<ビアーカン・フェアリング>:EA-6B(電子戦機)を参照。
<ビアース>:DD-654(駆逐艦)を参照。
<ピアース>:APA-50(攻撃輸送艦)を参照。
<ピアース・アロー作戦>:1965年8月5日、アメリカ海軍がベトナム戦争トンキン湾事件の報復として実施した北ベトナム爆撃作戦。CV-64コンステレーション及びCV-14タイコンデロガの艦上機が32機ずつ出撃して64ソーティを行い、魚雷艇基地と石油貯蔵所計5ヵ所を爆撃し、魚雷艇31隻を破壊・損傷させた。高射砲で2機が撃墜されている。参考:月刊丸12,’92、世界の傑作機No.1
<ビアウイ級>:フレッチャー級駆逐艦(ブラジル海軍)を参照。
<ヒアウォード>:H93(駆逐艦)を参照。
<ビアク島上陸作戦>:ビアク島はニューギニア西部フォーゲルコップ半島の東に位置する島で、太平洋戦争時に絶対国防圏を死守するための要となる航空拠点として、絶対国防圏設定直後に日本陸軍がモクメル第1-第3飛行場を設営、日本海軍も飛行場2ヵ所の建設に入っていた。日本軍の防衛兵力は陸軍第36師団歩兵第222連隊を基幹とするビアク島支隊(葛目支隊)4000名(戦車隊に九五式軽戦車9両装備)、飛行場設定隊3個及び台湾特設勤労団など6700名、海軍第28特別根拠地隊第19警備隊など1000名で、総兵力11700名のうち戦闘部隊は3分の1しかいなかったが、地下陣地を構築して侵攻に備えた。アメリカ軍はマリアナ及びパラオ諸島攻略時に支援基地として使用するため、ビアク島攻略作戦を立案し、マッカーサー率いる南西太平洋方面軍がポートモレスビーを拠点にニューギニア西へと進撃、昭和19年5月19日にニューギニア西端の攻略を開始し、第10軍団第41歩兵師団を主力とする部隊がビアク島攻略作戦に参加することになった。5月27日早朝、艦艇50隻と戦爆連合100機強の支援の下、ビアク島南東海岸のボスネック及びモクメル飛行場に近いモクメル村に、アメリカ第41歩兵師団2個連隊が上陸。ボスネックでは崖の多い海岸線への奇襲上陸に成功したが、地形に阻まれて内陸への進撃は遅れた。モクメル村の上陸部隊も飛行場への進撃を開始したところで丘陵地帯の地下陣地から猛烈な反撃を受けて後退を余儀無くされている。アメリカ軍上陸時、第2方面軍参謀長沼田中将が視察に来ていて帰れなくなり、ビアク守備隊長葛目大佐との間で指揮権の問題が発生。陸軍部隊を東西に分けて東を葛目大佐、西を沼田中将が指揮することにした。5月29日早朝、歩兵第222連隊戦車隊がアメリカ軍に攻撃を仕掛けたが、M4中戦車に砲弾を全て弾かれてしまい、逆襲を喰って出撃した7両全てが破壊された。6月7日、アメリカ軍が沼田中将・葛目大佐指揮部隊の間隙を突破し、漸く第1飛行場の占領に成功した。6月9日、沼田中将に第2方面軍司令部から帰還命令が出された(6月16日に脱出)。大本営はビアク島を死守するため、陸軍海上機動旅団と戦艦大和・武蔵を含む陸海軍合同増援部隊を派遣する渾作戦を発動したが、マリアナ沖にアメリカ機動部隊が出現したため作戦を中止。ビアク島守備隊は地下陣地に籠もり、アメリカ軍が化学兵器の使用を検討するほどの抵抗を続けたが、6月15日に残存戦車2両を撃破され、6月19日からのアメリカ軍総攻撃で戦力を失い、6月20日に陸軍部隊は軍旗を奉焼。残存兵500-600名で6月22日から最後の総攻撃に移ることにしたが、海軍根拠地隊長が説得して玉砕はしないこととし、6月28日に飛行場攻撃をかけた。しかしアメリカ軍に阻止され、7月1日に陸軍指揮官葛目大佐が自決、第2方面軍は玉砕を下命せず以降はゲリラ戦に移行し、組織的抵抗は終了した。日本軍捕虜は僅かに86名。これにより絶対国防圏は破綻し、アメリカ軍はフィリピンのミンダナオ島、パラオ、マリアナ諸島をビアク島配備爆撃部隊の行動範囲内に収めた。参考:歴史群像4,’16、激闘!太平洋戦争地上戦、日本戦車隊戦史
<ビアケ作戦>:ラップランド戦争を参照。
<ピアソン・サーフィス・マイン・プラウ>:アメリカ軍・イギリス軍の地雷除去鋤。工兵車両などの前面に取り付ける器材で、鋤付きプレート24枚により幅4.6mの地雷原を掘り起こし、ラッセル車のように側面に除けていく。重量1.1トン。最大除雷速度毎時30km。参考:月刊軍事研究6,’04
<ピアット>:PIAT(対戦車兵器)を参照。
<ピアノ線障害>:ソ連軍がノモンハン事件で使用した対戦車障害で、環状にした軟鋼線を多数組み合わせて網状にしたものである。九七式中戦車の精密鋳造履帯には特に絡みやすく、走行抵抗が増大するためクラッチを焼き付かせて走行不能に陥らせた。爆破することもできず、カッターで切断するには手間がかかりすぎ、除去鋤で引っ掛けて除去するにも1本の長さが数百メートルもあるので回収しきれず、スノコなどで覆いをして乗り越えるのが有効とされている。参考:機械化部隊の主力戦車、機甲入門
<ビアノチェルバーノ・イスクリ>:ポーランド空軍アクロバットチームBialo-Czerwone Iskry(白と赤の電光)。元はイスクリという名称だったが、1991年にチームメンバーが考案した紅白の塗装を施したのに伴い、これに改称された。使用機はTS-11bisAイスクラで、パイロットは第6基地航空団第1航空訓練センターの教官である。1998年、使用機を国際民間航空機関準拠アビオニクス搭載のTS-11MRに更新した。ただ機体の老朽化が進んでおり、制限荷重を5Gに下げて飛行している状態である。参考:月刊JWings5,’12、月刊航空情報11,’10
<ヒアフォード>:ハンプデン・シリーズ(爆撃機)を参照。
<ピアリー>:DD-226(駆逐艦)を参照。
<ピアリ・パシャ>:D-350(駆逐艦)を参照。
<ビアワ>:ZSU-23-4MP(自走地対空ガン・ミサイルシステム)を参照。
<ビー>:A216(通船)を参照。
<ピー>:日本海軍用語で、公娼、慰安婦のこと。Prostitutoの頭文字。参考:帝国陸海軍事典、海軍兵学校よもやま物語
<ピーア>:LCS-38(沿海戦闘艦)を参照。
<ヒーアマン>:DD-532(駆逐艦)を参照。
<ビィーズ>:TS-8(練習機)を参照。
<ビィヴ>:BIve(スマートフォンアプリ)を参照。
<ヒーヴァー>:A1767(通船)を参照。
<ヒーヴァー・キャッスル>:K521(コルベット)を参照。
<ヒーヴィー>:第2次大戦時にドイツ軍に協力したソ連側捕虜・軍属のこと。参考:月刊PANZER4,’11
<ビーエー>:日本海軍士官のスラングで、年増の女性のこと。Babaaの頭二文字。参考:帝国陸海軍事典
<ビーガム>:D38(護衛空母)を参照。
<ピーキー翼>:遷音速翼型の1つPeaky section。イギリスNPLのPierceyが開発した。飛行速度を上げていった際に、翼上面クレストより前方で最初に流れが超音速に達するようにした翼型である。超音速に達した流れは後方で等エントロピー的圧縮により減速し、弱い衝撃波を生じて音速以下の一様流速に達するので、強い衝撃波により一気に抗力を増す抵抗発散現象が起きにくい。ただし迎え角が一定範囲を超えるとクレスト後方で最初に超音速流が生じるようになり、抵抗発散に陥ってしまう。参考:航空機設計法、月刊JWings5,’20
<ピーク出力>:レーダー波の尖頭送信電力のこと。パルス・レーダーの場合、パルス内平均電力のことである。参考:レーダシステムの基礎理論
<ビーグル>:A319(沿岸測量艦)またはH30(駆逐艦)またはIl-28シリーズ(爆撃機)を参照。
<ピーコック>:U96(スループ)を参照。
<ピーコック>:イギリス海軍ピーコック級哨戒艇Peacock。参考:月刊世界の艦船5,’83
<ピーコック級哨戒艇>:イギリス海軍哨戒艇Peacock級。全長62.2m、幅10m、吃水5.5m、排水量690トン。主機はディーゼル、速力25ノット。兵装はオットー・メララ社製76mm単装砲1門、7.62mm機銃4丁。ピーコック、プローヴァー、スターリング、P242スワロー、P243スイフトの5隻が就役した。参考:月刊世界の艦船5,’83、月刊丸8,’87
<ピーコック級哨戒艇・海外シリーズ>
<オーラ級>:アイルランド海軍哨戒艇Orla級。兵装は76mm砲1門。オーラとP-42シアラが就役し、2022年7月7日に両艦とも退役した。参考:ミリタリー・バランス1989-1990、THE MILITARY BALANCE 2016、月刊世界の艦船6,’22、10,’22
<ビーコン>:PG-88(コルベット)を参照。
<ビーシー>:日本海軍士官のスラングで、無料のこと。無料→タダ→只→ロハ→イロハのロハ→アルファベットABCのBC→ビーシー。また、航海日誌の天候欄に毎日晴れのち曇り(Blue and Cloudy)と書くような馬鹿、という意味もある。参考:日本海軍史、海軍こぼれ話、帝国陸海軍事典
<ビーシープレイ>:日本海軍士官のスラングで、無料で遊ぶこと。参考:帝国陸海軍事典
<ビーシーホール>:日本海軍士官のスラングで、妻の体のこと。参考:帝国陸海軍事典
<ピーシューター>:P-26(戦闘機)を参照。
<ビーシュマ>:T-90M戦車(インド陸軍)またはT-90S戦車(インド陸軍)を参照。
<ピースアイ計画>:E737(早期警戒管制機)を参照。
<ピースアズテック計画>:F-5戦闘機(メキシコ空軍)を参照。
<ピース・アルファⅡ計画>:F-4海外ファミリー(偵察機)を参照。
<ピースアルプス計画>:F-5E/F戦闘機(スイス空軍)を参照。
<ピースイーグル>:B737AEW&C(トルコ空軍)を参照。
<ピース・イカロスⅠ計画>:RF-4E(ギリシャ空軍)を参照。
<ピースおおさか>:大阪国際平和センターを参照。
<ピース・オニクス>:F-16戦闘機(トルコ空軍)を参照。
<ピース・カーパシアン>:F-16戦闘機(ルーマニア空軍)を参照。
<ピースキーパー>:LGM-118(ICBM)を参照。
<ピース・サンⅨプログラム>:F-15S(戦闘機)を参照。
<ピース・シールド2003>:NATOとウクライナの共同演習で、2003年に実施された。ウクライナのヤコロブスキー演習場を使用し、NATO軍将校23名とウクライナ軍将兵1000名が参加している。参考:月刊PANZER3,’10
<ピース・ダイヤモンド計画>:F-4E戦闘機(トルコ空軍)を参照。
<ピース・ダイヤモンドⅢ計画>:RF-4E偵察機(トルコ空軍)を参照。
<ピース・ファルコン計画>:F-16戦闘機(ヨルダン空軍)を参照。
<ピース・フォックスⅣプログラム>:F-15I(戦闘機)を参照。
<ピース・マーブル計画>:F-16戦闘機(イスラエル空軍)を参照。
<ピースメーカー>:AU-23A(COIN機)またはB-36シリーズ(爆撃機)を参照。
<ピースメーカー>:コルト社の.45口径リボルバー、コルト・シングル・アクション・アーミー.45の別名。1873年に発売された。その後何回か製造中止になったことがある。参考:GUN用語事典
<ピースメーカー>:イギリス軍列車砲。第2次大戦勃発を受け、1940年6月に14インチ(35.6cm)カノン砲用列車砲架と13.5インチ(34.3cm)砲身を組み合わせて1941年5月に完成した。ドーバー海峡近くのマルティン・ミルに配備されたが、早々にドイツ軍28cm砲の至近弾で損傷している。修復して対岸のドイツ軍を砲撃したものの、着弾観測と照準修正が困難であまり役に立たず、1943年11月には内陸部に移され、1944年末にはスクラップにされてしまった。参考:月刊グランドパワー3,’03
<ピースラマⅠ>:F-5戦闘機(チリ空軍)を参照。
<ピーズント>:25/17ポンド砲を参照。
<ヒーター>:K69(コルベット)を参照。
<ピーターソン>:DE-152(護衛駆逐艦)を参照。
<ピーターは明日>:バトルアクス作戦を参照。
<ピータ・ヴィレモース>:F362(フリゲート)を参照。
<ビーチ200型>:海上保安庁中型飛行機。胴体下面に捜索レーダーを搭載している。1979年から17機を導入した。2010年度に退役したが、東日本大震災で被災機の穴埋めのため最終号機が現役復帰し、2014年に再退役した。参考:月刊世界の艦船7,’18
<ビーチ350型>:キングエア350海外ファミリーを参照。
<ビーチクラフト1900シリーズ>:ビーチクラフト社のコミューター機Beechcraft 1900。2003年までに各型計690機が生産された。参考:世界航空機年鑑2018-2019
<ビーチクラフト1900>:モデル99エアライナーにスーパーキングエアの主尾翼や降着装置などを組み合わせたものである。1983年11月に形式証明を取得し、1984年に就航した。参考:世界航空機年鑑2018-2019
<ビーチクラフト1900C>:ビーチクラフト1900の改良型。参考:世界航空機年鑑2018-2019
<ビーチクラフト1900D>:客室内を普通に歩けるよう、胴体断面を縦長長方形にして客室通路天井高を1.8mにしたもの。客室内は与圧されており、キャビン高拡大で座席下に手荷物を入れられるようになった。客室後方は貨物室になっている。主翼端にウイングレット、水平尾翼の翼端付近にテイルレット(下向きフィン)、胴体後下部にベントラル・フィン、胴体尾部にスタビリオン(小型補助水平安定板)が付き、方向安定性が高く、重心位置許容範囲も大きい。1991年3月に形式証明を取得した。全長17.6m、全幅17.67m、全高4.57m、自重4.831トン、最大離陸重量7.688トン。翼面積28.8平方メートル。エンジンはPT6A-67A(1279軸馬力)双発、最大巡航速度526km、実用上昇限度10058m、航続距離1311km(乗客19名)。最大ペイロード0.947トン。座席数19。1991年11月から引き渡された。参考:世界航空機年鑑2018-2019
<ビーチクラフト式B300型>:キングエア350海外ファミリーを参照。
<ビーチクラフト社>:Beechcraft。2012年5月に連邦破産法の適応を受けたホーカー・ビーチクラフト社が2013年2月に更生して再編された。12月26日、テキストロンが14億ドルでの買収を発表し、テキストロン傘下となった。参考:月刊JWings4,’14、月刊航空ファン10,’14
<ビーチャンプトン>:P1007(哨戒艇)を参照。
<ビーチング>:擱座着岸を参照。
<ビーティ>:32(戦艦)またはDD-640(リバモア級駆逐艦)またはDD-756(アレン・M・サムナー級駆逐艦)を参照。
<ビーデビラーズ>:VF-74(戦闘飛行隊)を参照。
<ピーテル・フロリス>:F826(フリゲート)を参照。
<ピート>:SS-265(ガトー級潜水艦)または零式水上観測機シリーズを参照。
<ヒートチェック>:射撃によって砲身内面が受ける急激な加熱と冷却により、表面に微細な亀裂が生じる現象。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<ピートハイン>:G94(駆逐艦)を参照。
<ピートハイン>:オランダ海軍駆逐艦。1942年2月19日、バリ島沖海戦で戦没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌
<ビード板>:Beaded sheet。補強のために凹凸の筋(ビード)を付けた外板のこと。補強材を付けるより重量や部品数を節約でき、面積当たりにかかる力が小さい軽飛行機などに使用される。長方形外板の場合には短軸方向に端から端まで付けるのが良く、長軸方向や斜め方向にしたり、端まで入れなかったりすると補強にならないので注意。参考:航空用語事典増補改訂版
<ヒートミサイル>:航空自衛隊用語で、赤外線受動誘導式空対空ミサイルのこと。参考:月刊JWings4,’23
<ビートル>:Xライター(上陸用舟艇)を参照。
<ビートル>:イギリス軍4×2輪15-cwtトラック。イギリスのコマー・カーズ社が開発し、1935年に2両がテストされて採用された。エンジンは6気筒(60馬力)。400両が生産された。参考:月刊グランドパワー4,’02
<ビートルジューズ>:AKA-11(攻撃貨物輸送艦)を参照。
<ビードルスーパーギヤールブリカント>:日本海軍の寿二型エンジン弁頭室用グリース。参考:続日本海軍よもやま物語
<ビーナス>:R50(駆逐艦)を参照。
<ビーニィ>:M1941(ウールニット・キャップ)を参照。
<ビーバー>:DHC-2MkⅠ(輸送機)またはF93(22型フリゲート)またはU-6シリーズ(汎用機)またはレオパルト1戦車ファミリーを参照。
<ビーバー潜水艇シリーズ>:ドイツ海軍小型潜水艇Biber(ビーバーの意)。参考:ナチスUボート
<ビーバー>:港湾に停泊中の敵艦を攻撃するのが主任務で、航走用の13馬力電動モーター及び蓄電池と、充電用のトラック用32馬力ガソリンエンジンを積んでいる。水平舵が無いので、潜入はできるものの潜航はできない。全長9.04m、最大幅1.6m、排水量6.3トン。水上速力6.5ノット、水中速力5.3ノット、水上航続距離130海里(6ノット)、水中航続距離8.6海里(5ノット)。潜水許容深度20-30m。兵装は艇体下部両側に搭載した魚雷1本ずつで、軽量化のため蓄電池は3分の2に減らした。乗員1名。324基が製造され、1944年8月から作戦に投入されたが、ガソリンエンジンの排気が漏れて乗員が一酸化炭素中毒を起こす死亡事故が多発、戦果は挙げられなかった。参考:ナチスUボート、グラフィックアクション29、Uボート入門
<ビーバー2型>:ビーバーの改良型。艇体を大型化し、乗員を2名に増やして長期行動を可能としている。1943年2-3月にアダムという名称の試作艇が実験されたが、実用化には至らなかった。参考:Uボート入門
<ビーバーテイル>:B-2A爆撃機の尾部形状の通称。参考:月刊軍事研究7,'15
<ピーハウ>:日本海軍用語で、慰安所のこと。ピーのハウスの略。参考:帝国陸海軍事典
<ビーバス>:DE-10(護衛駆逐艦)を参照。
<ヒービヌィ>:L175(ECMポッド)を参照。
<ヒービヌィM>:L265(ECMポッド)を参照。
<ヒービング>:Heaving、上下揺れ。上下方向の直線往復運動のこと。参考:図解雑学 船のしくみ、図解船の科学
<ピープ・サイト>:孔照門。接眼部のディスク中央に小さな孔があり、ここから照星を見て射撃する。参考:GUN用語事典
<ビーフリM>:9A4172(対戦車ミサイル)を参照。
<ピープル・スニッファー>:航空機用人検知器を参照。
<ビーム>:Beam、横梁。船体中央最大幅部分の船腹にある。参考:米海軍サバイバルマニュアル
<ビーム>:日本海軍用語で、ハンモックを吊す梁のこと。参考:帝国陸海軍事典
<ビームT6>:T6海外シリーズ(自走砲)を参照。
<ビーム切換方式>:プラナー・アレイ・アンテナのレーダー波指向方向制御方式の1つ。給電端子を多数設け、スイッチをある端子に繋ぐとある方向に電波が向かうように1対1対応で設計を行い、順次スイッチを切り替えて空間を走査する。構成は単純だが、配置できる給電端子の数に限界があるので、微細な走査には向かない。参考:レーダシステムの基礎理論
<ビームローディング>:総重量を機体幅の三乗で割ったもので、BLと略す。飛行艇の水上安定性を示す値で、1よりも小さい(幅が広い)と水上安定性や凌波性が増し、大きい(幅が狭い)と空中性能が高くなる。参考:月刊JWings6,’05、12,’19
<ピー屋>:日本陸軍用語で、風俗店のこと。参考:帝国陸海軍事典
<ビーユー>:日本海軍士官のスラングで、ブスのこと。Busuの頭2文字。参考:帝国陸海軍事典
<ビー・ライン計画>:F-4N(戦闘機)を参照。
<ひいらぎ>:LSSL-424(警備艇)を参照。
<ヒーリー>:DD-672(駆逐艦)を参照。
<ピーリーレイス>:トルコ海軍214型潜水艦1番艦Pirireis。12月22日、トルコのGTK造船所で進水。参考:月刊世界の艦船3,’20
<ピィル>:シュトゥルム-S(対戦車ミサイル車両)を参照。
<ビール>:DD-471(駆逐艦)を参照。
<ビール缶>:BDU-48/B(訓練爆弾)を参照。
<ピール・グループ>:ソ連海軍M-1艦対空ミサイル・システム用誘導レーダーのNATOコードPeel
Group。楕円形パラボラ・アンテナが垂直及び水平に1基ずつ、剥いた果物の皮のような形状で取り付けられており、大小2組セットで運用される。大きい方は高度測定用縦型アンテナと方位測定用横型アンテナからなり、捜索レーダーの情報を受けて目標の方を向き、Sバンドで目標を追尾する。小さい方はXバンドで艦対空ミサイルを追尾、目標とのずれを算出し、垂直チャンネルと水平チャンネルの送受信器2組(混信を防ぐため20MHzの周波数差を付与)を有し、ミサイル飛翔方向を補正する。参考:月刊軍事研究12,'73、9,’09、ザ・マーチ17号
<ビーレク>:ポーランド海軍コッベン級潜水艦3番艦Bielek。元はノルウェー海軍コッベン級潜水艦S309スヴェンナーである。2003年就役。参考:世界の潜水艦ハンドブック改訂第2版
<ヒーロー>:H99(駆逐艦)を参照。
<ヒーローUAVシリーズ>:イスラエルのユニビジョン社が開発した自爆型UAV。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー30>:キャニスターから射出されると主翼(直線矩形翼)と尾翼(X字)を展開し、搭載した電子光学センサーで捜索監視を行い、目標を見つけたらそのまま突入させる。重量3kg、弾頭重量0.5kg。推進はプッシャー・プロペラ、航続距離5-40km、滞空時間30分。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー70>:ヒーロー30の拡大版。重量7kg、弾頭重量1.2kg。航続距離40km、滞空時間45分。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー120>:ヒーロー70の拡大版。重量12.5kg、弾頭重量3.5kg。航続距離40-60km、滞空時間60分。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー250>:ヒーロー120の拡大版。ガソリンエンジンを積んでおり、キャニスターだけでなくランチャーからの射出も可能。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー400>:ヒーロー250の拡大版。参考:月刊軍事研究12,’15
<ヒーロー900>:ヒーロー400の拡大版。参考:月刊軍事研究12,’15
<ビーロ号>:日本陸軍の軍用犬。昭和18年8月30日、巡察中に地雷36個を発見し、甲号功章を授与された。参考:朝雲
<ビヴィン>:DE-536(護衛駆逐艦)を参照。
<ピヴェンシー・キャッスル>:K449(コルベット)を参照。
<ひうち>:AMS-4301(多用途支援艦)を参照。
<ひうち型>:海上自衛隊多用途支援艦。特務艇81号型の後継で、各地方隊に1隻ずつ配備され、訓練支援、輸送(貨物は後甲板に積む)、救難の各任務をこなし、補給艦AOEなど大型船の曳航能力も持ち、新規装備品海上試験にも投入される。船型は民間海上採油基地用サプライボートを参考にした長船首楼型で、船体構造は商船規則に基づく横肋骨式とした。艦首と艦後部両舷にブルワークがあり、艦首水線下にバウ・スラスターを持つ。船首楼甲板に艦橋と煙突があり、艦橋後部上面にポールマストが1本立っている。煙突右舷側に6.3メートルRHIB、左舷側に7.9メートル内火艇を1隻ずつ搭載する。広い後甲板が作業甲板兼貨物搭載甲板で、自走式水上射撃訓練標的(バラクーダ)2隻や曳航式水上標的を搭載し、管制(艦橋後部両舷の張り出しが管制室)と射撃評価を行える他、煙突直後の折り畳みクレーンを使っての魚雷標的発射架台の投下・回収、訓練魚雷揚収、水中音響兵器試験を実施でき、SPAT水中自走標的も運用可能。排水量に比べて貨物搭載力が大きく、高い艦船曳航能力を有し、艦橋上面に消火用放水銃も積んでいる。4-5番艦は横須賀地方隊と呉地方隊に配備するため水中通話機を装備するなど潜水艦訓練支援能力を強化しており、1-3番艦の運用実績を踏まえて艦橋と煙突の間に減揺水槽を搭載した。全長65m、全幅12m、深さ5.8m、吃水3.5m、基準排水量980トン、満載排水量1400トン。主機は新潟鉄工所製6MG28HXディーゼル(AMS-4301/-4304/-4305)2基またはダイハツ製6DKM-28(L)ディーゼル(AMS-4302/-4303)2基、出力5000馬力、可変ピッチプロペラ2軸推進、速力15ノット。兵装は艦橋頂部の防楯付7.62mm/12.7mm機銃2丁(1-3番艦は後日装備、4-5番艦は新造時から装備)。乗員40名(1-3番艦)/45名(4-5番艦)。AMS-4301ひうち、AMS-4302すおう、AMS-4303あまくさ、AMS-4304げんかい、AMS-4305えんしゅうの5隻が2002-08年に竣工し、各地方隊に1隻ずつ配備された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊、1,'22、1,'24、1,’16、1,’19、1,’04、1,’14、1,’11、2,’12、1,’13、1,’15、1,’21、JShips VOL.70、朝雲
<ひえい>:DDH-142(護衛艦)を参照。
<比叡>:日本海軍金剛型コルベットHiei。イギリスのミルフォード・ヘブン造船会社で建造され、明治11年竣工。扶桑艦、金剛と共に日本に向かった。ついでにイギリスでの留学を終えて帰国する海軍省生徒東郷平八郎らが便乗している。5月22日、横浜港に到着して就役した。明治12年2月28日、艦長が陸上で会議に参加していたため、副長が操艦して陸岸近くで写真撮影を実施。ただ天候不良で撮り直す必要があり、錨泊で待機した。3月2日、天候が更に悪化したため、副長の指揮(艦長は私用外泊中)で錨を上げたところ、風が強かったのと、機関が後進に入ってしまったのとで、座州事故を起こした。艦長と副長は共に謹慎1週間の処分が出され、更に異動を喰らっている。明治3月10日、実地研究のためのインド洋周辺航海を下命された。入港場所は艦長の裁量ということで、香港、シンガポール、セイロン島ツリンコマリ、インドのボンベイに寄港。6月26日、ボンベイを出港。7月3日、オマーンのマスカット港に入港。日本・オマーン間で初の外交交流を行い、オマーン国王への拝謁と、オマーン国王による訪艦が実現した。7月6日、マスカット港を出港。7月8日、ペルシャのブーシェフルに入港。艦長はスエズ運河通航を希望したが、海軍省から許可が下りず、日本に戻った。これが日本海軍艦による最初で最後のペルシャ湾航海で、海上自衛隊初のペルシャ湾航海となる湾岸の夜明け作戦まで100年以上間が空いている。明治23年9月16日、和歌山県沖でトルコ軍艦エルトゥールル号沈没事故が発生。本艦は金剛と共にちょうど海軍兵学校17期生を乗せて日本一周練習航海に出る直前だったため、救助したエルトゥールル号乗員をトルコまで送ることになり、9月24日に金剛と共に品川に回航され、9月26日に正式にトルコ派遣が決まった。10月5日、金剛と共に品川を出港し、85日後にトルコのコンスタンティノープルに到着して乗員を下ろした。予定では明治24年3月31日に日本に帰国する予定だったが、1ヶ月以上の大歓迎と機関故障などで出港が明治24年2月10日に遅れ、帰投中の訓練なども中止して5月9日に品川に帰港している。9月、遠洋練習航海のため品川を出港。10月2日から荒天に見舞われ、10月3日には船体が最大74度も傾いて各所が損傷、暴風で帆を畳むことすらできない状態に陥った。10月4日には艦長の軍服が全て濡れてしまい、唯一着られる礼服に雨衣を羽織って上甲板に出たが、これを見た乗員は艦長が死装束を纏っていると思い、死を覚悟したらしい。悪天候を乗り切ると、グアム、ニューブリテン、ブリスベーン、シドニー、マニラなどに寄港して品川に戻った。明治27年9月17日、黄海海戦では5隻からなる単縦陣の4番目で航行していたが、速力が低く3番目の艦に引き離されてしまい、後方から清国海軍旗艦定遠の突撃を受けた。面舵一杯で躱し、敵戦列を突っ切っていると、今度は来遠が艦尾から衝撃を掛けてきたため、速射砲2門で撃退している。しかし敵砲弾が後部マストに命中して周囲が大炎上し、更に15cm砲弾4発を喰らい、3発は不発だったが1発が右舷中央で炸裂して火薬庫も損傷した。必死の消火活動と火薬庫への注水で沈没は免れている。明治31年、三等海防艦に類別された。日露戦争勃発を受け、舞鶴港の警戒や召集機関兵の訓練を実施。明治38年1月、旅順口鎮守府艦隊旗艦となり、1月21日に舞鶴を出港し、佐世保を経由して2月4日に大連に入港した。大連港と旅順口周辺の浮遊機雷掃海や遭難船救助などを行っている。7月10日、舞鶴に帰港。7月26日、予備艦となった。明治40年4月、稼働艦に復帰し、4月5日に測量艦に艦種変更され、樺太方面の測量を行った。明治42年3月15日、警備任務が付与され、北海道・極東ロシア領方面で密漁・密輸船取り締まりや国民保護任務に就いた。明治44年に除籍された。参考:月刊世界の艦船5,'23、月刊丸6,’14
<比叡>:日本海軍金剛型巡洋戦艦Hiei。明治44年起工。大正3年4月16日、館山沖で10/10全力公試を実施。排水量27390トン、出力76127軸馬力、速力27.724ノットだった。8月4日竣工・就役、巡洋戦艦に類別された。8月18日、第1艦隊第3戦隊に配属された。大正4年12月13日、第2艦隊第3戦隊に転属。大正5年12月1日、第2艦隊第3戦隊を退いた。大正6年12月1日、第2艦隊第3戦隊に配属された。大正9年12月1日、第2艦隊第3戦隊を退いた。大正10年12月1日、第1艦隊第2戦隊に配属された。大正11年12月1日、第2艦隊第4戦隊に転属。大正14年、前部マストを檣楼化した。大正15年、1番煙突にフードを着けた。昭和3年、気球の代わりに水偵の搭載を開始。昭和4年9月、第1次近代化改装を完了。11月30日、第2艦隊第4戦隊を退いた。昭和5年のロンドン条約締結で練習戦艦への改装を開始。昭和6年6月1日、戦艦に艦種変更された。昭和7年12月1日、練習戦艦に艦種変更された。12月31日、練習戦艦への改装を完工。昭和8年8月25日、特別大演習観艦式で昭和天皇の御召艦となった。昭和12年、第2次近代化改装を開始。昭和14年12月5日、宿毛湾で第2次近代化改装後の10/10全力公試を実施。排水量36332トン、出力137970馬力、速力29.7ノットだった。昭和15年1月31日、第2次近代化改装を完工。11月15日、第1艦隊第3戦隊に配属された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は第1艦隊第3戦隊第1小隊所属で、真珠湾攻撃に参加。昭和17年4月5日、セイロン島攻撃に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。7月14日、第3艦隊第11戦隊に転属。昭和17年8月24日、第2次ソロモン海戦に参加。10月26日、南太平洋海戦に参加。11月12日から第3次ソロモン海戦に参加、11月13日1600に自沈。12月20日に除籍された。2019年1月31日、ポール・アレン財団潜水調査チームが、ソロモン諸島サヴォ島北西の深さ1000mの海底で、船体中央2番主砲塔から艦尾までの長さ150mの部分が上下逆さになって沈んでいるのを発見した。1番・2番主砲塔の間で船体が破断して艦前部70mは分離したかバラバラになったかで別の所に沈んでいるらしく、破断面の外板は外側に向かってめくれ上がっており、前部主砲塔弾火薬庫が爆発したとみられる。参考:戦艦入門、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船9,’09、1,’12、4,’19、5,’19、3,'23、月刊丸3,’14
<ピエゾ素子>:圧電素子を参照。
<ピエト・ヘイン>:F811(フリゲート)を参照。
<ピエドラブエナ>:52(哨戒艦)を参照。
<ピエトロ・ヴェヌーティ>:イタリア海軍212A型潜水艦3番艦Pietro Venuti。2014年進水。2016年7月6日、イタリア海軍に引き渡された。参考:月刊世界の艦船9,’16、8,’17
<ピエトロ・カルヴィ級>:イタリア海軍航洋型潜水艦Pietro
Calvi級。船体は複殻式である。3隻が就役し、2隻は後に輸送潜水艦への改造を受けた。イタリア降伏時に1隻がドイツ軍に接収されてUIT21となった。参考:ナチスUボート
<ピエトロ・カルヴィ級・海外シリーズ>
<UIT21型>:ドイツ海軍潜水艦。1隻を接収して使用した。全長84.30m、最大幅7.71m、吃水5.21m、水上排水量1550トン、水中排水量2060トン。主機はディーゼル直結推進方式、水上用フィアット製ディーゼル2基・水中用電動モーター2基、水上4400馬力、水中出力1800馬力、2軸推進、水上速力17.1ノット、水中速力7.9ノット、燃料搭載量248.5トン、水上航続距離11400海里(8ノット)、水中航続距離80海里(4ノット)。兵装は533mm魚雷発射管8門(艦首・艦尾に4門ずつ。魚雷16本)、13.2mm連装機銃2基。乗員72名。UIT21が就役した。参考:ナチスUボート
<日枝丸>:日本海軍平安丸型特設潜水母艦Hiye
maru。元は日本郵船北太平洋(シアトル)航路貨客船で、昭和5年7月31日に竣工し、8月23日から就航した。昭和16年11月、日本海軍に徴用され、輸送任務を行った後、特設潜水母艦に改造され、第6艦隊に配備された。昭和18年10月、特設運送船に艦種変更され、横須賀鎮守府所属となった。11月17日、ラバウルからトラックに向かっていたところ、トラック南西390海里でSS-228ドラムの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船4,’16、月刊モデルアート9,’15増刊
<ビエリク>:M-346練習機(ポーランド空軍)を参照。
<ヒェル>:P989(ミサイル艇)を参照。
<ヒェル級高速哨戒艇>:ノルウェー海軍高速哨戒艇Tjeld級。速力45ノット。兵装は魚雷発射管4門と高角砲2門。1961-66年に20隻を発注した。アメリカ海軍も数隻購入している。参考:月刊軍事研究1,’00
<飛燕>:三式戦闘機シリーズを参照。
<ピオニアパンツァー>:レオパルト1戦車ファミリーを参照。
<ピオニアパンツァー2>:レオパルト1戦車ファミリーを参照。
<ピオニー>:K40(コルベット)を参照。
<ピオニール・シリーズ>:ソ連戦略ロケット軍中距離戦略弾道ミサイル。ピオニールはソ連共産党が組織した少年団の通称で、英語に直すとPioneerである。INF条約で全廃された。参考:月刊軍事研究10,’15
<ピオニール>:別名15P645、米軍コードはSS-20、NATOコードはセイバー(Saber)。SALTⅡで3段式ロケットのRS-14テンプ2S大陸間弾道ミサイルが制限対象になったため、1段目と2段目を流用して射程を短縮し制限外に収めたもので、1973年4月20日にソ連閣僚会議決定第280-96号で開発が正式決定し、1974年に最初の発射実験が行われ、1976年8月30日に戦略ロケット軍第24新鋭ロケット師団(ベラルーシのゴメリ)に配備された。ミサイル名称は15Zh45で、テンプ2Sの3段目ロケットを外し、MIRVを積んだものである。発射重量37トン。推進は2段式固体ロケット、射程5500kmで、ヨーロッパ全土、日本、ルソン島などを射程内に収める。弾頭は15F452MIRV(威力150キロトン)3個。誘導方式は慣性誘導、CEP500-550m(285m?)。TELは6軸12輪のMAZ-547Vで、15U106ランチャーを介して15Zh45ミサイルを搭載する。指揮所1つでTEL2両を指揮する。参考:月刊軍事研究10,'15、7,'19、月刊丸1,’98、ソビエト・ロシア戦闘車両大系(下)、核兵器事典
<ピオニールK>:改良型15P645K。1976年から開発された。指揮所1つでTEL3両を指揮できるようにしてあり、1個大隊がTEL3両で編成されるようになった(1個連隊は3個大隊編成)。1980年に実戦配備された。参考:月刊軍事研究10,’15
<ピオニールUTTKh>:UTTKhは性能諸元向上型の略で、別名15P653。1977年から開発された改良型で、CEPを450mに向上させた15Zh53ミサイルを使用する。1981年から配備された。参考:月刊軍事研究10,’15
<SS-20>:西側推定諸元は以下の通り。SS-16の第2・第3段を流用したIRBMである。全長16m、直径1.7m、重量225トン。弾頭は151キロトンMIRV3基。射程5000km。誘導は慣性誘導、CEP750m。1977年から配備された。参考:ザ・マーチ42号、17号
<SS-20Mod2>:西側推定諸元は以下の通り。弾頭は150キロトンMIRV3発。射程5000km。CEP400m。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ピオニール・ファミリー>
<ゴルン>:ペリメートル自動報復システム用指揮通信ロケット15P656、ゴルンは楽器のホルンの意。ピオニールUTTKhを改造したもので、1984-85年に発射テストが行われて配備されたが、すぐINF条約が締結されたため、退役に追い込まれた。参考:月刊軍事研究10,’15
<ピオン>:2S7シリーズ(自走砲)を参照。
<ピオンNKS>:ロシアのELINT衛星(レーダー偵察衛星?)14F319 Pion NKS。リアーナ・システムを構成する衛星で、TsSKBプログレスが設計した。敵艦船、車両、航空機などが発信する電波をキャッチし、位置の特定が可能。長射程対艦ミサイルの誘導にも使用されるといわれ、大型のアンテナを有している。2013年に開発を終える予定としていたが、初号機の打ち上げは2015年後半以降にずれ込んだ。参考:月刊軍事研究5,’13、11,’15、月刊世界の艦船11,’14
<非音響目標カタログデータ作成器材>:自衛隊の機器。富士通製。参考:月刊軍事研究5,’13
<ピオンボ>:イタリア海軍フルット級潜水艦Piombo。1943年9月10日、建造中にドイツ軍に接収され、UIT13となった。参考:ナチスUボート
<ピカール>:日本海軍の真鍮磨き用薬品。洗面器、砲口栓、伝声管などを磨くのに使用される。磨きっ放しにすると真鍮が酸化して真っ黒になってしまうので、自腹で歯磨き粉を購入し、仕上げ磨きをしなければならない。参考:海軍よもやま物語
<被害局限戦略>:1964年1月にアメリカのマクナマラ国防長官が提唱した核戦略。当時議論されていたオーバー・キル論とフル・ファースト・ストライク論の双方を否定し、ミニットマンICBMの保有数を1200基に抑える理論的根拠とされた。核戦争の抑止にはソ連の社会を完全に破壊するだけの戦略核報復部隊が必要だが、万が一核戦争が発生した場合に備え、アメリカ社会に対する被害を局限するためのより現実的な戦力も持たなければならない。現状ではアメリカに最も有利な状況下で核戦争が勃発したとしても、米ソ共に膨大な損害を被ることになるため、戦略核によりソ連のICBM基地を攻撃して被害を局限することが最も実際的で効果的な手段である、というものである。ソ連から先制攻撃を受けた場合に発射済みサイロを攻撃することになるという反論もあったが、ソ連のICBMには準備に時間が掛かる旧式のものがあり一斉発射ができないので、残存ICBMだけでも破壊することに意味はあるとした。参考:アメリカの核兵器
<非開発品>:NDIを参照。
<控え銃(陸上自衛隊)>:ひかえつつ、と読む。気を付けの姿勢から2挙動で小銃を胸の前に移動させ、小銃を斜めに傾け、右手で銃床付け根、左手でハンド・ガード基部を握り、体から少し離した位置に保持する。参考:MAMOR vol.116、vol.152
<控兵(日本陸軍)>:日本陸軍の衛兵の1つ。衛兵所に詰めていて、伝令・巡察・外来者の案内、表門出入者の監視、その他雑用をこなす。巡察官などが試問してきたら、姿勢を正して簡明に答える。外来者に対しては容儀を正し懇切丁寧に取り扱う。面会者が不在なら、行き先と帰営時刻を調べて通告する。司令の定めにより仮眠する時は、次回服務者を全員起こした後、装具を付けたままで服装を乱さないよう寝る。夜になったからといって、勝手に仮眠室に入って寝てはいけない。起こされたら直ちに起き上がり、服装を正し、必要なら用便を済ませ顔を洗い、立哨または控兵の任務に就く準備をする。上番者は交代5分前に服装を整え、不要品を衛兵所に置き、用便を済ませるなどの準備をする。歩哨の交代が来たら、司令に服務中の状況を報告し、武器被服の手入れを行う。理由無く衛兵所を離れると、平時でも禁固刑に処される。暇だからと新聞を読んだり手紙を書いたり、敬礼直後にまたは通行人に対して私語や笑い声を漏らすような不謹慎な行為は慎む。火鉢に足をかけて靴や服を焦がしたり、紙屑に引火させたりしてはいけない。服務中に具合が悪くなったら、司令に申し出る。参考:衛兵勤務必携
<美楽>:356(揚陸艦)を参照。
<非核三原則>:核兵器をもたず、つくらず、もちこませず。1968年2月5日の衆議院予算委員会で佐藤内閣総理大臣が誓約した。更に核兵器を憎み核兵器の絶滅を期する、平和利用のための原子力開発に努力する、日米安保条約の下アメリカの抑止力により安全を確保する、の3つを合わせた4本柱を基本方針とした。ちなみにアメリカ政府は1960年代から基地、艦船、航空機などに核兵器が存在していることを肯定も否定もしないスタンスをとっており、1992年にアメリカ海軍が潜水艦を含む全艦艇から戦術核を撤去した後もこれを継続している。1971年11月24日、衆議院本会議で非核三原則及び沖縄返還時の核撤収・返還後の核持ち込み禁止措置、沖縄米軍基地の速やかな将来の縮小整理措置を決議した。1979年3月9日、憲法解釈上核兵器を持てる場合があるという政府統一見解を参院予算委員会に提出した。参考:戦争がやってくる、月刊軍事研究8,’05、軍縮条約・資料集第2版、世界の軍用機1979、月刊世界の艦船3,’12
<東アフリカ緊急対処部隊>:アメリカ軍の部隊、略称EARF。2013年に連合統合任務部隊-アフリカの角の隷下に創設された部隊で、東アフリカ地域での不測事態対処を主任務とする。2013年12月、南スーダン情勢悪化に伴い、在スーダン米大使館警護のためジュバに出動した。2014年7月、リビアに派遣され、在トリポリ米大使館からチュニジアへ非戦闘員を運んだ。参考:月刊軍事研究1,’15
<東立川駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は東京都立川市栄町1-2-10。大元は日本陸軍獣医資材本廠で、1952年に立川駐屯地として開設され、1963年に小平駐屯地立川分屯地に改編され、1974年に東立川駐屯地として創設された。1995年、第101測量大隊が廃止され、中央地理隊が新編された。2007年、中央地理隊が地理情報隊に改編された。2019年10月10日、立川市役所で自衛消防審査会に参加し、女性の部で優勝した。11月8日、消防の重要性認識による災害防止寄与の功績で、消防庁から表彰された。2020年6月3日、東京地本が自衛官候補生採用試験を実施。参考:東立川駐屯地ホームページ、JGround Vol.23、朝雲
<東立川駐屯地(2015年)>:中央情報隊地理情報隊、第305基地システム通信中隊東立川派遣隊、第126地区警務隊東立川連絡班、東部方面会計隊第307会計隊(2015年3月26日から第431会計隊東立川連絡班)、東立川駐屯地業務隊、東京地方協力本部三多摩地区隊が駐屯している。参考:東立川駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<東立川駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2023年7月14日、駐屯地業務で優れた功績を挙げたとして、森下陸幕長から第2級賞状と副賞の盾を授与された。参考:朝雲
<東千歳弾薬支処>:陸上自衛隊の弾薬支処。1955年2月28日、北海道地区補給処隷下に新編された。1985年4月6日に廃止された。参考:北海道補給処ホームページ
<東千歳駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。史料館には戦車模型などが展示されている。所在地は北海道千歳市祝梅1016。千歳駅から路線バスで15分(「水道前」下車、徒歩3分)、徒歩で1時間15分。創立記念行事では日本海軍時代に連山滑走路だった広い平坦部で訓練展示が行われ、各種戦闘車両による空包射撃、92式地雷原処理車の演習ロケット弾実射、戦車による発煙弾発射などが見られる。シャトルバスが出るが、始発でも駐屯地への到着時間が開門より30分以上後なので注意。また、門から式典や訓練展示の行われる会場まで1kmくらいあり、相応の体力が要る。千歳訓練場と隣接しており、千歳訓練場と北海道大演習場を結ぶ道路はC経路と呼ばれ、戦車が通れるコンクリート舗装が施されていて、一般車両に混じって戦車が走る光景は各種動画サイトにもアップロードされている。元は日本海軍第12航空艦隊の所在地で、1945年9月初めに第2基地がアメリカ陸軍航空軍第5航空軍、1946年4月に第1基地がアメリカ陸軍第11空挺師団(1949年4月から第7師団)に接収・使用されていた。1952年6月、第1基地に千歳臨時部隊が置かれ、1954年8月に第2基地からアメリカ軍が撤収して東千歳駐屯地になった。9月、第11普通科連隊と第1特科団が移駐。1956年1月25日、第7特科連隊が新編され、直後に真駒内駐屯地に移駐した。1961年2月、第7偵察隊と第7通信大隊が移駐してきた。1962年、第7混成団が駐屯を開始。1月、第7特科連隊主力と第7施設大隊が移駐してきた。3月13日、第4特科群が上富良野駐屯地に移駐した。8月15日、第7混成団が第7師団に改編され、引き続き駐屯した。1970年、第116特科大隊が飯塚駐屯地に移駐した。1971年、第126特科大隊が新編された。第7特科連隊第5大隊が静内分屯地に移駐した。1978年3月、第126特科大隊が美唄駐屯地に移駐した。1981年3月、第7後方支援連隊が新編された。8月、通信標定隊が久里浜駐屯地から移駐し、第1電子隊の隷下に入った。1996年3月、第1陸曹教育隊上級陸曹教育中隊が倶知安駐屯地に移駐した。2009年12月1-14日、ヤマサクラ57演習を実施。日本側から4500名、アメリカ側から1200名が参加した。2011年4月22日、北部方面混成団編成完結式を実施。2013年7月31日、日露防衛交流として、ロシア東部軍管区司令官代理ら4名と北部方面総監部が駐屯地を訪問した。2015年7月29-31日、大型募集広報イベントのノーザンスピリット2015に協力し、宿泊体験を行った。2016年3月14日、北千歳駐屯地、地元父兄会、隊友会と留守家族支援協定を締結。大規模災害発生時の隊員家族安否確認、生活・介護支援、子供の一時預かり、緊急登庁支援などについて協力する事となった。8月6-8日、ノーザンスピリット2016に協力し、宿泊体験を行った。2018年の台風21号と北海道胆振東部地震により標柱が倒壊しかけたため、第7師団第7後方支援連隊がトドマツで高さ11mの新標柱を作り、第7施設大隊が正門前に設置、2019年5月25日に除幕式を行った。8月3-5日、ノーザンスピリット19に協力した。
2020年1月26日、北千歳駐屯地・空自千歳基地隊員と共に、青空東北会主催スノーバスターズ2020に参加し、ボランティア除雪活動を行った。4月4-5日、自衛官候補生課程計93名の入隊式を実施。2021年4月21日、札幌地本が地域援護会同を実施。8月28-29日、高校3年女子生徒と保護者を対象に札幌地本が実施したガールズツアー2021に協力した。2022年5月12日、援護センターが令和6年度定年退職予定者5名に令和4年度第3回定年2年前職業相談を実施。2023年4月18-24日、北海道防衛局が行った新規採用者15名の研修に協力した。
参考:スピアヘッドNo.14、No.15、JGround Vol.23、飯塚駐屯地ホームページ、戦車隊長、MAMOR vol.91、朝雲、第11旅団ホームページ、倶知安駐屯地ホームページ、久里浜駐屯地ホームページ、上富良野駐屯地ホームページ
<東千歳駐屯地(2015年)>:第7師団司令部/司令部付隊、第11普通科連隊、第7特科連隊、第7高射特科連隊、第7偵察隊、第7後方支援連隊、第7施設大隊、第7通信大隊、第7化学防護隊、第7音楽隊、第1高射特科団、第101高射直接支援大隊、第1電子隊、北部方面混成団、北部方面指揮所訓練支援隊、東千歳駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<東千歳駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2011年11月15日、緊急登庁支援訓練を実施。大災害発生時に隊員の子供を受け入れる実動訓練を行った。2019年7月24日、ヤマサクラ演習での各種支援の功績で、陸幕長から2級賞状と副賞が贈呈された。参考:朝雲
<東ティモールPKO>:PKO法に基づく自衛隊海外派遣その7。国連東ティモール暫定行政機構UNTAETに協力し、陸自施設群が道路の建設を行った。派遣されたのは陸自隊員680名、車両295両、9mm拳銃102丁、64式小銃568丁、62式機関銃10丁、C-130H輸送機7機、U-4多目的支援機2機、DD-124みねゆき(PKOに護衛艦が参加するのは初)、LST-4001おおすみで、海自艦は陸自部隊輸送に従事し、派遣期間は2002年3月15日から4月27日である。2002年4月(3月2日?)から現地での活動を開始し、道路・橋梁120カ所を補修、138万キロリットルの給水支援(給水場維持管理)と117件の民生支援を行って2004年5月20日(6月25日?)に任務を終了した。物資の陸揚げが可能な港湾が1つしか無かったため、LCACを使用して直接陸上に物資と隊員を送り込んでいる。2002年12月4日、首都ディリで暴動が発生して国連事務所職員や現地邦人が孤立したため、日本人17人と7カ国24人を救出して宿営地に保護した。日本人レストラン経営者からの救助要請では、武器使用権限が正当防衛と緊急避難のみで、武器使用を伴う救出作戦ができなかったため、「休暇で外出していた隊員3名の安全を確保する」という名目でレストランに偵察チームを派遣し、「偶然日本人5人と外国人4人が保護を求めてきた」ので隊員の「ついでに」保護し、「たまたま車両に空きがあったので」乗せて宿営地まで運ぶという回りくどい理由を付けて助け出している。参考:月刊軍事研究5,’12、10,’03、2,’11、月刊JWings9,’04、5,’12、月刊世界の艦船6,’11、8,’14、7,’19、朝雲
<東ティモール軍>:小規模で、国内治安と国境警備を主任務とする。2001年1月、志願現役1500名と予備役1500名の規模を目指して訓練を開始。2006年の西部出身軍人によるストライキをきっかけに内戦に発展しかかり、国内治安が崩壊状態に陥ったが、国際部隊を派遣してもらって再建を図った。2013年初め、国際治安維持部隊が撤収。2015年、アメリカ海兵隊と小隊規模の小規模訓練を行った。2019年2月2日、国防軍創設18周年記念式典を行い、自衛隊から統幕長代理として統幕副長が出席した。参考:THE MILITARY BALANCE 2016、朝雲
<東ティモール軍(2015年)>:現役総兵力1330名(陸軍1250名、海洋エレメント80名)。陸軍は歩兵大隊2個、憲兵小隊1個、兵站支援中隊1個からなる。海洋エレメントは哨戒艇7隻を保有する。南スーダンにUNMISSオブザーバー3名を派遣している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<東ティモール国際軍>:INTERFETを参照。
<東ティモール難民救済>:PKO法に基づく自衛隊海外派遣その5。東ティモールの武力衝突で発生した難民救援を目的とし、1999年11月22日から2000年2月9日までC-130H輸送機4機とU-4多目的支援機1機をインドネシアのスラバヤに派遣した。輸送飛行47回で資材400トンを運んでいる。参考:月刊軍事研究5,’12、10,’03、月刊JWings5,’12
<東ティモールPKO(その2)>:UNMITを参照。
<東ティモール民族解放軍>:ファリンティルを参照。
<東ドイツ海軍>:1981年、パルヒムⅠ級警備艦16隻が竣工開始。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊
<東ドイツ海軍(1977年)>:兵力16000名(うち徴兵10000名)、予備役25000名。リガ級護衛艦2隻、ソイ級駆潜艇4隻、ハイ級駆潜艇13隻、オサ級ミサイル艇13隻、シェルシェン級魚雷艇15隻、イルチス20トン級魚雷艇40隻、リベル級魚雷艇15隻、沿岸哨戒艇26隻、コンドル級沿岸掃海艇25隻、ロッベ級上陸用舟艇6隻、ラボ級上陸用舟艇12隻、Mi-4汎用ヘリ8隻、Mi-8輸送ヘリ5機を保有する。参考:軍事力バランス78年版
<東ドイツ海軍(1989年)>:兵力16000名(うち徴兵6000名)、予備役21000名。ペーネミュンデ、ヴァルネミュンデ、ドランスク=ブグ、ザースニッツ、ヴォルガストに基地がある。コニ級フリゲート3隻、パルヒムⅠ級フリゲート16隻、タランチュルⅠ級コルベット5隻、S-1バルコム10級ミサイル艇1隻、オサⅠ級ミサイル艇12隻、シェルシェン級魚雷艇6隻、リベル級魚雷艇14隻、コンドルⅡ級沿岸掃海艇24隻、コンドルⅠ級沿岸掃海艇18隻、ホイエルスヴェルダ(フロッシュ)級中型揚陸艦12隻、油槽船3隻、情報収集艦3隻、フロッシュ級戦闘支援艦2隻、補給支援艦6隻、練習艦1隻を保有する。海軍航空隊は兵力1000名。Su-22戦闘攻撃飛行隊1個25機、Mi-14対潜ヘリ飛行隊1個12機、SSC-3スティックス沿岸砲兵中隊3個を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ空軍>:1981年、MiG-23戦闘機の配備を開始。参考:月刊エアコマンド8,’93
<東ドイツ空軍(1977年)>:兵力36000名(うち徴兵15000名)、予備役30000名。MiG-17戦闘機35機、MiG-21戦闘機270機、MiG-21偵察機12機、Il-14偵察機4機、L-29練習機45機、MiG-15UTI練習機20機、MiG-21UTI練習機41機、MiG-21練習戦闘機50機、Il-14輸送機20機、Tu-124輸送機3機、Tu-134輸送機8機、Mi-1汎用ヘリ46機、Mi-4汎用ヘリ18機、Mi-8輸送ヘリ40機、57mm/100mm高射砲120門、S-75地対空ミサイル22基、S-125地対空ミサイル4基を保有する。参考:軍事力バランス78年版
<東ドイツ空軍(1989年)>:兵力37100名(うち徴兵15000名)、予備役52500名。MiG-23BN戦闘攻撃飛行隊2個25機、Su-22戦闘攻撃飛行隊3個35機、輸送飛行隊3個(An-2/-14、An-26輸送機18機、Tu-134輸送機15機、L-410輸送機)、攻撃ヘリ連隊2個(Mi-24攻撃ヘリ65機、Mi-8武装ヘリ35機)、Mi-8強襲輸送ヘリ連隊1個40機、MiG-21F/MF/PF/U戦闘飛行隊14個210機、MiG-23戦闘飛行隊45機、MiG-29戦闘飛行隊2個20機、Yak-18練習機、L-29練習機16機、L-39練習機、Z-226練習機、MiG-15UTI練習機、MiG-21U練習機、MiG-23U練習機、Su-22U練習機、Z-43連絡機、Mi-4連絡ヘリ、S-75/S-125/S-200地対空ミサイル連隊7個205基、レーダー連隊2個からなる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ交通警察(1989年)>:兵力8500名。16個中隊からなり、小火器とRPG-7対戦車ロケットを装備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ国境警備隊(1989年)>:国防省隷下で、隊員数47000名。警備地区6ヵ所、コマンドー部隊2個、沿岸警備旅団1個、砲兵連隊1個、国境警備大隊18個、独立沿岸警備大隊4個、舟艇大隊2個、多連装ロケット部隊1個、教導連隊6個からなる。85mm砲D-44を50門、122mm砲M1938を36門、130mm砲M46を18門、122mm多連装ロケットランチャー、哨戒艇15隻を保有備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ人民軍>:第2次大戦終結でソ連に占領され、ドイツ国防軍は武装解除された。1948年7月、人民警察内に特別国境警備隊が創設され、将来の再軍備に備えて将校の教育が開始された。1955年9月22日、東ドイツ首脳が憲法を改正して祖国防衛のための軍隊を創設すると発表。1956年1月、国防省を創設して人民警察を人民軍に改編し、ワルシャワ条約軍に組み込んで志願兵の募集を開始した。兵力は陸海空軍合わせて120000名である。後に兵力は90000名に縮小された。1961年9月、国防法が制定され、徴兵制が敷かれた。1968年、プラハ事件に派兵。1975年、ソ連・東ドイツ友好協力相互援助条約を締結。アンゴラ人民共和国やモザンビーク人民共和国に軍事顧問団を派遣した。ワルシャワ条約軍で最も重要な軍隊であり、東ドイツ駐留ソ連軍集団司令部の隷下にあるといわれる。1989年4月28日から一方的兵力削減を開始。兵力10000名、戦車連隊6個、戦車600両、飛行連隊1個、戦闘機50機を削減した。1990年10月3日、東西ドイツ統一時の兵力は9万名で、戦車2300両、装甲車9000両、火砲5000門、輸送車85000両、航空機700機、艦船192隻、小火器120万丁、弾薬29万5千トン、液体ロケット燃料4500トンを保有していた。統一直後にドイツ連邦軍に残る選択をしたのは5万名で、中佐以上の人員と国家秘密警察要員は原則として退役となり、他の階級は1つ降格となっている。1992年には25000名、1994年には18000名、1997年には15000名に減少した。装備は殆どが譲渡されるか廃棄されており、残ったのはアグレッサー用のMiG-29戦闘機24機、オープン・スカイズ条約用監視機、VIP用旅客機少数のみである。参考:月刊軍事研究3,’97、月刊PANZER5,’79、ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ人民警備部隊(1989年)>:東ドイツ内務省隷下で、兵力12000名。21個大隊からなり、BTR-40/-152装甲車や82mm迫撃砲を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ民間防衛隊(1989年)>:兵力15000名。14個大隊からなり、軽火器を装備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ陸軍>:1953年、SK-1装甲車の量産を開始。参考:月刊グランドパワー2,’05
<東ドイツ陸軍(1979年)>:兵力105000名(徴兵67000名)、予備役20万名。北部軍団と南部軍団からなり、自動車化狙撃師団4個、戦車師団2個、砲兵旅団2個、重地対地戦術ミサイル(スカッド弾道ミサイル)旅団2個(1個?)、高射砲・砲兵連隊2個、対戦車大隊2個、空挺大隊1個を主力とする。T-54/-55戦車2500両、PT-76軽戦車120両、BMP歩兵戦闘車1500両、BTR-50P/-60P/-152装甲車・BRDM-1/-2装甲車・FUG66装甲偵察車計880両、D30榴弾砲・122mmカノン砲M1955計335門、130mmカノン砲M1954を100門、152mm榴弾砲D20を72門、120mm重迫撃砲M1943を250門、BM21多連装ロケット108両、RM70多連装ロケット、フロッグ7地対地ロケット24基、スカッドB弾道ミサイル16基、S60高射砲130門、KS19高射砲65門、ZSU-23-4自走対空機関砲105両、M1955対戦車砲、9M14対戦車ミサイル、3M6対戦車ミサイル、2K11地対空ミサイル、9M32携帯地対空ミサイルなどを保有する。参考:月刊PANZER5,’79、軍事力バランス78年版
<東ドイツ陸軍(1989年)>:兵力12万名(うち徴兵71500名)、予備役25万名。軍管区(軍司令部1個、自動車化狙撃師団2個、戦車師団1個)2個、中央直轄の砲兵旅団1個と空挺大隊1個、軍直轄のスカッド弾道ミサイル連隊2個、砲兵連隊2個、2K11地対空ミサイル連隊2個、高射砲連隊1個、工兵連隊5個(うち舟橋架橋連隊2個)、対戦車大隊2個、予備役師団5個からなる。T-54/-55戦車2100両、T-72戦車400両、T-34/85戦車640両(保管中)、BRDM-1/-2偵察車1050両、BMP-1/-2歩兵戦闘車1000両、BTR-60P装甲車2500両、BTR-70装甲車1000両、MT-LB装甲車150両、BTR-50P/-152装甲車700両(保管中)、122mm砲D-30を400門、122mm砲M1938(M-30)を200門、130mm砲M-46を90門、152mm榴弾砲D-20を180門、2S1自走砲300両、2S3自走砲90門、CzRM-70多連装ロケット200両、BM-24多連装ロケット20両、82mm迫撃砲100門、120mm迫撃砲550門、フロッグ7地対地ロケット44基、9K79弾道ミサイル8基、スカッドB弾道ミサイル28基、9M14/9K111/9M113対戦車ミサイル620基、85mm対戦車砲D-48を100門、100mm対戦車砲T-12を200門、ZSU-23-4自走高射機関砲96両、ZU-23高射機関砲・ZSU-57-2自走高射機関砲計200基、9M32携帯地対空ミサイル、2K11/2K12/9K33/9K31地対空ミサイル300基を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東ドイツ労働者民兵(1989年)>:東ドイツ国防省隷下で、兵力は推定50万名(正規民兵は3000名)。戦闘グループ15000個からなる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<東日本大震災>:2011年3月11日に発生した、平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震とこれに伴う原子力発電所事故による災害。東北地方では宮城県沖を震源とする大地震が30年以内に99%の確率で起こると予測されており、2008年10月にみちのくALART2008訓練を行い、その後も毎年自治体と自衛隊などの共同訓練を実施、東北方面隊では全隊員に発災時の担当地域を熟知させるなど震災に備えていたが、その想定を遙かに上回ってしまった。また、最大波高15m・最大到達高40m以上の大津波が北海道から沖縄までの太平洋全域に到達、青森県三沢市から千葉県旭市まで450kmに渡る沿岸域が内陸数kmまで飲み込まれ、岩手県や宮城県では数個の市町村が丸ごと海没したうえ流出した油と大量の瓦礫に火が付いて大火災が発生し、数棟の鉄筋コンクリートの建物の外壁だけを残して跡形も無くなった。また、ビルの窓に自動車が突き刺さり、屋上にバスや大型高速フェリーが鎮座するといった信じがたい光景が広がっていた。岩手県宮古市田老地区では日本一強固とされた高さ10メートルの大防潮堤が倍の高さの大津波に襲われてコンクリートの残骸と化し、岩手県大槌町では人口15000人の半数と連絡が取れなくなり、町長以下町役場の職員の4分の1が死亡または行方不明(軍隊基準でいうと「全滅」以上の損害で組織的行動が不可能になる)、福島県新地町から南相馬市にかけての沿岸では30kmにわたり住宅地が消滅し、岩手県久慈市にある国家石油備蓄基地の屋外タンクも壊滅した。海岸から4km離れた石巻市大川小学校では想定津波高さ1m未満で事前訓練通り校庭に全校生徒を避難させたが、北上川を遡ってきた津波は高さ10m以上あり、校舎の屋根をも軽く越えてしまい、全校生徒108人の7割が死亡・行方不明となっている。青森から茨城にかけての14の港と港区が被災し、造船所や船舶も多大な損害を被った。全面核戦争になってもゴキブリとネズミと一緒に生き残ると言われた陸自レンジャー隊員の命を奪い、23mm機関砲弾に直撃されても飛行を維持できるUH-60J救難ヘリのメイン・ローターをへし折り、ハワイではSSN-713ヒューストンとSSN-705シティ・オブ・コーパス・クリスティの繋留索を切断してSSN-713ヒューストンのスクリューを大破させ、カリフォルニア州にも到達して死者1人を出し、ペルーやメキシコなどでも観測され、更に南極大陸にも達して棚氷を破壊、巨大氷山を生んでいる。2011年11月1日現在の日本の死者は15829人、行方不明者は3686人で、北海道から神奈川県までの広範囲で犠牲者を出した。死因の92.5%は水死で、行方不明者の殆どは海に引きずり込まれてしまったとみられ、日本のみならず世界各国から救助隊が駆けつけたものの成果は乏しく、捜索関係者が「遺体があるだけいい」と漏らすほどの状況だった。また、福島原発の冷却用非常電源が全て海水に浸かって使用不能となり、原子炉建屋の水素爆発により77万テラベクレル(チェルノブイリ原発事故の1割)の放射能を持つ放射性物質(キセノン133/135、ヨウ素131/134、セシウム134/137など)が放出され、作業員3000人と市民200万人が低-中線量被曝を起こし、原発から海に流出した放射能は1京5000兆ベクレルに達すると推定され、国際原子力事故評価尺度レベル7の大事故となっている。
2011年3月11日朝、横須賀地方総監が民間人との懇談の中で、喫緊の課題である関東大震災の発災は予測がつかない、今夜かもしれないし明日の未明かもしれない、との会話を交わしたが、「神様は半日どころか、数時間しか待ってくれなかった」。14時46分55秒、牡鹿半島金華山沖東南東130km・深さ24kmを震源とするマグニチュード9.0(TNT換算で477メガトン。日本の観測史上最大、1900年以降世界5番目)の大地震が発生。岩手県沖から茨城県沖に至る南北500km・東西200kmの断層帯が破壊されて最大震度7の揺れが2分以上にわたり北海道から九州までを襲った。仙台駐屯地は建物に亀裂が入り、外壁が倒壊。目黒基地で建物の亀裂、横須賀地方総監部で渡り橋の落下、海自硫黄島基地で断層の亀裂、用賀駐屯地で車両整備場の亀裂、北宇都宮駐屯地で街灯や車両整備場の破損、技研土浦研究所で地盤沈下や液状化現象、防衛医科大学校で天井や壁の一部落下、新町駐屯地で避雷針損傷、古河駐屯地と群馬地本でガラス破損、百里基地で水銀灯落下、下総航空基地・習志野駐屯地・勝田駐屯地・松戸駐屯地・東京地本・千葉地本で建物一部破損といった被害が生じ、各地で断水や停電が発生している。東北方面総監君塚栄治陸将は総監室で部下の指導中に座っていることすらできない程の強烈な揺れに襲われ、直後に災害派遣準備を下命、非常呼集をかけ、東北方面隊は第3種非常勤務態勢に移行した。総監が廊下に出て窓の外を見ると、舞い散ったコンクリートの破片で遠くの景色が白く霞んで見えたという。陸上幕僚長火箱芳文陸将は事務次官室で会議中に激しい揺れに襲われ、会議を即中止して11階から4階まで部隊運用構想を考えながら階段を駆け下り執務室に飛び込むと、東北方面総監に電話し、東北方面隊に直ちに出動を命じ、全国からの増援を確約、指揮を東北方面総監が執ることを伝えた。次いで西部方面総監を皮切りに各総監に電話し、防衛任務の継続と、派遣する師団・旅団・施設団の出動を下命。統合運用やシビリアン・コントロールの原則に反する疑いを掛けられる可能性もあったが、全て責任を負うつもりで指示した。第6師団、第9師団、北部方面航空隊、大湊地方隊などが災害派遣準備を開始。海上自衛隊は全国の部隊に第一配備(総員在隊、総員在艦)を発令。可動全艦艇が緊急出動準備に入り、航空部隊は状況偵察を開始、支援部隊や各種機関も活動に入った。艦は津波被害を避けるため在艦員のみの減員操法で逐次出港し、被害状況が入ると共にそのまま被災地に直行、修理整備中の艦や、海外で訓練中の艦も中断できるものは切り上げて被災地に向かっている。ただ東北地方南部は厚い雪雲に覆われており、航空救難団の救難機で被災地上空に到達できたのは大滝根山分屯基地から三沢基地に帰投中だった三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリ1機と、発災直後に被害状況確認のため離陸した三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリ1機のみだった。後者はクルーの判断でボイヤントスリングを積んでおり、当日に被災者を救出できた唯一の航空救難団機となっている。1449、気象庁が岩手県、宮城県、福島県に大津波警報を発令。1450、首相官邸危機管理センターに官邸対策室が設置された。防衛省も北澤防衛大臣を本部長とする災害対策本部を設置。自衛隊は管区内で震度5弱以上を観測すると非常呼集がかかるようになっており、東北方面総監部や海上自衛隊横須賀基地自衛艦隊司令部地下2階(海災部隊指揮官は横須賀地方総監だが、横須賀地方総監部より自衛艦隊司令部の方が指揮システムやスタッフが充実していた)などに指揮所が開設された。横須賀地方総監は稼動全艦に対し、金華山沖に向けて出動するよう下命。横須賀地区では海曹昇任試験(2曹・3曹対象)を行っており、1000名が受験していたが、津波避難のため帰艦を待たず準備の出来た艦から緊急出港させてそのまま被災地に向かわせ、試験艦ASE-6102あすかのみ一旦港内に戻して受験者を収容、災派現場で所属艦に向かわせた。横須賀地方総監が海上自衛隊全部隊の指揮を執るのは今回が初めてで、日本海軍時代を含めると関東大震災で横須賀鎮守府長官が指揮を執って以来である。自衛隊、警察、消防などは被災地の自治体から状況を得る予定だったが、その自治体が津波で消滅してしまったため、各組織が自分で情報を集めながら救助活動を行わざるを得なくなった。東北の太平洋岸を走る国道45号線は地震と津波で崩壊して使い物にならなくなったため、山中の東北自動車道を緊急車両専用とし、そこから山あいの道を抜けて被災地へと物資を輸送した。川口ジャンクションから被災地の岩手に出るには途中で給油する必要があるが、東北方面隊の燃料支処のある多賀城駐屯地は津波に飲まれたため、茨城県の東部方面隊朝日燃料支処が前方支援地域として設営した郡山の燃料集積所で燃料補給を行っている。高速道路や幹線道路の寸断で陸からの移動に時間がかかったため、北海道から増援を送り込むことにしたが、おおすみ型輸送艦3隻はすぐには使えず(LST-4001おおすみは訓練派遣のためインドネシア沖を航行中、LST-4002しもきたは定期修理中、LST-4003くにさきは呉基地にいるので移動に時間が掛かる)、本州と北海道を結ぶ中長距離フェリー会社5社に協力を要請したが、高速道路値下げの煽りを喰らって航路の廃止縮小が続く中で余剰のフェリーなど存在せず、津波から避難するため運航を停止して北海道沖にいたフェリーを借り上げた。燃料不足も深刻だったため、苫小牧にタンクローリーを集めて民間定期フェリーに積み込むことにしたが、危険物船舶輸送貯蔵規則(民間フェリーは人員と危険物を混載できない)に緊急時の例外規定が無く、内閣の緊急事態対策本部が適用除外を決定して超法規的措置で運送することになった。しかしこれに応じたのは1社のみで、ガソリンは危険として軽油しか積めず、結局、北海道からの軽油が本州に向けて出発したのは3月18日、ガソリンを積んだ自衛隊小型輸送船が出港したのは3月20日のことである。被災地上空には自衛隊や海保の航空機、自治体・警察・消防などの防災ヘリ、報道ヘリが集中し、一斉に無線通信を行ったため、一時は混信が多発して危険な状態になったが、無線統制により混乱を収束させて事無きを得た。災害派遣を第13旅団は福島の光明作戦、中央即応連隊は大和一丸作戦と命名。アメリカ軍は大規模支援作戦(3月13日にトモダチ作戦と命名)及びアメリカ軍関係者避難作戦(パシフィック・パッセージ作戦)を開始。海上保安庁は本庁内や各管区本部に対策本部を設置。1452、岩手県知事が第9師団長に災害派遣を要請。自衛艦隊司令官から全可動艦艇出港せよと命令が出された。1453、警視庁が総合警備本部を設置。1457、海上幕僚監部が大規模災害派遣に備えた特別勤務態勢に移行。大湊基地から第73航空隊大湊航空分遣隊UH-60J救難ヘリが離陸し、青森県沿岸の監視任務を開始した。1500、東北と茨城の原発11基が自動停止。1501、霞目駐屯地から東北方面ヘリコプター隊ヘリ映像伝送装置搭載UH-1J多用途ヘリが離陸。1502、宮城県知事が第6師団長に災害派遣を要請。1505、航空自衛隊は三沢基地、百里基地、小松基地からF-15戦闘機2機ずつを緊急発進させて被害確認に向かわせた。1506、福島県沖を震源とするマグニチュード7.0の地震が発生。1510、東京電力が福島第1・第2原発の原子炉自動停止を福島県に報告。1514、政府が緊急災害対策本部を、警察庁が緊急災害警備本部を開設。気象庁が宮城県に10m以上の津波到達を確認。1515、茨城県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生。第2航空隊P-3C哨戒機1機が離陸。東部方面航空隊UH-1多用途ヘリ1機が離陸。1520、小松基地などから空自機が災害派遣のため離陸。第4航空隊P-3C哨戒機1機が離陸。1525、防衛省が横須賀基地に停泊中の全艦艇13隻に宮城県沖への出動を命じた。北部方面航空隊UH-1多用途ヘリ1機がヘリ映像伝送装置を搭載して離陸。1530、本地震が大規模震災に指定された。大湊と館山から第21航空隊SH-60哨戒ヘリ1機ずつが離陸。第31航空群EP-3電子偵察機1機が離陸。第51航空隊UP-3D電子妨害訓練機1機が離陸。DD-102はるさめが派遣1番艦として横須賀基地吉倉桟橋を出港。1530頃、岩手県宮古市役所に高さ4m以上の津波が来襲。岩手地本の連絡員は市役所上階に避難して無事だったが、73式小型トラックが破壊された。1536、大槌川河口の防潮堤を破壊した津波が岩手県大槌町に押し寄せた。1542、東京電力が福島第一原発における原子力災害対策特別措置法第10条第1項に基づく特定事象の発生を報告した。1549、相馬沖を航行していた宮城海上保安部巡視船まつしまの航海レーダーに、前方から迫る大津波がくっきりと映し出された。直後にまつしまは津波を乗り越え、難を逃れている。1550、仙台塩釜港を1500に緊急出港した太平洋フェリーのきたかみが沖合6.5kmの地点で津波に遭遇。JX日鉱日石エネルギー仙台油槽所で荷役中の1505に緊急出港した第七幸洋丸のレーダーにも長大な津波の姿が捉えられた。双方とも数波のうねりを乗り越えて何とかやりすごすことに成功している。1555、仙台新港に高さ10mの津波が到達。東北方面ヘリコプター隊UH-1J多用途ヘリが撮影した映像はリアルタイムで中継され、テレビでもほぼ生中継されて日本全国に衝撃を与えた。DE-231おおよどが横須賀基地吉倉桟橋を出港。第21航空隊SH-60J哨戒ヘリ1機とSH-60K哨戒ヘリ1機が大湊と館山を離陸。1559、多賀城駐屯地が津波に襲われ、全施設の1階部分と出動準備中の災派先遣部隊車両数十両が破壊された。1600、仙台空港に津波が到達し、滑走路が冠水した上に流された車や瓦礫で埋め尽くされた。同空港で整備中だった第1ヘリコプター団特別輸送ヘリコプター隊EC225LP要人輸送ヘリ1機も津波に呑まれて使用不能になっている。松島基地は高さ2m以上の津波に襲われて基地ゲートの鉄扉が瞬時に吹き飛ばされ、滑走路を含む363ヘクタールの基地全てが冠水した。隊員らは無事(休暇中の男性隊員1名が死亡)だったが、地上にあったF-2B戦闘機18機、T-4練習機4機(うち1機はブルーインパルス仕様)、U-125A救難捜索機2機、UH-60J救難ヘリ4機、車両150両以上が海水に浸かって使用不能になり、庁舎1階、管制塔電源施設、コンピュータ、航空灯火地下埋設ケーブル、航空灯火電灯、航空燃料給油システム、蒸気ボイラー、上下水道、補給物資、燃料施設が全損して電話も不通となり、基地機能を喪失した。海上保安庁は第2管区本部と隷下の海上保安部署、仙台航空基地(仙台空港に隣接)、各航路標識などが甚大な損害を受け、巡視船ざおうが航行不能に陥り、くりこまが座礁、仙台航空基地と近隣の民間整備場に駐機していた固定翼機3機が流出・浸水して2機が修理不能となり、ヘリコプター5機も浸水で修理不能の損害を受けた。ただ津波到達直前にベル412EPヘリ1機(いぬわし)とベル206Bヘリ2機(おおるり1号、おおるり2号)を空中退避させており、以後霞目駐屯地に展開して任務を行っている。仙台市消防ヘリポートも使用不能となり、宮城県防災ヘリBK117B-2が津波で流出した。福島第一原発は高さ10m以上の津波に飲み込まれて緊急炉心冷却装置用発電機が使えなくなり、緊急電源に切り換えている。八戸航空基地では外柵400mが流出、函館基地隊倉庫にも津波が浸入した。1610、第5航空群P-3C哨戒機1機が離陸。1612、全閣僚が出席して緊急災害対策本部会合が開始された。1620、茨城県知事が災害派遣を要請。1630、東京消防庁が緊急消防援助隊を派遣。1647、福島県知事が陸上自衛隊に災害派遣を要請。1654、青森県知事が災害派遣を要請。1700までに横須賀基地からDD-111おおなみ、DD-110たかなみ、DDG-176ちょうかい、DDG-174きりしま、DD-125さわゆきが出港。1713、千葉県市原市のコスモ石油千葉精油所で爆発火災が発生。1717、空自那覇基地の航空機が空中退避のため離陸。1725、宮城県塩釜市の第2管区海上保安本部に所属する巡視船が津波で流された。1730、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが岩手県陸前高田市の消防署屋上に取り残された被災者を発見し、ホイストで吊り上げて12人を救出した。1800、防衛大臣が三自衛隊に大規模震災災害派遣命令を発令。自衛隊が内閣府副大臣を団長とする政府調査団第一陣30名を防衛省A棟ヘリポートから霞目駐屯地に空輸した。1803、E-767AWACS1機、E-2C早期警戒機2機、RF-4偵察機3機が空中で監視任務に就いていた。築城基地の航空機29機が新田原基地に避難を完了。1810、三沢ヘリコプター空輸隊が、津波に流されて夕闇の中で陸前高田市沖合を漂流している被災者11人を救出して高台に降ろした。1825、東北方面特科隊が仙台市内の保育園で救出活動を開始。1845、第2施設団が名取市で救助活動を開始。1850、北海道知事が災害派遣を要請。1900、東北方面航空隊がUH-1多用途ヘリ4機で仙台市中野小学校での救出活動を開始。1903(1920?)、福島第一原発に対して菅首相が原子力緊急事態宣言を発令。1910、第6師団第6特科連隊が白河市で生き埋めになった8名を救助するため出発。1930、原子力緊急事態宣言に基づき、防衛大臣が自衛隊に原子力災害派遣命令を発出し、陸上自衛隊は福島第1原発オフサイトセンターに隊員を派遣する準備に入った。2045、八戸航空基地体育館に避難者770人と私有車140台を収容。2123、福島第一原発では冷却装置用緊急電源のバッテリーが切れ、2号機の原子炉内水位が低下、放射能漏れの恐れがあるとして2km圏内の住民に避難指示、10km圏内の住民に屋内退避指示が出された。原子炉災害に対応するため、防衛省は中央特殊武器防護隊に出動を命令。部隊の主任務はNBCテロなどへの対応で、原子炉災害に対する訓練には呼ばれたことも無く、原発の詳しい状況も不明だったが、隊長はこれまでに訓練してきた放射線防護の基本と基礎を徹底し、放射線を正しく恐れて確実に身体を防護することを愚直に守れと訓示し、2217に所属隊員160名全員、化学防護車4両、除洗車6両で福島第一原発に向かった。この部隊は中央即応集団の指揮下にあり、統合任務部隊隷下には置かれていない。津波を避けるため沖に退避した後に横須賀基地へ戻っていたASE-6102あすかとAOE-423ときわが、海曹昇任試験などで帰艦できなかった他艦乗員や大量の救援物資を搭載し、2130までに横須賀基地を出港。また、呉基地からはDD-129やまゆき、DE-229あぶくま、DE-234とね、DD-157さわぎり、ATS-4202くろべ、ATS-4203てんりゅう、LST-4003くにさき、佐世保基地からDDH-144くらま、DDG-178あしがら、AOE-422とわだ、舞鶴基地からDD-154あまぎり、DDH-143しらね、大湊基地からDD-153ゆうぎり、DE-233ちくまが緊急出港して被災地沖に向かい、翌日の夜明けから救援活動に入った。2150、大湊地方隊が毛布3000枚(むつ市1000枚、八戸市500枚、三沢市500枚、風間浦500枚、六ヶ所村500枚)と缶詰1000個を搬送した。2151、福島第一原発から半径3km圏内の住民に避難指示が出された。2217、自衛隊仙台病院に被災者20人を収容。2248、東北方面特科隊が仙台市の避難所にストーブ260台を輸送した。2348、第6師団第44普通科連隊80名が被災地に向け移動。防衛大学校は同日中に周辺住民190人を武道館に受け入れた。
3月12日、韓国から救助隊員5名と救助犬2頭が成田空港に到着。シンガポールから救援チーム5名と救助犬5頭が成田空港に到着。第10師団1670名と第12旅団2200名が被災地に移動を開始。西部航空方面隊の派遣一次隊が春日基地、築城基地、芦屋基地、新田原基地を出発。松島基地のエプロンの一部でヘリの離着陸が可能となり、ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが隊員と物資の輸送を開始した。ASEAN地域フォーラム災害救援実動演習に向かっていたLST-4001おおすみなどの派遣部隊に帰国命令が出された。0100、千葉県知事が自衛隊に災害派遣を要請。この時点で人員8400名、航空機190機、艦艇25隻が活動及び準備中だった。0225、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリ3機が霞ヶ浦飛行場に到着し、東京電力のケーブルを搭載して福島第2原発に向かった。0320、津波注意報・警報が日本全ての海岸線に出された。0335、中央特殊武器防護隊副隊長ら2名が福島第一原発付近のオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)に到着。0500頃、横須賀基地を出港した海自艦艇が茨城県沖から金華山沖に展開したが、海上には津波で流された無数の残骸が漂流しており、地震による海底の隆起もあって海岸には近づけず、各艦艇は艦載艇を降ろして生存者の捜索を行った。艦載艇のプロペラや舵に漁網やロープが絡まる事態も多発したが、その度に潜水員が海に入ってナイフで切断している。救援物資を降ろす筈の各地の港は全て残骸で埋め尽くされて使用不能になっており、艦載ヘリと館山航空基地のヘリを総動員して輸送を開始した。0515、第1空挺団が給水・輸送支援を実施。0544、福島第一原発の冷却機能喪失に伴い、周辺の避難区域を10km圏内に拡大した。0601、福島第二原発でも冷却系に異常が発生。0614、航空支援集団が福島第一原発にバッテリーを空輸した。0630、DD-102はるさめ艦載ヘリが陸前高田市の孤立住民3人を救助。0635、第73航空隊UH-60J救難ヘリが石巻沖で船舶乗員10人を救助。0648、東北方面隊100名50両が福島駐屯地を出発し、福島第一原発付近のオフサイトセンターに向かった。0730、自衛隊は人員20000名、航空機190機、艦艇25隻が活動中または準備中だった。第12旅団2200名640両が郡山駐屯地に到着しており、第10師団1000名230両は東北道に入り、第4師団4500名が駐屯地を発って被災地に向かっていた。第6師団第44普通科連隊は50名で福島原発での電源運搬を手伝い、30名でオフサイトセンター周辺での避難誘導を行った。0745、福島第二原発から3km圏内の住民に避難指示、10km圏内の住民に屋内退避指示が出された。0830、中央特殊武器防護隊の車両7両(うち化防車4両)がオフサイトセンターに到着。0841、第1輸送航空隊C-130輸送機1機が災害派遣医療チームDMAT65名を花巻空港に輸送。0851、第3輸送航空隊C-1輸送機1機がDMAT40名を輸送。0900、福島第一原発1号機の格納容器圧力が異常に上昇していたため、蒸気を外部に放出して圧力を逃がすベント作業を開始。0915、福島第二原発に対して菅首相が原子力緊急事態宣言を発令。これを受けて0920、防衛大臣から自衛隊に再度原子力災害派遣命令が出された(3月11日1930の原子力災害派遣命令は廃止)。0924、空自がカーゴ2分隊を松島基地に派遣。0930、第1輸送航空隊C-130輸送機1機がDMAT65人を花巻空港に輸送。0932、第73航空隊UH-60J救難ヘリが石巻湾で漂流中の1人を救助。0940、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47ヘリ1機が空中消火を10回行い、30人を救出した。0943、DD-125さわゆき艦載ヘリが被災者3人を陸前高田病院付近から避難場所に搬送。0953、DD-110たかなみ艦載ヘリが被災者9人を鹿妻小学校から石巻赤十字病院に搬送。1036、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47ヘリ1機が山田町で計43人を救助。1055、DD-125さわゆき艦載ヘリが被災者5人を陸前高田市役所屋上から避難場所に搬送。1126、DD-111おおなみ艦載ヘリが被災者5人を気仙沼市内から気仙沼小学校に搬送。1240、第3輸送航空隊C-1輸送機がDMAT30人を輸送。DD-102はるさめ艦載ヘリが気仙沼で13人を救助。1304、第111航空隊MCH-101掃海・輸送ヘリが陸前高田病院から花巻空港に人員を輸送。1330、小学生が見学中に地震に襲われ、沖合に避難していた地球深部探査船ちきゅうから、第2航空群UH-60J救難ヘリが児童48人全員を救出。1338、海保巡視船いすずからDD-110たかなみに対し、石巻港合同庁舎付近の岸壁に取り残された人がいるとの救助要請が入り、DD-110たかなみ内火艇2隻で27人を救助。艦内でメディカルチェックを行ったところ、3人が不整脈やぜんそくなどの持病を持っており、DD-110たかなみ艦載ヘリで日赤病院に連れ添いの園児1人を含む4人を搬送した。1344、DD-110たかなみ艦載ヘリが高田病院に12人を搬送。1405、DD-110たかなみ艦載ヘリが高田病院に2人を搬送。1411、AMS-4302すおうが漁船船員1人を八戸沖から八戸港に搬送。1428、DD-125さわゆき艦載ヘリが高田病院に被災者2人を輸送した。1430、福島第一原発1号機のベント作業に成功。作業に従事した男性1人が10分間に100mSv以上を被曝して放射線宿酔の症状を訴え、病院に運ばれた。1432(1430?)、第111航空隊MCH-101掃海・輸送ヘリが陸前高田病院から花巻空港まで人員を輸送。1434、DD-110たかなみ艦載ヘリが被災者5人を石巻市内から石巻赤十字病院に搬送。1500現在、陸自ヘリ53機、固定翼機1機、海自ヘリ4機、固定翼機6機、空自ヘリ5機、固定翼機12機が空中で活動しており、海自艦船14隻が活動中、31隻が被災地に移動中だった。1505、DD-111おおなみ艦載ヘリが被災者4人を阿武隈川河口から気仙沼陸上競技場まで搬送。1507、DD-110たかなみ艦載ヘリが被災者4人を鹿妻小学校から石巻赤十字病院に搬送。1523、地球深部探査船ちきゅうから、第2航空群UH-60J救難ヘリが計80人を救助し、八戸まで移送した。1536頃、福島第一原発1号機で建屋内に漏れ出した水素(過熱した核燃料被覆管と冷却水が反応して生じた)が空気中の酸素と反応して大爆発が起こり、建屋の上部が吹き飛んで作業員4人が負傷した。陸自もポンプ車で注水作業を行っていたが、爆発を受けて一時中止している。ただこの時点では政府から自衛隊に原発の事態急迫の連絡は無く、自衛隊側は原発事故は政府、原子力安全保安院、東電で対処すると考えていた。避難途中の周辺住民や医療関係者数十名が除洗を必要とするレベルの被曝を受けている。避難地域を福島第1原発から半径20km圏内に拡大。1610、DD-110たかなみ艦載ヘリが被災者6人を鹿妻小学校に搬送。1630、DDG-174きりしま艦載ヘリが鹿妻小学校に物品輸送を実施。1635、DD-110たかなみ艦載ヘリが被災者5人を鹿妻小学校から石巻赤十字病院に搬送。1645、DD-102はるさめ艦載ヘリが浦島小学校で被災者12人を救助し、気仙沼小学校に搬送した。1728、DD-110たかなみ艦載ヘリが石巻周辺の被災者2人を救助搬送した。1746、福島第二原発の周辺住民への避難指示を10km圏内に拡大。1825、政府は福島第一原発から半径20km以内の住民に避難指示を出した。1756、DD-111おおなみ艦載ヘリが阿武隈川河口で被災者33人を救助し、岩沼市陸上競技場に搬送した。1858、DD-102はるさめ艦載ヘリが浦島小学校から気仙沼小学校に被災者1人を搬送。2000までに自衛隊は3100人を救助。2000、東北方面航空隊がCH-47輸送ヘリとUH-1多用途ヘリ3機ずつで双葉町の寝たきり・要介護老人など200人を川俣町まで空輸した。2034、中央即応集団がCH-47輸送ヘリとUH-1多用途ヘリ3機ずつで福島第一原発周辺住民の避難輸送を完了。2100、第6師団がパン50000食を輸送。2207、第1輸送航空隊C-130輸送機1機が冷水ポンプ用モーター3個を福島まで輸送した。次いで陸自の車両に積み替えて原発に運んでいる。2300、中央特殊武器防護隊本部中隊が大宮駐屯地を出発し、福島に向かった。2333、第2輸送航空隊がDMAT8人を羽田から福島に輸送した。深夜、福島第一原発1号機に海水の注入を開始。しかしこの時既に燃料棒は過熱して圧力容器の底に溶け落ちており、メルトダウンを起こしていた。
3月13日、東北方面総監が予備自衛官の招集を上申。第2師団と第5旅団が被災地入り。第4師団(九州)4000名と第2師団第26普通科連隊(北海道留萌)450名が被災地に向かった。自衛隊の輸送には津軽海峡フェリーや商船三井フェリーなどの民間フェリー会社も協力している。AOE-423ときわが宮城県沖に到着し、アメリカ海軍ヘリによる非常食の輸送を開始。三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが岩手県釜石市片岸町で2人、鵜住居町で36人、根浜海岸で8人、箱崎町で10人を救助。RQ-4Bブロック30グローバル・ホーク無人偵察機2機が被災地の偵察を開始。ニュージーランドが捜索救助チーム48名の派遣を表明。韓国が救助隊員・医療チーム102名の追加派遣を発表。カリフォルニア州ロサンゼルス郡消防隊を基幹とする災害対処チームがチャーター機で三沢空港に到着。ドイツの救援隊41名と災害救助犬3頭を乗せたチャーター機が成田に到着。オーストラリア軍がパシフィック・アシスト作戦を開始。0020、第6師団第6後方支援連隊がDMAT64人を東北大病院に輸送。第10師団と第12旅団が福島に到着して救援活動を開始。早朝、福島第一原発3号機の冷却機能が失われ、核燃料棒が露出。格納容器内の圧力が上昇し始めた。0600現在、海上保安庁は艦艇215隻、航空機45機、特殊救難隊15名、機動救難士16名、機動防除隊4名を派遣しており、206人を救助した。0604、第9師団第9特科連隊が宮古市と田老市で捜索救助活動を実施。0607、百里救難隊ヘリ3機が阿武隈川付近で47人を救助。0615、DD-157さわぎり艦載ヘリが阿武隈川河口で被災者10人を救助し、岩沼市陸上競技場に搬送した。0645、新潟救難隊ヘリが南気仙沼で10人を救助。0646、第9師団第9特科連隊が野田村で瓦礫を撤去。0650、航空教育集団ヘリが阿武隈川で被災者20人の搬送を完了。0702、第73航空隊UH-60J救難ヘリが大湊を離陸し、尻屋から宮古で捜索救助に入った。0716、DD-111おおなみ艦載ヘリが亘理町立荒浜中学校の被災者31人を救助し、岩沼市陸上競技場に搬送した。0739、航空支援集団ヘリが被災者104人を収容。0745、DD-110たかなみ艦載ヘリが多田小学校から被災者5人を石巻赤十字病院に搬送。0746、DD-102はるさめ艦載ヘリが気仙沼浦島小学校から被災者6人を気仙沼小学校に搬送。0751、第6師団第20普通科連隊が志津川小から要救助者6人をヘリで救出。0800、第6師団が気仙沼などで捜索活動を実施。0805、北部航空方面隊、中部航空方面隊、航空総隊直轄部隊の水タンク車9両が原発冷却水支援のためいわき市四倉町に到着。0815、中国の救助隊15名と物資5トンを積んだ中国国際航空チャーター機が北京首都国際空港を離陸。0820、第6師団第20普通科連隊が志津川小の被災者6人をヘリで救助。新潟救難隊ヘリが被災者69人を気仙沼小に輸送。0825、DD-110たかなみ艦載ヘリが多田小学校から被災者3人を石巻赤十字病院に搬送。0830、DD-157さわぎり艦載ヘリが阿武隈川河口の被災者10人を岩沼市に搬送。0841、福島第一原発3号機の格納容器の圧力を下げるため、ベント作業を開始。0846頃、菅総理が自衛隊の派遣規模を10万名に拡大するよう防衛大臣に指示。これに基づき、防衛省災害対策本部会議で防衛大臣が派遣自衛隊員の10万名規模への拡大方針を表明した。ただこれに関して防衛省側には一切連絡は無く、官邸の独断で決定されている。北澤防衛大臣と東北方面総監を指揮官とする統合任務部隊の設置を決定。0846、DD-157さわぎり艦載ヘリが学校屋上から被災者1人を亘理町中央児童センターに搬送。0857、東北方面特科隊第130特科大隊が被災者28人を救出。0918、航空支援集団がヘリで被災者66人を気仙沼に搬送。DD-157さわぎり艦載ヘリが民家から被災者2人を亘理町中央児童センターに搬送。0934、DD-102はるさめ艦載ヘリが気仙沼大島中学校から被災者9人を気仙沼小学校に搬送。0951、第25航空隊UH-60J救難ヘリが片岸町室浜海岸から被災者9人を県立釜石病院に搬送。1030、第25航空隊UH-60J救難ヘリが片岸町室浜海岸から被災者11人を県立釜石病院に搬送。1037、DD-102はるさめ艦載ヘリが石巻長面地区から被災者6人を石巻赤十字病院に搬送。1040、第73航空隊がMCH-101掃海・輸送ヘリで救助者11人を大槌から釜石病院に搬送。1055、第111航空隊がヘリで南三陸町に非常糧食を輸送。1102、DD-157さわぎり艦載ヘリが民家から被災者3人を救助し、亘理町中央児童センターに搬送。1134、DDG-176ちょうかいが福島県沖15kmの海上を漂流中の男性を救助。1119、DD-102はるさめ艦載ヘリが気仙沼北上中学校から被災者2人を石巻赤十字病院に搬送。1135、DDH-143しらね艦載ヘリが山田湾内から被災者1人を釜石陸上競技場に搬送。1200、MH-53E掃海ヘリがAOE-423ときわから長沼市に応急食糧3000食、気仙沼市と長沼市に食糧152箱を輸送。午後、アメリカ国際開発庁災害救援チーム144名と救助犬12頭が三沢空港に到着。1220、中国国家地震局救援チーム15名が羽田空港に到着し、自衛隊ヘリで被災地に向かった。1226、DD-102はるさめ艦載ヘリが気仙沼北上中学校から被災者4人を救助し、石巻赤十字病院に搬送。1251、航空教育集団ヘリが山田町で被災者18人を救出。1253、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが長面集落地区で被災者1人を救助し、石巻赤十字病院に搬送。1312、中央特殊武器防護隊が福島第一原発3号機に海水の注入を開始。1328、政府が福島原発3号機が1号機と同様の水素爆発を起こす可能性があると発表した。1337、中央即応集団ヘリが原発空中モニタリングのため木更津を離陸。1340、秋田救難隊ヘリが岩手県山田町で12名を救出。1347、第6師団第20普通科連隊が被災者6人を石巻の病院に搬送。1400、第12旅団第12化学防護小隊が放射能の除洗対象とされた住民50名の除洗を完了した。1414、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが長面集落地区から被災者5人を救助し、石巻赤十字病院に搬送。1420、航空支援集団がヘリで救助者36人を搬送。1433、DD-102はるさめ艦載ヘリが長面集落地区から被災者10人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。1500、防衛省が現在の派遣規模を5万名、救助者数を9700名と発表。更に10万名態勢を築くべく準備作業に入っていた。北海道知事が撤収要請を出した。DD-102はるさめ艦載ヘリが長面集落地区から被災者12人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。DDH-181ひゅうが艦載ヘリが長面集落地区から被災者18人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。DD-110たかなみ艦載ヘリが第2湊小学校から被災者2人を石巻赤十字病院に搬送。1520、DD-102はるさめ艦載ヘリが長面集落地区から被災者12人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。DDH-181ひゅうが艦載ヘリが長面集落地区から被災者15人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。1542、政府が福島原発3号機で水素が建屋内に漏れていると発表。1543、MH-53E掃海ヘリが遠野運動公園に非常食糧9000食、毛布500枚、水157箱を輸送。1555、中央即応集団がヘリによる原発空中モニタリングを一時中止。1600、DD-102はるさめ艦載ヘリが長面集落地区から被災者7人を救助し、石巻飯野川中学校に搬送。1603、第25航空隊UH-60J救難ヘリ/SH-60J哨戒ヘリが白浜小学校から被災者139人を釜石市民病院に搬送。1620、DD-110たかなみ艦載ヘリが第2湊小学校から被災者5人を石巻赤十字病院に搬送。1700、中央特殊武器防護隊本部中隊が福島県大熊町役場に到着。東北方面衛生隊、第6師団第6後方支援連隊補給隊、第6特殊武器防護隊、化学教導隊(12名と水タンク車5両)が増強され、増強本部中隊(給水支援隊)が編成された。DD-110たかなみ艦載ヘリが第2湊小学校から被災者2人を石巻赤十字病院に搬送。1730、北沢防衛大臣が韓国国防省と電話で会談。1756、DD-111おおなみ艦載ヘリが亘理町立荒浜中学校から被災者33人を岩沼市陸上競技場に搬送。1757、空自給水車両10両が福島第二原発に到着、作業を開始した。1758、津波注意報が全域で解除された。1800、防衛省で第7回災害対策本部会議を開催。横須賀警備隊が千葉県浦安市で72トンの給水支援を実施。1830、第6師団が石巻市で125人を救助し、食糧や毛布を配布した。中国の救助隊が羽田空港を経て花巻空港に到着、大船渡の中学校で野営して翌日から救助活動に入り、1人の遺体を収容した。2000、中央特殊武器防護隊増強本部中隊が大熊町役場を出発、福島第2原発に向かい、翌日0600までに300トンを給水した。2028、空自による第2原発での給水作業を終了。夜、イギリスの救援チーム63名と災害救助犬2頭が三沢空港に到着。2151、第25航空隊ヘリで被災者140人を釜石市民体育館に搬送。2220、第9師団第9特科連隊が山田町で消火活動を実施。
3月14日、第1師団第1特殊武器防護隊が福島県田村市の総合体育館に県のスクリーニング会場(除洗所)を開設。韓国空軍第5戦術空輸航空団第251戦術航空支援飛行隊C-130H輸送機が緊急救助隊100名と器材を搭載して成田に着陸、通関後に福島空港に向かった。DD-153ゆうぎりが釜石沖で行方不明者捜索を開始。ロシア国家非常事態省Il-76TD輸送機が救援隊用の車両を乗せて成田に到着。0100、中央特殊武器防護隊が川俣町体育館で住民100名を除洗。東浜小学校から空自ヘリで被災者を救出。0130、福島第二原発で空自隊員50名が2回目の給水作業を開始。0500、福島第二原発の給水作業を終了。0530現在、自衛隊の派遣規模は66000名で、ヘリ96機、固定翼機7機、艦船58隻が活動していた。救助者数は10000人である。0645、百里救難隊ヘリが被災者12名を救出。中央特殊武器防護隊などは福島第2原発での給水作業を実施。中央特殊武器防護隊は東京電力の要請を受け、福島第一原発3号機に対する真水注水支援を行うことになり、水素爆発の危険について説明も無かったため中央特殊武器防護隊隊長ら6名がポンプ車2両と四輪駆動車1両に分乗して原子炉に向かった。0834、秋田救難隊ヘリが石巻で被災者10人を救出。0845、三沢ヘリコプター空輸隊が石巻湊中で被災者41人を救出。0855、入間ヘリコプター空輸隊が石巻第二小学校で被災者17人を救出。0945、第4地対艦ミサイル連隊が炊き出しを実施。0951、DD-110たかなみに収容した被災者32人をヘリでDDH-181ひゅうがに搬送。1015、防衛省が予備自衛官招集を検討すると発表。1035、DD-110たかなみが石巻沖で漂流していた被災者111人を救助。1100、北澤防衛大臣と折木良一統幕長が仙台に到着し、自衛隊に災害派遣任務で初となる統合任務部隊JTF-THの編成を下命、君塚東北方面総監を長とし、陸自派遣部隊を陸災部隊、海自を海災部隊、空自を空災部隊と命名した。防衛大臣はご遺体を死者であると思わず、ご家族にお渡しするまで生きた方と同様に丁重に扱うよう訓示している。君塚統合任務部隊指揮官は指針に「先憂後楽の堅持」を掲げた。1101、福島第一原発3号機が水素爆発を起こして建屋上部が吹き飛び、20mの距離にいた中央特殊武器防護隊の車両は3両とも瓦礫に押し潰され大破、隊員4名が右肩亜脱臼や右大腿裂傷などの怪我を負ったが、何とか全員自力で脱出した。着込んでいたタイベックスーツにより重度の被曝は免れている。他に作業員7人も負傷した。自衛隊も原発は政府・原子力安全保安院・東電で対処しきれず危険な状態という認識に変わったが、政府からは相変わらず原発が危険な状態という連絡は入らなかった。1203、百里救難隊が石巻で子供4人を含む11人を救助。1234、福島第二原発で50名が給水作業を実施。1300、自衛隊札幌病院医療チーム2個が宮古市避難所に前進。1313、DD-111おおなみが内火艇と作業艇で塩釜市浦戸桂島に水140リットル、乾パン192個、パン174個を輸送。1315、イギリスのレスキューチーム46名を陸自が三沢から大船渡まで搬送。1325、福島第一原発2号機が冷却機能を喪失。第6師団が石巻で被災者36人を救助。1414、AOE-423ときわが艦載ヘリで女川総合運動公園に非常用食糧2.5トンを輸送。1430、DD-125さわゆきが救援物資を輸送。1500、第12旅団第12飛行隊が福島第一原発20km圏内の要救助者輸送を再開。1534、第1輸送航空隊が航空機で毛布5000枚を福島空港に輸送。1540、DD-111おおなみが食糧、水170リットル、乾電池などを被災者に提供。DD-111おおなみがヘリで救難員28名を石巻専修大グラウンドに輸送。1543、石巻駅北側住宅地の2階に取り残された住民を第6師団がボートで救出した。夕方から深夜、福島第一原発2号機の冷却水水位が低下し、2度にわたり燃料棒が全て露出した。1700現在、自衛隊による救助者は15900名だった。海自40隻が日立沖から八戸沖に展開し、ヘリによる救助活動を実施。1747、DD-102はるさめが艦載ヘリで波伝谷地区から被災者8人を石巻赤十字病院に搬送。2034、第2輸送航空隊が輸送機で食糧600箱を新潟に輸送。2056、福島第一原発2号機が危険な状態に陥ったため、中央即応集団は副司令ら14名を残して隊員180名をオフサイトセンターから郡山駐屯地に退避させた。
3月15日、DD-153ゆうぎりが行方不明者の遺体7体を収容。第10師団第10後方支援連隊が宮城県山元町山下小学校に尾張の湯を開設し、入浴支援を開始。ASEAN地域フォーラムが地震津波災害演習を開始。プルマントゥールエアB747-412がスペインの震災救援隊を乗せてセントレア空港に着陸。ロシア非常事態省Mi-26T輸送ヘリが救援活動支援のため新潟空港に着陸。フランスの原子力関連救援隊116名が到着。空自原発給水部隊が福島県庁に到着した。東北方面総監部政策補佐官が岩手県大槌町に入ったが、まだ市内各所で火がくすぶっている状態だった。0243、第13施設群が岩手山演習場に到着し、救援活動を開始。0614、福島第一原発2号機の圧力抑制室付近で爆発が起きた。0700、空自部隊が岩手県大槌町大槌トンネル付近で消火活動を実施。0720、アメリカ海軍LSD-46トーテュガが苫小牧に入港。第5旅団の隊員250名と車両90両を搭載して青森に向かった。0730、DDH-181ひゅうがから海自とアメリカ軍のヘリが発艦し、岩手県山田町に食糧や水を輸送した。0815、中央即応集団が女川原発付近でのモニタリングを終了。0930、AOE-426おうみから日米ヘリが発艦し、宮城県東松島市に缶詰5000食などを輸送した。0932、首相官邸から自衛隊に対し、原発が極めて危険であるという連絡が初めて入り、オフサイトセンターの閉鎖と原発への燃料輸送中止が伝えられた。0938、福島第一原発4号機の使用済み核燃料プール付近で火災が発生し、建屋の2カ所に直径8mの穴が開いているのが見つかった。0947、DD-102はるさめ艦載ヘリが被災者8人を石巻赤十字病院に搬送。海自UH-60J救難ヘリが厚木から長沼に飲料水1トンを輸送。1018、MCH-101掃海・輸送ヘリがAOE-424はまなから八戸に糧食15トンを輸送。1025、緊急の防衛大臣・幕僚長会議が開催され、北澤防衛大臣から官邸が原発への放水を要請していることを伝えられた。担当部署や手段については具体的指示が無く、会議では放水については検討するとしたのみで参会したが、会議後に火箱陸幕長が折木統幕長に陸自で引き受けると伝え、手段について検討を開始している。1100、福島第一原発から30km以内の住民に対して屋内退避が指示された。昼、福島第一原発から20km圏内の住民の避難が終了。1351、大湊地方総監部が海上保安庁と協力して八戸港の入港に関する港湾調査を実施。1357、航空支援集団が航空機で気仙沼孤立者80人を輸送。1402、MST-464ぶんごが牡鹿半島に糧食1800食と水1トン、田代島に糧食180食を輸送。1420、自衛隊が福島県庁で除洗作業を開始。1430、SH-60J哨戒ヘリが三沢から久慈に糧食50食を輸送。1552、自衛隊が冷却用ポンプ燃料を福島第二原発に輸送。1600現在、自衛隊の派遣人員数は7万名で、ヘリ176機(保有ヘリの3分の1)、固定翼機319機(保有固定翼機の半数)、艦船59隻(保有艦艇の3分の1)が活動していた。1608、第2航空群が八戸航空基地避難小中学生の登下校支援を実施(根木小学校4人、多賀小学校1人、市川中学校3人。16-19日も基地隊車両で支援)。1620、天候悪化のため、空自CH-47輸送ヘリによる大槌町の消火活動を終了。1630、中央即応集団が横須賀教育隊付近のモニタリングを終了。1715、ASY-91はしだてが漁船からの救援物資要請に応じて米50kgとガソリン8リットルを提供。1835、自衛隊除洗部隊が福島県庁から郡山駐屯地に撤収。1945、自衛隊による救助者が19000人を超えた。夜、中国外務省が在日中国人に対して被害の大きい地域からの避難を勧告した。2257、第1輸送航空隊KC-767空中給油輸送機と第3輸送航空隊C-1輸送機が非常糧食182000食を花巻空港に輸送。
3月16日、政府が全国からの被災地向け物資の管理輸送を自衛隊に一元化することを決定。陸上自衛隊駐屯地を物資集積所にし、輸送機、ヘリコプター、輸送艦、トラックで各地に輸送、在沖縄海兵隊員5000名以上も加わって史上最大の日米共同作戦となった。しかし自衛隊には民間物流を代替できるような人員も機材もノウハウも無い上、隊員も車両も被災地に出払っているから、自衛隊しか入れない場所以外は民間の宅配業者に頼んだ方が良かったかもしれない。霞目飛行場に福島第一原発への放水作業用のCH-47輸送ヘリが到着したが、原発周辺の放射線量が高く、この日の放水は断念された。避難所の灯油が尽きかけて市町村から国へと燃料供給の要望を出していたが、反応が無いため、東北方面総監部政策補佐官から防衛大臣秘書官に直訴、3時間後には防衛大臣が部隊に命令を出して岩手・宮城の避難所4箇所に仙台駐屯地と岩手駐屯地から灯油計2330リットルを輸送した。経済産業省にも大臣同士で話を通して燃料供給の被災地優先体制を整えている。陸自後方支援連隊が6トンの給水支援を行い、ドラム缶18本分のガソリンを輸送した。韓国空軍C-130H輸送機3機が緊急援助隊100名と物資を降ろした。ロシア国家非常事態省An-74輸送機が救援隊本隊を乗せて成田に到着。0700、北部航空方面隊が岩手県大槌町の大槌トンネル付近で消火活動を実施。0855、LST-4003くにさきがLCACで石巻市に救援物資(水、缶飯、缶詰など)を輸送。渡波地区被災者の安否確認も行い、渡波公民館500人(傷病者15人、重傷者・要搬送者無し)、渡波農協55人、渡波保育園55人、洞源院300人、シクタ1区集会所220名、シクタ2区集会所60人、渡波小学校1300人、タンノウラ中学校2000人、ケヤキ水産400人だった。0937、第1輸送航空隊C-130H輸送機が花巻、松島、福島に救援物資を輸送。1004、第3輸送航空隊C-1輸送機が花巻と福島に飲料水を輸送。1158、防衛省・自衛隊として初めてとなる予備自衛官と即応予備自衛官の災害等招集命令を陸上自衛隊に下令。被災地のライフラインが復旧しない中、各地方協力本部の要員が対象者の元を直接訪ねて招集を依頼し、自らが被災者である対象者もいたが、これに応じて災害派遣に参加した。当初は過酷な仕事には就かせないという上級司令部の配慮で入浴や炊事の支援を行っていたが、予備自衛官の方から飯炊きではなく行方不明者捜索など一番厳しい任務を果たすために応召したといった意見が多数上がってきたため、すぐに現役隊員と同じ任務を実施している。1200現在、自衛隊は人員76000名を派遣しており、ヘリ194機、固定翼機322機、艦船58隻が活動していた。自衛隊による救助者数は19300名である。1457、第21航空群ヘリが千葉県東方沖を震源とする地震の偵察を実施。1620、北部航空方面隊山田第一波派遣隊が山田町豊間根生活改善センターや豊間根小中学校などに毛布を配布。1709、第4地対艦ミサイル連隊が米、毛布、りんごを輸送。2021、第2師団第25普通科連隊が宮古市で捜索救難、輸送、給水、瓦礫除去を実施。2300、第1輸送航空隊KC-767空中給油輸送機が158000食分の食糧を福島に輸送。2320、原発放水支援部隊が郡山駐屯地に到着。
3月17日、被災地への陸路物資輸送を自衛隊に一元化した。自衛隊が野外入浴セット、海自艦船の隊員用浴槽、基地や駐屯地の浴場、アメリカ軍のシャワー設備などを使用して入浴支援を開始。警察による遺体安置所での遺族対応業務が限界に達したため、宮城県知事から東北防衛局長に支援要請があり、最大35名体制で3月18日から4月18日まで業務に当たった。仙台空港の滑走路の半分が使用可能となった。北海道補給処が岩手駐屯地に北方岩手前方支援地域(FSA)を開設。山形地方協力本部が即応予備自衛官17名に災害等招集命令書、予備自衛官(語学)1名に災害招集命令書を手渡した。第7師団第7化学防護隊が東千歳駐屯地を出発。Il-20電子偵察機が北海道沖の日本海側を山陰沖まで飛行したため、空自がスクランブル発進した。ウクライナ・インターナショナル航空B737-8HXWLが自国避難民を乗せて成田国際空港を離陸。0200、東部方面管制気象隊第5派遣隊の隊員3名に福島第一原発の放水冷却隊第1陣としての出動命令が出された。0300、原子力災害派遣命令を発出(3月12日0920の原子力災害派遣命令は廃止)。0615、大滝根山分屯基地部隊が田村市船引高で炊き出しを実施。0710、北空山田作業隊が山田漁港から国道45号線までの瓦礫を撤去。0711、第1輸送航空隊C-130H輸送機が医療品16トンなどを福島に輸送。花巻や松島にも物資を輸送した。0840、山田第一派遣隊が北浜地区で人命救助。0913、AGS-5105にちなんが搭載艇で志津川湾細浜漁港に白米125kg、トイレットペーパー4箱400ロールを輸送。0914、陸自UH-60JAモニタリング機が福島第一原発に向けJビレッジを離陸。0948-1000、第1ヘリコプター団第104飛行隊CH-47輸送ヘリ(床に鉛プレートを敷き、乗員は防護服着用)2機で福島第一原発3号機への放水を実施。UH-60JA多用途ヘリのモニタリングの結果、原発上空高度300フィート(91.4m)での放射線量は毎時87.7mSvで、作業は可能であると判断し、上空100mから7.5トンバケット(野火消火器材)で2回ずつ海水を投下(0948、0953、0956、1000)した。帰投後に測定した搭乗員の被曝線量は1mSv以下だった。1108、LST-4003くにさきが渡波公民館にオニギリ5000個と水を輸送。1132、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資3.9トンを花巻に輸送。福島にも輸送任務を行った。1141、LST-4003くにさきが渡波公民館で医療支援を実施。1257、第3輸送航空隊C-1輸送機が福島に救援物資を輸送。1346、第3輸送航空隊C-1輸送機が福島に救援物資を輸送。1424、下総航空基地の消防車と給水車に搭載していた全ての水を空自A-MB-3消防車に給水した。1600、第10師団付隊が宮城県蔵王町で給水、丸森町避難所で給食支援を実施。1605、第9師団第9飛行隊ヘリが新浜町と唐丹中学校に食糧や毛布などを輸送。1614、消防車隊9両がJビレッジを出発。1730、第2師団第26普通科連隊が久慈市を拠点に給水と炊き出しを実施。1935-2007、自衛隊A-MB-3高圧消防車5両(陸自木更津駐屯地、北宇都宮駐屯地、相馬原駐屯地、空自百里基地のもの)と東部方面航空隊救難消防車Ⅱ型からなる放水冷却隊が福島第一原発3号機への地上からの放水を実施。建屋の手前10mまで接近して計30トンを浴びせかけた。隊員は厚さ3mmの鉛プレートが埋め込まれた重さ15kgの放射線防護服を着込んでの作業で、近くでは化学防護車が被曝線量を計測している。警視庁の高圧放水車も放水したが、届かなかった。2200、大規模震災災害派遣命令の一部変更命令が発出された。
3月18日、自衛隊が派遣人員106000名態勢(陸自の陸災部隊69000名、海自の海災部隊16000名、空自の空災部隊21000名)を確立。即応予備自衛官2100名、予備自衛官4000名を投入した。更に原子力災派部隊500名を派出している。全自衛隊員の40%以上に達する規模で、後方支援部隊も含めれば180000名以上が震災対処にあたっており、同時に新燃岳の災害派遣、ハイチやゴラン高原での海外派遣、ソマリア沖海賊対処をこなし、防空識別圏に突っ込んでくるロシア軍機や東シナ海で挑発する中国機への対応も行っていて、隊員には相当の負担がかかる状態である。通常なら災害派遣前に健康診断を行って隊員の健康状態が活動に耐えられるか確認するが、それを実施する暇も無かった。食事も東北方面総監部で漸く1日1回白飯が出されるようになった程度。遺体収容作業では自ら背負って運び出すことも多く、心理的な負担もかなりのものだった。この日までの救助人数は19430名。陸上自衛隊は車両10000両を参加させ、燃料消費量は一日あたり250キロリットル(通常の10倍)に上っている。自衛隊の活動費に関し、自衛隊の部隊が実施する救援活動等に係る予備費の使用(54億円)を閣議決定した。災統合任務部隊指揮官が今後の活動重点を行方不明者捜索から生活支援に徐々に移すと発表。毎日1回、災統合任務部隊指揮官が防衛大臣に対して現地の状況を電話で報告することになった。福島原発事故に関し、中央即応集団副司令官をトップとする現地調整所が設置された。技術研究本部電子装備研究所の赤外線計測チームが霞目駐屯地のCH-47輸送ヘリに原発建屋温度計測用赤外線カメラを装着。第14旅団が女川町総合運動公園に旅団指揮所を開設。岸壁が瓦礫で埋まり、1週間に亘って完全に孤立していた宮城県気仙沼大島に第4海災部隊が連絡を付けた。大島小学校の体育館に2000人が避難していたが、燃料が1日分しか残っておらず、ゴムボート12隻でドラム缶50本をピストン輸送している。AOE-426おうみが宮城県渡波地区、野々島、気仙沼市要害に缶詰7152食、乾パン2880個、副食10032食、たくあん缶詰5088食、ガソリンドラム缶1本、軽油ドラム缶51本、飲料水60リットル、毛布200枚を輸送。岡山地方協力本部が即応予備自衛官23名に災害等招集命令書を交付。アエロフロートがロシア人避難民に備え、定期便をB767-300ERからIl-96-300に変更。キルギスタン航空のTu-154Mが羽田空港に着陸、救援物資のミネラルウォーター2.5トンを降ろし、避難民80名を乗せて離陸した。フランス空軍第60空輸航空団第3飛行隊A340-211要人輸送機とA310-304要人輸送機が自国避難民を乗せて関西国際空港に着陸、韓国のインチョン空港との間を往復した。0613、KC-767空中給油輸送機が福島に救援物資を輸送。0630、MST-464ぶんごが艦載艇で軽油10200リットル、ガソリン200リットル、非常用糧食10032食、飲料水600リットル、毛布200枚、日用品を気仙沼東湾の被災者に提供し、衛生班が130人を診療した。0701、DD-110たかなみが女川第二小学校にオニギリ360個と毛布50枚を輸送。DD-125さわゆきが雄勝湾水浜地区にオニギリ300個、毛布50枚、日用品物資を輸送。0756、第1輸送航空隊・第2輸送航空隊C-1輸送機が松島、福島、花巻に救援物資を輸送。0800、MST-464ぶんご衛生班が気仙沼市大島小学校の被災者50人を診療。0827、第3輸送航空隊C-1輸送機が花巻と松島に救援物資を輸送。0829、LST-4003くにさきがLCACで石巻市渡波漁港に主食缶詰10896個、副食缶詰8400個、飲料水4500本を輸送。0850、DDH-143しらね衛生班が岩手県石浜、川代、姉吉地区で被災者13人に診療支援を実施。0851、那覇ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが松島に救援物資を輸送。0859、第111航空隊MH-53E掃海ヘリが石巻運動公園に医療品10kgと毛布1100枚を輸送。0914、DD-125さわゆきが艦載ヘリで石巻市自然の家から石巻赤十字病院に被災者2人を輸送。1100-1500、MSC-674つきしまが気仙沼東湾神止地区に飲料水168個、電池150個、赤飯168個、牛肉缶詰144個、オニギリ150個を輸送。1113、LST-4001おおすみがLCACで小名浜港マリーナ南海岸に簡易トイレ194個と飲料水600リットルを輸送。1123、ATS-4202くろべが石巻市高城浜漁港に毛布30枚、ガソリン20リットル、日用品、医療品を輸送。1130、第111航空隊MH-53E掃海ヘリが毛布700枚と医療品を厚木から石巻運動公園に輸送。1135、DDH-181ひゅうが衛生班が宮城県内6カ所で被災者136人に診療を実施。1150、AOE-426おうみ衛生班が石巻市渡波公民館で被災者31人に診療を実施。1152、横須賀警備隊が千葉県浦安市岸壁で給水支援を実施。この日までに1215トン(給水車472両分)を給水した。1208-1749、広田湾に投錨したDE-231おおよどが陸前高田市広田地区に灯油ドラム缶60本、軽油ポリタンク15個、空ポリタンク265個、海水ポリタンク20個を輸送。1240、AGS-5105にちなんが宮城県大須小学校に軽油1080リットルと日用品を提供。1302、MH-53E掃海ヘリが毛布400枚を厚木基地から石巻運動公園に輸送。1310、MSC-674つきしまが気仙沼市神止地区に主食缶詰168個、副食缶詰244個、飲料水168本、日用品を輸送。1324、入間ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが患者を庄内空港に輸送。1335、AOE-426おうみ衛生班が石巻市旧小竹浜小中学校の被災者68人に診療支援を実施。1351、LST-4001おおすみが小名浜港マリーナ南海岸に簡易トイレ194個と飲料水600リットルを輸送。1400頃から1438、自衛隊放水冷却隊がA-MB-3高圧消防車で福島第一原発3号機に放水を実施。アメリカ軍から貸与されたポンプ車も加わった。1446、全災害派遣部隊が犠牲者に対して黙祷を捧げた。1459、LST-4001おおすみが小名浜港藤原埠頭第3岸壁に毛布20680枚、アルファ米31150食、テント9張、簡易トイレ570個を輸送した。1514、UH-60J救難ヘリが長浜から桂島に飲料水・糧食500kgを輸送。1519、MH-53E掃海ヘリが霞目飛行場から大島に飲料水6.5トンを輸送。1545、MH-53E掃海ヘリが霞目飛行場から大島に飲料水6.5トンを輸送。1550、MSC-684なおしまが宮城県尾浦地区に主食缶詰288個、副食缶詰288個、日用品を輸送。DDG-176ちょうかいが石巻萩浜中学校に飲料水190リットルを輸送。ATS-4202くろべが石巻市高白浜漁港に毛布30枚、ガソリン20リットル、医薬品を輸送。1555、ATS-4202くろべが石巻市野ノ浜漁港に毛布30枚を輸送。1607、飛行開発実験団C-1輸送機が岐阜から花巻に救援物資を輸送。1617、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが患者を庄内空港に輸送。1620、入間ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが松島に救援物資を輸送。1659、第9師団第9飛行隊UH-1多用途ヘリが大船渡東高校などに食糧600kgを輸送。2020、第7師団第7化学防護隊主力が郡山駐屯地に到着。2110、第5旅団第5化学防護隊が郡山駐屯地に到着。3月18-20日、ロシア非常事態省Il-62M輸送機がロシア避難民救援のため成田-モスクワ間を往復。
