<ヤークト>:ドイツ海軍ヴァハト級通報艦Jagd。1889年6月25日竣工。1891年に改装を受け、主砲を8.8cm単装砲4門に換装した。1904年、港務艦に艦種変更された。1910年5月14日に除籍されてハルクとなり、1920年に解体された。参考:月刊世界の艦船9,’09
<ヤークト・シュロス>:ドイツ国防軍が第2次大戦時に使用した地上設置型二次元対空警戒レーダーで、狩猟の館の意。ウィンドウの妨害を防ぐため、波長は150MHzを使用する。アンテナ直径は2mで、出力140馬力のモーターにより回転して全周をカバーする。有効距離120km。参考:連合軍の傑作兵器駄作兵器
<ヤークトティーガー・シリーズ>ドイツ陸軍駆逐戦車Jagdtiger。参考:ジャーマンタンクス
<ヤークトティーガー>:Sd.Kfz.186。ティーガーUの車体を流用した駆逐戦車で、射距離3000mで敵戦車を破壊でき、前線での歩兵支援も行える車両として1943年2月からティーガーUと並行して開発され、1944年2月に生産車が登場した。車体を260mm延長して中央に戦闘室を作り、55口径12.8cm対戦車砲PaK44を搭載。俯角が取れるよう、操縦席周囲の高さを50mmほど低くした。戦闘室前後面は内部スペース確保の関係からほぼ垂直だが、側面には良好な避弾経始が与えられている。戦闘室後面には大型の脱出ハッチがある。最初の10両はコストの関係でエレファントと同じポルシェ式縦置きトーションバー(転輪径700mm、転輪数8個)を装備していたが、走行中のピッチング問題が発生して1944年9月以降はヘンシェル式(転輪径800mm、転輪数9個)とされた。全長10.65m、全幅3.63m、全高2.95m、重量70トン、戦闘重量76トン。主砲は12.8cmPaK44
L/55(40発)で、旋回角は左右10度ずつ、俯仰角はマイナス7.5度からプラス15度、照準器はWZF2/7(WZF2/1?)。副武装は車体前面右のボールマウント式7.92mmMG34機銃1丁(旋回角マイナス8度からプラス17度、照準器はKgZF2)で、車内にもMG42機銃を1丁搭載しており、一部に車体上部に対空機銃架を増設したものがある。機銃弾搭載数は1500発。近接防御兵器1基を持つ。装甲厚は車体前面下部100mm50度、上部150mm50度、側面下部80mm0度、上部80mm25度、後面80mm30度、底面前部40mm90度、後部25mm90度、上面40mm90度、戦闘室前面250mm15度、側面80mm25度、後面80mm5度、上面40mm85度。エンジンはマイバッハHL230P30ガソリン(700馬力)、前進8速・後進4速、最大速度38km、航続距離170km。乗員6名。1944年7月から1945年3月までに77両(82-100両?)が完成し、第653戦車駆逐大隊に配備されてラインの守り作戦に投入され、第512重戦車大隊にも配備されてドイツ本土防衛戦に使用されたが、如何せん数が少なすぎて連合軍を止めることはできなかった。参考:異形戦車ものしり大百科、世界の軍用車両(1)、ジャーマンタンクス、月刊丸7,’09別冊、週刊ワールドウェポン17
<ヤークトティーガー(8.8cm砲搭載型)>:主砲を71口径8.8cmKwK43に換装したもので、Sd.Kfz.185の特殊車両番号が付けられたが、量産されなかった。参考:ジャーマンタンクス
<ヤークトパンター・シリーズ>:ドイツ陸軍駆逐戦車、Sd.Kfz.173 Jagdpanther。Sd.Kfz.172 Sturmgeschutz fur 8.8cm StuK 43 auf Fgst Panther T(8.8cmStuK43搭載パンターT型車台)という名称もある。1942年10月2日、X号戦車に71口径8.8cm対戦車砲を搭載した重突撃砲の開発命令が出され、1943年10月(6月?)にモックアップが、12月に試作車が完成し、1944年2月、総統命令でヤークトパンターに名称が決まった。1944年2月(1月?)から生産され、4月末にロールアウトし、終戦までに415両(392両?)が量産された。第559・第654戦車駆逐大隊に1944年6月から配備され、他の大隊にも順次配備されたが、定数42を満たしたのは第654戦車駆逐大隊だけで、他は1個中隊程度しか配備されなかった。1945年1月からは戦車大隊、装甲てき弾兵師団、戦車旅団にも配備された。参考:月刊PANZER5,’01、ジャーマンタンクス、月刊丸7,’09別冊、12,’11
<ヤークトパンター極初期生産型>:ベース車体はパンターUにする予定だったが、量産されなかったため、パンターG型が使用された。砲塔を撤去し、車体前部から中央にかけて装甲鋼板を組み合わせた避弾経始の良好な戦闘室(前側面は車体装甲板をそのまま上に延長した形状)を溶接している。車体前面左に操縦手用ペリスコープが2個、車体前面右にはボールマウント式7.92mmMG34(600発。旋回角左右5度ずつ、俯仰角マイナス10度からプラス15度、照準器はKgZF2)を持つ。車内には前方左に操縦手、右に無線手兼機銃手、無線手後方に車長、操縦手後方に砲手、最後尾に装填手が位置する。車内は狭いため、操縦手と無線手は殆ど身動きがとれず、主砲に付けられた砲手席も簡単な作りのもので、車長・装填手は折り畳み椅子に腰掛けねばならない。また、車長は立ったままで戦闘指揮を行う必要があり、視界は旋回式ペリスコープと砲隊鏡で得るしかない(駆逐戦車は待ち伏せ攻撃しかしないので、旋回式ペリスコープのみ装備している)。車体前部中央にAK7-200変速機があり、その後方の砲座に8.8cmPaK43/3が搭載されている。俯仰角はプラス14度からマイナス8度、旋回角は左右11度。初速毎秒1000m、装甲貫徹力は射距離1000mで30度傾斜装甲板に167mm。主砲防楯は厚さ100mmのザウコップ式で、基部の内側に固定用ボルトを持つが、砲交換作業にはかなり手間がかかる。弾薬は戦闘室左右の袖板の上のラックに計60発搭載される。戦闘室上面には円弧状のスライド式照準器の装甲カバーが前部左側にあり、右に車長用旋回式ペリスコープと砲隊鏡用クラッペが装備され、その後方に車長用ハッチがある。車長用ハッチの更に後方には装甲カバーの付いた吸気口があり、中央後方にベンチレーター、後方左に装填手用ハッチ、右に旋回式ペリスコープを持つ。戦闘室後面には主砲交換・脱出用ハッチが備えられている。また、戦闘室上面には近接防御兵器用の穴も開けられていたが、本体の生産が進まず、後で装備することにして取り敢えず鋼板で塞いであった。機関室上面はパンターA型のものが流用されているが、前のエアインテイクはオリジナルのデザインを採用している。また、機関室後部の冷却空気取り入れ用開口部と、左のアンテナ基部は装甲板で塞がれた。エンジン前後にラジエターがある。リアパネルのゲペックカステンは車体上面から支柱で吊っている。転輪はパンターと同様の千鳥型で、1本の転輪アームに2本を装備するダブルトーションバーサスペンションを備える。全長9.9m、車体長6.87m、全幅3.27m、全高2.72m、戦闘重量45トン。装甲板はE22またはE32を使用し、装甲厚は戦闘室前面80mm30度、車体下部前面50mm35度、車体側面上部45mm60度、車体側面下部40mm90度、車体後面40mm60度、戦闘室後面40mm55度、車体上面25mm0度、戦闘室上面17mm5度、床面前部25mm0度、床面後部17mm0度。エンジンはマイバッハHL230P30(700馬力)で、最大速度55km(46km?)、航続距離250km(路上)/100km(不整地)。無線機はFuG2とFuG5。参考:月刊PANZER5,’01、ジャーマンタンクス、月刊丸12,’11
<ヤークトパンター1944年4月生産型>:主砲が2分割式のものになった。また、左側の排気管左右に冷却空気導入用のパイプが追加された。ただし主砲は一体型のストックも残っていたため、完全に切り替わったのは11月からである。機関室後面のアンテナ基部・冷却空気取り入れ用開口部は最初から塞がれており、リアパネルのゲペックカステンは差込口に装着するようになった。また、戦闘室左後面に雑具箱が装備された。車体前面の操縦手用ペリスコープは2個の穴のうち右側のみに装備されており、左側は外から厚さ15mmの鋼板で塞がれていた。ペリスコープ用の雨樋はそのままであったが、じきに雨樋も片側だけになった。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1944年6月生産型>:ピルツと呼ばれる組立式簡易クレーン取り付け具が戦闘室上面に装着され、防楯にも吊り下げ用アダプターを装着するねじ込みが追加された。また、近接防御兵器が生産時から装備されるようになり、戦闘室後面の雑具箱が廃止された。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1944年9月生産型>:ツィメリットコーティングが廃止された。また、防楯基部固定用のボルトが外装式(上下4本ずつ)となったが、完全に切り替わったのは11月頃のようだ。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1944年10月生産型>:直径650mmの大型転輪に変更され、リブの形状も改められた。車体後部のショックアブソーバーも廃止された。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1944年11月生産型>:操縦手用ペリスコープの開口部が最初から1つになった。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1944年12月生産型>:パンターA型のストックが無くなり、G型のものが用いられるようになった。機関室上面の吸気グリルの幅が前後とも狭くなり、円形の排出グリルもやや小さくなり、機関室後部に装甲カバー付きエアインテイクを新設し、機関室点検ハッチ後方にハンマーを装着した。排気管横の冷却パイプは廃止されたが、一部ではそのままであった。また、消炎器付き排気管を備えたものもある。一部に戦闘室右上面にあった吸気口を戦闘室前部中央に移した車両もある(10両程度)。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター1945年生産型>:2月、車内レイアウト変更により弾数が58発に減少。2月27日、戦闘室左後面の工具箱廃止。3月頃から車体側面の工具を戦闘室と車体後面に移設。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター指揮戦車>:無線機を増設して指揮用に使用できるようにしたタイプ。専用のものが製作された訳では無く、全車両が無線機を追加するだけで指揮戦車になれる。参考:月刊丸12,’11
<ヤークトパンター第654重駆逐戦車大隊装備車>:1944年7月末前後から工具を戦闘室・車体後面に移している。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンター・シュタール>:固定砲架搭載型。試作中に終戦となった。参考:ジャーマンタンクス
<ヤークトパンター大隊>:1944年3月1日付けのK.st.N1149c(戦時兵力証明)で中隊定数が、K.st.N154aで大隊定数が定められた。大隊はヤークトパンター指揮戦車3両を配備する本部と中隊3個から成り、中隊はヤークトパンター2両を装備する本部とヤークトパンター4両を装備する小隊3個から成る。よって大隊定数は45両だが、実際にこれを満たした大隊は殆ど無い。第654重駆逐戦車大隊から改編が始まったが、6月15日の出撃時には8両しか装備していなかった。1944年9月11日の総統命令で、他の駆逐戦車・突撃砲との混成大隊が編成されることとなり、第559重駆逐戦車大隊がヤークトパンター33両とV号突撃砲28両を受領して改編された。また、ナスホルンを装備する第519、560、655駆逐戦車大隊も混成となった。東部戦線では第563重駆逐戦車大隊が唯一の改編大隊である。ただし故障や被弾などで、各大隊の稼働数は多くても20両弱程度であった。その他、各機甲師団で10両弱が稼働していたようだ。参考:月刊PANZER5,’01
<ヤークトパンツァー2>:西ドイツ陸軍の自走対戦車ミサイル車両で、ヤークトパンツァー・ラケーテまたはラケーテン・ヤークトパンツァー2ともいう。ヤークトパンツァー・カノーネとほぼ当時に開発された。ヤークトパンツァー・カノーネと同じ車体上に引き込み式単装ランチャーを設けて第1世代対戦車ミサイルのSS-11(14発)を搭載する。ランチャーは射界180度、仰角0-20度。車体上面前部中央には潜望鏡式照準器が用意されている。車体前面は一枚板に成形され、右にボールマウント式にMG3機銃(2000発)を装着。赤外線サーチライトは装備しておらず、車体後面にはそのケースの代わりに雑具箱2個が取り付けられた。全長6.43m、全幅2.98m、全高1.98m、全備重量40.5トン。エンジンは8気筒液冷ディーゼル(500馬力)で、最大速度70km、航続距離700km。乗員4名。ヤークトパンツァー・カノーネ生産終了後の1967年から370両(ハノマークとヘンシェルで185両ずつ)が生産され、擲弾兵旅団対戦車中隊第3小隊に5両が配備されてヤークトパンツァー・カノーネと共に対戦車任務に就いた。SS-11の使い勝手が悪く、順次HOTに換装してヤグアル1に改造されている。参考:世界の軍用車両(2)、月刊PANZER6,’00、6,’18
<ヤークトパンツァー・カノーネ>:西ドイツ陸軍駆逐戦車JPz4-5(KJPz.4-5?)。歩兵支援・対戦車火力としてJPz1-3駆逐戦車を配備する予定だったが、車体が小型すぎたためテスト段階で没になり、次いでマルダー1の車体を流用したファミリー車両で同様の駆逐戦車を作る予定にしたが、繋ぎで配備していた76mm砲装備M41軽戦車の戦闘力劣化が深刻で完成を急ぐ必要があり、共通車体が1種類増える手間を忍んで1960年(1950年代後半?)から急遽開発され、1965年に制式化された。JPz1-3のベースとなったSPz12-3装甲車の車体を延長して避弾経始に優れた固定式戦闘室を設け、前面右にオフセットしてザウコップ式防楯を装着、40.8口径90mm砲(51発。ダブルバッフル式マズルブレーキ付き)をしており、外形はW号駆逐戦車F型に似ている。射界は左右15度ずつ、俯仰角はマイナス8度からプラス15度。同軸機銃としてMG3(4000発)を主砲右に装備する。戦闘室上面には3基のペリスコープを持つ操縦手用ハッチと、9基のペリスコープを持つ車長用ハッチ、車長用6/8倍旋回式ペリスコープ、砲手用8倍ペリスコープ、砲手用直接照準器、装填手用旋回式ペリスコープが搭載されている。車長用キューポラまたは装填手用ハッチに対空機銃としてMG3を装備することが可能で、主砲防楯への赤外線投光器搭載もできる。車体後部の機関室上面に発煙弾発射機8基を一列に装備する。下部転輪はダブルタイプ片側5組、起動輪は前方、誘導輪は後方にあり、上部転輪3個を持つ。NBC防護装置付。全長8.75m、全幅2.98m、全高2.1m、重量27.5トン。エンジンは8気筒液冷ディーゼル(500馬力)で、最大速度70km、航続距離400km。乗員4名。1967年までに750両が生産された。1966年から擲弾兵旅団対戦車中隊の中隊本部に2両、第1・第2小隊に5両ずつ配備され、第3小隊のヤークトパンツァー2自走対戦車ミサイル5両と共に運用された。戦車相手に抜群の威力を誇る対戦車ミサイル車両を押しのけて2倍以上配備されたのは、歩兵支援車両(突撃砲・自走歩兵砲役)としての役割も期待されたためで、想定通り使い勝手が良く1983年まで使用され、その後はヤグアル2や砲兵観測車などに改造されていった。参考:世界の軍用車両(2)、月刊PANZER6,’00、6,’18、3,’12、6,’14、異形戦車ものしり大百科
<ヤークトパンツァー・カノーネ・ファミリー>
<砲兵観測車>:Vorgeschobener Beobachter Panzer、直訳すれば前進観測装甲車。主砲を外して車体上部に各種観測機材を搭載し、砲兵観測車としたもの。防楯はそのままで、砲身の抜けた穴には小型装甲カバーが被せてある。参考:月刊PANZER11,’86、6,’14
<ヤークトパンツァー・カノーネ海外シリーズ>
<JPK−90>:ベルギー陸軍駆逐戦車。80両を生産した。参考:世界の軍用車両(2)
<ヤークトパンツァー・ラケーテ>:ヤークトパンツァー2(対戦車ミサイル車両)を参照。
<ヤーセンU級>:885M型(潜水艦)を参照。
<ヤーセンM級>:885M型(潜水艦)を参照。
<ヤーセン級>:885型(潜水艦)を参照。
<ヤード>:艦艇の檣楼頂部から水平に張りだした桁。信号燈を装備したり、信号旗を掲げるロープなどを張ったりする。参考:月刊JWings2,’00、艦船メカニズム図鑑
<ヤード>:ドイツ海軍特設航空母艦の秘匿名。元は1935年に竣工した客船グナイゼナウで、1942年5月に改造が決定した。長さ186m・幅27mの飛行甲板を設置し、右舷側に煙突と一体化したアイランドを設け、前部にカタパルト2基、前後に内舷式エレベーター1基ずつを持つ。格納庫は長さ148m・幅18mで、Bf109G艦上戦闘機12機とJu87D艦上爆撃機12機を搭載する。装甲厚は飛行甲板20mm、格納庫15mm。全長203.5m、最大幅26.8m(バルジ部)、吃水8.85m、基準排水量18160トン、満載排水量23500トン。主機はデシマーク・ヴェーザー式ギヤード・タービン2基、主缶はヴァグナー式高圧缶4基、出力26000馬力、2軸推進、速力21ノット、燃料搭載量4570トン、航続距離は19ノットで9000海里、兵装は10.5cm連装高角砲6基、37mm連装高射機関砲5基、20mm4連装機関砲8基。1942年11月15日に工事中止が決定し、グナイゼナウは宿泊船として使用され、1943年5月2日に触雷沈没している。参考:月刊丸3,’14
<ヤーノール>:DD-541(駆逐艦)を参照。
<ヤーボ>:対地攻撃機のこと。参考:歴史群像8,’08
<ヤーボンR>:UAEのATS社が開発したUAVで、標的無人機がベースである。機体は先尾翼式で、機首下部にFLIRを持つ。全長5m、ペイロード30-50kg。参考:月刊軍事研究5,’07
<ヤーボン・ユナイテッド40>:UAEのアドコム・システムズ社が開発したUAV。先尾翼形状で、先尾翼に計2基のエンジン、主翼に計4カ所のハードポイントが付いている。全幅17.53m、最大離陸重量2トン。推進はプロペラで、巡航速度120-200km、滞空時間100時間以上。主翼下パイロンにそれぞれ100kgまでの兵装を搭載可能。IDEX2013にブロック5が展示された。参考:月刊軍事研究6,’13
<ヤーマス>:F101(フリゲート)を参照。
<ヤーラ>:オーストラリア海軍護送艦。排水量1060トン。兵装は10.2cm高角砲3門。昭和17年3月、商船を護衛してジャワ島南岸からオーストラリアに向かう途中、重巡愛宕及び高雄の攻撃を受けて沈没した。参考:小艦艇入門
<ヤアリ>:イラン革命防衛隊航空宇宙軍の巡航ミサイルで、2014年5月11日に公開された。射程700km。参考:月刊軍事研究10,’14
<ヤーロー型>:イギリス海軍Yarrow型。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊
<ヤーロー型・海外シリーズ>
<ヤーロー型(タイ)>:全長97.6m、幅11m、吃水5.5m、満載排水量1900トン。主機はCODOG方式で、出力23125馬力、2軸推進、速力26ノット。兵装は114mm単装砲2門、40mm単装機銃2丁、爆雷投下軌条1条。1隻が就役した。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊
<ヤーロー型(マレーシア)>:全長93.9m、幅10.4m、吃水4.5m、満載排水量1600トン。主機はCODOG方式で、出力19500馬力、2軸推進、速力26ノット。兵装は114mm単装砲1門、40mm単装機銃3門、リンボー1基。1隻が就役した。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊
<ヤーロー缶>:缶の断面は楕円形をしているが、変曲部に負荷がかかるため、長期経過後にグルービングを生じて破裂してしまう可能性があった。参考:月刊丸11,’09
<ヤーントン>:P1096(哨戒艇)を参照。
<やい号器材>:い号装置(爆破装置)を参照。
<ヤイル>:ノルウェー海軍ハウク級ミサイル哨戒艇。1980年就役。参考:週刊ワールドウェポン17
<ヤウズ>:F240(フリゲート)を参照。
<ヤウズ>:トルコ海軍ヤウズ級巡洋戦艦Yavuz。元はドイツ海軍巡洋戦艦ゲーベンで、1914年8月16日に購入し、ヤウズ・スルタン・セリム(Yavuz Sultan Serim)と名付けた。第1次大戦中はドイツ兵により運用され、終戦後はトルコ兵が運用することとなった。10月29日、オスマン艦隊旗艦として宣戦布告無しに黒海沿岸のロシア港を砲撃。12月26日、触雷で損傷し、修理に1915年3月までかかった。1916年1月7日、エレグリ沖で戦艦エカテリーナU世と交戦。1918年1月20日、エーゲ海に進出。その後イギリス海軍砲艦ラグランとM28を撃沈したが、触雷して損傷した。トルコ革命後は長らく放置されていたが、1926年からセヴァストポリで修理と改修を受け、1930年にヤウズ・セリム(Yavuz Serim)と改称して再就役した。1936年、ヤウズと改称された。1950年12月退役。1954年に座礁して大破、11月14日に除籍され、桟橋代わりに使用された。1971年に売却され、1974年に解体された。参考:近代戦艦史、月刊世界の艦船1,’12、10,’14、10,’21
<ヤウズ級>:トルコ海軍巡洋戦艦Yavuz級。第1次大戦勃発時、イギリスで建造されていたトルコの弩級艦がイギリス軍に接収されてしまったため、これをみたドイツがトルコを同盟軍側に引き入れる目的で巡洋戦艦ゲーベン(ドイツ海軍地中海支隊所属でちょうどイスタンブールに停泊していた)を提供したものである。垂線間長(全長?)186.5m、幅29.5m、吃水9.2m、常備排水量22979トン。主機は蒸気タービン2基4軸85000馬力(52000馬力?)、速力28ノット(25.5ノット?)。兵装は28.3cm連装砲5基、14.9cm単装砲12門、8.8cm単装砲12門、8.8cm単装高角砲4門、50cm水中魚雷発射管2門。乗員1300名。ヤウズが1914年に就役した。1926-30年にフランスで修理と改装を実施、水中発射管を撤去して缶を新型に換え、速力を27ノットにした。1941年に後部マストを撤去して対空兵装を追加した。参考:近代戦艦史、月刊世界の艦船10,'21、4,’17
<ヤウズ級>:トルコ海軍フリゲートYavuz級。ドイツのMEKO200を導入したもので、MEKO200TNトラックTともいう。全長110.5m、吃水4.1m、満載排水量2784トン。主機はCODAD方式で、出力40000馬力、2軸推進、速力27ノット。兵装はRGM-84Cハープーン4連装発射筒Mk141が2基、シースパロー(アスピーデ?)8連装発射機Mk29が1基、127mm単装砲1門、25mm4連装CIWSシー・ガード3基(前部1基、後部2基)、324mm短魚雷Mk46用3連装発射管Mk46が2基。AB-212対潜ヘリ1機を搭載できる。1987年からF240ヤウズ、F243ユルドゥルムなど4隻(8隻?)が就役した。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊、1,'15増刊、JShips vol.48、ミリタリー・バランス1989-1990、THE MILITARY BALANCE 2016
<ヤウズ・スルタン・セリム>:ヤウズ(戦艦)を参照。
<ヤウズ・セリム>:ヤウズ(戦艦)を参照。
<矢臼別演習場>:陸上自衛隊最大の演習場で、別海矢臼別大演習場ともいう。東西28km・南北10km、面積は168.18平方キロメートルで、射撃訓練での使用可能射距離は18kmあり、日本で唯一榴弾砲の実弾演習が行えるため年間300日も使われているが、演習場が東西に細い形状なので射界が狭い。在日米軍の地位協定に基づく日米共同施設区域である。演習場周辺の2300ヘクタールは騒音対策として防衛庁が購入しており、うち1600ヘクタールは牧草地だったため、国有化後も引き続き牧草を栽培し、民間に売却している。1997年度、10日間(うち夜間6日間)にわたり、海兵隊による155mm榴弾砲の実弾射撃訓練が実施された。2007年度、10日間(うち夜間8日間)にわたり、海兵隊による155mm榴弾砲の実弾射撃訓練が実施された。参加兵員は220名、砲44門、車両50両で、射撃弾数は972発だった。2008年11月20-29日(うち夜間5日間)、海兵隊による155mm榴弾砲の実弾射撃訓練(沖縄県道104号線越え実弾射撃訓練の分散・実施に係る射撃訓練)を実施。参加兵員は230名、砲2門、車両50両で、射撃弾数は531発だった。2010年5月28日から6月8日、在沖縄米海兵隊による実弾射撃訓練を実施。第12海兵連隊1個砲兵大隊430名、車両100両、砲12門が参加した。2012年6月上旬から7月上旬、在沖縄米海兵隊による実弾射撃移転訓練を実施。兵員430名、車両100両、155mm榴弾砲12門が参加した。2014年8月24日から9月2日、沖縄県に駐留する米海兵隊の実弾射撃移転訓練を実施。兵員430名、車両100両、155m榴弾砲12門が参加した。2017年11月27日から12月5日、沖縄県に駐留する米海兵隊の実弾射撃移転訓練を実施。155mm榴弾砲6門が参加した。2018年8月1-8日、沖縄県に駐留する米海兵隊の実弾射撃移転訓練を実施。兵員240名、車両50両、155mm榴弾砲6門が参加した。2023年1月16日から2月2日、沖縄県道104号線越え155ミリ榴弾砲実射射撃移転訓練が行われた。2024年9月12-23日、沖縄県道104号線越え155ミリ榴弾砲実射射撃訓練の分散・実施で、人員450名、車両100両、155mm榴弾砲8門が射撃訓練を行った。参考:月刊軍事研究4,’10、12,’10、MAMOR Vol.86、朝雲、防衛省ホームページ
<ヤヴラ>:K22(コルベット)を参照。
<八重桜>:日本海軍松型駆逐艦33番艦。昭和20年3月17日に進水したが、6月23日に建造中止となった。7月18日、横須賀でアメリカ艦上機の空襲を受けて損傷。7月28日に被爆沈没した。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌
<やえしお>:SS-572(うずしお型潜水艦)またはSS-598(おやしお型潜水艦)を参照。
<八重瀬分屯地>:陸上自衛隊の分屯地。住所は沖縄県島尻郡八重瀬町字富盛2608。元は与座分屯地で、所在地の東風平町と具志頭村が合併して八重瀬町になったことに伴い、2005年1月に改称されて創設された。2008年3月、新庁舎の落成式を実施。2010年3月、車両整備工場の落成式を実施。2014年3月26日、第6高射特科群が第15旅団隷下の第15高射特科連隊に改編された。2020年2月24-28日、令和元年度日米共同統合防空・ミサイル防衛訓練に参加。参考:第15高射特科連隊ホームページ、JGround Vol.23、月刊軍事研究9,’13、月刊JWings5,’20
<八重瀬分屯地(2015年)>:第15旅団第15高射特科連隊本部/本部管理中隊、高射搬送通信中隊、第15旅団第15後方支援隊が駐屯している。参考:第15高射特科連隊ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<やえやま>:MSO-301(掃海艦)を参照。
<八重山>:日本海軍八重山型報知艦Yaeyama。明治23年3月15日竣工。明治31年3月、通報艦に艦種変更された。参考:月刊世界の艦船7,’22、小艦艇入門
<八重山>:日本海軍八重山型敷設艦Yaeyama。昭和7年8月31日竣工。9月1日、呉を出港。9月3日、佐世保に入港。昭和12年3月15日、第3艦隊第11戦隊に編入され、上海に入港。7月7日、日華事変勃発時は第3艦隊第11戦隊に所属していた。8月7日夕方、駆逐艦栂、栗と共に、海軍陸戦隊収容のため漢口に入港。8月8日0100、駆逐艦栂、栗と共に、漢口を出港して上海に向かった。途中で砲艦勢多が収容した邦人を引き取っている。8月9日午後、駆逐艦栂、栗と共に上海に到着。太平洋戦争開戦時は第3艦隊第17戦隊第1小隊に所属しており、スリガオ海峡に九三式機雷133個を敷設、その後はルソン島方面で船団護衛を実施した。昭和17年1月3日、第3南遣艦隊所属となった。2月1日、バターン半島のアメリカ軍に対して12cm高角砲による艦砲射撃を実施中、スービック湾で野砲による反撃を受けて艦首を損傷。昭和19年9月24日、ミンドロ島の南でアメリカ第38機動部隊艦上機30機の攻撃を受け、水上機母艦秋津州、水雷艇隼、駆潜艇32号と共に沈没した。11月10日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、月刊世界の艦船11,’14、11,’17、日本海軍艦隊総覧
