<ツ11>:日本軍が開発していたジェットエンジン。初風4気筒空冷直列エンジンを使用したモーター式圧縮機を装備する。推力0.2トン。作動が不安定のため、地上で調整した後で始動させる必要があり、空中でエンストすると再始動できなくなるという欠点があった。また圧縮機の性能が不十分で、高度4000mを超えるとエンストしてしまうという短所もあり、実用高度は2000m程度だったといわれる。桜花二二型に搭載される予定だった。参考:日本海軍の爆弾、歴史群像8,’08
<ツァーメ・ザウ>:ドイツ空軍の対夜間爆撃機迎撃戦法Zahme Sau(飼育猪、飼い豚)。ヤークト・シュロス・レーダーが爆撃機を探知すると、無線ビーコン上を周回飛行しながら待機している夜間戦闘機(Fw190A夜間戦闘機型など)に迎撃指示が出され、夜間戦闘機はFuG220レーダーとFuG227/FuG350逆探装置を使用して爆撃機に接近し、撃墜する。1944年初めから採用され、イギリス爆撃機隊に10%近い損失を与えたが、1944年7月13日にJu88G夜間戦闘機が間違ってイギリスのエセックス州ウッドブリッジに着陸してしまったため、イギリス側の知るところとなり、新型チャフのロープを開発したり、モニカ後方警戒レーダーを外したり、H2Sレーダーの使用を局限したりして対抗した。参考:連合軍の傑作兵器駄作兵器、世界の傑作機No.157
<ツァーリ・タンク>:帝政ロシアが1917年に試作した3輪式戦闘車両、「戦車の王」。直径9mの主輪2基の間に戦闘室を設け、後方(前方?)に小さい支持輪を持っている。戦闘室の上に回転砲座を設けて武装を搭載し、塹壕内の敵を撃ち下ろす予定だった。巨大な車輪がゴロゴロ転がってくるので、戦場では敵の注目と砲火を浴びるに違いない。全長17m、全幅12.5m、全高9m、重量20トン。エンジンはガソリン(200馬力)2基、最大速度20km。1922年まで試験が続けられたが、結局採用されなかった。参考:ソビエト・ロシア戦闘車両大系(上)
<ツァーリ・ボンバ>:RDS-220(核爆弾)を参照。
<ツァーンケーニッヒ>:TⅤ(G7es)魚雷またはTⅤb(G7es)魚雷を参照。
<ツァーンケーニッヒⅡ>:TⅩⅠ(G7es)魚雷を参照。
<ツアギ>:ソ連/ロシアの航空研究所である中央航空力学研究所(Tsentralniy AeroGidrodinamicheskiy Institut)の略称TsAGI。1918年12月1日にニコライ・エゴーロヴィッチ・ジュコウスキー物理学教授やアンドリ・ツポレフらが創設した。1924年、空気力学研究室が設置された。1994年3月29日、ロシアの国家研究センターに指定された。参考:月刊JWings2,’19、11,’07、月刊軍事研究8,’08、6,’14、ウォーマシン・レポートNo.67
<追加装甲キット>:ASKを参照。
<築城管制隊>:航空自衛隊の管制隊。航空保安管制群の隷下にあり、築城基地に置かれている。築城進入管制区(築城基地、防府北基地、芦屋基地、小月航空基地、北九州空港、山口宇部空港を含む)内の航空機に対する航空交通管制(飛行場管制、ターミナルレーダー管制、着陸誘導管制)を行うのが主任務である。2023年2月9-20日の令和4年度航空保安管制競技会において、航空管制部門実技で優勝した。参考:月刊JWings2,’11、4,’16、5,’23
<築城気象隊>:航空自衛隊の気象隊。航空気象群隷下で、築城基地に置かれている。気象観測所、気象レーダー、ラジオゾンデなどを使用して基地周辺の気象を観測し、第8航空団や気象通信隊に伝達、飛行の安全を確保するのが主任務である。参考:月刊JWings2,’11
<築城基地>:航空自衛隊の航空基地。滑走路は2400×46m(45m?)、ランウェイ07/25で、300mが周防灘に突き出す形状である。普天間基地移設でアメリカ軍機の緊急時受け入れ先になるため、周防灘方向に更に300m延伸させる予定。所在地は福岡県築上郡築上町西八田だが、福岡県築上郡築城町、行橋市、京都郡みやこ町に跨がっている。最寄り駅はJR日豊本線築城駅。F-86F戦闘機、F-86D戦闘機、T-33A練習機、F-104J戦闘機、F-1支援戦闘機最終号機が展示されている。元は1942年(昭和17年)10月に開設された日本海軍築城海軍航空隊飛行場で、1945年9月にアメリカ軍が接収して1946年10月から進駐、1954年12月(1955年1月20日?)から航空自衛隊も臨時築城派遣隊を配備して共用を開始し、1957年9月11日にアメリカ軍から返還され、10月1日に航空自衛隊築城基地になった。臨時築城派遣隊は第3操縦学校に改編されている。1959年、第3操縦学校が閉校し、第16飛行教育団が新編された。1964年2月、第10飛行隊が新田原基地から移駐した。10月26日(16日?)、臨時築城航空隊が新編され、第6飛行隊が新田原基地から移動して隷下に入った。12月28日、臨時築城航空隊が第8航空団に改編された。1966年2月、第2高射群第7中隊が新編された。1972年、基地司令の提案により、海軍築城基地時代に基地内から遷社された正八幡神社の神幸祭(御輿が神社の元の位置である築城基地憩いの森に里帰りする)が飛行安全祈念を兼ねて実施されるようになった。1969年10月、第2高射群第7中隊が第7高射隊に改編された。1977年4月、第10飛行隊が廃止された。8月1日、第304飛行隊が新編された。1981年12月17日、飛行教導隊が新編された。1983年3月16日、飛行教導隊が新田原基地に移った。1991年3月、西部航空施設隊第3作業隊が新編された。2001年3月、第8基地防空隊が新編された。2006年3月18日、F-1支援戦闘機退役記念式典を実施。2007年3月から日米共同訓練が実施されるようになった。2008年、山口、福岡、大分、熊本の4県5飛行場の空域を築城基地で管轄するようになった。9月11日、所属するF-15J戦闘機が山口県見島沖の洋上で訓練中、エンジン排気温度の異常を知らせる警告音声が流れたため、パイロットは両エンジン故障と判断してエンジン再始動などの措置を執ったものの飛行に必要な推力を維持できず、パイロットは緊急脱出して生還、機体は日本海に海没した(後に回収)。原因は左電源系統の電圧低下とそれに引き続く左電源系統制御装置の故障で、バックアップ装置が働かずに低電圧供給が続いたため、エンジン排気温度異常の誤警報が流れるなど計器にも誤作動が引き起こされたものである。空自はF-15J/DJ戦闘機全機に特別点検を行い、電源系統不具合の際の対処手順を部隊に周知した。2009年3月11日、航空安全管理隊が飛行安全巡回教育を実施。6月11日、基地内を流れる宮の川の清掃活動を実施。7月1日、2008年9月11日に墜落したF-15J戦闘機の垂直尾翼を使用したモニュメントの除幕式を実施。11月29日、航空祭で展示飛行中のF-15戦闘機から左水平安定板の一部(長さ2.4m、幅0.42m、厚さ0.08m、重量5kg)などが脱落し、基地内や周辺に落下した。死傷者は無かった。2011年1月19日、新成人30名がボランティア活動として築城駅周辺の清掃を実施し、その後成人行事に参加した。2012年2月14-15日、広報官等に対する集合訓練を実施。地本勤務の隊員が空自入隊希望者から装備の質問を受けた場合に備え、第8航空団F-15J戦闘機やF-2戦闘機、高射隊のペトリオット地対空ミサイルなどの説明を受けた。2月22日、日本文理大学航空宇宙工学科の学生22人が研修を行った。2013年8月9-10日、青少年防衛講座を実施。中高生50人以上が参加した。2014年11月9日、警備小隊犬舎分隊員と警備犬4頭が第18回西部日本訓練チャンピオン決定競技会に参加し、臭気選別の部でゾル号、フック号が服従の部で優勝した。2015年2月17日、大分地本が日本文理大学2年生34人の基地研修を支援した。2016年1月31日、第304飛行隊が那覇基地に移った。3月14日、基地准曹会が陸自小倉駐屯地曹友会の依頼で重度心身障害者施設に提供する古着回収を実施。5月4日、正八幡神社の神幸祭を支援し、1年の安全を祈願した。7月29日、第8飛行隊が三沢基地から移駐した。2017年9月30日から10月7日、米軍再編に係る訓練移転(共同訓練タイプⅡ)を実施。第35戦闘航空団第13戦闘飛行隊F-16CM戦闘機5機とF-16DM戦闘機1機が展開し、九州北方・西方空域で第8航空団、西部航空警戒管制団と共同訓練を行った。2018年2月20日、日本文理大学航空宇宙工学科学生25人が基地を研修した。2019年6月4日、東部方面隊3自衛隊統一就職援護広報に協力し、基地研修を行った。7月21日、西部方面隊統一募集広報パワーアドベンチャーに協力した。2020年2月24-28日、令和元年度日米共同統合防空・ミサイル防衛訓練に参加。10月21日、築上町基地対策委員8人を招いて航空機救難消火訓練を公開した。2021年4月22日1507頃、山口県沖の訓練空域に向かっていた第8飛行隊F-2戦闘機93-8134号機(後席に民間カメラマン同乗)と同隊13-8558号機が山口県花尾山付近の上空で空中接触し、134号機の垂直尾翼上端と558号機の機首レドーム下面がぶつかって134号機の衝突防止灯と放電索が落下した。7月26日から8月5日、飛行教導群F-15DJ戦闘機8機と第301・第302飛行隊F-35A戦闘機計6機が展開し、移動訓練を実施。12月4日、募集広報の日を実施。募集対象の若者130人と隊員家族が参加し、F-2戦闘機、ペトリオット、基地防空用地対空誘導弾の地上展示、警備犬訓練展示、第2輸送航空隊C-2輸送機体験搭乗などを行った。2022年3月22-25日、日米共同訓練(米軍再編に係る航空機の訓練移転タイプⅡ)を実施。第8航空団F-2戦闘機がアメリカ空軍第18航空団第44戦闘飛行隊F-15C戦闘機4機と訓練を行った。2023年5月12日、大型ショッピングモールゆめタウン行橋と隊員・家族向け割引協定を締結。5月28日、築城基地太鼓部がよしとみワッショイ春まつりで太鼓演奏を行った。参考:MAMOR Vol.42、Vol.81、築城基地ホームページ、月刊JWings6,’10別冊付録、3,’17、2,’11、4,’11、4,’15、10,’16、1,’18、5,’20、7,'21、11,'21、6,'22、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空情報5,’18、月刊航空ファン1,’15、12,’17、朝雲
<築城基地(2007年度)>:第8航空団第6飛行隊(F-2A/B戦闘機、T-4練習機)、同第304飛行隊(F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機)が所在している。参考:月刊JWings6,’07
<築城基地(2010年)>:第8航空団第6飛行隊、同第304飛行隊、築城管制隊、築城気象隊、第7高射隊、西部航空施設隊第3作業隊、築城地方警務隊が所在している。参考:月刊JWings2,’11
<築城基地(2015年)>:トップは築城基地司令で、隊員数1500名。第8航空団司令部、第6飛行隊、第304飛行隊、築城管制隊、築城気象隊、第2高射群第7高射隊、西部航空施設隊第3作業隊、築城地方警務隊、西部情報保全隊築城情報保全派遣隊が所在している。参考:月刊世界の艦船10,’15、航空自衛隊パーフェクトガイド2015
<築城基地(2020年)>:第8航空団第6飛行隊(F-2A/B戦闘機、T-4練習機)、同第8飛行隊(F-2A/B戦闘機、T-4練習機)などが所在している。参考:月刊JWings3,’20
<築城基地名物隊員食堂カレー>:Tsuiki Air Base
Curry。築城基地隊員食堂のビーフカレーがベースで、築上町観光協会が基地調理員の協力を得て半年がかりで開発し、2011年7月から築城基地厚生センターと福岡県築上町物産館メタセの杜で発売中。2012年7月には牛すじカレーが加わり、2013年初頭に販売累計10万食を達成した。参考:朝雲
<ツィクロン>:T-54B(戦車)を参照。
<ツィクロン>:ロシア海軍プロジェクト22800コルベット4番艇ツィクロン(Tsiklon)。2020年7月24日進水。参考:月刊世界の艦船10,’20
<追撃(日本陸軍)>:戦勝の効果を完全にする途は、猛烈果敢な追撃の実行にあるが、戦勝後の各部隊は眼前の成功に満足して果敢な追撃を躊躇しがちなので、各級指揮官は極めて強固な意志を以て追撃を断行しなければならない。追撃の主眼は速やかに敵を捕捉して殲滅することにあり、各級指揮官の独断専行と放胆な行動が極めて重要である。敵兵が退却しようとしている場合、特に夜間や濃霧の場合において、故意に一部隊を逆襲に充て、その隙に他部隊が戦場を離脱することがあり、煙幕やガスなどを利用して退却を誤魔化すこともあるので注意。師団長は軍司令官の企図または自己の任務に基づき追撃目標を選定する。追撃目標は容易に敵を捕捉しうる場合の外勉めて遠い地点にこれを選定するものとする。退却を企図する敵は夜暗を利用することが多いので、極力夜も追撃を敢行する。この際、一小部隊であっても放胆な行動で敵線深く突進できれば、敵を大混乱に陥れて偉功を奏することができる。師団長は追撃に際して知り得た状況に基づいて機を失せず敵の弱点に乗じるよう追撃を指導し、必要なら部署を変更して追撃の成果を拡大する。例え一時的に敵との接触が失われても、不撓不屈の精神であくまで追撃を続行し、再捕捉しなければならない。参考:作戦要務令
<追射>:機関銃を上下左右に急速に振りながら連射すること。主に対空目標に用いられる。参考:コンバット・バイブル
<追従者式反潜機>:S-2海外シリーズ(対潜哨戒機)を参照。
<追躡>:「ついじょう」と読む。敵の位置を確認しつつ進行方向に沿って追跡していくこと。参考:月刊世界の艦船9,’12増刊