3月19日、福島原発に対する3回目の災害派遣命令が出された。陸幕メンタルヘルス支援チームが現地での活動を開始。第1師団第1特殊武器防護隊所属の三等陸曹が、福島原発水素爆発の恐怖からパニックを起こして郡山駐屯地からトラックに乗って逃亡し、途中で盗んだ民間乗用車に乗り換えてJR池袋駅に着いたところで逮捕された。タイ空軍C-130H-30輸送機2機が嘉手納基地を経由して横田基地に着陸、救援物資を降ろした。ルーマニア航空A310-325ETが自国避難民を乗せて成田国際空港を離陸。ノルウェー政府が自国民避難のため用意したチャーター機が到着。0019、第4師団第40普通科連隊が志津川町で救援、捜索、輸送活動を実施。0030、東京消防庁のハイパーレスキュー隊が福島第一原発3号機に放水を実施。隊員50名が最大27mSvを被曝した。0445、福島第一原発の原子炉温度を測定するため、霞目駐屯地から赤外線カメラ装着CH-47輸送ヘリが離陸。乗員は重さ20kmの防護服を着用し、ヘリの床にはタングステン板を敷き詰めて放射線から防護した。途中、Jビレッジで中央特殊武器防護隊員(放射線測定要員)を乗せ、0647に福島第一原発各原子炉の温度測定を実施。データはJビレッジで待機する別のCH-47輸送ヘリで防衛省まで運び、技術研究本部の分析チームに手渡した。0557、KC-767空中給油輸送機が福島に救援物資を輸送。0733、MSC-684なおしまが宮城県雄勝町立浜地区にガソリン18リットルを輸送。0800、横須賀警備隊が千葉県被災者に給水支援(62トン)を実施。0801、MSC-685とよしまが宮城県雄勝町立浜地区にガソリン18リットルを輸送。0802、仙台塩釜港にLST-4001おおすみ、DD-125さわゆき、AGS-5105にちなんが入港し、灯油や食糧などを輸送。LST-4001おおすみは宮城県大須小学校に缶飯288食、副食528食、たくあん缶詰96食、乾パン192食、飲料水440リットル、折り畳みリヤカー1台、生活必需品を輸送した。0819、DDH-181ひゅうがが艦載ヘリで19カ所に軽油(ポリタンク10個分)を輸送し、医療支援を行った。0826、DDH-181ひゅうがが艦載ヘリで県立自然の家に軽油、缶飯96食、オニギリ236個を輸送。0839、DD-125さわゆきが名足小学校に米100kgと日用品、大須小学校に灯油ポリタンク30個分を輸送。0859、第1輸送航空隊C-130H輸送機が松島と花巻に救援物資を輸送。0900、SH-60K哨戒ヘリが松島の被災者にカップ麺103箱を提供。0905、DDH-181ひゅうが衛生班が宮城県内8カ所(平成の森キャンプ場や名足小学校など)で30人、6カ所(海洋青年の家、津の宮センター、滝浜など)で72人に診療支援を実施。0916、AGS-5105にちなんが石巻市大須小学校に米125kgと軽油540キロリットルを輸送。0930、第31航空群US-2飛行艇が厚木から松島に生活関連物資2.5トンを輸送。1003、第3輸送航空隊C-1輸送機が花巻に救援物資を輸送。1025、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが旧水浜小学校跡に缶飯600食、オニギリ236個、飲料水180リットル、缶ジュース308本、その他食料などを輸送。1046、DDH-144くらまが宮城県渡波小学校に缶飯288食、副食528食、たくあん缶詰96食、乾パン192食、飲料水440リットル、折り畳みリヤカー1台、生活必需品を輸送。1047、第2輸送航空隊C-1輸送機が花巻に救援物資を輸送。1050、AOE-426おうみが渡波小学校に缶飯312食、乾パン192食、飲料水240本、日用品などを輸送。DDH-181ひゅうが衛生班が渡波小学校で113人に診療支援を行った。1052、DD-125さわゆきが泊浜地区にオニギリ60個、飲料水120リットル、カップ麺84個、インスタントスープ1000個を輸送。1124、新潟救難隊UH-60J救難ヘリが宮城病院から高田駐屯地に患者2人を搬送。1135、飛行開発実験団C-1輸送機が花巻に救援物資を輸送。1156、MSC-601ひらしまが南三陸町石浜集会所などに米75kgを輸送。1157、DD-110たかなみ艦載ヘリが女川第3中学校にオニギリ225個と飲料水432本を輸送。午後、アメリカ軍輸送ヘリ3機が宮城県女川町の陸上競技場に灯油200リットル入りドラム缶15個を輸送した。1203、DE-234とねが南三陸町泊浜センターにガソリン10リットルを輸送。1213、DD-157さわぎり艦載ヘリが田代島から霞目駐屯地に被災者3人を輸送。1216、LST-4001おおすみが仙台塩釜港にアルファ米4800食、飲料水304箱、サバイバルフーズ6600食、毛布1700枚、灯油ドラム缶70本分を輸送。1222、那覇ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが松島に灯油を輸送。1232、DE-229あぶくまが田代島に米200kg、飲料水1880リットル、ガソリン20リットル、軽油54リットル、日用品などを輸送。1246、海自YS-11T輸送機が徳島から松島に救援物資6.4トンを輸送。DE-229あぶくまが田代島にガソリン20リットル、水ポリタンク10個180リットル、トイレットペーパー4箱384ロール、米200kg、軽油54リットルを輸送。1311、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが原地区に缶飯336食、乾パン192個、毛布40枚、軽油を輸送。1338、DDH-144くらま艦載ヘリが網地島、田代島、桂島、寒風沢島に灯油ドラム缶10本分を輸送。1344、DDH-144くらまが網地島に灯油ドラム缶3本分、給油ポンプ1台、ポリタンク5個、寒風沢島に灯油ドラム缶1本分、給油ポンプ1台、ポリタンク2個を輸送。1355、DDH-144くらまが田代島に灯油ドラム缶1本分、給油ポンプ1台、ポリタンク3個を輸送。1400、MSC-685とよしまが雄勝クリーンセンターにガソリン18リットルを輸送。1420、DDH-144くらまが柱島に灯油ドラム缶2本分、給油ポンプ1台、ポリタンク2個を輸送。1431、DD-125さわゆき搭載SH-60K哨戒ヘリが名足小学校に菓子パン550個、うどん4箱、カップ麺420個、水520mlペットボトル864本、シャツ60枚、解熱剤100箱、おむつ2セット、生理用品12セット、簡易トイレ3個などを輸送。1440、入間ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが松島に灯油を輸送。1445、DE-234とねが馬場・中山地区、名足地区、石浜地区に米133kg、缶飯104食、オニギリ150個を輸送。1455、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが平成の森キャンプ場に缶飯408食、オニギリ400個、ジュース510本、その他食料などを輸送。1502、YS-11M輸送機が岩国から八戸に毛布など救援物資を輸送。1510、DD-110たかなみ艦載ヘリが県立自然の家にパン100個とレトルトカレー200個を輸送。1519、DDH-144くらまが宮戸島に灯油ドラム缶1本分、給油ポンプ1台、ポリタンク2個を輸送。1545、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが県立自然の家に軽油ポリタンク2本分を輸送。1558、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが志津川小学校に軽油ポリタンク4本分を輸送。1559、百里救難隊UH-60J救難ヘリが石巻市内避難所から石巻日赤病院に患者を搬送。1604、SH-60K哨戒ヘリが厚木から郡山に救援物資を輸送。1619、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが志津川高校に軽油ポリタンク1本分と灯油ポリタンク4本分を輸送。1620、コスモ石油千葉精油所の火災が鎮圧された。1621、DD-110たかなみ艦載ヘリが女川第3中学校にパン400個と米を輸送。1638、DD-125さわゆき艦載ヘリが名足小学校に飲料水864本、菓子パン550個、即席麺420食、その他生活用品などを輸送。1703、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが大渡島中学校に軽油ポリタンク10本分を輸送。1715、第2師団第2戦車連隊が宮古市田老地区で瓦礫を撤去。1724、DE-234とねが馬場・中山地区、名足地区、石浜地区に軽油190リットルを輸送。1731、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが燦さん館に軽油ポリタンク5本分を輸送。1735、AOE-426おうみが渡波小学校に飲料水240本と毛布10枚を輸送。1738、DD-125さわゆき搭載SH-60K哨戒ヘリが水浜保育所跡地にカップ麺324個、シャツ60枚、簡易トイレ2個などを輸送。1748、DD-125さわゆき艦載ヘリが水浜保育所跡地に即席麺324食、漬け物4箱、その他日用品を輸送。1815、DD-110たかなみ艦載ヘリが志津川ベイサイドアリーナに飲料水432本、缶ジュース300本、即席麺2280食、味噌2樽を輸送。1935、福島第1原発で使用する投光器25台がJビレッジに到着。2037、第111航空隊が気仙沼に生活用品など1.5トンを輸送。夜、東部方面管制気象隊に放水冷却隊第2陣の出動命令が出された。
3月20日、東京消防庁屈折放水塔車が福島第一原発への放水を開始。第13旅団第8普通科連隊がいわき市で捜索活動を開始。0820、LSU-4171ゆらが石巻市荻浜地区に米40kg、ガソリン20リットル、乾パン640個、その他食料品などを輸送。0820-0929、自衛隊放水冷却隊が福島第一原発4号機に放水。0831、百里救難隊UH-60J救難ヘリが松島に医療チームを輸送。0839、DD-125さわゆき艦載ヘリが名足小学校に米10kgと紙コップ160個を輸送。0840、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0859、RF-4偵察機が福島第1原発偵察のため百里基地を離陸(0933帰投)。0903、飛行開発実験団C-1輸送機が花巻に救援物資を輸送。0909、RF-4偵察機が福島第1原発偵察のため百里基地を離陸(0942帰投)。0912、AOE-422とわだからDDH-143しらねに粘着テープ20個、ゴム手袋31個、タオル200個、洗剤、ポリタンク21個、給油ポンプ9個などを輸送。0919、AOE-424はまなからDDG-174きりしまに主食缶詰496食と乾パン408食を輸送。0922、DDG-176ちょうかいが石巻市網地島と小網倉に缶飯200食、乾パン256食、牛乳800パック、軍手188枚、タオル50枚、その他生活用品などを輸送。0932、北部航空方面隊第二派遣隊が要救助女性1人を発見。0938、DE-231おおよどが小原木中学校に軽油40リットル、ガソリン40リットル、乾電池40本、粉石けん8個、手袋24組、サランラップ50本、ライト5個、フレキシブルライト5個を輸送。1008、AOE-424はまなからDD-102はるさめに主食缶詰496食を輸送。1020、MSC-601ひらしまが追波湾荒地区にガソリン20リットルを輸送。1030、MSC-603たかしまが伊勢畑、上・下雄勝地区に毛布20枚、乾電池100個、懐中電灯を輸送。1034、第3輸送航空隊C-1輸送機が花巻と福島に救援物資を輸送。1043、DD-125さわゆき艦載ヘリが石巻市大須小学校から救急患者1人を石巻赤十字病院に搬送。1100、中央即応集団が内閣府副大臣を霞目駐屯地に輸送。1103、AOE-426おうみがMH-53E掃海ヘリでMST-464ぶんごに主食缶詰7680食、副食缶詰7680食、2リットル入り飲料水6720本、災害用組み立て式トイレ15個、災害用排泄物収納袋2個、防災用テント1個を輸送。1110、東北方面航空隊ヘリが石巻と女川に食糧や燃料を輸送。1115、東部方面管制気象隊第5派遣隊の放水冷却隊第1陣3名が帰隊。1119、石巻総合運動公園から簡易トイレ3セットと日用品をDD-157さわぎりに輸送。1137、入間ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリが松島に救援物資を輸送。1140、AOE-426おうみ移動衛生班が石巻市宮城水産高校で3人に健康相談、36人に診療を実施。1150、DE-231おおよどが長部コミュニティーセンターに軽油160リットル、ガソリン40リットル、乾電池360本、粉石けん120個、手袋216組、サランラップ150本、ライト45個、フレキシブルライト45個、残飯入れ10個、その他生活用品などを輸送。1200、MSC-674つきしま、MSC-677まきしま、MSC-676くめじまが大船渡湾で海保測量船昭洋に対する航路港湾啓開支援を実施。1219、第1輸送航空隊C-130H輸送機が松島と花巻に救援物資を輸送。1220、第9師団第9飛行隊がヘリで花巻空港に食糧と生活用品などを輸送。DD-125さわゆき艦載ヘリが大須小学校に灯油540リットルを輸送。1222、ATS-4202くろべが艦載艇で女川原発地区に缶飯312食、割り箸144本、毛布20枚、その他生活用品などを輸送。1252、AOE-426おうみ艦載ヘリが石巻市宮城水産高校に2リットル入り飲料水300本、ゴミ袋3箱、さらし5反、タオル300枚、軍手300個、乾電池40個、ウェットティッシュ300個を輸送。1256、AOE-422とわだからMSC-680ながしまにガソリン140リットル、ゴム手袋33個、60枚入りゴミ袋3個、洗剤、防護衣、ポリタンク47個などを輸送。1308、第6師団第6飛行隊がヘリで宮戸小に医薬品と日用品を輸送。1315、DD-125さわゆき艦載艇が大須小学校に空ポリタンク38個を輸送。1354、AOE-422とわだがMSC-675まえじまにガソリン120リットル、軍手50個、粘着テープ50個、ゴム手袋31個、60枚入りゴミ袋3個、洗剤、防護衣、ポリタンク24個、トイレットペーパー96個を輸送。1356、DD-102はるさめが艦載ヘリで小原木小学校にトイレットペーパー100個、シャツ14枚、その他生活用品などを輸送。1409、DD-102はるさめが艦載ヘリで大島中学校にトイレットペーパー100個、洗剤4個、シャツ14枚、その他生活用品などを輸送。1500、AOE-426おうみ艦載ヘリが東松山市宮戸小学校に2リットル入り飲料水240本、災害用組み立て式トイレ14組、災害用排泄物収納袋1箱を輸送。1502、DD-125さわゆき艦載ヘリが原地区針岡第1原会館におにぎり400個、カップ麺180個、水240リットル、灯油540リットル、毛布25枚、菓子パン200個を輸送。1525、DE-231おおよど艦載艇が赤牛漁港付近の住民の要請で陸揚げ中の漁船の復旧作業を支援。海自医療班が石巻市渡波公民館で被災者5人を診療。1604、第108全般支援大隊が被災地15カ所に燃料を輸送。1619、DD-125さわゆきが艦載ヘリで雄勝中学校に米40kg、カップ麺528個、水228リットル、灯油180リットル、菓子パン200個、解熱剤100箱、その他生活用品などを輸送。1631、ままなす会館、中村第1小学校、スポーツアリーナそうま、向陽中学校に、DD-111おおなみ艦載ヘリがASE-6101くりはまから2リットル入り飲料水240本、災害用組み立て式トイレ14組、災害用排泄物収納袋1箱を搬送。1645、AOE-422とわだからMSC-683つのしまにガソリン200リットル、粘着テープ10個、60枚入りゴミ袋1個、洗剤、防護衣、ポリタンク6個、ブルーシート6個、給油ポンプ2個を輸送。AOE-422とわだからAMS-4303あまくさに下関市から宮古市への救援物資である毛布、シーツ、ウエス、トイレットペーパー8個を輸送。1738、DD-125さわゆき艦載ヘリが名足保育所に菓子パン100個、シャツ80枚、オムツ12箱、カップ麺180個、トイレットペーパー96個、離乳食28個、生活用品などを輸送。1820、原発周辺の瓦礫を除去するため、第1師団第1戦車大隊74式戦車2両と第1後方支援連隊78式戦車回収車1両からなる機動路啓開隊が大型セミトレーラーで駒門駐屯地を出発。朝霞駐屯地で給油を行い、福島へと向かった。1822-1943、自衛隊放水冷却隊が福島第一原発4号機に放水。1912、LST-4001おおすみLCACが石巻市渡波支所に主食缶詰720食、副食缶詰480食、飲料水216本、日用品、生活用品などを輸送。
3月21日、安全のため、飛行する航空機は北進機も南進機も東北道を右に見て飛行するように決定した。Su-27戦闘機とAn-12BK-PPS電子戦機が集塵ポッドを装着して日本海側から日本領空の手前60kmまで接近してきたため、空自がスクランブル発進した。福島原発からの放射性物質モニタリングを兼ねて防空態勢を監視しにきたとみられる。この行為に対しては日本国民の反発が激しく、在日ロシア大使館駐在ロシア武官が記者会見で釈明に追われる羽目になった。コロンビア空軍第81輸送航空群第811輸送飛行隊KC-767-200ER空中給油輸送機が自国民避難支援のため成田に到着。0003、中国の救助隊を乗せた中国国際航空のチャーター便が花巻空港から離陸し、北京に向かった。0545、中部航空方面隊派遣隊が松島と大滝根で給水支援などを実施。0610、74式戦車と78式戦車回収車がJビレッジに到着。ただ重量の関係で地下施設や配管が破損する恐れがあるとのことで、結局原発作業への投入は行われなかった。0637-0830、自衛隊の消防車が福島第一原発四号機に対する放水を実施。0700、LST-4003くにさきが500ml入り飲料水49万本などを搭載して横須賀を出港、被災地に向かった。0824、北部航空方面隊派遣隊が山田で応急救護と道路啓開を実施。0825、DD-157さわぎりが艦載ヘリで寒風沢島に大人用紙おむつ128個、下着類352枚、靴下144足、タオル39枚、歯ブラシ59個、歯磨き粉12個、使い捨てカイロ814個、ウェットティッシュ19個、おしぼり84個、マスク1067個、その他生活物資を輸送。0830、AS-405ちよだが艦載艇で月浦にガソリン36リットル、ブルーシート5枚、洗剤4袋、ゴム手袋10個、軍手100個、さらし5反、その他生活用品などを輸送。0840、AS-405ちよだが艦載艇で小竹浜にガソリン36リットルと軽油36リットルを輸送。0905、DD-157さわぎり艦載ヘリが朴島に大人用紙おむつ9個、下着類37枚、靴下14足、タオル13枚、歯ブラシ7個、歯磨き粉2個、使い捨てカイロ51個、ウェットティッシュ6個、おしぼり5個、マスク67個、その他生活用品などを輸送。0911、LST-4001おおすみがLCACで給分漁港に単一電池2240個、単二電池1440個、単三電池4680個、単四電池1800個、飲料水216本を輸送。0927、第1輸送航空隊がC-130H輸送機で福島や花巻などに救援物資を輸送。0930、AS-405ちよだが艦載艇で折浜にガソリン36リットルとトイレットペーパー240個を輸送。0935、DD-157さわぎり艦載ヘリが野々島に大人用紙おむつ78個、下着類222枚、靴下88足、タオル24枚、歯ブラシ36個、歯磨き粉8個、使い捨てカイロ495個、ウェットティッシュ12個、おしぼり51個、マスク649個、その他生活用品などを輸送。0936、DD-125さわゆき艦載ヘリが石巻総合運動公園に使い捨てカイロ390個、下着類450枚、タオル72枚、乾電池443個、その他生活用品などを輸送。0944、飛行開発実験団がC-1輸送機で花巻に救援物資を輸送。0946、北部航空方面隊派遣隊が山田で要救助者2人を発見した。0948、DDH-144くらま艦載ヘリが網地島に灯油ドラム缶3本分とポリタンク4個を輸送。1005、AMS-4301ひうちが艦載艇で荻浜地区に乾電池500個を輸送。1015、LST-4001おおすみが石巻市役所渡波支所に飲料水216本と乾電池を輸送。1019、AS-405ちよだが艦載艇で桃浦にガソリン54リットルを輸送。1030、DE-231おおよどが艦載艇で小原木中学校などに軽油160リットル、コピー用紙1箱、シャツ60枚、靴下260足、オムツ7箱、その他生活用品などを輸送。1032、AOE-426おうみが石巻市渡波公民館に飲料水240本、乾電池50個、日用品を輸送。1039、DDH-144くらま艦載ヘリが宮城県立水産高校に支援物資を輸送。1100、第9師団第9特科連隊が山田町に物資輸送と給水支援を実施。DE-231おおよどが気仙沼市唐桑町乗鈎地区、館地区、新谷前地区に軽油160リットル、コピー用紙1箱、靴下260足、オムツ7パックを輸送。1116、DD-125さわゆき艦載ヘリが空ポリタンク31個や生活用品などをDE-234とねに輸送。1130、DD-157さわぎり艦載ヘリが生活物資を輸送。1136、東北方面後方支援隊第108全般支援大隊が被災地14カ所で燃料巡回配布を実施。1141、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に缶飯480個、防塵マスク45個、軍手85個、粘着テープ5個、ゴム手袋10個、タオル32枚、ゴミ袋60枚、絶縁テープ4個、フード付き防護衣10個、さらし10メートル、ファブリーズ5個、ポリタンク5個、トイレットペーパー384個、ブルーシート1枚、その他生活用品などを輸送。1145、第13旅団第13後方支援隊が福島県矢吹町で給水支援を実施。1240、DD-111おおなみが艦載ヘリで桂島に大人用紙おむつ318個、下着類881枚、靴下364足、タオル99枚、歯ブラシ149個、歯磨き粉85個、使い捨てカイロ2049個、ウェットティッシュ49個、おしぼり212個、マスク2686個、その他生活用品などを輸送。1241、東北方面ヘリコプター隊が石巻市網地島に物資を輸送。1252、DD-125さわゆきが艦載ヘリで名足保育所に生理用品133セット、下着類770枚、乾電池443個、ビニール袋600枚、その他生活用品などを輸送。1300、DDH-181ひゅうがが艦載ヘリで燦さん館、平成の森キャンプ場、県立自然の家、石巻市原地区に生活物資、軽油、灯油などを輸送。1305、第31航空群US-2救難飛行艇が岩国から八戸に救援物資1.4トンを輸送。1309、MSO-301やえやまが艦載艇で高白浜地区にガムテープ3個、油性マジック39個、ビニールテープ3個、ボールペン10個、日用品を輸送。1321、第2輸送航空隊C-1輸送機が花巻、松島などに救援物資を輸送。1325、DD-125さわゆき艦載ヘリが南三陸町名足小学校と石巻大須小学校にアルファ米200食、レトルトカレー390食、日用生活品などを輸送。1330、DD-125さわゆき艦載ヘリが大須小学校に使い捨てカイロ190個、靴下282足、生理用品100セット、レトルトカレー390個、トイレットペーパー168ロール、その他生活用品などを輸送。1442、AGS-5104わかさが石巻市牡鹿総合支所に救援物資を輸送。1456、DD-157さわぎり艦載ヘリが宮戸島に大人用紙おむつ579個、下着類1441枚、靴下590足、タオル162枚、歯ブラシ243個、歯磨き粉182個、使い捨てカイロ3371個、ウェットティッシュ80個、おしぼり348個、マスク4431個、粉ミルク26個、簡易トイレ3個、その他生活用品などを輸送。1507、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが松島に人員と器材を輸送。1515、第111航空隊MCH-101掃海・輸送ヘリが八戸からDDH-181ひゅうがに布団、被服、日用品3.2トンを輸送。1526、百里救難隊U-125A救難捜索機が松島に人員を輸送。1531、MST-464ぶんご艦載艇が気仙沼に缶飯2904個、副食6096個、乾パン3008個を輸送。1600、MSC-671さくしま艦載艇が狐崎浜に乾電池120個を輸送。1645、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島にウェットティッシュ20個、タオル20枚、下着類190枚、衣類60枚、靴下80足、子供用衣類50枚、米18袋、トイレットペーパー9袋、消毒液90箱、ボックスティッシュ54箱、その他生活用品などを輸送した。ATS-4202くろべが野々島に米18袋、衣類300着、日用品を輸送。1659、北部方面航空隊が山形から花巻に物資を輸送。1702、東部方面ヘリコプター隊が石巻市荻浜小に物資を輸送。MSO-301やえやまが雄勝湾尾浦地区に乾パン256個、主食缶詰24個、スプーン100本、ガーゼ3箱を輸送。1705、第71航空隊US-2救難飛行艇が岩国から八戸に生活物資1.4トンを輸送。1730、西部方面ヘリコプター隊が気仙沼市階上中に物資を輸送。第71航空隊US-2救難飛行艇が岩国から八戸に生活物資1.4トンと毛布600kgを輸送。1732、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが松島に救援物資を輸送。1747、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが志津川自然の家から石巻赤十字病院に患者1人と付き添い者1人を搬送。1755、中部方面ヘリコプター隊が南三陸町に物資を輸送。1800、MCH-101掃海・輸送ヘリが八戸からDDH-144くらまとMST-464ぶんごに支援物資を輸送。DDH-181ひゅうが艦載ヘリが燦さん館、平成の森キャンプ場、県立自然の家、石巻市原地区に生活物資、軽油、灯油などを輸送。1950、第31航空群US-2救難飛行艇が厚木から八戸に毛布600kgを輸送。2000、横須賀警備隊が千葉県に真水89トンを提供した。
3月22日、即応予備自衛官がコア連隊の東北方面混成団第38普通科連隊に配属され、被災地に入った。第14旅団第15普通科連隊が女川町総合運動公園で使用していた天幕17張を車中泊の被災者に開放。札幌地方協力本部が即応予備自衛官と公募予備自衛官(医療)に災害等招集命令書を交付。菅総理大臣が石巻を視察する予定だったが、天気予報が雨でキャンセルとなった。東松島市の依頼で自衛隊が遺体安置所から埋葬地への搬送を実施。0839、第6師団第6飛行隊が衛生隊の人員と物資を宮戸小などに輸送。0903、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0912、第3輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0920、第1輸送航空隊C-130H輸送機が花巻に救援物資を輸送。0922、DDG-174きりしまが艦載ヘリで名足小学校に生活用品を輸送。0924、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0925、MST-464ぶんごが気仙沼市大島に灯油ドラム缶18本、軽油ドラム缶4本、ガソリンドラム缶1本、ポリ容器200個、テント17張を輸送。0926、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発でのモニタリングを実施。0957、DDG-174きりしまが艦載ヘリで燦さん館に食料と生活用品を輸送。1001、AOE-426おうみの移動衛生班が宮戸島宮戸小で被災者13人を診療。1017、第111航空隊がヘリで八戸からDDH-144くらまに救援物資3.7トンを輸送。1023、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を新潟から松島に輸送。1107、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を花巻に輸送。1145、DDG-174きりしまが艦載ヘリで広田小学校に軽油ポリタンク4個を輸送。1200現在、陸自69000名、海自15400名、空自21300名、原子力災派部隊500名、艦船52隻、固定翼機326機、ヘリ196機が災派活動を実施。1206、AGS-5105にちなんが大須小学校に軽油2736リットルを輸送。1214、AS-405ちよだが寄磯に米25kg、副食缶詰528個、梅干し2パック、缶切り2個、50枚入りコットンクロス1箱、300枚入り紙タオル1箱、日用品を輸送。1233、DDG-174きりしまが艦載ヘリで小原木小学校に軽油ポリタンク4個を輸送。1246、第13旅団救助支援隊が炊き出し4000食を提供。1249、AS-405ちよだが泊に米25kg、軽油90リットル、単一乾電池12個、単二乾電池10個、スリッパ12足、日用品を輸送。1257、第73航空隊がヘリで大湊から玉川中、寒風沢島、野々島、桂島、朴島に米、生活用品、防災無線機を輸送。1300、第2師団が山田高で入浴支援を開始。第1輸送航空隊C-130輸送機が松島から千歳に患者44人などを輸送。1312、松島救難隊UH-60救難ヘリが田代島から石巻赤十字病院に患者を輸送。1314、DDG-174きりしまが艦載ヘリで清涼院に軽油ポリタンク7個を輸送。1315、第111航空隊ヘリが八戸からMST-464ぶんごに救援物資1.2トンを輸送。1340、DDG-174きりしまが艦載ヘリで小泉小学校に軽油ポリタンク7個を輸送。1348、AMS-4303あまくさが宮古港で救援物資を陸揚げし、陸自に引き渡した。1355、DD-125さわゆき艦載ヘリが飯野川中に支援物資を輸送。1442、第111航空隊ヘリでAOE-426おうみからDDH-144くらまに救援物資4トンを輸送。1450、LST-4003くにさきが小名浜港で500ml入りミネラルウォーター487584本、ほうじ茶12384本、ライトツナ缶12624個、鯖水煮缶672個、鯖醤油味付缶624個、サンマ蒲焼き缶2280個、クリーム玄米ブラン45840個、消毒用アルコールジェル12000本を陸揚げした。1457、YS-11T輸送機2機が松島に食料など3.4トンを輸送。1500、第13旅団が新地町の避難所8カ所に米や水などを輸送。1512、DD-125さわゆき艦載ヘリが飯野川中学校に支援物資を輸送。1527、東北方面後方支援隊が仙台市若林区などで燃料巡回配布を実施。1537、第10師団第14普通科連隊が山元町立山下第一小などに生活物資を提供。1600、MSO-301やえやまが女川御前地区に乾パン64個、主食缶詰48個、オレンジスプレッド72個、指ヶ浜地区に乾パン32個、主食缶詰48個、懐中電灯3個、乾電池60個、水浜地区に懐中電灯2個、乾電池20個、洗剤2個、食器洗剤5個、消毒用エタノール5本、滅菌ガーゼ2箱、三角巾5袋、さらし2反、呉壺地区に米25kg、水50リットル、主食缶詰216個、副食缶詰240個、乾電池80個、ろうそく32本、トイレットペーパー80個を輸送。1610、AOE-426おうみ移動衛生班が寒風沢島松林寺の被災者22人を診療。1614、MSC-674つきしまが気仙沼神止地区に非常用食料480食、灯油18リットル、乾パン192食を輸送。1728、MSC-674つきしまが津本地区に灯油18リットルを輸送。1742、MSC-677まきしまが気仙沼磯草地区に非常用糧食240食、灯油36リットル、乾パン64食を輸送。1800、MCH-101掃海・輸送ヘリが八戸からDDH-144くらまに救援物資3.7トン、八戸からMST-464ぶんごに救援物資1.2トン、AOE-426おうみからDDH-144くらまに救援物資300kgを輸送。2000、横須賀警備隊が千葉県に真水22トンを輸送。
3月23日、第7師団第7化学防護隊が郡山市総合体育館に除洗所を開設。東北方面隊管内で200名、中部方面隊管内で170名の即応予備自衛官が指定された部隊に出頭。他に東北方面隊管内の予備自衛官3名が通訳として出頭した。多賀城駐屯地で東北方面混成団第38普通科連隊及び東北方面後方支援隊第301普通科直接支援中隊、東松島市鷹の森公園で第11施設群第378施設中隊、石巻市総合運動公園で第10施設群第385施設中隊が編成を完結。石巻市の依頼で自衛隊が遺体安置所から埋葬地への搬送を実施。帯広地方協力本部が第7師団第7特科連隊所属の即応予備自衛官2名に対して勤務先で災害等招集命令書を交付。0500、札幌地方協力本部使走担当者が滝川から静内まで各地で該当者への災害等招集命令書の交付を開始した。0600、第13旅団が相馬市役所で給食支援を開始。中部航空方面隊派遣隊が給水給食支援と救援物資の仕分けを行った。0745、中部航空方面隊派遣隊が給水、炊き出し、物資輸送、巡回診療を開始。0754、北部航空方面隊派遣隊が炊き出しと道路啓開を実施。0840、DDH-144くらまが艦載ヘリで寒風沢島に衛生資材を輸送。0842、東北方面ヘリコプター隊が石巻市内3カ所に食糧を輸送。0903、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発偵察のため百里基地を離陸。0907、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発でのモニタリングを実施。第3輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0914、DDH-144くらまが艦載ヘリで石巻総合公園に生活用品などを輸送。0921、第1輸送航空隊C-130H輸送機が花巻に救援物資を輸送。0924、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発偵察のため百里基地を離陸。0944、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0958、飛行開発実験団C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。1018、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが患者を輸送した。海自ヘリが多摩川中学校、寒風沢島、野々島、柱島、朴島に生活用品と食料品を輸送。1021、新潟救難隊がUH-60J救難ヘリで患者と医師を仙台赤十字病院から搬送。1031、春日ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが松島から網地島に燃料を輸送。1137、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を松島に輸送。1200、第13旅団が相馬市日向中で入浴支援を開始。1230、DDH-143しらね艦載ヘリが釜石市陸上競技場に洋上被災者を輸送。1231、東北方面ヘリコプター隊が石巻赤十字病院と栗原総合病院に患者を搬送。1233、偵察航空隊RF-4偵察機が天候偵察のため百里基地を離陸。1244、第1輸送航空隊C-130H輸送機が透析患者と医師を松島から千歳に輸送。1245、福島第1原発映像伝達のためUH-1多用途ヘリがJビレッジを離陸。1304、LST-4003くにさきが仙台沖で男性30人と女性39人に入浴支援を行い、衣類などを提供。1328、MSO-301やえやまが雄勝湾水浜地区に紙おむつ110枚、粉ミルク2缶、生理用品22枚、おしりふき8パック、ウェットティッシュ30個、タオル5枚を輸送。1340、LST-4003くにさきが仙台港で入浴支援を実施。1422、中部航空方面隊派遣隊が石巻市に燃料輸送を開始。1428、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料巡回配布を実施。1600、第205教育航空隊がYS-11T練習機2機で福島に生活用品4.5トンを輸送。1624、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発偵察のため百里基地を離陸。1641、DD-157さわぎり艦載ヘリが宮城県立水産高に衛生班器材を輸送。1720、AS-405ちよだが女川原発地区にウェットティッシュ5箱、ティッシュ2箱、タオル・バスタオル10箱、オムツ10箱、おしりふき6箱、粉ミルク1箱、離乳食などを輸送。1800、機動施設隊が八戸市市川町で瓦礫を撤去。2131、福島県浜通りを震源とする震度5強の余震が発生したため、海自ヘリ2機が福島県を偵察。
3月24日、北澤防衛大臣が原子炉施設への給水命令を発出し、アクア作戦準備を開始。原発事故に対処する自衛官への賞恤金支払額を通常の1.5倍とする防衛省訓令改正を実施(3月11日に遡って実施)。コンビアサ航空A340-211がベネズエラ人避難民を乗せてセントレア空港を離陸。コア連隊の中部方面混成団第47普通科連隊が大津駐屯地で編成を完結し、被災地に入った。0600、第13旅団が相馬市役所、塙町役場、須賀川市役所で給食支援を実施。0654、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第1原発でモニタリングを実施。0700、第14旅団が雄勝町で入浴支援を実施。0753、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0800、第5旅団が石巻市万石浦で入浴支援を実施。第13旅団が郷ヶ丘小、中央台南中、新地町で、給水支援を実施。AGS-5105にちなん艦載艇が大須小卒業式で赤飯缶詰602食を提供。0802、飛行開発実験団C-1輸送機が救援物資を花巻に空輸。0832、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島や花巻などに輸送。0905、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発を偵察。0907、東北方面ヘリコプター隊が石巻市青葉中、好文館高に救援物資を輸送。0916、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発を偵察。0919、第5特科隊主力の第5旅団が石巻市で入浴支援を実施。第3輸送航空隊がC-1輸送機で救援物資を福島に輸送。0929、DDH-144くらまが艦載ヘリで寒風沢島に水860リットル、灯油ドラム缶2缶、パン216袋、米55kg、カップラーメン17箱、缶詰53個、粉ミルク21缶、離乳食24袋、靴下190足、トイレットペーパー192個、石けん150個、その他生活用品などを輸送。0942、MSO-301やえやまが荒地区にタオル10枚、ティッシュ10箱、乾電池40個、洗剤2個、食器洗剤4リットル、漂白剤1本、ろうそく40本、ウェットティッシュ30個を輸送。1000、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料巡回配布を実施。1001、DD-157さわぎり艦載ヘリが野々島に灯油ドラム缶2缶、パン216袋、米50kg、カップラーメン17箱、缶詰53個、粉ミルク15缶、離乳食20袋、靴下170足、トイレットペーパー192個、石けん105個、その他生活用品などを輸送。1027、MSC-676くめじま艦載艇が門前公民館に缶飯240個、副食缶768個、乾パン128個、水120リットル、醤油18リットル、その他生活用品などを輸送。1052、第6師団第6飛行隊が玉川中、桂島、寒風沢島に救援物資を輸送。1053、入間ヘリコプター空輸隊がCH-47輸送ヘリで救援物資を府中から仙台駐屯地に輸送。1106、ATS-4202くろべが艦載艇でコミュニティーセンターにトイレットペーパー300個、乾電池96個、感冒薬72個、胃薬64個、その他生活用品などを輸送。1129、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発を偵察。1135、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発を偵察。1257、DD-157さわぎりが艦載ヘリで宮戸島に灯油ドラム缶3缶、パン492袋、米120kg、カップラーメン42箱、缶詰87個、粉ミルク50缶、離乳食74袋、靴下450足、トイレットペーパー276個、石けん150個、その他生活用品などを輸送。1300、DD-110たかなみ艦載ヘリが大島中学校から気仙沼高校第2グラウンドに急患1人を輸送。1307、DDH-144くらまが艦載ヘリで桂島に水648リットル、灯油ドラム缶2缶、パン228袋、米85kg、カップラーメン23箱、缶詰55個、粉ミルク21缶、離乳食24袋、靴下240足、トイレットペーパー192個、石けん150個、その他生活用品などを輸送。1315、DD-110たかなみが艦載ヘリで大島中学校から気仙沼高校第2グラウンドに急患1人を輸送。1342、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に灯油ドラム缶1缶、パン144袋、米25kg、カップラーメン10箱、缶詰51個、靴下144足、トイレットペーパー96個、石けん45個、その他生活用品などを輸送。1357、MSO-301やえやまが小指区に缶飯48個、副食缶96個、乾電池60個、洗剤2個、漂白剤1本、ろうそく40本、タオル6枚、紙おむつ352枚、粉ミルク4缶、おしりふき24個を輸送。1400、MSC-676くめじまが泊里集落に非常用糧食432食、副食481食、乾パン128食、醤油18リットル、その他生活用品などを輸送。1413、MSO-301やえやまが大室地区に米10kg、副食缶192個、消毒用エタノール3個、洗剤2個、木炭18kg、タオル13枚、ウェットティッシュ26個を輸送。1517、第205教育航空隊YS-11T練習機2機が福島に生活用品2.3トンを輸送。1532、海自ヘリが石巻総合公園から宮戸島小学校に消石灰を輸送。1559、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第1原発を偵察。1602、DD-156せとぎりが艦載ヘリで新日鉄グラウンドに毛布などを輸送。1614、MSC-676くめじまが唯出集落に非常用糧食480食、副食768食、乾パン128食、水120リットル、醤油18リットル、その他生活用品などを輸送。1619、第111航空隊ヘリがAOE-426おうみから気仙沼中に飲料水3.9トンを輸送。1647、AS-405ちよだが艦載艇で寄磯地区にガソリン90リットルを輸送。1800、八戸航空基地隊が周辺被災者に入浴支援などを実施。LST-4003くにさきが仙台港で入浴支援を実施。2046、第1輸送航空隊KC-767空中給油輸送機が救援物資を福島に輸送。
3月25日、宮城県雄勝町では未だ300人が行方不明で、第14旅団が捜索にあたっているが、地盤沈下により町の大部分が海没しており、土手で海水を堰き止めてポンプで水抜きをしなければ本格的な捜索に入れない状態である。MST-464ぶんごで気仙沼大島小学校の艦上卒業式を実施。宇宙航空研究開発機構JAXAの実験用航空機MuPALが福島原発上空の放射線量を計測。フランス政府の震災救援物資、放射線量測定用特殊車両、防護服など150トンを搭載したAn-225ムリア輸送機が成田に着陸。0500、第9師団が陸前高田市、大船渡市、釜石市などで生活支援を実施。0600、第13旅団が相馬市役所、須賀川市、いわき市、新地町で給食支援を実施。0634、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0720、AS-405ちよだが寄磯地区に牛乳300本を輸送。0742、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島に救援物資を輸送。0800、LST-4003くにさきが渡波漁港に主食缶詰144個と副食缶詰240個を輸送。0801、第14旅団が雄勝町で入浴支援を実施。0829、東北方面ヘリコプター隊が石巻市と仙台市に救援物資を輸送。0900、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。0902、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが加茂と網地島に救援物資を輸送。0906、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。0911、AGS-5105にちなんが大須小に軽油1782リットルを輸送。0914、第7航空団T-4練習機が集塵飛行のため百里基地を離陸。0920、AS-405ちよだが泊地区に米55kg、副食缶詰500食、ガソリン90リットル、単一乾電池50個、単二乾電池26個、軍手100組、さらし3反を輸送。0926、第1輸送航空隊C-130H輸送機が松島と花巻に救援物資を輸送。0957、MSC-677まきしまが長磯七半沢地区に非常用糧食264個、ウインナー240缶、オレンジスプレット192本、たくあん缶144個、乾パン64袋、清涼飲料水200本、2リットル入り飲料水18本、サンマ蒲焼き120個、パイン缶24個を輸送。1016、DDH-181ひゅうがが艦載ヘリで名足小学校にアメリカ医療チーム4名と医官等3名を輸送。1047、第61航空隊YS-11M輸送機が生活物資2.5トンを厚木から八戸に輸送。1051、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1100、第5旅団が鹿妻小と湊小で給食支援を実施。1128、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。1129、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。1150、アクア作戦を開始。1255、AS-405ちよだが寄磯地区に米35kg、食器150個、アルミホイル20本、ラップ14本、洗濯用洗剤10袋、スリッパ6足を輸送。1353、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島に20リットル入り水14個を輸送。1410、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に20リットル入り水7個を輸送。DDH-181ひゅうが艦載ヘリが志津川小学校にアメリカ医療チーム4名と医官等3名を輸送。DD-157さわぎり艦載ヘリがDDG-178あしがらから桂島に主食缶詰1200個を輸送。1427、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に20リットル入り水9個を輸送。1526、DDH-181ひゅうが、DD-102はるさめ、DD-110たかなみの艦載ヘリが気仙沼市大島ふれあい公園に灯油ドラム缶26本を輸送。1535、MST-464ぶんごが気仙沼大島小中学校の小学生22人、中学生21人、保護者5人に入浴支援を実施。1606、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。1612、AS-405ちよだが寄磯地区で男性14人と女性13人に入浴支援を実施、ガソリン90リットル、副食缶詰500食、軍手100組、単一乾電池50個、単二乾電池22個、単三乾電池48個を輸送。1620、機動施設隊が八戸市内で道路を復旧。1635、ATS-4202くろべが仙台塩釜港で被災者43人に入浴支援を実施し、タオル48枚、シャンプー3本、ボディソープ3本、紙コップ80個を提供した。1723、LST-4003くにさきが石巻港で入浴支援を実施し、幼児服5箱、子供服1箱、男性衣服2箱、女性衣服1箱、衣類6箱、靴下1箱、毛布1箱、タオル256枚、石けん19個、歯ブラシ2個を提供した。1800、八戸航空基地が八戸市住民に入浴・診療支援を実施。
3月26日、災派部隊が一部の人員交代を開始。東シナ海でDD-127いそゆきに中国海監のZ-9ヘリが異常接近した。パキスタン空軍C-130E輸送機2機が成田に着陸し、救援物資のビスケット13.5トン、牛乳9トン、ミネラルウォーター0.75トンを降ろした。0430、第13旅団が新地町、相馬市、須賀川市で給食支援、矢吹町などで巡回給水を実施。0550、第1輸送航空隊KC-767空中給油輸送機が福島に救援物資を輸送。0642、第9師団が陸前高田市、大船渡市、釜石市、宮古市、久慈市、大槌町、山田町で給食支援を実施。入浴支援や燃料提供も行った。0650、北部航空方面隊派遣隊が炊き出しを実施。0700、中部航空方面隊派遣隊が給水給食支援を実施。0720、中部航空方面隊派遣隊が給水、炊き出し、巡回医療、入浴支援を実施。0730、第10師団が岩沼市と山元町で給水支援を実施。0820、海自ヘリが寒風沢島に水9箱、パン3箱、その他食料品12箱を輸送。0830、MSO-301やえやまが南の沢地区と田の浦地区に水24リットル、野菜30kg、乾電池170個、懐中電灯2個、その他救援物資を輸送。0832、MSC-677まきしまが岩月ノ沢地区にトイレットペーパー70個、タオル13枚、その他救援物資を輸送。0835、DD-157さわぎり艦載ヘリが朴島に水2箱、パン1箱、その他食料品5箱を輸送。0837、MSO-303はちじょうが前浜地区に乾電池200個、清涼飲料水90本、胃腸薬5箱、その他救援物資を輸送。0838、海自ヘリが野々島に水9箱、パン2箱、その他食料品10箱を輸送。0843、海自ヘリが寒風沢島に水10箱、パン5箱、その他食料品19箱を輸送。0851、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を福島と花巻に輸送。第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島と福島に輸送。0906、DD-157さわぎり艦載ヘリが寒風沢島に主食缶詰720個を輸送。0922、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に主食缶詰600個を輸送。0929、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0935、MSO-301やえやまが港地区に味噌7.5kg、乾パン128袋、野菜27kg、その他救援物資を輸送。0937、第2航空群P-3C哨戒機が漂流船1隻を確認し、塩釜海保に通報した。0941、第2航空群P-3C哨戒機が漂流コンテナ2個を確認し、塩釜海保に通報した。0957、MSC-677まきしまが七半沢地区に非常用糧食264個、乾パン64袋、飲料水18本を輸送。1025、MSC-677まきしまが前浜地区母体田地区にトイレットペーパー50個、タオル13枚、水36リットル、乾パン128袋、副食瓶詰60個、副食缶詰72個、灯油60本、その他救援物資を輸送。1027、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料巡回配布を実施。1044、第2航空群P-3C哨戒機が漂流船舶1隻と浮き桟橋1個を視認し、塩釜海保に通報した。1048、海自ヘリが寒風沢島に水270リットルを輸送。1059、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが気仙沼大島に救援物資を輸送。1137、第2航空群P-3C哨戒機が漂流コンテナ1個を視認し、塩釜海保に通報した。1145、MST-464ぶんごが大島に軽油ドラム缶32本、灯油ドラム缶20本、ガソリンドラム缶5本を輸送。MSC-674つきしまが神止地区にウェットティッシュ16個、タオル108枚、バスタオル3枚、ポリ袋2200枚、乾パン384個を輸送。1243、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島と花巻に救援物資を輸送。1258、第7航空団T-4練習機が集塵飛行のため百里基地を離陸。1335、MSO-301やえやまが蔵内地区に主食缶詰120個、副食缶詰240個、味噌2.5kg、乾パン128袋、野菜10kg、乾電池70個、その他救援物資を輸送。1352、第2航空群P-3C哨戒機が漂流船舶1隻を視認し、塩釜海保に通報した。三沢ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を松島と山田に輸送。1407、MSO-303はちじょうが小金沢地区に主食缶詰100個、副食缶詰150個、ウーロン茶100本、その他救援物資を輸送。1442、DD-108あけぼのなどの艦載ヘリが大島に灯油ドラム缶26本を輸送。1508、DD-111おおなみ艦載ヘリが宮戸島に救援物資を輸送。1522、MSO-301やえやまが今朝磯地区に野菜40kgと乾電池189個を輸送。1526、第2航空群P-3C哨戒機が漂流コンテナ等3個を視認し、塩釜海保に通報した。1527、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発でのモニタリングを実施。1557、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。1600、第2航空群が八戸地区被災者の宿泊入浴支援を実施。1604、第2航空群P-3C哨戒機が漂流コンテナ1個を視認し、塩釜海保に通報した。1605、機動施設隊が八戸市内の道路復旧作業を実施。1618、第14旅団が山野小に物資を輸送。1626、LST-4001おおすみが給分地区で入浴・医療・給食支援を実施し、被服25箱、灯油65リットル、カイロ168個、タオル298枚、オニギリ400個を提供した。1632、DD-111おおなみ艦載ヘリが宮戸島に食料品26個を輸送。1652、MSO-303はちじょうが天ヶ沢地区に毛布50枚、副食缶詰300個を輸送。1800、八戸航空基地が八戸周辺被災者に入浴・診療支援を実施。1905、第25航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救助飛行を行った。
3月27日、イスラエル・エルアル航空B747-412Fが成田に着陸し、救援物資を降ろした。イスラエル空軍B707空中給油輸送機が成田に到着し、軍医療チームなどを降ろした。0430、第13旅団が新地町と相馬市で給食支援を実施。0602、第1輸送航空隊KC-767空中給油輸送機が救援物資を名古屋から福島に輸送。0713、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発でのモニタリングを実施。0730、第14旅団が女川総合運動公園で給食・入浴・救護支援を実施。0751、DDH-181ひゅうがの移動衛生班が桂島と野々島で医療支援を実施。0824、MSO-301やえやまが女川湾野々浜地区に生活用品、食料等救援物資を輸送。0858、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。0900、機動施設隊が八戸市市川地区の瓦礫(10トンダンプ18台分)を撤去。0905、MSO-301やえやまが女川湾高白浜地区に食料、医薬品等救援物資を輸送。0909、MSO-303はちじょうが女川湾小屋取地区に燃料等救援物資を輸送。0910、第13旅団が磯部小で給水支援を実施。0920、AGS-5105にちなんが大須小学校に救援物資と支援要員を輸送。0942、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。0951、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を花巻と松島に輸送。0954、DDH-181ひゅうがとDD-108あけぼのの艦載ヘリがLHD-2エセックスの救援物資を大須小学校に輸送。1000、第2航空群が三菱製紙八戸工場航空障害灯用の燃料を給油。第14旅団が雄勝町で入浴支援を実施。東北方面航空隊のヘリ映伝搭載UH-1多用途ヘリが福島第一原発を撮影。1010、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島と朴島に水、食料、日用品等を輸送。1012、第25航空隊ヘリが捜索救助のため被災地周辺を飛行。1032、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を福島と松島に輸送。1036、LST-4001おおすみが鮎川漁港で入浴・医療支援を実施し、灯油30キロリットル、食糧、生活用品などを輸送した。1049、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島に輸送。1222、MSO-303はちじょうが雄勝湾指ヶ浜地区に生活用品を輸送。1338、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが千歳から松島に救援物資を輸送。1434、MSO-301やえやまが雄勝湾水浜地区に食料や生活用品などを輸送。1450、MSO-301やえやまが雄勝湾船戸神名呉壺地区に水や生活物資などを輸送。1500、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料を配布。1506、MSO-303はちじょうが雄勝湾尾浦地区に生活用品を輸送。1533、MSO-301やえやまが雄勝湾小島地区に食料を輸送。1558、偵察航空隊RF-4偵察機が原発偵察のため百里基地を離陸。
3月28日、防衛大臣が松島基地、DDH-181ひゅうが、石巻市、牡鹿半島を視察し、隊員を激励した。中国国際貨運航空B747-400Fがミネラルウォーターやゴム手袋などを満載して成田に向かった。0430、第13旅団が新地町、相馬市、須賀川市などで給食・給水支援を実施。0734、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発上空でモニタリングを実施。0811、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島基地に輸送。0857、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0859、偵察航空隊RF-4偵察機が被災地偵察のため百里基地を離陸。0900、横須賀警備隊が石巻市で入浴支援を実施。0913、第14旅団が雄勝町大須小学校で入浴支援を実施。0915、第7航空団T-4練習機が原発上空の集塵飛行のため百里基地を離陸。0926、DD-111おおなみが野々島、寒風沢島、朴島、桂島に灯油を輸送。0950、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区、同若林区で燃料の巡回配布を実施。1000、第13旅団がいわき市中央卸売市場で給水支援、相馬市向陽中学校で入浴支援を実施。1002、北部方面航空隊派遣隊が山田町で道路啓開と炊き出しを実施。1045、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1120、第3輸送航空隊C-1輸送機が松島基地に救援物資を輸送。LST-4001おおすみが馬場中山生活センターにLCACで人員を輸送。1137、DD-111おおなみが桂島に食料品と日用品を輸送。1138、DD-111おおなみが鮎川漁港地区で第1回入浴支援と健康相談を実施。1154、DD-111おおなみが朴島に食料と日用品を輸送。1200、北部航空音楽隊が山田町織笠小学校卒業式で演奏支援と慰問演奏を実施。第2施設団が宮戸島で給水支援を実施。1229、DD-111おおなみが桂島に軽油を輸送。1259、偵察航空隊RF-4偵察機が被災地偵察のため百里基地を離陸。1436、LST-4001おおすみが鮎川漁港地区で第2回入浴支援と健康相談を実施。1550、MSC-688あいしまが宮城県迫波湾荒地区に生活物資を陸揚げした。1558、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。1615、第10師団が山元町などに救援物資輸送、岩沼市で給食支援を実施。
3月29日、ロシア軍Il-20電子偵察機が山陰方面から日本に接近し、本州日本海側を対馬付近まで飛行してUターン、北海道からハバロフスク方面に抜けたため、空自がスクランブル発進した。0430、第13旅団が新地町と相馬市で給食支援、いわき市で給水支援を実施。0500、第10師団が岩沼市で給食支援を実施。0710、北部航空方面隊派遣隊が山田町で炊き出し、巡回医療、給水、道路啓開を実施。0714、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0830、八戸航空基地が災害ゴミを輸送。0844、LST-4001おおすみが寒風沢漁港地区で第1回入浴支援を実施。0855、第12旅団が須賀川市で給水支援を実施。0857、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0900、横須賀警備隊が石巻市で入浴支援を実施。0901、第21航空群UH-60J救難ヘリ1機が三陸沖を捜索。0907、第4航空群P-3C哨戒機が房総から三陸沖を偵察。0910、第21航空群UH-60J救難ヘリが三陸沖を捜索。0911、第1輸送航空隊C-130H輸送機が松島基地に救援物資を輸送。0920、第3輸送航空隊C-1輸送機が松島基地に救援物資を輸送。0930、第111航空隊MH-53E掃海ヘリ1機がDDH-181ひゅうがに生活用品1082kgを輸送。0952、DDH-181ひゅうがが大島で入浴支援を実施。1000、松島基地で周辺住民への入浴支援を実施。1011、DD-111おおなみが桂島に救援物資と水30箱を輸送。1013、LSU-4172のとが陸自北部方面隊大型トラック2両と軽油ドラム缶96本を函館から大湊に輸送。1015、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を花巻と松島基地に輸送。1020、DD-111おおなみが朴島にガソリンドラム缶1本を輸送。1022、DD-156せとぎりが寒風沢島にガソリンドラム缶1本を輸送。1042、ASE-6102あすかが三陸町石浜漁港で炊き出し(カレー200人分)を実施。1055、DD-156せとぎりが野々島に救援物資と水20箱を輸送。1200、第13旅団が相馬市向陽高校で入浴支援、中央台南小で給食支援を実施。1208、LST-4001おおすみが寒風沢漁港地区で第2回入浴支援を行い、タオル63枚とオニギリ300個を提供した。1300、第7航空団T-4練習機が集塵飛行のため百里基地を離陸。1435、MSC-688あいしまが追波湾大須地区にガソリン80リットルを輸送。1438、DD-156せとぎりが寒風沢島にガソリンドラム缶1本を輸送。1452、DDG-177あたごが相川地区と荒川地区に食糧、日用品、衛生用品を輸送。1453、DD-156せとぎりが桂島にガソリンドラム缶1本を輸送。1522、AMS-4302すおうが大島に救援物資を輸送。1559、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。1600、機動施設隊が八戸市で瓦礫撤去を実施。1630、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区・同若林区で燃料巡回配布を実施。1700、MSC-601ひらしまが大島磯草地区に日用品、灯油40リットル、ガソリン40リットルを、岩月台ノ沢地区に食糧を輸送。1830、東北方面音楽隊が多賀城で慰問演奏を実施。
3月30日、第14旅団第14後方支援隊が女川町総合運動公園に開設した天幕16張を車中泊の被災者に開放。ボルガ・ドニエプル航空An-12-100Mが成田国際空港に着陸し、震災支援のため空輸してきたスウェーデンのウースターマンヘリコプター社に所属するUH-1Hヘリ(ベル205)を降ろした。0430、第13旅団が新地町、相馬市、須賀川市で給食支援を実施。0640、第14旅団が追波川総合運動公園と二股地区で給水支援、雄勝町船越小で入浴支援を実施。0700、空自災害復旧支援隊が石巻と東松島で給水支援を実施。0730、北部航空方面隊派遣隊が山田町で炊き出しを行った。0736、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発でモニタリングを実施。0755、大滝根山分屯基地が田村市で給水・給食支援を実施。0800、第9師団が陸前高田市、大船渡市、釜石市、大槌町、山田町に物資を輸送。0813、MSC-601ひらしまが三ノ浜地区にガソリン40リットルと灯油40リットルを輸送した。0844、第13旅団が新地町といわき市で給水支援を実施。0845、第14旅団が道路啓開を実施。0857、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0859、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0909、第111航空隊MH-53E掃海ヘリが生活用品1.082トンをDDH-181ひゅうがに輸送。0910、MSC-685とよしまが唐丹地区に缶詰408個を輸送。0914、第7航空団T-4練習機が原発周辺の集塵飛行のため百里基地を離陸。0920、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島と福島に輸送。0930、松島基地が東松島市で巡回医療を実施。0949、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島と朴島に軽油ドラム缶1本ずつを輸送。0950、MSC-690みやじまが艦載艇で津の宮地区に缶詰284個、乾電池444個、消毒薬20個を輸送。1000、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料巡回配布を実施。1006、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1023、MSC-601ひらしまが艦載艇で神止地区に乾電池100個、ろうそく120本、灯油180リットルを輸送。1037、松島基地が入浴支援と炊き出し、瓦礫除去を実施。1054、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1112、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島に水480リットル、カップ麺17箱、おでん12箱、缶詰4箱、清涼飲料水5箱、菓子4箱、日用品50kgを輸送。1125、DD-111おおなみ艦載ヘリが野々島に水240リットル、カップ麺10箱、おでん6箱、缶詰2箱、清涼飲料水2箱、菓子2箱を輸送。1135、DD-111おおなみ艦載ヘリが寒風沢島に水360リットル、カップ麺7箱、おでん8箱、缶詰2箱、清涼飲料水4箱、菓子2箱を輸送。1150、DD-111おおなみ艦載ヘリが朴島に水120リットル、カップ麺3箱、おでん2箱、缶詰1箱、清涼飲料水1箱、菓子1箱、日用品22kgを輸送。1300、第13旅団が相馬市向陽中学校で入浴支援を実施。1340、MSC-690みやじまが艦載艇で波伝谷地区に灯油72リットル、缶詰432個、乾電池70個、その他日用品を輸送。1400、MSC-688あいしまが平磯地区に食料品43kg、下着30枚、トイレットペーパー48個、カイロ100個、その他日用品を輸送。第10師団第10音楽隊が丸森町筆甫中で慰問演奏を実施。1409、第25航空隊ヘリが捜索救助活動を実施。1523、海自ヘリが野々島に水270リットルを輸送。1557、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。1600、機動施設隊が八戸市内で瓦礫撤去を実施。1645、LST-4001おおすみが桂島と野々島地区で診療・入浴支援を実施、カイロ240個、タオル148枚、オニギリ150個を提供した。1645、横須賀警備隊が石巻地区で入浴支援を実施。1700、東北方面音楽隊が多賀城中学校と東豊中学校で慰問演奏を実施。1702、LSU-4172のとが陸自大型トラック2台と軽油ドラム缶96本を函館から大湊に輸送。1800、第2航空群が八戸地区で診療支援を実施。
3月31日、バングラデシュ空軍C-130B輸送機が成田に着陸し、救援物資の毛布2000枚、ゴム長靴500足、ゴム手袋1000組を降ろした。フランス空軍第65輸送訓練検定飛行隊A330-223要人輸送機がサルコジ大統領を乗せて関西空港に着陸。0600、第13旅団が相馬市などで給食給水支援を実施。0710、空自災害復旧支援隊が石巻市と東松島市で給水支援と瓦礫除去を実施。0800、大滝根山分屯基地が田村市で給水支援を実施。0805、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0808、北部航空方面隊派遣隊が山田町で人命救助、給食給水支援、道路啓開を実施。0901、偵察航空隊RF-4偵察機が岩手県沿岸偵察のため百里基地を離陸。0907、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0916、第7航空団T-4練習機が集塵飛行のため百里基地を離陸。0920、偵察航空隊RF-4偵察機が岩手県沿岸偵察のため百里基地を離陸。0921、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島に輸送。1003、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を三沢と花巻に輸送。1005、MSC-688あいしまが柏浜基地と韮浜に食料、日用品、ガソリン40リットル、灯油20リットル、牛乳24パック、乾電池30個を輸送。1032、MSC-601ひらしまが処分艇で石巻市崎浜にガソリン40リットル、灯油20リットル、牛乳24パック、日用品を輸送。1100、MST-464ぶんごが野々島、寒風沢島、朴島、柱島に灯油2000リットルを輸送。1114、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を福島と百里に輸送。1138、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を三沢と花巻に輸送。1255、偵察航空隊RF-4偵察機が岩手県沿岸偵察のため百里基地を離陸。1256、飛行開発実験団C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1306、AMS-4302すおうが大島浦の浜に救援物資を輸送。1323、第25航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救助活動を実施。1418、LST-4001おおすみが大原小学校と清優館に飲料水など11箱を輸送。1512、MSC-685とよしまが綾里地区コミュニティセンターに缶詰144個、副食缶詰288個、乾パン128個、毛布20枚、トイレットペーパー100個、ペーパータオル150個を輸送。1530、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を三沢に輸送。1532、LST-4001おおすみが鮎川漁港地区に灯油36リットル、カイロ240個、タオル220枚、おにぎり350個を輸送し、健康相談や入浴支援を行った。1545、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料を配布。1609、DDH-181ひゅうがとASE-6102あすかが大島で入浴支援を実施。1614、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島と朴島に支援物資4セットを輸送。1645、横須賀警備隊が石巻市で入浴支援を実施。1800、第2航空群が八戸地区でシャワー支援とメンタルヘルスケアを実施。1809、第3航空隊の航空機が被災地周辺で捜索救助活動を実施。
3月31日までに自衛隊は延べ隊員1839000名(陸自1165000名、海自317000名、空自358000名)、航空機9600機、艦艇1000隻を派遣し、19246人(陸自14937人、海自896人、空自3452人)を救助、7013体(陸自6542体、海自178体、空自293体)の遺体を収容し、物資4200トン、人員(医療チームなど)4400人、患者175人を輸送、14400トンの給水支援、1452000食の給食支援、944キロリットルの燃料支援、113000人に対する入浴支援、13200人に対する衛生等支援を行った。原子力災害派遣ではヘリから30トンを、消防車延べ44台から340トンを放水している。
4月1-3日、三陸沖の海難事故では21日目に行方不明者が発見されることが多いという経験則などに基づき、自衛隊、アメリカ軍、海上保安庁などが共同で行方不明者一斉捜索を実施。岩手県の海岸から20km沖合までをアメリカ軍、大船渡の海岸・大規模水没地域から300m沖合までを陸自ヘリ、気仙沼市から多賀城市にかけての海岸から20km沖合までを空自ヘリ(UH-60J救難ヘリ7機)と固定翼機(E-767早期警戒管制機1機、E-2C早期警戒機2機、U-125A救難捜索機2機)、全陸上は陸自、洋上は海自・海保が担当し、人員18000名、航空機120機、艦艇65隻が参加、78遺体を収容した。
4月1日、防衛大臣と統合幕僚長が平成天皇・皇后に活動状況の御説明を行った。岩手県内で災害派遣活動中の第2師団第2特科連隊所属陸曹長が殉職した。東シナ海でDD-127いそゆきに中国海監Y-12哨戒機が異常接近した。0500、第13旅団が岩沼市と相馬市で給食支援を実施。0630、第14旅団が女川町で救援物資輸送と入浴支援を実施。0730、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0820、第10師団が救援物資を山元町に輸送。0849、ATS-4203てんりゅうが男鹿半島沖で遺体1体を収容。0859、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0901、偵察航空隊RF-4偵察機が岩手県沿岸偵察のため百里基地を離陸。0902、MSC-689あおしまが追波湾で遺体1体を収容。0913、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島に輸送。0915、第7航空団T-4練習機が福島第一原発上空集塵飛行のため百里基地を離陸。0916、DE-231おおよどが気仙沼沖で遺体1体を収容。0946、ASE-6102あすかが気仙沼市沖で男性9人、女性10人、子供4人に入浴支援を実施。0955、DDH-144くらま艦載ヘリが玉川中学校から柱島に日用品一式を輸送。1001、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島と福島に輸送。1003、LST-4003くにさきが石巻市沖で男性65人と女性55人に入浴支援を行い、灯油、オニギリ、カイロ、衣類、バスタオル、ボディソープを提供した。1020、DDH-181ひゅうがが石巻市沖で男性40人と女性35人に入浴支援を実施。1115、飛行開発実験団C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1122、入間ヘリコプター空輸隊CH-47輸送ヘリが救援物資を松島に輸送。1144、第2輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を松島に輸送。1149、第10師団第10音楽隊が岩沼市で慰問演奏を実施。1200、第2施設団が東松島市、多賀城市、仙台市、女川町で道路啓開と瓦礫除去を実施。第13旅団が相馬市向陽中学校で入浴支援を実施。1227、北部航空方面隊派遣隊が東松島市で医療支援を実施。1230、横須賀警備隊が石巻市市営駐車場で男性122人と女性110人に入浴支援を実施。1249、DE-231おおよどが気仙沼沖で遺体1体を収容。1250、MSC-683つのしまが気仙馬沖で遺体1体を収容。1300、MSC-601ひらしま作業艇が大島の気仙沼防災本部Aに乾パンや缶詰などを輸送。1315、AS-405ちよだが作業艇で石巻市大指地区に食料や水などを輸送。1345、ATS-4203てんりゅうが牡鹿半島沖で遺体1体を収容。1459、DDH-144くらま艦載ヘリが多賀城から寒風沢島にガソリンを輸送。1525、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料巡回配布を終了。1530、第13旅団が救援物資を相馬市卸売市場に輸送。1544、ATS-4203てんりゅうが牡鹿半島沖で遺体1体を収容。1604、ATS-4203てんりゅうが男鹿半島沖で遺体1体を収容。
4月2日、九州で即応予備自衛官の招集を開始。ドイツ外務大臣兼副首相がドイツ空軍A310要人輸送機で来日。ボルガ・ドニエプル航空An-124-100が成田に着陸し、ドイツから運んできた原発注水用のプツマイスターM62コンクリートポンプ車を降ろした。0641、第13旅団が相馬市で給食支援、いわき市などで給水支援を実施。0703、災害復旧支援隊が石巻市で給水支援を実施。0720、北部航空方面隊派遣隊が給水支援と不明者捜索を実施。0723、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0800、第2航空群が八戸地区で診療とメンタルヘルスケアを実施。大滝根山分屯基地が田村市で給水給食支援を実施。0802、DDH-144くらまが野々島の流木と瓦礫を撤去。0803、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0821、DD-111おおなみが桂島の流木瓦礫撤去と支援物資輸送を実施。0905、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島に輸送。0950、東北方面後方支援隊が仙台市宮城野区と若林区で燃料配布を実施。1016、第3輸送航空隊C-1輸送機が福島と松島に救援物資を輸送。1020、第2輸送航空隊C-1輸送機が松島と三沢に救援物資を輸送。1038、LST-4003くにさきが石巻渡波漁港で男性31人と女性31人に入浴支援を行い、灯油30リットル、タオル、バスタオル、ぜんざいを提供した。1054、DD-111おおなみが寒風沢島に支援物資を輸送。1101、AMS-4302すおうが大島浦浜に救援物資を輸送。1113、DD-154あまぎりが桂島に段ボール76個を輸送。1137、DD-111おおなみが野々島に支援物資を輸送。1238、三沢ヘリコプター空輸隊が救援物資を三沢に輸送。1245、菅総理がJビレッジで自衛官らを激励。1335、三沢ヘリコプター空輸隊が救援物資を三沢に輸送。1555、DDH-181ひゅうがが広田湾で男性30人と女性38人に入浴支援を実施。1643、第12旅団が福島布引で巡回診療を実施。1645、第13旅団が新地町で物資輸送を支援。1709、航空救難団UH-60J救難ヘリが地震偵察のため百里基地を離陸。1800、大湊音楽隊が八戸航空基地/第2航空群で被災者激励ハートフルコンサートを実施。2115、東北方面音楽隊が福島大と会津高で慰問演奏を実施。
4月3日、CBIRF要員150名が横田基地に到着。第4師団第16普通科連隊音楽部が気仙沼市の被災者支援拠点はまなす文化タウンで慰問演奏を実施。0427、航空救難団UH-60J救難ヘリなど空自航空部隊が気仙沼から多賀城にかけての沿岸と海上で集中捜索を実施。0600、第13旅団が相馬市と須賀川市で給食支援を実施。0624、第5施設団が相馬市と新地町で道路啓開を実施。0655、災害復旧支援隊が石巻市で給水支援を実施。0657、北部航空方面隊派遣隊が給水支援と捜索活動を開始。0750、第1ヘリコプター団CH-47輸送ヘリが福島第一原発のモニタリングを実施。0752、第14旅団が北上町と河北町に救援物資を輸送。0800、第12旅団がいわき市中央北中で給水支援を実施。第10師団が宮城県山元町山下小で救護活動を実施。第2施設団が門脇地区南浜町、県道41号で道路啓開を実施。0824、偵察航空隊RF-4偵察機が福島第一原発偵察のため百里基地を離陸。0933、第1輸送航空隊C-130H輸送機が救援物資を松島に輸送。0938、第10師団第10音楽隊が山元町で慰問演奏を実施。0949、第3輸送航空隊C-1輸送機が救援物資を花巻に輸送。1019、DD-111おおなみ艦載ヘリが野々島に水240リットル、パン75kg、カップ麺8箱などを輸送。1026、DD-154あまぎりが艦載ヘリで桂島に水120リットル、パン40kg、カップ麺18箱などを輸送。1043、DD-154あまぎりが艦載ヘリで朴島に水120リットル、パン10kg、カップ麺4箱などを輸送。1044、DD-111おおなみが艦載ヘリで寒風沢島に水360リットル、パン30kg、カップ麺8箱などを輸送。1055、航空救難団CH-47輸送ヘリが医療チームを岩手に輸送。1100、航空中央音楽隊が伊達市で慰問演奏を実施。第13旅団が相馬市向陽中で巡回診療を実施。1153、第2輸送航空隊C-1輸送機が花巻と松島に救援物資を輸送。1330、第6師団第6音楽隊が中央台南小と平工業高で慰問演奏を実施。1424、LST-4003くにさきが渡波漁港で男性47人・女性53人に入浴支援を行い、灯油30リットル、タオル55枚、被服5箱、ぜんざい100食を提供した。1558、DDH-181ひゅうがが気仙沼で診療・入浴支援(男性59人、女性42人)を実施。1700、横須賀警備隊が石巻で男性101人と女性90人に入浴支援を実施。1800、八戸航空基地隊が八戸で診療支援を実施。1824、LSU-4172のとが陸自車両2両と灯油ドラム缶96本を函館から大湊に輸送。
4月4日、トルコ航空A330-243Fが救援物資を積んで成田に着陸。0939、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島にガソリン入りドラム缶、水360リットル、缶詰18kg、味噌汁2kg、リンゴ30kg、お菓子3kg、日用品15kg、肌着など140kgを輸送。1106、DDH-144くらま艦載ヘリが朴島に水120リットル、缶詰5kg、リンゴ10kg、お菓子2kg、日用品20kg、カップ麺2kgを輸送。1123、MCL-727さくしま処分艇と搭載艇が荻浜湾小竹浜、折浜、蛤浜、桃浦地区に食料と日用品を輸送。1148、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に水240リットル、缶詰18kg、味噌汁2kg、リンゴ20kg、お菓子2kg、日用品5kg、肌着など160kgを輸送。1154、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島にガソリン入りドラム缶、水120リットル、缶詰27kg、味噌汁2kg、リンゴ40kg、お菓子5kg、日用品17kg、肌着など140kg、ほうき10kg、土のう袋10kgを輸送。1430、DD-131せとゆきが大島地区で男性10人と女性22人に入浴支援を実施。1527、ASE-6102あすかが大島地区で男性14人と女性14人に入浴支援を実施。1610、機動施設隊が八戸市内道路の災害ゴミ処分を支援。1648、MSO-303はちじょうが大須地区に食料と日用品を輸送。1650、AS-405ちよだが石巻市小室地区と寄磯地区に食料と日用品を輸送し、TVアンテナ設置支援、医療支援、入浴支援を行った。1700、横須賀警備隊が石巻地区で男性86人と女性99人に入浴支援を実施。1745、DE-234とね艦載艇が歌津地区に軽油と物資を輸送。1800、八戸航空基地隊が八戸周辺で診療支援を実施。
4月5日0745、DE-231おおよどが大島地区にインスタントコーヒー12個、タオル600個などを輸送。0754、MCL-727さくしまが荻浜湾に菓子3箱、ウインナー240食などを輸送。0830、千葉県知事から撤収要請が出され、陸自高射学校が活動を終了。0908、DDG-177あたごが陸前高田市小友小学校で排水清掃作業を行った。0913、ASE-6102あすかが気仙沼に缶詰288個を輸送。0943、DD-110たかなみが気仙沼と大島地区に即席麺1932食、水480本、石油ストーブ1個を輸送。1011、DDH-181ひゅうがが大島地区で男性14人と女性16人に入浴支援を実施。1106、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが気仙沼に洗濯用洗剤18本、シャンプー120本、コンディショナー234本、リンスインシャンプー1000本を輸送。1138、DDH-181ひゅうがが大島地区で男性15人と女性17人に入浴支援を実施。1157、MCL-727さくしまが荻浜湾に菓子6箱と懐中電灯3個などを輸送。1245、AS-405ちよだが陸前高田市小友小学校に衣類7箱と靴21足などを輸送。1303、ASE-6102あすかが大島地区で男性14人と女性10人に入浴支援を実施。1308、MSO-301やえやまが勝浦湾にベビーフード2箱、おしりふき2箱、水30本などを輸送。1312、DDH-181ひゅうがが大島地区で男性18人と女性16人に入浴支援を実施。1318、ASE-6102あすかが大島地区で男性14人と女性15人に入浴支援を実施。1320、MSO-301やえやまが勝浦湾に懐中電灯5個や乾電池88個などを輸送。1423、MSO-301やえやまが勝浦湾にポリタンク5個、割り箸500本、菓子4箱などを輸送。1556、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが大島地区に軽油ドラム缶8本を輸送。1628、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが大島地区に軽油ドラム缶4本を輸送。1641、DDH-181ひゅうが艦載ヘリが大島地区に軽油ドラム缶4本を輸送。
4月6日、自衛隊の災派規模は106400名(即応予備自衛官173名)、航空機498機、艦艇50隻。アメリカ軍の災派規模は地上部隊1100名、支援部隊6500名、航空機100機、艦艇3隻。この日までに自衛隊は給食支援175万食、給水支援15800トン、入浴支援179560名、衛生支援11564名、道路啓開460kmを実施。年次検査を終えたLST-4002しもきたが第7海災部隊に編入された。救援物資を運んできたアエロロジック航空B777-FZNが成田から離陸。0703、MST-464ぶんごが石巻市桃浦地区で漁船7隻のプロペラ解索作業を行った。0734、第22航空群ヘリが三陸海岸で行方不明者の捜索救助を実施。0940、MST-464ぶんごが石巻市桃浦地区にトイレットペーパー104個と生理用品を輸送。MCL-727さくしまが荻浜湾桃浦地区で漁船7隻のプロペラ解索作業を行い、トイレットペーパー104個と生理用品32箱を輸送した。1007、ASE-6102あすかが気仙沼市大島沖で男性20人と女性29人に入浴支援を実施。1036、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に20リットル入り水ポリタンク12個を輸送。1119、海自ヘリが仙台駐屯地から桂島に水120リットル、餅20kg、ジュース36kg、日用品40kg、菓子30kg、ほうき1本を輸送。1132、第72航空隊ヘリが三陸海岸で行方不明者捜索救助を実施。1205、海自ヘリが仙台駐屯地から朴島に水120リットル、餅10kg、ジュース12kg、日用品10kg、菓子10kgを輸送。1208、海自ヘリが仙台駐屯地から寒風沢島に水360リットル、餅10kg、ジュース24kg、日用品80kg、菓子20kg、コードリール10kg、カップ麺10kg、ほうき2本、仕切り板11枚を輸送。1230、横須賀警備隊が石巻市中央2丁目市営駐車場で男性104人と女性129人に入浴支援を実施。1233、海自ヘリが多賀城から野々島に水240リットル、餅10kg、ジュース24kg、日用品20kg、菓子10kgを輸送。1251、LST-4003くにさきが鮎川漁港地区で男性45人と女性59人に第1回入浴支援を実施。1302、DD-131せとゆきが気仙沼市大島沖で男性15人と女性15人に入浴支援を実施。1555、LST-4003くにさきが鮎川漁港地区で男性45人と女性15人に入浴支援、男性6人と女性7人に健康相談を行い、灯油10リットル、タオル157枚、ボディソープ2本、シャンプー2本、石けん6個、洗濯洗剤3箱、バスタオル4枚、男性衣服1箱、女性衣服1箱、ぜんざい180食を提供した。1600、機動施設隊26名が八戸市新湊で瓦礫撤去搬出作業を行った。1800、第2航空群が19人に入浴支援、14人にメンタルヘルスケアを実施。2332頃、宮城県沖を震源とする震度6強の地震が発生したため、自衛隊がヘリで情報収集を実施。
4月7日1056、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島にガソリン200リットル、米40kg、水120リットル、カレー42kg、ストーブ5個、日用品2kg、菓子8kgなどを輸送。1100、DD-154あまぎり艦載ヘリが寒風沢島にガソリン200リットル、米24kg、水360リットル、カレー24kg、ストーブ2個、日用品2kg、菓子7kg、テント3個、発電機1個などを輸送。1121、DD-154あまぎり艦載ヘリが野々島に軽油200リットル、米16kg、水240リットル、カレー18kg、ストーブ5個、日用品1kg、菓子6kgなどを輸送。1128、DDH-144くらま艦載ヘリが朴島に米6kg、水120リットル、日用品2kg、菓子1kgなどを輸送。1215、MSC-676くめじま艦載艇が高白浜地区に米180kg、レトルト食品115個、缶詰488個、カップ麺864個、その他生活物資を輸送。1331、第72航空隊ヘリが被災地で捜索救助飛行を実施。1400、MSC-674つきしま艦載艇が神止地区に水438本、清涼飲料水157本、ウェットティッシュ108個、その他生活物資を輸送。1430、AS-405ちよだ艦載艇が泊浜地区に軽油980リットル、主食缶詰2400個、副食缶詰2400個、水1500リットル、その他生活物資を輸送。1510、DD-131せとゆきとASE-6102あすかが気仙沼大島地区で102人に入浴支援を実施。1516、LST-4003くにさきが鮎川漁港地区で男性59人と女性109人に入浴支援を行い、灯油25リットル、タオル164枚、ボディソープ3本、シャンプー4本、石けん7個、洗濯洗剤4箱、バスタオル7枚、女性衣服1箱、ポタージュスープ168食を提供した。1519、第73航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救助飛行を実施。1550、AS-405ちよだが泊浜地区で36人に入浴支援を実施。1600、機動施設隊が八戸市新湊で瓦礫を撤去搬出した。1615、MSC-677まきしま艦載艇が気仙沼地区に慰問品(菓子)10個を輸送。1625、MCL-727さくしま艦載艇が大原湾付近に乾電池4箱、菓子10箱、紙おむつ108枚、ポリタンク11個を輸送。1640、MSC-676くめじま艦載艇が野々浜地区に水476リットルと缶詰312個を輸送。1650、横須賀警備隊が石巻市街地で男性97人と女性90人に入浴支援を実施。1743、LSU-4171ゆらが函館から大湊に陸自トラック2両と灯油ドラム缶96本を輸送。1800、第2航空群が八戸地区で19人に入浴支援、25人にメンタルヘルスケアを行った。2332、宮城県沖を震源とする最大震度6強の強い余震が発生したため、霞目駐屯地からヘリを離陸させ情報収集を行った。
4月8日、福島第一原発で実施していた技本の赤外線計測と空自RF-4による空中偵察を連日から隔日に変更。ロシア非常事態省がチャーターしたShar InkのAn-74TK100-Cが医療チームを乗せて成田に着陸。0156、DDH-144くらま艦載ヘリが牡鹿半島から相馬港沿岸で地震被害調査を実施。0224、DD-108あけぼの艦載ヘリが宮城県沿岸部の地震被害調査を実施。0805、第25航空隊ヘリが津軽海峡から岩手沿岸で地震被害調査を実施。0925、MSC-677まきしま艦載艇が前浜地区に救援物資を輸送。1311、DD-102はるさめ艦載ヘリが大島に救援物資を輸送。1315、DD-131せとゆきが大島で入浴支援を行い、救援物資を輸送。1317、DD-156せとぎり艦載ヘリが大島に救援物資を輸送。1338、第72航空隊固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1501、LST-4003くにさきが渡波漁港と佐須地区で入浴支援を行い、救援物資を輸送した。1550、MSC-676くめじまが相川地区に救援物資を輸送。1630、AS-405ちよだが泊浜地区と志津川地区で入浴支援を行い、救援物資を輸送。1643、第25航空隊ヘリが被災地沿岸で行方不明者を捜索。第72航空隊固定翼機が被災地周辺で人員と物品を輸送。1645、横須賀警備隊が石巻市街地で入浴支援を実施。1703、DDH-144くらまが野々島浦戸開発総合センターとその付近で清掃などの生活支援を行った。1800、第2航空群が八戸地区で入浴支援、診療支援、メンタルヘルスケア、住民輸送支援を実施。
4月9日、中央特殊武器防護隊とCBIRFが横田基地で福島第一原発非常事態を想定した共同訓練を実施。0813、DD-156せとぎり艦載ヘリが県立自然の家に生活支援物資を輸送。0826、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難飛行を行った。0900、第72航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救難飛行を行った。DDH-144くらま移動衛生班が桂島で第1回定期巡回診療を実施。1011、LST-4003くにさきが渡波漁港地区で被災者74人に第1回入浴支援、17人に診療支援、164人に入浴・シャワー支援を行い、生活援助物資を提供した。1035、MSO-301やえやまが志津川湾泊浜地区に救援物資を輸送。MSO-303はちじょうが志津川湾歌津地区に救援物資を輸送。1045、MSC-674つきしまが気仙沼東湾で水没車両を捜索。1205、第72航空隊ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1215、MSC-676くめじまが追波湾船越地区に救援物資を輸送。1300、DDH-144くらま移動衛生班が桂島で第2回定期巡回診療を実施。横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者166人に入浴・シャワー支援を行った。MSC-678とびしまが田老漁港南側で捜索救難を実施。1334、LST-4003くにさきが渡波漁港地区の被災者90人に第2回入浴支援を行い、救援物資などを提供した。1335、MSC-679ゆげしまが宮古湾(日出島)北側で捜索救難を実施。1608、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に水を輸送。1729、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に水を輸送。1800、第2航空群が八戸地区で被災者受け入れ支援、入浴支援、メンタルヘルスケアを実施。1857、第25航空隊ヘリ1機が余震の状況偵察を実施。1910、DDH-144くらま艦載ヘリ1機が余震の状況偵察を実施。1925、第4航空群固定翼機1機が余震の状況偵察を実施。1945、DD-102はるさめ艦載ヘリ1機が余震の状況偵察を実施。
4月10日、菅総理が松島基地や仙台駐屯地などを視察。ハニウェル社が東京電力の要請でRQ-16A無人偵察機による原発撮影を開始。0659、第25航空隊ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0755、第73航空隊ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0800から岩手県・宮城県・福島県で自衛隊やアメリカ軍などによる集中捜索を開始、99遺体を収容した。0854、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1023、LSU-4171ゆらが函館から大湊に陸自トラック2両、軽油ドラム缶96本、ベアリンググリス36リットルを輸送。1052、第4航空群固定翼機が漂流船舶を視認し、海上保安庁に通報した。1231、第4航空群固定翼機が漂流船舶を視認し、海上保安庁に通報した。1511、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に水を輸送。1608、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島に水を輸送。1700、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者281人に入浴・シャワー支援を行った。1740、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に水を輸送。1800、第2航空群が八戸地区で被災者受け入れ支援、入浴支援、メンタルヘルスケアを行った。夜、イスラエル軍医療チームを乗せたイスラエル空軍第120スコードロンKC-707空中給油輸送機が成田空港に着陸。
4月11日、第11旅団第11化学防護隊が福島市あづま総合運動公園に除洗所を開設。ナショナル・エアカーゴグループB747-428BCFがJT向けタバコ関連緊急輸入物資を搭載して関西空港に着陸。0727、DD-156せとぎり艦載ヘリが平成の森キャンプ場に食糧を輸送。0759、平成の森キャンプ場で被災者等の巡回診察を行った。0805、MST-464ぶんごが小友小学校の清掃支援を実施。0811、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島に水を輸送。0821、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に水を輸送。0835、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0851、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に水を輸送。0854、DDH-144くらま艦載ヘリが桂島に水を輸送。1020、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に水を輸送。1038、LST-4002しもきたが気仙沼と大島で被災者208人に入浴支援を実施。1045、DDH-144くらま艦載ヘリが支援物資を輸送。1225、AS-405ちよだが志津川湾で被災者20人に入浴支援を実施。1230、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者231人に入浴・シャワー支援を実施。1230、LST-4002しもきたが大島に水を輸送。1330、DD-156せとぎりが大島で入浴支援を実施。1715、ATS-4203てんりゅう艦載ヘリが緊急用袋式担架などを輸送。1716頃、福島県を震源とする余震が発生し、津波注意報も発令されたため、三自衛隊が航空機20機で情報収集を行った。1800、第2航空群が八戸地区で被災者70人に受け入れ支援、30人に入浴支援、14人にメンタルヘルスケアを行った。
4月12日、原子力安全保安院と原子力安全委員会が福島第一原発事故を国際原子力事象評価尺度レベル7(チェルノブイリ事故と同レベル)に認定した。An-124が成田国際空港でアメリカから運んできたM70コンクリートポンプ車を降ろした。カザフスタン非常事態省Tu-154Mが震災救援のため成田空港に着陸。この日までに支援を表明したのは134カ国・39国際機関で、41の国や地域、国際機関から支援物資が、252の国や地域、国際機関からお見舞いが届いた。0814、第4航空群固定翼機が余震状況偵察のため離陸。0815、第21航空群ヘリが余震状況偵察のため離陸。0826、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0829、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0836、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0846、第4航空群固定翼機が余震状況偵察のため離陸。0930、LST-4002しもきたが気仙沼大島災害対策本部に水などを輸送。0952、AS-405ちよだ艦載艇が泊浜生活センターに水と軽油を輸送。1000、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島で24人に診療支援を実施。1012、LSU-4172のとが函館から大湊に陸自トラック2両とガソリンドラム缶96本を輸送。1036、LST-4002しもきたが気仙沼大島の被災者203人に入浴支援を実施。1058、第111航空隊ヘリが伊里前小学校に水を輸送。1121、第4航空群固定翼機が漂流ボートを視認し、海上保安庁に通報。1140、第4航空群固定翼機が漂流漁船を視認し、海上保安庁に通報。1230、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者191人に入浴・シャワー支援を実施。1254、第111航空隊ヘリが小友中学校に水を輸送。1410、第4航空群固定翼機が余震状況偵察のため離陸。1416、第21航空群ヘリが余震状況偵察のため離陸。1800、第2航空群が八戸地区で69人に被災者受け入れ支援、21人に入浴支援、21人にメンタルヘルスケアを実施。
4月13日、仙台空港が旅客便の乗り入れを再開。この日までに自衛隊は14937人を救助、遺体7611体を収容し、給食支援216万食、給水支援21073トン、入浴支援262779人、衛生支援13355人を実施、道路293kmを啓開した。0823、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0849、第25航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0858、第73航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1002、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島に支援物資を輸送。1008頃、福島県浜通りを震源とするマグニチュード5.8の地震が発生したため、東部方面航空隊UH-1多用途ヘリが情報収集を実施した。1016、第73航空隊ヘリが余震状況偵察のため館山を離陸。1020、第2航空群固定翼機が余震状況偵察のため八戸を離陸。1023、DDH-144くらま艦載ヘリが柱島に支援物資を輸送。1024、LST-4002しもきたが気仙沼大島で103人に入浴支援を実施。1048、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に支援物資を輸送。1317、DDH-144くらま艦載ヘリが寒風沢島にガソリンを輸送。1342、DDH-144くらま艦載ヘリが柱島にガソリンを輸送。1545、LST-4002しもきたが大島に缶飯と水を輸送。1630、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者220人に入浴・シャワー支援を実施。機動施設隊が八戸市内道路の災害ゴミ処分を支援。1800、第2航空群が八戸地区で被災者61人に受け入れ支援、18人に入浴支援、2人に診療支援、12人にメンタルヘルスケアを行い、車両延べ2両で住民輸送支援を実施した。
4月14日、メリディアン・リミテッドAn-12BPが支援物資を搭載して三沢基地に着陸。0725、第72航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0730、第25航空隊ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0805、DDH-144くらま艦載ヘリが野々島に水を輸送。0903、第4航空群固定翼機が被災地で捜索救難を実施。0935、DD-111おおなみ艦載ヘリが野々島に支援物資を輸送。0958、DD-111おおなみ艦載ヘリが寒風沢島に支援物資を輸送。1012、LSU-4171ゆらが函館から大湊に陸自トラック2両とガソリン等ドラム缶96本を輸送。1017、DD-125さわゆきが大島長崎港で被災者55人に入浴支援を行った。1021、DD-111おおなみ艦載ヘリが朴島に支援物資を輸送。1339、DD-156せとぎりが大島長崎地区の被災者37人に入浴支援を行った。1438、AOE-425ましゅうが気仙沼大島に毛布1000枚を輸送。1500、DD-156せとぎり医療班が平成の森で被災者6人に医療支援を行った。1515、MST-464ぶんごが大島対策本部に灯油、ガソリン、水を輸送。1527、第4航空群固定翼機が漂流漁船を視認し、海上保安庁に通報した。1540、DDH-144くらまが野々島で被災者31人に医療支援などを実施。1600、機動施設隊が八戸市内道路で災害ゴミ処分を支援した。1609、第4航空群固定翼機が漂流漁船を視認し、海上保安庁に通報した。1645、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者234人に入浴支援を実施。1800、第2航空群が八戸地区で被災者60人に受け入れ支援、15人に入浴支援、11人にメンタルヘルスケア、延べ6人に児童通学支援を行った。
4月15-22日、福島第一原発放水冷却隊の第2次出動が決定された。要員は陸自9名、海自8名、空自13名で、東京電力社員3名が支援する。第1次出動時の教訓を踏まえ、出動が決定するまでの間、要員は死生観、任務の重要性・危険性を含む精神教育、障害物を避けて走行する機動訓練、命令から40分で出動準備を完了する出動準備訓練、放水訓練、除染訓練、兵棋訓練などを行って不測の事態に備えた。ただ放水が必要となる事態にはならず、待機のみで済んでいる。
4月15日、防衛大臣が海自と空自に対し、予備自衛官の災害招集実施命令を発した。これに基づき、海自から5名、空自から25名の予備自衛官が招集され、前者は八戸航空基地の復旧活動や横須賀基地での給食活動、後者は被災者の生活支援にあたっている。5日前から体調を崩して入院していた第9師団第9施設大隊所属の一曹が盛岡市内の病院で死亡した。0712、MST-464ぶんごが大島対策本部に軽油を輸送。0826、AMS-4302すおうが気仙沼大島に支援物資を輸送。0850、AMS-4302すおうが気仙沼市に支援物資を輸送。1008、DD-156せとぎりが大島で16人に入浴支援を行った。1009、DD-125さわゆきが大島で17人に入浴支援を行った。1026、LST-4002しもきたが桂島と野々島で122人に入浴支援を行い、支援物資を輸送した。1125、第2航空群固定翼機が漂流漁船を視認して海上保安庁に通報。1230、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で180人に入浴支援を実施。1312、DD-125さわゆきが大島で32人に入浴支援を実施。1314、DD-156せとぎりが大島で34人に入浴支援を実施。1415、機動施設隊が八戸市内で道路の災害ゴミ処分を支援。1421、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島に支援物資を輸送。1434、DD-111おおなみ艦載ヘリが野々島に支援物資を輸送。1440、DD-111おおなみ艦載ヘリが寒風沢島に支援物資を輸送。1605、AMS-4302すおうが気仙沼市に支援物資を輸送。1800、第2航空群が八戸地区で被災者54人に受け入れ支援、16人に入浴支援、14人にメンタルヘルスケア、延べ6人に児童通学支援を実施。
4月16日、ポレットフライト社Il-96-400TがJT向けタバコ関連緊急輸入物資を搭載して関西空港に着陸。0824、AMS-4302すおうが気仙沼大島に支援物資を輸送。0855、第4航空群固定翼機が捜索救助を行った。1131、第21航空群ヘリが余震状況偵察のため離陸。1136、第4航空群固定翼機が余震状況偵察のため離陸。1349、LST-4002しもきたが鮎川漁港で30人に入浴支援を実施。1800、第2航空群が八戸地区で被災者47人に受け入れ支援、21人に入浴支援、15人にメンタルヘルスケアを実施。4月17日、ヒラリー・クリントン国務長官が来日し、首相を表敬訪問、外相と会談した。0827、第2航空群固定翼機が捜索活動を実施。1020、DD-102はるさめ艦載ヘリが桂島に支援物資を輸送。1040、DD-102はるさめ艦載ヘリが野々島に支援物資を輸送。1107、DD-102はるさめ艦載ヘリが寒風沢島に支援物資を輸送。1305、第2航空群が岩手産業文化センターに食品を輸送。1511、LST-4003くにさきが鮎川で117人に入浴支援を行い、支援物資を提供した。1638、DE-233ちくまが大島で11人に入浴支援を行った。1725、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で230人に入浴支援を行った。1800、第2航空群が八戸地区で被災者34人に受け入れ支援、10人に入浴支援、10人にメンタルヘルスケアを実施。1814、DD-156せとぎりが大島で被災者54人に入浴支援を実施。4月18日、第12旅団主力の2500名が福島第一原発から半径30km圏内の沿岸部での行方不明者捜索を開始。1000、第2航空群が八戸地区被災者の受け入れ支援を終了。1425、LST-4003くにさきが渡波地区で被災者43人に入浴支援、健康相談を行い、灯油、食料、日用品などを提供した。1600、DE-233ちくまが大島で被災者32人に入浴支援を実施。1626、DD-125さわゆきが大島で被災者36人に入浴支援を実施。1656、LSU-4171ゆらが陸自大型トラック2両と軽油ドラム缶96本を輸送。1700、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者163人に入浴・シャワー支援を実施。1700、青森県知事から撤収要請を受けた。4月19日、第7師団第7化学防護隊が第1空挺団の行方不明者捜索活動に同行してのモニタリング支援を開始した。災派先で職務を離脱、官用車で逃げた第1師団第1特殊武器防護隊の三曹が懲戒免職された。0509、第2航空群固定翼機が秋田内陸部を震源とする地震の偵察飛行を行った。0815、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0817、第72航空隊ヘリが被災地で捜索救難を実施。1337、AMS-4305えんしゅうが気仙沼大島に救援物資を輸送。4月20日、この日までに自衛隊は延べ14937人を救助し、7840体の遺体を収容、256万食の給食支援と23839トンの給水支援を行い、337725人に入浴支援を実施した。海上保安庁はこの日までに巡視船艇延べ2199隻、航空機789機、救難員854名を投入し、延べ360名を救助した。DD-125さわゆき、AMS-4305えんしゅう、百里救難隊UH-60J救難ヘリが福島県内の捜索活動を開始。東部方面隊管内(新潟、長野、群馬、栃木)の予備自衛官280名が第12旅団第48普通科連隊に出頭。AS-405ちよだ所属の三等海曹が被災地への再度の派遣を嫌がり、わざと捕まるため横浜のレンタルビデオ店で下半身を露出、逮捕された。救援物資を搭載したとみられるShar InkのAn-74TK100-Cが成田に着陸。0836、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0936、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1700、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者176人に入浴・シャワー支援を行った。
4月21日、航空機動衛生隊が、岩手県で被災して骨折して北海道で治療中だった女性を、機動衛生ユニットにより岩手県に搬送した。これが機動衛生ユニットによる初搬送である。自衛隊が在日米軍と共にJR仙石線復旧作戦「ソウルトレイン」を開始。中央即応集団対特殊武器衛生隊と第1ヘリコプター団などが福島第一原発やJビレッジメディカルセンターなどで緊急被曝患者搬送訓練を実施。第9施設群が福島第一原発から30km圏内で放射線量測定作業を開始。0733、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0827、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1502、LST-4002しもきたが大島・気仙沼地区で被災者130人に入浴シャワー支援を実施。1700、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者180人に入浴・シャワー支援を実施。4月22日、原子力災害対策本部が福島第一原発から20km圏内を警戒区域に設定、立ち入りを禁止した。0040、第21航空群ヘリが地震被害偵察飛行を行った。0825、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0837、LST-4003くにさきが気仙沼大島に救援物資を輸送。1239、AMS-4301ひうちが気仙沼・大島間で救援物資を輸送。1456、LST-4003くにさきが大島・気仙沼地区で被災者105人に入浴・シャワー支援と健康相談を実施。1715、横須賀警備隊が石巻市中欧市営駐車場で被災者151人に入浴・シャワー支援を実施。1830、LSU-4171ゆらが函館から大湊に陸自トラック2両、灯油ドラム缶91本、エンジンオイルドラム缶5本を輸送。2035、AMS-4301ひうちが気仙沼朝日地区で被災者7人に入浴支援を実施。4月23日0406、第4航空群固定翼機が被災地周辺の地震被害状況偵察を実施。1412、AMS-4301ひうちが大島浦の浜地区に支援物資を輸送。1456、LST-4003くにさきが桂島と野々島地区で入浴支援、救援物資の提供、健康相談を実施。1623、第2航空群固定翼機が被災地周辺の地震被害状況偵察を実施。1715、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で入浴・シャワー支援を実施。4月24日、第11旅団第11特殊武器防護隊が福島市あづま総合運動公園の除洗所を閉所した。0819、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0852、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1157、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1220、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者212人に入浴・シャワー支援を実施。1604、LST-4003くにさきが桂島と寒風沢島の被災者52人に入浴・シャワー支援を実施。4月25-26日、発災から四十九日(4月28日)を前に、自衛隊、在日米陸軍、海上保安庁、警察が合同で第3回行方不明者集中捜索活動を実施。ゴールデンウィークを迎えるにあたり、隊員の士気を今一度鼓舞する意味もあり、統合任務部隊指揮官は被災者の救援を優先すること、入浴を我慢し冷たい食事を取ることを誇りとすること、先憂後楽の堅持を徹底することを下命している。自衛隊は陸自16000名、海自7600名、空自1200名、艦艇50隻、航空機90機、アメリカ軍は人員110名とヘリ2機を投入し、25日に66遺体、26日に28遺体を収容した。4月25-29日、第12旅団第30普通科連隊第3中隊は福島第一原発から30km圏内にある南相馬市小田島地区で行方不明者捜索を実施。4月25日、海自予備自衛官が八戸航空基地に出頭し、八戸航空基地の復旧活動や横須賀基地での給食業務を開始。空自予備自衛官が三沢基地に出頭し、山田町、東松島市、石巻市で生活支援を開始。0614、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0715、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0825、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0848、第31航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1159、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1449、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1530、DDG-174きりしまが桂島で33人に診療支援と健康相談を実施。2020、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者227人に入浴・シャワー支援を実施。
4月26日、陸自予備自衛官が青森・八戸・弘前駐屯地に出頭し、支援を開始。福島第一原発のRF-4偵察機による写真撮影と、CH-47輸送ヘリによる放射温度測定・放射線量計測をこの日で終了。第7施設群が岩手県大槌町吉里吉里中学校のグラウンドで大槌中学校の生徒と共に瓦礫の回収を実施。岩手・宮城・福島で震災前にあった29000隻の漁船のうち18600隻の被災が確認された。調査の終わっていないものも含めれば使用不要の漁船は25700隻以上と見積もられている。カタール航空A319-133CJがアティーヤ国際協力相を乗せて成田空港に着陸。松本外相との会談で復興資金1億ドルと液化天然ガス400万トンの提供を表明した。0652、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0718、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0808、第31航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0810、第31航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0901、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1018、DD-154あまぎりが柱島と寒風沢島でガソリンを供与。1125、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1211、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。2000、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者239人に入浴・シャワー支援を実施。4月27日、天皇皇后両陛下が羽田から第2輸送航空隊U-4多用途支援機で松島基地に到着、陸自EC225要人輸送ヘリに乗り換えて南三陸町の避難所を訪問した。第13旅団第8普通科連隊と福島地方協力本部いわき地域事務所がいわき市立江名小学校で給食支援を実施。この日までに自衛隊は14937名を救助し、8147体の遺体を収容、287万食の給食支援と26091トンの給水支援、403791人に入浴支援、15316人に衛生支援を行い、312kmの道路啓開を実施した。0823、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0826、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1057、DD-108あけぼのが野々島、柱島、寒風沢島に生活支援物資を輸送。1230、LST-4002しもきたが金華山地区に生活支援物資を輸送。1527、DD-156せとぎりが気仙沼大島で被災者19人に入浴支援を行った。1530、DDG-174きりしまが寒風沢島で被災者22人に診療支援、被災者2人に健康相談を実施。1555、LST-4002しもきたが鮎川金華山で77人に入浴支援、16人に健康相談を実施。1630、茨城県知事から撤収要請が出された。1653、AMS-4302すおうが気仙沼大島浦の浜地区に生活支援物資を輸送。1725、LSU-4172のとが函館から大湊に陸自トラック2両と灯油ドラム缶96本を輸送。2015、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者270人に入浴・シャワー支援を実施。4月28-30日、第12旅団第30普通科連隊が福島第一原発から20km圏内の南相馬市小高区で水門付近に溜まった瓦礫を除去。4月28日0856、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索活動を開始。1011、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索活動を開始。1253、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索活動を開始。1530、DDG-174きりしまが野々島で被災者27人に診療支援、7人に健康相談を実施。2015、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者292人に入浴・シャワー支援を実施。4月29日、第12旅団第30普通科連隊第1中隊が南相馬市小島田地区での行方不明者捜索を第3中隊から引き継いだ。0819、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0825、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索活動を実施。1055、AMS-4302すおうが気仙沼大島浦の浜地区に生活支援物資を輸送。1120、LST-4002しもきたが気仙沼大島に生活支援物資を輸送。1124、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1229、LST-4002しもきたが気仙沼で被災者28人に入浴支援、9人に健康相談を実施。1547、LST-4002しもきたが大島で被災者49人に入浴支援を実施。4月30日、仙台駐屯地の日米共同調整所が閉所された。0839、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0845、LST-4002しもきたが気仙沼大島に生活支援物資を輸送。0855、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1116、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1445、DDG-174きりしまが桂島で被災者24人に健康相談と診療を行った。1547、LST-4002しもきたが大島で被災者59人に入浴支援、12人に健康相談を実施。1736、LSU-4172のとが函館から大湊に陸自トラック2両、灯油ドラム缶74本、油脂類を輸送。2030、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者333人に入浴・シャワー支援を実施。
5月1日、第12旅団や中央即応連隊が福島第一原発から20km圏内での行方不明者捜索を開始。第6師団第6特殊武器防護隊が川俣町の除洗所を川俣町体育館に移した。第11旅団第11特殊武器防護隊が福島市あづま総合運動公園を撤収し、郡山総合体育館に除洗所を開設した。海上保安庁は船艇54隻・航空機19機で捜索救援活動を継続中であり、この日までに延べ船艇2793隻、航空機998機を投入した。0829、第2航空群固定翼機が被災地周辺の被害状況偵察を実施。0830、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0928、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0957、LSU-4172のとが大湊から函館に陸自燃料タンク車1両を輸送。1022、LST-4002しもきたが大島で被災者59人に入浴支援、15人に洗濯支援を実施。1049、DD-154あまぎりが寒風沢島、桂島、野々島で被災者に食料と物品を輸送。2010、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者280人に入浴・シャワー支援を実施。5月2日、平成22年度第一次補正予算が成立。防衛省には復旧等活動経費、装備品等維持整備費、被災施設・装備品復旧費として計1886億円が割り当てられた。ロシア空軍第224飛行部隊An-124-100輸送機が救援物資を搭載して成田国際空港に着陸。0857、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1337、LST-4002しもきたが大島・気仙沼地区の被災者31人に入浴支援、5人に健康相談を実施。1600、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者222人に入浴・シャワー支援を実施。5月3日、自衛隊の福島第一原発放水冷却隊(高圧消防車装備)と機動路啓開隊(74式戦車など装備)が編成を解かれた。0825、第2航空群固定翼機が被災地の捜索救難を実施。0826、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1126、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1456、DD-156せとぎりが気仙沼大島地区の被災者15人に入浴支援を実施。1556、LST-4002しもきたが桂島・野々島地区の被災者71人に入浴支援、15人に健康相談を実施。1630、DDG-174きりしまが寒風沢島地区で被災者1人に健康相談、7人に診療を実施。2010、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者240人に入浴。シャワー支援を実施。5月4日、第13旅団第13化学防護隊がいわき市の21世紀の森公園で放射性物質モニタリングを開始。救援物資を搭載したとみられるボルガ・ドニエプル航空Il-76TD-90VDが成田空港に着陸。0829、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0902、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0907、DE-229あぶくまとAMS-4302すおうが気仙沼大島に灯油などを油槽。0955、DD-111おおなみが桂島に食料を輸送。1035、DD-111おおなみが野々島に食料を輸送。1053、第21航空群ヘリが被災地で捜索救難を実施。1114、DD-111おおなみが桂島に食料を輸送。1513、LST-4002しもきたが寒風沢地区で被災者24人に入浴支援。8人に健康診断を実施。2009、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者273人に入浴・シャワー支援を実施。5月5日0826、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0829、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1047、AMS-4302すおうが気仙沼大島に精米等を輸送。1127、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1617、LST-4002しもきたが鮎川地区・田代島の被災者84人に入浴支援、13人に健康相談を実施。1630、移動衛生班が野々島の被災者19人に診療支援、4人に健康相談を実施。2015、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者272人に入浴・シャワー支援を実施。
