日、硫黄島付近で艦上機の攻撃と荒天で沈没した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第133号輸送艦に改称された。10月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第134号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第134号輸送艦。第134号特設輸送艦として昭和19年7月15日竣工。8月11日、横須賀に回航された。8月15日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務を実施。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第134号輸送艦に改称された。10月4日、硫黄島南村海岸で荒天により擱座した。11月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第135号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第135号輸送艦。第135号特設輸送艦として昭和19年7月25日竣工。8月10日から沖縄への輸送作戦を実施。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第135号輸送艦に改称された。9月23日、マニラ向けの陸戦隊と特二式内火艇を搭載して呉を出港、高雄に向かった。10月6日、高雄を出撃してマニラに向かった。10月18日、ルソン島ラボック湾で仮泊中にアメリカ第38機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第136号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第136号輸送艦。第136号特設輸送艦として昭和19年8月20日竣工。8月30日から奄美大島への輸送任務を実施。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第136号輸送艦に改称された。9月23日、輸送艦135号と同行動で呉を出撃。10月18日、特二式内火艇をQ基地からマニラに運ぶ途中、ルソン島ラボック湾でアメリカ第38機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第137号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第137号輸送艦。第137号特設輸送艦として昭和19年8月30日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第137号輸送艦に改称された。9月23日、横須賀に到着。10月2日から横須賀−八丈島−硫黄島の輸送任務を実施。昭和20年3月18日、八丈島付近で爆撃を受けて損傷し、横須賀で修理を受けた。5月18日、三重県大王崎の北西12海里で爆撃を受けて小破した。7月末まで佐世保で修理を行った後、韓国への輸送任務を実施、終戦時は佐世保におり、昭和20年10月5日に除籍された。戦後は兵装を撤去して居住区を仮設、特別輸送艦として引き揚げ輸送に従事し、上海、南西諸島、コロ島などに派遣された。その後ソ連に引き渡された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第138号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第138号輸送艦。第138号特設輸送艦として昭和19年9月4日竣工、横須賀に回航された。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第138号輸送艦に改称された。10月25日、横須賀を出撃して硫黄島に向かった。10月26日、硫黄島付近でSS-234キングフィッシュの雷撃により沈没した。12月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第139号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第139号輸送艦。第139号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第139号輸送艦に改称された。9月25日竣工。10月5日、佐世保を出撃して高雄に向かった。11月2日、高雄を出港してマニラに向かった。11月6日からルソン島西岸シランギン湾に退避していたが、11月12日、ルソン島バターン半島北西のシランギン湾で、艦上機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第140号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第140号輸送艦。第140号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第140号輸送艦に改称された。10月10日竣工。10月22日、佐世保を出撃し、高雄経由でマニラに向かった。11月5-6日、ルソン島西岸で敵機と交戦。12月1日、第7次多号作戦に参加。12月11日、第9次多号作戦に参加。12月12日、オルモック湾で揚陸作業中に巡洋艦(魚雷艇?)と交戦して小破し、マニラで修理した。昭和20年1月6日、マニラを出撃。1月9日、サイゴンに入港。1月12日、サイゴンで敵機延べ100機と交戦して直撃弾3発を受け、沈没した。3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船4,’21
<輸送艦第141号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第141号輸送艦。第141号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第141号輸送艦に改称された。10月19日竣工。10月21日、佐世保を出港し、高雄経由でマニラに向かった。11月7日、マニラに到着。11月20日から第5次多号作戦に参加。11月24日、フィリピンのマスバテ島カタインガン湾で爆撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第142号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第142号輸送艦。第142号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第142号輸送艦に改称された。11月2日竣工。11月14日、佐世保を出撃し、高雄経由でマニラに向かった。11月22日、高雄を出港。11月25日、ルソン島サンタクルーズの南でアメリカ第38機動部隊艦上機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第143号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第143号輸送艦。第143号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第143号輸送艦に改称された。11月25日竣工。12月7日、佐世保を出撃してマニラに向かった。昭和20年1月21日、高雄港内でアメリカ機動部隊の攻撃を受けて小破し、左営で修理を受けた。2月7日、左営を出撃して基隆に向かった。2月8日、台湾澎湖島南東で座礁して喪失認定された。離礁作業を続けたが、3月22日にB-25爆撃機6機と交戦し、1機が艦上に突入したため炎上大破した。5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第144号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第144号輸送艦。第144号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第144号輸送艦に改称された。12月1日竣工。12月24日、佐世保を出撃し、那覇経由で基隆に向かった。昭和20年2月15日、基隆から上海に回航され、付近への輸送任務に就いた。終戦時は上海におり、昭和20年10月5日に除籍されて解体された。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第145号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第145号輸送艦。第145号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第145号輸送艦に改称された。昭和20年1月25日竣工。3月18日、佐世保に回航された。3月末、トラックや弾薬を搭載し、輸送艦17号・146号と共に佐世保を出港して奄美大島に向かった。4月1日、奄美大島に進出。4月4日、奄美大島で座礁して大破し、そのまま終戦となった。9月3日に自沈し、9月15日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第146号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第146号輸送艦。第146号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第146号輸送艦に改称された。昭和20年1月25日竣工。昭和20年3月末、トラックや弾薬を搭載し、輸送艦17号・145号と共に佐世保を出港して奄美大島に向かった。4月1日、奄美大島に到着。4月5日から佐世保−奄美大島の輸送を実施。4月28日、長崎県五島福江崎笠岬沖でSS-412トレパンの雷撃を受け沈没した。5月25日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第147号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第147号輸送艦。第147号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第147号輸送艦に改称された。昭和20年1月25日竣工。当初は陸軍で使用される予定だったが、竣工と同時に海軍に返還されている。3月4日、横須賀に到着。3月29日から横須賀−八丈島の輸送を実施。5月25日、浦賀水道でP-51戦闘機5機と交戦して中破。7月5日、八丈島付近で爆撃を受けて損傷した。9月15日に除籍され、戦後は引き揚げ輸送に使用された。昭和22年11月に賠償艦としてアメリカに引き渡され、その後売却されて昭和23年2-3月に日立因島で解体された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第149号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第149号輸送艦。昭和18年11月起工、昭和18年12月進水、昭和19年2月20日竣工、第149号特設輸送艦と命名された。3月15日、呉を出港してサイパンに向かった。5月1日、サイパンからパラオに向かった。その後は西部ニューギニアへの輸送任務を行い、6月10日にアンボンに到着。7月12日、ハルマヘラ経由でパラオに到着した。8月2日、アンボンに到着して輸送任務を行った。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第149号輸送艦と改称された。10月1日、スラバヤに到着し、修理に入った。11月、スラバヤを出港。11月30日、マニラに到着。12月3日、マニラを出港。12月22日、シンガポールに到着。昭和20年1月8日、サンジャックに回航されて輸送任務に就いた。1月12日、仏印サンジャック沖でアメリカ第38機動部隊の空襲を受けて擱座大破し、喪失認定された。離礁に成功して修理を受けたが、上陸作戦は行えない状況だったため、雑役船に編入されて交通船黒潮二号と改称され、後方任務に回された。6月12日、スマトラ島北西のサバン島北方でイギリス艦艇の攻撃を受けて大破した。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第150号>:日本海軍二等輸送艦第101号型、第150号輸送艦。