<ツィタデレ作戦>:第2次大戦独ソ戦で1943年夏にドイツ軍が行った攻勢作戦「城塞」。1942-43年のソ連軍ハリコフ攻勢を食い止めた結果、ソ連軍にはクルスクを中心とした巨大な突出部(幅200km、縦深150km)が生じていた。これを南北付け根から攻撃し、ソ連軍200万を包囲殲滅する作戦である。ハリコフ奪回作戦中の1943年3月13日には早くもヒトラーが参謀本部に作戦立案を命じており、4月14日に承認された。当初はソ連軍に損害を補充する隙を与えないよう5月3日以降の早い時期に実行される筈だったが、5月4日の作戦会議で早期に開始すべきとするツァイツラー参謀総長・クルーゲ中央軍集団総司令官と、戦力の充実を待つべきとするヒトラー総統・モーデル上級大将・グデーリアン装甲兵総監・マンシュタイン元帥との間で意見が纏まらず、結局Ⅴ号戦車パンター・フェルディナンド駆逐戦車の完成や、参加部隊の装備充足を待つことになり、作戦開始は7月5日にずれこんだ。ヒトラーは突出部付け根ではなく中央部を正面突破し、クルスクに達したところで南北に分かれてソ連軍を包囲するという作戦を考えていたが、ツァイツラーが移動に時間が掛かるとして拒否している。ソ連軍はハリコフで大損害を受けたため、スターリンの再攻勢案をジューコフ元帥らが拒否して防衛戦を選択。イギリス政府暗号学校職員だったジョン・ケアンクロスからエニグマ解読情報を秘密裏に得るなどして本作戦を事前に掴み、突出部に8重のパック・フロントを構築して待ち構え、攻勢を食い止めたら直ちにオリョール周辺のドイツ軍突出部へと反攻を仕掛けるクツーゾフ作戦や、ハリコフ奪回に繋げるルミャンツェフ作戦、それを支援するハリコフ南部イジュム・南部戦線ミウス攻勢、続いてスモレンスクを奪回するスヴォーロフ作戦、更にドニエプル河まで到達する連続攻勢も立案した。配備部隊はクルスク北翼が中央方面軍(兵力711575名、戦車・突撃砲1785両、火砲12453門)、南翼がヴォロネジ方面軍(兵力625591名、戦車・突撃砲1704両、火砲9751門)で、予備としてステップ方面軍(兵力573195名、戦車・突撃砲1639両、火砲9211門)が突出部付け根に配置されており、更に西部方面軍、ブリャンスク方面軍、南西方面軍など周辺の部隊(戦車・突撃砲計5000両)を援軍として呼べる態勢を整えた。ソ連空軍は第2航空軍、第16航空軍、第17航空軍に戦闘機1060機、襲撃機940機、爆撃機900機を配備した。ドイツ軍は北翼に中央軍集団第9軍(第2装甲師団、第4装甲師団、第9装甲師団、第18装甲師団。兵力335000名、戦車・突撃砲920両、火砲3630門)、南翼に南方軍集団第4装甲軍(SS第1装甲擲弾兵師団、SS第2装甲擲弾兵師団、SS第3装甲擲弾兵師団、グロス・ドイッチュラント師団、第3装甲師団、第11装甲師団、第20装甲師団、第255歩兵師団、第332歩兵師団、第167歩兵師団の一部。兵力223907名、戦車・突撃砲1089門、火砲1774門)とケンプフ軍支隊(第6装甲師団、第7装甲師団、第19装甲師団、第106歩兵師団、第168歩兵師団、第320歩兵師団、第167歩兵師団の一部。兵力108000名、戦車・突撃砲419両、火砲1073門)を配し、突出部先端には押さえとして第2軍10個歩兵師団を置いた。戦車の主力はⅢ号戦車及びⅣ号戦車で、南翼にはグロース・ドイッチュラント師団に15両、SS第1装甲擲弾兵師団に13両、SS第2装甲擲弾兵師団に14両、SS第3装甲擲弾兵師団に15両のⅥ号戦車ティーガーが配備されていた。ドイツ空軍は第1飛行師団、第1航空師団、第8航空軍団に戦闘機600機、爆撃機1200機、攻撃機100機、偵察機など150機を配備した。6月、ドイツ空軍がソ連航空基地に対する爆撃を開始。しかしソ連は偽の航空基地を建設しており、8割方そちらを爆撃してしまったため、殆ど損害は与えられなかった。6月24-25日、グロス・ドイッチュラント師団第39戦車連隊第51戦車大隊(Ⅴ号戦車D型96両、ベルゲパンター2両)が前線に到着。6月28-29日、第39戦車連隊第52戦車大隊(Ⅴ号戦車D型96両、ベルゲパンター2両)が前線に到着。6月28日、第39戦車連隊本部のⅤ号戦車D型8両が前線に到着。7月4日、南翼の砲兵観測に最適な小高い丘をめぐる戦闘が開始され、ドイツ軍が占領した。7月5日未明、ソ連がドイツ軍の機先を制して阻止砲撃を開始。更にクルスク南部に展開していたソ連空軍第17航空軍がハリコフ付近のドイツ第8航空軍団の野戦飛行場に向けて飛び立ったが、レーダーに引っかかって第3・第52戦闘航空団Bf109G戦闘機の迎撃を受けた。クルスク北部のソ連空軍第16航空軍もドイツ第1航空師団の攻撃に向かったが、こちらもレーダーに見つかって第51・第54戦闘航空団Fw190戦闘機の迎撃に遭い、400機以上が撃墜されて制空権がドイツの手に渡った。7月5日0230、予定通りドイツ軍は北翼・南翼で進撃を開始。南翼ではクルスクに真っ直ぐ進むのではなく、ソ連予備兵力(第5親衛軍・第5親衛戦車軍)が展開するプロホロフカを叩いて進撃路側面の脅威を排除することとし、正面にSS第2装甲軍団、東側面に第3装甲軍団、西側面に第48装甲軍団を配置して北上、まずは第6親衛軍との激戦に入った。北翼では第9軍が正面50kmで南進を開始。Ⅵ号戦車ティーガーとフェルディナンド駆逐戦車の火力支援を受けて歩兵部隊がソ連軍第一線陣地に突撃したが、重砲5000門の突撃破砕射撃を喰らって進撃スピードは鈍かった。7月6日、北翼のポヌィリとソボロフカの間で独ソ機甲部隊が衝突、7月10日までに双方合計1000両が戦闘を繰り広げた。7月8日、南翼のドイツ軍が25-35kmほどソ連軍陣地に食い込んだ。7月9日、南翼の第4装甲軍SS第2装甲軍団はプロポロフカへ向かった。北翼ではポヌィリ停車場攻防戦が勃発。7月10日、連合軍がハスキー作戦を発動し、シチリア島に上陸を開始。7月11日、南翼の第4装甲軍がヴォロネジ方面軍の戦車のうち8割以上を撃破し、ソ連軍はプロポロフカ防衛のためステップ方面軍の早期投入を余儀無くされた。7月12日、南翼のSS第2装甲軍団が鉄道中継地のプロポロフカを占領するため進撃したが、ソ連第5親衛戦車軍との間で大戦車戦となった。ソ連軍がクツーゾフ作戦を開始、クルスク北のオリョールに北東方向から攻め込んだ。中央軍集団はクルスク北翼に戦力を集中していたため、あっという間に突破され、背後を突かれたドイツ第9軍は防戦一方に追い込まれて攻勢を中止せざるを得なくなった。7月13日、ヒトラーは連合軍に進攻されたイタリアに増援としてSS装甲軍団を派遣することにし、本作戦の中止を示唆した。7月17日、ソ連軍がドイツ南方軍集団の南側で攻勢を開始し、後方遮断にかかったため、SS装甲軍団をベルゴロドに下げて防衛戦に投入。南翼での攻勢も頓挫した。ドイツ軍損害は戦死・戦傷・戦病・行方不明56827名、戦車・自走砲278両、航空機200機。ソ連軍損害は17万名(実際には30万名といわれる)、戦車・自走砲1600-1900両、航空機1000機。Ⅴ号戦車パンターは200両が投入され(全て南方軍集団第39戦車連隊2個大隊)、敵戦車280両前後を撃破したが、7月20日までに58両を損耗、16両が修理のため本国に送られ、85両が整備中で、稼働車は41両になっていた。ちなみに攻勢初日7月5日の稼働数は166両、7月6日は50両、7月12日は10両である。燃料ポンプの漏れから発火して失われた車両も少なからずある。また、側面装甲が40mmと薄いので比較的簡単に貫徹され、防楯下部のショット・トラップも弱点だった。また、操縦手・無線手用ハッチが小火器や弾片ですぐに開かなくなり、被弾した時逃げられなくなるので、開けっ放しで戦闘を行う車両も結構多かったらしい。参考:月刊丸3,’13、月刊PANZER9,’00、11,’99、月刊グランドパワー12,’04、12,'14別冊、歴史群像2,’05、8,’15、月刊軍事研究11,’09、7,’16
<ツイデルクルイス>:A832(補給艦)を参照。
<追尾型対砲迫レーダー>:対砲迫レーダーを参照。
<追尾斜進装置>:日本海軍の魚雷戦用射撃指揮装置。目標の照準線と魚雷の軸線とのずれを自動的に修正するものである。九一式方位盤と同じ時期に配備された。参考:日本駆逐艦史
<追尾フィルタ>:レーダーが目標追尾のため目標観測値から目標の位置や速度などを推定する際に実施するデジタル処理のこと。レーダーで観測された目標までの距離と角度から目標の位置を算出し、時間で微分して速度や加速度を割り出し、次サンプリング時刻に於ける目標の予測位置を計算する。目標位置は追尾フィルタ無しでもレーダー観測値から直接計算できるので、実際に使用するのは目標速度、加速度、目標予測位置になる。レーダー観測値には雑音(誤差)が含まれるため、単純に微分すると誤差が増大してしまうので、適切な設計のフィルタで処理して正確な値を出す。最新のサンプリング時刻に対する推定値を平滑値(Smoothed value)と称する。初期にはα-βフィルタやカルマンフィルタなどが使われ、21世紀に入るとNon process noiseフィルタや多目標追尾フィルタなどが開発されて高精度の追尾が可能となった。参考:レーダの基礎、レーダシステムの基礎理論
<干渉形フィルタ>:Fully coupled filter。北基準直交座標のx軸、y軸、z軸間で観測雑音に相関があるものとして3次元空間の目標を追尾するタイプの追尾フィルタ。追尾フィルタ1個で目標を追尾するが、極座標から北基準直交座標に変換する際に線形近似を行うため誤差の発生は免れず、特に遠距離目標の追尾で大きな影響が出る。カルマンフィルタなどがある。参考:レーダの基礎
<非干渉形フィルタ>:Decoupled filter。北基準直交座標のx軸、y軸、z軸ごとに独立して3次元空間で目標を追尾するのに使用する追尾フィルタで、各軸別に計3個の追尾フィルタを使う。レーダーから目標までの距離や角度の観測誤差が各軸に相関して影響することを無視しているが、さほど影響は無いので良く使用される。最初から極座標を使えばレーダーを厳密にモデル化した非干渉系フィルタになるが、運動モデルに非線形項を割り当てる必要があり、近距離目標の追尾精度が悪くなる。線形最小2乗フィルタ、α-βフィルタ、α-β-γフィルタなどがある。参考:レーダの基礎
<追尾レーダー>:Tracking RadarまたはTarget
tracking Radar、略称T/R。運動している目標の距離、俯仰角、方位角を連続的に高精度で観測し、目標を追尾するレーダーのこと。方位盤と連動して砲やミサイルに発射諸元や誘導諸元を与えるものは射撃指揮レーダーとも呼ばれる。近めの距離を精密に捜索するため、比較的周波数の高いXバンドやKuバンドのレーダー波を使用し、パルス幅は狭く、サンプリング間隔は短くする。観測精度を上げるため、細い電波ビーム(ペンシルビーム)を使用しており、ビーム幅は2度前後と視野が狭いため、高速目標を追尾レーダーのみで追跡するのは難しく、捜索レーダーのデータに基づいて目標を捕捉する。ただし捜索レーダーのビーム幅は追尾レーダーより広いので、捜索レーダーで探知した方を向いても目標を捕捉できないことがあり、捜索レーダーの電波ビーム範囲内をくまなく捜す捕捉パターンを描いて目標を捉える。捉えた目標には電波ビームを照射し続け、ビーム中心と目標との角度誤差と、距離ゲート中心と目標との距離誤差を測り、誤差ゼロとなるよう制御する仕組みで、電波ビーム内及び距離ゲート内に目標を捕捉し続けて追尾する。この際、ビーム中心に角度誤差を加えた値を角度観測値、距離ゲート中心に距離誤差を加えた値を距離観測値として追尾フィルタに入力し、角度予測値と距離予測値を算出、角度予測値に基づいて電波ビーム指向角度を変化させ、距離予測値を距離ゲート制御回路に送って距離ゲート中心値を更新する。機械駆動式アンテナの場合、和パターンと呼ばれるペンシルビームと、ビーム中心軸方向に鋭い切れ込みを有する差パターンと呼ばれる電波ビームを同時に形成し、和パターンの中央及び差パターンの切れ込み部分で目標を精密に捕捉、アンテナを機械的に旋回・俯仰させて中心軸を目標と合致させ、目標を連続追尾しつつ追尾フィルタにより目標の方位、仰角、速度を高精度で算出する方式で、アンテナ1基あたり1目標しか追尾できない。また、捜索レーダーで探知した目標の方に追尾レーダーを動かし、更に捕捉パターンを描かせて目標を捉えるまでに時間がかかる。フェイズド・アレイ・レーダーなら、時分割やデジタル・ビーム・フォーミングDBF技術でペンシルビームを複数の目標に照射することにより、アンテナ1基で複数目標の精密追尾が可能である。多機能フェイズド・アレイ・レーダーなら、捜索レーダーとしてトラック・ワイル・スキャンを行いつつ、脅威度の高い目標に追尾レーダーとしての精密追尾をかけ、最優先目標に対しては射撃指揮レーダーとして必要な目標諸元を測定するといった器用な事もできる。単一目標追尾の場合、レーダーの能力を特定の目標1個に集中できるため、マルチパスなど特殊環境下にある場合を除いて探知確率100%・誤警報確率0%とみなし、必ず目標からの信号だけが入ってくると仮定して追尾処理を行う。多目標追尾の場合、レーダーの能力を各目標に振り分けねばならず、移動目標標示MTIなどの信号処理を行っても全目標の探知確率100%・誤警報確率0%を達成するのは不可能で、追尾フィルタには多数の目標信号と共に不要信号が紛れて入力される。そこで、各目標が次の観測時間までに移動可能と予想される範囲(ゲート)を設定し、次の観測時にゲート内で探知された信号をその目標の観測データとして追尾処理する方法(ゲート処理)が用いられており、複数目標のゲートが重なった場合にはどの観測値をどの目標に割り当てるかというデータ割当(ゲート処理と合わせて相関処理という)を加え、複数目標の追尾を行う。相関処理にはNN法やベイズ推定手法(PDA、JPDA、MHT)などがある。ソ連軍が第2次大戦時に自走高射機関砲用として開発したRPK-2が世界初の追尾レーダーである。民生用としては打ち上げロケットの航跡データを得るためのロケット追尾レーダー、低高度人工衛星を追尾する衛星追尾レーダー、デブリや使用済み人工衛星を追尾する宇宙飛翔体監視レーダーがある。参考:レーダの基礎、レーダシステムの基礎理論、日米イージス艦とミサイル防衛、月刊軍事研究5,’13、月刊世界の艦船4,’19
<ツイマ級>:オサⅡ級ミサイル艇(フィンランド海軍)を参照。
<ツィルコン>:ロシア海軍艦載極超音速ミサイル3M22 Tsirkon/Zirkon、米軍コードSS-N-33。マシノストロイェーニエ科学生産合同が開発した。弾体下面にエアインテイクがある。最大速度付近で飛行中は周辺空気が圧縮されて高熱となりプラズマ化し、電波を吸収してステルス化するという説があるが、当然ながら自身のセンサーやデータリンクも使えなくなり中間誘導修正や終末誘導が不可能になるので、本当かどうかは不明。3S14VLSから発射可能。全長8-10m、直径0.6m、重量5トン。弾頭は核または炸薬0.3-0.4トン。誘導はアクティブ/パッシブレーダーと電子光学センサー。推進は固体燃料ロケットブースター+スクラムジェット、最大速度マッハ8-9、巡航高度27000-40000m、最大射程250-500km(低高度巡航)/740km(準弾道コース。1500km?)。2012年から空中発射試験、2015年から陸上発射試験を行い、2016年に成功、2017年4月と2018年12月のテストではマッハ8を記録したらしい。2017年から量産する予定で、まずキーロフ級巡洋艦アドミラル・ナヒモフとピョートル・ヴェリキーに積むとされたが、2020年以降にずれ込んだ。2020年1月、プロジェクト22350フリゲートのアドミラル・ゴルシコフがバレンツ海から500km先の陸上目標に命中させた。10月6日、アドミラル・ゴルシコフが白海から発射し、最大速度マッハ8・最大高度28000mで4分30秒間飛翔、450km先の海上標的に命中した。11月、アドミラル・ゴルシコフが白海から発射し、最大速度マッハ8超で450km先のバレンツ海の標的に命中した。2021年7月、アドミラル・ゴルシコフが白海から試射してマッハ7で飛翔、陸上目標に命中した。10月4日、バレンツ海で885型ヤーセン級潜水艦K-329セヴェロドビンスクが浮上状態で1発、深度40mで1発を試射したと、ロシア国防省が発表した。燃料を新型にして最大射程1000kmを目指す計画もある。11月18日、アドミラル・ゴルシコフが白海で試射し、400km強先の目標に命中した。その後タス通信が量産開始を伝えており、2022年から配備されている。建造中の885M型ヤーセンM級潜水艦や計画中のハスキー級巡航ミサイル原潜にも積む予定。参考:月刊世界の艦船11,'22、9,'22、11,'21、8,'20、4,’17、2,’17、5,’16、7,’17、4,’18、8,’19、4,'20、5,'20、10,'21、1,'22、2,'22、月刊軍事研究1,’18、6,’17、朝雲
<ツイン・イグラ>:KADDB社が開発中の地対空ミサイル発射機。ランドクルーザーに搭載して自走地対空ミサイルとして使用する。射手席の両脇にイグラ地対空ミサイル発射機1基ずつが搭載されており、SAGEM社製第3世代赤外線暗視装置を装備する。俯仰角はマイナス15度からプラス60度。発射までにかかる時間は3分、再装填にかかる時間は2分。参考:月刊軍事研究7,’08
<ツインオター>:CC-138(輸送機)またはDHC-6シリーズ(輸送機)を参照。
<ツインカムエンジン>:DOHCを参照。
<ツィンコ>:イタリア海軍フルット級潜水艦Zinco。1943年9月10日、建造中にドイツ軍に接収され、UIT14となった。参考:ナチスUボート
<ツインスター>:AS355シリーズ(ヘリ)またはDA42(双発プロペラ機)を参照。
<ツインスター(ライカミング)>:DA42ツインスター(ライカミング)を参照。
<ツインチューブ式ガス入りショック・アブソーバー>:ショック・アブソーバーを参照。
<ツインチューブ式ショック・アブソーバー>:ショック・アブソーバーを参照。