5月6日、天皇皇后両陛下が第2輸送航空隊U-4多用途支援機で羽田空港から花巻空港に到着、陸自EC225要人輸送ヘリに乗り換えて釜石と宮古市の避難所を訪問した。第13旅団が福島第一原発から半径20km圏内での行方不明者捜索を実施。0815、AMS-4302すおうが気仙沼大島に精米等を輸送。0827、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0858、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1019、LST-4002しもきたが渡波地区で被災者25人に入浴支援、5人に健康相談を実施。1300、DD-156せとぎりが気仙沼市大島沖で被災者7人に入浴支援を実施。1530、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者248人に入浴・シャワー支援を実施。5月7日、第6師団第6特科連隊、第12旅団第30普通科連隊、第13旅団、中央即応集団が福島第一原発から半径20km圏内での行方不明者捜索を実施。0825、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0826、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1125、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1515、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者238人に入浴・シャワー支援を実施。1630、MST-464ぶんご移動衛生班が桂島で被災者20人に診療支援と健康相談を実施。5月8日、田村市総合体育館に第1師団第1特殊武器防護隊が開設していた福島県スクリーニング会場(除染所)が閉鎖され、第1特殊武器防護隊は南相馬市相双県保健福祉事務所に移動した。0825、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0858、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0905、DD-111おおなみ艦載ヘリが桂島に食料品を輸送。0914、DD-111おおなみ艦載ヘリが野々島に食料品を輸送。0939、DD-111おおなみ艦載ヘリが寒風沢島に食料品を輸送。1055、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1515、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者283人に入浴・シャワー支援を実施。5月9日、防衛大臣が自衛隊の派遣規模を5月末までに7万名弱に縮小すると決定。隊友会の全国会員混成チームが石巻市で被災家屋の泥の除去などボランティア活動を開始。0823、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0830、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1005、LSU-4172のとが函館から大湊に陸自トラック2両と灯油ドラム缶96本を輸送。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者261人に入浴・シャワー支援を実施。5月10日までに海上保安庁は船艇延べ3279隻、航空機延べ1169機を派遣した。5月10日、自衛隊は減勢体制に入った。福島第一原発から20km圏内の住民の一時帰宅が開始されたため、第7師団第7化学防護隊が川内村村民体育センターに除染ポイントを開設。0830、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0855、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1430、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者251人に入浴・シャワー支援を実施。
5月11日、自衛隊は陸自70000名、海自10900名、空自18500名、原子力災派350名、航空機400機、艦船36隻で活動を行っており、総員が10万名を切った。この日までに遺体8306体を収容し、給食支援343万食、給水支援27084トン、道路啓開319kmを実施、545773人に対する入浴支援と16241人に対する衛生支援を行っている。0718、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0826、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者294名に入浴・シャワー支援を実施。1650、LSU-4171ゆらが函館から大湊に陸自トラック2両、灯油ドラム缶89本、エンジンオイル等62缶、カセットボンベ50本を輸送。5月12日、予備自衛官が活動を終了。参加人数は延べ2179名だった。0827、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0935、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1123、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者216人に入浴・シャワー支援を実施。1630、LSU-4171ゆらが大湊から函館に陸自燃料タンク車を輸送。5月13日0835、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0958、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1125、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者248人に入浴・シャワー支援を実施。1630、LSU-4171ゆらが大湊から函館に燃料タンク2基を輸送。5月14-15日、宮城県隊友会会員が石巻市北上町周辺で行方不明者捜索のボランティア活動を実施。5月14日、中央即応連隊が福島第一原発から20km圏内での行方不明者捜索を終了。0825、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0929、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1220、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者247人に入浴・シャワー支援を実施。5月15日、自衛隊の災派規模が67200名(+原子力災派300名)となった。第4師団主力が撤収を開始。0711、AMS-4305えんしゅう艦載艇が気仙沼港-大島浦の浜漁港間で米550箱を輸送。0831、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0943、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1040、DD-155はまぎりが野々島、桂島、寒風沢島の被災者107人に食料と物品を供与。1238、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者237人に入浴・シャワー支援を実施。2309、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。
5月16日、海自(DD-125さわゆき、AMS-4305えんしゅう、SH-60J哨戒ヘリ1機)と海上保安庁(巡視船艇3隻)が福島第一原発10km圏内の行方不明者捜索を実施。0828、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0830、第11護衛隊が海保と協力して福島第一原発20km県内の捜索を実施。0925、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0953、MST-464ぶんごが鮎川地区で被災者11人に入浴支援を実施。1426、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1430、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者232人に入浴・シャワー支援を実施。5月17日、第12旅団第12特科隊・第13普通科連隊が南相馬市小高地区、第6師団第6特科連隊・第6高射特科大隊が富岡町、第13旅団第8・第17普通科連隊が浪江町で行方不明者の捜索を実施。汚染水貯蔵用のメガフロートが小名浜港に到着。0814、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0828、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1122、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者216人に入浴・シャワー支援を実施。1540頃、石巻赤十字病院でボランティアの女性が無職の男に腰を錐で刺される事件が発生し、巡回診療を行っていた自衛隊医療支援隊が犯人を取り押さえた。5月18日、陸自62000名、海自9600名、空自18500名、原子力災派300名、航空機370機、艦艇34隻が活動していた。この日までの実績は遺体収容8351体、給食支援365万食、給水支援27738トン、入浴支援615365人、道路啓開321km、衛生支援16549人である。第2師団主力が撤収を開始。0829、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1016、第4航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1034、DD-102はるさめ艦載ヘリが野々島、桂島、寒風沢島に食料と物品を輸送。1120、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市営駐車場で被災者244人に入浴・シャワー支援を実施。5月19日0823、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。0827、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1128、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者200人に入浴・シャワー支援を実施。5月20日0823、第2航空群固定翼機が被災地周辺で捜索救難を実施。1101、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者199人に入浴・シャワー支援を実施。
5月21日、汚染水貯蔵用のメガフロートが福島第一原発に到着。0930、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1009、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1525、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者201人に入浴・シャワー支援を実施。5月22日、陸自中央音楽隊が東京都墨田区のすみだトリフォニーホールで東日本大震災復興祈念演奏会を実施。0821、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0928、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1002、DD-102はるさめ艦載ヘリが野々島、桂島、寒風沢島に食料品などを輸送。1041、DD-102はるさめ艦載ヘリが野々島に食料品などを輸送。2005、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者160人に入浴・シャワー支援を実施。5月23日、第10師団の主力が宮城県南部から撤収し、帰隊した。0832、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1100、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。2000、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者220人に入浴・シャワー支援を実施。5月24-30日、福島第一原発から10km圏内の浪江町、双葉町、大熊町で陸自第13旅団第8・第17普通科連隊、第6師団第44普通科連隊、第6特科連隊、第6高射特科大隊、第1空挺団が、20km圏内の南相馬市小高区で第12旅団第2・第30普通科連隊、第12特科隊が捜索活動を実施。5月24日、自衛隊の派遣規模が80000名を切って77100名となり、陸自58700名、海自8100名、空自11400名、原子力災派350名、航空機330機、艦船27隻が活動していた。ブルーインパルスが芦屋基地で震災後初の飛行訓練を開始。0900、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0957、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1530、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者221人に入浴・シャワー支援を実施。5月25日、防衛省東日本大震災派遣隊員ケア推進チームが第1回会合を開催。第5旅団、第14旅団の災派部隊が生活支援部隊を除いて撤収を開始。海上保安庁が福島第一原発から10km以内の沿岸・沖合で行方不明者の捜索を実施。この日までに自衛隊は8371体の遺体を収容し、383万食の給食支援、28220トンの給水支援、680546人に対する入浴支援、321kmの道路啓開、16653人に対する衛生支援を行った。0536頃、福島県浜通で震度5弱の地震が発生したため、東北方面航空隊UH-1多用途ヘリ、百里救難隊UH-60J救難ヘリ、第4航空群P-3C哨戒機が1機ずつ離陸して0830過ぎまで情報収集を行った。0651、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0822、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1530、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者208人に入浴・シャワー支援を実施。
5月26日0822、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0943、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。1530、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者206人に入浴・シャワー支援を実施。5月27日、岩手県で活動していた第11旅団第18普通科連隊所属の男性三等陸曹が休養中の滝沢村の施設で倒れ、搬送先の病院で死亡した。東京電力が発電能力拡大のため火力発電所に設置するドイツ製ガスタービン発電機などを搭載したポレット・カーゴ・エアラインズAn-124-100がセントレア空港に到着。0820、第21航空群ヘリが被災地周辺で捜索救難を実施。0825、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。0940、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。1530、横須賀警備隊が石巻市中央市営駐車場で被災者204人に入浴・シャワー支援を実施。5月28日0822、第21航空群ヘリが被災地周辺の捜索救難を実施。0944、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。5月29日0824、第2航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。5月30日0925、第4航空群固定翼機が被災地周辺の捜索救難を実施。5月31日、陸自52100名、海自7400名、空自11400名、原子力災派部隊350名、航空機305機、艦艇29隻が活動していた。福島第一原発から10km圏内と20km圏内での捜索活動を実施。百里救難隊が福島第一原発から10-40km圏内での空中モニタリングを実施。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。電力関係の物資を搭載したボルガ・ドニエプル航空Il-76TD-90VDがセントレア空港に到着。
6月上旬、陸上自衛隊は第6師団、第9師団、第12旅団、第13旅団、第2施設団、第4施設団、第5施設団以外の部隊の主力を撤収させた。6月1日から第9師団が三陸鉄道復旧作戦を開始。6月1日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。6月2日までに8384体の遺体を収容し、400万食の給食支援、28633トンの給水支援、734632人の入浴支援、321kmの道路啓開、16770人の衛生支援を実施した。6月3日、第4施設団と第5施設団の主力が帰隊を開始。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び相馬沖での入浴支援を実施。6月4-5日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市、気仙沼市、相馬沖での入浴支援を実施。6月4日0100、福島県沖を震源とする震度5弱の余震が発生し、0126から東北方面航空隊UH-1多用途ヘリと第4航空群P-3C哨戒機が情報収集にあたった。岩沼市で自衛隊への感謝の会が開かれ、福知山駐屯地からの派遣部隊に花束が贈呈された。6月5日、自衛隊の派遣規模が70000名を割り、69300名となった。宮城県岩沼市が最後の避難所を閉鎖。6月6-8日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。6月7日、自衛隊の派遣規模は陸自50000名、海自7700名、空自11400名、原子力災派300名、航空機300機、艦艇29機だった。福島第一原発から10km圏内の浪江町と大熊町で、第13旅団第17普通科連隊、第6師団第44普通科連隊、第6特科連隊、第6高射特科大隊、第1空挺団が行方不明者の捜索を行った。被災地の全港湾で港則法に基づく航行制限が解除された。6月8日、福島第一原発から30km県内での行方不明者捜索活動をほぼ完了。6月9日、第6師団第44普通科連隊や第1空挺団などが福島県双葉町、大熊町などで瓦礫撤去作業を実施。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。6月9日までに海上保安庁は延べ船艇4884隻と航空機1729機を投入し、360名を救助、242体の遺体を収容し、488隻の漂流船舶を捜索して82隻を曳航・回収した。6月10-11日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。6月10日、石巻市渡波地区と湊地区で陸自と警察が合同集中捜索を行い、4遺体を収容した。第13旅団第8普通科連隊が宿営地を離れた。6月11日、菅総理がU-4多用途支援機で岩手県を訪問し、視察を行った。6月11日までに自衛隊は隊員延べ8687000名、航空機41000機、艦艇4100隻を派遣し、人命救助19286人、遺体収容9487体、物資等輸送11500トン、医療チーム等輸送18310人、患者輸送175人、給水支援32820トン、給食支援4477440食、燃料支援1400キロリットル、入浴支援854980人、衛生等支援23370人を実施した。6月12日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市・気仙沼市・相馬市での入浴支援を実施。6月13-14日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。6月13日、第13旅団主力部隊が帰隊を開始。6月14日、第7師団第7化学防護隊が任務を完了。6月15日、第7師団第7化学防護隊が郡山駐屯地を発って東千歳駐屯地に戻った。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と気仙沼市での入浴支援を実施。東京都内の女子中学生生徒代表が防衛省を訪れ、感謝と激励の手紙を手渡した。
6月16日までに陸上自衛隊は遺体8410体を収容し、833715人に入浴支援を行い、321kmの道路啓開を行った。6月16-18日、自衛隊、警察、消防、海保など4000名が宮城と福島で行方不明者大規模捜索を実施。6月17日、防衛省は3月12-13日に福島原発で注水活動を行った陸自隊員の最大被曝線量が80.7mSvであると発表した。福島第一原発高濃度汚染水処理システムが本格稼働を開始。しかしセシウム吸着装置の線量が5時間で交換基準に達してしまったため、システムが停止した。宮城県石巻市の中学校生徒が石巻市内で活動中の自衛隊災派部隊(第2師団基幹)隊員に感謝の折り鶴を贈った。6月18-27日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。6月18日、東松島市主催の慰霊祭を松島基地で実施。6月19日、第1空挺団が福島県からの撤収を完了。6月20日、岩手県陸前高田市の米崎保育園の園児が感謝の人文字(ハートマーク)を作っているのを第9師団第9飛行隊UH-1多用途ヘリが発見した。蒲田保育専門学校附属幼稚園の園児35名が木更津駐屯地を訪問し、災害派遣活動中の自衛隊に宛てた記念品を届けた。6月22日、予備自衛官が活動を終了。予備自衛官と即応予備自衛官を合わせて延べ2648名が参加した。6月23日1045頃、宮城県金華山の東方330kmのEEZ内で中国海洋調査船ナン・フェンが無断で採水調査活動を実施していたため、第2管区海上保安本部の巡視船やしまが警告を行ったところ、4時間後にEEZ外に退去した。6月24日、内閣府が東日本大震災の総被害額を16兆9000億円(福島原発事故による被害額を除く)と算定。政府が災派隊員の手当増額(福島第一原発放水1日42000円、10km圏内作業1日21000円、20km圏内作業1日16000円、30km圏内作業1日6480円、区域外1日3240-6480円、艦船乗員捜索救難活動1日1620-3240円、遺体収容1日2000-4000円、遺体搬送・検案・見分1日1000円)を決定し、3月11日に遡って適用することになった。0700頃、福島第一原発二号機上空で空気サンプルを採取していたRQ-16A無人機が建屋屋上に不時着した。6月25日、第12旅団が生活支援にあたる隊員を残して福島県から撤収。6月26日、自衛隊災派隊員が43800名となり、5万名を割った。千歳市主催の第一回東日本大震災派遣自衛隊に感謝する市民の集いが行われ、北千歳駐屯地所属部隊の隊員と家族1000名が参加した。6月27日、第7海災部隊が支援を終了。6月28日、陸上自衛隊が給水支援を終了した。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。復興対策本部が首相官邸で初会合を開いた。ベルギーの市立ブラッセル日本人幼稚園から自衛隊員を激励する歌の入ったCDが届いた。6月29-30日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。6月30日、福島第一原発の仮設防潮堤が完成。5・6号機建屋などに溜まっていた低濃度汚染水のメガフロートへの移送を開始。
7月1日、統合任務部隊の編成が解除された。以降も自衛隊は生活支援などを継続しており、陸災部隊は東北方面総監、海災部隊は横須賀地方総監、空災部隊は航空総隊司令官が指揮する。この日までに19286名を救助し、9500体の遺体を収容、23370名の医療支援、32985トンの給水支援、4715453食の給食支援、972293名の入浴支援を行った。海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市・気仙沼市での入浴支援を実施。1415、原子力災害派遣命令の一部変更命令が出された。7月2日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。7月3日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市及び気仙沼市での入浴支援を実施。7月4-28日、海自は被災地沿岸海域の行方不明者捜索と石巻市での入浴支援を実施。7月5日、自衛隊の派遣規模は陸自19500名・37機、海自1900名・2機・6隻、空自6900名・50機、原発140名だった。7月7日までに海上保安庁は延べ船艇5964隻、延べ航空機2107機を投入。7月8日、北海道補給処が岩手駐屯地に設置していた北方岩手前方支援地域FSAが任務を終了。7月9日、千歳市主催の第二回東日本大震災派遣自衛隊に感謝する市民の集いが行われ、第7師団などの隊員と家族ら1000名が参加した。7月10日、第9師団第9特科連隊が宮古市と山田町での活動を終了。7月15日、被災地で発生した大量のハエなどに対応するため、第6・第9師団が防疫支援隊(15名)を10個編成した。第9師団第21普通科連隊が釜石市での活動を終了。7月16日、防疫支援隊が岩手・宮城で活動を開始。7月19日、原子力災派部隊の主力を中央即応集団から東北方面隊に切り換えた。第9師団第5普通科連隊が陸前高田市での活動を終了。7月20日までに政府、各県庁、東電本店などに派遣された防衛省事務官らは延べ750人に達した。7月20日、第9師団第39普通科連隊が大船渡市での活動を終了。災害派遣部隊は陸自18700名、海自1800名、空自2600名、原発対処150名、航空機60機(陸自35機、海自2機、空自20機)、海自艦艇6隻だった。7月下旬から8月上旬にかけ、即応予備自衛官と予備自衛官の災害招集等に協力して社員らを送り出した950企業・団体に対し、陸上幕僚長から礼状を伝達した。7月24日、第5高射特科群が大槌町での活動を終了。7月26日、岩手県知事から第9師団に災害派遣撤収要請が出された。大槌町では住民600名が参加して感謝の会が開かれ、終了後に自衛隊員は三列縦隊で退場する予定だったが、握手を求める住民が駆け寄ってもみくちゃになったため、一列縦隊で退場した。7月29-31日、海自は福島県の被災地沿岸海域で行方不明者を捜索。7月31日までに自衛隊は19286人を救助し、13906トンの物資と20240名の医療チームを輸送、32284トンの生活支援、5005484食の給食支援、1396リットルの燃料支援、1084132人の入浴支援、322kmの道路啓開を実施した。
8月1日1000、宮城県知事から第6師団に災害派遣撤収要請が出された。8月2日、自衛隊の災害派遣部隊は陸自1740名、海自1800名、空自1300名、原発対処150名、航空機50機、海自艦艇4隻だった。8月3日、平成天皇・皇后に東北方面総監が活動状況の御説明を行った。8月4日、海自災派部隊指揮官(横須賀地方総監)と原子力災派部隊指揮官(中央即応集団司令官)に1級賞詞が授与された。8月12日、自衛隊の派遣規模は隊員1850名(陸災650名、海災550名、空災500名、原子力災派150名)、航空機50機、艦船4隻だった。8月20日、宮城県東松島市で開催された復興イベントでブルーインパルスが展示飛行を実施。8月30日、自衛隊の災害派遣部隊は陸自550名(うち原発対処150名)、海自550名、空自500名、航空機50機(陸自30機、空自20機)、海自艦艇4隻だった。8月30-31日、第2管区海上保安本部が福島第一原発から10km圏内で初の潜水捜索を実施。8月31日0900、大規模震災災害派遣終結命令が出され、通常の災害派遣体制となった。この日までの延べ派遣規模は、隊員10633000名(陸自7262000名、海自1358000名、空自19971000名。計10664870名?)、航空機50179機、艦艇4818隻だった。また、海自警備犬2頭が捜索救難に参加した。ちなみに1951年から2008年までの災害派遣延べ隊員数は7747726名である。19286名を救助し、遺体9505体を収容、物資13906トンを輸送し、32985トンの給水支援と5005484食の給食支援、1092526名の入浴支援を実施した。原発対処では、消防車延べ44両が340トン、CH-47輸送ヘリ2機が8ソーティ30トンの放水を実施。放射線モニタリングは、UH-60JA多用途ヘリで2ソーティ、UH-1多用途ヘリで2ソーティ、CH-47輸送ヘリで9ソーティが実施された。偵察飛行はRF-4偵察機が34ソーティ、ヘリ映像伝送装置によるものが2ソーティ。T-4練習機による集塵飛行は8ソーティ実施された。地上での除染支援は最大9カ所で行われている。任務中に陸自隊員3名が死亡した。車両輸送のため3月12日から7月11日に民間船舶延べ900隻が投入され、16600両を輸送している。自衛隊は17隻の民間船を借りて隊員7600名と車両2500両を運んだ。
9月1日、陸海空災派部隊、原子力災派部隊、第1師団災派部隊に1級賞状が、統合任務部隊指揮官兼陸自災派部隊指揮官(陸幕長)と空自災派部隊指揮官(航空総隊司令官)に1級賞詞が授与された。9月8日までの海上保安庁の延べ投入船艇は7884隻、航空機は2628機で、船艇30隻と航空機8機による捜索活動を継続している。9月9日、福島県での入浴支援を終了。岩手、宮城、福島各県での災害派遣活動が完全終結した。原子力災害派遣命令に基づく除染活動は継続中で、第9師団第9化学防護隊などの110名が除染活動(30名)と緊急事態に備えての待機(80名)を行っていた。10月21日、福島原発事故発生直後に対策にあたった「福島の英雄たち」に対し、スペインからアストゥリアス皇太子賞共存共栄賞が授与され、中央特殊武器防護隊長、第1ヘリコプター団第1ヘリコプター群第104飛行隊長、東京消防庁ハイパーレスキュー隊消防司令、警視庁警備2課管理官、双葉警察署長が授賞式に出席した。11月25日、東日本大震災に伴う大規模震災対処と原子力災害対処で顕著な功績があった隊員330名に2級賞詞、3000名に3級賞詞が授与された。他に4・5級賞詞が逐次部隊長から該当隊員に授与されている。12月7-19日、第6師団900名が浪江町、楢葉町、富岡町、飯舘村の各役場で拠点除染を実施した。12月20日、福島県知事から自衛隊災害派遣撤収要請が出た。12月26日、原子力災害対策本部会議で原子力災害派遣の終了が決定、派遣部隊に撤収命令が出され、この日を以て東日本大震災に関する全ての災害派遣を終結した。原子力災害派遣の延べ派遣人数は8万名で、空中から30トン、地上から340トンの放水を行っている。阪神淡路大震災の教訓を活かして迅速な対応を行ったが、自治体業務支援に法令の壁がある、方面隊に需品補給機能が無いため活動支援能力が低い、各駐屯地に燃料や糧食の備蓄が少ないため活動不能に陥りかけた、野外炊具や入浴セットといった生活支援器材に故障が多い、燃料タンク車のホース接続金具の規格が陸自、海自、自治体、民間で全て異なるため共用不能、といった問題点もあった。行方不明者捜索時に勝手に瓦礫を撤去して私有財産権の侵害に当たらないか現場の部隊が市町村役場に問い合わせても、担当者が亡くなっていたり、行方不明だったりして判然とせず、取り敢えず撤去したものの法的根拠が無く、政府に適用除外を検討してもらったりしている。東北方面隊の食糧備蓄は6万食分しかなく、被災地で直接活動している5万名は到底賄えず、岩手、仙台、郡山に補給点を設けて各派遣部隊が元々駐屯する地元から食糧や物資を調達するようにした。それでも長期間(震災被害により地元で食料を調達できない仙台駐屯地では2ヶ月近く)に亘り缶詰やレトルトパックのみの食事となったため、隊員(師団長まで)に食物繊維摂取不足による便秘とビタミン不足による口内炎が多発した。ただ直前のハイチ派遣で同様の経験をした第9師団第39普通科連隊は出発前にビタミン剤を買いあさり(連隊長も5種類持って行き、隊員の中には10種類揃えた強者もいた)、口内炎を出さない唯一の部隊となっている。缶詰には赤飯缶が含まれていたが、現場から大惨事の状況下で被災者の気持ちに立てば食べることはできないとして数万食分が補給処に送り返された。指揮システムが統幕・陸海空自で全て違っており、それぞれ連絡幹部を司令部などに派遣して対応したが、生存者を発見した海自のヘリが地上の陸自隊員に連絡しようとしても、ヘリの母艦、JTF司令部海自連絡幹部、JTF司令部、JTF司令部陸自連絡幹部、陸自上級部隊と経由しなければならず、時間を浪費している。陸自の方面隊でも通信システムが整備期間の長さから統一できず3世代に分かれており、北方と東北、西方、中方と東方で別々になっていた。現場の隊員全員が無線機を持っている訳では無いので、自分の携帯電話で本部に連絡し、電話代は自腹で支払っている。海自おおすみ型輸送艦がすぐには駆け付けられない状況だったため、民間フェリーに救援を依頼したが、緊急時の例外規則が無い「危険物船舶運送及び貯蔵規則」に縛られてガソリンの輸送が行えなかった。福島原発の情報収集では空自がRF-4E/EJ偵察機を出動させたが、リアルタイム伝達能力が無く、陸自も情報科が創設されて1年足らずで、無人偵察機システムも活躍したという話は聞かず、アメリカ軍のRQ-4グローバルホークに依存している。細かい物品は予算請求が後回しにされがちで、額に付けるLED懐中電灯とその電池、防臭下着、口内炎防止用サプリメントなどを隊員が自前で買いそろえなければならなかった。ヘリによる救出ではボイヤントスリングによる救出が上手く行かない事例が多発したため、後にピタゴールを導入している。
防衛省では8月に東日本大震災への対応に関する教訓事項の中間取り纏めを行い、マンパワー確保、部隊集中要領改善、放射線環境下で有効な装備品導入、官邸・各省庁との情報共有、海上輸送力強化、自治体・関係機関との共同訓練による災害対処計画実効性改善、政府全体の日米調整枠組み強化、メンタルヘルス体制構築、広報・情報発信、自衛隊施設の防災面での強化、指揮統制機能などに課題があるとした。11月30日に防衛省は東日本大震災への対応に関する教訓事項の最終取り纏めを発表。意志決定、運用、各国との連携、通信、人事教育、広報、情報、施設、装備、組織運営について問題点を挙げた。2012年1月13日、第12旅団第30普通科連隊の隊員2名に福島第1原発の原子力災害に関する表彰式が行われ、統合幕僚長からの2級賞詞が伝達された。2月9日、福島第1原発の事故対応にあたった技本職員78名に対し、第2-第5級賞詞が授与された。3月8日、防衛省で陸自主催の東日本大震災教訓成果発表会を実施。3月9-11日、岩手県警が一斉捜索を実施。3月19日、福島第1原発事故に伴う原子力災害派遣命令に基づき除染活動を行っていた第6師団が福島県内2カ所の除染所の運営を内閣府の委託業者に引き継ぎ、任務を終了。東日本大震災に伴う自衛隊の全災害派遣任務が完了した。10月25日0930頃、第1航空隊P-3C哨戒機が種子島の南東100kmの太平洋で転覆漂流中の小型漁船を発見。海上保安庁が調査したところ、東日本大震災の津波で流出した石巻市牡鹿漁協所属の漁船であると判明した。海流により北太平洋を一周し、黒潮に流されて辿り着いたとみられる。2015年3月11日、ワルストロム国連事務総長特別代表が震災の教訓を世界で共有したいと述べた。津波に流されたF-2B戦闘機18機のうち13機が修復可能で、2015年4月21日に三菱重工小牧南工場でF-2B修復初号機(03-8106)納入式が実施された。2016年3月11日、MST-464ぶんご、MSO-302つしま、MSO-303はちじょうが石巻湾沖で洋上慰霊祭を実施。式典執行者は横須賀地方総監で、在日米海軍司令官ら200名が参列、1446に黙祷し、献花、弔銃発射、武者小路千家家元による献茶などを行った。3月12日、MST-464ぶんごが震災時の大島小中学校卒業生を招いて海の上の同窓会を実施。2018年2月28日、松島基地でF-2B修復13号機(最終号機、33-8117)を受領した。2020年9月29日付の医学雑誌JAMA Network Openに防衛医科大学校行動科学研究部門とオランダ陸軍メンタルヘルス研究チームによる共同研究の論文が掲載され、災害派遣活動参加陸自隊員56000名のうち派遣後6年間の累積で6.75%にPTSDを疑う症状が見られたことが明らかとなった。
参考:防衛省ホームページ、東日本大震災海上自衛隊災害派遣の記録、月刊PANZER4,’11、7,’11、月刊世界の艦船5,’11、6,’11、7,’11、8,’11、9,’11、10,’11、11,’11、12,’12、2,’13、5,’16、6,’16、月刊軍事研究5,’11、6,’11、5,’12、月刊航空ファン6,’11、7,’11、9,’11、11,’11、7,'15、2,’16、4,’16、月刊JWings6,’11、7,’11、8,’11、9,’11、12,’11、3,’12、4,’12、9,’12、2,’13、5,’18、8,’18、東日本大震災自衛隊救援活動日誌、スピアヘッドNo.8、MAMOR Vol.52、産経新聞、読売新聞、朝雲、海上自衛新聞、血液フロンティア12,’11、JShips vol.44、月刊丸12,’11、北海道補給処ホームページ
<東日本大震災支援活動(海外)>:アメリカ軍はトモダチ作戦、オーストラリア軍はパシフィック・アシスト作戦を実施。IAEAは3月18日から放射線計測チーム16名、海洋放射線計測専門家1名、IAEA国際支援調整官1名を派遣。4月3日に2名、4月7日に1名を追加派遣した。また、3月26日から4月1日に食品モニタリングチーム3名が活動した。国連災害評価調整チームUNDACは3月13-23日に災害調整専門家7名を派遣。国連人道問題調整事務所UNOCHAは3月23日から4月2日に災害調整専門家3名を派遣した。世界食糧計画WFPは3月15日から物流等支援要員14名が活動している。アメリカは3月13日から原子力規制委員会の専門家11名とエネルギー省の人員34名を派遣。また、3月15-19日に救助隊員144名と救助犬により大船渡市と釜石市で救助活動を行った。イギリスは救助隊員69名、プレス8名、救助犬2頭を派遣し、3月15-17日に大船渡市と釜石市で救助活動を行った。イスラエルは医療支援チーム53名、支援物資の防寒着10000着、毛布6000枚、手袋8300組、携帯トイレ150セットなどをイスラエル空軍第120飛行隊B707要人輸送機で3月27日に成田空港に輸送し、3月29日から4月10日まで南三陸町にプレハブ6棟からなるイスラエル医療センター(内科、小児科、整形外科、産婦人科、泌尿器科、眼科、耳鼻科)を開設して医療活動を行った。ちなみに診察したイスラエル軍医は日本の医師免許を持っていないので、超法規的措置である。イスラエルから持ち込んだ薬剤も日本で認可されていないものが含まれていたのか、南三陸町医療統括本部の指示により診療開始後1週間で処方中止となってしまった。医療活動終了後、医療器材の大半が南三陸町に寄付されている。イタリアは3月16-21日に捜索救助や原子力安全等の専門家6名を派遣した。インドは支援隊46名を派遣し、3月29日から4月6日まで救援活動を行った。インドネシアは救助隊員11名、事務員、医療要員4名を派遣し、3月19-23日まで気仙沼市、塩竃市、石巻市などで救助活動を行った。オーストラリアは救助隊員75名と救助犬6頭を派遣し、3月16-19日に南三陸町で救助活動を行った。韓国は中央119救助団102名(+先発隊5名)、ソウル京義地域救助部隊、医師、通訳、救助犬2頭を韓国空軍第15戦術航空輸送群C-130H輸送機3機で福島空港に輸送し、3月14-23日に仙台で救助活動を行った。シンガポールは救助隊員5名、救助犬5頭を派遣し、3月13-15日に福島県相馬市で救助活動を行った。スイスは救助隊員27名と救助犬9頭を派遣し、3月14-16日に南三陸町で救助活動を行った。台湾は救助隊員28名を派遣し、3月16-18日に名取市と岩沼市で救助活動を行った。中国は救助隊員15名を派遣し、3月14-20日に大船渡市で活動を行った。ドイツは救助隊41名と救助犬3頭を派遣し、3月14-15日に南三陸町で救助活動を行った。トルコは救助隊員32名を派遣し、3月20日から4月8日まで多賀城市、石巻市、七ヶ浜町で救助活動を行った。ニュージーランドは救助隊員52名を派遣し、3月16-18日に南三陸町で救助活動を行った。フランスはレスキュー関係者134名を派遣し、3月16-23日に名取市と八戸市で救助活動を行った。南アフリカは救助隊員45名を派遣し、3月19-25日に岩沼市、名取市、多賀城市、石巻市で救助活動を行った。メキシコは救助隊員12名と救助犬6頭を派遣し、3月15-17日に名取市で救助活動を行った。モンゴルは救助隊員12名を派遣し、3月17-19日に名取市と岩沼市で救助活動を行った。ロシアは救助隊員155名を派遣し、3月16-18日に石巻市で救助活動を行った。参考:月刊JWings6,’11
<東日本大震災対処部隊(海上自衛隊)>:発災当日、被災地域を南北で3つに分割し、第1護衛隊群司令をトップとする第1海災部隊RY-1(ロメオ・ヤンキー・ワン)、第2護衛隊群司令をトップとする第2海災部隊RY-2、第3護衛隊群司令をトップとする第3海災部隊RY-3を編成、第1海災部隊(汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、護衛艦DE、海洋観測艦AGS、試験艦ASE計9隻と移動衛生班2個)を陸前高田沖から相馬港以北の仙台湾、第2海災部隊(汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、ミサイル護衛艦DDG、護衛艦DE、海洋観測艦AGS計7隻。13隻?。第2護衛隊群司令部座乗の旗艦はDDH-144くらま)を相馬港以南の仙台沖から小名浜沖、第3海災部隊(汎用護衛艦DD、護衛艦DE、海洋観測艦AGS、試験艦ASE、訓練支援艦ATS計5隻)を小名浜沖から銚子沖に振り分けた。また、水中処分員による沿岸捜索が可能な掃海隊群を主力とする第4海災部隊(掃海艇MSC、掃海艦MSO、掃海母艦MST、掃海管制艇MCL、迎賓艇ASY計11隻。旗艦はMST-464ぶんご)を岩手県から茨城県北部の沿岸地域に充てた。しかし漂流物や瓦礫の下に潜っての捜索しようと試みたが、津波の影響で海水汚濁が酷く水中視界がほぼゼロのため水中捜索が不可能であり、海鳥の群れや、海面に漂う行方不明者の体脂肪の油分まで頼りにして執念の捜索を行っている。他に第6海災部隊(補給艦AOE2隻。支援物資の輸送と各艦への洋上補給)を編成し、救援活動と緊急支援物資輸送を下命、担当地域は後日発令とした。更に横須賀警備隊司令をトップとする第11海災部隊(支援船)を編成し、横須賀港周辺の港湾被害調査に当たらせている。その後、輸送艦からなる第7海災部隊(支援物資の輸送とLCACによる直接揚陸。指揮官は第1輸送隊司令)、東京湾周辺で給水支援を行う第9海災部隊(横須賀警備隊主力)、陸上で入浴支援を行う第10海災部隊(横須賀警備隊、横須賀基地業務隊主力)を編成して災害派遣任務を実施した。第5と第8は新任務が出た時に備えて欠番とし、第11海災部隊は廃止している。護衛艦隊所属58隻のうち初動で投入できたのは22隻で、年度末のため修理や検査に入っていた艦が多かったが、完工を早めたり、修理を先延ばししたりして対応した。また、海外訓練に向かっていた4隻を呼び戻している。第1海災部隊は隷下艦船が全て造船所で修理に入っていたため、第4護衛隊群DDG-174きりしまを旗艦として救難活動を行い、3月13日にDDH-181ひゅうがが到着するとそちらの司令部作戦室に司令部を移している。第3海災部隊は1隻が南西諸島方面での警戒監視、2隻がソマリア沖海賊対処、4隻が検査修理中で、残るDDH-143しらねも翌週の定期検査開始に備えて燃料弾薬等を陸揚げしていたが、すぐに燃料を積み直して出港した。第7海災部隊はLST-4001おおすみが東南アジアに向け航行中、LST-4002しもきたとLST-4003くにさきは年次検査中で、LST-4003くにさきは年次検査を発災当日に完工させ、LST-4001おおすみは海外派遣を取りやめUターンしている。LST-4002しもきたの参加は4月6日になった。航空集団は固定翼哨戒機やヘリによる偵察、捜索救難、物資輸送を実施し、八戸航空基地に避難住民を受け入れている。3月14日、統合任務部隊が編成されたため、略称をRYからJN(ジュリエット・ノヴェンバー)に変更した。海災部隊指揮官は横須賀地方総監で、災統合任務部隊指揮官(東北方面総監)の指揮を受け、隷下部隊及び自衛艦隊の部隊等により以下の海災部隊を編成、災害派遣活動を実施する。第1海災部隊JN-1は第1護衛隊群司令がトップで、汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、ミサイル護衛艦DDG、護衛艦DE、海洋観測艦AGS、掃海艇MSC、試験艦ASE計15隻と移動衛生班2個により釜石から気仙沼を担当し、捜索救難、輸送、港湾調査、医療支援、アメリカ海軍との共同物資輸送などを行う。第2海災部隊JN-2は第2護衛隊群司令がトップで、汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、ミサイル護衛艦DDG、護衛艦DE、掃海艇MSC、訓練支援艦ATS、海洋観測艦AGS計19隻により気仙沼から日立を担当し、捜索救難、輸送、港湾調査、医療支援、特令による離島住民安否確認などを行う。第3海災部隊JN-3は第3護衛隊群司令がトップで、宮古方面に護衛艦2隻、掃海艇MSC1隻、ミサイル艇PG1隻、山田方面に護衛艦1隻、多用途支援艦AMS1隻、大槌方面に掃海艇2隻、補給艦AOE1隻、釜石方面に護衛艦1隻、多用途支援艦AMS1隻、ミサイル艇PG1隻を配置し、捜索救難、輸送、港湾調査などを行う。第4海災部隊JN-4は掃海隊群司令がトップで、掃海艦MSO、掃海母艦MST、潜水艦救難母艦AS計5隻と水中処分員(各地方隊からも応援あり)により、仙台から気仙沼の捜索救難、輸送、掃海艇への補給などを行う。第6海災部隊JN-6はAOE-426おうみ艦長がトップで、第61海災部隊JN-61(AOE-426おうみと移動衛生班1個)、第62海災部隊JN-62(AOE-423ときわと移動衛生班1個)、第63海災部隊JN-63(AOE-424はまな)、第64海災部隊JN-64(AOE-425ましゅうと移動衛生班1個)を隷下に置き、八戸から日立で捜索救難、輸送、医療補給支援、艦艇への補給を行う。また、JN-61はJN-2、JN-62はJN-1、JN-64はJN-3との調整も担当する。第7海災部隊JN-7はLST-4003くにさき艦長がトップで、輸送艦LST1隻と移動衛生班1個で仙台湾を中心に種市から日立を担当し、捜索救難、輸送、医療補給支援を行う。第9海災部隊JN-9は横須賀警備隊司令がトップで、支援船により横須賀港周辺と東京湾北部で港湾被害調査と給水支援などを行う。航空部隊は航空集団司令官と教育航空集団司令官の指揮を受け捜索救難や輸送などを行う。3月27日、救援物資輸送任務減少に伴い、第3海災部隊が撤収し、第1海災部隊が担当地域を引き継いだ。その後、派遣規模の縮小に応じて第1、第2、第4海災部隊の指揮系統を1つに纏めるといった措置を執っている。4月1-3日、集中捜索に参加。第1海災部隊は汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、護衛艦DE、試験艦ASE計9隻により種市から気仙沼、第2海災部隊は汎用護衛艦DD、ヘリコプター護衛艦DDH、ミサイル護衛艦DDG、護衛艦DE、掃海艇MSC、訓練支援艦ATS、海洋観測艦AGS計10隻で塩釜から福島・茨城県境(福島第1原発から30km以内を除く)、第4海災部隊はミサイル護衛艦DDG、掃海艦MSO、掃海母艦MST、潜水艦救難母艦AS、掃海艇MSC、掃海管制艇MCL計19隻と水中処分員(各地方隊からの応援含む)で気仙沼から塩釜、船越湾、大槌湾、釜石港、大船渡港を担当した。航空部隊も航空集団司令官と教育航空集団司令官の指揮で参加している。6月27日、第7海災部隊が支援を終了。7月1日、統合任務部隊が解かれ、海災部隊の編成は第15護衛隊司令をトップとする第1海災部隊RY-1(汎用護衛艦DD、多用途支援艦AMS、潜水艦救難艦ASR、掃海艇MSC、汎用揚陸艇LCU計7隻で大船渡から相馬の行方不明者捜索などを行う)、横須賀警備隊司令をトップとする第13海災部隊RY-13(横須賀警備隊と横須賀基地業務隊が石巻市内で入浴支援などを実施)、航空部隊(航空集団司令官と教育航空集団司令官の指揮で行方不明者捜索や輸送などを行う)となった。8月31日、大規模震災災害派遣終結命令が出された。この日までの派遣規模は人員延べ1358000名、艦艇延べ4900隻で、900人を救助し、420人の遺体を収容、漂流船舶200隻を発見・通報した。また、航空機等により物資輸送1100回を行い、糧食235000食、水405000リットル、毛布13000枚、ガソリン・軽油60000リットル、灯油92000リットル、乾電池66000本を輸送した。離島では巡回診察を行い、延べ2800人を診察。八戸航空基地では4月15日までに延べ6000人に宿泊支援、延べ1300人に診療支援を行い、10トンダンプ420台分の震災ゴミを搬送した。参考:東日本大震災海上自衛隊災害派遣の記録、月刊世界の艦船8,’11
<東日本大震災対処部隊(自衛隊、2011年3月31日)>:トップは防衛大臣で、統合幕僚長と統合運用室がこれを補佐する。その下に災統合任務部隊指揮官(東北方面総監)がおり、陸災部隊指揮官(東北方面総監が兼務)、海災部隊指揮官(横須賀地方総監)、空災部隊指揮官(航空総隊司令官)を指揮する。災統合任務部隊と統合幕僚監部との調整は統合運用連絡所、アメリカ軍トモダチ作戦参加部隊との調整は日米調整所で行う。陸災部隊は北部・東北・東部・中部・西部の全方面隊、全師団・全旅団、中央即応集団、通信団、警務隊、高射学校、施設学校、需品学校、化学学校、武器学校、自衛隊中央病院で、隊員70000名(うち即応予備自衛官503名、技能公募予備自衛官3名)、ヘリコプター105機からなる。東部方面隊担任区域の関東地方被災地は災統合任務部隊でなく東部方面隊が担当する。災統合任務部隊(東北方面総監指揮)、東部方面隊(東部方面総監指揮)、原子力災害派遣部隊(中央即応集団司令官指揮)は防衛大臣と統幕長の指揮下にあるが、両者は首相官邸で首相・大臣補佐の任務にあたっており司令官としての任務をこなすのが困難だったため、越権行為ではあるが陸幕長が隊を跨ぐ命令を出していた。海災部隊は隊員15100名、航空機200機(固定翼機121機、ヘリ79機)、艦艇50隻。参加部隊は航空集団、教育航空集団、横須賀地方総監部、掃海隊群、第1掃海隊、第2掃海隊、第51掃海隊、第101掃海隊、第41掃海隊、第42掃海隊、第43掃海隊、第44掃海隊、第45掃海隊、第46掃海隊、第1護衛隊群、第2護衛隊群、第3護衛隊群、第1護衛隊、第2護衛隊、第3護衛隊、第4護衛隊、第5護衛隊、第6護衛隊、第11護衛隊、第12護衛隊、第15護衛隊、第2潜水隊群、第2潜水隊、第1航空群、第2航空群、第4航空群、第5航空群、第21航空群、第22航空群、第31航空群、下総教育航空群、第61航空隊、第111航空隊、第203教育航空隊、第211教育航空隊、第1輸送隊、第1海上訓練支援隊、横須賀警備隊、横須賀衛生隊、第2ミサイル艇隊。参加艦はDDH-143しらね、DDH-144くらま、DDH-181ひゅうが、DDG-174きりしま、DDG-176ちょうかい、DDG-178あしがら、DD-102はるさめ、DD-110たかなみ、DD-111おおなみ、DD-125さわゆき、DD-129やまゆき、DD-153ゆうぎり、DD-154あまぎり、DD-156せとぎり、DD-157さわぎり、DE-229あぶくま、DE-231おおよど、DE-233ちくま、DE-234とね、掃海艦MSO-301やえやま、MSO-303はちじょう、掃海母艦MST-464ぶんご、掃海艇MSC-601ひらしま、MSC-603たかしま、MSC-674つきしま、MSC-675まえじま、MSC-676くめじま、MSC-677まきしま、MSC-678とびしま、MSC-679ゆげしま、MSC-680ながしま、MSC-683つのしま、MSC-684なおしま、MSC-685とよしま、MSC-688あいしま、MSC-689あおしま、MSC-690みやじま、MSC-691ししじま、掃海管制艇MCL-727さくしま、輸送艦LST-4001おおすみ、LST-4003くにさき、LSU-4171ゆら、LSU-4172のと、訓練支援艦ATS-4202くろべ、ATS-4203てんりゅう、多用途支援艦AMS-4301ひうち、AMS-4302すおう、AMS-4303あまくさ、海洋観測艦AGS-5103すま、AGS-5104わかさ、AGS-5105にちなん、潜水艦救難母艦AS-405ちよだ、試験艦ASE-6102あすか、ASE-6101くりはま、補給艦AOE-423ときわ、AOE-424はまな、AOE-426おうみ、AOE-422とわだ、特務艇ASY-91はしだて。空災部隊は隊員21300名、航空機236機(固定翼機203機、ヘリ33機)。参加部隊は第1航空団、第2航空団、第3航空団、第4航空団、第5航空団、第6航空団、第7航空団、第8航空団、第83航空隊、飛行教導隊、偵察航空隊、警戒航空隊、第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊、航空総隊司令部飛行隊、飛行教育航空隊、航空教育隊第2教育群、航空教育集団、第11飛行教育団、第13飛行教育団、航空支援集団、防空指揮群、南西航空警戒管制隊、北部航空警戒管制団、中部航空警戒管制団、西部航空警戒管制団、基地防空教導隊、高射教導隊、第1高射群、第2高射群、第3高射群、第4高射群、第5高射群、第6高射群、北部航空施設隊、中部航空施設隊、西部航空施設隊、南西航空施設隊、南西航空混成団司令部、西部航空方面隊司令部支援飛行隊、三沢ヘリコプター空輸隊、入間ヘリコプター空輸隊、航空救難団、千歳救難隊、秋田救難隊、新潟救難隊、百里救難隊、浜松救難隊、航空システム通信隊、第1術科学校、第2術科学校、第4術科学校、第5術科学校、幹部候補生学校、幹部学校、航空中央音楽隊、北部航空音楽隊、中部航空音楽隊、西部航空音楽隊、教材整備隊、補給本部、第1補給処、第1補給処東京支処、第1補給処立川支処、第2補給処、第3補給処、第4補給処、第4補給処東北支処、第4補給処高蔵寺支処、プログラム管理隊、電子開発実験群、航空中央業務隊、作戦情報隊、航空保安管制群、航空気象群、飛行点検隊、航空開発実験集団司令部、飛行開発実験団、航空安全管理隊、航空警務隊、航空機動衛生隊、航空医学実験隊、自衛隊岐阜病院。原子力災害派遣命令に基づく対処は原子力災害派遣部隊が行っていて、防衛大臣(統幕長と統合運用室が補佐)の下に原子力災害派遣部隊指揮官(中央即応集団司令官)がおり、陸自と海自の各部隊長や学校等の長は、所要の支援を実施すると共に所要の部隊等を中央即応集団に派出、航空総隊司令官は、空自各部隊を指揮すると共に所要の部隊を中央即応集団に差し出し、原子力災派部隊指揮官が統合運用する。また、現地調整所が置かれていて、前方指揮所や統幕連絡官との連絡調整などを行う。参考:MAMOR Vol.52、東日本大震災海上自衛隊災害派遣の記録、月刊軍事研究1,’18、月刊PANZER6,’18
<東富士演習場>:陸上自衛隊の演習場。富士演習場の静岡県部分である。面積8800ヘクタールで、御殿場市(市の面積の三分の一にも達する)、裾野市、小山町に跨っており、60%強が公有地と民有地で、地権者と使用協定を結んでいる。中央弾着地はだいたい1.5km四方で、射距離5kmくらいまでの実弾射撃が可能。一部がアメリカ軍富士営舎地区に指定されていて、アメリカ軍訓練管理要員が駐屯する。元は1912年(明治45年)に日本陸軍が常設した富士裾野演習場で、1947年にGHQが接収してこの名称となり、1952年に日米安保条約発効でアメリカ軍の演習場となった。自衛隊が使用するようになると返還運動が盛んになり、自衛隊立ち入り禁止訴訟まで起こされる事態になったが、1959年6月17日にアメリカ軍東富士演習場の全面返還、民有諸権利の回復と確立、国有地の開放と民生安定事業推進、東富士演習場使用協定による自衛隊の使用という東富士4原則を認めることで和解が成立、6月24日に防衛庁と地元権利者などの間で第1次東富士演習場使用協定が締結され、以降5年ごとに更新されている。1968年、自衛隊の演習場となった。6月14日1730頃、雄鹿台付近で機甲科第42期幹部初級課程の訓練中にM24軽戦車が地隙から転落し、砲塔に跨乗して指導していた訓練教官の一等陸尉が下敷きとなって死亡した。1970年12月17日、M4戦車4両で特填弾射撃による弾道技術検査(砲身摩耗調査のための弾丸速度計測)を行ったところ、一部が跳弾して6km先の日本ランド遊園地ゴルフ場に落下した。1997年度、10日間(うち夜間7日間)に亘り、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練が実施された。
2006年度、10日間(夜間8日間)に亘り、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練が実施された。人員380名、砲12門、車両90両が参加し、2108発を射撃している。2009年4月10日、空挺隊員がCH-47輸送ヘリから空挺降下訓練を行った際、落下傘を自動的に引き出す自動索が首に巻き付いて死亡する事故が発生した。原因はCH-47輸送ヘリ後部ランプ中央付近にある危険区域(自動索が外れた後に空中を漂い巻き付く危険がある)に飛び出してしまったためだった。9月5-8日、第1師団第2次集中野営訓練が行われた。2010年3月20日1000頃、野焼き作業に参加していた会社員3人が炎に巻き込まれて死亡した。3月31日、第10次東富士演習場使用協定(2010年4月1日から2015年3月31日まで有効)が締結された。8月20日1105頃、畑岡射場で戦車砲行進射撃錬成訓練中だった90式戦車1個小隊4両が射撃を行った際、最後尾の1両の砲身先端0.5mが破損して破片が散乱、後方スタンドの一部が損壊し、一部は部外民有地にも落下した。原因は射撃位置に移動する際、砲身先端部が土手に接触して砲身に土が詰まっていたためで、目撃した隊員が射撃中止を伝えたが、人為的ミスが重なって戦車乗員にまで伝達されず、事故が発生したものである。9月2-29日、アメリカ海兵隊による沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の分散実施が行われ、人員390名、車両90両、155mm榴弾砲12門が訓練を行った。2011年6月18-27日、アメリカ海兵隊による沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の分散実施が行われ、人員430名、車両100両、155mm榴弾砲12門が訓練を行った。2012年9月9-18日、アメリカ海兵隊による沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の分散実施が行われ、人員280名、車両70両、155mm榴弾砲6門が参加した。2016年3月27日、一般社団法人東富士入会組合などの主催で野焼き作業を実施。
2022年6月、アメリカ海兵隊がFuji
Viper Shinka22演習を実施。VMM-265所属MV-22B輸送機、HMH-465所属CH-53E強襲ヘリ、HMLA-469所属AH-1Z攻撃ヘリ/UH-1Y汎用ヘリなどが参加した。2023年7月24日、ドイツ陸軍総監マイス中将が演習場を訪問し、10式戦車や90式戦車を視察した。参考:MAMOR Vol.43、月刊軍事研究11,’09、4,’10、12,’10、月刊JWings9,'22、戦車隊長、月刊世界の艦船10,'23、朝雲
<東富士演習場市街地訓練場>:東富士演習場内にある市街戦訓練場。面積25ヘクタール。愛鷹庁舎、乙女銀行、籠坂ホテル、レストランFUJI、東富士ハイツなど11棟の建物が建っており、1個中隊規模の訓練が行える。総工費は25億円である。参考:ストライク・アンド・タクティカルマガジン5,’11、MAMOR vol.133
<東プロシア・グムビン・ケーニヒスベルク作戦>:第2次大戦時にソ連軍が行った、1945年冬季攻勢の1つ。東プロシアに縦深120kmの陣地を構築して防御にあたるドイツ中央軍集団を包囲してバルト海沿岸に押し込め、ヴィツスラ河=オーデル河=シュレジェン作戦でポーランド中部から西に進撃する第1白ロシア方面軍の北側側面を掩護するもので、第1バルト方面軍、第3白ロシア方面軍第39軍、第5軍、第28軍、第2親衛軍が東プロシア北東から、第2白ロシア方面軍第3軍、第47軍、第2打撃群、第65軍、第70軍が東プロシア南東から陣地帯を攻撃してドイツ軍を拘束し、第2白ロシア方面軍第5親衛戦車軍が機動力を活かして陣地帯を抜けケーニッヒスベルク西のエルビングに到達、第70軍の一部も陣地帯を迂回して西進しヴィツスラ河を渡河、北に転じてエルビング西のダンツィヒまで達し、中央軍集団ごと東プロシア全体を包囲する。1945年1月13日、第3白ロシア方面軍と第1バルト方面軍がドイツ中央軍集団第3装甲軍と第4軍に攻撃を開始、ケーニヒスベルクの包囲に向かったが、第3白ロシア方面軍は第3装甲軍の頑強な抵抗に遭い、後方突破に使用する筈だった第1戦車軍団と第2親衛戦車軍団を攻撃に投入せざるを得なくなった。ただドイツ側も予備兵力のヘルマン・ゲーリング装甲軍団やグロスドイッチュラント装甲軍団をソ連のヴィツスラ河=オーデル河=シュレジェン作戦で攻勢を受けているポーランド中部方面に移動させたため、第3白ロシア方面軍が第2梯団の第11親衛軍で攻撃を掛けると戦線を支えきれなくなり、第3装甲軍残存部隊は寸断されてケーニッヒスベルクやザームラント半島で包囲された。1月14日、第2白ロシア方面軍がドイツ第2軍に攻撃を開始。1月16日、第2白ロシア方面軍が第5親衛戦車軍を投入して戦線後方に突入、第2軍・第4軍残存部隊を東プロシア南部各地で包囲した。ヒトラーはハンガリー方面での攻勢を考えており、予備兵力の第6装甲軍を引き抜いてハンガリー方面に送ってしまった。1月17日、第2白ロシア方面軍はワルシャワを制圧すると共に第2軍を追撃してヴィツスラ河北西方向に進んだ。1月24日、ドイツはポメラニアにヴィツスラ(ヴァイクセル)軍集団を新編。2月8日、第2白ロシア方面軍はダンツィヒに進出し、ドイツ北方軍集団(1月25日に中央軍集団から改称)とヴィツスラ軍集団を分断。2月9日、第3白ロシア方面軍が北方軍集団50万名以上を東プロシアで孤立させた。2月10日、第2白ロシア方面軍がポメラニアに突入し、北に転じてバルト海に向かい、東プロシア全体を包囲にかかった。2月16日、ヴィツスラ軍集団がゾンネンヴェンデ(冬至)作戦を発動し、SS第11装甲軍がオーデル川東のシュタールガルト付近から東に進撃して第2白ロシア方面軍の側面を固める第1白ロシア方面軍を攻撃したが、撃退された。2月20日、第2白ロシア方面軍主力と第1白ロシア方面軍が東ポメラニア作戦を開始。4月9日、ケーニヒスベルクが陥落。4-5月にかけてドイツ軍は海上から脱出したが、後衛の第4軍防御部隊は5月8日に降伏した。参考:歴史群像4,’18、激闘東部戦線(2)
<東ポメラニア作戦>:第2次大戦時の1945年2月20日から第2白ロシア方面軍主力と第1白ロシア方面軍右翼が行った作戦。ドイツ軍ヴィツスラ軍集団の脅威を除き、第1白ロシア方面軍主力と第1ウクライナ方面軍のベルリン作戦準備を補助するものである。第2白ロシア方面軍はドイツ第2軍、第1白ロシア方面軍はドイツSS第11装甲軍を攻撃し、2月22日までに両者を分断。2月24日からポメラニア東部への攻勢を開始し、4月4日までにドイツ第2軍を壊滅させ、グジニャ-ダンツィヒに達した。ソ連は捕虜63537名を獲得し、戦車・自走砲681両、その他車両838両、火砲3470門、機関銃4649丁、小火器61669丁、作戦機431機を破壊または鹵獲して作戦を終了している。参考:激闘東部戦線(2)、歴史群像4,’18
<東山市郎>:日本海軍エース。大正4年、長野県生まれ。昭和6年、海軍乙種飛行予科練習生として横須賀航空隊に入隊。昭和10年4月、飛行練習生課程を首席で卒業し、館山航空隊に配属された。横須賀航空隊に転属した後、昭和12年12月に蒼龍戦闘機隊に配属され、昭和13年5月に南京派遣隊に加わって出撃した。7月、第15航空隊に転属し、安慶に配備された。6月28日、SB爆撃機2機を撃墜して初戦果を挙げた。11月、横須賀航空隊に復帰。昭和14年8月、航空事故で頭蓋骨骨折の重傷を負ったが、退院後再び任務に就き、昭和15年5月に空曹長に昇進して第12航空隊に転属、漢口に進出した。昭和16年3月、横須賀航空隊に転属となり本土に帰還。昭和18年6月、第261航空隊分隊長となり、昭和19年2月にサイパンに進出した。3月30日、ペリリュー島に進出。3月31日、アメリカ戦闘機の攻撃を受け、3機を撃墜したものの被弾して大火傷を負い、落下傘降下して救出され、サイパンに後送された。その後サイパンにアメリカ軍が上陸して守備隊は玉砕したため、その時に戦死したと認定されている。公認撃墜数9機。最終階級は大尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<ピカディニー・レール・システム>:小銃用アクセサリー装着装置。レシーバーやハンド・ガード部分に取り付け、スコープ、ダットサイト、暗視装置、フラッシュライト、フォアグリップ、てき弾発射機などの各種アクセサリーを装着できる。アメリカ軍特殊部隊M4カービン向けに開発され、NATO標準にグレードアップし、各種ライフルに装備されている。参考:月刊軍事研究4,’14
<ぴかぴか>:自衛隊のスラング。出世コースまっしぐらの幹部自衛官を指して羨む形容動詞である。参考:MAMOR vol.164
<光>:第345航空隊を参照。
<光エンジン・シリーズ>:日本海軍の航空機用エンジン。中島飛行機製作所がライト社製R-1820Fサイクロン空冷星型9気筒ガソリンエンジンを参考に開発した。昭和11-15年に各型計1500基が生産された。参考:月刊丸3,'18別冊
<光一型>:空冷星型9気筒ガソリンエンジンで、全長1.245m、直径1375mm、重量475kg(530kg?)。ボア160mm、ストローク180mm、圧縮比6、総排気量32600cc。離昇出力730馬力(回転数2150rpm、ブースト圧150mmHg)、公称出力660馬力(回転数1950rpm、高度3500m)/670馬力(回転数1950rpm、ブースト圧50mmHg、高度3700m)、最大出力800馬力(回転数2150rpm、高度3500m)。九六式艦爆に搭載された。参考:月刊丸3,'18別冊、月刊航空情報10,’05
<光二型>:離昇出力700馬力。九六式艦攻、九七式一号飛行艇、九七式艦上偵察機に搭載された。参考:月刊丸3,'18別冊
<光三型>:離昇出力830馬力、公称出力710馬力(高度2500m)。九七式一号艦攻に搭載された。参考:月刊丸3,'18別冊
<光海軍工廠>:日本海軍の工廠。山口県光にある。昭和15年10月に創設され、砲熕兵器、水雷兵器、爆弾の製造を担当した。参考:月刊世界の艦船9,’13増刊
<光機関>:日本陸軍特務機関。インパール作戦にあたってはインド独立運動を支援してインド人工作員をインドに送り、破壊工作を行わせてイギリス軍の後方撹乱を図る予定だった。しかしラングーンの謀略作戦司令部と工作員との間の通信が十分に秘匿できず、工作員が次々と逮捕され、昭和18年4月以降に送り込んだ7グループ21名に至っては海上からインドに上陸した途端に全員身柄を拘束されている。更に工作員が逮捕されているということも知らずにいたため、イギリスが二重スパイに仕込んだ元工作員から偽情報を流されてしまい、昭和18年11月の連合軍兵力が実際には16個師団なのに52個と過大評価したり、昭和20年2-4月のイラワジ会戦で英印第14軍によるイラワジ河渡河をみすみす見逃したりと、散々な結果になった。参考:月刊軍事研究1,’12、7,’10
<光ケーブル(仮設用)>:自衛隊の機器。日興通信製。参考:月刊軍事研究8,’18
<光ケーブル試験器>:自衛隊の機器。TFF製。参考:月刊軍事研究11,’16
<光作戦>:太平洋戦争末期に計画された伊400・伊401による嵐作戦(ウルシー泊地攻撃)を支援するため、ウルシー泊地を事前偵察するのに必要な彩雲をトラックまで輸送する作戦である。第1潜水隊の伊13と伊14が彩雲を2機ずつ搭載し、7月下旬までにトラックに到着する予定とした。昭和20年6月25日に小澤海軍総隊司令長官から発令され、2隻は7月4日に大湊に入り、彩雲を2機ずつ搭載。伊13は7月11日、伊14は7月14日に大湊を出港し、トラックに向かった。伊13は7月16日に日本近海で航空機と艦艇の攻撃を受けて沈められてしまったが、伊14は輸送任務を完遂し、彩雲も偵察に成功している。参考:月刊丸6,’01、丸エキストラ版No.71、月刊JWing11,’03、月刊世界の艦船9,’13増刊
<光島丸>:日本の2TL型戦時標準油槽船。昭和20年2月22日、ヒ九六船団としてシンガポールを出港。3月27日、徳山に到着。参考:月刊軍事研究12,’07
<光スペクトラムアナライザ>:自衛隊の機器。アンリツまたは太陽計測製。参考:月刊軍事研究12,’14、9,’18
<光増幅式パッシブ暗視装置>:微光暗視装置を参照。
<光トポグラフィ装置>:自衛隊の機器。日立製作所製。参考:月刊軍事研究9,’15
<光パルス試験器>:自衛隊の機器。アンリツ製。参考:月刊軍事研究10,’10
<光パワーメータ>:自衛隊の機器。穂高電子製。参考:月刊軍事研究4,’18
<光ファイバー>:光のエネルギー損失を局限し、長距離に光を送信するための線。1966年に開発が可能であるという論文が出され、1970年にアメリカのコーニング社が開発、生産に移った。また、光源の連続発振半導体レーザーも同じ年に開発され、実用化された。屈折率の大きいコア(シリカに酸化ゲルマニウムを加えた石英ガラス)を屈折率の小さいクラッド(無添加シリカガラス)で包み込んだもので、内部の光はクラッドで全反射されてコアを突き進む。コア自体の光損失も極めて少ないため、長距離への光の到達が可能となる。伝達する光信号はオンとオフの区別しかできないので、アナログ通信に使用することはできない。当初はコア直径50ミクロン・クラッド直径120ミクロンのもの(屈折率ステップ型多モードファイバー。波長0.85ミクロン、1.3ミクロン、1.55ミクロンの3種の光を同時に扱える)を使用していたが、反射の具合で前後のパルス信号が互いに重なってしまうことがあり、通信容量に限界があった。次いでコアの屈折率を半径方向に放物線状に分布させてパルス信号を重ならないようにした屈折率分布型多モードファイバーが開発されたが、屈折率を完全に放物線状に分布させるのが困難で、長距離通信時にはパルス信号が重なってしまうことがあった。その後、コア直径を10ミクロンに絞り、光の伝播経路を1つのみにしたシングルモードファイバーが開発され、長距離大容量通信が可能となっている。使用する光の代表は石英ガラスの第3の窓にあたる波長1.55ミクロンの近赤外線レーザーで、インジウム・ガリウム・砒素・燐半導体を発振に、PNまたはPIN半導体フォトダイオードを受光に用いる。他に波長1.46-1.53ミクロンのSバンド帯、1.53-1.565ミクロンのCバンド帯、1.565-1.625ミクロンのLバンド帯の光が使用に適する。理論限界は1kmあたり損失0.2デシベル(5%)で、既にほぼ達成されており、10000kmの距離を増幅器無しで中継できる。更にエルビウムという元素は波長1.55ミクロンまたは1.58ミクロンの光を吸収し、増幅して放出してくれるので、光増幅器としての応用が可能。波長を変えた光を一緒に送ることもでき、この波長多重通信技術(周波数分割多重ともいう)により毎秒1テラビットという大容量デジタル通信も行えるようになった。外部に信号が漏れない、電磁波やEMPにより干渉されないといった長所もあり、軍用通信の他、フライ・バイ・ライト技術などに使用されている。画像をリアルタイムで送受信でき、ワイヤーの可塑性が高いことから、射程十-数十キロメートルの対戦車ミサイル誘導ワイヤーとしても使われている。参考:月刊軍事研究9,’11、5,’08、10,’11、トコトンやさしいガラスの本
<光ファイバー曳航式デコイ>:AN/ALE-55を参照。
<光ファイバー誘導ミサイル>:FOG-Mを参照。
<光マルチメータ>:自衛隊の機器。アジレント・テクノロジー製。参考:月刊軍事研究8,’13
<光ロステストセット>:自衛隊の機器。横川電機またはアンリツ製。参考:月刊軍事研究8,’10、2,’13
<ひかりん>:新潟地本のマスコットキャラ。2018年1月7日、城下町しばた全国雑煮合戦で広報を実施。4月29日、デンカビッグスワンスタジアムで行われた新潟カナール彩で、マモルと共に広報を実施。参考:朝雲
<ピカレル>:SS-22(F級潜水艦)またはSS-177(P型潜水艦グループ3)またはSS-524(テンチ級潜水艦)を参照。
<氷川丸>:日本海軍特設病院船。元は日本郵船の貨客船で、昭和5年4月に竣工してシアトル航路に就航、昭和16年11月にはアメリカからの引き揚げ日本人輸送に使用され、帰国直後(太平洋戦争直前)に徴用されて改造を受け、特設病院船になった。一等客室特別室を病院長居室、一等客室個室を軍医居室、一等船客ラウンジを士官公室、一等喫煙室・読書室を病院事務室とし、三等食堂を手術室、三等食堂配膳室を手術準備室、船尾病室を霊安室、煙突後部を火葬設備に改造、既存の診療室は外来診療室とし、一等客室二人室を士官用病室、二等客室・食堂・喫煙室・三等客室を下士官兵用病室として使っている。全長163.3m、全幅20.1m、総トン数11621トン。主機はディーゼル2基、出力11000馬力、最大速力18.3ノット。昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は第4艦隊付属で、12月21日に連合艦隊付属に編入された。12月23日、横須賀を出港してルオットに向かった。昭和17年5月22日、横須賀に帰港。戦時中に南方戦線巡回診療を23回行い、航空攻撃3回と潜水艦による雷撃1回を受け、3回触雷したが、終戦時も健在だった。戦後は引揚輸送を行い、昭和22年1月に引揚輸送を終えると、民間船として国内航路で就航し、昭和24年(昭和28年7月?)からシアトル航路で使用され、昭和35年8月に退役した。昭和36年から横浜の山下公園特設桟橋に展示されている。平成28年3月11日、社会・経済史上における役割と、造船・工芸技術上の価値が評価され、国の重要文化財に指定(正式指定は8月17日)された。参考:敷設艦 工作艦 給油艦 病院船、月刊世界の艦船6,’16、3,’17、歴史群像8,’02、4,’17
<非干渉形フィルタ>:追尾フィルタを参照。
<非貫通型潜望鏡>:本体が耐圧船殻を貫通しない潜望鏡のこと。潜望鏡本体はセイル内部に収容されており、潜望鏡頂部に電子光学センサーが仕込まれていて、映像を光ケーブルなどで発令所に送るようになっている。潜望鏡の映像はモニターに映し出されるため、多数の人員が見ることで見落としが少なくなり、録画や拡大・画像修正も容易で、撮影諸元を事前に設定しておいて一瞬だけ潜望鏡を海面から出し、複数の電子光学センサーで全周を一気に撮影(静画の方が動画より解像度が良い)、画像は潜望鏡を引っ込めた後で数名がゆっくりチェックするといった運用も可能。画像認識ソフトを併用すればコンピュータによる見落とし防止も行える。耐圧船殻を貫通するのは動かないケーブルだけなので、耐圧船殻の強度を維持するための設計が楽になった。また、潜望鏡の位置に司令塔を設けなくても良いため、艦内配置の自由度も増した。使用実績が短く、従来型潜望鏡に比べると故障が多いのが欠点。イギリスのヴァンガード級戦略原潜が初めて装備した。参考:月刊世界の艦船2,’17、1,’14、6,’13、月刊軍事研究4,’10、9,’16、5,’01、3,’14
<非貫通式潜望鏡1型改1>:自衛隊の機器。三菱電機製。参考:月刊軍事研究3,’18
<非貫通式潜望鏡1型改センサマスト>:自衛隊の機器。三菱電機製。参考:月刊軍事研究10,’19
<非貫通式潜望鏡(試験用)その2(1)>:自衛隊の機器。三菱電機製。参考:月刊軍事研究7,’16
<非貫通式潜望鏡(試験用)その2(2)>:自衛隊の機器。三菱重工製。参考:月刊軍事研究7,’16
<引揚>:太平洋戦争終結で、ポツダム宣言第9条により軍隊の武装解除と各自家庭への復帰(復員)が規定されると共に、人道的立場から海外の一般居留民に対しても同様の措置を執ることが決まり、連合国の軍管区地域から日本人を引き揚げることになった。連合国の監督はアメリカ第8軍司令官で、日本政府は厚生省の外局に引揚援護院(後に引揚援護庁を経て引揚援護局)を設置している。昭和20年9月2日、降伏文書調印時の海外邦人はオーストラリア228680人、中国1501260人、台湾475308人、ハワイ3592人、香港19222人、南朝鮮595404人、満州1105837人、本土隣接諸島(壱岐・対馬含む)62389人、蘭印15590人、ニュージーランド797人、北部仏印32037人、太平洋諸島130906人、フィリピン132917人、沖縄69366人、東南アジア710685人、ソ連(大連、千島、樺太、北朝鮮含む)1620516人の計6618506人に上ると推定された。日本に上陸すると税関検査場で荷物検査と検診が行われ、入浴の後に新品の被服(軍民・男女の区別無く軍服を支給)、毛布、外套、靴(これらも全て軍需品)、引揚証明書などの支給交付を受け、予防接種とDDT消毒の後に帰郷した。引き揚げ船には日本海軍海防艦を含むあらゆる艦船が動員され、アメリカ海軍LSTも757回参加している。昭和20年10月、中国とフィリピンからの引揚を開始。昭和21年3月16日、連合国最高司令官が引揚に関する覚書を下命。日本人が引き揚げる地域は太平洋米陸軍最高司令官及び太平洋地区司令長官軍管区(南部朝鮮、沖縄、フィリピン、南洋諸島、太平洋諸島)、中華民国大元帥軍管区(中国、台湾、北部仏印)、東南アジア地区連合国軍最高司令官軍管区(ビルマ、タイ、南部仏印、マレー、スマトラ、ジャワ、その他蘭印諸島、蘭領ニューギニア、ティモール、小スンダ諸島、オーストラリア北諸小島)、オーストラリア軍最高司令官軍管区(ボルネオ、イギリス領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン群島)、極東ソ連軍最高司令官軍管区(満州、北部朝鮮、樺太、千島)で、日本陸海軍人の復員を第一、一般日本人の引揚を第二とし、全ての日本人は本土帰国前に武装を解除されなければならない、とされた。また、引揚業務はアメリカ第8軍司令官の直接監督下に日本政府が行うことになり、日本政府は管轄を厚生省に決定、外局として引揚援護院を置いた。5月7日、連合国軍最高司令官が引揚に関する覚書を改訂。ソ連地区からの引揚に関し、適切な協定が成立した場合に引揚を開始することとなったが、ソ連が連合国最高司令官の直接権限下に無いため米ソ交渉が必要となり、11月27日に中間協定、12月15日に最終協定が調印されて12月26日に「ソ連及びソ連管理地域からの日本人の引き揚げ並びに朝鮮人の北緯38度以北の朝鮮へ日本から引き揚げる件に関する覚書」が発出され、漸くソ連からの引揚が始まった。ただ連合軍総司令部は毎月16万人ペースを主張したが、ソ連は5万人で決定している。昭和22年12月、ソ連が引揚港凍結を理由に引揚の一時停止を勧告。連合軍総司令部は砕氷船派遣や代替港使用を打診したがソ連に拒否され、12月5日のナホトカ2123人・眞岡3676人の便を最後に一時停止された。昭和23年5月、ソ連からの引揚を再開。12月、ソ連が引揚港凍結を理由に引揚停止を通告。昭和25年4月、旧満州60312人とソ連地区311914人の計372226人を除く軍民計6249286人(うち中共地区1045525人、ソ連1308602人)の復員・引揚を終了した。4月22日、ソ連からの引揚船信濃丸が帰国。6月21日、日本赤十字社が第58回通常総会で未帰還者引揚促進決議案を可決し、連合国総司令部、赤十字国際委員会、赤十字社連盟に報告した。10月9-21日、モナコで開催された第21回赤十字社連盟理事会で日本赤十字社社長がソ連・中国の代表と会談し、未帰還者安否調査協力を要請した。昭和26年9月26日、日本赤十字社が第59回通常総会で帰還促進を決議。昭和27年5月8日、日本赤十字社が第60回通常総会で在ソ連・中共地区残留同胞引揚促進要請を決議し、赤十字国際委員会、赤十字連盟、国際連合に送付してソ連及び中共への斡旋を依頼した。7月26日から8月7日、トロントで第18回赤十字国際会議が開催され、日本の他にもドイツ、イタリア、ソ連がそれぞれの国民の引揚について促進決議案を提出する見込みだったため、議長が赤十字全体の決議案を急遽取り纏めて総会で可決した。12月1日、北京政府から中国にいる約30000人の日本人帰国に関し、日本側が輸送船の手配をすると共に、日本側代表が訪中して中国紅十字会と話し合えば、解決に応じる、との打診があったため、日本赤十字社が中国紅十字会会長に代表派遣の用意があると伝達した。12月22日、中国紅十字会が、日本赤十字社に加え、民間団体である日中友好協会と日本平和連絡会も参加した共同代表団の北京派遣を要請。昭和28年、1月31日、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の共同代表団が訪中し、2月15日から3月5日まで中国紅十字会と計4回の会議を行った。3月5日、日中が日本人居留民の帰国援助問題の協議に関するコミュニケに調印。引揚該当者は、日本国民、日本国民に同伴する外国籍の妻、日本国民たる父または母に同伴する満20歳未満の子で配偶者のないもの、もと日本の国籍を有したもの(朝鮮人、台湾人を除く)とその同伴する満20歳未満の子で配偶者のないもの、である。3月14日、中国からの第1次帰国船興安丸、高砂丸、白山丸、白竜丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて宇品、舞鶴、横浜、神戸を出港。3月23日、興安丸が引揚者2009人(うち軍人軍属507人。船中出産1人。乗船時患者71人、船中発症216人。遺骨送還70柱)を乗せて秦皇島から舞鶴に帰国。3月24日、高砂丸が引揚者1959人(うち軍人軍属260人。乗船時患者137人、船中発症67人。遺骨送還39柱)を乗せて上海から舞鶴に帰国。3月26日、白山丸が引揚者500人(うち軍人軍属50人。乗船時患者81人、船中発症3人。遺骨送還2柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。白竜丸が引揚者469人(うち軍人軍属85人。乗船時患者27人、船中発症137人。遺骨送還7柱)を乗せて天津から帰国。第1次帰国船4隻の引揚者は計4937人だった。4月7日、中国からの第2次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて門司を出港。4月8日、第2次帰国船高砂丸、白竜丸、白山丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。4月15日、第2次帰国船興安丸が引揚者1970人(うち軍人軍属476人。乗船時患者230人、船中発生89人、船中出産1人。遺骨送還78柱)を乗せて秦皇島から舞鶴に帰国。4月17日、第2次帰国船白山丸が引揚者515人(うち軍人軍属153人。乗船時患者41人、船中発生59人、船中出産1人。遺骨送還24柱)を乗せて上海から帰国。4月18日、第2次帰国船白竜丸が引揚者507人(うち軍人軍属32人。乗船時患者49人、船中発生401人、船中出産1人。遺骨送還4柱)を乗せて上海から舞鶴に帰国。4月21日、第2次帰国船高砂丸が引揚者1916人(うち軍人軍属325人。乗船時患者71人、船中発症279人。遺骨送還39柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。4月27日、中国からの第3次帰国船高砂丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。5月1日、中国からの第3次帰国船白竜丸と白山丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。5月4日、中国からの第3次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて門司を出港。5月8日、第3次帰国船高砂丸が引揚者1773人(うち軍人軍属360人。乗船時患者93人、船中発生309人。遺骨送還101柱)を乗せて秦皇島から舞鶴に帰国。5月11日、第3次帰国船白竜丸が引揚者508人(うち軍人軍属116人。乗船時患者15人、船中発生147人。遺骨送還10柱)、白山丸が引揚者514人(うち軍人軍属142人。乗船時患者109人、船中発生88人。遺骨送還17柱)を乗せて上海から舞鶴に帰国。5月15日、第3次帰国船興安丸が引揚者1920人(うち軍人軍属451人。乗船時患者335人、船中発生128人。遺骨送還39柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。6月21日、中国からの第4次帰国船白竜丸と白山丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。6月24日、中国からの第4次帰国船高砂丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて門司を出港。6月27日、中国からの第4次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表、救護班、中国への帰国希望華僑を乗せて舞鶴を出港。7月、スターリン平和賞を受賞してモスクワを訪問した大山郁夫氏が、モロトフ外相からソ連赤十字社と国際赤十字を通じた日本人戦犯釈放を伝えられた。同年にソ連がスターリン死去に伴う戦犯大赦を実施しており、それ以前に刑期を終了した者と共に帰国できる見込みが立ち、日本赤十字社がソ連赤十字社と赤十字国際委員会に連絡を取っている。7月6日、第4次帰国船白竜丸が引揚者502人(うち軍人軍属117人。乗船時患者60人、船中発生215人。船中出産1人。遺骨送還7柱)、白山丸が引揚者506人(軍人軍属160人。乗船時患者44人、船中発生69人。遺骨送還14柱)を乗せて上海から舞鶴に帰国。7月8日、第4次帰国船高砂丸が引揚者1819人(うち軍人軍属394人。乗船時患者308人、船中発生306人。船中出産2人。遺骨送還64柱)を乗せて秦皇島から舞鶴に帰国。第4次帰国船興安丸が引揚者1912人(うち軍人軍属312人。乗船時患者100人、船中発生229人。船中出産1人。遺骨送還45柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。7月23日、日本赤十字社がソ連赤十字社と赤十字国際委員会に日本人戦犯釈放に関する電報を打電。7月31日、第5次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて門司を出港。8月2日、第5次帰国船高砂丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。8月3日、第5次帰国船白山丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて横浜を出港。8月10日、第5次帰国船興安丸が引揚者1194人(うち軍人軍属165人。乗船時患者98人、船中発生194人。遺骨送還64柱)を乗せて天津から帰国。8月11日、第5次帰国船高砂丸が引揚者1509人(うち軍人軍属283人。乗船時患者242人、船中発生107人。遺骨送還38柱)、白山丸が引揚者493人(うち軍人軍属116人。乗船時患者81人、船中発生28人。遺骨送還5柱)を乗せて上海から帰国。8月20日、第6次帰国船高砂丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。8月29日、第6次帰国船白竜丸と白山丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて横浜港を出港。9月6日、第6次帰国船高砂丸が引揚者1191人(うち軍人軍属253人。乗船時患者98人、船中発生134人。船中出産1人。遺骨送還28柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。9月9日、第6次帰国船白竜丸が引揚者468人(うち軍人軍属73人。乗船時患者56人、船中発生30人。遺骨送還40柱)、白山丸が引揚者497人(うち軍人軍属95人。乗船時患者57人、船中発生82人。遺骨送還22柱)を乗せて上海から舞鶴に帰国。9月20日、モスクワの大山郁夫氏から日本赤十字社に電報があり、ソ連赤十字社が日本人戦犯の帰国問題について日本赤十字社と協力する用意があるので具体的提案をされたし、との事だったため、直ちに電報で交渉に入った。10月4日、第7次帰国船高砂丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて門司を出港。10月14日、第7次帰国船高砂丸が引揚者1495人(うち軍人軍属255人。乗船時患者172人、船中発生139人。出産2人。遺骨送還43柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。第1-7次で計26126人(日本居留民と結婚した非日本国籍者を除くと26026人)が帰国した。10月30日、新華社通信が日本人の集団帰国終了を発表。10月31日、ソ連赤十字本部で日本赤十字社とソ連赤十字社の代表が第1回会談を実施。帰国する日本人は刑期満了者22名、恩赦・最高法廷再審査による釈放戦犯398名、同釈放一般犯罪者約900名であると伝えられた。11月2日、ソ連赤十字本部で日本赤十字社とソ連赤十字社の代表が第2回会談を実施。11月12日、中国紅十字会が集団引揚を打ち切り、帰国希望者は個別対応に移行すると通告。11月14日、ソ連赤十字本部で日本赤十字社とソ連赤十字社の代表が第3回会談を実施。11月19日、ソ連赤十字本部で日本赤十字社とソ連赤十字社の代表が第4回会談を実施。「日本人捕虜及び一般人にして刑期を満了した者、赦免を受けた者、刑期満了前に釈放された者のソビエト連邦領土よりの送還に関するコミュニケ」を発表し、捕虜420人と一般人854人が即時送還、捕虜1047人が刑期満了後に順次送還されることになった。11月26日、ソ連からの第1次帰国船興安丸が舞鶴を出港。11月28日、ソ連赤十字本部で日本赤十字社とソ連赤十字社の代表が第5回会談を実施。興安丸がナホトカに接岸。12月1日、興安丸が帰国者802人(うち軍属444人。乗船時患者129人、船中発生30人。遺骨送還3柱)を乗せ舞鶴に帰港。昭和29年1月6日、日本赤十字社が赤十字社連盟を通じて北朝鮮赤十字社に対し、北朝鮮残留日本人の情報提供、交通斡旋、帰国援助を要請する書簡を伝達。1月30日、日本赤十字社がソ連抑留邦人帰国問題についてソ連赤十字社と現地交渉を行い、赤十字の国際慣行に従って安否調査を行うとソ連赤十字社が申し出たことを受け、引揚援護庁復員局が対ソ連地域安否照会実施要項案を策定、日本赤十字社に臨時安否調査部を設置してソ連と中共地区の残留邦人安否調査を行うことになった。2月9日、北朝鮮赤十字社から、在留日本人帰国希望者に対する援助を行うとの回答書が届いた。そこで残留日本人の氏名、帰国希望者数、家族との通信等の許可を連絡するよう要請したが、返答は無く、朝鮮戦争休戦協定第3条(捕虜に関する取り決め)第59項Dの、北朝鮮軍最高司令官・中国人民義勇軍司令官の軍事的支配域にある全外国籍非軍人が国連司令部総司令官の軍事的支配域に赴くことを希望する時は之を許されかつ援助される、という条文の外国籍非軍人に在留日本人を含めるよう要請したが、これにも返答は無かった。3月14日、ソ連からの第2次帰国船興安丸が残留戦犯者慰問品2300個を積んで舞鶴を出港し、ナホトカに向かった。3月20日、第2次帰国船興安丸が帰国者420人(うち軍人軍属37人。乗船時患者95人、船中発生43人。遺骨送還5柱)を乗せナホトカから舞鶴に帰港。4月10日、ソ連からの第3次帰国船興安丸が舞鶴を出港し、門司経由でナホトカに向かった。4月18日、第3次帰国船興安丸が帰国者88人(うち軍人軍属31人。乗船時患者20人、船中発生41人。遺骨送還1柱)を乗せナホトカから舞鶴に帰港。4月21日、ソ連のタス通信が送還予定の残留日本人を2467人(戦犯関係1487人、中国引き渡しの筈971人、病者9人)と発表したため、4月22日に連合軍総司令部は309070人が残っていると抗議した。8月26日、中国紅十字会から日本人戦犯417人の釈放者と一般日本人の帰国を再会する正式通知が届いた。この際、8月15日に広東省付近で海賊に襲われ人質になり中国側に保護されていた信光風丸の乗組員8人(うち2人は海賊による監禁中に死亡)も一緒に帰国することになった。8月19日、日本赤十字社が北朝鮮赤十字社に引揚の件を再度問い合わせたが、回答は無かった。9月17日、中国からの第8次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班を乗せて舞鶴を出港。9月27日、第8次帰国船興安丸が引揚者566人(うち軍人軍属12人。乗船時患者120人、船中発病126人、出産1人。遺骨送還17柱)と便乗者17人(抑留漁夫8人、第3国人など)を乗せて天津から舞鶴に帰国した。10月31日、来日した中国紅十字会代表団が、在中国日本人は8000人(うち服役戦犯関係者200人、帰国希望者2000人弱)で、年末から翌年初めに帰国できるとの見通しを発表した。11月25日、日本赤十字社が北朝鮮赤十字社に対し、中国紅十字会による引揚援助及び中国経由の帰国案を提示したが、反応は無かった。11月16日、第9次帰国船興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班、赤十字記者会会員12人、華僑13人、遺骨881柱、捧持団12人を乗せて舞鶴を出港。11月30日、第9次帰国船興安丸が引揚者604人(うち軍人軍属48人。乗船時患者19人、船中発生85人。遺骨送還47柱)と便乗者77人(ベトナムからの帰国者71人、第三国人6人)を乗せて天津から帰国。昭和30年2月12日、第10次帰国船(兼第4次在日中国人送還船)興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班、赤十字記者会加盟社新聞記者13人、華僑帰国者277人を乗せて舞鶴を出港。2月24日、第10次帰国船興安丸が引揚者949人(うち軍人軍属105人。乗船時患者105人、船中発生49人。遺骨送還64柱)を乗せて天津から舞鶴に帰国。3月16日、第11次帰国船(兼第5次在日中国人送還船)興安丸が日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班、赤十字記者会報道機関代表12人、華僑72人、遭難漁夫3人、中国人遺骨881柱、捧持団12人を乗せ舞鶴を出港。3月29日、第11次帰国船興安丸が引揚者815人(うち軍人軍属79人。乗船時患者177人、船中発生114人、船中死亡1人。遺骨送還56柱)を乗せて天津から帰国。4月、ニューデリーで開催されたアジア諸国平和会議の出席者から日本赤十字社に、北朝鮮代表が日本人の送還を計画しているとの話が寄せられたため、4月13日に日本赤十字社が北朝鮮赤十字社に確認したところ、4月18日に日本人送還に向け努力中であるとの回答があった。その直後には日本人帰国を日朝協会と日本赤十字社が共同で行うものとし、打ち合わせのため両者の代表を平壌に派遣するよう声明が発表された。7月以降、日本赤十字社と北朝鮮赤十字社が直接連絡を取れるようになり、7月6日に日本赤十字社社と厚生省引揚援護局・外務省アジア局とで話し合いがもたれ、韓国を刺激しないためと、引揚者が少数なため、日朝協会は関与させず日本赤十字社単独で引揚を行う方針とし、北朝鮮赤十字社に電報を送ったが、返答は無かった。8月4日、ソ連赤十字社から日本赤十字社に、日本人16人送還の通知が届いた。8月11日、ソ連赤十字社が送還日本人10人の追加を通知。8月28日、ソ連からの第4次帰国船である運輸省練習船北斗丸が日本赤十字社代表、救護班、赤十字記者会6人、慰問品1678個、手紙42通を積んで舞鶴を出港し、ナホトカに向かった。9月2日、ソ連からの第4次帰国船北斗丸が帰国者36人(うち軍人軍属17人。乗船時患者16人、船中発生19人。遺骨送還6柱)を乗せナホトカから舞鶴に帰港。9月6日、日本赤十字社から北朝鮮赤十字社に対し、引揚を純赤十字で行うこと、北朝鮮側の提案を十分に検討する用意があること、代表を安東に派遣する用意があることを記した書簡をジュネーブ経由で送付。9月22日に北朝鮮赤十字から返電があり、代表の平壌派遣を要望してきたが、あくまでも日朝協会の参加を主張してきたため、人道上の問題である引揚交渉に政治的な意味合いを持たせることを避ける日本赤十字社と、民間団体に対する北朝鮮への出国査証発効に難色を示す日本政府とは相容れず、日朝協会とも協議して、最終的に日朝協会役員を一旦辞職させて日本赤十字社嘱託として日本側代表団に同行させるという非常手段により解決した。11月19日、ソ連赤十字社から日本民間人25人の送還通知が届いた。12月4日、中国からの最終帰国船となる第12次帰国船(兼第6次在日中国人送還船)興安丸が、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会の代表と救護班、赤十字記者会加盟社新聞記者12人、華僑155人を乗せ舞鶴を出港。12月6日、ソ連からの第5次帰国船大成丸が日本赤十字社代表、救護班、赤十字記者会員9人、慰問品2124個、手紙191通を積んで舞鶴を出港。12月11日、ソ連からの第5次帰国船大成丸が引揚者43人(うち軍人軍属16人、一般邦人26人、第三国人1人。乗船時患者13人、船中発生18人。遺骨送還1柱)を乗せ、ナホトカから舞鶴に帰港。12月12日、日ソ共同宣言発効により、第12次以降のソ連からの帰国船業務は日本政府が実施することになった。12月18日、第12次帰国船興安丸が引揚者153人(うち軍人軍属10人)、一時帰国者24人、中国籍人47人、元日本国籍人19人、無国籍10人、不法入国者27人、送還遺骨44柱を乗せて天津から帰国。第1-12次で引揚者計29233人(うち軍人軍属5434人。船中出産14人、船中死亡1人)、その他219人(里帰り24人、第三国人116人、抑留漁夫8人、ベトナム引揚者71人など)、遺骨1028柱を日本に輸送した。昭和31年1月20日、北朝鮮引揚に関する日本側代表団が中国に出国。1月27日、北朝鮮引揚に関する日本側代表団が平壌に到着。1月31日、ソ連赤十字社から日本人10人帰国見込みの通知が届いた。2月28日、北朝鮮引揚に関する日朝赤十字共同コミュニケを発表。3月1日、ソ連からの第6次帰国船大成丸が日本赤十字社代表、救護班、慰問品5790個、手紙152通を積んで舞鶴を出港。3月6日、ソ連からの第6次帰国船大成丸が引揚者19人(うち軍人軍属2人、一般邦人15人、第三国人2人。乗船時患者9人、船中発生7人)を乗せナホトカから舞鶴に帰港。4月、日本赤十字社と北朝鮮赤十字会が帰還協定を締結。4月22日、赤十字船こじまが北朝鮮からの引揚者36人を乗せて舞鶴に入港。6月10日、帰国船北斗丸がソ連からの第7次帰国者62人を乗せて舞鶴に入港。7月3日、引揚船興安丸が中国からの第13次引揚者335人と遺骨8柱を乗せ舞鶴港に入港。8月1日、引揚船興安丸が中国からの第14次引揚者(釈放戦犯329人、帰国希望一般邦人203人)と一時帰国希望在中国日本婦人78名を乗せて舞鶴に帰港。8月19日、引揚船興安丸がソ連からの第8次帰国者115人を乗せて舞鶴に入港。9月2日、引揚船興安丸が中国からの第15次引揚者(釈放戦犯354人、一般邦人79人)、一時帰国希望在中国日本婦人137人、遺骨57柱を乗せ舞鶴港に入港。10月16日、帰国船進徳丸がソ連からの第9次帰国者47人を乗せて舞鶴に入港。12月5日、帰国船こじまがソ連からの第10次帰国者22人を乗せて舞鶴に入港。12月12日、日ソ共同宣言が発効し、以降のソ連からの引揚は赤十字でなく政府間直接交渉で行われることになり、同月中に1025人が帰国した。昭和32年5月24日、引揚船興安丸が中国からの第16次引揚者(釈放戦犯6人、一般帰国者123人)、一時帰国希望在中国日本婦人867人、遺骨16柱を乗せ舞鶴に入港。8月、ソ連から219人が引き揚げた。10月、ソ連から317人が引き揚げた。12月、ソ連から546人が引き揚げた。昭和33年1月、ソ連から549人が引き揚げた。4月24日、引揚船白山丸が第17次引揚者430人と遺骨2312柱を乗せ舞鶴港に入港。5月、中国から第18次引揚者423人と第19次引揚者464人が帰国。6月、中国から第20次引揚者554人が帰国。7月13日、引揚船白山丸が中国からの第21次引揚者579人を乗せ舞鶴港に入港。以降の中国からの日本人帰国は個別に実施することとなった。8月、ソ連から472人が引き揚げた。12月21-17日、日本赤十字社、日本平和委員会、日本ベトナム友好協会代表、ベトナム民主共和国紅十字会、ベトナム世界平和擁護委員会代表が、ハノイで日本人引揚に関する協議を実施。昭和34年3月、ソ連から172人が引き揚げた。3月24日、引揚船夕張丸が北ベトナムからの第1次引揚者9人(元日本陸軍軍人。うち1人が帰国直前に船室で自殺)を乗せ門司に入港。8月11日、引揚船興安丸が北ベトナムからの第2次引揚者32人(うち軍人10人、現地妻7人、子ども15人)を乗せ東京港に入港。9月、ソ連からの最終帰国船が帰国し、72人が引き揚げた。昭和35年4月27日、引揚船日昌丸が北ベトナムからの第3次帰国者69人(うち軍人・軍属12人、現地妻・子どもら47人)を乗せ門司港に帰港。昭和36年、韓国から64人が引き揚げた。6月30日、引揚船上海丸が北ベトナムからの第4次帰国者5人(1家族)を乗せ若松港に入港し、北ベトナムからの引揚を終了した。昭和37年、韓国から448人が引き揚げた。昭和38年、韓国から181人が引き揚げた。昭和39年、韓国から273人が引き揚げた。8月、韓国赤十字社の協力で在韓日本婦人55人が集団里帰りした。昭和40年、韓国から172人が引き揚げた。昭和46年、北朝鮮からの引揚を完了。樺太と千島から引き揚げてきた一般人は277500人で、終戦直後、昭和21年12月から昭和24年7月、昭和32年8月から昭和34年2月の3度に分けて引揚が実施された。佐世保引揚援護局の受け入れ数は1396468名だが、傷病者も多く、3793名が故郷に帰る前に死亡している。博多引揚援護局の受け入れ数は1392429名。舞鶴引揚援護局の受け入れ数は664531名。海外復員者や引き揚げ者の多くは青壮年の男子であり、帰国後にも生殖本能を発揮しまくったため、昭和20-24年は梅毒が大流行(把握できただけで人口の0.24%が罹患)してしまった。参考:日本赤十字社社史稿第6巻、第7巻、人道・博愛-百年のあゆみ、月刊世界の艦船4,’10、3,’12、月刊丸6,’14、続海軍よもやま物語
<引揚船撃沈事件>:昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾後もソ連軍の侵攻は続き、樺太にも侵入してきたため、現地の民間日本人は北海道に脱出すべく南へと退避した。8月17日、逓信省の電纜敷設船小笠原丸が豊原逓信局の要請により樺太からの緊急引揚を実施するため、稚内を出港。その日のうちに大泊に入港し、引揚者1500人を乗せて夜半に出港、8月19日に稚内に帰投した。引揚者を降ろした後、8月20日0700に再び出港し、1700に大泊に入港して引揚者1514人を収容。当初は8月22日に出港する予定だったが、真岡(ホルムスク)にソ連軍が上陸したとの情報を受け、8月20日2345に緊急出港した。8月21日0900、海軍特設砲艦兼敷設艦第二号新興丸が引揚者3548人と乗員164人を乗せて大泊を出港、稚内に向かったが、稚内港の混乱が激しいとのことで小樽に向かった。1100、小笠原丸が稚内に入港。引揚者のうち872人を降ろして6人を乗せ、乗員60人と共に石炭補給のため小樽に向かい、その後秋田県の船川港に帰還することになった。1600、小笠原丸が稚内を出港。1630、東亜海運2E型戦時標準船泰東丸が乗員及び引揚者780人を乗せて大泊を出港し、小樽に向かった。8月22日0422、小笠原丸が増毛沖でソ連潜水艦の雷撃を受けて右舷機械室に魚雷が命中、30秒で沈没した。この様子は留萌防空監視所で目撃されており、撃沈後には潜水艦が浮上して海面上を漂う生存者に機銃掃射を行い、乗客乗員743人(640人?)が死亡、生存者62人が増毛海岸に漂着した。0510、第二号新興丸が留萌北北西18海里で雷撃を受け、右舷後部第2船倉に魚雷が命中。更に潜水艦2-3隻が浮上し、機銃掃射を加えてきたため、搭載する12サンチ砲と25ミリ機銃で反撃し、1隻を損傷させて撃退、5ノットで航行を続け、0900に留萌にたどり着いた。船内では229人の遺体が残されており、船外に流出した者も含めると400人が死亡したとされる。1000(0500?)、泰東丸が留萌沖にさしかかった時、船尾に潜水艦が浮上した。このため、泰東丸は白旗を掲げたが、潜水艦は無視して砲雷撃を加え、泰東丸は数分で沈没、667人が死亡し、生存者113人は通りがかりの敷設艦石埼や特設敷設艦高栄丸などに救助されている。当時、周辺には8月22日に予定していた留萌上陸作戦に備えてソ連潜水艦が遊弋しており、南樺太侵攻のためL12やL19など9隻、日本海にL14、L17、SHCH102、SHCH104、SHCH122、SHCH123、SHCH126、SHCH127、SHCH134、SHCH135の10隻、樺太西岸にSHCH117、SHCH119の2隻が展開していたとされ、いずれかにより無差別攻撃を受けた可能性が高く、ソ連潜水艦から艦隊司令部に宛てた攻撃報告も現存しているという。他にも8月20日に東春丸が室蘭沖で潜水艦の雷撃を受け沈没、8月22日に能登呂丸が宗谷岬沖でソ連空軍爆撃機2機の雷撃を受け沈没している。参考:月刊丸12,’92、輸送船入門
<ビキール>:9A4172(対戦車ミサイル)を参照。
<引き金>:trigger。日本陸軍では引鉄と書く。撃発のために撃鉄・逆鈎などの固定を解く部品。参考:火器弾薬技術ハンドブック、新兵サンよもやま物語
<引き金枠>:トリガー・ハウジングを参照。
<引き込み脚>:Retracting landing gear。飛行中に降着装置を出したままだと抗力が非常に大きくなるので(全抗力の25%を占めたりする)、引き込めるようにしたもの。車輪と機体を繋ぐ脚柱が取り付け部のピンで垂直力を担当し、脚柱と機体を繋ぐ斜め支柱が水平方向の力を受け持つ。斜め支柱に中央ヒンジを設けて折り畳むタイプが主流で、脚柱に中央ヒンジを設けたタイプ、脚柱と機体を繋ぐ部分がスライドするタイプ、斜め支柱をピストンにして引き込むタイプもある。引き込み機構は油圧や電動モーターで作動させるが、故障した場合には手動や自重で出せるようにフェイルセーフ機構を組み込んでおく。参考:航空用語事典増補改訂版
<ピキュダ>:SS-382(潜水艦)を参照。
<比距離>:航続率を参照。
<引渡式(海上自衛隊)>:艦船が竣工して完成検査を終え、海上自衛隊に引き渡される際に実施される。岸壁には紅白幕を張った式台が用意され、舷梯にも紅白幕が張られ、舷門まで赤絨毯が敷かれる。会社や防衛省の関係者、艦長以下乗員、音楽隊、儀仗隊が並び、防衛省代表到着、儀仗隊巡閲、国歌斉唱、引渡書(会社から防衛省へ)・受領書(防衛省から会社へ)授与、社旗(マストに掲揚されている)降下と進行する。終了後、引き続いて自衛艦旗授与式が行われる。参考:月刊世界の艦船8,’11増刊
<ヒギンズ>:DDG-76(駆逐艦)を参照。
<ピクア級>:ガピーⅢ級潜水艦(ベネズエラ海軍)を参照。
<ビクスン>:イギリス陸軍4×4輪車両。ディフェンダーに複合材製ボディを搭載したスナッチを改良したもので、車体下部に装甲を追加、エンジンを300Tdiに換装し、ランフラットタイヤ、IEDジャマー、サーチライトを装備した。参考:月刊軍事研究9,’09
<ピクセル・パターン>:デジタル迷彩を参照。
<ビクセン>:DH.110戦闘機(イギリス空軍)またはR64(駆逐艦)を参照。
<ビクトリア>:PC-16(高速艇)を参照。
<ビクトリア>:コロンビア海軍哨戒艦。2023年9月8日、カルタヘナ周辺海域で日米コロンビア親善訓練に参加。AS365ヘリと共に、TV-3508かしま、TV-3520はたかぜ、LCS-7デトロイトと、戦術運動、PHOTOEX、クロスデッキの各訓練を行った。参考:月刊世界の艦船9,’23
<ビクトリア・クロス勲章>:イギリス最高の戦功勲章Victria Cross、別名ビクトリア十字章。クリミア戦争の戦功を称えるため1856年に制定され、戦闘で極めて著しい勇気、自己犠牲、任務への献身を示した者に授与される。対象はイギリスまたはイギリス連邦諸国の軍人軍属だが、オーストラリアは1991年、カナダは1993年、ニュージーランドは1999年に独自のVictoria Cross for Australia、Victoria Cross (Canada)、Victoria Cross for
New Zealandをそれぞれ制定した。メダルはクリミア戦争においてセバストポリで鹵獲したロシア軍大砲を溶かして作っているらしい。授与者は姓名の後にVCという略号が付けられて栄誉を顕される。第二次大戦で受章したのは181名(うち1名は二度受賞)で、90名が生存中の受章。内訳はイギリス空軍22名(23名?うち生存中の受章は7名)、イギリス陸軍61名、イギリス海軍23名、インド陸軍30名、オーストラリア空軍2名、オーストラリア陸軍17名、カナダ空軍2名、カナダ陸軍10名、カナダ海軍1名、ニュージーランド空軍2名、ニュージーランド陸軍5名(二度受章1名)、南アフリカ空軍1名、南アフリカ陸軍2名、ケニア陸軍1名、フィジー陸軍1名である。朝鮮戦争で4名、ベトナム戦争で4名(オーストラリア軍人)、フォークランド紛争で2名、アフガン作戦で2名、イラク戦争で1名が受章している。2014年9月までの受章者は1354名。参考:月刊軍事研究12,’13、1,’15、月刊JWings12,’12
<ビクトリー級>:シンガポール海軍コルベット。西ドイツのラーセン62m級を導入したものである。兵装はハープーン艦対艦ミサイル発射筒8基、対潜魚雷3連装発射管2基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ビクトリー・モデル>:スミス&ウェッソン社製.38ミリタリー&ポリス回転式拳銃の戦時型。第2次大戦時にパイロットが自衛用として携帯した。参考:米英軍戦闘兵器カタログVol.1
<ヒグビー>:DD-806(駆逐艦)を参照。
<ピグミィ>:ジープ(アメリカ陸軍)を参照。
<ピクリン酸>:1885年、フランスのチルパンが炸薬として使用できることを発見した。日本は1888年(明治21年)に海軍が下瀬火薬と命名して採用、陸軍も日清戦争後に黄色薬と命名して使用している。参考:大砲入門
<ピクルス王子>:自衛隊のマスコットキャラクターで、パプリカ王国王子。現在、防衛力の何たるかを学ぶために自衛隊に1年間留学中、という設定。15世紀前半相当と思われる国から来ているが、1年足らずで三自衛隊の訓練を一通りこなした上、PKOにも派遣され、ブルーインパルスに乗って展示飛行まで行うという超人的活躍(?)をしている。留学から帰ったら隣国を視察中に一目惚れしたパセリちゃんと結婚予定。ちなみに関連キャラの名前が全て野菜系なのは、メインディッシュの引き立て役となる野菜に、国民を引き立てる存在である自衛隊をなぞらえているのと、食べず嫌いにならず関心を持って欲しいということからである。参考:ピクルス王子平和への旅、ピクルス王子の自衛隊日記、ピクルス王子の自衛隊日記2、MAMOR vol.99
<ピクルス王子とパセリちゃんの市ヶ谷台探検ツアー>:防衛省/自衛隊が子ども霞が関見学デーの一環として行っている、小中学生と保護者を対象とした防衛省見学ツアー。2015年は7月29-30日に実施され、230人が手旗信号体験、UH-1多用途ヘリ見学、特別儀仗隊(第302保安警務中隊)訓練見学、防衛副大臣との記念撮影などを行った。2016年は7月27-28日に実施され、120人がUH-1多用途ヘリ見学、特別儀仗隊訓練見学、手旗信号体験、中谷防衛大臣との懇談などを行った。2017年は8月2-3日に実施され、100人が市ヶ谷記念館見学、UH-1多用途ヘリ見学、特別儀仗隊訓練見学、手旗信号体験などを行った。参考:朝雲
<ビグン>:韓国海兵隊の装輪式自走ロケットランチャー。KM500トラックに70mmロケット弾18連装ランチャーとFCSを積んでいる。ハイドラ70ロケット弾やK-LOGIR誘導ロケット弾を使用可能で、北朝鮮軍揚陸艇や水陸両用車両を撃破するのが主任務である。参考:月刊軍事研究3,’18
<ピケット艦>:レーダー・ピケット艦を参照。
<ヒゲロク>:VQ-1(偵察飛行隊)を参照。
<ビゲン>:サーブ37シリーズ(戦闘機)を参照。
<被牽引式成形機>:日本陸軍の機力器材。要するにグレーダーである。重量4トン。参考:工兵入門
<飛虎>:K30(自走対空機関砲)を参照。
<飛虎2>:韓国のハンファ・ディフェンス社が開発している車載ターレットBiho
2。XバンドAESAレーダー、SバンドAESAレーダー、電子光学センサー、30mm/40mm機関砲、地対空/対戦車ミサイルを統合しており、8×8輪車両や装軌車両に搭載できる。XバンドAESAレーダーは探知距離35km(RCS2平方メートル)・同時追尾目標数40、SバンドAESAレーダーは探知距離15km(RCS1平方メートル)・同時追尾目標数10。機関砲の弾種は徹甲弾、榴弾、空中炸裂弾ABMで、最大射程3000m、最大発射速度毎分600発(30mm機関砲)/200発(40mm機関砲)。ミサイルは最大8発搭載でき、地対空ミサイルは射程6000m/12500m/25000mの3種類、対戦車ミサイルは射程3000mの1種類が用意されている。アメリカ陸軍やオーストラリア陸軍に提案予定。参考:月刊軍事研究5,’19
<微光暗視装置>:光増幅式パッシブ暗視装置のことで、星の光でも見えるということからスターライトスコープとも呼ばれる。1960年代前半から1970年代初めにかけて実用化された。夜間の微弱な光を増幅して画像に変換する。可視光を利用するため、気象に左右されるという欠点があり、完全な暗闇では使用できない。参考:月刊軍事研究8,’01、歴史群像10,’08、陸上自衛隊地上戦力の全容
<第1世代>:外光を光電極に当てて電子を放出させ、収束コイルで電子を加速し、蛍光面状に焦点を結ばせて電子のエネルギーに応じて発光させる光増幅管を使用する。増幅率は概ね2000倍で、100m先を見渡せる。直列に重ねる(多管形光増倍管)と80000倍くらいの増幅も可能で、更に遠くを見渡せるが、画質が低下したり、残像が残ったりするため、主に操縦手用視察装置として使用された。参考:月刊軍事研究8,’01、歴史群像10,’08
<第2世代>:1960年代末に開発された。光増幅管蛍光面の後ろにコーティングを施した細いガラスチューブ(マイクロチャンネルプレート)を多数並べたチャンネル・チューブと呼ばれる増幅管を使用しており、マイクロチャンネルプレートに電圧をかけることで電子を加速し、映像を増強する。マイクロチャンネルプレートは非常に薄いので、軽量小型化が可能。有効視認距離は星明かりで1500m、月明かりで2700mに達し、操縦手用ペリスコープに加え、歩兵戦闘車用夜間戦闘照準装置にも導入された。しかし高速の動目標は画像が乱れるため、主力戦車の照準器としては採用されていない。参考:月刊軍事研究8,’01、歴史群像10,’08
<第3世代>:1980年代に登場した。チャンネル・チューブにガリウム砒素製光電陰極を重ねたもので、有効視認距離が25%増加し、解像度も強化されている。参考:月刊軍事研究8,’01
<飛行安全幹部課程>:自衛隊の教育課程、略称FSOC。三自衛隊の学生に対し、飛行運用幹部・操縦幹部として飛行安全と航空事故調査に必要な知識を教育するものである。年2回実施され、座学、企業研修、日航ジャンボ機墜落現場の御巣鷹山への現地訓練など7週間280時間の教育を行う。修了すると部隊に戻って安全幕僚となり、指揮官を補佐する。航空安全管理隊で実施される。2015年1月16日、第150期が入校した。8月28日、第151期15名が入校した。2016年1月21日、第152期12名が入校した。参考:朝雲
<飛行安全特別講習>:自衛隊の教育課程、略称FSSC。部隊配置前のパイロットらに飛行安全に関する基礎的事項や航空事故防止の重要性を教育するもので、航空安全管理隊が2012年から行っている。参考:朝雲
<飛行科(海上自衛隊)>:海上自衛隊の科の1つ。艦載ヘリの運用整備が主任務である。トップは飛行長と整備長。飛行長は機長出身者で、艦長に航空運用を助言し、着艦信号士官LSOを務める。飛行士もヘリの操縦経験を持ち、飛行長を補佐する。ヘリ自体の乗員は航空集団(陸上航空基地に配備される飛行隊)に所属しており、艦載された時は臨時乗組員という扱いで、飛行長の下につく。整備長と整備員(航空武器整備員、航空電子整備員、航空機体整備員、航空電機計器整備員、航空発動機整備員)は機体などの点検整備、飛行甲板安全確認、燃料搭載、事故の際の救助などを行う。自衛艦では第5分隊になる。参考:月刊JWings5,’13、月刊世界の艦船8,’11増刊、MAMOR vol.148
<飛行科(日本海軍)>:空母では敵主力艦を雷撃で沈められる艦攻隊が最も大規模である。次に多いのが艦爆隊。参考:月刊丸9,’03
<飛行開発実験団>:航空自衛隊の航空機研究開発・試験評価部門。英略称はADTW、通称は飛実団。航空開発実験集団隷下で、飛行実験群、整備群、誘導武器開発実験隊、電子戦技術隊、飛行場勤務隊からなり、岐阜基地に置かれている。航空自衛隊開発業務のうち装備化段階と運用段階を、研究業務のうち実用試験、試験的運用、運用試験、技術的追認、技術改善を担当し、航空機や航空装備品(ミサイルなど)に関する各種試験の他、テストパイロットや技術幹部の教育訓練(試験飛行操縦士課程、技術幹部課程)も行う。試験機にはマンボのコールサインが付き、F-2戦闘機がマンボ・シリウス、F-4戦闘機がマンボ・グレイ、F-15戦闘機がマンボ・バイキングなどと呼ばれる。部隊マークは衝撃波と衛星軌道をシンボル化したもので、モットーは「空の勝利は技術にあり」。1989年3月16日に航空実験団から改編されて創設され、航空開発実験集団の隷下に入った。1989-91年、技術研究本部が行ったXASM-2空対艦ミサイル実用試験にF-4EJ改戦闘機で協力。1989年5月から1990年2月、ペトリオット地対空ミサイルの実用試験を実施。1989年8月から1990年2月、AAM-3空対空ミサイルの実用試験を実施。
1990年3月、隷下に電子戦技術隊が新編された。6月26日、UF-104J無人標的機が配備された。7-12月、UF-104J無人標的機の実用試験を実施。10月、GCS-1誘導爆弾の実用試験を終えた。1991-1996年、F-4EJ改戦闘機でGCS-1誘導爆弾用誘導装置のモニタリングテストを実施。1991年2月28日、UH-60J救難ヘリが配備され、7月まで実用試験を行った。1992年3月30日、RF-4EJ偵察機(F-4EJ戦闘機からの改修)が配備され、4-11月に実用試験を実施した。1992年4月から1993年3月、J/ALQ-7スタンドオフ・ジャマー搭載YS-11EA電子戦訓練機の実用試験と技術試験協力を実施。1992年6-12月、ASM-2空対艦ミサイルの実用試験を実施。1992年12月18日、U-125飛行点検機が配備され、1993年3月まで実用試験を行った。1993-2005年、F-4EJ改戦闘機でAAM-3空対空ミサイルのモニタリングテスト(品質確認試験)を実施。1993年5-11日、T-4練習機トラベルポッド装着形態に関する技術資料収集を実施。1994年、ASM-1空対艦ミサイルのモニタリングテストを終了。1994年2月16日、T-400練習機が配備され、5月まで実用試験を実施。1995年2月28日、U-125A救難捜索機が配備され、6月まで実用試験を行った。1995年8月から1997年8月、水上自走標的の実用試験と技術試験協力を実施。1996-2019年、F-4EJ改戦闘機でASM-2空対艦ミサイルのモニタリングテストを実施。1996年3月から2000年7月、F-2戦闘機の実用試験を実施。1996年5月から1997年2月、PAC-2地対空ミサイルの試験運用を実施。1997年2月24日から4月21日、U-4多用途支援機の実用試験を実施。1998-2001年、F-4EJ/EJ改戦闘機で多用途小型無人機の飛行試験を実施。1998年3月25日、E-767早期警戒管制機が早期警戒管制機運用試験隊に配備され、12月まで60ソーティをこなして実用試験を終了した。1998年4月から1999年3月、AAM-4空対空ミサイルの実用試験を実施。標的母機をF-4EJ改戦闘機が務めている。
2001年3月、AIM-120空対空ミサイルの母機適合性確認試験を実施。2002年5月から2004年7月、F-2戦闘機搭載用外装型FLIR装置の実用試験と技術試験協力を実施。2002年9月から2003年1月、T-7練習機の実用試験を実施。2003年5月から2004年3月、AAM-5空対空ミサイルの実用試験を実施。2003年8月から2004年7月、PAC-2コンフィグレーション2地対空ミサイルの試験運用を実施。2006年、10万時間無事故飛行を達成。2007年4月から2009年3月、ペトリオットPAC-3地対空ミサイルの試験運用を実施。2007年4月23日、T-3練習機のラストフライトを実施。2007年10月から2009年3月、AAM-4B空対空ミサイルの実用試験を実施。標的母機をF-4EJ改戦闘機が務めている。2008年2月から2009年2月、KC-767空中給油輸送機の実用試験を実施。2008年5月から2012年2月、無人機研究システムの実用試験と技術試験協力を実施。2008年11月から2010年3月、EC-1電子戦訓練機搭載用J/ALQ-5能力向上型の実用試験と技術試験協力を実施。2008年12月から2010年7月、戦闘機搭載用IRST装置(F-15用)の実用試験を実施。2009年2月から2010年3月、基地防空用地対空誘導弾の実用試験を実施。2009年3月13日、第62期試験飛行操縦士課程卒業式を実施。学生5名が修了証書を授与された。
2010年3月から2011年6月、C-2輸送機の実用試験を実施。3月9日までUH-60J救難ヘリの空中給油飛行試験を実施。時速200kmで飛行してアメリカ空軍HC-130空中給油機からの受油テストを10回ほど行った。3月19日、試験飛行操縦士課程創設40周年記念行事を実施。4月26日、岐阜基地でF-2戦闘機のエンジンを始動させたところ、脚が引き込まれてしまった。原因は脚ハンドルが脚下げ位置でなく中間位置に停止していたため、脚上げ信号が発信されてしまったことによる。2010年5月から2011年6月、C-130H輸送機の空中給油・受油機能付加に伴う実用試験を実施。2010年5月から2011年9月、空対空用小型標的の実用試験と技術試験協力を実施。2010年10月から2011年1月、基地防空用地対空誘導弾の試験運用を実施。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。3月18日1607、C-1輸送機で岐阜から花巻空港へ救援物資を輸送。3月19日1135、C-1輸送機で花巻に救援物資を輸送。3月20日0903、C-1輸送機が花巻に救援物資を輸送。3月21日0944、C-1輸送機で花巻に救援物資を輸送。3月23日0958、C-1輸送機で松島に救援物資を輸送。3月24日0802、C-1輸送機で岐阜から花巻まで救援物資を輸送。3月31日1256、C-1輸送機で救援物資を松島に輸送。4月1日1115、C-1輸送機で千歳から松島に救援物資を空輸。2011年4月から2013年3月、BMDシステム総合検証を実施。2012年2月9日1150頃、F-4戦闘機が三菱重工での整備のため小牧基地への移動中に電気系統の異常を起こし、名古屋空港に緊急着陸した。2013年1月8日、飛行はじめを実施。2013年6月から2014年7月、JDCS(F)の技術・実用試験を実施。2013年8月から2016年3月、戦闘機搭載型電子防御装置の実用試験と技術試験協力を実施。2015年1月6日、T-4練習機2機で初飛行訓練を実施。2015年9月から2016年6月、AAM-5改空対空ミサイルの実用試験を実施。2015年11月11日、初飛行を行ったMRJの随伴機としてT-4練習機1機が随伴飛行した。12月5日、創設60周年記念式典を実施。2016年1月5日、初飛行訓練を実施。4月22日、初飛行したX-2試験機にF-15DJ戦闘機とF-2A戦闘機で随伴した。5月18日、2回目の飛行試験を行ったX-2試験機にF-2A戦闘機とT-4練習機で随伴した。6月30日、C-2輸送機量産初号機が配備された。9月20-23日、カリフォルニア州アナハイムで開催されたテストパイロット協会年次総会に3等空佐2名が出席し、XC-2試作輸送機の飛行試験における新しい試験方法の取り組みについてという題の発表を行い、空自隊員として初めて(アジアでも初めて)部門賞を獲得した。2017年4-8月、ASM-3空対艦ミサイルの実用試験を実施。2018年1月9日、岐阜基地で年頭訓示と飛行はじめを実施。第2補給処と自衛隊岐阜病院も列席し、F-4EJ戦闘機で年初飛行を行った。5月22日、岐阜基地でF-2B戦闘機、F-15J戦闘機、F-4EJ戦闘機、T-4練習機による慰霊飛行(ミッシングマン・フォーメーション)を実施。F-4EJ戦闘機が急上昇して弔意を表した。6月7日、岐阜県長良川競技場で開催された第18回アジアジュニア陸上競技選手権大会開会式でF-2B戦闘機1機、F-4EJ戦闘機2機、F-15戦闘機1機による歓迎飛行を行った。9月26日、大阪府立大学航空宇宙工学課程学生ら27人の岐阜基地研修に協力し、各種試作機の見学を行った。2019年5月から2020年9月、F-4EJ戦闘機に機上集塵器2型を装着して定期集塵飛行を実施。2019年5月22日、岐阜基地でF-2A戦闘機、F-4EJ戦闘機、F-4EJ改戦闘機、F-15J戦闘機1機ずつによる慰霊飛行を実施。7月28日、愛知県蒲郡市で行われた蒲郡まつりに参加し、F-15戦闘機で航過飛行を実施した。