<八重山型(初代)>:日本海軍報知艦Yaeyama型。日本海軍初の国産報知艦で、招聘したフランス造船官エミール・ルイ・ベルタンが、以前に担当したフランス海軍報知艦ミランをベースに設計した。計画時の艦種は報知艦兼水雷本艦で、偵察、連絡(まだ無線通信が無かった)、水雷艇隊嚮導、水雷艇母艦任務などをこなす。2檣スクーナー型補助帆装を有し、艦容に優れていたため、明治天皇御召艦や皇族乗艦としても使われた。全長101m、常備排水量1609トン。主機はイギリス製横置式3段膨張式3気筒蒸気機械2基2軸5400馬力、速力19ノット。兵装は12cm単装砲3門、47mm単装砲2門、37mm5砲身機砲6基、35.6cm単装魚雷発射管2門。八重山が明治23年に竣工した。明治31年3月、通報艦に艦種変更された。参考:月刊世界の艦船7,’22
<八重山型(2代目)>:日本海軍敷設艦Yaeyama型。昭和2年度補充計画(計画番号H-3)で建造された。主任務は、平時には訓練を実施し、有事には前進基地に進出して機雷敷設、警備、哨戒を行うことである。船体は軟鋼製の電気溶接組み立てで、日本初の電気溶接構造艦となった。前線に早期に展開できるよう、敷設艦として初めて速力20ノット出せる設計にしている。船型は船首楼型で、前部上構後端あたりまで船首楼がある。機雷庫は缶室前方と後部甲板下にあるが、艦が小さく容量が少ないため、半分以上は上甲板両舷に艦首から艦尾まで続く機雷敷設軌条に載せた。教練機雷揚収のため、前甲板にシーアが付いていない。マストは前部上構後端と後部上構前端に1本ずつ、煙突は前後マスト間に1本。前部上構左右に1隻ずつ、煙突後方左右に1隻ずつ、その後方左舷側のみ1隻の艦載艇を搭載する。艦尾に機雷敷設指揮所がある。高角砲や爆雷兵装も積んでおり、太平洋戦争では船団護衛に重宝された。全長93.5m、水線長89.00m、最大幅10.65m、計画時吃水2.84m、基準排水量1135トン、公試排水量1380トン。主機は直立式三段膨張式レシプロ蒸気機械2基、主缶はロ号艦本式石炭重油混焼水管缶2基、出力4800馬力、2軸推進、最大速力20.0ノット、石炭搭載量255トン、重油搭載量80トン、航続距離は14ノットで3000海里。兵装は十年式45口径12cm単装高角砲2門(船首楼甲板前部、後部上構上)、毘式一二粍七機銃水冷四型2丁(艦橋前方並列)、機雷敷設軌条4条(前甲板では2条だが後甲板で4条に分かれる)、六号機雷185個(軌条に100個、艦前部に35個、艦後部に50個)、八一式爆雷投射機2基、爆雷投下台6基、爆雷投下機4基、爆雷18個。乗員180名。友鶴事件を受けて昭和9年に復原性改善工事を行っており、マストや煙突を短縮し、後部主砲の防楯を撤去、バラストキールを装着した。昭和13年には第4艦隊事件を受けた船体補強工事が実施され、外板を厚くして鋲止めを取り入れており、基準排水量が1631トンに増えた。昭和19年8月時点の兵装は十年式45口径12cm単装高角砲2門、九六式3連装25mm機銃1基、九六式25mm単装機銃6丁、九四式爆雷投射機4基、爆雷40個、機雷敷設軌条4条、機雷185個、九三式水中聴音機1基だった。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、月刊世界の艦船11,’14、敷設艦 工作艦 給油艦 病院船
<やえやま型>:海上自衛隊掃海艦。海自潜水艦のチョーク・ポイントに敷設された深々度上昇機雷(クラスター・ベイなど)を除去するのが主任務である。大型木造艦船の建造技術や素材入手の問題から、素材をFRP製にする案が検討されたが、非磁性という面では問題無いものの、音響透過率が高く水中放射雑音が大きい、コストが高い、といった欠点から没になり、1000トンを超える世界最大級の実用大型木造艦となった。船型は長船首楼型で、外板は三重矢羽根張り、内層板は二重矢羽根張り、外層板は前後張りである。深々度機雷に対応できるソナーを国産開発するのは無理との判断からAN/SQQ-32可変深度ソナーを搭載しており、前甲板の昇降用ウインチでソナーを艦底から降ろす。当初はウインチに故障が頻発したが、アメリカ海軍と共同で改修している。AN/AQS-14曳航サイドスキャンソナー、GPS受信用アンテナ、指揮支援装置、GPS精密航法装置、GPSに基づく自動操艦装置も搭載している。低騒音型(大直径・低回転)可変ピッチプロペラ、バウ・スラスターも装備。船首楼甲板後部右舷側にS-7(2型)揚収用クレーンを持つ。居住区は2段ベッドにした。全長67m、全幅11.8m、深さ5.2m、吃水3.1m、基準排水量1000トン、満載排水量1200トン。主機は三菱6NMU-TK-T型ディーゼル2基2軸2400馬力、速力14ノット。兵装は20mm多銃身機関砲JM61-M1門(機雷処分用)。深深度掃海掃討装置S-8及びS-7(2型)を搭載する。乗員60名。1993-94年にMSO-301やえやま、MSO-302つしま、MSO-303はちじょうの3隻が就役し、第51掃海隊に配備された。あと3隻建造してもう1個掃海隊を編成し、横須賀基地からの潜水艦が通る浦賀水道と呉基地からの潜水艦が通る豊後水道に配置する予定だったが、冷戦終結で深々度掃海の必要性が薄れ、中止された。25MSO型/あわじ型に後を譲って2017年までに退役した。参考:海上自衛隊全艦艇史、自衛隊装備年鑑1996、月刊軍事研究7,’05、1,'19、月刊JWings1,’99、月刊世界の艦船1,’16、10,'15、12,'22、1,’95、1,’14、1,’04、5,’02増刊、1,’02、3,’14
<八重山警備隊>:陸上自衛隊の警備隊。第15旅団隷下で、定数340名。2023年3月16日、石垣駐屯地で新編され、編成完結式が行われた。参考:朝雲
<八重山平和祈念館>:石垣島にある戦争マラリア(太平洋戦争時に地元住民の間で流行したマラリア)の資料館で、1999年から一般公開されている。所在地は沖縄県石垣市新栄町79-3。開館時間は0900-1700。休館日は毎週月曜、12月29日から1月3日。参考:MAMOR vol.58
<八尾駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。滑走路は長さ1490m・幅45m・ランウェイ09/27と、長さ1200m・幅30m・ランウェイ13/31。所在地は大阪府八尾市空港1-81で、八尾空港の一角にあり、飛行場は民間との共用で、管制は航空局が担当する。JR志紀駅から徒歩10分。大元は1938年(昭和13年)に設置された阪神飛行学校の飛行場で、1939年に大正飛行場と改称され、1945年にアメリカ軍が接収して阪神飛行場となり、1954年に日本に返還され、同年に浜松から第3管区航空隊が移駐して伊丹分屯地となった。1961年、第10航空隊が新編された。1962年、中部方面航空隊が新編された。第10航空隊が明野駐屯地に移駐した。1968年3月、中部方面ヘリコプター隊が新編された。1974年に八尾駐屯地に改編された。2016年6月11日、ヘリコプター体験搭乗を実施。2019年6月8日、和歌山地本が中部方面ヘリコプター隊と駐屯地広報班の支援で募集対象者向けUH-1Jヘリ体験搭乗を実施。7月13日、大和川クリーンデーに参加し、隊員・家族160人が河川敷を清掃した。2020年11月21日、防災研修・航空偵察・装備品展示を実施。大阪市24区長と地域防災組織代表を招き、大阪地本、第3師団第36普通科連隊、中部方面航空隊の協力で研修などを行った。2021年11月15日、奈良県体育クラブ鹿ノ台剣心会に通う小中学生にちびっ子剣道合宿を実施。参考:八尾駐屯地ホームページ、JGround Vol.23、月刊JWings6,’10別冊付録、11,’18、5,’10、朝雲
<八尾駐屯地(2007年度)>:中部方面航空隊本部付隊(OH-6D)、同中部方面ヘリコプター隊(UH-1H/J)、第3師団第3飛行隊(UH-1J、OH-6D)が所在している。参考:月刊JWings6,’07
<八尾駐屯地(2015年)>:中部方面航空隊、中部方面ヘリコプター隊、中部方面航空野整備隊、中部方面管制気象隊、第3師団第3飛行隊、第318基地通信中隊八尾派遣隊、中部方面会計隊第429会計隊(3月26日から第398会計隊八尾派遣隊)、中部方面通信群空中伝送班、八尾駐屯地業務隊が駐屯している。参考:八尾駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<八尾駐屯地(2020年)>:中部方面航空隊、中部方面ヘリコプター隊(UH-1J、OH-1)、第3師団第3飛行隊(UH-1J)が所在している。参考:月刊JWings3,’20
<ヤガール>:ドイツ海軍ヴォルフ級水雷艇。1941年2-3月、英仏海峡で機雷を敷設した。1942年2月、ケルベロス作戦で損傷した。1944年6月6日夜と7日夜、ル・アーブルから出撃し、オーバーロード作戦中の連合軍艦艇を攻撃。6月15日(14日?)、ル・アーブルでイギリス空軍の爆撃を受けて沈没した。参考:写真集ドイツの巡洋艦
<野外音響機器>:自衛隊の野外音響機器。神田通信工業製。参考:月刊軍事研究10,’07
<野外かまど>:自衛隊の組み立て式かまどで、日本陸軍が使用していたものとほぼ同じである。円筒形の竈、底、蓋、煙突2本からなり、竈と煙突は3分割が可能。燃料は陸軍時代は石炭だったが、自衛隊では灯油バーナーを使用している。5-10分で組み立てられる。参考:歴史群像6,’02
<野外高機能蓄電池(検証用)>:自衛隊の機器。エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ製。参考:月刊軍事研究8,’18
<野外支援車(4×2)>:陸上自衛隊のトイレ搭載トラック。後部コンテナにトイレと汚物処理装置を載せている。汚物は電子レンジと同じくマイクロウェーブを照射され、処理される。いすゞ自動車製。参考:月刊JWings12,’00、月刊軍事研究9,’14
<野外指揮・通信システム一体化技術(その2)の研究試作>:自衛隊の研究試作。日本電気が受注している。参考:月刊軍事研究2,’18
<野外シャワーセット>:シャワーコンテナを参照。
<野外手術システム(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の衛生器材。手術車、手術準備車(臨床検査やレントゲン写真現像が可能)、滅菌車、衛生補給車(衛生用品、輸血用血液、輸液などを保管)の4両のコンテナ(各重量3.5トン。73式大型トラックまたは3・1/2トントラックに車載)と、1トン水タンクトレーラー、15kVA発動式発電機2基で1セットを構成する。手術車はシェルターを2倍に拡幅でき、使用時には手術準備車と連結する。1日10-15名の初期外科手術(開胸、開腹、開頭術含む)が可能とされる。手術要員は執刀医、手術助手、麻酔係、器械係の4名で、手術準備要員はX線係、臨床検査係、準備係の3名。方面衛生隊、師団後方支援連隊衛生隊、旅団後方支援隊衛生隊に配備されており、方面衛生隊のものには周術ユニットが追加される。日本トレクス及び東芝メディカル製。阪神淡路大震災で2セットが派遣されており、ルワンダ難民救助活動、東ティモールPKO、イラク人道復興支援にも1セットずつが海外派遣された。東日本大震災でも派遣されている。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、自衛隊装備年鑑1996、月刊軍事研究11,’08、10,’02、月刊JWings12,’00
<野外手術室>:日本陸軍の車載手術システム。手術車2両と滅菌車1両を展開して野外手術室に仕立てたものである。参考:軍医サンよもやま物語
<野外照準規正>:ボアサイト。砲腔軸(砲身中心線)と照準潜望鏡・直接照準眼鏡の零距離照準線が一点で交叉するように調整すること。砲と直接照準眼鏡は数十センチ、照準潜望鏡はそれ以上に離れているので、照準線が砲身中心線と平行になっていると、照準が合っているのに砲弾が当たらない事態が生じるため、一定距離で交叉するようにする。陸自戦車では1500m先でクロスするように規正を行う。砲口部に十字の糸を張り、砲尾から覗き込んで1500m先にある十字のボアサイト目標的と重なるようにし、その状態で照準潜望鏡や直接照準眼鏡の零距離照準線もボアサイト目標的に重ねれば規正が完了する。糸が太いと照準がずれるので、なるべく細い糸(馬の尻尾が一番らしい。無ければ女性の髪の毛で代用)を使う。90式戦車や10式戦車では糸でなく砲腔視線眼鏡を砲口に差し込んで行う。参考:戦車隊長、戦車の戦う技術、月刊JWings6,’17
<野外炊具1号>:陸上自衛隊の野外用炊飯具で、1962年に装備化された。1トントレーラーに灯油バーナーによる環流式炊飯器6基(前部4基、後部2基)を搭載したもので、45分で200名分の主食と副食を同時に調理でき、1個中隊に1両が配備されている。トレーラー中央には野菜の千切りや皮むきが可能な万能調理器なども積んでおり、焼物以外の全ての調理が可能。73式大型トラックで牽引しての走行間炊飯能力も持つ。バーナーには着火装置が無いので、小窓から火種(ガソリンや灯油を染み込ませて火を付けた布)を入れる必要がある。重量2トン。要員4名。伸誠商事KK、高城鉄工KK製。参考:スピアヘッドNo.16、月刊軍事研究5,’04、自衛隊装備カタログ1981、月刊Jwings12,’00、自衛隊装備年鑑1996、日本の戦力、月刊丸4,’13
<野外炊具1号改>:陸上自衛隊の野外用炊飯具で、1号に貯水機能、給排水機能、自動着火機能、タイマー、余熱ボタン、不完全燃焼・立ち消え防止装置を追加したものである。全長4.595m、全幅2.31m、全高1.265m、重量2.5トン。最大250名分の主食と副食を45分で調理できる。炊飯、汁物、焼き物、煮物、炒め物、揚げ物などの各種調理が可能。付属品として小型発電機、ビニール製水タンク、コンテナ式冷凍冷蔵庫が付く。水タンクからは給水ポンプで野外炊具の蛇口または直接かまどに水を送る。環流式炊飯器が直方体なので均一にかき混ぜたりするのが難しく、火力が強い上に火加減の調整が困難で焦げやすいのが欠点。2000年に採用され、1個中隊に1基ずつ配備された。メーカーは伸誠商事。参考:JGround
Vol.11、スピアヘッドNo.16、月刊丸4,’13、MAMOR vol.125、vol.163
<野外炊具1号(22改)>:陸上自衛隊の野外用炊飯具で、平成22年度に開発された改良型なのでこう呼ばれる。着火装置がコンピュータ制御になったため、操作盤がダイヤル式からボタンのみに変更された。また、コンセントで外部電源が使えるようになり、炊飯器を外して発電機と灯油缶を繋げれば単体で使用することができるようになった。ただコンピュータ部分が防水でないので丸洗いできない。参考:スピアヘッドNo.16、MAMOR vol.100
<野外炊具2号>:陸上自衛隊の野外用炊飯具で、1968年に装備化された。50名前後の部隊(1個小隊)が使用する野外炊飯具で、灯油バーナーを使用したカマド3個と、金属製のカマ3個、燃料タンク、付属品からなる。普通はカマ2個で炊飯(1個あたり7.8kgの米を炊ける)、1個で副食を調理し、50名分の炊事を40分で完了できる。炊飯、汁物、焼き物、煮物、炒め物、揚げ物など各種調理が可能である。参考:自衛隊装備カタログ1981、自衛隊装備年鑑1996、月刊丸4,’13
<野外炊具2号改>:陸上自衛隊の野外用炊飯具で、2000年に装備化された。野外炊具1号改とファミリー化されており、自動着火機能が付いた。参考:月刊丸4,’13
<野外炊事競技会>:陸上自衛隊の各部隊が実施している野外調理競技会。テントを張って偽装網を被せることから開始し、食材は必ず地面から一段高いところに置くなど衛生管理にも気を遣い、制限時間内に料理を完成させて味や盛りつけを競い合う。参考:MAMOR Vol.46
<野外洗濯機>:陸上自衛隊の洗濯乾燥機で、師団補給隊と需品教導隊に配備されており、2 1/2トントラックまたは73式大型トラックで牽引する。1トントレーラー上に洗濯機、脱水機、給水ポンプ、発電機が搭載されており、乾燥機と付属品(作業台、ザル、収納箱、工具)はトラックの荷台に積んでいく。洗濯機は回転ドラム電動機逆転方式で、内胴は径650mm、全長790mm(910mm?)、重量370kg。洗濯量は1回23kgで、作業服23着を一気に洗濯できる。脱水機は筒型自動調心遠心分離式で、内胴は径510mm(557mm?)、深さ240mm、重量160kg。脱水能力は1回14kgで、作業服14着を脱水可能。乾燥機は本体(折り畳みテント式乾燥室)、熱風発生炉、バーナー、発電機、送風機からなり、容積9立方メートル、収容力1回50kg。作業服42着を30分で乾燥できる。製作は伸誠商事と小川テント。参考:自衛隊装備カタログ1981、自衛隊装備年鑑1996
<野外洗濯セット2型>:陸上自衛隊の洗濯乾燥機。野外洗濯機の改良型で、脱水機と洗濯機を一体とした全自動洗濯機4台、乾燥機1台、揚水ポンプ、発電機、業務用天幕一般用、10kl貯水タンク、付属品(作業台、洗濯かご、すのこ、シート)を1軸2輪のトレーラー上に搭載しており、3・1/2トントラックで牽引する。作業服40着を1時間で洗濯・乾燥できる。メーカーは伸誠商事と文化精工。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、JGround Vol.11、月刊JWings11,’17
<野外地図等作成車>:陸上自衛隊の車両。シェルター搭載3・1/2トントラックのシェルター内に、地図等作成に必要なコンピュータや印刷機などを収容したもので、地理情報隊が運用する。参考:月刊JWings10,’22
<野外調理(陸上自衛隊)>:前線戦闘部隊に届ける食事であることから、安全性に気を遣い、何よりも配食先の隊員にとって最後の食事になるかもしれないという意識で調理する。野外炊具などの調理器材、食材、水、車両、発電機、天幕などを揃え、偽装を施し、中級給養特技を持つ炊事組長が陣地偵察を行い、炊事場所を決める。先発隊が本隊を誘導して調理器材を設置、排水溝などを掘り、敵の攻撃に備えて待避壕も作り、鳥獣が荒らしに来ないよう柵やネットも配置する。衛生に気を付けつつ調理し、敵の襲撃を受けたら火の始末や食材の保護を行いつつ対処する。配食したら調理要員も食事を取り、調理器材を陣地ごと撤収(撤収しながら次の食事の用意を続けることもある)、痕跡は残さない。参考:MAMOR vol.163
<野外通信システム>:陸上自衛隊の通信システムで、方面隊電子交換システム、師団通信システム、各種機能別無線機の後継として2013年11月20日から納入されている。広帯域多目的無線機(ソフトウェア無線機)、端末装置、指揮所用ネットワーク装置、アクセスノード装置などで構成される。1999年頃に日本電気がアメリカと共同研究を開始したソフトウェア無線技術を採用しており、無線機本体にインストールするアプリケーション(導入時点で14種類)を交換することにより、異種無線機との相互通信を行うことができる。音声通信と自律分散型IPネットワークに対応しており、後者は暗号化装置も備えているが、前者は別個に秘話通信装置を用意する必要がある。前線では広帯域多目的無線機だけで通信網を構成でき、基地通信網とリンクする際にはアクセスノード装置(車載無線基地局。中型トラック2両に車載)と繋いで衛星通信経由で接続、自動的に半径数百キロメートルの範囲の数万名の通信を可能とする通信網を構築し、回線が切れても自動的に修復してくれる。陸自だけでなく、海自、空自、関係省庁などの無線機と通信することも可能だが、音声通信を外部秘話通信装置で暗号化して送る場合には、平文化する装置を相手側の組織に送っておく必要がある。日本電気製。参考:月刊世界の艦船3,’14、月刊JWings10,’14、月刊軍事研究1,’14、2,’14、12,’16、月刊航空ファン1,’15、朝雲
<野外通信システム実習用教材>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究6,’16
<野外通信システム模擬装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究5,’15
<野外通信網接続装置>:自衛隊の機器。伊藤忠テクノソリューションズが受注している。参考:月刊軍事研究11,’12
<野外通信網模擬装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究8,’11
<野外電話端末>:自衛隊の機器。沖電気工業製。参考:月刊軍事研究12,’16
<野外入浴セット2型>:陸上自衛隊の野外入浴セットで、士気高揚、衛生、災害派遣の面で役立つ装備である。トレーラー搭載機材(野外湯沸器、揚水ポンプ、発電機)、天幕3張、野外浴槽2基、蛇口、シャワースタンド10個、10kl貯水タンク2基、すのこ、脱衣かご、洗面器、棚、照明具、天幕用大型ストーブなどで構成され、73式大型トラックや3・1/2トントラックに搭載し、トレーラーを牽引する。貯水タンクは自立式で、蓋が無いため水を入れたらカバーを掛ける。野外浴槽はパイプフレームにブルーシートを張った組み立て式で、縦3m、横2m、高さ0.7m。総出湯量は毎時5.4トン。ボイラーで加熱した湯を浴槽に張る方法と、浴槽から水を引いてボイラーで加熱し浴槽に戻す方法のどちらも可能で、前者は45分、後者は90分で野外浴槽1基を満杯にできる。シャワーも付いていて、1日に1200名を入浴(1名あたりどういう基準かは不明だが)させることができる。湯温15-75℃で、浴槽内の湯温に基準は無く、適宜判断する。27セットが後方支援連隊などに配備され、東日本大震災では日本中から23セットをかき集めて入浴支援を行った。入浴支援の際には何も持っていない被災者を想定してシャンプー、石けん、化粧品、ドライヤー、鏡、子ども向けのアヒルのオモチャやボールなどを用意し、入浴剤を入れ、富士山の絵や貴重品用ロッカーまで設置する。参考:MAMOR vol.134、vol.76、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、JGround Vol.11、東日本大震災自衛隊救援活動日誌、朝雲
<野外無線機試験装置付加用具>:自衛隊の試験装置。神田通信工業製。参考:月刊軍事研究10,’07
<野外無線機試験装置付加用具U>:自衛隊の機器。神田通信工業製。参考:月刊軍事研究3,’12
<野外用交換器1号>:JSB-86/Pを参照。
<野外用交換器2号>:JSB-22/PTを参照。
<野外用ジャイロ磁気コンパス試験機(AN/ASN−43用)>:自衛隊の機器。東京計器製。参考:月刊軍事研究12,’14
<野外令>:陸上自衛隊の基準規範で、本土防衛作戦に於ける部隊運用の原理原則を述べた各種教範類の頂点である。作戦要務令とアメリカ陸軍Operation(1952年)をベースにしている。参考:月刊丸12,’11
<野外冷蔵庫>:陸上自衛隊の簡易冷蔵庫。氷10kgを入れて2時間放置すると、庫内温度が10度以下になるため、食品の一時保管ができる。全長430mm、全幅580mm、全高400mm、収容容積0.07-0.08立方メートル、重量7.5kg。参考:自衛隊装備年鑑1996
<矢風>:日本海軍峯風型駆逐艦6番艦。大正9年7月19日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和12年頃、標的艦摂津を無線操縦するための設備を積んだ。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は連合艦隊付属だった。昭和17年7月1日、アンテナ以外の部分を一瓩演習爆弾改三に耐えられるよう強化した。7月20日に標的艦に艦種変更された。この時の諸元は水線長99.53m、最大幅8.92m、基準排水量1215トン、公試排水量1345トン、機関出力38500馬力、速力39.0ノット。昭和18年3月6日、カビエン南方で哨戒艇第34号と衝突する事故を起こし、艦首を喪失した。11月6日、トラック西方250海里付近で玄洋丸と衝突して中破した。昭和20年の諸元は以下の通り。垂線間長97.54m、最大幅8.92m、吃水3.13m、基準排水量1321トン。主機は三菱パーソンズ式オールギヤードタービン2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶2基、出力11261馬力、2軸推進、速力24ノット、航続距離は14ノットで2230海里。兵装は山内式5サンチ単装砲1門、九六式25mm単装機銃4丁、爆雷8個。昭和20年7月18日に横須賀でアメリカ軍艦上機の爆撃を受けて着底。終戦時は横須賀で中破していた。9月15日に除籍され、解体された。参考:日本駆逐艦史、日本海軍特務艦船史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、日本海軍の爆弾、丸スペシャル第49号
<夜間攻撃(日本陸軍)>:夜間は軍隊の協同動作や指揮の統一が困難で、ややもすれば錯誤を生じやすいが、企図を秘匿し、損害を避け、飛行機や戦車などから受ける各種妨害を減らし、弾薬を欠いても戦闘力を発揮しうるという利点がある。よって、夜間行動に習熟した精鋭軍隊は、害を除いて利を収め、特に寡兵を以て衆敵に対し攻撃を奏功させることが可能となる。大部隊は、昼間に得た成果を完全にするため夜も攻撃を続行する、或いはその一部を以て敵陣地の若干の要点を奪取して翌日の攻撃を用意とするために夜間攻撃を行う。状況に応じ、大部隊で夜間攻撃を行ったり、欺瞞や秘匿のために一部を以て夜間攻撃を実施したりする。小部隊は、夜暗に乗じて奇襲をかける。夜に入った直後に行うと敵の夜間行動の機先を制することができ、黎明近くに行うと明るくなってからの攻撃継続で戦果を大きく拡大することが可能となる。攻撃目標の縦深は昼間より限定し、進出すべき地線または地点を明示する。大部隊の攻撃では、各部隊に特に明確な各個攻撃目標を指定する。指揮官はなるべく昼間の内に各部隊指揮官を集めて命令を下し、準備をさせておく。夜間攻撃の際はガスに対する警戒を厳にし、撒毒地域は適時迂回または制毒などの処置を行う。鉄条網、重火器特に側防機能を迅速に破壊または制圧する必要があり、場合によっては戦車を投入する。歩兵は第一線と予備隊に区分し、不意に敵に肉薄して至近距離から突撃、白兵戦により一挙に決戦に入る。夜間に火器の威力を利用して攻撃を強行する場合、砲兵は攻撃対象の敵陣地制圧、敵第一線と後方部隊との遮断、必要なら攻撃を妨害すると予想される敵の制圧を実施し、歩兵は手持ちの重火器で敵の自動火器や照明機関などの破壊や、逆襲部隊阻止など敵陣地と他方面との遮断を行う。事前協定により誤射しないようにする。敵の注意を他方面に向けようとして、一部隊の行動、砲兵の射撃、照明などの行為を行うと、却って敵の注意喚起を招き、攻撃が失敗することがあるので、慎重に考慮し精密に準備する。夜間攻撃が奏功したら、払暁以後の戦闘を有利にするため、指揮官は部隊を確実に掌握して敵情の捜索を密にするなど必要な措置を執る。参考:作戦要務令
<夜間戦闘機>:レーダーを装備し、夜間に敵機を発見して攻撃できる戦闘機のこと。第2次大戦時の機載レーダーは大型で重く、取り扱いも面倒で、鈍重な複座双発機に装備せざるを得ず、昼間の活動は無理で、夜専門の機体だった。第2次大戦後にレーダーが小型高性能化して通常の戦闘機も積むようになると、全天候戦闘機に改称された。参考:月刊JWings3,’15、9,’10
<夜間戦闘機(日本海軍)>:丙戦ともいう。基地防空や本土防空に使用される。昭和18年8月、月光を制式化。電光は開発中に終戦となった。参考:月刊世界の艦船9,’13増刊、月刊JWings5,’02、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・日本篇
<夜間戦闘機(日本陸軍)>:夜間に敵機を完全に捕捉でき、操縦性が高く、強力な火力を装備する戦闘機のこと。参考:世界の傑作機No.24
<夜間双眼鏡>:八九式双眼鏡を参照。
<夜間低高度航法および目標捕捉赤外線システム>:LANTIRNを参照。
<夜間離発着訓練>:FCLPまたはNLPを参照。
<八木アンテナ>:八木秀次・宇田新太郎両博士が開発したアンテナで、昭和元年に特許が取られた。ダイポール・アンテナ(受信電波波長の0.475倍の長さ)の前方に導波器と呼ばれる短い(波長の0.45倍未満)金属棒を、後方に反射器と呼ばれる長い(波長の0.5倍)金属棒をそれぞれ平行に配置したアンテナで、導波器は複数置かれることもある。導波器により入射電波を増幅して受信、後ろに反れた電波は反射器で戻す。前方に指向性を持つ。参考:図解・電波のしくみ、海軍技術研究所