<ツインテールスコーピオン>:TB001(無人機)を参照。
<ツイン・テールブーム機>:Twin Tail-boomまたはTwin
boom。両主翼から後方にテイル・ブームを1本ずつ計2本延ばした形状の航空機のこと。テイル・ブーム後端に垂直尾翼を1枚ずつ取り付けて双垂直尾翼とし、その間に水平尾翼を張る。胴体が短く、胴体尾部に尾翼を取り付けても必要な安定性や操舵力が得られない場合に、アームレングス(全機重心位置から尾翼空力中心までの距離)を稼ぐため用いられる。参考:航空機設計法
<ツイン・パイオニア>:スコティッシュ・アビエーションのSTOL機。パイオニアC.C.1を双発にしたものである。マレーシア空軍などに採用された。マレーシア空軍博物館に1機が展示されている。参考:月刊JWings3,’09
<ツイン・パイオニア海外シリーズ>
<ツイン・パイオニアMk3(マレーシア空軍)>:マレーシア空軍輸送機。1958年から15機を運用した。参考:月刊航空ファン11,’18
<ツイン・ファスト40>:コンパクト40シリーズ(機関砲)を参照。
<ツインマスタング>:P-82シリーズ(戦闘機)を参照。
<ツィンメリット>:ドイツ国防軍の対吸着地雷用塗膜Zinmerit。Halt-Hl-3対戦車地雷を開発した際、連合軍が同様の兵器を使用した時の対抗手段として、ツィンメル化学工業株式会社に開発させた。ポリビニル、木質繊維、硫酸亜鉛、黄土の混合物であり、戦車の上に4-5mmの厚さで塗りつけ、磁石をくっつかなくさせる。1943年9月から使用されたが、連合軍が吸着地雷を使用しなかったので1944年中期には廃止された。参考:ジャーマンタンクス、第2次大戦ドイツ戦闘兵器カタログVol.3、手榴弾・迫撃砲
<ツインワスプ>:R-1830シリーズ(エンジン)またはR-2000(エンジン)を参照。
<ツーイ>:FFG1107(フリゲート)を参照。
<ツヴィリンク>:FuG25シリーズ(敵味方識別装置)を参照。
<ツヴィリンクスラフェッテ36>:ドイツ国防軍MG34機銃用連装銃架。操作の邪魔になるので、機銃の銃床を外して搭載することも多かった。参考:第2次大戦ドイツ戦闘兵器カタログVol.3
<ツゥーウムバ>:FFH156(フリゲート)を参照。
<通過通航権>:国連海洋法条約第3部第2節第37-第44条で規定されている。公海または排他的経済水域の一部分と、公海又は排他的経済水域の他の部分との間にある、国際航行に使う海峡では、全船舶・全航空機が通過通航(航行及び飛行の自由を継続的かつ迅速な通過のみに行使)の権利を有し、その権利を害されない。ただし、海峡が沿岸国の島と本土で構成され、その島の海側に航行上・水路上の特性が海峡と同様に便利な公海または排他的経済水域の航路がある場合は、通過通航は認められない(無害通航を適用)。船舶・航空機は、通過通航権を行使している間、海峡またはその上空を遅滞なく通過し、海峡沿岸国の主権・領土保全・政治的独立に対する武力による威嚇や武力の行使を差し控え、海峡沿岸国の通過通航に係る法令や国際海上・航空規則を遵守する。外国船舶は、通過通航中、海峡沿岸国の事前の許可を得ずに、いかなる調査活動または測量活動も行うことができない。ちなみに公海又は一の国の排他的経済水域の一部と、他の国の領海との間にある海峡では、無害通航を適用する。参考:ベーシック条約集2018
<ツーコン>:558(フリゲート)を参照。
<ツー・コンポーネント・ポッド>:BLU-2/B(核爆弾収容ポッド)を参照。
<ツーサイデッド・コブラ・ボール>:RC-135S(偵察機)を参照。
<ツージャン>:612(哨戒艇)を参照。
<通州事件>:昭和12年7月29日、日本軍機の誤爆に憤慨した中国保安隊が日本人居住区を襲い、守備隊18名と居留民124人(特務機関と合わせて223人)を惨殺した事件。参考:戦時用語の基礎知識、月刊軍事研究12,’06
<通常型即時攻撃>:CPSを参照。
<通常型離着艦>:CTOLを参照。
<通常官報(日本陸軍)>:日本陸軍の電報。電信部隊が構成する通信網内での電報や、軍用通信網に関連する電報のうち、最も緊急重要度が低い。陸軍大臣、参謀総長、兵站総監、軍司令官、航空兵団司令官、兵站監、独立して作戦する団隊の指揮官、要塞(要塞系)司令官、防衛司令官、防務条例による戦時指揮官、師団長、飛行集団長、陸軍次官、参謀次長、大本営参謀たる少将(大佐)、兵站総監に隷属する長官、陸軍省局長、参謀本部部長、運輸通信長官部隷属機関の高級先任者、参謀長やこれに準ずる者、独立して行動する部隊の長、分遣された幕僚、兵站司令官やその支部の長、鉄道・船舶輸送諸部の司令官やその支部の長、海岸監視哨、要塞監視哨、防空監視哨、将校斥候長、高等司令部の各部長やこれに準ずる者、軍参謀部各課高級参謀、高級副官、独立部隊(初機関)の長、分遣隊長が発信権を有する。参考:作戦要務令
<通常儀じょう>:自衛隊の儀じょうの1つ。一般部隊(第302保安警務中隊含む)が実施し、要員はその都度編成、通常は儀じょう指揮官(小隊長)と3個分隊からなり、1個分隊は分隊長1名と隊員8名からなる。制服は甲武装を着用し、儀じょう指揮官は儀礼刀または拳銃、隊員は小銃を装備する。参考:MAMOR vol.152
<通常弾>:ベースブリードやロケット・アシストなどの射程延伸装置を持たない砲弾のこと。
<通常弾頭>:NBC兵器以外を装備する弾頭。参考:核兵器事典
<通常弾頭空中発射巡航ミサイル>:AGM-86Cを参照。
<通常弾頭即時攻撃ミサイル>:CPSMを参照。
<通常弾頭即時攻撃飛翔試験1>:CPS FE-1を参照。
<通常動力型潜水艦>:在来型潜水艦を参照。
<通商破壊作戦>:海上交通破壊作戦を参照。
<通常爆弾>:汎用爆弾を参照。
<通常爆弾(日本海軍)>:艦船に投下する為の爆弾のこと。装甲化甲板に投下しても弾体が砕けないよう、弾体を鍛造鋼で分厚く作ってある。その分炸薬量が少なく、高価であり、地上目標用の安価な陸用爆弾を別に作った。参考:日本海軍の爆弾
<通常兵器>:NBC兵器以外の兵器。参考:核兵器事典
<通常兵器及び両用技術・製品の輸出規制に関するワッセナー協定>:COCOMに代わり1995年12月に同意された国際協定。アメリカと27ヵ国の政府間で同意され、1996年7月現在では32ヵ国が同意・加入している。ステルス技術を含む軍民両用技術の輸出を禁止したものだが、自主的な規制であり、強制力は無い。参考:月刊軍事研究2,’98、7,’99
<通常兵器の登録制度>:国連総会決議46/36。戦車、装甲戦闘車両、大口径火砲システム、戦闘用航空機、攻撃ヘリコプター、軍用艦艇、ミサイルまたはミサイルシステム(射程25km以上。誘導ロケットを含む)の輸出入データを登録するもので、1991年12月9日に採択され、1992年1月1日から有効となっている。参考:軍縮条約・資料集第2版
<通常兵器モジュール>:GPBMを参照。
<通信>:電気通信(無線、有線、搬送)、信号通信(手旗、信号弾、発煙弾など)、伝令通信(伝令を使う。徒歩の他、車両や航空機などで移動する)がある。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容
<通信(航空自衛隊職域)>:航空自衛隊の職域で、通信と機上無線の各職種を含む。無線・有線機材などによる通信送受信、航空通信業務、機材整備を行うのが主任務である。第4術科学校で教育が行われ、各基地の基地業務群通信隊、各分屯基地の通信班/通信電子小隊に配属される。参考:月刊JWings6,’16、7,’12
<通信(日本陸軍)>:通信は連絡の主要な手段であり、その良否は指揮や協同動作などと重大な関係を持つ。よって、各級指揮官は、通信機関の性能に通暁し、その機能を確実に保持させると共に、これを適切に運用してその特性を遺憾なく発揮させなければならない。軍隊は通信部隊の作業実施、宿営、給養等に関して便宜を図り、友軍通信施設を愛護し、通信施設の警戒・援護・電報配達業務等に関して援助要請があれば状況の許す限り応じる。軍司令官、独立して作戦する師団長、兵站監及びこれと同等以上の職権を持つ者は、作戦上必要と認める場合、所管内の軍用通信網と在来の通信網による通信を一時制限または禁止できる。通信部隊の行動、通信網、通信実施の状況、特に通信の内容は、兵力、配置、企図など、我が軍の状況知得のため敵に有利な憑拠を与えてしまうことから、あらゆる手段を尽くして秘匿に勉める必要がある。このため、通信の開始・停止、通信量の激変、通信施設の改変などを敵に偵知されないよう処置し、通信関係書類特に暗号書、連絡規定、電報原書などの保管を確実にし、方向探知を困難にさせ、通信所の遮蔽や警戒などを適切に行うことが緊要で、各級指揮官は適時部下部隊の通信を監督する。暗号書や連絡規定を紛失した兆候がある場合、速やかに高級指揮官に報告する。参考:作戦要務令
<通信衛星>:無線通信の中継を行う人工衛星で、これを使う無線通信を衛星通信という。地上からの通信電波を受信して増幅し、地上に送信する。参考:月刊JWings4,’17
<通信科>:陸上自衛隊の職種。部隊間の指揮連絡のための通信を行うのが主任務で、電子戦や写真・映像撮影も担当する。部隊は防衛庁長官/防衛大臣直轄の通信団、方面隊隷下の通信隊・方面通信群、師団隷下の通信大隊、旅団・団隷下の通信中隊、電子戦担当の第1電子隊、教育研究担当の通信教導隊、保全担当の通信保全監査隊、サイバー部隊のシステム防護隊、後方担当の直接支援隊、通信学校、通信補給処など。平時には骨幹通信網と呼ばれる常設マイクロ回線を維持管理しており、有事には通信団が重搬送と軽搬送を使って中央-方面隊間の通信能力を強化し、通信隊が中搬送により方面隊-師団間の通信を確保、師団内の通信は通信大隊の1個中隊が開設する指揮所合同通信所と、残り1個中隊が連隊戦闘団に配属されて開設する支援合同通信所を中搬送で連絡することにより実施する。通信隊や通信大隊には地上無線機や電話/電子交換装置(有線通信装置)も配備されており、これらにより戦闘に必要な通信ネットワークを構築する。回線は常時開放する警告系の他、指揮系、情報系、射撃指揮系、航空支援要求系、戦務系、兵站系といった多数の系統があり、多重通信装置により各系統区分を厳守して運用する。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、MAMOR Vol.62、Vol.81、日本の防衛戦力Part1
<通信学校(航空自衛隊)>:航空自衛隊の教育機関。1954年9月、浜松基地で創設された。1959年6月、第2術科学校に改編された。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015
<通信学校(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の通信科職種学校。久里浜駐屯地(海軍通信学校跡地)に置かれている。無線・有線・衛星通信、電子計算機、エレクトロニクスなど通信電子機器関連の特技教育を行う。写真・映像の撮影や画像処理の専門教育もここが担当しており、通信科だけでなく、航空科(偵察写真撮影)、警務科(捜査に使う)、野戦特科(弾着地点の映像を記録して後の参考にする)など他職種の隊員も入校する。隷下に通信教導隊を置く。1954年7月、陸上自衛隊発足で保安隊通信学校から改編されて久里浜駐屯地で創設された。この時は隷下に臨時教導隊を置いており、後に通信教導隊に改称されている。2019年8月2日、サイバー共通教育課程実習を報道陣に初公開した。8月22日、日米共同サイバー戦競技会サイバーサンダーに参加。2021年3月29日、第2教育部情報処理教官室を第2教育部サイバー教官室(隊員20名)に改編した。三自衛隊のサイバー共通教育(システム防護課程、高度サイバー基礎集合教育)を担当する。2022年6月20-23日、令和4年度自衛隊統合防災演習に参加。2023年2月16-17日、多国間サイバー防護競技会Cyber KONGO 2023を実施。三自衛隊や友好国11カ国が参加し、感染源の状況、マルウェアや窃取された情報の特定と対処能力、調査内容の正確性、解明速度などを競い合った。9月7日、通信学校長がアメリカ陸軍サイバーCOE(Center Of Excellence)司令官スタントン少将と防衛省で懇談した。2024年3月21日、システム通信・サイバー学校に改編された。参考:久里浜駐屯地ホームページ、陸海軍学校と教育、月刊JWings8,’12、MAMOR vol.81、vol.117、朝雲
<通信学校(2023年)>:久里浜駐屯地に置かれている。総務部、第1教育部、第2教育部、研究部、企画室、通信教導隊からなり、第1教育部では通信科隊員への戦術・野外行動・通信機器整備・電磁波などに関する教育、第2教育部ではサイバー関連、電子回路などの基礎知識、レーダーや各種システムの整備に関する教育を行う。参考:朝雲
<通信管制装置改造器材>:自衛隊の機器。海洋電子工業製。参考:月刊軍事研究3,’14
<通信機>:自衛隊の機器。シアーズ製。参考:月刊軍事研究10,’14
<通信機器監視制御装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究12,’16
<通信教導隊>:陸上自衛隊の教導隊。通信学校の隷下にある。1954年7月、陸自通信学校開設と同時に臨時教導隊の名称で新編され、後に通信教導隊に改称された。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。福島県内の山上に6人用天幕をたてて無線中継所を設置し、3名1組の1ヶ月交替(後に3週間交替)で原発災害対処にあたる中央特殊武器防護隊などの無線中継を行った。山を下りるのは10日に1度郡山駐屯地までレトルト糧食を取りに行く時だけで、風呂もその際しか入れなかった。参考:久里浜駐屯地ホームページ、朝雲、MAMOR vol.117
<通信系図>:敵司令部が末端部隊に送信する放送通信の着信者や通報先を整理した系図のこと。関連部隊の大小に比例し、空母機動部隊への航空攻撃命令ならさほど大きくはないが、水陸両用戦部隊への命令なら揚陸艦船部隊、揚陸される陸上部隊、護衛艦船・空母部隊も巻き込むため膨大になる。また、作戦準備が進むにつれて後方部隊などとも連絡を取る関係から系図が大きくなっていく。日本海軍が通信解析に使用しており、敵の暗号を解読できなくても系図変化を読み取れれば作戦意図や出撃時期を予想できることに気付き、通信諜報要項が完成した。参考:月刊世界の艦船9,’01
<通信士(海上自衛隊)>:海図を用意して通行ルートを確認し、見張員、レーダー、GPSなどの情報から艦の現在位置を把握、所要時間算定やコース修正などを行い、操舵者を補佐する。参考:MAMOR vol.148
<通信車>:日本陸軍の通信車両。九四式六輪自動貨車に多重電話機1基、多重電信機1基、端局分20回線、電話交換機1台、九五式電信機数基、九二式電話機数個を搭載したものである。参考:工兵入門
<通信所(日本陸軍)>:開設・閉鎖にあたり、通信所長は速やかにその地にある指揮官と所要の通信所にこれを通報する。通信所は必要に応じて標旗・標燈などにより標示すると良い。同一地に多数の通信所がある時は、その地にある司令隊(本部)は彼此通信を妨害しないよう、適宜区処するのが緊要である。参考:作戦要務令
<通信情報課>:SISを参照。
<通信情報収集>:COMINTを参照。
<通信隊(日本陸軍)>:日本陸軍の通信機関。砲兵を除く各部隊砲の通信隊は当該部隊長と直属下級指揮官その他重要機関との間の通信を行い、時に当該部隊長と所属上級指揮官との間の通信も実施する。参考:作戦要務令
<通信大隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の通信科部隊。通信組織の構成・維持・運営、地上写真の撮影処理を主任務とする。参考:日本の防衛戦力Part1