2020年7月1日、隊員自主募集の功績で、丸茂空幕長から第5級賞状を授与された。2021年2月22日、C-2輸送機で模擬片発離陸(Simulated Single Engine take-off)試験を実施。3月17日、0858-0930、F-4EJ戦闘機2機とF-4EJ改戦闘機1機のラストフライトを実施。F-4EJ戦闘機初号機301機と336号機が編隊離陸した後、F-4EJ改戦闘機初号機431号機が単機で離陸し、模擬対地攻撃3回、デルタ隊形編隊航過、エシュロン隊形ピッチアウトを行い、F-4EJ戦闘機301号機、336号機、F-4EJ改戦闘機431号機の順に着陸、第2補給処消防車の放水アーチに迎えられた。夕方、F-4EJ/EJ改戦闘機運用終了記念式典を実施。11月28日、福井県防衛協会が主催して福井県産業会館駐車場で行われた陸海空自市中パレードに参加し、C-1FTB試験機、F-2B戦闘機、F-15DJ戦闘機の航過飛行を行った。2022年4月4日から4月25日、F-2A/B戦闘機が小牧基地に飛来したオーストラリア空軍第33飛行隊KC-30A空中給油輸送機と日豪空中給油適合性確認試験を実施。4月4日、初の空中給油適合性試験を行い、F-2A戦闘機2機がKC-30A空中給油輸送機から空中給油を受けた。4月8日、AAM-3空対空ミサイル2発とASM-2空対艦ミサイル4発を搭載してのKC-30A空中給油輸送機との空中給油適合性試験に入った。4月11日、通算4回目の空中給油適合性試験を実施。F-2A戦闘機がAAM-3空対空ミサイル2発、ASM-2空対艦ミサイル4発、増槽2本を搭載してKC-30A空中給油輸送機から空中給油を受けた。4月25日、最終となる通算9回目の空中給油適合性試験を実施。F-2戦闘機がKC-30A空中給油輸送機から夜間空中給油を受けた。5月18日、F-2A戦闘機1機、F-15J戦闘機1機、T-4練習機2機が岐阜基地で慰霊飛行を実施。F-15Jが急上昇して弔意を示した。2023年1月5日、飛行初めを実施。3月10日、令和4年度体力測定Ⅰ練度向上の部2位の功績で、空幕長から表彰を伝達された。4月3-25日、日豪空中給油適合性確認試験に参加。F-15J戦闘機2機とF-15DJ戦闘機2機が、オーストラリア空軍KC-30A空中給油輸送機1機と、日本海上及び太平洋上で、空中給油適合性確認試験を行った。6月12日、グリーンファイター・プロジェクトの名称でF-15J戦闘機とF-2B戦闘機をSAFで飛行させるテストを行い、飛行性能に問題が無いことを確認した。2024年1月9日、F-2B戦闘機、T-4練習機、F-15J/DJ戦闘機、C-2輸送機1機ずつで飛行はじめを実施。5月17日、F-15DJ戦闘機1機、T-4練習機2機、F-2A戦闘機1機で慰霊飛行を実施。F-2A戦闘機が岐阜基地上空で急上昇し、弔意を示した。参考:月刊JWings10,’05、6,’11、4,’12、3,’13、7,’13、3,’15、2,’16、3,’16、3,’18、8,’18、9,’18、9,’19、10,’19、2,'21、6,'21、2,'22、7,'22、9,'22、3,'23、5,'23、9,'23、8,'24、月刊航空ファン2,’16、8’10、6,’11、5,’13、1,’15、8,’16、MAMOR vol.52、朝雲、月刊軍事研究2,’13、9,’16
<飛行開発実験団(1995年)>:航空開発実験集団隷下で、岐阜基地に置かれている。参考:月刊JWings7,’24
<飛行開発実験団(2005年)>:航空開発実験集団隷下で、岐阜基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、F-2A/B戦闘機、F-4EJ/EJ改戦闘機、T-1B練習機、T-2練習機、T-3練習機、T-4練習機、C-1輸送機、C-1FTB試験機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行開発実験団(2015年)>:隊員数670名。航空開発実験集団隷下で、司令部は岐阜基地に置かれている。トップは団司令で、その下に副司令がおり、飛行実験群(群本部、飛行隊、航空機技術隊、計測隊)、整備群(群本部、整備隊、装備隊、修理隊、整備技術隊)、誘導武器開発実験隊、電子戦技術隊、飛行場勤務隊からなる。参考:月刊航空ファン2,’16、月刊軍事研究8,'15、航空自衛隊パーフェクトガイド2015
<飛行開発実験団(2019年)>:航空開発実験集団隷下で、司令部は岐阜基地に置かれている。トップは団司令で、その下に副司令がおり、飛行実験群(群本部、飛行隊、航空機技術隊、計測隊)、整備群(群本部、整備隊、装備隊、修理隊、整備技術隊)、誘導武器開発実験隊、電子戦技術隊、飛行場勤務隊からなる。飛行実験群飛行隊は飛行班、教育班、総括班からなり、飛行班は企画フライト、Aフライト(F-15戦闘機)、Bフライト(F-2戦闘機)、Cフライト(大型機担当)で構成される。整備群整備隊は第1分隊(F-15戦闘機、T-4練習機、T-7練習機)、第2分隊(F-4戦闘機、T-4練習機)、第3分隊(F-2戦闘機、T-4練習機)からなる。参考:月刊JWings1,’20
<飛行開発実験団(2020年)>:航空開発実験集団隷下で、岐阜基地にある。F-15J/DJ戦闘機、F-2A/B戦闘機、F-4EJ/EJ改戦闘機、C-2輸送機、C-2ELINT機、C-1輸送機、C-1FTB試験機、T-4練習機、T-7練習機を装備する。参考:月刊JWings6,’20
<飛行甲板>:フライト・デッキ(Flight Deck)。航空機の発着艦・艦上運用に使用される甲板のこと。ヘリコプターの場合はヘリ甲板ともいう。発着艦に必要なカタパルト、スキー・ジャンプ台、アレスティング・ワイヤ、クラッシュ・バリア、ジェット・ブラスト・デフレクター、航空機を露天繋止するための繋止金物などの各種装備や、格納庫や弾庫から航空機や兵装を搬入する航空機用・弾薬用エレベーターなどが備わっている。航空基地の滑走路、タキシーウェイ、エプロンにあたる部分を割り当てる必要があるため、航空機運用を主任務とする空母などは艦首から艦尾までを占める全通飛行甲板を装備し、なるべく広い面積を確保する。航空機運用が副次的なら艦の一部を飛行甲板に割り当てるが、発艦はカタパルトが使えても着艦時の滑走距離が取れないので、航空機に垂直着艦または着水能力が必要になる。参考:戦闘機のしくみ、月刊世界の艦船3,'21、11,’15、10,’16、2,’22
<飛行甲板(揚陸艦)>:強襲揚陸艦では、水陸両用作戦に使用するヘリコプターを運用するため、全通飛行甲板を含む広い飛行甲板を有する。上陸支援に使用するVTOL機の運用能力を持つものもあり、スキー・ジャンプ台を装備してSTOVL運用をするかはヘリ発着艦スペースとの兼ね合いになる。中国軍にはSTOVL機が無いので、076型強襲揚陸艦にカタパルトとアングルド・デッキを装備するという説がある。ウェル・ドック内の揚陸艇が主役のドック型輸送揚陸艦でも、輸送や補給で多少はヘリを使うため、船体の半分から3分の1くらいは飛行甲板(ヘリ甲板)に充てることが多い。参考:月刊世界の艦船12,’23
<飛行甲板(アメリカ海軍)>:エセックス級までの空母は、薄鋼板の上に木の板を張った構造で、板は軸線と垂直に並べる。木の板にしたのは修理が楽だからで、下方への延焼を防ぐため薄鋼板を敷いていた。巡洋戦艦改造のレキシントン級を除いて強度甲板ではないため、伸縮継手で分割している。ラングレーからワスプまでの正規空母や護衛空母には遮風索があったが、エセックス級以降は廃止された。ミッドウェイ級で装甲化飛行甲板を採用している。飛行甲板から人が落ちないよう、周囲には安全網やキャットウォークを設けた。参考:月刊世界の艦船6,’17、10,'22、護衛空母入門
<飛行甲板(日本海軍)>:空母は木張りで、板は軸線と平行に並べられる。参考:護衛空母入門
<飛行幹部候補生>:自衛隊の航空機パイロット訓練生、通称カデット/キャデット(Cadet)。海自航空学生/空自航空学生課程を修了し、操縦課程などに進んで引き続き飛行訓練中の幹部候補生である。参考:MAMOR vol.164
<飛行間編隊内データリンク>:IFDLを参照。
<飛行管理情報処理システム>:全自衛隊機の飛行情報処理システム、略称FADP(ファダップと読む。Flight Service and AMIS Data
Processing system)。航空交通管制情報処理機能(自衛隊機の運航情報を関係機関に提供)、ノータム処理機能(航空基地や空港の安全情報であるノータムを処理)、運航情報処理機能(自衛隊機の出発・到着時刻を監視し、予定時刻を過ぎても到着しない場合は関係機関に通信捜索報を出す)といった国土交通省のFDMS(Flight Data Management System)と同様の運航情報業務FS(Flight Service)に加え、防空識別情報処理機能(航空警戒管制部隊に情報を提供)、空域調整情報処理機能(訓練空域を通る民間機の運航情報を航空警戒管制部隊に提供)といった自衛隊独自の航空機移動情報業務AMISを行う能力を持ち、更にFDMSからの情報を自衛隊で使える形に変換して提供している。入間基地に運用系と予備の待機系があり、双方が使用不能となった場合に備えて春日基地にも支援処理装置(予備準備系と実習・試験用の支援系)が配備してある。飛行管理隊と千歳・府中・春日・那覇管制隊が飛行管理業務で使用する。1971年の雫石衝突事故をきっかけに運輸省がFDPを導入、これに合わせて1978年から飛行管理隊で初代の運用を開始した。2012年秋、7代目の運用が開始された。飛行管理隊が入間基地から府中基地に移転するのに伴い換装することになり、2018年4月10日に8代目(FADP8号機)の運用が開始され、府中基地で運用開始式が行われた。ついでに改良も加えており、航空機の運航票を紙への印刷から画面表示に変更し、地図ソフトを搭載して詳細な地点情報検索などを可能としている。参考:MAMOR vol.62、朝雲
<飛行管理情報処理システム用プログラム>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究7,’17
<飛行管理情報処理システム用プログラム(機能付加)>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究3,’12
<飛行管理隊>:航空自衛隊の航空管理部隊。航空支援集団航空保安管制群隷下で、入間基地に置かれている。飛行管理中枢業務(飛行計画点検や運航情報提供など)、飛行管理情報処理システムFADPの運用、ノータム通信業務、保有機器の保守整備を主任務とするが、FADP自体の保守や改良は行わない。FADPが運用不能になると自衛隊機が飛べなくなるため、停電に備えて発動発電機2基とバッテリー150個を用意してある。東北南部から四国東部にかけての領空と周辺空域を担当し、航空機パイロットが作成して飛行場勤務隊に提出したフライトプランのチェック、航空機がフライトプランに沿って飛行しているかどうかの監視、航空機の出発通報・到着通報の確認などを行い、航空機が異常な飛行を行ったり、行方不明になったりすれば、防空司令所など関連部隊に通報する。1日に確認する情報は全自衛隊機、アメリカ軍機、民間機など3000-4000通に及ぶ。2009年7月27日、航空機飛行計画通報・航空機移動情報の取扱3000万件の功績により、航空支援集団司令官から3級賞状を授与された。2016年1月26-28日、小牧基地で航空保安管制競技会に参加。飛行管理部門で優勝した。2019年1月29-31日、平成30年度航空保安管制競技会の飛行管理部門で優勝した。2024年2月20-21日に実施された令和5年度航空保安管制競技会の飛行管理部門で優勝した。参考:MAMOR vol.62、月刊JWings4,’16、4,’12、4,’19、5,'24、朝雲
<飛行機>:Airplane。プロペラやジェットなどの推進装置で前進し、揚力を得て飛行する固定翼航空機。回転翼のヘリコプターや、無動力のグライダーは飛行機に含めない。1903年12月17日にライト兄弟が12秒間36mの飛行に成功したのが世界初の飛行機による飛行である。操縦装置は操縦桿とラダーペダルで、他にエンジン出力調整用のスロットル・レバーを持つ。離着陸距離によりVTOL機、STOL機、離着陸か離着水かで陸上機、水上機・飛行艇、水陸両用機、エンジンや推進装置の種類でレシプロ機、ターボプロップ機、プロペラ機、ジェット機、エンジンの数で単発機、双発機、三発機、四発機、主翼と尾翼の位置関係や有無で先尾翼機、無尾翼機、全翼機、主翼と胴体の位置関係でパラソル翼機、高翼機、肩翼機、中翼機、低翼機、主翼の数で単葉機、一葉半機、複葉機、三葉機、コクピットに位置する乗員の数で単座機、複座機、三座機、運用先で軍用機、民間機、などと様々に分類される。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings6,’02、飛行機のしくみ、月刊軍事研究11,’12
<飛行機格納庫(日本陸軍)>:主要兵器を存置する場所であり、内務の良否が保存や危害予防などに頗る大きく影響するため、兵器尊重心を昂揚し、規定を厳格に服行しなければならない。主要兵器の手入れ保存の担任者を定め、故障機などには故障の種類と使用禁止などを記した札を掲げる。特に火災予防に注意し、格納庫内と周囲では一切の火気及び発火の誘因となる恐れのあるものの使用と喫煙を禁じる。参考:軍隊内務令
<飛行機救難船(日本海軍)>:海上に不時着水した航空機やパイロットを回収するための船舶。主機はすぐに起動できるディーゼルである。船体後部は航空機を搭載できるよう平らになっており、船尾は低くなっていて、電動クレーンも搭載した。機体が海に落ちないようにブルワークも装備する。公称○○○号など番号で呼ばれるが、所属する航空隊名で呼ばれたものもあった。参考:小艦艇入門
<100トン型飛行機救難船>:船尾に3トンクレーンを持つ。全長35.5m、最大幅5.2m、吃水1.5m、排水量120トン。機関出力520馬力、速力13ノット。数隻が昭和8年から竣工した。参考:小艦艇入門
<150トン型飛行機救難船>:全長38.5m、最大幅5.6m、吃水1.5m、排水量148トン。機関出力520馬力、速力12ノット。5隻が昭和11-12年に竣工した。参考:小艦艇入門
<200トン型飛行機救難船>:船尾に5トンクレーンを持つ。全長38.9m、最大幅6.0m、吃水1.9m、排水量220トン。主機は中速ディーゼル2基、出力800馬力、速力12ノット。航空機2機を回収可能。5-8隻が昭和14-16年に竣工した。参考:小艦艇入門
<300トン型飛行機救難船>:船尾に5トンクレーンを持つ。全長44.1m、最大幅6.7m、吃水2.2m、排水量299トン。主機は中速ディーゼル2基、出力800馬力、速力12ノット。30隻が昭和15年から竣工した。参考:小艦艇入門
<飛行機雲>:Contrail。航空機のエンジンから放出された排気ガスが空中で冷やされ、含まれる水分が凍結して雲になる。また、航空機が飛行する際に生じる空気の渦の中の水分が凍結して生じることもある。発生するかどうかは気象条件や飛行条件などで決まる。参考:月刊JWings10,’09別冊付録
<飛行機呼称番号>:命名法(日本海軍飛行機呼称番号)を参照。
<飛行機識別符号>:命名法(日本海軍飛行機識別符号)を参照。
<飛行機模擬視界発生表示装置>:自衛隊の機器。三菱プレシジョンが受注している。参考:月刊軍事研究12,’15
<飛行教育(海上自衛隊)>:海上自衛隊の術科教育。操縦士や航空士の養成を主目的とする。航空学生や一般幹部候補生を卒業した後、飛行準備課程に入り、固定翼操縦士は固定翼基礎課程、計器飛行課程、実用機課程、回転翼操縦士は回転翼基礎課程、実用機課程、航空士は航空士戦術課程を受講する。教育を行うのは小月、徳島、鹿屋、下総の各教育航空群である。参考:陸海軍学校と教育
<飛行教育(航空自衛隊)>:初級操縦課程(第1初級、第2初級、基本)と初級戦技課程(戦闘操縦、輸送機操縦、救難操縦、機種転換)をクリアして部隊勤務に移る。操縦教官向けの上級操縦課程や上級戦技課程もある。教育は飛行教育団や航空団で実施され、戦闘機以外の実用機教育は救難教育隊や輸送航空隊などで行われる。参考:陸海軍学校と教育
<飛行教育航空隊>:航空自衛隊のF-15J/DJ戦闘機転換訓練航空隊。1999年8月3日に新田原基地で航空教育集団隷下に新編されたF-15臨時飛行教育航空隊がベースで、2000年10月6日に飛行教育航空隊として創設され、第23飛行隊を隷下に置いた。廃止された第202飛行隊が行っていた転換訓練や整備員養成を引き継いでいる。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。2018年8月23日、第109期戦闘機操縦(F15)課程の修了式を実施し、初の女性戦闘機パイロット1名含む6名が操縦資格を取得した。2020年2月26日、戦闘機操縦課程学生と教官操縦者の計38名で訓練隊を編成し、鹿児島県高隅山系横岳で山岳地における保命訓練を実施。飛行中の緊急脱出を想定し、新田原救難隊の支援を受け、山岳地における保命法や山岳地行動要領の訓練を行った。9月8日、創隊20周年記念行事の一環として、第23飛行隊F-15戦闘機19機による新田原基地滑走路地上滑走を実施。10月17日、新田原基地で創隊20周年記念式典を実施。2022年7月7日、令和3年度隊員自主募集の功績で、井筒空幕長から5級賞状を授与された。2023年7月1日、令和4年度隊員自主募集の功績で、内倉空幕長から第5級賞状が授与された。参考:月刊航空ファン1,’15、MAMOR vol.52、月刊JWings8,’14、朝雲
<飛行教育航空隊(2005年)>:航空教育集団隷下で、新田原基地に置かれている。第23飛行隊を隷下に置く。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教育航空隊(2007年度)>:航空教育集団隷下で、新田原基地に置かれている。第23飛行隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,’07
<飛行教育航空隊(2010年)>:航空教育集団隷下で、新田原基地に置かれている。第23飛行隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)を隷下に置く。参考:月刊航空ファン4,’10
<飛行教育航空隊(2015年)>:航空教育集団隷下で、新田原基地に置かれている。第23飛行隊を隷下に置く。参考:月刊航空ファン4,’16
<飛行教育航空隊(2020年)>:航空教育集団隷下で、新田原基地に置かれている。第23飛行隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,’20
<飛行教育集団>:航空自衛隊の教育部隊。1959年6月1日、宇都宮で新編され、第1航空団、第11飛行教育団、第12飛行教育団、第13飛行教育団を隷下に置いた。1963年8月、司令部が宇都宮から浜松北基地への移駐を開始。1964年12月、司令部が浜松北基地への移駐を完了。1967年10月、隷下に航空学生教育隊を新編した。1973年8月23日、第4航空団が中部航空方面隊から隷下に入った。1989年3月16日、航空教育集団に改編された。参考:朝雲、航空教育集団ホームページ、浜松基地ホームページ、松島基地ホームページ
<飛行教育集団(1975年)>:司令部は浜松北基地にある。隷下に第1航空団、第4航空団、第11飛行教育団、第12飛行教育団、第13飛行教育団、航空学生教育隊を置く。参考:月刊軍事研究10,’75、月刊JWings7,’24
<飛行教育集団(1980年代前半)>:司令部は浜松にある。隷下に第1航空団、第4航空団、第11飛行教育団、第12飛行教育団、第13飛行教育団、航空学生教育隊を置く。参考:日本の戦力、自衛隊装備カタログ1981
<飛行教育集団(1985年)>:司令部は浜松北基地にある。隷下に第1航空団、第4航空団、第11飛行教育団、第12飛行教育団、第13飛行教育団などを置く。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教育隊>:航空自衛隊の部隊。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教育隊(1975年)>:輸送航空団隷下で、美保基地に置かれている。C-46D輸送機、YS-11輸送機を装備する。参考:月刊軍事研究10,’75、月刊JWings7,’24
<飛行教育団>:航空自衛隊の教育部隊。それまで主に経験者を対象に技術回復訓練(Rコース)を行っていたのを、新人養成(Pコース)に切り替える方針となったのを機に、1959年6月1日、操縦学校から第11飛行教育団と第12飛行教育団、臨時松島派遣隊から第13飛行教育団が新編された。参考:月刊航空ファン1,’15、航空教育集団ホームページ
<飛行教導群>:航空自衛隊の飛行戦技研究・仮想敵部隊、通称アグレッサー(Aggressor)。2014年8月1日、飛行教導隊を改編して新田原基地で創設され、航空戦術教導団の隷下に入った。部隊マークはキングコブラ(最強の蛇。背中には目に似た模様を持ち、チェック・シックスに通じる)または額に星の入った髑髏(海賊旗から。負ければ死、の意)。使用機には識別塗装と呼ばれる敵味方識別用の特別な迷彩が施されており、視認しやすい塗装とすることで旋回方向など状況把握を容易にして安全管理を行いやすくするといった効果もある。戦技調査研究と、戦闘機基地(千歳、三沢、百里、小松、築城、新田原、那覇)、防空指令所(三沢、入間、春日、那覇)、警戒航空隊(浜松)での空対空戦闘巡回教導を主任務とする。仮想敵の情報を常に航空総隊作戦情報隊など(市販の本やインターネットも含む)から入手して要撃管制や飛行に反映させ、年間100日に達する飛行教導訓練や戦技競技会で敵役を務め、デブリーフィング(訓練終了後の教導会議。要するに反省会)で指導を行う。訓練相手は所属飛行隊の代表として全力で立ち向かってくるため、飛行教導群自身も鍛え上げておく必要があり、教導の合間に行う錬成訓練後には2-3時間かけて訓練非参加パイロットや要撃管制班も交え入念なデブリーフィングを行い、最高練度を追求する。パイロットは部隊長の推薦または飛行教導群からの要望で選抜され、本部隊配属後に戦術戦闘訓練を受け、戦技指導者の資格を獲得する。パイロットに求められるのは、教育者としての人格、絶対的な精強さ、的確な状況判断力、理路整然とした教育ができる論理的思考能力と伝達力、仮想敵の考え方に基づいて飛ぶことが出来る理解力と実行力など。飛行教導訓練は各飛行隊のパイロットの一部が飛行教導群で指導を受けるカテゴリー1、各飛行隊が丸ごと飛行教導群(の所在基地)に来て指導を受けるカテゴリー2、飛行教導群が各飛行隊に出向いて指導を行うカテゴリー3(巡回教導)があり、この際に飛行教導群が使用する機体はF-15DJ複座戦闘機で、後席パイロットは状況認識や安全管理に専念し、デブリーフィングに活かす。トップは群司令で、群本部、教導隊(総括班、飛行班、要撃管制班。F-15J/DJ戦闘機とT-4練習機装備)、整備隊(総括班、整備小隊)からなり、要撃管制班は春日基地、他は全て新田原基地に置かれていた。2016年5月14日、新田原基地で移動記念式典を実施。5月30日、T-4練習機2機が小松基地に移動。6月2日、F-15J戦闘機1機とF-15DJ戦闘機4機が小松基地に移動。6月10日、F-15DJ戦闘機3機が小松基地に移動し、小松基地で移動完了式典を実施した。ちなみに要撃管制班は中部航空方面隊防空司令所が所在する入間基地に移動している。10月、千歳基地で巡回教導を実施。11月、那覇基地で巡回教導を実施。12月6-16日、新田原基地で巡回教導を実施。2017年2月、百里基地で巡回教導を実施。7月上旬、那覇基地で巡回教導を実施。7月下旬、三沢基地で巡回教導を実施。9月下旬、新田原基地で第5航空団第305飛行隊に対し巡回教導を実施。10月、千歳基地で第2航空団第201・第203飛行隊に対し巡回教導を実施。2018年2月上旬、百里基地で巡回教導を実施。5月、築城基地で第8航空団に巡回教導を実施。7月17-26日、百里基地にF-15DJ戦闘機6機とF-15J戦闘機2機(第303飛行隊と第306飛行隊から借用)で展開し、第7航空団に対する巡回教導訓練を実施。9月18日から那覇基地で第9航空団に対する巡回教導訓練をF-15DJ戦闘機8機で実施。2019年2月12-21日、F-15DJ戦闘機8機で千歳基地に展開し、第2航空団への巡回教導訓練を実施。5月下旬から6月上旬、F-15DJ戦闘機8機で千歳基地に展開し、第2航空団への巡回教導訓練を実施。7月8日、F-15DJ戦闘機6機で百里基地に展開。7月9-11日、第301飛行隊への巡回教導訓練を実施。7月12日、百里基地に展開していたF-15DJ戦闘機6機が小松基地に帰投。2020年2月13-20日、第5航空団に対する巡回教導訓練のため、F-15DJ戦闘機8機で小松基地に展開した。6月22日、三沢基地にF-15DJ戦闘機6機で展開した。第302飛行隊F-35A戦闘機に対する本格的な教導訓練(異機種戦闘訓練など)ではなく、その前段階としてパイロットとの意見交換やF-35Aシミュレーター体験(F-35Aに複座機が無いので同乗は無理)などを行ったとみられる。9月7日、F-15DJ戦闘機6機で百里基地に展開。9月8日、第7航空団第3飛行隊に対する教導訓練を開始。しかしF-2戦闘機がマイナートラブルで飛行停止になったため訓練が行えなくなり、9月9日の教導訓練を中止して予定を1日繰り上げ、9月10日に小松基地に帰投した。9月末、那覇基地に展開し、第9航空団に対する教導訓練を実施。11月16-27日、三沢基地にF-15戦闘機8機で展開し、第302飛行隊F-35A戦闘機と異機種戦闘訓練を実施。2021年7月26日から8月5日、築城基地にF-15DJ戦闘機8機で展開し、移動訓練を実施。築城基地に第301・第302飛行隊F-35A戦闘機、新田原基地に第204飛行隊F-15戦闘機が展開しており、築城基地配備の第304飛行隊F-15戦闘機、新田原基地配備の第305飛行隊F-15戦闘機と合わせて訓練を行っていた模様である。12月18日、小松基地で創立40周年記念式典を実施。2022年1月31日、F-15DJ戦闘機が離陸直後に墜落した。10月27日、F-15DJ戦闘機1機が小松基地でアレスティング・フックを使用しての着陸訓練を実施。12月12-21日、新田原基地にF-15J戦闘機2機(第303・第306飛行隊から1機ずつ借りた)とF-15DJ戦闘機4機で展開し、墜落事故後初の巡回教導訓練を行った。2023年1月5日、F-15戦闘機4機で初飛行訓練を実施。2月8-16日、千歳基地にF-15DJ戦闘機6機で展開し、第2航空団への巡回教導訓練を行った。7月31日から8月4日、築城基地で第8航空団に対する教導訓練を実施。12月1日、F-15DJ戦闘機6機(+予備機の第303飛行隊F-15J戦闘機1機)で百里基地に展開。12月4-8日、百里基地で第7航空団第3飛行隊への巡回教導訓練を実施。2024年9月26日、千歳基地に展開。9月30日、千歳基地で第2航空団に対する巡回教導訓練を開始。参考:月刊JWings11,’15、10,’14、8,’16、2,’17、5,’17、10,’17、12,’17、1,’18、5,’18、8,’18、10,’18、12,’18、5,’19、8,’19、10,’19、5,’20、9,'20、12,'20、2,'21、11,’21、3,'22、4,'22、5,'22、8,'22、1,'23、3,'23、11,'23、2,'24、3,'24、12,'24、月刊航空ファン4,’16、8,’16、3,’17、MAMOR vol.117、月刊世界の艦船4,’22、朝雲
<飛行教導群(2015年)>:航空戦術教導団隷下で、新田原基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を配備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教導群(2020年)>:航空戦術教導団隷下で、小松基地に置かれている。トップは飛行教導群司令で、隷下に群本部、教導隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)、整備隊を置く。教導隊は総括班、飛行班、要撃管制班からなり、要撃管制班だけ入間基地に所在する。整備隊は総括班と整備小隊からなる。参考:月刊JWings6,’20、3,’22
<飛行教導隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の飛行隊で、アグレッサーの名で知られる。航空総隊直轄で、飛行戦技研究を主任務とし、仮想敵飛行隊の役目もこなす。トップは隊司令で、隊本部、教導隊(飛行班、要撃管制班からなる)、整備隊を隷下に置き、専任の兵器管制官(コブラと呼ばれる)や武器弾薬整備員、要撃管制官も擁していて、巡回教導先でも自己完結で整備補給などを行う能力を持つ。各戦闘航空団を1年に1度訪れて巡回教導を行う(春日基地の要撃管制班は防空指令所で教導を行う)他、戦技競技会で対抗機となる。配属されたパイロットは1年間の訓練の後に教導資格を取得、仮想敵として教導に付く。多数機入り乱れての戦闘時に確実に見張りを行い、安全性を確保するため、複座機を使用する。部隊マークはコブラで、機体には識別を容易にするカラーマーキング(識別塗装と称する)が個別に施されているが、ロシア機を摸した感じである。1981年12月17日、航空総隊直轄部隊として築城基地で創設された。配備機はT-2練習機(後期型)5機とT-33A練習機2機で、仮想敵国の機体に似ているということでT-2練習機を選択している。1982年7月、巡回教導を開始。1983年3月16日、新田原基地に移動。1986年9月2日、T-2練習機が離陸直後に左エンジン故障を起こし、基地に引き返そうとしたが右エンジンも故障してしまい、緊急脱出した2名のうちパイロットが死亡した。1987年5月8日、T-2練習機が訓練飛行中に足摺岬沖で墜落し、乗員2名が死亡した。1988年5月、T-2練習機が空中戦機動訓練中に機体から火災が発生し、フラット・スピンに陥って海に墜落した。1989年3月、T-2練習機が高機動飛行中に煙を噴き、異常な飛行状態に陥って海に墜落した。1年経たずに2回の重大事故が発生し、部隊側が要求した再度の機体強度試験をメーカー側が行わなかったこともあり、パイロットがT-2練習機での飛行を拒否する事態に発展したが、航空幕僚副長が出向いて取りなし、F-15戦闘機への急速機種更新を進めることになった。3月22日、T-2練習機が空中戦機動訓練中に主翼が脱落して墜落、乗員2名が死亡した。1990年12月17日、F-15DJ戦闘機に機種転換した。1991年8月、F-15DJ戦闘機による巡回教導を開始。12月17日、新田原基地で創隊10周年記念式典を実施。2000年からF-15J戦闘機を少数配備するようになった。2010年冬頃から鋭角モザイク迷彩を施すようになった。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。12月17日、新田原基地で創設30周年記念行事を実施。2014年8月1日、飛行教導群に改編された。参考:月刊JWings1,’07、11,’15、1,’04、4,’11、3,’12、11,’12、7,’13、10,’14、月刊航空ファン2,’11、1,’15、月刊軍事研究12,’15、10,’17、11,’17、MAMOR vol.52
<飛行教導隊(1985年)>:航空総隊隷下で、新田原基地に置かれている。T-2練習機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教導隊(1995年)>:航空総隊隷下で、新田原基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教導隊(2005年)>:航空総隊隷下で、新田原基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行教導隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の航空科教育部隊。航空学校隷下にある。2019年3月26日、教育支援飛行隊から改編されて創隊され、明野駐屯地で編成完結式を実施。参考:朝雲
<飛行教導隊(2020年)>:航空学校隷下で、明野駐屯地に置かれている。富士飛行班(滝ヶ原駐屯地。UH-1J多用途ヘリ)を隷下に置く。AH-1S対戦車ヘリ、CH-47JA輸送ヘリ、UH-60JA多用途ヘリ、UH-1J多用途ヘリ、OH-1観測ヘリを装備する。参考:月刊JWings6,’20
<飛行記録集積装置>:飛行中の各種データ記録装置、略称AIDS(Airborne-Integrated Data System)。1960年代後半に登場した。120種類380個の機上データをカセットテープに記録することができ、地上で解析して評価したり、訓練に応用したり、保存したりする。航空機関士が手書きしていたエンジンの性能データも自動で記録してくれるので、手間が省け、整備の必要性を判断したり、故障を発見したりするのも楽である。参考:航空用語事典増補改訂版
<飛行警戒監視群>:航空自衛隊のE-2C/D早期警戒機運用部隊。E-2C機種転換操縦課程、幹部兵器管制課程(E-2C)、機上警戒管制員課程(E-2C)の教育も行う。2014年4月20日、E-2C運用飛行隊が2個に増えたのを受けて警戒航空隊隷下に三沢基地で新編された。第601飛行隊と第603飛行隊からなる。2019年3月、第601飛行隊がE-2D早期警戒機の運用を開始。2020年3月26日、親部隊の改編に伴い、警戒航空団の隷下に入った。2022年4月24-26日、北海道知床沖で沈没した観光船KAZUⅠ乗員・乗客捜索の災害派遣に参加し、E-2C早期警戒機延べ4機で捜索活動支援を行った。参考:月刊JWings5,'24、7,’14、7,'22、警戒航空団ホームページ
<飛行警戒監視群(2015年)>:警戒航空団隷下で、三沢基地に置かれている。第601飛行隊、第603飛行隊を隷下に置く。参考:月刊航空ファン4,’16
<飛行警戒監視群(2020年)>:警戒航空団隷下で、三沢基地に置かれている。第601飛行隊、第603飛行隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,’20
<飛行警戒監視隊>:航空自衛隊のE-2C早期警戒機飛行隊。警戒航空隊第601飛行隊第1飛行班から改編されて2005年3月31日に創設された。警戒航空隊隷下で、司令部は三沢基地にある。2010年7月28日、北海道渡島半島付近で行方不明になった中日本航空所属セスナTU206G型機の捜索にE-2C早期警戒機2機で参加。2014年4月20日、第601飛行隊(飛行警戒監視群?)に改編された。参考:月刊JWings7,’13、7,’14、朝雲、月刊航空ファン1,’15
<飛行警戒管制群>:航空自衛隊のE-767早期警戒管制機運用部隊。E-767機種転換操縦課程、幹部兵器管制課程(E-767)、幹部機上システム統制課程(E-767)、機上警戒管制員課程(E-767)、E-767機上無線レーダー整備課程(機上電子/警戒管制レーダー/電算機)の各教育も行う。2020年3月26日、警戒航空団隷下に浜松基地で新編された。2022年4月25-27日、北海道知床沖で沈没した観光船KAZUⅠ乗員・乗客捜索の災害派遣に参加し、E-767早期警戒管制機延べ3機で捜索活動支援を行った。参考:警戒航空団ホームページ、月刊JWings5,'24、6,’20、7,’22
<飛行警戒管制群(2020年3月26日新編時)>:警戒航空団隷下で、浜松基地にある。群本部、第602飛行隊、運用情報隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,’20
<飛行警戒管制隊>:航空自衛隊のE-767早期警戒管制機飛行隊。警戒航空隊第601飛行隊第2飛行班をベースに2005年3月31日に創設された。警戒航空隊隷下で、司令部は浜松基地にある。2014年4月20日、第602飛行隊に改編された。参考:月刊JWings7,’13、7,’14、朝雲、月刊航空ファン1,’15
<飛行計器>:航空機の情報を表示する計器のこと。操縦の際に基準となるコントロール計器(姿勢指示器、回転計など)と、操縦の結果である飛行諸元を示すパフォーマンス計器(速度計、高度計など)の2種がある。座席正面の計器板などに装着されており、飛行情報を示す重要な計器はどの航空機でも共通のT型配列を取っている。数値を針で示すアナログ計と、数値で示すデジタル計があり、アビオニクスの進歩に伴って後者が多くなっているが、前者には針の位置を見れば直感的に数値が把握できるというメリットがあり、多機能ディスプレイにわざわざアナログ計を表示することもある。参考:JWings5,’08
<飛行式小型対人攻撃システム>:LMAMSを参照。
<飛行試験管制システム>:航空自衛隊の飛行試験データ受信表示装置、略称FTCS(Flight Test Control System)。試験機から送られてくる飛行データを処理してリアルタイム表示し、飛行試験を一元的に管理管制する。航空開発実験集団飛行実験群計測隊が運用している。参考:月刊航空ファン2,’16
<飛行試験管制システム秘匿装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究8,’16
<飛行試験管制システム復調装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究4,’15
<飛行試験管制システム用ヘッドセット>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究5,’18
<飛行実験隊>:陸上自衛隊の部隊。参考:月刊JWings6,’20
<飛行実験隊(2020年)>:開発実験団隷下で、明野駐屯地にある。OH-1観測ヘリを装備する。参考:月刊JWings6,’20
<飛行実験部>:日本陸軍の航空審査部門。基本審査と実用審査の両方を行う機関として昭和14年12月に立川飛行場で航空技術研究所隷下に創設された。昭和15年春、福生の専用飛行場に移動。一式戦闘機、二式単座戦闘機、三式戦闘機、四式戦闘機などの実用試験を行った。昭和17年4月18日の日本本土奇襲攻撃では三式戦闘機でB-25爆撃機を迎撃している。10月、航空審査部に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行準備課程>:航空自衛隊の教育。飛行学生が飛行に必要な知識を学ぶもので、航空法規、航空気象、航法、英語などの教育を12-31週間受講する。修了すると飛行訓練に入る。参考:MAMOR vol.138
<飛行場(日本海軍)>:ミッドウェイ海戦後に基地航空隊が航空戦の主力になったため、敵の航空攻撃に耐えて長期の航空作戦を行えるよう、滑走路を複数設営して抗堪性を増し、掩体や対空兵装も多数配置した。更に飛行場を複数纏めて航空基地とし、多数の航空戦力を展開運用する構想を立てている。参考:歴史群像8,’15
<飛行場(日本陸軍)>:1個飛行戦隊に根拠飛行場、後方飛行場、機動飛行場を用意する。根拠飛行場には複数の飛行戦隊が展開する。飛行機の配置は状況特に彼我飛行部隊の活動状況や昼夜の別などにより異なるが、昼間はなるべく分散配置し、夜は収縮するなど、警戒や掩護を実施しやすいよう工夫する必要がある。飛行場での航空部隊の警戒は駐軍時の警戒に準じるが、飛行場は戦闘一般の部署により掩護されているといっても、敵航空機、騎兵、機甲部隊、潜入した斥候などの主要攻撃目標なので、航空部隊指揮官以下は特に警戒心を緊張させ、敵が乗じる隙を与えないのが緊要である。警戒は主に地上勤務部隊が行い、状況により飛行部隊も協力する。高級指揮官は必要に応じて歩兵や高射部隊などを配属・協力させる。地上勤務部隊指揮官は上級指揮官の定めるところに基づき、警備部隊の配置、勤務方法、敵襲に応じる動作など必要な事項を定める。警備部隊の配置は飛行場使用の目的、警備部隊の兵力、敵情、地形等で異なるが、警戒の重点は飛行機及び飛行場主要施設とし、可能な限り飛行場付近の付属施設も一緒に警戒する。警備部隊は飛行場警戒のため最重要地点に位置し、対空射撃部隊を適当な位置に配置、必要なら緊要な方面に小部隊を派遣し、必要な地点に歩哨や対空監視哨を置き、適宜斥候や巡察を派遣する。この際、巧みに地形や地物を利用し、工事を施し、付近の部隊と連絡を付け、その他各種補助手段を尽くして厳重な警戒を行う。敵襲を受けたら、航空部隊は整斉迅速に配置に就き、直ちにこれを撃退する態勢を取る。このため、連絡施設、勤務系統、捜索、諜報などを最適な状態にする必要がある。飛行場が危険にさらされた場合、付近の軍隊は命令が無くても状況の許す限り援助を行う。参考:歴史群像8,’17、作戦要務令
<飛行場応急復旧隊>:航空自衛隊の飛行場復旧部隊、略称CRT。航空支援集団が東日本大震災の教訓を基に2015年から独自に考案した臨時編組部隊で、既存の人員と装備を抽出して編成し、大規模災害により被災した飛行場のうち、空輸拠点となる可能性がある飛行場の機能回復、航空交通情報提供、気象支援、端末地業務などの機能確保などを主任務とする。2017年7月20日、入間基地で初の総合訓練が行われ、入間基地、府中基地、小牧基地、美保基地の隊員60名で飛行場応急復旧隊を編組し、航空支援集団からの派遣実施計画に基づき、被災飛行場での指揮所設営、指揮通信回線の構成、被害状況調査、航空交通情報提供、気象支援、空輸に関する端末地業務を実施した。CH-47J輸送ヘリへの車両搭載・卸下なども行っている。2020年9月29日から10月1日、八雲分屯基地で総合編組訓練を実施。入間基地、府中基地、小牧基地、市ヶ谷基地、千歳基地などから隊員55名、防衛省内局・地方防衛局中央施設整備調査チーム8名が参加し、場外離着陸場の機能を喪失した飛行場の滑走路機能復旧、滑走路舗装健全性調査、指揮所設営、衛星通信装置による指揮通信回線構成、被害状況調査、警護、C-130H輸送機への燃料移送、隊員のマルチスキル化などの各訓練を行った。参考:朝雲
<飛行場管制>:航空交通管制の1つ。空港管制塔目視圏内で飛行場周辺を飛行する航空機、飛行場に離着陸する航空機、地上を走行する航空機や車両に対し、空港管制塔の航空管制官が行う管制で、プッシュバック、タキシー、離着陸、管制圏内飛行の許可などを出す。運用主任、滑走路上の管制を行う飛行場管制席、タキシーウェイなどの管制を行う地上管制席、関係機関との連絡調整を行う副管制席が基本構成。航空管制官のいない飛行場では管制ができないので、航空管制運航情報官や空港要員の伝達する情報を基に、パイロットの責任で有視界飛行により離着陸する。参考:飛行機のしくみ、月刊JWings4,’16、5,’17
<飛行場管制訓練装置用プログラム>:自衛隊の機器。日立アドバンストシステムズ製。参考:月刊軍事研究6,’18
<飛行情報出版物編集装置>:航空自衛隊の出版物編集装置、略称FLIPS。航空路図誌や飛行計画要覧といった飛行情報出版物の内容を編集するための装置で、飛行情報隊図誌班に1990年から配備されている。参考:朝雲
<飛行情報出版物編集装置用プログラム>:自衛隊の機器。富士通製。参考:月刊軍事研究2,’17
<飛行情報隊>:航空自衛隊の部隊。航空支援集団航空保安管制群隷下で、府中基地に置かれている。主任務はノータム(空港・航空基地の安全情報)チェック、海外派遣時に使用する海外関係空港のノータム収集提供管理、国交省航空情報センター(ノータム管理組織)との調整、飛行情報関連出版物(航空路図誌、航空路要図など)編集校正。2011年3月11日に発生した東日本大震災で、松島基地が津波に襲われる直前に松島基地からデータ回線不通のためノータム代替発行を依頼する電話があり、復旧するまでノータム30通を代理発行した。2017年3月10日、府中基地で飛行情報出版物編集装置6号機の運用開始式を実施。2023年9月7日、第6回航空自衛隊QCサークル大会でシルバー賞を受賞した。参考:MAMOR vol.62、月刊JWings4,’16、朝雲
<飛行神社>:世界初の飛行機を開発しようとしたもののライト兄弟に先を越された二宮忠八が、航空機事故犠牲者を追悼するため大正4年に京都の八幡に作った神社。九七式戦闘機の方向舵、紫電改のものとされるエンジンと3翅プロペラなどが展示されている。参考:月刊丸12,’90
<飛行船>:Airship。軽航空機の1つで、気球に推進装置と操縦装置を付けたもの。浮揚ガス、ガス容器、推進装置、安定保持装置、操縦装置、乗員室、係留装置などで構成される。ガスの内圧と球皮で形状を保つ軟式、船体腹部にキールを持つ半硬式、縦通材と斜交張り線からなる骨組み(船殻)を持つ硬式という分類がある。浮揚ガスは空気より軽い気体を使用する必要があり、当初は安い水素を使っていたが、安全のため価格に目を瞑ってヘリウムガスを用いるようになった。1852年にフランスの発明家ジファール氏が開発した、葉巻型気球に3馬力の蒸気機関を取り付けたものが世界初の飛行船(最大速度10km)である。ただし出力が低すぎて風に流される事も多く、操縦可能な飛行船は1884年にフランス陸軍シャルル・ルナールとアルチュール・クレーブスが開発した電池駆動電動モーター式のものが初とされる。第1次大戦時は滞空能力を活かして潜水艦の哨戒任務にも就いた。アメリカでは1960年代まで沿岸哨戒に軟式飛行船を投入しており、対潜攻撃兵器として核爆雷を搭載していた。21世紀に入ってもアメリカで長期監視・通信中継用飛行船を開発していたが、あまり上手くいっていない。参考:月刊軍事研究9,’08、10,’10、3,’16、航空用語事典増補改訂版、月刊丸5,’07、戦闘機のしくみ
<飛行戦隊>:日本陸軍航空兵力の基本戦闘単位。昭和13年7月に飛行連隊の空中勤務部隊が改称されて創設された。外地では本部と飛行中隊3個からなる。本部は輸送機と連絡機を1機ずつと、戦闘なら戦闘機、軽爆なら軽爆撃機、重爆なら重爆撃機1機を配備する。参考:月刊丸11,’72
<比航続>:航続率を参照。
<比航続距離>:航続率を参照。
<飛行隊(航空自衛隊)>:第1飛行隊を参照。
<飛行隊(航空自衛隊)>:Squadron。航空自衛隊の部隊で、直接航空機を運用する。トップは二等空佐の飛行隊長。飛行班、総括班、整備小隊を隷下に置き(機種転換業務部隊では教育飛行班も)、総員80-200名である。飛行班のトップは飛行班長(パイロット出身)で、パイロットなどが在籍する。総括班のトップは総括班長(パイロット出身)で、管理や支援を担当する。整備小隊のトップは整備小隊長(整備幹部)で、列線整備員などが在籍する。要撃戦闘機飛行隊や支援戦闘機飛行隊があり、1個航空団あたり2個、1個航空隊あたり1個が配置されている。第1、第2、第3、第4、第5、第6、第7、第8、第9、第10飛行隊はF-86F戦闘機飛行隊、第101、第102、第103、第105飛行隊はF-86D戦闘機飛行隊、第201、第202、第203、第204、第205、第206、第207飛行隊はF-104J/DJ戦闘機飛行隊、第301、第302、第303、第304、第305、第306飛行隊はF-4EJ戦闘機飛行隊、第23飛行隊はF-15転換訓練飛行隊、第401、第402、第403飛行隊は輸送機飛行隊、第404飛行隊はKC-767空中給油輸送機飛行隊、第501飛行隊はRF-86F偵察機飛行隊、第601、第603飛行隊はE-2C早期警戒機飛行隊、第602飛行隊はE-767早期警戒管制機飛行隊、第701飛行隊はB747-400政府専用機飛行隊として新編された。参考:月刊JWings2,’13、2,’16、6,’05、4,’11
<飛行第1戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年7月5日、飛行第1連隊から分かれて新編された。隷下には戦闘2個中隊を置く。昭和14年5月31日、ノモンハン事件勃発に伴う臨時動員命令が出たために樺太の豊原から各務原に帰還。6月2日、九七式戦闘機21機で出発し、ハルビン郊外の孫家に到着、第2飛行集団第7飛行団隷下となった。6月19日の応急派兵下命に基づき、6月21日にハルビンを発ち、6月22日にトボスに進出した。6月24日、第1中隊がカンジュル飛行場に前進し、第24戦隊長の指揮下に入った。6月26日、飛行第1戦隊全部隊が採塩所飛行場に展開、第12飛行団長の指揮下に入った。夕方には哨戒飛行を実施し、3機が出撃、6機を撃墜している。6月27日、タムスクを攻撃し、45機を撃墜した。7月12日、川又上空の戦闘で11機を撃墜したが、2名の未帰還を出した。7月下旬には中隊長や戦隊長らが戦死する損害を被った。8月上旬は小康状態で経過したが、下旬に入ってソ連が攻勢に出たため、九七式戦闘機で反撃し、8月20-22日に20機(不確実7機含む)、8月24-25日に9機、8月29日から9月1日に30機(不確実11機含む)のスコアを挙げた。9月1日、飛行第11戦隊第4中隊が転入し、飛行第1戦隊第3中隊となった。9月15日の戦闘を最後に停戦となり、ノモンハン事件全体では確実245機、不確実95機のスコアを挙げ、戦死者は16名だった。10月11日、ハイラルからハルビン郊外の孫家に移動。昭和16年11月19日、孫家を出発、南方に向かった。12月2日、南仏印のコンポントラッシュ飛行場に進出。戦力は九七式戦闘機42機である。12月7日、マレー上陸船団の護衛に就いた。1025、パンジャン島付近でイギリス飛行艇を発見したため、無電を打つ暇も与えずにこれを撃墜した。12月8日、シンゴラ飛行場に進出。午後にはコタバル飛行場を攻撃した。12月9日、タナメラ及びアエルタワルを攻撃し、ブレニム爆撃機編隊を迎撃して5機を撃墜した。昭和17年1月10日、クアンタンに前進。1月12日からシンガポール航空撃滅戦に参加。1月26日、エンドウ沖で船団護衛にあたり、イギリス軍の雷爆撃機20機(不確実2機含む)を撃墜した。1月28日、クアンタン基地が空襲を受け、飛行第11戦隊と合わせて9機が炎上、3機が大破する損害を受けた。シンガポールの制圧を終了した後の2月24日、スマトラ島タンジュンカランに進出。2月27日からジャワ上陸作戦の援護に就いた。3月19日、ラングーン近郊のレグとミンガラドンに展開。3月21日からビルマ作戦支援を実施。4月27日、メイクテーラ南飛行場に移動し、北ビルマ作戦に参加。5月6日、ミンガラドンに戻り、ラングーンの防空任務に就いた。5月16日にミンガラドンを発って内地に帰還。7月22日、一式戦闘機Ⅰ型への機種改変を終了。8月2日、パレンバンに到着。10月上旬、ハノイに進出。10月25日、雲南省攻撃に参加。その後シンガポールに移動した。昭和18年1月4日、空母に便乗してトラック環礁に到着。1月9日、33機でラバウルに進出。1月下旬、36機でバラレ島に進出。1月27日、軽爆隊の援護に就いてガダルカナル島に初出撃した。2月4日からガダルカナル島撤退戦に参加。2月11日までに13機を撃墜した。2月20日から27日まで一部がウエワクに進出、第41師団の揚陸援護に就いた。3月2日から八一号作戦の護衛に就いたが、輸送作戦は失敗し、飛行第1戦隊長が戦死した。4月12日、一部をラバウルに残してウエワクに移動。5月16日、ワウ攻撃に参加。6月、ベナベナ飛行場攻撃に参加。7月2日、レンドバ攻撃に参加。7月4日、レンドバ攻撃に参加したが、戦闘機3機を失った。7月14日、第12飛行団の本土帰投命令により、白城子教導飛行団に編入された。8月17日、保有機全てをラバウルに残して内地に向かった。9月14日、宇品に帰還。大阪に駐留し、一式戦闘機Ⅱ型を受領、明野で訓練を行った。11月4日、大阪を出発。11月7日、北満州チャムス近郊のモンゴリ飛行場に到着した。11月16日、首都防空の命令が出されたため、11月25日から柏飛行場に展開した。昭和19年4月、四式戦闘機への機種改変を実施。8月30日、30機が西部軍隷下となり、福岡に移動した。10月8日、38機で柏飛行場を出発し、捷一号作戦参加のためクラークに向かった。しかし練度低下で到着が遅れ、10月23日のクラーク飛行場での稼働機数は20機に止まっている。10月24日、10機がクラークに遅れて到着。10機が軽爆隊の護衛に就いて出撃したが、途中で軽爆隊と離れてしまい、オルモック湾上空で戦闘を行った。10月25日からマナプラを根拠地としてレイテ攻撃を行った。10月31日、保有機8機・稼働機3機にまで減少し、戦力がほぼ壊滅したため、11月1日に戦力回復命令を受けた。11月7日、下館に帰還。12月7日、胴体内に機付整備員を収容して40機で下館を出発し、フィリピンに向かった。12月17日、ルソン島ポーラック飛行場に集結。昭和20年1月5日、稼働機が20機となり、1月6日から12日まで2機ずつをリンガエン湾に向け特攻に送り出した。残存パイロットと地上勤務者の一部は台湾の潮州に後退し、3月に内地に帰還、下館で再建を行った。4月末、高萩に移動、四式戦闘機による訓練を開始した。7月、稼働機が20機になったため、第10飛行師団に編入され、防空任務に就いた。フィリピンに残った地上勤務者はルソン島とネグロス島で地上部隊に編入されてゲリラ戦を行い、終戦を迎えている。フィリピンから復員したのは21名だった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第1大隊>:日本陸軍航空部隊。大正11年8月に航空第1大隊が改称されて各務原飛行場で新編された。主力戦闘機は甲式三型である。大正15年10月(大正14年5月?)、飛行第1連隊に改称された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン1,’17
<飛行第1連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正15年10月(大正14年5月?)、飛行第1大隊が改称されて各務原飛行場で新編された。隷下に第1大隊(偵察中隊2個)と第2大隊(戦闘中隊2個)を置く。昭和2年、戦闘大隊(2個中隊からなる)2個編成となった。昭和6年秋、九一式戦闘機の配備を開始。昭和7年3月、九一式戦闘機4機で訓練を開始。6月、甲式四型戦闘機装備の2個中隊を満州に派遣。昭和8年、3個中隊編成となり、4月には全て九一式戦闘機を装備していた。昭和10年、4個中隊編成に戻った。昭和13年2月末、中国による台湾空襲を受け、北九州防衛のために1個中隊を大刀洗に派遣。4月から九七式戦闘機への機種改変を開始。6月、大刀洗の部隊が本隊に復帰した。昭和13年7月5日、飛行第1戦隊と飛行第59戦隊に分かれた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン1,’17、8,’18
<飛行第2戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年8月、飛行第2連隊から改称されて新編された。装備機は九二式偵察機である。参考:月刊航空ファン10,’18
<飛行第2大隊>:日本陸軍の飛行大隊。大正11年8月、航空第2大隊から改称されて各務原飛行場で新編された。大正14年5月、飛行第2連隊に改編された。昭和9年11月、飛行第5連隊などから戦力を抽出して再編された。隷下に九一式戦闘機2個中隊を置く。昭和10年12月、飛行第16大隊に改編された。参考:月刊航空ファン1,’17、8,’18
<飛行第2連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正14年5月、飛行第2大隊から改称されて各務原飛行場で新編された。昭和7年、九二式偵察機を配備。昭和12年3月下旬、九二式偵察機(K装置付き)が特別支給された。7月、隷下に飛行第3大隊が新編された。昭和13年8月、飛行第2戦隊に改編された。参考:月刊航空ファン1,’17、10,'18
<飛行第3大隊>:日本陸軍の飛行大隊。大正11年8月、航空第3大隊から改称されて八日市飛行場で新編された。大正14年、隷下に第4中隊が新編された。5月、飛行第3連隊に改編された。昭和12年7月、北支事変勃発に伴い、飛行第2連隊隷下に再編された。隷下に九二式偵察機装備の2個中隊を置く。昭和13年夏、独立飛行第16・第17中隊に改編された。参考:月刊航空ファン10,’15、4,’17、10,’18
<飛行第3連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正14年5月、飛行第3大隊から改称されて八日市飛行場で新編された。昭和7年頃、甲式四型戦闘機から九一式戦闘機への機種改変を開始。昭和8年、八八式偵察機一型/二型を配備。8月、飛行第5連隊の偵察2個中隊と隷下の戦闘2個中隊(九一式戦闘機装備)を交換し、八八式偵察機3個中隊+乙式一型偵察機1個中隊の編成となった。参考:月刊航空ファン4,’17、6,’18、8,’18
<飛行第4戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年7月、飛行第4連隊から改称された。隷下に戦闘中隊1個、偵察中隊1個を置き、訓練を主任務とした。昭和15年9月、菊池飛行場に移動し、隷下部隊が戦闘中隊3個、偵察中隊1個となった。また、九五式戦闘機から九七式戦闘機に機種改変している。昭和16年7月、戦闘中隊1個が第107教育飛行戦隊として独立。昭和16年11月6日の陸軍命令で台湾に進出することになったため、独立飛行第103中隊を北九州防空用の第3中隊として編入し、福岡郊外の雁巣飛行場に駐屯させた。残る主力は11月下旬に九七式戦闘機25機で屏東及び台北に移動。太平洋戦争開戦に伴い、台湾防空及び船団護衛を行った。昭和17年1月中旬、内地に帰還し、小月飛行場(第3中隊は雁巣飛行場)に駐屯した。8月、第19飛行団隷下となり、偵察中隊を飛行団司令部に渡し、飛行第248戦隊を分離、二式複座戦闘機への機種改変を開始した。しかし配備ペースは遅れ、昭和18年7月末に漸く機種改変を終了。昭和19年1月24日、飛行隊編制となった。B-29爆撃機による空襲が迫っている状況だったため、鹵獲B-17爆撃機を使用して夜間における前上方攻撃を中心に訓練を行っている。6月15日深夜から6月16日未明のB-29爆撃機による夜間空襲では済州島レーダーからの情報を基に4機編隊延べ6個を八幡上空に配置し、高度2000-3000mを侵入してきたB-29爆撃機75機を迎撃、6機を撃墜し、7機を撃破した。7月7日の夜間空襲は悪天候のため敵を発見できずに終わった。8月5日、昼間に高々度を1機で侵入してきたB-29爆撃機を3機で追撃したが、戦果は無かった。8月20日夕方、成都からB-29爆撃機75機が来襲したが、まだ明るかったため効果的な迎撃を行い、17機を撃墜(不確実8機含む)し、17機を撃破した。この際、1機がB-29爆撃機に体当たりして双方とも墜落している。その後は爆撃目標が西九州次いで関東・中部に変更されたため、出撃の機会が少なくなった。11月末、高々度戦闘班が編成された。12月5日、第12飛行師団の命令に基づき、体当たり攻撃専門の回天隊が編成された。昭和20年2月、高々度戦闘班が独立飛行83中隊として独立した。3月、沖縄上陸作戦に先立ってアメリカ機動部隊が九州に襲来したが、二式複戦では単発機相手の戦闘が困難なため、空襲時には朝鮮のテグ飛行場に避難することになった。3月16日、10機が印旛飛行場に移動。3月26日、印旛飛行場の部隊が小月飛行場に復帰。3月27日夜、北九州に来襲したB-29爆撃機の迎撃戦を行い、16機を撃墜(不確実6機含む)し、13機を撃破した。損害は体当たりにより失われた1機である。4月17日、B-29爆撃機の昼間迎撃を実施。5月3日、B-29爆撃機の昼間迎撃を実施。5月7日、B-29爆撃機の昼間迎撃を実施。5月10日、B-29爆撃機の昼間迎撃を実施。5月30日、十数機が調布に移動。6月、昼間迎撃戦での損害が増大したため、夜間に関門海峡を機雷封鎖するB-29爆撃機に対する迎撃を主任務とするようになった。6月22日、調布の部隊が小月に復帰。7月10日夜、関門海峡に機雷を投下するB-29爆撃機を全力(二式複戦約20機)で迎撃、6機を撃墜し、7機を撃破したが、1名が戦死した。キ-102への機種改変が予定されていたが、その前に終戦を迎え、8月31日に解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊JWings5,’13
<飛行第4大隊>:日本陸軍の飛行大隊。大正11年8月、航空第4大隊から改称されて大刀洗飛行場で新編された。12月、偵察中隊3個を隷下に置く偵察機部隊として編成を完結した。大正15年10月(大正14年5月?)、飛行第4連隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン10,’15、5,’17
<飛行第4連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正15年10月(大正14年5月?)、飛行第4大隊から改称されて大刀洗飛行場で新編された。隷下部隊は偵察中隊2個と戦闘中隊2個である。後に第1大隊(偵察中隊2個からなる)と第2大隊(戦闘中隊2個からなる)を編成した。昭和5年、八八式偵察機一型を配備。昭和7年1月、第1次上海事変が勃発したため、独立飛行第3中隊を編成し、上海に進出した。事変終了後は大刀洗に帰投。昭和10年5月、八八式偵察機一型から九四式偵察機への機種改変を開始。昭和12年7月、満州事変勃発により動員が下命され、戦闘機大隊は飛行第8大隊(後に飛行第77戦隊に改編)となり北支に出征、偵察大隊も出撃した。連隊本部は内地に残り、戦闘中隊と偵察中隊を1個ずつ新編。10月、飛行学校を修了した下士官が配属され、練習部隊としての任務を行っていた。昭和13年7月、飛行第4戦隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン5,’17、6,’18
<飛行第5戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は天鷲第一五三一〇。昭和13年8月31日、飛行第5連隊から改称された。隷下には本部、第1練習部、第2練習部、軍偵1個中隊を置き、岐阜に移動して戦闘機教育部隊として活動した。昭和14年6月(3月?昭和13年11月?)、柏飛行場に移駐。昭和15年9月、装備機を九五式戦闘機から九七式戦闘機に変更。編成も3個中隊となり、第1中隊は首都防空任務、第2・第3中隊は訓練任務に就いた。昭和16年7月、飛行第54戦隊を分離して戦闘2個中隊編成となった。太平洋戦争開戦時は九七式戦闘機25機を配備しており、主力は柏、一部は松戸に駐屯していた。昭和17年3月、二式複戦への改変を開始。4月18日、日本本土奇襲攻撃の際には二式複戦6機を保有しており、迎撃に向かったものの、間に合わなかった。8月、第3中隊が編成され、定数49機となり、二式複戦33機を保有していた。12月、B-17爆撃機に対抗できる37mm砲装備の二式複戦をラバウルに派遣することになり、特殊攻撃隊1個中隊を編成して月末にラバウルに向かわせた。この部隊は後に飛行第13戦隊に編入されている。昭和18年6月19日、南方転用命令が出され、7月10日に柏を発ち、7月20日までに二式複戦28機でジャワ島のマラン基地に集結した。以降は飛行第59戦隊任務を引き継いで付近の防空を担当し、20mm機関砲や37mm砲によりB-24爆撃機を主な相手として迎撃任務を行った。昭和19年1月17日、アンボンに来襲したB-24爆撃機10機を迎撃し、7機を撃墜(不確実2機含む)する戦果を挙げ、第6飛行師団長から賞詞を授かった。その後は船団護衛にあたり、5月27日のアメリカ軍ビアク島上陸を受けて反撃任務を実施。ソロンのエフマン基地からは4機が爆装して独断で出撃、高度100mから上陸船隊に接近して攻撃したが、護衛のP-47戦闘機に迎撃されて全機未帰還となった。これは特攻の先駆けとして賞賛され、南方軍総司令官から感状が授与されている。6月10日、稼働機が6-7機に減少したため、アンボンに後退、一式戦闘機10機などを受領して戦力回復に努めた。7月、チモール島及びアンボンで船団護衛に就いたが、フィリピンへの後退命令が出たため、7月19日に主力がフィリピンに後退、8月上旬に残りがメナドに下がり、8月末にクラークに集結、飛行機を他部隊に渡して9月上旬に内地に帰還した。小牧で二式複戦30機を受領して再編に入り、10月下旬に清洲飛行場に移動、第11飛行師団第23飛行団隷下となり、名古屋と大阪の防空を担うことになった。12月13日、名古屋空襲に対して出動したが、高々度まで上昇できずに戦果は無かった。このため、機銃を1丁減らすなどの重量軽減策を行うことになった。12月22日、中高度で飛来したB-29爆撃機を迎撃して4機を撃墜。昭和20年1月23日、高々度で飛来したB-29爆撃機を迎撃し、先導機を撃墜して爆撃を失敗に終わらせたが、1機が撃墜された。3月以降はB-29爆撃機が中高度夜間爆撃を主戦法としたため、活躍の機会が増えている。3月10日、東京大空襲があったため、3月11日に主力は一時調布に移動。しかし3月12日に名古屋にB-29爆撃機が来襲したため、病気で残っていた隊員が迎撃にあたり、4機撃墜・1機撃破のスコアを挙げて武功章を授与された。5月14日、B-29爆撃機を4機撃墜し、6機撃破した。しかしこの頃にはP-51戦闘機が護衛に就くようになっており、5月末に五式戦闘機への改変が決定。6月以降は本土決戦に備えて戦力を温存した。6月17日、五式戦闘機9機で出撃し、名古屋上空でF6F戦闘機40機と交戦、7-8機を撃墜し、損害は被弾損傷1機だった。6月26日0700、中部地方を爆撃するB-29爆撃機編隊を迎撃するため、全力で出撃。爆撃を終えて帰投するB-29爆撃機を第3攻撃隊が御前崎上空で待ち伏せ、隊長機の二式複戦丙型が二式四十粍撒布弾2発を投下、2機を撃墜して落下傘降下した乗員12名を捕虜にした。7月上旬、潮ノ岬上空を敵戦闘機60機が通過したとの報を受けて出撃したが、4機を撃墜された。7月7日、東海軍司令官から部隊に感状、伊藤藤太郎大尉と坂口准尉に陸軍武功章が授与された。7月末の戦力は五式戦闘機17機など35機、パイロット34名だった。8月15日の終戦後も出動準備を解除せず、8月18日に五式戦闘機25機を爆装させて伊勢湾南の機動部隊に向け出撃する計画を立てていたが、飛行師団司令部が説得して中止させた。総合戦果は南方戦線で撃墜20機、本土防空で撃墜40機、撃破100機。損害は南方戦線でパイロット20名戦死、5名事故死、本土防空で10名戦死、6名事故死。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊、6,’14、月刊航空ファン3,’17
<飛行第5大隊>:日本陸軍の飛行大隊。大正11年8月、航空第5大隊から改称されて創設された。11月、岐阜から立川に移動(実際の入営は大正12年1月)。大正15年10月、飛行第5連隊に改称した。昭和12年7月、日華事変勃発で飛行第7連隊隷下に再度創設され、軽爆2個中隊を隷下に置いた。昭和13年8月1日、飛行第31戦隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン10,’15、首都防空網と空都多摩
<飛行第5連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正15年10月、飛行第5大隊から改称されて新編された。隷下に偵察4個中隊を置く。昭和7年、八八式偵察機二型を配備。6月、満州派遣偵察部隊の飛行第10大隊が新編された。6月19日、編成10周年記念大祝典を挙行。昭和8年8月、飛行第3連隊の戦闘2個中隊と隷下の偵察2個中隊を交換し、戦闘2個中隊(九一式戦闘機装備)及び偵察2個中隊という編成になった。昭和9年11月、飛行第2大隊(九一式戦闘機2個中隊)を満州に派遣。昭和10年、八八式偵察機二型から九四式偵察機への機種転換を開始。12月、飛行第10大隊が飛行第10連隊、飛行第2大隊が飛行第16大隊に改編された。昭和12年7月、日華事変勃発で動員命令が出され、九五式戦闘機を装備する飛行第2大隊(九五式戦闘機2個中隊24機)を派遣。残留部隊で戦闘1個中隊を編成して立川飛行場の留守を預かった。7月24日、飛行第2大隊が奉天に集結。7月27日、第1中隊が天津に進出。8月、東機局飛行場が水没したため、第1中隊は特三区に移動、その後郎坊に進出。10月6日、保定に進出していた第1中隊が初の空戦を行い、カーチス・シュライク1機を撃墜した。その後第1中隊は石家荘に移動。12月8日、第2中隊は天津を経て太原に移動。昭和13年1月22日、彰徳に全力を集中。3月から西安航空撃滅戦に参加。3月25日、第1次帰徳空戦に16機が参加、I-15戦闘機19機を撃墜した。3月26日、第1中隊に北支方面軍司令官から部隊感状が授与された。4月10日、15機で第2次帰徳空戦に参加、24機を撃墜した。5月29日、北支方面軍司令官から飛行大隊に部隊感状が授与された。8月1日、飛行第2大隊が飛行第64戦隊に改編された。昭和13年8月31日、飛行第5戦隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン10,’15、4,’17、6,’18、首都防空網と空都多摩
<飛行第6大隊>:日本陸軍の飛行大隊。大正11年8月、航空第6大隊から改称されて平壌で新編された。大正14年5月、飛行第6連隊に改編された。参考:月刊航空ファン10,’15、6,’17
<飛行第6連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正14年5月、飛行第6大隊から改称されて平壌で新編された。昭和5年、八八式偵察機一型を配備。昭和8年8月、偵察2個中隊編成から軽爆2個中隊編成に改編され、八八式軽爆撃機に機種改変した。参考:月刊航空ファン6,’17、6,’18
<飛行第7戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年、第2中隊に九二式超重爆3機を配備。昭和14年、第2中隊が九七式重爆に機種転換した。九二式超重爆は昭和15年1月の陸軍観兵式での飛行を以て運用を終了したが、昭和14年夏には立川で野晒しになっている機体もあった。参考:月刊航空ファン11,’18
<飛行第7連隊>:日本陸軍の飛行連隊。日本初の爆撃機部隊である。大正14年2月、立川で飛行第7大隊として編成が始まり、5月1日に飛行連隊となった。丁式二型爆撃機を装備する。大正15年8月、軍縮で廃止される芸予要塞来島北要塞に対する爆撃訓練に参加。50kg爆弾12発、100kg爆弾11発、100kg破甲爆弾3発、200kg破甲爆弾13発が供給され、8月15-16日に50kg爆弾と200kg破甲爆弾、8月17-18日に100kg爆弾と100kg破甲爆弾、8月19-20日に50kg爆弾と200kg破甲爆弾を投下することになった。8月15日、丁式二型爆撃機2機が上空1000mから2発ずつ投下し、1発が命中した。海軍は一三式艦攻3機が爆弾2発ずつを積み、3機一斉投下2回で全段命中している。8月16日は至近弾のみで、訓練期間を通しての成績も悪く、予算不足で訓練が出来ていないためとされた。10月、浜松飛行場に移駐。昭和2年、八七式重爆を配備。昭和4年7月9-11日、八七式重爆3機が浜松-平壌無着陸飛行に成功。8月14日、立川飛行場を離陸して各務ヶ原に向かおうとした八七式重爆1機が、離陸後の高度500mでの旋回中にエンジン故障を起こし、飛行場に戻る途中、高度200mでフラット・スピンに陥り飛行場北東1.5kmの砂川に墜落し、乗員8名全員が死亡した。11月、八七式重爆4機が立川で演習に参加。昭和5年、八八式軽爆と八八式偵察機一型を配備。昭和6年1月27日、八七式重爆パイロットが乱気流で座席から放り出され、プロペラに巻き込まれて死亡する事故が発生した。2月27日、八七式重爆で浜松-大刀洗の夜間飛行に成功。4月17-24日、浜松-大連間長距離野外無着陸飛行に八七式重爆4機で挑戦し、2機が成功した。11月、満州事変勃発に伴い、旅順での第2次特殊爆撃演習に参加していた第3中隊が飛行第6大隊第1中隊(八七式重爆装備)に改編され、新編の同大隊第3中隊(軽爆9機装備)と共に12月下旬から実戦参加した。昭和7年1月、上海事件勃発に伴い、軽爆装備の上海派遣飛行第1中隊を新編して上海に送った。5月、九二式超重爆初号機の実用試験を開始。6月、重爆中隊が満州に派遣され、軽爆部隊の飛行第7大隊第3中隊と共に飛行第12大隊に改編された。昭和8年2月12日、関東軍向けにフェリー輸送していた八七式重爆1機がエンジン故障で京城飛行場に不時着して大破した。乗員は無事で、機体も現地で修理されたとみられる。6月7日夜、浜松飛行場で火薬庫の爆発事故が起こり、九二式超重爆初号機搭載用1000kg爆弾などが誘爆、八七式重爆2機が破壊され、九二式超重爆も損傷し、軽油庫にも引火した。8月、練習部が浜松陸軍飛行学校に改編された。秋、九二式超重爆を運用する戊中隊が編成解除となった。昭和9年2月15日、八七式重爆1機が墜落した。秋、3個中隊編成に増強された。参考:月刊航空ファン11,'15、12,’16、3,’18、4,’18、月刊航空情報8,’12
<飛行第8大隊>:日本陸軍の飛行大隊。昭和12年7月7日に日華事変が勃発したため、内地の飛行部隊に動員がかけられ、飛行第4連隊隷下に新編された。7月21日、大刀洗を出発。7月24日、奉天に到着。戦力は九五式戦闘機2個中隊で、24機を装備していた。7月下旬、京津地区やチャハル省に出撃。7月28日、天津に前進。10月1日、太原飛行場を攻撃。11月11日、洛陽攻撃に参加。12月下旬、24機で太原飛行場を出発。12月26日、南京の大校場飛行場に到着、第3飛行団隷下となった。昭和13年春、徐州作戦に参加。4月10日、杭州に進出。4月末、南京に戻った。5月中旬、蚌埠に進出。6月10日、上海に展開。7月、第3中隊が新編された。7月上旬、南京に戻った。夏、漢口作戦に参加。7月30日、改編で飛行第77戦隊と第41飛行場大隊となった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第8連隊>:日本陸軍の飛行連隊。大正14年5月1日、大刀洗飛行場で編成を開始し、昭和2年5月29日に台湾の屏東飛行場に移駐した。昭和5年、八八式偵察機一型を配備。参考:月刊航空ファン6,’17、6,’18、月刊航空情報8,’12
<飛行第9戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年7月1日、飛行第9連隊戦闘2個中隊が独立して朝鮮の会寧に誕生した。装備機は九五式戦闘機である。同年の張鼓峰事件では基地上空哨戒を実施。昭和14年7月、第3中隊が創設された。9月5日、ノモンハン事件への出動が決定し、9月9日に九五式戦闘機30機で出撃、9月12日にハイラルに進出したが、装備機が旧式だったため出撃の機会は無く、9月15日に停戦となったため下旬に会寧に戻った。昭和15年9月、九七式戦闘機に機種改変。昭和16年7月、関特演のため東満州の延吉に移動。昭和16年10月、会寧に復帰。昭和17年10月、北満州蒙古力飛行場に移動。年末、第3中隊の12機が南満州の遼陽に分遣された。昭和18年5月、明野で二式単戦への機種改変を実施。9月、東満州の団山子飛行場に移動。昭和19年1月末、飛行隊編制への改編を終了。2月21日、一号作戦参加のため30機強で団山子を出撃。2月28日、主力は武昌に到着し、第5航空軍第2飛行団隷下となった。第3中隊の一部は満州に残り、第27教育飛行隊となった。3月13日、安慶に移動。4月中旬から4月末までに主力は河南省新郷に移動。5月11日、洛陽上空でP-40戦闘機を撃墜し、初戦果を挙げた。7月、主力は漢口に移動。7月29日、成都から出撃するB-29爆撃機に待ち伏せ攻撃をかけ、2機を撃墜、1機を撃破。9月27日にはB-29爆撃機5機を撃墜、8機を撃破した。10月末、主力は漢口に移動。11月上旬、一部を衡陽・九江に派遣し、湘桂作戦に参加。11月13日、可動機が5機に減少。11月末、広東の天河飛行場に移動。12月27日、P-51戦闘機との空戦で6機を喪失し、4機が大破した。昭和20年1月15-16日、艦上機を迎撃したが、第3中隊長が戦死し、指揮官級の将校がいなくなってしまった。2月上旬、戦隊長が四式戦闘機で赴任したが、この時の可動機は6機だった。通州飛行場、南苑飛行場に後退して四式戦闘機への改変を行うことにしたが、補充が乏しく、進まなかった。5月中旬、南京に移動。5月30日に最後の迎撃戦を行い、終戦を迎えた。終戦時には兵力560名(飛行隊41名、整備隊519名)で、二式単座戦闘機16機、四式戦闘機4機、特攻隊4隊が配備されていた。装備機を中国空軍に引き渡し、教育を行った後、昭和21年3月に復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第9連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和10年12月1日、飛行第3連隊から独立して誕生した。隷下に軽爆2個中隊を置く。昭和11年8月1日、戦闘中隊(九一式戦闘機装備)が編成された。9月中旬、朝鮮の会寧に移動、朝鮮軍第2飛行団隷下となった。昭和12年、戦闘中隊が九五式戦闘機に機種改変。12月、戦闘1個中隊が増設され、隷下部隊が戦闘2個中隊と軽爆2個中隊となった。昭和13年7月1日、戦闘機部隊が飛行第9戦隊に、軽爆部隊が飛行第65戦隊になった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第10大隊>:日本陸軍の飛行大隊。昭和7年6月、満州派遣偵察機部隊として飛行第5連隊隷下に新編された。昭和10年12月1日、飛行第10連隊に改編された。参考:月刊航空ファン10,’18
<飛行第10連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和10年12月1日、飛行第10大隊から改編されて創設された。参考:月刊航空ファン10,’18
<飛行第11戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年8月15日、飛行第11連隊から改称されて創設された。昭和14年5月24日、ノモンハン事件に対応して第1・第3中隊がハイラルに集結。採塩所飛行場に移って戦闘に参加した。5月27日夕方、ハルハ河上空でI-16戦闘機を9機撃墜し、初陣を飾った。5月28日、42機を撃墜して1機を喪失した。6月12日、ハルビンに帰投した。6月19日からソ連地上部隊が攻勢を開始したため、応急派兵命令が下り、6月23日に採塩所飛行場に進出。6月24日、15機を撃墜。6月27日、タムスク飛行場を攻撃し、50機を撃墜した。6月23日から7月11日までの戦果は撃墜確実205機、不確実6機に達した。戦死パイロットは10名である。7月下旬から再び戦闘が活発になり、7月23-29日に117機を撃墜した。8月上旬に確実87機・不確実11機のスコアをあげ、下旬には74機を撃墜した。9月1日、第4中隊が飛行第1戦隊に編入された。9月6日の保有機は24機だった。9月16日のノモンハン事件停戦までの戦果は、撃墜確実530機、不確実50機であり、参加戦闘機隊の総戦果の約半分を本戦隊が記録した。パイロットの戦死者は19名だった。垂直尾翼の部隊マークから「稲妻部隊」という愛称が付けられ、勇名を馳せている。9月下旬、ハルビンに帰還。10月22日、中国戦線に移動するためハルビンを出発。10月27日、武昌に進出。昭和15年12月、ハルビンに帰投。昭和16年6月、関特演のため杏樹に移動。7月、ハルビンに帰投。11月14日、太平洋戦争に備えて南方に移動するためハルビンを出発。11月28日、サイゴンに到着。12月6日、仏印フコク島クーカン飛行場に到着。この時の装備機は九七式戦闘機39機であった。12月7日、マレー上陸船団の護衛を行ったが、悪天候のため1機が海没し、2機が大破した。12月8日、シンゴラ及びパタニの上陸地点援護に就き、シンゴラ飛行場に進出。パタニ上空で2機を撃墜したが、未整備のシンゴラ飛行場で9機が転覆し、使用不能となった。12月11日、南方軍総司令官から感状が授与された。昭和17年1月10日、クアンタンに前進。1月12日、シンガポール攻撃に参加。1月26日、南部マレー輸送船団の護衛し、飛行第1戦隊・独立飛行第47中隊と共に39機を撃墜した。1月28日、クアンタン飛行場がB-17爆撃機の爆撃を受け、3機が炎上し、12名が死亡した。2月13日、バトパハに進出。2月15日、パレンバンに進出。その後ジャワ攻略作戦参加のためタンジュンカランに配備されたが、九七式戦闘機の航続力では限界があり、基地上空哨戒などを担当した。3月4日、1個中隊をパレンバンに残して九七式戦闘機14機でタンジュンカランを出発、シンガポールに到着した。3月19日、シンガポールからラングーン近くのレグ飛行場に展開し、中部ビルマ攻略戦に参加。4月、トングー北飛行場に進出。その後ミンダンに到着し、5月5日に雲南省保山を攻撃したが、P-40戦闘機の奇襲を受けて3機が撃墜された。5月末までに主力はラングーンに集結。6月25日、機種改変のため全パイロットは内地に帰還を開始し、7月30日に明野に到着、8月初めから一式戦闘機Ⅰ型に改変した。9月中旬に明野を発ち、シンガポールのテンガー飛行場を経て10月20日までにミンガラドンに展開した。11月16-19日、シンガポールに集合し、12月初めにスラバヤに展開。12月5日、スラバヤから空母雲鷹に乗ってトラックに向かった。この時積み込んだ機数は定数37機と予備24機の合計61機だった。12月13日、トラックに到着。12月18日、トラックを離陸し、海軍一式陸攻に誘導されてラバウル西飛行場に到着、第6飛行師団隷下となった。12月26日、ブナでP-40戦闘機6機を撃墜。12月27日、ブナでP-38戦闘機7機を撃墜。昭和18年1月5日、B-17爆撃機2機を撃墜。1月5-10日、ラエに対する輸送船団の護衛任務に海軍と協同で延べ283機が参加、15機(不確実13機含む)を撃墜したが、6機を喪失、10機が大破し、パイロット7名を失った。1月26日、33機でブカに進出、ガダルカナル撤退作戦に参加。1月31日、9機がムンダに進出し、ベララベラ島付近でF4F戦闘機10機を撃墜した。2月6日、一式戦闘機29機でワウ攻撃に参加したが、帰投中に敵戦闘機の奇襲を受けてパイロット4名を失った。3月3日、八一号作戦の上空直掩に参加したが、反跳爆撃を防ぐことはできなかった。以降は東部ニューギニア輸送船団の護衛にあたったが、可動機は10機程度に減少し、一式戦闘機の攻撃力不足から大型機の撃墜も困難だった。5月8日、B-17爆撃機を体当たりで撃墜(パイロットは死亡)。6月末、ラバウルに戻り、保有機を残してあきつ丸で内地に向かい、7月11日に宇品に帰還した。大正飛行場で一式戦闘機Ⅱ型への改変を行い、8月末にハルビンに進出。9月7日、東満州の老蓮飛行場に進出。戦隊マークを垂直尾翼から胴体に移した。12月2日、主力が中国戦線に向かった。12月7日、20機で武昌飛行場に到着、12月9日から出撃した。12月16日、武昌飛行場を出発し、12月19日に広東の白雲飛行場に到着、付近の防空及び進攻任務に就いた。昭和19年1月15日から2機を港湾援護に就かせた。2月12日、12機で出撃してP-38戦闘機及びP-40戦闘機8機を撃墜。2月20日、機種改変のため福生への移動を開始。3月上旬から所沢で四式戦闘機に改変した。10月2日、約40機で所沢を発ち、台湾の宜蘭に展開、防空任務に就いた。10月10日、第3中隊を台北飛行場に分遣。10月12日、台湾に来襲したアメリカ艦上機の迎撃任務を実施、戦隊長と中隊長2名を含む中堅パイロット多数を失った。10月22日、7機がルソン島マルコット基地に前進。10月23日、可動5機がマルコット基地からリパ基地に前進し、10月24日にレイテ航空総攻撃に参加した。その後はレイテ方面で制空任務を行ったが、損耗が激しく11月1日に戦力回復命令が下され、マルコットに後退。11月4日、航空機を残してパイロット10名で下館に帰還した。12月7日、約40機でフィリピンに向け出発したが、練度が低いため途中で不時着して機体を損傷する者が続出し、12月17日にポーラック基地に到着した時には機数が半分になっていた。12月20日、神風特攻隊精華隊を編成し、ミンドロ島に出撃。その後は防空任務に就いたが、練度低下で損耗が激しく、12月末には飛行第1戦隊と併せた可動機が6機まで減少し、昭和20年1月9日のアメリカ軍リンガエン湾上陸を受けてパイロットは1月14日に台湾に後退した。ルソン島に残った地上要員246名、ネグロス島に残った35名は地上部隊に編入され、終戦まで戦闘に従事した。3月1日、パイロットは台湾に航空機を残して下館に帰還、高萩飛行場で再建に入った。B-29爆撃機を迎撃したものの、燃料不足と訓練不足で戦果は挙げられず、本土決戦に備えて特攻隊2部隊を編成し、四式戦闘機40機を温存したまま終戦となった。参考:日本陸軍戦闘機隊、護衛空母入門
<飛行第11大隊>:日本陸軍の飛行大隊。飛行第1連隊、飛行第3連隊、飛行第4連隊、独立飛行第10中隊などから戦力を抽出して昭和7年6月に編成された。隷下に4個中隊を置き、甲式四型、九一式戦闘機、九二式戦闘機を配備する。同月、満州に派遣された。昭和8年2月中旬から5月末、2個中隊が熱河作戦に参加。昭和9年9月、九二式戦闘機装備部隊が九一式戦闘機への機種改変を開始。10月、訓練用に使っていた乙式一型偵察機の旧式化が著しいため、二重操縦装置付き九二式偵察機7機の支給願いを出した。昭和10年12月、飛行第11連隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン8,’18、10,’18
<飛行第11連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和10年12月、飛行第11大隊から改称されて新編された。隷下には戦闘4個中隊を置き、九一式戦闘機定数56機に対し50機を保有していた。昭和12年7月、北支事変が勃発したため、9月末から1個中隊(九一式戦闘機12機)が12月20日まで派遣された。12月、九一式戦闘機から九七式戦闘機への機種改変を開始。昭和13年6月、九七式戦闘機への改変を終了、56機を配備した。8月15日、飛行第11戦隊に改称された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第12戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年12月31日未明、ビルマのアキャブ沖でイギリス艦艇が発見されたため、九七式重爆二型6機で飛行第64戦隊一式戦闘機二型8機と共に攻撃に向かったが、イギリス空軍第136中隊スピットファイアMkⅤb戦闘機の迎撃を受け、重爆3機が撃墜され、重爆2機が不時着した。参考:月刊航空ファン3,’17
<飛行第12大隊>:日本陸軍の飛行大隊。昭和7年6月、満州の飛行第7大隊第3中隊(軽爆装備)と、本土から満州に派遣された飛行第7連隊重爆中隊(八七式重爆装備)を統合して新編された。昭和8年1月24日に離陸した第1中隊の八七式重爆1機が行方不明になった。2月5日に乗員が帰還し、不時着していたと判明。不時着時に1名が死亡している。11月、飛行第12連隊に改編された。参考:月刊航空ファン4,’18
<飛行第12連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和8年11月、飛行第12大隊から改編されて創設された。重爆中隊3個からなる。参考:月刊航空ファン4,’18
<飛行第13戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年7月、飛行第13連隊から改称されて新編された。昭和14年7月、練習部が置かれ、下士官操縦者の戦技教育を行うことになった。昭和15年9月、練習部が第2中隊になり、近畿の防空任務を行っていた第1中隊は九七式戦闘機に機種改変した。昭和16年9月、大正飛行場に移動し、1個中隊を伊丹に置いた。この時の戦力は九七式戦闘機25機だった。11月、第3中隊(元独立飛行第102中隊)と司偵1個中隊を新設し、戦闘機保有数は37機となった。12月28日、1個中隊を大正飛行場に残して柏飛行場に移動し、帝都・東部軍防空演習に参加。昭和17年1月、大正飛行場に復帰。3月上旬、第1中隊を京城に派遣。5月上旬、第2中隊を札幌の民間飛行場に派遣。昭和17年8月、第2中隊が飛行第246戦隊に転属した。飛行第13戦隊は第18飛行団の隷下となり、二式複戦への改変を開始。8月20日、二式複戦の最初の3機が配備された。昭和18年4月2日、南東方面進出が決定。二式複戦は37機が配備されていたが、訓練が不十分だったため出発延期を具申、4月20日に先発隊20機がラバウルに向かった。しかし故障が多発して5月11日に到着した時には9機になっており、6月下旬に漸く先発全機が集結している。後続12機は5月23日に空母雲鷹と冲鷹に搭乗し、横須賀を出発、6月末にラバウルに到着した。地上要員と器材は4月21日に宇品を出港したが、5月17日に潜水艦の攻撃で輸送船が沈没、資材を失っている。7月8日、第1中隊以外がウエワクに移動。8月16日、ウエワクが爆撃を受けて大損害を受け、2機(不確実1機含む)を撃墜したものの可動機が2機になってしまった。このため二式複戦から一式戦闘機(第12飛行団がラバウルに残したもの)に改変した。8月21日、一式戦闘機3機で出撃し、P-38戦闘機2機を撃墜したが、2機を失った。8月末の保有機は一式戦闘機十数機と二式複戦数機だった。9月、第1中隊がウエワクに移動。9月23日、可動機は一式戦闘機6機、二式複戦2機だった。9月末、マニラに後退した飛行第24・第59戦隊が残していった一式戦闘機を加えてウエワク防衛戦に参加。11月30日、ワクデ島に後退。この時の可動機は一式戦闘機7機、パイロットは16名だった。ワクデ島では再度二式複戦に機種改変し、付近の防空任務を実施。4月、ハルマヘラ島ワシレ飛行場に移動し、一式戦闘機Ⅱ型に改変した。4月23日、アメリカ軍のホランジア上陸を受けて26機でヌンホル島カメリー飛行場に進出。5月16-17日、P-38戦闘機の攻撃でパイロット4名を失い、ムミに後退した。5月27日のアメリカ軍ビアク島上陸に対して反撃を実施することになり、5月28日未明に8機でビアク沖の船舶を攻撃した。6月1日、ムミが空襲を受けて可動機が2-3機にまで落ち込み、6月3日にワシレへ後退した。7月27日、ハルマヘラ島空襲に対して迎撃を行ったが、P-38戦闘機の反撃でパイロット3名を失った。8月に入りアンボンに後退。8月17日に11機でB-24爆撃機・P-38戦闘機連合の迎撃を行ったが、戦果無く3機を失い、暫く迎撃戦が中止されることになった。8月下旬、ケンダリに後退。9月16日、B-24爆撃機の爆撃で14機が炎上または大中破の大損害を被った。9月16日と18日、モロタイに上陸したアメリカ軍に対して少数の一式戦闘機に100kg爆弾を搭載して出撃したが、3機が未帰還となった。9月25日、28日、30日には迎撃戦で4機を喪失し、10月上旬には可動機が3機にまで減少したため、10月9日に伊丹に戻って戦力回復にあたった。11月19日、先発隊が一式戦闘機Ⅲ型27機で伊丹を出発、12月3日からフィリピンのボーラック基地に進出して捷一号作戦に参加した。12月6日から出撃し、12月14日には菊水隊の護衛に就いた3機が敵船団に突入して失われるなど戦力が半減した。中旬、後発隊がルソン島に進出したが、空襲で航空機を喪失し、12月29日の出撃を最後に台湾に後退した。先発隊も月末までに可動機がゼロになったため、九七式重爆で後退し、後発隊と合流して昭和20年1月16日に第3航空軍に編入され、シンガポールのテンガー飛行場に集結した。3月上旬、独立第25飛行団隷下となり、四式戦闘機10機と一式戦闘機Ⅲ型20機弱でサイゴンに展開。3月末、コンポンクーナンに移動。4月上旬、コンポントラッシュに移動。5月28日、マレーのコタバル飛行場に展開し、南方石油輸送船団護衛を行った。7月15日、台湾に展開して第8飛行師団隷下となったが、練度低下で不時着機が続出し、マレーを出た時20機だった戦力が数機にまで減少してしまった。本土決戦参加のため九州に向かう準備を進めていた最中に終戦となり、昭和21年3月に内地に復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第13連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和12年12月1日に加古川で新編され、昭和13年3月15日に開隊式が行われた。本部と九五式戦闘機Ⅱ型1個中隊からなる本土防空部隊である。昭和13年7月に飛行第13戦隊と改称された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第16連隊>:日本陸軍の飛行連隊。昭和10年12月、飛行第2大隊から改変されて飛行第16大隊として創設され、隷下に戦闘大隊(九一式戦闘機2個中隊28機)及び軽爆大隊(2個中隊)を置いた。昭和11年5月、戦闘大隊が九五式戦闘機への機種改変を開始。昭和12年7月9日、関東軍集成飛行団に編入され、7月12日に天津に前進して直協作戦を実施。8月2日、奉天に後退。8月13日、天津に前進。8月22日、張北に前進、チチハルで地上直協を行った。9月19日、O-38複葉機4機を撃墜し、陸軍戦闘機隊として初撃墜を記録した。9月21日、21機で太原を攻撃。10月初め、海浪に戻った。昭和13年8月1日、飛行第33戦隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン8,’18
<飛行第17戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は誠第15351。昭和19年2月1日から各務原で編成に着手し、2月10日に完結、第22飛行団隷下となった。3月上旬、小牧飛行場に移動したが、配備予定の三式戦闘機が手に入らず、九九式軍偵12機を入手して訓練を行った。5月12日、第2飛行師団の隷下に入った。5月29日、三式戦闘機30機で小牧を出発し、6月3-4日にマニラ郊外のニールソン飛行場に着陸。7月20日の戦力は三式戦闘機35機、うち可動機21機だった。8月末にアンヘレス南飛行場に移動した。9月21-22日、ルソン島にアメリカ艦上機部隊が来襲したため、三式戦闘機21機で迎撃に向かったが、パイロット10名を失って戦力が半減した。9月26日、定数56機に対して保有33機、可動15機であった。10月13日午後、台湾沖航空戦に参加したが、悪天候で引き返した。10月15日も出撃したが、4機が未帰還となった。10月18日、捷一号作戦発動に伴い、12機でレイテ攻撃に向かったが、悪天候で引き返した。10月20日からはネグロス島ラカルロタ基地から連日出撃したが、10月23日までに未帰還15機、炎上・大中破17機の損害を出し、10月24日には可動機が7機となり、11月1日に飛行隊長が戦死、11月中旬までに戦力をほぼ喪失した。12月8日、戦力回復が下命され、12月末から昭和20年1月にかけて台湾経由で小牧に帰還、再編に入った。1月23日、2月15日、2月19日と名古屋に来襲したB-29爆撃機の迎撃も行ったが、1機不確実撃墜、2機撃破の戦果に止まっている。2月16日、第8飛行師団に編入された。2月29日、30機で小牧を出発。3月7日、台湾花蓮港北飛行場に到着したが、故障機が多く、18機しか辿り着けなかった。3月26日、飛行師団命令により特攻隊10名を編成し、3月29日に直掩の9機と共に石垣島に前進。4月1日、慶良間列島沖のアメリカ艦船に対して特攻を実施、特攻隊7機と直掩機1機が未帰還となった。4月23日、第2次特攻隊6名を編成。5月3日、第2次特攻隊が沖縄に突入。5月31日と6月5日、台湾北部の八塊飛行場から第3次特攻隊が出撃。6月10日、宜蘭に移動。五式戦闘機への機種改変が決定したが、操縦資料が無く、機体を運搬してきたパイロットに操縦法を聞いて訓練を行った。6月末、八塊に復帰。8月9日、内地転進の命令が出たため、8月14日に先発隊3機が内地に向かった。8月15日、残りも熊本に向かう予定だったが、終戦のため台湾に留まった。この時、戦力は五式戦闘機11機、空中勤務者12名だった。終戦後は台湾空軍に五式戦闘機の教育を行い、昭和21年2月に復員した。参考:月刊丸1,'17別冊、日本陸軍戦闘機隊
<飛行第18戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は天翔第一九一九〇。昭和18年12月27日の軍令陸甲121号で編成を開始、昭和19年2月11日(10日?)に調布で編成され、三式戦闘機20機が配備された。3月10日、第10飛行師団隷下に入った。5月31日、師団長検閲時に2機が墜落、1機が大破して訓練が中止になった。10月上旬、柏飛行場に移動して訓練を継続。10月21日、25機が大刀洗飛行場に派遣されて防空任務に就いた。10月27日、大刀洗の部隊が柏に復帰。11月1日、マリアナ基地から偵察に来たB-29爆撃機を迎撃したが、相手の高度が高すぎて追いつけなかった。11月11日、35機で柏を出発。柏にも空中勤務者20名と三式戦闘機15機が残っている。11月18日、ルソン島アンヘレス西飛行場に31機で到着、第4航空軍隷下となった。11月19日、アメリカ艦上機の空襲を受けて数機が被弾。11月20日、20機で出撃し、F6F艦戦20機と交戦して2機が未帰還となった。11月23日から特攻隊の援護に就いた。11月25日、離陸直後にF4U艦戦の奇襲を受けて飛行隊長と第2中隊長が戦死した。12月2日、18機がバコロド飛行場に向かい、第2飛行師団隷下に入ってレイテ攻撃を開始した。12月3日、本土に残った部隊(第10飛行師団隷下のまま)が東京防空戦を実施、B-29爆撃機1機を撃墜し、防衛総司令官から賞詞を授与された。12月15日、バコロド飛行場の可動機がゼロになった。昭和20年1月1日以降、パイロットはアンヘレス西飛行場に帰還し、残されていた三式戦闘機十数機で夜間攻撃や特攻援護に就いた。1月4日、本土の部隊は体当たり専門の第6震天制空隊を編成。1月9日、アメリカ軍がリンガエン湾に上陸してきたため、50kg爆弾を搭載して夜間攻撃を行ったが、損耗が激しく、爆撃を受けて飛行場も使用できなくなり、1月13日に北部ルソンのツゲガラオ飛行場に11機で向かった。しかし悪天候で6機が引き返し、残る5機は台湾に着陸、第8飛行師団に吸収されている。1月14日、アンヘレス西飛行場にいた要員60名は徒歩でツゲガラオに向かった。2月20日、エチャゲに到着し、内地に帰還することになり、3月上旬に柏に帰還して再編と五式戦闘機への改変を開始、一部は台湾の飛行第19戦隊に転属となった。3月24日夜、B-29爆撃機を五式戦闘機で迎撃し、1機を損傷させた。4月7日、B-29爆撃機に対する体当たり攻撃を実施、パイロットは生還した。五式戦闘機も配備されていたが、1機が被弾墜落して五式戦闘機初の戦死者を出している。6月、五式戦闘機への機種改変を終了し、松戸飛行場に移駐した。7月末、可動機は15機であった。8月1日、夜間爆撃に来襲したB-29爆撃機を迎撃し、五式戦闘機1機が体当たり攻撃を行った(パイロットは落下傘降下して無事)。8月10日、B-29爆撃機及び護衛のP-51戦闘機を迎撃したが、2機が撃墜された。その後は戦闘の機会も無く、終戦を迎えた。ルソン島にも20数名が残っていたが、臨時歩兵第20大隊に編入されて陸上戦闘を行い、終戦時には6名まで減少していた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊、6,’14
<飛行第19戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は誠第一五三五二。昭和19年2月5日、軍令陸甲第120号に基づいて明野飛行学校で三式戦闘機部隊として編成が始まり、2月10日に完結、第22飛行団隷下となった。3月6日、初度巡視を受けた。3月中旬、伊丹に移動。5月20日から6月10日までにマニラのニルソン飛行場に移動する予定だったが、故障機が多く、進出を終えたのは7月3日だった。7月8日、21機で船団護衛に出撃、7月11日にアンボンに到着し、第6飛行師団第3飛行団隷下に入った。7月19日の船団入泊時には護衛任務を行い、B-24爆撃機11機を迎撃して1機を撃墜したが、4機が被弾し、地上で2機が大破した。7月26日、アンボンの部隊がマニラに向かったが、7月27日に空襲を受けて6機が大破炎上し、残存可動機が2機になってしまった。8月3日、部隊は第1中隊をマニラのサブラン飛行場に残してアンヘレス西飛行場に移動。9月21日、アンヘレス及びサブランの可動全力20機で迎撃戦にあたったが、午前中に6機撃墜・10機被撃墜、午後に4機撃墜・1機被撃墜という結果に終わり、夕方にリパに移動した。9月22日、マニラ湾上空へ7機が出撃したが、1機が不時着した。9月末、定数56機に対して保有36機、可動8機だった。10月15日、マニラ上空の迎撃戦で13機(不確実4機含む)を撃墜したが、4機を喪失した。10月18日、アメリカ軍がレイテに上陸してきたため、アンヘレスから14機で出撃したが、天候不良で引き返す途中にマニラ上空で2機を喪失した。10月19日、6機がリパに前進し、うち3機が爆装して艦船攻撃に出撃した。10月23日までの艦船攻撃で可動機が1機になってしまい、10月24日には空襲で戦隊長が地上で戦死したため将校操縦者が皆無になり、11月1日に内地で戦力回復を図ることが決定、11月10日に小牧に戻った。12月31日、約30機で台湾に向かい、1月2日に台中に到着した。1月3-4日、空襲で2機を地上で喪失した。1月5日にフィリピンに向けて出発したが、戦隊長機が故障したため、1個中隊のみが進出した。フィリピンの部隊は特攻直掩にあたったが、1月8日には3機が未帰還となっている。1月12日、数機がツゲカラオに前進。2月16日、台湾に残留する主力部隊は第8飛行師団隷下に入り、フィリピンへの進出は中止され、飛行第18・第55戦隊の生存者が加えられた。3月8日、第22飛行団に編入され、台湾南部の防空を行った。4月7日、爆装戦闘機による沖縄艦船攻撃及び沖縄特攻に参加することになり、台湾北部の宜蘭に前進。4月11日、特攻機5機と直掩機5機が出撃し、特攻機3機と直掩機2機が未帰還になった。6月6日、保有機が三式戦闘機11機に減少。6月16日、特攻機8機で最後の特攻出撃を実施。6月中旬、花蓮港に移動し、戦力温存を図ったまま終戦となり、昭和21年3月に復員した。フィリピンに残っていた地上勤務者約400名は昭和20年3月に地上部隊に編入され、5月1日にバギオ東で壊滅、終戦後に投降したのはごく僅かだった。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊
<飛行第20戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年12月1日に伊丹で編成を開始、12月5日に編成を完結し、第18飛行団隷下に入り、大正飛行場に移動した。隷下には一式戦闘機Ⅱ型2個中隊を置く。昭和19年2月14日、北方軍に編入され、立川飛行場に移動し、千島に進出する予定だったが、下旬のアメリカ軍マリアナ来襲により東京防空任務を行うことになり、柏飛行場に移動した。その後千島に向かうことになり、第1飛行師団隷下となって4月上旬から千島各地に配備された。6月12日、南方転進命令が出たために立川に移動。7月1日までに沖縄への移動を修了。同月に飛行隊編制(飛行中隊3個と整備中隊1個)に改編した。8月上旬、戦力は一式戦闘機Ⅱ型31機(可動23機)だった。8月25日頃、台湾南部の小港飛行場に移動。10月12日、32機で出撃して迎撃戦を行ったが、離陸直後にF6F戦闘機の攻撃を受けて11機を失った。10月21日、18機でルソン島に進出、第4飛行師団隷下に入った。10月23日から船団防空及びマニラ防衛任務に就いたが、11月2日にファブリカで空襲を受けて保有機の大部分が炎上し、パイロットはマニラに引き返した。以降も残機で特攻隊直衛任務などを実施したが、12月15日に可動機がゼロとなり、隊員の大部分は台湾に帰還、一部はファブリカに移動して直掩任務に就いた。12月30日、ファブリカの残存要員も台湾に戻った。昭和20年1月は戦力回復を行い、2-3月は一式戦闘機Ⅲ型に機種改変して台湾防衛にあたり、4月からは沖縄特攻隊の直掩に就いた他、特攻隊も編成し、6月までにパイロットの大半が失われた。以降は会敵の機会無く、五式戦闘機1機を受領して終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸6,’14
<飛行第21戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和17年10月15日、独立飛行第84中隊から改編されて誕生した。隷下には二式複座戦闘機2個中隊を置く。10月下旬、飛行第1戦隊と共同で昆明攻撃を実施。12月上旬、南スマトラのゲルンバンに進出、第9飛行団隷下となった。昭和18年1月末からビルマ向け船団の護衛に就いた。3月上旬、第2中隊がビルマのミンガラドンに進出、第5飛行師団隷下となり、ラングーン埠頭の防衛を行った。8月上旬第1中隊がミンガラドンに進出し、第2中隊はパレンバンに帰った。昭和19年1月中旬、第1中隊がパレンバンに帰投。8月11日、パレンバン油田に来襲したB-29爆撃機を迎撃し、1機を撃墜した。11月2日、第7飛行師団隷下となった。11月5日、パレンバンを出発。11月6日、セレベス島メナド近郊のアムラン飛行場に進出、モロタイ島の夜間攻撃を行うことになり、11月7日から攻撃を実施。11月13日、マランで整備にあたった。11月20-21日、14機がセレベスに展開し、モロタイ島夜間攻撃を再開。夜間戦闘機の迎撃や爆撃で損害が大きくなり、昭和20年1月15日、パレンバンに帰還して再編成に入った。1月24日午後、特攻隊の七生翔輝隊を編成。7月1日、12機が台湾の桃園基地に展開し、第8飛行師団に編入された。パレンバンには二式複座戦闘機10機が残留している。ソ連参戦で中国に移動する予定だったが、その前に終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第22戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。四式戦闘機を装備する初の飛行戦隊である。昭和19年3月1日に飛行実験部で編成が開始され、3月5日に完結し、3月6日に第12飛行団に編入された。3月25日、相模飛行場に移動。5月12日、第2飛行師団に編入された。8月17日、支那派遣軍に編入された。8月24日、四式戦闘機40機が漢口に展開し、第5航空軍隷下となり、9月17日までに40機を撃墜破した。9月21日、西安にP-47戦闘機が展開したという情報を受けて2機が西安に向かい、飛行場を銃撃した後、戦隊長機が離陸してきたP-47戦闘機に体当たりして戦死した。10月2日、人員のみで相模飛行場に帰還。10月22日、40機で相模飛行場を出発。10月24日、先発隊8機がリンガエン湾上空で奇襲を受けて5機を喪失、2機が不時着した。10月28日夕方、14機がマルコット基地に到着。10月29日、ネグロス島マナプラに展開。11月10日、後発隊の6機がマナプラに進出。11月末、損耗に伴い飛行第200戦隊隷下となった。12月8日に内地への帰還命令を受けたが、輸送機の墜落などでままならず、昭和20年1月中旬以降に漸く相模飛行場に戻って再編に入った。地上勤務者200名はルソン島に残り、地上部隊に編入された。2月24日、第5航空軍に転入した。3月6日、朝鮮の水原飛行場に移動。4月上旬、中国北部の徐州に移動。5月末、京城郊外の金浦飛行場に移動。8月13日、離陸直前にP-47戦闘機の奇襲を受けて6機を喪失。終戦後、10月10日に復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第23戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。太田教導飛行隊をベースとして昭和19年10月11日の軍令陸甲第136号により太田の中島飛行場で編成を開始、10月30日に編成を完結し、11月2日に印旛飛行場に移り、第10飛行師団隷下となった。保有機は一式戦闘機Ⅱ型約20機である。昭和19年末、隷下部隊を本部、第1中隊(二式単戦装備)、第2・第3中隊(一式戦闘機Ⅱ型次いでⅢ型装備)とした。12月1日、一式戦闘機Ⅲ型12機が硫黄島元山飛行場に展開し、第27航空戦隊隷下となり、船団護衛と防空を行った。12月30日、硫黄島の部隊が印旛に帰還。パイロット2名と戦闘機全機を喪失していた。昭和20年1月19日、1個中隊一式戦闘機12機を硫黄島元山飛行場に派遣したが、到着したのは6機だけで、海軍の指揮下で船団護衛と防空にあたらせたものの、2月上旬に全機を失い、要員は2月11日までに四式重爆と一式陸攻で印旛に帰還した。2月16-17日、艦上機迎撃のため太田上空に出動、戦隊長を含むパイロット4名を失った。3月28日、航ハ号作戦発令により、北九州地区での防空を行うことになり、芦屋飛行場に展開、第16方面軍隷下となった。4月12日、印旛に帰還。5月中旬、特攻神鷲隊が隷下に入った。8月15日午前、松本上空で迎撃戦を行い、終戦を迎えた。保有機は二式単戦20機、一式戦闘機Ⅲ型15機、特攻機18機(一式戦闘機だった。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン2,’17
<飛行第24戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年9月1日に飛行第11戦隊をベースとしてハルビンで編成された九七式戦闘機部隊で、隷下に2個中隊を置いた。9月22日、ハイラルに移動。昭和14年5月13日、第23師団隷下に入り、ノモンハン事件に参加。5月18日、1個中隊を2日交替でカンジュル廟飛行場に配置して哨戒飛行を行った。5月20日、LZ型偵察機1機を撃墜し、ノモンハン事件での初撃墜を記録。5月28日、主力がカンジュル廟飛行場に前進。6月12日、ハイラルに帰還。6月20日、九七式戦闘機18機でカンジュル廟飛行場に展開。6月22日、58機(不確実4機含む)を撃墜した。6月23日、ハイラルに戻って整備を実施。6月24日、カンジュル廟飛行場に戻った。7月21日、アライ飛行場に前進、43機(不確実7機含む)を撃墜した。7月29日、アライ飛行場が敵襲を受けて第2中隊全機が損傷のため出撃できなくなった。8月4日、ホシウ飛行場に展開。この日までの総戦果は217機(不確実60機含む)だった。8月5日、ハイラルに戻った。8月24日、19機で採塩所飛行場に前進。8月26日、白銀東飛行場に展開。9月1日、第3中隊を新設。9月15日、タムスク進攻で13機を撃墜し、ノモンハン事件終戦を迎えた。この間にパイロット12名を失っている。終戦後はハイラルに戻った。昭和16年11月、第5飛行集団に編入された。11月20日、ハイラルを出発。12月6日、台湾に到着し、第1・2中隊は潮州、第3中隊は屏東に展開した。12月8日、太平洋戦争勃発でフィリピンへの上陸部隊援護を行った。12月11日午後、18機がフィリピンのビガン飛行場に展開。12月18日、ラオアグに展開。12月21日からリンガエン湾上陸部隊援護を実施。昭和17年1月10日、台湾に戻った。4月、一式戦闘機Ⅰ型に機種改変。6月中旬、ハイラルに戻った。7月上旬にハイラルを発ち、7月23日に広東の天河飛行場に展開、在支米空軍との戦闘を行うことになった。9月、第9飛行団隷下となり、パレンバンに移動。昭和18年2-3月、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。5月2日、第1中隊がバボに展開。5月12日、主力がブーツ東飛行場に展開。5月14日、第1中隊がブーツ東飛行場に到着。部隊は第6飛行師団白城子教導飛行団に編入され、12機がマダン、3機がラエに展開、B-17爆撃機及びB-24爆撃機の迎撃にあたった。6月末、可動機が7機に減少。8月2日、第18軍司令官の護衛に全力9機で出撃したが、戦隊長含む2機が撃墜され、戦隊長及び中隊長全員が欠となってしまった。8月15日、14機でファブアを攻撃。8月16・20日に夜間爆撃を受けて可動機が7機に減少。9月8日、戦隊長が11機を引き連れて到着。10月2日、可動機を飛行第13・第68戦隊に引き渡してマニラに後退。10月下旬、一式戦闘機Ⅱ型21機をウエワクに輸送した後、11月7日に芦屋飛行場に戻った。昭和19年2月14日、北方軍に編入され、北方に向かう予定だったが、トラック・マリアナ空襲により所沢で足止めを喰らい、4月末に下志津に移った。5月6日、南方軍に編入された。5月12日、連合艦隊に編入された。5月15日、45機で下志津を出発。5月23日、先発の18機がハルマヘラ島カウに進出。5月24日、1個中隊8機が西ニューギニアのソロンに進出。5月28日、後発の20機がカウに到着。5月29日、主力がソロンに前進。6月16日、ソロン空襲で損害を受け、6月17日には可動機が1機しか無くなった。6月25日、ソロンから最後の出撃を行い、ハルマヘラ島ワシレに後退。7月1日、第7飛行師団隷下となった。7月20日、可動機が8機に回復。8月、メナドのランゴアン飛行場に後退。10月中旬、飛行第13戦隊から四式戦闘機とパイロット3名が臨時配属された。10月23-24日、アメリカ軍のレイテ侵攻を受けてネグロス島のファブリカに展開、第9飛行団隷下となった。10月24日、レイテ航空決戦に出撃。11月1日、ファブリカ飛行場が爆撃を受け、可動機が数機に減少した。12月1日、マニラに後退。12月8日、戦力回復命令が出たため、飛行機を残して台中に後退。昭和20年2月7日、10機で香港に移動。3月23日、第8飛行師団隷下となり、3月25日に台北に戻った。3月28日、宮古島に展開し、特攻隊護衛及びタ弾による夜間飛行場攻撃を実施した。5月中旬、四式戦闘機と一式戦闘機Ⅲ型混成で宜蘭に移動。6月16日、3隊12機で特攻隊を編成。8月15日、終戦時には約30機(四式戦闘機と一式戦闘機Ⅲ型を半分ずつ)を保有していた。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第25戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和17年11月7日、独立飛行第10中隊から改編されて第1飛行団隷下に創設された。隷下に一式戦闘機Ⅰ型2個中隊を置く。昭和18年4-5月、零陵進攻作戦などを実施。5月末から6月中旬、明野で一式戦闘機Ⅱ型への機種改変を終了。7月23日から8月22日、在支米空軍に対して第1期夏季航空撃滅戦を実施。8月23日から9月8日、第2期航空撃滅戦を実施。秋、第3中隊が編成された。9月上旬、第1中隊を漢口に残し、残りは広東とハノイに移動。9月9日から10月7日、第3期航空撃滅戦を実施。この3期に亘る航空撃滅戦で54機を撃墜し、8機を喪失した。昭和19年春、第5航空軍に転属して大陸打通作戦に参加。4月22日、運城に移動。5月上旬、保有機は22機だった。その後漢口と白螺磯に移り、保有機31機で湘桂作戦に参加。6月から成都を出撃するB-29爆撃機の迎撃にあたった。9月10日、保有機が16機に減少。11月、第2中隊に四式戦闘機が、第1・3中隊に一式戦闘機Ⅲ型が配備され、白螺磯と衡陽に進出。11月10日、兵力が減少したため飛行第48・第85戦隊の隷下に入って戦闘を継続。11月14日、漢口に後退。12月18日、漢口を爆撃に来たB-29爆撃機を迎撃したが、燃料補給中にP-51戦闘機、B-24爆撃機、B-25爆撃機による第2波の攻撃により壊滅、保有機が5機、可動機が2機になった。このため、一部のパイロットを内地に戻し、代替機を受領させた。昭和20年1月末、南京に移動。全隊が四式戦闘機装備となった。5月下旬、北京の南苑に移動。6月、朝鮮の水原に移動。8月13日、沖縄から京城を襲撃したP-47戦闘機とP-51戦闘機の迎撃にあたった。8月15日午前の哨戒飛行を最後に終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第26戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和17年10月10日、北満州で戦闘軽爆混成戦隊として編成された。隷下に九七式戦闘機装備の第1中隊と、九七式軽爆装備の第2・第3中隊を置く。11月20日、戦闘中隊はマニラ郊外のサブラン飛行場に、軽爆中隊はルソン島クラーク飛行場に移動。昭和17年夏、九七式軽爆から九九式襲撃機への機種改変を実施。9月上旬、第1中隊は内地に帰還し、一式戦闘機Ⅱ型への機種改変を実施。10月中旬、第1中隊がフィリピンに戻った。10月下旬、第1中隊がパレンバンに展開。11月初め、第2・第3中隊が18機でニューギニアのブーツ飛行場に展開し、第6飛行師団隷下となった。昭和18年1月27日、第2・第3中隊は第9飛行師団隷下となり、シンガポールに後退した。昭和19年2月19日、第1中隊がハノイに展開。3月4日、第1中隊がアンダマン諸島ポートブレアに展開。4月18日、第1中隊がシンガポールに帰還。戦隊は戦闘機隊に改編されることになり、4月末から5月に一式戦闘機Ⅱ型への機種改変を実施。6月、パレンバン南90kmのベトン飛行場に移動。8月末、保有機は44機であった。10月5日、第4航空軍に編入された。10月11日、22機でマニラのサブラン飛行場に展開。残りは訓練とパレンバン防空にあたった。10月15日、マニラに来襲したアメリカ艦上機の迎撃にあたり、6機を撃墜、3機を失った。10月18日、マニラの部隊は18機で迎撃戦を行い、7機(不確実2機含む)を撃墜、3機を喪失、4機が損傷した。夕方以降、ネグロス島ファブリカに向かったが、可動機は数機であり、10月20日以降のレイテ湾攻撃にも少数の爆装一式戦闘機での出撃しか行えなかった。10月末からファブリカの部隊はマニラに帰還。10月31日、マニラの部隊はレガスピに前進、11月1日にはファブリカに展開した。11月3日、戦隊長がレイテ夜間攻撃で戦死認定されたため、11月4日、ファブリカの部隊が飛行第204戦隊長の指揮下に入った。11月16日、ファブリカの部隊は航空機を置いてマニラに後退。12月上旬、マニラの部隊はクラークを発って内地に帰還。昭和20年1月下旬から明野で一式戦闘機Ⅲ型に機種改変。1月16日、第3航空軍隷下となった。1月24日、パレンバンに残っていた部隊がイギリス艦上機の迎撃戦を実施。七生翔寿隊が初出撃したが、悪天候で引き返した。1月31日に10機、2月5日に3機が明野を出発し、シンガポールに向かった。3月11日、9機が明野を出発し、シンガポールに向かう予定だったが、台北に到着したところで天号作戦が始まったため、第8飛行師団隷下に入って誠第26戦隊と称し、特攻援護に就いた。3月22日、1月31日と2月5日に明野を出発した部隊がシンガポールのカラン飛行場に到着、パレンバンの部隊と合流した。6月26日、第8飛行師団隷下となった。6月30日、シンガポールを出発し、7月6日に屏東に到着、誠第26戦隊と合流して台東飛行場に前進した。8月10日、隷下の特攻2部隊で出撃したが、敵を発見できず引き返した。その後本土決戦に参加する予定となり、可動機20機で菊池飛行場に移動することになったが、その前に終戦を迎えている。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第28戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和14年6月1日、司偵中隊、軍偵中隊、直協中隊1個ずつを隷下に置く偵察戦隊として、満州の温春で第8飛行団隷下に創設された。昭和15年7月、第2飛行集団直轄となった。昭和16年3月、直協1個中隊が飛行第83戦隊に移り、司偵2個中隊編成となった。昭和16年7月28日、独立飛行第63中隊と独立飛行第81中隊に分かれ、本部は第28独立飛行隊本部となり、解隊された。昭和19年5月12日、独立第28飛行隊本部、独立飛行第63中隊、独立飛行第82中隊が統合されてフィリピンで再編された。11月3日、第10飛行師団に編入された。この時は本部と1個中隊が温春に、1個中隊がフィリピンに配置されていた。11月16日、満州の部隊が調布飛行場に帰還。フィリピンの部隊も機材を残して人員のみで内地に戻った。その後昼間高々度戦闘機隊に改編され、12月3日に東金飛行場に移動、昭和20年1月から一〇〇式司偵Ⅲ型改の配備が始まった。2月頃からB-29爆撃機の昼間迎撃に出動したが、元が偵察隊のため練度不足で戦果を得られず、4月7日にはP-51戦闘機に包囲されて4機を失い、以降は戦闘機の護衛が付いている場合には迎撃戦を行わないことになった。6月頃からキ-102が配備されたが、出撃の機会は無く、7月15日に司偵部隊の第28独立飛行隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第29戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和14年7月に偵察隊として岐阜で編成され、朝鮮の会寧に進出した。昭和16年7月、第29独立飛行隊に改称された。昭和19年2月、第29独立飛行隊から改称されて九七式戦闘機飛行戦隊として創設された。3月以降二式単座戦闘機に機種改変した。昭和19年5月中旬、杏樹に移動。6月29日、第8飛行師団隷下となった。7月3日、38機で杏樹を出発。7月11日に台中に到着したが、航法未熟と整備不良により途中で17機が落伍し、陸軍省から詰問を受けた。9機を台北に、残りを小港に展開し、訓練を実施。8月24日、二十数機で武昌に進出。10月12日、台湾にアメリカ機動部隊が来襲、小港に残っていた4機が出撃したが、パイロット1名を失った。他の台湾部隊も大打撃を受けたため、穴埋めをすることになり、10月16日に武昌を出発、10月18日に小港に帰還している。11月8日、20機でクラーク北飛行場に到着。11月13日、特攻隊離陸援護を行っていた時に艦上機80機の襲撃を受けたため、反撃して11機(不確実2機含む)を撃墜したが、6機を失った。その後、一部を四式戦闘機に機種改変している。11月19日、マニラ上空でパイロット4名が戦死。12月7日、オルモック湾への特攻護衛に四式戦闘機5機で出撃したが、全機未帰還となった。残存機は艦船や飛行場の攻撃任務に就き、昭和20年1月15日、南方軍から第8飛行師団隷下に復帰、台湾に後退して再建に入った。2月10日、台中に移動して訓練を継続。2月末、四式戦闘機30機が揃い、空襲を避けて早朝と夕方、夜間に訓練を行った。3月、特攻隊である誠第33-第35飛行隊(四式戦闘機36機)が配属された。4月13日から特攻を開始。5月14日、戦隊にも4機編成の特攻隊3隊が編成されることになり、5月21日から出撃した。6月6日、保有機は37機だった。6月18日、特攻隊2隊が追加編成されたが、出撃の機会は無かった。7月1日、決号作戦準備が下命されたため、迎撃準備に入り、一式戦闘機十数機を補充した。燃料不足の中で訓練に励み、終戦を迎えている。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第30戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年7月21日の軍令陸甲第71号で九九式襲撃機飛行戦隊として東満州東京城で編成を開始、途中で戦闘機部隊に改編されて一式戦闘機Ⅱ型を装備することになり、10月1日に編成を完結し、敦化に移動して第15飛行団隷下となった。11月から九七式戦闘機による訓練を開始、順次一式戦闘機に移行。昭和19年2月、第13飛行団隷下となった。5月末、蒙古力に移動。夏、一式戦闘機Ⅲ型に機種改変した。7月7日、青山堡を出発。7月12日頃、フィリピンのアンヘレス南飛行場に到着。7月31日、可動機は一式戦闘機32機だった。8月1日、ネグロス島マナプラに移動。9月12日、ミンダナオ島に前進するため離陸準備に入ったが、アメリカ艦上機の急襲を受けて可動機が10機に減った。夜に2機が爆装して出撃したが、1機が未帰還となった。9月13日、アメリカ艦上機の迎撃で損害が増したため、9月14日は迎撃戦闘を行わず、戦力を温存、夕方にアンヘレスに後退した。10月15日、台湾沖の機動部隊攻撃機の援護に出撃したが、落伍機が続出して艦隊上空まで辿り着いたのは2機だけだった。10月16日、主力は所沢に輸送機で機材受領に向かい、残りは飛行第31戦隊指揮下となった。機材受領後バンバンに戻ったが、11月1日に戦力回復命令を受けて再び内地に帰還、相模飛行場で一式戦闘機約40機を受領する予定だったが、機材が揃わず、訓練も遅れ、昭和19年12月31日に大刀洗を出発した。フィリピンに残った部隊は11月5日に戦力を失ってマバラカットに後退した。昭和20年1月6日、大刀洗を出発した部隊がツゲカラオ(本部、第1中隊、第2中隊)とエチャゲ(第3中隊)に進出。1月17日に第4航空軍司令官が無断で台湾に脱出、相前後して本戦隊も一部を残して台湾に後退した。2月上旬、台湾での保有機は20機だった。フィリピンのエチャゲに残った部隊はリンガエン湾付近の敵への攻撃を実施。3月上旬、台湾の部隊はタイのロップリー飛行場に移動、第5飛行師団第4飛行団隷下となり、ビルマ撤退に従事した。3月20日夕方、フィリピンの部隊がアメリカ軍機を追尾して飛行場銃撃を行い、多数機を炎上させた。その後、フィリピンの部隊は第4飛行師団集成飛行隊を編成し、中部ルソンへの攻撃を実施。5月、フィリピンの部隊が損耗のため台湾に後退。地上勤務者はエチャゲに集結して地上戦闘に移った。5月30日、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第31戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年8月1日、飛行第5大隊から改編され、軽爆戦隊として創設された。11月中旬、第4飛行団所属となり、日華事変の広東作戦に参加。昭和14年7月26日、第2飛行集団に転属。8月下旬、ハイラルに前進し、九六式軽爆を駆ってノモンハン事件に参加。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦に伴い第10飛行団隷下となり、軽爆3個中隊でタイ及びビルマに展開。昭和17年7月、満州の嫩江に戻った。昭和18年末、一式戦闘機隊に改編された。昭和19年5月12日、第2飛行師団第13飛行団隷下となった。5月末からチャムスで訓練を実施。7月9日、チャムスを出発し、7月31日にクラークに集結、ネグロス島ファブリカ飛行場に展開した。保有機は36機、可動機は24機だった。整備員は7月31日に輸送船がアメリカ潜水艦に撃沈され、116名が死亡したため、ファブリカに到着したのは8月下旬になった。8月末、アメリカ軍のフィリピン及びハルマヘラ島侵攻に備え、メナド、ミンダナオ島デルモンテ、レイテ島サンパウロ、マニラに整備員を分散した。9月12日、フィリピンにアメリカ艦上機が来襲。ネグロス島が翌日にかけて空襲を受け、十数機を撃墜したが、パイロットの半分を失った。9月14日夕方、11機でアンヘレスに後退し、マニラ防空にあたった。9月21-22日、マニラに来襲したアメリカ艦上機を迎撃したが、可動機が6機に減った。10月上旬、戦隊長ら十数名を残してパイロットの主力が内地に機体受領に向かった。10月5日、フィリピンの残留部隊がマバラカットに移動。10月25日、フィリピンの残留部隊が5機でファブリカに前進、レイテに上陸したアメリカ軍を攻撃した。11月5日、フィリピン残留部隊がマバラカットに後退、内地から帰還したパイロットと合流した。11月21日、保有機が31機に回復。11月22-23日、14機でファブリカに前進。12月、高千穂降下部隊援護のため一式戦闘機十数機でマバラカットに移動。12月6日、挺身第1戦隊降下部隊を援護し、ファブリカに戻った。その後はオルモック湾周辺で攻撃や援護任務に就き、中旬からはミンドロ島やレイテ島にある飛行場をタ弾で攻撃した。昭和20年1月8日以降、マバラカットに残っていた部隊は精華特攻隊に編入され、リンガエン周辺のアメリカ艦船への特攻を行い、戦力消耗後はツゲカラオに後退し、台湾に脱出して飛行第20戦隊及び飛行第30戦隊に吸収された。ファブリカの部隊はアメリカ軍のルソン島上陸で孤立、2月17日に第3航空軍に転属している。2月21-22日、B-24爆撃機の爆撃で飛行場が使用不能となった。3月8日、空襲で保有機4機のうち3機が炎上、可動機がゼロになった。3月末、戦隊長ら3名はネグロス島を脱出し、シンガポールに到着した。5月30日、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第33戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年8月1日、飛行第16連隊を母体として牡丹江で編成され、隷下に九五式戦闘機3個中隊を置いた。張鼓峰事件が勃発したため、太平嶺飛行場に前進。終結後に杏樹飛行場に移動。昭和14年8月26日、ノモンハン事件参加のため平安鎮に移動。可動機は31機だった。8月30日、トボス飛行場に前進。9月2日、ノモンハン事件での初空戦で4機を撃墜。9月末、杏樹に帰投。九七式戦闘機に機種改変し、太平洋戦争勃発後の昭和17年5月、一式戦闘機Ⅰ型に機種改変した。9月1日、杏樹飛行場を出発。9月10日、32機で広東の天河飛行場の到着、第1飛行団隷下となった。9月23日、桂林飛行場攻撃を実施。昭和18年3月、第2中隊を残して武昌に移動。6月、一式戦闘機Ⅱ型への機種改変を終了。6月6日、梁山攻撃で駐機していたP-40戦闘機24機を銃撃して炎上させた。7月、第2中隊が武昌に合流。7月23日から在支米空軍に対する夏季航空撃滅戦を開始。8月23日から第2期航空撃滅戦を開始。9月5日、武昌を出発してハノイに移動、第3期航空撃滅戦を開始。10月8日、第5飛行師団隷下となった。10月9日、サイゴンに集結。主力は10月中旬から下旬までパレンバンに、第2中隊はビルマのタボイに移動、11月3日に南ビルマのマウビ飛行場に全力で集結し、ロイレンに進出した。昭和19年1月3日、バンコクに移動。1月15日、スマトラ島メダンに移動して第9飛行師団隷下となった。1月31日、ニューギニアへの移動を命じられ、2月4日にシンガポールに集結。2月12日、シンガポールを出発。2月22日、ホランジアに進出し、第6飛行師団第8飛行団隷下となった。その後ウエワクに前進し、3月上旬から付近で迎撃任務に就いた。4月11日までに42機を撃墜したが、可動機は6機となり、4月17日にパイロット7名が空路でフィリピンに脱出、残るパイロットと地上要員は陸路でサルミに撤退した。6月、生存者は南スマトラのゲルンバン基地に集結して戦隊を再建。8月末、保有機37機に回復した。10月28日、25機で出発し、10月29日までにマニラのニルソン飛行場に到着、第4飛行師団隷下となった。10月31日、ネグロス島ファブリカに前進。11月4日、F6F戦闘機の機銃掃射で保有機の大半を破壊されたため、ニルソン飛行場に撤収、一式戦闘機Ⅲ型を受領した。11月8日、レガスピーに前進したが、悪天候で戦隊長が行方不明になった。その後は船団護衛に就き、11月13日からマニラ防空を実施。11月24日から特攻援護に就いた。12月25日、戦力回復のためスマトラに帰還することになり、保有機を特攻隊に渡して1月5日に輸送機で脱出、1月21日に南スマトラのベトン飛行場に到着した。フィリピンには100名が残り、ルソン島でゲリラ戦を展開したが、終戦後に生還したのは13名だった。スマトラの部隊は付近で迎撃や護衛任務に就き、6月2日に解隊され、第9飛行師団直属の翔忠戦闘隊に改編された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第44戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和15年5月18日から第3飛行集団隷下で百一号作戦に参加。参考:月刊航空ファン1,’18