<ヤキマ訓練センター>:アメリカのワシントン州東部、コロンビア台地の外れにあるアメリカ軍の訓練場で、長径50km、面積は1311平方キロメートルあり、沖縄よりも大きく、弾着地だけで10km四方くらい(矢臼別演習場くらい)の広さがある。広大な敷地を活かし、射撃訓練のみならず諸兵科連合部隊の統合訓練も実施できる。1994年から陸上自衛隊が派米射撃訓練、CALFEX、雷神演習で使用中。遂には多目的射場複合体(Multi-Purpose Range Comlex)を大改装し、北富士演習場の富士トレーニングセンターを再現したデジタル多目的射場複合体(Digital Multi-Purpose Range Comlex。5km×3km)まで作ってしまった。2003年から警備や管理を民間会社が行うようになった。参考:月刊軍事研究12,’10、12,’14
<屋久>:日本海軍鵜来型海防艦。昭和19年10月竣工。昭和20年2月23日、仏印南東沖でSS-364ハンマーヘッドの雷撃を受け沈没した。参考:小艦艇入門、アメリカ潜水艦史
<ヤグ>:イスラエルのプラサン社が開発した汎地形装甲車。防御力は全周でNATOレベルB6プラス。全長3.785m、全幅1.62m、全高2.019m、空虚重量1480kg、最大ペイロード350kg。エンジンはディーゼル(95馬力)、トランスミッションはオートマチック。5.56mm機銃ネゲブまたは7.62mm機銃MAGを装備する遠隔操作銃塔を搭載可能。乗員1名+乗車兵員2名。小型クアッドローター無人機を搭載できる。ユーロサトリ2018で展示された。参考:月刊軍事研究
<ヤグアル>:ドイツ海軍水雷艇Jaguar。1944年6月6-7日、連合軍ノルマンディ上陸オーバーロード作戦を受け、第5水雷艇隊の一員として、水雷艇メーヴェ、水雷艇T28と共にル・アーブルを出撃。ノルウェー駆逐艦スヴェンナーを共同撃沈した。参考:月刊世界の艦船9,’23
<ヤグアル1>:西ドイツ陸軍自走対戦車ミサイル、別名ラケーテン・ヤークトパンツァー3。ヤークトパンツァー2の搭載ミサイルをHOTに換えたもので、車体左右にあったランチャーは中央左寄りの1基に改められた。車体前方中央に追跡カメラ付きの誘導用ペリスコープHLPB04を持つ。8発のミサイルを収容する自動装填装置が付いており、発射速度は毎分3発と速い。他に予備弾12発を収容する。副武装は車体左前方の7.62mm車体機銃と車長用キューポラの7.62mm機銃(2000発)。機関室上面に発煙弾発射機を装備する。車体前面・側面には増加装甲がゴムの緩衝材を介してボルト止めされ、波形サイドスカートを装着している。全長6.61m、全幅3.12m、全高2.54m、重量22.5トン。エンジンはダイムラー・ベンツ社製MB837液冷8気筒ディーゼル(500馬力)、トランスミッションはレンク社製HSWL123で、最大速度70km、航続距離400km。乗員4名。316両が1978-83年に改造された。後に照準用ペリスコープを夜間戦闘可能な熱線暗視照準システムNZBGに換装している。1998年から90両がオーストリア陸軍に売却された。参考:月刊PANZER6,’00、5,’79、6,’18、世界の軍用車両(2)、月刊グランドパワー10,’94、The Military Balance 2001・2002
<ヤグアル1海外シリーズ>
<ヤグアル1(オーストリア陸軍)>:オーストリア陸軍自走対戦車ミサイル。1997年に90両を発注し、1998年から引き渡された。参考:The Military Balance 2001・2002
<ヤグアル2>:ドイツ陸軍自走対戦車ミサイル車両で、ヤークトパンツァー・カノーネにTOWミサイルを搭載したものである。車体前側面に増加装甲を装着し、サイドスカートを装備、主砲を外して車体前面に8連装発煙弾発射機を搭載し、車体上にTOWミサイルを丸ごと装着した。TOWにはAN/TAS-4夜間照準器が内蔵されているため、ヤグアル1より夜間戦闘能力が向上したが、誘導時には射手が車外で操作しなければならない。ヤークトパンツァー・カノーネからの改造のため、ヤグアル1と異なり車体機銃は装備されていない。1983-85年に162両が改造され、うち136両が実戦部隊に配備された。参考:世界の軍用車両(2)、月刊PANZER6,’00、月刊グランドパワー10,’94
<ヤグアル級魚雷艇>:西ドイツ海軍魚雷艇。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ヤグアル級魚雷艇・海外シリーズ>
<ヤグアル級(ギリシャ海軍)>:ギリシャ海軍魚雷艇Jaguar級、別名ヘスペロス(Hesperos)級。兵装は533mm魚雷発射管4門。参考:The Military Balance 2001・2002、ミリタリー・バランス1989-1990
<ヤグアル級(サウジアラビア海軍)>:サウジアラビア海軍魚雷艇で、ダンマン級ともいう。兵装は533mm魚雷発射管4門。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ヤグアル級(トルコ海軍)>:トルコ海軍魚雷艇Jaguar級、別名トルファン級。兵装は533mm魚雷発射管4門。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ヤグアル級ミサイル艇>:西ドイツ海軍ミサイル艇。参考:ミリタリー・バランス1989-1990
<ヤグアル級ミサイル艇・海外シリーズ>
<ヤグアル級ミサイル艇(トルコ海軍)>:トルコ海軍ミサイル艇Jaguar級、別名カルタル(Kartal)級。全長42m、満載排水量193トン(184トン?)。最大速力42ノット。兵装は70口径40mm機関砲2基、ペンギン艦対艦ミサイル単装発射筒4基、533mm魚雷単装発射管2門。参考:月刊軍事研究3,’02、JShips vol.48、ミリタリー・バランス1989-1990、The Military Balance 2001・2002、THE MILITARY BALANCE 2016
<ヤクーツク>:ロシア海軍636.3型潜水艦12番艦Yakutsk。2021年8月23日、アムール造船所で起工式を実施。2024年10月11日、アドミラルティ造船所で進水。参考:月刊世界の艦船11,’21、1,’25
<ヤクーティア>:ロシア海軍プロジェクト22220原子力砕氷艦4番艦Yakutia。2022年11月22日進水。参考:月刊世界の艦船2,’23
<薬剤官(自衛隊)>:自衛隊の薬剤師。自前の育成機関は無いので、一般大学の薬学部を卒業して薬剤師免許を取り、薬剤科幹部候補生として出願・入隊する。自衛隊病院での病院薬剤師としての業務、衛生資材の管理補給、衛生に関する全般事項(治療、健康管理、防疫など)、薬事行政などを主任務とする。参考:MAMOR vol.138
<薬剤官(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊衛生科幹部自衛官で、薬剤師の国家資格を持ち、薬剤業務全般に携わる。参考:MAMOR vol.120
<薬室>:チャンバー。銃身・砲身後端にあり、カートリッジが入る部分。参考:GUN用語事典
<やくしま>:MSC-602(掃海艇)を参照。
<やくしま>:MCL-723(にいじま型掃海管制艇)またはMSC-656(はつしま型掃海艇)またはMSC-658(うじしま型掃海艇)を参照。
<躍進射(日本陸軍)>:日本陸軍の射撃法で、行進間射撃では効果が低いと思われる際に実施する。一旦停止してから発砲、速やかに前進を再開するもので、機銃の場合には行わない。参考:機甲入門
<ヤクタット>:AVP-32(飛行艇支援艦)を参照。
<薬包穿孔器>:日本陸軍の爆破器材。参考:工兵入門
<八雲>:日本海軍装甲巡洋艦Yakumo。ドイツで建造され、明治33年6月20日竣工、一等巡洋艦に類別された。大正10年8月20日、練習艦隊旗艦として出雲と共に横須賀を出港。9月1日、一等海防艦に類別変更された。9月25日、練習艦隊旗艦を出雲に譲った。大正11年4月4日、横須賀に帰港。大正12年11月7日から大正13年4月5日、遠洋練習航海に参加。昭和2年4月1日、第1遣外艦隊に編入された。4月3日、特別陸戦隊700名(500名説あり)を乗せて横須賀を出港。4月7日、上海に到着。昭和3年4月23日、遠洋練習航海のため一等海防艦出雲と共に横須賀を出港。21018海里を航海し、東南アジア、オーストラリア、ハワイの20カ所に寄港、10月3日に横須賀に帰港した。昭和6年6月、類別の等級が廃止されて海防艦になった。昭和7年8月1日、練習艦隊に編入された。昭和11年4月20日、練習艦隊旗艦を磐手に譲った。6月9日、遠洋練習航海のため練習艦隊の一員として海防艦磐手と共に海兵63期、海機44期、海経24期、研究医官、研究薬剤官を乗せて横須賀を出港。当時の諸元は以下の通り。垂線間長124.7m、排水量9800トン。主機はレシプロ蒸気機関2基2軸15500馬力、速力20ノット。兵装は20サンチ連装砲(実口径20.3cm)2基、15サンチ単装砲(実口径15.2cm)8門、8サンチ単装高角砲(実口径7.6cm)3門。8月5日、パナマ運河を通航。9月2日、ニューヨークを出港して日本に向かった。11月6日、サイパン南155海里において、船体右舷前部二重底内に滞留していたガスに作業員の灯火が引火して爆発、4名が死亡し、浸水で航行不能に陥った。磐手が曳航し、本土から修理要員と資機材を積んで横須賀から緊急出港した駆逐艦狭霧と11月8日に会合、11月9日にサイパンに入港して修理に入った。11月13日、応急修理を終えてサイパンを出港。11月20日、横須賀に帰港。昭和12年3月23日から5月6日、練習艦隊の一員として、海防艦磐手と共に近海航海に参加。5月17日から23日、横須賀海軍工廠で遠洋練習航海に向けた整備改修を実施。6月7日から10月19日、練習艦隊の一員として、海防艦磐手と共に遠洋練習航海に参加。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は練習艦として江田島に繋留されていた。昭和17年7月、海防艦から一等巡洋艦に艦種変更された。太平洋戦争終戦時も健在で、戦後は復員輸送を行った。昭和22年4月1日、舞鶴で解体された。参考:帝国陸海軍事典、小艦艇入門、月刊世界の艦船3,’18、1,’11、5,’12、4,’14、11,’19、3,'24、日本海軍艦隊総覧
<八雲飛行場>:日本陸軍の飛行場。戦後はアメリカ軍の接収を経て八雲分屯基地になった。参考:月刊JWings11,’18
<八雲分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地。全長1800m・幅45m・ランウェイ12/30の滑走路を持つ八雲飛行場を管理しており、航空機は配備されていないが、輸送機や救難機の離着陸が可能である。所在地は北海道二海郡八雲町緑町34。元は1944年(昭和19年)に竣工した陸軍八雲飛行場で、1950年にアメリカ軍が接収、1957年にアメリカ軍が撤退して1958年に防衛庁に移管され空自第2航空団の管理下に入った。1977年、第3高射群隷下に臨時第20高射隊が新編された。1979年3月、臨時第21高射隊が新編され、第20高射隊が第6高射群の隷下に移った。1980年12月、臨時第21高射隊が車力分屯基地に移動した。1984年、第5移動警戒隊が新編された。1991年3月、第23高射隊が新編された。2002年、第5移動警戒隊が廃止された。2014年10月15日、長万部高校生徒3人の総合的な学習の時間(就業体験)を支援した。2015年6月24日、北海道立八雲高校生徒5人の総合的な学習の時間(就業体験)を支援した。2016年10月7日、北海道森高校の総合的な学習の時間を支援し、ペトリオット装備品見学、救急法、通信訓練、基地消防隊放水体験を行った。2022年8月31日から9月7日、令和4年度在外邦人等輸送訓練が行われた。2023年7月13日、モンタナ州空軍第120空輸航空団第186空輸飛行隊C-130H輸送機(8翅プロペラ装備)がモビリティ・ガーディアン演習で飛来。参考:八雲分屯基地ホームページ、三沢基地ホームページ、MAMOR vol.84、月刊JWings6,’10別冊付録、11,’18、11,'22、10,'23、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、朝雲
<八雲分屯基地(2015年)>:第20高射隊と第23高射隊が配備されている。参考:八雲分屯基地ホームページ
<やぐるま>:LSSL-450(警備艇)を参照。
<役割>:日本海軍用語で、各分隊から拠出する従兵や衛兵などに人員を割り当てる任務を行う役職のこと。各分隊の先任下士官が信頼の厚い古参兵を任命する。各兵の体格や性格などを勘案して割り当てるので、結構大変である。また、他分隊の役割と相談して従兵長や衛兵伍長などを決定する。俸給日には各班ごとに一纏めにしてある印判を預かって主計科事務室に行き、分隊代表として給料を受け取ってくるという重要な役目もある。他にも普通科練習生課程卒業証書を持っていない古参水兵のことを言うが、こちらはあまり役に立たない人物である。参考:海軍よもやま物語、帝国陸海軍事典
<夜行軍(日本陸軍)>:夜間に行軍すること。味方の企図や行動を秘匿する場合、軍隊の移動が急を要し昼のみの行軍では間に合わない場合、敵の有力な機甲部隊等に活動の隙を与えないようにする場合、夏季炎熱を避ける場合などに実施する。地形障害、小敵の妨害、寒気の影響などにより、不慮の困難や疲労を来さないよう、周到な注意が必要である。行李や輜重も夜間のみ行動する場合、一夜の行程を減少させるためには、縦隊を分けて全長径を短縮するなどの特別な手段を要する。参考:作戦要務令
<ヤコール>:ロシアの艦砲用射撃指揮レーダー、NATOコードはホーク・スクリーチ。アンテナは円形パラボラ型。使用周波数Xバンド(9.2-9.5GHz)、ピーク出力150kW、パルス繰り返し周波数1250pps、探知距離6km。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊
<ヤコール2M>:ロシアの艦砲(56SM)用射撃指揮レーダーYakor-2M、NATOコードはサン・バイザー。アンテナは略楕円形パラボラ型。使用周波数Xバンド(9.3-9.44GHz。Iバンド?)、パルス繰り返し周波数2500/3500pps、探知距離46km。中国海軍も343型として採用した。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊、艦載兵器ハンドブック改訂第2版
<ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク>:F812(フリゲート)を参照。
<ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク>:オランダ海軍トロンプ級巡洋艦2番艦Jacob van Heemskerck。アムステルダムのネーデルランズ・シープスバウ社で建造されていたが、兵装搭載前にドイツのオランダ侵攻を受け、1939年9月16日に抜錨してイギリスに向かった。この日が一応のオランダ海軍への就役日である。イギリスに到着するとポーツマス海軍工廠であり合わせの兵装を搭載して防空巡洋艦になり、1940年5月(1941年2月説あり)竣工。第2次大戦中はアイリッシュ海、地中海、インド洋、オーストラリア方面を巡り、船団護衛などの任務に就いた。1951年3月、停泊練習艦になった。1969年1月退役。1970年2月27日に除籍され、その後解体された。参考:近代巡洋艦史
<ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク級>:オランダ海軍ミサイル・フリゲートJacob Van Heemskerk級。コルテノール級を艦隊防空(エリアディフェンス)艦に改装したもので、船体と主機は同じものを使用し、76mm砲を外してスタンダードミサイルを搭載している。艦尾はオープンデッキからトランサムスターンに変更された。搭載レーダーは対空捜索用シグナールLW-08(後部上構中央、煙突後方に1基)、SM-1MR誘導用STIR2.4(艦橋上と後部上構後方に1基ずつ)、シースパロー誘導用STIR1.8が1基。艦載戦闘システムはSEWACOY。全長130.5m、幅14.6m、吃水4.3m、満載排水量3750トン。主機はCOGOG方式、ガスタービン4基2軸58000馬力、速力30ノット。兵装はハープーン4連装発射筒2基(艦橋後方)、スタンダードSM-1MR単装発射機Mk13が1基(後部上構上)、シースパロー8連装発射機1基(艦橋前方)、ゴールキーパー1基(後甲板)、20mm単装機関砲2門、324mm短魚雷3連装発射管2基。乗員197名。F812ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルクとF813ウィッテ・デ・ウィスが1986年に竣工した。2005年に2隻ともチリに売却された。参考:月刊世界の艦船3,’92増刊、5,’86、10,’11、4,’22
<ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク級・海外シリーズ>
<ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク級(チリ海軍)>:チリ海軍フリゲート、別名アルミランテ・ラトーレ(Almirante Lattore)級。2005年にオランダから2隻を購入した。兵装はRGM-84ハープーン艦対艦ミサイル連装発射筒Mk141が2基、SM-1MR艦対空ミサイル用Mk13発射機1基、RIM-7P艦対空ミサイル用8セル垂直発射機Mk48が1基、324mm短魚雷Mk46用連装発射機Mk32が2基、30mmCIWSゴールキーパー1基。2019年に退役した。参考:THE MILITARY BALANCE 2016、月刊世界の艦船4,’22
<ヤコブズラダー>:縄ばしごのこと。参考:月刊軍事研究7,’97
<ヤコフ・バリャエフ>:ロシア海軍12700級掃海艇Yakov Balyaev。参考:月刊世界の艦船3,’18
<ヤコブレフ設計局>:別名OKB-115(第115試作設計局)。1934年1月に設立され、アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・ヤコブレフがトップとなった。まずは軽飛行機やスポーツ機の設計を行い、1935年にUT-2初等練習機を初飛行させ、1938年11月のYak-1戦闘機設計から軍用機に参入。これが成功作となって1940年1月にヤコブレフが航空産業人民委員代理(次官)となり、スターリンからの厚い信頼を得たが、スターリンが死去すると粛正で刑務所送りにされた他の航空機設計者の逆恨みで傍流機の設計に回されてしまった。ソ連崩壊でヤク航空機会社(Aviatsionnaya Korporatsiya YaK)に改称され、イルクートを経て統一航空機製造会社の傘下に入った。参考:ウォーマシン・レポートNo.67、月刊航空ファン11,’92、月刊JWings4,’24
<やしま>:MSC-651(掃海艇)を参照。
<やしま型>:海上自衛隊掃海艇。1954年8月の日米相互防衛援助協定により供与されたブルーバード型木造沿岸掃海艇である。掃海具としてA-Mk6b及びA-Mk4v音響掃海具を、機雷探知機としてAN/UQS-1を装備する。MSC-651と-652は掃海発電機と電線リールを撤去して甲板室を新設、浴槽やシャワーを作りつけ、空気圧縮機と6メートルカッターを搭載し、水中処分隊母船として使用された。全長44.0m、最大幅8.5m、深さ4.1m、吃水2.7m、基準排水量330トン、満載排水量405トン。主機はGE製8-268A非磁性ディーゼル2基2軸880馬力、最大速力13ノット。兵装は20mm連装機関砲1基。乗員39名。MSC-651やしま、MSC-652はしま、MSC-653つしま、MSC-654としまの4隻が1954-57年に就役した。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊、5,’02増刊、3,’10、丸スペシャルNo.76
<谷島喜彦>:やじまよしひこ。大正6年、佐賀県生まれ。陸士予科に入学し、昭和13年6月に航空士官学校を卒業して航空兵少尉となり、明野飛行学校で戦闘機操縦教育を受け、飛行第1戦隊に配属された。昭和14年6月3日、ハルビンに進出。6月26日、トボス飛行場に進出。6月27日、タムスク攻撃で2機を撃墜、初戦果を挙げた。8月25日、川又付近で敵機30機と乱戦になり、被弾して戦死した。総撃墜機数16機。最終階級は大尉。参考:日本陸軍戦闘機隊
<夜襲(日本陸軍)>:静粛夜襲を参照。
<夜食(日本海軍)>:日本海軍が昭和6年の海軍糧食表改訂で制定した増加食。2200-0400に勤務する下士官・兵(将校は除く)が対象で、生麺麭150g+白砂糖25g、乾麺麭120g+白砂糖25g、乾饂飩110g、白米110gのいずれかに茶2gが付く。参考:写真で見る海軍糧食史
<やしろ>:MSC-603(掃海艇)を参照。
<屋代>:日本海軍御蔵型海防艦6番艦Yashiro。昭和19年5月10日竣工、呉防備戦隊に編入された。6月11日から門司−シンガポールの船団護衛に就いた。9月14日、高雄沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて(触雷して?)損傷した。10月11日、ルソン島北端で爆撃を受けて小破した。12月1日、第102戦隊に移った。昭和20年1月9日、台湾の高雄港でアメリカ機動部隊艦上機の攻撃を受けて損傷した。1月10日、高雄港で駆逐艦朝顔と衝突した。4月13日から佐世保−朝鮮南部の船団護衛に就いた。8月9日、朝鮮東岸の雄基港でソ連機の爆撃を受けて沈没した(損傷した?)。参考:月刊丸7,’14、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門
<やしろ型>:海上自衛隊掃海艇、技術研究本部計画番号I-102。船体は木製で、装備はあただ型と同じだが、動揺性能比較のために水線下の船型を角型に変更し、船体幅を広げてバラストを撤去した。また、主機と掃海発電機の比較も行っており、舷側排気なので煙突が無い。船体動揺に対して丸型よりも性状が良かったため(ビルジ・キールも装備していない)、以降の掃海艇には本艇と同じ船型が使用された。作業甲板を広く取れるのと、排気音が小さくなるため、舷側排気も暫く掃海艇の標準型式となっている。OPS-3対水上レーダー、UQS-1D機雷探知機、A-Mk6b及びA-Mk4v音響掃海具、67式普通掃海具を搭載する。科員居住区はベッドでなくハンモックになった(追加乗員のみ?)。全長38m、最大幅7.8m、深さ3.7m、吃水1.9m、基準排水量230トン、満載排水量245トン。主機は三菱製10ZC15/20T型10気筒V型2サイクル非磁性ディーゼル2基2軸1200馬力、速力13ノット。兵装は20mm単装機関砲1門。乗員33名(士官6名、科員27名)+追加6名分。1956年にMSC-603やしろが就役した。1960年、対水上レーダーをOPS-4に換装した。1981年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊、9,’24、10,'15、10,’11、5,’02増刊
<八代六郎>:海軍兵学校8期卒。日露戦争に浅間艦長として参加。仁川沖海戦の前夜、艦橋に立って尺八で千鳥の曲を奏でたのを新聞が風流提督と書き立てたため、以降は尺八を吹かなかった。旅順閉塞で戦死した部下の遺児を引き取っている。シーメンス事件後に海軍大臣となり、秋山真之を軍事局長に就任させ、八代・秋山で協議して鈴木貫太郎を次官に据え、山本権兵衛と斎藤実を待命とし、東郷平八郎の反対もはねつけて海軍の信頼回復を図った。大正4年12月13日から大正6年12月1日、第2艦隊司令長官を務めた。その後佐世保鎮守府司令長官などを歴任し、大正9年に予備役に入った。昭和5年6月30日、70歳で死去した。参考:日本海軍艦隊総覧
<靖二号作戦>:義号作戦ともいう。太平洋戦争時に日本陸軍が計画したマリアナ基地への空挺奇襲作戦で、昭和19年11月から計画された。挺進第1連隊第4中隊(義烈空挺隊)の150名が第3独立飛行隊の九七式重爆二型に搭乗し、サイパン島のアスリート飛行場に強行着陸、B-29を破壊した後に山中に潜んでゲリラ活動を行う予定だった。また、B-29を持ち帰る計画もあった。硫黄島戦の準備を先に進めることになり、昭和20年2月1日に計画は中止され、戦力は5月24日に沖縄特攻の義号作戦(その2)に投入された。参考:激闘太平洋戦記
<安井孝三郎>:日本海軍エース。大正5年、京都府生まれ。海軍入隊後、昭和13年2月に操縦練習生を卒業し、昭和14年末に第14航空隊に配属された。昭和15年11月、百里原航空隊教員となった。昭和16年11月、第22航空戦隊司令部付戦闘機隊に配属され、仏印に配置された。昭和17年1月からシンガポール爆撃などに参加。昭和17年5月1日、飛曹に昇進し、鹿屋航空隊に転属となった。8月、台南航空隊に転属となり、ラバウルに配置された。8月24日、ラビ上空でP-39戦闘機3機(不確実1機含む)を撃墜。11月上旬、本土に帰還。昭和18年3月、大分航空隊の教員となった。昭和19年3月、第652航空隊に転属。6月19日、マリアナ沖海戦に参加。グアム島に着陸する直前にアメリカ戦闘機の奇襲を受けて行方不明となり、戦死認定された。公認撃墜数11機。最終階級は少尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<ヤスール>:CH-53ヘリ海外ファミリーを参照。
<靖川丸>:日本陸軍輸送船Yasukawa maru。大元はイギリスのハーランド・ウォルフ造船所が建造して昭和5年6月18日に竣工したシルバーラインのシルバーサイプレスで、昭和12年1月にフィリピンで座礁炎上したのを宮地商店が解体船として購入、川崎汽船が再購入して鶴見製鉄造船で再生し、太平洋戦争で日本陸軍が徴用した。垂線間長138.68m、幅18.82m、深さ9.3m、総トン数6710トン、重量トン数10191トン。主機はディーゼル2基2軸6600馬力、航海速力15ノット、最大速力16ノット。昭和18年11月2日、ブナ輸送を終えた帰路に航空攻撃で大破し、ニューブリテン島マーカス岬南125kmで護衛艦の砲撃により処分された。参考:月刊世界の艦船11,’18
<ヤズ級>:スレペン級(哨戒艇)を参照。
<靖国>:四式重爆撃機シリーズを参照。
<靖國神社遊就館>:サイパンの海岸に埋められていた九七式中戦車などが展示されている。明治41年9月発刊の海軍割烹術参考書に基づく海軍カレーが茶寮結で喫食できる。玄関ホール以外の展示物の撮影は禁止。所在地は東京都千代田区九段北3-1-1。JR飯田橋駅またはJR市ヶ谷駅から徒歩10分。開館時間は4-9月が0900-1700、10-3月が0900-1630。休館日は6月末と12月末の数日間。明治12年に建設が開始され、明治14年に落成した。関東大震災で大破したものの、昭和6年に再建されている。太平洋戦争終戦後はフコク生命に建屋を貸し、昭和55年にフコク生命が立ち退いた後で施設の改修を行い、昭和60年から軍事博物館としてオープンした。その後老朽化に伴い改修と増築を行い、平成14年に再オープンしている。参考:月刊丸10,’10、月刊世界の艦船7,’11、朝雲
<靖國の妻>:夫が戦死して未亡人となった女性のこと。参考:海軍よもやま物語
<靖国丸>:日本海軍靖国丸型特設潜水母艦Yasukuni maru。元は日本郵船の貨客船で、昭和15年10月に徴用され、改造を受けて昭和16年1月に特設潜水母艦に類別され、第1潜水戦隊旗艦となった。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制では第1潜水戦隊、兵力部署では先遣部隊第1潜水部隊所属だった。昭和17年3月、第3潜水戦隊旗艦となった。その後は輸送任務に就き、昭和19年1月31日にトラック環礁西エンダービー島沖でSS-237トリガーの雷撃を受け沈没した。参考:写真集日本の小艦艇、日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、帝国海軍太平洋作戦史T、アメリカ潜水艦史
<靖国丸型>:日本海軍特設潜水母艦Yasukuni maru型。元は日本郵船の貨客船である。総トン数12000トン。兵装は15cm単装砲4門(前後甲板、上構後部両舷)、九三式13mm連装機銃4基(艦橋両舷、後部マスト両舷)。靖国丸が就役した。参考:月刊モデルアート9,’15増刊
<安島丸>:日本陸軍輸送船Yasushima maru。元は飯野海運貨物船で、昭和14年11月7日に竣工し、太平洋戦争で陸軍に徴用された。垂線間長82.82m、幅12.2m、深さ6.2m、満載吃水5.4m、総トン数1910トン、重量トン数2811トン。主機は三連成レシプロ蒸気機関1基1軸1523馬力、航海速力10.5ノット、最大速力13.225ノット。昭和19年3月28日、シンガポールからビルマのメルギーに向かっていたところ、ペナン南南東100海里のマラッカ海峡でイギリス潜水艦P315トラキュレントの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船6,’21