昭和19年3月10日竣工、第150号特設輸送艦と命名され、横須賀に回航された。4月28日、戦車を搭載して木更津を出港、サイパンへの輸送任務に就いた。5月18日(13日?)、パラオで触雷して小破した。7月2日、パラオで触雷して小破し、パラオで修理した。7月27日、パラオ付近で艦上機の攻撃を受けて沈没した。9月5日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第151号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第151号輸送艦。第151号特設輸送艦として昭和19年4月23日竣工、横須賀に回航された。4月30日、横須賀から南方各地への輸送任務に就いた。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第151号輸送艦に改称された。10月、フィリピン方面での輸送任務を実施。11月23日、パラワン島の北でSS-321ベゴスの雷撃を受けて沈没した。昭和20年3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第152号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第152号輸送艦。第152号特設輸送艦として昭和19年5月25日竣工、呉に回航された。6月21日、横須賀に回航され、機銃増設工事を受けた。6月28日、横須賀を出撃して硫黄島への輸送任務を実施。7月7日、横須賀に帰投。7月16日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務に就いた。8月2日、父島と硫黄島の間で荒天により擱座した。8月4日、硫黄島で艦上機の攻撃を受け、直撃弾2発と至近弾数十発を被弾して沈没した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第152号輸送艦に改称された。10月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第153号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第153号輸送艦。第153号特設輸送艦として昭和19年6月15日竣工。6月28日から横須賀−父島−硫黄島の輸送任務に就いた。7月4日、小笠原諸島兄島付近で艦上機の攻撃を受けて小破した。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第153号輸送艦に改称された。9月13日、硫黄島付近で艦上機の攻撃を受けて小破した。9月19日、父島二見港で爆撃を受けて損傷し、修理に入った。11月8日、修理を終えて硫黄島への輸送任務に就いた。昭和20年1-2月は修理を行い、3月7日から横須賀−八丈島の輸送任務を実施。その後は呉に回航され、8月11日、広島県カナワ岩燈台付近で触雷して航行不能となり、終戦を迎えた。11月30日に除籍され、昭和23年に解体された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第154号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第154号輸送艦。第154号特設輸送艦として昭和19年7月5日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第154号輸送艦に改称された。9月30日から横須賀−八丈島の輸送任務を実施。10月10日から横浜で整備に入った。11月1日から横須賀−父島−硫黄島の輸送を実施。昭和20年1月5日、硫黄島付近でB-24爆撃機数十機の攻撃を受け、更にアメリカ巡洋艦3隻と駆逐艦4隻の艦砲射撃を受けて沈没した。3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第157号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第157号輸送艦。第157号特設輸送艦として昭和19年8月19日竣工、横須賀に回航された。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第157号輸送艦に改称された。9月16日、硫黄島への輸送任務に就いた。10月14日から横須賀−父島−硫黄島の輸送を実施。12月19日、横須賀を出港して硫黄島に向かった。12月24日、輸送艦8号と共に硫黄島への輸送任務を終えて帰投中、硫黄島付近で駆逐艦ローとケースの砲撃を受けて沈没した。昭和20年3月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第158号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第158号輸送艦。第158号特設輸送艦として昭和19年9月4日竣工。9月5日、二等輸送艦に類別変更され、第158号輸送艦に改称された。9月18日、佐世保に回航された。10月1日、佐世保を出撃。10月4日、那覇に到着。10月10日、沖縄那覇港外で艦上機の攻撃を受けて沈没した。12月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第159号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第159号輸送艦。第159号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第159号輸送艦に改称された。9月16日竣工。鹿児島に回航され、10月12日に第2航空艦隊の物資を搭載して鹿児島を出撃。途中、那覇で迅鯨の遭難者を救助した。11月10日、高雄に入港。11月24日、マニラに入港して物資を降ろした。12月1日、第7次多号作戦に参加。12月9日から第9次多号作戦に参加。12月11日(12日?)、オルモックで揚陸中にアメリカ艦艇(アメリカ陸軍第7師団の57mm対戦車砲?)の砲撃を受けて沈没した。昭和20年2月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船4,’21
<輸送艦第160号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第160号輸送艦。第160号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第160号輸送艦に改称された。年9月30日竣工。10月21日、第2航空艦隊の物資を搭載して佐世保を出撃。11月7日、マニラに到着して物資を降ろした。11月19日から第5次多号作戦に参加。11月24日、フィリピンのマスバテ島カタインガン湾に退避していたところ、敵機30機の爆撃を受けて沈没した。昭和20年5月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第161号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第161号輸送艦。第161号特設輸送艦として建造され、昭和19年9月5日に二等輸送艦に類別変更され、第161号輸送艦に改称された。10月14日竣工、佐世保に回航された。11月14日、佐世保を出撃し、高雄経由でマニラに向かう予定とした。11月22日、高雄を出港。11月25日、ルソン島サンタクルーズの南で艦上機の攻撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第163号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第163号輸送艦。後に陸軍に引き渡されて機動第102号艇となった。終戦時は門司にあったが、直後に台風で白野江海岸に擱座した。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第164号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第164号輸送艦。昭和20年4月11日に起工されたが、建造中止となった。参考:日本海軍特務艦船史
<輸送艦第165号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第165号輸送艦。昭和20年4月28日に起工されたが、建造中止となった。参考:日本海軍特務艦船史
<輸送艦第172号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第172号輸送艦。昭和20年3月10日竣工。佐世保に回航され、4月11日に佐世保を出撃。4月19日、横須賀に入港。5月10日、横須賀を出撃。5月12日、天竜川河口でB-24爆撃機2機と交戦し、10カ所に被弾した。5月30日、佐世保に回航され、修理された。7月27日から佐世保−鎮海の輸送任務を実施。終戦時は佐世保にいた。9月15日に除籍され、戦後は特別輸送艦として引き揚げ輸送に従事。昭和21年12月、特別保管艦になって佐世保に繋留された。昭和22年10月3日、賠償艦としてに中国に引き渡され、廬山となった。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第173号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第173号輸送艦。昭和20年4月1日竣工。4月7日、佐世保を出撃して奄美大島への輸送任務を実施。4月24日、佐世保港で事故を起こして小破した。5月21日、佐世保を出港して奄美大島に向かった。5月22日、奄美諸島北方で艦上機の攻撃を受けて沈没した。8月10日に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第174号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第174号輸送艦。昭和20年7月14日竣工。佐世保に回航され、訓練を実施、そのまま終戦を迎えた。11月20日に除籍され、昭和23年に解隊された。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第175号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第175号輸送艦。昭和20年4月11日進水。未完のまま終戦となった。9月15日、台風のため長崎浦崎沖で浸水着底した。昭和23年9月15日に引き揚げられ、解体された。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史
<輸送艦第176号>:日本海軍二等輸送艦第103号型、第176号輸送艦。昭和20年7月25日進水。未完のまま終戦を迎えた。参考:日本海軍特務艦船史
<輸送艦艇(海上自衛隊)>:海上自衛隊の艦種。区分・自衛艦−大分類・警備艦の下の中分類として、1971年4月1日に輸送艦艇から改称されて定められた。輸送艦と輸送艇の種別からなる。1974年9月30日、輸送艇の種別が廃止された。1986年4月5日、輸送艇の種別を再設した。2004年4月8日、エアクッション艇の種別を設けた。参考:月刊世界の艦船11,'17増刊