<飛行第47戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年10月3日、独立飛行第47中隊から改編された。第17飛行団隷下で、第1・第2中隊からなり、使用機は二式単戦で、調布飛行場に置かれていた。12月、成増飛行場に移動。昭和19年1月、3個中隊規模に拡大されると共に飛行隊編制に改編され、隷下に飛行隊と整備隊を置いた。航空戦力一体化を謳った飛行隊編制だが、実際には第1中隊を日向隊(後に旭隊)、第2中隊を富士隊、第3中隊を桜隊として独立運用している。11月1日、保有機は二式単座戦闘機Ⅱ型丙5機、同Ⅱ型乙49機だった。1300、マリアナからのF-13A偵察機が東京偵察を実施しため、迎撃にあたったが、高々度性能が不十分で、高度10000mに到達して攻撃できたのは数機のみであり、F-13A偵察機は悠々と去って行った。11月7日も同様で、体当たり専門の震天制空隊(パイロット4名を選抜。この名称を付けたのは12月5日)を編成し、使用機は機関砲、防弾装備、不要な部品にネジまで外して11000mまで上昇可能とした。11月24日1200過ぎ、高度8000-10000mを東京空襲に向かうB-29爆撃機を迎撃し、2機を撃墜、3機を撃破。うち撃墜1機は震天制空隊によるもので、体当たりを行ったパイロットも戦死した。12月3日、小隊ごとにB-29爆撃機1機を攻撃する戦法をとり、5機を撃墜、7機を撃破し、全機生還した。昭和20年1月、四式戦闘機の慣熟訓練を開始。1月9日、震天制空隊による体当たり攻撃を実施、B-29爆撃機のエンジン1基を破壊したが、体当たりを行った1名が戦死した。僚機が損傷したB-29爆撃機を撃墜している。1月27日、体当たり攻撃で1名が戦死。2月10日、体当たり攻撃で1名が戦死。2月中旬、四式戦闘機への改変を終了し、54機を配備した。2月16日、太田上空でF6F艦戦16機とSB2C艦爆2機を撃墜。2月19日(17日?)、第10航空師団隷下から第6航空軍隷下に移った。その後第30戦闘飛行集団隷下となり、佐野飛行場に移った。4月末、成増に帰還。5月27日、主力は都城西飛行場に移り、第100飛行団隷下となり、沖縄特攻の援護に就いた。7月下旬、小月飛行場に展開し、第12飛行師団隷下となった。8月14日、P-38戦闘機5機を撃墜。翌日に終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊航空ファン11,’15
<飛行第48戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年7月21日に軍令陸甲71号により、東満州の間島で編成を開始、11月5日に完結した。一式戦闘機2個中隊を隷下に置いたが、機材が揃わず、初めは九七式戦闘機で訓練を行い、昭和19年に入って一式戦闘機に改変、4月頃に一式戦闘機Ⅱ型3個中隊40機が揃った。4月27日、大陸打通作戦に参加するため間島飛行場を出発。4月29日、武昌飛行場に到着し、第5航空軍第1飛行団隷下となった。5月12日から戦闘に参加。6月末までに可動機が10機強に低下。7月24日、P-40戦闘機の攻撃で地上に於いて6機が大破、3機が小破し、7月28日にもP-40戦闘機の攻撃を受けて十数機を地上撃破された。8月8日、全力の9機で出撃し、7機を撃墜したが、3機を失った。この日までの戦果は35機撃墜、40機撃破だった。11月上旬、保有機が22機に回復。衡陽飛行場に前進して桂林攻略作戦に参加した。11月10日、桂林上空で制空任務に就いた後、爆装して再出撃しようとしたところ、アメリカ軍機100機以上に襲われ、6機が地上で炎上、3機を空戦で失った。11月11-12日も飛行場が襲撃されたため、武昌に後退。この時の可動機は3機だった。年末までに一式戦闘機Ⅲ型に改編。昭和20年1月14日、漢口に出撃したが、3機を喪失し、数機が不時着した。2月上旬、広東に移動し、第2飛行団隷下となった。2月末に武昌に復帰、3月末に再度広東に移動。5月、南京郊外の土山鎮飛行場に移動。6月、泰県飛行場に展開。8月13日、ソ連機甲部隊攻撃のため北京転進の命令を受けたが、悪天候で出発できず、終戦を迎えた。8月15日の終戦時には制空機54機、特攻機25機を保有していた。その後は国共内戦に巻き込まれ、昭和21年1月末に機材を中国空軍に引き渡し、復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸6,’14
<飛行第50戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和15年9月5日、飛行第8戦隊戦闘中隊をベースに編成された。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置く。9月10日、台中で編成を完結。11月26日、恒春に移動。昭和16年8月、第3中隊が新編された。12月8日、第5飛行集団第4飛行団隷下でフィリピン作戦に就いた。12月9日、バスコ飛行場に前進。12月11日、アパリ飛行場に前進。12月13日、クラークを攻撃。12月19日、ビガンに集結してリンガエン湾上陸船団護衛を実施。昭和17年1月5日、第3中隊のみが第14軍飛行隊に編入された。1月7日、第3中隊がクラークに移動。1月8日、主力は台中に戻った。1月17日、主力は広東に到着。1月19日、主力はナコンサワンに到着。1月23日、主力はラングーン航空戦に参加。3月7日、第3中隊がサブラン飛行場に移動。3月中旬、主力は17機でミンガラドンに進出。4月12日、第3中隊は機材を独立飛行84中隊に渡して台中に戻った。4月14日、主力も台中に引き上げ、第3中隊と合流して内地に戻った。4月下旬から明野と所沢で一式戦闘機Ⅰ型への機種改変を実施。6月8日、45機で所沢を出発。6月22日、シンガポールのセンバワン飛行場に展開。8月末、シンガポールを出発。9月2日、ミンガラドン飛行場に進出、第5飛行師団第4飛行団隷下となった。9月下旬からマグエ北飛行場に展開。10月16日、北ビルマのシュウエボ飛行場に展開。10月末、メイクテーラ北飛行場に移動。11月中旬、トングー南飛行場に展開。12月からチッタゴン攻撃、マグエ迎撃、昆明攻撃を行った。昭和18年1月から第2次昆明攻撃、ラングーン防空などを実施。2月3日、保有機が16機に減少したため、1個中隊を残してパイロット9名がスラバヤに後退。2月10日、一式戦闘機Ⅱ型20機を受領し、スラバヤとシンガポールで機種改変を行った。3月中旬、戦隊主力はテンガー飛行場に後退、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変し、下旬に24機でメイクテーラに展開した。その後モンドウ、パタガ、インパール、昆明、チッタゴンなどを攻撃。6月10日、シンガポールに後退。6月中旬、バンドンに移動。6月末から8月上旬まで、バボ、カイマナ、マノクワリに9機を派遣。8月中旬、マレーのスンゲイパタニに移動、1個中隊をミンガラドンに派遣。10月上旬、主力もミンガラドンに移動。10月中旬、主力は中部ビルマのヘホ飛行場、第3中隊はサモンカン飛行場に展開。12月5日、カルカッタ進攻に参加。昭和19年3月からインパール作戦に参加。4月2日、サモンカン飛行場がP-51戦闘機の空襲を受け、15機が炎上したため、サイゴンで代替機を受け取って復帰した。6月上旬、第3航空軍司令官から部隊感状を授与された。7月から拉孟・騰越守備隊への物量投下を実施。7月末、29機を保有していた。8月上旬、サイゴンに後退、四式戦闘機に機種改変した。10月19日、ミンガラドンに復帰。12月下旬、マウビに移動。12月末、四式戦闘機13機と一式戦闘機4機でシエボを攻撃し、戦車や車両100両以上に損害を与えた。昭和20年1月9日、アキャブのイギリス艦船を攻撃。1月13日、主力20機でサイゴンに移動し、3名の特攻隊を編成した。2月中旬、一部をツーランと三亜に派遣。3月からB-24爆撃機の迎撃にあたった。その後、部隊はプノンペンに移動。4月20日、モールメンに前進。4月21日、南方軍総司令官から部隊感状を授与された。ビルマ航空戦での通算戦果は撃墜破237機だった。6月中旬、4機をコタバルに分遣し、タンカー援護を実施。7月2日、四式戦闘機20機と整備員を乗せた九七式重爆でブインを出発。7月3日、台中に到着し、第8飛行師団隷下となった。7月18日、嘉義に移動、沖縄特攻援護を実施することになったが、出撃の機会は無く、訓練に従事した。ソ連参戦を受けて内地に帰還することになったが、直前に終戦を迎えた。11-12月、台南で保有機を中国空軍に引き渡し、伝習教育を行い、昭和21年2月に復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第51戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年4月28日、四式戦闘機隊として第16飛行団隷下に編成された。6月15日、防府飛行場に移動して訓練を継続。7月8日、B-29爆撃機迎撃に出撃。8月20日、18機でB-29爆撃機を迎撃し、2機を撃破。9月29日、27機が防府を出発。9月30日、12機が防府を出発。10月6日、ルソン島デルカルメンに進出。10月9日、ポーラック飛行場に展開。10月13日、海軍機援護に出撃。10月15日、海軍攻撃隊の護衛に就いた。10月18日、グラマン13機を撃墜したが、3名が戦死した。10月23日、可動機が7機に減少。10月24日、第1次レイテ総攻撃に参加し、サラビアに着陸した。以降はレイテ上空で制空任務や船団護衛を実施。11月5日、可動機が1機に減少。11月13日、生存パイロット5名が輸送機でポーラックに向かったが、途中でアメリカ軍機に撃墜された。他の生存パイロットは11月19日までにポーラックに移動。11月末、パイロットは内地に帰還、下館飛行場で戦力回復に入った。地上勤務者52名は第6航空地区司令官隷下となり、地上戦闘に入った。昭和20年1月30日、第8飛行師団隷下で台湾方面に進出する予定だったが、第1航空軍司令官の検閲で戦力不十分と認定されたため、訓練を継続した。2月16-17日、艦上機迎撃を実施。3月28日、伊丹に移動。4月20日、下館に帰投。6月10日、房総上空で空戦を実施。その後は兵力温存に努め、8月14日夜、熊本に展開して沖縄特攻援護に就くよう命令を受けたが、移動前に終戦を迎えた。可動機は四式戦闘機23機だった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第52戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年4月28日に第16飛行団隷下に編成された四式戦闘機部隊である。5月5日、芦屋飛行場に移動。8月20日、四式戦闘機15機で福岡上空のB-29爆撃機と交戦、2機を撃墜したが、同日の夜間出撃の際に2名が離着陸事故で戦死した。9月26日、40機で芦屋を出発。9月29日、ルソン島デルカルメン飛行場に展開し、基地防空にあたった。10月13日、海軍攻撃隊の援護を実施。10月15日、マニラに来襲したアメリカ艦上機を迎撃、8機を撃墜した。午後はフィリピン東方に出撃した。10月23日、可動機が8機に減少。10月24日、10機でデルカルメンを出発、ネグロス島サラビアに前進。10月26日、タクロバン飛行場をタ弾で攻撃。10月末、保有機は13機、可動機は8機だった。11月5日、可動機がゼロとなった。11月13日、戦隊長らが輸送機でルソン島に向かったが、そのまま行方不明になった。他の要員はルソン島のデルカルメンに後退している。12月初旬、内地に帰還。12月10日、下館に移動。2月16-17日、アメリカ艦上機を迎撃して十数機を撃墜。3月19日午後、機動部隊攻撃のため三十数機で離陸し、伊豆半島沖を索敵したが、発見できず明野に着陸した。ただ途中で故障機が続出し、明野に着陸したのは1機だけで、上級司令部から叱責されている。この1機は3月20日に下館に戻った。3月下旬、伊丹を経て加古川に移動。4月下旬、下館に移動。特攻隊が配属され、訓練が終わると防府に展開して沖縄に突入した。6月10日、B-29爆撃機迎撃に出撃したが、護衛のP-51戦闘機に奇襲を受け、3機を撃墜したものの3機が撃墜された。その後は戦力温存に努め、7月には一時調布飛行場に移動。8月15日、熊本の健軍飛行場への移動準備をしていた時に終戦となった。保有機は30機だった。8月24日、納め飛行を行い、8月28日に解散式を実施、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第53戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年3月23日、所沢で二式複戦夜間防空戦隊として編成され、第10飛行師団の隷下に入った。パイロットは午後に起床して夕方から訓練を行い、夜明けに就寝、視力増強のためビタミンAを服用し、猫の目部隊またはふくろう部隊というニックネームを付けられている。8月、松戸飛行場に移動。11月7日、体当たり専門の震天制空隊を編成。11月24日、B-29爆撃機1機を撃墜。11月29日、初の夜間迎撃を実施。12月3日、震天制空隊がB-29爆撃機に体当たりして戦死。戦隊の戦果は2機撃墜、3機撃破だった。昭和20年1月9日、B-29爆撃機2機を撃墜、1機を撃破、1月16日、昼間防空任務を解除され、夜間防空専任部隊となった。3月9日、東京大空襲でB-29爆撃機十数機を撃墜。4月15日夜、B-29爆撃機12機を撃墜し、11機を撃破した。5月24日未明、大森上空でB-29爆撃機8機を撃墜、16機を撃破した。5月25日、B-29爆撃機12機を撃墜、23機を撃破したが、5機が地上撃破された。この頃からP-51戦闘機が護衛に就くようになったため、一〇〇式司偵四型が配備されることになったが、終戦までに間に合わなかった。また、タキ二号機上レーダーの装備試験も行われたが、これも終戦までに実用化できなかった。B-29爆撃機も地方都市の昼間爆撃を行うようになり、夜間迎撃の機会自体が激減している。6月20日、藤ヶ谷飛行場に移動。7月上旬、二式複戦7機を一時富山に派遣。7月9日、第12方面軍司令官から部隊感状を授与された。この日までの戦果はB-29爆撃機撃墜破168機。7月10日、可動機は二式複戦34機だった。8月14日、最後の夜間迎撃を実施。8月18日、全機で東京上空を示威飛行し、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊JWings5,’13
<飛行第54戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和16年7月26日、柏飛行場において飛行第5戦隊で編成に着手し、隷下に九七式戦闘機3個中隊を置いた。9月6日、臨時編成を完結。当初は対ソ戦に投入される予定だったが、緊張が緩和されたため、中国戦線に進出することとなった。11月16日、柏を出発。11月28日、漢口飛行場に展開。昭和17年1月8日、第3中隊が長沙上空でSB重爆5機を撃墜、2機を撃破して賞詞を受けた。2月下旬、広東に移動。一部は飛行団直轄となり南京防空を担当した。4月18日、南京の1個中隊は日本本土奇襲攻撃後に中国に向かったドゥーリットル爆撃隊を捜索したが、発見できなかった。5月中旬、第3中隊を広東に残し、主力は杭州に移動。その後主力は南昌に移り、6月下旬から衡陽を攻撃。7月下旬、第3中隊が本体に合流。9月23日、独立第20飛行団に編入された。10月上旬、南京を出発し、千歳飛行場に到着した。11月、本部と第2中隊を札幌、第3中隊を苫小牧に分遣。昭和18年1月、帯広に移動。1-2月、立川で一式戦闘機Ⅱ型に機種改変。4月、大正飛行場に移動。4月30日、第1中隊が台北に移動。6月上旬、本隊は北海道に復帰。7月20日、本隊は北千島幌筵柏原基地に進出、アリューシャンから来襲するアメリカ軍機の迎撃任務に就いた。9月、第1中隊がスマトラに移動。11月、本隊が吹雪により保有機の大半を喪失し、可動機が無くなった。昭和19年2月、本隊の戦力が3個中隊程度に回復。2月29日、第1中隊が独立飛行第24中隊として独立。8月中旬、北千島派遣隊12機を残し、主力は丘珠飛行場に到着。一部が苫小牧に分遣された。10月、北千島派遣隊は占守島片岡飛行場に移動。10月25日、主力28機で所沢に向かい、一式戦闘機19機を札幌、二式複戦4機を千歳に残した。主力は所沢で一式戦闘機Ⅲ型に機種改変し、11月2日に整備員を乗せた重爆2機と共に出発。11月4日、先発12機がマニラのサブラン飛行場に到着。11月5日、マニラ防空に出撃したが、3機を失った。11月6日、主力がマニラに集結。11月10日、12機でネグロス島ファブリカに前進。昭和20年1月末、パイロットが7名に減少。2月1日、整備員を残してパイロットは内地に向け出発。3月中旬、パイロットが沼ノ端飛行場に帰還、戦力再建に入った。また、特攻隊2隊が編成された。7月初め頃に定数を回復。7月末、北千島派遣隊が3機を残して本隊に合流。8月14日、24機が爆装して落合飛行場に向かったが、悪天候で札幌に引き返した。8月15日、離陸直前に終戦となった。終戦後、占守島に残っていた3機が8月18日に上陸してきたソ連軍に対して反撃を実施。8月21日、2機が脱出した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第55戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は天鷲第一八四二七。昭和19年3月23日に軍令陸甲34号に基づき大正飛行場で編成に着手、三式戦闘機Ⅰ型を装備して4月30日に編成を完結した。5月25日、小牧に移動して第18飛行師団隷下となった。7月、第11飛行師団隷下となった。8月、第23飛行団隷下となった。11月6日、フィリピンへの移動命令が出された。11月12日、三式戦闘機38機と整備員を乗せた輸送機3機で小牧を出発。残留部隊は中京地区の本土防空にあたっている。11月18-19日、ルソン島アンヘレス西飛行場に到着。11月23日夕方、三式戦闘機20機でネグロス島タリサイ飛行場に進出。11月24日、12機でレイテ第2次航空総攻撃に参加したが、6機(7機?)が撃墜され、6機が損傷した。その後もレイテ進攻やオルモック湾の船団援護を実施。その後バコロドを経てマナプラに移動。一部は航空機受領のためアンヘレスに後退し、6機を受領したが、アメリカ軍のリンガエン湾上陸でその対応に追われ、昭和20年2月上旬にルソン島を脱出して台湾に戻った。本隊も昭和20年1月末にネグロス島を脱出し、3月に内地に帰還、小牧で再建を開始した。地上勤務員はネグロス島とルソン島に残って地上戦を戦い、ほぼ全滅している。本土残留部隊は昭和19年12月18日と22日にB-29爆撃機1機ずつを撃墜。昭和20年1月3日にはB-29爆撃機1機を撃墜し、残留部隊長がB-29爆撃機に体当たりして戦死した。3月中旬、三式戦闘機6機と九七式戦闘機を保有していた。3月18日未明、名古屋に来襲したB-29爆撃機を迎撃し、4機を撃墜。3月31日、沖縄作戦に参加するため8機で芦屋に移動、第1攻撃集団に編入された。4月9日、戦隊全力で万世飛行場に前進。また、逐次三式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。7月中旬、小牧に復帰。8月上旬、佐野飛行場に移動。保有39機、可動24機、空中勤務者62名を擁し、本土決戦に備えて戦力温存を図る予定だったが、8月14日に方針転換で迎撃に出撃、飛行隊長が戦死し、終戦を迎えた。参考:月刊丸1,'17別冊、日本陸軍戦闘機隊
<飛行第56戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は天鷲第一八四二八。昭和19年3月23日に軍令陸甲34号に基づいて大正飛行場で編成を開始し、3月26日に編成を完結、第18飛行団に編入された。明野で三式戦闘機5機と一式戦闘機2機を受領して4月28日に伊丹飛行場に移動、訓練を開始。5月20日、小牧に移動。6月末、夜間飛行訓練を開始。7月、第11飛行師団に編入され、毎日1個分隊を高度8000mの哨戒任務に就かせた。8月21日、西部軍隷下となり、三式戦闘機17機で大刀洗飛行場に移動。9月1日、済州島に移動。9月9日、訓練からの着陸時に機体が転覆する事故があり、パイロット1名が死亡した。10月25日、B-29爆撃機の西九州来襲に対応して全力17機で出動し、撃墜1機、撃破6機の戦果を挙げ、損害は被弾6機、負傷2名だった。10月26日、訓練中の事故で1名が死亡。大刀洗から空輸される筈だった修理機が五島列島西で行方不明になり、パイロットが死亡認定された。前日の爆撃損害評価を行って帰投中のB-29爆撃機1機を3機で攻撃したが撃墜には至らず、帰路に密雲のため航法を失い、翌日に1機は泗川飛行場に不時着、1機は五島列島大瀬崎300度15海里に不時着水してパイロットが死亡、1機は木浦に不時着してパイロットが重傷を負った。11月9日、済州島から大刀洗に帰還。11月15日、三式戦闘機17機で伊丹に移動したが、1機が瀬戸内海小豆島沖に不時着水し、パイロット1名が死亡した。11月20日、三式戦闘機14機で大刀洗に前進。11月21日、有明海上空でB-29爆撃機3機を撃墜、1機を撃破したが、1機が喜瀬川河畔に墜落してパイロット1名が戦死した。11月22日、伊丹に帰投。12月1日、特攻隊員人選の通達を受領し、3名を第20振武隊要員として北伊勢飛行場に送った。12月3日、大刀洗に移動。12月8日、伊丹に帰投。12月13日、名古屋でB-29爆撃機を迎撃したが、高度9000mを飛行するB-29爆撃機に届かず、戦果を挙げられなかった。そのため酸素吸入装置を改良し、防弾装備と主翼の20mm機関砲を外して12月18日に出撃、撃墜2機・撃破2機の戦果を挙げた。12月22日、名古屋上空でB-29爆撃機10機編隊を迎撃したが、1機が撃墜され1名が戦死した。12月25日、大阪湾上空で側後上方射撃訓練を行っていた1機が機関故障を起こして行方不明になった。パイロットは後に淀川河口で発見され、死亡が確認されている。昭和20年1月3日、名古屋上空で体当たりによりB-29爆撃機2機を撃墜し、体当たりで1名、空戦で1名が戦死した。3月14日未明、大阪市を爆撃したB-29爆撃機90機を迎撃したが、飛行場の視界が悪く、離陸直後に1機が工場の煙突に衝突してパイロットが戦死、1機が離陸直後に姿勢を崩して墜落しパイロットが重傷を負い、1機が着陸直前に空間識失調により墜落状態となり落下傘降下したパイロットが重傷を負った。3月17日、神戸への夜間空襲を行ったB-29爆撃機への体当たり攻撃で飛行隊長が戦死した。他に離陸時の事故と被弾で1機ずつを失い、パイロットも両方戦死している。3月31日、第12飛行師団に編入され、27機で芦屋飛行場に移動、九州の防空を行った。4月18日、大刀洗を空襲したB-29爆撃機を迎撃したが、被弾して大刀洗飛行場に不時着しようとした1機が着陸時に転覆炎上し、パイロット1名が戦死した。4月29日、足摺岬でのB-29爆撃機捕捉攻撃を行うため、佐伯の海軍基地に移動。5月3日、佐伯飛行場を偵察したB-29爆撃機1機を警急1個分隊と主力10機で迎撃したが、捕捉できず、機関故障を起こした1機が着陸降下中に失速して墜落炎上、パイロット1名が戦死した。午後、足摺岬上空に空中集合していたB-29爆撃機を迎撃し、撃墜1機・撃破数機の戦果を挙げた。5月4日、足摺岬上空に集結中のB-29爆撃機を襲撃したが、B-29爆撃機の第2梯団が送り狼となって佐伯飛行場を爆撃、燃料弾薬補給中の10機が炎上し、7名が地上で戦死、迎撃に向かった1名も被弾して不時着戦死し、可動機が3機になってしまった。5月7日、芦屋に後退して戦力回復に入った。5月24日、伊丹に後退し、三式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。6月5日、神戸を空襲したB-29爆撃機を迎撃したが、3名が戦死した。6月7日、大阪を爆撃したB-29爆撃機を迎撃したが、迎撃戦で1名が戦死、飛行場への爆撃で2名が戦死、大阪駅周辺で転属赴任中の2名が死亡した。6月10日、浜松に展開していた野崎分隊がP-51戦闘機に護衛されたB-29爆撃機と交戦し、1機が撃墜されパイロット1名が戦死した。7月9日、P-51戦闘機を迎撃して3機を失ったため、昼間の迎撃を中止することにした。7月末、保有機は46機、可動機は20機、空中勤務者は48名だった。終戦までの戦果はB-29爆撃機撃墜11機。参考:月刊丸1,'17別冊、日本陸軍戦闘機隊
<飛行第59戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は天風第二三七七。昭和13年7月1日、各務原飛行場で飛行第1連隊をベースに編成を開始、7月5日に完結した。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置き、保有機は25機だった。8月12日、各務原飛行場を出発し、東満州の延吉に進出。8月27日、延吉を出発。9月8日、安慶に進出。11月3日、漢口に移動。昭和14年2月、山西省運城に移動し、重爆隊の帰路援護にあたった。その後漢口に帰還。8月末、ノモンハン事件で派遣命令が下り、9月1日に漢口を出発、9月9日にハイラルに到着、更に採塩所飛行場に前進した。9月15日、タムスク進攻で11機を撃墜したが、5機が未帰還となった。9月24日、ハイラルを出発。10月3日、漢口に帰還。昭和15年8月9日、漢口を出発。8月11日、広東に到着。9月上旬、欽県に移動、南寧撤退作戦に参加。11月20日、広東に帰還。11月28日、広東を出発。12月1日、漢口に復帰。昭和16年6月、立川に帰還、一式戦闘機を最初に装備することになり、Ⅰ型甲30機を受領、8月末に漢口に移動した。しかし主翼強度不足で事故が多発したため、10月中旬、立川に戻って一式戦闘機Ⅰ型乙に機種改変した。12月7日、コンポントラッシュに展開。太平洋戦争開戦時、第3飛行団隷下で、一式戦闘機Ⅰ型21機、九七式戦闘機3機を保有していた。12月8日、11機でコタバルに進攻し、バッファロー6機(不確実4機含む)を撃墜した。12月19日、スンゲイパタニに進出。12月29日、イポーに前進。12月中に11機を撃墜、13機を地上撃破した。昭和17年1月12日からシンガポール航空撃滅戦に参加。2月6日、クルアンに前進してパレンバン攻撃に参加。2月18日、パレンバンに進出し、2月19日からジャワ航空撃滅戦に参加。3月3日、カリジャチに進出。蘭印作戦終了後もジャワに駐留した。9月、第3中隊を編成し、マランに移動した。以後戦力回復に努め、1個中隊をパレンバンに、1個中隊をチモール島に派遣して防空に就かせた。昭和18年2月中旬、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。3月20日から半月間、1個中隊がバボに派遣された。6月18日、ラウテン飛行場に集結。6月20日、22機でポートダーウィンを攻撃。6月22日、20機でダーウィンを攻撃。7月7日からマランを出発。7月11日までにブーツに展開。7月16日、第8方面軍第6飛行師団隷下となった。8月16日夜、飛行場が空襲を受けて6機が破壊された。7月17日、可動機は8機であった。8月30日、飛行場が爆撃を受けて9機が破壊された。10月2日、一式戦闘機15機を第14飛行団に渡し、パイロットは重爆でマニラに引き上げた。10月31日、23機でニューギニアに進出。11月6日から進攻任務を実施。昭和19年1月、任務の大半が迎撃戦となった。1月17日、内地での戦力回復を命じられた。2月19日、機材を飛行第68・第78戦隊に引き渡し、十数名に減っていたパイロットは重爆2機に便乗して2月26日に雁巣飛行場に帰還。地上勤務者は半数が内地に帰還、残る半数はアイタペ付近で陸戦部隊に編入され、大部分が戦死した。戦隊は芦屋で休養と再建に入ったが、パイロットの疲労が激しく、全員が二日市療養所に1ヶ月半入所した。4月末から明野で三式戦闘機一型への機種改変を開始。その後北九州の防空を行った。6月上旬、保有機25機、可動機7-8機であった。7月18日、第12飛行師団隷下となった。8月20日、21機で出撃し、B-29爆撃機1機を確実撃墜、3機を不確実撃墜、5機を撃破した。11月末、一部が済州島に前進。昭和20年1月20日、主力は蓆田飛行場に移動。2月中旬、主力は朝鮮の群山飛行場に移動。3月中旬、芦屋飛行場に戻った。3月末、第1攻撃集団に編入された。4月1日、40機で知覧飛行場に前進。4月2日、徳之島に7機が進出。4月3日、5機が喜界島に向かったが、アメリカ戦闘機に阻止されて2機しか到着できなかった。その後も両島に向けて部隊を送ったが、飛行場爆撃により可動機がゼロになっている。知覧に残った部隊も沖縄出撃で損耗、徳之島と喜界島に残ったパイロットは4月上旬に知覧に戻った。その後は5月中旬まで特攻援護と知覧飛行場防空にあたり、5月末に芦屋に後退、五式戦闘機への機種改変を行い、5月21日に10機を受領した。戦力温存に努め、7月10日には保有機48機、可動機23機となった。7月25日、第30戦闘飛行集団に転入。8月11日、最後の戦闘を実施し、終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊、6,’14
<飛行第60戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和14年12月24日、九七式重爆51機で運城に進出。12月26-28日、陸海軍協同蘭州爆撃作戦の百号作戦に参加。昭和15年5月18日から第3飛行集団隷下で百一号作戦に参加。参考:月刊航空ファン11,’17、1,’18
<飛行第63戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和18年2月24日、八戸で編成された。4月中旬、主力は札幌に、第3中隊は苫小牧に移動。7月、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。9月12日、第1中隊を飛行第54戦隊隷下とし、北千島の幌筵島に派遣。11月22日、ニューギニアに向かうため第2・第3中隊は八雲飛行場を出発、立川で飛行機を受け取り、明野で2週間の訓練を受け、12月17日に明野を出発し、12月31日に28機でホランジアに到着した。第1中隊は11月末に北海道に帰還した。主力は更に2週間の訓練の後、昭和19年1月13日にウエワクに進出。1月15日からニューギニア航空戦に参加。1月19日、本部要員と整備員がウエワクに到着。1月24日、12機がハイン飛行場に進出、駆逐艦を援護して輸送作戦を成功させたが、着陸直後に爆撃を受けて8機が大破し、残りでウエワクに戻った。2月9日、第1中隊が12機で明野を出発。2月20日、第1中隊がウエワクに到着。3月17日、主力はホランジアに後退。3月30-31日、ホランジアが空襲を受けて大損害を受け、可動機が8機になった。4月22日、連合軍がホランジアに上陸したため、6機で出撃。4月23日、パイロットと地上要員150名はサルミに向け徒歩で後退。6月27日に辿り着き、自活生活に入ったが、終戦時に帰還したのは3名のみだった。ウエワクには130名が残っていたが、地上部隊に編入され、終戦時に帰還したのは17名だった。部隊は昭和19年7月25日に解隊されている。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第64戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年8月1日、飛行第5連隊飛行第2大隊及び独立飛行第9中隊が合併して第4飛行団隷下に創設された。第1中隊は九七式戦闘機、第2中隊は九五式戦闘機を装備していた。8月末、本部と第1・第2中隊が二套口飛行場に移動、武漢作戦に参加し、第2中隊は九七式戦闘機に機種改変した。10月、二套口飛行場の部隊が第21軍隷下となり、11月9日に広東に移動。第3中隊も九七式戦闘機に機種改変し、昭和14年3月に太原に移動した。4月29日、第3中隊7機が運城飛行場を出撃し、I-15戦闘機11機を撃墜した。7月26日、第2飛行集団に編入された。全中隊は広東に集結した後、8月3日に出発、8月7日にハイラルに到着、8月15日にホシウ飛行場に進出。8月17日からノモンハン事件に参加。停戦までに52機を撃墜した。9月5日、関東軍司令官から部隊感状を授与された。10月1日、東京城飛行場に移動。昭和15年1月、第1中隊が広東に移動し、地上攻撃を行った。昭和16年3月、本部と第2・第3中隊が広東に移動。4月、加藤建夫少佐が戦隊長に着任。6月1日、南支方面軍司令官から部隊感状を授与された。8月末、一式戦闘機Ⅰ型への改変を開始。11月初旬、広東に戻った。12月3日、仏印南端沖のフコク島ズオンド飛行場に進出。12月7日、マレー上陸船団を護衛。12月8日、爆撃隊の援護に就いた。12月9日、シンゴラ飛行場に前進。12月11日、南方軍司令官から部隊感状を授与された。12月13日、コタバルに進出。12月22日、18機でクアラルンプールに向かい、バッファロー戦闘機11機を撃墜した。12月24日、バンコクに移動。12月25日、25機でラングーンを攻撃し、10機を撃墜。昭和17年1月12日、イボーに移動してシンガポール航空撃滅戦に参加。シンガポールでのスコアは39機だった。2月15日、南方軍司令官から部隊感状を授与された。2月16日、パレンバンに前進、ジャワ航空撃滅戦に参加。ジャワでのスコアは18機だった。3月8日、スンゲイパタニに復帰。3月12日、第3飛行集団長から部隊感状を授与された。3月中旬、チェンマイに移動。保有機数は一式戦闘機15機、九七式戦闘機2機であった。3月21日、マグエに進攻。3月24日朝、P-40戦闘機の奇襲を受けて十数機を地上撃破された。5月16日、一部をアキャブに派遣。5月22日、加藤建夫戦隊長が戦死。5月末、ミンガラトンに移動して戦力回復に入った。8月中旬からパイロットを内地に派遣し、一式戦闘機Ⅰ型30機を受領。10月12日、ラングーンに移動。10月25日、アッサム州テンスキアを攻撃。12月中旬、内地に帰還し、一式戦闘機Ⅱ型に機種改変した。昭和18年2月、28機でトングーに展開、アキャブ攻撃などに参加。3月14日、春期第3次航空撃滅戦に参加し、チッタゴンなどで空戦を行った。4月26日、雲南駅飛行場攻撃に参加。4月28日、第1次昆明攻撃に参加。5月15日、第2次昆明攻撃に参加。6月上旬、第2中隊はパレンバン、第3中隊はスンゲイパタニに後退。第1中隊はミンガラドンに駐屯していた。8-9月、二式単戦4機が配備された。9月下旬、主力はラングーンに復帰。その後、主力はバンコクに後退。11月28日、第3中隊がP-51戦闘機4機とB-24爆撃機2機を撃墜。11月29日、主力がラングーンに帰還。12月1日、B-24爆撃機5機とP-51戦闘機2機を撃墜。12月5日、カルカッタ攻撃に参加。12月18日と22日、昆明攻撃に参加。12月31日、一式戦闘機二型8機で飛行第12戦隊九七式重爆二型6機と共にアキャブ沖のイギリス艦艇を攻撃するため出撃。第2編隊4機には二式四十粍撒布弾を積んでいたが、イギリス第136中隊スピットファイアⅤb戦闘機の迎撃を受けて戦果は無かった。昭和19年3月8日からインパール作戦に参加。4月26日、アラカン山脈上空でB-29爆撃機と交戦し、陸軍初のB-29爆撃機との交戦となった。6月6日、保有機は19機、可動機は7機だった。6月10日、第3航空軍司令官から部隊感状を受けた。6月15日、サイゴンに後退。8月上旬、ビルマに復帰。9月以降、一式戦闘機Ⅲ型に機種改変。10月8日、主力はラングーンに後退。11月上旬、主力はメイクテーラに前進。昭和20年1月1日、第3航空軍司令官から部隊感状を受けた。1月中旬、メイクテーラが使用不能となったため、ピンマナに移動、地上攻撃任務に就いた。2月末、ミンガラドン飛行場が使用不能となり、マウビとレグに移動して地上攻撃を実施。3月8日、師団司令部から空中戦闘禁止令が出た。4月末、タイ中部のタクリに後退、ビルマ作戦を終えた。5月下旬、カンボジアのクラコールに移動。7月上旬、ブイン飛行場に前進し、P-38戦闘機やP-51戦闘機と空戦しつつ台湾に後退する南方軍の飛行部隊を援護した。8月上旬、スンゲイパタニに移動してイギリス機動部隊攻撃に向かう予定だったが、攻撃は中止となり、クラコールに帰還、終戦となった。8月24日、可動機18機で最後の飛行を実施。太平洋戦争中のスコアは撃墜283機(不確実25機含む)、地上撃破144機で、飛行第2大隊時代を通じて部隊感状を9回授与された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第68戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は真第9151。昭和17年3月31日、会寧で新編され、第14飛行団隷下となった。九七式戦闘機3個中隊からなる。4月、哈爾浜に移動。12月、明野で三式戦闘機への機種改変を開始。昭和18年3月、改変を終了し、初の三式戦闘機部隊となった。4月4日、空母春日丸(大鷹)に便乗して横須賀を出港。4月10日、トラック春島飛行場に進出。4月25日、ラバウルに向け出発したが、天候不良で引き返した。4月27日、ラバウルに向け2組27機で再出発したが、戦隊長編隊13機が誘導の司偵とはぐれ、戦隊長のコンパスも狂っており、大部分がヌグリア島などに不時着し、パイロット2名が死亡、ラバウルに辿り着いたのは1機だけだった。その後第12飛行団隷下となり、5月17日、ワウ爆撃に参加。5月末、三式戦闘機保有機26機、作戦使用可能機18機だった。6月、第3中隊をラバウルに残し、第1・第2中隊がウエワクに移動。6月末、保有機は26機、可動機は20機であった。7月2日、第3中隊の6機がレンドバ島攻撃に参加したが、航法ミスで3機を喪失した。7月7日、第14飛行団隷下となった。7月8日、ウエワクの部隊がラバウルに帰投。7月17日、三式戦闘機実動機は13機だった。7月20日、ベナベナ攻撃でB-24爆撃機1機を撃墜して戦隊初戦果を記録。7月21日、マダン進攻に参加し、戦闘機2機撃墜を報じた。8月16日夜、ウエワクが夜間空襲を受けて可動機が6機に減ったため、代替機を受領すべくパイロットの一部をマニラに派遣。8月21日、ウエワクを空襲したP-38戦闘機とB-25爆撃機を6機で迎撃し、2機確実・1機不確実撃墜の戦果を報じたが、2機が未帰還となった。9月8日、マニラ派遣者が代替機を受領し、15機でウエワクに戻った。9月末、可動機が2機に減少。飛行第24・第59戦隊の一式戦闘機10機を受領して戦闘を継続したが、10月末に全機消耗した。10月末、パイロットはマニラに後退。11月末、三式戦闘機26機でウエワクに前進。ただ信頼性が低く部隊では二式単戦の方を要求し、参謀本部が三式戦闘機の活用を説得するも部隊の反発を受ける事態となっている。12月上旬、ラム及びマーカム河谷攻撃に参加。12月15日、マーカス岬のアメリカ軍上陸点を攻撃。12月23日、三式戦闘機一型丙4機を受領。昭和19年1月2日、グンビ岬に上陸した連合軍を攻撃。戦隊長が戦死し、後任の戦隊長は現地への赴任が困難なためマニラで訓練にあたった。2月中旬、可動機が5機に減少。3月中旬(下旬?)、ホランジアに移動。180名の地上勤務者がウエワクに残ったが、移動前に連合軍が上陸してきたため、第18軍に編入され、ウエワク山中で終戦まで戦った(生存者20名)。3月30日、ホランジア空襲で航空機を破壊され、4月6日には保有機4機、空中勤務者16名となった。4月22日、連合軍のホランジア上陸を受けて飛行場を放棄、サルミを目指して徒歩で後退したが、殆どが戦死した。戦隊長はマニラで訓練を行っていた少数の部隊を連れ、5月にハルマヘラ島ワシレに進出。飛行第78戦隊、飛行第63戦隊の一部と集成戦闘飛行隊を編成して防空任務にあたった。7月13日、戦隊長が戦死。7月20日、三式戦闘機8機、一式戦闘機3機を保有しており、三式戦闘機の可動機は6機だった。7月25日、解隊命令を受領。8月20日付けで解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊
<飛行第70戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和16年3月5日に満州の杏樹で編成され、第12飛行団隷下となった。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置く。4月、東京城に移動。8月、杏樹に移動。12月、第3中隊が新編された。昭和17年末、第1中隊が周水子飛行場に移動し、大連の防空にあたった。昭和18年春、第1中隊が原駐地に復帰。昭和18年5月、明野で二式単戦Ⅱ型に機種改変され、杏樹に戻った。昭和19年2月、内地への2500km移動演習であるホ号演習(実際にはB-29爆撃機に対する本土防空のための部隊移動)を実施することになり、2月23日朝、20機で杏樹を出発。松戸飛行場に到着し、第10飛行師団隷下となった。ただB-29爆撃機は北九州方面の爆撃が主で、満州の鞍山製鉄所にも爆撃を仕掛けてきたため、満州に戻ることになり、8月1日、32機で松戸を出発。8月2日、鞍山飛行場に進出。9月初め、40機を保有していた。9月8日、来襲したB-29爆撃機100機の迎撃に全力であたったが、悪天候と二式単戦の高々度性能の悪さとで戦果が挙げられなかった。9月26日も同様の結果で、10月中旬に戦隊長が更迭された。11月6日、マリアナ諸島失陥でB-29爆撃機による首都空襲が懸念されたため、37機で鞍山を出発、柏飛行場に戻り、第10飛行師団隷下となった。11月7日、B-29爆撃機への体当たり部隊である震天制空隊を編成。11月24日以降、京浜地区に来襲するB-29爆撃機の迎撃任務に就いた。昭和20年6月以降、四式戦闘機への改変を実施。7月末、30機を保有していた。8月10日、部隊感状が授与された。秋水の配備も予定されていたが、実施前に終戦を迎えている。関東地区防空での総戦果は撃墜破120機だった。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊JWings5,’11
<飛行第71戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年5月6日、軍令陸甲第34号により北伊勢で編成を開始した。8月下旬、滋賀県八日市飛行場に移動。9月17日、編成を完結。9月21日、第12飛行師団隷下となり、小月飛行場に移動。9月24日、雁巣飛行場に移動。10月25日、B-29爆撃機を迎撃したが、戦果は挙げられなかった。11月11日、28機で雁巣を出発。残りは防府で訓練を行った。11月14日、18機がデルカルメン基地に到着。11月19日、デルカルメン飛行場が空襲を受け、9機が炎上、5機が大中破した。パイロットは11月20日にポーラックに移動し、機材を補充。11月23日、6機でネグロス島マナプラに進出。11月30日、デルカルメンに後退。12月上旬、マナプラに進出、レイテやブラウエン付近で護衛任務に就いた。12月24日、可動機がゼロになったため、デルカルメンで飛行機を受領してマナプラに復帰。昭和20年1月7日、アメリカ陸軍航空軍2位のエースだったマクガイア少佐を撃墜。1月15日に大陸指で内地帰還命令が出たため、3月末までにネグロスを脱出して内地に帰還した。デルカルメンに残っていたパイロットも台湾に後退し、内地に戻っている。地上要員はルソンやネグロスで陸上戦闘に参加、大部分が戦死した。4月1日、防府で戦力再建に入った。4月、四式戦闘機の可動機は4-9機だった。5月中旬、義烈空挺隊援護のため1週間ほど隈之庄に進出。5月24日、防府に帰還。8月13日、知覧に前進するよう命令を受けたが、進出前に終戦となった。この時の保有機は65機だった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第72戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年5月20日、明野飛行学校北伊勢分教所で新編され、第21飛行団隷下となった。装備機は四式戦闘機で、編成完結後は伊丹飛行場に移動した。8月10日、相模に移動。12月3日、三十数機で台中に向け出発。訓練の後、12月14日からルソン島バンバン基地に到着した。しかし12月14日の第1陣は途中でグラマンの迎撃を受け、3機を撃墜したものの半数が行方不明になり、7機しか到着しなかった。このため12月15日のミンドロ島サンホセ攻撃には参加できなかった。12月18日までにバンバンとマバラカット東飛行場に40機が集結。昭和20年1月5日、全機特攻に転用されることとなり、精華隊を編成、リンガエン湾の船団に向けて250kg爆弾2発装備の特攻機1機と戦果確認機1機のペアで突入した。1月12日、可動機が無くなったため、エチャゲに後退。1月15日に解隊された。エチャゲに後退した隊員は1月末、ルソン島北端のカサンバラカンに到着し、味方潜水艦を待ったが到着せず、ツゲガラオに引き返し、パイロットは台湾に後退した。地上要員は4月に臨時歩兵第25大隊に編入され、終戦までゲリラ戦を行った。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第73戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年5月16日、明野飛行学校北伊勢分教所で編成を開始。四式戦闘機を装備する予定だったが、機材が足りず、一式戦闘機で訓練を行った。7月頃から四式戦闘機の配備が始まり、第21飛行団隷下となり、8月に大正飛行場に移動、9月17日に編成を完結した。保有機は40機である。10月、所沢に移動。11月1日と24日にB-29爆撃機を迎撃したが、戦果は無かった。12月4日、主力50機は所沢を出発。12月22日までにマバラカット飛行場に集結した。主力集結前の12月17日から攻撃隊や特攻隊の直掩任務に就いている。昭和20年1月5日、リンガエン湾に向かうアメリカ船団に対する特攻援護に4機が出撃したが、3機を失った。1月7日、2機で特攻援護を行ったが、1機を喪失。1月8日、4機が出撃したが、3機を喪失した。1月10日、可動機が2機になったため、バンバンに移動。1月11-12日、可動機1機ずつで特攻を実施。残存隊員は徒歩でエチャゲに後退し、パイロットなど47名は台湾に脱出、3月上旬に内地に帰還し、そのまま終戦を迎えた。エチャゲに残った地上勤務者は臨時歩兵第25大隊に編入され、終戦まで地上戦闘を行っている。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第77戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和13年7月30日、飛行第8大隊から改編されて新編された。7月31日、安慶に移動し、武漢攻略戦に参加。11月10日、武昌に移動。10月15日、南京を出発。10月27日、竜鎮に到着、第9飛行団隷下となり、九七式戦闘機に機種改変した。昭和15年12月、第10飛行団隷下となった。昭和16年11月18日、竜鎮を出発。11月21日、南京に到着。11月29日、耐寒装備を外して南京を出発。12月2日、三亜に到着。第2中隊を残し、主力18機は12月3日にツーランに移動。12月5日、主力はシェムレアに展開し、第3飛行集団隷下となった。12月6日、12機でフコク島ゾンド飛行場に移動。第2中隊はサイゴンに移動。12月7日、第12飛行団隷下となった。12月8日、タイ国軍戦闘機3機を撃墜。12月13日、主力はバンコクのドムアン飛行場に移動。12月19日、主力はラーヘン飛行場に移動。12月23日からラングーン航空撃滅戦に参加。12月29日、主力はランパンに移動。昭和17年1月初め、第5飛行集団隷下となった。1月23日から第2次ラングーン航空撃滅戦に参加。2月19日から南部ビルマ航空撃滅戦に参加。3月中旬、主力はマウビ飛行場に移動、中部ビルマ攻略戦を支援した。4月下旬、マグエに進出し、北部ビルマ攻略戦に参加。6月15日、第5飛行師団から感状を授与された。ビルマでの戦果は撃墜破約120機である。その後ラングーンに集結し、7月中旬に竜鎮に戻った。10月、東京城に移動。昭和18年8月、チチハルに移動、一式戦闘機Ⅱ型への機種改変を終えた。10月9日、第3航空軍に編入された。10月下旬、雁巣飛行場に移動。11月4日、雁巣を出発。11月14日、パレンバン近くのゲルンバン飛行場に到着。昭和19年1月10日、ゲルンバンを出発、第4飛行団隷下となってメイミョーに展開。1月27日、第8飛行団隷下となってニューギニアに向かうことになった。2月6日、シンガポールに戻って整備を行った。2月14日、地上勤務者の大部分を残してシンガポールを出発。2月28日、ホランジアに進出。ブーツ、ウエワクを前進基地として防空に就いた。3月30-31日、ホランジアが爆撃を受けて大損害を受けた。4月6日、保有機9機、可動機5機に減少。4月22日、ホランジアに連合軍が上陸し、航空機が全て破壊されたため、サルミに向けて陸路で撤退したが、終戦後に帰還したのは地上要員5名だけだった。病気などでホランジアへの進出ができなかったパイロット4名はルソン島のアンヘレス飛行場に集結し、部隊再建に着手。6月、シンガポールに移動し、第1野戦補充飛行隊から補充を受けて訓練を開始。7月25日の大陸命で解隊され、第17錬成飛行隊に吸収された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第78戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は真第九一五二。昭和17年3月31日、東満州杏樹で編成を開始。4月8日、編成を完結。隷下に九七式戦闘機3個中隊を置き、第14飛行団の指揮下に入った。4月8日(下旬?)、ハルビンの孫家飛行場に展開。12月1日、南満州本渓湖地区の防空を行うこととなり、遼陽に移動。昭和18年4月12日、明野で三式戦闘機への機種改変を開始。6月16日、三式戦闘機45機で明野を出発し、6月29日から7月5日に33機がラバウル西飛行場に到達し、12機がエンジン故障などで落伍した。6月26日、15機が空母雲鷹に便乗して横須賀を出港、7月7日にラバウルに到着した。7月8日から出撃。7月15日、ウエワクに移動し、第7飛行師団隷下となった。7月18日、サラモア制空戦に出撃、P-38戦闘機を撃墜して戦隊初撃墜を記録。7月21日、18機で出撃し、マダン上空でP-38戦闘機5機を撃墜したが、2機が未帰還となった。8月16日、B-24爆撃機とB-25爆撃機の夜間爆撃を受けて全機が地上で被弾、可動機がゼロになった。8月19日、第1中隊長らがマニラに機体を受け取りに出発、8月下旬からウエワクの防空任務を再開した。9月19日、マニラに後退。10月中旬、ウエワクに復帰、防空や進攻任務に就いた。ただ装備する三式戦闘機の信頼性が低く部隊では二式単座戦闘機の方を要求し、参謀本部が三式戦闘機の活用を説得するも部隊の反発を受ける事態となっている。10月末、三式戦闘機が不足したため一式戦闘機を他の戦隊から譲り受けた。10月27日、可動機は一式戦闘機6機、三式戦闘機12機だった。12月下旬、三式戦闘機一型丙が配備された。12月22日、ウエワク迎撃戦で戦隊長が戦死。昭和19年1月18日、ウエワク迎撃戦で根子軍曹が敵機と相打ちとなり、同じくパラシュート降下した敵パイロットと取っ組み合いの結果、相手を捕虜にして帰還した。3月、生存パイロット全員と整備員の一部がホランジアに移動。3月30-31日、ホランジア空襲で損害を受けた。4月6日、三式戦闘機の保有数は5機、可動機は3機で、空中勤務者は22名だった。4月22日、アメリカ軍がホランジアに上陸したため、ジャングル内に後退し、サルミ付近でゲリラ戦を行った。マニラとハルマヘラに一部が残っており、ホランジアでゲリラ戦に入った戦隊長に代わる新しい戦隊長も4月中に発令されたが5月5日に戦死。5月25日には可動機3機を有し、ハルマヘラ防空などを行っていたが、組織的戦闘は不可能で、7月25日に解隊命令が出され、8月20日付けで解隊された。サルミからは昭和20年11月に22名が帰還したが、戦隊長含めパイロットは1名も生き残れなかった。参考:月刊丸1,'17別冊、日本陸軍戦闘機隊
<飛行第83戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和20年7月8日、神風特別攻撃隊・七生一誠隊に編入された。参考:月刊丸2,’07
<飛行第85戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和16年3月7日に孫家飛行場で編成された。第13飛行団隷下で、九七式戦闘機2個中隊からなる。3月下旬、八面通飛行場に移動。夏、関特演に参加。12月、海浪飛行場に移動、第3中隊が編成された。昭和17年末から昭和18年初め、二式単座戦闘機に機種改変した。6月27日、海浪を出発、7月3日までに南京に移動し、第3飛行師団隷下となった。7月5日、第2中隊は広東に移動。7月8日、武昌飛行場に主力が進出。7月24日、主力は零陵に、第2中隊は桂林に進攻。8月中旬、主力も広東に移動。8月20日、22機で桂林に進攻。10月5日、第1中隊が漢口に移動。昭和19年2月12日、主力の可動機が4機に減少。2月19日、第1中隊が広東の本隊に合流した。その後四式戦闘機への改変を実施。7月、第3中隊が漢口に移動。10月4日、主力は四式戦闘機4機、二式単戦4機で出撃、P-51戦闘機5機を撃墜した。10月下旬、第5航空軍司令官から賞詞を授与された。関特演からの戦果は撃墜破82機であった。11月13日、保有機は四式戦闘機10機、二式単戦17機であった。12月上旬、主力は漢口に移動し、第3中隊と合流。12月18日、戦爆連合100機以上が漢口に襲撃し、市街地を無差別爆撃したため、迎撃にあたったが、逆襲されて可動機が2-3機にまで減少した。昭和20年1月末、南京に後退。5月末、済南に移動、更に朝鮮の金浦飛行場に展開。8月13日、P-51戦闘機との戦闘で5名が戦死。終戦時、保有機は10機で、総合戦果は撃墜破250機であった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第87戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和16年3月1日、軍令陸甲25号に基づいてハルビンで編成を開始した。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置く。編成完結後、3月25日に団山子飛行場に移動、第14飛行団隷下となった。昭和16年6月25日、関特演に参加。12月、第3中隊を新設。昭和17年末から昭和18年初め、二式単戦Ⅱ型に機種改変した。昭和18年6月19日、第1航空軍第17飛行団隷下となった。7月上旬、主力が柏飛行場に移動。11月16日、南方転用命令により第3航空軍に編入された。12月2日、柏を出発。装備機は二式単戦Ⅱ型乙とⅡ型丙が約20機ずつだった。12月25日、南スマトラのゲルンバン飛行場に到着、第9飛行師団隷下となり、パレンバンの防空にあたった。昭和19年5月、ビルマ戦線に転用されることになり、5月6日に三十数機と一式輸送機3機(整備員搭乗)でゲルンバンを出発、5月8日にメイクテーラに到着し、第5飛行師団隷下となった。以降は連日迎撃戦に出撃。5月27日、ゲルンバンに復帰。8月末、保有機52機に回復。昭和20年1月24日、イギリス機動部隊がパレンバンを空襲したため、全力で迎撃。28機(不確実13機含む)を撃墜したが、空中で14機、地上で35機を失った。1月29日、イギリス艦上機がパレンバンに来襲、迎撃にあたったものの、4機を喪失し、精油所が大損害を受けた。3月4日、ゲルンバン南東のタンジュンバト飛行場に移動。7月23日、主力はシンガポールのチャンギ飛行場に移動。終戦時、保有機二十数機、可動機15機であった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第101戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年7月25日、北伊勢で第100飛行団隷下に編成を開始。四式戦闘機を装備する予定だったが、機材が揃わなかったので九七式戦闘機と一式戦闘機で訓練を行い、11月から四式戦闘機に切り替えた。12月中旬、大正飛行場に移動。しかし訓練が進まず、予定されていたフィリピン派遣は中止され、第6航空軍隷下として沖縄に出動することになった。3月10日、都城東飛行場に展開。3月26日、可動機は四式戦闘機20機だった。4月6日、沖縄戦に参加し、第1次総攻撃を実施。4月12日、第2次総攻撃に15機で参加。4月15日夜、沖縄北・中飛行場にタ弾攻撃を実施。4月17日、海軍機動部隊に協力したが、大島付近でF6F戦闘機20機の攻撃を受けて飛行第101-第103戦隊全体で可動機が10機に減った。4月22日、第4次総攻撃に参加。4月28日、第5次総攻撃に参加。5月4日、第6次総攻撃に参加。5月下旬、義烈空挺隊護衛作戦で戦力をほぼ喪失した。6月下旬、成増飛行場に後退。7月10日、解隊した飛行第102戦隊の人員の一部を吸収。8月12日、三十数機で高松に移動。終戦後も戦闘態勢を崩さず、8月16日に土佐湾にアメリカ艦隊が侵入するという情報を受け、12機で特攻隊を編成して出撃したが、発見できずに引き返した。この出撃を最後に解隊されている。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第102戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年7月、北伊勢で第100飛行団隷下に編成を開始。装備機は四式戦闘機で、編成完結後も北伊勢に留まり、訓練を行った。昭和20年3月中旬、40機で都城西飛行場に展開し、第6航空軍隷下となった。3月25日、可動機は20機であった。アメリカ軍の沖縄上陸後、第3中隊を徳之島に前進させ、全力で沖縄に出撃した。4月3日、可動機が14機に減少。4月7日、可動機が8機に減少。4月28-29日、都城西飛行場がB-29爆撃機の爆撃を受け、5機が炎上した。6月末、成増飛行場に移動。7月10日、人員と機材を飛行第101・第103戦隊に移し、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第103戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年8月25日、明野教導飛行師団が担当して編成を完結、第100飛行団隷下となった。四式戦闘機を装備する予定だったが、配備が遅れたため、一式戦闘機で訓練を開始し、10月から四式戦闘機で訓練を行った。12月11日、伊丹に移動、第11飛行師団隷下となり、阪神地区の防空を担当したが、練度が低いため、師団から特令があった場合のみ出撃することになった。昭和20年1月19日、B-29爆撃機を迎撃し、1機を不確実撃墜した。3月10日、熊本県隈ノ庄飛行場に移動。3月26日、第6飛行団隷下となり、1個中隊が3月28日に徳之島に進出し、3月29日に沖縄攻撃部隊を援護した。4月2日、徳之島の部隊の可動機が3機になったため、4機が追加で派遣されたが、4月3日朝に機銃掃射を受けて全機破壊されてしまった。その後、飛行場を修復して4月下旬に出撃を再開したが、また爆撃で飛行場が破壊されてしまい、4月28日までに知覧に帰投した。5月7日、都城飛行場に移動。5月25日、第8次沖縄総攻撃のため11機が出撃したが、10機が未帰還になった。6月上旬、成増飛行場に戻って戦力回復に努めた。7月末、由良飛行場に展開、終戦を迎えた。8月17日未明に土佐沖の機動部隊を攻撃するため出撃準備を整えたが、中止命令が出て取りやめになった。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第104戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年7月26日に飛行第4戦隊内で四式戦闘機部隊として編成を開始、8月上旬に一次編成を完結した。しかし航空機が1機も無かったため、引き続き編成を継続し、8月20日に1機だけ配備されていた一式戦闘機によりB-29爆撃機の迎撃にあたった。8月末、戦隊長が1名で新京に赴任、第2航空軍司令部に事情を説明し、一式戦闘機と二式単座戦闘機をかき集めてもらった。9月8日、戦隊は奉天におり、二式単座戦闘機10機(可動2機)と一式戦闘機3機(可動1機)を保有し、パイロットは6名だった。引き続き戦力増強に努め、9月26日、B-29爆撃機を二式単座戦闘機6機で迎撃し、1機を撃破した。その後深井子に移動、10月に奉集堡飛行場に展開した。11月、第2次編成を完結。11月末、独立第15飛行団隷下となり、南満州で防空任務に就いた。12月上旬、四式戦闘機12機、二式単座戦闘機28機、一式戦闘機11機を保有しており、四式戦闘機と二式単座戦闘機からなる2個中隊は鞍山に、一式戦闘機装備の訓練中隊は湯崗子に駐屯していた。また、B-29爆撃機体当たり攻撃用の菊水攻撃隊が編入された。12月7日、B-29爆撃機を迎撃し、4機の体当たり戦果を含む6機を撃墜。昭和20年7月、保有機は四式戦闘機40機、一式戦闘機5機で、主力は鞍山、一部は湯崗子に展開していた。8月11日、錦州飛行場を経由して赤峰飛行場に進出。8月12日、四式戦闘機40機で林西付近のソ連地上部隊にタ弾攻撃をかけ、戦車20両を炎上させた。8月14日夕方、四平街に前進。8月15日早朝、白城子のソ連機甲部隊を攻撃するため四式戦闘機12機と二式複座戦闘機9機で出撃したが、敵を発見できず、帰投後に終戦となった。8月17日、竹田宮恒徳王が終戦を伝達するため満州に到着。護衛にあたった第26教育飛行隊の4機は奉天飛行場に帰還したが、ソ連軍が占領していたため、滑走路に突入して戦死した。飛行第104戦隊も四式戦闘機2個中隊で出撃準備を整えていたが、午後にソ連軍の軍使が飛来したため出撃を中止し、奉天付近で自活に入った。その後国共内戦に巻き込まれて戦死者を出し、昭和21年7月に復員している。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第105戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称号は誠第一九一〇二。昭和19年8月上旬に台中で編成を開始した。三式戦闘機を装備することになったが、4-5機しか届かなかったので、9月にパイロットが内地に帰還して明野で三式戦闘機を受領している。10月上旬、40機で台湾に向け出発したが、南九州まで飛行したところで台湾沖航空戦が勃発、終了後に台中に展開した。11月初め、独立飛行第23中隊が沖縄から台中に移動し、隷下に入った。11月8日、編成を完結。保有機32機、可動機19機だった。昭和20年2月初め、独立飛行第23中隊が石垣島に移動。3月25日、主力が宜蘭に移動。3月26日、独立飛行第23中隊が誠第17飛行隊を援護して出撃。4月1日、主力が石垣島に前進し、第9飛行団隷下となった。4月2日から特攻隊援護に出撃。4月中旬、独立飛行第23中隊が花蓮港に移動。6月上旬、主力は宜蘭に後退し、独立飛行第23中隊は北浦飛行場に移動した。以降は戦力温存に努め、終戦時、保有機30機、可動機15機だった。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊
<飛行第111戦隊>:日本陸軍で最後に編成された戦闘機飛行戦隊で、通称号は帥第三四二一七。昭和20年7月18日、明野教導飛行師団第1教導飛行隊をベースとして第20戦闘飛行集団隷下に編成を開始。7月22日、編成を完結した。隷下に五式戦闘機4個中隊(大阪の佐野飛行場)と、四式戦闘機1個中隊(第4中隊。淡路島の由良飛行場)を置いており、9月末までに五式戦闘機6個中隊を揃える予定だった。義足の檜與平少佐に指揮を執らせるため、第1-第3中隊を隷下に置く第1大隊と第4・第5中隊を隷下に置く第2大隊を編成し、檜與平少佐を第2大隊長に据えている。その後、主力は三木飛行場に短期間展開し、佐野飛行場に復帰した。8月6日(13日?)、小牧に移動。終戦時、保有機は五式戦闘機90機弱だった。11月、五式戦闘機1機が追浜飛行場に運ばれ、空母でアメリカ本土に輸送されてテストに使用された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸6,’14、1,'17別冊
<飛行第112戦隊>:日本陸軍で最後に編成された戦闘機飛行戦隊で、通称号は帥第三四二一八。昭和20年7月18日、常陸教導飛行師団第1教導飛行隊をベースに新田飛行場で編成を開始。7月22日、編成を完結し、第20戦闘飛行集団に編入された。五式戦闘機6個中隊を隷下に置いたが、機材は五式戦闘機40機(3個中隊分)と四式戦闘機20機(1個中隊分)しか集まらず、パイロットの練度も足らず、航空燃料も無く、戦力温存のため出撃を禁止されている。8月10日、4機でB-29爆撃機を追撃、1機を撃破した。その後終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊、月刊航空ファン11,’15
<飛行第144戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和16年7月20日、航空士官学校内で編成を開始。11月27日(7月30日?)、編成を完結した。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置く。その後調布飛行場に移動して第17飛行団隷下となった。太平洋戦争開戦時は九七式戦闘機19機を保有していた。昭和17年4月15日(昭和16年11月?)、飛行第244戦隊に改称された。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸1,'17別冊
<飛行第200戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称皇(すめら)戦隊。昭和19年10月12日、明野教導飛行師団隷下に新編された。6個中隊からなり、四式戦闘機を装備する。編成直後にフィリピンに進出することになり、10月21日に4個中隊50機で明野を出発したが、訓練不足と受領機のテスト未了で引き返す機が続出、10月23日にルソン島ポーラック基地に到着したのは12機で、大部分(35機)は10月24日の到着となり、同日行われた航空総攻撃には間に合わなかった。10月25日午後、ネグロス島サラビア基地に展開し、第30戦闘飛行集団隷下となった。10月30日、第5・第6中隊が21機でクラークに到着、サラビア基地で先発隊と合流した。10月末までに7機を撃墜したが、11機を失い、可動機は9機に減少した。ロッテ戦法を取り入れてはいたものの、編隊空戦に必要な機数が揃わず連携機動に必要な信頼性の高い機上無線機も無く、これらを揃えたアメリカ海軍艦上戦闘機隊に劣勢を強いられ、11月1-23日に19機を喪失、35機が大破炎上した。12月14日、爆装四式戦闘機15機で出撃しようとしたが、滑走路が爆弾で孔だらけにされており、最初の機体が離陸に失敗したため、出撃取りやめになった。以降はルソン島のマバラカット東飛行場に後退し、四式戦闘機30機を受領して戦闘を継続している。ネグロス島には134名が残り、山中でゲリラ戦を展開した。昭和20年1月8日、リンガエン湾のアメリカ艦船に特攻を行い、可動機がゼロになった。これによりルソン島北部のエチャゲに後退を開始したが、1月13日に戦隊長搭乗機がアメリカ軍機に撃墜されている。2月上旬までにパイロットは台湾に脱出し、地上勤務者は臨時歩兵第25大隊に編入された。5月30日、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第204戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和19年2月22日、教導飛行第204戦隊から改称された。2月29日夜、B-24爆撃機4機(不確実2機含む)を夜間に撃墜。3月初旬からインパール作戦に参加。6月30日、第3航空軍司令官から感状を授与された。8月2日、タイのドムアン飛行場に後退。10月7日、ドムアンを出発し、10月11日に18機でマニラのニルソン飛行場に到着、第4航空軍隷下となった。10月15日から迎撃戦を行ったが、10月17日までに6機が撃墜され、7機が大中破する損害を被った。10月18日、胴体内に整備員を収容して13機でネグロス島ファブリカに進出。以降レイテ湾に艦船攻撃を行ったが、10月23日に可動機2機となった。10月末、保有機14機、可動機8機に回復したが、戦闘により11月10日までにほぼ全損し、11月12日にパイロットはマニラに後退した。11月16日、第4航空軍司令官から感状を授与された。12月中旬、整備員の一部を残して水戸に帰還。昭和20年2月3日、一式戦闘機Ⅲ型24機で常陸第2飛行場を出発。2月10日、台中に到着。2月24日、台中を出発。後発隊12機も水戸を出発した。2月28日に先発隊がサイゴンに到着し、第3航空軍独立第25飛行団隷下となった。3月18日、後発隊が新田原を出発、台中に到着した。3月25日、天号作戦開始により、後発隊は第8飛行師団隷下となり、誠第204戦隊と称した。4月末、誠第204戦隊は大和秘匿飛行場を経て花蓮港に移動し、沖縄戦に参加。5月中旬、サイゴンの部隊はビエンホア飛行場に移動し、プノンペン、ナドラン、ツーランなどに一部を展開させつつサイゴン付近の防空と船団護衛を実施した。5月21から7月19日までに誠第204戦隊は特攻隊4隊を突入させた。7月3日、本隊はビエンホアを発ち、7月25日に花蓮港に移動し、誠第204戦隊と合流。その後特攻出撃を1-2回行い、戦力温存と訓練に努めた。8月上旬に内地に戻るよう命令を受けたが、出発前に終戦を迎え、隊員は昭和21年3月に復員した。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第244戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊、通称近衛飛行隊(宮城防空担当だったので)、通称号は帥第三四二一三。昭和17年4月15日(昭和16年11月?)に飛行第144戦隊から改称された。調布飛行場に配備されており、隷下に九七式戦闘機2個中隊を置く。4月18日、日本本土奇襲攻撃に対して2機で出撃し、伊豆半島沖でB-25爆撃機1機を損傷させた。12月、3個中隊編成となった。その後1個小隊を二式単戦に機種改変した。昭和18年7-12月、三式戦闘機に機種改変した。昭和19年3月、第10飛行師団隷下となった。保有機は三式戦闘機40機くらいと九七式戦闘機少数である。11月1日、偵察に来たB-29爆撃機を1個編隊で迎撃したが、高度10000m以上を飛行していたため手が出せなかった。体当たり専門の震天制空隊を編成したが、三式戦闘機では軽量化しても10000m以上に上昇するのは困難であった。11月24日、B-29爆撃機1機を撃墜。12月3日、B-29爆撃機6機を撃墜、2機を撃破した。3名が体当たり攻撃に成功し、生還している。12月19日、浜松飛行場に移動。調布飛行場と行き来しながら関東と中部地方の防空を担当した。昭和20年1月3日、渥美湾上空でB-29爆撃機5機を撃墜、7機を撃破し、東部軍司令官から賞詞を授与された。1月23日、名古屋上空でB-29爆撃機6機を撃墜、14機を撃破した。2月16日、関東に来襲した艦上機の迎撃にあたり、8機を喪失した。2月19日(17日?)、迎撃戦での損害を受けて第10飛行師団隷下から第6航空軍隷下に移り、艦上機の迎撃には使用されないことになった。3月10日(5月12日?)、第30戦闘飛行集団隷下となった。4月までにB-29爆撃機に対して体当たりを18回行い、7名が戦死した。4月14日、第10飛行師団隷下となった。4月15日、B-29爆撃機16機を撃墜し、8機を撃破した。5月12日、五式戦闘機への機種改変を実施。5月15日、撃墜84機(うちB-29爆撃機73機)、撃破94機(うちB-29爆撃機92機)の総合戦果に対し、第1総軍司令官から部隊感状が授与された。5月17日、35機で調布飛行場を出発。5月18日、大刀洗に到着。5月20日から知覧基地に展開して特攻隊直掩任務を開始。航続距離が短いため、胴体下面に装着する落下増槽を開発していたが、完成前に沖縄戦が終わってしまった。6月3日、知覧基地を出撃し、F4U艦上戦闘機を迎撃、7機を撃墜し、3機が未帰還となった。7月15日、八日市飛行場に移動。7月16日、十数機で迎撃に上がったところ、P-51戦闘機50機に囲まれて2機を失い、第11飛行師団から出動禁止命令が出された。7月25日、出撃禁止命令を無視して戦闘教練名目で18機が出撃し、八日市上空でF6F艦上戦闘機12機を撃墜、2機(1機?)を喪失した。戦隊長は叱責されたが、天皇から御嘉賞の言葉を賜って不問とされている。7月末の可動機は31機だった。8月14日、四条畷上空に20機ほどが出撃して迎撃戦を行い、終戦を迎えた。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸6,’14、1,'17別冊
<飛行第246戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和17年8月10日、飛行第13戦隊を基幹に新編され、第18飛行団隷下に入った。隷下に九七式戦闘機2個中隊を置き、定数33機に対して保有機は25機で、第1中隊は阪神地区の防空を担当、第2中隊は札幌に展開している。10月下旬、第2中隊が阪神地区に向かった。12月、3個中隊編成となった。昭和18年4月、伊丹に移動、7月にかけて明野で二式単座戦闘機Ⅱ型に機種改変した。12月5日、2個中隊で台湾に向かった。昭和19年3月、台湾の部隊が大正飛行場に帰還。4月、飛行隊編制に改編。6月16日、小月飛行場に展開し、第19飛行団隷下となった。8月13日、大正飛行場に戻り、1個中隊を残して小牧飛行場に移動した。9月中旬、全部隊を大正飛行場に集め、対戦闘機戦闘訓練を行った。10月21日、第8飛行師団に編入された。その後38機が台湾に展開し、防空任務を行った。11月8日、主力40機がクラーク中飛行場に展開し、第30戦闘飛行集団隷下となった。11月14日、8機が特攻隊護衛のため出撃したが、敵艦上機の奇襲を受けて3機を失った。11月末、サブラン飛行場に移動。12月5日、16機で出撃したが、敵40機の奇襲攻撃を受けてパイロット7名を失った。12月13日、特攻隊援護のため可動機13機が全機出撃し、ネグロス島シライ飛行場で一旦給油を行っていたが、P-38戦闘機の奇襲を受けて1機を失った。12月14日、10機でネグロス島を出撃し、攻撃隊の援護に就いたが、着陸時に艦上機30機の奇襲を受け、全機を失った。12月20日、内地への帰還命令が出たため、12月26日に大正飛行場に復帰、残留訓練部隊と合流し、今後は対B-29戦闘に専念することとなった。昭和20年1月、四式戦闘機の配備が開始された。3月13日、大阪上空でB-29爆撃機2機を撃墜。3月16日、B-29爆撃機2機に体当たりを敢行して生還し、部隊感状が授与された。4月上旬、保有機は二式単戦20機と四式戦闘機12機だった。4月7日、四式戦闘機8機により伊勢上空でB-29爆撃機を迎撃したが、護衛のP-51戦闘機に逆襲され、2機が大破した。5月30日、四式戦闘機4機と二式単戦16機で成増に移動し、第10飛行師団隷下となった。6月1日、浜松に移動し、第13方面軍隷下となった。6月21日、大正飛行場に帰還。6月26日、名古屋上空でB-29爆撃機6機を撃墜。7月以降は本土決戦に備えて戦力温存に入った。7月末、二式単戦17機と四式戦闘機7機を保有していた。8月14日、4機で滋賀県上空を哨戒中にP-51戦闘機20機と遭遇し、1機を撃墜したが、1機を失った。翌日に終戦を迎え、解隊された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行第248戦隊>:日本陸軍の飛行戦隊。昭和17年8月10日、飛行第4戦隊をベースに雁巣基地で編成された。隷下に九七式戦闘機中隊2個を置き、定数33機、充足は25機で、芦屋と雁巣に1個中隊ずつを配置する。編成完結後は第19飛行団に編入され、芦屋基地に移り、訓練を実施。12月、第3中隊が編制され、一式戦闘機Ⅰ型に改編された。昭和18年7月末、一式戦闘機Ⅱ型に改編。10月9日、第4航空軍に編入された。10月20日、34機で芦屋を出発。10月31日、ウエワクに到着し、第6飛行師団隷下となった。地上勤務者は輸送船が潜水艦に沈められて229名中196名が戦死したため、暫く他部隊に依存することになり、飛行第59戦隊転出時に整備員を譲り受けている。11月6日、マザブ飛行場攻撃に参加、2機を撃墜し、1機が未帰還となった。以降も出撃を繰り返したが、11月30日には可動機が7機に落ちた。昭和19年1月には将校が戦死傷して皆無になり、2月には夜間攻撃を単機で行っていた。4月6日には保有機5機・可動機3機という状態で、4月22日のアメリカ軍ホランジア上陸時に全機が地上撃破されてしまった。パイロットは徒歩でサルミに撤退したものの、9月30日にイドレまで辿り着いたのは3-4名で、地上勤務者は山中に後退して四散した。7月25日に解散された。参考:日本陸軍戦闘機隊
<飛行中隊>:飛行隊(スコードロン)を表す台湾空軍語。参考:月刊軍事研究6,’05
<飛行中隊(イギリス空軍戦闘機集団、バトル・オブ・ブリテン時)>:英語ではスコードロンで、指揮官(スコードロン・リーダー)は空軍少佐である。2個飛行小隊で編成されており、1個飛行小隊は3機編成の編隊2個から構成されるので、1個飛行中隊は戦闘機12機からなる。巡航飛行時に各編隊は逆V字隊形を保ち、中隊全体でも逆V字隊形とし、攻撃時には横一列または縦一列の隊形に変化させるという第1次大戦以来の密集隊形を採用していた。しかしドイツ空軍戦闘機隊は第1次大戦以降の機体の高速化・高機動化に対応した最適の隊形を採用しており、対応に限界があったため、バトル・オブ・ブリテン後は2機編隊に縮小している。参考:アメリカ護衛艦史
<飛行中隊(日本陸軍飛行戦隊)>:定数は司偵・軍偵・軽爆が常用9予備6、戦闘・直協が常用12予備8、重爆が常用6予備4、超重爆が常用4予備2。参考:月刊丸11,’72
<飛行艇>:胴体(艇体という)底部を船底のような水密構造にした飛行機のこと。艇体が浮力を有しており、離着水が可能である。船と同じキールや、波飛沫を抑えるチャインを備える。飛行場を整備する必要が無く、脚がいらないので大型化が容易。水上滑走時には艇首から発生する波飛沫がプロペラやフラップを損傷させるので、プロペラをなるべく前上方に位置させて当たらないようにする。離島などへの旅客・貨物輸送活動、救助活動、消火活動(水上滑走で艇体内に水を入れる)に使用される他、第2次大戦時には対潜・対水上哨戒活動を主に実施した。参考:飛行機のしくみ、月刊航空ファン7,’11、月刊JWings9,’20
<飛行データ再生解析措置>:自衛隊の機器。東京航空計器製。参考:月刊軍事研究8,’17
<飛行点検装置等>:自衛隊の機器。日本エアロスペース製。参考:月刊軍事研究12,’16
<飛行点検隊>:航空自衛隊の航空管制施設点検部隊。コールサインはトライヤー(挑戦者、努力家)。防衛省/自衛隊(三自衛隊全て)が管理している飛行場施設や航空保安無線施設を陸上及び上空から点検するのが主任務で、入間基地に置かれている。隊本部、飛行隊、整備隊からなり、使用機はC-46D、T-33A、MU-2J、YS-11FC、U-125、U-680Aの各飛行点検機である。新施設の設置場所が適した位置にあるか調べる設置位置調査、新施設を点検する初度飛行点検、定期的に行う定期飛行点検、施設定期整備後などに機能をチェックする特別飛行点検などを行う。1回の飛行点検には5時間くらいかかる。飛行点検機は電波の状況を確認しつつ所定のコースを正確に飛行する必要があり、着任して機種転換後に飛行点検操縦士講習を修了して機長資格試験に合格するとパイロットになれるが、きちんと飛べるようになるにはベテランパイロットからの転換でも最低5年かかるらしい。民間航空保安施設の点検を担当する国土交通省飛行検査センターとは毎年1回くらい意見交換を行っている。機体定期整備は小牧基地に機体を送って航空救難団整備群が実施する。1958年10月1日、航空保安管制気象群隷下に創設され、本隊を入間基地(府中基地?)に、飛行隊を美保基地に置いた。要員は隊長以下7名、使用機は輸送航空団から借りたC-46Dである。1959年2月2日、本隊が美保基地に移駐した。6月1日(7月1日?)、木更津基地に移駐した。1961年7月15日、保安管制気象団の隷下に移った。1962年10月1日、飛行点検業務がアメリカから完全移管された。T-6練習機が配備され、航空救難任務を開始。1963年12月(1964年?)、T-33A練習機の運用を開始し、高々度飛行点検が行えるようになった。1964年、航空救難用T-6練習機の後継としてT-34練習機を配備した。1968年5月31日、入間基地に移駐。1971年6月、YS-11FC飛行点検機の運用を開始。1975年、T-34練習機の運用を終了。6月、MU-2J飛行点検機の運用を開始。1977年、C-46D輸送機の運用を終了。1989年3月16日、航空支援集団の隷下に移った。1993年7月、U-125飛行点検機の運用を開始。1994年、MU-2J飛行点検機の運用を終了。1996年、T-33A練習機の運用を終了。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。2015年12月22日、YS-11FC飛行点検機の1機が退役した。2016年4月6日、U-125飛行点検機1機が墜落事故を起こした。5月19日、飛行点検業務を再開し、明野駐屯地で点検を行った。11月10日、中部国際空港内にある国土交通省航空局飛行検査センターの安全管理活動を研修した。11月17日、日本ヒューマン・ファクター研究所取締役副所長を講師に招いて部外講話を実施。2017年1月5日、飛行始めと安全祈願行事を実施。所沢市の神社で安全を祈願し、U-125飛行点検機1機とYS-11FC飛行点検機2機で訓練飛行を行った。1月24日、U-125墜落事故再発防止教育の一環として、自治医大教授を招き、ヒューマンエラーに関する講話を行った。2月8日、東京地本の依頼でリクルータ隊員派遣支援を実施。女性パイロットが航空学生採用予定女子生徒を激励し、航空機見学の案内も行った。2月17日、U-125墜落事故再発防止教育の一環として、入間基地で産業カウンセラーによるレジリエンスに関する講話を受講した。3月9日、東京工科大学教養学環の落合教授を招いて部外講話を実施。4月6日、U-125墜落事故から1年を迎えるにあたり、同日を隊安全の日と定め、隊員全員で鹿児島に向かって黙祷を捧げた。4月16日、入間基地でU-125墜落事故殉職隊員の追悼行事と飛行安全祈念プレート除幕式を実施。4月19日、東海大客員教授を招いて航空事故と刑事責任に関する講話を実施。6月9日、電子航法研究所成果発表会に練成訓練の一環として隊員4名が出席した。6月19日、装備班長以下4名が中部国際空港内の航空局飛行検査センターで安全意識高揚と次期飛行点検機導入に向けた準備業務の一環として研修を実施。6月21日、レジリエンス(復原力)教育の第一人者を講師に招いて部外講話を実施。6月22日、隊初のハイスクール・リクルーターを石川県立鶴来高校に派遣した。7月18日、東京工科大教授を招き、数字で知る世界と日本をテーマとした講話を実施。7月19-21日、U-125航空事故再発防止策の一環として、隊員1名が海自厚木航空基地で第51航空隊のCRM講習(過去の事故・事案で得られた教訓に基づく座学教育・実習訓練)を受講した。8月25日、御巣鷹山への野外行動訓練を実施。9月8日、部外講師を招いてビジネス・マナー講話を実施。9月28-29日、国土交通省航空局飛行検査センターからセンター長以下12人を招いて相互交流を実施。11月14日、司令以下5名がU-125飛行点検機の定期整備を行っているスバル宇都宮製作所南工場を研修した。11月17日、准曹士先任以下4名が厚木航空基地で海自第4航空群第4整備補給隊女性自衛官10名と男女共同参画推進業務に関する研修を実施。12月8日、学習院女子大教授を招き、トランプ政権登場が物語るものと題する講話を聴講した。2018年1月4日、安全祈願行事とU-125飛行点検機2機による飛行始めを実施。1月12日、隊員10名がANAグループ安全教育センターで飛行安全教育を受講した。2月、第2輸送航空隊と合同で上級空曹集合訓練を実施。2月2日、U-125飛行点検機整備関連業務研修で陸自宇都宮飛行場隣のスバル工場に9名を派遣した。2月9日、JAL安全啓発センター研修に隊員25名を派遣した。2月16日、海自第4航空群第4整備補給隊先任伍長と、第4航空群本部及び第4整備補給隊から女性自衛官7名を招き、飛行点検隊女性自衛官4名と第2輸送航空隊女性自衛官3名を交えて男女共同参画推進について意見を交換した。3月11日、司令以下20名が日高かわせみマラソン2018に参加。4月6-7日、庁舎や格納庫などでU-125航空事故追悼行事を実施。10月5日、入間基地で創設60周年記念行事を実施。
2020年3月26日、U-680A飛行点検機2機が配備された。5月25日、U-680A飛行点検機の飛行試験を開始。2021年1月18日、U-680A飛行点検機で岐阜基地の航空保安施設点検を実施。1月21日、U-680A飛行点検機3号機が配備された。2月25日、YS-11FC飛行点検機によるプレ・ラストミッションを実施。北宇都宮駐屯地南南西2kmにある日光無指向性無線標識NDBの飛行点検を行った。3月4日、YS-11FC飛行点検機によるラストミッションを実施。下総航空基地精測進入レーダーの定期飛行点検を行った。3月17日、入間基地でYS-11FC飛行点検機のラストフライトを実施。3月19日(26日?)、入間基地でYS-11FC飛行点検機退役に伴う機種更新記念式典を実施。11月24日、U-125飛行点検機が帯広駐屯地でフライトチェックを実施。2022年3月30日、首相官邸で岸田首相から令和3年度内閣総理大臣特別賞状を授与された。2023年7月23日、隊員家族や友人ら200人を招き、職場見学会を初開催した。部隊マスコットキャラの名前募集も行い、「てんてん」と「けんけん」に決定している。参考:月刊JWings3,’16、2,’00、7,’13、6,'16、8,’16、10,’16、12,’18、6,'20、12,'20、4,'21、5,'21、6,'21、2,'22、月刊航空ファン12,’18、1,’15、5,’16、6,’16、10,’16、MAMOR
vol.52、vol.106、vol.113、vol.129、vol.143、航空自衛隊ホームページ、朝雲
<飛行点検隊(1975年)>:保安管制気象団隷下で、入間基地に置かれている。YS-11FC飛行点検機、MU-2J飛行点検機、C-46D輸送機、T-33A練習機などを装備する。参考:月刊JWings7,’24、月刊軍事研究10,’75
<飛行点検隊(1985年)>:保安管制気象団隷下で、入間基地に置かれている。T-33A練習機、YS-11FC飛行点検機、MU-2J飛行点検機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行点検隊(1995年)>:航空気象群隷下で、入間基地に置かれている。YS-11FC飛行点検機、U-125飛行点検機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行点検隊(2005年)>:航空支援集団隷下で、入間基地に置かれている。YS-11FC飛行点検機、U-125飛行点検機を装備する。参考:月刊JWings7,’24
<飛行点検隊(2015年)>:航空支援集団隷下で、入間基地に置かれている。YS-11FC飛行点検機、U-125飛行点検機を装備する。参考:月刊航空ファン4,’16
<飛行点検隊(2020年)>:航空支援集団隷下で、入間基地にある。YS-11FC飛行点検機、U-125飛行点検機、U-680A飛行点検隊を装備する。参考:月刊JWings6,’20
<飛行と安全>:航空自衛隊航空安全管理隊が発行している月刊誌で、安全意識・知識向上、事故防止を目的としている。1956年7月に創刊され、当時は空幕防衛課が発行していたが、12号から空幕監察官、1982年の航空安全管理隊発足後は同隊が編纂するようになった。2015年1月、700号を発行。参考:朝雲
<飛行包絡線>:フライト・エンベロープを参照。
<飛行予科練習生>:海軍飛行予科練習生を参照。
<飛行連隊>:日本陸軍の航空兵力基本戦闘単位。大正13年5月1日に飛行大隊から改称されて創設された。昭和5年1月には飛行中隊2-4個編成で、飛行中隊定数は戦闘機・偵察機・軽爆が9機、重爆が6機だった。戦時には飛行大隊甲(偵察機4機)、飛行大隊乙(戦闘機4機)、飛行大隊丙(爆撃機2機)、独立飛行中隊甲(偵察機6機)、独立飛行中隊乙(戦闘機6機)を編成して戦地に派遣する。昭和10年に戦時動員の編成替えが行われ、飛行大隊丁(重爆)、独立飛行中隊丙(軽爆)、独立飛行中隊丁(重爆)、独立飛行中隊戊(超重爆)が新たに制定され、飛行大隊丁には軽爆が配置されることになった。昭和13年7月に改編が行われて空地分離が実施され、空中勤務部隊は飛行戦隊に、地上勤務部隊は飛行場大隊と航空分廠になった。参考:月刊丸11,’72
<非国際的武力紛争>:国際法用語で、国家間紛争の反意語。政府と組織化された武装集団の間か、組織化された武装集団同士に、長期化した暴力行為が存在する場合に、非国際的武力紛争が存在すると判断される。ジュネーブ条約共通3条の適用を受ける。また、ジュネーブ条約第2追加議定書で規制されており、加盟国間において適用される。参考:月刊軍事研究11,’17
<ひこしま>:MSC-669(掃海艇)を参照。
<彦島丸>:日本海軍特設運送船Hikoshima
maru。元は大正7年7月に進水した門司商船近海航路用小型貨物船で、昭和2年に飯野汽船に売却され、太平洋戦争で日本海軍に徴用され、昭和19年に特設運送船に類別された。垂線間長63.4m、幅9.45m、深さ5.61m、吃水5.06m、総トン数951トン、重量トン数1650トン。主機は三連成汽機1基1軸700馬力、航海速力8ノット、最大速力10ノット。昭和19年6月18日、パラオ諸島カヤンゲル環礁で座礁した。7月25日、離礁作業中にアメリカ艦上機の爆撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船10,’17
<彦島丸>:三菱汽船2TM型戦時標準油槽船。総トン数2854トン。昭和20年1月6日、モタ三〇船団の一員として六連島泊地を出港。1月8日、潜水艦の雷撃を受け、避雷運動中に座礁した。参考:戦時標準船入門
<ヒコックス>:DD-673(駆逐艦)を参照。
<ピコット>:福岡地方協力本部のマスコットキャラで、フルネームはJ・F・ピコット。宣伝部長ならぬ宣伝部鳥なのでピコット部鳥とも呼ばれ、福岡県の県鳥であるウグイスがモチーフである。2020年、就任10周年記念で福岡地方協力本部長から防衛記念章第40号を授与された。2021年4月29日と5月5日、地元テレビ局情報番組に生出演して募集広報を行った。2022年5月3-4日、博多どんたく港まつりに参加。2023年3月4日、福岡市消防局博多消防署庁舎開放イベントで広報活動を実施。参考:朝雲、MAMOR vol.132
<ピコティー>:K63(コルベット)を参照。
<ビコン70>:イギリスのW・ヴィンテン社が開発したJAS39グリペン戦闘機輸出型用偵察ポッド。低-中高度偵察ミッション用で、胴体下部右側パイロンに搭載される。高分解能電子光学センサーまたは昼夜間映像用赤外線センサーを内蔵しており、画像をビデオテープに録画すると共に、コクピットのディスプレイに投射する。参考:月刊軍事研究3,’99
<ヒサール級>:トルコ海軍哨戒艦Hisar級。ミルゲム級がベースで、主機の形式を変更した。全長99.56m、幅14.42m、吃水3.77m、排水量2300トン。主機はCODELOD方式、ディーゼル発電機4基・電動モーター2基、速力24ノット、航続距離4500海里(12ノット)。10隻を建造予定で、1番艦アクヒサルと2番艦コチサルは2023年9月23日に進水した。参考:月刊世界の艦船12,’23
<久居駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。資料館には日本軍、陸自、郷土の資料が展示されている。所在地は三重県津市久居新町975。近鉄名古屋線久居駅東口から徒歩5分。元は1908年(明治41年)に開設された日本陸軍の駐屯地で、大正14年から歩兵第33連隊が駐屯した。太平洋戦争終結後は大蔵省が管理し、1952年7月に警察予備隊の駐屯地として開設された。1954年の陸上自衛隊発足時から第33普通科連隊が駐屯している。1958年6月、第10混成団本部が新編された。1959年6月、第10混成団本部が守山駐屯地に移動した。1964年8月1日、第2教育団第116教育大隊が新編された。2004年3月28日、第116教育大隊が廃止された。2009年9月29日から10月1日、津市立久居中学校2年生4人の職場体験訪問を支援。12月23日、三重地方協力本部が入隊予定者らを対象に広報イベントを実施。2010年12月1-3日、地元企業2社の社員26人が隊内生活体験を実施。12月7日、厚生活動の一環として駐屯地大縄跳び大会を実施。第33普通科連隊第3中隊が151回跳んで優勝した。2011年2月5日、ヘリ体験搭乗と第3回久居駐屯地記者クラブ勉強会を実施。9月4-14日、台風12号に対する災害派遣に参加。延べ2042名が108人を救助し、163トンの給水支援を行った。9月15日、三重県知事が駐屯地を訪れ、台風12号被害対処災害派遣に対して謝辞を述べた。10月21日、三重県立みえ夢学園高校の生徒8人に対し、職場体験学習を行った。2012年2月27日から3月2日まで大縄跳び大会を実施。第33普通科連隊、第2直接支援中隊、駐屯地業務隊などから9チームが参加し、第2直接支援中隊が優勝した。また、応援優秀部隊として第33普通科連隊第1中隊が選出された。4月22日、駐屯地開設60周年記念行事を実施。5月31日、平成24年度第一回記者クラブ勉強会を実施。地元記者4人が参加した。6月12-14日、コスモ石油四日市精油所の社員17人と松坂鉄工所社員7人に対する体験入隊を実施。7月3日、松阪市第2公民館の35人が駐屯地を見学した。11月13日、殉職隊員追悼式を実施。2013年2月18-20日、近畿日本鉄道助役職34人に隊内生活体験を実施。2015年1月27-29日、近畿日本鉄道社員40人に隊内生活体験を実施。2月21日、明野駐屯地でUH-1J多用途ヘリを使用して駐屯地協力者や駐屯地モニターなど27人にヘリコプター体験搭乗を実施。3月30日、津市、東海防衛支局と共に、津市役所で久居駅周辺地区都市再生整備計画に伴う用地交換契約の調印式を実施。2016年1月8日、体育館で成人式を実施。2月16-18日、四日市市立桜中学校生徒に体験入隊を実施。5月26-27日、伊勢志摩サミットを支援した。2017年3月17日、久居射撃場で小火器射撃評価システムの運用開始式を実施。式終了後、すぐに射撃訓練を行った。5月12日、駐屯地修親会が久居市の陸軍墓地で清掃と慰霊を実施。5月14日、久居市の陸軍墓地で久居英霊合祀碑継承会主催の慰霊祭を支援し、隊員7名がらっぱを吹奏した。5月18日、三重地本が平成29年度定年制再就職説明会を開催し、平成30-31年度に定年予定の隊員34名が参加した。6月19日、ボイラー室前で新ボイラー落成式を実施。6月20-23日、南海レスキュー29に参加。10月2日と10月10日、近隣保育園・小学校の虫取り行事に協力し、訓練場を開放した。2018年8月1-3日、三重地本が平成30年度第2回任期制就職補導教育を実施。2019年11月24日、三重地本が第33普通科連隊重迫撃砲中隊の協力で女性限定イベントを開催し、募集対象者と家族ら12人が参加した。2022年6月29日、駐屯地曹友会が三重県赤十字血液センターの献血活動に協力し、42名が参加した。8月27日、三重県内小学生41人を招いて令和4年度夏休みちびっ子大会を実施。2023年1月23日、駐屯地曹友会が三重県赤十字血液センターの献血活動に協力し、37名が参加した。5月22-23日、川崎重工社員21人に令和5年度第1回生活体験を実施。5月30日から6月2日、四日市市立西笹川中学校と津市立白山中学校の生徒ら7人の職場体験学習を支援した。参考:JGround Vol.23、MAMOR vol.91、vol.116、久居駐屯地ホームページ、第33普通科連隊ホームページ、第10師団ホームページ、中部方面混成団ホームページ、朝雲
<久居駐屯地(2015年)>:第10師団第33普通科連隊、第10後方支援連隊第2整備大隊第2普通科直接支援中隊、第306基地通信中隊久居派遣隊、第130地区警務隊久居派遣隊、中部方面会計隊第337会計隊(3月26日から第408会計隊久居派遣隊)、久居駐屯地業務隊が駐屯している。参考:久居駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<久居駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2016年2月3日、隊長の発案により、恵方巻きを隊員食堂で提供した。7月5-8日、南海レスキュー28に参加。2018年1月17日、方面隊防災演習における前方支援地域開設と、緊急登庁支援任務の完遂の功績で、陸幕長から2級賞状が授与された。2019年9月10-11日、関西補給処の物品管理検査を受検し、全項目で合の判定を得た。参考:朝雲
<膝撃ち>:ニーリング・ポジションを参照。
<久川丸>:川崎汽船2A型戦時標準貨物船。総トン数6886トン。昭和18年12月22日起工、昭和19年9月10日竣工。昭和20年1月6日、モタ三〇船団の一員として六連島泊地を出港。1月9日、高雄北北西46km付近でアメリカ艦上機の攻撃を受けて沈没し、乗員86人と、陸軍南方総軍司令部・第19師団第3輸送大隊・船舶砲兵2285名の計2371名全員が戦死した。参考:戦時標準船入門、輸送船入門
<ピサグア>:SS33(潜水艦)を参照。
<非殺傷戦車砲弾>:IMI社の非致死性105mm・120mm戦車砲弾。砲口から出た直後に炸裂して大音響を発し、半径5mにグラスファイバーを撒布する。非武装パレスチナ人の制圧に使用する予定。参考:月刊PANZER11,’04
<膝半屈腹筋(自衛隊)>:仰向けで両膝を90度曲げ、補助者に足首を押さえてもらう。両手は後頭部で組まずに重ね、頭は床に付けず肩甲骨を床に付けた状態で開始し、上体を起こして両肘と両ももを接触させ、仰向け状態に戻ったら1回になる。肘が足に付かない、両手の指が離れる、手が頭から離れるといった場合は数に数えない。休憩する場合は両肘を両ももに付けたままの状態とする(休憩とはいったい…)。参考:MAMOR vol.145
<ヒサルA>:トルコ軍の国産低高度防空用地対空ミサイルシステムHisar-A。2008年にRFPが出され、完全国産化政策に合わせて2011年に契約を結び直し、主契約社のアセルサン社がレーダー、指揮統制装置、火器管制装置を、副契約社のロケットサン社がインターセプターとミサイルを開発した。射程15km。6輪トラックの後部荷台またはACV-30装軌式装甲車にミサイルランチャーを搭載する。システムは牽引式捜索レーダーや通信装置搭載トラックなどからなる。2013年9月6日に初試射を実施した。2017年に就役予定だったが遅れており、2021年中にトルコ陸軍に納入予定となっている。2019年3月20日、垂直発射試験に成功した。参考:月刊軍事研究3,’14、10,’19
<ヒサルO>:トルコ陸軍中距離地対空ミサイル。2022年に納入予定。参考:月刊軍事研究10,'19
<ピサロ>:ASCODシリーズ(歩兵戦闘車)を参照。
<ピサロ>:スペイン海軍ニューポート級揚陸艦Pizarro。元はアメリカ海軍ニューポート級揚陸艦LST-1196ハーラン・カウンティで、1995年にスペイン海軍で就役した。参考:月刊世界の艦船12,’12
<微山湖>:887(補給艦)を参照。
<菱(初代)>:日本海軍樅型駆逐艦16番艦。大正11年3月23日竣工、二等駆逐艦に類別された。昭和15年4月1日、哨戒艇に転籍し、第37号哨戒艇に改称された。参考:日本駆逐艦史
<菱(2代目)>:日本海軍松型駆逐艦40番艦。昭和20年2月10日に起工されたが、4月17日に建造中止となった。参考:日本駆逐艦史
<ビジー・ツー>:AN/BSY-2(戦闘システム)を参照。
<ビジー・ワン>:AN/BSY-1(戦闘システム)を参照。
<ビシェグラード4>:チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランドの4カ国による地域協力機構で、V4と略す。1991年2月にハンガリーのビシェグラードで各国首脳(当時はチェコスロバキア分離前で3カ国だった)が合意して発足した。議長国は1年交代で、毎年1回公式首脳会合を行っている。参考:朝雲
<毘式七粍七固定機銃>:ヴィッカーズ海外シリーズ(機関銃)を参照。
<毘式一二粍七機銃シリーズ>:日本海軍12.7mm機銃。ヴィッカーズ12.7mm機銃を導入したものである。参考:月刊丸4,’13
<毘式一二粍七機銃水冷二型>:円錐銃座に積んだものは第5号掃海艇、第6号掃海艇、敷設艇燕に1丁ずつ、隠顕式銃座に積んだものは潜水艦に搭載された。参考:月刊丸4,’13
<毘式一二粍七機銃水冷二型改一>:円錐銃座(防楯無し)搭載型は重量158kg、俯仰角マイナス5度からプラス90度。参考:月刊丸4,’13
<毘式一二粍七機銃水冷四型>:円錐銃座に搭載したものは特型駆逐艦、掃海艇、敷設艦八重山、水上機母艦神威に装備された。参考:月刊丸4,’13
<比式32口径12センチ単装砲>:日本海軍12cm砲。比式はフィブ・リール(Fives Lille)式のことである。砲身重量2.9トン。弾丸重量25kg、初速毎秒467m。安式12cm速射砲の方が性能が良く、砲艦赤城と大島にのみ搭載された。参考:日本海軍特務艦船史
<毘式四〇ミリ単装機銃一型>:ポンポン砲・海外シリーズを参照。
<毘式四〇ミリ単装機銃二型>:ポンポン砲・海外シリーズを参照。
<毘式四〇ミリ連装機銃一型>:ポンポン砲・海外シリーズを参照。
<毘式四〇ミリ連装機銃一型改一>:ポンポン砲・海外シリーズを参照。
<毘式四〇ミリ連装機銃二型>:ポンポン砲・海外シリーズを参照。
<毘式四五口径三六サンチ連装砲>:日本海軍36cm連装砲塔。ヴィッカーズ社製なので毘式と呼ばれる。巡洋戦艦金剛及び比叡の主砲塔で、比叡のものは薬室を拡大しており、四一式四五口径三六サンチ砲と装薬量などが同じになったため、四一式四五口径三六サンチ砲の方に分類されることもある。口径356mm、砲身長45口径、砲身重量85トン、旋回部重量607トン(改装後684トン)。装甲厚は防楯250mm(改装後280mm)30度、上面76mm(改装後154mm)。弾丸重量673kg、初速毎秒770m、最大射程22000m(仰角20度)/23000-25000m(仰角25度)/28600m(仰角33度)/35450m(仰角43度)。参考:図解日本の戦艦、月刊世界の艦船1,’12、月刊丸3,’14
<毘式五〇口径一五サンチ砲>:日本海軍15cm砲。巡洋戦艦金剛及び比叡の副砲で、ヴィッカーズ社が製造した。防楯厚20mm。実口径152mm、砲身長50口径。俯仰角マイナス5度からプラス15度。弾丸重量45kg。最大射程12400m(14000m?)。参考:月刊丸3,’14、7,’14、図解日本の戦艦
<毘式戦車砲>:日本陸軍戦車砲。ヴィッカーズC型中戦車の主砲である。参考:大砲入門
<ビ式ディーゼル>:日本海軍の潜水艦用12気筒4サイクル・ディーゼルエンジン。三菱重工がヴィッカーズ社から技術供与を受け開発した。出力1200馬力。参考:月刊軍事研究6,’16
<飛実団>:飛行開発実験団を参照。
<ヒシニク>:ロシア海軍超高速魚雷Khishchnik。VA-111シュクヴァルの後継で、2010年代から発射試験を行っているらしい。参考:月刊世界の艦船6,’21
<ビジネス機>:コーポレート機ともいう。通勤や用務といった企業人員の移動のために使用される航空機のこと。自由に使えて安全度が高く、時間も節約でき、企業秘密も守れるので、企業に必要な戦闘機とも呼ばれる。参考:月刊JWings5,’16、月刊航空ファン3,’18
<ビジネス機のホットロッド>:MU-2シリーズ(ビジネス機)を参照。
<ビジネス・ジェット>:Business jet aircraft、Bizjet。ビジネス機として使用されるジェット機のこと。参考:月刊JWings10,’09別冊付録、5,’16、1,’23
<菱丸>:日本海軍特設艦船。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は連合艦隊補給部隊所属だった。参考:帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ
<ビジャンタ>:ヴィッカーズMk1(戦車)を参照。
<日出生台演習場>:陸上自衛隊の演習場。東西16km、南北5km、面積5635万平方メートルで、大分県由布市、九重町、玖珠町に跨がっており、九州最大の演習場である。西側には小松台と呼ばれる高台があり、この付近に仮想敵を配置すると、反斜面陣地に対する攻勢演習を行うことが出来る。ちなみに小松台の由来は、ノモンハン事件でソ連軍が確保していた高台に日本軍が付けた通称(大元は第23師団小松原師団長の名字)。在日米軍の地位協定に基づく日米共同施設区域である。1998年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。1999年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。2000年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。2001年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。2003年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。2005年度、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。2009年12月15日、平成21年度第4師団持続走競技会を実施。隷下連隊が1個分隊12名編成の18個分隊で駅伝方式の持続走を行った。2010年1月22日、在沖縄第12海兵連隊第3大隊先発隊20名が到着。1月24日、同本隊200名が到着。2月1-14日(2-11日?)、アメリカ海兵隊による155mm榴弾砲実弾射撃訓練を実施。砲兵中隊1個220名、車両50両、砲6門が参加した。2月15-16日、アメリカ海兵隊員が別府、宇佐、大分市内を巡る文化ツアーを実施。2月20日、アメリカ海兵隊員が沖縄に向け出発した。2011年1月30日、在沖縄第12海兵連隊第3大隊先発隊が到着。2月1日、同本隊が到着。2月7-11日、アメリカ海兵隊が155mm榴弾砲実弾射撃訓練と小火器実弾射撃訓練を実施。砲兵中隊1個160名が参加した。2月18日、在沖縄第12海兵連隊第3大隊本隊が沖縄に向け出発。2月19日、同後発隊が沖縄に向け出発。2012年2月10-19日、在沖縄米海兵隊による沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の分散・実施に伴う射撃訓練が行われた。2018年2月5-14日、在沖縄米海兵隊による沖縄県道104号越え実弾射撃訓練の分散・実施に伴う射撃訓練が行われた。2025年2月27日から3月9日、沖縄県道104号線越え155mm榴弾砲実弾射撃訓練の分散・実施のため、1個大隊430名、車両110両、155mm榴弾砲10門が展開し、射撃訓練を行った。参考:MAMOR vol.142、月刊軍事研究4,’10、6,’09、防衛省ホームページ、朝雲
<飛隼丸>:日本海軍気象観測船兼監視船Hijun maru。元は昭和4年5月15日に竣工した農林省水産局漁業監視船で、太平洋戦争で海軍に徴用されて気象観測船兼監視船となった。垂線間長41.15m、幅7.39m、深さ3.96m、吃水3.78m、総トン数319トン、重量トン数125トン。主機はディーゼル1基1軸1055馬力、航海速力11ノット、最大速力13.077ノット。昭和19年7月31日、フィリピンのパラワン島沖でSS-260レイポンの雷撃を受け損傷した。昭和20年6月4日、関門海峡東口部埼南東10kmで触雷して沈没した。参考:月刊世界の艦船9,’17
<ビジョイ級>:キャッスル級哨戒艇(バングラデシュ海軍)を参照。
<美頌>:347(揚陸艦)を参照。
<非常呼集(日本陸軍)>:連隊長または現在する上級先任者(各部を除く)が非常の号音を吹奏させる(時宜により吹奏しないこともある)。非常呼集が発令されたら、各本部や中隊などは速やかに命令受領者(必要に応じて武装させる)を連隊本部に出し、取り敢えず所要の場所に武装させた監視者を配置する。週番諸官は、軍旗、御真影、勅諭などの警護、秘密保持上重要な物件の監視、兵営外居住者への急報の処置などを行い、警戒、兵営内の取締、火災予防に注意する。参考:軍隊内務令
<非常呼集訓練(日本陸軍)>:日本陸軍の非常呼集想定訓練。非常事態が発生した場合の対処を演練するもので、非常事態は昼夜問わず起こる筈だが、昼間に非常呼集をかけると日常訓練の妨げになるので、だいたい夜に行われ、内務班では中隊週番士官が実施を決める。「非常呼集」の号令が出されたら、全員飛び起きて軍服に着替え、軍靴と巻絆を巻き、帯剣して銃を掴み、舎前営庭に集合して整列、近場まで駆け足行進して状況終わりになる。士官学校を出たばかりの気合いの入った少尉・中尉が週番士官になると、班長が警戒し出す。中隊事務室に知り合いがいる場合、事前に実施情報が漏れてくることもあり、事前に軍袴、軍靴、巻脚絆あたりを履いたまま寝たふりをして非常呼集訓練に備えた。本来は上衣と軍袴を毛布の上に畳んでおく決まりなので、上衣を膨らませ軍袴が下にあるように見せかけて巡回の目を誤魔化し、号令がかかったら上衣だけ着て銃剣と銃を掴んで飛び出す。ただし整列が早すぎると逆に疑われるので、ほどほどにするのがポイントであり、軍靴と巻脚絆を寝台の下に忍ばせる程度にしておいたりと調整する。翌日昼間に睡眠不足で事故が起きたりすると週番士官が責任を取らされかねないので、慣れた週番士官はそこそこ睡眠の取れた黎明頃に非常呼集の号令を掛け、終わって帰隊すると朝食が始まるようタイミングを計っていた。参考:新兵サンよもやま物語、軍医サンよもやま物語
<非常呼集訓練(航空自衛隊)>:航空自衛隊の訓練。年に数回実施される。全国一斉に行われる場合と、航空方面隊または航空団ごとに行われる場合があり、基本的に抜き打ちである。非常呼集がかかると各戦闘機には機関砲やミサイルの実弾がフル装備され、発進準備が進められる。離陸前に終わることもあれば、緊急発進して領空侵犯機役の機体に向かって行くこともある。また、周辺国の緊急事態に対応して実施されることもあり、訓練が外れて非常呼集になる場合もあるかもしれない。参考:月刊JWings11,’09、月刊軍事研究8,’14
<非常呼集訓練(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の訓練。放送、垂れ幕、OHPなどで非常呼集が告げられると、服装を整えて所用品を防水ジップロック(ガムテープを貼って所属、名前、収容品を書いておく)に収めた後背嚢に詰め込み、班ごとに小銃を受け取って外で小銃の準備を行い、営庭に整列、教官のチェックを受ける。参考:スピアヘッドNo.16
<非常準備食>:日本海軍の特殊糧食。昭和6年3月の海軍糧食表改訂で制定された。特務艇や雑役船に搭載する非常食で、乾麺麭や缶詰獣魚肉からなる。将校がこれを食べる場合、食事分だけ食料(食事代)が支給されなくなる。参考:写真で見る海軍糧食史
<飛翔体>:Flight-projectile。砲弾のうち、砲口から発射され、目標まで飛翔する部分のこと。参考:月刊グランドパワー2,’05
<非常用給水装置(航空自衛隊)>:航空自衛隊の真水製造器。海水を濾過して1日最大8000リットルの真水を作ることができる。2018年10月22日に発生した周防大島町の断水の災害派遣で、第12飛行教育団と航空教育隊が1基ずつ島に持ち込み、期間中に94トンを造水して町立病院などに供給、空自災害派遣での初使用を記録した。参考:朝雲
<非常用発電機300kVA>:自衛隊の機器。三洋電気製。参考:月刊軍事研究5,’14
<非常用発電機600kVA>:自衛隊の機器。東芝三菱電機産業システム製。参考:月刊軍事研究5,’14
<非常労働食>:日本海軍の兵食(増加食)で、激動食ともいう。昭和6年の海軍糧食表改訂で制定された。石炭搭載など重労働に従事して衛生上必要があると認められた場合、生麺麭150g+白砂糖25g、乾麺麭120g+白砂糖25g、乾饂飩110g、白米110gのいずれかと茶2gが基本食に加えて支給される。一日当たり摂取カロリーは3817-4071kcalになる。参考:写真で見る海軍糧食史
<ビショップ>:イギリス陸軍自走砲Carrier,
Valentine, 25pdr gun Mk Ⅰ, Bishop。北アフリカ戦でドイツ軍が歩兵支援用自走砲を活用しているのを受け、イギリス第8軍司令部も既存の戦車車体に25ポンド砲を載せた自走砲を作ろうと考えた。1941年6月にバーミンガムキャリッジ&ワゴン社がバレンタイン歩兵戦車の車体を使用する自走砲を提案し、8月には試作車を完成させてテストを実施、砲要員防護装甲厚を増やすなどの改良を加えて11月に100両を発注している。更に200両を追加する予定だったが、アメリカで開発中のM7プリースト自走砲の方が良さそうだったので、50両の追加発注に止まっている。バレンタインMkⅡ歩兵戦車の砲塔を外して25ポンド砲Mk.Ⅱ(32発)を搭載し、背の高いオープントップ(密閉式?)装甲板で囲っていて、射撃時には後部扉を開放し、換気と操砲スペースの確保を図る。旋回角左右4度、俯仰角マイナス5度からプラス15度。最大射程5825m。全長5.54m、全幅2.63m、全高2.83m、重量17.7トン。エンジンはAEC液冷ディーゼル(131馬力)、路上最大速度24km、路外最大速度7マイル(11.3km)、航続距離145km。副武装は対空用.303口径ブレン機銃1丁。装甲厚は最大60mm・最小8mm。乗員4名(車長、操縦手、砲手、装填手)。150両(100両?)が生産され、最初の80両は早速北アフリカの第8軍に送られたが、間に合わせの自走砲であり、操砲スペースが狭く砲の操作性が悪い、仰角が15度しか取れないので牽引式に比べて射程が半分しかない、射界が取れない、搭載弾数が少ない、機動力が無いと散々な評判で、既に配備が始まっていたM7プリースト自走砲にすぐ交代し、北アフリカ戦終了後は訓練用に回された。参考:British and American tanks of World War Two、世界の軍用車両(1)、月刊PANZER3,’02、月刊JWings7,’04、異形戦車ものしり大百科、米英軍戦闘兵器カタログVol.2
<ビジョン600>:アトラス社の合成開口ソナー。送信アレイ幅100m、受信アレイ幅600mm。有効距離100m、解像度25mm。参考:月刊軍事研究1,’15
<ビジョンSF50>:シーラス社が開発したVLJ(Very Light Jet)クラス小型ビジネス・ジェットVision
SF50、通称ビジョン・ジェット。オーナーが自分で操縦できるパーソナル・ジェットを謳っており、2006年から開発され、2008年7月3日に原型機が初飛行した。その後資金難で開発が止まりかけたが、2011年に中航通用飛機がシーラス社を買収して2012年から開発資金を提供、2014年3月24日に形式証明取得用初号機が初飛行し、2016年10月28日にFAA、2017年5月にEASAの形式証明を取得した。胴体は炭素複合材モノコック構造で、胴体後部上面にエンジンを載せて騒音を低減、排気を避けるため尾翼はV字にした。緊急事態に備えてCAPS(Cirrus Airframe Parachute System)を備えている。コクピットシステムはタッチスクリーン式のシーラス・パースペクティブ・タッチ(Cirrus Perspective Touch)で、ガーミンG3000がベースである。全長9.42m、全幅11.79m、全高3.32m、自重1.62トン、最大離陸重量2.727トン。エンジンはウィリアムズ社製FJ33単発、巡航速度556km、航続距離2222km。座席数4-7。量産機は2016年5月6日に初飛行し、12月から引き渡された。参考:世界航空機年鑑2018-2019
<ビジョン・ジェット>:ビジョンSF50(ビジネスジェット)を参照。
<ビジョンブロック>:車外視察用直視窓。狙撃されると危ないので、なるべく小さくし、防弾ガラスを張っている。それでも貫通されると車内または乗員の頭に直接弾丸が飛び込んでくるため、ペリスコープの方が安全。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容
<ビジランス>:イギリス陸軍対戦車ミサイル。1963年に制式化された。重量14kg。飛翔速度毎秒110m、射程1300m。誘導は有線目視式。参考:ザ・マーチ5号
<ビジランス級>:オマーン海軍艦船。イギリスのヴォスパー・ソーニークロフト社に発注し、1996年に2隻が引き渡された。舷側に二重のフレアが入り、上部構造物と船体外舷も継ぎ目無く連結され、ステルス性が高い。煙突には赤外線放射抑制の工夫がされている。排水量1450トン。参考:月刊丸3,’01
<ビジランティー>:RA-5C(偵察機)を参照。
<ビジラント>:R93(駆逐艦)を参照。
<ビジラント・イーグル演習>:NORADとロシア空軍が2011年8月7-9日に実施した合同防空演習。テロリストに乗っ取られたアメリカの国際線輸送機への対処訓練で、アメリカ・ロシア間を越境する機体に関する責任の引き渡しなどについて演練した。参考:月刊軍事研究2,’12
<ビジラント・リゾルブ作戦>:油断無き決意作戦を参照。
<聖博物館航空資料館>:長野県麻績村の聖高原にある航空博物館。C-46D輸送機の胴体前部、T-1練習機の航空制御システム訓練装置、太平洋戦争で使用された木製増槽(彩雲用?)、五式戦闘機の一部、陸奥の40cm砲身及び砲弾などが展示されている。開館時間は0900-1700、休館日は積雪期(12月から3月まで)、火曜日(祝日なら翌日)。参考:月刊丸2,’08付録
<非浸炭鋼板>:表面硬化鋼を参照。
<ピスコ>:156(LPD)を参照。
<ピスコ>:ペルー海軍ピスコ級戦車揚陸艦Pisco。1984年就役。参考:月刊世界の艦船5,’86
<ピスコ級>:テレボーン・パリッシュ級・海外シリーズ(戦車揚陸艦)またはドクター・スハルソ級・海外シリーズ(LPD)を参照。