<安田義人>:大正5年、島根県生まれ。昭和11年12月、陸軍飛行第6連隊に入隊し、昭和15年6月に操縦学生を修了、飛行第64戦隊に配属された。昭和16年1月、広東に配置された。12月8日、太平洋戦争開戦でスンゲイパタニ爆撃援護に出撃。昭和17年1月、シンガポール攻撃を実施。2月、パレンバンとバタビアで1機ずつを撃墜した。4月10日、ローウィン攻撃でP-40戦闘機1機を撃墜。5月、アキャブに前進。昭和18年7月、熊谷飛行学校助教となった。昭和20年4月、飛行第246戦隊に転属。8月14日、琵琶湖上空でP-51を撃墜し、終戦を迎えた。総撃墜数10機以上。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊
<ヤスデ>:V3(多薬室砲)を参照。
<ヤストレブ>:DBR-1(偵察システム)またはJ-1(攻撃機)またはタタールスタン(フリゲート)を参照。
<ヤストレフ2>:NS722級に搭載されている81mm9連装チャフ・ディスペンサー。
<ヤストレブ2>:Tu-139(無人偵察機)を参照。
<ヤストレボク>:I-16(戦闘機)を参照。
<休め(行軍時)>:日本陸軍の徒歩以外の兵種が通常行う行軍法。途歩兵種の途歩(みちあし)と同じで、号令または号音により、指揮官以下は刀を納め、銃を各自の欲する肩に担うか掛け(必要なら中隊長が銃に関する規定を行う)、自由の歩法を採り、特別の場合以外は談話や喫煙などもできる。参考:作戦要務令
<野生植物野戦調理実習>:雑草料理実習のこと。昭和15年5月14日に大阪の青年学校で行われた。タンポポのみそ汁、ウマゴヤシのおひたし、セリ・オオバコのバターソテーなどが食されたという。参考:戦時用語の基礎知識
<野戦還り>:前線部隊に配属された後、後方の内務班に戻ってきた兵のこと。進級は遅いが、周りから一目置かれるため態度は大きい。参考:新兵サンよもやま物語
<野戦瓦斯隊>:日本軍の毒ガス部隊。撒布と除洗を共に担当する。参考:月刊PANZER9,’03
<野戦瓦斯中隊(甲)>:任務は、自動車編成にして優秀なる撒毒能力と運動力及び装甲威力により、撒毒または消毒に任じることである。兵力157名で、中隊本部と3個小隊からなる。各小隊は4個分隊と段列の計5個分隊からなる。装備は九四式甲号撒車と消車の前・後車10両、物料検知器3、斥候検知器24、九五式消函30-54、手動撒布器18。参考:月刊PANZER9,’03
<野戦瓦斯中隊(乙)>:任務は、駄馬編成にして手撒(消)により地形、時期の如何に関せず、撒毒または消毒に任ずることである。兵力185-391名。装備は九五式消函30、物料検知器3、斥候検知器24、手撒撒布器100。参考:月刊PANZER9,’03
<野戦気象部隊(日本陸軍)>:気象上または作戦上の要点に気象観測班を配置して高層・地上気象を観測し、必要な気象情報を収集、気象判断や所要の気象放送を行うのが主任務である。トップは野戦気象隊長で、隷下野戦気象部隊を指揮して気象観測結果の報告を受け、各部隊気象機関(司令部気象班・気象掛、本部気象班・気象掛、航空地区部隊気象班・気象掛、砲兵情報隊気象勤務担任部隊など)や既設気象機関などの気象勤務に関する技術的事項を統制、各気象機関の観測成果と内外気象機関の気象報とを統合して気象判断を行い、気象報と時報を発する。また、作戦に関する気象調査や統計などの業務も行う。参考:作戦要務令
<野戦救急車>:負傷者を移動させるために医療班が前線で使用する車両で、不整地走行能力を持ち、車内に担架と病床を持ち、乗降が楽に行えるようにしてある。銃砲弾が飛び交う中で救護を行うため、装甲車を改造することも多い。車体の前後左右と上面に赤十字を描く。参考:月刊コンバットマガジン7,’06、月刊軍事研究3,’10
<野戦外科手術キット>:アメリカ陸軍が第2次大戦時に使用していた衛生器材で、コットン製の折り畳みケースの中にメス、コッヘル、クーパー、ガット糸、針、持針器、サルファ剤などが入っている。動脈止血の際、前線ではいちいち糸で結んで止血している暇が無いので、切断された動脈をコッヘルで挟んで止血、そのまま包帯でくるんで固定し、後送した。参考:月刊コンバットマガジン7,’06
<野戦憲兵>:憲兵(日本軍)を参照。
<野戦工作車>:日本陸軍の工兵車両。1.5トン6輪トラックに工作機械を積んだもので、目的地に着くと床面を展開して簡易工場に早変わりし、工兵器材の修理や部品の製作を行う。参考:工兵入門
<野戦高射砲(甲)大隊(日本陸軍、昭和16年度動員計画訓令)>:3個中隊編成で、自動車化されている。高射砲8門、牽引用貨車13両、乗用車10両、自動貨車52両、修理用貨車2両を装備する。参考:大砲入門
<野戦指揮車>:コマンドポストを参照。
<野戦重砲(日本陸軍)>:馬8頭で牽引できる大砲のこと。参考:日本陸軍兵器資料集
<野戦重砲兵連隊(日本陸軍、昭和16年度動員計画訓令)>:2個大隊6個中隊編成である。装備火砲は四年式十五糎榴弾砲または九六式十五糎榴弾砲24門で、前者は馬、後者は自動貨車で牽引する。九二式十糎加農を装備する部隊もあり、こちらは2個大隊4個中隊編成で、16門を装備し、自動貨車で牽引する。参考:大砲入門
<野戦手術車>:中国軍の衛生車両。トラックの荷台に手術ユニットを搭載しており、上部には衛星通信アンテナが付いていて、全軍診療ネットに接続して専門家の助言を得ることが出来る。参考:月刊軍事研究12,’09
<野戦酒保>:酒保を参照。
<野戦情報探知装置>:JGSQ-S2を参照。
<野戦情報探知装置1号>:JGSQ-S1を参照。
<野戦速刷車>:日本陸軍の測量器材で、岡村製作所が開発した。4輪自動車の荷台にオフセット印刷機を搭載しており、空中写真に基づいた地図を速やかに印刷できる。印刷面縦570mm×横400mm、印刷速度毎分25枚。参考:工兵入門
<野戦築城>:築城を参照。
<野戦鉄道司令部>:日本陸軍の軍事鉄道機関。外地での鉄道業務の計画・処理を行う。トップは野戦鉄道司令官で、輸送計画・処理に必要な件に関し、乗車部隊を区処する。参考:作戦要務令
<野戦特科>:特科を参照。
<野戦特科射撃指揮装置>:JGSQ-W2を参照。
<野戦特科情報処理システム>:陸上自衛隊の野戦特科連隊に装備され、射撃指揮用の目標情報を瞬時に処理・伝達できる。特科大隊、観測部隊とデータリンクでき、情報収集能力も高い。東芝製。参考:自衛隊装備年鑑1996、月刊軍事研究12,’14
<野戦鳩隊(日本陸軍)>:日本陸軍の通信機関。軍内または配属された部隊で鳩通信網を構成し、通信を行うのが主任務である。参考:作戦要務令
<野戦飛行場設定隊>:日本陸軍の占領飛行場整備部隊。日華事変勃発に伴い昭和12年11月に3個が臨時編成され、昭和15年6月に解隊された。太平洋戦争開戦間近の昭和16年7月に航空部隊隷下に6個が編成され、開戦後の占領飛行場整備にあたっている。要員は1個隊あたり100名で、資材や労働力は基本的に現地調達であり、展圧機が数台配備された他は手作業用の道具しか無かった。ガダルカナル戦線で飛行場設営が急務とされ、設定隊も増派したが、相変わらず手作業道具しか装備しておらず、飛行場の急速設営は不可能な状態だった。昭和17年11月に機械化の検討が開始され、手持ちの工兵器材を流用したり、東京市土木課のダンプカーとショベルカー、農林省の抜根機を1台ずつ入手したりして第11野戦飛行場設定隊を編成したが、器材が少なすぎて機械化どころの話では無かった。昭和18年2月、飛行場設定練習部が新編され、機力器材や急速設営の研究を開始。6月、日量1万立方メートルの処理土量を持つ機械化された設定隊(甲)と日量4500立方メートルの処理土量を持つ機械・現地労働力併用の設定隊(乙)を編成することにし、まずは甲4個の新編に着手した。ただブルドーザー、キャリオール、ロードローラー、ダンプカー、抜根機といった器材の調達の目途が立たず、新編された設定隊(甲)である第12・第13野戦飛行場設定隊は機材が充足されないままで北方軍に編入された。その後第14-17野戦飛行場設定隊(甲編成)、第101・第102野戦飛行場設定隊(乙編成)が昭和18年中に新編され、昭和19-20年には第18-30野戦飛行場設定隊(甲編成)、第111-177野戦飛行場設定隊(乙編成)が続いた。昭和19年3月、飛行場設定練習部が航空基地設定練習部に改編された。地下飛行場の研究も行われ、昭和19-20年に地下飛行場建設部隊である第11-20特殊設定隊も新編されている。参考:工兵入門
<野戦病院(日本陸軍)>:平時には存在せず、戦時編制で駐軍間や戦闘時の患者収療のため師団長が必要に応じて師団隷下に編成し、前線後方(その一部を戦線近くに挺進開設することあり)に衛生隊が開設する。目印として赤十字旗と国旗を並立し、夜間は更に赤十字灯を掲げる。完全編成では第1から第4まであるが、欠けている事も多く、後方で警備を担当する師団では全く無かったりする。第4野戦病院だけ野外レントゲン撮影装置と発電機を装備しているので、戦闘が予想される師団では他が欠けても第4の編成は怠らず、負傷者が最も多いと予想される方面に配置した。トップは病院長で、野戦病院本部、発着部、治療部、病室部、薬剤部、行李班からなり、衛生部将校20名、衛生下士官・兵120-130名、主計将校以下数名、輜重兵80名を擁する。患者500名を収容可能。ただし戦況に伴いしばしば移動するので、軽傷者は戦列に復帰させ、重傷者はさっさと患者輸送隊に頼んで兵站病院に後送してもらう。本部は病院長と庶務主任など30名で、人事、経理、被服、炊事、記録、功績などを行う。発着部は主任(軍医)以下20名で、患者収容後送、患者兵器保管、入退院事務連絡、死体処理などを行う。治療部は軍医以下衛生部員50名で、外科処置や手術などを行う。薬剤部は薬剤将校以下十数名で、衛生材料供給保管、調剤、製剤などを行う。行李班は輜重兵下士官以下数十名で、部隊輸送、警備、他部隊との連絡などを行う。武装しているのは輜重兵だけだが、敵襲を受けた場合には患者の兵器を衛生兵に持たせて戦列に加え、軍医が指揮を執って戦闘に入る。第1半部と第2半部の2つに分けて運営することも可能で、一方は病院長、もう一方は半部長(最先任軍医)がトップになり、患者250名ずつの収容能力を持つ。参考:軍医サンよもやま物語、作戦要務令
<野戦防疫給水部>:日本陸軍の衛生機関。防疫、防毒、防疫給水などを主任務とする。参考:作戦要務令
<野戦防空>:防空を参照。
<野戦力作車>:日本陸軍の装軌式自走クレーン。アーム長3m、吊り上げ重量1.5トン。参考:工兵入門
<野戦料理>:日本海軍用語で、正規の食事以外の料理のこと。主にタマネギなどの食材をギンバイして製作される。士官室従兵と結託し、士官用の食事をばれない程度に頂いてしまうこともあった。補給がままならなくなった南方戦線では魚を釣ったり、木の実を取ったりして文字通りの野戦料理を作った。参考:海軍よもやま物語
<八十島>:日本海軍軽巡洋艦。昭和19年11月25日、ルソン島サンタクルーズ南方で艦上機の攻撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌
<矢高>:キャンバー(航空機)を参照。
<ヤタガン>:トルコのロケットサン社が開発した超小型ミサイル。40mm擲弾発射機から発射され、セミアクティブ・レーザー誘導で目標に向かう。全長400m、直径40mm、重量1kg。射程1000m、CEP1m。参考:月刊軍事研究9,’19
<矢竹>:日本海軍松型駆逐艦34番艦。昭和20年2月5日に命名された。昭和20年4月17日に建造中止となり、戦後に解体されて八丈島の神湊防波堤となった。参考:日本駆逐艦史
<谷田部海軍航空隊>:日本海軍航空隊で、茨城県にある。操縦教育を行う。参考:陸海軍学校と教育
<谷田部飛行場>:日本海軍の飛行場。昭和13年、茨城県筑波郡谷田部村に開設された。参考:首都防空網と空都多摩
<八街飛行場>:日本陸軍の飛行場。昭和16年、千葉県印旛郡八街町に開設された。参考:首都防空網と空都多摩
<薬莢>:ケース。装薬(発射薬)を収容し、底部に雷管、頭部に弾丸を固定して完成弾薬とするための容器。最初は紙に弾丸と発射薬を包んで先込めしていたが、後に発射薬と雷管を黄銅で包んだものとなり、先端に弾丸を填め込むようになった。第2次大戦時のドイツでは資源節約のため鉄を使用した薬莢も作られたが、腐食防止のため表面には銅や黄銅でメッキを施してあり、更にグリスを塗ることもあった。参考:世界の軍用銃、最新軍用ライフル図鑑、火器弾薬技術ハンドブック、月刊丸7,’09別冊、MAMOR
vol.132、vol.100
<ストレート薬莢>:シーツ・オンとも呼ぶ。主に拳銃や短機関銃用の薬莢で、発射薬収容部と弾丸固定部の太さが変わらないものである。参考:火器弾薬技術ハンドブック、世界の軍用銃
<セミリムド薬莢>:リムド薬莢よりもリムの外径が細く、リムの直前に溝があるタイプのもの。回転式拳銃に使用される。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<センターファイア型薬莢>:薬莢底部の中心に雷管室があり、ここに雷管を装着するもの。イギリスのボクサー大佐が発明したもので、発射時に薬莢が膨張し、後方へのガス吹き出しを防止する。これにより後装式ライフルが実用化されることとなった。発火金が組み込まれたボクサー型と、組み込まれていないベルダン型に分かれ、後者には雷管室底部に発火金の役目をする突起が設けられている。参考:火器弾薬技術ハンドブック、最新軍用ライフル図鑑
<ピン・ファイア薬莢>:撃針が作りつけてある薬莢で、パーカッション・ファイアの改良型として登場した。メタル・ケースの薬莢内に雷管を置き、側面に撃針を刺してある。これをハンマーで叩いて発火させるが、撃針の位置をハンマーに合わせて装填しておかないと発射できない。また、撃針の頭が薬莢の外に出ているので、衝撃を与えると暴発の危険がある。後にセンターファイア型に換わられた。参考:GUN用語事典、最新軍用ライフル図鑑
<ベルティッド薬莢>:belted cartridge。強装薬弾に使用される薬莢で、補強のため薬莢底部を肉厚にしてあり、ベルトを巻いてあるように見えるので、この名がある。参考:火器弾薬技術ハンドブック、世界の軍用銃
<ボトルネック型薬莢>:主に小銃と機関銃用の薬莢で、弾丸固定部が絞り込まれ、発射薬収容部が膨らんだ形をしている。多量の発射薬を収納して弾丸威力を増すために開発された。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<リムド薬莢>:薬莢底部に薬莢外形よりも大きいリムが設けられたタイプ。回転式拳銃の薬室に薬莢を固定するために設けられている。また、撃針の撃発力を受け止める働きもある。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<リムファイア型薬莢>:薬莢の起縁部の空隙に爆粉が充填され、それ自体が雷管になっているもの。起縁部を撃発して発火する。薬莢底部の強度が弱く、強度を上げようとすると不発が起こるので、センターファイア型に換えられた。参考:火器弾薬技術ハンドブック、GUN用語事典
<リムレス薬莢>:薬莢底部に薬莢外径と同じ径のリムを持つタイプ。自動銃用弾薬は殆どこれ。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<薬莢式>:装薬を薬莢内に収容したタイプの弾薬。弾丸と一体化したものは固定弾と呼ばれる。参考:火器弾薬技術ハンドブック
<ヤック14>:EA-6B二次能力向上型に搭載されている機上コンピュータ、AYA-14の通称。
<ヤッシー・キシニョフ作戦>:第2次大戦時の1944年8月20日からソ連軍が行った、東部戦線南端での攻勢。東部戦線南端には北から第4ウクライナ方面軍、第2ウクライナ方面軍、第3ウクライナ方面軍が配置されてドイツ国防軍南ウクライナ軍集団と対峙していた。8月20日、第2ウクライナ方面軍がルーマニアのヤッシー西で進撃を開始し、ルーマニア第4軍を撃破して後方に侵入。第3ウクライナ方面軍もドニェーストル河を渡り、モルダヴィアの首都キシニョフでドイツ第6軍を第2ウクライナ方面軍と共に包囲した。これを受けて8月23日にルーマニアでクーデターが発生し、8月24日にルーマニア新政府がドイツと断交、8月25日にはドイツへ宣戦を布告したため、南ウクライナ軍集団はハンガリーへと退いた。8月26日、ブルガリアが枢軸国から離脱して中立を宣言。9月2日、ソ連がブカレストとプロエスティ油田を占領。9月5日、ソ連がブルガリアに宣戦を布告。9月7日、ルーマニア第1・第4軍が第2ウクライナ方面軍の隷下に入った。9月8日、第3ウクライナ方面軍がブルガリアに侵攻し、ブルガリア軍が降伏。9月9日、ブルガリアでクーデターが発生し、新政府がドイツに宣戦を布告した。9月12日、ルーマニアが休戦協定に締結。参考:歴史群像8,’17
<八代飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<八代丸>:日本海軍特設哨戒艇Yatsushiro maru。大元は昭和5年7月15日に竣工した共同漁業のトロール漁船で、昭和15年に日本海軍が徴用して特設給糧船となり、一旦徴用解除された後、昭和18年にまた徴用されて特設哨戒艇になった。垂線間長44.2m、幅7.32m、深さ4.27m、吃水3.845m、総トン数361.57トン、重量トン数206トン。主機はディーゼル1基1軸550馬力、航海速力10.5ノット、最大速力11.82ノット。昭和20年3月14日、台州列島付近でB-24の爆撃を受けて大破し、その後沈没した。参考:月刊世界の艦船3,’17
<ヤッフォ>:イスラエル海軍レシェフ級ミサイル艇Yaffo。参考:月刊世界の艦船8,’82増刊
<野兎病>:野兎病菌による感染症で、野ウサギやドブネズミなどの野生生物、それの血を吸う蚊やダニが保菌しており、皮膚や粘膜から感染する。エアロゾル化して散布することが出来、感染力は強い。致死率は8%以下だが、衰弱が激しいため、感染者を無能力化できる。731部隊が研究していたとされ、アメリカは1960年代末に兵器化したが1973年までに廃棄、ソ連は1990年代初めまで生産していた。参考:図解雑学生物・化学兵器
<柳(初代)>:日本海軍桃型駆逐艦4番艦。大正6年5月5日竣工、二等駆逐艦に類別された。大正6年8月14日、第2特務艦隊第15駆逐隊に所属してマルタ島に到着、地中海での船団護衛任務を開始した。昭和15年4月1日に除籍され、戦後に解体されて船体は福岡県若松港の防波堤になった。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船9,’13増刊
<柳(2代目)>:日本海軍松型駆逐艦14番艦。昭和20年1月18日竣工。昭和20年7月14日、津軽海峡でアメリカ艦上機の攻撃を受けて艦尾を切断、大破した。8月9日、大湊付近で艦上機の攻撃を受け、損傷した。11月20日に除籍され、昭和22年5月20日に解体を完了した。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧
<柳船>:封鎖突破船を参照。
<柳輸送>:柳船によるドイツからアジア向けの輸送のこと。参考:月刊丸6,’01
<ヤノ>:T-AKR-297(輸送艦)を参照。
<矢矧(初代)>:日本海軍筑摩型防護巡洋艦2番艦Yahagi。明治45年就役。第1次大戦勃発に伴い、オーストラリア方面で2年間の警備任務に就いた。大正7年11月、警備任務を終えてシンガポールに入港。乗員470名ほぼ全員がインフルエンザ(スペイン風邪)に罹患し、48名が死亡した。殉職者はマニラに埋葬され、慰霊碑が建てられている。呉にも軍艦矢矧殉職者乃碑がある。昭和5年12月1日、馬公要港部警備艦となった。昭和6年2月12日、馬公を出港して南洋諸島巡航を開始。ジェスルトン(現コタキナバル)、サンダカン、バリクパパン、スラバヤ、マカッサル、タワオ、サンボアンガに寄港し、3月23-26日にマニラ港に寄港。出港後は汕頭に寄港し、4月2日に馬公に帰港した。参考:月刊世界の艦船10,’17、朝雲
<矢矧(2代目)>:日本海軍阿賀野型軽巡洋艦Yahagi。昭和16年11月11日起工、昭和18年12月29日竣工。昭和19年6月19日、マリアナ沖海戦に参加。10月22日、比島沖海戦に参加。11月16日、ボルネオ島ブルネイ湾を出港し、内地に向かった。その後25mm3連装機銃10基、25mm単装機銃31丁を搭載し、舷窓を塞いだ。昭和20年4月6日、沖縄特攻作戦に参加。4月7日、魚雷7本と直撃弾12発を受けて沈没した。戦死者446名。参考:連合艦隊巡洋艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像10,’18
<彌彦丸>:板谷商船貨物船。垂線間長126.8m、幅16.61m、深さ9.6m、満載吃水7.75m、総トン数5742トン、重量トン数9255トン。主機はスルザー・ディーゼル2基、出力3052馬力、航海速力12ノット、最大速力13.94ノット。昭和2年11月18日竣工。太平洋戦争勃発で日本陸軍に徴用され、航空工作船に改造された。昭和19年1月10日、門司から高雄に向け航行中に那覇の北50海里でSS-197シーウルフの雷撃を受けて航行不能となった。同じ船団の月洋丸で曳航しようとしたが、再度雷撃を受け、1月11日に沈没した。参考:月刊世界の艦船9,’11
<矢吹飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<ヤブス>:ハンス・ヨアヒム・ヤブス。ドイツ空軍エース。1917年、リューベック生まれ。1936年、ドイツ空軍に入隊し、1938年にBf109のパイロットとなった。1940年、ZG76に転属し、Bf110のパイロットとなった。黄作戦ではフランス空軍戦闘機4機とイギリス空軍スピットファイア2機を撃墜してエースとなった。9月、スピットファイア8機とハリケーン4機を撃墜。1941年、夜間戦闘機部隊に転属。1942年6月末、20機撃墜を達成。11月、第1夜間戦闘航空団第4航空隊に転属。1944年1月、45機撃墜を達成。4月29日、アーヘン基地に着陸しようとしたところをスピットファイアMk.\に攻撃され、1機を撃墜したものの被弾して不時着、負傷した。1945年2月21日、ランカスター1機を撃墜した。最終階級は大佐(中佐?)。撃墜機のうちスピットファイア12機とハリケーン4機を含む50機が戦闘機である。終戦後はレインフェルド市の市議会議員も務めている。参考:月刊丸10,’10
<ヤブズ・スルタン・セリム>:ゲーベンを参照。
<破れざる兄弟愛2013>:集団安全保障条約機構が2013年10月7-11日にチェリャビンスク州第255国際演習場で行った実動演習ニェルシーモエ・ブラートストヴォ2013。ロシア、アルメニア、カザフスタン、タジキスタン、ベラルーシから4000名が参加し、ウラル共和国が強力な軍事政治的同盟からの支援を受ける反政府勢力によりエネルギー資源を目的にした攻撃を受けたという仮定で、武装勢力に対する活動地域封鎖・掃討作戦を行った。参考:月刊軍事研究12,’13
<ヤフンケ>:クルト・A・ヤフンケ。ドイツ生まれのアメリカ人で、アメリカ海兵隊を除隊した後、対米秘密活動専従の駐米ドイツ外交官となった。第1次大戦勃発でロタール・ウイトケ海軍大尉(チリから遙々密入国した)と共にアメリカで破壊活動に従事。1916年7月30日、ニューヨーク港ブラックトム・アイランド埠頭に集積されていた連合国軍向け弾薬1000トンを爆砕。4人が吹き飛び、爆音が200km先のフィラデルフィアにも響いてきたという。1917年1月11日、ニュージャージー州キングズランドの弾薬工場を爆破し、ロシア向け75mm榴弾130万発が工場ごと消滅した。3月、在サンフランシスコ・ドイツ総領事の指揮でサンパブロ湾メーヤ島海軍工廠修理施設と付近の台船に積まれていた弾薬を爆砕し、巻き添えで6人が死亡、38人が重傷を負った。4月6日にアメリカがドイツへと宣戦布告すると、直後にメキシコに逃げて対米撹乱に従事。終戦でドイツに戻っている。第2次大戦ではナチスに協力して情報活動を行っていたが、1945年5月にソ連に捕まり、処刑された。参考:月刊丸6,’14
<ヤベルク>:スイスのコントラヴェス社が開発したFCS、NA-10 Jaberg。同社初の艦載用FCS(スイスは海無し国)であり、陸上用がベースなので射撃計算座標は標準的な艦首方位・甲板面でなく真北方位・静止水平面を基準としている。この静止水平面を作り出すため、方位盤は安定化装置の上に載せられた。目標追尾はレーダーによる自動式と光学照準による手動式を併用しており、アナログコンピュータが三次元線速度方式により射撃諸元を計算、砲にデータを送る。アンテナはパラボラ式で、コニカル・スキャンを行う。DD-101はるかぜが1959年1月20日から3月20日にかけて実施した特別改装時に艦橋天蓋のMk51を外して搭載した。射撃諸元の計算が当時のコンピュータの能力を超えており、カタログ通りの性能は発揮できず、トラブルが多発したようだが、68式射撃指揮装置開発の参考とされた。ちなみに試験員は女性名のヤレーナと通称していたらしい。参考:丸スペシャルNo.75、海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,’13、1,’79増刊、1,’17
<野砲>:野戦で使用するための砲のこと。誕生当時の主任務は歩兵部隊の後ろから直接照準で敵部隊に砲弾を叩き込むことであり、第1次大戦初頭に至っても大きな変化は無く、口径75mm前後のカノン砲を使っていた。基本が榴霰弾による短距離直接照準射撃なので俯仰角はあまり気にする必要は無く、頑丈な単脚架を装備、要すれば盛り土をして仰角を補った。しかし塹壕戦では直接照準射撃が役に立たず、仰角が取れて威力の大きい榴弾を撃てる軽榴弾砲や迫撃砲に役目を奪われ、第2次大戦時には口径100mmクラスの軽榴弾砲が野砲として居座ることになり、従来の野砲は歩兵砲として命脈を保つに止まった。参考:歴史群像8,’11
<野砲兵連隊(日本陸軍、昭和16年度動員計画訓令)>:4個大隊12個中隊編成で、第1-3大隊は野砲中隊1個と十榴中隊2個、第4大隊は十五榴中隊3個からなる。保有装備は十五榴12門、十榴36門、観測車22両、弾薬車152両、予備品車20両。これらは馬で牽引する。参考:大砲入門
<ヤボーン−R>:UAEのアドコム・エアシステム社が開発した偵察用UAV。翼スパン6.5m、最大離陸重量570kg、ペイロード60-120kg。巡航速度65-130ノット、最大滞空時間27時間。参考:月刊軍事研究5,’11
<ヤホント>:3K55シリーズ(対艦ミサイルシステム)を参照。
<ヤマ>:日本海軍士官のスラングで、佐世保の料亭万松楼のこと。山の上にあるので。または陸上自衛隊のスラングで、演習場のこと。参考:帝国陸海軍事典、MAMOR vol.164
<山岡部隊>:日本海軍の特殊任務部隊で、山岡少佐がトップだったのでこの名が付いた。海軍空挺部隊の精鋭を集めて編成されており、昭和19年1月に呉一〇一特別陸戦隊、佐世保一〇一特別陸戦隊、佐世保一〇二特別陸戦隊が創設され、佐世保一〇二特別陸戦隊は後に呉一〇一特別陸戦隊に編入された(山岡少佐が直率したのは呉一〇一特別陸戦隊で、館山砲術学校に駐屯していた)。主任務は潜水艦に搭乗して敵の背後に奇襲をかけるというもので、SubmarineのSをとってS特とも呼ばれた。昭和19年の後半に特四式内火艇と共に潜水艦に乗り込んでアメリカ本土に上陸する任務を言い渡されたが、輸送に必要な潜水艦がアメリカ機動部隊に沈められたため中止となり、剣号作戦に転用されることになったがこちらも必要な航空機が破壊されてしまい、そのまま終戦を迎えた。参考:歴史群像6,’08
<山風(初代)>:日本海軍海風型駆逐艦2番艦。明治44年10月21日竣工。大正元年8月28日に一等駆逐艦に類別変更された。昭和5年6月1日に掃海艇に転籍となり、第8号掃海艇と改称された。昭和11年4月1日に除籍された。参考:日本駆逐艦史
<山風(2代目)>:日本海軍白露型駆逐艦8番艦Yamakaze。昭和12年6月30日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第24駆逐隊に所属していた。昭和17年1月12日、タラカン島において哨戒艇第38号と共同でオランダ海軍敷設艦プリンス・ファン・オラーニエを撃沈。2月27日、スラバヤ沖海戦に参加。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。6月26日(24日?23日?)、房総半島沖でSS-168ノーチラスの雷撃を受け沈没し、8月20日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,’14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T、アメリカ潜水艦史