<輸送機>:Transport aircraft。戦域や前線に軍需物資や部隊を輸送する航空機で、鉄道や車両、船舶よりも輸送スピードが圧倒的に速いという特徴があり、単体の搭載量は少ないが、短期間で何度も輸送できるので、輸送力(搭載量×速度)は高い。また、離着陸する場所だけ整備すれば良いので、道路や線路を引くような手間が要らず、水路により輸送経路が制限されるといったことも無い。大陸間輸送や戦域への輸送を担う輸送機を戦略輸送機・戦域間輸送機、戦域から前線に輸送したり、前線に空挺・空中投下を行ったりする輸送機を戦術輸送機・戦域内輸送機という。前線飛行場への輸送の際にはコンバット・オフロードやLAPESといった特殊な貨物卸下法を取ることもある。一般に戦略輸送では大量の物資を長距離輸送し、戦術輸送では小分けにして短距離から中距離の輸送を行うが、だからといって戦術輸送機は戦略輸送機より小型でペイロードが小さくても良いということは無く、前線に戦車を運びたければ戦車が積める貨物室容積とペイロードを持たせる必要がある。輸送機自体は高速だが、輸送の優先順位付けや、積み下ろしに余計な時間が掛かると意味が無いので、高い輸送力を持たせるには輸送機の性能だけでなくターミナル業務や輸送管理も重要である。輸送機部隊を運用するのは空軍だが、運ぶものは全軍に渉るので、能率などを考慮して統合使用されることが多い。空挺作戦などでは編隊を組んで集中運用するが、通常は単機で飛ばし、専用コリドーで連続定期運航して効率化を図っている。戦時中の輸送では、何割か損害が出たり、部隊の一部が到着したところで戦闘が始まったりすることを考慮し、取り敢えず到着した部隊でも任務がこなせるよう考えて積まなければならない。第2次大戦時には旅客機などを改造した低翼機を使用し、側面の小さなドアから空挺投下を行っていた。戦後は強襲グライダーなどの戦訓を取り入れ、胴体尾部に特別な地上支援機材無しに貨物をそのまま出し入れできる貨物扉(ランプドア)を持ち、貨物室底面を低くできてエンジンが滑走路に接触しにくく不整地着陸にも強い高翼の主翼と、貨物室容積を圧迫せず不整地にも着陸できる頑丈なバルジ式の車輪収容部をアレンジする、という基本デザインをとるようになった。主脚は垂直に上下させるようにし、脚上げで胴体着陸を強行した後に脚を下げて滑走離陸するという強行着陸・再離陸を行えるようにしてある。当初は胴体尾部に大きい開口部を設けると、その上に尾翼を設置するだけの強度を確保するのが難しく、胴体と尾翼装着部を分離したツインテールブームの双尾翼機が多かったが、C-123(元を辿ればXCG-20強襲グライダー)あたりから単尾翼になった。近年では輸送機の任務も多用途化しており、戦略・戦術輸送の両方に使えるC-17A/A-400/C-2のような輸送機が登場した。軽輸送機は改造を受けてコマンドー部隊侵攻支援、COIN任務、監視哨戒などに使用されることも多い。平時や安全な後方で使用する輸送機は、民間機ベースにしたりする。参考:空軍、現代の空挺作戦、月刊軍事研究7,’99、飛行機のしくみ、戦闘機のしくみ、グラフィックアクション29、月刊JWings10,’09別冊付録、8,’12、3,’15、8,’19、6,’20、世界の軍用機1982、月刊航空ファン6,’17
<輸送機生存性即時増大装置>:MC-SATINを参照。
<輸送機用等飛行解析プログラム>:自衛隊の機器。JALエアロ・コンサルティング製。参考:月刊軍事研究5,’13
<輸送機用フルパレット>:自衛隊の機器。堀口エンジニアリング製。参考:月刊軍事研究1,’17
<輸送群>:アメリカ陸軍兵站組織の一翼を担う組織。COSCOMに1個が配備されている。輸送大隊3個、貨物移送中隊2個、鉄道輸送大隊1個からなる。参考:月刊軍事研究8,’03
<輸送航空軍向け将来型航空機複合体>:PAK TA(輸送機)を参照。
<輸送航空隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の輸送機部隊。1955年6月6日、C-46D輸送機装備の臨時美保派遣隊として美保基地で編成された。1958年10月1日、輸送航空隊に改編されて美保基地で正式発足し、輸送航空団の隷下に入った。C-46D輸送機を装備する。1968年10月1日、第401飛行隊に改称された。参考:月刊JWings1,'22、10,’19
<輸送航空隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の水陸両用作戦用輸送機・輸送ヘリ部隊。水陸機動団を輸送するのが主任務である。2020年3月26日、第1ヘリコプター団隷下に新編された。隷下にV-22輸送機運用第107・第108飛行隊とCH-47JA輸送ヘリ運用第109飛行隊を置く。当然ながら相浦駐屯地の水陸機動団に近い方が運用に便利なため、CH-47JA輸送ヘリ運用第109飛行隊は高遊原分屯地で新編されたが、V-22の方は佐賀での駐屯地建設交渉が纏まっておらず、第107・第108飛行隊は暫定配備先の木更津駐屯地で新編され、輸送航空隊も木更津駐屯地に置かれている。4月5日、木更津駐屯地で隊旗授与式が行われ、防衛大臣政務官から初代隊長に隊旗が授与された。7月10日、1機目のV-22輸送機(91705/JG-1705)が岩国航空基地から木更津駐屯地に到着し、部隊配備された。7月16日、2機目のV-22輸送機(JG-1701)が配備された。11月3日、木更津駐屯地でV-22飛行開始式を実施。11月6日1045-1055、木更津基地で初のV-22飛行試験(705号機によるホバリングチェック。最大飛行高度17m)を実施。この時点ではV-22は2機とも第107飛行隊に配備されているが、テストや訓練の際は第108飛行隊と共用する。2021年2月14日、5機(3-7機目)が岩国基地に陸揚げされた。2月24日、3機目(JG-1704)が木更津駐屯地に到着。3月23日、4機目(JG-1702)が木更津駐屯地に到着。4月6日、5機目(JG-1707)が木更津駐屯地に到着。4月16日、6機目(JG-1708)が木更津駐屯地に到着。5月7日、7機目(JG-1703)が木更津駐屯地に到着。8月26日、V-22輸送機1機が計器飛行訓練と離着陸訓練を実施。百里基地に計器進入で2回ローアプローチし、その後館山航空基地で離着陸訓練を行った。2022年1月29日、木更津駐屯地を視察した岸防衛大臣がV-22輸送機に搭乗した。3月4-25日、沼津海浜訓練場と東富士演習場で日米共同水陸両用作戦訓練に参加。これがV-22の日米共同訓練初参加である。3月4日、8機目(JG-1706)が木更津駐屯地に到着。3月9日、9機目(JG-1709)が木更津駐屯地に到着。7月25-28日、西方転地訓練を実施。V-22輸送機2機で北徳島分屯地を経由して高遊原分屯地に展開し、大村航空基地で航法・計器飛行・離着陸・機動展開などの各訓練、相浦駐屯地で水陸機動団との協同訓練を行った。11月6日、海上自衛隊創設70周年記念令和4年度国際観艦式にV-22輸送機2機で参加。11月9日、令和4年度離島統合防災訓練及び日米共同統合防災訓練に参加。11月11日、10機目(JG-1714)が木更津駐屯地に到着。11月14日、11機目(JG-1715)が木更津駐屯地に到着。2023年1月17日、第1ヘリコプター団令和5年年頭編隊飛行にV-22輸送機3機(編隊構成2機と予備機1機)で参加。1月23日、第107飛行隊V-22輸送機2機が明野駐屯地で離着陸・飛行訓練を実施。2月1日、第107飛行隊V-22輸送機2機が立川駐屯地で離着陸訓練を実施。2月16日から3月12日、アイアンフィスト23に参加。3月24日、12機目が木更津駐屯地にフェリーされた。3月28日、V-22輸送機1機が立川駐屯地で離着陸訓練を実施。3月30日、13機目が木更津駐屯地にフェリーされた。4月5日、14機目(JG-1712)が木更津駐屯地にフェリーされた。10月14-31日、レゾリュート・ドラゴン23演習に参加し、初めて沖縄県に展開した。2024年6月5日、15機目(JG-1711)が岩国基地から木更津駐屯地にフェリーされた。6月7日、16機目(JG-1713)が岩国基地から木更津駐屯地にフェリーされた。6月15日、最終17機目(JG-1710)が岩国基地から木更津基地にフェリーされた。6月19日、17機全機の配備完了を防衛省が発表した。7月28日から8月7日、レゾリュート・ドラゴン24演習にV-22輸送機で参加。8月21-22日、V-22輸送機1機(JG-1706)が北海道訓練センター第3回実動対抗演習と丘珠・帯広・旭川駐屯地の視察を行う陸将を乗せ、北海道に初飛来。8月21日に丘珠駐屯地、8月22日に帯広駐屯地と旭川駐屯地に着陸し、8月22日に木更津駐屯地に戻った。10月27日1138頃、91705号機(JG-1705)が与那国駐屯地を離陸直後に機体が左右に大きく揺れ、左主翼下部が地面に接触、機体の一部を損傷した。参考:月刊JWings6,’20、1,’21、5,'21、6,'21、7,'21、11,'21、6,'22、10,'22、1,'23、4,'23、5,'23、6,'23、8,'24、9,'24、11,'24、月刊世界の艦船6,'22、朝雲
<輸送航空隊(2020年3月26日新編時)>:第1ヘリコプター団隷下で、木更津駐屯地に置かれている。定員430名。隊本部/本部中隊、第107飛行隊(V-22)、第108飛行隊(V-22)、第109飛行隊(CH-47J/JA。高遊原分屯地)、輸送航空野整備隊からなる。参考:月刊JWings10,'20、6,’20
<輸送航空団(航空自衛隊)>:航空自衛隊の輸送機部隊。1958年10月1日、臨時美保派遣隊から改編されて美保基地で新編され、輸送航空隊を隷下に置いた。12月1日、木更津基地に木更津派遣隊が新編された。1959年6月1日、木更津派遣隊が木更津航空隊に改編された。1968年6月1日、木更津航空隊が入間に移り、入間航空隊に改称された。10月1日、輸送航空隊が第401飛行隊に改編された。1978年3月31日に改編を受け、司令部、第1・第2・第3輸送航空隊を隷下に置いた。1989年3月16日に解隊され、隷下部隊は航空支援集団に移った。参考:月刊航空ファン1,’15、月刊JWings7,’24、木更津分屯基地ホームページ
<輸送航空団(1975年)>:司令部は美保基地にある。隷下に第401飛行隊、入間航空隊、飛行教育隊を置く。参考:月刊軍事研究10,’75、月刊JWings7,’24
<輸送航空団(1985年)>:司令部は美保基地にある。隷下に第1・第2・第3輸送航空隊を置く。参考:月刊JWings7,’24、日本の戦力、自衛隊装備カタログ1981
<輸送船(日本陸軍)>:日本陸軍が海上作戦輸送に使用する船舶のこと。有事の際に民間船を徴用し、所属は民間海運会社のままで一般船員(軍属として採用し、給与を民間から、戦時手当を軍から支給)により運用、必要な補助金を陸軍の予算から出す。時期と数量は大本営政府連絡会議で決定し、総トン数500トン以上の大型船は陸軍省経理局建築課が、500トン未満の船舶は陸軍船舶輸送司令部が契約を結んだ。海軍とも割り当ての協定が結ばれており、新造船は総トン数を折半、海軍が特設艦船用船舶などの取り分を決めた残りを陸軍で徴用していた。陸軍で使用するにあたっては、まず船内を消毒し、吃水が浅くなりすぎてスクリューが空転しないようバラストを載せ(鉱石運搬船などに兵員や馬を載せる場合、本来の積み荷よりも積載量がかなり軽くなる)、兵員や軍馬用の居住施設を艤装し、大発や小発を運用できるようデリックを強化した。大きさの目安は、1個歩兵大隊で5000総トン、1個歩兵連隊で15000総トン、1個師団で150000総トンと見積もられ、車両1両あたり80総トン、馬匹1頭あたり9総トン(熱帯は10総トン)、人員1人あたり3総トン(熱帯は5総トン)としているが、食卓、椅子、通路などの共用部分も含めたものである。船体は軍艦色で塗り、ファンネルマークは消した。輸送船は各地の港を回って将兵、軍馬、兵装、貨物を積み込み、陸軍佐官の輸送指揮官がこれを監督するが、必ずしも最初の港に輸送指揮官が待っている訳では無く、機密保持の関係で輸送指揮官に上陸作戦の詳細は伝えられず、積む順番に港を回る訳でも無いから、積み終わって最終集結地で確認したら搭載区分がメチャクチャになっていたりした。貨物船の船倉は上層の中甲板船倉を兵員用、下層を兵装、食料、軍馬などの収容スペースに充てた。車両も船倉に収容するが、天井高が足りず、上甲板の空きスペースに固縛しなければならない事態が多発している。中甲板船倉からは船倉ハッチボード開口部へと幅1.7mで急角度(70度くらい)の階段が設けられていて、上甲板への出入りに使用する。普段でも昇降に苦労する状態で、被弾浸水して停電傾斜したら中に詰め込まれた兵員が全員脱出するのはほぼ無理だった。陸軍は基本的に2週間以上の航海で兵員を輸送することは考えていなかったため、寝具はハンモックでなく寝台を使用、高さ180cm以上の甲板室では2段以上に重ね、寝台の床から天井までの高さは70-80cmくらい(時に60cm)とした。更に寝台の数以上に兵員を詰め込んだため、横になって寝ることすら出来ない状況に陥ったりしている。銃架は設けず、小銃などは各自で携帯して寝台周辺に置き、小銃弾などの弾薬だけを纏めて安全な場所に保管した。元が貨物用船倉なので照明は臨時の裸電球のみ、通風装置は人間用に作られていないベンチレータと上甲板への開口部だけであり、ここに兵員がすし詰めにされて熱帯地方に送られる訳だから、拷問以外の何物でも無い。掃除用具やゴミ箱も置くスペースすら無く、吸い殻入れも不足していた。通路などに隙間があると物資を詰め込みまくり、居住区にガソリン入りドラム缶を置いたりしたため、被弾すると大惨事になる。