<通信大隊(陸自、1977年)>:師団隷下で、大隊本部、本部管理中隊、通信中隊2個からなる。通信中隊のうち1個はA編成で、隷下の主合通小隊、前方合通小隊、後方合通小隊により師団全般の通信を中継する。もう1個はB編成で、支援合通小隊4個(甲師団)/3個(乙師団)からなり、普通科連隊などに配属され、師団司令部との通信を行う。参考:日本の防衛戦力Part1
<通信大隊(陸自、1980年代半ば)>:師団隷下で、大隊本部、本部管理中隊、通信中隊2個からなる。通信中隊のうち1個は合同通信所を開設して師団全般の通信を担当し、もう1個は各戦闘団に配属されて支援合同通信所を開設する。小隊には有線通信を担当する電話小隊や、無線アンテナの運用を行う搬送小隊などがある。無線搬送端局装置2号JMRC-C2/C20/C21/C22、無線搬送中継装置2号JMRC-R2/R20、地上無線機2号JGRC-A2、電子交換装置2号JMTC-T5/T10/T20といった器材を運用し、300kmの範囲で通信任務を実施する。参考:兵器最先端5、陸上自衛隊地上戦力の全容、月刊JWings6,’12
<通信団>:陸上自衛隊の通信科部隊。市ヶ谷駐屯地のタワーにより中央と各方面隊を結ぶ骨幹通信網を維持管理し、有事には搬送装置により強化拡充するのが主任務である。1960年1月14日に新編された。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の災害派遣に参加。2013年8月31日、南海トラフ巨大地震を想定した平成25年度広域医療搬送訓練に参加。2014年1月15日から2月4日、キーン・エッジ2014に参加。2016年1月12日から2月2日、キーン・エッジ2016に参加。3月12日、平成27年度自衛隊中央病院大量傷者受入訓練に参加。9月12日、伊勢志摩サミット支援の功績で、防衛大臣から1級賞状が授与された。2017年5月3-22日、アメリカ、イギリス、フランス、自衛隊の共同訓練に参加。2018年3月27日、システム通信団に改編された。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容、朝雲、日本の防衛戦力Part1、月刊軍事研究4,’17、6,’18、月刊世界の艦船7,’17
<通信団(1977年)>:団本部、本部付隊、中央野外通信群(第101搬送通信大隊、第101通信運用大隊)、中央基地通信隊、通信監査隊、通信標定隊、第301写真中隊からなる。中央野外通信群が有事の際に中央と方面通信群を繋ぐ有線・無線通信組織を構築維持する。東部方面隊の方面管内通信網運営維持も担当しており、東部方面隊には方面通信群が無い。参考:日本の防衛戦力Part1
<通信諜報要項>:日本海軍の通信解析教範。アメリカ海軍の実際の通信を例に挙げ、通信系図や計量解析などによる敵の戦略意図解析を解説した教範である。暗号を全て解読しなくても通信先と通信量で敵の作戦意図を読み取ることができ、軍令部特務班が昭和19年初めに完成させた。実戦では昭和19年2月1日のクェゼリン/ルオット上陸作戦をほぼ正確に予想していたが、既に制空権も制海権も劣る状況下では増援を送ることも出来なかった。以降も敵侵攻方面の予測に役立ったものの、そこの守備隊に警報を出すことは、玉砕を通牒する意味しか持っていなかった。参考:月刊世界の艦船9,’01
<通信電子攻撃>:ECMを参照。
<通信電子情報活動>:ESMを参照。
<通信電子防護>:ECCMを参照。
<通信幕僚>:海上自衛隊の職名で、ツサと略す。参考:日本の防衛戦力Part3
<通信傍受・電子攻撃システム>:AN/ULQ-30を参照。
<通信保全局>:アメリカ陸軍の情報組織、略称SSA(Signal Security Agency)。1941年に通信情報課SISから改編されて創設された。アメリカ陸軍通信兵監の隷下で、戦時任務を担当する。1945年9月、陸軍保全局に改編された。参考:月刊軍事研究3,’14
<通信保全装置の年次整備(その1)>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究9,’18
<通信保全用装備品の年次整備(その2)(SKL)>:防衛省がアメリカ陸軍に発注している。参考:月刊軍事研究7,’18
<通信保全用装備品の年次整備(その3)>:防衛省がアメリカ陸軍に発注している。参考:月刊軍事研究3,’18
<通信網(日本陸軍)>:有線通信網、無線通信網、鳩通信網、犬連絡がある。通信網構成命令を出す際は、通信網図により通信系を示し、構成順序、完成・運用開始時期、他の通信機関との連携、在来通信線の利用、通信実施規定、通信網構成後の通信機関の行動、器材補給などの各事項を明示する。通信網構成の際にはなるべく在来施設を利用し、その際は所命の利用区分を厳守する。ただし状況によっては新設した方が戦機を逸しないこともある。敵や敵意を持つ住民から通信施設を援護するのは付近の軍隊の義務とする。敵作戦地域内の通信施設は、情報勤務の利用上の価値を考慮しつつ、勉めてこれを破壊又は撤去する。友軍作戦地域内の通信施設の破壊または撤去は、退去の際は後衛司令官、駐軍または前進の際は敵及び敵意を有する住民が相互に通信する恐れがある場合に限り独立部隊の指揮官が命令する。重要な通信施設の根本的破壊、地下線・水底線の破壊撤去は、独立して作戦する師団長以上の命令による。友軍通信施設を破壊撤去する場合と、これが破壊撤去されているのを発見した場合は、その地点、日時、方法、程度などを所属上級指揮官と最寄りの通信所に急報する。参考:作戦要務令
<通信網模擬装置管理ソフトウェア>:自衛隊の機器。日本アビオニクス製。参考:月刊軍事研究11,’13
<通船>:Tender。沖合に停泊した艦船と陸(港)との間を往復し、物資輸送などを行う船のこと。ついでに港湾哨戒などに使われたりする。参考:月刊JWings2,’00、月刊世界の艦船5,’83
<通船(海上自衛隊)>:構造は伝馬船(海自)と同じで、艦船に搭載されている。つがる型に6メートル通船が搭載された。参考:丸スペシャルNo.77
<ツーソン>:SSN-770(潜水艦)を参照。
<通達範囲測定装置Ⅱ型>:自衛隊の機器。日本無線製。参考:月刊軍事研究1,’10
<ツー・バイ・フォー>:PB4Y-2(対潜哨戒機)を参照。
<通報艦>:艦船同士または艦船と港湾との連絡通信に使用される小型高速船Aviso(アヴィゾ)またはDispatch vessel。フランス海軍が連絡用の高速スループをこの名称で呼んだのが始まりである。ドイツ海軍では1870年代中期から建造に着手し、水雷部隊の援護、嚮導、偵察に使用した。無線通信が一般化すると廃れた。参考:月刊軍事研究1,’08、小艦艇入門、月刊世界の艦船9,’09、3,’12
<通報艦(日本海軍)>:当初は報知艦と呼んでいたが、明治31年3月21日に軍艦の1つとして通報艦の艦種を制定した。明治39年、ロシアからの鹵獲艦鈴谷が類別された。大正元年8月28日に廃止され、所属艦は砲艦や海防艦に類別変更された。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、月刊世界の艦船9,’13増刊
<通用機槍>:汎用機関銃の中国語。参考:月刊軍事研究5,’09
<ツーラ攻防戦>:第2次大戦タイフーン作戦で、ムツェンスク占領後、ドイツ第2装甲集団はツーラへの進撃を開始したが、秋雨のために道路が泥濘に覆われ、装輪車両が動けなくなり、装軌車両も補給が滞って前進できなくなった。それでも1941年10月29日にはツーラ南4kmに到達し、ツーラへの攻撃を仕掛けたが、ソ連軍の抵抗が激しく失敗し、兵力不足のドイツ軍は東からの迂回攻撃に変更した。11月に入って路面が凍結し始めたため、装輪車両の行動が可能となったが、今度は猛烈な寒気がドイツ軍の前進を阻んでいる。12月2日、ツーラ両翼からドイツ軍が攻撃を開始。しかし零下50度の大寒波で身動きがとれなくなり、ソ連の増援部隊の反撃を受け、12月5日にドイツ軍は攻撃を中止した。参考:月刊軍事研究9,’05
<ツーリャ級水中翼魚雷艇(カンボジア海軍)>:カンボジア海軍水中翼魚雷艇。ソ連製。兵装は533mm魚雷発射管4門。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ツーリャ級水中翼魚雷艇(ベトナム海軍)>:ベトナム海軍水中翼魚雷艇Turya級。ソ連製。兵装は533mm単装魚雷発射管4門、57mm連装砲1基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990、THE MILITARY BALANCE 2016
<ツールセット>:自衛隊の機器。住友商事が受注している。参考:月刊軍事研究7,’17
<ツーロン一斉自沈>:第2次大戦中の1942年11月、フランスのヴィシー政府軍が連合軍北アフリカ上陸作戦時に有効な反撃を行わなかったとして、ドイツ軍がアントン作戦を発動し、フランス占領時の取り決めを破って自由地帯に進出。11月27日にツーロン軍港のフランス艦隊を接収しようとした。ツーロンの海軍工廠にドイツ軍戦車が侵攻した際、ストラスブールから自沈の発光信号が発せられ、ツーロン在泊中の戦艦ダンケルク、ストラスブール、プロヴァンス、重巡4隻、軽巡3隻、駆逐艦32隻(ル・マルスなど)、潜水艦16隻、水上機母艦1隻、小艦艇18隻の合計77隻が自沈。ドイツ軍が手にしたのは修理中の駆逐艦4隻だけだった。参考:第2次大戦のフランス軍艦、月刊世界の艦船4,’17
<ツェーザリ・クニコフ>:ロシア海軍ロプーチャ級揚陸艦。2024年2月14日、ウクライナ戦争でウクライナ軍マグラV5無人水上艇の自爆攻撃とみられる攻撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船5,’24
<ツェースイス>:ラトビア海軍スクルンダ級哨戒艇。参考:月刊軍事研究3,’12
<ツェーペルン>:FuMB-9シリーズ(ESM)を参照。
<ツェッペリンNT>:ツェッペリンGmbH社の飛行船。強化プラスチックとアルミニウム骨格を使用した半硬式飛行船である。全長75m、最大離陸重量10.7トン。エンジンはテキストン・ライカミング社製200馬力エンジン3基で、後部プロペラ1基のみを回転させれば巡航速度の70kmが出せ、全部回せば最大速度の125kmを発揮できる。また、プロペラ軸の方向を変えて上昇や旋回も可能。巡航高度300m、最大上昇限度2600m、航続距離900km。ペイロード1.9トン。乗員2名、乗客12名、地上要員3名。2000年7月に初飛行した。2号機は2004年3月に日本飛行船株式会社が購入し、1929年のツェッペリン飛行船を真似てドイツから日本まで飛行する予定だったが、ロシア上空の飛行許可が下りず、船で日本に運ばれている。参考:月刊軍事研究9,’07
<ツェッペリン伯爵>:フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵。1838年7月8日、ドイツ南部のコンスタンツ生まれ。1858年、ヴュッテンベルク公国軍に入隊し、騎士兵将校となり、南北戦争と普仏戦争に参加。1891年、陸軍中将で退役。退役後、当時の郵便大臣が世界旅行と郵便配達に空の経路を使用すべきだと発言したのをきっかけに飛行船製造に取組み、1898年に会社を設立。1900年7月にツェッペリン飛行船を完成させた。1917年に死去した。参考:月刊軍事研究9,’07
<ツェッペリン飛行船>:ドイツのフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が開発した飛行船。硬式飛行船で、骨組みにアルミニウムを使用して軽量化を図っている。全長128m、直径12m。エンジンはガソリン(15馬力)2基、プロペラ2軸推進、最大速度32km。1900年に初飛行し、1909年から民間航路に就航した他、3号機が軍に買い取られて訓練用に使用され、第1次大戦までに14機がドイツ軍に就役していた。第1次大戦では沿岸哨戒やイギリス空襲を行っており、1914年8月5日夜にリエージュ要塞を爆撃。1915年1月19日にはユラン半島西部のテナア(現在はデンマーク領だが、当時はドイツ領で、北海越しにイギリスを直接爆撃できた)を拠点として初のイギリス空襲を実施、5月末からロンドン夜間空襲に入り、同年に爆撃20回で爆弾37トンを投下、死者181人と負傷者455人を出している。1915年3月20日にはパリ爆撃を行い、パリ・ロンドン市民からは大空の魔王というニックネームで呼ばれた。1916年には爆撃23回で爆弾125トンを投下、死者239人と負傷者691人を出したが、その後は航空機による迎撃が激しさを増したため、1917-18年にはそれぞれ11回に減少、1918年8月5日が最後となった。第2次大戦初期にも偵察任務に使用されたが、1940年に全機退役し、スクラップにされている。参考:月刊軍事研究9,’07、4,’05、月刊丸5,’07、11,’72、空軍、歴史群像4,'16
<ツェッペリン飛行船博物館>:デンマークのテナアにある博物館。1991年にツェッペリン飛行船基地の跡地に建てられた。木造兵舎が再現されていて、内部に遺品などが収められている他、外にはM4シャーマン戦車も展示されている。当時の基地施設(飛行船格納庫の基礎部分や防空戦闘機格納庫など)も公開されているが、最近まで軍事施設として使用されていた関係で自由に立ち入ることはできず、博物館のガイドツアーによる必要がある。参考:月刊丸5,’07
<ツェニット2>:ソ連の第1世代偵察衛星。解像度2-5m。参考:月刊軍事研究8,’03
<ツェニット4>:ソ連の第2世代偵察衛星。解像度2-5m。参考:月刊軍事研究8,’03
<ツェファ>:AH-1攻撃ヘリ(イスラエル空軍)を参照。
<ツェリー・タービン>:スイスのエッシャー・ヴィス社に勤めていたツェリー(Zoelly)技師が1903年に開発した圧力複式衝動タービン。ラトー・タービンを単純化したものである。参考:月刊丸11,’09、月刊世界の艦船11,’11
<ツェリーナ衛星シリーズ>:ソ連のELINT衛星Tselina。ソ連崩壊で開発元のユージェノイェ設計局と製造会社のユージェマッシュがウクライナ政府の管轄下になってしまい、後継のリアーナを開発することになった。参考:月刊軍事研究5,’13、月刊世界の艦船11,’14
<ツェリーナ-2>:ロシアのELINT衛星。電波発信源特定能力を持つ。2004年に1基、2007年に1基が打ち上げられた。参考:月刊軍事研究5,’13
<ツェリーナ-D>:ソ連のELINT衛星。1985年に8基が打ち上げられた。参考:月刊軍事研究5,’13
<ツェルヴァ>:OAvz.25(装甲車)を参照。
<ツェルシュテーラー45>:Ⅳ号戦車ファミリーを参照。
<ツェルトヴァン31>:ドイツ軍の携帯テント。スプリンターパターンの迷彩を施した三角形の防水生地で、雨具やシートとしても使用できる。4枚集めると4名用テントになる。参考:月刊グランドパワー10,’99
<ツェルベルス作戦>:ケルベロス作戦を参照。
<ツェンジャン>:608(哨戒艇)を参照。
<ツェンタ>:オーストリア=ハンガリー帝国ツェンタ級防護巡洋艦Zenta。第1次大戦前に日本を訪問した。1914年8月15日、モンテネグロ海岸線を哨戒中に英仏艦隊と遭遇し、砲撃を浴びて沈没した。参考:月刊世界の艦船8,’13、7,’15
<ツェンタ級>:オーストリア=ハンガリー帝国防護巡洋艦Zenta級。全長96.9m、満載排水量2562トン。主機はレシプロ蒸気機関2基2軸8160馬力、速力20.8ノット。兵装は12cm単装砲8門、44口径4.7cm単装砲8門、33口径4.7cm砲2門、8mm単装機銃2丁、45cm魚雷発射管2門。ツェンタ、シゲトヴァールなど3隻が竣工した。参考:月刊世界の艦船8,’13