<山形陸軍病院>:日本陸軍の三等陸軍病院。太平洋戦争後は山形県立中央病院になった。参考:軍医サンよもやま物語
<山川灯>:哨信儀を参照。
<ヤマ機関>:日本陸軍の諜報機関で、陸軍省兵務局防衛課に所属する。当初は外国公館と外部の通信を傍受するのが主任務だったが、昭和17年半ば頃から政財界や軍人、マスコミの大物を対象として諜報を行うようになった。反戦活動家としては近衛文麿(コード名コーゲン)、幣原喜重郎、鳩山一郎、吉田茂(コード名ヨハンセン)、岩淵辰雄が標的となり、昭和20年4月15日に吉田茂、岩淵辰雄らを陸軍刑法第99条違反で憲兵隊に引き渡した。その後は近衛文麿の監視に移ったが、そのまま終戦となり、8月16日に所属員を復員させていち早く組織を消滅させた。参考:太平洋戦争情報戦
<やまぎく>:LSSL-414(警備艇)を参照。
<やまぎり>:DD-152(護衛艦)を参照。
<やまぎり型>:海上自衛隊練習艦。DD-152やまぎりを練習艦に艦種変更したもので、後にDD-151あさぎりも加わった。全長137.0m、幅14.6m、吃水4.5m、基準排水量3500トン、満載排水量4900トン。主機はCOGAG方式、ガスタービン4基2軸54000馬力、速力30ノット。兵装は76mm単装砲1門、20mmCIWS2基、ハープーン4連装発射筒2基、シースパロー8連装発射機1基、アスロック8連装発射機1基、3連装短魚雷発射管2基。乗員220名で、うち36名が実習員。TV-3515やまぎりとTV-3516あさぎりが就役した。装備が新しく、教育効果は大きいとみられるが、退役が近い訳でも無いのに訓練用に回してしまったため実戦部隊の戦力低下が問題となり、2011年3月と2012年3月にそれぞれ護衛艦に戻された。参考:月刊世界の艦船1,’11
<山霧丸>:日本海軍特設運送船。元は山下汽船の南米航路船である。全長139m、幅17.76m、深さ9.75m、満載吃水7.843m、総トン数6439トン、重量トン数9451トン。主機は横浜MAN製D6Zuディーゼル1基1軸5179馬力、航海速力13.5ノット、最大速力17.06ノット。昭和13年7月2日竣工。太平洋戦争勃発で日本海軍に徴用され、南方での輸送に投入された。昭和19年2月17日、トラック大空襲を受け、トラック夏島西方沖で沈没した。現在はダイビングスポットになっている。参考:月刊世界の艦船10,’12
<山口定夫>:日本海軍エース。大正8年、広島県生まれ。昭和14年7月、海軍兵学校を卒業し、昭和16年11月に飛行学生教程を修了、第3航空隊に配属された。昭和17年2月3日、スラバヤ攻撃で2機を共同撃墜した。その後はダーウィン攻撃に参加し、9月からラバウルに進出。11月中旬、ケンダリーに復帰。昭和18年5月、大尉に昇進。7月、横須賀航空隊高等科学生となり、本土に帰還。10月、高等科教程を修了し、第204航空隊分隊長となり、ラバウルに進出。昭和19年1月末、トラックに後退。5月、横須賀航空隊戦闘機隊分隊長となり本土に帰還。6月、硫黄島に進出、あ号作戦に参加。7月4日に戦死した。総撃墜数12機。最終階級は少佐。参考:日本海軍戦闘機隊
<山口多聞>:明治25年8月17日、東京生まれ。明治45年、海軍兵学校40期卒(144名中2番)。元々の専門は水雷術で、海軍水雷学校を卒業した。第1次大戦後、ドイツ戦利潜水艦を内地に回航している。その後、第1潜水艦隊参謀、由良副長、アメリカ大使館付武官、五十鈴艦長、伊勢艦長を歴任した。大正10年にはプリンストン大学に留学し、大正15年に海軍大学校を次席卒業している。昭和13年12月15日から昭和14年11月15日に第5艦隊参謀長を務め、昭和15年1月に第1連合航空隊司令官となった。太平洋戦争開戦時は第2航空戦隊司令官で、真珠湾攻撃に参加。航続力の問題で当初は攻撃部隊から外す案も検討されていたが、太平洋を漂流しても良いから連れて行って欲しいと南雲長官の肩を鷲掴みにして要求したらしい。昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦に参加し、飛龍と共に海没、49歳で戦死した。死後に中将に昇任している。参考:月刊世界の艦船9,’14、日本海軍艦隊総覧、月刊丸12,’92
<山口駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。1965年11月開館の防長尚武館には元帥刀2振(寺内正毅元帥と寺内寿一元帥のもの)、大礼服、歩兵第42連隊の史料などが展示されている。所在地は山口県山口市大字上宇野令784。JR山口駅から徒歩20分、JR上山口駅から徒歩10分。大元は1896年(明治29年)12月に開設された歩兵第42連隊の駐屯地で、1946年3月に連合軍が進駐し、1955年10月に山口駐屯地として開設され小月駐屯地から第17普通科連隊が移駐した。1962年1月18日、第112教育大隊が第2教育団の隷下に移った。1990年3月、第304地区施設隊が廃止された。1999年3月29日、第112教育大隊が廃止された。2004年3月、第2普通科直接支援小隊が新編された。2012年4月24日、同月に入隊した自衛官候補生32名が15kgの背嚢を背負っての10km徒歩行進訓練を実施。2014年1月10日、新成人隊員21名の祝賀行事を実施。2015年5月26日、自衛官候補生87名が重さ15kgの背嚢を背負っての25キロ徒歩行進訓練を実施。2017年1月9日、駐屯地太鼓隊が兵庫県立芸術文化センターで平成28年度中部方面隊音楽まつりに参加。4-5月、社会人や学生など計27団体314名に隊内生活体験を実施。6月8日、むつみ演習場でむつみ保育園保育士7人・園児15人の見学を支援した。8月25日、J2リーグ所属レノファ山口FCのマスコットキャラであるレノ丸や、地元小学生生徒らの一日体験入隊に協力した。2019年1月15日、新成人隊員35名の祝賀行事を実施。2020年4月11-12日、中部方面混成団第47普通科連隊が令和2年度即応予備自衛官招集訓練開始式を実施。2023年1月14日、山口県防府市高川学園高校サッカー部18人が精神要素の涵養のため生活・訓練体験を行った。4月1日、山靴史自衛隊協力会と共に令和5年度山口駐屯地観桜会を実施。参考:山口駐屯地ホームページ、中部方面混成団ホームページ、JGround Vol.23、MAMOR vol.91、vol.114、朝雲
<山口駐屯地(2015年)>:第13旅団第17普通科連隊、中部方面会計隊第322会計隊(3月26日から第350会計隊山口派遣隊)、山口駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015
<山口駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2019年7月24日、平成30年7月豪雨災害での各種支援の功績で、陸幕長から2級賞状と副賞が贈呈された。参考:朝雲
<山口文一>:大正7年、宮崎県生まれ。昭和11年、陸軍に入隊。昭和15年6月、操縦学生課程を修了し、第101教育飛行戦隊で延長教育を受け、昭和17年3月に飛行第11戦隊に転属となった。4月、教導飛行第204戦隊に転属。昭和18年8月、准尉となった。11月22日、ビルマのミンガラドン飛行場に展開し、ラングーン防空などに参加。12月22日、昆明進攻でP-40戦闘機1機を撃墜して初戦果を挙げた。昭和19年8月、タイに後退。10月12日、マニラに転進。12月、内地に帰還。昭和20年2月、台湾に進出、沖縄作戦に参加。兵力温存で空戦の機会は乏しく、終戦を迎えた。総撃墜機数19機(うち大型機6機)。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊
<山国丸>:日本の油槽船。総トン数557トン。昭和20年3月5日、南号作戦ヒ八八i船団の一員としてシンガポールを出港。3月20日、パラダン岬沖で潜水艦の雷撃を受けて沈没した。参考:戦時標準船入門
<やまぐも>:DD-113(護衛艦)を参照。
<山雲>:日本海軍朝潮型駆逐艦6番艦Yamagumo。昭和13年1月15日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦時は建制では第9駆逐隊、兵力部署では比島部隊第3急襲(護衛)隊に所属していた。12月31日、リンガエン港外で触雷して中破した。昭和17年8月11日、柱島を出撃。8月17日、トラックに到着。8月21日、トラックを出撃してガダルカナルに向かった。8月24日、第2次ソロモン海戦に参加。昭和18年11月19日、内南洋でSS-191スカルピンを砲撃して撃沈した。昭和19年10月22日、比島沖海戦に参加。10月25日、スリガオ海峡で艦砲射撃を受けて沈没し、昭和20年1月10日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,’14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T
<やまぐも型護衛艦>:海上自衛隊対潜護衛艦。二次防と三次防で建造された。強力な対潜兵装からDDKに分類されており、艦首下部にバウソナー(1-3番艦はAN/SQS-23、4-6番艦はOQS-3B)を装備した初の護衛艦で、アスロックとボフォース対潜ロケットを装備した初の汎用護衛艦DDでもある。技術研究本部が基本計画と基本設計を担当し、それまでの日本海軍伝統の重量配分式設計からスペース配分式設計に変更した。船型は第1・第2甲板を全通甲板とする遮浪甲板型で、NS23軟鋼(ソナードーム外皮、機械室内底鈑、機械台の一部のみNS46高張力鋼)による全溶接構造とした。主錨は艦首錨を採用、錨がぶつからないように艦首は45度の角度で水面から出ており、ソナードームもNS46高張力鋼で出来ている。艦首左舷にも錨を持つ。艦首形状の関係で波を被りやすくなったため、DD-119以降にはナックルラインが付けられた。アスロックを初装備した護衛艦でもあるが、船体の大きさや煙路、砲熕兵装の配置などの関係で艦中央部の煙突間に搭載しており、全周射界を持たない。当時のソナーシステムにはTASSが無く、自艦プロペラ雑音の関係で潜水艦探知はほぼ艦前方象限に限られていたが、複数艦で敵潜水艦を取り囲んで円運動しながら攻撃するサーキュラーアタック戦術を採用していたため、さほど不便は感じなかったようである。対空捜索レーダーはOPS-11、対水上レーダーはOPS-17、ESMはNOLR-1B、対潜攻撃指揮装置はMk114を装備。FCSは前部が光学・レーダー併用式のMk56、後部がMk63で、アスロック運用時にはロケット追尾のためMk56をそちらに回す必要があり、Mk63だけで砲管制を行わねばならず対空戦闘能力が低下した。主機はいすず型DEの運用結果から汎用護衛艦DDとして初めてディーゼル機関を採用することにし、小型のものを6基搭載して巡航時に運転機数を減らすことで騒音と振動を抑えたが、第1戦速以上で全機運転になると騒音と振動が凄まじくなり、搭載電子機器にも悪影響を及ぼすという欠点があった。また、出力の限界で最大速力が27-28ノットに止まり、対潜戦での部隊運用に支障を来している。主機室は前中後の3つに分かれており、内部にディーゼルを2基ずつ収容(中部機関室には1628V3BU-38Vまたは12UEV30/40が置かれる)、前部機関室の2基と中部機関室の左舷側1基(左舷機)で左舷軸を、中部機関室右舷機と後部機関室の2基で右舷軸を駆動する。主機は流体接手を介して減速歯車装置に接続し1軸に纏める方式で、回転数は毎分330回転に落とされる。低速時には減機運転を行う。主機操縦は電気油圧制御による遠隔操縦式であり、機械室上部甲板の機械操縦室で操作する。兵装近代化に伴い艦内電子機器が増加したため、発電能力や冷房能力(居住区含め全艦冷房)を強化、機器冷却用海水管を新設している。前部上部構造物は2層甲板(航海艦橋下に半甲板分の航海科倉庫があるため、前部だけ2.5層甲板)構造で、航海艦橋、CIC、電信室、司令室、艦長室、士官居住区などが配置され、後方に第1煙突がある。後部上構は1層甲板で、大部分がアスロック弾庫であり、第2煙突と一体化されている。マストは前部上構と第1煙突の間にメインマスト、第2煙突前面に後部マストがある。搭載艇は後部上構両舷の内火艇1隻ずつと、第1煙突左舷のカッター1隻で、ボート・ダビットは重力式。DD-119以降の後期型はソナーをOQS-3Bに、GFCSを前後ともFCS1型Bに換装し、ESMをNOLR-5に換装すると共に、第2マストを強化してESM装備位置を高くし、探知能力を向上させた。また、GFCS換装により、アスロック運用時にも対空戦闘能力が維持できるようになった。前部上構と第1煙突を1mほど離し、振動対策を施している。洋上補給ポストを持ち、上甲板両舷に補給物資運搬通路を設けた。全長114.0m(DD-119以降115。0m)、水線長107。0m、全幅11.8m、深さ7.9m、吃水3.8m(3.9m?DD-119以降4m)、メタセンタ高さ1.23m、基準排水量2050トン(DD-119以降2150トン)、常備排水量2500トン(DD-118まで)、満載排水量2750トン(DD-119以降2850トン)。主機はDD-113が三井B&W・1228V3BU-38V型(4250馬力)4基+三井B&W・1628V3BU-38V型(5550馬力)2基、DD-114/115/119/120/121が三菱12UEV30/40型6基、出力26500馬力、2軸推進、速力27ノット(DD-121は28ノット)、燃料搭載量480トン、航続距離7000海里(20ノット)。主発電機はディーゼル(400kW。後期型は500kW)2基、補助発電機はディーゼル(200kW)1基。兵装は57式(DD113-115)または68式76mm連装速射砲(DD119-121)2基(前後甲板に1門ずつ)、アスロック艦対潜ロケット(Mk44/Mk46/73式短魚雷)用74式8連装発射機1基(前後煙突間)、71式ボフォース4連装対潜ロケット発射機1基(前部砲と艦橋の間)、3連装短魚雷発射管2基(後部煙突左右)。乗員210名(DD-119以降は220名)。1966-67年にDD-113やまぐも、DD-114まきぐも、DD-115あさぐも、1972-78年にDD-119あおくも、DD-120あきぐも、DD-121ゆうぐもの計6隻が就役した。DD-113やまぐも、DD-114まきぐもは就役後にAN/SQS-35(J)VDSを搭載して艦尾形状がトランサムスターンに変更され、観音開きの扉が付けられた。DD-120あきぐも、DD-121ゆうぐもは新造時からVDSを装備し、艦尾がオーバーハングしている。DD-119あおくもは1979年度にESMをNOLR-6Bに換装した。1991年にDD-113やまぐもとDD-114まきぐも、1999年にDD-119あおくも、2000年にDD-120あきぐもがやまぐも型練習艦に艦種変更された。1993年にはDD-115が特務艦に艦種変更されている。1995-2005年に退役した。参考:艦船メカニズム図鑑、月刊JWings1,’99、月刊世界の艦船7,'23、12,’13、1,’95、11,'17増刊、4,’07、6,’11、1,’79増刊、5,’02増刊、1,’14、11,'24、自衛隊装備年鑑1996、海上自衛隊全艦艇史、自衛隊装備カタログ1981、丸スペシャルNO.78
<やまぐも型練習艦>:海上自衛隊練習艦。やまぐも型対潜護衛艦1番艦DD-113やまぐもと2番艦DD-114まきぐもを1991年6月、DD-119あおくもを1999年3月18日、DD-120あきぐもを2000年6月13日に艦種変更したものである。兵装はそのままに、実習幹部用の施設を増設した。全長115m、全幅11.8m、吃水4m、基準排水量2150トン。主機は三菱12UEV30/40ディーゼル6基2軸26500馬力、速力27ノット。兵装は76mm連装砲2基、ボフォース4連装対潜ロケットランチャー1基、アスロック8連装発射機1基、3連装短魚雷発射管2基。乗員220名、うち実習員36名。TV-3506やまぐも、TV-3507まきぐも、TV-3512あおくも、TV-3514あきぐもが就役し、1995-2005年に除籍された。参考:月刊世界の艦船1,’04、1,’95、1,’17、11,'17増刊
<ヤマごもり>:陸上自衛隊のスラングで、演習場(ヤマ)で行う長期訓練のこと。参考:MAMOR vol.164
<山崎市郎平>:大正9年、東京府生まれ。昭和12年、横須賀海兵団に入隊し、昭和16年5月に操縦練習生を卒業、大分航空隊に編入された。昭和17年2月、第4航空隊に転属となり、ラバウルに進出。4月、台南空に転属となった。8月26日、ブナ進攻で被弾し、負傷により本土に送還された。昭和18年5月、第251航空隊に転属となり、ラバウルに進出。7月4日、レンドバ島攻撃で戦死した。総撃墜数14機、最終階級は一等飛行兵曹。参考:日本海軍戦闘機隊
<ヤマサクラ>:日米共同方面隊指揮所演習の通称で、YSと略す。在日米陸軍のシンボルである富士山と、陸上自衛隊のシンボルである桜を合わせた名称らしい。陸自とアメリカ軍陸上部隊が共同作戦を円滑に行えるようにするのが目的で、方面隊以下の指揮幕僚活動を演練する。1981年度から日米交互に毎年2回(初年度だけ1回だった)実施中。1982年、滝ヶ原駐屯地で第1回が開催された。2009年7月10-17日、ハワイのフォート・シャフターでヤマサクラ56を実施。陸自から130名、アメリカから100名が参加した。12月1-4日、東千歳駐屯地でヤマサクラ57を実施。陸自から4500名、アメリカから1200名が参加した。2012年1月24日から2月6日、ヤマサクラ61を伊丹駐屯地などで実施。アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第8軍、アメリカ海兵隊などから1500名と陸自から中部方面隊主力の4500名が参加し、オーストラリア陸軍の准将1名、大佐1名、中佐2名もオブザーバーとして初参加した。7月10-21日、ハワイのフォート・シャフターでヤマサクラ62を実施。陸自から東北方面隊主力の120名、アメリカ陸軍から太平洋陸軍司令部・在日米陸軍司令部など100名が参加した。12月1-3日(6-13日?)、仙台駐屯地などでヤマサクラ63を実施。陸自から東北方面隊、第6・第9師団、中央即応集団、陸上幕僚監部など4500名、アメリカ軍からアメリカ太平洋陸軍、第25歩兵師団、第3海兵機動展開部隊、在韓米軍第8軍の1500名が参加した。また、オーストラリア陸軍から10名がオブザーバー参加した。2013年11月29日から12月12日、東千歳駐屯地でヤマサクラ65を実施。北部方面隊から4500名、アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団、海兵隊など1500名が参加し、北海道での武力攻撃を想定した指揮所演習を行った。オーストラリア陸軍もオブザーバー参加している。2014年12月2-15日、朝霞駐屯地などでヤマサクラ67を実施。陸自から陸上幕僚監部、東部方面隊など4500名、アメリカから太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団、第3海兵機動展開部隊などから2000名が参加した。また、オーストラリア軍から5名がオブザーバー参加し、統裁部での実地研修を行った。2015年6月1-13日、ハワイ州フォート・シャフターでヤマサクラ68(平成27年度日米共同方面隊指揮所演習YS68)を実施。中部方面隊や陸幕などから150名、第1軍団や太平洋軍司令部などから100名が参加した。12月1-13日、伊丹駐屯地などで中部方面隊が主催してヤマサクラ69を実施。中部方面隊、西部方面隊、陸幕から隊員4500名、アメリカ第1軍団、第3海兵機動展開部隊、在日米軍司令部から兵員2000名、オーストラリア軍からオブザーバー6名が参加し、日本に着上陸侵攻した敵に対する阻止反撃、アメリカ海兵隊との連携による水陸両用作戦、弾道ミサイル攻撃対処、サイバー攻撃対処、アメリカ軍の展開支援などを演練した。12月12日には千僧駐屯地で日米共同研究会を行い、更に緊密な連携を図るための問題共有や課題討議などを実施している。期間中に西部方面隊の80名がキャンプ・コートニーで第3海兵機動展開旅団と水陸両用作戦共同調整訓練を行った。2016年6月12-22日、ワシントン州ルイス・マッコード統合基地でヤマサクラ70を実施。陸幕や西部方面隊から150名、太平洋陸軍司令部や第1軍団から200名が参加し、方面隊以下の共同指揮幕僚活動訓練を行った。11月30日から12月13日まで、健軍駐屯地などで西部方面隊主催のヤマサクラ71(平成28年度日米共同方面隊指揮所演習)を実施。陸上幕僚監部、西部方面隊、東北方面隊などから5000名、在日米軍司令部、在日米陸軍第1軍団、第3海兵遠征軍などから1600名が参加し、着上陸侵攻する敵部隊を撃破する水陸両用作戦を中心に、弾道ミサイル、サイバー攻撃、特殊部隊など複合脅威への対処を演練した。オーストラリア軍14名もオブザーバー参加している。12月5日、日米調理要員によるアイアンシェフ大会が行われ、日本チームは天ぷら盛り合わせなど、アメリカは海鮮アルフレッドソースのパスタなどを調理し、日本チームが勝利してまな板製の優勝盾を授与された。2017年11月29日から12月13日、仙台駐屯地などでヤマサクラ73(平成29年度日米共同方面隊指揮所演習)を実施。陸幕、中央即応集団、東北方面隊、陸上総隊準備要員など隊員5000名、在日米陸軍司令部、第1軍団、第3海兵遠征旅団など人員1600名が参加し、日米それぞれの統合任務部隊による共同作戦時の方面隊以下の指揮幕僚活動、対着上陸訓練、弾道ミサイル防衛訓練、サイバー防衛訓練、対ゲリラ・コマンドー訓練などを行った。オーストラリア陸軍もオブザーバー参加している。2018年6月13-28日、フォート・シャフター陸軍基地でヤマサクラ74を実施。陸幕、教育訓練研究本部、陸上総隊、北部方面隊、東北方面隊、アメリカ太平洋陸軍、在日米陸軍、第1軍団などが参加した。12月3-17日、東千歳駐屯地や仙台駐屯地などで平成30年度日米共同方面隊指揮所演習ヤマサクラ75を実施。陸幕、陸上総隊、北部方面隊、東北方面隊、教育訓練研究本部、米インド太平洋軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団、第3海兵遠征軍などが参加した。2019年7月17-30日、ハワイのフォート・シャフター陸軍基地でヤマサクラ76を実施。陸幕、陸上総隊、東部方面隊、西部方面隊、教育訓練研究本部など150名、アメリカ太平洋陸軍、在日米陸軍、第1軍団など150名が参加し、複数領域における日米共同作戦の調整要領を訓練した。12月3-16日、朝霞駐屯地、建軍駐屯地、キャンピ・コートニーなどでヤマサクラ77を実施。陸幕、陸上総隊、東部方面隊など三自衛隊5000名(統裁官は湯浅陸幕長)、太平洋陸軍司令部、在日米軍司令部、海兵隊など1600名(統裁官はポール・ラカメラ太平洋陸軍司令官。指揮官はアメリカ陸軍初の女性歩兵師団長である第40歩兵師団長ローラ・イェーガー少将。)が参加し、共同作戦における指揮幕僚活動を訓練した。オーストラリア陸軍とカナダ陸軍がオブザーバー参加している。2020年12月2-15日、建軍駐屯地、朝霞駐屯地、キャンプ・コートニーなどでヤマサクラ79を実施。統幕、陸幕、陸上総隊、西部方面隊、教育訓練研究本部、海自、空自など隊員4000名、アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、太平洋陸軍第1軍団、太平洋海兵隊第3海兵遠征旅団など人員1000名が参加し、統裁官は湯浅陸幕長とラカメラ太平洋陸軍司令官、演習部隊長は竹本西部方面総監とジョージ太平洋陸軍第1軍団長が務め、対着上陸戦闘などを含む日米共同作戦時の指揮幕僚活動を演練した。2021年12月1-13日、朝霞駐屯地などでヤマサクラ81を実施。陸上総隊、中部方面隊、海自、空自など隊員3500名、アメリカ第1軍団、第25歩兵師団、第3海兵遠征旅団など人員1500名が参加し、自衛隊領域横断作戦とアメリカ軍マルチ・ドメイン・オペレーションを踏まえた連携を目的とした訓練を行った。陸曹・陸士とアメリカ軍下士官の交流行事も行われ、女性自衛官と女性兵士が勤務環境や職務に関する情報共有・意見交換・グループ討議を実施している。2022年11月28日から12月13日、朝霞駐屯地、東千歳駐屯地、健軍駐屯地などでヤマサクラ83(YS83)を実施。陸幕、陸上総隊、北部方面隊、西部方面隊などから隊員4500名、アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団などから人員1200名が参加し、2正面(北海道と尖閣諸島など)侵略事態に対する2個方面隊での対処、空海自・アメリカ太平洋艦隊・アメリカ太平洋空軍も交えた実際的な統合運用、宇宙・サイバー・電磁波などの新領域を加えた日米連携要領などの指揮所演習を行った。2023年11月30日から12月13日、朝霞駐屯地、東千歳駐屯地、仙台駐屯地などで令和5年度日米豪共同指揮所演習ヤマサクラ85(YS-85)を実施。実施部隊として陸幕、陸上総隊、北部方面隊、東北方面隊、教育訓練研究本部、補給統制本部など、アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団、第7歩兵師団、第11空挺師団、第3マルチドメイン・タスクフォース、第8戦域戦力維持コマンドなど、オーストラリア陸軍第1師団(オーストラリア陸軍が実施部隊として参加するのは初)、協力部隊として統幕、海自、空自、北海道防衛局、東北防衛局など、アメリカ太平洋艦隊、太平洋空軍など、オブザーバーとしてフィリピンが参加し、戦略レベルから作戦レベルまでの指揮幕僚活動や、自衛隊領域横断作戦・アメリカ陸軍マルチ・ドメイン・オペレーションに係る日米連携要領訓練などを行った。2024年12月2-14日、朝霞駐屯地や健軍駐屯地などで令和6年度日米豪共同指揮所演習ヤマサクラ87(YS-87)を実施。陸幕、陸上総隊、東部方面隊、西部方面隊、教育訓練研究本部、補給統制本部、統幕、海自、空自など、アメリカ太平洋陸軍司令部、在日米陸軍司令部、第1軍団、第3海兵遠征軍、第3マルチドメイン・タスクフォース、第593兵站コマンド、太平洋艦隊、太平洋空軍など、オーストラリア陸軍第1師団が参加し、島嶼防衛を含む各種自体を想定し、陸自領域横断作戦、アメリカ陸軍マルチ・ドメイン・オペレーション、アメリカ海兵隊機動展開前進基地作戦を踏まえ、オーストラリア陸軍を加えた日米豪共同島嶼防衛作戦の指揮所訓練を行った。参考:朝雲、月刊JWings4,’12、3,’18、スピアヘッドNo.15、MAMOR
vol.110、月刊軍事研究2,’17
<山汐丸>:日本陸軍特2TL型護衛空母1番艦。昭和19年7月19日に三菱重工横浜造船所で2TL型戦時標準油槽船として起工、10月に日本陸軍が購入して改造を開始、11月14日進水、昭和20年1月27日竣工。戦局は厳しく、搭載機も揃わない状態であり、兵装を搭載しない状態で横浜港瑞穂埠頭に係留されたままとされた。2月10日、陸軍に引き渡された。2月27日、アメリカ海軍第58任務部隊の空襲を受けて船尾に250kg爆弾1発が命中、他にも多数のロケット弾を被弾し、大破着底した。戦後に引き上げられて三菱横浜造船所第1・第2船台沖に停泊していたが、昭和21年5月に船首が折れて沈没した。GHQは解体費用を造船所負担としていたため、再引き上げを断念して水面上の上部構造物と船首部分を撤去、残りの部分を第7埠頭にした。昭和31年、埠頭部分が浮揚されて解体された。平成10年、みなとみらい21事業に伴う埋め立ての際にクローズアップされたが、すぐに忘れられてしまった。平成21年、みなとみらいセンタービル建設中に地下14mから山汐丸の錨と錨鎖が発見され、みなとみらいセンタービル遊歩道に展示された。船首部分は埋め立てられたまま地下に残っているとみられる。参考:月刊丸2,’08、日本航空母艦史、戦時標準船入門
<山下源太郎>:海軍兵学校第10期卒。日露戦争時に大本営参謀を務め、藤井較一第2艦隊参謀長と共にバルチック艦隊の対馬海峡通過を主張して撃滅に貢献した。明治39年11月22日から明治41年12月10日、第1艦隊参謀長を務めた。明治43年、海軍兵学校校長となり、名校長として慕われた。器以上に器を動かす人が大事であるとして兵学校に小型戦闘艦1隻分の費用を投じ大講堂を建設している。大正6年12月1日から大正8年12月1日、第1艦隊司令長官を務めた。大正9年、海軍軍令部長に就任。4年6ヶ月勤め上げて軍事参議官となり、昭和3年に後備役となった。昭和6年2月18日、68歳で死去した。海軍兵学校長時代の教え子が海軍兵学校に胸像を寄贈し、大講堂に収めたが、太平洋戦争で金属供出されてしまったため、台座しか残っていない。参考:日本海軍艦隊総覧