風呂の増設は無く、入港しても入湯上陸できる訳でも無い。気分転換に上甲板に出ても上陸用舟艇と船倉に入りきらない車両とトイレ待ちの列で身動きが取れず、体力錬成や訓練は不可能な状態だった。飲料水の配給は1日200gで、船尾甲板の臨時炊事場に伸びる給水パイプの蛇口には監視兵が付いていた。大量の兵食を貨物船の厨房で調理することはできず、上甲板の空きスペースに木造の厨房と食料庫を清水タンクと一緒に設置している。厨房の隣に配食スペースを設けることもあり、兵食は分隊ごとに配食された。撃沈された際の非常食として乾パンが支給され、撃沈されなければ目的地で返還することになっていたが、網袋に入っていたため、航海中に砕けたことにして全部食べる兵もいた。定員の3-4倍の兵員をすし詰めにするため、舷側手摺りの外側に臨時の厠がいくつか設置されていたが、穴を空けた床を腰の高さの板で囲っただけで、拭いた紙が風に煽られて甲板上の兵を直撃することもあった。数も足りず、常に行列状態だった。防水扉、防水蓋、舷窓などは必要時以外は常に密閉しておく。船長は医极、瓦斯医极、船舶獣医极などの衛生材料と獣医材料を保管し、必要時に輸送指揮官が受領して使用する。輸送される部隊から日直将校、日直下士官、衛兵、巡察が配員される。監視員はブリッジ左右に2名ずつが配置され、対空・対潜監視を行う。必要に応じて船首と船尾に2名ずつが立ち、敵を発見したらラッパ(潜水艦は1回、敵機は2回吹く)で知らせる。上甲板には貨物ハッチの上に枕木を渡して大発や小発といった上陸用舟艇を横置き(時に二段重ね)にしてあり、船舶工兵が乗り込んで徴用船員操作のデリックで洋上に降ろした(泛水)後、上甲板に集まった兵員を縄梯子や網梯子で乗せるが、上甲板の空きスペースは船倉に入りきらない車両(基本的に第2波以降に揚陸する)で埋まっていて、集合や移乗の邪魔になった。また、縄梯子の歩板も完全武装の兵員が乗るには強度が不十分で、輸送船の舷側にぶつかっただけで割れてしまい、揺れる上陸用舟艇目掛けて完全武装でジャンプする羽目になる事態が多発している。貨物や兵器は洋上に降ろした舟艇にデリックで積み込む。自衛武装は八八式75mm高射砲2門(船首尾1門ずつ)と九八式20mm高射機関砲4門で、重要船団には高射砲6門と高射機関砲8-10門を搭載する防空船を1-2隻配置した。運用は船舶高射砲連隊が各船に派遣する中隊・小隊規模の部隊で行う。ただ81号作戦で輸送船が全滅したため、防空船の兵装を高射砲10門と機関砲数門に強化している。対潜兵器は爆雷と迫撃砲を搭載し、7糎野砲やソナーを装備したものもあった。こちらは陸軍船舶砲兵が運用する。輸送船が敵艦に遭遇したり攻撃を受けたりした際、護衛艦から指示を受けられない場合は、輸送船の進退に関して監督将校が輸送指揮官に諮るが、乗船部隊の最後の処決は常に乗船部隊の高級先任将校が決断する。詰め込まれた兵員数が多い上に被弾時の脱出もままならず、犠牲者数上位30隻だけで69140名が海の藻屑となった。上記の欠点は、太平洋戦争緒戦のマレー上陸作戦の戦訓を元に昭和17年4月に第5師団司令部が編纂した馬来作戦実施に伴う上陸作戦研究事項にだいたい書かれているが、終戦まであまり改善された気配は無い。参考:輸送船入門、作戦要務令、月刊軍事研究9,’16、11,’16、月刊丸10,’10、8,’11、新兵サンよもやま物語、工兵入門
<輸送船(連合軍、第2次大戦時)>:第2次大戦勃発でヨーロッパ諸国の海運会社がイギリスやアメリカに客船を避難させたため、総トン数1万トン以上の客船だけでも170隻以上238万総トンを使うことが可能で、実際には3000総トン以上の客船を全て徴用し、更にアメリカが上陸作戦用揚陸艦艇を大量に建造したため、将兵の輸送は徴用した客船で間に合い、貨物船を将兵輸送用に改造することは殆ど無かった。客船改造兵員輸送船は居住区の内装を全撤去し、下士官・兵用居住区には長さ1.95m・幅0.6mのキャンバス製折り畳みベッドを壁にヒンジで取り付けた。ベッドは0.5-0.6m間隔で上下に並べ、多数の人員を詰め込めるようにしてある。士官用居住区は鋼製二段式ベッドにスプリングの効いたマットレスを敷いた。兵食は既存のダイニングルームで配食され、バイキング形式で食べる。1943年以降は大型ゴムボートを追加の救命艇として甲板上や舷側に大量に装着し、ロープを切るだけで海面に浮かぶようにした。自衛用兵装として主に艦砲と高射機関砲を積み、爆雷はあまり装備していない。参考:輸送船入門
<輸送隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の部隊。輸送艦2隻以上とエアクッション艇隊で編成される。トップは輸送隊司令(一等海佐)。参考:輸送隊の編制に関する訓令
<輸送隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の人員物資輸送部隊。参考:日本の防衛戦力Part1
<輸送隊(陸自、1977年)>:師団隷下で、大型トラック39両(甲師団)により1個普通科連隊または物資130トンを輸送できる。第7師団の隷下には装甲輸送隊があり、装軌式装甲兵員輸送車を装備する。参考:日本の防衛戦力Part1
<輸送隊(陸自、1980年代半ば)>:師団隷下で、大型トラック40両を装備しており、1個普通科連隊を輸送することができる。参考:兵器最先端5
<輸送艇(海上自衛隊)>:海上自衛隊の艦種。1971年4月1日、区分・自衛艦−大分類・警備艦−中分類・輸送艦艇の下の種別として、揚陸艇から改称されて定められた。艦種記号はLSM、LCU、LCMである。1974年3月10日、LSMが廃止された。9月30日にLCUとLCMが廃止され、輸送艇の種別も無くなった。1986年4月5日、区分・自衛艦−大分類・警備艦−中分類・輸送艦艇の下の種別として再度制定された。艦種記号はLCU、艦番号は2001以降である。参考:月刊世界の艦船11,'17増刊
<輸送艇1号>:LCU-2001を参照。
<輸送艇1号型>:海上自衛隊の汎用揚陸艇LCU。海自初の独航能力を持つ輸送艇で、沿岸僻地や離島などに車両・物資を輸送するのが主任務である。船体は底面が平坦な箱形鋼製で、ポンツーン式とウエル・デッキを組み合わせた構造をしていて、擱座着岸能力を持ち、艦首に艇首道板(バウ・ランプ)を持つが、門扉(バウ・ドア)は無い。船体前半部は両舷一杯までオープントップの車両船倉になっており、ゆら型よりも小型ながら、車両甲板面積はほぼ同じである。車両船倉両舷の防水区画は無い。艦前部に両舷を跨ぐ形で擱座着岸時の見張り台が用意されており、中央にポールマストが立っていて、国旗(艦首旗)はここに掲揚する。船体後半部には艦橋構造(兵員居住区もある)や機関室などを配置、艦橋後部上面に三脚マストを装着した。レーダーはOPS-9航海レーダー(OPS-19B?)のみで、マストトップに搭載する。ゆら型よりも基準排水量が170トン少ないが、輸送能力は同等で、隊員70名、物資50トン、73式中型トラック4両などを搭載でき、艦橋直前の右舷にある1.5トンクレーンで岸壁での積み降ろしも可能。省スペースのため艦載艇は積まず、艦橋直前にゴムボート1隻を搭載している。また、食堂のテーブルを折り畳むと便乗者の仮眠スペースに早変わりする。全長52m、全幅8.7m、深さ3.9m、吃水1.6m、基準排水量420トン、満載排水量540トン。主機は三菱S6U-MTKディーゼル2基2軸3000馬力、速力12ノット、航続距離3200km。兵装は艦橋上部の20mm多銃身機銃(前盾付き)1基。乗員28名。佐世保重工で建造され、LCU-2001輸送艇1号が1988年、LCU-2002輸送艇2号が1992年に就役した。参考:月刊世界の艦船12,’14、1,’16、4,’16、11,'17増刊、1,’14、1,’04、5,’02増刊、1,’15、1,'22、月刊PANZER8,’04、海上自衛隊全艦艇史、自衛隊装備年鑑1996
<輸送艇2号>:LCU-2002を参照。
<輸送艇1001号−1042号>:LCM-1001からLCM-1042を参照。
<輸送艇1001号型>:揚陸艇1001号型を参照。
<輸送艇2001号型>:揚陸艇2001号型を参照。
<輸送艇3001号>:LSM-3001を参照。
<輸送艇3001号型>:揚陸艇3001号型を参照。
<輸送ヘリコプター>:Cargo
helicopter。兵員や貨物の輸送に使用するヘリコプターで、汎用ヘリよりも2-3倍(人員なら1個小隊30名程度)くらいの輸送能力があり、ジープ程度の車両を積め、軽装甲車をスリング輸送できる。火砲の輸送に使う場合は、1機で火砲、弾薬、砲要員を一気に運べるくらいのペイロードで設計すると、いちいち何機も駆り出さずに済むし、ヘリ部隊の何機かが撃墜された時に火砲だけ余るような事態が無くて便利。道路が寸断されていても滑走路が無くても空中から人員や物資を送り込めるので、戦場でも災害時でも非常に便利。キャビンを耐機関砲レベルにまで装甲化するのは重量の関係で難しいので、乗り込む兵員は防弾ヘルメットを座布団替わりにしたり、防弾ベストを床に広げたりと工夫をしている。参考:月刊丸2,’07、月刊JWings7,’10、4,’13、5,’18、空軍
<輸送ヘリコプター(CH−47JA)用防弾板>:自衛隊のCH-47JA用装甲板。川崎重工製。参考:月刊軍事研究7,’10
<輸送防護車>:ブッシュマスター海外シリーズ(装甲車)を参照。
<輸送防護車試験用器材>:自衛隊の機器。タレスジャパンが受注している。参考:月刊軍事研究9,’18
<輸送防護車用特殊工具セット>:自衛隊の機器。タレスジャパンが受注している。参考:月刊軍事研究6,’17
<ユタ>:BB-31(戦艦)またはSSN-801(ヴァージニア級原潜)を参照。
<ユタ海岸>:第2次大戦のオーバーロード作戦時、連合軍が上陸地点の最も西の部分に付けたコードネーム。オール川、ヴィール川、トート川、ドゥーブ川河口の西側地域で、アメリカ第7軍団が担当し、第4歩兵師団が上陸した。砲煙や煙幕、潮流により予定上陸地点からは2kmずれたが、支障は無く、シャーマンDDと共に周辺の防衛拠点を制圧した。参考:月刊PANZER12,’01、歴史群像6,’08、月刊丸3,’90
<ユダヤ人防衛同盟>:アメリカを本拠地とするユダヤ人過激派組織。ロス近郊のモスクと下院議員事務所での爆弾テロを計画したとして、2001年12月12日に議長ら2人が逮捕された。参考:月刊軍事研究2,’02
<油断無き決意作戦>:Operation
Vigilant Resolve。ポスト・イラク戦争時の2004年3月31日、スンニ派トライアングルのファルージャに於いて、アメリカ軍事請負会社ブラック・ウォーターの社員4人が惨殺され、遺体が引きずり回されるという事件が発生したため、これに対して海兵隊が行ったファルージャ封鎖・掃討作戦である。予備兵力不足のため、作戦開始は4月5日となった。まず戦車と装甲車で街の周囲を封鎖し、1200名が戦車を盾にして市内に突入。AC-130とM-1A1の支援射撃の下、武装勢力拠点を1つずつ潰していった。4月6日、モスクから射撃を受けた海兵隊は、AH-1Wのヘルファイアと攻撃機のGBU-12でモスクの壁を粉砕して突入、武装勢力を殲滅した。4月11日に暫定的な停戦が結ばれ、4月13日に作戦が終了したが、アメリカ軍に39名の死者が出た。武装勢力と住民合わせて600人以上が死亡、1200人以上が負傷し、これに反発した武装勢力がイラク中で蜂起、サドル派のマハディ軍を中心に、旧政権武装勢力と地元の武装住民とが加わってアメリカ連合軍や地元警察、イラク保安部隊を攻撃。アメリカ軍は4月だけで135名の犠牲を出すこととなった。参考:月刊軍事研究9,’04、12,’14
<ユッカ・マウンテン・プロジェクト>:ネバダ核実験場に隣接する高レベル核廃棄物地下貯蔵庫。軍民両用である。参考:核兵器事典
<ユッカ・レイク>:ネリス空軍基地の北西100kmにある地名で、UAVテスト用の秘密基地があるらしい。国家原子力委員会の管轄地域内のため一般人の立ち入りはほぼ不可能。参考:月刊JWings4,’12