<ツェンタ級代艦型>:オーストリア=ハンガリー帝国が1914年度計画で建造を予定した軽巡洋艦。常備排水量4950トン。速力30.1ノット。兵装は12cm単装砲14門、45cm魚雷発射管2門。3隻が1914年5月に発注されたが、第1次大戦勃発で中止にされ、1915年に兵装を19cm単装砲2門、15cm単装砲6門、53.3cm魚雷発射管3門として水線部装甲を強化した強兵装巡洋艦案が出されたが、結局建造されなかった。参考:近代巡洋艦史
<ツェントル2008>:ロシア軍が2008年に実施した演習で、ツェントルは中央の意。沿ヴォルガ=ウラル軍管区や第5航空軍などから12000名が参加した。参考:月刊軍事研究10,’10
<ツェントル2011>:ロシア軍が2011年9月19-27日に実施した多国籍演習で、中央軍管区で行われ、ロシア連邦保安庁、連邦警護庁、内務省、国家非常事態省、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタンも参加した。規模は総兵力12000名(ベラルーシ含む)、戦車100両を含む車両1000両、航空機50機、艦艇10隻など。目的は中央アジア武力紛争の際の合同部隊(合同機動対応部隊KSORと中央アジア合同緊急展開部隊KSBRTsAR)の配備投入テスト、司令部の有事移行テスト、特殊作戦立案実施、広範囲の部隊再配置訓練である。各国7カ所の演習場で旅団規模以下の作戦行動を行い、ロシア軍改革の成果を確認した。イスカンデルM弾道ミサイル、トルナードG/S多連装ロケットシステム、S-400地対空ミサイル、パンツィールS-1地対空ミサイル、Mi-28N攻撃ヘリ、Ka-52攻撃ヘリ、Su-34戦闘爆撃機といった新兵器が投入されたが、ICBMの発射訓練は行われなかった。カムチャツカ沖200kmに標的艦PKZ-35を浮かべての対艦ミサイル飽和攻撃演習を行ったが、潜水艦はミサイルを発射することすらできず、水上艦や地上から発射されたミサイルも全て外れたしまったらしい。参考:月刊軍事研究12,’11、1,’12、1,’19
<ツェントル2015>:ロシア軍が2015年9月14-20日に実施した秋期大演習(戦略指揮参謀演習)で、中央軍管区が主管した。統裁官はロシア参謀総長で、中央軍管区各部隊、カスピ小艦隊、ロシア空挺軍、長距離航空軍、軍事輸送航空軍、内務省、国家非常事態省、連邦保安庁、連邦警護庁、連邦麻薬取締庁から兵力95000名(16万名?)、戦闘車両7000両(戦車、歩兵戦闘車、空挺戦闘車、装甲兵員輸送車、火砲、多連装ロケットなど)、航空機170機(250機?)、艦艇20隻(30隻?)が参加している。また、集団安全保障条約機構から合同迅速反応部隊カザフスタン軍が加わった。演習開始前の9月7日、プーチン大統領が中央軍管区の抜き打ち検閲(空挺部隊長距離移動・未知の演習場への降下)を下命し、国防相は軍の部隊だけでなく安全保障関係省庁や行政機関にも戦時体制への準備状態に関する検閲を命じている。参加規模はツェントル2011とほぼ同じだった。ツェントル2015ではアンドロメダD空挺部隊用戦場情報システムを使用した空挺機動、艦艇による対破壊工作訓練・防空訓練・対水上艦砲撃訓練、陸軍電子戦システム(ボリソグレフスク2、クラスーハ4S、ジーチェリ、インファウーナなど計150セット以上)による電子戦訓練、イスカンデルM/K弾道ミサイル発射訓練、Tu-160爆撃機による巡航ミサイル発射訓練、MiG-31BM戦闘機による爆撃機援護訓練、Tu-22M3爆撃機やSu-24M攻撃機による爆撃・対地攻撃訓練、無人機(タヒオン、ザスターヴァ、オルラン10、フォルポスト)やストレーリェツ指揮通信システムを使用した偵察訓練、ヘリボーン訓練、ウラン6無人車両による地雷処理訓練などを行っている。参考:月刊軍事研究12,’15、3,’16
<ツォーベル>:P6125(ミサイル艇)を参照。
<栂>:日本海軍樅型駆逐艦8番艦。大正9年7月20日竣工、二等駆逐艦に類別された。昭和12年7月7日、日華事変勃発時は第11戦隊に所属していた。8月7日夕方、敷設艦八重山、駆逐艦栗と共に、海軍陸戦隊収容のため漢口に入港。8月8日0100、敷設艦八重山、駆逐艦栗と共に、漢口を出港して上海に向かった。途中で砲艦勢多が収容した邦人を引き取っている。8月9日午後、敷設艦八重山、駆逐艦栗と共に上海に到着。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は上海方面根拠地隊所属だった。昭和20年1月15日、台湾の馬公港でアメリカ機動部隊の空襲を受けて沈没した。3月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船11,’17
<津海軍工廠>:日本海軍の工廠。三重県津にある。航空機用エンジンを担当する。参考:月刊世界の艦船9,’13増刊
<ツカノ>:EMB-312(練習機)を参照。
<ツカノT1>:EMB-312海外シリーズ(練習機)を参照。
<ツカノT51>:EMB-312海外シリーズ(練習機)を参照。
<ツカノT52>:EMB-312海外シリーズ(練習機)を参照。
<つがる>:ARC-481(敷設艦)を参照。
<津軽(初代)>:日本海軍津軽型敷設艦(初代)Tsugaru。元は明治34年に竣工したロシア海軍巡洋艦パルラダ(Pallada)で、旅順で沈没していたのを明治38年1月1日に鹵獲し、8月22日に二等巡洋艦津軽と命名、機関学校練習艦として使用した。大正4年、敷設艦への改造工事を開始。大正5-6年、改造を完了。大正7年9月、後甲板に8cm単装高角砲を搭載した。大正9年4月1日、敷設艦に艦種変更された。大正11年4月1日に除籍され、雑役船として使用された後に廃船となった。大正13年5月27日、横須賀猿島沖で爆撃実験などの実艦的となり、最終的には機雷発火実験で処分された。公開実験であり、松竹キネマが映画撮影を行っている。参考:日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船7,’17
<津軽(2代目)>:日本海軍津軽型敷設艦(2代目)Tsugaru。昭和14年起工、昭和16年10月22日竣工。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制上は第4艦隊第19戦隊、兵力部署では南洋部隊グアム島攻略部隊に所属していた。12月9日、グアム攻略作戦に参加。その後は第2次ウェーキ島攻略戦、ラバウル攻略戦に参加した。昭和17年3月5日、SR作戦に参加。3月10日、アメリカ機動部隊の空襲を受けて直撃弾1発により損傷した。4月1日から横須賀で修理を実施。4月25日、横須賀を出港。5月4日、MO作戦の上陸部隊を乗せた輸送船12隻を護衛してラバウルを出港。5月6日、MO攻略部隊に所属して珊瑚海海戦に参加。7月14日、第8艦隊付属となった。9月2-3日、ラバウル方面航空部隊の水上機による上空直衛を受けてガダルカナル島への輸送任務に就いたが、9月3日早朝にソロモン方面で爆撃を受け、至近弾により小破した。昭和18年2月(12月1日?)、第3南遣艦隊の指揮下に入った。2月25日、ニューアイルランド東方で爆撃により軽微な損傷を受けた。3月19日から5月24日まで、横須賀で修理を実施。その後はラバウルに向かった。7月5日(8月5日?)、ラバウルの北340海里でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて中破した。ラバウルで応急修理を受け、横須賀で11月27日まで修理を行った。12月1日、佐世保からマニラ経由でシンガポールに進出。昭和19年1月、マレー半島ペナン港沖に九三式機雷を敷設した。3月、バラバック海峡に九三式機雷を敷設した。4月、フィリピンのレイテ湾に九三式機雷を敷設した。5月、佐世保に帰投して整備の後、機雷を積み込み、6月8日にソロンに輸送物資を揚陸、南スリガオ海峡に九三式機雷を敷設した。6月21日、潜水艦の雷撃を受けて損傷し、応急修理を行った。6月29日、渾作戦からの帰途、ハルマヘラ島モロタイ水道でSS-227ダーターの雷撃を受けて沈没した。8月10日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、激闘!太平洋戦争地上戦、小艦艇入門、日本海軍特務艦船史、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船6,’83、月刊丸9,’20
<津軽型(初代)>:日本海軍敷設艦Tsugaru型。日露戦争で鹵獲したロシア海軍巡洋艦パルラダ(Pallada。1901年竣工)を敷設艦に改造したものである。垂線間長121m、最大幅16.76m、吃水6.4m、常備排水量6630トン。主機は直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械3基、主缶はベルヴィール式石炭専焼水管缶24基、出力11600馬力、3軸推進、速力20ノット、石炭搭載量989トン。兵装は安式40口径15cm単装砲5門、四〇口径四一式八サンチ単装砲10門、麻式6.5mm機銃1丁、機雷敷設軌条2条、四号機雷400個。乗員514名。津軽(初代)が大正9年に艦種変更された。参考:日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船7,’17
<津軽型(2代目)>:日本海軍敷設艦Tsugaru型、計画番号H-10。マル三計画で建造された。沖島型の改良型で、艦型は沖島型とほぼ同じだが、第4艦隊事件を受けて船体は鋲止めとし、復元性を改善するため吃水を浅くしてある。第2甲板機雷庫内の機雷敷設軌条は4条に増やされ、上甲板の2条と合わせて6条になった。主砲は高角砲に換装している。全長124.5m、水線長121.00m、最大幅15.58m、吃水4.92m、基準排水量4000トン、公試排水量4400トン。主機は艦本式オール・ギヤード・タービン2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶4基、出力9000馬力、2軸推進、速力20.0ノット、燃料搭載量580トン、航続距離5000海里(14ノット)。兵装は四〇口径八九式十二糎七連装高角砲2基、九六式25mm連装機銃2基、九四式爆雷投射機1基、爆雷投下台6基、爆雷18個、機雷敷設軌条6条(4条?8条?)、九三式係留触発機雷500個(通常)/600個(最大)。カタパルト1基と、九四式三座水上偵察機または零式三座水上偵察機1機を搭載する。高速給油艦としても使用できるよう、重油102トンと航空用ガソリン125トンを搭載できるタンクを装備していた。乗員414名。津軽(2代目)が昭和14年に竣工した。マル五計画で2隻追加する予定だったが、改マル五計画で没になっている。昭和19年、カタパルトを撤去して九六式3連装25mm機銃を追加した。最終状態の兵装は四〇口径八九式十二糎七連装高角砲2基、九六式25mm3連装機銃6基、九六式25mm単装機銃4丁で、二一号電探1基を装備していた。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、敷設艦
工作艦 給油艦 病院船
<つがる型>:海上自衛隊敷設艦。戦後初めて就役した国産自衛艦である。計画時は秘匿のため補給工作船(計画番号J-102)の名称を使用していた。主任務は水中聴音電纜(LQO-3Aなど)の敷設だが、管制機雷や発火ケーブル、LQT-2ソノブイの敷設も行える。船型は初島型電纜敷設艇を参考にした船首楼型。ソナーはQHBで、後にAN/SQS-11に換装した。艦首に水中音響機材敷設用リールを持つ。機雷敷設軌条は艦尾上甲板に2条が設置されており、溝型鋼2本を支柱で支えただけの簡単な構造で、敷設時計を見ながら人力で投下していく。敷設作業用に9メートル作業艇2隻と6メートル通船2隻を搭載する。全長72m、最大幅10.4m、深さ5.6m、吃水3.4m、基準排水量950トン、満載排水量1400トン。主機は播磨ズルザー6MD 42/50ディーゼル2基2軸3200馬力、速力13ノット(16ノット?)。兵装は76mm単装砲1門、20mm単装機関砲2門、爆雷投射機(K砲)4基、爆雷投下軌条1条、機雷敷設軌条2条、機雷40個前後。乗員100名。ARC-481つがるが1955年に就役した。1969-70年に大改装を実施。船体と艤装の大部分を建造し直し、船型を平甲板型に変更、艦首にバウ・シープを追加し、船楼を中央寄りに移動、排水量が倍以上になった。機関、艦橋、煙突などはそのままである。20mm機関砲以外の兵装や6メートル通船を撤去した。全長103m、最大幅12.4m、深さ8m、吃水4.9m、基準排水量2150トン、満載排水量2600トン。主機は播磨ズルザー6MD 42/50ディーゼル2基2軸3200馬力、速力13ノット。兵装は20mm単装機関砲2門。乗員103名。1990年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊、10,’19、10,'15、1,’79増刊、5,’02増刊、3,’10、8,’13、自衛隊装備カタログ1981、丸スペシャルNo.76、No.77
<月協定>:月その他の天体における国家活動を律する協定。1984年7月11日に発効した。月は専ら平和目的に利用することとし、脅迫、武力行為などの敵対活動は禁止。軍事基地設営、演習の実施、月周回軌道及び月への大量破壊兵器設置も禁止。規定は地球以外の太陽系の他の天体にも適用される。ただしアメリカ、ロシア、中国、日本など、月に到達できる能力を持つ国がほぼ締結していない。というか締結国自体が十数カ国しか無い。参考:核兵器事典、月刊軍事研究2,’19
<つきしま>:MSC-674(掃海艇)を参照。
<筑紫>:日本海軍筑紫型砲艦Tsukushi。元はチリ海軍砲艦アルツーロ・プラット(Arturo Prat)で、契約破棄後の明治14年11月に竣工して宙に浮いていたのを明治16年6月16日に購入し、巡洋艦に類別した。7月11日、イギリスを発って日本に向かった。明治31年3月21日、一等砲艦に類別された。明治39年5月25日に除籍され、雑役船となった。明治45年に売却された。参考:日本海軍特務艦船史
<筑紫>:日本海軍筑紫型強行測量艦Tsukushi。昭和16年12月17日、三菱横浜船渠で竣工、測量艦に類別された。12月20日に横須賀を出撃し、メナド攻略、バリ攻略に参加した後、占領した南方方面で測量を行った。昭和18年10月12日、ラバウルで爆撃を受けて小破した。11月4日、カビエン付近で触雷して沈没した。昭和19年1月5日、除籍された。参考:日本海軍特務艦船史、歴史群像6,’02、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門
<筑紫型>:日本海軍砲艦Tsukushi型。元はチリ海軍向けのアームストロング社製砲艦アルツーロ・プラットで、建造中に契約が破棄され、一応竣工したものの宙に浮いていたのを、日本海軍で購入したものである。船体は全鋼製で、大口径砲による重心上昇を防ぐため乾舷が低く、長期航海の際には船首楼を仮設したりして対応したものの、航洋力は悪かった。発電機を積んでおり、日本海軍の軍艦として初めて艦内照明を電灯にしている。垂線間長64m、最大幅9.8m、吃水4.1m、常備排水量1350トン。主機は横置式2気筒2段膨張レシプロ蒸気機械2基、主缶は強制通風式石炭専焼円缶4基、出力2887馬力、2軸推進、速力16.4ノット、石炭搭載量300トン。兵装は安式25口径25.4cm単装砲(50発)2門、安式20口径12cm単装砲4門、安式17口径7.5m単装砲2門、克式短7.5cm単装砲1門、保式5連装37mm機砲4基、36cm魚雷発射管2門。乗員177名。筑紫が就役した。参考:日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船7,’16