<山下小四郎>:日本海軍エース。明治43年、高知県生まれ。昭和2年8月、佐世保海兵団に入隊し、機関兵となった。昭和6年5月、操縦練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊、昭和7年3月に修了し、大村航空隊に配備された。その後は赤城、横須賀航空隊、鹿屋航空隊、龍驤所属となり、日華事変勃発を迎えた。9月21日、広東攻撃で1機を撃墜、1機を共同撃墜した。鈴鹿航空隊教員となった後、昭和15年5月に第12航空隊に転属。9月13日に重慶攻撃で5機を撃墜。昭和16年3月14日、3機(不確実1機含む)を撃墜。その後は霞ヶ浦航空隊、台南航空隊、築城航空隊で教官を務め、昭和19年1月に第201航空隊戦闘304飛行隊に転属となり、パラオに進出した。3月30日に戦死した。公認撃墜機数11機。最終階級は中尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<山下佐平>:大正7年、静岡県生まれ。昭和9年、乙種飛行予科練習生として海軍に入隊。昭和15年10月、千歳航空隊に配属された。太平洋戦争開戦時はマーシャル群島に展開していた。昭和17年4月、飛曹長となり、ラバウルに派遣された。5月末、台南航空隊に転属となり、ラエ基地に派遣された。5月27日、モレスビー攻撃で1機を共同撃墜した。11月上旬、本土に帰還し、第201航空隊に転属となった。昭和18年2月9日、ナウル島でB-17を撃墜した後に行方不明となり、戦死認定された。公認総撃墜数13機。最終階級は少尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<山下奉文>:やましたともゆき。明治18年11月8日、高知県生まれ。海南中学を卒業して広島幼年学校に入学し、陸軍士官学校を経て陸軍大学校を卒業。スイスとドイツに留学し、陸軍大学校教官となった後、オーストリア駐在武官となった。帰国後は歩兵第3連隊長に就任。昭和7年、陸軍省軍事課長となった。二・二六事件当時は軍事調査部長で、首謀者らに同情的な立場をとったため、昭和11年3月に朝鮮軍第20師団第40旅団長に転出となった。日華事変勃発で戦線に加わり、昭和13年に北支那方面軍参謀長となった。昭和14年9月、大阪第4師団長になった。昭和15年7月、航空総監に就任。12月、軍事視察団としてドイツとイタリアを訪問、ヒトラーと会見した。昭和16年7月、満州防衛軍司令官に就任。11月9日、第25軍司令官に就任。太平洋戦争開戦後はマレー攻略戦を成功させた。昭和17年7月、満州第1方面軍司令官となった。昭和19年9月26日、第14方面軍司令官となった。参考:JGround Vol.23、比島決戦
<山城>:日本海軍扶桑型超弩級戦艦2番艦Yamashiro。大正2年11月20日起工、大正6年3月31日竣工。大正6年4月1日、第1艦隊第1戦隊に配備された。大正7年9月1日から10月15日、連合艦隊旗艦を務めた。大正8年6月1日から10月28日、連合艦隊旗艦を務めた。11月3日、第1艦隊第1戦隊を退いた。大正11年3月29日、2番砲塔に長さ12mの滑走台を設け、スパロー・ホーク及びソッピース・パップ戦闘機の発艦試験を行った。3回とも発艦には成功したが、1名の死者を出している。大正13年4月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。大正15年12月1日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和2年7月28日1130、昭和天皇の小笠原諸島・豊後水道・奄美大島方面行幸の御召艦として供奉艦の第4駆逐隊太刀風、羽風、帆風、秋風と共に横須賀を出港。父島二見、母島、佐伯湾、名瀬、古仁屋に寄港し、8月4-5日には豊後水道沖で連合艦隊戦闘射撃・爆撃実験などを見学、8月10日に横須賀に帰港した。昭和3年12月10日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和5年11月10日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和9年11月15日、第1艦隊第1戦隊に配属された。連合艦隊旗艦となった。昭和10年2月3日、大改装を完工。昭和11年2月4日、連合艦隊旗艦から退いた。6月1日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和15年3月1日、第1艦隊第1戦隊に配属された。11月15日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和16年3月15日、第2艦隊第5戦隊に配属された。4月22日、第2艦隊第5戦隊を退いた。10月31日、第1艦隊第2戦隊に配属された。12月8日、太平洋戦争開戦時には第1艦隊第2戦隊に所属していた。昭和17年4月18日、東京空襲を受けて本州東海域に出動したが、敵空母に追いつけず引き返した。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和18年2月25日、第1艦隊第2戦隊を退いた。12月9日、平根崎燈台付近で呂113潜水艦と衝突した。昭和19年9月10日、第2艦隊第2戦隊に配属された。10月22日、捷一号作戦に西村艦隊旗艦として参加。10月25日、比島沖海戦において、スリガオ海峡で水上艦の雷撃を受けて沈没した。11月15日、第2艦隊第2戦隊を退いた。参考:戦艦入門、図解日本の戦艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船12,’10、11,’18、月刊丸7,’14
<山高式金具>:日本海軍の山高・蛭田両海軍技師が開発した、沈没潜水艦引き揚げ具。潜水艦の上部構造物に山高ピンが内蔵されており、沈没した際に艦内操作で引き出すと、山高ピンに繋がっているガイドライン付きのブイが海面に浮上する。ブイを発見した潜水艦救難艦は、ガイドラインに山高シャックルを通して海に沈める。するとシャックルがガイドラインを伝わってピンの所に到達し、両者が連結されるため、後はクレーン船や工作艦朝日で釣り上げれば引き揚げが完了する。参考:写真で見る海軍糧食史
<山田分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地で、第37警戒隊が所在している。所在地は岩手県下閉伊郡山田町豊間根東山国有林9林班か小班で、重茂半島最高峰の十二神山(標高731m)の山頂にある。1958年、アメリカ空軍から空自に移管された。1961年7月、北部訓練航空警戒隊第2警戒隊第3中隊が第37警戒群に改編された。1989年11月、FPS-2レーダーの運用を開始。2000年3月、第37警戒群が第37警戒隊に改編された。2011年3月11日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。4月25-26日、岩手県で第3回集中捜索を実施。2019年4月28日、三陸山田カキまつりで広報活動を行い、宮古地域事務所の支援を受け軽装甲機動車展示や制服試着などを実施した。10月、台風19号の大雨で基地進入路と法面が崩落する被害を受けたため、北部航空施設隊第1作業隊と共に復旧作業を行い、11月29日に完了した。2020年6月11日、東北防衛局長が基地内施設を巡視した。参考:月刊JWings6,’10別冊付録、朝雲、月刊軍事研究9,’11
<山田洋行過大請求事件>:防衛省への装備品納入を巡り、山田洋行が過大請求を行っていた事件。過払い額と延滞金を合わせた債権額は、2008年2月発覚分が5億4982万円、9月が7880万円、11月が3億7532万円、2009年3月が6億2311万円、8月が5億1593万円、12月が8億9000万円に達しており、他の契約の支払いで相殺した。参考:朝雲
<やまちゃん>:山形地方協力本部のマスコットキャラ。さくらんぼがモチーフで、2020年に誕生した。参考:朝雲
<やまと>:呉地方総監部のイメージキャラクターで、くれこと共に呉地方総監部人事課の三等海曹がデザインし、2017年6月6日に発表された。2018年4月21-22日、徳島市藍場浜公園で開催されたはな・はる・フェスタで徳島地本が行った広報に協力した。2019年4月20-21日、徳島市藍場浜公園で開催されたはな・はる・フェスタ2019で徳島地本が行った部外広報に協力した。2020年10月11日、オンライン開催された第2回復興応援呉ご当地キャラ祭りに参加。2021年9月13日、くれこと共に、呉基地を訪問した焼山みどり幼稚園園児88人と交流した。2023年8月12-13日、くれこと共に、松山外港第1埠頭で愛媛地本が行った広報に協力した。9月30日から10月1日、水島港で行われた第9回玉島ハーバーフェスティバルで岡山地本が実施した広報に協力した。参考:朝雲
<大和(初代)>:日本海軍葛城型スループ2番艦Yamato。明治20年11月16日竣工。明治31年、三等海防艦に類別された。明治35年、水路測量任務に投入されるようになった。大正元年、二等海防艦に類別変更された。大正11年4月1日、測量艦に艦種変更され、大和型測量艦となった。大正13年7月、日本海で大和堆を発見した。昭和9年、水路測量任務を終えた。昭和10年4月1日に除籍され、浦賀で少年刑務所練習船として使用された。昭和21年9月、横浜で台風により着底。昭和25年に解体された。参考:日本海軍特務艦船史、月刊丸6,’14、月刊世界の艦船12,’21
<大和(2代目)>:日本海軍大和級戦艦1番艦Yamato。昭和12年11月4日、呉海軍工廠で起工。昭和15年8月8日進水。昭和16年10月20日、宿毛湾沖で全力予行運転を実施、27.46ノットを記録した。10月30日、宿毛湾で全力公試を行い、27.3ノットを記録した。11月29日、公試のため出港。12月8日、公試を終えて呉に回航された。昭和16年12月16日竣工・就役、連合艦隊第1戦隊に編入された。12月21日、柱島に入港。昭和17年2月12日、連合艦隊旗艦となった。4月10日、第1戦隊に編入された。5月29日、柱島を出港してミッドウェイに向かった。6月5日、ミッドウェイ海戦に参加。6月14日、柱島に帰投。8月17日、ガダルカナル島救援のため柱島を出港し、トラック環礁に向かった。8月23日、極東丸から重油2240トンの洋上給油を受けた。8月28日1331、トラック環礁付近で潜水艦フライング・フィッシュから3本の雷撃を受けたが、2本は過早爆発し、1本を操舵でかわした。8月28日1530、トラック環礁に入港。以降9ヶ月ほど出番が無く、訓練以外ほぼ停泊したままで、大和ホテルという陰口を叩かれた。昭和18年2月11日、連合艦隊旗艦を武蔵に移した。5月8日、定期整備のため直衛艦などと共に呉に向かった。5月13日、柱島に到着。5月21日、呉工廠第4ドックに入った。6月1日、ドックを出た。7月12日、呉工廠第4ドックに入り、二一号対空電探1基(アンテナは15m測距儀両端に2基)と零式水中聴音機を装備、射界の狭い艦中央両舷の15.5cm3連装砲塔1基ずつを降ろし、九六式三連装二五ミリ機銃を増設した。8月15日、部隊に復帰し、8月17日、呉を出航。8月23日、トラック環礁に入港。10月5日にアメリカ艦上機がウエーク島を攻撃、次の目標はエニウェトク島とみられたため、10月17日にトラック環礁を出撃してエニウェトク島に向かった。10月19日、エニウェトク島に到着。しかし空母来襲が無いと判明したため、索敵しつつ引き返すことになり、10月23日にトラック環礁に到着した。12月12日、日本からの輸送任務(戊一号作戦)に就くため、トラック環礁を出航。12月17日、横須賀に入港。戊一号作戦で輸送する独立混成第1連隊の一部1000名と、野砲、トラック、大発などを満載し、水偵も全て降ろして格納庫に弾薬や食料を積み込んだ。12月20日、横須賀を出航。12月25日未明、トラック環礁北西150海里でSS-305スケイトの雷撃を受け、3本発射された魚雷のうち1本が第3主砲塔近くの右舷水線下4mに命中した。後部主砲弾火薬庫に4000トンほど浸水したが、死傷者は無く、26ノットで潜水艦を振り切った。被弾に気付かない乗員もいるくらいで、ダメコン担当の運用科も特に応急修理などは行わず、同日朝にトラック環礁に入港して陸軍兵を降ろし、工作艦明石が調査したところ、長さ10m以上、最大幅5mの大穴が開いていた。昭和19年1月10日、修理のためトラック環礁を出港。1月16日、呉に帰港。1月28日、呉海軍工廠第4ドックに入り、修理を開始した。この際、12.7cm連装高角砲6基と九六式25mm機銃26門を増設し、艦橋上方左右に二二号対水上電探1基ずつ、後部マスト中段左右に一三号対空電探1基ずつを装備した。2月25日、第2艦隊第1戦隊に転属となった。3月18日、修理を完了してドックを出た。4月12日、柱島に到着。4月21日、第3南遣艦隊向けの物資を満載して呉を出港し、マニラ経由でリンガ泊地に向かった。4月27日、マニラに到着して物資を降ろした。4月28日0800、マニラを出港してリンガ泊地に向かった。5月1日、リンガ泊地に入港し、人員1600名と軍需品2000トンを荷揚げした。5月4日、第1戦隊旗艦となった。5月11日、リンガ泊地を出港。5月14日、タウイタウイに入港。6月10日、タウイタウイを出撃し、ビアク島を艦砲射撃に向かった。6月12日、ハルマヘラ島南西のバチャン泊地に入港。6月13日、渾作戦(ビアク島奪回作戦)のため陸軍部隊と大発を満載し、出撃しようとしたが、アメリカ艦隊がサイパン島沖に出現したとの報を受けて渾作戦は中止され、あ号作戦に参加することになった。6月16日、第2補給部隊と洋上給油を実施。6月19日、マリアナ沖海戦に参加。6月22日0100、沖縄中城湾に入港して燃料を補給。6月23日1015、中城湾を出港。6月24日、瀬戸内海に到着。7月5日から呉で第2南遣艦隊向け軍需品、第49師団第106連隊の将兵と軍需品、大発6隻を搭載。7月8日0845、呉を出港。7月10日、沖縄で燃料を補給。7月16日、リンガ泊地に入港し、歩兵第61連隊と陸軍物資を降ろした。10月8日、大和神社祭を実施。10月18日、捷号作戦参加のためリンガ泊地を出撃。10月20日、ブルネイに入港。10月22日、ブルネイを出港。10月23日、比島沖海戦に参加。10月25日、サマール沖海戦に参加。戦死4名、重傷者51名、軽傷者69名の損害を出した。戦死者は後甲板左舷から水葬している。10月28日、ブルネイに入港。11月15日、第2艦隊に転属となった。11月16日、ブルネイを出港。11月23日、柱島に帰投。11月24日、呉海軍工廠第4ドックに入渠し、修理に入った。11月25日、有賀幸作大佐が艦長に着任。昭和20年1月1日、第2艦隊第1戦隊に編入。1月3日、修理を終えて出渠。2月10日、第2艦隊第1航空戦隊に転属。昭和20年3月19日、呉で空襲を受けて軽微な損傷を受けた。4月4日、軽巡矢矧及び駆逐艦1隻と共に、岩国沖で対空機銃射撃訓練を実施。岩国基地を離陸した第332航空隊零戦3機が模擬急降下爆撃と低空雷撃をかけ、これに対して模擬射撃を行っている。4月6日、沖縄海上特攻作戦に参加。4月7日1440頃、奄美大島北西で艦上機の攻撃を受けて沈没した。4月20日、連合艦隊付属となった。参考:図解日本の戦艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,'21、3,'23、丸エキストラ版No.71、月刊丸8,’11、歴史群像8,’15、月刊航空ファン8,’19
<大和一丸作戦>:東日本大震災災害派遣の中央即応連隊作戦名。参考:MAMOR vol.123
<大和型戦艦>:日本海軍戦艦Yamato型。ワシントン条約及びロンドン条約での建艦禁止期間は昭和11年末までとなっており、これ以降は世界情勢からして新たな軍縮条約は困難と思われたため、日本海軍では昭和9年から新型戦艦の設計に着手、3月に51cm3連装砲塔4基搭載のディーゼル推進30ノット戦艦を計画したが、国力的に無理があったのと友鶴事件とで没になり、6月に第2艦隊向け30ノット重高速戦艦として再出発。対抗するアメリカの戦艦は、パナマ運河の幅から考えて40cm砲しか搭載できないとみられ、主砲は46cm砲として秘匿のため九四式四〇サンチ砲として開発することにし、10月に主砲を50口径46cm砲8門以上・同砲弾安全圏20-35km防御・速力30ノット以上という計画を立案、昭和10年3月から海軍艦政本部第4部でこれに基づくA-140案を纏めた。しかし軍令部から艦隊決戦主力で連合艦隊直率の第1艦隊(長門型、伊勢型、扶桑型)よりも露払いの第2艦隊(金剛型、A-140案)の方が超強力というのはどうかという意見が出され、平賀譲が復帰した海軍艦政本部でもA-140案だと艦が大きくなりすぎて友鶴事件の二の舞になるとして艦型を縮小することになり、昭和10年4月に50口径46cm砲8門以上・同砲弾安全圏20-30km防御・速力27ノット(新鋭アメリカ戦艦より4ノット増し)で扶桑型の後継となる戦艦へと要求を変更、更に水平側打撃力向上と軽量化を図り主砲口径長を45口径に短縮、主砲塔も艦前部集中配置から前後振り分けに変え、昭和10年8月に45口径46cm3連装砲塔3基・同砲弾安全圏20-35km防御・速力27ノットのA-140F案が提出され、改良を加えて昭和11年7月30日に最終案のF5案が認可された。この時は主機がディーゼル併用だったが、不具合多発で実用化に昭和20年までかかる恐れが出てきたため、蒸気タービンのみとする方針に変更、昭和12年3月に集成したA140F6案が真の最終試案として確定し、マル三計画で1-2番艦、マル四計画で3-4番艦の建造に入った。船体は主砲発射時の安定を考慮して長さと幅の比が大きめ(6.58)で、船型の工夫と艦首水線下のバルバス・バウにより抗力を減らした。缶室を中央に置いて煙突を一本に纏め、艦中央に指揮所、指揮装置、高角砲、機銃座などを集中配置してコンパクトにしている。前檣楼は昭和11年7月の檣楼施設標準に基づくもので、内筒と外筒の二重構造になっており、内筒の内側に電線や配管、内筒と外筒の間に部屋を設け、外筒の外側に指揮・測的装備を配置してある。一番下の床は最上甲板レベルで、上に向かって下部高角砲甲板、上部高角砲甲板、下部探照灯甲板、下部見張り所兼副砲射撃指揮所甲板、信号所甲板、第2艦橋甲板、副砲射撃指揮所甲板、休憩室甲板、伝令所/作戦室甲板、第1艦橋甲板、防空指揮所甲板と重なり、防空指揮所の天井に15m測距儀を装備した主砲測距所が載り、最頂部に九八式方位盤照準装置改一を収容する主砲射撃指揮所が設けられ、天井から潜望鏡式望遠鏡が突き出している。主砲射撃指揮所は吃水線から40mの高さがあり、主砲測距所と一体となって旋回し、砲術長が位置して全主砲の射撃を司る。九八式方位盤照準装置改一(重量4トン。機械式)は歯車の隙間による誤差が出ないよう、発信機系統と計算機構系統の2つを用意した。測距儀は正像合致式2基と倒像立体式1基を纏めて1本の筒状にした三重測距儀で、アルミニウムでカバーして防熱を施した。また、両端には乾燥装置と清水噴射装置が付いており、曇りや汚れを防ぐ。測距手は3名で、上下動はジャイロ、左右動は旋回手が修正し、測定結果は自動的に射撃盤に送られる。主砲射撃指揮所や主砲測距所は司令塔装甲部の外にあるので、敵弾が命中すると吹っ飛ばされるという欠点があった。主砲測距所周囲の露天甲板が防空指揮所で、全周に高角双眼鏡が配置された。その下が第1艦橋(昼戦艦橋。従来の戦闘艦橋)で、対機銃弾防御が施されており、戦闘指揮が行われる。後方には信号用ヤードが3本延びている。その下には作戦室と伝令所があり、更に下が艦長/士官休憩室で、そのまた下が上部見張り所と第1海図室など。これらの前面には1.5m測距儀があり、側面には近接防御用13mm連装機銃のブルワークが設けられた。その下が第2艦橋(羅針艦橋兼夜戦艦橋)で、両側に機銃射撃装置が配置されている。その下が下部見張り所で、側面のスポンソンに探照灯管制器(シールド付き)が2基、前檣楼後面両側にも探照灯管制機が2基ずつ配置されており、煙突両側に4基ずつ配備されている探照灯を遠隔操作できる。後面には信号用甲板の張り出し部があり、第1艦橋からのラッタルが延びている。その下の下部探照灯甲板レベル最前部が司令塔で、内部には操舵指揮所、操艦指揮所、防御指揮所がある。外板は厚さ500mmの装甲板で出来ており、46cm砲の直撃にも耐えられる。また、内部には厚さ300mmの装甲板で囲まれた直径1mの通信筒があり、中甲板レベルまで通じている。前檣楼内部には上甲板から作戦室を結ぶ4名用エレベーターが搭載された。司令塔の両側面には25mm3連装機銃2基ずつと九四式高射装置1基ずつを装備する。前檣楼の直下の船体内に缶室が12個纏めて12室(横4列・縦3列)に配置され、排煙は誘導煙路でブリッジ後方の煙突1本に導かれる。煙突は高温の排煙でブリッジが損傷しないように後方に傾けられており、下部には防熱外板が貼られていた。煙突側面には九六式一五〇サンチ探照灯4基ずつと機銃射撃装置1基ずつが配置されている。煙突の後方には900kmの送信能力を持つ長い空中線を確保するため後方に傾けたマストがある。マストは根元が三脚式で、その上に1本のメインマストと2本のサブマストが延びており、中間部で鉄骨により互いに支持されている。マスト後方が後部艦橋で、頂部(前檣楼の第2艦橋甲板レベルくらい)に主砲予備射撃指揮所(九八式方位盤照準装置改一装備)、その下に10m測距儀と測距室(主砲予備射撃指揮所と共に旋回する)、その下に後部艦橋副砲方位盤照準装置所(前部)と密閉式見張り所が設けられていて、見張り所周囲に九六式二五ミリ3連装機銃4基を装備する。後部艦橋内部には中甲板まで続く通信筒と25mm機銃揚弾薬筒がある。露天甲板は最上甲板で、前後を除いて無塗装の木甲板である。露天甲板は艦首部に大きなシーア(反り)を付けて凌波性向上と重心低下を図り、1番主砲塔から船体中央部にかけては緩やかな上り坂になっていて、それより後方は平坦である。艦首には直径1.2mの御紋章が付く。艦首水線下はバルバス・バウで、水中艦首を球状にして抵抗を軽減、艦の長さを3m短縮して排水量を300トン軽減することに成功した。前端の錨甲板は鋼板に滑り止めを施してあり、先端に艦首旗竿、その後方左右外側にホースパイプ、内側にボラードがある。主錨はホールス型ストックレス・アンカーで、重量15トン、両舷に1基ずつ用意されている。錨甲板後部左右にケーブルホルダーがあり、その前方やや右舷寄りにキャプスタン1基が装着されている。錨甲板両舷には前方から錨見台、防雷具用フェアリード、水深観測用投鉛台が設けられた。錨甲板後方から第3砲塔側部までは木甲板である。第1砲塔前方には波切り板があり、その前方にケーブルリール5個が並ぶ。錨甲板が木甲板に移行する部分の後方両舷には折り畳み式のボートダビットがあるが、後に3番砲塔付近に移設された。艦尾はクルーザー・スターンに近いが、後端面は水線上で平坦になっている。第3主砲塔の後ろが後甲板で、鉄板張りになっており、3番砲塔両舷の張り出しにトンネル状の短艇格納庫があって17m艦載水雷艇や15m内火艇などを搭載する。最上甲板は艦尾直前で終わり、艦尾甲板は上甲板により形成される。艦尾甲板中央前端の長方形に落ち込んだ部分が艦載機の格納庫への積み降ろしスペースで、前方に艦内格納庫扉があり、その上に爆風避けの付いた射出指揮所が設けられた。格納庫は後甲板直下の艦内上甲板・中甲板レベルにあり、零式水観を5機収容する。艦尾甲板両舷には最上甲板と同じ高さのスポンソンが用意されており、ここに呉式二号五型改射出機が1基ずつ搭載され、後甲板には射出機に向けて航空機運搬軌条が走っており、5ヵ所にターンテーブルが設けられている。艦尾中央に航空機揚収用6トンジブクレーン1基が装備されており、その基部をまたぐようにアンテナ支柱(起倒式という説あり)が用意されている。船内は6層構造で、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、第2船倉甲板、船倉甲板(艦底)からなる。水防区画は1147区画で、要所には注排水装置や重油移動装置を備え、損傷による被害を最低限に抑える。バイタル・パートは1番砲塔前端から3番砲塔後端の間(艦全長の60%弱)に纏められ、ここと舵取り機械室と司令塔、砲塔に重防御を施した。非装甲部の水防区画は1000区画以上もあり、兵員室、倉庫、燃料タンク、注水区画などに割り当てられていて、艦首下甲板レベルに水中聴音/水中信号室、その直下の船倉甲板レベルに水中聴音機区画、煙突後方の上甲板レベルに機械工場と電機工場、機械工場の下の中甲板レベルに第4工作科がある。非装甲部水防区画が全て浸水しても防御区画は沈下せず、22度の復原範囲を保つ。バイタルパート内には前から第1主砲塔上部給弾室・下部給弾室・上部給薬室・下部給薬室、左舷副砲発令所(下甲板レベル左舷)、右舷副砲発令所(左舷副砲発令所の右隣で第1主砲塔上部給弾室の左舷側)、主砲第2発令所(左舷・右舷副砲発令所の後ろ)、主砲第1発令所(主砲第2発令所の右隣)、前部転輪羅針儀室(主砲第1発令所の右隣。前部転輪羅針儀室と主砲第1発令所の間の壁が艦のちょうど真ん中)、第1主砲塔弾庫・上部火薬庫・下部火薬庫、高角砲発令所(主砲第2発令所後ろ隣の第2主砲塔弾庫前部左舷側にタンデムで2室)、第2主砲塔弾庫・上部火薬庫・下部火薬庫、第2主砲塔下部給弾室・上部給薬室・下部給薬室、第2主砲塔上部弾薬庫・13mm機銃弾薬庫、副砲弾庫・副砲火薬庫・高角砲弾薬庫、機関区画、第4副砲弾庫・給薬室、信管庫・第4副砲火薬庫・25mm機銃弾薬庫、第3主砲塔弾庫・上部火薬庫・下部火薬庫、第3主砲塔下部給弾室・上部給弾室・下部給弾室、爆弾庫が収められている。主砲塔は九四式砲塔で、艦前部に背負い式で2基、後部に1基が配置されており、それぞれ九四式四〇サンチ砲を3連装で搭載。射撃専用ジャイロの九八式転輪羅針儀は前部転輪羅針儀室に1基を装備する。9門斉射すると横90m・縦400mの範囲に着弾する。誘爆の危険の少ない弾頭部は砲塔中段に置かれ、危険な装薬は砲塔外の火薬庫に貯蔵された。使用弾は九一式徹甲弾の46cmタイプで、1門あたり100発が用意されている。装薬は1発あたり薬のう6つ、計330kgを使用した。主砲1門を射撃した時、砲口から50m離れていないと爆圧に耐えられず、1砲塔3門の一斉射撃では77.5m離れる必要がある。9門斉射では8000トンの反動を生じ、艦上を完全に爆風が覆い、乗員はもとより艦載機やカッターまで吹き飛ばしてしまうため、カッターなどは艦尾部の上甲板に格納し、飛行機は艦内に収容、機銃も全て覆いを付けて爆風から防御(弾片防御には全くなっていない)した。武蔵の公試において、仰角15度で射撃したところ甲板が焦げたというから、人間が甲板上にいたら無事でいるのは難しく、主砲射撃時には警報としてブザーが鳴るようになっていた。太平洋戦争後期には前方防楯のみの25mm機銃が追加搭載されたが、比島沖海戦で三式対空弾を発射したところ機銃員が吹き飛ばされて黒焦げになってしまい、以降は大半が撤去されている。第1主砲発令所は前檣楼頂部の主方位盤及び主射撃指揮所、第2主砲発令所は後檣楼頂部の予備方位盤及び予備射撃指揮所と連接されている。主砲照準は指示器追尾方式で、主砲発令所などから俯仰角と旋回角が基針で示されるので、追針を手動で基針に合わせると、砲がその角度を取ってくれる。砲側での射手及び旋回手による手動照準も可能。護衛駆逐艦戦力の劣勢を補うため、敵駆逐戦隊撃退用の副砲として三年式六〇口径15.5サンチ砲の三連装砲塔を積んでおり、最上型重巡に搭載されていたものを防熱板で覆って上部構造物前後と両舷に1基ずつ計4基装備した。後部に8m測距儀、上面中央に空中線支柱、中央やや左に砲台長展望塔、前面右上部に俯仰用砲側照準孔、左に旋回用砲側照準孔を持つ。副砲塔の装甲厚は25mmしかなく、第2・第3主砲塔に背負い式で近接する第1・第4副砲塔に被弾して弾丸がバイタルパート内に飛び込むと隣接する主砲塔弾薬庫に引火する可能性があったが、装甲厚増大による設計変更が困難だったため、特に対策は取られなかった。高角砲は上構両側に計6基装備された八九式四〇口径12.7サンチ連装高角砲で、爆風避けのシールドが装着され、上面に通気筒4ヵ所、左に照準孔2つ、右に砲身制限器が付いている。耐弾防御は一層式で、射距離20-30kmで46cm砲弾に耐える(アイオワ級の406mm超重徹甲弾Mk8なら射距離18km弱から32kmまで耐える)ことを想定しており、垂直防御にはVH甲鈑を使用し、同じ部分に炸薬300kgの魚雷が3本連続して命中しても致命傷にならず、46cm砲弾が直撃しても貫通しないように中甲板から最下甲板の側面には上部装甲帯として20度傾けた410mmVH甲鈑を張り、その下方には水中弾防御及び魚雷防御として200-270mm NVNC甲鈑の下部装甲帯を設け、艦底部では75-90mm(CNC甲鈑)へとテーパーした。水線下装甲板の外側にはバルジがあり、内側には2層の水密縦壁(14-16mm厚DS甲鈑)を設け、計5層の舷側板で水中防御を施してTNT500kg魚雷に耐えられるようにしたが、バルジ最内側の魚雷防御隔壁を舷側装甲が構成しているため、爆発の衝撃で水線部装甲と水線下装甲の接合部分などが緩んで浸水を来す恐れがあった。