<油田消火作戦>:湾岸戦争中にイラクの手によって破壊されたり、多国籍軍爆撃で吹き飛ばされたりした油田は730-750ヵ所で、うち640-650ヵ所が火災を起こし、1日230-550万バレルが炎上、インドまでが黒煙に覆われ、深刻な大気汚染を生じた。1991年3月4日からテキサスの消火会社3社が消火を開始。まず海水を引いてプールを作り、10時間ほど放水(5500トン)して汲み上げパイプを冷やし、火勢を弱めつつ高さ15mにもなる燃え滓をショベルカーで除去、クレーンで高さ5-6mの大型鉄パイプを被せ、液体窒素を流し込んで消火した。しかしこの方法では1日に1-2カ所の油井しか消火できず、完全鎮火には1-2年かかるとみられていた。夏から多国籍消火活動が開始され、消火方法の改良が始まった。8月からは油井周囲の燃えかすをM60戦車の砲撃で吹き飛ばす方法を採用し、2-3日かかっていた作業を15分に短縮した。10月にはハンガリーが油井消火専用車両トレイルブレイザーを投入、消火作業が2分に短縮された。10カ国の16の企業からなる27チームの延べ9000人が消火活動を行い、1991年11月6日までに消火活動を終了した。かかった費用は20億ドル。その間に流出した原油は20億バレルといわれる。参考:軍事分析湾岸戦争
<湯豆腐嵯峨野>:京都府京都市嵯峨野にある湯豆腐屋で、入り口に小型潜航艇1隻と魚雷観音が祀られている。潜航艇は九五式改魚雷に司令塔や潜望鏡を作りつけたものらしく、キャプションには真珠湾攻撃に使用した人間魚雷とあるが、これは誤りで、先代経営者がガダルカナル島から運んできたという。全長8.8m、周囲径1.7m。参考:月刊丸12,’90
<ユナイティ>:N66(潜水艦)を参照。
<ユナイテッド>:P44(潜水艦)を参照。
<ユナイテッド40シリーズ>:UAEのADCOMシステムズ社が開発したUAVで、名前の由来はUAE統一40周年。主翼は串型翼で、前翼が高翼配置、後翼が低翼配置になっており、どちらもアスペクト比が大きく、前翼内側寄りにエンジンとプロペラが付く。垂直尾翼は1枚で、背が高い。参考:月刊軍事研究5,’15
<ユナイテッド40ブロック5>:対地攻撃機型。参考:月刊軍事研究5,’15
<ユナイテッド40ブロック6>:対潜哨戒機型。主翼下と胴体下に計6カ所のハードポイントを持ち、ソノブイや短魚雷1発の搭載が可能。全長11.3m、全幅17.53m、最大離陸重量2000kg。巡航高度8000m、滞空時間100時間。参考:月刊軍事研究5,’15、11,’15、10,’16
<ユナイテッド40海外シリーズ>
<ユナイテッド40(ロシア軍)>:2013年に2機を購入したが、中高度長距離UAVとしてイスラエルのフォルポストを導入したため、試験が延期されていた。その後イスラエルがUAV技術の輸出を停止したらしく、2016年に入ってアクツビンスクのロシア国防省飛行試験センターで飛行試験を開始している。参考:月刊軍事研究10,’16
<ユナイテッド・アシスタンス作戦>:アメリカ軍による西アフリカのエボラ出血熱対策支援作戦Operation United Assistance。2014年11月から開始され、アメリカ空軍はセネガルのダカールに第787遠征飛行隊を新編、C-130H/J輸送機を送り込んで2015年2月初めまでに114回の任務飛行を実施し、要員1000人以上、支援物資1750トンを輸送した。他に航空機動軍団が要員5500人と支援物資8700トンを運んでいる。流行が落ち着いてきたため、2015年2月から体制を縮小中。参考:月刊JWings4,’15
<ユナイテッド・エアクラフト>:アメリカの複合企業United Aircraft。ユナイテッド・エアクラフト&トランスポートが1934年のスキャンダルと独占禁止法で解体されたことに伴い、ミシシッピ川の東にあったプラット&ホイットニー、シコルスキー、チャンス・ヴォート、ハミルトン・スタンダード・プロペラを再編して創設された。1954年、チャンス・ヴォートが独立した。1975年、ユナイテッド・テクノロジーズに改称された。参考:月刊JWings5,’13、7,’19
<ユナイテッド・エアクラフト&トランスポート>:アメリカの複合企業で、ウイリアム・ボーイング(ボーイング社の創設者)とフレデリック・レンチュラー(プラット&ホイットニー所属)が1929年に創設した。傘下にボーイング・エアプレーン、プラット&ホイットニー、チャンス・ヴォート、シコルスキー・アビエーション、ステアマン・エアクラフト、ハミルトン・エアロ・マニュファクチュアリング、スタンダード・スチール・プロペラなどを収める。1934年、エアメール・スキャンダルや、航空分野の殆どを傘下に入れていることが問題視され、独占禁止法制定で解体されることになり、ミシシッピ川の東にあった企業はユナイテッド・エアクラフトに再編され、西にあった企業はボーイングに吸収され、ユナイテッド・エアラインは独立した。参考:月刊JWings5,’13、7,’19
<ユナイテッド・エンジン>:ロシアのエンジン開発製造国営会社PJSC United Engine Corporation。2012年に設立され、NPOサトゥルン、クズネツォフ、クリモフ、アエロジラ、ウファ・エンジン工業会などを傘下に入れた。参考:月刊JWings1,’21
<ユナイテッド・シールド作戦>:ソマリアからの国連軍撤退作戦。参考:月刊丸10,’97
<ユナイテッド・ステイツ>:CC-6(レキシントン級計画巡洋戦艦)またはCVB-58(空母)を参照。
<ユナイテッド・ステイツ>:アメリカの民間大型客船で、いざというときには兵員輸送にも使うためにアメリカ政府が建造に補助を出している。1952年に完成した。船体にはアルミ合金と複合材を使用し、ボイラー8基で最大速力40ノット以上。14000名の完全武装の兵士を乗せて太平洋を無給油で往復できる。結局兵員輸送には使用されず、1969年に運行停止してノーフォークに接岸、1973年にはアメリカ政府に売却され、1992年にフィラデルフィアに回航された。参考:世紀の失敗物語
<ユナイテッド・ディフェンス>:アメリカの兵器企業。2000年、ボフォース社の重火器部門を買収した。2005年、BAEシステムズに買収された。参考:月刊軍事研究1,’18
<ユナイテッド・テクノロジーズ>:アメリカの複合企業United Technologies。1975年にユナイテッド・エアクラフトを改称した会社である。プラット&ホイットニーやシコルスキーといった軍用ヘリ・航空機エンジンメーカーからオーチス・エレベーターまで各種企業を傘下に収める。2012年、グッドリッチを買収した。2017年9月5日、ロックウェル・コリンズ社を買収すると発表した。2018年、ロックウェル・コリンズ社を買収すると共に、UTCエアロスペースと再編し、コリンズ・エアロスペースに改称した。2020年1月、コリンズ・エアロスペースをBAEシステムズに売却した。4月4日、レイセオンと合併し、レイセオン・テクノロジーズ社になった。参考:月刊JWings5,’13、7,'20、6,'23、月刊航空ファン6,’18
<ユナルミーツ・ザポリャーリャ>:ロシア海軍プロジェクト21980哨戒艇11番艇Yunarmeets Zapolyarya。2017年7月23日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日の式典予行に参加。7月30日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日の式典に参加。2023年7月30日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日祝賀行事に参加。参考:月刊世界の艦船11,’17、10,’23
<ユニーク>:N95(潜水艦)を参照。
<ユニオン>:AKA-106(攻撃貨物輸送艦)またはN56(潜水艦)を参照。
<ユニオンタウン>:PF-65(フリゲート)を参照。
<ユニコーン>:I72(航空機工作母艦)またはS-43(アップホルダー級潜水艦)またはSS-429(テンチ級潜水艦)またはSS-436(テンチ級潜水艦)を参照。
<ユニコーン級>:イギリス海軍航空機工作母艦Unicorn級。機動部隊に随伴し、航空機輸送、空母では不可能な航空機修理、空母への補給などを行うのが主任務で、イラストリアス級空母3隻分の予備機48機を搭載し、主翼を広げた艦上機8機を整備できる能力を備える。空母との艦上機受け渡しを迅速に行うため、装甲化全通飛行甲板を備えており、軽空母としての任務に投入されることもあった。艦首はエンクローズド・バウで、飛行甲板前端左舷寄りにカタパルト1基、艦中央前後右舷寄りにエレベーター1基ずつを装備する。格納庫兼整備庫は2層式。全長194.9m、飛行甲板全長195.1m、飛行甲板有効長183m、全幅27.4m、飛行甲板幅24.4m、吃水6.8m、基準排水量14950トン。主機はパーソンズ式オール・ギヤード蒸気タービン2基、主缶はアドミラルティ3胴式重油専焼水管缶4基、出力40000馬力、2軸推進、最大速力24ノット、重油搭載量3157トン、航続距離7000海里(13.5ノット)。兵装は45口径10.2cm連装両用砲Mk]Y4基、2ポンド4連装機銃4基、20mm連装機関砲2基、20mm単装機関砲8門。装甲厚は飛行甲板51mm、防御甲板51mm、水線部76mm。搭載機数35機、航空燃料搭載量159トン。乗員1200名。I72ユニコーンが1943年に就役した。後に40mm4連装ポンポン砲2基、40mm単装機関砲7門、20mm単装機関砲4門を追加している。朝鮮戦争では兵員輸送や対地支援砲撃まで行った。1958年に退役した。参考:イギリス航空母艦史、第2次大戦のイギリス軍艦、月刊世界の艦船8,’17、11,’15
<ユニゾン>:P43(潜水艦)を参照。
<ユニタス演習>:アメリカ海軍が南米諸国海軍と実施している演習UNITAS。1959年(1960年?)に開始された。2011年(52回目)は4月15日から5月9日までブラジルなどと、6月24日から7月8日までチリ、ペルー、コロンビア、エクアドルとの演習を行った。参考:月刊世界の艦船9,’11、12,’12
<ユニタス2012>:2012年5月、太平洋ステージが実施された。9月17-28日、第4艦隊が主催し、アメリカのキーウエストとカリブ海方面で大西洋ステージが実施された。参加したのはアメリカ(CG-68アンツィオ、DDG-107グレイブリイ、FFG-36アンダーウッド、FFG-49ロバート・G・ブラッドレイ、T-AO-201パタクスント、巡視船エスカナバ)、イギリス(D33ドーントレス)、カナダ(補給艦プリザーヴァー)、コロンビア(アンティオキア)、ドミニカ(哨戒艦アルミランテ・ディディエス・ブルゴス・バトンウッド)、ブラジル(F46グリーンハウ)、メキシコ(哨戒艇インデペンデンシア)の艦艇13隻で、インターオペラビリティを考慮した総合共同作戦を演練した。参考:月刊世界の艦船12,’12
<ユニタス15パシフィック>:UNITAS
15 PACIFIC。2015年10月13-25日にチリで行われ、ブラジル、コロンビア、ドミニカ、エクアドル、エルサルバドル、メキシコ、ニュージーランド、ガイアナ、パナマ、アメリカが参加した。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<ユニタス15アトランティック>:UNITAS 15 ATLANTIC。2015年11月16-24日にブラジルで行われ、ブラジル、カメルーン、チリ、ドミニカ、ガイアナ、ホンジュラス、メキシコ、ペルー、セネガル、アメリカが参加した。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<ユニタス2016>:2016年9月18-28日にカリブ海で実施された。アメリカ(T-EPF-1スピアヘッド、WMEC-915モホーク)、イギリス、コロンビア(ナリーニョ)、パナマ(ヘネラル・エステバン・ウエルタス)、ペルー(クイニョネス)、メキシコ(P164センテナリオ・デ・ラ・レボルシオン)など12カ国が参加し、非対称戦の演習を行っている。参考:月刊世界の艦船12,’16
<ユニタスLX>:第60回(ローマ数字で60はLX)で、2019年8月に実施された。アメリカ海軍LSD-50カーター・ホール、アルゼンチン海軍アルミランテ・ブラウン級コルベットD10アルミランテ・ブラウン、輸送艦バイーア・サン・ブラス、ブラジル海軍ニテロイ級フリゲートF43リベラウ、インハウマ級コルベットV32ジュリオ・デ・ノローニャ、揚陸ヘリ母艦A140アツランチコ、ドック型揚陸艦G40バイーアなどが参加している。参考:月刊世界の艦船12,’19
<ユニタス2020>:2020年11月2-11日にエクアドル沖の太平洋上で実施された。アメリカ(LCS-10ガブリエル・ギフォーズ)とエクアドル(コルベットのロハ)、コロンビア(哨戒艦7デ・アゴスト)、チリ(哨戒艦カボ・オッジェル)など中南米8カ国が参加し、連携強化を図った各種訓練を行っている。参考:月刊世界の艦船2,’21
<ユニット・アイデンティファイア>:テイルコードを参照。
<ユニット・エアクラフト・ナンバー>:モデックス・ナンバーを参照。