<ビスタ・ドーム>:M551ATRV(回収車)を参照。
<ビスケイン>:AVP-11(飛行艇支援艦)を参照。
<ビスケー・クロス>:FuMB1(電波探知機)を参照。
<ピストル>:拳銃。正確な語源は不明で、イタリアの都市ピストイアで広まったという説や、ボヘミア地方のピスタラという言葉からという説などがある。実用的なピストルはホイール・ロック式の銃が開発されてから広まった。参考:GUN用語事典
<ビストルイ>:ソ連海軍ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦Bystry。1985年10月29日起工、1987年11月28日進水、1989年9月30日竣工。2002年9月30日、宗谷岬の西北西45kmを航行するのをDD-156せとぎりが確認した。2009年9月22日、宗谷岬の西南西250kmを航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。10月13日、宗谷岬の東北東160kmを航行するのをDD-156せとぎりが確認した。2011年9月9日0100-1000頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリヤーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャⅢ型警備艦ホルムスク、グリシャⅤ型警備艦ソヴェツカヤ・ガヴァニ、タランタルⅢ型ミサイル艇R-11、同R-14、同R-18、同R-19、同R-24、同R-298、ロプーチャⅠ型揚陸艦BDK-98、ロプーチャⅡ型揚陸艦ペレスウェート、アリゲーターⅣ型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、ドゥブナ級補給艦イルクート、エルブラス型潜水艦救難艦1隻、イングル型救難曳船1隻、カツンⅡ型救難艦1隻、オビ型病院船1隻と共に宗谷岬の西200kmを東に航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらは2000-2200に宗谷海峡を通過している。9月28日、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャⅢ型警備艦ホルムスク、グリシャⅤ型警備艦ウスト・イムリスク、同コレーツ、同ソヴェツカヤ・ガヴァニ、ロプーチャⅠ型揚陸艦BDK-98、ロプーチャⅡ型揚陸艦ペレスウェート、アリゲーターⅣ型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、改アルタイ型補給艦、オビ型病院船と共に宗谷岬の東北東350kmを航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。2012年7月1日0600-1800、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリヤーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャⅤ型警備艦メテル、同ウスト・イムリスク、同コレーツ、ロプーチャⅠ型揚陸艦BDK-98、同オスラビア、ロプーチャⅡ型揚陸艦ペレスウェート、アリゲーターⅣ型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、ナヌチュカⅢ型ミサイル艇イネイ、同ラズリーフ、タランタルⅢ型ミサイル艇R-14、同R-18、同R-19、フィニク級測量艦GS-47、同GS-84、同GS-296、同GS-404、ビヤ級測量艦GS-200、カメンカ級測量艦GS-211、モマ級測量艦アンタークティダ、ユグ級海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフ、カシタン級設標艦KIL-168と共に、宗谷岬の西160kmを東に航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。7月8日、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリヤーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャⅤ型警備艦メテル、同ウスト・イムリスク、同コレーツ、改アルタイ級補給艦イリム、フィニク級測量艦GS-84、モマ級測量艦アンタークティダ、ユグ級海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフ、ゴーリン型航洋曳船SB-522と共に宗谷岬の北東60kmを西に航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。2013年7月13-14日、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャⅤ型警備艦ウスト・イリムスク、同メテル、同ステリャーク、タランタルⅡ型ミサイル艇R-79、タランタルⅢ型ミサイル艇R-11、同R-14、同R-18、同R-19、同R-20、ソーニャ型掃海艇BT-256、同艇番号553、ロプーチャⅠ型揚陸艦オスラビア、アリゲーターⅣ型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、ドゥブナ級補給艦イルクート、フィニク型測量艦GS-397、ユグ型海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフ、オビ型病院船イルティシュ、ゴーリン型航洋曳船SB-522、ソルム型航洋曳船MB-99、中国海軍051C型ミサイル駆逐艦116石家荘、同115瀋陽、054A級フリゲート538煙台、同546塩城、福清型補給艦881洪澤湖と共に宗谷海峡を東に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後ロシア艦のみでオホーツク海に於いて軍事演習を行い、7月19-20日に宗谷海峡を西に進んでいる。8月14日、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、タランタルⅢ型ミサイル艇R-20、同R-22と共に、宗谷岬の北北西60kmを南東に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらは宗谷海峡を東に進んでいる。9月23日、ロプーチャⅠ型揚陸艦オスラビア、アリゲーターⅣ型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、カシュタン級設標艦KIL-498、同KIL-927、オビ型病院船イルティシュと共に、宗谷岬の東北東300kmを西に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機が確認した。10月19日1200、ロプーチャⅠ型揚陸艦オスラビアと共に宗谷岬の西南西220kmを北東に航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらは宗谷海峡を通過してオホーツク海に入っている。10月31日、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、ロプーチャⅠ型揚陸艦オスラビアと共に、宗谷岬の東北東180kmを西に航行するのを第2航空群P-3C哨戒機が確認した。2014年5月16日0100頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、ロプーチャⅠ型揚陸艦アドミラル・ニヴェルスキー、改アルタイ級補給艦イリム、ネフテガズ型航洋曳船カラルと共に、上対馬北東140kmを南西に航行するのをDD-132あさゆきが確認した。その後これらは対馬海峡を南下している。5月20-26日、東シナ海で海上連合2014に参加。5月29日、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、ロプーチャⅠ型揚陸艦アドミラル・ニヴェルスキー、改アルタイ級補給艦イリム、ネフテガズ型航洋曳船カラルと共に、対馬海峡を北上しているのをDD-132あさゆきが確認した。6月1日、ウラジオストクに帰港。8月20日1800頃、グリシャⅤ型警備艦MPK82、同エルクーツキー・コムソモレッツ、改アルタイ級補給艦イリム、ネフテガズ型航洋曳船カラルと共に宗谷岬の西90-150kmを北東に航行するのをDD-114すずなみと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。10月3日、ソルム型航洋曳船MB-37と共に宗谷岬北東80kmを航行するのをDE-231おおよどが確認した。2015年7月9日0530頃、宗谷岬北東60kmを西に航行するのをPG-827くまたかと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。オホーツク海での対艦ミサイル発射訓練の帰りで、その後宗谷海峡を西に進んでいる。8月20-28日、海上連合2015(Ⅱ)に参加。8月30日1830頃、宗谷岬西150kmの日本海を北東に航行するのを、PG-827くまたかと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後宗谷海峡を東に進み、オホーツク海に入っている。9月2日、サハリン南部コルサコフ沖で第2次大戦戦勝70周年記念観艦式に参加。11月2日、インド海軍との共同演習インドラネイビー2015に参加するためウラジオストクを出港。11月4日1030頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に、上対馬北東75kmを南西に航行するのを、PG-826おおたかと第1航空群P-3C哨戒機が確認した。その後対馬海峡を南下して東シナ海に入っている。11月9-20日、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に、南西諸島周辺を往復航行したり錨泊したりし、一部は日本の接続水域内で行動しているのを、ATS-4202くろべ、ATS-4203てんりゅう、第5航空群P-3C哨戒機が確認した。11月20日午前に海域を離れて南下している。12月7-12日、ベンガル湾でインド海軍との共同演習インドラネイビー2015に参加。2016年1月23日0500頃、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に、下対馬南西100kmを北東に航行するのを、PG-826おおたかと第1航空群P-3C哨戒機が確認した。その後対馬海峡を北上している。1月26日、ウラジオストクに帰港。6月20日2130頃、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ、グリシャⅤ型警備艦コレーツ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、宗谷岬西北西110-130kmの宗谷海峡を東に航行するのを、PG-825わかたかと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。7月10日0100頃、宗谷岬東110kmを航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機とMSC-679ゆげしまが確認した。その後宗谷海峡を西に通峡している。10月20日、ウダロイⅠ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に上対馬北東100kmを航行するのを第4航空群P-3C哨戒機とPG-829しらたかが確認した。10月21日、対馬海峡を南下して日本海から東シナ海に入った。11月17日、イングル級救難曳船アラタウと共に、下対馬南西220kmを北北東に航行するのを、第4航空群P-3C哨戒機が確認した。その後対馬海峡を北上している。2017年6月25日0900頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級駆逐艦アドミラル・ヴィノグラードフと共に礼文島北西80kmを北東に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機、DD-152やまぎり、DD-153ゆうぎり、PG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を東に進んでいる。7月3-4日、太平洋艦隊の大規模演習に参加。7月5日1500-1700頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、グリシャⅤ型警備艦コレーツ、タランタルⅢ級ミサイル艇2隻、ナヌチュカⅢ型ミサイル艇ラズリフ、ロプーチャⅠ型揚陸艦オスラビヤ、ロプーチャⅡ級戦車揚陸艦ペレスウェートと共に宗谷岬北北東40kmを西に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機、PG-827くまたか、DD-156せとぎりが確認した。その後宗谷海峡を西に抜けて日本海に向かっている。2018年9月1日2130頃から9月2日1600頃、バルザム級情報収集艦プリバルティカ、イーゴリ・ベロウソフ級潜水艦救難艦イーゴリ・ベロウソフ、ソーニャ級沿岸掃海艇艇番号553、同593、同BT256、ロプーチャⅡ級戦車揚陸艦ペレスウェート、ウダロイⅠ級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、同アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、プロジェクト20381型ステレグシュチイ級フリゲート・ソブエルシェンヌイ、グリシャⅤ型警備艦メテル、同MPK221、同ウスト・イリムスク、同コレーツ、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、タランタルⅢ級ミサイル艇7隻、バクラザン級救難曳船1隻、改アルタイ級補給艦1隻、トプリボ級給油艦1隻、カシュタン級設標艦1隻、オビ級病院船1隻と共に、宗谷岬北東210kmを西に航行するのを、DD-103ゆうだち、PG-825わかたか、第2航空群P-3Cが確認した。その後これらは宗谷海峡を西に進み、日本海に向かっている。9月14日0530頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級駆逐艦アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフと共に、宗谷岬北50kmを南東に航行するのを、PG-827くまたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を東に進んでいる。2019年8月15日0500頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級駆逐艦アドミラル・トリブツと共に、宗谷岬北北西30kmを東に航行するのを、PG-825わかたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を東に進み、オホーツク海に向かっている。2020年3月26日1100頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリャーグ、ウダロイⅠ級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、同マーシャル・シャポシニコフ、グリシャⅤ型警備艦メテル、同ソビエツカヤ・ガヴァニ、タランタルⅢ級ミサイル艇R14、同R18、同R19、同R20、同R24、同R297、マーシャル・ネデリン級ミサイル観測支援艦1隻、改アルタイ級補給艦2隻、オホーツク級航洋曳船1隻、アムール級工作艦1隻、オビ級病院船イルティシュと共に、宗谷岬北西95kmを東に航行するのを、第2航空群P-3CとPG-825わかたかが確認した。その後これらは太平洋艦隊演習に参加するため宗谷海峡を東に進んでいる。参考:月刊軍事研究11,’99、1,’17、月刊世界の艦船3,’92増刊、3,’05、3,’10、3,’12、10,’12、10,’13、11,’13、12,’13、1,’14、4,’14、8,’14、11,’14、3,’15、10,’15、11,’15、2,’16、4,’16、9,’16、10,’16、2,’17、3,’17、10,’17、3,’19、3,’20、4,'21、朝雲
<ピストル・グリップ>:ライフルなどのグリップが、リボルバーのようにアーチを描いているもの。保持が確実で、反動を処理しやすい。参考:GUN用語事典
<ピストル・ピート>:九二式一〇糎加農砲を参照。
<ピストルポート>:ガンポートを参照。
<ピストン・エンジン>:レシプロ・エンジンを参照。
<ピストン式>:ガス圧作動式を参照。
<ビスビー>:PF-46(フリゲート)を参照。
<ヒズボラ>:Hizbullah(神の党)。1982年、イスラエル軍によるレバノン侵攻PLO一掃作戦「怒りの葡萄」の際に、同地域のシーア派武装組織イスラミック・アマルとダワワ党レバノン支部が合併して誕生した急進的イスラム教シーア派組織である。エルサレムの解放とイスラエル消滅を目的とし、イランから全面的な支援を得ていて、レバノンにイスラム国家を建設することを公式に宣言している。スローガンは「アメリカに死を」。軍事部門はイスラム抵抗と呼ばれ、レバノン東部のベッカー渓谷に訓練施設や短距離弾道ミサイル施設を有する。反米・反イスラエル自爆テロ(基本的に生還は考えない)を数多く行っているが、イランと密接な繋がりがあり、テヘランの承諾無しに作戦を実施することは無い。シリアとの結びつきも強い。1992年以降、レバノンの選挙などに積極的に参加しており、レバノン国民議会の10%程度を確保して大臣も輩出している。また、閣僚の3分の1が辞任すれば政権交代を行うという憲法上の規定を利用して合法的に親イラン・シリア政府を樹立、軍備増強に移るという計画も立てている。レバノン政府からは合法的な抵抗組織・政党との認識を受けており、レバノン軍はヒズボラの武装解除を行う予定になっているが、軍にそんな力が無いために全く進んでいない。組織のトップは諮問機関事務局長のハッサン・ナスララ氏。1997年10月に国際テロ組織に指名された。1982年11月11日、イスラエル軍の在レバノン司令部(7階建てビル)に自動車爆弾で自爆テロを仕掛け、102名を殺害、55名を負傷させた。1983年10月23日、ベイルートのアメリカ海兵隊司令部とフランス軍司令部に自動車爆弾2両で自爆テロを決行し、爆薬9.5トンを積んだトラックで4階建て海兵隊司令部ビルを崩壊させ海兵隊員241名を殺害、フランス軍司令部では58名を殺害した。負傷者は両方合わせて75名だった。最初の指導者アッバス・ムサウイ氏は1992年2月16日にイスラエル軍の武装ヘリで殺害されたが、その報復として3月17日にブエノスアイレスのイスラエル大使館を爆破して10人を殺害、95人を負傷させ、1994年7月にブエノスアイレスのユダヤ人互助協会本部の入ったビルを爆破している。2000年5月、南レバノンからイスラエル軍を撤退させた。2005年5月、レバノンの総選挙で躍進して閣僚を輩出したが、国連決議に基づく武装解除圧力も強まった。2006年7月の南レバノン侵攻でイスラエル軍に少なからぬ損害を与えたが、軍事部門に100人、支援者に1000人前後の死者を出し、拠点の殆どが廃墟と化してしまった。この段階で、百人単位のテロリストと、数千人規模の構成員がいるとみられていた。2008年2月13日、ダマスカス市内でイマード・ファーイズ・ムグニーヤ対外作戦部長が遠隔操作式自動車爆弾で殺害された。ヒズボラはモサドによるものと非難したが、イスラエルは否定している。2009年現在、戦闘員は1000人弱、予備役は7000-8000人とみられており、各種小火器、対戦車ロケット、対戦車ミサイル、対空機関砲、携帯地対空ミサイル、ロケット弾、対艦ミサイル、無人偵察機などで武装している。殆どの兵器はリタニ川南の160の村に配備されており、ヒズボラ指揮官と地元の兵士から構成される地域防衛部隊が運用、複数の村の部隊が集まって旅団5個が編成されている。指揮官は短距離ロケット、旅団長は中距離ロケット、ヒズボラ中央司令部は長距離ロケットを運用する。2009年、イスラエルが海上阻止を行い、イランの国営海運会社であるIRISL社がシールしたコンテナ35個の中から122mmロケット弾、107mmロケット弾、迫撃砲弾、手榴弾、7.62mm弾など1ヶ月分の弾薬を発見した。2012年10月11日、UAVをパレスチナ南部経由でイスラエルのディモナ原発近くまで飛行させたが、イスラエル空軍F-16戦闘機のパイソン空対空ミサイルにより撃墜された。2023年10月7日、ハマスによるイスラエル攻撃に同調してイスラエルへの攻撃を開始。2024年9月17日、戦闘員に配っていたポケベルに仕込まれていた爆薬が爆発し、多数が死傷した。9月27日、指導者ハッサン・ナスララ師がイスラエルの爆撃で死亡した。参考:月刊軍事研究12,’03、8,’04、10,’98、12,’00、11,’06、10,’07、12,’09、3,’10、4,’10、6,’13、12,’13、9,’15、11,’17、月刊JWings1,’24、12,’24
<ヒズボラ(2015年)>:現役7000-10000名、予備役20000名。うち4000-8000名がシリアでアサド政権側に付いて作戦に投入されており、シリア陸軍から重装備を供与されている他、シリア軍予備のロケット弾やミサイルを取得して南部レバノンに備蓄しているらしい。T-72戦車、122mm多連装ロケットBM-21、240mmロケット弾ファジル3、330mmロケット弾ファジル5、610mmロケット弾ゼルザル2(を保有しているという報告あり)、9K11/9K111/9K115-2/9K135対戦車ミサイル、ミラン対戦車ミサイル、ファテフ110/M-600短距離弾道ミサイル(を保有しているという報告あり)、スカッドC/D短距離弾道ミサイル(を保有しているという報告あり)、携帯地対空ミサイル数基(を保有している可能性あり)、無人機数機を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<ビスマーク>:JHSV-9(統合高速輸送艦)またはT-EPF-9(遠征用高速輸送艦)を参照。
<ビスマーク・シー>:CVE-95(護衛空母)を参照。
<ビスマルク>:ドイツ海軍ビスマルク級戦艦Bismarck(鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクから)、仮称艦名F。1936年7月1日起工、1939年2月14日進水、1940年8月24日竣工・就役。1941年5月5日、ヒトラーの査閲を受けた。5月18日、ラインユーブンク作戦に参加。5月24日、イギリス海軍戦艦51フッドを撃沈、53プリンス・オブ・ウェールズを損傷させたが、5月26日から空母2隻、戦艦5隻、巡洋艦・駆逐艦27隻の追撃を受け、5月27日に沈没した。参考:月刊世界の艦船7,'15、12,’17、11,’19、近代戦艦史、歴史群像8,’08、グラフィックアクション44
<ビスマルク海海戦>:81号作戦を参照。
<ビスマルク級>:ドイツ海軍戦艦Bismarck級。1935-36年度計画による巨大戦艦(F及びGという仮称艦名が付けられていた)で、基準排水量は英独海軍協定に収まる35000トンを標榜していたが、実際には40000トンを超えており、大和級やアイオワ型が出現するまで世界最大を誇った。大元はフランス戦艦に対抗するためワシントン条約(ドイツは対象外だが)の制限を考慮して1932年に計画した基準排水量36000トン・33cm連装砲塔4基の戦闘艦で、ベルサイユ条約破棄と英独海軍協定締結により戦艦として本格的に設計を開始、リシュリュー級に対抗するため38cm砲にグレードアップし、基準排水量40000トン超も第2次ロンドン条約エスカレーター条項(ドイツは対象外だが)の範囲内ということで良しとして1936年6月に海軍の建造承認が得られた。バイエルン級を参考にしたため設計思想はやや古く、両用砲でなく副砲と高射砲を別々に装備しており、防御も集中防御方式ではなく第1次大戦型戦艦の装甲を単に分厚くした感じで、舷側水線部装甲板に傾斜は無く、水雷防御縦壁はあるが、バルジ、多層防御、水中弾対策などは施されていない。船型は平甲板型で、キール運河を通れるよう全幅は36mに収めたが、吃水をドイツの港湾で運用できる範囲に収める必要があり、幅広船体となっている。見た目はシャルンホルスト級巡洋戦艦やアドミラル・ヒッパー級重巡に似せて戦闘時の欺瞞を図った。重量軽減のため、熱処理が必要な装甲と水雷防御縦壁以外はほぼ電気溶接を採用してリベットを省き、厚さ20mm以上の鋼材はST52高張力鋼とし、構造部分以外はアルミなど軽い材料を多用している。ビスマルクにはKC合金鋼材、ティルピッツにはクルップ社製ヴォータン鋼(Wh鋼。ニッケル・クロム合金鋼材)も使用した。艦首は当初直立式だったが、凌波性向上のため建造中にアトランティック・バウに変更、主錨もバウ・アンカー1基と艦首両舷格納式2基にして波飛沫の発生を防ぎ、速力向上のため球状艦首を採用している。水上艦は沈没してしまえば戦力にならないという理論の元に防御力を徹底的に高めてあり、艦中央部(前後主砲間)の舷側水線付近には対主砲弾用の厚さ270mm(上部)・320mm(水線部付近)・170mm(水線下)の垂直鋼板を張り、その上に他国では既に廃止していた対中口径弾用の145mm装甲を舷側最上部(最上甲板レベル)まで施した。主装甲帯を傾斜装甲にする方式は、艦内スペースに無駄が生まれるのと、浸水時の浮力減少が大きいのとで、採用していない。水線部内側の船体内には、水線部付近320mm装甲下端から斜め上に向かい中甲板に繋がる厚さ110mmの傾斜装甲が張られていて、主装甲を貫通した弾丸をここで食い止めることにした。対主砲弾用装甲より下の舷側は非装甲で、空の水密区画、給水タンク、燃料タンクにより魚雷の爆発力を低減する構造になっていて、その内側に垂直装甲(中甲板から艦底まで45mm、中甲板から最上甲板まで30mm)が張られている。艦首水線部には厚さ60mm、艦尾水線部には厚さ80mmの装甲を施した。水平装甲厚は最上甲板50mm・中甲板80mmで、司令塔は厚さ350mm、砲塔前楯は厚さ360mm、バーベットは厚さ340mmの装甲板で固め、弾火薬庫に被害が及ばないよう、バーベットの装甲は中甲板にまで達しており、内部を完全にカバーしていた。更に水密区画の細分化、横隔壁強化、排水能力向上、ハッチ数の低減、各種機器の分散配置などにより、間接防御も強化している。ただ砲塔に被弾誘爆時の爆風を逃がすための排気口が無く、揚弾機構の問題で装薬の運搬が滞りがちになるという欠点があった。装甲自体もこの時期としては各別厚い訳では無く、悪天候の多い戦闘海域での近距離砲戦を重視したためか特に水平防御が控えめで、ティルピッツを見学した日本海軍武官は総じて薄いという感想を残している。主砲はワシントン条約を批准したフランスが38cm砲を上限とした戦艦しか生産できないとみて、38cmSKC/34を採用した。前檣楼トップに10.5m測距儀、司令塔頂部に7m測距儀を搭載し、その前面にはそれぞれFuMO23射撃指揮レーダー(周波数370MHz)の格子状アンテナを装備する。主砲用射撃計算機はc/38。高射装置は半球ドームに収容したSL-8で、艦橋と煙突の両舷に計4基配置されている。主機は当初ターボ・エレクトリック方式を検討していたが、電気系統が被弾に弱く軍艦には適当でないとして蒸気タービン推進を採用した。機関区画の配置は全缶全機で、最前部に第4発電機室(左舷)/補助缶室(中央)/第3発電機室(右舷)、その後ろに左舷第2缶室/中央第2缶室/右舷第2缶室、その後ろに通路を挟んで左舷第1缶室/中央第1缶室/右舷第1缶室で、各缶室には主缶2基ずつ収容、更に後ろに左舷機械室/右舷機械室、その後ろに通路を挟んで第2発電機室(左舷)/中央機械室(中央)/第1発電機室(右舷)で、各機械室に主機1基ずつを収容する。主缶はシャルンホルスト級の反省から高圧化により背を低くし、設計通りの缶室内に収まるようにした。主機回転数もシャルンホルスト級より低く抑え、長期運用時の信頼性を高めている。機関区画全長68.3m、缶室長33.3m。士官室や病室には冷暖房を完備した。全長248m、水線長241.55m(ビスマルク)/241.72m(ティルピッツ)、幅36m、吃水8.7m、基準排水量41700トン(ビスマルク)/42900トン(ティルピッツ)、満載排水量50405トン(ビスマルク)/50425トン(ティルピッツ)、機関部重量4228トン(2800トン?)。主機はブロム・ウント・フォス式(ビスマルク)/ブラウン・ボヴェリ式(ティルピッツ)高中低圧ギヤード・タービン3基、主缶はヴァグナー式重油専焼水管缶(蒸気性状5.68MPa、540℃)12基、計画定格出力138000馬力、過荷時最大出力165000馬力、公試時過負荷全力150170軸馬力(ビスマルク)/163026軸馬力(ティルピッツ)、3翅プロペラ(直径4.8m)3軸推進、舵並列2枚、定格出力時最大速力29ノット、公試時過荷最大速力30.1ノット(ビスマルク)/30.8ノット(ティルピッツ)、重油搭載量7900トン(ビスマルク)/8780トン(ティルピッツ)、航続距離は16ノットで9280海里(ビスマルク)/10200海里(ティルピッツ)、19ノットで8525海里(ビスマルク)/8870海里(ティルピッツ)。発電機は690kWターボ発電機5基、470kWターボ発電機1基、500kWディーゼル発電機8基、合計発電容量7920kW。使用電力は220V直流で3950kW(通常)/5920kW(戦闘時。恐らくディーゼル発電機のうち4基が非常用発電機)。兵装は47口径38.1cm砲SKC/34の連装砲塔DrcL C/34が4基(艦前後背負い式)、55口径14.9cm砲SK C/28の連装砲塔DrcL C/34が6基(艦中央両舷3基ずつ)、65口径10.5cm高角砲SK C/33の連装砲塔Dopp
LC/31が8基、3.7cm半自動砲SKC/30の連装砲塔Dopp
LC/30が8基、4連装2cm機関砲Flak38が2基、2cm機関砲Flak38が12門(ビスマルクは連装2基+単装8門、ティルピッツは単装12門)。カタパルト2基(煙突後方の最上甲板上)とAr196水上偵察機6機(ビスマルク。前後格納庫に2機ずつ、露天係止2機)/4機(ティルピッツ。前部格納庫が無い)を搭載する。装甲厚は水線部320mm、甲板50+80mm(舷側装甲に続く斜め部分110mm)、バーベット全周340mm、砲塔前楯360mm、側面220mm、後面320mm、天蓋前部180mm、天蓋後部130mm、司令塔350mm。乗員2092名(士官105名+下士官・兵1962名?ティルピッツ2608名)。ビスマルクとティルピッツの2隻が1940-41年に竣工した。ビスマルクの最終時は4連装20mm機関砲2基が追加されていた。ティルピッツはノルウェー作戦時に533mm魚雷4連装発射管2基(煙突両舷クレーン撤去跡。魚雷24本)、4連装20mm機関砲4基、単装20mm機関砲2門を追加しており、最終時は4連装16基と単装14ないし16門を装備した。1942年、ティルピッツがFuMO27を追加。1944年春から夏、ティルピッツがFuMO23/27をFuMO26に換装し、FuMO30とFuMO212/213を追加した。参考:月刊世界の艦船7,'15、11,’19、12,'24、1,’12、6,'20、近代戦艦史、歴史群像8,’08、月刊丸4,’17
<ビスマルク諸島攻略戦>:R作戦を参照。
<歪み補正フレキシブルアンテナ装置>:自衛隊の機器。東芝製。参考:月刊軍事研究6,’14
<ビズレイ>:ブレニムMk.Ⅴ(直協機)を参照。
<非脆弱性発射薬>:LOVA発射薬を参照。
<微生物統合検出システム>:M31BIDSシリーズを参照。
<ビセスター>:L34(駆逐艦)を参照。
<ビゼルト>:Br521(飛行艇)を参照。
<ビゼルト級>:P-48級ミサイル艇(チュニジア海軍)を参照。
<尾栓>:遊底を参照。
<肥前>:日本海軍戦艦。元はロシア海軍戦艦レトヴィザンで、日露戦争において旅順で着底していたものを明治38年1月に鹵獲、引き揚げて修理し、明治38年9月24日に就役させたものである。大正7年8-10月と大正8年9月から大正9年10月、シベリア出兵支援のためウラジオストクに展開した。大正12年9月、除籍された。大正13年7月、実艦的として処分された。参考:月刊世界の艦船3,’16、4,’10
<備前愛梨>:岡山地方協力本部のマスコットキャラ空自版。参考:朝雲
<ヒ船団>:門司-高雄-マニラ-サイゴン-シンガポールという経路を往復し、スマトラからシンガポールまたはボルネオからサイゴンに運ばれた石油を輸送するタンカー船団で、昭和18年8月頃に海上護衛の便を考えて創設された。日本から出発するのは奇数番号、日本に向かうのは偶数番号である。奇数番号はカラ船なので、ついでに兵士や軍需品を積んでいくこともあった。13ノット以上のヒA船団と13ノット未満のヒB船団があり、前者は高雄では停泊しない。総トン数1万トンのタンカーなら年間に石油16万トンを輸送できる見積もりだった。護衛担当は第1護衛隊で、特設空母や海防艦が護衛に就く。参考:月刊軍事研究12,’07、小艦艇入門、輸送船入門
<ヒ六三船団>:ビルマ作戦に投入される陸軍部隊を輸送するヒ船団で、阿波丸など輸送船11隻と、護衛空母海鷹、海防艦壱岐、択捉、第9号海防艦、第15号海防艦からなる。昭和19年5月13日、門司を出港。5月20日、マニラを出港、シンガポールに向かった。5月24日0220、ボルネオ西方のアンベラン諸島付近で海防艦壱岐がSS-270レイトンの雷撃を受けて沈没。輸送船は無事にシンガポールに到着した。参考:月刊丸3,’90
<ヒ六九船団>:昭和19年7月11日、油槽船12隻、空母神鷹、駆逐艦3隻、海防艦2隻が門司を出港。7月21日、マニラに到着し、油槽船4隻を分離した。7月25日、海防艦2隻を加え、シンガポールに向け出港。7月31日、シンガポールに到着した。参考:護衛空母入門
<ヒ七〇船団>:ヒ六九船団の復路。油槽船8隻、空母神鷹、駆逐艦3隻、海防艦2隻でシンガポールを出港し、8月14日に門司に帰港した。参考:護衛空母入門
<ヒ七一船団>:満州からフィリピンに移動する陸軍第26師団など26000名を輸送するヒ船団。昭和19年8月8日、輸送船18隻、特務艦2隻、護衛艦8隻で六連島泊地を出撃。8月10日0500、伊万里湾を出港。直後に吉備津丸が機関故障を起こして長崎港に引き返した。8月13日0600過ぎ、台湾の馬公泊地に到着し、他の護衛部隊と合流、整備や補給に入った。8月17日0600、空母大鷹(九七式艦攻12機搭載)、駆逐艦3隻、海防艦9隻、油槽船4隻、貨物船3隻、客船1隻、貨客船2隻、陸軍特殊輸送船3隻が馬公を出港し、フィリピンに向かった。うち油槽船4隻は途中でヒ船団から分離してシンガポールに向かい、石油計5万トンを積み込む予定だった。0800、給糧艦伊良湖と輸送船3隻が護衛艦5隻と共に馬公を出港し、高雄に向かった。8月18日0524、バシー海峡南端イトバヤト島の西60海里で油槽船永洋丸がアメリカ潜水艦の魚雷1本を受け損傷し、護衛艦1隻と共に高雄へと引き返した。これに伴い隊形を組み直し、輸送船は2列縦隊となり、右列には前から阿波丸、帝亜丸、摩耶山丸、香椎丸、油槽船旭東丸、日昌丸、油槽船瑞鳳丸、左列には前から能代丸、北海丸、玉津丸、能登丸、給油艦速吸、油槽船帝洋丸、油槽船あずさ丸と並んだ。護衛艦は船団前方に海防艦2隻が縦列で並び、右に前方から倉橋、御蔵、昭南、朝風、更に右外側に前から択捉、松輪、左に前方から第11号海防艦、藤波、後方に大鷹、最後尾右に夕風、左に日振である。日中は第901航空隊特別掃討隊の三式一号探知機装備九六式陸攻が護衛に就いた。日没後は三式一号探知機搭載機による対潜護衛ができないため、夜間航行は行わないという協定だったが、それに反して船団は航行を続けている。2228、ルソン島北西端ラオアグ沖18海里で大鷹の右舷後部にSS-269ラシャーが放った魚雷1本が命中(両舷に1本ずつ命中?)し、航空機用燃料庫が誘爆して2248に沈没した。各船ではアメリカ潜水艦による無線交信の逆探知も続いており、船団指揮官は単独全速航行でのリンガエン湾突入を下命。直後に帝亜丸が第2船倉右舷と機関室右舷に被雷して航行不能となり、缶室が爆発して沈没し、乗員53人、将兵2326名、軍属275人が戦死した。8月19日0032、能代丸の第3船倉左舷に魚雷1本が命中し大破、付近の海岸に座礁させた。0033、阿波丸の船首右舷に魚雷1本が命中、中破したが、そのまま航行を続けた。各船は潜水艦を避けるため沿岸部へと航路を変更したが、0320に給油艦速吸が雷撃を受け沈没。0430には陸軍特殊輸送船玉津丸が機関室右舷に魚雷2本を被雷して乗船4820名中4755名が戦死した。0510、油槽船帝洋丸の船首右舷、中央右舷、船尾右舷に魚雷計3本が命中し、0515に沈没、41名が戦死した。夜明けを待って第901航空隊特別掃討隊第1小隊が現場に急行したが既に手遅れで、残存艦船は8月19日1200にリンガエン湾に到着したが、陸軍将兵7000名と資材1万トン以上を失い、海に放り出された将兵3000名は着の身着のままの上陸となり、大幅に戦力が低下した状態だった。参考:輸送船入門、護衛空母入門、月刊航空ファン1,’20
<ヒ七三船団>:油槽船12隻、軽巡香椎など護衛艦6隻、空母雲鷹(九七式艦攻10機、九三式中練6機)からなる。昭和19年8月24日、六連島泊地を出港。9月5日、シンガポールに到着した。参考:護衛空母入門
<ヒ七四船団>:ヒ七三船団の復路で、船団も同じ構成である。昭和19年9月11にシンガポールのブクム石油基地を出港。9月17日0032、空母雲鷹がSS-220バーブの雷撃を受け、艦尾右舷と機関室右舷に立て続けに1本ずつを被雷、航行不能になった。油槽船あずさ丸にも魚雷1本が命中して沈没している。0730、雲鷹が沈没した。他の艦船は難を逃れ、そのまま日本に到着し、石油4万トンを運び込んでいる。参考:護衛空母入門
<ヒ七五船団>:油槽船・貨物船11隻、空母神鷹、駆逐艦5隻などで編成され、昭和19年9月8日(10日?)に門司を出港。9月22日、高雄経由でシンガポールに到着した。参考:護衛空母入門
<ヒ七六船団>:ヒ七五船団の復路。空母神鷹、駆逐艦5隻、海防艦1隻が護衛に就き、昭和19年10月2日にシンガポールを出港した。参考:護衛空母入門
<ヒ八一船団>:昭和19年11月14日、貨物船聖川丸、陸軍特殊輸送船摩耶山丸、吉備津丸、あきつ丸(第23師団歩兵第64連隊搭乗)、神州丸、油槽船音羽山丸、橋立丸、東亜丸、みりい丸、ありた丸を、空母神鷹(九七式艦攻14機搭載)、駆逐艦樫、海防艦択捉、対馬、大東、昭南、久米で護衛し、九州の伊万里湾を抜錨、フィリピン及びシンガポールに向かった。船団は3列に並んでおり、右列が前からみりい丸、ありた丸、橋立丸、中央が聖川丸、摩耶山丸、吉備津丸、左列が音羽山丸、東亜丸、あきつ丸、神州丸で、船団前方に択捉、右に対馬、左に大東と昭南、右列後ろに久米、中央後ろに神鷹と樫が付いた。航路は西に直進して朝鮮半島南西沖で南西に変針し、中国沿岸を通って台湾海峡を通峡、澎湖諸島馬公でレイテ島行き(貨物船・輸送船5隻)とシンガポール行き(油槽船5隻)に分かれるコースである。1200過ぎ、護衛艦が潜水艦を探知したため、反転して五島列島宇久島南水道に退避した。11月15日0630、宇久島南水道を抜錨し、12ノットで西に航行して朝鮮南部に向かった。1105頃、あきつ丸が五島列島西の福江島北西21海里で潜水艦の雷撃を受け、船体後部弾薬庫付近に魚雷1本が命中して弾薬が誘爆、更に船体中央機関室にもう1本命中して転覆沈没し、2576名中2046名が戦死した。船団は北に退避して11月16日未明に巨文島泊地に到着。1200に抜錨して西に向かい、1600に済州島東岸に錨泊した。11月17日0800、抜錨して舟山列島に向かった。1815、済州島西南西130海里で摩耶山丸が雷撃を受け、船体中央機関室付近と船体後部船倉付近に魚雷1本ずつが命中、1818に転覆沈没した。乗船4387名中3439名が戦死している。2309、済州島の西で神鷹がSS-411スペードフィッシュの魚雷3本を右舷に被雷し、前後航空機用燃料庫が誘爆して沈没、1160名中1100名が戦死した。その後馬公でフィリピン行き輸送船団とシンガポール行き油槽船が分離。みりい丸は清水タンクに亀裂が入っており、修理のため高雄に向かった。12月2日、ルソン島サンフェルナンドに到着できた輸送船は3隻だけだった。油槽船は4隻がシンガポールに到着している。参考:輸送船入門、護衛空母入門
<ヒ八二船団>:ヒ八一船団でシンガポールに到着した油槽船音羽山丸(航空機用ガソリン8000キロリットルと車両用ガソリン8000キロリットル搭載)、橋立丸(航空機用ガソリン20000キロリットル搭載)、ありた丸(航空機用ガソリン15000キロリットル、車両用ガソリン13000キロリットル搭載)に、御室山丸(重油)とぱれんばん丸(航空機用ガソリン、錫インゴット、生ゴム)を加えた船団で、駆逐艦1隻と海防艦5隻(海防艦4隻のみ?)が護衛に就いた。ちなみにヒ八一船団油槽船のもう1隻である東亜丸は修理などの関係で次の船団に回されている。昭和19年12月12日1600、シンガポールのブクム島を出港し、門司に向かった。サンジャック沖から沿岸13海里を北上し、12月17日にカムラン湾に入泊。修理整備を行い、12月19日にカムラン湾を抜錨し、潜水艦の襲撃を避けるため、沿岸から2-3海里を北上した。コンソン島付近からB-24爆撃機が触接を開始。12月22日0550、インドシナ半島沖を北に航行していたところ、音羽山丸がSS-249フラッシャーの雷撃を受け、船体中央左舷と機関室左舷に1本ずつ被雷、積んでいた航空機用ガソリンに引火して轟沈した。乗員62人と船舶砲兵57名のうち、海面に吹き飛ばされた21人が救助されている。直後にありた丸の艦首一番油槽付近左舷にも魚雷が命中し、航空機用・車両用ガソリンが誘爆して轟沈、乗員57人と船舶砲兵50名の全員が戦死した。0630、御室山丸がSS-249フラッシャーの雷撃を受け、船尾機関室左舷に魚雷1本を被雷して大破、重油に引火して沈没した。12月24日、台湾の高雄に入港。橋立丸はガソリンを降ろしてシンガポールに、ぱれんばん丸は海防艦1隻と共に日本に向かった。昭和20年1月9日、ぱれんばん丸が六連島泊地に到着。参考:戦時標準船入門、輸送船入門
<ヒ八三船団>:空母海鷹が護衛に就いた。昭和19年11月24日、六連島泊地を出港し、マニラ・シンガポールに向かった。参考:護衛空母入門
<ヒ八四船団>:輸送船・油槽船13隻からなり、空母海鷹(九七式艦攻12機搭載)が護衛に就いた。昭和19年12月26日、シンガポールを出港。輸送船1隻が触雷で失われたが、残りは日本に帰国した。参考:護衛空母入門
<ヒ八五船団>:2TL型油槽船せりあ丸と油槽船1隻からなる。昭和19年12月19日、六連島泊地を出港。高雄とサンジャックを経由して昭和20年1月7日にシンガポールに入港した。参考:輸送船入門
<ヒ八六船団>:貨物船豫州丸、永萬丸(アルミインゴット積載)、建武丸(マンガンインゴット、錫インゴット)、辰鳩丸(生ゴム、コプラ)、優清丸(ガソリン入りドラム缶)、第六十三播州丸、油槽船極運丸(原油12200トン)、さんるいす丸(原油10200トン)、昭永丸(重油2569トン、生ゴム400トン)、大津山丸(重油7300トン、ガソリン400トン、生ゴム1250トン)、海防艦5隻、軽巡香椎からなる。昭和19年12月30日、シンガポールを出港して門司に向かった。昭和20年1月4日、仏印サンジャック湾に入泊。1月9日1200、サンジャック湾を抜錨。同日にアメリカ軍がルソン島へ上陸したため、沿岸沿いを8ノットで北上して1月11日未明にバンフォン湾に退避、0800に抜錨して更に北のキノン湾へと退避した。1月12日0630、キノン湾を抜錨して北に向かった。0900、アメリカ艦上機3機の触接を受けた。1130からアメリカ艦攻16機を皮切りに延べ120機が来襲。軽巡香椎と海防艦2隻が沈没、豫州丸が爆弾数発を被弾して沈没、永萬丸が船橋への機銃掃射で操舵不能となり爆弾数発を被弾してガソリン入りドラム缶に誘爆沈没、昭永丸が船首重油タンクへの直撃弾と1番・2番船倉両舷の至近弾数発で炎上沈没、第六十三播州丸が至近弾数発により大破擱座、優清丸、極運丸、辰鳩丸、建武丸が直撃弾数発で大破擱座、大津山丸が船橋への機銃掃射で操舵不能となり爆弾数発を被弾して炎上沈没、さんるいす丸が銃爆撃で炎上沈没した。参考:輸送船入門、月刊世界の艦船12,’14
<ヒ八七船団>:貨物船・輸送船10隻、駆逐艦・海防艦8隻からなる。昭和19年12月31日に門司を出港してシンガポールに向かった。途中で4隻を喪失している。参考:輸送船入門
<ヒ八八A船団>:南号作戦の第1船団で、2TL型油槽船せりあ丸(ガソリン16000キロリットル搭載)と護衛艦2隻からなる。昭和20年1月20日1000、シンガポールのブクム島を出港。せりあ丸に音響測深儀を取り付けて沿岸に水深15mまで近接するコースを取り、潜水艦の脅威を排除することにした。せりあ丸の兵装は20mm連装高射機関砲4基、13mm単装高射機関砲8門、短二十五糎砲1門、爆雷10個で、乗員74人、陸軍船舶砲兵(対空火器担当)44名、海軍警備隊員(音響測深儀・爆雷担当)51名、その他8人が乗船している。1月23日、サンジャックに入港。1月27日、チョンメイ湾に入泊。1月28日、チョンメイ湾を出てトンキン湾沿いに航行。以降も大陸沿岸スレスレを通り、2月3日に揚子江河口沖を通過した。2月4日、青島沖を東進して黄海を横断。2月7日1600、六連島泊地に着いた。この勲功により、せりあ丸には武功章旗が授与されている。参考:戦時標準船入門
<ヒ八八i船団>:南号作戦最終船団。大型油槽船は既に尽きていたため、パレンバンからシンガポールに石油を運んでいた小型油槽船をかき集め、なけなしの護衛艦艇を付けて編成することになり、油槽船山国丸、開南丸、第二伏見丸、1TS型戦時標準油槽船宝泉丸、2E型改造戦時標準油槽船第二十一南進丸、2ET型戦時標準油槽船第六高砂丸にガソリン計7700キロリットルを積み、電纜敷設艇立石と駆潜艇2隻が護衛に就いた。昭和20年3月5日、シンガポールを出港。敵襲を避けるため行動は夜間に限定し、潜水艦の行動が難しい沿岸沿いを進んだ。3月19日夜、サンジャックを出港。直後に周辺で哨戒中のアメリカ潜水艦のレーダーに探知され、ウルフ・パックに通報された。3月20日0525、パラダン岬沖でウルフ・パックの潜水艦4隻に捕捉されて奇襲雷撃を受け、山国丸、開南丸、宝泉丸、第二十一南進丸に魚雷が命中、積んでいたガソリンが誘爆して4隻全て轟沈した。残る油槽船2隻と護衛艦艇3隻は潜水艦の入り込めないニャチャン沿岸の入り江に退避したが、位置を爆撃機部隊に通報され、3月21日1115からB-25爆撃機16機による銃爆撃を受け、立石、駆潜艇1隻、第二伏見丸、第六高砂丸が沈没、駆潜艇1隻が大破している。参考:戦時標準船入門
<ヒ八八J船団>:貨物船・輸送船4隻、海防艦6隻からなる。昭和20年3月19日にシンガポールのブクム島を出港して門司に向かったが、海南島付近で潜水艦と航空機の攻撃を受け、4隻全てを喪失した。参考:輸送船入門
<ヒ九四船団>:油槽船2隻からなる。昭和20年3月14日、東亜丸が16000トンの原油を積んで門司に到着した。参考:輸送船入門
<ヒ九六船団>:南号作戦の船団で、2TL型油槽船あまと丸、富士山丸、光島丸の3隻からなる。昭和20年2月22日、シンガポールを出港。2月27日にあまと丸がカムラン湾沖で雷撃を受けて沈没したが、残る2隻は爆撃による損傷のみで内地に到着。3月27日、光島丸が徳山に到着、沖縄海上特攻部隊の戦艦大和に重油を補給した。参考:月刊軍事研究12,’07
<非戦略核戦力>:戦域核戦力(中距離弾道弾など)と戦術核戦力(短距離弾道弾、核砲弾など)を合わせてこう称する。柔軟反応戦略の中で出てきた用語で、軍事目標に対して使用される。参考:月刊軍事研究7,’05
<非戦略的核戦争>:核戦争を参照。
<ビゾーン>:Il-18D-36(空中コマンドポスト)を参照。
<ビゾン>:ル・フリビュスティエ(ル・アルディ級駆逐艦)を参照。
<ビゾン>:フランス海軍ゲパール級駆逐艦Bison。1930年竣工。1940年に戦没した。参考:第2次大戦のフランス軍艦
<ビタースウィート>:K182(コルベット)を参照。
<ピダーセン小銃>:アメリカで開発された自動小銃。7mm弾を使用するトグル・アクション銃である。制式化には至らなかった。参考:世界の軍用銃
<ピタード臼砲>:イギリス陸軍290mmスピゴット臼砲、The Petard (Recoiling Spigot) Mortar。ディエップ上陸作戦の戦訓から、トーチカや上陸阻止用障害物を破壊する爆薬投射兵器が必要と判明したため、1942年9月から開発され、1943年にチャーチルAVREに搭載された。先込式なので、車体上面にある装填ハッチ(車体銃手席上部ハッチ改造)を開いて爆薬を砲口部から装填する。爆薬が飛んでいく様子から、空飛ぶゴミ箱(Flying Dustbin)と呼ばれた。参考:British and American
tanks of World War Two、歴史群像4,’16
<ピタード臼砲MkⅠ>:Mortar, Recoiling Spigot, MkⅠ。訓練戦車用。参考:British and American tanks of World War Two
<ピタード臼砲MkⅡ>:Mortar, Recoiling Spigot, MkⅡ。実戦型。口径290mm、砲身長45インチ(1.14m)、砲全長86インチ(2.18m)。爆薬重量40ポンド(18.1kg)、有効投射距離80ヤード(73.2m)。参考:British and American tanks of
World War Two
<ビターン>:アメリカ海軍掃海艇。1941年12月10日、マニラ湾で第11航空艦隊基地航空部隊の攻撃を受けて損傷した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌
<非対称エスカレーション>:核抑止戦略の1つ。戦争遂行において、非対称戦争から全面核戦争まで全ての段階(エスカレーション・ラダー)で敵に耐えられない損害を与える能力を保有するのが理想だが、膨大な軍事力が必要になるので、敵が通常兵器しか使用していない段階で核兵器により対抗する方針とし、以て敵の攻撃を抑止する。参考:月刊軍事研究9,’18
<非対称戦争>:asymmetric warfareの直訳。正規軍事力の劣る側が戦術技術の創意工夫により敵の力を封じ、あるいは痛撃を加えて勝利を獲得する巧みな戦争方式を指す。具体的には、麻薬・犯罪の助長、テロによる環境汚染、特殊部隊による襲撃、暗殺、サイバー攻撃、NBC攻撃などである。参考:月刊軍事研究4,’03
<非対称措置>:Assinmetrichnye mery。ソ連がアメリカのSDIに対抗して打ち出した戦略で、SDIと同じものを開発して対抗することは難しいため、より安価で効率的な無効化手段を開発して対抗するというものである。冷戦終結後もコンセプトは引き継がれた。参考:月刊軍事研究2,’16
<日高弾薬支処>:陸上自衛隊の弾薬支処。1969年3月1日、厚別弾薬支処から改称されて日高分屯地で創設された。参考:北海道補給処ホームページ
<日高初男>:日本海軍エース。大正4年、鹿児島県生まれ。海軍に入隊し、昭和9年7月に操縦練習生を卒業、昭和10年11月に加賀戦闘機隊に配属された。昭和12年11月11日、ノースロップ爆撃機1機を撃墜して初戦果を挙げた。昭和13年4月13日、広東攻撃で2機を撃墜。6月、第15航空隊に転属。7月18日、南昌航空戦に参加して2機を撃墜。12月、本土に帰還。霞ヶ浦航空隊、呉航空隊、大村航空隊で教員を務め、昭和17年10月に飛曹長となり、第204航空隊に配属された。12月末、ブインに進出。9月、悪性マラリアで本土に帰還。退院後は谷田部航空隊教員となり、終戦を迎えた。公認撃墜数11機。最終階級は中尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<日高分屯地>:陸上自衛隊の分屯地。所在地は北海道沙流郡日高町字千栄75。1969年3月1日に開設され、日高弾薬支処が駐屯した。3月14日、開庁式を実施。参考:北海道補給処ホームページ、JGround Vol.23
<日高分屯地(2015年)>:北海道補給処日高弾薬支処が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<ピタゴール>:航空自衛隊航空救難団の救難ヘリ用救難具。東日本大震災において、要救助者の協力を必要とするボイヤントスリングによる救出が上手く行かない事例が多発したため、代わりに導入した。三角形の頑丈な布にストラップを付けた構成で、バミューダの布部分を延長して背中まで覆えるようにしショルダーストラップを追加した格好であり、布で背中を包み込み、股の間と両腕にストラップを通してホイストのワイヤーに固定、要救助者を包み込むようにしてヘリまで引っ張り上げる。要救助者は体力を必要とせず、両肩・両脇・股の5点で支持するため負担が少なく、体の小さい乳児から軽い障害のある高齢者まで対応可能。参考:月刊航空ファン4,’16、9,’19
<常陸教導飛行師団>:日本陸軍の教導飛行師団。水戸飛行場に置かれており、高々度戦闘、夜間戦闘、遠距離戦闘の研究を行うのが主任務だが、遠距離戦闘は有名無実だった。教育研究組織に加え、実戦組織として常陸飛行部隊を有する。昭和19年後半にはフィリピンへの特攻隊要員育成を行い、陸軍航空士官学校57期と特操1期に一式戦闘機で離着陸、航法、突入時の要点を教育した。必須項目の空戦教育は省いている。12月13日、ルソン島の飛行第246戦隊に補充する二式戦闘機16機からなる空輸班が水戸東飛行場を離陸し、浜松、新田原、沖縄の中飛行場、台湾の屏東を経てクラークに向かったが、途中で航法ミスなどにより数機を失っている。昭和20年初め、常陸飛行部隊を第1教導飛行隊(一式戦2個中隊、三式戦1個中隊、四式戦1個中隊)と第2教導飛行隊(二式複戦の訓練、特攻隊編成が主。迎撃任務は副次)に再編し、B-29爆撃機来襲時には第10飛行師団司令部の隷下に入って防空任務に就いた。2月16日0730、水戸東飛行場がアメリカ海軍第58任務部隊F6F艦戦の空襲を受けた。海岸線に近く警報が出たのが来襲寸前で、スクランブル態勢の一式戦闘機4機は来襲寸前に離陸できたが、主力はロケット弾と機銃掃射を喰らう中での出撃となり、上空での待ち伏せを受けるなどして空中と地上で計50名が戦死した。残存戦力は栃木県の那須野飛行場に退避させ、暫く後に常用飛行場を栃木県の金丸原飛行場に移している。4月下旬、師団司令部が群馬県の大間々に移駐し、群馬県の新田飛行場を常用飛行場とした。第1教導飛行隊を改編し、本部小隊(五式戦闘機4機)、四式戦1個中隊、一式戦3個中隊の編成とした。1個中隊は4個小隊編成で、1個小隊4機×4の計16機に予備機も有する。また、隊員から募集して天誅戦隊のニックネームも付けた。一式戦闘機を五式戦闘機に機種改変しつつ、B-29爆撃機などに対する迎撃任務や特攻機の掩護を行っている。7月18日に廃止され、実戦部隊の飛行第112戦隊と、教育部隊の教導飛行師団第2教導飛行隊に分かれた。参考:月刊航空ファン11,’15
<日立航空機>:日本の航空機会社。大元は東京瓦斯電気工業の航空機部門で、昭和13年に北多摩郡大和村に立川工場を開設し、昭和14年に日立製作所へ航空機部門の経営権を譲渡、分社化して創設された。昭和19年9月、従業員は13896人だった。昭和20年4月25日、空襲で壊滅的な被害を受けた。昭和1-20年に1727機を生産した。参考:首都防空網と空都多摩
<日立造船舞鶴館>:日本海軍舞鶴工廠本部建物を改修して建てられた資料館。舞鶴海軍工廠で建造された艦艇の写真、戦艦陸奥の4番砲塔付近の一部、陸奥の甲板、造艦工具、戦後の資料などが展示されている。2002年、ユニバーサル造船舞鶴館になった。参考:月刊丸12,’90
<日立造船舞鶴工場>:1971年に日立造船と飯野重工が合併したことに伴い、飯野重工舞鶴造船所が改称されたもの。ちくご型護衛艦3隻、はつゆき型護衛艦2隻、あさぎり型護衛艦1隻、むらさめ型護衛艦7番艦を建造した。2002年に日立造船船舶海洋部門がユニバーサル造船に統合されたのに伴い、ユニバーサル造船舞鶴事業所となった。参考:月刊世界の艦船6,’11
<日立丸>:日本海軍特設運送船(給兵船)Hitachi maru。元は日産汽船貨物船で、昭和14年6月15日に竣工し、昭和16年11月に海軍に徴用されて特設運送船になった。垂線間長128m、幅17.5m、深さ10.5m、満載吃水8.39m、総トン数6517トン、重量トン数10091トン。主機は蒸気タービン1基、最大連続出力3985馬力、1軸推進、航海速力12ノット、最大速力16.5ノット。太平洋戦争勃発後は南方方面への輸送任務に就いた。昭和18年2月14日、ブーゲンビル島ブインでB-24爆撃機などの空襲を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船1,’21
<干珠>:日本海軍海防艦。昭和20年8月15日、元山港でソ連軍機の攻撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌
<左ひねりこみ>:零式艦上戦闘機(操縦法)を参照。
<ビダル級>:ノルウェー海軍沿岸敷設艦Vidar級。機雷300-400個を搭載する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990、The Military Balance 2001・2002
<避弾経始>:傾斜装甲を参照。
<非直接照準カノン砲>:NL-OS-Cを参照。
<美珍>:341(揚陸艦)を参照。
<ビッカース3.7インチ榴弾砲>:日本陸軍3.7インチ(94mm)榴弾砲。マレー戦でイギリス軍から鹵獲した。口径94mm、口径長13、放列砲車重量700kg。方向射界40度、高低射界マイナス5度からプラス40度。弾量8.8kg、初速毎秒336m、最大射程5500m。16門を鹵獲し、正式調査前に既に3門が現地部隊で使用されていた。参考:月刊丸4,’13
<ビッカース6インチ榴弾砲>:MkⅠ海外シリーズ(榴弾砲)を参照。
<ビッカース社>:ヴィッカーズ社を参照。
<ビッカートン>:K466(フリゲート)を参照。
<ピッカウェイ>:APA-222(攻撃輸送艦)を参照。
<びっきー>:帯広地方協力本部のマスコットキャラ。エゾシカがベースである。参考:朝雲
<ピッキング>:DD-685(駆逐艦)を参照。
<ピッキングリフト>:自衛隊の車両。ニチユMHI東京製。参考:月刊軍事研究9,’15
<ビッキントン>:M1109(沿岸掃海艇)を参照。
<ピッグ>:イギリスの4×2輪3トントラック。サスペンションはリーフ・スプリング式。全長5.41m、全幅2.21m、全高2.235m、ホイール・ベース2.921m、重量2.794トン。エンジンはサイドバルブ社製4気筒(総排気量3770cc、出力75馬力)、前進4速。デニス社製で、1939-44年に323両が生産された。参考:月刊グランドパワー7,’02
<ビッグE>:CV-6(空母)を参照。
<ビッグ7>:7大戦艦を参照。
<ビッグ・ウィリー>:Mk.Ⅰ菱形戦車シリーズを参照。
<ビッグウイング・ハリアーMk.5計画>:ハリアー・シリーズ(VTOL機)を参照。
<ビッグウェポン>:BADGEシステム(初代)を参照。
<ビッグ・サファリ計画>:アメリカ空軍航空兵站軍団AMCが行った、共産主義勢力に対する迅速航空偵察・情報収集Big Safari。在欧州米空軍USAFE司令官ノースタッド大将が1952年に発案したもので、ヨーロッパやアジアで拡大を続ける共産主義勢力に対する航空偵察や情報収集を迅速に行うため、偵察機の改造・試験・派遣に際し、通常の予算措置や手続きを省略して航空兵站軍団が人員・資金・機材を速やかに提供、可能な限り早く任務に入るというコンセプトである。偵察機としてAQM-34無人偵察機シリーズ、C-54Dホット・ペッパー/ヒロ・ハッティ、RC-135C、RC-135D、RC-135Mを開発し、ヨーロッパでは西ドイツ空軍ヴィースバーデン基地の第7405支援飛行隊と同ラインマイン基地の第7406支援飛行隊、アジアでは在日米軍横田基地の第6091偵察飛行隊が任務に就いた。参考:月刊JWings2,’23、5,’23
<ビッグ・ショット>:M40(自走カノン砲)を参照。
<ビッグスティック作戦>:アメリカ空軍戦略航空コマンドによるB-36爆撃機初の極東派遣演習。1953年8月に実施された。参考:世界の傑作機No.125
<ピッグス湾事件>:CIAがキューバのカストロ政権転覆を狙って起こした事件で、コード名はサパタ作戦。亡命キューバ人を武装組織化してキューバに上陸させ、アメリカが軍事介入してカストロ政権を転覆させるというもので、アイゼンハワー大統領時代に作戦が練られ、1961年1月20日にCIA長官がケネディ大統領に具申して承認された。1961年4月、CIAの支援の下に、キューバ人で構成されたキューバ遠征軍を編成。中米籍の輸送船とB-26爆撃機をかき集め、4月15日にB-26爆撃機2機がキューバ空軍基地を爆撃し、更にB-26爆撃機6機がニカラグアから発進したが、2機が撃墜されてしまい、2機も燃料不足でフロリダの飛行場に着陸した。アメリカはキューバ反乱軍が亡命してきたと発表したが、機首が反乱軍の装備する透明窓型でなくアメリカ軍仕様の12.7mm機銃8丁搭載型だったので、CIAが裏で糸を引いていたことが露呈し、アメリカ軍は公然と介入できなくなった。また、作戦の内容が発動直前にフロリダの地方メディアにリークされてしまっていた。4月17日、CV-9エセックスとCV-62インディペンデンスの支援の下、輸送船がピッグス湾に突入したものの、キューバ空軍シーフューリー戦闘機の反撃に遭い、上陸できたのは2隻のみで、キューバ遠征軍は見殺しとなり、1350名中107名が死亡、1189名が捕虜となった。CIA長官が責任を取って解任されている。参考:歴史群像6,’02、月刊軍事研究4,’11、世紀の失敗物語
<ビッグ・セクシー>:KC-10A(空中給油輸送機)を参照。
<ビッグチーム>:RC-135C(情報収集機)を参照。
<ビッグディッパー>:野火消火器材Ⅱ型を参照。
<ビッグ・ドッグ>:ボストンダイナミクス社、ジェット推進研究所、ハーバード大学が共同開発している貨物輸送用無人車両Big
Dog。2010年からアメリカ国防総省が開発資金を出している。走行装置として車輪ではなく脚が4本付いており、180kgの荷物を積んで30km走行可能。車輪を使わず、自機姿勢と周囲の地形を探知して毎秒500回の制御信号を脚に送る高性能姿勢制御システムを積んでいるので不整地踏破能力が高く、山岳地帯にも投入できる。GPSで自律走行したり、人間を認識して後を付いていったりすることが可能。軍用型はLS3という名称になった。参考:月刊軍事研究2,’13、2,’15、2,’17
<ビッグ・ネット>:MR-500(レーダー)を参照。
<ビッグ・ノーズ>:ソ連軍機上迎撃レーダーのNATOコード。Tu-28戦闘機に搭載されている。参考:ザ・マーチ17号
<ビッグ・バー>:ソ連軍車載早期警戒/地上迎撃管制レーダーのNATOコード。バー・ロックの改良型である。参考:ザ・マーチ17号
<ビッグ・バード>:64N6E2(レーダー)またはKH-9(偵察衛星)を参照。
<ビッグバリー・ベイ>:K606(フリゲート)を参照。
<ビッグパットン>:M48A5(戦車)を参照。
<ビッグ・ピクチャー>:アメリカ空軍アビオニクス研究所とマクダネル・ダグラス社が1980年代に開発していた将来戦闘機用計器スクリーン。計器板全面の1枚ディスプレイと、上部の幅広HUD(視野50度以上)から構成され、タッチパネル及び音声認識での入力操作が可能である。参考:ザ・マーチ39号
<ビッグ・ファイブ>:ワシントン条約時代にアメリカ海軍最強戦艦と謳われたBB-43テネシー、BB-44カリフォルニア、BB-45コロラド、BB-46メリーランド、BB-48ウエスト・ヴァージニアのこと。参考:月刊世界の艦船4,’17
<ビッグ・フォー>:空母加賀、赤城、CV-3サラトガ、CV-2レキシントンのこと。参考:海軍こぼれ話
<ビッグブル>:75式ドーザの愛称。参考:月刊JWings6,’01
<ビッグブルー>:アメリカ空軍がノースロップ・グラマン社に3発発注したとされる3万ポンド徹甲爆弾。GPS/INSとセミアクティブ・レーザー誘導を組み合わせているらしい。参考:月刊軍事研究5,’03
<ビッグブルー82>:BLU-82/B(爆弾)を参照。
<ビッグベリー>:B-52Dビッグベリー改修機(爆撃機)を参照。
<ビッグベリー・クリップ>:B-52Dビッグベリー爆撃機に爆弾を搭載するための専用爆弾架。クリップ1基に500ポンド爆弾28発または750ポンド爆弾14発を搭載でき、爆弾倉に3クリップ装着する。参考:U.S.ウェポン・ハンドブック
<ビッグ・ホーン>:T-AO-198(給油艦)を参照。
<ビッグママ>:M2シリーズ(重機関銃)を参照。
<ビッグ・メーミー>:BB-59(戦艦)を参照。
<ビッグレスキューあづま>:陸上自衛隊東部方面隊が自衛隊統合防災演習に合わせて実施する大規模災害対処訓練。参考:MAMOR vol.133
<ビッグレスキューあづま2017>:2017年6月20-26日に実施され、隊員2000名、車両250両、航空機7機などが参加した。朝霞駐屯地では指揮所演習を、霞ヶ浦駐屯地や松戸駐屯地では輸送訓練や救助訓練を実施。浜松基地では兵站施設開設訓練が行われ、第6師団と第12旅団が東海地方に前進し、方面前進兵站基地FMAを駒門駐屯地と滝ヶ原駐屯地、前方支援地域FSAを浜松基地に開設し、FSAには隊員1万名が3日間活動するのに必要な糧食9万食と燃料ドラム缶800本(軽油500本、灯油222本、航空燃料60本、ガソリン48本)を関東補給処などから運び込んだ。横浜ノースドックでは在日米陸軍LCUに陸自車両を搭載し、沼津海浜訓練場に揚陸している。参考:月刊軍事研究9,’17、MAMOR vol.133
<ビッグレスキュー東京2001>:東京都と自衛隊が2001年9月に合同で行った統合防災演習。陸自からは隊員1700名、車両350両、航空機10機が参加した。八王子駅前や多摩地区などの訓練会場で捜索・人命救助などを行っている。気を遣ったのか、車両からは全て武装が外されていた。参考:自衛隊図鑑2002
<ピックロッタ>:フィンランドの女性軍補助組織。ロッタ・スヴァルドの活動を補助するもので、主に伝令を行う。1930年代に設立され、ロッタ・スヴァルドと同じく1944年11月23日に廃止された。参考:月刊軍事研究11,’03
<ピッケンス>:APA-190(攻撃輸送艦)を参照。
<ヒッコリー>:一式双発高等練習機シリーズを参照。
<畢昇>:891(試験艦)を参照。
<ヒッセム>:DE-400(護衛駆逐艦)を参照。
<ビッターン>:L07(スループ)を参照。
<ビッターン級>:イギリス海軍護衛スループBittern級。フィン・スタビライザーを試験的に搭載した。全長86m、幅11.3m、吃水2.6m、基準排水量1190トン。主機は蒸気タービン、出力3300馬力、速力18.8ノット。兵装は12cm単装砲4門(L56)または10.2cm連装砲3基(L07とL81)。L07ビッターン、L56エンチャントレス、L81ストークの3隻が1935-39年に竣工した。参考:第2次大戦のイギリス軍艦
<ピッチ>:Pitch。プロペラが1回転した時に進む距離のこと。ネジ(スクリュー)の山と山の間の距離をピッチと称しており、これをスクリュープロペラにもそのまま使ったものである。こ参考:艦船メカニズム図鑑、月刊航空ファン8,’19
<ピッチ>:Pitch。プロペラブレードの迎え角(羽角)のこと。ピッチが小さいと低速時に失速を起こしにくいが、速度が上がると迎え角がゼロに近くなって推力が出なくなる上、過回転を起こしてプロペラが壊れる危険がある。ピッチが大きいと高速時には有利だが、低速時には迎え角が大きすぎて抗力が大きくなり、表面から気流が剥がれるのでプロペラが失速しやすくなる(下手をするとエンジン始動すらできなくなる)。よって、同じエンジンを積んでいても目指す速度によって最適なプロペラを取り付ける必要がある。通常と逆のピッチ角(リバース・ピッチ)を取ればブレーキ代わりに使える。プロペラブレード各部で全て同じピッチにすると、速度の高い先端部と遅い根元の間で気流や水流が不規則になるので、プロペラブレードに捻れを加えて根元でも先端でも最適な推力が得られるよう工夫する。よって、ピッチを表記する際には半径上のどの場所でのピッチなのか注記する必要があるが、何も記載されていない場合はプロペラ効率が最も高い半径の75%位置の値を示していることが多い。参考:月刊航空ファン8,'19、4,’72、艦船メカニズム図鑑、航空用語事典増補改訂版
<ピッチアップ>:Pitch up。機首上げの角度や角速度が一定値を超えた際、更に機首上げの傾向が生じて操縦桿でも抑制できなくなる現象のこと。後退翼機の翼端失速、急降下で超音速となった機体を引き起こして亜音速に減速した際の風圧中心移動、T型尾翼など高い位置の水平尾翼などが原因となる。翼端失速によるピッチアップを防ぐには、空力平均翼弦の前縁25%を結ぶ線よりも後方の翼面積が全体の69%以下になるよう設計することが必要で、デルタ翼はこの設計を取り入れる。高い位置の水平尾翼によるピッチアップは、大迎え角時にアスペクト比の小さい主翼のダウンウォッシュに突入するのが原因なので、超音速機では水平尾翼を低い位置に設けたり、大きい下反角を持たせたりする。参考:航空用語事典増補改訂版
<ピッチ角(回転翼)>:Pitch angle of blade。ローターブレード翼型の翼弦と、ブレード回転面がなす角度のこと。参考:航空用語事典増補改訂版
<ピッチ・トリム・コンペンセイター>:Pitch Trim Compensator、略称PTC。DC-8旅客機に搭載された、タック・アンダーによる操縦困難を補正する装置のこと。機速がマッハ0.78を超えると自動的に昇降舵を機首上げの方向に動かすシステムで、タック・アンダーの領域に入っても機首上げ傾向が保たれるため、操縦桿操作を切り替える必要が無い。参考:航空用語事典増補改訂版
<ピッチ・ブラック演習>:オーストラリア空軍が2年に1回実施している多国籍演習Pitch
Black。1981年にオーストラリア空軍単独の演習として開始され、1983年にアメリカ空軍が参加して多国間演習になった。参考:月刊JWings11,'22、11,’12、11,’16
<ピッチ・ブラック2012>:2012年7月27日から8月17日に実施され、オーストラリア空軍(F/A-18F戦闘機、E-7A早期警戒機、KC-30A空中給油輸送機)、アメリカ空軍(B-52H爆撃機)、アメリカ海兵隊、インドネシア空軍(Su-27SKM戦闘機、Su-30MK2戦闘機)、シンガポール空軍(F-15SG戦闘機、G550早期警戒機)、タイ空軍、ニュージーランド空軍から人員2200名と航空機94機が参加した。参考:月刊JWings11,’12
<ピッチ・ブラック2016>:2016年7月28日から8月19日、オーストラリア北部デラメール航空武器射撃場とブラッドショー野外演習場で実施された。オーストラリア(F/A-18A/B/F戦闘機、E-7A早期警戒機、C-17輸送機、C-130J輸送機、KC-30A空中給油輸送機、ヘロンUAV)、アメリカ(F-16C/D戦闘機、B-52H爆撃機、F/A-18C戦闘機)、インドネシア(F-16戦闘機)、カナダ、シンガポール(F-15SG戦闘機、F-16C/D戦闘機、G550早期警戒機、KC-135R空中給油輸送機、ホーク地対空ミサイル、S-75地対空ミサイル、S-125地対空ミサイル)、タイ(F-16戦闘機)、仏領ニューカレドニア(CN-235哨戒機)から人員2500名以上と航空機115機が参加している。オランダとドイツは地上員とオブザーバーを派遣した。参考:月刊JWings11,’16
<ピッチ・ブラック2018>:2018年7月27日から8月17日、オーストラリア北部デラメール演習場とブラッドショーフィールド訓練場で実施された。オーストラリア(F/A-18A/B/F戦闘機、PC-9練習機、EA-18G電子戦機、E-7A早期警戒機、C-130J輸送機、C-17A輸送機、KA-350、C-27J輸送機、KC-30A空中給油輸送機)、アメリカ(F-16C戦闘機、F/A-18D戦闘機、B-52H爆撃機、KC-130J空中給油輸送機、MV-22B輸送機、AH-1Z攻撃ヘリ、UH-1Y汎用ヘリ)、インド(Su-30MKI戦闘機、C-130J輸送機)、インドネシア(F-16C戦闘機)、カナダ(CC-130T輸送機)、シンガポール(F-15SG戦闘機、F-16C/D戦闘機、G550早期警戒機、KC-135空中給油輸送機)、タイ(JAS39C/D戦闘機)、フランス(ラファールB戦闘機、CN-235哨戒機)、マレーシア(F/A-18D戦闘機、A400M輸送機)など15カ国4000名140機が参加し、空自もオブザーバーを派遣している。参考:月刊JWings11,’18
<ピッチ・ブラック2022>:2022年8月20日から9月8日、ダーウィン空軍基地とティンダル空軍基地で実施された。オーストラリア(F-35A戦闘機、EA-18G電子戦機)、UAE、アメリカ(F-15C戦闘機、VMFA-121所属F-35B戦闘機)、イギリス、インド(Su-30MKI戦闘機)、インドネシア(F-16C戦闘機)、オランダ(A330MRTT空中給油輸送機)、カナダ、韓国(初参加。KF-16C/D戦闘機6機、KC-30A空中給油輸送機2機)、空自(初参加。隊員100名、第3飛行隊F-2A戦闘機5機、第402飛行隊C-2輸送機数機、第404飛行隊KC-767空中給油輸送機1機)、シンガポール(F-15SG戦闘機、G550早期警戒機、A330-200MRTT空中給油輸送機)、タイ、ドイツ(初参加。人員200名、ユーロファイター戦闘機6機、A400M輸送機1機)、ニュージーランド、フィリピン、フランス(ラファールB戦闘機)、マレーシアの17カ国2500名100機が参加し、攻勢・防勢対空戦闘や対地攻撃訓練を行っている。空自はAAAコンセプトに基づく遠隔整備支援の実証試験を行った。参考:月刊JWings11,’22、朝雲
<ピッチ・ブラック24>:2024年7月12日から8月2日、ダーウィン空軍基地とその周辺空域で行われ、オーストラリア(F-35A戦闘機、F/A-18F戦闘機、EA-18G電子戦機、E-7A早期警戒機、KC-30A空中給油輸送機、C-130J輸送機)、アメリカ(F-22A戦闘機、VMM-268所属MV-22B輸送機)、イギリス(タイフーンFGR.4戦闘機、ボイジャーKC.2空中給油輸送機)、イタリア(F-35A戦闘機、F-2000A戦闘機、G550早期警戒機、空母C550カブール、F594アルピーノ、F-35B戦闘機、AV-8Bプラス攻撃機)、インド(Su-30MKI戦闘機)、インドネシア(F-16C/D戦闘機)、カナダ(人員)、韓国(F-15K戦闘機)、シンガポール(F-15SG戦闘機、F-16C/D戦闘機、G550早期警戒機、A330-200MRTT空中給油輸送機)、スペイン(C.16タイフーン戦闘機、A400M輸送機)、タイ(JAS39C/D戦闘機)、ドイツ(ユーロファイター戦闘機、A330-200MRTT空中給油輸送機)、ニュージーランド(人員)、パプアニューギニア(PAC-750XSTOLⅢ)、フィジー(人員)、フィリピン(FA-50PH戦闘機)、フランス(ラファールB戦闘機、CN235輸送機、A330-200MRTT空中給油輸送機、A400M輸送機)、ブルネイ(人員)、マレーシア(F/A-18D戦闘機)、NATO(A330-200MRTT空中給油輸送機)など20カ国から人員4435名と航空機140機以上が参加した。空自の派遣期間は6月30日から8月13日で、人員230名、第8航空団F-2A戦闘機6機、警戒航空団E-767早期警戒管制機1機が参加し、各種戦術訓練を行っている。7月24日、イタリア空軍F-2000A戦闘機1機が空中給油時にトラブルを起こして墜落した。パイロットは無事で、一旦演習を中止し、18時間後に再開している。7月29日から8月1日、内倉空幕長が訓練を視察して隊員を激励し、日米豪比4カ国空軍参謀長等会談を実施し、日米豪3カ国空軍種間の訓練に関する文書の署名式に臨んだ。参考:月刊JWings10,'24、航空自衛隊ホームページ、月刊世界の艦船10,’24
<ピッチレイ>:L92(駆逐艦)を参照。
<ヒッチン級>:ルポ級フリゲート(イラク海軍)を参照。
<ピッチング>:Pitching、縦揺れ。機体や船体が左右軸(y軸)を中心に上下する回転運動のこと。航空機では、揚力、抗力、推力、プロペラのジャイロ効果による垂直力の作用により発生し、エレベーターやスタビレーターを使って制御する。船舶では乗客を船酔いさせ、船内の貨物を弾き飛ばし、船上の人や物を海に落とす。潜水艦ではトリム・タンクと潜舵により制御する。参考:JWings5,’03、航空用語事典増補改訂版、現代の潜水艦、図解船の科学
<ピッチング・モーメント>:Pitching moment、縦揺れモーメント。ピッチングを発生させるモーメントのこと。航空機では飛行速度の2乗、翼面積、平均翼弦、空気密度、縦揺れモーメント係数(迎え角、マッハ数、レイノルズ数により変化)に比例する。エレベーターやスタビレーターで制御する。参考:航空用語事典増補改訂版
<ピッツァロ>:ASCODシリーズ(歩兵戦闘車)を参照。
<ピッツバーグ>:CA-72(重巡洋艦)またはLPD-31(ドック型輸送揚陸艦)またはSSN-720(潜水艦)を参照。
<ビッティング作戦>:第2次大戦時にイギリス軍が実施した、ウルツブルグ・レーダー鹵獲作戦。ウルトラ情報や写真偵察によりレーダーの存在を掴み、1941年5月8日に第109飛行隊ウェリントン爆撃機(電子偵察機仕様)をフランスのブルターニュ半島に飛ばしたところ、9箇所以上から波長53cm(周波数558MHz及び560MHz)の電波が発信されており、追尾距離が40kmであることが判明した。また、飛行中に進行方向へ強力なサーチライト照射があったため、レーダーと連動する指揮探照灯も製作されていると考えられた。この電子偵察飛行で発信地も特定できたので、付近の写真偵察を行ったところ、8月にブリューネヴァルの孤城から断崖に向かって通路が延びているのを発見。スピットファイア偵察機型で改めて写真偵察を行い、通路の先に直径6mのパラボラ・アンテナを視認した。12月15日の再度の偵察で、ウルツブルグ・レーダーのパラボラ・アンテナをはっきりと写真に収めることに成功。このレーダーを操作員ごと鹵獲することにした。襲撃部隊は空挺連隊第2大隊C中隊とイギリス空軍レーダー技術専門員1名で、主任務はパラボラ・アンテナの中心部を調査して使用波長が53cmであることを確認すること、イギリスが行っている電波妨害に対する対抗措置がどの程度施されているか調査するためにレーダー受信機とカソード管を鹵獲すること、可能なら送信機、操作マニュアル、改造記録、プレート類、ラベル、製造番号、製造月日なども鹵獲すること、機器やレイアウトをスケッチすること、レーダー管制室内部を写真に撮ること、レーダー操作員1-2名を捕虜としてイギリスに連れ帰ることである。襲撃が失敗した場合は、洋上の小型船で使用波長を確認することになっていた。作戦実行前、隊員はイギリス海軍の射撃指揮レーダー(使用波長50cm)を使用して訓練を行っている。1942年3月(2月?)27日夜、スラクストンからホイットレー爆撃機1機が襲撃部隊を乗せて離陸。隊員はブリューネヴァルに降下し、断崖の先に機関銃3丁を据え付け、レーダーの鹵獲に向かった。アンテナ線を切断し、パラボラ・アンテナ背後の小型送信機を外し、アンテナ後方にあった小屋から送信機、受信機、パルス発生器、中継波長増幅器を鹵獲、警備兵2名とレーダー予備操作員1名を捕虜としている。あいにく満月だったため、ドイツ兵に見つかって反撃を受けたが、作業を10分で終了して離脱、崖下に待機していた小型船舶に乗ってイギリスに帰投した。その後、ドイツはブリューネヴァルの施設を爆破し、他のレーダー施設には砲台を設置するなど警備を厳重にしたが、カモフラージュが不完全になり、かえって目立ってしまった。参考:連合軍の傑作兵器駄作兵器、月刊軍事研究12,’08
<ピット>:APA-223(攻撃輸送艦)を参照。
<ピット>:爆縮型原爆の中央部に置かれている、核物質を入れた容器。爆発レンズの内側にあたり、タンパーを含む。内部には空洞があり、中性子イニシエータ(核分裂連鎖反応開始装置)や、重水素・三重水素ガスといったブースターを入れておく。中性子イニシエータをピットの外に配置し、空洞にガスのみを入れて威力を増大したブースター増強型も作られている。参考:月刊軍事研究8,’99、核兵器事典
<ヒットインジケータ>:自衛隊の機器。住商エアロシステムが受注している。参考:月刊軍事研究11,’11
<ピットファイアー訓練>:航空機救難消火訓練を参照。
<ヒットファクト砲塔>:HITFACT砲塔を参照。
<ヒットファストOWS-30P>:オットー・メララ社の無人砲塔システム。兵装は主砲の30mm機関砲Mk44ブッシュマスターⅡ(俯仰角マイナス10度からプラス75度)、7.62mm同軸機銃、スパイクLR対戦車ミサイル2発で、WKM-B遠隔操作銃塔などを追加することも可能。参考:月刊軍事研究7,’11
<ヒットフィスト砲塔>:HITFIST砲塔を参照。
<ヒットフィッシュ砲塔>:HITFISH砲塔を参照。
<ヒットロール銃塔シリーズ>:オットー・メララ社の遠隔操作式銃塔HITROLE(Highly Integrate Turret, Remote, Overhead, Light, Electrical)。5.56mmから40mmまで各種口径の機銃・自動てき弾発射機に対応する。基本の艦載型ヒットロールN、車載型ヒットロールL、2008年開発の艦載改良型ヒットロールNT、2012年開発のヒットロールG、2014年開発のヒットロール20mmがある。参考:月刊世界の艦船12,’20
<ヒットロールN>:基本の艦載型HITROLE Naval。電子光学センサーを装備する。参考:月刊世界の艦船12,'20、月刊軍事研究2,’15
<ヒットロール12.7mm>:ヒットロールNに12.7mm機銃M2を搭載したもの。マウント重量220-260kg。旋回角左右155度ずつ、旋回速度毎秒57度、俯仰角マイナス15度からプラス50度、俯仰角毎秒57度。弾薬重量48.5g。初速毎秒880m、有効射程1800m、最大射程6500m。発射速度毎分450-550発。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊、12,'20、月刊軍事研究2,’15
<ヒットロールL>:車載型HITROLE Light。イタリア軍ピューマ装甲車向けに開発した。銃座カバーを撤去して軽量化し、俯仰範囲を拡大している。俯仰角マイナス20度からプラス70度。重量100kg(5.56mm機銃)/150kg(7.62mm機銃)/210kg(12.7mm機銃または40mm自動てき弾発射機。145kg?)。オプションで安定化装置や赤外線カメラを搭載できる。参考:月刊世界の艦船12,'20、月刊軍事研究9,’06
<ヒットロールNT>:HITROLE Naval
Tilting。ヒットロールNの改良型で、銃架を海面側に傾斜させることにより、真下が撃てる。可視光撮像装置、レーザー・スポット照射器(照準や威嚇に使用できる)、安定化装置を標準装備し、赤外線暗視装置、レーザー測距器、目標自動追尾装置の追加が可能。F125型フリゲートやホランド級外洋哨戒艦に搭載された。参考:月刊軍事研究5,’09、9,’09、8,’09、月刊世界の艦船12,’20
<ヒットロールG>:HITROLE G。ヒットロールNの俯仰角拡大型で、2012年に発表された。架台の上に旋回俯仰砲座を取り付けたもので、砲座の右に電子光学センサーとレーザー測距器が付いている。搭載火器は5.56mm/7.62mm/12.7mm機銃から3砲身20mmガトリング砲に40mm自動てき弾発射機AGLまで多彩で、2軸安定化装置が付いており射撃精度も高い。装備に際しては甲板に孔を開ける必要は無く、後日搭載が容易。全備重量600kg。旋回角左右155度ずつ、俯仰角マイナス40度からプラス75度。参考:月刊軍事研究2,’15、月刊世界の艦船12,’20
<ヒットロール20mm>:ヒットロールGに3砲身20mmガトリング砲(最大発射速度毎分750発)を搭載したもので、別名シー・キャット(Sea Cat)20mm。2014年に発表された。対レーダー・ステルスを考慮した形状をしており、砲2軸安定化装置と光学照準器(砲塔右に装備。電子光学センサーとレーザー測距器からなる)を装備する。甲板下の構成品が無いので、後付けが容易。重量600kg。駆動はデジタル・サーボとブラシレス・モーターによる電動式、旋回角左右155度、俯仰角マイナス30度からプラス75度。6砲身20mmガトリング砲、30mm単装機関砲、40mm自動てき弾発射機にも対応可能。参考:月刊世界の艦船12,’20、月刊軍事研究2,’15
<ヒップ>:Mi-8シリーズ(ヘリ)を参照。
<ヒップA>:Mi-8V8(ヘリ)を参照。
<ヒップB>:Mi-8V8A(ヘリ)を参照。
<ヒップC>:Mi-8T(ヘリ)またはMi-8P(ヘリ)を参照。
<ヒップD>:Mi-8VZPU(ヘリ)を参照。
<ヒップE>:Mi-8TB(ヘリ)を参照。
<ヒップF>:Mi-8TBK(ヘリ)を参照。
<ヒップG>:Mi-8K(ヘリ)またはMi-9(ヘリ)を参照。
<ヒップH>:Mi-17(ヘリ)を参照。
<ヒップJ>:Mi-8SMV(ヘリ)を参照。
<ヒップK>:Mi-8PPA(ヘリ)またはMi-17P(ヘリ)を参照。
<ヒップN>:Mi-8MTV(ヘリ)を参照。
<ヒッポ>:イギリス海兵隊次期海岸堡回収車両FBRV。レオパルト1戦車の車体がベースで、ブレーキ、サスペンション、減速ギア、海水腐食防止用の鋼被覆ロードホイール、防弾ガラス窓、揚陸艇推進用の頭部ブロックを付けている。重量50トン。最大渡渉深度5m、牽引力25トン。乗員3名。参考:月刊軍事研究1,’01
<必要推力>:Required thrust。飛行機が水平定常飛行をしている際の抗力のこと。水平定常飛行に必要な推力と等しい値になるので、こう呼ばれる。参考:航空用語事典増補改訂版
<必要馬力>:Required power。飛行機が水平定常飛行するのに必要な馬力のこと。必要推力に速度を掛け、75または550で割ると算出できる(推力・馬力換算も参照)。参考:航空用語事典増補改訂版
<尾底>:尾筒後方に付く部品で、遊底または揺底の後退止めとなる。銃尾板ともいう。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<非定常流>:時間経過と共に流れの状態が変化していく流れのこと。流線も時間経過と共に変化していき、流体の微少部分が流れる道と流線が一致しない事が多い。参考:航空用語事典増補改訂版
<ビデイル>:L26(駆逐艦)を参照。
<ビデオ積分処理>:ノンコヒーレント積分処理を参照。
<日照丸>:日産汽船ストックボートHiteru maru。元は大正8年1月19日竣工の隆福丸(Ryufuku maru)である。大正8年7月、国際汽船に移籍。昭和7年、萩布海商に売却された。太平洋戦争勃発で日産汽船に移籍し、日照丸に改称された。垂線間長117.35m、幅15.54m、深さ10.97m、満載吃水8.26m、総トン数5857トン、重量トン数9101トン。主機は三連成レシプロ蒸気機関1基1軸3888馬力、航海速力10ノット、最大速力14.4ノット。戦時中は陸軍の輸送に従事した。昭和17年12月30日、ラバウルからパラオに向かっていたところ、ニューアイルランド島カビエン北西420kmでSS-213グリーンリングの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船6,’20
<ヒデンゼー>:東ドイツ海軍タランタル級ミサイル艇Hiddensee。マサチューセッツ州フォール・リバーのバトルシップ・コーブで展示されていたが、ギャングウェイが破損して一般公開できなくなり、修復費用も捻出できず、2023年にスクラップとして売却された。参考:月刊世界の艦船10,’24
<非伝統的安全保障>:他国で発生した非軍事的な問題を対処することで自国の平和と安定を生み出すこと。災害派遣、人道支援、地雷・不発弾処理、軍事・防衛医療などがこれにあたる。参考:MAMOR vol.83
<尾筒>:receiver。小火器の基本装置である。箱状の部品で、作動機構を内蔵しており、前方に銃身受け、後方に遊底または尾底、下部に尾筒底板、上部に遊底覆いを組み付ける。小火器によっては、薬莢を銃外に放り出すエジェクターを付けることもある。内部には遊底または揺底の後退時に衝撃を和らげる緩衝器が組み込まれる。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<比島沖海戦>:太平洋戦争時の捷一号作戦でフィリピン上陸船団撃滅のため出撃した日本海軍艦隊とアメリカ海軍機動部隊の間で行われた海戦で、シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、サマール沖海戦、エンガノ岬沖海戦の総称である。アメリカ軍呼称はレイテ海戦。戦闘域は50万平方マイルに及び、連合軍艦船166隻・航空機1280機と日本軍艦船65隻・航空機716隻が激突した史上最大の海戦である、とギネスブック(1979年版)に載っている。昭和19年10月18日、捷一号作戦が発動され、栗田健男中将率いる日本海軍第2艦隊第1遊撃部隊がリンガ泊地を出撃、ブルネイに向かった。第1遊撃部隊のレイテ湾突入は10月25日の予定とされ、内地の機動部隊本隊、沖縄の第2遊撃部隊も作戦準備を開始している。10月20日、アメリカ軍がレイテ島に上陸。これを支援するため、アメリカ海軍は南西太平洋部隊第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将指揮)を配し、更に日本軍海空戦力撃滅のため中部太平洋部隊第3艦隊(ウイリアム・F・ハルゼー大将指揮。大型空母9隻、軽空母8隻、戦艦6隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦61隻)も置いていた。ただし、前者はマッカーサー、後者はニミッツの司令部に属しており、直接交信は禁止されている。他にも第70任務部隊、第78任務部隊、第79任務部隊などが上陸支援にあたった。海戦時の戦力は、第3艦隊が第38任務部隊(マーク・A・ミッチャー中将指揮)第1任務群(司令官ジョン・S・マッケイン中将。空母CV-12ホーネット、CV-18ワスプ、CV-19ハンコック、軽空母CVL-25カウペンス、CVL-26モントレイ、第5巡洋艦戦隊重巡CA-27チェスター、CA-25ソルト・レイク・シティ、CA-24ペンサコラ、第10巡洋艦戦隊重巡CA-69ボストン、軽巡CL-53サンディエゴ、CL-95オークランド、第46水雷戦隊駆逐艦12隻、第12水雷戦隊駆逐艦3隻、第4水雷戦隊駆逐艦6隻)、第2任務群(司令官ジェラルド・F・ボーガン少将、サン・ベルナルディノ海峡に配置。空母CV-11イントレピッド、CV-17バンカーヒル、軽空母CVL-28カボット、CVL-22インディペンデンス、第7戦艦戦隊戦艦BB-62ニュージャージー、BB-61アイオワ、第14巡洋艦戦隊軽巡CL-64ヴィンセンズ、CL-89マイアミ、CL-80ビロクシー、第52水雷戦隊駆逐艦5隻、第104駆逐隊駆逐艦4隻、第50水雷戦隊駆逐艦5隻、第106駆逐隊駆逐艦4隻)、第3任務群(司令官フレデリック・C・シャーマン少将、ルソン島東に配置。空母CV-9エセックス、CV-16レキシントン、軽空母CVL-27ラングレイ、CVL-23プリンストン、第8戦艦戦隊戦艦BB-59マサチューセッツ、第9戦艦戦隊戦艦BB-57サウス・ダコタ、第13巡洋艦戦隊軽巡CL-60サンタ・フェ、CL-63モービル、CL-96リノ、CL-62バーミンガム、第50水雷戦隊駆逐艦5隻、第55水雷戦隊駆逐艦5隻、第110駆逐隊駆逐艦4隻)、第4任務群(司令官ラルフ・E・デビソン少将、レイテ島東に配置。空母CV-13フランクリン、CV-6エンタープライズ、軽空母CVL-24ベロー・ウッド、CVL-30サン・ジャシント、戦艦BB-56ワシントン、BB-60アラバマ、第6巡洋艦戦隊重巡CA-32ニュー・オーリンズ、CA-45ウィチタ、第6水雷戦隊駆逐艦4隻、第12駆逐隊駆逐艦4隻、第24駆逐隊駆逐艦3隻)だが、第1任務群はウルシー泊地に後退中で、艦上機は計527機だった。第7艦隊は対地砲撃支援任務に就いていた第77機動部隊第2任務群(ジェス・B・オルデンドルフ少将指揮)中央隊(司令官ジョージ・L・ウェイラー少将。戦艦BB-41ミシシッピ、BB-46メリーランド、BB-48ウェスト・ヴァージニア、第2戦艦戦隊BB-38ペンシルヴェニア、BB-43テネシー、BB-44カリフォルニア、エックスレイ駆逐隊駆逐艦6隻)、左翼隊(ジェス・B・オルデンドルフ少将直率。第4巡洋艦戦隊重巡CA-28ルイヴィル、CA-33ポートランド、CA-36ミネアポリス、第12巡洋艦戦隊軽巡CL-58デンバー、CL-56コロンビア、第56水雷戦隊駆逐艦3隻、第112駆逐隊駆逐艦3隻、その他駆逐艦3隻)、右翼隊(司令官ラッセル・S・バーケイ少将。オーストラリア重巡73シュロップシャー、軽巡CL-47ボイス、CL-46フェニックス、第24水雷戦隊駆逐艦6隻、第54水雷戦隊駆逐艦8隻)、航空支援任務の第77機動部隊第4任務群(トーマス・L・スプレーグ少将指揮)第1集団(トーマス・L・スプレーグ少将直率。護衛空母ACV-26サンガモン、ACV-29サンティー、ACV-27スワニー、CVE-80ペトロフ・ベイ、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻)、第2集団(司令官フィリックス・B・スタンプ少将。護衛空母CVE-62ナトマ・ベイ、CVE-77マーカス・アイランド、CVE-79オマニー・ベイ、CVE-78サヴォ・アイランド、CVE-76カダシャン・ベイ、CVE-61マニラ・ベイ、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻)、第3集団(司令官クリフトン・A・F・スプレイグ少将。護衛空母CVE-70ファンショウ・ベイ、CVE-63セント・ロー、CVE-66ホワイト・ブレインズ、CVE-68カリーニン・ベイ、CVE-71キトカン・ベイ、CVE-73ガンビア・ベイ、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦4隻)で、艦上機は計450機である。これに対し、マリアナ沖海戦で艦上機の大半を喪失した連合艦隊は、機動部隊本隊(指揮官の名字から小澤艦隊と通称)を囮としてアメリカ空母機動部隊を北におびき寄せ、第5基地航空部隊(第1航空艦隊第153・第201・第761・第1021航空隊)と第6基地航空部隊(第2航空艦隊の一部)の航空機計263機により制空権を確保、その隙に第2艦隊(栗田艦隊)主隊第1遊撃部隊第1部隊・第2部隊が第2航路(レイテ北のパラワン水道経由、航程1200海里。敵哨戒圏から離れ安全とみられた)、第1遊撃部隊第3部隊(西村艦隊)が第4航路(レイテ南のスールー海経由、航程815海里。距離は短いが発見される可能性が高い)からアメリカ軍上陸地点のレイテ湾タクロバン泊地に突入して上陸船団を壊滅させ、この際に西村艦隊を南西方面艦隊第2遊撃部隊(志摩艦隊)が支援するという、優勢なアメリカ艦隊に対する3方向からの外線作戦を仕掛けることにした。連合艦隊の命令では、行動内容は指示されていたものの、小澤艦隊がいつからいつまでアメリカ機動部隊を吊り上げておかねばならないのか言及されていなかった。作戦実行直前にマニラで神重徳連合艦隊首席参謀と小柳富次第2艦隊参謀長が打ち合わせを行った際、小柳第2艦隊参謀長は連合艦隊をレイテ湾ですり潰しても構わないか、途中で敵主力部隊に遭ったら輸送船団の攻撃を後回しにして主力部隊撃滅に専念して良いかと質問したところ、神連合艦隊首席参謀は異存は無いと断言、小柳第2艦隊参謀長はこのことを豊田副武連合艦隊司令長官に伝えるよう首席参謀に念押ししている。10月20日1700、小澤治三郎中将率いる機動部隊本体(第3艦隊)の第3航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)、第4航空戦隊(日向、伊勢)、巡洋艦戦隊(多摩、五十鈴)、第31戦隊(大淀、桑、槇、杉、桐)、第61駆逐隊(初月、秋月、若月)、第41駆逐隊(霜月)、第2補給部隊(駆逐艦秋風、油槽船2隻、海防艦6隻)が瀬戸内海西部豊後水道を出撃。マリアナ沖海戦と台湾沖航空戦で艦上機の大半を喪失し、定数606機に対して僅か109機(うち艦攻24機、艦爆8機)しか載せていなかった。第1遊撃部隊がブルネイに到着、燃料補給に入った。第2遊撃部隊が馬公に到着。第6艦隊潜水艦15隻(13隻?)がフィリピン東方の哨戒地域に出撃。10月21日1600、志摩清英中将率いる第2遊撃部隊(第5艦隊)の第21戦隊(重巡那智、足柄)、第1水雷戦隊(軽巡阿武隈、第7駆逐隊の駆逐艦曙、潮)、第18駆逐隊(不知火、霞)が沖縄を出撃し、フィリピンに向け南シナ海を南下した。10月22日、第6基地航空部隊がフィリピンに進出。0800、栗田健男中将率いる第1遊撃部隊(第2艦隊)がブルネイを出撃。第1遊撃部隊は各艦の速力差で3部隊に分けられており、第1部隊(栗田中将指揮)が第1戦隊(大和、武蔵、長門)、第4戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)、第5戦隊(妙高、羽黒)、第2水雷戦隊(能代、第2駆逐隊の早霜・秋霜、第31駆逐隊の岸波・沖波・朝霜・長波、第32駆逐隊の藤波・早波、島風)、第2部隊(鈴木義尾中将指揮)が第3戦隊(金剛・榛名。榛名はマリアナ沖海戦時の損傷復旧不全で最大速力26ノットに低下)、第7戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第10戦隊(矢矧、第17駆逐隊の浦風・磯風・濱風・雪風、野分、清霜)、第3部隊(西村祥治中将指揮)が第2戦隊(山城、扶桑)、最上、第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲)、第27駆逐隊(時雨)で、油槽船8隻が随伴した。優速の第1部隊と第2部隊は6000mの間隔を開けて18ノットで航行し、パラワン島の北側を通り、ルソン島南沿いに進んでサンベルナルジノ海峡を東に抜け、サマール島を北側から時計回りに回ってレイテ島に突入する。劣速の第3部隊は1530にブルネイを出撃、パラワン島南方のスル海を突っ切ってミンダナオ島の北を通り、スリガオ海峡を北に抜けてレイテ島に直行する。第2遊撃部隊(志摩艦隊)は第1遊撃部隊の詳細な行動を知らされていなかったため、志摩中将はルソン島の西を南下してスル海に入り、第1遊撃部隊第3部隊(西村艦隊)と合流してレイテ湾に突入することにした。10月22日午後、軽巡能代と重巡高雄が潜望鏡らしきものを発見したと通報してきたが、漂流物だった。1700、パラワン島西でアメリカ潜水艦が発した緊急信を傍受したとの情報が大和田海軍通信隊から栗田艦隊に伝えられた。1800頃、第901航空隊九六式陸攻から栗田艦隊に前方進路で敵潜水艦発見の報告が入った。2000、小澤艦隊が南西に変針、わざと電波を出しつつルソン島へと向かった。2100、軽巡矢矧が魚雷航走音らしき音を探知したため、赤の信号弾を発射、栗田艦隊は緊急一斉左回頭を行ったが、誤探知だった。2300、栗田艦隊は狭いパラワン水道にさしかかり、乃字運動を中止して速力を16ノットに落とした。10月23日0100、パラワン水道を哨戒中のSS-227ダーターとSS-247デースが浮上し、艦長同士が船舶間無線電話TBS(Talk Between Ships)で打ち合わせを行っていたところ、SS-227ダーターのSJレーダーが最大レンジで栗田艦隊第1・第2部隊を探知。移動速度から鈍足の輸送船団でなく戦闘艦艇と判断し、艦長は艦橋に駆け上がってメガホンで直接SS-247デースの艦長に日本海軍艦隊出現を告げ、第77任務部隊第1群指揮官に緊急電を発し、レーダーで艦影を捉えながら水上航走で前方に回り込み、SS-227ダーターが左、SS-247デースが右から雷撃することにしてパラワン水道出口で潜航、待ち伏せ攻撃を仕掛けた。栗田艦隊旗艦愛宕はSS-227ダーターから第77任務部隊への緊急電を傍受していたが、二二号対水上電探は逆探知を恐れて作動させなかったようである。0617、パラワン水道を5列縦隊で航行中の栗田艦隊は、速力を夜間用の16ノットから18ノットに増速、対潜警戒の之字運動に移った。針路を左5度に変針しようと愛宕が取り舵5度に定針した時、至近距離でSS-227ダーターのエンジン音をキャッチ、防空指揮所見張台の見張員が右舷40度・距離1000mに潜水艦を発見し、前部マストの発光信号で全艦に警報を発すると共に、面舵一杯で回避行動に入ろうとした。直後、SS-227ダーターは愛宕の右45度、距離1000ヤード(914.4m)から艦首発射管の魚雷6本を斉射。0628、愛宕は艦首右舷に1本、中央右舷に2本、後部5番砲塔付近右舷に魚雷1本を受けて発電機と非常用蓄電池の電源全てを喪失、右舷に8度傾斜した。SS-227ダーターは続けて艦尾発射管の魚雷4本を愛宕の後方800mにいた高雄に向け斉射、高雄は取り舵一杯で魚雷2本を回避したが、右舷艦橋下と艦尾に1本ずつが命中して推進軸2本と舵を喪失した。魚雷4本を被雷した愛宕では旗艦任務が取れないため、手旗信号で岸波と朝霜を近接させ(横付けすると沈没時に巻き込まれる)、栗田中将以下幕僚は海に飛び込んで岸波に泳ぎ着き、その後大和に移乗。このため、旗艦機能を持たせていなかった大和に指揮官の栗田中将と参謀の宇垣中将が同居した状態で作戦を続行せざるを得なくなった。また、通信要員など一部の司令部要員が大和に移乗できず、司令部の指揮通信機能が不十分となった。愛宕は左舷側に注水してバランスを保とうとしたが、傾斜は増す一方で、総員退去の命令が出され、0653に沈没、360名が死亡した。生存者は岸波と朝霜に救助されている。護衛の駆逐艦4隻はSS-227ダーターに対して爆雷攻撃を行い、摩耶の水測員は右舷方向にエンジン音らしき音源をキャッチして警戒に当たっていたが、摩耶の左舷側に潜んでいたSS-247デースが0654に射距離1800ヤード(1646m)で前部魚雷発射管から魚雷6本を8-10秒間隔で斉射し、0657から摩耶の左舷錨鎖庫、一番砲塔直下、第7缶室、後部機関室に1本ずつが命中。ちょうど総員交代で戦闘服に着替えの命令が出されていて通路上の防水扉が開いており急速に浸水してしまい、大傾斜したため艦長がすぐさま総員退去を告げたが、0704に一番砲塔直下の弾薬庫が誘爆、0705に摩耶は沈没し、艦長以下336名が戦死した。ただ早期の総員退去下命が幸いし、769名が救出されている。大破戦闘不能となった高雄は艦隊から脱落し、15時間も漂流した挙げ句、手製の舵を使って何とかブルネイへと戻った。アメリカ第3艦隊第38機動部隊は、第1任務群と共にウルシー泊地への後退を命じていた第4任務群を呼び戻し、まず栗田艦隊を攻撃、その後日本を出撃した小澤艦隊を攻撃することとしている。夜、栗田艦隊はミンドロ海峡を通峡。基地航空隊は飛行艇で夜間索敵を行ったが、第38機動部隊第2任務群CVL-22インディペンデンス搭載第41夜間空母航空団CVG(N)-41所属F6F夜間戦闘機に撃墜された。10月24日、第2遊撃部隊(志摩艦隊)がコロン湾を出撃し、西村艦隊に後続してスリガオ海峡に向かった。早朝、小澤艦隊がマニラ北東400海里に到達し、索敵を行ったが、アメリカ艦隊の姿は見えなかった。0600、アメリカ第3艦隊各空母から索敵機が発艦し、サン・ベルナルディノ海峡とスリガオ海峡に通じる全海域の捜索に入った。0820、アメリカ索敵機が西村艦隊を発見。CV-6エンタープライズの20機が空襲をかけ、戦艦扶桑のカタパルトと水上機を破壊、駆逐艦時雨の砲塔を損傷させた。0820及び0910、日本海軍基地哨戒機がマニラから60度90海里とレガスピー半島北でアメリカ第38機動部隊第3任務群を発見し、陸上基地から第2航空艦隊190機が出撃した。第38機動部隊第3任務群は栗田艦隊に向け出撃準備中で、第2航空艦隊の編隊をレーダーで探知したため、迎撃戦闘機を緊急発進させ、大半を撃ち落としたものの、撃ち漏らした彗星1機が250kg爆弾を投下し、CVL-23プリンストンを大破させている(後にCL-96レノが魚雷2本で処分)。この際、横付けしていたCL-62バーミンガムと駆逐艦3隻が爆発の巻き添えになって損傷した。1025、アメリカ第38機動部隊が栗田艦隊に対する空襲を開始。250機が出撃し、シブヤン海海戦で戦艦武蔵を撃沈、重巡妙高を損傷させた。大和も第1砲塔前部に爆弾2発を受け25mm機銃座1基が吹き飛ばされ、次いで揚錨機付近にも1発が命中したが弾き返している。1145(1115?)、小澤艦隊索敵機が本隊から215度180海里にアメリカ第38機動部隊第3任務群を発見し、艦上機56機(艦戦30機、爆装艦戦19機、艦攻5機、艦爆2機。計58機?)を発艦させた。第38機動部隊第3任務群は栗田艦隊に向けて第2次攻撃隊を発艦させようとしている所に小澤艦隊攻撃隊を探知したため、攻撃隊の発艦を急ぎ、次いで迎撃戦闘機30機を緊急発艦させて対応、18機を撃墜している。第2航空艦隊の小澤艦隊から出撃した艦上機のうち、母艦に戻ったのは僅か3機で、他に30-40機が陸上基地へと着陸したが、他は未帰還となった。小澤艦隊には第1遊撃部隊が空襲を受けているという報が入り、囮作戦が上手く行っていないと考えた小澤中将は、1439に航空戦艦日向、伊勢、駆逐艦初月、秋月、若月、霜月をわざと先行南下させてアメリカ索敵機に見つかりやすくした。1530、午前中からアメリカ第38機動部隊の波状攻撃を受けていた栗田艦隊は、基地航空隊、小澤艦隊、連合艦隊からの戦果報告が何も無いこともあり、このまま突入しても成功は望めないと判断、態勢立て直しと欺瞞も兼ねて一旦アメリカ機動部隊の空襲圏外に離脱することにし、西へと反転(1600時点で針路290度・速力18ノット)した。夕方、CV-16レキシントンの索敵機が小澤艦隊を発見。栗田艦隊は西に反転していたため、退却したと判断し、夜間攻撃は無理なので翌日の攻撃を決定、アメリカ第3艦隊は囮作戦に引っかかって小澤艦隊に向かった。この時、第3艦隊は高速戦艦と巡洋艦により別働隊を編成し、小澤艦隊に含まれていると推定した戦艦群と交戦させるべく北上させたが、編成変更の事実のみを無線で流し、任務を伝えなかったため、この報告を受けた第7艦隊は別働隊がサン・ベルナルディノ海峡の防衛にあたるものと誤解、発見した西村艦隊に向けてスリガオ海峡に全力を集中してしまい、サン・ベルナルディノ海峡ががら空きになっていた。第3艦隊の目標変更で敵機からの攻撃が止んだ栗田艦隊は1714にレイテ湾に向けて再度反転し東航したものの、突入予定は25日の昼頃にずれこんでしまい、このままでは白昼の突入となってアメリカ軍の空襲を受けまくる上、西村艦隊との連携も取れない見込みとなっている。1800、栗田艦隊が1530に西へと反転したことを暗号電文で各方面に発信。慌てた連合艦隊司令部は1813にGF機密241813番電GF電令作372号「天佑を確信し全軍突撃せよ」の電文を発信した。ちなみに電文を起案した三上連合艦隊参謀によると、「天佑を確信し」とは、兵理の常道である航空部隊支援下の海上部隊突入が不可能なので、現状は神頼み状態になっている、ということを全軍に示した、ということらしい。既に栗田艦隊はレイテ湾へと再反転済みだったが、連合艦隊に報告しなかったため、連合艦隊司令部は1959にGF機密第241955番電で「GF電令作第372号の通り突撃せよ」と念押しの打電を行っている。小澤艦隊もこれらの電文を傍受し、囮作戦を成功させるため南下を続けたが、その後栗田艦隊が反転しているとの情報が入り、孤立を避けるため2241に先行させていた航空戦艦日向、伊勢、駆逐艦初月、秋月、若月、霜月に合同を命じて一旦北上、真夜中になって状況の詳細を掴んだため再度南東に変針し、囮作戦を続行した。2145、栗田艦隊が連合艦隊に対し、翌0100にサン・ベルナルディノ海峡を通り1100頃にレイテ泊地に突入すると打電。西村艦隊には翌0900にスルアン島北東10海里で栗田艦隊と合同するよう打電した。2317、栗田艦隊はサン・ベルナルディノ海峡に到達。10月25日0100、栗田艦隊はもぬけの空になっていたサン・ベルナルディノ海峡を通過し、スルアン島東方に向かった。西村艦隊はスリガオ海峡に突入、スリガオ海峡海戦となり、第7艦隊の待ち伏せに遭った西村艦隊は壊滅し、後続の志摩艦隊は反転した。早朝、小澤艦隊が部隊を第1と第2に区分。0920頃からアメリカ第3艦隊艦上機60-70機が南東方向からエンガノ岬沖の小澤艦隊を襲撃し、エンガノ岬沖海戦となった。瑞鳳が後部エレベーターに被弾し、瑞鶴が魚雷1本と爆弾2発を喰らって操舵不能に陥り、千代田と千歳も被弾している。小澤艦隊は北に転針してアメリカ機動部隊の吊り上げを開始。1000、小澤艦隊にアメリカ艦上機第2波が来襲。千代田が被弾して航行不能となり後に沈没し、小澤艦隊は通信能力を失い旗艦機能を喪失した瑞鶴から大淀に旗艦を交替した。1300、アメリカ艦上機の第3波が小澤艦隊を攻撃。瑞鶴は航行不能となり、瑞鳳も艦首に被雷、千歳は沈没した。1414、瑞鶴が沈没。1527、瑞鳳が沈没し、計6波527機による航空攻撃により小澤艦隊は空母4隻を失って壊滅した。他に軽巡多摩が艦上機の攻撃で損傷した後SS-368ジャラオの雷撃を受けて沈没、駆逐艦秋月がSS-232ハリバットの雷撃で沈没、駆逐艦初月が艦砲射撃で沈没している。アメリカ艦上機の損失は31機だった。1820、小澤艦隊残存の日向、伊勢、大淀、駆逐艦2隻は北へと逃れた。1915に駆逐艦初月から空母1、戦艦2、その他有力部隊により追跡されているとの報が入り、その後音信不通となったため、2135に残存小澤艦隊は一旦南へと反転したが、初月も敵部隊も見つからず、2345に北へと針路を変えた。小澤艦隊が敵機動部隊と交戦して囮作戦に成功したことは、旗艦変更などによる暗号平文化システム破綻のため栗田艦隊には届いていなかった。栗田艦隊は10月25日朝にレイテ湾北東に突入、日の出30-40分後にアメリカ第7艦隊第77機動部隊4任務群第3任務隊護衛空母群と遭遇し、栗田艦隊はこれを機動部隊と誤認して攻撃を仕掛け、サマール沖海戦が勃発。第7艦隊は0707に第3艦隊に救援を要請した。0822、エンガノ沖海戦の最中に第7艦隊からの救援要請を受け取った第3艦隊第38機動部隊ハルゼー提督は、第1任務群をレイテ島に向かわせることにした。しかしハワイで海戦をモニタリングしていたニミッツ提督から「第34機動部隊はどこにいる RR 世界の謎」との電文を受け取ると、隷下機動部隊を全力で南下させている。電文のうちRR以下は暗号通信の際に付与される特に意味の無い語句であり、平文化担当者が間違って付けたままにしただけだったが、小馬鹿にされたと勘違いしたハルゼー提督はブチ切れて隷下艦隊を振り回してしまったため、後で「ブルズ・ラン」と嘲笑される羽目になった。サマール沖海戦後、栗田艦隊は1054に戦艦4隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦7隻の集結を終えている。1100、南西方面艦隊から栗田艦隊に対し、アメリカ機動部隊が航空用地点符字「ヤキ1カ」(レイテ湾口スルアン島灯台の方位5度・距離113海里。栗田艦隊から100海里以内)に存在するとの情報が入ったが、実際には南西方面艦隊に発信記録は残っておらず、誤報だった。1120、栗田艦隊は針路225度でレイテ湾へと向かった。しかし小澤艦隊の交戦情報が無線2通しか入ってこず、空母と交戦しているのか吊り上げに成功したのか判断できなかった上、南西方面艦隊からの情報を、アメリカ第3艦隊が南に向けた空母群ではなく、第3艦隊全力であると間違い、栗田中将は敵機動部隊が至近距離にいるとみて戦闘に入る方針に転換し、1236に全軍に艦隊決戦を通達、1255に他の参謀全員の反対を押し切って北に転針し、第3艦隊を追った。しかし第3艦隊を捕捉することはできず、アメリカ艦上戦闘機がわざと平文で送ったレイテ陸上航空基地への艦上機補充を知らせる偽電信にも惑わされ、1612に栗田艦隊は追撃を中止、突入時期が遅れたことによりレイテの輸送船団は既に退避していると考えレイテ突入も諦めて北上し、帰路に就いた。1800、栗田艦隊は東に針路を変更して再度第3艦隊を探したが見つからず、1830に再び帰路に就いた。報告を受けた連合艦隊も夜戦の見込みが無いなら避退するよう指示している。2130、栗田艦隊はサン・ベルナルディノ海峡を西に通峡。10月25日、特攻でCVE-63セント・ローを撃沈、CVE-71キトカン・ベイ、ACV-27スワニー、ACV-26サンガモン、CVE-66ホワイト・プレーンズ、ACV-29サンティーを損傷させ、ACV-29サンティーには更に伊56の雷撃で損害を与えた。10月26日、ブルネイ湾へと退却する日本海軍艦隊をアメリカ軍が追撃し、第38機動部隊艦上機100機と、第13航空軍B-24爆撃機24機などが空襲を掛けた。軽巡能代と駆逐艦早霜がミンドロ島南方で艦上機の攻撃を受けて沈没、軽巡阿武隈がミンダナオ海でB-24爆撃機の爆撃を受けて沈没、軽巡鬼怒と駆逐艦浦波がパナイ島北東で艦上機の攻撃を受けて沈没、駆逐艦野分が水上艦艇の攻撃を受けて沈没、戦艦大和が艦上機とB-24爆撃機の爆撃を受けて乗員29名が死亡し5000トン浸水、駆逐艦沖波がシブヤン海で艦上機の攻撃を受けて小破している。10月27日1200、小澤艦隊の戦艦日向、伊勢、大淀、五十鈴、駆逐艦4隻が奄美大島に帰港。10月28日、栗田艦隊がブルネイ湾に帰投した。栗田艦隊がレイテ湾に突入していても、レイテ島への輸送船団は大半が揚陸を終えて退避した後で、スリガオ海峡海戦を終えて待ち構えていた第7艦隊戦艦群(一部の艦は弾薬不足だったが)と第3艦隊が南に向けた2個任務群艦上機を相手にせねばならず、期待した戦果が得られたかは不明である。そもそも連合艦隊と栗田艦隊との事前打ち合わせで機動部隊と輸送船団なら機動部隊の方を撃滅することになっていて、敵制空権下の外線作戦で分割した艦隊を同時に突入させるという作戦方針に無理があり、外線作戦に最も重要な各部隊の連携も取れず、日本海軍は空母1隻(瑞鶴)、軽空母3隻(瑞鳳、千歳、千代田)、戦艦3隻、重巡6隻、軽巡4隻、駆逐艦11隻を沈められ、400機を喪失、連合艦隊は完全にとどめを刺された。アメリカの損害は軽空母1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻、潜水艦1隻だった。参考:比島決戦、月刊軍事研究11,’05、激闘太平洋戦記、連合艦隊巡洋艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,’13増刊、4,’17、10,’19、月刊丸12,’92、丸エキストラ版No.71、歴史群像12,’10、海軍操舵員よもやま物語、山本五十六と米内光政、日本航空母艦史、日本海軍艦隊総覧
<肥東基地>:中国軍航空基地。2550m滑走路、緊急滑走路、地下ハンガー、シェルター24基を持つ。参考:月刊軍事研究8,’14
<非同期パルス抑圧>:NSPSを参照。
<尾筒弾倉>:ボルトのすぐ下に収納するタイプの弾倉。装填速度が速く、発射しても重心位置が変わらないので命中精度が変化しない。参考:月刊軍事研究11,’02
<尾筒底板>:尾筒下部に付く部品で、遊底または揺底の摺動面となる。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<比島部隊>:昭和17年8月11日、特設水上機母艦讃岐丸が外南洋部隊に移った。参考:月刊丸9,’20
<比島部隊(太平洋戦争第一段作戦第一期兵力部署)>:南方部隊隷下で、第3艦隊司令長官高橋伊望中将が指揮する。主隊(第16戦隊、摩耶、朝風、松風、讃岐丸)、第1急襲(護衛)隊(第5水雷戦隊)、第2急襲(護衛)隊(第4水雷戦隊)、第3急襲(護衛)隊(山雲、白鷹、第21水雷隊)、第4急襲(護衛)隊(長良、雪風、時津風、蒼鷹、白鷹、早鞆、第24駆逐隊)、南比支援隊(第5戦隊、第4航空戦隊、第2水雷戦隊、第11航空戦隊)、敷設隊(第17戦隊、辰春丸)、根拠地隊(第1根拠地隊、第2根拠地隊)、付属部隊(第32特別根拠地隊、呉第1特別陸戦隊、呉第2特別陸戦隊、佐世保連合特別陸戦隊、第1設営班、第2設営班、第3設営班、第5設営班、第6設営班)からなる。参考:帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ
<ピトー管>:飛行速度を計測する機器Pitot tube。元は1732年にフランス人のアンリ・ピトー(Henri Pitot)が川の流速を測るために開発した装置で、1738年に発表されたベルヌーイの定理で理論づけられた。先端に総圧を測るための孔が開いた細長い管で、機首や翼端に装備する。管を二重にして側面に静圧を測る孔を設けることがあるが(ピトー静圧管)、僅かな凹凸でも示度に大きな差が出るため、静圧測定用の孔は機体に付けることもあり、この場合は風洞実験や飛行試験で正確性を確認する。これらで測定した総圧と静圧の差により動圧を測り、動圧=1/2×空気密度×対気速度^2の関係式から対気速度を測定する。開口部形状により3%くらい誤差が出ることがあり、通常の飛行では問題は無いが、飛行試験など正確な値が必要な場合にはピトー係数という補正係数を適用する。気流や衝撃波の影響で総圧が変化することもあり、こちらも補正が必要で、管を長くして機体から離したり、複数箇所に設けたピトー管のデータを比較したりする。管形状の工夫により、気流に完全に正対していなくても正確な値を計れるが、15度くらいが限界なので、迎え角や横滑り角を測定して補正する。開口部が詰まると正確な対気速度が計測不能となるので危険であり、X-31高機動実験機が墜落したのもこれが氷結して詰まってしまったためとされ、電熱器などを装着しておくと良い。飛行するうちに前端が磨り減ってくるので、定期的に交換する必要がある。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings5,’20、5,’03、4,’03、5,’22
<ピトー静圧試験装置キット>:自衛隊の機器。日本システム工業製。参考:月刊軍事研究10,’18
<ピトカーン>:K589(フリゲート)を参照。
<秘匿装置>:自衛隊の機器。アメリカ国家安全保障庁に発注した。参考:月刊軍事研究1,’19
<秘匿装置(2)>:自衛隊の機器。アメリカ国家安全保障庁に発注した。参考:月刊軍事研究1,’19
<秘匿装置(3)>:自衛隊の機器。アメリカ国家安全保障庁に発注した。参考:月刊軍事研究1,’19
<秘匿装置(その2)>:自衛隊の機器。アメリカ情報システム庁に発注した。参考:月刊軍事研究3,’16
<秘匿装置等(その1)>:自衛隊の機器。アメリカ国家安全保障庁または米情報システム庁に発注した。参考:月刊軍事研究8,’16、7,’18
<秘匿装置等(その1)-B>:自衛隊の機器。アメリカ陸軍省に発注した。参考:月刊軍事研究7,’16
<ビトニー>:K274(コルベット)を参照。
<飛渡瀬>:日本海軍雑役船(工作船)Hitonose。元は中華民国海軍砲艦民生で、日華事変中の昭和13年7月20日に岳陽で爆撃を受けて擱座していたのを11月16日に拿捕し、昭和14年5-6月に浮揚して12月27日に艦籍に編入したものである。垂線間長64m、基準排水量460トン。主機はレシプロ蒸気機関2基2軸3600馬力、速力18ノット。自衛用に小口径機銃を装備する。支那方面艦隊に配備され、揚子江で小艦艇の整備や修理を実施した。太平洋戦争勃発後は香港攻略戦に参加。その後揚子江に戻ったが、昭和19年12月21日に揚子江上流で貨物船と衝突して沈没した。参考:月刊世界の艦船9,’10、8,’21
<人吉海軍航空隊>:日本海軍航空隊。熊本県球磨郡にある。海軍派遣飛行予科練習生制度創設に伴い新設された航空隊で、飛行機整備練習生に対する飛行機整備教育を行う。昭和19年5月1日に創設された。5月15日、第一期乙飛飛行機整備練習生が入隊。6月15日、第二期乙飛飛行機整備練習生が入隊。参考:陸海軍学校と教育
<人吉飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<ヒドラ>:F452(フリゲート)を参照。
<ヒドラ>:スウェーデン海軍ヴィスビー級コルベットが搭載している統合マルチソナーシステム。CHMS-90バウ・ソナー、CVDS-26可変深度ソナー、曳航ソナー・アレイ、遠隔操作水中艇ソナー、ソノブイ、自艦騒音モニター、水中環境モニター、海底地形探査機などの各種センサーを統合しており、CICのコンソールで一元制御、データをディスプレイに表示し、対機雷戦・対潜戦に反映させる。曳航ソナー・アレイは全長1kmの音響センサーを使用して自艦雑音の影響を受けにくくする。参考:月刊軍事研究12,’07
<ヒトラー>:アドルフ・ヒトラー。バイエルン軍第4軍団司令部宣伝部に所属していた1919年9月、ドイツ労働者党DAPの実態把握のため演説集会に送り込まれたが、そのまま入党して党首になり、1920年代初めの第1回党大会で党名を国家社会主義労働者党NSDAPに改称した。1921年、突撃隊SAを創設。1923年11月8日、ミュンヘン一揆を起こすが失敗。ランツベルグ城(刑務所)に拘禁され、その間に「我が闘争」を執筆した。1924年12月、釈放された。1925年8月、NSDAPを再組織化し、親衛隊SSを創設。1945年4月29日、総統本営壕で拳銃自殺し、遺体は焼却された。参考:武装親衛隊
<ヒトラー暗殺未遂事件>:グラフ・フォン・シュタウフェンベルク大佐はナチスの権力拡大と共にヒトラーに対し懐疑的となり、占領地域での暴政に恐怖を抱くようになった。シュタウフェンベルクは1943年10月に陸軍総局幕僚長に任命され、1944年7月1日には予備軍の先任参謀に就任。7月20日、爆弾入りのカバンを持ってヴォルフ・シャンツェの軍バンカーに向かったシュタウフェンベルクは、それをヒトラーの足下に置き、電話をするといって出て行った。1245-1253に爆弾が炸裂、4名が致命傷を負ったが、カバンが邪魔なので脇にどかされたため、分厚い机が防御材となってヒトラーはかすり傷だった。爆発を見てヒトラーの死を確信したシュタウフェンベルクは、オルブリヒト将軍に暗殺の成功を伝え、将軍はワルキューレ計画(ベルリン制圧計画)を発動させると発表したが、ヒトラーは生きており、失敗に終わっている。シュタウフェンベルクら首謀者らは20日中に国家保安委員会に逮捕され、7月21日0030頃に銃殺された。関係者も次々に逮捕・処刑され、ハンス・フォン・クルーゲ元帥のように自ら死を選ぶ者もいた。ロンメルの参謀長だったシュパイデル将軍と、フランス軍政長官シュテルブナーゲル将軍、その副官のホーファッカー中佐は、国民の人気の高いロンメルを味方に引き入れようと画策していたが、ロンメルは早期の戦争終結を図ってはいたものの、暗殺には反対しており、この事件には関与しなかった。しかし自殺に失敗したシュテルブナーゲル将軍が入院中にうわごとでロンメルの名を出し、ゲシュタポの拷問を受けたホーファッカー中佐もロンメルが「ベルリンの諸君に私をあてにするよう伝えよ」と保証したと供述したため、9月7日にシュパイデル将軍が逮捕され、ロンメルも自殺に追いやられている。参考:月刊軍事研究7,’04、グラフィックアクション39
<ヒトラーの電気ノコギリ>:MG42(機関銃)を参照。
<ヒトラーユーゲント>:ナチスの青少年組織として発足したヒトラー青少年団。1921年に18才のアドルフ・レンクがナチス本部に青少年組織を創設しようと呼びかけたのが始まりで、1925年にクルト・グルーバーが同様の青年組織を統合して大ドイツ青年連合を編成、1926年7月の第2回ナチス党大会で正式承認されてヒトラーユーゲントとなった。1932年6月15日、別のナチス青年組織である国家主義青年連合を吸収し、10月1日には加盟者が11万人に達していた。1933年1月、帝国ドイツ青年協会が傘下に入った。1934年、ヒトラーユーゲント警戒隊が組織され、警察やゲシュタポとの連携でヒトラーユーゲント内部の反逆者摘発を担当した。親衛隊のヒムラーがこれに目を付けて親衛隊員の青田買いにも使っている。1936年12月1日、ドイツ議会で帝国青年法が制定され、正式な国家機関になった。ドイツ再軍備宣言で国防軍が創設されたのに伴い、軍事教練を開始。1937年、選抜隊員にエリート教育を施すアドルフ・ヒトラー学校(ナチス教育用)と帝国政治教育学校NAPOLA(政治経済軍事学術教育用)を創設した。1939年4月、10-18才の総ての少年少女が強制加盟となり、国防軍から組織的な軍事訓練が施されるようになった。船員経験者向けの海洋ヒトラーユーゲント、グライダー免許保有者向けの航空ヒトラーユーゲントという組織も作られている。加盟期間中は国家奉仕という名の労働力や防空戦力として使用され、加盟期間が終わっても国家労働奉仕隊での更に6ヶ月の労働奉仕が待っていて、男子はその後兵役に就く。1939年9月の第2次大戦勃発時には100万人以上が所属しており、引き続き労働やドイツ国内の防空任務を担当、17-18才になると兵士として前線に送り出された。1941年、帝国政治教育学校に武装親衛隊の将校が教官として派遣された。1942年5月28日、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、フランダース人をヒトラーユーゲントに入団させることを決定。1942年夏、ドイツ国防軍と武装親衛隊が各地に軍事訓練場を設置。武装親衛隊が応募年齢を17才に引き下げ、ヒトラーユーゲントに訓練を施すついでに隊員勧誘を強力に進めた。1943年1月、15才以上の団員を空襲時の消火活動の際には警察(親衛隊トップのヒムラーが権力を掌握)の指揮下で徴用することになった。参考:武装親衛隊、月刊PANZER9,’03