艦底起爆魚雷への防御として、弾火薬庫の底部は50-80mmの装甲板を備えた三重底、他の部分は二重底にしてある。上空3900m以下から投下された800kg爆弾を弾き返し、2200m以下から投下された2トン爆弾にも耐えられるように中甲板上面を傾斜の付いた220-230mm厚MNC甲鉄で防御した。船体の小型化を図るため、船体強度を確保するための構造材の一部として装甲板を組み込んだが、縦強度が不足しており、ボックス構造バイタル・パートとキール・フレーム構造非バイタル・パートとの接続部に無理な力が掛かるという欠点があった。バイタル・パート以外の部分の最上甲板には厚さ35-50mmの鋼板を張り、200kg以下の爆弾による急降下爆撃に耐えられるようにした。煙路や吸排気孔には中甲板(下甲板?)レベルに厚さ380mmの蜂の巣甲鉄を張って防御し、煙突の屈曲部上面に50mm鋼板を使用して蜂の巣甲鉄に爆弾が到達する前に炸裂するようにしてある。ただポンプによる急速注水システムを装備していないため、傾斜が激しくなると反対舷への注水が不十分となり、傾斜復元能力が落ちるという弱点があった。発電能力は4800kW。毒ガス防御のため、戦闘区画を気密式とし、指揮区画には濾過通風装置を設けている。暖房が完備され、煙路により過熱される中甲板中央部兵員室と士官居住区、戦闘区画などに火薬庫冷却器を利用した冷房が設けられた。主機はドイッチュラント級装甲艦のプロパガンダに刺激されてディーゼルを積むという意見も出たが、最終的にオールタービンになった。機関区画は全缶全機のパラレル配置で、主缶1基ずつを収容した缶室群の後方に主機1基ずつを収容した機械室を横一列に並べており、左右から雷撃を受けて外舷軸が使用できなくなっても、内舷の2軸で20ノットを発揮できる。速力は30ノット出せるようにすると艦が大きくなりすぎるので、27ノットで我慢したが、昭和19年2月に第2艦隊に移ってからは機動部隊護衛の高速戦艦として運用され、大和は第1航空戦隊旗艦も務めており、空母随伴行動にも支障は無かったようである。舵は前後2枚(後ろが大きい主舵、前が副舵)の半平衡舵で、中心線上に15m離して装着されている。舵取機は主舵用4台、副舵用2台で、主舵には予備動力としてディーゼル油圧ポンプが用意されており、200mmの鋼板で囲まれたポンプ室に搭載された。副舵だけを使用した場合、旋回はできるものの回頭を止めることができない。司令室や士官室には冷房が設置された(兵員区画は通風)。士官は士官室のベッド、下士官は3段式簡易ベッド、兵は釣床で寝る。建設にあたっては機密を守るためにドックに巨大な屋根を作ったり、シュロ縄のカーテンを付けたりした。また、進水時には呉で防空演習を実施したり、呉駅待合室の大時計のゼンマイを巻くため屋上に出て偶然進水を目撃した駅員に口止めしたり、長崎で港側の窓に覆いを打ち付けたりして隠し、進水式では艦名が聞き取れないような読み上げ方をした。山本五十六連合艦隊司令長官が建造中に呉を訪れた時も、呉鎮守府長官から海軍大臣の特別許可が必要と言われて見学を断念している。ただ秘匿しすぎて就役後に出撃するのも控えられ、連合艦隊直率部隊に配備されたため他部隊に転用できず、艦隊決戦以外の運用法も思いつかなかったことから、内地や泊地で繋留されていることが多く、大和ホテルやら武蔵旅館・武蔵御殿やらと揶揄されてしまった。全長263m、吃水線長256m、垂線間長244m、水線下最大幅38.9m、水線幅36.9m、深さ18.915m、平均吃水10.4m、基準排水量64000トン(65000トン?)、公試排水量69100トン、満載排水量72809トン、防御重量22900トン、機関重量5083トン(5300トン?)。主機は艦本式1段減速高低圧オール・ギヤード・タービン(初春型の主機2基分の定格出力を90%に落として1軸に組み合わせたもの)4基(高低圧2基ずつ)、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(蒸気圧力1平方センチあたり25kg、温度325℃)12基、出力は前進150000軸馬力・後進45000軸馬力、高圧タービン回転数毎分3298回転、低圧タービン回転数毎分2135回転、減速歯車は一段式で最大減速比14.65、プロペラは直径6mの3翅、回転数毎分225回転、4軸推進、計画最大速力27.0ノット、公試時最大速力27.3ノット、重油満載量6400トン(6300トン?)、航続距離7200海里(16ノット)。主砲は九四式砲塔3基、副砲は六〇口径三年式15.5サンチ3連装砲塔4基、高角砲は四〇口径八九式12.7サンチ連装砲6基、機銃は九六式二五ミリ3連装機銃8基(武蔵は12基)、13mm連装機銃2基。装甲厚は舷側水線部410mm(下に向かって内側に傾斜20度。VH甲鈑)、舷側水線下200mmNVNC-50mmCNC、中甲板外側230mm(外側に向かって下に傾斜7度。MNC甲鈑)、中甲板内側220mm(水平。MNC甲鈑)、バーベット560mm、砲塔前楯650mm(VH甲鈑)、砲塔側楯250mm(VH甲鈑)、砲塔天蓋270mm(VH甲鈑)、司令塔500mm(VH甲鈑)。3番主砲右舷に17m艦載水雷艇1隻、左舷に15m内火艇1隻、3番主砲前の最上甲板上に9mカッター1隻、7m内火艇1隻、6m通船1隻、6mカッター1隻、3番主砲後部に9mカッター2隻、艦首甲板上に9mカッター1隻を搭載する。また、カタパルト2基と水上機7機を装備する。発電容量4800kW。乗員2500名。武蔵には旗艦設備と司令部要員居住区が設けられている。価格は1億6285万円。昭和20年3月までに4隻を完成させる予定で、1番艦大和は昭和16年、2番艦武蔵は昭和17年に竣工し、3番艦は空母信濃に改造され、4番艦第111号艦は昭和15年11月7日に呉海軍工廠で起工されたが昭和17年3月に工事中止となった。太平洋戦争中に1・2番探照灯管制器は撤去されて機銃射撃装置が追加され、信号甲板両側前方の60cm信号用探照灯が外されて二式哨信儀が装備された。昭和18年、二一号・二二号電探を追加し、前檣楼頂部15m測距儀両側に二一号電探用アンテナ、第一艦橋下部両側に二二号電探用アンテナを装備。戊一号輸送作戦で大和が魚雷2発を喰らい、舷側甲板の傾斜角度変化部(VH甲鈑とNVNC甲鈑の繋ぎ目)取り付け強度が低かったことから3000トンの浸水をみたため、水線下の甲鉄内方の構造を強化改良している。昭和19年、上構両舷の六〇口径三年式15.5サンチ3連装砲塔2基を撤去し、四〇口径八九式12.7サンチ連装砲を12基に増やした。煙突側面最後方の探照灯を撤去して九四式高射装置を搭載。後部艦橋の4つの機銃座から防楯を撤去、後部マスト下部に一三号電探を装備、後部艦橋前方に第三電探室を新設。比島沖海戦前にリンガ泊地で二二号電探を二二号電探改四(特)に換装。沖縄突入時、煙突側面後方の探照灯1基を撤去して機銃射撃指揮装置を装備。後甲板上に25ミリ3連装機銃を増設、射出指揮所両側に機銃射撃装置を設置。兵装は九四式45口径46cm3連装砲塔3基、六〇口径三年式15.5サンチ3連装砲塔2基、四〇口径八九式12.7サンチ連装砲12基、九六式25mm3連装機銃50基、九六式25mm単装機銃2基、13mm連装機銃2基だった。露天の九六式25mm3連装機銃は戦時型環状照準器を装着している。参考:図解日本の戦艦、戦艦入門、月刊世界の艦船9,'21、12,'24、3,’15、1,’12、8,’82増刊、11,’11、10,’11、9,’13増刊、9,’14、12,’14、7,'15、歴史群像2,’05、8,’15、月刊丸10,’93、4,’17、続・日本海軍製鋼技術物語、丸エキストラ版No.71、続日本海軍よもやま物語、海軍こぼれ話、日本海軍艦隊総覧、海軍操舵員よもやま物語
<大和型測量艦>:日本海軍測量艦Yamato型。元は三等海防艦で、大正11年に艦種変更された。ルーカス式電動測深儀を装備する。
垂線間長61.37m、最大幅10.67m、吃水4.65m、基準排水量1502トン。主機は横置式2気筒2段膨張レシプロ蒸気機械1基、主缶はロ号艦本式石炭専焼水管缶4基、出力1622馬力、1軸推進、速力13ノット、石炭搭載量149トン。3檣スクーナーの帆装(就役時は3檣バークだった)も持つ。兵装は8サンチ単装砲2門。乗員110名。大和、武蔵が就役した。参考:日本海軍特務艦船史、月刊世界の艦船12,’21
<大和基地>:在日米軍基地。元は日立航空機立川工場で、太平洋戦争終結により閉鎖されて賠償工場に指定され、興業銀行(1946年8月に日興工業に改称)が瓦礫の処理を行い、小川−玉川上水間専用鉄道と工場敷地の一部217700坪を西武鉄道に売却した。1952年11月、政府が西武鉄道所有地をアメリカ軍の兵舎用地にすることを決定したが、西武鉄道が拒否したため、1953年2月に土地収用法に基づいて国有地とし、1955年2月に大和基地が設置された。1973年1月の日米安全保障協議委員会で関東地方のアメリカ空軍施設を横田基地に統合することになり、6月に日本に返還された。参考:首都防空網と空都多摩
<大和飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,’18
<大和ホテル>:太平洋戦争時、トラック環礁泊地に停泊したまま出撃の機会が無く、前線に向かう将校の中継地点と化していた戦艦大和を揶揄した言葉。兵員居住区は釣床でなく三段ベッドで冷暖房完備であり、旧式艦の居住区に比べれば実際ホテルだった。参考:歴史群像8,’98、8,’15
<大和丸>:日本陸軍輸送船Yamato maru。大元は大正6年11月に竣工した互光商会貨物船で、大正12年に大和汽船に売却され、昭和4年に白洋汽船に移籍、昭和16年9月に陸軍に徴用された。垂線間長105.16m、幅14.96m、深さ8.69m、吃水7.00m、総トン数4379トン、重量トン数6822トン。主機は三連成汽機1基1軸2925馬力、航海速力9ノット、最大速力13.2ノット。昭和18年11月、第3次ウエワク・ホーランジア輸送船団の一員として物資を輸送。パラオに帰る途中の11月22日、パラオのコロール南東23kmでSS-283ティノサの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船3,’24
<山登光男>:大正11年、広島県生まれ。昭和14年、東京陸軍航空学校に入学し、大刀洗飛行学校で戦闘機教育を受け、昭和17年1月に飛行第33戦隊に配属された。昭和18年8月20日、桂林攻撃でP-40を撃墜して初戦果を挙げた。昭和19年3月、ニューギニアに進出。10月、マニラに進出。11月9日、マニラ上空で戦闘機1機を撃墜した後に被弾負傷し、本土に帰還、そのまま終戦を迎えた。総撃墜数8機。最終階級は曹長。参考:日本陸軍戦闘機隊
<大和ミュージアム>:広島県呉市にある戦争博物館で、正式名称は呉市海事歴史科学館。大和の10分の1模型(線図は2003年に復元されたものを使用し、滑り止めは海軍規格、木甲板は台湾檜の木目を10分の1スケールで再現できる木を使い、重量20トンの船体は呉の造船所で建造、上構や兵装は模型の世界で必ず表現するミリ単位のスケールで再現し、適宜最新資料に準じたものに取り替えるという気合の入れようである)、零戦六二型(昭和20年8月6日に琵琶湖に不時着水した第210航空隊所属機らしい)、回天、陸奥の主砲、友永英夫技術中佐の遺書などが展示されている。3階は大和つながりで松本零士コーナーになっている。4階で資料のコピーが可能。所在地は広島県呉市宝町5-20。JR呉駅から徒歩5分。開館時間は0900-1800(展示室入館は1730まで)、休館日は火曜日(祝日の場合はその翌日)、7月21日から8月31日まで無休。入館料は一般500円、高校生300円、小中学生200円。2005年4月23日に開館した。2015年5月24日、来館者延べ1000万人を達成した。2023年3月5日、大和の主砲を作った大型旋盤展示施設の除幕式が行われた。参考:月刊世界の艦船7,’11、12,’14、9,’12増刊、8,'15、5,’23、月刊軍事研究4,’07、月刊丸10,’10、MAMOR vol.114、vol.91
<やまどり>:PC-312(駆潜艇)を参照。
<山中式戦車>:74式戦車シリーズを参照。
<山梨勝之進>:明治10年、宮城県生まれ。ワシントン会議で全権随員を務めた。会議が決裂すれば世界第一の大国となったアメリカの建艦攻勢を抑えるものが何も無くなるとして、条約締結を進めている。ロンドン会議の時は海軍次官で、条約締結に尽力した。最終階級は大将。太平洋戦争終結後は海上自衛隊の創設と発展に努めた。海自幹部学校での講話では、アメリカという国はワガママ放題で誰に抗議を受けても全く改めないが、黙って放っておくと自然と自分で考えて自分で改める国だ、というイギリス外交官からのアドバイスを紹介している。昭和42年12月17日に死去した。参考:朝雲
<やまなっち>:山梨地方協力本部のマスコットキャラクター。頭がモモ、体がワイン、腕がブドウである。2012年にJ太から改称された。参考:MAMOR vol.132
<山萩丸>:山下汽船貨物船Yamahagi maru。大元は第1次大戦時にサンダーランド造船で起工されたイギリスB型標準船ウォー・オリオールで、大正8年(1919年)4月にイギリスのケアン・ライン所属ケアンゴワンとして竣工し、昭和10年にイギリスのブライト・ナビゲーションが購入してブライト・コメットと改称、その後青島に船籍を置いて吉星となり、昭和12年に山下汽船所属山萩丸になった。垂線間長121.9m、幅15.85m、深さ9.46m、総トン数5426トン、重量トン数8273トン。主機は三連成汽機1基1軸1900馬力、航海速力9ノット、最大速力10.5ノット。太平洋戦争勃発で日本陸軍の輸送に使用された。昭和19年10月12日、台湾の高雄でアメリカ艦上機の攻撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船7,’16
<やまばと>:海上自衛隊ちよづる型掃海艇5番艇。元は駆潜特務艇第246号である。1952年8月1日に海上保安庁から移管され、掃海船MS-05となった。1954年7月1日に掃海艇に類別変更された。1956年4月1日、特務艇特務2号に区分変更された。1957年3月31日、特務雑船YAS-06に区分変更された。1958年6月1日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史
<山鳩丸>:日本海軍特設電線敷設船。元は山下汽船の貨物船である。垂線間長89.92m、幅13.72m、深さ7.29m、吃水6.195m、総トン数2557トン、重量トン数4107トン。主機は浦賀式複二連成低圧タービン連動汽機2DC2000型1基1軸1820馬力、航海速力11ノット、最大速力13.6ノット。昭和13年3月30日竣工。昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は第4艦隊付属だった。昭和18年3月29日、屋久島西でSS-238ワフーの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船10,’19、帝国海軍太平洋作戦史T
<山彦>:日本海軍山彦型駆逐艦1番艦で、元はロシア海軍駆逐艦レシーテリヌイである。明治37年8月10日の黄海海戦の後に中立国である清に退避したところを8月12日に鹵獲し、明治38年1月17日に暁と非公式に命名して沈没した駆逐艦暁を偽装した。4月17日、特務艦隊に編入された。5月10日、第1艦隊第1駆逐隊付属となった。5月27日、日本海海戦に参加。夜戦中に第69水雷艇と衝突し、相手方が沈没した。6月14日、第3艦隊第6駆逐隊所属となった。明治38年10月19日、山彦と命名された。11月7日、艦隊から除かれた。12月12日に艦籍に編入されて駆逐艦に類別された。大正元年8月28日に三等駆逐艦に類別変更された。大正6年4月1日に雑役船に編入され、大正8年頃に廃船となり、昭和2年11月30日に造船廠造兵材料とされた。参考:月刊丸1,’77、日本駆逐艦史
<山彦型>:日本海軍駆逐艦で、日露戦争時にロシア海軍から鹵獲したプイルキー型駆逐艦である。魚雷発射管を38.1cmから45cmに換装した。垂線間長57m、全幅5.7m、平均吃水2.3m、常備排水量240トン。主機は直立式3気筒三連成レシプロ蒸気機械2基、主缶は宮原式石炭専焼水管缶4基(元はヤーロー式を搭載していた)で、出力3800馬力、2軸推進、速力26ノット。兵装は8cm単装砲1門、4.7cm単装砲(露式3ポンド砲/露式5サンチ砲)3門、45cm単装魚雷発射管2門。乗員56名。山彦と文月の2隻が就役した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船5,’11
<山彦丸>:日本海軍特設工作艦。元は昭和12年12月に竣工した山下汽船のニューヨーク航路船で、昭和16年8月に徴用されて特設工作艦に改造された。船体前部第1−第3船倉の第2・第3甲板間にもう1枚甲板を敷いて床面積を増やし、各種工場、倉庫、作業員居住区を設け、露天甲板にも大型工作部品用の加工場を設置している。後部マスト両舷には20トン運貨船を積めるようにし、後部マストも三脚マストにして20トン・デリックの支柱兼用とした。損傷船舶の救難作業に使う排水ポンプも搭載している。総トン数6795トン。最大速力17.5ノット。兵装は127mm単装高角砲1門、25mm3連装機銃3基、25mm連装機銃2基、25mm単装機銃4丁、爆雷投下台、爆雷。太平洋戦争開戦時は第32特別根拠地隊付属だった。昭和19年1月、伊豆諸島南で潜水艦の雷撃を受け沈没した。参考:敷設艦
工作艦 給油艦 病院船
<やまぶき>:LSSL-433(警備艇)を参照。
<ヤママ>:A1ヤママ(UAV)を参照。
<ヤママYM−01>:サウジアラビアのプリンス・サルタン・ディフェンス社が開発した無人機YAMAMA YM-01。機体は炭素複合材製で、主翼は取り外しが可能。専用カタパルトで射出、INS/GPSによる完全自律で飛行、ネットまたはケーブルに引っ掛けて回収する。安定化装置付き光学/赤外線センサーなどを装備可能で、交信距離50kmのS/Cバンド帯データリンクを持つ。翼スパン4m、最大離陸重量38kg。エンジンはレシプロ(8.1馬力)、機内燃料容量15リットル、航続時間6時間。ペイロード4kg。IDEX2019で展示された。参考:月刊JWings6,’19
<山本旭>:やまもとあきら。大正2年、静岡県生まれ。昭和9年7月、海軍操縦練習生を卒業し、館山航空隊に配属された。大湊航空隊に転属した後、昭和10年11月に鳳翔に搭乗。昭和12年9月27日の広東空襲でP36ホーク1機を撃墜し、初戦果を挙げた。12月、霞ヶ浦航空隊に転属となり、本土に帰還。昭和14年10月、第12航空隊に転属となり、中国で任務に就いた。昭和15年7月、大分航空隊の教員となり、太平洋戦争時には加賀に搭乗。真珠湾攻撃で民間遊覧機を撃墜し、撃墜第1号となった。また、ヒッカム飛行場を銃撃して6機を破壊した。ミッドウェイ海戦では母艦直衛任務に就き、加賀沈没後に飛龍に着艦し再出撃、CV-5ヨークタウン攻撃部隊の護衛について4機を撃墜した。昭和17年7月、瑞鳳に搭乗し、南太平洋海戦後に飛曹長となった。昭和18年3月、ラバウル基地に派遣された。5月、横須賀航空隊に転属となり、本土に帰還。6月、硫黄島航空戦に参加。11月24日、本土空襲に現れたB-29を迎撃したが、被弾して墜落、脱出したものの落下傘が開かずに戦死した。公認撃墜数13機。最終階級は中尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<山本五十六>:日本海軍元帥やまもといそろく。気力と体力(と食欲)は凄まじく、海軍次官時代には連日半徹食事抜きの会議も平気の平左、日華事変勃発後に内外事件の対応で更に忙しくなると海相官邸に泊まり込み、航空戦隊司令官時代から艦上機が全機収容されるまで艦橋指揮所で見張りを続け、連合艦隊司令長官となってから出張以外で旗艦艦橋に姿を見せなかったのは病欠1日のみ、演習直後に疲れ切っている筈なのに士官室に顔を出して若い士官を相手に代わる代わる将棋を指し続けた。戦時中は概ね0400起床・0000就寝だったが、従兵の身が持たないということで朝は0630頃まで寝台にいて入浴は2100に済ませている。いつもは寡黙深沈だが一旦口を開くと舌鋒痛烈な皮肉屋で、海軍次官時代に東条陸軍次官の陸軍航空機自慢を聞いて「君のところの飛行機も飛んだか、それは偉い」と一撃を喰らわし、昭和14年頃にドイツとイタリアを訪問する中野正剛氏に対して「今頃行く必要は少しも無い、ルーズヴェルト大統領とチャーチル首相と是非懇談したまえ」と直言、高木惣吉海軍少将をして著書「山本五十六と米内光政」の章題に「降魔の毒舌」と書かしめる位だから、余程だったと思われる。気性も激しかったようだが、自覚して戒めていたらしく、座右の銘は「百戦百勝不如一忍」だった。一方で思いやりは深く、俸給の大半を遠い親戚にまでの仕送りに充て、自分の結婚が遅れる程だった。連合艦隊司令長官となり志布志湾に連合艦隊が回航した際、ついでの仕事で夜半に宮崎県都城駅に着いたが、傍で泣いている少女がいたため話しかけ、近く出征する兄に会えず困っていると聞くと自動車に同乗させて宿に泊め、翌朝には連隊長に直接電話して面会を実現させている。殉職者や戦死者を府県別にして姓名と現住所を書き留めた手帳を常に携帯していたが、太平洋戦争が始まりソロモンで激戦が展開されるようになると書き切れなくなり、この手帳も一杯になって数えるのも難しくなったと嘆いていたといわれる。海軍兵学校入学時に教官から信念を問われると、やせ我慢ですと答えたという。歌道を嗜み、明治天皇御製集、万葉集、白衣勇士の歌集を愛誦した。好んで揮毫したのは国雖大好戦必亡、天下雖安忘戦必危。自宅には東郷平八郎大将と斉藤大将の額、山下源太郎大将の掛け軸を飾っていた。海軍部内では米内光政大将、陸軍では第8方面軍司令官今村均大将を敬重していたという。河井継之助の、公職に就く時は人に一任しても退く時は自ら決断する、という遺訓を大いに評価し、座右の銘の一忍可以支百勇、一静可以制百動も愛誦した。お勧めの伝記はリンカーン。アルコールは過敏症で嗜まず、水饅頭、柿、パパイヤ、マンゴーといった甘いものが好物で、他にマタタビ・タンニン・ゼンマイの塩漬け、鱈の親子漬け、鮭、干しニシン、塩引などが好みだった。煙草は葉巻を特に愛好していたが、日華事変勃発以降は禁煙し、松平宮相が陣中見舞いに葉巻を送ろうとしたところ事変が終わるまで預かっていて欲しいと言われ、結局太平洋戦争で戦死したため、その葉巻は霊前に供えられた。勝負事と賭け事が大好きで、トランプのブリッジは東洋一を自称するくらい得意だった。ロンドン軍縮会議ではイギリス全権の一員であるチャットフィールド提督とブリッジで20ポンド勝ったまま帰国、いつかこの勝ち分は返さないと、と笑っていたというが、太平洋戦争開戦と本人の戦死で果たせなかったようである。井出大将の随行員として欧米視察を行った際には、モナコのカジノで勝ちすぎて世界で2番目の入場拒否を喰らったという噂が立った。勝っても負けても冷静にものを判断する修練になる、機を狙って勇往邁進し相手を撃破する修練が出来る、大胆克つ細心となる習慣を養える、と勝負事の三徳を挙げている。碁は駄目だが将棋は粘り強く、伏見宮軍令部総長に呼ばれて相手を務めた際には3番勝負に2日続けて全勝、3日目に御付武官の奥名氏からチット考えてやって下さいヨと忠告されたのにまた3連勝し、呆れ顔の御付武官に対して、大事な目上の方には全力をあげて誠心誠意お相手します、と涼しい顔だったという。26時間連続75番将棋を指した事もあり、自分が負けると体力にものを言わせて相手が疲れ切るまで勝負を続けるというごり押しも行った。明治17年4月4日、高野家の6男として新潟県古志郡長岡本町に生まれた。父が56歳の時に生まれたのが命名の由来で、父親としては51歳の時に生まれた5男が最後のつもりでスエッパチ(長岡の方言で末子の意)から季八と名付けていたため、悩んだ末に年齢をそのまま名前に流用したらしい。親に連れられて長岡在住のアメリカ人宣教師ニューエル氏の所に通っており、海軍士官になった後も聖書を愛読している。坂の上小学校に入学し、中学1年まで首席を維持、中学2年からは運動に熱中して校内一の運動選手となった。かわりに成績は十数番に落ちたが、明治34年3月の中学卒業時(18歳)には5番まで回復している。7月に江田島海軍兵学校を受験し、11月に第32期で入学。入学時の席次は2番(1番は塩沢幸一、3番は堀悌吉)だった。明治37年1月、海軍兵学校を卒業し、少尉候補生となった。明治38年1月、装甲巡洋艦日進に配置された。5月27日、日進の艦長伝令として日本海海戦に参加。1850、日進の前部砲塔左砲に命中した敵弾の爆風と弾片を受けて右下腿後部の肉をえぐり取られ、左手の人差し指及び中指を失う戦傷を受けた。5月30日、佐世保海軍病院で手術を受けた。6月8日、病院船で横須賀海軍病院に転院。8月、少尉に任官した。12月、横須賀海兵団に配置された。明治39年2月、須磨に配置された。4月、勲六等単光旭日章を授与された。賜金350円は父と甥に贈っている。8月、装甲巡洋艦鹿島に配置された。明治40年9月、中尉となった。明治41年6月、練習艦隊所属の阿蘇に配置され、遠洋航海で北米方面を巡航した。明治42年10月、大尉となり、練習艦隊所属宗谷の分隊長に就いた。ちなみに艦長は鈴木貫太郎大佐、候補生指導官付は古賀峯一中尉で、候補生として井上成美、小澤治三郎、大河内伝七、草鹿任一といった面々が乗艦していた。明治44年12月、砲術学校教官となった。同室は米内光政大尉である。佐世保鎮守府予備艦隊参謀を経て大正3年5月、横須賀鎮守府副官兼参謀となった。12月、海軍大学校に入学。大正4年12月、少佐に進級した。大正5年9月、旧長岡藩主の要請により、山本帯刀家に迎えられ、山本姓を名乗った。12月、海軍大学校を卒業して第2艦隊参謀となった。大正6年6月、軍務局員になった。大正8年4月、アメリカ駐在武官を命じられ、5月に横浜を出発。ボストンに滞在し、ハーバードに留学した。12月、中佐となった。大正9年、旭日小綬章を受章。ワシントンの国際通信会議に随員として参加し、ほぼ連日深夜から徹夜に及ぶ会議となったにも関わらず、次の日の予定には時刻通りに現れて駐米大使を感心させている。また、大使館一同に新しい中華料理屋へと誘われた際は夕食を済ませていたにも関わらず会食して3人前を平らげ、軍人なので寝だめ食いだめは武人の習いですと言って泰然としていたという。大正10年7月、日本に帰国。軽巡北上の副長を務め、数ヶ月して海軍大学校軍政学教官となった。大正12年12月、井出大将の副官として欧米視察中に大佐となった。ノーフォーク海軍大学校を視察した際、教室内に掲げられていた東洋の地図の日本近海にグリッド線が張り巡らされているのを見て、案内のアメリカ海軍士官に「この辺は海軍戦略研究には非常に良い場所でしょう」と笑顔で問いかけ、アメリカ海軍士官も笑みを浮かべ”Absolutely right.(そのとおりでございます)”と返している。「いずれ諸君とは太平洋上でお目に掛かりましょう」というのは作話らしい。大正13年12月、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭となった。副長室の壁には殉職者の姓名を掲示し、新入隊者にはまずその前で敬礼をさせ、殉職者の霊を祀るための霞ヶ浦神社を自ら委員長となって建立している。隊員に混じって長距離走にも参加し、若い隊員より倍も年を取っているのに2着に入った。大正14年12月、アメリカ在勤帝国大使館付海軍武官となり、大正15年1月21日に天洋丸で横浜を出港、アメリカに向かった。霞ヶ浦海軍航空隊は壮途を送るべく天洋丸に模擬爆撃を行っている。ある時アナポリス兵学校を視察した際、戦術教室で太平洋方面の授業が行われており、教官に東洋作戦を大いにご研究ですか、と尋ねたところ、教官も日本海軍ではどうです、と聞き返してきたので、ご同様です、と握手して別れたという。昭和2年にリンドバーグが大西洋横断飛行に成功したこともあって欧米では航空機への関心が高く、海軍航空でも天測航法や計器飛行といった科学的飛行術を発達させるべきとして、勘や天性の才能に頼りがちな従来の傾向を鋭く批判している。昭和3年3月、日本に帰国。8月、巡洋艦五十鈴の艦長となった。12月、空母赤城の艦長となった。着任してすぐ広島湾で艦上機を受領することになったが、天候が悪く艦が動揺し、1機目が着艦した際に海へと滑り落ちそうになり、自ら主翼に取りすがって止めようとした。これを見て山口多聞中佐らが次々と取り付き、何とか飛行甲板上で押さえることに成功している。昭和4年4月、済州島南方で演習中に悪天候のため艦上機が不時着水して乗員が行方不明になり、食事が喉を通らないほど憔悴していたが、佐世保に帰投すると乗員が民間船舶に救助されていたと判明、涙を流して喜んだという。10月、軍令部兼海軍省に出仕。11月、少将となった。ロンドン軍縮会議に参加することとなり、12月にロンドンに到着。