<ユニットカラー>:アメリカ空海軍飛行隊の識別色。所属機の垂直尾翼端に同色のフィンバンドを塗る。参考:月刊JWings1,’20
<ユニット・セルフディフェンス>:Unit self-defence。攻撃を受けるか、攻撃が差し迫った場合に、部隊指揮官が、自己の部隊や自国の他部隊を防衛する権利(ときに義務)のこと。攻撃を仕掛けてくる対象は他国軍隊に限らず、テロリストなども想定している。この権利が部隊員個人の正当防衛や緊急避難なのか、国家による自衛権に基づくものか、部隊固有の自衛の権利によるものなのかは未だ結論が出ていないので、国際法上確立しているとまでは言えないが、各国軍隊の交戦規則ROEに規定されており、部隊指揮官のみの判断で行える軍隊もあれば、上級部隊の許可が必要な軍隊もあり、他国部隊・他国要員も防衛できたりもする。参考:月刊軍事研究9,’17
<ユニティ>:17(哨戒艦)を参照。
<ユニティ>:ナイジェリア海軍P18N型コルベット2番艦Unity。2016年9月15日、中国を出発。11月4日、ラゴスに入港。2017年就役。参考:月刊世界の艦船2,’17、6,’19
<ユニバーサル>:P57(潜水艦)またはブレゲー763(旅客機)を参照。
<ユニバーサル・ウイング>:スピットファイアのCウイングの通称。
<ユニバーサルカウンタ>:自衛隊の機器。岩通計測または東陽テクニカまたはアジレント・テクノロジーまたは穂高電子が受注している。参考:月刊軍事研究11,’11、2,’13、4,’13、4,’18
<ユニバーサル・キャリアー・シリーズ>:イギリス陸軍軽装甲装軌車両Universal Carrier。第2次大戦勃発でブレン・キャリアーの量産が追いつかなくなり、ブレン・キャリアーの各種バリエーションも含めてユニバーサル(汎用)に使え生産性の高い車両が必要、とのことで1940年から生産された。イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドで40000両以上が生産され(うちカナダが33987両)、ソ連や中国(オーストラリアから1500両)にも多数が引き渡されている。参考:月刊PANZER11,’86、月刊グランドパワー10,’00別冊
<ユニバーサル・キャリアーNo.1Mk.T>:ブレン・キャリアーと同様のオープントップ装甲車両で、車体前部右に操縦手、左に機銃手が位置し、機銃手前面装甲板は操縦手前面装甲板よりも前に出ている。車体後部はブレン・キャリアーと逆に座席が右側に設けられていて、左側の貨物スペース共々装甲板で囲われるようになった。車体後部中央の機関室は上面のみ装甲板とされ、側面は軟鋼板に変更されている。下部転輪は片側3枚、起動輪は後方、誘導輪は前方にあり、上部転輪1枚を持つ。サスペンションはホルストマン式。全長3.658m、全幅2.134m、全高1.37m、重量4トン。エンジンはフォードV型8気筒液冷ガソリン(65馬力。85馬力?)、最大速度48km、燃料搭載量91リットル、航続距離257km。装甲厚は車体前面10mm、側面7mm、後面7mm、底面3mm。乗員3名。武装はブレン軽機関銃がオリジナルだが、ヴィッカーズ重機関銃や12.7mmM2重機関銃、14mmボーイズ対戦車ライフルにソロータン20mm対戦車ライフル、果てはピアットや2インチ(50.8mm)/3インチ(76.2mm)迫撃砲まで装備したものもあった。参考:月刊PANZER11,’86、月刊グランドパワー10,’00別冊、月刊軍事研究4,’15
<ユニバーサル・キャリアーNo.1Mk.U>:No.1Mk.Tの改良型。車体がリベット止めから溶接製に変更され、防水型になっている。車体前部上面左にスペア下部転輪、右にワイヤーロープ、前部フェンダーに毛布、水缶、オイル缶、車体後面に大型工具箱が追加された。No.1Mk.Tで現地改造2インチ(50.8mm)軽迫撃砲搭載型が有用だったので、2インチ軽迫撃砲MkU用のマウントを銃手席左横に取り付けて標準装備できるようにしており、4インチ(101.6mm)発煙弾発射機を載せたものもある。参考:月刊PANZER11,’86、米英軍戦闘兵器カタログVol.2
<ユニバーサル・キャリアーNo.1Mk.V>:No.1Mk.Uのエンジンカバーと吸気口を改良したもの。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーNo.2Mk.T>:No.1Mk.Tのエンジンをフォード社製V型8気筒ガソリンエンジンGAEまたはGAEAに換装したもの。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーNo.2Mk.U>:No.1Mk.Uのエンジンをフォード社製V型8気筒ガソリンエンジンGAEまたはGAEAに換装したもの。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーNo.2Mk.V>:No.1Mk.Vのエンジンをフォード社製V型8気筒ガソリンエンジンGAEまたはGAEAに換装したもの。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーNo.3>:カナダで生産されたもの。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーT16>:アメリカで1942年に製作された大型化バージョンで、試作名称はカーゴ・キャリアーT16。車体を大型化して下部転輪を片側4枚に増やし、エンジンを強化している。全長3.937m、全幅2.108m、全高1.651m、重量4.3トン。エンジン出力100馬力、最大速度48km、燃料搭載量82リットル。装甲厚は車体前面10mm、側後面7mm、底面3mm。イギリス軍で制式化され、1944年に2625両、1945年に604両を配備した。アメリカ軍も太平洋戦線で使用している。ただ信頼性が低い、ペイロードが少ないといった欠点があり、使い勝手は悪かったらしい。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアーT16E2>:ユニバーサル・キャリアーT16のボギー位置を変更し、接地圧を低くしたタイプ。少数のみ生産された。参考:月刊PANZER11,’86
<ユニバーサル・キャリアー(オーストラリア製)>:車体は全溶接製で、雑具箱を車体後部に設けてエンジンの換気を良くした。参考:British and American tanks of World War Two
<ユニバーサル・キャリアー・ファミリー>
<2ポンド戦車攻撃キャリアー>:Carrier
2pdr Tank Attack。シャシーを少し延長してエンジンを中央から左前部に移し、車体後部に2ポンド対戦車砲を防楯付きで搭載した対戦車自走砲型で、オーストラリアが製作した。対戦車砲は全周射撃が可能で、防楯裏の10個のラックに80発の弾薬を収容する。ブレン機銃1丁も装備する。全長13フィート3インチ(4.04m)、全幅6フィート7インチ(2.01m)、全高6フィート2インチ(1.88m)、戦闘重量11200ポンド(5.08トン)。エンジンはフォードV8(95馬力)、最大速度20マイル(32.2km)。乗員4名(操縦手、砲要員3名)。参考:British and
American tanks of World War Two
<2ポンド対戦車自走砲(オーストラリア)>:オーストラリア製ユニバーサル・キャリアーの左スポンソンに2ポンド対戦車砲を搭載した対戦車自走砲型。防楯は前面だけをカバーする小型のもので、車体前面上部が砲に合わせて切り欠かれている。射撃時には油圧で砲を射撃位置まで引き上げる。1940年に試作され、訓練にのみ使用された。参考:British and
American tanks of World War Two
<2ポンド対戦車自走砲(カナダ)>:対戦車自走砲型Carrier, Unicersal, 2pdr Equipped。ユニバーサル・キャリアーMkT/Uに2ポンド対戦車砲を防楯付きで搭載した。砲尾の邪魔にならないよう、エンジンカバーを形状変更している。カナダで製作された。参考:British and American tanks of World War Two
<3インチ自走迫撃砲(オーストラリア)>:オーストラリア製ユニバーサル・キャリアーの兵員室に3インチ(76.2mm)迫撃砲を前向きで搭載したもの。射撃の邪魔にならないよう、エンジンカバーを改良している。参考:British and American tanks of World War Two
<3インチ自走迫撃砲キャリアー>:Carrier 3in Mortar。2ポンド戦車攻撃キャリアーの車体を流用し、車体後部に3インチ(76.2mm)迫撃砲を搭載、周囲を装甲板で囲んだもの。迫撃砲はターンテーブルに載せられており、全周射撃が可能。弾薬収容スペースは装甲板内側にある。地上射撃用のベースプレートをエンジン左側に取り付けている。参考:British and American tanks of World War Two
<3インチ・モーター・キャリアー>:車体後部内側両サイドに弾薬ラックを設け、分解した迫撃砲(車体後面に固縛)と弾薬を積載し、砲要員を乗せて移動するもので、1942年に製作された。射撃は車外で行うが、一部の車両は銃手席に迫撃砲マウントを設けて車内からの砲撃を可能としている。乗員は操縦手と砲要員4名(車体前部左に1名、車体後部右に2名、後部左に1名)。参考:月刊PANZER11,’86
<25ポンド自走砲>:25ポンド砲を荷台に搭載した自走砲型。ダンケルク撤退で装軌戦闘車両を自走砲にする余裕が無かったために検討されたが、操砲要員搭乗スペースが確保できず、企画倒れになった。参考:月刊PANZER5,’11
<アーマード・オブザベーション・ポスト・キャリアーNo.1Mk.U>:砲兵観測車型。ユニバーサル・キャリアーMk.Tの機銃マウントを塞ぎ、No.11無線機を車内に標準装備し、車体後部に有線電話用ケーブルドラムを取り付けている。No.18無線機を追加したものもある。乗員3名(前部右の操縦手、前部左の観測員、後部右の無線手)。登録ナンバーT17107-17359、T35528-36020、T46782-47097が生産された。参考:月刊PANZER11,’86
<アーマード・オブザベーション・ポスト・キャリアーNo.1Mk.V>:ユニバーサル・キャリアーMk.Vを砲兵観測車に改造したもの。登録ナンバーT84621-88063が生産された。参考:月刊PANZER11,’86
<自走対空機銃>:兵員室にヴィッカーズK機関銃連装銃塔を搭載したもので、機銃上部に対空用環状照準器があり、照準器基部は左の銃身と繋がっている。試作のみで採用されなかった。参考:British and American tanks of World War Two
<装甲救急車>:Carrier
Ambulance。負傷した戦車乗員を後送するための車両で、上構を延長し、後面を開放して担架を入れられるようにしている。参考:British and American tanks of World War Two
<ピアット砲列車>:Universal Carrier fitted with a PIAT battery。歩兵用対戦車兵器PIATを車体後部の箱形枠に7列2段で取り付けたもの。高仰角で装着されており、対戦車任務ではなく多連装ロケットランチャーと同様の火力支援に使用する。カナダで製作された。参考:British and American tanks of World War Two
<ワスプ>:ワスプ火炎放射キャリアーを参照。
<ユニバーサル・ジョイント>:伸縮継手を参照。
<ユニバーサル造船>:日本鋼管が2002年4月に設立した造船会社で、10月に日立造船船舶海洋部門を統合した。2013年1月1日、IHIマリンユナイテッドと合併してジャパンマリンユナイテッドになった。参考:月刊世界の艦船9,’10、6,’11、12,’12、月刊軍事研究3,’13
<ユニバーサル造船京浜事業所>:日本鋼管鶴見造船所と日立造船神奈川工場を合併したもので、木造またはFRP製掃海艦艇の建造を行っている。えのしま型掃海艇MSC-604えのしまなどを建造した。2013年1月1日、親会社の統合でジャパンマリンユナイテッド横浜事業所鶴見工場になった。参考:月刊世界の艦船8,’11増刊、JShips
VOL.70