<ヒトラーユーゲント師団>:ドイツSS第12機甲師団の別名Hitlerjugend。連合軍からはベイビー師団、ミルク師団などと揶揄された。1943年初めに17才のヒトラーユーゲント団員によるSS師団創設がヒトラーに提案され、ヒトラーユーゲントの部隊名と共に許可されて2月16日から編成された。志願兵の条件は1926年生まれ、身長1.68m以上、アーリア人、犯罪歴無し、体力ありで、ドイツ国防軍の徴兵検査を受ける前のヒトラーユーゲント団員を選抜している。将校と下士官は3月にSS第1装甲擲弾兵師団アドルフ・ヒトラーから引き抜いた。6月1日に装甲てき弾兵師団としての編成が予定されて志願者はベルギー東部のベベルローに送られ、7月にはドイツ国防軍将校、下士官、技術専門家計50名が加わって訓練に入った。10月22日、SS第12装甲師団ヒトラーユーゲントに改称された。装甲連隊1個、装甲てき弾兵連隊2個、装甲歩兵連隊1個からなり、師団長はフリッツ・ヴィットSS准将(SS第1連隊長から昇任)である。年末にかけて隷下部隊の編成や兵器の割り当てが行われたが、戦車はⅤ号戦車にⅣ号戦車が混じり、歩兵装備にはフランスやイタリアから接収した兵器も多かった。12月31日、SS第1装甲軍団の隷下に入ったが、すぐSS第2装甲軍団の隷下に移った。1944年4月1日、ベルギーからフランスのルーアン南方に移動。5月、SS第1装甲軍団の隷下に入った。6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸したため、反撃すべく出撃し、1630にカーン市まで42kmの所にあるリージュに到着。6月7日、カーン市街に展開し、SS第25戦車連隊(Ⅳ号戦車90両+歩兵大隊3個)がカナダ第27機甲連隊と交戦を開始した。6月7-16日、イギリス・カナダ軍捕虜64名を殺害。報復としてか、カナダ軍インズ・オブ・コート連隊が捕虜にしたドイツ装甲教導師団装甲砲兵連隊の大佐をM4中戦車の砲塔前面に縛り付けて前進し、殺害した。6月12日、イギリス第2軍第7機甲師団と第50歩兵師団をヴィレル・ボカージュ付近で阻止していたが、イギリス第49師団からも攻撃を受けた。6月14日、カーン南西27kmで師団司令部がイギリス海軍の艦砲射撃を受け、ヴィット師団長が戦死。クルト・マイヤーSS大佐が後任になった。6月25日、イギリス軍のエプソム作戦を受けて112高地に退却。7月8日、イギリス軍がチャーンウッド作戦を開始。7月9日、絨毯爆撃、艦砲射撃、戦車波状攻撃に耐えきれずカーンを放棄して退却。将兵の60%が死傷し、戦車と装甲車の50%を失って7月11日からカーン南26kmのポティニーで再編成に入った。7月18日、イギリス軍のグッドウッド作戦開始に伴い、カーン南方のマルトに展開して反撃を実施。連合軍のコブラ作戦とブルーコート作戦で引き続き防衛戦に参加し、8月1日にSS第1装甲軍団の隷下に入ってカーン-ファレーズの防衛に就いた。8月3日、アヴランシュ奪回作戦に参加。8月7日、カナダ軍のトータライズ作戦を受け反撃を実施。8月19日、ファレーズ付近で包囲され、8月20日に脱出を開始。6月6日に2万名いた将兵は、脱出後の8月22日には1万2千名に減り、重装備の殆どを失い、パリ北66kmのポーペで再編成に入った。8月末、ドイツのカイザーラウテルンに移動して再編成を継続。9月3日、西部戦線に戻るためベルギーのフィリップヴィルを通過。9月4日、ミューズ川に到着。9月6日、アミアン付近で戦闘中に師団長マイヤー准将がレジスタンスに捕らえられ、ヒューベルト・メイヤーSS中佐が代理で指揮を執ることとなった。その後ヒューゴ・クラース大佐が師団長になった。9月中旬、SS第1装甲軍団の隷下に入ってケルン北方に移動。10月、アイフェル高地南方に移り、休養と再編成入った。11月、ブレーメン南60kmで補充大隊を加えて訓練を実施。12月、第6装甲軍の隷下に入ってラインの守り作戦に投入された。1945年1月8日、バストーニュまで数キロの地点で力尽き退却。1月下旬、SS第6装甲軍の隷下部隊としてハンガリー戦線に移動。3月6-7日からの春の目覚め作戦に投入された。3月15日付の編成表ではⅤ号戦車を24両(可動9両)、Ⅳ号駆逐戦車L/70を30両(可動10両)、対空戦車を8両(可動2両)装備している。しかし10km進んだところで進撃が止まってしまい、3月20日過ぎには敗退した。そのまま撤退を続け、4月12日にSS第1装甲師団の残存兵と戦闘団カイテルを編成、SS第1装甲軍団の隷下となった。4月中旬、オーストリアのウィーンを経てリンツに移動。5月8日、リンツ南東のエンヌ付近に到達してアメリカ軍に降伏した。残存兵力は将兵455名と戦車1両だった。参考:武装親衛隊、月刊PANZER9,’03、月刊グランドパワー12,'14別冊
<ヒドラジン>:化学式N2H4で表される物質で、強い刺激臭を持ち、比重は1、融点は2度、沸点は113度と水に近い性質を持つ。一液式ロケットの推進剤となるため、衛星軌道変更用ロケットなどに使用されている。猛毒で、皮膚に接触すると糜爛を引き起こし、吸入すれば肺組織に障害を起こして死亡の恐れがある。参考:月刊軍事研究5,’08
<ヒドランゲア>:K39(コルベット)を参照。
<ピトリブイ>:ソ連海軍クリヴァクⅡ型フリゲートPytlivy。1981年11月竣工。参考:月刊世界の艦船6,’15、3,’92増刊
<ビドル>:CG-34(巡洋艦)またはDD-151(駆逐艦)を参照。
<ビナ>:イラン軍が2014年2月10日にテストしたらしい対地ミサイルBina。AGM-65空対地ミサイル類似のセミアクティブ・レーザー誘導ミサイルで、空対地型と地対地型があるらしい。参考:月刊軍事研究7,’14
<ビナヴィディツ>:T-AKR-306(輸送艦)を参照
<ピナカ>:インドのDEDOが1990年代から開発した多連装ロケットランチャーPinaka。MBRLSを構成する。ロケット弾は直径214mm、重量276kg、弾頭重量100kg、最大射程45km(38km?)。8×8輪トラックのタトラ815に12連装(24連装?)で搭載される。他にSAGEM社製GPSジャイロを統合した管理システムが装備されており、自己位置測定と姿勢制御を行い、MBRLSの各システムとネットワークを作る。ピナチャと同じ?参考:月刊軍事研究9,’10、1,’09
<ひなぎく>:LSSL-427(警備艇)を参照。
<ひなげし>:LSSL-452(警備艇)を参照。
<ピナチャ>:インド陸軍国産多連装ロケットシステムPinacha。タトラ815コロス8輪駆動トラックに、214mmロケット弾3列2段ランチャー2基(計12連装)を搭載する。キャビンは完全密閉式で、NBC防護装置を備える。操縦手用パッシブ式暗視装置を備え、タイヤ空気圧集中制御装置で高い走破能力を持つ。ランチャーは射界左右90度ずつ、仰角0-55度で、電動式。ロケット弾は全長4.9m、直径214mm、重量275kg、弾頭重量100kg。最大射程45km。対戦車子爆弾や対戦車地雷弾頭もある。全弾発射に要する時間は40秒。乗員5名。各ランチャーには射撃統制コンピュータと自動測位システムが搭載され、速やかに射撃位置に展開し、1個中隊6両から72発を発射、700×500mを制圧し、すぐに撤収する。ピナカと同じ?参考:世界AFV年鑑2002-2003、月刊軍事研究10,’02
<火縄銃>:マッチ・ロックを参照。
<ヒネイ>:M343(掃海艇)を参照。
<ピネラピ>:97(軽巡洋艦)を参照。
<ひねり込み>:日本海軍戦闘機隊の格闘戦戦術。斜め宙返りの頂点で舵を操作し、旋回半径を更に小さくするものである。零戦(ひねり込み)も参照。参考:月刊丸12,’90
<ピネロピ>:イギリス海軍アリシューザ級(初代)軽巡洋艦Penelope。1914年竣工。1924年に売却された。参考:近代巡洋艦史
<檜(初代)>:日本海軍桃型駆逐艦3番艦。大正6年3月31日竣工、二等駆逐艦に類別された。8月14日、第2特務艦隊第15駆逐隊に所属してマルタ島に到着、地中海での船団護衛任務を開始した。昭和15年4月1日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船9,’13増刊
<檜(2代目)>:日本海軍松型駆逐艦16番艦。昭和19年9月30日竣工。昭和20年1月4日、生田川丸を護衛してマニラに入港。1月5日、マニラ西方でアメリカ駆逐艦と交戦して沈没し、4月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧
<檜町警備隊>:陸上自衛隊の防衛庁警備部隊。それまでは警察の機動隊が担当していたが、1968年10月20-21日に全学連過激派が70年安保反対運動に関連して防衛庁に不法侵入する事件を起こしたため、自前の警備隊を編成することになり、全国の普通科連隊から1個中隊を派遣してもらい、1週間交代で任務に就かせた。隊長は陸幕第5部総括班長である。参考:日本の防衛戦力Part1、月刊軍事研究4,’12
<檜與平>:日本陸軍エース。大正8年、徳島県生まれ。昭和15年6月、陸軍航空士官学校を卒業して少尉となり、11月に飛行第64戦隊所属となった。昭和16年2月、広東に配置され、太平洋戦争開戦後はマレー作戦に従事。12月8日、スンゲイパタニ上空で初陣を飾り、ブレニム爆撃機1機を共同撃墜した。12月25日、ラングーン攻撃でバッファロー戦闘機1機を撃墜。昭和17年1月31日、シンガポール上空でハリケーン戦闘機2機を撃墜。4月10日、ローウィン攻撃で被弾負傷し、1ヶ月入院した。10月、明野甲種学生となり、昭和18年3月に原隊に復帰、飛行第64戦隊第3中隊長となった。11月25日、一式戦闘機二型で出撃し、P-51戦闘機を不時着させてミルトン大佐を捕虜にした。これが日本軍による初のP-51戦果である。11月27日、ラングーン上空でP-38戦闘機、P-51戦闘機、B-24爆撃機1機ずつを撃墜したが、P-51戦闘機の攻撃を受けて右脚に重傷を追い、入院して右脚を切断した。昭和18年2月、本土に送還された。11月、義足を付けて復帰し、明野飛行学校高松分校で指導に当たった。昭和20年4月、本校に復帰し、明野教導飛行師団第1教導飛行隊第2大隊長として防空任務に就いた。4月22日、五式戦闘機で迎撃戦に出撃。7月16日、五式戦闘機で出撃し、伊勢湾上空でP-51D戦闘機1機を撃墜した。7月18日、飛行第111戦隊第2大隊長となった。航空本部の規則で戦闘機パイロットは身体欠損を認めないことになっていたため、本来なら戦隊長となるところを大隊長という職名をわざわざ作っている。以降は三木飛行場で戦力温存に努め、終戦となった。平成3年1月に死去した。総撃墜数12機。最終階級は少佐。参考:日本陸軍戦闘機隊、月刊丸6,’14、月刊航空ファン4,’18
<日野・小室式自動拳銃>:日本陸軍日野熊蔵中尉と小室友次郎中尉が開発した自動式拳銃。作動はブロー・フォワード式。使用弾は.32ACPで、後に8mm弾版も作られたが、カートリッジが強すぎて失敗作になった。製造数300-500丁。1908年4月、アメリカで特許を取った。参考:GUN用語事典
<日野射撃場>:陸上自衛隊の射撃訓練場。岐阜市日野南にあり、敷地面積66620平方メートルで、守山駐屯地業務隊が管理している。元は1907年(明治40年)に開設された陸軍歩兵第68連隊の射撃場で、太平洋戦争終結でアメリカ軍に接収され、1960年から陸上自衛隊が使用した。敷地面積66620平方メートル。2014年12月20日、自衛隊施設として初めてプレキャスト・プレストレスト・コンクリート(PCaPC)構造を使用した新射撃場(全長340m、軒高4.3m、延床面積10173平方メートル。長さ300m・幅14.8mの射道を2本並列)建物本体の建築工事が完了した。参考:朝雲、MAMOR vol.143
<火の玉特急>:レッド・ボール・エクスプレス(輸送トラック隊)を参照。
<日出丸>:日本海軍特設艦船。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は連合艦隊補給部隊に所属していた。参考:帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ
<火の元点検>:巡検を参照。
<日野レンジャー>:陸上自衛隊4×2輪(後輪駆動)トラック。民間用トラックをそのまま導入したもので、輸送隊に配備された。全長6.7m、全幅2.1m、全高2.3m、車両重量3.2トン。エンジン出力120馬力。ペイロード4.5トン。日野重工製。参考:自衛隊装備カタログ1981
<ビバー>:レオパルト1戦車ファミリーを参照。
<ピバー>:CL-289(無人機)を参照。
<ビハール事件>:太平洋戦争サ号作戦において、昭和19年3月9日に重巡利根がイギリス商船ビハール号を撃沈、救助した80人を艦内に収容した。上級部隊の第16戦隊左近允尚正司令官からは処分するよう命令が出たが、黛治夫艦長はそのままジャカルタに帰投、女性とインド人15人を上陸させ、サ号作戦を終了。第16戦隊の指揮下を外れ、第7戦隊に復帰するためビハール号の65人を乗せたまま3月18日に出港してシンガポールに向かったが、3月19日0000からリンガ湾で黛艦長の命により65人の処分を開始した。後甲板に1人ずつ呼び出すと、当て身で気絶させ、日本刀で頸動脈を切断、更に心臓を突いてとどめを刺し、海中に投棄している。終戦後、ジャカルタに上陸した乗員・乗客の証言で事件が発覚し、イギリス軍は左近允・黛両名を戦犯として起訴。両名とも上級司令部の命令によるもので、自己防衛上妥当であると反論したが、当時の南西方面艦隊司令長官高須四郎中将は戦病死しており、司令部関係者は命令の発出を否定、命令書も発見されなかった。左近允弁護側は事件当時重巡利根は第16戦隊の指揮下には無かったと弁論、黛弁護側はサ号作戦終了後にジャカルタで行われた作戦研究会で再三に亘り処分命令を受けたと弁論した。判決では左近允司令官に絞首刑、黛艦長に7年の実刑が言い渡されている。左近允司令官は遺書の中で、これは敗戦による結果一部の者が負う処刑であり戦時中の戦死だと思っている、戦犯者の中にも虐待や裁判の不平等に対して仇を取るよう伝言した人が少なくないが、これでは将来の世界平和は達成できず、いつか日本がまた戦争をして勝った場合には敵戦犯を虐待せずかつ戦犯裁判も連合軍のやった方法より遥かに公正にやるという心がけが必要である、要は戦争のため国民大衆が如何に迷惑するかということを考え一部のために簡単に戦争を起こさないことが肝要だ、と記し、絞首台何のその、敵を見て立つ艦橋ぞ、の辞世の句を残して昭和23年1月21日に刑が執行された。参考:日本海軍艦隊総覧、海軍操舵員よもやま物語
<美唄駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は北海道美唄市美唄1536-1。JR美唄駅からバス15分。1965年に美唄市商工会議所を中心とする自衛隊等誘致期成会が発足して誘致活動を開始。1978年1月、美唄駐屯地業務隊が新編された。3月、三池炭鉱住宅跡地に開設され、第126特科大隊が東千歳駐屯地から移駐した。1993年3月、第126特科大隊が廃止され、第2地対艦ミサイル連隊が新編された。2000年3月、第101特科直接支援大隊第4直接支援中隊が新編された。2009年10月21日1530頃、所属隊員4名が国道12号線で持続走訓練を行っていたところ、対向してきた普通乗用車がよそ見運転で突っ込み、1名が死亡、1名が重体となり、1名が軽傷を負った。2012年9月4日、月形町篠津山囚人墓地で行われた平成24年度樺戸監獄物故者追悼式に参加。2019年12月5日、曹友会員15名が美唄市内の老人ホームで餅つき(42回目)を実施。2020年1月10日、駐屯地曹友会35名が美唄養護学校でスキー山作成のボランティア活動を実施。1月22日と2月5日、生涯生活設計セミナーを実施。9月9日、防衛政務官が視察した。2021年1月13日、駐屯地曹友会が北海道美唄養護学校でスキー山を作製した。参考:第11旅団ホームページ、JGround Vol.23、朝雲、MAMOR vol.123、vol.165
<美唄駐屯地(2015年)>:第2地対艦ミサイル連隊、北部方面後方支援隊第101特科直接支援大隊第4直接支援中隊、北部方面会計隊第435会計隊(3月26日から第345会計隊美唄派遣隊)、美唄駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<美唄駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。1978年1月、美唄駐屯地で新編された。2017年2月2日、所属臨床心理士が岩見沢駐屯地で所属全隊員に対し「ストレスの蓄積を防ぐセルフケア」講話を実施。参考:第11旅団ホームページ、朝雲
<ピハオ>:SS28(潜水艦)を参照。
<ピハオ級>:209/1200級潜水艦(コロンビア)を参照。
<被曝>:放射線に暴露されること。日本の放射線防護関連法令では「被ばく」と書く。人体の外から放射線を浴びる外部被曝と、体内に放射性物質を取り込んだことで体内から放射線を浴びる内部被曝がある。線量に応じて放射線障害(早期影響や晩発影響)が生じ、胎児が被曝すれば発生障害(形態異常や精神発達遅滞)も出る。子孫にまで影響するような遺伝的影響は今のところ確認されていない。参考:知ることから始めよう放射線のいろいろ、放射線健康科学
<被爆>:原爆に被災すること。放射線だけでなく爆風や熱線も受けるため、この字をあてる。参考:放射線健康科学
<非爆発性反応装甲>:爆発反応装甲の爆薬の換わりに、ゴムなどの不活性膨張物質を内蔵したもの。HEAT侵徹部局所でのみ作用するため、囲んでいる鋼板が破損せず、また多重被弾にも対応できる。ただし防御力はやや劣る。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<ひばり>:AS332Lヘリ(陸上自衛隊)またはMS-36(掃海艇)またはベル47G-2Aヘリ(海上自衛隊)を参照。
<雲雀>:日本海軍隼型水雷艇Hibari。明治37年1月10日竣工。大正12年4月1日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史
<ビバリー>:H64(駆逐艦)を参照。
<ビバリー>:イギリス海軍アバードヴェイ級通船Bibury。1969年竣工。参考:月刊世界の艦船5,’83
<ビバリーモーニング02-07>:2002年6月に横田基地で行われた、基地に対するテロ攻撃(NBC攻撃を含む)を想定した演習。4日間で5000名が参加した。参考:月刊軍事研究2,’05
<ビビアン>:L33(護衛駆逐艦)を参照。
<ビビアン・ベシェール>:フランス軍の小銃てき弾。銃口に円筒形の発射機をねじ込み、中央に穴の空いたてき弾を挿入する。小銃用実包を発射すると、てき弾中央を通過した弾丸がてき弾のレバーを外し、撃発雷管が作動して時限信管を作動させる。続いて、小銃用実包の発射ガスが最大150m先までてき弾を飛ばす。第1次大戦で使用され、アメリカ軍も採用した。参考:手榴弾・迫撃砲、大砲入門
<ひびき>:AOS-5201(音響測定艦)を参照。
<響(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦21番艦Hibiki。明治39年9月6日竣工。大正元年8月28日、三等駆逐艦に類別変更された。大正13年12月1日、掃海艇に艦種変更された。昭和3年4月1日に除籍され、昭和3年7月6日に廃駆逐艦第11号となり、昭和3年10月12日に廃船認許された。参考:日本駆逐艦史
<響(2代目)>:日本海軍暁型(2代目)駆逐艦2番艦/特型駆逐艦22番艦Hibiki。昭和5年2月21日起工、昭和7年6月16日進水、昭和8年3月31日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時には建制でも兵力部署でも第6駆逐隊に所属していた。昭和17年6月12日、キスカ島付近でアメリカ軍機の爆撃を受け、艦首に爆弾が命中して90度に折れ曲がり中破した。暁が艦尾を曳航して大湊に帰港し、応急修理を施して横須賀海軍工廠に入っている。昭和18年7月7日、キスカ島撤退作戦に参加。9月2日(8月?)、駆逐艦島風の訓練用魚雷が左舷中央部に衝突し、小破孔を生じた。横須賀海軍工廠で修理している。昭和19年8月6日(9月6日?)、台湾琉球嶼灯台の北8海里でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて大破した。台湾で応急修理を受け、横須賀に向かったが、艦内で赤痢が発生したため、横須賀の検疫錨地に隔離処分となっている。昭和20年1月下旬、修理を完工し、沖縄海上特攻作戦に参加することとなった。3月29日、大分県姫島燈台付近で触雷して中破した。呉に回航されて修理を受け、舞鶴を経て新潟に回航され、終戦を迎えた。昭和20年10月5日に除籍され、特別輸送艦として使用された。昭和22年7月5日、ソ連に引き渡された。1970年代に標的艦として処分された。参考:月刊世界の艦船2,'24、9,’14、日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ラバウル航空戦、帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ、日本海軍艦隊総覧
<ひびき型>:海上自衛隊音響測定艦。洋上に長期展開して潜水艦の音紋を収集するのが主任務とされるが、具体的な内容や行動は秘匿されている。2017年11月1日から運用に複数クルー制を採用しており、艦長はクルー長になった。2021年、3番艦就役に伴い、3隻を4クルーで運用する体制とした。参考:月刊世界の艦船4,’20、5,’21、1,’24
<ひびき型(1-2番艦)>:東芝機械不正輸出事件と、1987年8月にアクラ級攻撃原潜がウラジオストクから太平洋へと往復した際に宗谷・津軽・対馬海峡に敷設していた日本のSOSUSが全く探知できなかったのを受け、10月の日米防衛首脳協議で建造が決まり、12月に61中期防の枠外での予算が付いた。長いSURTASSを真っ直ぐ曳航するには単胴船だと動揺が激しすぎるため、荒天でも安定したSWATH船型を採用している。これに必要な3000トン級SWATHを建造できるのは三井造船だけだったので、ここに発注した。潜水艦音紋収集のため、それまでアメリカが門外不出にしていたSURTASSを導入しており、AN/SQR-15監視用曳航アレイソナー6基を搭載して艦尾中央の四角い開口部から繰り出す。SURTASSは長さ2600m(2000m?)で、ソナー本体は長さ800m(1500m説あり)に達し、水深150-500mの音紋を収集、データを陸上の対潜戦(潜水艦作戦?)センターに送って処理分析する。推進は静粛性の高いディーゼル・エレクトリック方式で、バウ・スラスターも装備する。煙突は上構後端両舷に分かれて設置されており、間にヘリ発着管制所を持つ。船体中央から後部にかけての上面は広大なヘリ甲板で、MH-53E掃海ヘリの運用が可能だが、ヘリ格納庫は無い。任務上長期航海が多くなるため、居住性向上に気を遣っており、ヘリ甲板の下には自衛艦として初めて体育室を設置、各種トレーニング器材を用意した。艦載艇は4.9m複合型作業艇で、自衛艦として初搭載である。全長67m、全幅29.9m、深さ15.3m、吃水7.5m、基準排水量2850トン、満載排水量3800トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式(統合電気推進)、三菱S6U-MTPKディーゼル発電機(1320馬力)4基・交流電動機2基、出力3000馬力、2軸推進、速力11ノット、SURTASS曳航時速力3ノット。乗員40名。建造は三井造船玉野事業所。1隻以上を常時活動させておくため、3-5隻の整備を予定したが、冷戦終結・ソ連崩壊でAOS-5201ひびきとAOS-5202はりまの2隻のみ1991-92年に就役した。参考:海上自衛隊全艦艇史、自衛隊装備年鑑1996、月刊世界の艦船11,'17増刊、7,’19、3,’20、1,’04、1,’16、1,’19、5,’91、1,’95、3,’07、5,’02増刊、1,’13、1,’14、1,’18、4,’19、月刊JWings1,’99、月刊軍事研究1,'19、8,’18、朝雲
<ひびき型(3-4番艦)>:21世紀に入って周辺国が潜水艦戦力を強化したため、再整備が決まり、2017年度計画で3番艦、31中期防で4番艦を作る事になった。1-2番艦の老朽化による代替ではなく純増で、かなり年数が開いたため各種改良を施している。上構を煙突後方で延長、その分ヘリ甲板を短縮して幅も狭くし、ラティスマストをやや増高、マストトップに衛星通信アンテナドームを置き、TACANをORN-6Fにしてその下に配置、SURTASSの能力を強化し、統合艦橋操艦装置を装備、司令部区画を追加し、太陽光自動集光・伝送装置(ひまわり)や舷窓を廃止、冷房能力を向上した。SURTASSはアメリカからのFMS調達で、長さ2600m。OPS-26E/E-1対水上レーダーを装備する。全長67m、幅29.9m、吃水7.5m、基準排水量2900トン、満載排水量3850トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、ディーゼル4基+電動モーター2基、出力3000馬力、2軸推進、速力11ノット。乗員40名。3番艦AOS-5203あきは2021年に就役した。参考:月刊世界の艦船4,'20、1,'21、2,'21、5,'21、6,'21、1,'23、朝雲
<ピピステレロ>:SM81(爆撃輸送機)を参照。
<ピピノス>:S-122(潜水艦)を参照。
<日々命令>:命令(日本陸軍)を参照。
<飛豹>:殲轟7型シリーズ(戦闘爆撃機)を参照。
<ピピンてき弾>:No22を参照。
<被服手入具(日本陸軍)>:日本陸軍の被服手入れ用小物具で、官給品である。洗濯用のシュロ刷毛、洋服手入れ用の黒豚毛刷毛、靴用の刷毛、糸巻、綿糸、糸切りばさみ、小刀からなり、麻袋に入れる。綿糸を糸巻に巻く際には上から黒色、白色、茶褐色、緋色の順にする。小刀は折り畳み式の小型ナイフで、蝶番の反対側に缶切りが付いている。洗濯用固形石けんを細かく削るためのものだが、鉛筆削りなど他の用途にも使用された。参考:歴史群像8,’17
<被服点検(自衛隊)>:自衛隊用語で、貸与された被服の管理保管状況を点検すること。貸与被服の状況や個数を予め確認しておき、点検の際に報告する。参考:MAMOR vol.100
<被服点検(日本海軍)>:日本海軍で班長や分隊長が行う官給被服の点検。衣嚢の中のものを順番通りに並べて直立不動の姿勢を取り、点検を受ける。被服の手入れが悪かったり、定数より多かったり少なかったり、私物だらけだったりすると、査定に響き、罰直を喰らった。参考:海軍よもやま物語
<被服点検(海軍兵学校)>:分隊監事と被服係一号生徒が行う。自分のベッドの枕側先端に横向きに毛布を重ね、中央に庇を足の方に向け軍帽を置き、その前に数枚の冒日覆いを重ねる。軍帽の左に白手袋、短剣、剣帯、右にカラー数本、予備の軍帽、陸戦帽、体操帽、遊泳帽、肩章を置く。毛布の前方左にフランネル襦袢上下、木綿襦袢上下、縮襦袢上下、運動服上下、運動シャツ、運動パンツ、棒倒し服、事業服上下、夏・冬用寝間着、水泳帯(六尺褌)、洗濯袋、外筒紐、右に外套、雨衣、第一種軍装、第二種軍装、陸戦服上下、ワイシャツ、釣袴、体操帯、靴下、褌、タオル、ハンカチ、作業用手袋、脚絆、服刷毛、黒白風呂敷を並べる。ベッドの下に短靴、編上靴、運動靴を揃えて置く。定数に足りない場合は理由を申告し、正当ならば新品が支給されるが、不当とみなされると処分が下る。参考:海軍兵学校よもやま物語
<尾部警戒機能>:AN/ALQ-161(ミサイル警報)を参照。
<非武装地帯(ジュネーブ第1追加議定書)>:紛争当事国が合意によって宣言する。ここでは全ての戦闘員、並びに移動兵器及び移動軍用設備を撤去し、固定の軍用施設または営造物を敵対的目的で使用せず、当局または住民による敵対行為をせず、軍事努力に直結した活動を終止する。非武装地帯を支配下におく当事国は、できる限り、他の当事国と合意する徽章でその地帯を表示しなければならない。戦闘が非武装地帯の近くに迫ってきた場合でも、いずれの紛争当事国も軍事行動の遂行に関係する目的でその地帯を利用することはできず、一方的に非武装地帯を取り消すことはできない。紛争当事国の1つが著しい規定違反を行った場合、他の紛争当事国は非武装地帯の協定に基づく義務を免除され、非武装地帯は取り消される。参考:軍縮条約・資料集第2版
<日振>:日本海軍日振級海防艦Hiburi。昭和19年6月27日竣工、呉防備戦隊に編入された。7月1日、第1海上護衛隊に転入し、横須賀-マニラ-ボルネオ方面の輸送船護衛に就いた。8月17日からヒ71船団の護衛に参加。8月22日、マニラの西でSS-257ハーダーの雷撃を受けて沈没した。参考:月刊丸7,’14、第2次大戦日本海軍作戦年誌、輸送船入門
<日振型>:日本海軍海防艦Hiburi型。当初は乙型改と呼ばれていたが、太平洋戦争後期には甲型海防艦に改称されている。輸送船団の損害増大を受けて製作された護衛艦で、戦時量産を考慮して御蔵型をベースに構造の簡略化を進め、特定の造船所で建造させて平均4.4ヶ月で竣工させた。前部マスト中段フラットに二二号電探を装備する。基準排水量940トン。兵装は四五口径十年式十二サンチ連装高角砲A型改三1基(後甲板前部)、四五口径十年式一二サンチ単装高角砲E型改一1門(前甲板)、九六式25mm3連装機銃2基(艦橋両舷)、爆雷投射機2基(後甲板中央タンデム)、爆雷投下軌条2条(艦尾)、大掃海具。後期艦は艦橋前方に九六式25mm単装機銃と三式14口径八サンチ迫撃砲、煙突前方両舷と後部マスト後方に九六式25mm3連装機銃を追加し、後部マスト後面に一三号電探を装備した。日振、大東、昭南、久米、生名、四阪、崎戸、目斗、波太の9隻が昭和19-20年に竣工し、大津と友知が未完成で終戦を迎えた。参考:月刊丸7,’14、月刊世界の艦船3,’07、月刊モデルアート9,’15増刊
<美平>:353(揚陸艦)を参照。
<非偏波>:偏波を参照。
<ヒポ>:LVTP-7シリーズ(水陸両用装甲兵員輸送車)を参照。
<ビホ>:K30(自走対空機関砲)を参照。
<ビホ2>:飛虎2(車載ターレット)を参照。
<被包式プロペラ(乙型)>:プロペラ(日本陸軍)を参照。
<被包式プロペラ(甲型)>:プロペラ(日本陸軍)を参照。
<被帽付き徹甲弾>:APCを参照。
<被保護者情報局(ジュネーブ第4条約)>:ジュネーブ第4条約第5部に規定がある。各紛争当時国の権力内にある被保護者に関する情報の受領伝達と被保護者の個人的有価物収集について責任を負う機関で、紛争開始時及び占領のあらゆる場合に、各紛争当事国が設置しなければならない。各紛争当事国は、2週間を超えて捕らえられ、住居を指定され、または抑留されている全ての被保護者に関する措置に対し、自国の被保護者情報局に対して可能な限り速やかに情報を提供する。また、自国の諸関係機関に対して、被保護者に関する全ての異動(移動、解放、送還、逃走、入院、出生、死亡など)に関する情報を速やかに被保護者情報局に提供するよう措置する。被保護者の本国または被保護者がその領域内に居住していた国に対し、利益保護国と中央被保護者情報局の仲介により、被保護者に関する情報を直ちに通知し、被保護者に関する全ての問い合わせに回答する。また、被保護者に情報を伝達する責務も負う。本人又はその近親者にとって有害である場合は被保護者に情報を伝達しないこともできるが、その場合でも中央被保護者情報局には情報を提供する。被保護者(特に送還・解放・逃走・死亡した者)の全ての個人的有価物の収集について責任を負い、直接または中央被保護者情報局を通じて関係者に送付する。全ての郵信料金、輸入税、税関手数料その他の課徴金は免除され、電報料金の免除または少なくともその著しい減額を受ける。参考:日本赤十字社社史稿第6巻
<美幌海軍航空隊>:日本海軍航空隊。昭和15年10月1日、横須賀鎮守府所属の常設航空隊として北海道美幌町田中地区で新編され、第2連合航空隊の隷下に入った。定数は艦戦12機と陸攻48機である。10月17日、開隊式を実施。しかし要員も揃わず美幌基地の工事が済んでおらず、兵員の大半は11月15日に解隊された第13航空隊から異動してきた。寒冷地で訓練に支障も出たため、昭和16年1月に木更津基地に移動している。昭和16年1月15日、第22航空戦隊の隷下に入った。3月1日、鹿屋から台中への移動を命じられ、保有機に定員外の整備員や器材などを詰め込んで台中へと向かったが、沖縄から台湾まで雲に覆われており、第1中隊第1小隊1番機(指揮官機)が新竹州揚梅に墜落して航空隊司令、飛行長、分隊長ら14名が死亡した。4月10日、中国への進出を命じられ、九六式陸攻33機で上海戊基地に進出。4月11日、F1作戦支援の廣信爆撃を実施。4月15日、余江、貴渓、弋陽、廣豊街縣を爆撃した。4月17日、海門と石浦の沿岸砲台を九六式陸攻(250kg爆弾2発+60kg爆弾6発搭載)27機で爆撃し、第1・第2中隊が海門、第3中隊が石浦に投弾して砲台を破壊した。4月18日、九六式陸攻18機で玉山飛行場の薄暮爆撃を実施。第1中隊が玉山市街、第2中隊が玉山市街と飛行場を爆撃した。4月20日、九六式陸攻常用27機+補用6機で元山航空隊と共に漢口基地に進出し、四川省の爆撃及び地上直協、基地の哨戒任務に就いた。4月23日、元山航空隊と共に、常徳、長沙、益陽の軍事施設を爆撃。4月29日、元山航空隊と共に、恩施と冷水灘の軍事施設を爆撃。5月3日、元山航空隊、第12航空隊と共に、九六式陸攻26機で重慶を爆撃。5月9日、九六式陸攻(250kg爆弾2発+60kg爆弾4発)27機で重慶北西部の軍事施設を爆撃。エンジン不調で引き返した1機が高射砲弾を左エンジンに被弾し(弾丸は不発)、宜昌飛行場に胴体着陸して大破した。5月10日、重慶を爆撃。5月16日、重慶を爆撃。5月21日から六〇一号作戦に参加。6月28日、九六式陸攻(250kg陸用爆弾1発+70kg焼夷弾2発+60kg陸用爆弾6発)3個中隊26機で第12次重慶爆撃に出撃したが、天候不良で萬縣に投弾した。6月30日、九六式陸攻(250kg爆弾1発+70kg6号陸用爆弾2発+60kg陸用爆弾6発)24機で第14次重慶爆撃に参加。対空砲火で1機が損傷した。7月6日、3個中隊で重慶夜間爆撃に参加。7月8日、第20次重慶爆撃に参加。7月10日、第21次重慶爆撃に参加。7月14-17日、隊員に青島市街での休暇が与えられた。7月18日、九六式陸攻27機で第22次重慶爆撃に参加。その後漢口から孝感に移動して7月27日から百二号作戦に参加。9月1日、孝感を離陸して大村基地に帰投。9月2日、館山基地に帰還し、一時休暇が許可され、器材整備や訓練に入り、4個中隊編成に改編された。10月9日、台湾の台中基地に移動し、引き続き訓練を行った。11月3日、海南島三亜に進出。11月21日、インドシナのサイゴンに移動。11月25日、ツドウム飛行場に展開。12月に入ると周辺の哨戒飛行を開始。12月7日昼過ぎ、兵員に開戦日が通達された。1900、天候偵察機1機が離陸。2225、天候偵察機1機が離陸。12月8日の太平洋戦争開戦時は建制では第22航空戦隊2番隊、兵力部署では第22航空戦隊第2攻撃隊で、定数は九六式陸攻36機。隷下中隊は第22航空戦隊元山航空隊の第1-第4に続いて第5-第8中隊と番号が振られていた。0015、九六式陸攻32機に60kg爆弾12発を積んでツドウムを出撃。天候偵察機と先行する元山航空隊からの情報に基づき雲を避けて飛び、0530にシンガポール北方10海里に到達した。元山航空隊は悪天候で引き返したため、爆撃目標を変更して第5中隊がセレター飛行場、第6中隊がイギリス空軍司令部、第7中隊が商港付近、第8中隊がテンガー飛行場に向かい、全機爆弾を投下して1030に帰還している。1機が高角砲弾片を燃料タンクに喰らったが、空だったので孔が空いただけで済んだ。12月10日、九六式陸攻36機でマレー沖海戦に参加。その後はマレー半島東岸やボルネオ島北部・西部の航空基地に対する爆撃任務にあたっている。12月22日、シンガポール攻略に備えボルネオ島ミリに前進したが、飛行場が狭く1個中隊しか展開できず、残りはサイゴンからの出撃を続けた。昭和17年1月16日、マレー半島コタバルの257基地に進出することになった。1月21日、第4次シンガポール昼間爆撃に九六式陸攻(60kg陸用爆弾12発搭載)25機で参加。0945にコタバルを出撃、1150に元山航空隊と会同し、第22航空戦隊司令部付戦闘機隊の護衛の下、1236からシンガポール市街とテンガ飛行場を爆撃した。第3中隊第1小隊2番機がハリケーン戦闘機の迎撃で撃墜され、24機で1525にコタバルに帰投している。2月3日、先発隊がコタバル南方360kmのクァンタンに進出。しかし滑走路の先に樹木があって爆装陸攻の離陸時に引っかかるという問題が見つかり、本隊の展開は伐採作業が終わった後の2月6日になった。2月15日、ガスパール海峡の戦いに参加。3月23日、北スマトラのサバンに進出し、ビルマ攻略作戦支援のためアンダマン海の哨戒を開始した。4月10日に第22航空戦隊の担当地域が本土東方方面になったため、内地に帰還して哨戒任務に就いた。9月半ばから一式陸攻の操縦訓練を開始したが、機材が少なく機種改変に至らないまま10月23日に九六式陸攻二三型37機で木更津を発ち、テニアンに進出した。11月1日、第701航空隊に改編された。参考:月刊航空ファン3,’18、6,’18、8,’18、11,’18、5,’19、7,’19、9,’19、第5旅団ホームページ、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ
<美幌基地>:日本海軍の航空基地。1200m滑走路2本を持つ。昭和13年4月から建設された。昭和15年10月1日に美幌海軍航空隊が開設され、10月17日に開隊式が挙行されたが、まだ施設工事が終わっていなかった。参考:月刊航空ファン3,’18
<美幌訓練場>:陸上自衛隊の演習場。面積227万平方メートル。在日米軍の地位協定に基づく日米共同施設区域である。参考:月刊軍事研究4,’10
<美幌駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は北海道網走郡美幌町宇田中国有地。JR美幌駅からタクシーで15分。元は1940年(昭和15年)10月に開設された美幌海軍航空隊の美幌基地で、本部隊舎は美幌海軍航空隊時代から使用していた戦艦の舳先を模した建物を使っている。1951年3月に警察予備隊の部隊が移駐、4月8日に駐屯地として開設され、第62連隊、第2施設大隊、第2偵察中隊が配置された。1952年、警察予備隊が保安隊に改編され、第6連隊が創設された。1954年6月、第62連隊第3大隊が第2特科連隊第3大隊、第6連隊が第6普通科連隊に改称された。9月、第2特科連隊第3大隊が第5管区の隷下に移って第5特科連隊第3大隊に改称され、第6普通科連隊も第5管区の隷下に移った。1958年12月、第306地区施設隊が移駐。1962年7月、第105特科大隊が東千歳駐屯地から移駐。1969年、第105特科大隊が北千歳駐屯地に移駐した。3月、第101特科大隊が滝川駐屯地から移駐した。1988年、第306地区施設隊が廃止された。2004年、第5特科連隊第3大隊が廃止された。2014年2月16日、旭川地方協力本部が即応予備自衛官訓練見学会を実施。即応予備自衛官雇用企業主らが第52普通科連隊第1中隊の防御訓練を見学し、部隊幹部と懇談した。4月20日、地元隊友会、父兄会、地方協力本部と、隊友会及び自衛隊父兄会による自衛隊の各種行動時(武力攻撃事態を除く)における派遣隊員の留守家族支援に関する協定を締結。2020年3月19日、駐屯地曹友会新旧会長が美幌町社会福祉協議会を訪問し、エコキャップ164kg、リングプル8kg、古切手0.5kgを寄贈した。4月13-30日、駐屯地火災対処訓練を実施。火災発生時の避難誘導、消火資材搬出、美幌訓練場で野火が発生したとの想定での火災呼集、消防ポンプ班による消火訓練などを行った。2021年3月18日、駐屯地曹友会が美幌町社会福祉協議会にペットボトルキャップ128kg、リングプル8kg、古切手65gを寄贈した。4月12-30日、春季火災予防強化期間に合わせて火災対処訓練を実施。4月17日、駐屯地曹友会と修親会が美幌神社でボランティア清掃活動を実施。7月3日、駐屯地曹友会と修親会がよこやま果樹園で合同事業の味覚狩り(イチゴ・サクランボ狩り)を実施。2022年4月16日、駐屯地曹友会130名が美幌神社でボランティア清掃活動を実施。5月23日、美幌地方自衛隊協力会から寄贈された創立70周年記念碑の除幕式(新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年遅れた)を実施。2023年2-3月、雪中廊下(長さ250m、屋根付き)を北海道大空高校陸上部に練習場として提供した。3月16日、第6普通科連隊が第6即応機動連隊に改編された。4月13日、厚生センターに委託売店食堂部(飲酒提供)である燻製とお酒の店カオスが開店した。7月15日、駐屯地創立72周年記念で美幌町内市中パレードを実施し、16式機動戦闘車や96式装輪装甲車など車両50両で町道1号線を行進した。8月5日・19日・9月9日、駐屯地曹友会が隊員家族にニンジン・タマネギ・ジャガイモ収穫体験を実施。9月16日、駐屯地曹友会が隊員家族にサヤインゲン収穫体験を実施。10月18日、空自第28警戒隊長や隊区内各自治体防災担当者を駐屯地に招き、災害対策研修会を実施。駐屯地司令と部外講師による講話、第5後方支援隊の支援による浄水セット・野外入浴セット・野外炊事の展示説明、第6即応機動連隊本部管理中隊の本管カレー試食体験を行った。参考:第5旅団ホームページ、JGround Vol.23、朝雲、滝川駐屯地ホームページ
<美幌駐屯地(2015年)>:第5旅団第6普通科連隊、北部方面混成団第52普通科連隊第1中隊、第5旅団第5後方支援隊第2整備中隊第2普通科直接支援小隊、第1特科群第101特科大隊、北部方面後方支援隊第101特科直接支援大隊第1直接支援中隊第1直接支援小隊、北部方面通信群第302基地通信中隊美幌派遣隊、第121地区警務隊美幌派遣隊、北部情報保全隊美幌情報保全派遣隊、第375会計隊、美幌駐屯地業務隊、帯広地方協力本部道東地域掩護センター美幌分室が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、第5旅団ホームページ
<美幌駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2013年12月9日、特定健康診査受診率省内4位の実績により陸幕長から2級賞状が授与された。2015年12月7日、委託売店売り上げ向上と服務指導の功績で陸幕長から2級賞状と副賞を授与された。2018年1月17日、自隊能力を活用した雪中での廊下改善などの功績で、陸幕長から2級賞状が授与された。2021年3月18日、定年退職が近い隊員13名に令和2年度第2回生涯生活設計セミナーを実施。12月9日、空自網走分屯基地で女性隊員同士の交流会に参加。2022年4月21日、美幌駐屯地でモスバーガー網走店即売会を実施。6月20日、空自網走分屯基地の女性隊員7名を招いて女性隊員同士の交流会を実施。7月15日、厚生業務で優れた功績を挙げたとして、吉田陸幕長から2級賞状と副賞の盾を授与された。11月17日、女性自衛官と部外で働く女性従業員との懇談会を実施。2023年4月4日、北部方面隊初の食品自販機を美幌駐屯地に設置した。8月22日、厚生センターで緊急登庁支援訓練を実施。隊員の子供の面倒を見る施設を開設して受け入れ態勢を整え、緊急登庁支援施策に事前登録している隊員の子供2人を実際に預け入れて対応を確認した。11月20日、第2回美幌駐屯地女性自衛官座談会を実施。参考:朝雲
<ビマ・スチ>:インドネシア海軍帆走練習艦Bima Suci(神聖なるビマ。ビマはマハーバーラターに登場する誠意と勇気の海神デワルチの仮の姿)。デワルチの後継で、スペインのフレイア造船所が建造した。居住区などはスペインのオリバー・デザイン社が設計しており、士官公室やVIP接遇用サロンは高級クラブのような木張りの豪華な内装を誇る。3檣バークで、帆は26枚、総面積3352平方メートル。艦橋は2層で、下層が実習用である。上部艦橋直前にシングル式の大型舵輪があり、艦橋操舵席コンソールにも小型の舵輪を持つ。艦橋内のコンソールは大型モニターが並ぶデジタル式である。全長111.2m、幅13.7m、吃水6m、満載排水量2346トン。補助機関としてディーゼルエンジンを搭載する。速力15ノット(帆走)/12ノット(機走)。乗員80名+乗艦士官候補生120名。2017年9月18日竣工・就役。2018年10月5-8日、海自佐世保基地に寄港。10月11日、韓国海軍国際観艦式に参加。2019年8月23日、阪神基地に寄港。8月23-25日、一般公開された。インドネシア海軍士官学校マーチングバンドが大阪城公園教育塔前で演奏を行っている。8月26日、阪神基地を出港し、釜山に向かった。2024年8月1日、遠洋練習航海のため乗員98名、訓練幕僚・教官21名、士官候補生189名を乗せスラバヤを出港。9月20-24日、ウラジオストクに寄港。10月1日、横須賀に入港。10月5日、関東南方で日インドネシア親善訓練に参加。DD-101むらさめと戦術運動訓練及びPHOTOEXを行った。参考:月刊世界の艦船11,’19、4,’18、12,’18、1,’19、12,'24、月刊JWings11,’19
<ヒマラヤス>:L402(ECM)を参照。
<ひマリン>:帯広地方協力本部のゆるキャラ海自版。2016年1月1日、イオン帯広店でとかち☆ゆるキャラonステージに参加。2月6-7日、第53回おびひろ氷まつりに参加。7月17日、根室港で第4回ねむろまるごとバザールに参加。2018年1月7日、平成30年中標津町成人式で募集広報に参加。2023年9月2-3日、十勝港で行われたAGB-5003しらせ一般公開で広報を実施。参考:朝雲
<ひまわり>:LSSL-423(警備艇)を参照。
<ビミエラ>:D23(護衛駆逐艦)を参照。
<秘密活動>:秘密工作を参照。
<秘密工作>:アメリカでは秘密活動(Covert action)、イギリスでは破壊活動(Disruptive action)と呼ばれる。政府(多くの場合、諜報活動を行う情報機関)が秘密裏に介入して他国に内政干渉し、他国の政治情勢を自国利益にかなうものとする工作のこと。おおっぴらになれば国連憲章違反である。政治団体への資金提供やプロパガンダから、ゲリラ戦や転覆破壊工作といった準軍事作戦PA(Paramilitary Activity)まで、多様な活動が含まれるが、諜報・防諜活動は除かれる。他国で活動を行うエージェントやアセットの存在が必須だが、表に出て政治的な活動を行わなければならないので、以降は隠密のスパイ活動に使うことができなくなる。参考:月刊軍事研究8,’11
<秘密軍事情報の保護のための秘密保持の措置に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定>:日本とアメリカが締結した軍事情報包括保護協定で、防衛関連情報を対象としている。参考:月刊丸2,’12
<秘密文書等管理業務支援器材>:自衛隊の機器。日本信号製。参考:月刊軍事研究6,’15
<秘密保全>:Classifications。保全の1つで、関係者以外に漏洩させたくない情報や情報資料などを保護すること。重要度に応じてランク付けを行い、それぞれ管理要領を定める。日本では明治時代に機密、極秘、秘、部外秘の4つに分け、戦後も引き継いだが、1960年に部外秘を取扱注意に変更して場合によっては他官庁や他業界関係者への周知を可能とし、宮永事件を受けて1978年に取扱注意を注意と部内限りの2つに分けた。米英では機密(Top Secret
/ Most Secret)、極秘(Secret)、秘(Confidential)に分けている。中国では絶密、機密、秘密の3段階、ロシアでは機密と秘の2段階である。参考:月刊軍事研究7,’97
<ヒムギリ>:F32(フリゲート)を参照。
<ヒムギリ級>:リアンダー級フリゲート(インド海軍)を参照。
<ヒムラー>:ハインリッヒ・ヒムラー。1900年10月7日、バイエルンのランツフート生まれ。1917年夏、ドイツ海軍に入隊しようとしたが視力が悪く不採用となり、年末に陸軍バイエルン第11歩兵連隊に入隊した。1918年6月、士官候補生となった。11月、バイエルン第11歩兵連隊第4中隊に入ったが、実戦前に第1次大戦が終結し除隊され、バイエルン自由軍団に入った。1919年10月、ミュンヘン大学農学部に入学。1920年5月、ミュンヘンの自衛軍に入隊。1922年1月、自衛軍補給担当将校だったレーム大尉(後のSA指揮官)の演説に感化され、1923年11月にミュンヘン一揆に参加。失敗後は国家社会主義自由運動に参加し、ナチスの票獲得のためドイツ中を遊説、1924年の選挙で議員32人を議会に送り込むことに成功した。1925年8月、ナチスの党員(党員番号168)となった。同年後半、バイエルン大管区指導者代理に任命された。1929年1月6日、SS国家長官となった。1933年1月30日に選挙でナチスが大勝すると、ミュンヘン警視総監に任命された。1944年12月、オーベルライン軍集団司令官となった。1945年1月25日、ヴァイクセル軍集団司令官となった。3月20日、ヴァイクセル軍集団司令官を解任された。5月10日、眼帯を付けてハインリッヒ・ヒッツィンガーという別人になりすまし、フレンズブルグから護衛14名と共に脱出。5月12日、エルベ川を渡った。5月18日、ブレマーフェルデまで逃げた。5月22日、イギリス軍の検問所で逮捕され、リューネブルグの拘留キャンプに移送された。5月23日、拘留所長トム・セルベスター大尉の尋問を受けて正体がばれ、歯の間に隠していた青酸カリのカプセルを飲んで自殺した。5月24日にアメリカとソ連も死亡を確認し、5月27日にルーネブルグの森の中(正確な場所は不明)に埋められた。参考:武装親衛隊
<ビムリピタン>:M2705(掃海艇)を参照。
<ビムリピタン級>:インド海軍内水掃海艇Bimlipitan級。基準排水量120トン。速力14ノット。兵装は20mm単装機関砲1門。M2705ビムリピタン、M2707バッセイン、M88バクタル、M89ブルサルの4隻が1954-70年に竣工した。参考:月刊世界の艦船6,’83
<姫路海軍航空隊>:日本海軍航空隊。昭和18年10月1日、姫路飛行場で開隊された。昭和19年末、第1期飛行専修予備生徒が着隊。昭和20年2月、教官、教員、予備生徒、予科練などで神風特攻護皇白鷺隊を編成。4月から沖縄戦に5回出撃し、全機を喪失した。参考:月刊航空ファン2,’19
<姫路市平和資料館>:姫路空襲など、戦時中の姫路市の資料を伝える平和資料館で、手柄中央公園にある。所在地は兵庫県姫路市西延末475。開館時間は0930-1700(最終入館1630)。休館日は12月28日から1月5日、月曜日、祝日の翌日。入館料は一般200円。参考:MAMOR vol.58
<姫路駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。史料館には日本軍制服や陸自制服など史料600点が展示されている。所在地は兵庫県姫路市峰南町1-70。JR姫路駅からバス。JR野里駅から徒歩10分。1951年3月28日、警察予備隊の駐屯地として開設された。4月30日、第63連隊が新編された。1953年9月、姫路駐屯地業務隊が新編された。1954年7月1日、第63連隊が第3特科連隊に改編された。9月、第6特科連隊第2大隊が新編された。10月、第6特科連隊第2大隊が秋田駐屯地に移駐した。1965年、第3特科連隊第5大隊が今津駐屯地に移駐した。1976年、姫路城クリーン作戦を開始。1992年3月27日、第3師団第3特科連隊第6大隊が第3高射特科大隊に改編された。2006年3月27日、第3特科連隊が第3特科隊に改編され、第3後方支援連隊第2整備大隊特科直接支援隊と同高射特科直接支援隊が新編された。2009年12月18日、第34回姫路城クリーン作戦を実施。レンジャー隊員20名を含む隊員500名、トラックなど車両73両、第4施設団第305施設隊から借りてきた渡河ボート15隻を投入し、0800に駐屯地でクリーン隊の編成を完結、現地に向かい清掃を開始した。城壁はロープで体を支えたレンジャー隊員が担当し、渡河ボートに乗った隊員は堀の雑草除去などを行い、2トントラック10台分の雑草やゴミを回収して1500に作業を終了した。2012年3月9-13日、第3特科隊が担任して第4次予備自衛官招集訓練を実施。9月9日、駐屯地司令杯少年少女剣道大会を実施。2013年1月10日、新成人隊員40名の成人式を実施。2014年4月21日、兵庫県自衛隊父兄会副会長と姫路駐屯地業務隊長が初の家族支援会同を実施。12月17日、姫路市が主催した世界文化遺産国宝姫路城クリーン作戦に協力し、ラペリングによる石垣の雑木伐採や、堀の掃除を行った。2016年7月27-29日、兵庫地本姫路地域事務所による高校生6人の職業体験を支援した。2017年1月9日、駐屯地太鼓隊が兵庫県立芸術文化センターで平成28年度中部方面隊音楽まつりに参加。4月18日、姫路市ご当地アイドルKRD8の体験入隊を支援した。5月13日、第68回姫路お城まつりに協力し、FH70、偵察用オートバイ、トラックなどを展示した。5月27日、兵庫県出身陸海空自衛官殉職隊員70柱の追悼式を実施。12月20日、姫路城クリーン作戦を実施。駐屯地司令以下500名が参加し、レンジャー隊員15名は大天守や西小天守のすす払い、第3施設隊などの隊員は二の丸石垣などの草むしり、水上班は内堀のゴミ回収などを行った。2018年2月11日、世界遺産姫路城マラソンを22名で支援し、10名がランナーとして参加した。4月7日、観桜会を実施。5月27日、殉職自衛官70柱の追悼式を実施。12月21日、隊員500名が第43回姫路城クリーン作戦に協力。2019年2月18-22日、神戸女子大管理栄養士課程学生4人に栄養実習を実施。4月7日、自衛官候補生84名の入隊式を実施。12月18日、隊員500名が第44回姫路城クリーン作戦に協力した。2020年4月6日、自衛官候補生課程入隊式を実施。2021年12月21日、姫路城クリーン作戦を実施。隊員1名のラペリング用ロープが外れてしまい、10m転落して脚を骨折する重傷を負った。2022年3月24-25日、兵庫地本が、2024年度末までの定年退職予定者と2023年9月までの任期制退職予定者を対象に、就職準備支援セミナーを実施。9月18-19日、イオンモール神戸北店で兵庫地本北神戸募集案内所が行ったLIFE HACK体験会&MUSICフェスティバルに姫路駐屯地白鷺太鼓が協力し、音楽演奏を行った。2023年2月16-17日、兵庫地本が定年退職予定者11名と任期制隊員17名に就職準備支援セミナーを実施。2024年3月27日、第3師団第3特科隊が廃止され、中部方面特科連隊が新編された。参考:姫路駐屯地ホームページ、JGround Vol.23、MAMOR vol.91、月刊JWings3,'22、6,'24、朝雲、今津駐屯地ホームページ、郡山駐屯地ホームページ
<姫路駐屯地(2015年)>:第3師団第3特科隊、第3高射特科大隊、第3後方支援連隊第2整備大隊特科直接支援隊、同高射特科直接支援隊、中部方面会計隊第347会計隊(3月26日から第352会計隊姫路派遣隊)、第318基地通信中隊姫路派遣隊、姫路駐屯地業務隊が駐屯している。参考:姫路駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<姫路駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。1953年9月、姫路駐屯地で新編された。参考:姫路駐屯地ホームページ
<姫路飛行場>:日本海軍飛行場。地元住民は地名から鶉野飛行場と呼んでいた。滑走路はコンクリート製で、長さ1200m、幅60m。昭和18年10月1日、姫路海軍航空隊実用機練習航空隊が新編された。昭和20年5月5日、姫路海軍航空基地に改称された。姫路海軍航空隊実用機練習航空隊は姫路海軍航空隊に改称され、筑波海軍航空隊戦闘403飛行隊や第3岡崎海軍航空隊も配備されている。8月15日の終戦時、紫電57機、紫電改13機、その他10機が残存していた。終戦後は滑走路だけ財務省の管轄となり、青野原駐屯地が管理している。滑走路跡地脇に鶉野飛行場資料館がある。本部庁舎側の松林に作られたコンクリート製地下壕が神戸大学農学部の敷地内にあり(立ち入り禁止)、他にも航空隊の壕や機銃座5箇所のうち4箇所が残されている。参考:月刊丸8,'15増刊、鶉野飛行場資料館ホームページ、月刊航空ファン2,’19
<ひめしま>:MSC-665(掃海艇)またはMSI-682(掃海艇)を参照。
<ひめゆり>:LSSL-443(警備艇)を参照。
<ビヤ型測量艦>:ロシア海軍測量艦。満載排水量778トン。GS-200などが就役した。参考:月刊世界の艦船9,’12
<ピヤヴカ型>:ロシア国境警備隊哨戒艇Piyavka級。兵装はAK630CIWS1基。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<百色>:585(コルベット)を参照。
<百里管制隊>:航空自衛隊の管制隊。航空保安管制群の隷下で、百里基地に置かれている。参考:月刊JWings4,’16、8,’14
<百里気象隊>:航空自衛隊の気象隊。百里基地に置かれている。2015年11月30日から12月9日、航空気象群主催の平成27年度気象技術競技会に参加し、総合優勝を果たした。2017年10月10日から、10月29日の航空観閲式に備えて茨城県阿字ヶ浦、霞ヶ浦、友部に前進観測点を設置。毎日0200に百里基地を出発し、0400から携帯気象観測装置での観測を行った。参考:月刊JWings8,’14、朝雲
<百里基地>:航空自衛隊の航空基地。3年に1度開催される航空観閲式の会場である。所在地は茨城県小美玉市百里170。敷地面積426500平方メートルで、滑走路は2700×45m・ランウェイ03R/21Lと、2010年に完成した2700×45m・ランウェイ03L/21R。首都圏に近い(東京の北東80km)戦闘機基地ながら交通の便が凄まじく悪く、基地祭では大渋滞が発生する。2004年にサンダーバーズが来た時には、JR常磐線石岡駅発のシャトルバスが基地に到着するのに8時間かかった。2010年に茨城空港が開港して民間との共用空港になり、東京駅からシャトルバスが出るようになって改善されたようである。ゲートガードはRF-4E偵察機などで、正門すぐの雄飛園にはF-1戦闘機、F-4EJ戦闘機、F-104J戦闘機、F-86F戦闘機、F-86D戦闘機、RF-4E偵察機、T-2練習機、T-33練習機が展示されていて、正門で受付をすれば見学できる。訓練空域は茨城県日立沖から阿武隈川河口までの太平洋上である。1938年(昭和13年)、日本海軍が百里原飛行場として設立し、百里原分遣隊を置いた。1945年、太平洋戦争終戦で基地は閉鎖され、1946年に農地として払い下げられた。1950年代に地域経済発展のため基地を再興しようという議論が起こり、周辺自治体を二分する議論に発展、1956年に防衛庁が航空自衛隊基地として建設計画を発表。1958年12月25日に百里分屯基地として開設され建設を開始、1966年7月20日(25日?)に百里基地に改称されて正式に発足し、第7航空団が入間からの移駐を開始した。ただ反対派住民の未買収地が残ったため、当初は誘導路が無く、後に設置されたものの、くの字に折れ曲がった状態となり、「くの一」というニックネームを付けられてている。1967年、第7航空団の所在基地として制定され、第7航空団が入間基地からの移駐を完了した。1971年、百里救難隊が新編された。1972年8月1日、臨時F-4飛行隊が編成された。11月、第207飛行隊が那覇基地に移った。1973年10月16日、臨時F-4飛行隊が第301飛行隊に改編された。1974年10月、RF-4E偵察機の配備部隊として百里先遣隊が新編され、12月4日から機体が配備された。1975年10月1日、偵察航空隊と第501飛行隊が入間基地から移駐した。百里先遣隊が解隊された。1978年12月、第206飛行隊が解隊され、第7航空団隷下に第305飛行隊が新編された。1981年、百里ターミナル管制所の落成式を実施。1982年10月28日、F-4EJ戦闘機1機が夜間訓練中に海に墜落し、2名が死亡した。12月10日、格納庫でF-4EJ戦闘機の整備作業中に誤操作で射出座席が作動してしまい、1名が天井に叩き付けられて死亡した。1985年2月26日、第301飛行隊が新田原基地に移った。3月20日、第204飛行隊が再編された。1987年、中部航空施設隊第3作業隊が新編された。1998年、新型ラプコンの運用を開始。2003年3月27日、移動管制隊が新編された。2007年11月5-21日、F-15戦闘機及びF-2戦闘機の飛行停止で中部防衛区域の戦闘機が全て飛べなくなったため、第302飛行隊F-4EJ改戦闘機8機が展開してアラートに就いた。2009年1月19日、第204飛行隊が那覇基地に移った。3月26日、第302飛行隊が那覇基地から移駐した。単座のF-15J飛行隊から複座のF-4EJ改飛行隊に改編されて飛行班の人数が2倍になったため、施設に収容しきれず、壁を新設して部屋を増やしたり、物品のサイズを小さくしたりと工夫したものの、改編完了後も机や椅子が足りないままだった。12月、中部航空方面隊らっぱ競技会が実施され、第6航空団が団体戦と個人戦の両方を制した。
2010年1月29日から2月5日、米軍再編に係る航空機の移転訓練を実施。第7航空団F-15戦闘機4機、F-4EJ改戦闘機4機、中部航空警戒管制団、在日米軍第18航空団F-15戦闘機6機が参加し、百里沖空域で戦闘機戦闘訓練などを行った。また、地域住民との交流会も開かれ、幼稚園への親善訪問、子供との餅つき大会、スポーツ交流などが実施された。3月11日、茨城空港が開港し、官民共用空港となった。滑走路は並行2本(どちらも2700×45m)となり、ランウェイ21R-03Lが民間用、03R-21Lが自衛隊用である。管制は全て百里基地が行う。2011年3月11日、東日本大震災で水銀灯が落下した。3月28日、基地警備教導隊が新編された。10月16日、平成23年度航空観閲式が実施された。11月7日、電子飛行測定隊YS-11EB電子測定機を相手役にして強制着陸訓練を実施。F-4EJ改戦闘機が強制着陸させて武装した隊員が軽装甲機動車で駆け付け、乗員を確保した。2012年2月13-24日、米軍再編に係る航空機の移転訓練を実施。アメリカ第12海兵航空群F/A-18戦闘攻撃機6機とAV-8B攻撃機1機が、空自F-4戦闘機6機、F-15戦闘機6機、RF-4偵察機2機と、戦闘機戦闘訓練などを行った。2014年3月16日、地元協力者120人を招待し、入間ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリによる体験搭乗を実施。8月1日、基地警備教導隊が航空総隊から航空戦術教導団の隷下に移った。8月3日、日本集団災害医学会認定訓練MCLS(多数傷病者への医療対応)標準コースが行われ、参加隊員20名全員が合格した。2016年5月19日、平成28年度都県募集等連絡会議が開催された。6月12日、創設50周年記念式典を実施。8月31日、第305飛行隊が新田原基地に移った。10月31日、第301飛行隊が新田原基地から移駐した。2017年5月31日、タイ空軍A320-214CJ要人輸送機がタイ空軍司令官を乗せて飛来。6月4日、タイ空軍A320-214CJ要人輸送機が離陸した。7月7-21日、米軍再編に係る岩国飛行場から百里基地への訓練移転(共同訓練)を実施。第7航空団第301・第302飛行隊F-4EJ改戦闘機4機、中部航空警戒管制団、第12海兵航空群VMFA-232所属F/A-18C(N)戦闘機5機(途中で1機が交替したので延べ6機)、人員140名が参加し、百里沖で戦闘機戦闘訓練などを行った。10月18日1147頃、飛行訓練に向かうためタキシング中の第302飛行隊F-4EJ改戦闘機の左主脚が折れ、路面と擦れた増槽から出火して炎上した。乗員2名は無事で、火災は20分後に基地消防隊が消火し、民間航空機にも影響は出ていない。11月11日、防衛部や管理隊警備小隊警備犬キュー号・パセリ号が江戸崎総合運動公園などで茨城県・稲敷市総合防災訓練に参加。大雨による避難勧告発令直後の避難完了前に茨城県南部を震源とする大地震が発生したという想定で、警備犬は家屋倒壊現場から生存者を発見し、救出に成功した。2018年3月12日、PAC-3機動展開訓練で第1高射群第2高射隊が展開した。4月6-12日、米軍再編に係る岩国飛行場から百里基地への訓練移転(共同訓練)を実施。第7航空団F-4EJ改戦闘機4機、中部航空警戒管制団、VFA-195所属F/A-18E戦闘機5機が参加し、百里沖で戦闘機戦闘訓練などを行った。2019年3月13日、フィリピン空軍司令官ブリゲス中将が訪問した。3月末、第302飛行隊が解隊された。9月13日、防衛監察本部がコンプライアンス講習会を開催。
2020年1月7日、偵察航空隊RF-4E偵察機や第301飛行隊F-4EJ改戦闘機なとが参加して飛行始めを実施。3月26日、第3飛行隊が三沢基地から移駐し、偵察航空隊が解隊された。8月29日、休日基地見学会の中空オープンベースの日を開催。9月30日、新型コロナウイルス感染症で延期されていた基地モニター10人の委嘱式を司令部庁舎2階特別会議室で実施。11月20日、第301飛行隊壮行会が行われた。12月10日、第301飛行隊がF-4EJ改戦闘機のラストフライトを実施。12月14日、第7航空団が第301飛行隊の移動に伴う部隊改編行事を実施。12月15日、第301飛行隊が三沢基地に移動した。2021年1月4日、だるま目入れ式を実施。1月5日、飛行初めを実施。1月19-21日、援護室が能力開発設計集合訓練を実施。8月21日、高校生らを対象に中空オープンベースを開催。9月8日、第301飛行隊F-35A戦闘機2機(F-35AX-9/-19)と第302飛行隊F-35A戦闘機2機(F-35AX-14/-20)が飛来。9月9日午前にR08クイーン・エリザベス空母打撃群などとの共同訓練パシフィック・クラウン21-4に参加し、午後に三沢基地に戻った。12月7日、VMFA-112所属F/A-18A戦闘機2機とF/A-18C戦闘機6機が到着。12月11日、開庁55周年記念式典を実施。12月13-17日、VMFA-112との日米共同訓練(訓練移転タイプⅡ)を実施。2022年5月17日、インド空軍チョウダリ参謀長がF-2戦闘機に体験搭乗し、部隊研修を行った。7月16日、基地業務群管理隊警備小隊警備犬ゴゴ号とハンドラー吉沢3等空曹及びアズキ号と須賀空士長が、長野県RDTA八ヶ岳国際救助犬育成センターで実施された国際救助試験に合格した。7月27-28日と8月5日、群馬地本が群馬県内の高校教諭ら111人に取材研修を実施。8月8日、茨城地本がボーイスカウト茨城県連盟26人に基地見学会を実施。11月10-18日、米軍再編に係る移転訓練が実施され、三沢基地から第35戦闘航空団F-16C/D戦闘機12機が展開し、第3飛行隊F-2A/B戦闘機と共同訓練を行った。11月24日、モンゴル空軍司令官トゥルー空軍大佐が視察した。2023年2月8日、基地モニターと防衛モニター計11人に部隊研修を実施。霞ヶ浦分屯基地、霞ヶ浦駐屯地、土浦駐屯地で、装備品見学、広報施設見学、体験喫食を行った。2月16日、栃木県自衛官募集相談員連絡会小山支部が基地研修を行った。3月4日、府中基地で航空自衛隊と机上演習を行うカナダ軍第7宇宙作戦隊の人員を乗せたカナダ空軍CC-150輸送機1機が飛来。4月24-25日、茨城県警察本部交通機動隊を招いて四輪車の安全運転実技講習を実施。4月27日、トリムマラソンを実施し、チーム対抗の部で基地業務群施設隊チームが優勝した。8月23日、上三川町自衛隊家族会が基地を研修した。9月11日、宇都宮北自衛隊家族会が基地を研修した。10月2日、茨城空港で行われた百里飛行場利用者利便向上競技会主催の空の日イベントに参加し、エプロンにF-2戦闘機とUH-60J救難ヘリを展示した。10月6日、イギリス空軍参謀長ナイトン大将が基地を視察した。10月22日、小美玉市空港利用促進協議会主催の夜空コンにボランティアスタッフとして参加した。2024年1月31日、二十歳を祝う会を実施。
参考:月刊JWings3,’17、5,’05、4,’10、6,’10別冊付録、12,’10、4,’11、3,’12、10,’14、9,’16、5,’18、6,’19、6,’20、3,’21、11,'21、12,’21、2,'22、3,’22、8,'22、2,'23、5,'23、4,'24、月刊軍事研究9,’11、8,'15、MOLIBITO
Vol.3、月刊航空ファン6,’10、1,’15、9,’16、11,’16、9,’17、1,’18、6,’18、月刊丸3,’14、世界の傑作機No.104、朝雲
<百里基地(1977年)>:第7航空団第206飛行隊(F-104J戦闘機24機)、同第301飛行隊(F-4EJ戦闘機24機)、偵察航空隊第501飛行隊(RF-4E偵察機14機)、航空救難団百里救難隊(MU-2救難捜索機2機、V-107救難ヘリ2機)、T-33A練習機10機、T-34A練習機1機などが所在する。参考:軍事力バランス78年版
<百里基地(2007年度)>:第7航空団第204飛行隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)、同第305飛行隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)、偵察航空隊第501飛行隊(RF-4E/EJ偵察機、T-4練習機)、航空救難団百里救難隊(UH-60J救難ヘリ、U-125A救難捜索機)などが所在する。参考:月刊JWings6,’07
<百里基地(2010年度)>:第7航空団第302飛行隊(F-4EJ改戦闘機、T-4練習機)、同第305飛行隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)、偵察航空隊第501飛行隊(RF-4E/EJ偵察機、T-4練習機)、航空救難団百里救難隊(UH-60J救難ヘリ、U-125A救難捜索機)、整備補給群、基地業務群、基地警備教導隊、百里管制隊、移動管制隊、中部航空施設隊第3作業隊、百里気象隊が所在する。参考:月刊JWings6,’10別冊付録、月刊軍事研究9,’11
<百里基地(2015年)>:第7航空団司令部、第7航空団飛行群(第302飛行隊、第305飛行隊)、第7航空団整備補給群、第7航空団基地業務群、偵察航空隊第501飛行隊、航空救難団百里救難隊、中部航空施設隊第3作業隊、基地警備教導隊、移動管制隊、百里管制隊、百里気象隊、百里地方警務隊、百里情報保全分遣隊が所在する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015
<百里基地(2020年)>:第7航空団、第7航空団第301飛行隊(F-4EJ改戦闘機、T-4練習機)、偵察航空隊第501飛行隊(RF-4E/EJ偵察機、T-4練習機)、航空救難団百里救難隊(UH-60J救難ヘリ、U-125A救難捜索機)などが所在する。参考:月刊JWings3,’20
<百里救難隊>:航空自衛隊の救難隊。1965年11月20日、航空救難群隷下に百里基地で新編された。1971年3月1日、上級部隊が航空救難団飛行群になった。1986年8月5-7日、台風10号による豪雨水害に対する災害派遣に参加。V-107A救難ヘリ保有全機に加え、浜松救難隊と新潟救難隊からV-107A救難ヘリを1機ずつ送ってもらい、236人を救出した。MU-2S救難捜索機による航空偵察も行っている。2010年7月25日1110頃、埼玉県秩父市大滝地区の山中で滑落した女性1人を救助作業中の埼玉県防災ヘリAS365N3あらかわ1号が墜落。1315に埼玉県知事から乗員と遭難者の捜索救助に関する災害派遣要請があり、基地航空祭の最中だった百里基地からU-125A救難捜索機1機とUH-60J救難ヘリ2機が1330に離陸して現場に向かったが、最短ルートは最大高度15000mに達する巨大な積乱雲があり、南に大きく迂回せざるを得なかった。1400過ぎ、UH-60J救難ヘリが現場で捜索を開始。深い渓谷と生い茂った森に視界を塞がれ、激しい雷で交信不能に陥りつつも、1500に防災ヘリ乗員2人、1540に防災ヘリ乗員1人を収容し、入間基地で救急車に引き継いだ。その後1機は百里基地に帰投、もう1機は悪天候で入間基地に待機していたが、残る防災ヘリ乗員2人と遭難者1人の救難命令が出されたため現場に戻って遭難者1人を収容(乗員2人は東京消防庁AS332L1ヘリが収容)し、1800に入間基地に戻って1841に任務を終了した。悪天候のため百里基地への帰投は7月26日になっている。防災ヘリ乗員5人と遭難者1人は全員死亡が確認された。10月18-24日に開催された航空救難団救難戦技競技会で優勝した。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。隊長は小牧基地に出張しており、飛行班長を指揮所長として捜索救助任務を開始した。1505までにU-125A救難捜索機とUH-60J救難ヘリが1機ずつ離陸し、前者は東北方面、後者は千葉方面に向かったが、いわき市以北は雪が降っていて視界が悪く、U-125A救難捜索機も千葉へと変針している。途中で沿岸に押し寄せる高さ2-6mの大津波に遭遇した。1700過ぎ、隊長が救難教育隊の増強UH-60J救難ヘリにより帰隊。隊員に対し、機長が実施方法を判断して被災者を自ら捜索し、発見すれば直ちに救出、安全な場所に搬送せよと命じた。要するに機長に全てを任せる、責任は隊長が持つというもので、隊員は最も優れた命令だったと振り返っている。夜間捜索のためU-125A救難捜索機とUH-60J救難ヘリが1機ずつ日没頃に発進、海上を中心に捜索を行った。2000頃、UH-60J救難ヘリが松島基地上空に到達。隊舎屋上に松島救難隊員を視認し、無線で状況を確認した。3月12日、増強機が集結を完了し、U-125A救難捜索機4機、UH-60J救難ヘリ13機体制となった。未明、UH-60J救難ヘリ1機が捜索のため出動。宮城県山元町中浜中学校で孤立した被災者を発見し、教師と生徒58名を救出した。早朝、UH-60J救難ヘリ1機が離陸し、福島県南相馬市で津波により孤立した被災者を救助。3月13日0607、UH-60J救難ヘリ3機で阿武隈川付近の被災者47人を救助した。3月14日0645、UH-60J救難ヘリで被災者12人を救出した。1203、寄磯小学校からUH-60J救難ヘリで子供4人を含む要救助者11人を収容した。3月19日1559、UH-60J救難ヘリで石巻市内避難所から石巻赤十字病院に患者を搬送。3月20日0831、UH-60J救難ヘリで田代島から松島に医療チーム9名を空輸した。3月21日1526、U-125A救難捜索機で入間と木更津から松島まで人員と物資を輸送した。4月20日、UH-60J救難ヘリなどによる福島県内での捜索活動を開始。5月25日0536頃、福島県浜通で震度5弱の地震が発生したため、UH-60J救難ヘリ1機で情報収集を実施した。5月31日、福島第一原発から10-40km圏内の空中モニタリングを実施。7月25日0351頃に福島県沖で発生した震度5弱の地震を受け、航空機で情報収集を行った。11月20日1023頃、茨城県日立市で震度5強の地震が発生したため、航空機を離陸させて情報収集を行った。2012年2月19日0300前、茨城県日立市で震度5弱の地震が発生したため、0330からUH-60J救難ヘリ1機を離陸させて情報収集を行った。4月1日2300過ぎ、福島県沖でマグニチュード5.9の地震が発生し、震度5弱を観測したため、2323からUH-60J救難ヘリ1機を離陸させて4月2日0300前まで情報収集を行った。2013年11月17日、茨城県小美玉市玉里公園で小美玉市総合防災訓練に参加。2015年9月10日から関東・東北豪雨の災害派遣に参加。2016年8月7日1620頃、千葉県銚子沖で4人の乗った小型船が行方不明になったため、UH-60J救難ヘリ1機とU-125A救難捜索機2機で捜索し、8月8日1516に撤収した。9月1日、埼玉県で行われた第37回9都県市合同防災訓練に参加。11月22日0559頃、福島県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震が発生したため、0603にUH-60J救難ヘリを離陸させて情報収集を行った。2017年3月27-29日、インド空軍ヘリ搭乗員との部隊間交流を実施。8月27-28日、福島県福島市不動沢橋付近に墜落したモーターグライダーの捜索に参加。9月27日に福島県沖で行方不明になった小型機の捜索に参加。2018年8月10-11日、草津白根山上空付近で行方不明となった群馬県防災ヘリ捜索救助の災害派遣に参加。2019年7月6日、茨城県大洗港で艦艇公開in大洗に参加し、洋上救難者救出訓練展示を行った。9月1日、第40回九都県市合同防災訓練に出席した岩屋防衛大臣を乗せて船橋東埠頭岸壁の臨時ヘリポートを離陸し、防衛省ヘリポートに着陸した。10月13日から台風19号・21号被害の災害派遣に参加。
2021年2月13日2308頃、福島県沖を震源とする最大震度6強の地震が発生したため、U-125A救難捜索機とUH-60J救難ヘリで情報収集を行った。6月12日、銚子沖を航行中の漁船で急病人が発生したため、1730に第2管区海上保安本部から第7航空団司令に災害派遣要請があり、U-125A救難捜索機1機とUH-60J救難ヘリ1機で銚子沖330kmの現場に向かい、要救助者をホイストで収容、2358にUH-60J救難ヘリが百里基地に帰投して救急隊に引き継いだ。10月7日2241頃、千葉県北西部を震源とするマグニチュード5.9・最大震度5強の地震が発生したため、情報収集を行った。2022年9月12-15日、ベトナム防空・空軍関係者が施設や装備品などを研修した。2024年4月27日、熊谷ラグビー場で行われた埼玉ワイルドナイツのホーム最終戦でボールプレゼンテーションを実施。UH-60J救難ヘリからホイスト降下した救難員がレフェリーにラグビーボールを渡した。参考:航空救難団ホームページ、MAMOR vol.52、vol.142、月刊航空ファン6,’11、3,’13、11,’17、月刊JWings7,’13、8,’14、11,’15、6,’17、12,’18、10,’19、12,’19、5,'21、12,'21、12,'22、7,'24、朝雲
<百里救難隊(1975年)>:航空救難団隷下で、百里基地に置かれている。V-107救難ヘリ、S-62救難ヘリ、MU-2救難捜索機、T-34救難捜索機を装備する。参考:月刊軍事研究10,’75
<百里救難隊(1985年)>:航空救難団隷下で、百里基地に置かれている。MU-2S救難捜索機、KV-107救難ヘリを装備する。参考:月刊JWings7,’24
<百里救難隊(2005年)>:航空救難団隷下で、百里基地に置かれている。U-125A救難捜索機、UH-60J救難ヘリを装備する。参考:月刊JWings7,’24
<百里救難隊(2015年)>:航空救難団隷下で、百里基地に置かれている。U-125A救難捜索機、UH-60J救難ヘリを装備する。参考:月刊航空ファン4,’16
<百里救難隊(2020年)>:航空救難団隷下で、百里基地にある。U-125A救難捜索機、UH-60J救難ヘリを装備する。参考:月刊JWings6,’20
<百里原海軍航空隊>:日本海軍航空隊。茨城県にある。操縦教育を行う。参考:陸海軍学校と教育
<百里原飛行場>:日本海軍の飛行場。昭和13年、東茨城郡に開設された。戦後は百里基地になった。参考:首都防空網と空都多摩、月刊JWings11,’18
<ひゃくりん>:百里基地のゆるキャラ。茨城県が生産量全国一の栗と掛けており、頭部は栗と筑波山がモチーフで、胸に百と書かれたオレンジのつなぎを着ている。ブラックひゃくりんもいる。参考:JWings3,'24、2,’19
<ヒヤシンス>:K84(コルベット)を参照。
<ビヤバフ>:スリランカ海軍哨戒艦。2023年1月19-27日、カラット2023に参加。参考:月刊世界の艦船4,’23
<日山丸>:日産汽船貨物船Hiyama maru。大元はイギリスのロプナー造船所で大正9年9月に竣工したアトランティック・シティで、昭和14年に松田汽船が購入して松山丸になり、昭和15年に合併で日産汽船所属となり日山丸に改称された。垂線間長125.43m、幅16.57m、深さ11.09m、吃水8.4m、総トン数6171トン、重量トン数9720トン。主機は三連成汽機1基1軸3100馬力、航海速力11ノット、最大速力12.5ノット。太平洋戦争勃発で船舶運営会が運航して輸送任務に就いた。昭和17年7月12日、仏印クイニョン東方33kmでSS-194シードラゴンの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船1,’17
<ヒャンロボン>:683(戦車揚陸艦)を参照。
<ピュア・パーシュート>:戦闘機動の1つ。前方の敵機に機首を向け、航跡上をそのまま追尾していくものである。参考:戦闘機のしくみ
<ピュアパワーPW1000Gシリーズ>:プラット&ホイットニー社の高バイパス比ギヤード・ターボファン(GTF)エンジン。基本は2軸ターボファンエンジンで、低圧軸の先端に減速ギアを取り付け、これを介してファンを回すことにより、ファンと低圧圧縮機の双方に最適な回転数を提供し、運転効率を上げている。最終組立と試験はケベック州ミラベル市のプラット&ホイットニー社施設か、三菱重工航空エンジン本社工場で実施される。参考:月刊航空ファン1,’15、3,’19
<ピュアパワーPW1200G>:最小型。ファン直径1.42m、バイパス比9.1。参考:月刊航空ファン1,’15
<ピュアパワーPW1215G>:推力15000ポンド・6.8トン・66.7kN。MRJが採用した。参考:月刊航空ファン1,’15
<ピュアパワーPW1217G>:推力17000ポンド・7.7トン・75.6。MRJが採用した。参考:月刊航空ファン1,’15
<ピュアパワーPW1700G>:ファン直径1.42m、推力66.7kN。エンブラエル175-E2が採用した。参考:月刊航空ファン1,’15
<ピュアパワーPW1900G>:ファン直径1.85m、バイパス比12、推力84.5-98kN。エンブラエル190-E2とエンブラエルE195-E2が採用した。参考:月刊航空ファン1,’15
<ヒュー・W・ハドレー>:DD-774(駆逐艦)を参照。
<ヒューイ>:UH-1シリーズ(汎用ヘリ)またはUH-1J(多用途ヘリ)を参照。
<ヒューイコブラ>:AH-1シリーズ(攻撃ヘリ)を参照。
<ヒューイット>:DD-966(駆逐艦)を参照。
<ヒューオン>:82(掃海艇)を参照。
<ヒューオン級>:オーストラリア海軍掃海艇Huon級。1994年6月に採用が決定した。イタリアのガエタ級掃海艇をベースにオーストラリアン・ディフェンス・インダストリーズ社が改修を加えてライセンス生産したもので、機雷処分具をSUTEC社製ダブル・イーグルMk2掃討具2基に、戦闘データシステムをノーティス2Mに変更している。船体はGRP製で、主機はクレイドル式に搭載して振動を抑えており、GECマルコーニ社製2093型可変深度機雷掃討ソナーとミニドライアド曳航式感応機雷掃海具も搭載する。全長52.5m、満載排水量720-732トン。主機はフィアットGMT社製ディーゼル(1985馬力)1基、推進は可変ピッチプロペラ、速力14ノット。掃海時はリバ・カルゾーニ社製縦舵スラスター3基を使用する。兵装は30mm単装機関砲DS30B1門。乗員38名。艦番号82ヒューオン、ホークスベリー、ノーマン、85ガスコイン、86ディアマンティア、ヤラの6隻が1999-2003年に竣工した。2030年代まで運用する予定。参考:月刊世界の艦船6,’05、7,'21、11,’00、月刊軍事研究7,’95
<ひゅうが>:DDH-181(護衛艦)を参照。
<日向>:日本海軍伊勢型超弩級戦艦2番艦Hyuga(宮崎県の旧国名)。三菱長崎造船所が建造した最初の戦艦である。大正4年5月6日起工、大正6年1月27日進水。12月15日、甑島で10/10全力公試を実施。排水量31073トン、出力63211軸馬力、速力24.083ノットだった。大正7年4月30日竣工。大正7年12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。大正8年10月24日、特別大演習中に3番主砲塔噴気弁に布が詰まっていたことに気付かず空包を発射したため、薬室内の高温発射ガスが残留したままになってしまい、続いて装填された次発装薬が発火して主砲塔内の装薬に引火し、大爆発を起こして砲塔天蓋が吹き飛んだ。注水により火薬庫への延焼はくい止めたが、3番・4番砲台長ら11名が死亡し、25名が重軽傷を負った。大正9年12月1日、第1艦隊第1戦隊を退いた。大正11年7月8日(青森から函館まで)と7月23-25日(室蘭から横須賀まで)、摂政宮北海道行啓の御召艦を務めた。12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。大正13年9月、4番砲塔で漏電による火災が発生した。大正14年12月1日、第1艦隊第1戦隊を退いた。大正15年9月、改装工事を開始。12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和2年2月、改装工事を完了。3月29日、朝鮮大黒山灯台近くで触礁し、船体3カ所に破孔を生じた。佐世保工廠で修理を行い、4月24日に佐世保を出港。12月1日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和3年5月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和4年11月30日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和5年12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和7年10月15日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和7年12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和9年10月、近代化大改装を開始。11月15日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和11年8月3日、大改装後の10/10全力公試を伊予灘で実施。排水量40706トン、出力81050軸馬力、速力25.264ノットだった。9月7日、大改装を完了。12月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和12年7月7日、日華事変勃発時には第1艦隊第1戦隊に所属していた。昭和13年12月15日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和15年11月15日、第1艦隊第2戦隊に配属された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時には第1艦隊第2戦隊に所属していた。昭和17年5月5日、訓練中に第5砲塔が爆発。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和17年7月14日、第1艦隊第2戦隊を離れ、連合艦隊直轄艦となった。昭和18年5月1日、航空戦艦への大改装を開始。11月18日(30日?)、大改装を完了。昭和19年5月1日、第3艦隊第4航空戦隊に配属された。10月20日、比島沖海戦に参加。昭和20年1月1日、南西方面艦隊第4航空戦隊に転属。昭和20年2月10-20日、北号作戦に参加。2月11日、連合艦隊第4航空戦隊に転属。3月1日、連合艦隊第4航空戦隊を退いた。6月1日、特殊警備艦に艦種変更され、情島に繋留された。7月19日、呉で爆撃を受けて小破。7月24日、呉で空襲を受け、直撃弾多数により大破着底し、上甲板以下が浸水、前檣楼戦闘艦橋背部の命中弾により羅針艦橋が全損するなどして艦長以下200名が戦死した。7月28日、呉で空襲を受け、そのまま終戦を迎えた。11月20日に除籍された。昭和21年7月2日、呉で解体を開始。7月30日、荒天で第59号海防艦と接触した。参考:戦艦入門、月刊世界の艦船9,’02、12,’10、1,’12、第2次大戦日本海軍作戦年誌、激闘太平洋戦記、帝国陸海軍事典、月刊丸7,’14、日本海軍艦隊総覧
<ひゅうが型>:海上自衛隊ヘリコプター搭載護衛艦DDH。16DDHとして開発された。はるな型DDHと同等の対潜戦コンセプト(88艦隊態勢)での運用に加え、インド洋などで長期間活動できる充実したヘリ運用能力とC4I能力を持ち、新たな脅威や事態にも対応でき、大規模災害や在外邦人等輸送への対処も行え、統合運用や他省庁との連携運用が可能である。船型は多機種のヘリが発着艦できる全通飛行甲板型で、高速性能を得るためマシュー船型を採用した。竣工時海自最大の護衛艦となったが、全長は運用上の制約を考えて200m以内とし、哨戒ヘリ4機(定数はSH-60J/K哨戒ヘリ3機とMCH-101掃海ヘリ1機)の同時運用が可能で、格納庫及び整備スペースを合わせれば最大11機(護衛隊群1個分)を搭載でき、手術室、診察室、集中治療室、病室、歯科診察室なども持っていて、有事対応の他、災害への対処もこなす。ただCH-47輸送ヘリはブレードを外さなければ格納庫に入れられない。船体は縦肋骨構造、ステルス性が考慮されており、ラッタルや艦載艇類は船体内に収容し、キャットウォーク外舷には板を張った。船体下部両舷にビルジ・キールがあり、前後にフィン・スタビライザーが装備されていて、荒天時でもローリングやピッチングを運用限界内(動揺周期16秒以上、動揺角4度以内)に収められるため、ベア・トラップは装備していない。艦首はエンクローズド・バウ。係留区画は右舷側に2ヵ所、左舷側に1ヵ所あるが、舫い綱繰り出し用ハッチがあるのは艦首右舷側4カ所だけで、停泊の際にはアイランドのある右舷側を接岸させる。よって曳船で左舷から押すことになるが、飛行甲板が大きく張り出しているため、曳船のマストを起倒式にして対応した。ただ横須賀消磁所や鹿児島試験所など、どうしても右舷接岸できない場所があり、何とか左舷側から索を出して4点繋留させている。右舷前方に機力式舷梯が内蔵されており、岸壁から格納庫に物資を搬入する際にはアイランド直下に内蔵したサイドランプ(第4甲板レベル)を使用する。ただサイドランプは当初の設計には無かったため、フォークリフトが入れる程度の小さいものになってしまった。全通飛行甲板は第1甲板レベルで、長さ195m・最大幅33m、非耐熱なのでVTOL機は運用できないが、MV-22B/V-22輸送機の排気は耐えられるようである。飛行甲板左舷側にヘリ発着スポット4箇所があり、第1と第4はMH-53E/MCH-101掃海ヘリが発着艦可能。飛行甲板前部右舷スポンソンにUSC-42衛星通信アンテナ、後部右舷スポンソンにNORQ-1アンテナ、左舷スポンソンに12.7mm機銃、艦尾左舷スポンソンに20mmCIWSを装備する。飛行甲板中央右舷側には甲板5層からなるアイランドがあり、ステルス性を考慮した形状をしていて、前方からNORA-7衛星通信アンテナの大きな白いアンテナドーム(01甲板)、艦橋(03甲板)、前部煙突、発着艦員待機室(第1甲板)、後部煙突、航空管制所(03甲板。ウィジャ・ボードを備える)、NORA-7用アンテナドーム(01甲板)、USC-42衛星通信アンテナドーム(01甲板)と並ぶ。搭乗員待機室(22席。前面にモニターがありブリーフィングなどに使用)もアイランド内第1甲板レベルにある。艦橋上部04甲板前面・左側面及び航空管制所上部04甲板右側面・後面にはFCS-3アクティブ・フェイズド・アレイ・レーダーのアンテナが大小1基ずつ取り付けてある。艦橋直上のアイランド上面には両舷にNOLQ-3C電子戦装置(ECM)が搭載され、その後ろにタワーマストがあり、頂上がORN-6Cタカン、その下方の円盤状アンテナがOPX-11IFF、その下がNOLQ-3C電子戦装置(ESM)、その下の白ドームがORQ-1Cヘリコプター・データリンク、その下がOPS-20C航海レーダー(前後1基ずつ装備して全周をカバー)、その下の白ドームがNORA-1C衛星通信アンテナである。煙突の間にはNORA-1C衛星通信アンテナを収容した白ドーム、後部煙突上にはORQ-1Cヘリコプター・データリンクを収容した白ドーム、後部煙突左舷側にはNORQ-1衛星通信アンテナの白ドームがある。飛行甲板後部右舷にはNORC-4B衛星通信アンテナを収容した白いドームが2基並ぶ。艦首水線下にOQQ-21バウソナーを持ち、側面ソナー・アレイを貼り付ける関係上、ソナードームの長さは40mもある。船体内は第2甲板がギャラリー・デッキで係留区画、通路、艦長室、司令室、先任伍長室、居住区、多目的区画、士官室、司令公室、医務区画、CIC、司令部作戦室FIC(Flag Information Center)、吸排気区画、前後エレベーター・ヘリ整備区画(吹き抜けで床は無い)など、第3甲板が揚錨機室、士官寝室、科員居住区、格納庫中段(吹き抜けで床は無い)、その両脇の通路、整備員待機室、飛行科事務室、作業艇格納レセス、吸排気区画、倉庫など、第4甲板が錨鎖庫、居住区、格納庫やエレベーターの床、航空整備庫、航空関係のAT室など、吸排気区画、短魚雷3連装発射管、第5甲板が応急甲板で士官・先任海曹・科員居住区、通路、操縦室兼応急指揮所、各種事務室、先任海曹室、調理室、科員食堂、武器関連各種機器室、補機室、吸排気区画、倉庫など、第6甲板が居住区、武器関連機器室、倉庫、冷蔵庫、機械室・補機室・発電機室(吹き抜けで床は無い)、舵取機室など、第7甲板が二重底で機械室・補機室・発電機室の床、タンク区画、防水区画、汚物処理室、ポンプ室などとなっている。格納庫は1層(床が第4甲板、天井が第2甲板)で、ヘリ整備区画含め長さ120m・最大幅20m(ヘリ整備区画)/18.5m(格納庫)・天井高6.2m、船体内中央から後部にかけて設けられており、前方から第1エレベーター(長さ20m、幅10m、容量30トン)、第1格納庫(長さ60m、第3-4甲板)、上下スライド式防火シャッター、第2格納庫(長さ60m、第3-4甲板)、第2エレベーター(長さ20m、幅13m容量30トン)、ヘリ整備区画(20m四方、第2-4甲板)となっていて、第1エレベーターの前方は車庫(第2-4甲板)である。格納庫にはSH-60J/K哨戒ヘリなら最大8機、MCH-101掃海・輸送ヘリなら最大4機を収容可能で、MH-53E掃海ヘリもローターを折り畳めば収納でき、ヘリ整備区画にはSH-60J/K哨戒ヘリをメイン・ローターを広げて停めることができる。エレベーターは飛行甲板中心線上にあり、前後共にインボード式で、第2エレベーターならSH-60J/K哨戒ヘリをそのまま載せられるが、MH-53E掃海ヘリやMCH-101掃海・輸送ヘリはローターとテイルブームを折り畳む必要があり、CH-47J/JA輸送ヘリはローターを外さなければならない。CICは第1エレベーター後方の第2甲板レベルにあり、正面に大型スクリーン4枚がある。他にも汎用コンソールが多数用意されており、情報を隣の司令部作戦室FICや艦橋などに送ることも可能。統合任務部隊司令部として運用するため、FICは拡充されていて、正面に大型スクリーン3枚、艦尾方向に中型スクリーン4枚が設置されており、高い指揮通信能力を持つ。戦闘指揮システムはOYQ-10で、NOYQ-1艦内統合ネットワーク(JSWAN)を採用しており、一般情報系と秘匿情報系のLAN回線をそれぞれ装備する。MOFシステム端末C2T(OYQ-51)、CDLMS、リンク11、リンク16、アメリカとの通信用のGCCS-Mも搭載している。第2甲板にはアレンジが自由な多目的ルームが設置された。同じく第2甲板の医務区画は医務室、手術室、集中治療室、第1病室(6床)、第2病室(2床。隔離病室)、歯科治療室、医務課倉庫、医療用ガス機器室などからなり、有事には多目的ルームを戦時治療室として使用する。士官寝室は分散配置されているが、これは2003年のDD-102はるさめによる艦内飲酒事件の反省から、勤務効率は劣るものの科員居住区など艦内各所に目配りが効くよう考慮したものである。無線機は同時4波送受信可能なソフトウェア無線機。機関の配置はあたご型イージス護衛艦とだいたい同じシフト配置で、主発電機が増えたため発電機室を増やし、前方から発電機室、第1機械室(左舷軸駆動)、発電機兼補機室、第2機械室(右舷軸駆動)、発電機室と並べた。主機を収容したエンクロージャーを防振架台で支持し、減速装置も防振マスなどを使用、マスカーとプレーリー装置(空気は主機から抽出)も搭載して水中雑音低減を図った。第1・第2機械室両舷にはフィン・スタビライザーの駆動装置も収容する。舵取り機室は床、後面、両舷側を二重防水構造とし、防水区画で囲んで抗堪性を高めた。海自護衛艦で初めて女性専用区画を設けている。他艦への洋上給油装置も搭載する予定だったが、予算の関係で見送られた。艦載艇は11メートル型作業艇で、船体後部両舷のレセス(第3甲板レベル)に1隻ずつ収容する。ヘリ航空管制装置はOJN-11航空機運用支援装置。NBC除染用甲板散水装置を持つ。全長197m、全幅33m、水線幅26m(23.5m?)、高さ48m、飛行甲板高さ15m、深さ22m、吃水7m、基準排水量13950トン、満載排水量19000トン。主機はCOGAG方式、LM2500ガスタービン4基、出力100000馬力、5翅可変ピッチ式スキュード・プロペラ2軸推進、舵は垂直方式電動油圧式半平衡舵2枚、速力30ノット、航続距離6000海里(20ノット)。主発電機はLM500ガスタービン発電機(2400kW)4基、艦内配電は440V。兵装はESSM艦対空ミサイル/垂直発射式アスロック艦対潜ミサイル用Mk41VLS8セル2基(飛行甲板後部やや右舷寄り。ESSM16発とアスロック12発を収容)、20mmCIWS2基(飛行甲板前部右舷、飛行甲板後方左舷スポンソン)、324mm短魚雷(Mk46または97式短魚雷)3連装発射管HOS-303が2基(第4甲板レベル両舷)、12.7mm機銃座7カ所。自衛用にSRBOC Mk36チャフ発射機6基(艦中央両舷フラットに3基ずつ)、音響デコイ曳航具四型(艦尾左舷側の開口部2箇所から展開)を搭載する。乗員347名+司令部要員25名+長期便乗者125名。16DDH・18DDHとしてIHIマリンユナイテッド横浜工場で建造され、1番艦DDH-181ひゅうがと2番艦DDH-182いせが2009年と2011年に竣工した。ドーン・ブリッツ2013などを契機に、飛行甲板4番スポットの右隣(一部重なっている)に大型機用5番スポットが用意され、MV-22B/V-22輸送機の運用に備えるようになった。後にマルチスタティック対潜捜索機能が追加され、ORQ-2洋上無線ルーターにより他艦のハル・ソナー情報を共有できるようになった。2017年4月から2018年3月、DDHの航空機運用能力向上に係る調査研究が行われ、MQ-8C無人機及びRQ-21A無人機との適合性を検討した。参考:月刊世界の艦船5,’17、8,’17、9,’09、11,’15、1,’17、11,'17増刊、9,’12、9,’13、11,’13、6,’09、8,’11、3,’10、4,’10、9,’10、1,’11、10,’11、8,’12、1,’13、10,’14、10,’18、月刊コンバットマガジン7,’09、月刊軍事研究11,’07、10,’09、1,’12、12,’13、月刊JWings11,’07、月刊丸1,’10別冊、MAMOR Vol.50、月刊航空ファン7,’16
<日向第5砲塔爆発事故>:太平洋戦争時の昭和17年5月5日、MI作戦準備にあたり、戦艦日向は伊予灘で主砲射撃訓練を実施。その際、第5砲塔で故障が頻発し、3回にわたり射撃を延期、その都度応急修理を行っていた。そのため、時間に追われた砲手が装填を焦り、第7斉射の際に第5砲塔左砲の尾栓が半開きのままで発火準備を完了してしまい、指揮官がそのまま射撃。装薬の燃焼ガスが尾栓から砲塔内に逆流し、次発装薬を誘爆させ、砲塔天蓋を吹き飛ばし、54名が死亡、8名が重傷を負った。火災が砲塔の下にある弾薬庫にも迫ったため、第5・第6砲塔の弾薬庫に注水して事無きを得ている。日向は直ちにドックインして第5砲塔を撤去、鋼板で塞いで二十五ミリ三連装機銃4基を増設し、MI作戦に参加した。参考:戦艦入門、月刊丸7,’14
<日向灘不審船事件>:1985年4月、宮崎県日南市鵜戸埼沖で宮崎県漁業取締船が不審船を発見。海上保安庁が巡視船艇延べ20隻で40時間追跡したが、取り逃がした。事件の教訓から高速で航続距離の長い巡視船を作る事になり、しんざん型やらいざん型が建造されている。参考:月刊世界の艦船2,’22
<ヒューギン級>:スウェーデン海軍ミサイル艇。ソナーはSS240バウソナー。満載排水量170トン。兵装はペンギン艦対艦ミサイル発射筒6基、エルマ爆雷投射機4基。参考:月刊軍事研究4,’97、月刊世界の艦船1,’15増刊、ミリタリー・バランス1989-1990
<ヒューゴー>:アメリカ海軍魚雷回収船Hugo。2011年6月27-29日、FRUKUS2011演習に海賊被害想定船として参加。参考:月刊世界の艦船9,’11
<ヒューゴー・ツァイエ>:ドイツ海軍水雷練習艦。商船構造を持つ。基準排水量7010トン。主機はレシプロ蒸気機関、出力9000馬力、速力18ノット。兵装はボフォース40mm連装機関砲2基、20mm機関砲14門、4連装魚雷発射管2基。1942年7月竣工。1945年3月、フェーマルン島沖で触雷して沈没した。参考:写真集ドイツの巡洋艦
<ヒューザトニック>:AO-35(給油艦)を参照。
<ピュージェット・サウンド>:CVE-113(護衛空母)を参照。
<ピュージェット・サウンド海軍工廠>:アメリカ海軍工廠Puget
Sound Naval Shipyard。1891年、ワシントン州キトサップ半島のブレマートン海軍基地内に開設された。各種艦船の建造・修理・改装の他、モスボール保存や原子力空母・原子力水上艦・原潜の解体も行っている。参考:月刊世界の艦船8,'22、9,’13、10,’23
<ピュージェット・サウンド橋梁乾ドック社>:アメリカの造船会社で、1898年に設立された。第2次大戦中は掃海艦などを建造している。1959年にロッキード社に買収され、1965年にロッキード造船会社となった。参考:月刊軍事研究9,’07
<ヒュー・シティー>:CG-66(巡洋艦)を参照。
<ヒューズ>:DD-410(駆逐艦)またはDE-145(護衛駆逐艦)を参照。
<ヒューズ269>:S-300C(ヘリ)を参照。
<ヒューズ269D>:S-330(ヘリ)を参照。
<ヒューズ269DA>:S-333(ヘリ)を参照。
<ヒューズ300(インド海軍)>:インド海軍練習ヘリ。ヒューズ社製で、1971年に4機を導入した。1985年に退役した。参考:月刊航空ファン4,’16
<ヒューストン>:CA-30(重巡洋艦)またはCL-81(軽巡洋艦)またはSSN-713(潜水艦)を参照。
<ヒューズ・エアクラフト社>:Hughes Aircraft Company。1934年にハワード・R・ヒューズJr.が自作レーサー機製作チームの仮会社名として使用し、後にヒューズ・トゥール社の子会社として正式に創設された。1985年、ジェネラル・モーターズ社に買収された。1992年、ジェネラル・ダイナミクス社ミサイル部門を買収した。参考:月刊軍事研究7,’16、月刊JWings11,'22、2,’20
<ヒューズ・ヘリコプターズ社>:Hughes Helicopters。ヒューズ社のヘリコプター部門が独立して設立された会社である。1984年1月6日、マクダネル・ダグラス社に買収された。1985年8月27日、マクダネル・ダグラス・ヘリコプターズに改称された。参考:月刊軍事研究6,’07、4,’18、F-4ファントム物語
<ヒュードラ暗号>:ドイツ海軍が第2次大戦時に使用した暗号で、ヒュードラは海神の意。当初はバルト海・北海・占領地沿岸海域での通信に使用され、後にUボート用として使われるようになった。参考:Uボート入門
<ヒュー・パーヴィス>:DD-709(駆逐艦)を参照。
<ビューフォート>:L14(駆逐艦)またはPF-59(フリゲート)を参照。
<ピューマ>:5P-10-1(方位盤)または5P-10-02(方位盤)またはCL-427(無人機)またはM26-15(装輪装甲車)またはSA330シリーズ(ヘリ)またはプーマ(歩兵戦闘車)を参照。
<ピューマ戦闘工兵車>:イスラエル陸軍戦闘工兵車。センチュリオン戦車の砲塔を外して車体にモジュラー装甲を施し、分厚い装甲スカートとブレイザー爆発反応装甲を装着、機関室には対戦車ロケットに対抗するためTOGA装甲を追加している。サスペンションはダブル・ボギー式に変更した。車体前面にドーザーや地雷処理装置を装着可能。武装はラファエル社製オーバーヘッド・ウェポン・ステーションOWSに搭載された遠隔操作式FN-MAG機銃2丁、車体後部のハッチ2つの外側にあるクランク型ピントル・マウントに1丁ずつ搭載されたFN-MAG機銃、車体上面部中央の60mm迫撃砲。自衛用に10連装発煙弾発射機IS-6を2基搭載する。全長8m、全高4m、戦闘重量40トン。エンジンはコンチネンタル製AVDS-1790-2A空冷ディーゼル(750馬力)、最大速度35-40km、航続距離200km。乗員8名(車長、操縦手、機銃手、工兵5名)。1984年から運用された。参考:月刊PANZER10,’02
<ピューマ装輪装甲車シリーズ>:イタリアのイヴェコ社が開発した装輪装甲車。チェンタウロ8輪装甲車がベースである。参考:月刊軍事研究2,’00
<4輪型>:車体は装甲鋼板製で、前面は避弾経始に優れた傾斜のきつい形状をしている。前部が機関室、その後ろが操縦室、車体後部が兵員室で、歩兵6名を収容できる。車体後部両側に3連装発煙弾発射機を装備する。全長5.1m、全幅2.09m、全高1.9m、重量5.7トン。エンジンはイヴェコ製4気筒ターボディーゼル(180馬力)、トランスミッションはレンク製オートマチック、最大速度105km、航続距離800km。参考:月刊軍事研究2,’00
<6輪型>:4輪型の車体を0.4m延長して6輪型としたもの。歩兵8名を搭載できる。戦闘重量が7.5トンに増加しているが、最大速度は変わらないらしい。参考:月刊軍事研究2,’00
<ピューマ2015>:アメリカ、カナダ、フランス、ポーランドが2015年5月11-29日にポーランドで行った演習PUMA
2015。機甲部隊と機械化歩兵部隊による野戦訓練である。参考:THE MILITARY BALANCE 2016
<ビューリー>:イギリス海軍アバードヴェイ級通船Beaulieu。1966年竣工。参考:月刊世界の艦船5,’83
<ヒューリスティクス>:認知バイアス。合理的検討や深い考察を行わずに取り敢えずの答えを導き出してしまうことで、情報資料を分析する際に問題となる。情報資料が互いに類似していると勝手にそれを関連づけてしまったり、記憶の鮮明度を情報資料の重要度と比例させてしまったり(現地での体験がかえって仇になることも多い)、物事に必ず因果関係があると思いこんでしまったり、取り敢えず出した結論に縛られて必要な情報資料が見えなくなったりすることを指す。参考:月刊軍事研究1,’09
<ビューリゲン>:ドイツ空軍エース、クルト・ビューリゲン(Kurt Buhligen)。1936年、ドイツ空軍に入隊。1942年12月から北アフリカに進出。1944年、第2戦闘航空団司令となった。総撃墜機数112機。最終階級は中佐。参考:グラフィックアクション36
<ピューリタン>:アメリカ海軍モニターPuritan。全長90.3m、常備排水量6060トン。主機はレシプロ蒸気機関2基2軸3700馬力、速力12.4ノット。兵装は30.5cm連装砲2基、10.2cm単装砲6門、57mm単装砲6門。1875年起工、1896年12月10日竣工。1898年、米西戦争に参加。その後は練習・訓練支援艦として使用された。1910年2月27日退役。1918年2月27日に除籍された。1920年7月、BM-1の艦種記号と艦番号が付与された。1922年1月、解撤のため売却された。参考:月刊世界の艦船12,’21
<ビューロ・エアクラフト・シリアルナンバー>:シリアルナンバー(アメリカ海軍・海兵隊)を参照。
<ビューロナンバー>:シリアルナンバー(アメリカ海軍・海兵隊)を参照。
<ヒューロン>:281(駆逐艦)またはC-12A(連絡輸送機)またはPF-19(フリゲート)を参照。
<ピュッピュヘン>:ラケーテンベルファー43(ロケットランチャー)を参照。
<ビュッフェル>:レオパルト2戦車ファミリーを参照。
<ビュデ>:RPL02(揚陸艇)を参照。
<ヒュマイタ級>:オベロン級潜水艦(ブラジル海軍)を参照。
<ビュルガー>:Fw190シリーズ(戦闘機)を参照。
<ヒュルクス・シリーズ>:トルコのTAIが開発中の練習機Fürkus。トルコ空軍SF260練習機の後継となる予定。エンジンはプラット&ホイットニー社製PT6A-68Tターボプロップ単発、巡航速度250ノット以上。乗員2名(タンデム複座)。2006年3月から設計され、2010年の初飛行を予定していたが、2013年8月29日になった。参考:月刊JWings9,’14、月刊軍事研究9,’09
<ヒュルクスA>:基本型。民間にも売り込めるよう、欧州航空安全機関EASAの型式証明を取った。参考:月刊JWings9,’17
<ヒュルクスB>:強化型アビオニクスとグラス・コクピットを採用し、第5世代戦闘機の訓練にも使用できるタイプ。参考:月刊JWings9,’17
<ヒュルクスC>:軽攻撃機兼用型。主翼下にパイロンを装着でき、UMTAS対戦車ミサイルやCIRIT誘導ロケットを運用する。後にヒュルクス・コンバットに改称された。参考:月刊JWings9,’17、月刊軍事研究9,’19
<ヒュルクス・コンバット>:軽攻撃・偵察機型。ヒュルクスCから改称された。マーチン・ベイカー社製Mk16射出座席を装備する。全長11.17m、翼スパン10.91m、全高3.70m、最大離陸重量5.1トン。エンジンはプラット&ホイットニー・カナダ社製PT6A-68Tターボプロップ単発、最大巡航速度546km、実用上昇限度10820m、燃料搭載量0.725トン、最大航続距離2800km。ハードポイントは7カ所。12.7mmガンポッド、空対空ミサイル、2.75インチ(70mm)ロケット弾、汎用爆弾、誘導爆弾、空対地ミサイル、増槽を搭載できる。乗員2名。参考:月刊軍事研究9,’19
<ヒュルジェ>:ヒュルジェットかも。トルコ空軍の要求でTAIが2017年8月から開発している練習/軽攻撃機。単発機だが、胴体前部両側にエアインテイクがある。キャノピーは右ヒンジ。主翼は高翼配置。水平尾翼は全遊動式。デジタル式フライ・バイ・ワイヤを備え、計器板はNVG対応グラス・コクピットで、HUDを装備し、HMDも使える。全長13.6m、翼スパン9.5m、全高5.1m、全備重量8トン。エンジンはGE社製F404ターボファン(推力8トン)単発、最大速度マッハ1.2、航続距離2222km。ハードポイントは8カ所(翼端1カ所ずつ、主翼下3カ所ずつ)、兵装ペイロード2.721トン。輸出も狙っており、2018年のファーンボロ航空ショーでモックアップを展示した。2019年のパリ航空ショーでもモックアップを展示したが、発表スペックが微妙に変わっている。全長13.0m、翼スパン9.8m、全高4.2m。エンジンはGE社製F404ターボファン(推力8トン)単発、最大速度マッハ1.4、航続距離2592km。兵装ペイロード2.721トン。初飛行は2022年を予定していたが、2023年3月18日予定になった。2023年2月2日、試作初号機組み立て完了とエンジン燃焼試験成功が発表された。4月25日、試作初号機が初飛行した。参考:月刊JWings10,’18、4,'23、7,'23、月刊航空ファン9,’19、月刊軍事研究9,’19、朝雲
<ビュルツブルグ>:FuMG62(39T)レーダーを参照。
<豹>:第263航空隊を参照。
<飛鷹>:日本海軍飛鷹型空母1番艦。日本郵船北米航路客船出雲丸として昭和14年11月30日に川崎造船所神戸工場で起工。昭和15年11月、日本海軍が購入し、空母への改造を開始。昭和16年2月10日、海軍艦籍に編入された。6月24日進水、特設航空母艦飛鷹となった。昭和17年7月14日、航空母艦に艦種変更された。7月31日竣工、第3艦隊第2航空戦隊に配備された。8月10日、神戸を出港。8月11日、呉に入港。10月4日、佐伯湾を出港。10月9日、トラックに入港。10月17日、ガダルカナル島爆撃に参加。10月20日、ソロモン東方で発電機の火災事故を起こし、飛行隊の一部を隼鷹に移してトラックに回航され、10月22日に到着した。飛行隊はラバウルやブインに進出した。昭和18年3月22日、佐伯を出港、トラックに進出。4月2日、飛行隊はラバウルに前進してい号作戦に参加。4月17日、い号作戦を終了し、本土に向かった。5月22日、東京湾に帰着。アッツ島救援作戦のため待機していたが、中止になったので、トラックに向かった。6月10日、横須賀を出港。三宅島の東北東18海里でSS-237トリガーの雷撃を受けて中破した。飛行隊はトラックに輸送され、7月上旬にブインに進出した。7月15日、飛行隊を全て龍鳳に譲った。11月1日、飛行隊を再建。12月21日、トラックに進出。12月末、飛行隊がカビエンに派遣された。昭和19年1月1日、瀬戸内海に帰港。1月25日、飛行隊がラバウルに進出した。2月20日、飛行隊がトラックに引き揚げた。3月、飛行隊は第652航空隊に再編された。6月19日、マリアナ沖海戦に参加。6月20日、マリアナ沖で敵機20機の空襲を受け、3機を撃墜したが航空魚雷1本が左舷機械室に命中、航行不能となり、艦内爆発を起こして沈没した。7月10日に第3艦隊付属となり、8月10日(11月10日?)に除籍された。参考:日本海軍戦闘機隊、図解日本の空母、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本航空母艦史、月刊丸10,’93、月刊世界の艦船4,’12、12,’24
<病院(自衛隊)>:自衛隊の機関(三自衛隊の共同機関)。隊員その他政令で定める者(防衛省職員と家族。一部の病院は一般人も利用可)の診療、診療に従事する隊員の当該専門技術に関する訓練、看護に従事する隊員の養成、医療その他の衛生に関する調査研究を主任務とする。病院長は自衛官または技官で、防衛大臣の定めるところにより院務を掌理する。防衛大臣が必要性を認めた場合には、方面総監、地方総監、航空総隊司令官が病院長を指揮監督する。参考:自衛隊法、MAMOR vol.111、vol.140
<病院(日本海軍)>:海軍病院を参照。
<病院船>:船内に医療施設を備えた船舶で、港や洋上において戦傷病者の治療を行ったり、戦傷病者の後方への輸送を担ったりする。ジュネーブ条約に細かい規定があり、国際赤十字に対して申請を行い、船体を白く塗り、赤十字を大書きし、非武装で、将兵や物資の輸送、哨戒、偵察など戦闘行為を助けるような任務にも使ってはいけない。軍医など軍人が搭乗しても良いが、運航は民間人で、軍人は運航に関して命令してはならない。平時にはあまり使い道が無いので、戦時に民間船を徴用して改造することが多い。参考:敷設艦
工作艦 給油艦 病院船
<病院船(ジュネーブ第2条約)>:ジュネーブ第2条約第3章で定められている。傷病者及び難船者に援助を与え、それらの者を治療し、輸送することを唯一の目的として国が特別に建造し、または設備した船舶のことで、軍用病院船ともいう。いかなる場合にも攻撃または捕獲してはならず、それらの船舶が使用される10日前に船名と細目(登録総トン数、船首から船尾までの長さ、マスト及び煙突の数を含む)を紛争当事国に通告することを条件として、常に尊重かつ保護しなければならない。各国赤十字社、公に承認された救済団体、私人により使用される病院船(民間病院船)は、それらが属する紛争当事国により公の使命を与えられ、責任ある当局が発給した証明書でそれらの船舶が艤装中及び発航の際その監督下にあった旨を記載するものを備え、かつ同様の通告が紛争当事国に行われた場合には、軍用病院船と同じ保護を受け、捕獲されないものとする。中立国の赤十字社、公に承認された救済団体、私人により使用される病院船は、予め自国政府の同意及び関係紛争当事国の認可を得て紛争当事国の一の管理の下にあることを条件として、同様の通告が紛争当事国に行われた場合に限り、軍用病院船と同じ保護を受け、捕獲されないものとする。上記の保護は、病院船及び救命艇のトン数や、作業を行っている場所の如何を問わず適用する。紛争当事国は、安楽及び安全を最大限に確保するため、公海における遠距離にわたる傷病者・難船者の輸送には、総トン数2000トン以上の病院船のみを使用するよう努めなければならない。敵の権力内に陥った港にある病院船は、その港から出発することを許される。病院船は、傷病者・難船者に対し、国籍の如何を問わず、救済と援助を与えなければならない。病院船はいかなる軍事目的にも使用してはならず、いかなる方法によっても戦闘員の行動を妨げてはならず、戦闘間・戦闘後を問わず自己の危険に於いて行動する。特に、無線電信その他の通信手段のために暗号を所持し、または使用してはならない。中立国の港における停泊に関し、軍艦と同一視されない。病院船に改装された商船は、敵対行為が継続する期間を通じ、他のいかなる使用にも充ててはならない。病院船に対する保護は、それが人道的任務から逸脱して敵に有害な行為を行うために使用された場合を除く他は消滅しない。敵に有害な行為を行った場合でも、全ての適当な場合に合理的な期限を定めた警告が発せられ、かつその警告が無視された後でなければ消滅させることができない。病院船が秩序維持・自衛・傷病者防衛のために武装していること、専ら航海または通信を容易にするための装置が船内にあること、傷病者・難船者から取り上げた携帯用武器・弾薬で適当な機関に引き渡されていない者が船内にあること、人道的活動が文民たる傷病者・難船者の看護に及んでいること、専ら衛生上の任務に充てられる設備及び要員を通常の必要以上に輸送していることを理由に、保護を剥奪してはならない。紛争当事国は、病院船を監督し、臨検捜索する権利を持つ。紛争当事国は、病院船からの援助を拒否し、それらに退去することを命じ、航行すべき方向を指定し、無線電信その他の通信手段の使用を監督し、重大な事情により必要がある場合には停船を命じた時から7日間を越えない期間抑留することができる。紛争当事国は、可能な限り、病院船の船長に与えた命令を、当該船長が理解する言語で、病院船の航海日誌に記入しなければならない。紛争当事国は、これらの命令が遂行されることを監督するのを唯一の任務とする監督官1名を、臨時に船内に乗せることができる。紛争当事国は、本条約の規定の厳格な遵守を証明させるため、一方的にまたは特別の合意により、中立国のオブザーバーを病院船に乗り込ませることができる。病院船の宗教要員、衛生要員、看護員、乗組員は、尊重かつ保護しなければならず、病院船で勤務している間は、傷病者の有無に関わらず、捕らえてはならない。病院船は、全ての外面を白色に塗り、海上及び空中からの最大限の可視度を確保するように可能な限り大きい1または2以上の濃色の赤十字を船体の各側面及び水平面に塗って表示し、メインマストには白地に赤十字の旗をできる限り高く掲揚する。全ての病院船は、その国旗を掲げることによって識別される。また、それらの病院船が中立国に属している場合、その他にそれらの病院船が指揮を受ける紛争当事国の国旗を掲げる。病院船の救命艇も同様の識別方法に従う。夜間や可視度が減少した際にもジュネーブ第2条約による保護を受けることを希望する場合、それらをその権限の下に置く紛争当事国の同意を条件として、その塗装と特殊標章を十分に明白にするため、必要な措置を執らなければならない。参考:日本赤十字社社史稿第6巻、ベーシック条約集2018
<病院船(日本海軍)>:明治38年から大正5年まで海軍艦船の正式の類別として病院船が制定されているが、1隻も編入されなかった。マル五計画で計画番号J-22として建造する計画があったが、策定途中で省かれている。結局全て特設病院船で間に合わせた。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門
<病院船(日本赤十字社)>:日本赤十字社戦時救護規則で救護団体の1つとして定められており、主任務は陸海軍の傷病者及び難船者の収療・輸送である。明治30年秋に全長90m・幅12m・総トン数2600トン・速力13ノットの2隻をヨーロッパに発注し、明治32年5月に博愛丸、6月に弘済丸が就航した。平時は民間客船として使用し、戦時は病院船に艤装する方式である。2隻とも明治33年に勃発した北清事変に早速投入されている。大正3年9月、第1次大戦救護のため、博愛丸と弘済丸を派遣した。大正11年5月1日改正の規則では陸海軍に2隻を編成するよう規定されていた。昭和17年7月27日改正による編成は以下の通り。救護医長1人、救護部部長1人、救護医員5人、救護調剤員1人、救護看護婦監督1人、救護書記4人、救護調剤員補1人、救護看護婦長2人、救護看護婦50人、磨工(治療器械の研磨、修理、保存等に従事する救護看護人)1人、役夫若干、必要に応じ通訳。参考:日本赤十字社社史稿第5巻、人道・博愛-百年のあゆみ
<病院船(日本陸軍)>:船内の医療設備は最小限で、主に戦傷病者の後送を行う。日露戦争では18隻が478回航走した。参考:敷設艦 工作艦 給油艦 病院船、人道・博愛-百年のあゆみ
<病院付衛生兵>:衛生兵(日本陸軍)を参照。
<病院天幕>:陸上自衛隊衛生科部隊(師団衛生隊)の医療用テント。中間幕(通常5枚)を増減させることで大きさを調節できる。A字型支柱吊り下げ型式屋根型で、麻製。全長16.5m、全幅5.5m、全高3.6m、軒高1.8m、床面積97.6平方メートル、重量1.3トン。収容人員40名。帝国繊維KK、東洋繊維KK製。これと野外手術システム、エアードーム、拡張コンテナなどを組み合わせて野外病院を展開する。参考:自衛隊装備年鑑1996、自衛隊装備カタログ1981、月刊軍事研究11,’08
<病院列車(日本赤十字社)>:日本赤十字社戦時救護規則で救護団体の1つとして定められており、主任務は陸海軍の傷病者の輸送である。大正11年5月1日改正の規則では陸海軍に2編成を備えるよう規定されていた。昭和17年7月27日改正による編成は以下の通り。救護医長1人、救護部部員1人、救護医員1人、救護調剤員1人、救護書記1人、救護調剤員補1人、救護看護婦長2人、救護看護婦20人、必要に応じ通訳・厨夫・役夫。参考:日本赤十字社社史稿第5巻
<評価支援隊>:陸上自衛隊唯一の常設対抗部隊。北富士演習場の富士訓練センターFTCで普通科部隊が戦闘訓練を行う際に対抗部隊を務めるのが主任務である。陸自最強の仮想敵で、準備万端で挑んできた相手を訓練開始直後に一蹴することもあり、勝利といえる戦果を挙げたのは2016年度の第18普通科連隊、2017年度の第8普通科連隊、2019年度の第39普通科連隊くらいである。2002年3月、部隊訓練評価隊隷下に滝ヶ原駐屯地で新編された。2009年5月、それまでのオリーブドラブ作業服に代わり、新型の評価支援隊用迷彩服を装備した。2017年7月1-4日、戦車中隊が東富士演習場で第1施設団第101施設器材隊との協同訓練を実施。第1施設団による第101施設器材隊への訓練検閲を活用したもので、74式戦車によるMGBパネル橋の通過、対ヘリボーン戦闘における機動打撃の訓練を行った。2020年11月23日と28日、山梨地本の支援で、自衛官採用試験合格者17名に広報を行った。2021年4月3-11日、東富士演習場整備に参加。ついでに炊事能力向上のため炊事に慣れていない若手隊員を含む炊事班を隊本部に臨時編成し、駐屯地からの運搬食と見紛うほどのクリームシチューを完成させた。参考:朝雲、滝ヶ原駐屯地ホームページ
<評価支援隊用迷彩服>:陸上自衛隊評価支援隊が着用する迷彩服。2007年2月頃に制式化に向けた調整が開始され、2009年5月初めに全隊員への配備を完了した。迷彩作業服2型がベースで、チョッキ型の交戦評価装置を着けやすいように胸ポケット上端が斜めに切り取られている他、機械化歩兵としての運用を考慮し、戦闘服装甲用のような襟首の取っ手状の加工(乗車車両が被弾して負傷した場合に外から引っ張り出すのに使う)や上着の腰回り裏側のベルト通し(ズボンと連結させて繋ぎ服にできる)が追加され、襟元の固定をベルクロ式にしている(車両から引っ張り上げる時に外れるので首が絞まらない)。迷彩の配色はススキの多い富士演習場に合わせた薄茶、濃茶、濃緑、濃紺の4色で、模様を大きい斑状として訓練部隊が着用する迷彩作業服2型と区別しやすいようにした。参考:朝雲
<評価試験軍団>:アメリカ陸軍の兵器試験評価部隊Army Test and Evaluation Command(ATEC)。航空機、車両、火砲などアメリカ陸軍が使用する兵器全般の試験評価を行うのが主任務である。アラバマ州レッドストーン試験センターの陸軍飛行試験総局、フォート・ラッカーのアメリカ陸軍航空医療研究所飛行システム部門、ユマ演習場、フォート・フアーチュカなどで航空機の試験評価を行う。参考:月刊航空ファン2,’16