<筑紫型>:日本海軍強行測量艦Tsukushi型、計画番号J-11。主任務は海図・水路図の作成に必要な測量、気象データ測定、地磁気測定で、前進根拠地や敵勢力下の海面における行動が求められており、高角砲を装備する。水上偵察機も搭載していたが、こちらは航空測量が主任務である。測量器材としてシグスピー式測深儀2基、電動測深儀2基、F式音響測深儀1基、九一式測深儀1基、クリノメーター(精密時計)、六分儀、製図室付きの10メートル測量艇(排水量4トン)4隻、測量作業室、製図印刷作業室を装備した。機関は余った大和型戦艦砲塔旋回用ディーゼル発電機を流用し、高速航行では3軸をフルに使うが、低速での測量中は1軸推進にする。後部マストは三脚式で、水上機揚収用4トンデリックを前方に装着した。水線長83.00m、垂線間長79.30m、最大幅10.60m、型深さ6.6m、吃水3.65m、メタセンタ高さ0.98m、基準排水量1400トン、公試排水量1600トン。主機はMAN社製三号一〇型四衝程単動ディーゼル機関3基3軸5700馬力、速力19.7ノット、重油搭載量255トン、航続距離8000海里(16ノット)。兵装は四五口径十年式十二サンチ連装高角砲2基(前後甲板に1基ずつ。後甲板のものは防楯無し)、二五ミリ連装機銃2基(艦橋前方、後部マスト後方)。測量艇4隻、九六式小型水上偵察機(一二試水偵?)1機を搭載する。乗員128名+水路部要員65名。昭和16年に筑紫が竣工した。参考:日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船12,'21、歴史群像6,’02、小艦艇入門
<筑紫丸>:日本海軍筑紫丸型特設潜水母艦Tsukushi
maru。元は大阪商船が大連航路用貨客船として昭和16年から建造していたが、進水直後に海軍が徴用して特設潜水母艦に改造した。昭和18年3月竣工、第11潜水戦隊旗艦となった。同年、座礁して引き揚げられた。昭和20年1月、特設運送船に類別変更された。終戦時も健在だった。参考:写真集日本の小艦艇、日本潜水艦物語、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊モデルアート9,’15増刊
<筑紫丸型>:日本海軍特設潜水母艦Tsukushi
maru型。元は大阪商船貨客船で、進水直後に海軍が徴用して特設潜水母艦に改造したものである。総トン数8100トン。兵装は15cm単装砲2門(前後甲板)。上構後部上面両舷に機銃も積んでいたらしい。筑紫丸が昭和18年に竣工した。参考:月刊モデルアート9,’15増刊
<筑波>:日本海軍海防艦Tsukuba。元は1853年(嘉永6年)にボンベイで竣工したイギリス海軍スループのマラッカ(Malacca)で、1862年(文久2年)にコルベットに艦種変更され、1869年(明治2年)に退役して解体のためイギリス人エドワード・バアテス氏に売却されていた。明治4年1月から龍驤艦で砲術伝習を行ったイギリス海軍ホーズ海軍大尉が、購入予定の新型練習艦は任務に不適であると指摘しマラッカの購入・改造を進めたため、兵部省海軍局がイギリス仲介業者及び在日イギリス領事館と購入交渉を行い、8月6日に代金を支払って購入した。その前日の8月5日には御親兵(政府直属陸軍兵)8名が海兵隊に転属して砲術稽古方(訓練生)として乗り組みに指定されている。艦名はマラッカのままで、練習艦ということで砲術訓練担当の教官や助教を先に搭乗させていったが、運用に不便が生じたらしく、8月10日に艦から艦長、運用方、機械方、医官、出納官の乗り組み要望が出された。8月19日、艦名が筑波に改称された。9月25日、艦長代理と機関長が着任。明治8年5-7月、日本一周練習航海を実施。11月6日から遠洋練習航海に参加し、日本海軍初の太平洋横断を果たした。西南戦争勃発に伴い海軍兵学校から東海鎮守府常備艦に転属し、明治10年2月23日に海軍兵学校5期生を乗せたまま兵庫に向かった。3月19日、政府軍別働第2旅団(衝背軍)を乗せて日奈久海岸に上陸させた。4月6日、海軍兵学校生徒で陸戦隊を編成し、搭載砲2門と弾薬を付けて陸戦(砲撃支援)を行った。明治31年、三等海防艦に類別された。明治38年に除籍された。参考:月刊世界の艦船1,'21、月刊丸6,’14
<筑波>:日本海軍筑波型一等巡洋艦Tsukuba。明治40年1月14日に呉工廠で引き渡されたが、未完成で、横須賀工廠で工事を続けた。1月15日、第2艦隊に配備された。1月22日、アメリカ入植300周年記念行事派遣部隊(後の遣外艦隊)旗艦に指定された。1月25日、駿河湾沖で巡洋艦千歳と会合し、横須賀に入港。2月23日竣工。2月28日、アメリカ入植300周年記念行事に参加するため、遣外艦隊の一員として巡洋艦千歳と共に横浜を出港。アメリカでジェームスタウン300年(アメリカ入植300周年)記念大観艦式に参加し、ヨーロッパ10カ国も歴訪して11月16日に横須賀に帰港した。大正元年8月28日、巡洋戦艦に類別変更された。大正4年12月4日、大正天皇即位特別観艦式で御召艦を務めた。大正5年10月25日、恒例観艦式で御召艦を務めた。大正6年1月14日、横須賀で爆沈した。参考:月刊世界の艦船12,’14、9,’13増刊、1,’21
<筑波海軍航空隊>:日本海軍航空隊。茨城県にある。操縦教育を行う。昭和20年2月20日、特攻隊員として第13期飛行予備学生出身教官及び第14期特修学生予備士官64名を選出し、特攻部隊は筑波隊と命名した。4月5日、筑波隊が鹿屋基地に前進。第6筑波隊までの出撃で零戦二一型が尽き、第7筑波隊は隊長だけ零戦二一型で他は零式練習戦闘機一一型を使用、その後第8-第13筑波隊として出撃予定だった特攻要員48名は富高基地に移動した。零戦五二型(丙型?)を受領して5月上旬に再度鹿屋基地に移動し、第721航空隊戦闘第306飛行隊の隷下に組み込まれ、筑波隊のナンバーも変更されている。5月14日、第6筑波隊零戦五二型14機で鹿屋基地を出撃した。1機が離陸直後に故障で第2国分基地に爆弾を積んだまま緊急着陸したが、着陸直後に爆散している。索敵しつつ敵を発見したら特攻する戦術を採ったため、会敵しなかった機は爆弾を投棄して帰還した。参考:月刊航空ファン11,’18、陸海軍学校と教育
<筑波海軍航空隊記念館>:2013年12月20日に開館した。所在地は茨城県笠間市旭町654県立こころの医療センター内で、筑波海軍航空隊司令部庁舎を使用している。年中無休、開館時間0900-1700(最終入場1600)。参考:月刊丸1,'15別冊
<筑波型>:日本海軍一等巡洋艦Tsukuba型。日露戦争で戦没した戦艦2隻の後継として建造した初の国産装甲巡洋艦で、前ド級戦艦並みの火力を持つ。常備排水量13750トン。主機はレシプロ蒸気機関、速力20.5ノット。兵装は30.5cm連装砲2基、15.2cm単装砲12門、12cm単装砲12門、45cm魚雷発射管3門。筑波など2隻が竣工した。参考:月刊世界の艦船12,’14
<筑波飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<つくみ>:MSC-611(掃海艇)を参照。
<津久茂丸>:MS-56(掃海艇)を参照。
<つげ>:PF-292(警備船)を参照。
<付け剣(陸上自衛隊)>:立て銃の姿勢から左腰の銃剣を小銃に装着し、立て銃の姿勢に戻る。参考:MAMOR vol.116
<津堅島訓練場>:「つけんしま」と読む。在日米海兵隊の上陸訓練に使用されている訓練場で、面積2万平方メートル、沖縄本島うるま市の沖にある。参考:月刊軍事研究4,’10
<ツサ>:海上自衛隊の略号で、通信幕僚のこと。参考:日本の防衛戦力Part3
<辻堂演習>:横須賀の海軍学校と横須賀海兵団が訓練の総仕上げとして実施する陸戦演習の通称で、東海道線辻堂駅付近で行われるのでこう呼ばれる。日程は三泊四日で、士官候補生は陸戦隊本部となっている村長の家または大きな旧家、海兵団員は付近の民家に泊まる。海兵団員は水兵服に白の脚絆で三八式歩兵銃を担ぎ、横須賀海兵団から辻堂駅まで20kmを行軍した後、敵味方に分かれて戦闘訓練に入る。最後に辻堂から江ノ島まで追撃・退却戦を行い、乃木大将の銅像に集合、状況終わりの号令が掛かる。その後鎌倉八幡宮に着剣して捧げ銃を行い、兵舎に帰る。参考:海軍よもやま物語
<つしま>:MSC-653(掃海艇)またはMSO-302(掃海艦)を参照。
<對馬>:日本海軍新高型巡洋艦2番艦Tsushima。明治37年2月14日竣工、三等巡洋艦に分類された。大正元年8月、二等巡洋艦に類別変更された。大正10年9月、二等海防艦に類別変更された。昭和4年11月30日、青島を出港して内地に向かった。昭和6年5月(6月?)、等級が廃止されて海防艦の類別となった。昭和10年、海防艦のまま横須賀海兵団練習艦に指定され、係留状態となった。昭和14年4月に除籍され雑役船となり、引き続き横須賀海兵団練習艦として使用された。その後三浦大津海岸で雷爆撃訓練標的として処分され、太平洋戦争後に解体されている。参考:月刊丸6,’14、月刊世界の艦船6,'23、1,’20
<対馬>:日本海軍択捉型海防艦Tsushima。昭和18年7月28日竣工、呉鎮守府部隊に編入された。8月17日から門司-シンガポールの船団護衛に就いた。昭和19年9月1日(2月29日?)、徳島丸と衝突し、艦後部を切断、シンガポールに入港して修理に入った。10月31日、修理を終えて船団護衛に復帰。11月14日からヒ八一船団の護衛に参加。昭和20年4月から朝鮮方面で船団護衛に就いた。太平洋戦争終戦時は佐世保にいた。参考:月刊丸7,’14、第2次大戦日本海軍作戦年誌、輸送船入門
<対馬警備隊>:陸上自衛隊の対馬守備隊、通称ヤマネコ軍団。隊員300名で、隊長は一等陸佐。隊本部/本部中隊、普通科中隊(小銃小隊3個と迫撃砲小隊1個)、後方支援隊からなる。隊本部は連隊本部に匹敵する指揮能力を持ち、有事には本土から増強される部隊を組み込んで連隊戦闘団本部の機能を果たす。島内各地への迅速な展開を目指して隷下に舟艇中隊を設ける案もあったが、内局の反対で実現しなかった。日本で4番目に大きく、総面積の8割以上を森林高地が占める対馬を少人数で防衛するため、日々猛訓練に励んでおり、最新の装備品も最優先で配備される。地元とは良好な関係を保っており、民有地を使用して実戦に近い形での市街戦訓練を行っている。1980年3月25日、第4師団隷下に対馬駐屯地で新編された。1989年3月24日、近代化改編を実施。普通科中隊を3個小銃小隊から4個小銃小隊に増やし、84mm無反動砲3門と81mm迫撃砲1門が追加装備された。2009年3月20日、幹部候補生1名の三等陸尉への任官行事を実施。2010年9月9日、後期教育受講中の新隊員8名が仕上げの完全武装35km行進を実施。9月10日、新隊員8名の後期教育修了式を実施。2011年1月16日、対馬市に強い寒波が襲来して各地で水道管が破裂したため、1月18日2145に長崎県知事から対馬警備隊に災害派遣要請が出た。1月19日朝から車両6両(1トン水トレーラ3両含む)と隊員12名が13トンの給水を実施。これが対馬警備隊初の給水支援である。1月20日に34トン、1月21日に6トンの給水を行い、撤収した。延べ派遣隊員は70名、車両50両、給水量53トンだった。2013年、普通科中隊に狙撃班が新編された。2015年2月13日、対馬市目保呂ダム外周で20km走記録会を実施。3月11日、平成26年度で3回目の射撃競技会を対馬射撃場で実施。後方支援隊が優勝した。4月18-19日、対馬市厳原港久田岸壁で掃海艦MSO-302つしまの一般公開を支援し、軽装甲機動車や中距離多目的誘導弾などを展示した。9月1日未明、対馬市厳原町が1時間に110mmの豪雨に見舞われて土砂崩れが発生、水道管が破裂して900世帯が断水したため、1815に長崎県知事から警備隊長に災害派遣要請があり、給水支援を行った。9月2日1830、撤収要請を受け撤収した。延べ派遣隊員数70名、車両25両、給水量2300リットルだった。10月19日から11月19日、鎮西27に参加。2016年1月21日、車両・らっぱ競技会を実施。1月24-25日の九州・中国地方寒波に対する災害派遣に参加。4月14日と16日に発生した熊本地震の災害派遣に参加。6月9-17日、佐多射撃場で中距離多目的誘導弾を使用して洋上目標に対する対舟艇射撃を実施し、洋上移動目標に演習弾2発を発射して両方とも命中させた。7月25-29日、佐多射撃場でドアガン射撃訓練を実施。9月5-7日、長崎県対馬市美津島町の白嶽で行方不明になった韓国人男性の捜索に参加。2018年5月31日から6月8日、対舟艇射撃能力の向上を目的に、佐多射撃場で中距離多目的誘導弾の対舟艇射撃訓練(標定射撃、照準射撃)と撃ち下げ射撃訓練(対馬の沿岸絶壁から洋上の舟艇や水陸両用車を撃つ想定。使用火器は84mm無反動砲、12.7mm重機関銃、MINIMI、対人狙撃銃、89式小銃、個人携行対戦車弾。射距離400-1000m)を実施。中距離多目的誘導弾は2発を発射してどちらも命中した。9月17日、隊員60名が金石城跡地と周辺地域で対馬市教育委員会の除草作業を支援した。10月14日、自衛隊記念日中央観閲式で、我が国の平和に寄与した功績により、安倍総理から特別賞状を授与された。11月5日、隊長が対馬市役所で市長に対して特別賞状の受賞を伝え、日頃の支援に謝意を述べた。2019年1月7日、訓練始め行事を実施。全員で対馬市清水山城跡まで徒歩行進してご来光に拝礼し、厳原陸軍墓地で戦史教育を行った。6月3日、新潟地本に協力し、新潟県自衛隊援護教育会23人の部隊研修を実施。9月23日、台風17号の影響で対馬市に断水が発生したため、1500に長崎県知事から対馬警備隊長に災害派遣要請があり、後方支援隊長率いる給水支援隊30名を派遣、車両3両などが6カ所で延べ175人に4660リットルを給水、同日中に撤収要請を受けた。10月20日、創隊以来の離島防衛や災害派遣などの功績により、長崎県知事から感謝状を贈呈された。
2020年2月12-13日、福岡駐屯地で第4師団戦技競技会に参加し、Bグループ武道競技会総合8連覇と炊事競技会優勝を果たした。3月3-6日、新隊員教育隊が大矢野原演習場で新隊員8名に後期総合野営を実施。6月10-16日、対馬戦闘団を初編成し、第4師団の第1次訓練検閲を受閲した。7月2日、新隊員10名の後期教育を開始。9月2日夕方、台風9号が接近したため、指揮所を開設し、第1種乙非常勤務態勢を発令、対馬市役所に連絡員を派遣し、第1次災害派遣隊を除く隊員を自宅待機させた。続いて台風10号が接近したため、9月6日1900に第2種非常勤務態勢を発令し、担当隊員、初動要員、翌日上番勤務者を招集し、再度対馬市役所に連絡員を派遣した。台風通過後の9月7日1300、Dejero搭載車両による偵察を行い、人的被害や大規模災害が無いことを確認、1700に第2種非常勤務態勢を解除した。災害派遣要請は無かった。9月16日、本部隊舎玄関の警備隊部隊銘板を部隊自作で新調し、部隊銘板交換式を実施。11月2-6日、下対馬一帯で普通科中隊と対戦車小隊の訓練検閲を実施。武装不審者数名が上陸して治安出動命令が出されたという想定で、重要施設防護・機動巡察・武装工作員制圧や不審船警戒監視を行った。12月11-16日、射撃競技会とらっぱ競技会を実施。射撃競技会には本部、普通科中隊、後方支援隊が参加し、後方支援隊が優勝した。2021年1月12日、訓練始めとして清水城跡に登頂した。9月7-8日、新隊員9名に35km徒歩行進を実施。9月8日、新隊員9名の後期教育修了式を実施。9月13-16日、対馬全域で普通科中隊と衛生班の訓練検閲を実施。2022年3月24-30日、十文字原・日出生台演習場で西部方面特科連隊及び西部方面戦車隊と協同射撃訓練を実施。89式小銃、MINIMI機関銃、対人狙撃銃、84mm無反動砲、81mm迫撃砲L16、中距離多目的誘導弾による戦闘射撃訓練を行った。2023年2月5日、後方支援隊が対馬駐屯地で家族等コミュニティーを実施。13家族26人とOB2名が参加し、駐屯地概要説明、職場研修、野外炊事車で作ったカレーライスの会食、装備品展示などを行った。3月12-18日、普通科部隊が日出生台演習場で第4師団総合戦闘射撃に参加。