<ユニバーサル造船舞鶴館>:元は1902年(明治35年)に建設された舞鶴海軍工廠本部で、1970年6月に日立造船舞鶴館として保存が決定し、2002年に合併でユニバーサル造船舞鶴館になった。380点の海軍史料・造船技術資料が収容されている。所在地は京都府舞鶴市字余部下1180番地。見学の際はユニバーサル造船舞鶴事業所総務部総務室に問い合わせのこと。2013年にユニバーサル造船がジャパンマリンユナイテッドになったので、問い合わせ先も変わった筈である。参考:JShips VOL.46
<ユニバーサル造船舞鶴事業所>:親会社の再編に伴い、日立造船舞鶴工場が改称されたもの。LST-4003くにさき、AOE-426おうみ、AGB-5003しらせ(2代目)を建造した。2013年1月1日、親会社の統合でジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所になった。参考:月刊世界の艦船6,’11、JShips VOL.70
<ユニバーサル・横メルカトル図法>:UTM図法を参照。
<ユニパワーMトラック>:イギリス軍の使用する8輪重トラック。固定架台が無く、後部スペースに貨物を最大5トン搭載する。車体後部のウインチ・クレーンで自力積み降ろしが可能。参考:月刊グランドパワー8,’04
<ユニパワー橋体トランスポーター>:イギリス陸軍工兵部隊の装備する戦車橋輸送トラック。参考:月刊PANZER6,’03
<ユニファイド・プロテクター作戦>:NATOによる対リビア作戦、Operation Unified Protector。対リビア作戦の指揮権がアメリカからNATOに移管された2011年3月27日(31日?19日?)に開始された。アメリカは駆逐艦1隻を残して海上戦力を引き上げたため、ルーマニア海軍とブルガリア海軍がフリゲート1隻ずつ、ウクライナ海軍が揚陸艦1隻を派遣している。3月31日から4月6日までに1170ソーティ(攻撃任務は473ソーティ)を実施。4月2日、スウェーデン空軍がロンネビ基地からJAS39C/Dを8機離陸させ、中継点となるハンガリーのケチュメート基地に向かわせた。4月3日、スウェーデン空軍がJAS39C/D戦闘機5機をケチュメート基地に向かわせ、先の8機と共にシチリア島ゴネラ海軍基地に展開させた。しかし肝心のJET-A1燃料が無く(海軍用のJP-5のみ)、作戦に参加したのは4月13日になってからである。4月7日、アジュダビア付近でNATO軍機が戦車18両を破壊したが、カダフィ政権側でなく反政府軍のものだった。4月13日、JAS39C/D戦闘機2機が飛行禁止空域のパトロールを実施。5月7日までに航空機は5510ソーティ(攻撃任務は2204ソーティ)をこなし、武器禁輸措置監視のため836隻に対して32件の船舶立ち入り検査を実施、避難民保護などのため人道支援作戦を164回行った。5月23日、フランスがティガー/ガゼル攻撃ヘリの投入を発表。5月26日、イギリスがWAH-64Dアパッチ攻撃ヘリの投入を発表。6月17日、リビア東部でNATO軍機が反政府勢力の車列をカダフィ政権側と間違えて爆撃した。6月19日、トリポリのSA-2ミサイルに対する爆撃を行ったが、兵装が誤作動を起こして目標を外した。6月20日、ソルマンにあるカダフィ政権の指揮統制施設(ビル密集地に衛星アンテナが17個並んでいた)を精密誘導兵器で爆撃したが、リビア政府の発表では巻き添えを喰らって子供を含む民間人15人が死亡した。7月18日、カダフィ政権側がトリポリ空港のレーダーを多国籍軍機の捜索追尾に使用していることが判明したため、レーダー施設を爆撃して破壊した。8月8-9日、イギリス空軍のタイフーンとトーネードが爆撃を行い、トリポリ港に停泊中のリビア海軍コニ型フリゲート1隻をペイブウェイWで大破させた。全飛行ミッションのうち25%が空中給油ミッションで、15000時間飛行して2300ソーティをこなしたが、9カ国の空中給油機が16カ国27種類の航空機に給油したため、運用の調整などに苦労した。参考:月刊航空ファン6,’11、月刊JWings7,’11、8,’11、10,’11、月刊世界の艦船11,’11、月刊軍事研究12,’11、8,’11、5,’13
<ユニフォーム級>:1910型(原潜)を参照。
<ユニマック>:AVP-31(飛行艇支援艦)を参照。
<ユノ級>:イラン海軍沿岸用潜水艇で、北朝鮮の技術援助を得て開発された。兵装は魚雷2発。参考:月刊軍事研究2,’09
<ユピター>:ドイツ陸軍6×6輪トラック。1950年代後半にA6500という名称でマギルス・ドイツが開発した。ボンネット型で、積載量7トン。参考:月刊PANZER5,’83
<湯布院駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。駐屯地内に源泉が2ヵ所あり、浴場には露天風呂がある。1966年の大分国体で天皇皇后両陛下がホッケー競技を観戦し、両陛下が訪問された唯一の陸自駐屯地となった。所在地は大分県湯布市湯布院町川上941。JR由布院駅から徒歩20分。1956年に地元の誘致で開設され、第4特車大隊、第4偵察隊、湯布院駐屯地業務隊が配置された。1966年10月25日、昭和天皇・皇后が大分国体ホッケー御観覧のため行幸啓された。1969年、第314地区施設隊が竹松駐屯地から移駐した。1966年、第4特車大隊と第4対戦車隊が玖珠駐屯地に移駐し、第111特科大隊が別府駐屯地から移駐した。1977年4月、第3特科群と第312武器野整備中隊が別府駐屯地から移駐した。2003年、第3特科群、第312野整備中隊、第344施設中隊が廃止され、西部方面特科隊、第101特科直接支援隊、第368施設中隊に改編された。2012年2月26日、トモダチ作戦への感謝を伝える返礼会を実施。第12海兵連隊第3大隊の100名、自衛官50名、協力団体関係者100人が参加した。2015年8月1日、別府国際観光港に入港した潜水艦救難艦ちはや乗員と下士官交流を実施。2018年3月26日、第112特科大隊が廃止された。3月27日、水陸機動団特科大隊が新編された。参考:湯布院駐屯地ホームページ、MAMOR vol.142、JGround Vol.23、朝雲、別府駐屯地ホームページ、月刊PANZER6,’18
<湯布院駐屯地(2015年)>:西部方面特科隊、第101特科直接支援隊第1直接支援中隊、第368施設中隊、第103施設直接支援大隊湯布院派遣隊、第304基地通信中隊湯布院派遣隊、西部方面会計隊第394会計隊(3月26日から第404会計隊湯布院派遣隊)、湯布院駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<湯布院駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。1956年に新編された。2014年12月8日、日出生台演習場を使う部隊のニーズに合わせた売店運営の功績で、陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。2018年4月9日、2年前に元隊員が私有車両で起こした交通事故で死亡した子供の冥福を祈り、全員で黙祷を捧げた。2019年7月24日、日出生台演習場管理会議月例化の功績で、陸幕長から2級賞状と副賞が贈呈された。2021年4月22日、湯布院町のレストラン「ラヴェルヴェンヌ」の協力で、隊員食堂feat.ラヴェルヴェンヌを行い、駐屯地隊員に本格フレンチを振る舞った。10月1日から11月4日、湯布院町内16カ所の飲食店や旅館の協力を得て、日出生台演習場の訓練に参加する遠方からの兵站検証部隊に、湯布院味めぐり弁当を提供した。参考:朝雲
<ユマ>:JHSV-8(統合高速輸送艦)またはT-EPF-8(遠征用高速輸送艦)を参照。
<ユモ004シリーズ>:ドイツのユモ社が開発した軸流式ターボジェットエンジン。参考:月刊航空ファン8,’15、歴史群像2,’08付録
<ユモ004A>:軸流式8段圧縮機を持つ。タービンブレードは耐熱スチール製で、静翼はアルミ合金を使用したが、テストでブレード振動により静翼が壊れる事故が発生したため、タービンブレードの形状を変更し、静翼の素材を鋼材に換えた。燃焼室はカニュラー型6個で、カンだけ外して燃焼試験を行うことで開発期間短縮を図っている。ジェットノズルは可変噴出孔式で、ジェットの乱流を防ぐため燃焼室内の圧力を低下させる必要があり、燃焼効率が低下して高々度での燃焼状態が不安定になり、コンプレッサーストールを起こしやすくなった。1942年5月にBf110に搭載されてテストされた。参考:月刊航空ファン8,'15、ジェット戦闘機
<ユモ004A−0>:重量850kg。推力840kg。1942年7月にMe262V3に搭載されてテストされ、30基が生産された。参考:月刊航空ファン8,'15
<ユモ004B>:A型の改良型。希少素材重量の半分以上の通常素材への変更、エアインテイク改良、鋳造素材の板金材への換装などを行っている。全長3.86m、直径0.765m、最大高0.96m、本体重量742kg。回転数毎分8700、最大静止推力900kg。初期不良も改善されて稼働率が向上したが、それでも30-50時間ごとにオーバーホールを行う必要があった。また、冷却用空気を圧縮機から抽出したため、性能が低下した。参考:図解世界の軍用機史、戦闘機のしくみ、月刊航空ファン8,'15、歴史群像2,’08付録
<ユモ004B−0>:B型の先行量産型。1942年12月からテストされ、1943年3月にMe262V1に搭載された。参考:月刊航空ファン8,'15
<ユモ004B−1>:B型の本格量産型。1943年5-6月から配備された。当初は回転数毎分9000だったが、振動問題解決のため毎分8750に減らしている。参考:月刊航空ファン8,'15
<ユモ004C>:推力向上型。少数が生産された。参考:歴史群像2,’08付録
<ユモ004D>:推力向上型で、少数が生産された。参考:歴史群像2,’08付録
<ユモ207>:ユモ社が開発した航空機用液冷直列6気筒2サイクル対向ディーゼルエンジン。1本のシリンダーの上下にピストンがあり、中央脇から燃料を噴射して着火、2本のクランクシャフトを回し、ギアで1軸に纏めてプロペラを回転させる。2段式過給器を搭載している。ボア105mm、ストローク160mm×2、離昇出力1000馬力、高度12500mで750馬力。Ju86Pに搭載された。参考:月刊軍事研究8,’16、月刊航空ファン8,’15
<ユモ210>:ユモ社が開発した戦闘機用ガソリンエンジン。排気量19700cc。Ar68、Bf109初期型などに搭載された。参考:歴史群像2,’08付録
<ユモ211シリーズ>:ユモ社が開発した爆撃機用液冷倒立V型12気筒ガソリンエンジンJumo211。排気量35000cc。Ju88に搭載された。参考:歴史群像2,’08付録、月刊JWings2,’19
<ユモ211J−1>:出力1400馬力。Ju88A-4に搭載された。参考:月刊JWings2,’19
<ユモ213シリーズ>:ユモ社が開発した航空機用液冷ガソリンエンジンJumo213。ユモ211をベースとしており、回転数を上げて出力を上昇させている。参考:歴史群像2,’08付録、月刊丸10,’93
<ユモ213A>:Do335A用に開発したエンジン。液冷倒立12気筒で、全長2.437m、全幅0.776m、全高1.095m、重量920kg。ボア150mm、ストローク165mm、総排気量34970cc、圧縮比6.5:1。燃料は87オクタンのB4で、1段2速スーパーチャージャーを搭載しており、離昇出力は3250回転で1776馬力。量産が間に合わず、Do335V-6とV-7のみに搭載された。参考:月刊丸2,’01、図解世界の軍用機史
<ユモ213E>:2段3速過給器を搭載したタイプ。信頼性が低かった。参考:月刊丸10,’93、歴史群像2,’08付録
<ユモ213E−1>:Jumo213Aの過給器を2段3速とし、アフタークーラーを追加、圧縮比を向上させたもの。高度9000mで1420馬力を出せた。過給器のギアが3速に入らない、高度9000mを超えると燃料ポンプの不具合で燃料噴射圧力が足らなくなるといったトラブルに度々悩まされた。離昇出力1750馬力(毎分3200回転)、戦闘出力1580馬力(毎分3000回転、高度13000m)、連続運転出力1580馬力(毎分3000回転、海面高度)/1260馬力(毎分3000回転、高度16000m)。使用燃料はB4(96オクタン。C3?)。参考:ミリタリーエアクラフト1,’97
<ユモ213EB>:MW50を追加したもの。離昇出力2000馬力(毎分3300回転)、戦闘出力1580馬力(毎分3000回転、高度13000m)、連続運転出力1320馬力(毎分2700回転、海面高度)/1160馬力(毎分2700回転、高度16000m)。参考:ミリタリーエアクラフト1,’97