<飛鷹型>:日本海軍特設航空母艦(商船改造空母)。日本郵船の北米航路客船出雲丸として神戸川崎造船所で起工されたが、資金の6割は政府が負担して戦時には海軍が徴用することになっており、建造中の昭和15年9月に空母への改造が決まり、昭和16年2月に海軍が購入して改称した。艦首はファッション・プレート型で、バルバス・バウを持つ。船首ブルワークは客船設計時の半分に短縮され、舷外電路とパラベーン用フェアリーダーを装着した。木張りの飛行甲板は客船時のプロムナードデッキを延長したもので、強度甲板のため伸縮継手は設けられていない。大きさは全長210.3m、前端幅16m、中央幅27.3m、後端幅25m。エレベーターは前後に1基ずつあり、大きさはどちらも14m×14mである。飛行甲板前端には艦首表示灯、中心線表示灯、風向指示蒸気照明灯があり、昇降式マストと前部エレベーターの間には第1滑走制止柵(移動式)、呉式四型着艦制動装置第1横索、着艦照明灯が装備されている。前後エレベーター間には前から順に第2横索、第2滑走制止柵(空廠式三型、固定式)、第3滑走制止柵(固定式)、第3横索、第4滑走制止柵(移動式)、第4-9横索が設置され、第7横索両端に着艦指導灯の照星灯、第8横索右舷と第9横索左舷に着艦指導灯の照門灯が取り付けてある。後部エレベーター左横と右後方には110cm探照灯があり、左の探照灯直後に起倒式4トンクレーンが装備され、後部両舷に艦尾張出表示灯があり、その右舷側根元に甲板状態信号燈が設けられ、飛行甲板後端には艦尾標示灯が5つ並ぶ。格納庫は2段式。艦橋は煙突と一体化されて飛行甲板右舷やや前方、舷側線の外側に設置されていて、甲板は5層。一番下の飛行甲板平面には方位測定室、信号機格納所などがある。その上が下部艦橋甲板で、無線電話室、方位測定室などがあり、前方の露天甲板に方位測定器用ループ・アンテナや九一式高射装置などを搭載した。その上が上部艦橋甲板で、操舵室や作戦室兼海図室などがあり、前方の露天甲板には探照灯管制機兼上空見張方向盤が、右舷スポンソンには60cm信号用探照灯が設置されている。その上が羅針艦橋甲板で、羅針艦橋や発着艦指揮所が設けられており、最上部の露天甲板は防空指揮所として双眼望遠鏡、1.5m測距儀、三脚式アンテナマストなどが搭載された。また、後部からは26度外側に傾斜した煙突が突き出しており(大鳳型のテストベッドらしい)、その左舷側及び後方には双眼望遠鏡、60cm信号用探照灯、方位測定器用ループ・アンテナなどが設置されている。機関室及び缶室は縦横水防隔壁で仕切られており、舷側は船体外板と強度鋼板の二重張りである。全長219.32m、最大幅26.7m、平均吃水8.15m、基準排水量24140トン。主機は川崎式オール・ギヤード・タービン2基、主缶は川崎ラ・モント式強制循環重油専焼缶(蒸気性状3.92MPa、420℃)6基、出力56250馬力、2軸推進(プロペラ直径5.5m)、速力25.5ノット、重油搭載量4100トン、航続距離12251海里(18ノット)。兵装は四〇口径八九式十二糎七高角砲6基(前部エレベーター左舷に2基・右舷に1基、飛行甲板中央右舷に2基、後部エレベーター左舷に1基)、25ミリ3連装機銃8基(左舷中央に4基、右舷後方寄りに4基)。射撃指揮装置は九四式高射装置2基(艦橋前部と左舷側後方)、機銃射撃装置4基(機銃の間に両舷2基ずつ)。装甲厚は舷側50mm。搭載機は、零戦15機(常用12機、補用3機)、九九式艦爆20機(常用18機、補用2機)、九七式艦攻18機(常用18機)の計画で、8-9機を飛行甲板に繋止することとしたが、九七式艦攻の搭載は竣工後(昭和17年7月?)にずれこんでいる。乗員1187名。昭和17年7月に飛鷹が竣工した。速力に難があり、カタパルトも無く、新型機の運用は不可能だった。参考:日本航空母艦史、図解日本の空母、月刊世界の艦船12,’24、9,’14、日本海軍艦隊総覧
<飛鷹型(改装)>:昭和17年夏、二一号電探を装備し、艦橋最上部のアンテナマスト直前にアンテナを設置した。この頃の搭載機は零戦21機、九九式艦爆18機、九七式艦攻9機。南太平洋海戦終了後の12月の搭載機は、零戦27機、九九式艦爆12機、九七式艦攻9機。昭和18年、飛行甲板左舷後部の110cm探照灯を撤去し、そこに引き込み式二一号電探を搭載した。また、飛行甲板前部両側に25ミリ3連装機銃2基ずつを追加している。昭和19年までに対空機銃を増設。艦橋構造物前後の飛行甲板に25ミリ3連装機銃を1基ずつ、下部艦橋甲板後方に25mm単装機銃を2丁装備し、艦橋最上部のアンテナマストに逆探アンテナを設置した。昭和19年6月、マリアナ沖海戦時の搭載機は零戦27機、九九式艦爆18機、天山6機。参考:図解日本の空母、日本航空母艦史
<標桿>:間接照準機材の1つ。要するに2本の棒で、砲の照準器で覗いて1本に並ぶように立てて方位の基準にする。前進観測班や観測所も、標桿を基準に目標方位を指示する。発射反動などで砲がずれたら、1本に並ぶように砲の位置を戻せば良い。参考:MAMOR vol.146
<錨鎖>:錨と船を繋ぐ鎖のこと。停泊する水深の10-20倍の長さのものを使用し、海底との摩擦力により、錨と共に船を留め置く働きをする。錨を揚収する度に塗装が剥げて錆が浮いてくるので、安全管理のためその都度塗り直す。参考:図解雑学 船のしくみ、MAMOR vol.149
<錨鎖>:自衛隊の機器。住友重機械ハイマテックス機器が受注している。参考:月刊軍事研究4,’18
<表示器>:自衛隊の機器。海外物産が受注している。参考:月刊軍事研究8,’18
<病室(日本海軍)>:日本海軍の艦船や陸上部隊に置かれていた救護所。軍医長と看護科員がおり、体調不良の者の診察、検便、予防接種、疾病検査などが行われる。患者は容態により入室(病室の隣の部屋に入院)、休業(居住区で釣床に寝る)、軽業(軽作業のみ可能。毎日診察を受ける)に分類された。風邪などで仕方無く受診すると他の班員も労ってくれるが、性病の場合には誰も相手にしてくれない。艦内の入室で済まない重症者は寄港先で上陸させて本格的な入院治療を受けさせる。参考:海軍よもやま物語
<表示評価試験装置(航空機用)>:自衛隊の機器。横河電機製。参考:月刊軍事研究12,’11
<標準A掃海具>:イギリスが第2次大戦時に開発した磁気掃海具。多数の棒磁石をワイヤーに取り付けたものである。参考:月刊世界の艦船4,’18
<標準型戦艦>:アメリカ海軍の戦艦運用コンセプト。1911年から研究され、1912年に完成した。実戦では複数の戦艦を纏めて運用するので、単艦性能を追求するよりは、攻撃・防御・機動力といった各種性能を標準化して適用した方が使いやすいというものである。これに基づき、ネバダ級、ペンシルヴェニア級、ニュー・メキシコ級、テネシー級、コロラド級を建造した。参考:月刊世界の艦船4,’20
<標準原子炉>:S5Wを参照。
<標準原爆>:Nominal atomic bomb。威力が20キロトン相当の原爆のこと。他国の資料を得ずに一から実用的な原爆を設計すると大体この辺りの威力になる。核兵器の威力増大に伴い、1950年代後半には早くも死語になった。参考:月刊軍事研究10,’10
<標準運航重量>:運航重量を参照。
<標準光源システム>:自衛隊の機器。穂高電子製。参考:月刊軍事研究4,’18
<標準システム>:電波航法の1つで、地上の基準点に設置された送信装置を航法座標として移動体の目的地に対する相対位置を測定する。放射状方式、円形方式、双曲線方式などがある。参考:図解・電波のしくみ
<標準周波数校正システム>:自衛隊の機器。日本電計製。参考:月刊軍事研究10,’11
<標準ショック・アブソーバー>:ツインチューブ式ショック・アブソーバーを参照。
<標準大気>:海抜0m、気温15℃での大気状態を指す。航空機設計の時などに用いる、計算上の値である。大気密度1.225kg/立方メートル、気圧1013.25hPa、音速340.3メートル毎秒、重力加速度9.8067メートル毎秒毎秒。参考:航空機設計法、月刊JWings3,’03
<標準大気表>:海抜0mでの大気が標準大気だった時に、その上空における大気状態(温度、気圧、密度、音速など)を高度別に表にしたもの。参考:航空機設計法
<標準型ミサイル試験用器材>:自衛隊の機器。三菱商事が受注している。参考:月刊軍事研究7,’10
<標準型ミッション計画作成システム>:AFMSSを参照。
<標準ホーンアンテナ>:自衛隊の機器。キーコム製。参考:月刊軍事研究12,’16
<飛鷹戦闘機隊>:昭和17年、飛鷹の竣工を受け、岩国・鹿児島・笠野原基地で訓練を開始した。9月14日、佐伯で総合訓練を終了し、飛鷹に搭載された。10月17日、9機でガダルカナル島爆撃に参加。10月22日、一部が隼鷹に移乗。10月23日、16機でラバウルに進出、10月24日からガダルカナル島攻撃に参加した。11月1日、ラバウル進出部隊の一部がブイン基地に前進し、第3次ソロモン海戦に参加。11月11日、ラバウル進出部隊がトラックに帰投。12月14日、ブイン基地前進部隊が本土への帰還を開始。12月18日、飛鷹に全機収容された。昭和18年4月2-17日、27機でい号作戦に参加し、26機を撃墜(不確実11機含む)した。7月上旬、ブインに進出し、7月15日、龍鳳戦闘機隊に改編された。11月1日に再建され、零戦24機でシンガポールにおいて訓練を行った。12月末からカビエンに派遣された。1月25日からラバウルに進出。2月20日、トラックに帰投。80機を撃墜したが、12機を失った。その後、第652航空隊に再編されている。参考:日本海軍戦闘機隊
<ひょうちん>:兵庫地方協力本部のマスコットキャラ。青森県弘前市在住のデザイナーが兵の文字を基調にデザインしたもので、2010年3月に決定した。2014年11月1-3日、ゆるキャラグランプリ2014の企業・その他部門で89位に入った。2015年、ゆるキャラグランプリ2015で兵庫県内45キャラクター中第4位となった。2016年7月17-18日、阪神基地隊サマーフェスタに参加。2018年6月22日、兵庫地本が神戸防災合同庁舎で行った募集強化団結式に参加。2021年3月6日、第3師団第3音楽隊が東リいたみホールで行った定期演奏会に参加。8月6-7日、姫路駅前にぎわい広場で市街地広報を行った。2022年5月20-22日、姫路お城まつりで広報を実施。12月23日、姫路地域事務所が行ったクリスマス限定企画の缶バッジラリーに参加した来所者に対し、プレゼントを手沙汰した。参考:朝雲、MAMOR vol.110、月刊JWings8,’22
<標定>:座標で位置を特定すること。参考:MAMOR vol.135
<標定機>:敵陣地の座標を地図上に標定するための機械。参考:日本陸軍兵器資料集
<標定銃>:スポッティング・ライフルを参照。
<標的艦>:砲撃・爆撃・雷撃などの訓練の際に標的の役目をする艦。船体が大型なので荒天下の洋上でも使用できる。参考:小艦艇入門
<標的艦(日本海軍)>:高速で曳航できる第1種標的の完成見込みが立ったのに合わせ、大正12年に特務艦の下の類別として艦種が制定され、旧式戦艦摂津が分類された。要するに標的曳航艦であり、標的を引っ張るだけなら他艦でも可能なので、昭和に入ると予備艦に編入されている。その後艦船の無線操縦技術が実用化され、自身が標的となる無人標的艦へと改造することになり、軍縮条約切れで装甲の復活が可能となったのに合わせて昭和12年に完工した。昭和15年には爆撃回避訓練にも使えるよう有人標的艦への改造が行われている。摂津の無線操縦を担当していた駆逐艦矢風も昭和17年に標的艦へと改造した。新造艦としては昭和16年度計画で波勝、改マル五計画で大浜を建造している。訓練弾が煙突に入り込んで缶室を直撃しないよう、煙突頂部にはソロバン珠のような蓋を被せた。参考:小艦艇入門、日本海軍特務艦船史、月刊丸3,’14
<標的機>:射撃訓練標的として使用される航空機のこと。実機改造のフルスケール空中標的と、使い捨て無人機のサブスケール空中標的がある。予算が潤沢な軍隊では撃墜するが、海自などは標的機をわざと外すオフセット射撃を行い(標的機操縦員も着弾寸前に回避行動を取る)、誤差が一定範囲に収まっているかどうかで命中を判断し、標的機を繰り返し使用する。参考:月刊JWings3,’15、11,’19、月刊航空ファン3,’17
<標的機整備隊>:海上自衛隊の部隊。訓練支援艦で使用する無人標的機の修理整備を主任務とする。2002年3月22日、第11海上訓練支援隊から改編されて第31航空群隷下に新編された。参考:岩国航空基地ホームページ、月刊世界の艦船8,'24、月刊JWings11,’19
<標的機多重管制装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究9,’12
<標的機用えい航索>:自衛隊の機器。日本飛行機製。参考:月刊軍事研究1,’15
<標的機用トランスポンダ>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究8,’17
<標的機用フレア>:自衛隊の火工品。日本工機製。参考:月刊軍事研究4,’14
<標的機用フレアⅠ型>:自衛隊の火工品。日本工機製。参考:月刊軍事研究10,’14
<標的機用フレアⅢ型>:自衛隊の火工品。日本工機製。参考:月刊軍事研究10,’14
<標的発射装置>:自衛隊の機器。川崎重工製。参考:月刊軍事研究1,’19
<標的用えい航索>:自衛隊の機器。日本飛行機製。参考:月刊軍事研究8,’11
<標的用テレメータ装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究3,’16
<標的用フレア>:自衛隊の火工品。日本工機製。参考:月刊軍事研究5,’19
<標的用リフレクタ等器材>:自衛隊の機器。ワイマックス製。参考:月刊軍事研究4,’18
<病天>:業務用天幕2型病院用を参照。
<錨泊>:洋上で錨を降ろして停船すること。参考:月刊軍事研究2,’05
<表面硬化鋼>:ニッケル、クロム、モリブデンなどを添加した装甲鋼板表面を浸炭焼き入れして硬度を増加させ、弾丸を粉砕する装甲のこと。日本陸軍では浸炭鋼板と総称する。それまでは硬くて脆い鋼鉄に粘り強い錬鉄を貼り合わせた複合甲鉄を使っていたが、装甲板表面のみを加熱して高圧水ジェットにより急速焼き入れを行う傾斜硬化法が導入されたことにより、硬い表面で弾丸を砕き、粘りのある内側で割れを防ぐという表面硬化鋼が実用化され、半分の重量で同等の防御効果を発揮した。硬化層が厚いほど敵弾に対して有効だが、敵弾を破砕できない場合には脆い硬化層が砕けてしまうので、同じ厚さの均質圧延鋼板よりも耐弾性が低くなる。また、撃角が大きい場合には弾丸を破砕するよりも跳弾させた方が有効だが、これも均質圧延鋼板の方が有利である。アメリカのハーヴェイが発明した浸炭鋼板(ハーヴェイ鋼板)、日本が実用化した非浸炭鋼板(VH甲鈑)、ドイツが開発した火焔焼入鋼板がある。第2次大戦初期までは良く使用されたが、徹甲弾の発達(被帽徹甲弾APCの登場)で被帽は弾き返しても本体を弾き返せなくなった、コストが高い、溶接や切削が困難、傾斜させても防御力の向上効果が得られにくいといった欠点があり、次第に廃れた。参考:続・海軍製鋼技術物語、月刊丸4,’07、月刊軍事研究5,’04、月刊グランドパワー7,’03、月刊戦車マガジン1,’88、帝国陸軍戦車と砲戦車、月刊世界の艦船4,’17
<浸炭鋼板>:Cemented Armor。鋼板と鋼板の間に木炭などの浸炭材を挟み、外側から加熱して鋼板表面にのみ炭素を染み込ませ、染み込んだ側だけを赤熱させて急冷、表面だけを焼き入れする。後に木炭でなく灯油ガスを利用する方法が開発された。炭素が染み込む速度が1日1ミリで、生産性に劣るという欠点があった。参考:月刊丸4,’07、月刊軍事研究3,’09
<火焔焼き入れ鋼板>:鋼板表面に天然ガスと酸素を吹き付けて発火させ、一気に鋼板を加熱切断するガス切断法を応用したもので、ガストーチにより鋼板表面だけを赤熱させ、水を吹き付けて急冷、表面のみ硬度を上昇させる。1939年に開発されてⅣ号戦車D型の前面装甲に採用され、その後も各戦車に使用された。鋼板が薄いと裏まで加熱されてしまい、厚いと表面硬化の効果が薄れるため、厚さ30-80mmの装甲板(TL4024、TL4030、TL4034)にのみ適応されている。参考:月刊丸4,’07
<非浸炭鋼板>:浸炭作業に手間がかかるため、浸炭作業を省いたもの。1906-07年にアメリカのベスレヘム社とミドベール社が開発して戦艦に使用したが、納入後に数%から10%の割合で破壊が発生したため、製造中止になった。日本は大和級戦艦に搭載すべく非浸炭のVH甲鈑を実用化している。参考:続・海軍製鋼技術物語
<表面硬化鋼(日本海軍)>:撃角が比較的小さいと予想される舷側垂直防御と防楯に使用されており、水中防御や水平防御は均質圧延鋼板を用いた。また、厚さ11インチ・279.4mm以下の鋼板は製造法上の制約から作るのが難しい(テスト用としては厚さ4インチ・101.6mmのVC甲鈑及び7インチ・177.8mmのVH甲鈑が発見されている)ので、専ら主力艦に使用されている。参考:続・海軍製鋼技術物語
<表面効果船>:略称SES(Surface Effect Ship)。双胴船体とエアクッション艇(ホバークラフト)を合わせたような形をしており、船体左右は双胴だが、前後をフレキシブル・スカートで覆って船内に空間を作り、リフト・ファンから空気を流し込む仕組みになっている。造波抵抗が低く、低出力低燃費で高速を発揮でき、水中部分が少ないので安定航行性にも優れる。スカート下部からの空気漏れが少ないのでリフト・ファン出力をあまり大きくせずに済み、旋回時のスカート変形も少ないので横滑りしにくい。水中爆発などにも残存性が高く、単胴船体と比較して衝撃を3分の1、構造材の最大変位を半分に抑えることが可能。アメリカ海軍実験船SES-100Aは最大速力91.9ノットを記録した。ノルウェー海軍オクソイ級機雷掃討艇、アルタ級掃海艇、ショルド級高速哨戒艇に採用されている。参考:月刊軍事研究1,’00、12,’11、図解雑学 船のしくみ、図解船の科学、日本の防衛戦力Part3
<表面抗力>:摩擦抵抗を参照。
<表面サーチレーダー>:Surface search radar。2次元平面を対象とする捜索レーダーのこと。船舶監視用レーダーなどがこれにあたる。参考:レーダの基礎
<表面層ダクト>:層深を参照。
<ピョートル・イリイチョフ>:ロシア海軍プロジェクト12700アレクサンドリト級掃海艇。2023年4月19日2000過ぎ、ウダロイⅠ級駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・パンテレーエフ、ステレグシュチイ級フリゲート333ソブエルシェンヌイ、同アルダー・ツィデヌジャポフ、タランタルⅢ級ミサイル艇R-11、同R-14、同R-18、同R-19、同R-20、同R-298、マーシャル・ネデリン級ミサイル観測支援艦マーシャル・クリロフ、ロプーチャⅠ級戦車揚陸艦アドミラル・ネヴェリスコイ、ロプーチャⅡ級戦車揚陸艦ペレスヴェート、ドゥブナ級補給艦1隻、プロジェクト12700掃海艇アナトーリー・シュレーモフ、オホーツク型航洋曳船1隻と共に、宗谷岬北東40kmを西に航行するのを、PG-825わかたかと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらはオビ型病院船1隻と合流し、4月20日にかけて宗谷海峡を西に進んでいる。参考:月刊世界の艦船3,’24
<ピョートル・ヴェリキー>:ロシア海軍キーロフ級原子力ミサイル巡洋艦4番艦/11442型原子力ミサイル巡洋艦3番艦Pyotr
Velikiy。ユーリー・アンドロポフから1992年5月27日に改称された。1998年4月9日竣工、北洋艦隊に配備された。1999年、北洋艦隊大演習に参加。2000年、クルスク沈没事故で捜索に参加。2001年8月、ロシア海軍大演習に参加。2002年、北洋艦隊大演習に参加。2003年6月、北洋艦隊・バルチック艦隊協同演習に参加。2008年9月22日、セベロモルスクを出港。11月10-14日、ベネズエラと軍事演習を実施。2009年1月中旬、南アフリカのケープタウンを訪問。その後はソマリア沖に立ち寄った他、インド海軍と合同演習を行った。1月31日、インドのマルマガオを出港。2010年、修理のためゼベズドチカ特別船舶修理工場に3億5600万ルーブルが振り込まれたが、所長と北洋艦隊高官が2億6500万ルーブルを横領してしまい、修理を受けられなかった。5月16日、下対馬の南東22kmを北東に航行するのをDD-126はまゆきが確認した。5月18-19日、ミサイル巡洋艦ワリヤーグなど太平洋艦隊艦艇と訓練を実施。5月20日、沿海州ストレロクに到着。7月24日、ミサイル巡洋艦モスクワと共に上対馬の南東40kmを航行するのをDD-127いそゆきが確認した。2013年9月、北極圏に展開した。その後、バレンツ海でのミサイル発射訓練に参加している。2016年10月15日、空母アドミラル・クズネツォフ、駆逐艦セヴェロモルスク、駆逐艦ヴィッセ・アドミラル・クラコフと共にムルマンスクを出港。10月21日、英仏海峡を通過。11月1日、地中海に到着してシリア作戦に参加。2017年1月6日、シリア作戦を終了。1月27日、英仏海峡を通峡。7月30日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日の式典に参加。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、月刊軍事研究1,’09、3,’17、月刊世界の艦船3,’00、5,’02増刊、8,’10、4,’11、1,’12、12,’13、1,’17、11,’17
<ピョートル・モルグノフ>:ロシア海軍1171.1型イワン・グレン級戦車揚陸艦2番艦Pyotr Morgunov。2015年6月11日起工。2017年に就役して黒海艦隊に配備される予定だったが、2020年12月23日に就役し、北洋艦隊に配備された。2021年7月25日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日祝賀行事(艦艇パレード)に参加。参考:月刊世界の艦船2,’17、6,’15、3,’21、10,’21
<尾翼>:Tail
unit、Tailplane。航空機の尾部に付ける翼で、縦安定確保/縦操縦と方向安定確保/方向操縦が主な役割である。一般には垂直尾翼1枚と水平尾翼2枚を付けるが、垂直尾翼を2枚にしたり(双垂直尾翼)、V字にして垂直・水平尾翼を兼用させたり、水平尾翼を省いたり(無尾翼)、全部付けなかったり(全翼機)したものもある。尾翼取付部の胴体尾部や、先尾翼(カナード翼)も含めてEmpennageと呼んだりもする。参考:航空用語事典増補改訂版、航空機設計法
<ヒヨコ>:水陸両用基本訓練課程を参照。
<ひよどり>:ASY-92(特務艇)またはMSI-700(掃海艇)またはPC-320(駆潜艇)またはUH-1B多用途ヘリ(陸自)またはUH-1H多用途ヘリ(陸自)を参照。
<鵯>:日本海軍鴻型水雷艇2番艦。昭和11年12月20日竣工。昭和12年9月4日、基隆を出港。9月6日、上海に到着。9月14日から10月11日、第1水雷隊の一員として、馬鞍群島-呉淞の陸軍部隊集中輸送の護衛任務に就いた。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は第15戦隊所属だった。昭和17年11月24日、ニューギニアのラエの東13海里で爆撃を受け、至近弾により損傷した。昭和18年2月16日、ラバウル南方で第18号駆潜艇と共にSS-219アンバージャックを撃沈した。昭和19年11月17日、海南島の南でSS-253ガンネルの雷撃を受けて沈没した。昭和20年1月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船8,’20
<ひよどり型>:海上自衛隊特務艇。元はみずとり型駆潜艇PC-320ひよどりで、1998年に改造されてASY-92ひよどりとなった。迎賓・広報艇で、洋上パーティーなどにも使用される。40mm連装機関砲、短魚雷3連装発射管、ヘッジホッグ、爆雷投下軌条、爆雷投射機、FCS、ソナー、電波探知装置などの戦闘装備を全て外し、艦橋後方から艦尾にプロムナードデッキを張り、休憩室や会食室を新設し、アイボリーホワイトで塗装した。全長60m、全幅7.1m、深さ4.4m、吃水2.5m、基準排水量390(430?)トン。主機は川崎MAN社製V8V22/30ATL型ディーゼル2基2軸3800馬力、速力20ノット。乗員35名。参考:自衛隊装備年鑑1996、月刊JWings1,’99
<ピョレミルスキ>:フィンランド空軍試作戦闘機Pyorremyrsky(台風)。継続戦争でソ連戦闘機に対抗するため、Bf109戦闘機と同じ液冷エンジンを装備した機体として1942年11月からフィンランド国営航空機工場が開発し、1945年初めに完成した。胴体は木金混合、主翼は低翼配置の木製、降着装置は引き込み脚。全長9.16m、全幅10.35m、全備重量3310kg。エンジンはダイムラーベンツ社製DB605ACガソリン(1475馬力)単発、最大速度655km、実用上昇限度11430m、航続時間2.4時間(増槽あり)。固定武装は20mm機関砲1門、12.7mm機銃2丁。乗員1名。初飛行が戦後の1945年11月となり、戦力は輸入したBf109戦闘機で十分だったため、試作機1機のみで量産されなかった。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊軍事研究11,’11
<ピョンタク>:ASR-27(救難艦)を参照。
<ピョンタク級>:イーデントン級救難艦(韓国海軍)を参照。
<ヒョンム1>:玄武1(弾道ミサイル)を参照。
<ヒョンム2>:玄武2シリーズ(弾道ミサイル)を参照。
<ヒョンム3>:玄武3シリーズ(巡航ミサイル)を参照。
<平壌地下鉄>:ホームは地下100m以上の所に作られており、幅が広く天井も高く、核戦争時にはシェルターとして使用されるらしい。参考:月刊丸8,’95
<比良>:日本海軍勢多型河用砲艦1番艦Hira(近江八景の1つ、比良の暮雪から)。大正12年8月24日竣工、二等砲艦に類別された。大正14年6月、重慶に警泊中、乗員が酒に酔って中国人を殴ったため、日本人経営旅館襲撃事件に発展、居合わせた本艦の主計長が暴行を受けた。昭和6年6月1日、単なる砲艦に類別変更された。昭和12年7月7日、日華事変勃発時は第11戦隊に所属していた。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は第1遣支艦隊所属だった。昭和18年5月31日、漢口上流で爆撃を受けて小破した。昭和19年8月17日、揚子江丸江で爆撃を受けて大破した。11月26日、揚子江上流の安慶で爆撃を受けて大破した。昭和20年春に上海で解体され、昭和22年5月3日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、月刊世界の艦船11,’00、日本海軍艦隊総覧
<ヒラーHT.Mk2>:HTE海外シリーズ(ヘリ)を参照。
<ピラーニャ装甲車シリーズ>:スイスのモワグ社が開発した装輪装甲車シリーズPiranha(ピラニア)。装軌式のトルナード装甲車が売れなかったため、装輪に切り替えて1970年代から開発したものである。車体基本レイアウトは右前部にエンジン、左に車長と操縦手、中央から後部が兵員室で、前4輪が操向し、ブロックを増やすことで4輪・6輪・8輪・10輪装甲車になる。1977年にカナダ陸軍が採用したが、モワグ社には生産能力が無かったのでGMカナダ社にライセンス生産権を売却し、以降はGM社の製品としても売り込みが図られ、各国に採用された。参考:月刊軍事研究10,’03、月刊PANZER5,’79、8,’10
<ピラーニャⅠ>:1976年に開発された。7.62mm通常弾に対する防御能力を持つ。車輪はジープサイズの小型なもので、サスペンションはステアリング・ホイールがコイル・スプリング、それ以外はトーションバーである。25mm機関砲塔を装備する。全長6.25m、全幅2.66m、全高1.985m、自重9.3トン、総重量12.5トン。エンジン出力300馬力、水上最大速力10km。乗車歩兵7名。4輪型のグリズリーと6輪型のクーガーがカナダ軍に、8輪型のLAVがアメリカ海兵隊に採用された。1993年頃に4輪型の生産を打ち切っている。参照:月刊PANZER3,’04、月刊軍事研究9,’16、9,’04
<ピラーニャⅡ>:タイヤ径を大きくして不整地踏破性を向上させ、ブレーキを改良、車体長を延長したもの。7.62mm徹甲弾に対する防御力を持つ。戦闘重量14トン(8輪型)。エンジン出力300馬力(オプションで強化可能)。水上航行可能。25mm機関砲を装備する。スイス陸軍が1997-2002年に515両を導入した。8輪型がバイソンとしてカナダ軍に採用され、他にもカタール軍やオマーン軍が配備している。参考:月刊PANZER9,’04、8,’10、月刊軍事研究10,’03、The Military Balance 2001・2002
<ピラーニャⅢ>:ピラーニャⅡが防御力不足だったため、車体を再設計して装甲を強化したもの。6輪・8輪・10輪の3タイプがある。タイヤは1200R20ランフラットで、ABSを採用してブレーキを強化した。ボルト止めの増加装甲キットが用意されている他、スポール・ライナー、耐地雷装甲、パワーパック5種類がオプション選択できる。水上航行可能。スイス陸軍が2000年に10両(最大120両まで引き上げるかも)を発注した。アイルランド軍(ピラーニャⅢH)、アメリカ陸軍(ストライカー)、イギリス軍、オーストラリア軍、カナダ軍(コーディアック)、サウジアラビア軍、チリ軍などが採用している。参考:月刊PANZER7,’04、3,’03、8,’10、The Military Balance 2001・2002
<ピラーニャⅢ(6×6輪)>:重量12.5トン。エンジン出力300-350馬力。乗員14名。参考:月刊軍事研究2,’13
<ピラーニャⅢ(8×8輪)>:車体長6.93m、全幅2.66m、全高2.17m、戦闘重量18.5トン。エンジンはキャタピラー社製C9ディーゼル(450馬力)、路上最大速度100km、水上最大速力10km、航続距離600-800km。ペイロード6トン。乗員3名+乗車歩兵11名。参考:月刊軍事研究2,’13
<ピラーニャⅢ(10×10輪)>:1993年に発表された。14.5mm重機関銃弾に抗堪できる装甲を持つ。通常は後方6輪を駆動し、前方4輪は操向のみだが、不整地では全輪が駆動する。タイヤは335/80R20XZL。総重量18トン。エンジン出力400-450馬力。乗員18名。GIAT社製105mm砲塔TML装備型、キャデラック・ゲージ社製105mm自動装填砲塔装備型、30mm機関砲塔装備歩兵戦闘車型、ボフォース40mm対空機関砲装備型、ADATS搭載型、装甲回収車型などのファミリーが輸出市場に提案されたが、採用されなかった。参考:月刊丸8,’95
<ピラーニャⅣ>:8×8輪軽装甲車。車内容積は12立方メートル以上と広く、付加装甲と各種兵器システムを搭載可能で、レベル5の最高防御レベルなら車体前面装甲は25mmAPDS弾や30mmAP弾を防御でき、8kgまでの対戦車地雷に耐えられる。統合デジタル化車両情報システム、中央タイヤ圧規制システム、ランフラットタイヤ、高さ調整可能な油気圧式懸架装置、滑り止めブレーキシステム、牽引具を備えており、空調システム、火災探知・消火、ウインチ、NBC防護キットなども搭載可能。標準武装は12.7mm重機関銃M2だが、25mm機関砲、30mm機関砲(アメリカATKガンシステム社製のものがテストされている)、105mm低反動砲装備の砲塔なども装備できる。車体重量15トン。エンジンはMTU社製ディーゼル(533馬力)、最大速度100km、航続距離750km。ペイロード10トン。C-130輸送機に搭載可能。参考:月刊軍事研究1,’01、5,’03、月刊PANZER3,’04、2,’02
<ピラーニャⅤ>:ピラーニャⅣの改良型。ジェネラル・ダイナミクス・ランド・システムズ社とモワグ社が共同で設立したジェネラル・ダイナミクスUK社が開発し、2007年11月にイギリス陸軍のFRES-UV候補になったが、2008年12月に取り消された。車体全周と下面にアーマテック社製のモジュラー装甲(25mm機関砲弾や自己鍛造弾地雷にも耐えられる)を装備し、兵員室のシートも耐地雷用シートに換装、イギリスの新型デジタル無線システムであるボーマンシステムを搭載する。車体下面は逆台形で、その下に駆動系を収容、全体ではほぼV字型をしている。燃料タンクは車体後部のランプドア横に装備されていて、被弾時に車内に影響を及ぼしにくい。サスペンションは独立懸架セミアクティブ式ハイドロニューマチックで、車高変更が可能。163馬力のAPUを装備する。プロテクターMC遠隔操作砲塔を搭載して歩兵戦闘車(乗員3名+乗車歩兵8名)にすることもできる。全長8.0m、全幅2.99m、全高2.34m、戦闘重量30-33トン。エンジンはMTU社製ディーゼル(出力540-600馬力)、最大速度100km、航続距離750km。ペイロード13-16トン。乗車歩兵11名。2008年後半に完成予定。スペイン軍が2015年に採用を決定したらしい。参考:月刊軍事研究9,’10、8,’06、2,’08、10,’08、3,’16、9,’16
<デザート・ピラーニャⅤ>:UAEに提案している砂漠型。タイヤを大型のミシュラン16.00R20に換装し、エアコンとフィルターを強化した。プロテクター遠隔操作銃塔を装備可能。戦闘重量33トン。エンジンはディーゼル(580馬力)、最大速度100km、航続距離550km。参考:月刊軍事研究6,’11
<ピラーニャ装甲車ファミリー>
<シャーク>:8×8輪シャシーを流用し、低姿勢の車体を搭載、フランス製FL12揺動砲塔(90mm滑腔砲搭載)を装備する。1980年代半ばに開発され、デモンストレーションも行われたが、採用国は無し。参考:月刊PANZER1,’02
<ピラーニャ装甲車・海外シリーズ>
<ASLAV>:ASLAVシリーズを参照。
<LAV-Ⅲ>:コーディアックを参照。
<LAV25>:LAV25シリーズを参照。
<Spz93>:スイス陸軍装甲兵員輸送車。ピラーニャの車体を大型化して増加装甲を張り付け、車体後部に追加燃料タンクを装備、タイヤを幅広型にした。1名用銃塔KUKAにリモコン式12.7mm機銃とてき弾発射機を装備する。サスペンションは前2軸がコイルスプリング、後2軸がトーションバー。ステアリングは前2軸である。戦闘重量12.3トン。エンジン出力300馬力、最大速度100km、航続距離780km。兵員輸送型は歩兵15名を収容できる。また、TOW対戦車ミサイル2連装発射機を装備する装甲ターレット、予備ミサイル8発、地上設置型TOW発射機を6輪型に搭載した対戦車型も配備している。参考:月刊軍事研究3,’97
<コーディアック>:コーディアックを参照。
<バイソン>:バイソンを参照。
<ピラーニャⅢ(デンマーク)>:デンマーク軍8×8輪装甲兵員輸送車。PKO用として1998年に2両(+オプション20両以上)を発注し、1999年に引き渡された。参考:The Military Balance 2001・2002
<ピラーニャⅢ(ベルギー)>:ベルギー軍8×8輪装甲兵員輸送車。イスラエルのFNハースタル社製12.7mm遠隔操作銃塔を装備する。2006年3月に99両発注した。参考:月刊軍事研究2,’13
<ピラーニャⅢ(ルーマニア)>:ルーマニア軍8×8輪装甲兵員輸送車。エルビット・システムズ社製12.7mm無人銃塔コングスバーグを搭載する。2006年9月に採用した。アフガニスタンとイラクに投入する予定。参考:月刊軍事研究2,’13
<ピラーニャⅢC(スペイン海兵隊)>:スペイン海兵隊装甲兵員輸送車。燃料タンクは被弾を避けるため車体後部のランプ上左右に搭載した。車体前面にグラスファイバー製波切り板、左右2・3輪の間にフロート、車体後部にプロペラ2基を装備しており、水上航行能力を持つ。タイヤ圧調整装置、パッシブ暗視装置、NBC防護装置が標準装備されており、40mmてき弾発射機と12.7mm機銃を装備する1名用砲塔を載せる。エンジンはキャタピラー社製C9ディーゼル(400馬力)、トランスミッションはZF社製オートマチック、水上最大速力11km。救急車、指揮車、工兵車、火力支援車、回収車、偵察車などのバリエーションがある。2003年から使用されており、2009-14年に21両が追加発注された。参考:月刊軍事研究10,’03
<ピラーニャⅢH(アイルランド陸軍)>:アイルランド陸軍装甲車。タレス社製FVT800銃塔(12.7mm機銃と7.62mm機銃1丁ずつ)を搭載する装甲兵員輸送車(乗車歩兵9名)型、40mm擲弾発射機装備の遠隔操作砲塔を持つ近接偵察車型、OTOメララ社製2名乗り30mm機関砲塔装備の中距離偵察車型を導入し、1999年から各型計80両を配備した。参考:月刊PANZER8,’10
<ピラーニャⅤ(イギリス陸軍)>:イギリス国防省装備整備局による将来型緊急展開部隊向け多目的装甲車(FRES-UV)に提案し、2007年9月から審査され、ボクサーとVBCIを破ってピラーニャⅤが2008年5月8日に暫定採用された。2012年からの配備を予定していたが、アップグレードに関する知的所有権の問題が解決できず、2008年12月に採用が取り消されてしまった。後に改めて各車の性能評価を行った結果、2018年に機械化歩兵車両MIVとしてボクサーの採用を決定、本車は没になっている。参考:月刊軍事研究2,’09、9,’10、月刊PANZER6,’18
<ピラーニャⅤ(デンマーク陸軍)>:デンマーク陸軍装甲兵員輸送車。M113の後継として309両を2019-2023年に配備する予定。参考:月刊軍事研究5,’16
<ピラーニャ装甲車・海外ファミリー>
<クーガー>:カナダ軍装甲偵察車Couger。グリズリーの銃塔をスコーピオン軽戦車と同じアルビス社製2名砲塔に換装している。兵装は76mm砲L23A1(40発)と7.62mm同軸機銃。乗員3名(車長、操縦手、砲手)。195両が生産された。参考:世界の軍用車両(4)、月刊PANZER9,’04、8,’10、10,’85
<グリズリー>:カナダ軍装甲偵察車Grisley。6輪型がベースで、車体前部右に操縦手席、その後ろに車長席、左に機関室、中央に戦闘室、後部に兵員室がある。戦闘室上面にはキャデラック・ゲージ社製1名用コンビネーション銃塔(通称1m銃塔。12.7mm機銃と7.62mm機銃を1丁ずつ装備)を搭載。兵員は後面の兵員扉から出入りする。全長5.97m、全幅2.53m、全高2.53m、重量10.5トン。エンジンはGMデトロイト・ディーゼル社製6V-53ディーゼル(215馬力)、トランスミッションはアリソン社製MT-650オートマチック、最大速度100km、航続距離600km。車体後部両側のプロペラで水上航行可能。乗員3名+乗車歩兵6-8名。1977年2月にGMカナダ社でのライセンス生産が決定し、1979年1月から269両が納入された。参考:世界の軍用車両(4)、月刊PANZER9,’04
<コヨーテ>:カナダ軍戦場偵察システム。LAV-25ベースの車体に偵察用装備を追加したものである。偵察用装備は、戦闘団キットではTVカメラ(有効距離18km)、レーザー測距器(有効距離10km)、熱線暗視装置(有効距離12km)を、旅団キットではマスト・マウント式センサーとして戦場監視レーダー(有効距離24km)である。後部兵員室には偵察員が右向きに座り、情報処理用コンピュータ・コンソールを操作する。乗員4名(車長、操縦手、砲手、偵察員)。1996年から量産された。参考:月刊PANZER7,’02、月刊軍事研究9,’00
<ハスキー>:カナダ軍野戦修理車。グリズリーの銃塔を外し、兵員室上部をかさ上げして車内作業スペースを確保、車体上面に吊り上げ能力4.5トン(1.7トン?)のHIAB650Aクレーンを搭載している。27両が生産された。参考:世界の軍用車両(4) 、月刊PANZER8,’10
<ピラーニャⅡ LCTS Mk.8砲塔搭載>:ピラーニャⅡ(8輪型)に、90mm砲装備のコッカリル社製LCTS Mk.8砲塔を載せたもの。カタール軍とサウジアラビア軍が採用した。参考:月刊PANZER9,’04
<ピラーニャⅡ TS90砲塔搭載>:ピラーニャⅡ(8輪型)に、90mm砲と同軸機銃装備のGIAT社製TS90砲塔を載せたもの。主砲弾は砲塔内に18発、車体に25発を収容する。追加燃料タンクを設ければ、行動距離を1000kmまで伸ばせる。サウジアラビア軍に納入されたらしい。参考:月刊PANZER9,’04
<ピラーニャⅡC ACV>:スウェーデン軍装甲センサー車両。参考:月刊軍事研究4,’99
<ピラーニャⅡC ASV>:スウェーデン軍戦闘指揮車。自主開発した10輪駆動型にジラフ多機能レーダーを搭載したもので、沿岸砲兵部隊に配備され、対空・対水上目標の監視・指示と、対地・対海上目標の砲兵射撃管制用に使用される。乗員6名(車長、操縦手、センサー操作員4名)。参考:月刊軍事研究4,’99
<ピラーニャⅢCBRN偵察車(スイス陸軍)>:スイス陸軍CBRN偵察車。タレス社製NBCR検知分析装置を搭載している。12両が発注された。参考:月刊軍事研究10,’12
<ピラーニャⅢMGS>:MGSはMobile Gun System(機動砲システム)の略。ピラーニャⅢの車体に105mm砲を背負い式に搭載した車両である。アメリカ陸軍ICBT(Interim Combat Battalion Team)でM1128ストライカーMGSとして採用され、2002年から配備された。参考:月刊PANZER3,’03
<ピラウ>:ドイツ海軍ピラウ級軽巡洋艦Pillau。1914年竣工。1921年、イタリアに引き渡された。参考:近代巡洋艦史
<ピラウ級>:ドイツ海軍軽巡洋艦Pillau級。元は1912年にロシアが発注したもので、第1次大戦勃発に伴い接収した。船型は船首楼型で、グラウデンツ級に似ているが、舷側装甲が無い。当初はロシア式の兵装を施してあり、ドイツ標準の10.5cm砲を搭載する予定だったが、ヘルゴラント海戦の戦訓から、15cm単装砲を装備することにした。全長135.3m、幅13.6m、吃水6.0m、満載排水量52522トン。主機は蒸気タービン、出力30000馬力、2軸推進、速力27.5ノット。兵装は15cm単装砲8門、8.8cm単装高角砲2門、50cm魚雷単装発射管2門、機雷120個。乗員442名。ピラウとエルビンクが1914-15年に竣工した。参考:近代巡洋艦史
<平賀譲>:日本海軍造船中将、東京帝大総長。夕張型軽巡や古鷹型重巡の設計で名を馳せたが、キレやすく、所構わず人を怒鳴りつけるという悪癖があり、海軍艦政本部第四部設計主任から海軍技術研究所所長に飛ばされてしまった。関東大震災後の海軍技術研究所再建にあたっては、研究環境の整備という観点から明治神宮造園主任を呼んで庭を整備させたが、緊縮予算の中で豪華すぎると難癖を付けられ、昭和6年に予備役に回されている。昭和9年4月、友鶴事件で飛ばされた藤本造船少将の代わりに嘱託として軍艦設計に復帰。昭和18年に死去した。参考:海軍技術研究所、近代巡洋艦史
<ひらしま>:MSC-601(掃海艇)を参照。
<平島>:日本海軍測天型敷設艇。昭和15年12月24日竣工。太平洋戦争開戦時は佐世保防備戦隊所属で、佐世保と九州北西海面の哨戒及び護衛任務に就いた。昭和18年2月から奄美大島方面に展開。7月21日に佐世保を出撃、上海への輸送船団を護衛した。7月27日、上海から戻る途中に五島列島の大瀬崎沖でSS-276ソーフィッシュの雷撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇
<平島型>:測天型(敷設艇)を参照。
<ひらしま型>:海上自衛隊掃海艇。すがしま型の改良型で、海自最後の木造掃海艇である。船型は長船首楼型で、煙突は後方視界を良くするため1本に戻した。対機雷戦装備は国産で固めており、S-10処分具を先行させることで針路前方の機雷を安全に処分でき、磁気・音響掃海具を常時搭載するため後甲板を広げた。S-10処分具をVDSとして使えるので、機雷探知ソナーはハル・ソナーとし、すがしま型でVDS巻上機を収容していた上構前部にはCICを備えている。CICは海自掃海艇として初装備で、最初の要員は護衛艦勤務者を配置転換したらしい。各種掃海装備、航法支援装置、自動操艦装置、OPS-39対水上レーダーはOYQ-201掃海艇情報処理装置とリンクしており、艦橋や戦闘指揮所で状況をリアルタイムで把握可能。主発電機は出力400kWのものを4基搭載しており、感応掃海具1型を自前の電源で運用可能。全長57m、幅9.8m、深さ5.2m(4.4m?)、吃水3m、基準排水量570トン、満載排水量650トン。主機は6NMU-TA(B)EⅠディーゼル2基2軸2200馬力、速力14ノット。掃海時低速航行用補助電気推進装置(出力230kW)を各軸に1基ずつ計2基装備する。兵装は20mm多銃身機銃1丁。OYQ-201掃海艇情報処理装置、ZQS-4機雷探知用ハルソナー、サイドスキャンソナー4型、S-10機雷処分具(後甲板左舷に露天係止)、感応掃海具1型、小型繋維掃海具1型(GPS付き)を搭載する。乗員45名。艇長、先任海曹、第1分隊(掃海科)、第2分隊(船務科・補給科)、第3分隊(機関科)の編成で、航海長は船務長が兼任する。16-18MSCで建造され、MSC-601ひらしま、MSC-602やくしま、MSC-603たかしまが2008-10年に就役した。参考:月刊丸1,’10別冊、月刊世界の艦船11,'17増刊、6,’09、10,'15、8,’12、1,’14、3,’10、9,’10、1,’11、5,’12、5,’13、1,’18、1,’21、1,’24
<ピラタス・エアクラフト>:スイスの航空機会社Pilatus Aircraft。1939年12月に創設され、スイス国営航空企業製C-35複葉偵察攻撃機の生産や、スイス空軍機の整備を行った。自社開発のP-1練習機は計画のみ、SB-2ペリカンは試作のみに終わったが、1945年4月初飛行のP-2練習機がスイス空軍に採用され、P-3練習機で海外セールスにも成功、PC-6多用途機、PC-7練習機、PC-9練習機、PC-12多用途機と軍民単発プロペラ機でヒットメーカーになった。2014年8月1日には双発ジェットのPC-24が初飛行している。参考:月刊JWings12,’14
<ピラティニ級>:ブラジル海軍沿岸哨戒艇Piratini級。満載排水量148トン。ピラティニなど6隻が1970-71年に就役した。参考:月刊世界の艦船3,’15
<ひらど>:MSC-614(掃海艇)またはMSO-305(掃海艦)を参照。
<平戸>:日本海軍筑摩型二等巡洋艦3番艦Hirado。明治45年就役。参考:月刊世界の艦船10,’17
<平戸>:日本海軍択捉型海防艦Hirado。昭和18年9月28日竣工、横須賀防備戦隊に編入された。11月1日、第2海上護衛隊に移った。11月14日から館山-トラック・サイパンの船団護衛に就いた。12月19日、荒天のため損傷した。昭和19年3月22日、木更津-サイパン・ダバオの船団護衛に就いた。7月17日、第1海上護衛隊に移った。8月6日から佐世保-マニラ・シンガポールの船団護衛に就いた。8月7日、門司で満州丸と接触した。9月12日、海南島の東250海里でSS-215グロウラーの雷撃を受けて沈没した。参考:月刊丸7,’14、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<ピラナ>:MAA-1(空対空ミサイル)を参照。
<ピラニア>:SS-389(潜水艦)を参照。
<ピラニア-T>:ロシアのサンクトペテルブルグ・マリーン・デザイン・ビューロー社が開発した小型潜水艦。全長33.4m、全幅4.7m、水中排水量245トン。主機はディーゼル、出力250kW、水中巡航速力4ノット、水中最大速力12ノット、航続距離2000海里、連続潜航距離260海里。兵装は533mm魚雷発射管2門、400mm魚雷発射管5門、機雷4-6発。乗員3名+同乗者(ダイバーなど)6名。参考:月刊軍事研究7,’07
<平野丸>:大阪窯業小型貨客船Hirano maru。垂線間長67.06m、幅10.21m、深さ5.64m、満載吃水4.9m、総トン数1218トン、重量トン数1832トン。主機は三連成汽機1基1軸763馬力、航海速力8.5ノット、最大速力11ノット。大正5年7月竣工。その後明治海運に売却され、更に大正13年に嶋谷汽船が購入した。太平洋戦争時は船舶運営会が運航しており、昭和18年に嶋谷汽船が三井船舶と合併したため三井船舶に移籍した。昭和20年7月14日、津軽海峡で空襲を受け、津軽半島三厩錨地で大破擱座し、7月15日に沈没した。参考:月刊世界の艦船8,’17
<ピラミッド>:イスラエル軍のテレビ誘導爆弾。データリンクで発射母機に画像を送って誘導する。弾体はMk82汎用爆弾である。全長2m、直径0.273m、翼スパン1m、重量363kg。参考:軍用機ウェポン・ハンドブック
<ピラミッド形ホーンアンテナ>:角錐形ホーンアンテナを参照。
<ピラミッド・ローパス>:ブルーインパルス航過飛行の1つ、Pyramid。前から3機、2機、1機と並び、逆三角形隊形をとって航過する。参考:月刊JWings6,’09
<ヒラメ部隊>:イギリス海軍が磁気機雷掃海のため思いついた部隊。ヒラメに小型磁石を括り付けて大量に放てば、沈底磁気機雷を誘爆させることができると考えた海軍高官がおり、一応検討されることになった。魚類学者に問い合わせたところ、ヒラメよりも大型のエイが良いという意見を得たため、この海軍高官は海軍本部委員会にこれらの意見を提出。磁気機雷対策技術委員長は検討の結果、バミューダ諸島海域に生息する体が平らで垂直面の泳法が得意なエンジェル・フィッシュを使用して志願ヒラメを募集し、ダートマス海軍兵学校内に訓練所を開設して見習いヒラメとして入校させ、機雷爆破技術修得の程度により階級を上げていくこと、訓練中は出入り業者が入校したエンジェル・フィッシュを間違ってフライにしないよう統制すること、提案者は正規の順序を経て所要施設と教育時間割を設定すること、という文書を提案者に送付。この回答を見た海軍高官は、この案が採用される見込みの無いことを理解した。参考:丸エキストラ版No.71
<平山鋲>:三菱重工海軍機体工作課の平山広次技師が考案した沈頭鋲。ユンカース社製沈頭鋲を参考にしたもので、ユンカース社製は外板の内側からリベットを打ち込み、外側を平らに加工するものだが、こちらは外側から頭の平らなリベットを打ち込み、内側を叩いて固定する方式である。参考:月刊丸2,’12
<ヒラリー・P・ジョーンズ>:DD-427(駆逐艦)を参照。
<ピラン>:T-35シリーズ(練習機)を参照。
<びらん剤>:化学兵器の1つで、皮膚・粘膜を傷害して水ぶくれをおこしたり、壊死させたりする。吸入すると気管から肺までやられて死に至る。造血幹細胞も傷害するので、白血病の治療薬に応用された物質もある。マスタードガス、ルイサイト、ホスゲンオキシム、ヒ素を含むフェニルジクロロアルシン、エチルジクロロアルシンなどが製造された。参考:図解雑学生物・化学兵器、化学・生物兵器概論、戦争がやってくる
<ピリー>:フィンランド空軍高等練習機Pyry。フィンランド国営航空機工場が開発し、1938年に初飛行した。機体は木金混合で、主翼は低翼単葉、降着装置はスパッツ付き固定脚。全長7.57m、全幅9.8m、全備重量1450kg。エンジンはライト社製R-975-E3(420馬力)単発、最大速度330km、航続距離750km。固定武装は7.7mm機銃1丁。乗員2名。1941年までに40機が生産された。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇
<ビリー・フランク・ジュニア>:T-ATS-11(航洋救難曳船)を参照。
<ヒリエ級>:フィンランド海軍汚染制御艦(Pollution Control Vessel)Hylje級。運用は海軍だが、保有しているのはフィンランド環境省である。船体は耐氷構造で、内部に汚染水タンクを設け、汚染水の除去を行う。満載排水量1626トン。汚染水タンク容量550立方メートル(1番艦)/1400立方メートル(2番艦)。1番艦ヒリエと2番艦ハリが就役した。参考:月刊世界の艦船9,’14
<飛龍>:四式重爆撃機シリーズまたはミラージュ2000戦闘機(台湾空軍)を参照。
<飛龍>:日本海軍飛龍型空母Hiryu。昭和11年7月8日、横須賀海軍工廠で起工、昭和12年11月16日進水、昭和14年7月5日竣工。11月15日、第2艦隊第2航空戦隊に配備された。昭和15年1月、艦上機を搭載して訓練を開始した。9月15日、所属飛行隊が蒼龍飛行隊と共に海南島方面に進出。9月17日、呉を出港。10月6日、横須賀に入港。昭和16年2月、南支方面で活動した。4月10日、第1航空艦隊第2航空戦隊に転属。6月20-29日、連合艦隊後期訓練に参加。6月30日、横須賀に入港。7月10日、横須賀を出港。7月14日、馬公に入港、燃料を補給した。7月15日、馬公を出港。7月16日、海南島三亜に入港。7月25日、南部仏印進駐部隊を護衛するため三亜を出港してサイゴン沖の南シナ海に進出。7月30日、三亜に戻った。8月6日、佐世保に帰港。修理を行った後、佐世保を出港し、8月下旬に鹿児島県串木野沖に展開。真珠湾攻撃に向けた訓練を実施した。11月18日、佐伯湾を出港。11月22日、単冠湾に到着。11月26日、単冠湾を出撃。12月8日、太平洋戦争開戦時は第2航空戦隊に所属して真珠湾攻撃に参加。航続距離が短いため、艦内の空きスペースに燃料を積み込んだ(艦内通路も半分潰して一斗缶を積載)がそれでも足りず、洋上給油でカバーした。12月21-23日、ウェーク島第二次攻略戦に参加し、蒼龍と共にウェーク島を空襲。12月29日、瀬戸内海に帰投。昭和17年1月12日、瀬戸内海を出撃。1月23-24日、アンボン攻略戦に参加。2月15日、パラオを出港。2月19日、ダーウィンを空襲。2月27日、チラチャップを空襲。4月5日、セイロン島攻撃に参加。4月22日、瀬戸内海に帰投。5月27日、瀬戸内海を出撃。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。爆撃で大破し、6月6日に駆逐艦巻雲の魚雷で処分された。9月25日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、図解日本の空母、日本海軍戦闘機隊、月刊丸12,’92、4,’13、月刊世界の艦船9,’14、太平洋海戦史、日本海軍艦隊総覧
<飛龍1型>:中国海軍艦対艦ミサイルFei
Long-1(FL-1)。海鷹1型艦対艦ミサイル(SY-1?)の改良型(輸出型?)で、1960年代に開発された。参考:月刊世界の艦船11,’17、月刊航空ファン6,’19
<飛龍2型>:中国海軍艦対艦ミサイルFL-2。SY-2艦対艦ミサイルの輸出型である。参考:月刊航空ファン6,’19
<飛龍型>:日本海軍空母Hiryu型、基本計画番号G10。最初は蒼龍型2番艦としてマル二計画で建造される予定だったが、ロンドン条約の失効を睨み、加賀や蒼龍の使用・建造実績を踏まえて大幅に改良が加えられ、独自型となった。第4艦隊事件を受けて船体は電気溶接でなく鋲接を採用。艦首はダブル・カーベチャー型で、最上甲板を艦首まで延長して乾舷を蒼龍より1m高くし(艦尾乾舷も0.5m高くなっている)、凌波性を向上させた。艦首甲板は最上甲板(錨甲板)、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、船倉甲板の6層構造である。飛行甲板前端部下の錨甲板には機銃台があり、25mm連装機銃2基と機銃用射撃指揮装置が設置された。将来の航空機の大型化・高性能化で、艦橋が従来の位置にあると発艦の障害になると考えられたため、艦橋を艦中央部に置いている。煙突との重量バランスの関係や、同じ第2航空戦隊配備の蒼龍(右舷艦橋)の右を並列航行すれば手旗・発光信号で連絡がとりやすいということから、左舷に艦橋を設けたが、煙突からの排気と艦橋後方の乱気流が混じり合って艦後部上空の気流が不安定になったため、以降の空母では右舷艦橋に戻っている。また、艦上機の着艦速度が高速化していったため、艦中央部に設置したのも歓迎されなかった。艦橋は5層構造で、視界を得るため蒼龍よりも1層高く、前後も長くされている。最下層の飛行甲板レベルには艦長休憩室などがあり、その上の下部艦橋甲板レベルには作戦室兼海図室などが置かれた。下部艦橋甲板の前後には露天甲板があり、前部には発着艦指揮所を設けて九四式探照灯管制機兼上空見張り方向盤を設置、後部にも九四式探照灯管制機兼上空見張り方向盤を置いている。その上が上部艦橋甲板で、操舵室などが設けられ、その上が羅針艦橋甲板で羅針艦橋などが設置された。羅針艦橋甲板後方には露天甲板があり、ここも発着艦指揮所として使用される。最上部の露天甲板が防空指揮所甲板で、無線電話アンテナ、対空見張り通信所、1.5m測距儀、方位測定器用ループ・アンテナ、高射指揮所、60cm信号燈、九四式高射装置などが搭載された。信号マストは艦橋後方の飛行甲板上に立ててある。艦橋を飛行甲板上に設置した関係で、蒼龍よりも飛行甲板最大幅は1m広げられ、27mとなった。長さは216.9m、吃水線からの高さは12.57mである。エレベーターは3基で、前部が13m×16m、中央が13m×12m、後部が11.8m×13m。前部エレベーター直後に起倒式の遮風柵があり、制動装置は呉式四型が9基(アレスティング・ワイヤ9本)、滑走制止装置は空廠式三型(固定式2基、移動式3基)である。格納庫は上下2段、揚弾装置は昇降式2基。艦橋前方の飛行甲板に2基と後部エレベーター両舷に1基ずつの隠顕式九二式一一〇サンチ探照灯を装備する。煙突は斜め下向き2本(熱煙冷却装置、緊急用上面排気口付き)を右舷に配置してあり、それぞれ缶室4基から煙を排出した。艦尾には飛行甲板支柱1組があり、後甲板に短艇格納甲板がある。舵は中央部支持の半平衡舵1枚で、低速時の効きが悪いという欠点があった。防御は機関部や舵取機室で5インチ(127mm)砲、ガソリンタンクと弾薬庫で8インチ(203mm)砲に耐えられるもので、飛行甲板などには施されていない。全長227.35m、最大幅22.32m、平均吃水7.74m、基準排水量17300トン。主機は艦本式オール・ギヤード・タービン4基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(空気予熱器・過熱器付き。蒸気性状2.16MPa、300℃)8基、出力153000馬力、4軸推進、速力34.59ノット、重油搭載量3750トン、航続距離7670海里(18ノット)。兵装は八九式四〇口径十二糎七連装高角砲3基ずつ(飛行甲板両舷)、九六式二五ミリ機銃(艦首飛行甲板下に連装2基、艦橋前方に3連装2基、艦橋後方に3連装3基、煙突前方に3連装2基、煙突後方に連装3基)。煙突後方の5番高角砲、25mm連装機銃群、射撃装置には排煙避けのシールドが用意されている。機銃射撃指揮装置は九五式機銃射撃装置で、各機銃群に1基ずつ計5基を装備した。艦尾最上甲板後端に十二糎七高角砲装填演習砲三型1門が搭載されている。搭載機は、九六式艦戦16機(常用12機、補用4機)、九七式艦攻12機(常用9機、補用3機)、九六式艦爆36機(常用27機、補用9機)、九七式艦偵9機(常用9機)の計73機で、九一式航空魚雷27本を収容した。装甲厚は舷側50-140mm、甲板56mm。乗員1101名。飛龍が昭和14年に竣工した。太平洋戦争開戦時の搭載機は、零戦21機(常用18機、補用3機)、九七式艦攻21機(常用18機、補用3機)、九九式艦爆21機(常用18機、補用3機)の計63機だった。参考:図解日本の空母、日本航空母艦史、月刊丸2,’12別冊付録、月刊世界の艦船10,’21
<ビリューサ>:ZSU-23-4M(自走高射機関砲)を参照。
<ビリューザ>:3M14シリーズ(巡航ミサイル)を参照。
<飛龍戦闘機隊>:真珠湾攻撃で初陣を飾り、第1次攻撃では零戦6機が出撃して22機を地上撃破した。第2次攻撃では9機が出撃、1機が引き返し、残る8機が地上で2機を撃破、空中で2機を撃墜したが、1機が被弾して帰投する途中に行方不明(ニイハウ島に不時着して自決)となった。ウェーク島攻略戦ではF4F戦闘機2機を撃墜。セイロン島攻撃では9機が出撃し、ハリケーン戦闘機16機とソードフィッシュ艦攻8機を撃墜したが、1機を喪失した。ミッドウェイ海戦では第1次攻撃に9機で出撃し、F4F戦闘機とF2A戦闘機18機を撃墜した。第2次攻撃では6機で艦爆隊と共に出撃、2機が引き返し、残る4機で敵機7機を撃墜したが、3機が失われた。更に4機が艦攻隊と共に出撃したが、敵戦闘機30機と空戦になり、11機を撃墜したものの2機が失われた。母艦の防衛戦では延べ33機が出撃し、43機を撃墜したが、5機が失われ部隊は全滅、母艦も沈没している。参考:日本海軍戦闘機隊
<ピリラウ>:T-AKR-304(輸送艦)を参照。
<ピリ・レイス>:S330(潜水艦)を参照。
<ビリングス>:LCS-15(沿海戦闘艦)を参照。
<尾輪式>:Tail wheel type landing gearまたはTail dragger。機体重心より前方に主脚、後方に尾脚(Tail gear。尾輪やスキッド)を配置した降着装置の型式のこと。コクピットの前にエンジンやプロペラがある場合、前輪格納スペースや地上とのクリアランスが取れないので、この形式になる。地上での迎え角が大きいので着陸滑走時の抗力が大きく、主輪にブレーキをかけると頭下げモーメントにより脚荷重が増えてブレーキロックによるスリップを減らせるため、ブレーキ性能が悪かった時代には着陸距離短縮にも一役買っていた。離陸滑走時には尾脚を地面から離すまで抗力が大きく加速が鈍い、グラウンド・ループ現象を防ぐため滑走中は尾輪をロックしておく必要がある、急ブレーキをかけると機体が転覆する、着陸時に機首を上げすぎて3点着地するとポーポイジング/バルーニング(機体のバウンド)を起こしやすい、地上での前方視界が悪く離陸滑走時に機体をジグザグ走行(シミー)させないと前方の安全確認ができない、地上では座席が後傾姿勢を取るので乗降が不便といった欠点があり、第2次大戦末期あたりから前輪式と交代して一気に廃れてしまった。一応の利点として、尾脚の構造が単純で重量が小さく済み、尾輪を引き込まなくても抗力がさほど増大しないというものがあり、小型アクロバット機やホームビルト機に残っている。参考:航空用語事典増補改訂版、航空機設計法、飛行機のしくみ、世界の傑作機No.155
<ヒル>:DE-141(護衛駆逐艦)を参照。
<ビル>:BILLシリーズ(対戦車ミサイル)を参照。
<ビル・アン・ザラン>:モロッコ海軍ビル・アン・ザラン級哨戒艇1番艇Bir an Zaran(Bir Anzaran?)。2011年6月就役。参考:月刊世界の艦船7,’11、10,’17、JShips VOL.70
<ビル・アン・ザラン級>:モロッコ海軍哨戒艇Bir an Zaran級。OPV-70型ともいう。全長70m、幅11.3m、吃水3.2m、満載排水量800トン(650トン?)。主機はディーゼル2基、2軸推進、速力22ノット。兵装は76mm単装砲1門(非ステルス砲塔。前甲板)、40mm機関砲1門(後甲板)。2008年5月にSTXヨーロッパ造船所ロリアン工場に4隻が発注されており、2011年から毎年1隻ずつ引き渡される予定だったが、2011年に竣工したビル・アン・ザランだけで打ち切りになった。参考:月刊世界の艦船7,’11、10,’17、JShips VOL.70
<ピルキイ>:ソ連海軍クリヴァクⅠ型フリゲートPilky。1979年竣工。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊
<ビルキス>:イエメン海軍NS722級揚陸艇1番艇Bilqis。参考:月刊軍事研究11,’02、月刊世界の艦船9,’02
<ヒル空軍基地>:アメリカ空軍航空基地。ユタ州にある。B-17爆撃機原型モデル299のテストで殉職したヒル少佐から名称を取り、1940年にアメリカ陸軍航空隊ヒル飛行場として開設された。1948年、アメリカ空軍が独立してヒル空軍基地となり、アメリカ空軍兵站コマンド部隊が航空機やICBMの整備に使用した。1973年、第388戦闘航空団が移駐した。参考:月刊JWings9,’22
<ピルグリム>:エンブラエル社が開発中の初等練習機。コクピットはサイド・バイ・サイドで、グラス・コクピット化されている。主翼は低翼単葉。降着装置は前輪式。最大離陸重量1.14トン。エンジンはライカミング540(300馬力)、推進は3翅プル・プロペラ。乗員2名。2014年8月22日に初飛行した。T-25の後継としてブラジル空軍が配備予定。参考:月刊JWings11,’14
<昼下がりの効果>:Afternoon Effect。ソナーを同じ場所で同じ目標に対して使用した時、午前中は目標を探知できるのに、午後になると探知できなくなる現象のこと。午前中は海水温度が深度に関わらず一定で、海水密度の高い深海になるほど音速が速くなり、層深が発生、海中に伝わった音は上向きに曲がって遠くまで伝達される。しかし午後には日光に照らされて表面の水温が上昇し、音速も表層ほど速くなり、層深が消失するため、海中に伝わった音は下向きに曲がって遠くには届かなくなってしまう。参考:ザ・マーチ39号
<ビルジ>:Bilge。船体の舷側から船底に回り込む湾曲部。参考:艦船メカニズム図鑑、米海軍サバイバルマニュアル
<ビルジ・キール>:Bilge keel、湾曲部竜骨。船底の舷側(ビルジ)に設けられた長い板で、船の横揺れを軽減するために装着される。横揺れが発生すると、ビルジ・キールに抗力が生まれて横揺れに対する減衰モーメントとなり、ビルジ・キール先端から発生する剥離渦が横揺れエネルギーを消費する。ビルジ部分に設置するのは、回転中心から最も遠い位置なので、減衰モーメントを大きくできるため。船体長の1/2-1/4の長さで、接岸時などにぶつからないよう、船体からはみ出さない程度の幅に収められる。停止している時や前進速度が小さい時には幅が狭く長いものが良いが、前進速度が大きい時には抗力よりもビルジ・キールに発生する揚力を利用する方が有利なので、高速船では幅が広く短いものを取り付ける。単胴船では同調横揺れ(波による横揺れ周期と船の固有横揺れ周期が一致して横揺れが増幅し、最悪転覆する)を防ぐためにほぼ必須の装備である。参考:艦船メカニズム図鑑、月刊JWings2,’00、図解雑学 船のしくみ、図解船の科学
<ヒル・ジニー>:アメリカ軍試作空対地核ミサイル。AIR-2Aジニーを改造したものである。ヒル空軍基地で試験が行われたが、実用化には至らなかった。参考:アメリカの核兵器
<ヒルシュゲヴァイ>:FuG220シリーズ(レーダー)を参照。
<ヒルズデイル・カウンティ>:LST-835(戦車揚陸艦)を参照。
<ピルスバリー>:DD-227(駆逐艦)またはDE-133(護衛駆逐艦)を参照。
<ビルダーズ・モデル>:ドックヤード・モデルを参照。
<ピルツ>:ドイツ軍の組み立て式簡易クレーン取り付け具。車両上面に装着され、必要時にクレーンを組み付けて使用する。
<ビルデストン>:M1110(トン級機雷掃討艇)を参照。
<ヒルバート>:DE-742(護衛駆逐艦)を参照。
<ヒルビリー・アーマー>:ヒルビリーはアメリカ南部の山育ちの田舎者、という意。イラク戦争で大損害を出したHMMWVに少しでも防御力を付与しようと張り付けた、その辺の鉄板のことである。参考:月刊軍事研究2,’11
<ビルフィッシュ>:SS-286(ガトー級潜水艦)またはSSN-676(スタージョン級攻撃原潜)を参照。
<ビルボード>:AN/SPS-32(レーダー)またはAN/SPS-33(レーダー)またはNP-3D(試験機)を参照。
<ビルボードA>:9S15M(レーダー車)を参照。
<ピル・ボックス>:ドン2N(レーダー)を参照。
<ピルポリティス級>:ギリシャ海軍大型哨戒艇Pyrpolitis級。参考:月刊世界の艦船1,’04
<ピルポリティス級バッチ2>:全長56.5m、満載排水量555トン。主機はディーゼル、速力24ノット。兵装はハープーン艦対艦ミサイル発射筒4基、OTOメララ製76mm単装砲1基、40mm単装機関砲1基、機雷敷設軌条2条。1999年に1番艦マチティス、2番艦、3番艦、4番艦クラテオスの4隻が発注された。参考:月刊世界の艦船1,’04
<ビルマ海軍>:1989年、ミャンマー海軍に改称された。参考:月刊航空ファン12,’16
<ビルマ海軍(1977年)>:兵力9000名(うち海兵隊800名)。フリゲート2隻、沿岸護衛艦4隻、砲艇/魚雷艇5隻、砲艇37隻、河川哨戒艇35隻、支援船1隻、上陸用舟艇9隻を配備する。参考:軍事力バランス78年版
<ビルマ海軍(1989年)>:兵力9000名(うち海軍歩兵800名)。バセイン、マーグイ、モールメイン、セイキイ、ラングーン、シットウェに基地がある。ヤンタインアウン級コルベット1隻、ヤングイアウン級コルベット1隻、ナラワト級沿岸哨戒艦2隻、PGM-401級内海哨戒艇9隻、Y-301級内海哨戒艇12隻、小型内海哨戒艇9隻、小型河川艇5隻、沿岸輸送艦1隻、水路測量艦1隻、哨戒艇支援艦1隻を保有する。ただし部品不足で大半が稼動していない。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ビルマ空軍>:ビルマ独立前年の1947年に創設された。装備機はDH.82Aタイガーモス練習機16機、オースターAOP観測機4機、オックスフォード練習機40機、スピットファイアMkⅩⅧe戦闘機3機である。1950年、C-47輸送機9機を配備。チップマンクT.10練習機10機を導入。1951年、C-47輸送機2機をインドネシアから寄贈された。1952年、シーファイアMkⅩⅤ戦闘機20機を導入。1954年、スピットファイアLFⅩⅨe戦闘機30機、プロボストT53練習機40機、DH.115T55練習機8機を導入した。1956年、セスナ180輸送機10機、D18S輸送機6機、ベル47G-2ヘリ6機を導入。1957年、シー・フューリーFB.11戦闘機18機とDHC-3輸送機9機を購入。1958年、ベル47G-2ヘリ7機とCH-21ヘリ12機を導入。1960年、アルエートⅢヘリ14機を導入。1963年、AT-33A攻撃機32機を導入開始。1963年、HH-43Bヘリ16機を配備開始。1965年、ビーチクラフト・モデル65を1機配備。1966年、D5/180観測機を3機配備。1975年、SF-260MB攻撃機10機とベル205A-1ヘリ18機を配備。1978年、FH-227E輸送機4機とベル206Bヘリ7機を配備。1979年、SF-260MB攻撃機10機とPC-7練習機16機を導入。1986年、PC-9練習機10機とベル212ヘリ1機を導入。1988年の民主化運動弾圧で西側諸国からの兵器輸入がほぼ不可能になり、航空機用ガソリンも入手困難になってガソリンエンジン機が退役に追い込まれた。1989年にミャンマー空軍に改称された。参考:月刊航空ファン12,’16
<ビルマ空軍(1977年)>:兵力7500名。AT-33攻撃機15機、SF-260M攻撃機10機、C-45輸送機4機、C-47輸送機6機、ブリストル170輸送機2機、DHC-3輸送機6機、セスナ180輸送機10機、KB-47Gヘリ10機、HH-43Bヘリ12機、アルエートⅢヘリ10機、UH-1ヘリ10機、プロボスト練習機25機、T-33練習機8機、T-37C練習機10機、チップマンクT.10練習機7機を保有する。参考:軍事力バランス78年版
<ビルマ空軍(1980年)>:AT-33A攻撃機、T-37C練習機12機、PC-7練習機16機、FH-227E輸送機4機、PC-6/PC-6B2練習機7機、C-47輸送機6機、DHC-3輸送機6機、KV107-Ⅱヘリ3機、川崎ベル47Gヘリ12機、HH-43Bヘリ12機、アルエートⅢヘリ10機、UH-1ヘリ18機、SF-260W攻撃機10機、セスナ180輸送機8機、Mi-8ヘリ6機、Mi-4ヘリ14機、L-39練習機、MiG-21U練習機、MiG-15UTI練習機、Yak-11練習機、Yak-18練習機を保有する。参考:月刊マーチ18号
<ビルマ空軍(1989年)>:兵力9000名。PC-7対ゲリラ戦機12機、PC-9対ゲリラ戦機4機、DHC-3輸送機5機、FH227輸送機5機、PC-6B輸送機7機、セスナ180連絡機3機、セスナ550連絡機1機、ベル205ヘリ17機、SA316ヘリ9機、SF260WB練習機10機、SF260M練習機6機、T-37C練習機9機、KB-47Gヘリ10機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ビルマ軍>:元はビルマ独立義勇軍で、1948年1月4日のビルマ完全独立により独立国軍となった。1962年3月2日にクーデターを起こし、ネウィン元ビルマ国民軍司令官が実権を掌握した。以降永らく軍事政権が続いたため、西側からは兵器を取得できず、主に中国製兵器を輸入している。1989年、ミャンマー軍に改称された。参考:歴史群像10,’18
<ビルマ攻略作戦>:太平洋戦争時の昭和17年1月末、援蒋ルートの遮断を目的に開始された。ビルマは国土面積68万平方キロでフランスとほぼ同じ面積であり、南端がマレー半島西側に延びていて、航空基地によりインドとマレーを結ぶ拠点となっており、タイからシンガポールへの日本軍兵站線の脅威ともなっていた。参加兵力は第15軍(昭和16年11月創設)で、まずは開戦直後に第55師団がマレー半島東岸からビルマ領内に侵攻し、ビクトリア・ポイントにある航空基地を占領した。その後、マレー半島及びフィリピンの戦局が有利に展開したことから、大本営陸軍部はビルマ全土を制圧して援蒋ルートを遮断し、更にインド侵攻の足がかりを作るという作戦を立案。12月下旬にビルマ制圧作戦を前倒しで実施することが決定され、兵力不足から目的がビルマ南部のモールメン・ラングーン占領に変更されたものの、1月21日に大陸令を発動し、作戦が開始された。イギリス軍は日本軍をインドまで引き入れて補給線を伸びきらせることも考えたが、援蒋ルートを無碍に放棄するわけにもいかず、イギリス軍2個大隊及びビルマ軍4個大隊だったビルマの防衛兵力をイギリス軍2個大隊及びビルマ軍1個師団(12個大隊)に強化し、インドから2個旅団を増派した。航空部隊はバッファロー戦闘機など30機程度だったが、アメリカ義勇空軍1個中隊が中国への派遣を中止してビルマに待機していた。また、インドに日本軍が侵攻した場合には蒋介石が中国第5・第6軍をビルマに派遣することを確約している。イギリス軍は主力をマレー半島付け根のテナセリウムに配置し、山を越えてラングーンに直接侵攻してくる日本軍に備えたが、必要兵力2個師団という見積もりに対し、実際に配置できたのは2個旅団だった。また、増派される予定だったインド旅団2個のうち1個がシンガポールに引き抜かれてしまったため、インドや北アフリカから戦力をかき集めることにしたが、ビルマへの到着予定は2月だった。昭和16年12月17日、第55師団(2個連隊・4個大隊と1個騎兵連隊。残りは南海支隊及び沖支隊として太平洋方面に分散されていた)がタイのバンコクに集結。山岳戦に備えて駄馬編成に変更し、ビルマ国境近くのメソートへと前進したが、途中で輸送用の牛や馬の殆どを失ってしまった。昭和17年1月8日、第33師団(2個連隊。残りは中国本土に残留)がバンコクに到着、第55師団の後ろを進撃し、補給路の建設を行うことになった。昭和17年1月20日、第33・第55師団(各15000名)がタイのメソートからビルマに侵攻。先頭を征く第55師団は戦闘経験が殆ど無かったが、防衛する第17インド師団第16インド旅団もジャングルでの戦闘経験が殆ど無く、編成されたばかりの同第2ビルマ旅団に至っては小銃の扱い方すらよく分からない兵士もいる始末で、日本軍は防衛ラインの両翼を突破して進撃している。1月31日、第55師団が南部ビルマのモーメルンを占領。しかし歩兵中心の編成で機動力が無く、脱出する敵兵力の包囲殲滅には失敗した。2月4日、第33師団が南部ビルマのパアンを占領。2月9日、再編成を終えた日本軍はラングーンに向けて進撃を開始。イギリス連邦軍は増援の第46・第48インド旅団を加えて川に沿って防衛線を張り、遅滞戦闘を行うことにしたが、兵力不足から日本軍の後方浸透を許し、2月18-19日にはビリン川周辺で第17インド師団主力が包囲されかかった。この時第33師団は独断でピリン川を渡河して包囲に当たっていたが、第15軍司令部がこれを把握しておらず、ピリン川を渡河せよという命令を出したため、第33師団は既に命令は実行済みであるとして前進を停止してしまい、インド師団の脱出を許した。2月22日、シッタン川東岸で第17インド師団が包囲され、部隊が西岸へと退却を完了する前に橋を爆破するというミスを犯したために壊滅。第46インド旅団が解隊され、第17インド師団は第16・第48インド旅団の2個旅団編成とされた。3月1日、日本軍がシッタン川を渡河。3月4日、ラングーン前面のペグーで第55師団とイギリス第7機甲旅団が激戦を展開。3月7日、第55師団がペグーを占領。これをみてイギリス連邦軍はラングーンから撤退した。3月8日、第33師団はビルマ独立義勇軍と共にラングーンを無血占領し、住民に歓迎された。3月9日、第15軍司令部がラングーンに進出。マラッカ海峡の制海権を確保し海路での補給路を確保するため、山本五十六連合艦隊司令長官が南方部隊指揮官の近藤信竹第2艦隊司令長官にインド洋作戦を下命。3月25日、機械化部隊である第56師団(シンガポールで車両編成に改編した)と、マレーを制圧した第18師団をラングーンに派遣、第15軍を強化した。第15軍は第33師団を左翼、第55師団を中央、第56師団を右翼、第18師団を後方に置き、中央でビルマ中部のマンダレーにいるイギリス連邦軍を殲滅、左翼で退路を遮断し、右翼で中国軍の退路を断つ作戦を開始した。これに先立ち、第55師団は3月14日にペグーの北方50kmのダイクまで前進している。また、ビルマ独立義勇軍27000名が戦力に加わった。イギリス連邦軍の戦力は第17インド師団、第1ビルマ師団、中国第5軍の3個師団で、ラングーンを失ったために海上補給路を断たれており、遅滞戦闘に努めることにしたものの、中国軍が本国から遠距離での作戦を嫌ったため、イラワジ川での防衛戦闘を放棄せざるを得ず、ラングーンから北に200km離れたプローム・トングー線に防衛ラインを張っている。3月25日にラングーンの北100kmにあるサラワジから前進を開始した第33師団は、退却するイギリス連邦軍よりも先にシュエダンを占領した。これによりイギリス連邦軍の歩兵大隊3個、戦車連隊1個、砲兵中隊1個が包囲された。3月27日、第55師団はトングーに到達したが、頑強な抵抗にあって攻勢が頓挫した。第56師団先遣部隊が進撃を開始した。3月29日、イギリス連邦軍はシュエダン付近で包囲網突破作戦を実施、第33師団との間で激戦となったが、戦車10両と人員350名を失って頓挫した。第56師団が第55師団に追い付き、トングー後方に回り込んだ。3月30日、マンダレーへの中間地点にあるトングーの要塞線を十五糎榴弾砲で破壊し、中国軍第200師を壊走させ、トングーを占領。4月、イギリス連邦軍は第17インド師団に第63インド旅団を増強した。4月1日、第56師団の先遣部隊(車両400両により完全自動車化)がビルマから雲南に向け退却する中国軍の退路を塞ぐべくトングーを出撃。本隊も続いて出撃した。4月2日、第33師団がプロームに到達。4月13日、第56師団先遣部隊及び本隊がサルウィン川近傍のパサウン地区に集結、再び前進を開始した。4月5日、日本海軍機動部隊がコロンボを強襲。4月9日、日本海軍機動部隊がトリンコマリを強襲。4月17日、第33師団は第17インド師団及び第1ビルマ旅団主力を撃破して油田地帯のエナンジョンを占領したが、油田施設の大半は破壊されていた。4月20日、第55師団と第18師団はトングー北方のピンマナに進出。第33師団はマンダレーの包囲を開始。第56師団はロイコーに到達。第15軍は西のエナンジョンに第33師団、中央のピンマナに第55師団と第18師団、東のロイコーに第56師団を並べて北上を開始、それぞれインド第17師団、中国第5軍(第200師・第96師・第22師)、中国第6軍(第49師・第55師)の追撃に移った。4月29日、第56師団はマンダレー北方380kmのラシオを占領、マンダレー及びマンダレー東のタウンギー前面に展開している重慶軍の退路を遮断した。ただ車両が通過できる主要道路は封鎖したものの、徒歩で退却する部隊を完全に遮断できる程の兵力は持ち合わせておらず、第6軍主力を取り逃がしている。4月末、イギリス連邦軍は航空戦力を270機に増強。5月1日、第55師団と第18師団はマンダレーを占領、中国第5軍を壊滅させた。第33師団はインドへの退路を遮断したが、徒歩行軍だったため包囲殲滅には失敗した。その後、第55・第56師団はビルマから国境を越えて雲南に展開した。5月3日、第56師団がパーモを占領。5月5日、第56師団は雲南のサルウィン河に到達、拉孟を占領し、恵通橋を爆破してビルマ・雲南ラインを遮断した。5月10日、第56師団が騰越を占領した。5月末までにイギリス連邦軍及び中国軍はビルマから駆逐され、6月に雨期を迎えて作戦を終了した。日本軍死者2500名、英印軍及び重慶軍死者28000名以上、捕虜5000名。8月には南方軍が雨期開けからインドに侵攻する第二十一号作戦を上申したが、ガダルカナル戦が始まったため中止された。日本軍は勝利したものの、機動力不足で包囲殲滅ができない、敵に本格的に抵抗されると火力不足で制圧できないといった欠点があり、インパール作戦の時点でもそれらが解決できず、壊滅的な損害を被っている。それでも終戦までビルマの保持に成功し、南方資源地帯を守りきった。参考:歴史群像6,’02、激闘!太平洋戦争地上戦、日本戦車隊戦史、太平洋海戦史
<ビルマ独立義勇軍>:南機関がビルマ独立のため昭和16年12月28日に結成させた義勇軍。英語ではBIA(Burma Independence Army、ビルマ独立軍)で、参加ビルマ人が日本軍への協力でなくビルマ独立を第一義としていたことを反映している。昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦を受け、南機関によるビルマ擾乱工作ではなく、日本軍が直接ビルマに侵攻して援蒋ルートのビルマルートを封鎖することになり、12月15日にビルマ侵攻作戦を開始。ビルマ人による独立を目指す南機関がビルマ人義勇兵を侵攻部隊に加えることを要請し、昭和16年12月28日に反英ビルマ人居住地であるタイのバイリン地区からの200名と田中謀略班を加えてビルマ独立義勇軍を編成、第15軍の隷下に入れた。司令官は南機関トップの鈴木敬司大佐で、南益世またはボ・モージョ(ビルマ語で稲妻の意)という偽名と大将の肩書きを使っている。司令部、モールメィン兵団、タヴォイ兵団、メルグィ支隊、水上支隊、田中謀略班、国内擾乱指導班、宣伝班からなり、司令部にビルマ側トップのアウンサン少将が配置され、国内擾乱指導班の班長に後のビルマ大統領ネ・ウィンが高杉大佐の偽名と階級で着任していた。昭和17年1月3日、タイ国境を越えてビルマに進出。1月22日の東条首相によるビルマ独立支持演説もあり、義勇軍は募集しなくても次々と人員が増えていき、あっという間に1000名になったという。しかし日本陸軍の方ではビルマ制圧の主力は陸軍3個師団であり、義勇軍はオマケ程度で、占領地で義勇軍が解放や独立を謳うことも許さず、3月9日に首都ラングーンを占領したのも日本陸軍部隊で、義勇軍を立てることは一切せず、ビルマ独立は先送りされていった。5月29日にバーモに達した時の兵力は162000名にも膨れ上がっていたが、6月4日に日本がビルマを軍政統治下に置き、ビルマ人には限定的な行政権しか付与しなかったため、義勇軍は大いに失望。6月11日には南機関が解隊され、7月24日に義勇軍も一旦解隊された。8月26日、アウンサン司令官をトップとするビルマ防衛軍BDA(Burma Defense Army)として再編されたが、兵力は2800名で、顧問を名目に日本軍将校が配置されており、独立して機能できなかった。また、新兵訓練を担当した日本軍下士官がビルマで最大の屈辱とされる首から上への暴力(ビンタ)を繰り返すなど反感を買っていた。昭和18年8月1日、ビルマでの軍政統治終了とビルマ独立が宣言され、ビルマ防衛軍はビルマ国民軍BNA(Burma National Army)に改称されて国防相にアウンサン、司令官にネウィンが就任、米英に宣戦を布告し、8月2日には30名が日本陸軍士官学校に幹部候補生として入校したが、独立は形ばかりで、ビルマ人の主権は限定的なまま、ビルマ国内には日本軍が駐留し続け、民間人に対してもビンタを行うなどしており、物資徴発と急激なインフレで経済は崩壊しかかり、イギリス支配下よりも状況が悪化していた。これを受けてビルマ国民軍では創設直後から対日蜂起の検討を重ね、イギリスの極東対日工作部隊である特殊作戦執行部SOE第136部隊とも接触を開始。昭和19年7月のインパール作戦失敗でビルマ国民軍は日本の敗戦を確信し、8月1日にアウンサン国防相がビルマ国内の反日抵抗組織を集めて会議を開き、反ファシスト人民自由連盟AFPFL(Anti-Fascist People’s Freedom League。ビルマ語略称はパサパラ)を結成した。昭和20年3月17日、アウンサン国防相は北部抗日ゲリラ討伐を名目にビルマ国民軍をラングーンから出撃させた。3月27日、アウンサン国防相が隷下全部隊に日本軍への攻撃を下命した。ただし南機関に所属していた者は攻撃しないよう命じている。6月、農民ゲリラ部隊とも合流して愛国ビルマ軍PBF(Patriotic Burmese Forces)に改称し、イギリス軍の同盟軍となった。太平洋戦争終結後はイギリスからの独立闘争に入り、1948年1月4日に独立を勝ち取ってビルマ軍になった。参考:歴史群像10,’18、6,’02、太平洋戦争情報戦
<ビルマの通り魔>:一〇〇式司令部偵察機二型を参照。
<ビルマの桃太郎>:穴吹智(エース)を参照。
<ビルマ方面軍>:日本陸軍の方面軍。昭和18年3月に編成された。直属の兵站部隊として、兵站地区隊1個、陸上勤務中隊3個、水上勤務中隊2個、建築勤務中隊2個、野戦郵便隊1個、ビルマ方面軍野戦兵器廠、ビルマ方面軍野戦自動車廠、ビルマ方面軍野戦貨物廠を持つ。昭和19年4月、隷下に第33軍を新編して第15軍・第28軍との3個軍編成とした。参考:月刊軍事研究7,’97、太平洋海戦史
<ビルマ方面軍(昭和19年後半)>:ラングーンにあり、第15軍、第28軍、第33軍を隷下に置く。参考:比島決戦
<びるま丸>:大阪商船貨物船Burma maru。垂線間長117.35m、幅15.54m、深さ10.97m、吃水7.59m、総トン数4585トン、重量トン数7873トン。主機は三連成汽機1基1軸3778馬力、航海速力10ノット、最大速力13.77ノット。大正6年2月20日竣工。昭和10年、南洋海運に移籍。太平洋戦争では船舶運営会が運航した。昭和17年6月12日、シャム湾フコク島西160kmでSS-193ソードフィッシュの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船3,’24
<ビルマ陸軍>:1989年、ミャンマー陸軍に改称された。参考:月刊航空ファン12,’16
<ビルマ陸軍(1977年)>:兵力153000名。歩兵師団3個、機甲大隊2個、独立歩兵大隊84個、砲兵大隊5個からなる。コメット軽戦車、ハンバー装甲車40両、フェレット偵察車45両、25ポンド砲/5.5インチ砲50門、76mm榴弾砲120門、105mm榴弾砲80門、120mm迫撃砲、6ポンド/17ポンド対戦車砲50門、40mm高射機関砲、3.7インチ高射砲10門を保有する。参考:軍事力バランス78年版
<ビルマ陸軍(1989年)>:兵力182000名。軽歩兵師団9個、地域コマンド9個、歩兵大隊175個、機甲大隊2個、砲兵大隊4個、高射砲大隊1個からなる。コメット戦車26両、フェレット偵察車45両、ハンバー装甲車40両、76mm砲M1948を120門、25ポンド砲50門、105mm砲M101を96門、5.5インチ砲、122mm多連装ロケットランチャー、120mm迫撃砲80門、84mm無反動砲カールグスタフ500門、106mm無反動砲M40A1、6ポンド砲、17ポンド砲、40mm高射機関砲10門を保有する。ただし部品不足で大半が稼動していない。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ピル・ロック>:銃の打撃発火方式の1つ。1807年4月11日にスコットランドの牧師アレキサンダー・フォーサイスが特許を取った。雷こう(水銀含有発火剤)を練って小さな粒状にし、これを火皿に入れて打撃、発火させる。フリント・ロックに換わるもので、雷管実用化への重要なステップとなった。参考:GUN用語事典
<美齢>:C-47海外シリーズ(輸送機)を参照。
<比例航法コース>:プロポーショナル・ナビゲーション・コース。ミサイルが目標を追跡する時にとるコースで、目標への相対方位角(見越角)を一定に保つようにして飛翔することにより、目標に衝突する。目標前方象限からの撃破も可能であり、速度差を気にしなくて済む。目標が変針変速する度に、見越角が一定になるよう飛翔コースを微調整する必要があり、燃費が悪い。参考:月刊世界の艦船9,’96、9,’20
<ビレモイス級ミサイル艇>:デンマーク海軍ミサイル艇。兵装はハープーン艦対艦ミサイル4連装発射筒2基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ヒ連送>:日本海軍の無線暗号で、敵機に遭遇したという意であり、甲種電波でヒを連打する。鈍足の索敵機が敵戦闘機に遭遇してヒ連送を送ってきた場合、それが最後の通信となることが多かった。参考:海軍よもやま物語
<疲労限界>:Fatigue limit。疲労破壊が起こらない繰り返し荷重の限界のことで、耐久限界ともいう。これを下回る荷重なら、無限に加えても破壊されない。参考:航空用語事典増補改訂版
<疲労試験>:疲労破壊に対する材料の強さを調べる試験。繰り返し荷重の最大値と最小値を定め、その間で荷重をどれくらい繰り返したら疲労破壊が起こるかテストする。航空機の場合は10万から100万回くらい繰り返し荷重をかける。参考:航空用語事典増補改訂版
<疲労破壊>:Fatigue destruction。金属で発生すると金属疲労ともいう。変形が生じないくらいの力が繰り返し加わることにより、素材に変形が起きないまま亀裂を生じ、最終的に破壊されてしまうこと。鉄の場合、破壊荷重の75%にあたる荷重を10万回加えると破壊される。ただし鉄には疲労限界(破壊荷重の50%くらい)があり、これを下回る荷重なら、無限に加えても破壊されない。アルミ合金には疲労限界が無いので、小さな荷重でも加え続ければ、いつかは破壊されてしまう。ジュラルミンでは破壊荷重の25%にあたる荷重でも、1億回加えると破壊される。溶接部分など形状急変部に力が集中する応力集中が原因になることが多い。大きめの繰り返し力が作用すると、2桁少ない回数でも破壊が生じる(低サイクル疲労)。参考:月刊航空情報8,’02、スピアヘッドNo.16、図解船の科学、航空用語事典増補改訂版
<ピロー>:日本海軍士官のスラングで、枕金のこと。参考:帝国陸海軍事典
<ピロート・パルド>:81(哨戒艦)を参照。
<ピロート・パルド級>:チリ海軍哨戒艦Piloto Pardo級。ドイツのファスマール社製哨戒艦がベースで、チリのASMAR社が建造した。沿岸警備、漁業保護、捜索救難、サルベージ、海洋汚染対策などが主任務である。艦首水線下にバウ・スラスター(135馬力)2基を装備する。統合艦橋システムとMEOSⅡ電子光学センサーを搭載する。全長80.6m、最大幅13m、吃水3.8m、満載排水量1728-1756トン。主機はヴァルチラ社製12V26ディーゼル2基、出力5470馬力、可変ピッチプロペラ2軸推進、巡航速力12ノット、最大速力20ノット(22ノット?)、航続距離8600海里(12ノット)。発電機はディーゼル(145kVA)3基と非常用ディーゼル(105kVA)1基。兵装は70口径40mm機関砲1門、12.7mm機銃2丁。AS365ヘリ1機を搭載できる。乗員30名+居住設備60名分。艦番号81ピロート・パルドなど4隻が2008-17年に就役した。参考:朝雲、月刊世界の艦船1,’16、12,’21
<広海軍工廠>:日本海軍の工廠。広島県広にある。大正12年4月に創設され、航空機製造を担当した。参考:月刊世界の艦船9,’13増刊
<ビロクシー>:CL-80(軽巡洋艦)を参照。
<弘前演習場>:陸上自衛隊の演習場。面積491万平方メートル。在日米軍の地位協定に基づく日米共同施設区域である。参考:月刊軍事研究4,’10
<弘前駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。防衛館には陸軍第8師団や陸自活動の史料が展示されている。所在地は青森県弘前市大字原ヶ平字山中18-117。弘南鉄道千年駅から徒歩10分、JR弘前駅からバスで20分。1968年3月に開設され、第39普通科連隊が駐屯した。開設記念の市中パレードも行われ、毎年恒例となっている。2010年、弘前市と岩木山除雪の協力に関する協定を締結。毎年ゴールデンウィーク前に除雪を行うことになった。1月5日、第39普通科連隊が訓練始めを実施。大鰐温泉スキー場で冬季積雪山岳訓練を行い、スキー神社を参拝した。1月8日、新成人28名の成人祝賀行事を実施した。2011年10月14-20日、弘南地区の中学生を対象に各中学校インターンシップを実施。3校から生徒計25人を受け入れて職場体験を行った。2018年9月24日、弘前市内のホテルでふれあいパーティを実施。9月27日、弘前市総合防災訓練に参加。10月6日、自衛隊創立記念日行事として市中パレードと弘前公園での記念式典を行った。2019年8月1日と3-5日、弘前ねぷたまつりに参加。2020年1月9日、弘前城雪灯籠まつりの自衛隊協力隊編成完結式を実施。4月1日、新型コロナウイルス感染拡大を受け、感染症対策と隊員感染時の拡散防止などの処置対策を担当する駐屯地防疫隊を編成した。4月12日、駐屯地司令室で新規防衛モニター委嘱伝達式と駐屯地モニターの委嘱・交付式を実施。4月20日、隊員305名が弘前市岩木山8-9合目で除雪作業を実施。5月15・18・19日、駐屯地曹友会が駐屯地周辺のリンゴ園で援農ボランティア(リンゴ摘花作業)を実施。2021年1月8日、新成人隊員60名の成人式を実施。1月12日、弘前城雪灯籠まつりの自衛隊協力隊65名の編成完結式を実施。2月10日、弘前城雪灯籠まつりの大雪像完成報告式を実施。5月17-19日、曹友会の駐屯地司令以下128名が周辺のりんご農園で援農ボランティアを実施。6月27日、大坊小学校の教員と小学4年生親子計35人を招いてレクリエーションを実施。2022年5月23-25日、駐屯地司令以下駐屯地曹友会延べ126名が近隣りんご園で援農ボランティア(摘花作業)を実施。2023年4月5-7日、青森地本が任期制隊員に令和5年度ライフプラン集合訓練を実施。5月24-26日、弘前駐屯地曹友会が駐屯地周辺のりんご園で援農ボランティア(実選り作業)を実施。参考:JGround Vol.23、MAMOR vol.91、朝雲、第9師団ホームページ
<弘前駐屯地(2015年)>:第9師団第39普通科連隊、第9偵察隊、第305基地通信中隊弘前派遣隊、第123地区警務隊弘前連絡班、東北方面会計隊第380会計隊(3月26日から第380会計隊弘前派遣隊)、弘前駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<弘前駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2014年12月8日、年代別ライフプランセミナーを開催し、隊員延べ934名の生涯設計を支援した功績で、陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。2015年12月7日、父兄会との連携強化や福利厚生の功績により、陸幕長から2級賞状と副賞を授与された。2018年1月17日、官用車の無事故走行継続と緊急登庁支援施設の整備などの功績で、陸幕長から2級賞状が授与された。参考:朝雲
<広島型原爆>:ガンバレル型原爆を参照。
<広島原爆死没者追悼平和祈念館>:広島に投下された原爆による死没者を追悼し、原爆の惨禍を後世に伝えるため建造された平和祈念館。所在地は広島県広島市中区中島町1-6。開館時間は3-7月が0830-1800、8月が0830-1900、9-11月が0830-1800、12-2月が0830-1700。休館日は12月29日から1月1日。入館料無料。参考:MAMOR vol.58
<広島原爆投下>:作戦コードは特殊爆撃命令13号。アメリカ側の投下理由は「戦争を早期に終わらせて犠牲を少なくするため」ということだが、実際にはソ連への牽制の意味が大きい。原爆の使用に関する検討委員会の委員長だったジェームス・バーンズ自ら、ソ連参戦前に日本を降伏させるため使用した、と証言している。真珠湾攻撃と比較して非難を逃れる向きもあるが、軍事施設への奇襲攻撃と市街地への無差別爆撃を一緒にされても困る。投下目標には当初京都が含まれていたが、日本人への心理的打撃が大きいと判断されて外され、第1目標が広島市街工業地域、第2目標が小倉兵器廠及び市街地、第3目標が長崎市街地と決定した。広島が選ばれたのはそれまでの空襲の被害が比較的少なく、爆撃後の効果判定が行いやすいこと、連合軍の捕虜収容所が無いことなどの理由もあったようだ。全目標が悪天候だった場合や、原爆に不具合を生じた場合は硫黄島に着陸する。原爆投下B-29爆撃機部隊は第509混成航空群で、原爆搭載機は機長ポール・ティベッツの母親の名前である「エノラ・ゲイ」と命名された。気象観測用B-29爆撃機の名称は、広島が「ストレートフラッシュ」、小倉が「ジャビットⅢ世」、長崎が「フルハウス」である。投下4時間前から6時間後まで、他のアメリカ軍機は目標から50マイル以内への立ち入りを禁じられた。エノラ・ゲイ、科学観測機、写真撮影機の乗員には色付きの保護メガネが、機長には自殺用の青酸カプセルが乗員分だけ渡されていた。1945年8月5日1500(マリアナ時間。日本時間1400)、Mk.Ⅰ原爆がトレーラーに搭載され、1545からエノラ・ゲイへの搭載作業を開始した。1930、地上勤務将校に対する離陸手順のブリーフィングを開始。2330、気象観測機乗員に対するブリーフィングを開始。エノラ・ゲイ乗員に対する従軍牧師によるカウンセリングを開始。8月6日0000、エノラ・ゲイ機長が乗員に対して訓示。0030、ブリーフィング及びカウンセリングを終了。0112、エノラ・ゲイに同行する写真撮影機及び科学観測機の乗員がトラックで機体に移動。0115、エノラ・ゲイ乗員が機体に移動。0137、気象観測機3機が離陸。0220、エノラ・ゲイが離陸準備を完了。0245、テニアン島をエノラ・ゲイが離陸。0247、科学観測機「グレート・アーティスト」が離陸。0249、写真撮影機F-13(91号機)が離陸。0300、エノラ・ゲイがテニアン島の管制塔と交信し、原爆の尾栓の取り扱い及び火薬装填の照合を実施。0310、原爆の尾栓に火薬と点火装置を取り付けた。0320、作業を終了。0400、日本陸軍中央特殊情報部がV600番台のコールサインを持つ少数機グループ(6月に存在を傍受していた)がテニアンから日本に向かっていることをキャッチし、陸軍参謀本部に報告したが、特に対策は取られなかった。0425、エノラ・ゲイが高度9000フィート(2743.2m)に上昇。0505、時速205マイルで針路を四国に向けた。0630(日本時間)、エノラ・ゲイが原爆の安全装置を解除、高度30000フィート(9144m)への上昇を開始した。0709、気象観測機ストレート・フラッシュが広島上空に到達。第2総軍本部警報発信係はB-29爆撃機3機を発見し、広島に警戒警報を発令した。また、飛行第4戦隊第3攻撃隊二式複座戦闘機4機が迎撃のため山口県小月飛行場を離陸した。気象偵察の結果、広島上空には直径10マイルの雲の切れ目があり、0724、ストレート・フラッシュは第1目標広島への投下を指示した。0725、B-29爆撃機が北進して播磨灘方向に去ったため、0731、広島の警戒警報が解除された。0805、エノラ・ゲイは高度31060フィート(9467m)を時速200マイルで飛行、針路246度で広島に向かっていた。0806、広島東方80kmの松永監視哨が西に向かうB-29爆撃機2機を視認し、第2総軍本部警報発信係に連絡を入れた。0812、エノラ・ゲイは進入点に到達。0813、広島に警戒警報が発令された。エノラ・ゲイ乗員は防護眼鏡を装着した。0814、原爆自動時限装置を作動させ、写真撮影機は撮影のため90度旋回を開始した。午前8時15分17秒、エノラ・ゲイは爆弾倉を開放、原爆を投下した。科学観測機は爆風測定機を投下している。午前8時15分20秒、エノラ・ゲイは右155度の急旋回を実施。投下から43秒後、第2総軍本部警報発信係が空襲警報のサイレンを鳴らそうとした時、MkⅠ核爆弾「リトル・ボーイ」が広島市相生橋から800フィート(243.8m)の地点の上空1890フィート(576.1m)で炸裂。広島市にいた32万人が被爆し、8万人が即死、9万戸の建物の内6万2千戸が破壊された。更に5万人が3ヶ月以内に死亡している。投下後、編隊はテニアン島に向かい、1458にテニアン北飛行場に着陸した。被爆数分後から広島には爆心地西側を中心に黒色の大雨が降り始めている。爆心地に近い中国軍管区司令部は機能を喪失し、宇品の船舶司令部が業務を引き継いだ。爆心地から2kmほど離れた第2総軍司令部も破壊され、70名が死亡し、参謀の李殿下も負傷(後に死亡)、多数の行方不明者を出している。7月の呉爆撃で撃墜され、捕虜として抑留されていたB-24J爆撃機(44-40680)乗員は、東京に送られていた機長以外が死亡した。中国軍管区司令部付報道班員は自宅で被災した直後からカメラを手に市内を撮影したが、あまりの惨状に、爆心地から2.5kmにあって破壊された自宅、ぺしゃんこになった向かいの木造3階建て西消防署皆実出張所、爆心地から南南東2.3kmにある御幸橋西詰めの宇品警察千田町派出所前で糧秣廠からもらってきた油を負傷者に塗る警察官2人とそれを待つ負傷者の列(2枚)、爆心地から南南東2.4kmの皆実町6丁目電車停留所角の路上に机と椅子を置いて罹災証明書を書く警察官の計5枚を撮るのがやっとだった。キノコ雲以外で広島市内の当日の様子を写した写真は、この5枚しか存在しない。迎撃のため出撃した飛行第4戦隊第3攻撃隊二式複座戦闘機は呉上空で高々度を飛行するB-29爆撃機を追尾しようとした時に原爆の炸裂に遭遇、B-29爆撃機には追いつけず、そのまま帰投した。呉海軍工廠では海軍体操が終わった直後に江田島方面で原爆の閃光が走り、直後に巨大な炎が渦巻き、凄まじい爆発音が2回響いて工廠の建物が揺れ、キノコ雲が湧き上がっていくのが見えた。海軍兵学校岩国分校では凄まじい閃光が走った数分後に爆風で校舎が揺れ、防空壕掘りをしていた生徒は山崩れと勘違いして外に飛び出し、北北東の方角にキノコ雲が立ち上るのを目撃した。海軍兵学校本校と大原分校では2000過ぎになり黒い雨と思われる俄雨を観測している。1000頃、大阪の中部軍司令部から大本営に、朝から広島との通信が途絶しており、広島が1発の爆弾で壊滅したようだとの連絡が入った。1発の爆弾のためであるということに大本営参謀の大部分は否定的で、原爆がこの時期に開発済みとは科学者達も考えていなかったが、作戦準備状況報告のため大本営に来ていた第2総軍兵站参謀は仁科博士に電話を掛け、原爆かどうか尋ねている。確答は得られなかったが、翌々日に広島に調査に向かうことになった。夜、トルーマン大統領が広島に原爆を投下したと発表。8月7日、追浜航空隊のダグラス輸送機に海軍広島調査団の12名が乗り込み、広島に向けて出発。上空から広島を見た軍令部員の1名は、勝負あったと叫んだという。宇品飛行場は被爆して使用不能になっていたため、岩国飛行場に着陸した。大本営の視察者、技術関係者、第2総軍兵站参謀らを乗せた小型輸送機も夕方に江波飛行場に着陸している。午後、大本営は広島がB-29少数機の攻撃を受け、新型爆弾とみられる爆弾により相当の被害を生じたと発表。軍の解析の結果、閃光にも殺傷力があるが白い布で防げるとのことで、全軍に白い頭巾(晒し木綿の袋に目の部分の孔を2つ開けたもの)と、白靴下を切って軍手に付けた手甲を携帯するよう命令が出た。また、防空壕も塹壕のように数カ所で屈曲したタイプを掘るようになった。太陽熱を利用して爆発するので晴天の日しか投下されないという間違った解析結果も伝えられている。8月8日、海軍広島調査団が自動車3台に分乗して広島に向かったが、その間に岩国飛行場が空襲を受け、乗ってきた輸送機が炎上してしまった。広島で調査を行った結果、爆心地付近では人馬の両目が数センチ飛び出し、腹部が破裂しており、原因は不明だが、爆風や急激な圧力変化によるものと推定された。また、地面を掘ってミミズを20分ほど観察してみたが、特に変わった点は見られなかったという。爆心地から2km前後の所まで、腕章などの黒色の文字の跡が皮膚に焼き付いている現象がみられた。広島市から宇品飛行場にかけては、被爆直後に死の灰が降り注ぎ、赤や青に発光しながら燃焼していたという。調査団が第2総軍に戻ると、広島の北方7kmの地点に風船の付いた爆弾状のものが3つ落下し、付近の住民が家畜ごと避難しているとの情報が入ったため、確認したところ、落下傘付きの観測用ゾンデだった。8月8日1400頃、呉海兵団がトラック100台で広島に救援に入った。前日に東京を発った日映のニュースカメラマンが広島駅で到着、一週間ほど撮影を行った。8月9日、第2総軍司令部の機能がほぼ回復し、救護活動の指揮を執った。8月10日を過ぎても広島市内では炎がくすぶっていた。兵器廠では東京の調査団、呉鎮守府、第2総軍船舶司令部などが会合を開き、広島を破壊した新型爆弾については、海軍側から超大型通常爆弾または液体酸素利用爆弾ではないかという意見も出たが、さしあたって原爆であるということで調査を続行することにした。まだ原爆症(放射線障害)が顕在化する前だったため、強烈な爆風と高熱が破壊力の原因であると判断、破壊された家庭用防空壕が無いことや、投下後2日目には雑草が伸び始めていることなどから、地下には破壊力が殆ど及んでおらず、原爆に十分な対策を取ることは可能という結論を得た。原爆よりもソ連参戦の方が衝撃的で、望みを絶たれた気分になったという。8月10日、大本営が広島に投下された新型爆弾を原爆であると確定した。9月3日、オーストラリアの従軍記者やニューヨークタイムズの記者が広島に入り、被爆者を取材、9月5日付けのイギリス紙デイリー・エクスプレスやニューヨークタイムズ紙に放射線を初めとする原爆被害に関する記事を載せた。これに対して9月6日に軍は放射線障害を完全に否定し、ニューメキシコ核実験場に細工をしたガイガーカウンターを持ち込んで残留放射性物質は無いと言い張っている。9月8日、アメリカ軍人、赤十字国際委員、原爆製造メンバーのモリソン博士など連合軍調査団を乗せた航空機6機が厚木飛行場を出発、岩国飛行場に着陸し、夕方にトラックで広島に入った。9月9日から連合軍調査団が現地調査を開始。9月17日、枕崎台風が広島を通過し、原爆災害調査中の京大チーム11人が土石流に巻き込まれて死亡するなど大被害を出したが、放射性物質がほぼ海に流されて土壌が清浄化されたともいわれる。9月19日からGHQが報道管制を敷いて言論を封殺した。これをかいくぐって昭和21年5月に雑誌ニューヨーカーの記者が取材を行い、8月31日号が丸一冊原爆特集になったが、反核の動きに繋がることは無かった。昭和32年4月、被爆者医療法を施行。昭和40年の厚生省の調査では、被爆者のうち2.2%が就職時の差別を、2.6%が結婚時の差別を受けたと回答した。山口大学の調査ではそれぞれ6.8%、6.3%だった。昭和43年9月、被爆者特別措置法を施行。エノラ・ゲイ機長は平成19年11月1日に92歳で死去、最後のクルー(航法士)は平成26年7月28日に93歳で死去した。平成28年5月27日、アメリカのオバマ大統領が広島平和公園と広島平和祈念資料館を訪問し、安倍首相と共に献花した。昭和62年までのデータに基づく被爆による全白血病の絶対過剰リスク(人口1万人あたりの過剰発症数)は、男性0.01Gy未満で昭和25-40年が0.11、昭和41-62年が0.01、男性0.01-4Gyで昭和25-40年が32.86、昭和41-62年が3.5、女性0.01Gy未満で昭和25-40年が0.1、昭和41-62年が0.07、女性0.01-4Gyで昭和25-40年が23.66、昭和41-62年が14.88であり、時間が経過するとリスクが低下する傾向にあるが、被爆時40歳の女性に限ると昭和62年までリスクが上昇し続けている。また、急性骨髄性白血病に限ると、被爆時20-39歳の男性で同様の継続的リスク上昇が見られており、一概に傾向は言えないようである。平成12年までのデータでは、被曝線量1Gyあたりの相対過剰リスクは非被爆群を1とすると急性骨髄性白血病が2.81倍、慢性骨髄性白血病が6.39倍、急性リンパ球性白血病が3.70倍だった。相対過剰リスクの上昇は被爆20年後くらいで一旦収まるが、40年後あたりに一時的に上昇する。急性骨髄性白血病では、それに加えて被爆時20歳以下の群に限り、50年以上経過後にリスク上昇がみられている。参考:月刊丸2,’08、5,’07、11,’09、丸エキストラ版No.114、月刊航空ファン7,’15、5,’16、戦争がやってくる、月刊JWings8,’06、10,’14、血液フロンティア12,’11、続潜水艦気質よもやま物語、新兵サンよもやま物語、歴史群像8,’15、海軍兵学校岩国分校物語、朝雲
<広島市安佐南区豪雨災害>:2014年8月20日0300頃、広島県安佐南区で豪雨に伴う大規模な土砂崩れが発生し、土砂崩れに巻き込まれた住民74人が死亡した。0630、広島県知事から第13旅団長に災害派遣要請が出された。第13旅団では大雨警報発令の時点で万が一に備えた災害派遣準備に入っており、司令部第2部の隊員が情報収集を開始、0740に第46普通科連隊の隊員30名が現地に向け出発した。現場は急斜面で、現地本部や車両を置く場所が無く、スロット店の駐車場を半分借りて展開している。0930、中部方面航空隊ヘリ映伝装備UH-1多用途ヘリが離陸。1015、隊員60名と車両15両が現地に出発。1030、隊員60名と車両10両が現地に出発。第46・第47普通科連隊、第13施設隊、呉造修補給所、呉造修補給所貯油所警備犬3頭が出動し、現場の住宅10軒に取り残された15人の救出活動に入った。8月21日、第13飛行隊、第17普通科連隊、第4施設団第304・第305施設隊が捜索に加わった。8月24日1030、広島県知事から第13旅団に入浴支援要請が出された。1900、第13後方支援隊が三入小学校で入浴支援を開始。8月25日、第8普通科連隊、第13特殊武器防護隊が捜索に加わった。8月26日、第13後方支援隊が梅林小学校で入浴支援を開始。入浴施設はもみじの湯と名付けられた。9月11日、撤収要請が出された。派遣規模は隊員延べ14965名、車両延べ3235両、航空機延べ66機。参考:月刊軍事研究11,’14、朝雲
<広島飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<広島平和祈念資料館>:広島平和祈念公園内にある原爆の資料館。広島原爆投下被害に関する展示を行っている本館と、被爆前後の広島の歴史を伝える東館がある。所在地は広島県広島市中区中島町1-2。開館時間は3-7月が0830-1800、8月が1900、9-11月が0830-1800、12-2月が0830-1700。休館日は12月29日から1月1日。入館料は大人50円。参考:MAMOR
vol.58
<広瀬吉雄>:日本陸軍エース。明治45年、茨城県生まれ。昭和4年、陸軍士官学校予科に入学、昭和8年7月に本科を卒業し、10月に航空兵少尉となり、昭和9年7月に所沢で操縦学生課程を修了、明野で教育を受け、昭和11年7月に甲種学生課程を修了した。日華事変勃発で飛行第16連隊に動員され、7月12日に天津に展開。8月22日、張北に進出。9月19日、太原で複葉軽爆1機を撃墜、陸軍戦闘機部隊創設後の初戦果を挙げた。9月21日、太原で1機を撃墜。その後明野陸軍飛行学校で教官を務め、飛行第77戦隊中隊長となり、昭和16年10月に少佐に昇進、太平洋戦争ではビルマ作戦に参加した。12月8日、タイ空軍戦闘機1機を撃墜した。昭和18年3月、飛行第64戦隊長となり、ラングーン基地で任務に就いた。昭和19年2月8日、モンドウ上空で3機を撃墜。その後明野陸軍飛行学校教官となり本土に帰投。12月22日、伊勢湾上空でB-29爆撃機に体当たりを行い、戦死した。死後に個人感状を授与され、二階級特進で大佐になっている。公認総撃墜数9機。参考:日本陸軍戦闘機隊
<廣田丸>:日本郵船貨物船Hirota maru。垂線間長93m、幅13.8m、深さ8m、吃水6.6m、総トン数2922トン、重量トン数4306トン。主機は三連成汽機1基1軸2694馬力、航海速力12ノット、最大速力13.97ノット。昭和15年10月7日竣工。太平洋戦争勃発で徴用船として使用され、次いで特設運送船(雑用船)となった。昭和20年5月26日、瀬戸内海で触雷して損傷、日立造船因島で修理を受けた。8月14日、門司を出港して釜山に向かう途中、六連島北北東4kmで触雷して沈没した。参考:月刊世界の艦船4,’17
<広弾薬庫>:在日米陸軍の弾薬庫。広島県呉市にあり、面積は36万平方メートル。元は海軍航空廠の重油荷揚場地域で、1950年にアメリカ軍が接収して弾薬庫にした。2013年、管理担当の第83兵器大隊が解隊されたため、第35継戦支援大隊に移管された。参考:月刊軍事研究4,’10、7,’15
<ピロト・パルド級>:ピロート・パルド級(哨戒艦)を参照。
<広畑富男>:日本陸軍エース。大正6年、福島県生まれ。日本飛行学校に入学して民間に就職し、昭和14年4月に陸軍に入隊、予備役下士官として飛行第13戦隊で教育を受け、昭和15年4月に飛行第59戦隊に配属された。昭和16年12月、太平洋戦争開戦以降はマレー攻略戦、蘭印作戦に参加。昭和18年、チモール島に進出。2月、ラウテン上空で爆撃機2機を撃墜。夏、ニューギニアに進出。昭和19年2月、北九州の芦屋に帰還。昭和20年春、知覧基地に進出。4月22日、乗機が故障して落下傘降下したが、機体と衝突して殉職した。総撃墜数14機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊
<毘盧峯>:682(戦車揚陸艦)を参照。
<ビロボン>:682(戦車揚陸艦)を参照。
<ビン・アン・ザラン級>:モロッコ海軍哨戒艇。OPV70級を導入したものである。兵装は76mm砲1門。参考:THE
MILITARY BALANCE 2016
<ビンカ>:L70(練習機)を参照。
<濱海511>:中国海洋石油総公司海洋調査船の艦番号で、ピンハイ511と読む。物理探査専用船で、後部にヘリ甲板を持ち、艦尾にハイドロフォンを装備する。全長72m、総トン数2231トン。主機はディーゼル、速力16ノット。1999年6月7日、鹿児島県奄美大島西390kmを航行するのを第5航空群P-3C哨戒機が確認した。6月8日、鹿児島県奄美大島西380kmを航行するのを海上保安庁が確認した。参考:中国/台湾海軍ハンドブック改訂第2版、月刊世界の艦船3,’00
<ビンガム>:APA-225(攻撃輸送艦)を参照。
<ヒンガム造船所>:ベスレヘム・スティール社傘下の造船所で、1941年にアメリカ海軍の要求により開設された。護衛駆逐艦と戦車揚陸艦の大量建造を行っており、護衛駆逐艦を1隻あたり25日というハイペースで製造した。第2次大戦後は役目が無くなり、1986年に閉鎖され、1997年に跡地がシー・チェイン社に売却されて市街地や商業施設などとして再開発されている。参考:月刊軍事研究9,’07
<ピンク>:K137(コルベット)またはピンクカードを参照。
<ピングィン>:ドイツ海軍特設巡洋艦。元は1936年に竣工した貨物船カンデルフェルスである。総トン数7766トン。主機はディーゼル、出力7600馬力。1940年6月22日、ドイツから出撃。デンマーク海峡を突破して大西洋で行動した。7月、商船1隻を撃沈。8月、インド洋に入った。8月26日から10月7日までに油槽船4隻を含む6隻を捕獲または撃沈した。10月末と11月初め、オーストラリアのバス海峡に機雷230個を敷設した。その後は西に向かい、4隻を捕獲している。1941年1月14日、南氷洋でイギリス・ノルウェー捕鯨船団の母船3隻と捕鯨船9隻(鯨油船3隻と捕鯨船11隻?)を捕獲し、一部をドイツ占領地に輸送、鯨油などを荷揚げした。また、南極に乗員を上陸させて休養を取っている。4月、インド洋に移動し、イギリス船3隻を撃沈した。5月7日、油槽船1隻を撃沈したが、救難無線を発信されてしまった。イギリス巡洋艦56コーンウォールが無線をキャッチして搭載機を飛ばしたため、5月8日にアラビア海で発見された。ノルウェー船の表示を掲げたが、コーンウォールに停戦命令を出されたため、砲撃を開始。1発を命中させたが、反撃を受けて1726に沈没した。戦果は33隻165547トン(撃沈または捕獲)だった。また、敷設した機雷で5隻を沈めている。参考:写真集ドイツの巡洋艦、月刊軍事研究8,’17
<ピングウィン>:BTR-50装甲車ファミリーを参照。
<ピンクカード>:単にピンクともいう。航空自衛隊の航空機操縦教育課程における、不合格判定の評価表のことで、ピンク色をしていたのでこう呼ばれる。2回連続でピンクカードを受けると、次のフライトで課程継続審査が行われ、これにも不合格で連続3枚目のピンクカードが出されたら、不適格として中途退学になる。参考:MAMOR vol.100、vol.164
<ピンク・チーム>:ベトナム戦争でアメリカ軍が使用した攻撃ヘリ運用法。OH-6A観測ヘリが先行して索敵を行い、発見した敵をAH-1G攻撃ヘリ1機が攻撃、僚機は上空で援護する。参考:世界の傑作機No34
<ピンクニー>:DDG-91(駆逐艦)を参照。
<ピンク・パンサー>:ランドローバー野外機動車ファミリーを参照。
<ピンクラオ>:413(練習艦)を参照。
<ビンゴ・フュエル>:基地までの燃料すれすれ、ということを示す符丁。参考:月刊軍事研究11,’04
<ヒンジ>:蝶番。または舵面の回転軸。またはヘリコプターのローターブレードとハブを繋ぐ装置。フラッピング・ヒンジ、フェザリング・ヒンジ、リード・ラグ・ヒンジがある。参考:月刊航空ファン10,’98、航空用語事典増補改訂版、クルマのすべてがわかる事典
<ヒンジ・モーメント>:Hinge moment。ヒンジ(舵面回転軸)に生じるモーメントのこと。舵面に加わる流れの作用により、舵面を元に戻そうとするヒンジ・モーメントが発生し、飛行速度が速くなるほどヒンジ・モーメントが大きくなり、人力では舵面の操作が難しくなってくるので、トリム・タブを使うなどして保舵力を小さくする。参考:航空用語事典増補改訂版
<貧者の核兵器>:化学兵器や生物兵器など、核兵器より開発や使用の敷居が低い大量破壊兵器のこと。ただし自分よりも大量破壊兵器をたくさん持っている国に使用すると全力で反撃されるので、基本的に弱いものいじめ兵器である。参考:月刊軍事研究1,’03
<浜州>:515(フリゲート)を参照。
<ヒンジレス・ハブ>:ヒンジを使わずにローターとハブを接合する方式。複合材製の板バネなどを使用し、複雑なヒンジ機構やベアリングを省略、運動性や操縦性を高めている。リード・ラグ・ヒンジを省略したものを半関節型ローター、フラッピング・ヒンジも省略したものをリジッド型ローター、フェザリング・ヒンジも省略して全ヒンジが無いものをベアリングレス型ローターと呼ぶ。参考:月刊航空ファン10,’98、月刊JWings3,’18
<ヒンジレス・ローター>:リジッド型メインローターを参照。
<ピンジン級>:オーク級哨戒艇(台湾海軍)を参照。
<ヒンスデール>:APA-120(攻撃輸送艦)を参照。
<ビンタ受領兵>:日本陸軍用語で、初年兵のこと。参考:新兵サンよもやま物語
<ピンタド>:SS-387(ガトー級潜水艦)またはSSN-672(スタージョン級攻撃原潜)を参照。
<ビンタをとる>:日本陸軍の制裁で、古参兵が初年兵を殴ること。「両脚を開け、歯を食いしばれ」と言った後に頬を殴り飛ばすもので、私的制裁が殆どである。ビンタといっても平手ではなく拳で殴ることが多い。顔が逃げると拳に勢いが付いて余計痛いし、避けようとしたのがばれて往復を喰らったりするので、拳に顔を寄せた方が良い。上靴・帯革などを使用する場合もあるが、ケガをするので、脅しだけで済ませることが多かった。内務班全員が向かい合って殴る対抗ビンタを行うこともあり、気合いを入れると称して30分くらい殴り合うこともある。内務班では、二年兵や三年兵が点検と称して暇潰しにやってくる日夕点呼から消灯時間までの間に行われることが一番多い。殴られた初年兵は「ご苦労さんであります」と言わなければならない。参考:新兵サンよもやま物語、帝国陸海軍事典、月刊丸4,’99、陸海軍学校と教育
<ピンツガウアー716シリーズ>:オーストリア軍偵察車両。オーストリアのシュタイア・ダイムラー・プフ社製4輪駆動トラックを採用したもので、2002年からイギリスのオートモーティブ・テクニク社が製造権を保有している。ウインド・シールドは前に倒せる。参考:月刊PANZER5,’04、月刊グランドパワー8,’04
<ピンツガウアー718シリーズ>:シュタイア・ダイムラー・プフ社製6輪駆動装甲トラック。車体は装甲鋼板全溶接構造で、射距離10mでのNATO標準7.62mm弾射撃や、床下150mmで炸裂したL2A2手榴弾の爆発にも耐える。前面ガラスは車体と同等の防弾レベルがあり、視界も広い。オプションでNBC防護装置や空調システムを取り付け可能。エンジンはフォルクスワーゲン製5気筒ディーゼル(総排気量2500cc)、トランスミッションはZF製オートマチック。乗員を含め10名を収容できる。指揮管制車両、特殊作戦車両、シェルター車両、救急車などのファミリーもある。2002年からイギリスのオートモーティブ・テクニク社(後にアーマーホールディングス・エアロスペース&ディフェンスグループ傘下のスチュワート&スティーブンソン社に買収され、ピンツガウアー社に改名)が製造権を保有している。ニュージーランド軍では2003年から装備した。参考:月刊PANZER4,’04、月刊軍事研究3,’04、9,’06、月刊グランドパワー8,’04
<瓶詰急造地雷>:一升瓶にカーリットを詰め、数本纏めて九三式地雷の下に埋めたもの。参考:月刊丸1,’07
<ピンテイル>:L21(コルベット)またはP193(防材敷設船)を参照。
<ヒンデンブルク>:ドイツ海軍デアフリンガー級巡洋戦艦Hindenburg。1917年竣工。1919年に自沈した。参考:近代戦艦史
<ヒンデンブルク号>:ドイツの巨大飛行船。ヒトラーの肝入りで宣伝媒体として建造された。全長245m、最大径41mの硬式飛行船で、水素20万立方メートルを詰め込んで浮上する。1936年3月31日に就航し、大西洋横断飛行を行ったが、1937年5月6日に爆発炎上して失われ、乗員乗客97人中35人が死亡した。水素による爆発もあるが、塗装用の酸化鉄とアルミナが反応して船体が丸ごとテルミット焼夷弾になってしまったのが主要因らしい。参考:世紀の失敗物語、月刊軍事研究3,’08
<ピントル式砲架>:上部砲架を参照。
<ピントル・マウント>:支柱架のこと。
<ピンパーネル>:K71(コルベット)を参照。
<ピンハイ511>:濱海511(海洋調査船)を参照。
<ヒンハム>:PF-30(フリゲート)を参照。
<ピンファイア薬莢>:薬莢を参照。
<ピンポイント攻撃>:Pin-point attack。精密誘導兵器により、精度の高い攻撃を行うこと。参考:月刊JWings10,’09別冊付録
<ヒンメルベット>:ドイツ国防軍の迎撃管制システムHimmelbett、直訳すると天蓋ベッド。完成させたドイツ空軍少将の名前を取ってカムフーバー・ラインと呼ばれることもある。フレイア早期警戒レーダー、ヴュルツブルグ・レーダー2基、レーダー管制室などで構成され、フレイアで敵機を発見、ヴュルツブルグの捜索範囲に入ると1基が進行方向・速度・高度を測定、もう1基が味方の夜間戦闘機をモニターし、ルフトヴァッフェ・ヒルフェリンまたはブリッツ・メーデルと呼ばれる女性補助員が赤と緑のスポットライトでゼーブルク・テーブル(Seburgtisch。ガラス製テーブル)に表示する。ゼーブルク・テーブルには経度0.5度(90km)と緯度0.25度(111km)刻みで升目が書かれており、更に9つの小さな升目で区切られていた。これらを戦闘機管制官が見ながら会敵点を判断して夜間戦闘機や高射砲指揮管制装置にHF無線機で伝達し、夜間戦闘機(Bf110とJu88Gが主)はシュパナー赤外線暗視装置、FuG202リヒテンシュタインBC1レーダー、シュレーゲ・ムジークを使用して迎撃する。レーダー網はノルウェーからドイツのアルザスにかけてのヨーロッパ沿岸地帯に32km間隔で配備された。ヴュルツブルグ・レーダーが1基で1機しか追尾できないという欠点があり、イギリス側は夜間爆撃機編隊をコンパクトに纏めて対抗、これに対してドイツ側は警戒地域を密にして対応した。また、イギリス側は爆撃機や護衛戦闘機にティンゼル、マンドレル、ヨッスル、エアボーン・シガー、パイプラック、ムーン・シャイン、パーフェクトスといったECM/ESM機材を装備し、フェレットと呼ばれるECM専門飛行隊を護衛に付け、コロナ作戦で偽管制をかけるなど、様々な対抗措置を執った。それでも1943年半ばには毎月200機の爆撃機が失われるようになったため、イギリス空軍はウィンドウ(チャフ)の使用を解禁して大きな効果を上げている。これに対抗すべく、ドイツ空軍はヴュルツラス、ニュルンベルグ、コルフといった装置を開発し、ヴィルデ・ザウやツァーメ・ザウといった新戦術を編み出した。参考:月刊グランドパワー9,’04、連合軍の傑作兵器駄作兵器、世界の傑作機No.157