参考:MAMOR vol.90、vol.155、陸上自衛隊地上戦力の全容、朝雲、ストライク・アンド・タクティカルマガジン3,’13、月刊戦車マガジン6,’89
<対馬駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。朝鮮半島情勢変化に伴う防衛力強化に合わせ、対馬分屯地を駐屯地に格上げしたものである。所在地は長崎県対馬市桟原38で、対馬藩主の居城だった桟原城跡にある。1980年3月25日、対馬分屯地から昇格して開設された。対馬警備隊と第436会計隊が駐屯する。2015年3月23日、対馬の厳原港で港見送りを実施。異動する隊員を残る隊員総出で見送った。2016年3月27日、観桜会を実施。4月14日、全隊員で山地機動訓練を実施。7月2日、新隊員7名に対し後期教育開始式を実施。2019年3月3日、駐屯地司令杯少年剣道大会を実施。2020年5月2日、長崎県赤十字血液センターの献血に駐屯地司令以下103名が協力した。9月27日、対馬市厳原の陸軍墓地を清掃した。2021年1月30日、駐屯地修親会31名が対馬市金田城跡の清掃を実施。5月28日、防衛モニターと駐屯地モニターの委嘱式を実施。6月27日、駐屯地曹友会が対馬市主催第26回国境マラソンin対馬に参加。7月17日、駐屯地修親会が陸自対馬OB会と合同で陸軍墓地の清掃を実施。7月18日、対馬市内の大型スーパー駐車場で長崎地本及び海空自と協力して陸海空自衛隊フェスin対馬を実施。2022年7月2-3日、駐屯地曹友会17名が下対馬地区周辺岸壁などでアラ釣り大会を実施。8月6-7日、駐屯地曹友会74名が令和4年度厳原港まつりを支援し、港まつり振興会から感謝状を贈呈された。8月8日、駐屯地曹友会がブルーベリー狩りを実施。11月5日、駐屯地曹友会が津島市厳原町小森農園でミカン狩り大会を開催し、45家族107人が参加した。2023年3月6日、対馬南警察署から自動車ヘルメット着用推進モデル事業所を委嘱された。8月5-6日、駐屯地曹友会が令和5年度厳原港まつりを支援した。8月21日、対馬駐屯地曹友会女性部会が発足した。11月23日、対馬駐屯地修親会が陸自対馬OB会有志と合同で、対馬市厳原町の旧陸軍墓地、津島市美津島町の旧陸軍墓地、旧要塞連隊碑の清掃ボランティアを行った。2024年3月21日、電子戦部隊が新編された。参考:JGround Vol.23、スピアヘッドNo.12、ストライク・アンド・タクティカルマガジン3,’13、月刊JWings6,’24、朝雲
<対馬駐屯地(2015年)>:対馬警備隊などが駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<対馬分屯地>:陸上自衛隊の分屯地。対馬藩主の居館だった桟原館の跡地で、太平洋戦争後にアメリカ軍が通信所として使用し、1960年に返還されて防衛庁に移管され、1961年夏に対馬縦断道路改修のため施設部隊が駐屯、1962年3月に第4師団第41普通科連隊第4中隊を基幹とする対馬派遣隊が置かれることが決まり、8月25日に福岡駐屯地の分屯として開設された。1980年3月25日、対馬駐屯地に昇格した。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容、月刊PANZER5,’83
<対馬派遣隊>:陸上自衛隊の対馬守備隊。主力は第4師団第41普通科連隊第4中隊で、連隊長ではなく師団長が直轄指揮する。1962年に新編され、対馬分屯地に配置された。1978年に廃止され、中隊は原隊に復帰し、代わりに対馬警備隊が1980年に新編された。参考:陸上自衛隊地上戦力の全容
<対馬防備隊>:海上自衛隊の防備隊。対馬海峡の監視にあたっており、高性能の望遠鏡からSOSUS分析施設まで有するといわれるが、もちろん詳細は機密。1970年、佐世保地方隊隷下に新編された。2013年5月26日、上対馬町殿崎公園で日露・対馬沖海戦108周年追悼慰霊祭に参列。2014年5月27日、上対馬警備所長ら17名が日本海海戦慰霊祭に参列。参考:ストライク・アンド・タクティカルマガジン3,’13、佐世保地方隊ホームページ、朝雲
<対馬防備隊(1978年)>:佐世保地方隊隷下で、壱岐警備所、上対馬警備所、下対馬警備所などを隷下に置く。参考:月刊世界の艦船1,’79増刊
<対馬防備隊(2011年)>:佐世保地方隊隷下で、本部、壱岐警備所、上対馬警備所、下対馬警備所を隷下に置く。参考:海上自衛新聞
<対馬丸記念館>:対馬丸撃沈事件を後世に伝えるため、2004年8月に創設された記念館。屋上までの高さは対馬丸の吃水と同じ10mに設定されている。所在地は沖縄県那覇市若狭1-25-37。開館時間は0900-1700。休館日は毎週木曜・年末年始。参考:朝雲
<対馬丸撃沈事件>:昭和19年8月22日、沖縄の疎開児童・引率教員ら833人、一般疎開者741人、乗員57人、船舶砲兵34名など1665人(1700人以上?)を乗せて長崎に向かっていた日本郵船学童疎開船対馬丸(総トン数6754トン)が、アメリカ海軍潜水艦SS-287ボーフィンの雷撃を受けて沈没した事件。元は貨物船だった対馬丸の窓も無い船倉が急ごしらえの居住室となっており、二段ベッドに児童を含む疎開者が詰め込まれた状態だった。8月21日1835、疎開児童や一般疎開者を乗せた対馬丸、和浦丸、暁空丸が護衛艦2隻と共に那覇港を出港。沖縄本島東南東500kmに中心気圧993hPaの台風があったが、小型で弱くスピードも遅かったため、荒天を突いて単縦陣で対潜之字航行を続けた。8月22日2212、鹿児島県悪石島沖/奄美大島北55海里で対馬丸が左舷からSS-287ボーフィンの雷撃を受け、第1船倉、第2船倉、第4船倉、第5船倉に1本ずつを被雷、2223に沈没した。他の2隻と護衛艦は北に退避し、付近の船舶や那覇港からの救助船が救出にあたったが、氏名が判明しているだけで学童775人、引率者29人、一般疎開者569人、船員24人、船舶砲兵21名が死亡した。判明している生存者は付近の船舶に救助された疎開者177人、船員・船舶砲兵82人と、奄美大島に漂着した21人だが、正確な人数は乗船数、死者、生存者ともに不明である。1997年、悪石島沖の海底で深海探査機が対馬丸を発見したが、引き揚げは行われなかった。SS-287ボーフィンは真珠湾攻撃の報復艦としてパールハーバーに展示されている。参考:朝雲、戦時用語の基礎知識、輸送船入門
<つた>:LSSL-429(警備艇)を参照。
<蔦(初代)>:日本海軍樅型駆逐艦14番艦。大正10年6月30日竣工、二等駆逐艦に類別された。昭和15年4月1日、哨戒艇に転籍し、第35号哨戒艇と改称された。昭和17年9月2日に戦没し、昭和18年2月20日に除籍された。参考:日本駆逐艦史
<蔦(2代目)>:日本海軍松型駆逐艦22番艦。昭和20年2月8日竣工。瀬戸内海西部で訓練に使用された。昭和20年10月5日に除籍され、特別輸送艦として使用された後、昭和22年7月31日に賠償艦として上海で中国に引き渡され、国府海軍所属の華陽となった。参考:日本駆逐艦史、日本海軍艦隊総覧
<土浦海軍航空隊>:日本海軍航空隊。海軍飛行予科練習生の訓練部隊である。座学や体力の基礎訓練が担当で、施設に滑走路は設けられていないが、飛行適性を見るために水上機と運用施設が配備されていた。昭和15年11月15日、飛行予科練習生教育部から独立して茨城県稲敷郡で新編された。昭和20年6月、グライダー特攻要員が秋田県に移動。6月10日、空襲で防空壕に爆弾が直撃して281名が死亡し、施設の半数が焼失した。8月25日に復員命令が出された。跡地の大部分は陸上自衛隊土浦駐屯地として使用されており、いくつかの施設が残っている。参考:歴史群像10,’04、月刊軍事研究3,’10、陸海軍学校と教育
<土浦試験場>:技術研究本部の試験場。誘導弾用ロケットモーターの試験を行うのが主任務である。2011年3月11日、東日本大震災で液状化を起こし、管理棟といった複数の施設が復旧不可能な状態となるなど、全施設・全インフラに及ぶ大損害を受けた。2013年8月23日、東日本大震災からの復旧工事が完了し、復旧工事完了行事を実施。参考:朝雲
<土浦駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。武器学校、基地通信中隊土浦派遣隊、警務隊土浦連絡班、情報保全隊土浦情報保全派遣隊が駐屯する。野外や武器資料館(火砲館と車両館がある)に多数の火器・車両が展示されている他、予科練の資料を展示した雄翔館(1968年開館)と慰霊のための雄翔園(1965年5月開園)がある。また、航空隊庁舎、予科練施設、水上機格納庫、プール、士官宿舎、号令台などが残っている。住所は茨城県稲敷郡阿見町青宿121-1。JR土浦駅からバス15分(「武器学校前」)、徒歩75分。大元は1921年(大正10年)に開設された海軍臨時航空術講習部水上班で、1940年に土浦海軍航空隊の飛行場となり、太平洋戦争終結で1945年11月にアメリカ軍が接収、1946年6月から1950年3月まで日本体育専門学校が利用し、1952年9月25日に警察予備隊総隊武器学校が移駐して土浦駐屯地として開設された。2011年1月14-18日、予備自衛官招集訓練を実施。2021年5月29日、雄翔園で行われた公益財団法人海原会主催の第54回予科練戦没者慰霊祭を支援した。2023年2月8日、百里基地が行った、基地モニターと防衛モニター計11人に対する部隊研修に協力した。2月17日、甘楽町自衛隊協力会・家族会が群馬地本の支援を受けて合同で駐屯地を研修した。参考:武器学校ホームページ、月刊軍事研究3,’10、歴史群像10,’04、JGround
Vol.23、MAMOR vol.91、朝雲
<土浦駐屯地(2015年)>:武器学校などが駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<土浦飛行場>:日本海軍の飛行場。昭和15年、土浦市に開設された。参考:首都防空網と空都多摩
<ツチノコ>:949A型(原潜)を参照。
<ツツイラ>:ARG-4(工作艦)またはPR-4(河用砲艦)を参照。
<ツツイラ号事件>:日華事変中の昭和16年7月30日、百二号作戦で出撃した第11航空艦隊鹿屋航空隊九六式陸攻26機が重慶を爆撃した際、爆弾4発が市街地を逸れて揚子江に着弾し、1発がアメリカ海軍砲艦PR-4ツツイラの艦尾付近で爆発した。アメリカ側は8ヤード(7.3m)の距離で炸裂したとして日米戦は8ヤードに近づいたと煽ったが、日本側は弾着写真を詳細に調査して実際には350m以上離れていると確認した上で直ちに駐米大使が陳謝し、重慶爆撃の一時中止を伝達、アメリカ側も受け入れて解決した。参考:月刊航空ファン8,’18、月刊軍事研究7,’99
<つつじ>:LSSL-422(警備艇)を参照。
<ツツジ部隊>:北朝鮮偵察局特殊大隊隷下の女性兵士だけの特殊偵察小隊(1小隊35名)。1990年に編成された。参考:月刊軍事研究3,’03
<ツナ>:SS-27(G-2級潜水艦)を参照。
<ツナ級>:G-2級(潜水艦)を参照。
<ツナミ・ソナー・アレイ>:防衛省技術研究本部が試作したソナー。従来の低周波ソナーは大型過ぎて性能向上に限界があったため、送波器と受波器を分離するなどして小型化したものである。技術はOQQ-21に活かされた。参考:月刊軍事研究1,’10
<ツニス>:FuMB26(電波探知器)を参照。
<常に忠誠あれ>:センペル・フィデリスを参照。
<つのしま>:MSC-683(掃海艇)を参照。
<角田和男>:日本海軍エース。大正7年10月11日、千葉県生まれ。昭和9年、乙種飛行予科練習生となり、横須賀航空隊に入隊。昭和13年3月に飛行練習生課程を修了し、三等航空兵曹となり、佐伯航空隊に配属された。その後大村航空隊、蒼龍戦闘機隊に配属され、昭和14年11月、南シナ海方面に出動。11月21日、九六式艦戦に搭乗し、艦攻の護衛に就いた。12月15日、百里原航空隊に配属された。昭和15年2月(1月?)、第12航空隊に転属し、漢口基地に配置された。10月26日、成都攻撃でフリート複葉練習機1機を撃墜して初戦果を挙げた。11月、筑波航空隊に転属して本土に帰還。昭和17年4月1日、飛曹長に昇進。第一期准士官学生として横須賀海兵団に入団した。5月31日、第2航空隊に配属された。8月、ラバウルに進出。11月1日、第2航空隊が第582航空隊に改称され、その所属となった。昭和18年4月22日、P-38戦闘機1機を撃墜。5月27日、厚木航空隊教官となった。昭和19年3月、少尉に進級し、第252航空隊戦闘302飛行隊に転属。6月30日、硫黄島に進出し、7月3-4日の迎撃戦でF6F戦闘機1機を撃墜、本土に戻った。7月14日から1ヶ月、硫黄島に進出。10月11日、台湾に進出。10月22日、フィリピンのクラーク基地に前進。昭和20年2月、台湾に後退し、第205航空隊戦闘317飛行隊神風特攻隊大義隊所属となった。沖縄戦で数回出撃したが、特攻の機会は無く、終戦を迎えた。公認撃墜数9機。最終階級は中尉。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊JWings9,’11
<椿(初代)>:日本海軍楢型駆逐艦3番艦。大正7年4月30日竣工、二等駆逐艦に類別された。昭和10年4月1日に除籍され、昭和15年4月1日に廃駆逐艦第22号となった。参考:日本駆逐艦史
<椿(2代目)>:日本海軍松型駆逐艦15番艦。昭和19年11月30日竣工。昭和20年4月10日、呉淞灯台の東6海里で触雷した。7月24日、岡山沖でアメリカ艦上機の攻撃を受け中破した。終戦時は呉にあり、11月30日に除籍され、昭和22年に解体された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧
<椿救出作戦>:伊豆大島台風26号被害を参照。
<つばめ>:PC-306(駆潜艇)を参照。
<燕>:日本海軍隼型水雷艇Tsubame。明治36年11月24日竣工。大正11年4月1日に除籍された。参考:日本海軍特務艦船史
<燕>:日本海軍燕型敷設艇Tsubame。昭和4年7月15日竣工、二等敷設艇に類別された。太平洋戦争開戦後はフィリピン攻略作戦に参加。昭和17年2月からダバオ・スラバヤ方面で護衛任務に就いた。5月から佐世保付近で哨戒を実施。昭和18年4月から佐世保-沖縄の護衛任務に就いた。6月19日、済州島南方でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて中破した。昭和20年3月1日、宮古島でアメリカ艦上機の攻撃を受けて沈没した。参考:写真集日本の小艦艇、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<燕型>:日本海軍敷設艇Tsubame型。潜水艦捕獲網の敷設が主任務で(大正12年計画当初は捕獲網艇という分類だった)、機雷敷設も行える。予算の関係で船体を小型にして装備を詰め込んだため、重心が高くなってしまった。船型は船首楼型で、船首楼甲板にデリックを持つ。艦橋直後に前部マスト、その両舷にボート・ダビット、その後ろに煙突1本、後部上構、その上面後部に後部マストと並ぶ。水線長65.50m、最大幅7.20m、基準排水量450トン、公試排水量510トン。主機はレシプロ蒸気機関、出力2500馬力、速力19.0ノット。兵装は四〇口径三年式八サンチ高射砲1門(前甲板)、九三式13ミリ単装機銃1丁(後部マスト直後)。一四式捕獲網(3海里分)または機雷80個を搭載する。大正12年に予算化され、燕と鴎の2隻が昭和4年に竣工した。友鶴事件を受けて前甲板のブルワークを撤去、マストを短縮し、バラストキールを追加してビルジ・キールを増大、固定バラストを追加して重心を降下させた。後に13mm機銃を連装に換装している。参考:写真集日本の小艦艇、小艦艇入門、月刊モデルアート9,’15増刊、月刊世界の艦船11,’13