<ユモ213J>:1気筒あたり3つだったバルブを4つに増やし、過給器を3段にしたもの。乾燥重量1050kg、出力2240馬力(2350馬力?)。完成前に終戦となった。参考:ミリタリーエアクラフト1,’97、月刊丸10,’93
<ユモ社>:Jumkers Motrenbau。ユンカース社のエンジン部門が1923年に独立したものである。参考:月刊航空ファン8,’15
<ゆら>:LSU-4171(輸送艦)を参照。
<由良>:日本海軍長良型軽巡洋艦4番艦Yura。大正10年5月21日起工、大正11年2月15日進水、大正12年3月20日竣工。大正15年12月10日、軽巡として初めて水上偵察機を搭載。昭和7年1月29日、第3戦隊の一員として第一次上海事変で揚子江警備のため出撃。3月22日、内地に帰投。昭和12年7月7日、日華事変勃発時には第8戦隊に所属していた。8月10日、第8戦隊に編入され、上海上陸作戦に参加するため出撃。8月22日、上海に到着。11月22日、揚子江方面での作戦を終了。昭和13年4月10日、南支作戦に参加するため出撃。10月9日から広東攻略戦に参加。11月16日、内地に帰投。昭和15年5月10日、第5潜水戦隊旗艦となった。昭和16年11月24日、海南島に進出。12月8日、太平洋戦争開戦時は建制では第5潜水戦隊旗艦、兵力部署では馬來部隊潜水部隊第5潜水戦隊所属で、マレー上陸作戦に参加。その後ボルネオ攻略作戦に参加した。昭和17年1月20日、旗艦を伊65に委譲してスマトラ・ジャワ上陸作戦に参加。3月1日、バタビア沖海戦に参加。。3月8日、T作戦参加のため昭南を出港。3月10日、D作戦に参加。4月、ベンガル湾機動作戦で輸送船3隻を撃沈。4月5日、セイロン島攻撃に参加。4月20日、佐世保に帰投して整備に入った。5月9日、第4水雷戦隊旗艦となった。5月19日、整備を完了。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。その後は小松島で待機した。8月11日、トラックに進出。8月21日、トラックを出撃してガダルカナルに向かった。8月24日、第2次ソロモン海戦に参加9月27日、ショートランドで爆撃を受けて小破した。10月14-15日、ショートランドとエスペランス岬を往復し、陸軍兵を輸送した。10月25日、ソロモン群島サンタ・イサベル沖でアメリカ軍機による3回の爆撃を受けて500kg爆弾1発が命中、航行不能となり、更に数発が命中して炎上、漂流するのみとなった。総員退艦した乗員は駆逐艦春雨と夕立に救助され、船体は両駆逐艦の魚雷により1700に処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸4,’07、8,’95、第2次大戦日本海軍作戦年誌、近代巡洋艦史、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T
<ゆら型>:海上自衛隊輸送艦(LSU)。離島への小部隊・車両・物資の輸送や災害救難などを目的とした、地方隊配属用の小型輸送艦である。船体は平底の箱形で、前部に油圧作動式門扉(バウ・ランプ。両開き)と艦首道板(バウ・ドア。長さ7m、下開き)を持ち、擱座着岸により荷物を揚陸する。船体前半はオープンな車両船倉で、両舷に防水区画として物資搭載用倉庫を設けてあり、揚陸指揮所は艦首最上甲板右舷側にある。また、両舷に1.5トンクレーン1基ずつを装備し、積み降ろしに使用する。船体後半部には乗員居住区、機関室、待機室、艦橋構造(3層)などがある。前方視界を確保するため艦橋は大型で、重心上昇を防ぐために外板を薄くして軽量化した。艦橋上には自衛用の20mm多銃身機関砲1基を搭載する。レーダーは航海用のみ。艦橋後方左舷寄りに煙突があり、右舷側は6メートル内火艇の搭載スペースとなっている。スクリューはトンネル状のスケグ内に収容されており、擱座着岸時に損傷しないよう配慮された。錨は艦首左舷と艦尾にある。全長58m、全幅9.5m、深さ5m、吃水1.7m、基準排水量590トン、満載排水量710トン。主機は富士ディーゼル社製6L27.5XFディーゼル2基2軸3000馬力、速力12ノット。乗員30名。人員70名、物資50トン、73式中型トラック4両などを搭載できるが、戦車を積むことは考慮していない。LSU-4171ゆら、LSU-4172のとが佐世保重工で建造されて1981年に就役し、2012-13年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊PANZER8,’04、月刊世界の艦船11,’17増刊、12,’14、1,’04、9,’96、5,’02増刊、4,’16、自衛隊装備年鑑1996
<由良基地>:海上自衛隊の基地。2012年6月23日、基地分遣隊15名が田子の浜の海岸清掃を行った。2016年4月3日、基地内駐車場で観桜会を実施。由良町長、関西水交会、自衛隊和歌山協力会など87人と隊員が参加した。6月5日、基地分遣隊が呉音楽隊の協力を得て御坊市民会館で日高地方ふれあいコンサートを実施。9月13-15日、和歌山地本が町立由良中学校2年生5人の職場体験学習を実施。参考:朝雲
<由良飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<ゆり>:LSSL-401(警備艇)を参照。
<ユリア>:P.1077(計画機)を参照。
<ゆり型警備艇>:警備隊警備船/海上自衛隊警備艇(LSSL)。1952年11月12日に調印された日米艦艇貸与協定に基づき貸与されたLCS(L)-3級大型上陸支援艇(LCS(L)-1級?)である。船体は平甲板型で、兵装は強力だが、吃水が浅く平底で航洋性が無く、一応復原性と安定性を増すための改装が施されたらしいが、警備船としては使いにくかった。1軸あたりディーゼル4基を減速装置で纏めて可変ピッチプロペラを駆動する。FCSはMk14照準器付きのMk51方位盤、対水上レーダーはSO-2。全長48m、最大幅7.1m、深さ3.5m、吃水1.4m、基準排水量300トン、満載排水量450トン。主機はGMデトロイト社製6-71型2サイクルディーゼル(225馬力)8基、出力1800馬力、可変ピッチプロペラ2軸推進、最大速力12ノット、燃料搭載量76トン(満載100トン)、航続距離は12ノットで5500海里。兵装はボフォース40mm連装機関砲Mk1が3基(艦首、上構前端砲座、後甲板砲座。艦首の1基の代わりに76mm単装砲Mk22を1門または40mm単装機関砲M1を搭載したものもある)、20mm機関砲Mk10が4門(艦橋両舷、上甲板やや後方両舷)、12.7mm単装機銃4丁、114mm対地ロケット5連装発射機Mk7が2基。乗員65名。当初は40隻が貸与される予定だったが、パトロール・フリゲート(くす型警備艦)の貸与数が減ったため10隻増やされ、LSSL-401からLSSL-453が就役した。1954年7月1日、警備艇に艦種変更された。半分は1958-59年に返還され、残りは支援船に変更されて小型揚陸艇母船または魚雷揚収・水中処分隊母船として使用され、1976年3月に最後の1隻が除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,’17増刊、11,’15、10,’19、月刊軍事研究9,’03、丸スペシャルNo.75、歴史群像8,’15
<ゆりこちゃん>:佐世保地方隊の広報キャラクター。佐世保市の花であるカノコユリがモチーフで、佐世保地方隊創設65周年に合わせ、2018年の自衛隊記念日行事で発表された。参考:朝雲
<ユリシーズ>:R69(U級駆逐艦)を参照。
<ユリシーズ・S・グラント>:SSBN-631(ジェームズ・マディソン級戦略原潜)を参照。
<ゆりしま>:MSC-661(うじしま型掃海艇)またはMSC-668(はつしま型掃海艇)を参照。
<由利島>:日本海軍測天型敷設艇12番艇Yurijima。昭和17年11月25日竣工、佐伯防備隊所属となった。昭和19年2月、サイパン・トラック・ダバオで船団護衛を実施。6月6日、東カロリン諸島西方で爆撃を受けて小破した。8月から基隆・サイゴンで船団護衛を実施した後、サイゴン−シンガポールの護衛任務に就いた。昭和20年1月14日、マレー半島南東でSS-245コビアの雷撃により沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇
<百合丸>:國際汽船大型ストックボートYuri maru。垂線間長129.54m、幅16.36m、深さ11.43m、吃水8.72m、総トン数6787トン、重量トン数10975トン。主機は三連成レシプロ蒸気機関1基1軸3281馬力、航海速力10.5ノット、最大速力13.677ノット。大正8年8月31日竣工。大正9年、國際汽船に売却された。太平洋戦争中は陸軍の輸送を実施。昭和18年11月28日、パラオからラバウルに向かっていたところ、ニューギニア島アイタペ北530kmでSS-270レイトンの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船4,’19
<楡林>:565(フリゲート)を参照。
<楡林/三亜総合保障基地>:中国海軍の基地。海南省海南島にある。三亜の亜龍湾にある潜水艦第2基地に2008年から094型戦略原潜が配備されており、2014年には三亜の錦母角に空母基地が完成した。2016年、空母整備用乾ドックの建造を開始。2019年12月17日に就役した空母17山東の母港となった。2020年、空母整備用乾ドックが竣工した。参考:月刊世界の艦船2,’20、2,’19、8,’22
<ユルカ型>:ソ連海軍掃海艇Yurka型。全長52m、基準排水量400トン。1963-72年に艦番号742などが建造された。エジプトに4隻、ベトナムに1隻が輸出されている。参考:月刊世界の艦船5,’83
<ユルカ型・海外シリーズ>
<ユルカ型(エジプト海軍)>:エジプト海軍掃海艇で、アスワン級ともいう。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ユルク>:M861(掃海艇)を参照。
<ユルゲン・ハルダー>:ハルダー(ドイツ空軍エース)を参照。
<ユルゴク・イイ>:992(イージス艦)を参照。
<ユルドゥライ>:S350(潜水艦)を参照。
<ユルドゥルム>:F243(フリゲート)を参照。
<ユルモ級>:フィンランド海軍高速揚陸艇Jurmo級。沿岸猟兵部隊の輸送及び上陸作戦を行うのが主任務で、フィンランドのマリン・アルテック社製ウォーターキャットM12を元に開発された。艦首前面がランプドアで、艦前部の密閉式貨物・人員搭載スペースから迅速に揚陸を行える。全長14.3m、幅3.25m、吃水0.5m、満載排水量13トン。主機はキャタピラー製C7ディーゼル、推進はロールス・ロイス社製カメワFF375ウォータージェット、最大速力37ノット。沿岸猟兵22名または貨物3トンを搭載可能。火力支援のために重機関銃、てき弾発射機、迫撃砲を装備できる。1999-3006年に36隻(38隻?)が就役した。殆どが沿岸猟兵ウーシマー旅団に配備されており、数隻が連絡艇として使用されている。参考:月刊軍事研究8,’14、9,’06、1,’09、月刊世界の艦船2,'23、JShips VOL.70
<ユンガ>:ソ連海軍グリシャX型フリゲートYunga。参考:月刊世界の艦船6,’15
<ユンカース航空機製造株式会社>:ドイツの航空機会社。1910年にユンカース博士が設立し、1913年に船舶用ディーゼル工場を建設。1917年10月にフォッカー社と合併してユンカース・フォッカー社となった後、第1次大戦が終了するとこの社名に変更した。1923年、エンジン部門はユモ社として独立した。第2次大戦終結でソ連に接収され、OKB1(試作設計局1)に改編された。参考:歴史群像2,’08付録、月刊世界の艦船6,’83、月刊航空ファン8,’15
<ユンクー>:1308(掃海艦)を参照。
<ユングマイスター>:Bu133(練習機)を参照。
<ユングマン>:Bu131(練習機)を参照。
<ユングマン改造基本練習機>:四式練習機を参照。
<ユンシュン>:1304(掃海艇)を参照。
<ユンチャ>:1302(掃海艇)を参照。
<ユンツー>:1307(掃海艦)を参照。
<ユンディン>:1303(掃海艇)を参照。
<ユンテー>:1309(掃海艦)を参照。
<ユンナン型>:雲南型(揚陸艇)を参照。
<ユンフェン(掃海艇)>:1301(掃海艇)または524(輸送艦)を参照。
<ユンフェン級(掃海艇)>:雲峰級(輸送艦)または永豊級(掃海艇)を参照。
<ユンヤン>:1306(掃海艦)またはDDG927(ミサイル駆逐艦)を参照。