<坪根康祐>:つぼねこうすけ。日本陸軍エース。福岡県出身。昭和13年2月、少年飛行兵として熊谷陸軍飛行学校に入学、昭和14年7月に卒業して飛行第13戦隊所属となった。太平洋戦争開戦時は第1野戦補充飛行隊に所属していた。昭和17年4月、飛行第64戦隊に転属、チェンマイに赴任した。5月5日、保山攻撃で初陣を飾ったが、P-40戦闘機に撃たれて負傷した。昭和20年6月、表彰状と武功徽章を授与され、終戦を迎えた。総撃墜数10機以上。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊
<ツポレフ設計局>:ソ連/ロシアの航空機設計局。開発した航空機にTu-○○の名称が付き、ロシアではトゥー○○と読む。1922年、中央流体力学研究所航空部門に航空機設計委員会が設立され、アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ツポレフがトップとなった。ツポレフ設計局ではこの時点を創設としているが、正式に第156試作設計局/ツポレフ設計局として独立した設計局になったのは1936年である。1937年10月、ツポレフ局長が粛正を喰らって逮捕された。ただ収容所内設計局のトップに据えられ、航空機の設計を続けている。1941年、ツポレフ局長が釈放された。ソ連崩壊でツポレフ航空科学技術複合企業(Aviatsionniy Nauchno-Tekhnicheskiy Kompleks imeni Tupoleva)に改称された。2006年、統一航空機会社OAKに統合された。2013年、カザン航空工場/第22工場と統合され、ツポレフ社になった。参考:月刊JWings5,’23、7,'23、月刊航空ファン11,’92、世界の傑作機No.172、ウォーマシン・レポートNo.67
<つまようじ>:日本海軍用語で、艦隊入港の通称。妻用事から。参考:帝国陸海軍事典
<津本輸送隊>:ラバウル挺身輸送飛行隊を参照。
<ツラ>:K-114(戦略原潜)を参照。
<ツラギ>:CVE-72(護衛空母)を参照。
<ツラレミア菌>:野兎病の原因菌で、正式名称はフランシセラ・ツラレンシス。皮膚などの傷に感染動物の体液が接触すると感染する。エアロゾル化が容易で、氷点下でも病原性が保たれ、土壌中で長期間生存できるため、生物兵器として米ソで実用化された。致死率は潰瘍性で5%、腸チフス様で30%。参考:月刊軍事研究2,’01
<釣合舵>:平衡舵を参照。
<釣り合い錘>:マスバランスを参照。
<釣り合い部>:Balance part。操縦翼面のうち、固定翼面部に張り出している部分のこと。ヒンジより前方にあるため、操縦翼面を動かした時に操縦力を助ける作用をする。また、ここにマスバランスを仕込んでフラッターを防止することができる。参考:航空用語事典増補改訂版
<ツリー・ローパス>:ブルーインパルス航過飛行の1つ、Tree。前から1機、2機、1機、2機と並んで航過する。参考:月刊JWings6,’09
<吊り下げ式ローター>:シーソー・ローターを参照。
<つり下げのう>:自衛隊の機器。藤倉航装製。参考:月刊軍事研究12,’18
<釣床>:ツリドコと読む。日本海軍用語で、ハンモックのこと。本体は長さ150cm、幅90cmくらいの分厚い麻布で、一端に孔がたくさん開いており、ここに細いロープを通して直径10cmくらいの鉄の輪に結ぶ。もう一端には釣床ひもという太いロープが付いている。普段はネッチングに収容されており、寝る時に引っ張り出してきて梁(ビーム)にある鉤(フック)に鉄の輪をひっかけ、反対側はロープを結んで固定する。鉄の輪の方が頭である。細いロープは中心部に行くほど短く結び、ハンモックが広がるようにしておくと、頭を締め付けられず楽に眠れる。古参兵になると安眠棒(50cmくらいの棒の両端に切れ込みを入れたもの)をロープに差し込んでハンモックを広げるが、新兵が真似をすると生意気だと殴られるので注意。ハンモックの中には藁布団1枚と毛布3枚が収納されており、毛布には毛布覆いが付属していたが、太平洋戦争末期には物資不足で毛布覆いが無いことも多かった。くくる時は真ん中の部分が厚くなるようにして1回ごとに固く締め、全体が上反りになるようにすると担いで運ぶ時に便利。全備重量20kg。戦闘時には上甲板に持ってきて艦橋などに括り付け、弾片防御材(マントレット)として活用したが、防火能力は皆無(むしろ延焼する)なのが欠点である。ちゃんとくくっておくと海に投げても24時間は浮いているので、救命用具の替わりにもなる。参考:海軍よもやま物語、続海軍よもやま物語、月刊丸8,’11、海軍兵学校岩国分校物語
<釣床訓練>:日本海軍の訓練。海兵団に入隊して最初に始まる訓練で、夕食後に実施される。釣床下ろせの号令でネッチングから釣床を下ろし、ビームに引っかけて服を脱いで寝る。総員起こし15分前、総員起こし5分前の号令がかかるのでその時まではじっとしておき、総員起こしの号令で飛び起き、服を着て釣床を元通りにくくる。くくり方が遅かったり、いい加減だったり、総員起こしの号令の前に服を着ていたりすると罰直を喰らう。慣れると40-50秒できれいにくくれるようになる。参考:海軍よもやま物語
<釣床点検>:釣床の状況を教班長、分隊長、分隊士が点検すること。点検される方は釣床を下ろして直ちに直立不動の姿勢を取る。私物が入っているのが見つかると罰直を喰らう。参考:海軍よもやま物語
<ツリャ級(エチオピア海軍)>:エチオピア海軍水中翼魚雷艇。ソ連から導入した。兵装は533mm魚雷発射管4門。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<剣>:第343航空隊(2代目)またはキ-115シリーズ(特攻機)を参照。
<剣埼(初代)>:日本海軍剣埼級給油艦Tsurugizaki。大正6年11月30日竣工、運送船に類別された。大正15年、第4予備艦に編入され、呉に繋留された。昭和9年4月1日に除籍され、農林省漁業取締船快鳳丸となった。昭和20年1月1日、日本海軍に徴用されて特設砲艦となった。4月19日、北海道静内沖で潜水艦の雷撃を受けて沈没した。参考:日本陸軍特務艦艇史
<剣埼(2代目)>:日本海軍剣埼級潜水母艦Tsurugizaki。昭和9年12月3日、給油艦として横須賀海軍工廠で起工、昭和10年6月1日進水。その後、第4艦隊事件による船体補強や、国際情勢悪化に伴いどの程度第2状態(空母)に近づけるかの検討のため3度の設計変更があり、国際情勢悪化で他艦の緊急改装が優先されて工事も後回しにされ、昭和13年9月に潜水母艦に艦種変更され、昭和14年1月15日に漸く竣工した。2月5日、第2潜水戦隊に配備された。2月6日、第2潜水戦隊旗艦となった。11月、第4潜水戦隊に転属し、旗艦になった。昭和15年11月15日から軽空母に改造され、昭和16年12月22日に祥鳳と改称されて第4航空戦隊に転属した。参考:月刊世界の艦船7,'20、3,'22、日本の潜水艦パーフェクトガイド、図解日本の空母、写真集日本の小艦艇
<剣埼級(初代)>:日本海軍給油艦Tsurugizaki級。港内給油用の小型給油艦で、300トン積重油船の後継である。当初主機はレシプロ1軸の予定だったが、浦風型駆逐艦に搭載予定だったディーゼルを流用して日本海軍初のディーゼル推進艦となった。ただし故障が頻発し、入港の際には操縦不能になって衝突する恐れもあったため、呉軍港では剣崎が入港する度に在泊全艦艇のボイラーを緊急点火する事態となっている。垂線間長64.01m、最大幅9.45m、吃水4.27m、常備排水量1970トン。主機はバーマイスター式直立4衝程単動ディーゼル機関2基2軸1000馬力、速力11ノット、重油搭載量135トン、補助缶用石炭搭載量6トン。兵装は安式40口径8サンチ単装砲2門。給油用石油搭載量1100トン。乗員103名。剣埼(初代)が大正6年に竣工した。参考:日本陸軍特務艦艇史
<剣埼級(2代目)>:日本海軍潜水母艦Tsurugizaki級、計画番号J-8。マル二計画に基づき建造された。元は大鯨型をベースに給油設備を追加して給油艦(第1状態。有事には第2状態として空母になる)となる筈だったが、友鶴事件で復元性向上が必要となり設計を見直し、進水後の第4艦隊事件で大鯨の電気溶接部位が損傷したために補強が必要となり、これによる工事遅延で建造中に軍縮条約が切れる予定になったので空母としての装備を予め装着しておくことにし、再度改設計された。それにより重油搭載スペースが圧迫され、給油艦としての任務が不可能になったため、今度は潜水母艦(第1状態B)として設計変更されて完成した。船型は将来の空母への改造を見越して高速艦船型を採用しており、電気溶接を多用したが、第4艦隊事件で強度不足の恐れが指摘され、進水後に構造強化と補強が行われている。前甲板から1段高い所に将来の下部格納庫となる前後に長い甲板室があり、艦橋との間が10mくらい空いていて、ここに艦載艇と水上偵察機を収容した。強度甲板は上部格納庫甲板であり、上部格納庫の4カ所に伸縮継手を持つ。艦橋は2段に仕切られていて、上段は潜水母艦としての艦橋、下段は空母改造時の艦橋である。スペースが広いので、通信指揮装備や司令部設備などが充実している。当初はロンドン条約の速力制限に合わせてディーゼルを第2状態の半分の4基だけ搭載する予定だったが、条約が切れたので、最初から8基搭載した。しかし大鯨型と同じく主機の不調に悩まされ、10/10全力運転公試では28.7ノットを発揮したが、竣工後は2/10に出力を制限して20ノットしか出さなかった。昭和14年以降は17ノットに制限したが、航行後は1時間近く排煙が残っていたという。カタパルトは装備しておらず、水上偵察機は最上甲板右舷の三脚式デリックで海上に降ろして発進させる。空母への改造を予定したため艦内スペースに十分な余裕があり、居住性も良く、潜水艦乗員からは剣埼ホテルと称された。水線長201.60m、最大幅18.18m、吃水6.86m、基準排水量9500トン、公試排水量13000トン。主機は艦本式一一号一〇型ディーゼル4基+艦本式一一号二型ディーゼル4基2軸56000軸馬力、公試時最大速力29ノット、実用最大速力20ノット、重油搭載量1620トン、航続距離10000海里(18ノット)。兵装は四〇口径八九式十二糎七高角砲4門(連装2基)。補給用重油980トン(1870トン?)を搭載する。水上偵察機3機を搭載可能。剣埼が昭和14年に竣工し、高崎は建造途中で瑞鳳に改造された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、月刊世界の艦船7,’20
<つるしま>:MSI-685(掃海艇)を参照。
<釣島>:日本海軍初島型電纜敷設艇Tsurushima。昭和16年3月28日竣工、電纜敷設艇に類別されて呉鎮守府佐伯防備隊に配備され、豊後水道で使用された。昭和19年7月から門司-高雄間の護衛任務を実施。昭和20年6月から佐伯に戻り、そのまま終戦を迎え、11月30日に除籍された。太平洋戦争終結後は連合軍に接収されたが、昭和20年末から電気通信省釣島丸として東日本の離島への海底電線敷設作業を行った。昭和26年に連合軍から正式に返還され、日本電信電話公社に所有権が移り、横浜を根拠地として北海道から紀伊半島までと日本海の一部に海底電線を敷設した。昭和43年に除籍された。参考:写真集日本の小艦艇、日本海軍特務艦船史、小艦艇入門
<つるはし>:工兵・施設科の土工作業器材。シャベルでは掘削できない硬土や凍土などの土工作業に使用する。柄と鉄部からなり、鉄部は一方が尖っていてもう一方(刃部)は平たくなっている。刃部の幅が広く薄いものはつるはしマトック、狭く厚いものはつるはしピックと呼ぶ。硬土の場合は尖った方を使って工区の前方から後方へ、軟土の場合は刃部を使って工区の後方から前方に掘り進む。柄は体の中央で垂直に保持し、体の各部を十分に伸ばし、打ち込む位置をしっかり見て狙いを定め、振り下ろすと同時に前方の手を後方の手元に滑らせて引き、腰を十分に落とす。つるはしを打ち込んだら両手に力を加え腰を張り、膝を伸ばして柄の端末を起こす。振り下ろした際に鉄部が柄からすっぽ抜けることがあるので、事前点検は入念に行う。参考:陸上自衛隊東部方面隊広報紙あづま
<つるべ式沈潜引き揚げ装置>:日本海軍の潜水艦救難装置。特務艇朝日の船体に滑車を置き、ワイヤーの一方に廃潜水艦を、もう一方に沈没した潜水艦を繋ぎ、廃潜水艦に注水して引き揚げるものである。また、海大3型以降の潜水艦には山高式シャックルと呼ばれるワイヤー自動接続装置が搭載された。しかし潜水艦が爆雷攻撃を受けた際に山高式シャックルが誤作動で海面に飛び出し、潜水艦の位置がばれる恐れがあったこと、潜水艦の大型化・潜航性能向上で装置自体の性能が不足となったこと、装置の装備以降に潜水艦の沈没事故が起きなかったことなどから有効性に疑問が生じ、昭和12年に外されてしまった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド
<鶴見>:日本海軍知床型給油艦Tsurumi。大正11年3月14日竣工、運送艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発時は連合艦隊補給部隊に所属していた。昭和17年3月1日、ジャワ島沖で潜水艦の雷撃を受けて小破した。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。7月29日、フィリピン西岸のバラング岬南西2.5海里で座礁した。昭和19年8月5日、ダバオ南方でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没し、10月10日に除籍された。参考:日本海軍特務艦艇史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、帝国海軍太平洋作戦史Ⅰ
<鶴見貯油施設>:在日米軍の航空燃料貯油施設。横浜市にある。面積184000平方メートル。エリアⅠとエリアⅡにタンク20基があり、125000キロリットルの貯油能力を持つ。1952年にカルテックス石油の施設を国が借り上げて提供し、アメリカ陸軍が管理下に置いた。1971年、アメリカ海軍に移管された。海軍だけでなく、鉄道(通称米タン)などで横田基地に運び込んで空軍にも供給している。参考:月刊軍事研究4,’10、1,’15、5,’17
<ツルンマー級>:フィンランド海軍コルベット。兵装は120mm砲1門、5連装対潜ロケット発射機2基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<吊れ銃(陸上自衛隊)>:小銃が地面に対して垂直になるよう、スリングを右肩にかけて背負い、右前腕を地面と水平位置にしてスリングを持つ。参考:MAMOR vol.116
<ツワイサ>:イラクの地名。オシラク原子炉のあったところである。タムーズⅡ原子炉(出力0.5MW)と、ソ連から供与されたIRT-5000原子炉(出力5MW)、イタリアから提供されたホットセル3基、天然ウラン・低濃縮ウラン加工施設がある。参考:軍事分析湾岸戦争
<ツンイー>:134(駆逐艦)を参照。
<ツンイン島ミサイル・レーダー総合基地>:台湾の馬祖諸島の1つ、ツンイン島にある基地で、中国本土から16kmしか離れていない。海軍用と陸軍用の大型固定式レーダー2基と、射程100kmの雄風2対艦ミサイル、天弓2中・高々度地対空ミサイルを配している。陸軍レーダーは有効距離300kmとみられており、沿岸の中国軍重要施設をカバーする。また、第2施設がペンフウ島にあり、こちらにもミサイルが配置されている。参考:月刊軍事研究12,’04
<ツングースカ>:2S6(自走対空機関砲)を参照。
<ツングースカM>:2S6M(自走対空機関砲)を参照。
<ツングースカM1>:2S6M1(自走対空機関砲)を参照。
<ツンドラ>:EKS(衛星)を参照。