昭和5年1月、ロンドン軍縮会議に参加。帰国後の6月、病気療養として自宅に引き籠もり、来客も断ったため、ロンドン条約に憤慨して退役するという噂が流れた。9月、海軍航空本部に出仕。12月、航空本部技術部長となった。民間航空会社を指導して航空機の国産化を図ると共に、外国からも積極的にライセンスを取得して技術導入を図っている。条約で制限を受けた水上戦闘艦に代わる漸減戦法戦力として陸上攻撃機の構想も実現させた。昭和6年、山下源太郎大将が危篤状態になり、昏睡から時々目覚めて夫人の姿を求めるため、疲労の極に達した夫人に代わり、女装して身代わりを務めた。10月、勲二等瑞宝章を受章した。昭和8年10月、第1航空戦隊司令官となった。日露戦争以来の艦隊決戦思想をとる末次連合艦隊司令長官に対し、そんな観艦式のような決戦は時代遅れも甚だしいとする山本五十六少将は航空戦力の実力を上層部に理解させるべく猛訓練に励み、特に夜間飛行能力の向上を図った。昭和9年4月、旭日重光章を受章。6月、第2次ロンドン会議予備交渉代表に転任することになり、軍令部兼海軍省に出仕。国際協調・軍縮賛成派であり、世論や海軍内部の情勢から再三固辞したが認められなかった。9月、第2次ロンドン会議予備交渉の帝国全権としてイギリスに向かった。出発に際して東京駅や横浜で決議文や宣言書を読み上げた何とか同盟とか連合会とかのとても落ち着かぬ連中が憂国の志士とは誠に危ない心細い次第だと、堀悌吉中将に手紙を送っている。本人は世界の平和と日本の安全のため軍縮を必ず成立させるとの意向だったが、日本政府はワシントン条約廃棄を決めた。11月、中将となった。昭和10年2月12日、ロンドンからシベリア経由で東京に帰国。一時は退役も考えたが、堀悌吉氏(山本五十六中将が出国中に退役に追い込まれた)が慰留に努めている。12月、海軍航空本部長となった。艦隊中心の訓練をされると計画の4分の1も航空部隊の訓練ができない予算状況だったが、この職なら一生でも任に就いていたいという職場であったから奮闘し、何とか工夫して必要な訓練を実施。昭和11年12月、広田内閣・永野海相の下で海軍次官となった。事務机正面の壁には宮嶋大八氏の筆による「流星光底長蛇」の書が掲げてあり、後に「百戦百勝不如一忍」の書に換えられた。2ヶ月後に広田内閣は退陣して林内閣・米内海相、更に4ヶ月後には近衛第一次内閣・米内海相となったが、引き続き海軍次官を務めている。昭和12年5月、大臣官房から戦時国際法規綱要を刊行。7月の日華事変勃発後、8月にイギリス大使射撃事件、12月12日にパネイ号誤爆事件が起こったため、事態の収拾にあたり、両方とも円満に解決した。昭和13年6月、大臣官房から軍艦外務令解説を刊行。11月、海軍航空本部長を兼任。昭和14年、勲一等瑞宝章を授与された。1月、近衛内閣が退陣して平沼内閣・米内海相となり、引き続き海軍次官に留任した。日独伊防共協定を三国同盟に発展させる案に対しては、ファッショ・ブロックとの提携で米英などとの対立に巻き込まれて国交を阻害する危険があり、防共強化の名目でソ連に加えて米英仏まで対象にすることには同意できないと、米内光政海軍大臣、井上成美海軍軍務局長と共に反対し続け、右翼団体が海軍省に連日押しかけてもデマや中傷の手紙をばらまかれても立場を貫き通し、海軍左派トリオと呼ばれた。5月9日夜、海軍省詰めの記者に対し、日独伊三国同盟問題で海軍はこれ以上譲歩できない、そのうち政変になるから記者団は天幕でも張っていた方が良い、5相会議で決まり内奏も済んだ方針(近衛内閣時代に決定した、防共強化はコミンテルン・ソ連対象に限定するとの方針)を勝手に変えるとは総理と陸相はけしからんと話し、陸海軍の枢軸同盟論者を震撼させたため、この頃から憲兵が警護に就くようになった。本人も相当の危険は覚悟していたらしく、死後に次官室金庫から「一死君国に報ずるは素より武人の本懐のみ、豈戦場と銃後とを問はむや」で始まる昭和14年5月31日付の一書が見つかっている。8月30日、連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官となった(本人は海軍次官留任を望んだが、右翼による暗殺を防ぐため米内海軍大臣が異動させたともいわれる)。直後に第2次大戦が勃発し、ドイツがヨーロッパを席巻したため、再び三国同盟締結の機運が急上昇。昭和15年9月、日独伊三国同盟締結に際しての海軍首脳会議で鋭い質問を飛ばしたが、及川古志郎海軍大臣がこれを無視して伏見宮博恭軍令部総長や最古参の大角大将らが締結に賛成、締結阻止は叶わなかった。10-11月頃、及川海軍大臣から海軍次官の策動が過ぎるので早めに換えた方が良いと思っており、軍令部強化策も採るべきで福留連合艦隊参謀長を一部長に採用して良いか、と打診を受けたため、三国同盟締結後という状況を考慮して日本の参戦を確実に防止するにはその程度では不徹底であり、無理な人事と承知はしているが米内光政大将を軍令部総長に据えるか、吉田または古賀氏を次長に置き、福留氏に補佐させ、海軍次官は井上成美氏として上下相呼応するくらいの事をしないといけない、と回答したが、及川海軍大臣は可とも不可とも返答しなかった。11月15日、海軍大将となった。11月末、及川海軍大臣から後任候補の打診があり、12月5日に書面で回答、米内光政大将を第1とし、これを除外すれば常識上古賀峯一、島田繁太郎、豊田副武、豊田貞次郎の各氏だが、両豊田氏は先ず除外してよく、古賀峯一氏が順序として妥当であるとしている。昭和16年1月24日、笹川良一氏に宛てた私信で、日米開戦となれば最終目標はグアムやフィリピン、ハワイやサンフランシスコではなく、ワシントンのホワイトハウスにあるという心づもりで自分は日々実力の錬成に精進しているが、政治家達はこれくらいの本腰の覚悟と自信を持って日米戦を論じているのか、と記した。太平洋戦争開戦後、政府が政治家達は云々の部分を削って新聞に公表し、宣伝工作に利用している。アメリカ海軍ニミッツ元帥は太平洋戦争終戦後の昭和21年1月10日にこのことを取り上げ、発言を意図的に歪めた軍国主義的日本政府と、それに協力した無節操な日本の新聞を批判、アメリカの報道の自由を称賛した(真珠湾攻撃の報道管制は忘れたらしい)。昭和16年5月、従三位に叙せられた。9月12日、近衛文麿総理大臣の要請で秘密裏に総理と会談。総理はアメリカ大統領に直接会って解決を図るつもりであると伝えた。万が一交渉が纏まらなかったら海軍の見込みはどうか、と問われたため、開戦になって1年くらいは随分暴れてご覧に入れるが、2-3年先は分からず、艦隊決戦は起きずに長期ゲリラ戦となる公算が高いと答え、山本は太平洋を縦横に飛び回り決死の戦をするので、総理も死ぬ覚悟で交渉して頂きたい、会談が決裂しても一抹の余韻を残して欲しい、外交にラスト・ワードはありませんからと述べている。9月19日、同郷出身者との会同で、日本には大和魂があるからアメリカなど恐るるに足らぬという発言を咎め、アメリカにはリンドバーグ大西洋横断飛行に見られるような科学的基礎に立つヤンキー・スピリットがあり、アメリカ人の学問に立脚した勇猛心、冒険心、明朗な元気に対して、暴虎馮河のきらいがある大和魂に自惚れていては大間違いだと諌めた。また、飛行機と軍艦の技術では日米が世界の先頭に立っているが、工業力ではアメリカの比較にならず、アメリカの光学・電波研究は驚くべき進歩を遂げていて、石油のことだけを取ってみても日本は絶対にアメリカと戦うべきではないと述べ、明治天皇の句を引き合いに出してあらゆる手段を尽くし絶対に戦争の不幸を避けなければならないとした。10月24日付の嶋田海軍大臣に宛てた手紙では、対米戦図上演習・兵棋演習の結果、南方作戦が順当に行っても甲巡以下の艦艇と航空機の損害が甚大で、航空機の補充能力も甚だしく貧弱なため、続く海上本作戦に即応することが至難であり、開戦劈頭に航空兵力で敵本営に斬り込んで物心共に当分起ち難き痛撃を加える外ないと考えるに至ったとし、またアメリカ海軍は必ずしも正攻法でなく南方作戦中の隙を突いて東京大阪を航空機で急襲する可能性があり、さほど損害が無かったとしても国論(衆愚の)は海軍に対して何と言ってくるか、日露戦争を回想すれば不安であると記した。軍令部などではこの航空奇襲作戦を大賭博の支作戦とし、航空全力を投入するのは以ての外との意見を持っているが、日華事変勃発から4年を経過して国力が疲弊しているのに、アメリカ、イギリス、おまけにソ連まで敵に回して十数年に渡る自存自衛の持久作戦を行うという戦争目的にそもそも無理があり、これを達成しようとすれば尋常一様の作戦では見込みが無く、桶狭間とひよどり越えと川中島を一緒にするしかないという状況に追い込まれている、とも述べている。また航空奇襲作戦に関し、敢行すれば全滅の可能性もある(作戦起案当初は航空戦隊1個と水雷戦隊1個だけで奇襲をかけることも考えていた)ので、航空部隊の意気が上がらない場合には自分が航空艦隊長官となって直率戦隊だけで攻撃を行うことも念頭にあるが、その場合には後任の連合艦隊司令長官として米内大将を充てて欲しいとした。最後に、大局を考えれば日米英衝突は避けるべきだが、非常の勇気と力が必要で、現状で残された衝突回避の道は尊き聖断の一途のみと記している。11月11日付の堀悌吉氏に宛てた手紙では、最後の聖断のみ残されているものの大勢は既に最悪の場合に陥っており、個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は誠に変なもので、これも命というものか、と記している。11月23日、山口県徳山で行われた陸海軍首脳部の最後の打ち合わせに参加し、対米交渉が成立した場合には12月7日0100までに出動部隊に引き揚げを命じるので即時撤退すること、と訓示した。これに対して指揮官数名が実行できないと反論したが、百年兵を養うは只平和を護らんがためである、命令を実行できないなら只今から出動を禁ずる、即時に辞表を出せ、と一喝した。12月1日午後、御前会議での太平洋戦争開戦決定を確認。海軍大臣官邸で海軍大臣と軍令部総長が主催する秘密の壮行会を終えると東京から連合艦隊司令部に戻った。途中の横浜駅で堀悌吉氏の見送りを受けている。12月8日の太平洋戦争開戦前後には参謀に対し、開戦の通告が攻撃前に届くよう手配してあるだろうな、と何度も念を押していた。真珠湾攻撃では特殊潜航艇による攻撃で乗員全員が還らなかった事に心を痛め、航空部隊で十分な戦果が挙げられると分かっていたら特殊潜航艇は出撃させなかったのに、と悲しんだという。この日に遺書をしたため、「大君の御楯とたゝに思ふ身は名をも命も惜まさらなむ」と詠んでいる。マレー沖海戦では航空機だけで戦艦2隻を撃沈。昭和17年4月のベンガル湾作戦の前、3月半ば頃に榎本重治氏に充てた手紙では、新聞は同じ戦果を何度も繰り返して新戦勝のように扱っているのに対し、米や靴下は何度も食ったり使ったり出来ず困ったものだが、物担当の商農相が代議士に打って出るくらいの余裕があるのは良いことだ、第一段作戦と共に子供の時間も終わり、風もそろそろ西に入ったので、満貫でも狙って出かけてみようかと思っている、としたためている。4月18日、日本本土奇襲作戦を喰らい、MI作戦・AL作戦の実施を決定。戦争に突入してアメリカが防備を固め、占領したとしても防御や補給が困難な地域の攻略には疑問点も多く、尋常一様ならざる作戦によりワシントンを目指す事を突き詰めた末のアクロバット的な結論だったのかもしれない。5月には航空戦で押され気味であり、米英は15万機の飛行機を作る以上はこちらも2万機くらいは必要、と手紙に記している。ミッドウェイ海戦で大敗した後、7月28日付の堀悌吉氏への手紙では、6月頃横須賀方面行きも止めになり万事再出発だが、これは本然の姿だろう、と記している。ガダルカナル戦ではヘンダーソン飛行場を夜間奇襲艦砲射撃で壊滅させるなど奇抜な発想により連合軍に対抗した。9月には反町栄一氏への書簡で、あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟と記し、ガダルカナル戦への決意を示している。開戦後1年を経た11-12月には、あれだけハンデキャップをつけて貰ったのも追々すりへらされる様で心細い、アメリカはその真価を発揮して来ているが日本は戦時態制が幾許か進展して艦船兵器燃料に幾許の増産を示したくらいで、前線将士が空拳とならないことを切に願うと手紙に記した。昭和18年1月28日、堀悌吉氏への手紙では、この先は油にしろ食料にしろ鉄にしろ、もっと真面目に考えねばならない、南方で戦う将兵に内地から食料を送っているようでは何時になっても船が足りないから自給自足に切り替えるつもりだが、なかなか皆がその気になってくれず、昨今漸く騒ぎ始めた、と書き記した。4月3日、い号作戦の指揮を執るためトラック環礁の武蔵を離れ、飛行艇でラバウルに到着。ラバウルから航空部隊が出撃する際には、最後の1機の姿が見えなくなるまで軍帽を振って見送った。4月18日、ブーゲンビル島上空で乗機を撃墜されて戦死、死後に元帥に列せられた。日本海軍が何年もかけて育て上げた艦隊決戦部隊を無用の長物にしてしまい、艦隊決戦以上に物量がものを言う航空決戦に日本を引きずり込むなど、かえって敗戦を早めたのではないかという批判も根強いが、本人に聞かせたら上記の通り昭和初期には既に観艦式のような海上決戦など起こる筈も無い、今後は航空決戦の時代と強調して海軍中枢とやりあっていた元帥のこと、太平洋戦争終結から数十年も経ってまだ日露戦争の頭をしている者がいるのかと「降魔の毒舌」で一笑に付すことであろう。太平洋戦争中は真珠湾攻撃を主導したとしてアメリカからは憎悪の対象であったが、終戦後の1946年1月13日に日本タイムスがニミッツ元帥の談話を掲載。山本五十六元帥がホワイトハウスで終戦命令を出すと豪語した、というのはプロパガンダで、本来は太平洋戦争開戦には最後まで反対の立場であり、開戦にあたっては軍人としての職務を全力で果たした人物であると、溝田主一日本海軍書記官の言葉も引用して弁護した。こういった評価に基づき、旧連合軍内での感情的な批判は薄れているという。参考:山本五十六と米内光政、ラバウル航空戦、月刊世界の艦船9,’14、9,’13増刊
<山本五十六記念館>:最後に搭乗していた一式陸攻の主翼や座席などが展示されている。所在地は新潟県長岡市呉服町1-4-1。開館時間10-17時、休館日は年末年始。入館料500円。参考:JShips Vol.46
<山本五十六連合艦隊司令長官搭乗機撃墜>:太平洋戦争時の昭和18年4月18日、南太平洋ソロモン海ブーゲンビル島上空で、6機の零戦に護衛された山本長官搭乗の一式陸攻が、ガダルカナル・ヘンダーソン基地から出撃したアメリカ陸軍航空軍339飛行中隊所属の16機のP-38に襲撃され、トーマス・ランファイア大尉により長官機が撃墜されて山本長官が戦死したもの。い号作戦中の昭和18年4月3日、連合艦隊司令部はトラックからラバウルに移動。これは宇垣纏参謀長の案で、山本長官はトラックに停泊中の大和からの無電による指揮で十分と考えていたが、説得に応じてラバウルに進出した。宇垣参謀長は更にブカ、ブイン、ショートランド、コロンバンガラ、ムンダといった最前線を視察し兵を激励するよう山本長官に提案した。山本長官もラバウルで士気を鼓舞される前線兵の姿に接し、作戦終了後にブイン及びショートランドにも激励に向かうことにした。また、陸軍第17軍への挨拶回りを行うという目的もあった。4月11日に宇垣参謀長がデング熱に罹患して4月14日まで入院しているが、山本長官は自分達だけでも視察に行くことを周囲に表明しており、激励への意欲は強かったようである。視察日程は4月18日と決定し、0600中攻でラバウル発、0800バラレ着、駆潜艇で0840にショートランド着、0945ショートランド発、1030バラレ着、1100中攻でバラレ発、1120ブイン着、1400中攻でブイン発、1540ラバウル着という予定が4月13日夕方にラバウルから各基地に向けてD暗号で打電された。電文内容は以下の通り。「機密第131755番電 着信者 第一根拠地隊、第二六航空戦隊、第十一航空戦隊各司令官、第九五八海軍航空隊司令、『バラレ』守備隊長 受報者 連合艦隊司令長官 発信者 共符 本文、発 南東方面艦隊司令長官、第八艦隊司令長官 連合艦隊司令長官4月18日左記に依り『バラレ』『ショートランド』『ブイン』を実視せらる 一、〇六〇〇中攻(戦闘機六機を附す)にて『ラバウル』発〇八〇〇『バラレ』着、直に駆潜艇(予め一根にて一隻を準備す)にて〇八四〇『ショートランド』着〇九四五右駆潜艇にて『ショートランド』発一〇三〇『バラレ』着(交通艇として『ショートランド』には大発『バラレ』にては内火艇準備のこと)一一〇〇中攻にて『バラレ』発一一一〇『ブイン』着一根司令部にて昼食(二六航空戦隊首席参謀出席)一四〇〇中攻にて『ブイン』発一五四〇『ラバウル』着 二、実施要領、各部隊に於て簡潔に現状申告の後隊員(一根病舎)を視閲(見舞)せらる 但し各部隊は当日の作業を続行す 三、各部隊指揮官、陸戦隊服装略綬とする外当日の服装とす 四、天候不良の際は一日延期せらる」。この長文を打電したことに第11航空戦隊司令は驚き、解読される恐れがあることから山本長官に視察中止を具申したが、聞き入れられなかった。この電文内容はアリューシャン列島ウラナスカ島ダッチハーバーのアメリカ海軍無線傍受所で探知されており、4月13日1755から5桁の数字が並ぶ乱数暗号として傍受されたものが解読され、4月14日早朝に真珠湾のOP-20-Gハイポ支局に転送された。4月14日0802、太平洋艦隊情報参謀がアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将に暗号解読文を手渡した。ニミッツ大将は、日本海軍には山本長官の替わりとなる人材がおらず、山本長官を殺害することで日本海軍に大きなダメージを与えるのみならず、日本国民の士気を大きく喪失させることができると判断、ニューカレドニア島ヌーメア基地の南太平洋方面艦隊指揮官ハルゼー中将に山本機撃墜計画を練るように伝えた。ハルゼー中将はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場のソロモン方面航空部隊司令官ミッチャー少将に実行可能かどうか確認を取ったところ、可能との返答が得られた。打電内容は極秘事項としてワシントン海軍省にも送られ、4月15日にノックス海軍長官に報告された。これを受けてノックス海軍長官は深夜にルーズベルト大統領と会談した他、陸軍航空隊最高指揮官アーノルド大将らとも会談し、敵最高指揮官殺害による政治的問題の有無などを確認した後、撃墜計画を推進することにした。ニミッツ大将はこの作戦を復讐作戦(デリンジャー作戦)と名付け、作戦命令をハルゼー中将に送り、ハルゼー中将は「孔雀は時間通り行動すると思われる、尻尾を団扇で煽れ」と追加してミッチャー少将に伝えた。また、ノックス長官も「ソロモン方面部隊は例え全滅しても山本長官機を撃墜せよ」との電報をミッチャー少将に送り、極秘電としてコピーと保存を禁止、作戦実施後の破棄を命じた。ヘンダーソン飛行場では陸海軍及び海兵隊が作戦協議を行い、海軍は駆潜艇の撃沈を主張したが、実際に作戦を行う陸軍航空隊は乗船の識別が困難なことと、戦果が不確実なことから、乗機の撃墜を主張し、後者が採用された。山本長官の編隊はブーゲンビル島ブイン飛行場北440マイルの地点を0935頃に通過すると見込まれたため、ヘンダーソン飛行場から日本軍対空監視所を避けてそこに向かう片道380海里のコースを取ることになり、最も航続距離の長い戦闘機であるP-38Gに310ガロン及び165ガロン入り増槽を装着し、船舶用の航法コンパスをコクピットに搭載して攻撃に向かわせることにした。それでも滞空時間には限りがあり、頼りになるのは「山本長官は時間に厳格である」という情報のみであった。4月16日の会議で、P-38G部隊は4機編隊4個の16機と予備2機を準備し、3個編隊+予備2機は護衛の零戦と戦わせ、1個編隊(第70戦闘飛行隊)を攻撃編隊として一式陸攻への攻撃に専任させることとした。パイロットは第13航空軍第339戦闘飛行隊(ガダルカナル島唯一のP-38部隊)から選ばれた他、第12・第70戦闘飛行隊の熟練搭乗員も参加した。増槽の送付も南西太平洋方面司令部に依頼され、4月17日夕方に届けられた。山本長官の護衛にあたる第204航空隊杉本丑衛司令は稼働機のほぼ全力にあたる20機の零戦を付ける予定としたが、連日の激戦で稼働率が30%前後にまで落ち込み、パイロットの疲労が蓄積していることを知った山本長官は、付近の制空権が日本の手中にあったこともあり、自ら護衛は6機で良いとした。4月18日早朝、山本長官の副官がマラリアで入院していた三和連合艦隊航空参謀を見舞い、長官からの「当分の間見舞ってやれぬが決して無理をするな、あせってはいかぬ、くれぐれも気をつけて十分静養するように」との伝言を伝えた。山本長官は南方基地を視察してすぐ帰ってくる予定なので、当分の間とは少しおかしいね、と三和参謀が冗談めかして言うと、副官もそういえばそうですね、と笑って辞去している。0725(現地時間)、アメリカ軍のP-38G戦闘機18機がヘンダーソン飛行場から出撃したが、1機はタイヤがパンクして離陸できず、1機は燃料系統の不調で引き返し、16機がブーゲンビル島に向かった。0800(日本時間0600)、第705航空隊の一式陸攻2機がラバウル飛行場を離陸。1番機に山本連合艦隊司令長官、副官、航空甲参謀、軍医長、乗員6名が、2番機に参謀長、主計長、通信参謀、航空乙参謀、気象長、乗員6名が搭乗していた。2番機には戦務参謀も搭乗する予定だったが、前日の作戦会議が長引いたため、専任参謀と共にラバウルに残っている。護衛の零戦は6機(2個小隊)で、0805に離陸し、快晴の天候の下、零戦は高度3000m(一式陸攻の右後上方)、一式陸攻は2500mを飛行してバラレへと向かった。P-38G編隊は高度50フィート(15.2m)で飛行を続け、ヘンダーソン飛行場から265度に160海里飛行し、290度に変針して78海里飛び、305度に変針して110海里飛行、70度変針して予定の邂逅地点付近に進出した。0925、P-38G編隊は11時方向のブーゲンビル島上空、高度4500フィート(1371.6m)付近に日本軍編隊を発見した。山本長官機が高度1350mを先行し、宇垣参謀長機は無線アンテナ支柱のビスを締め直すため減速しており、そのやや後方に続いていた。零戦は1個小隊ずつで護衛にあたっており、それぞれ担当する一式陸攻の450m上空やや後方を飛行していた。0935、攻撃編隊のP-38G4機はドロップタンクを落としたが、2番機のドロップタンクが離れず編隊から遅れ、4番機も2番機に追随したため、攻撃編隊指揮官トーマス・G・ランファイアJr.大尉機と攻撃編隊3番機レックス・T・バーバー中尉機が右前方にいる2機の一式陸攻目掛けて海面上高度15mから一気に上昇した。支援する12機のP-38Gは右旋回して日本軍編隊と併走し、高度5000mまで上昇した。攻撃編隊は一旦陸攻の後下方を抜けて左側に出た後、急降下で逃れようとする陸攻の前方に出て頭を抑え、そのまま右旋回急上昇を続けて右後方から陸攻に迫った。零戦隊はP-38G編隊を右前方高度1500m、距離2000mで発見したため増槽を落として迎撃に向かった。一式陸攻はバラレへの着陸態勢に入りかけており(バラレの海軍見張り所から中里建治上等水兵が双眼鏡で視認していた)、P-38Gに気付いてエンジンを全開にして逃れようとしたが、その前にP-38Gが迫ってきたため、長官機は右、参謀長機は左に急速90度超の大回避を実施した。P-38G攻撃編隊の1機は零戦の攻撃をかわして高度1800mまで上昇した後、反転して長官機を損傷させ、もう1機が尾部を破壊した。エンジンから火を噴いた長官機に護衛の零戦が近づいたところ、山本長官は第三種軍装に純白の手袋をはめて軍刀を握り、指揮官席で微動だにしていなかったという。直後に長官機は炎に包まれ、半回転してブイン西側モイラ岬の西北西9.8海里のジャングル内に真っ逆さまに墜落した。次いで宇垣参謀長搭乗の2番機をモイラ岬沖に発見したP-38G攻撃編隊は、2番機ベスビー・ホームズ中尉機がエンジンと胴体に銃撃を加えて撃墜したが、参謀長機は不時着水し、参謀長、主計長、主操縦手の3名が重傷を負いながらも脱出に成功した。護衛の零戦はP-38G攻撃編隊4番機を撃墜し、無傷でラバウルに引き返した。ラバウルには予定時刻になってもブイン到着の報が届かず、1030頃に護衛戦闘機から司令部搭乗機行方不明との連絡が入り、1109には第6根拠地隊指揮官から、0740頃に長官搭乗の陸攻2機がP-38戦闘機十数機と交戦して1番機がブイン西方11マイルのジャングルに突入、2番機がモイラ岬海上に不時着して参謀長、艦隊主計長、操縦員1名を救出との無電が入った。すぐさま南東方面艦隊司令長官の命で救出部隊が編成され、捜索機も離陸したが、手がかりは得られなかった。P-38G編隊のパイロット達は数日後にアメリカ本国に帰還、暗号解読を日本側に知られないため暫く箝口令が敷かれたが、すぐに1-3番機のパイロットに対して一階級昇進と陸軍戦功勲章、海軍十字章の名誉が与えられた。P-38Gには当時ガンカメラが付いておらず、ランファイア大尉とバーバー中尉が撃墜を主張、公式記録の記載も二転三転した挙げ句、結局共同撃墜ということになっている。4月19日、前日にトラック夏島基地からラバウルに山本長官を迎えに行っていた九七式飛行艇2機がトラックに帰還した。当然誰も乗せていなかったが、予定が変更になったためであると説明された。海軍航空機による捜索でブイン北方に墜落炎上している長官搭乗機を発見。駆逐艦から収容隊150名を海岸に上陸させ、12kmほど川沿いに遡って現場に到着、山本長官以下11名全員の戦死を確認した。その前に付近の陸軍部隊が現場に到着していたが、山本長官が火傷も負わず軍刀を握りしめて天を睨んでいたため、一見して生存していると見誤ったらしい。死因は顎から入って斜めに顔面を通過した貫通銃創と、背中からの盲貫銃創だった。手帳には「大君の御楯と思ふま心を残しおかまし命死ぬとも」の句が残されていた。負傷した参謀長らはトラック竹島の陸上機基地に後送された。4月20日、東京に「A機(山本長官搭乗機のこと)生存者なし、遺骸収容中」の電報「甲報四」が入った。4月21日、山本長官はブインで検死を受けた後荼毘に付され、4月23日早朝、ラバウルから一式陸攻がブインにある遺骨を引き取るため飛び立ち、その日のうちに帰投し、遺骨は戦艦武蔵に安置された。日本海軍はアメリカによる暗号解読の有無について調査したが、その恐れは無いと判断。しかし実際には、海軍暗号波壹で送られた山本長官の行動予定を記載した機密第131755番電(4月14日打電。翌日に暗号が新しい乱数表に変わった)が、ショートランド島からレカタ航空基地指揮官に宛てて日本海軍航空通信用F暗号により同一内容で電信されたため、アメリカ側は両者を突き合わせて完全に解読した。長官戦死の大本営発表は当初5月27日の海軍記念日前後を考慮しており、後任の古賀長官は横須賀鎮守府長官の身分のままでトラックに着任していた。しかし5月12日に連合軍がアッツ島に上陸、連合艦隊主力は内地に向かってアッツ島周辺で起こる可能性のある艦隊決戦に備えることになり、5月17日にトラックを出発した。このため大本営発表は5月21日1500(1700?)に早められ、内容は「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於いて全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈な戦死を遂げたり 後任には海軍大将古賀峯一親補せられすでに連合艦隊の指揮を執りつつあり」であった。また、元帥の称号を与えられて元帥府に列せられた他、正三位大勲位一等級が送られたことも発表された。6月5日に日比谷葬場で山本長官の国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政大将である。護衛に失敗した6名は、その後連日戦闘に駆り出され、7月末までに4名が戦死、1名が右手を切断する戦傷を負って内地に送還された。残る1名(杉田庄一)も8月26日の空戦で全身火傷を負い、その後復帰したが昭和20年4月15日に戦死している。トーマス・ランファイア大尉は戦後に世界就航した際、山本長官未亡人に白菊一束を贈って霊前に供え、遺族を激励した。参考:激闘太平洋戦記、月刊JWings2,’04、5,’12、月刊丸4,’07、12,’90、4,’17、山本五十六と米内光政、海軍操舵員よもやま物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、丸エキストラ版No.71、陸海軍学校と教育、日本海軍艦隊総覧
<山本一郎>:大正7年、愛媛県生まれ。昭和11年、海軍に入隊し、昭和14年12月に操縦練習生となり、昭和15年6月に卒業して大分航空隊に配属された。その後佐世保航空隊、龍鳳戦闘機隊に配属され、真珠湾攻撃時は翔鶴戦闘機隊の所属だった。昭和17年5月8日、4機を撃墜。10月26日、南太平洋海戦では僚機2機と共に9機を撃墜した。11月、上飛曹となり、大分航空隊教官となった。昭和18年末、空母乗員となった。昭和19年5月、飛曹長に昇進。6月19日、第601航空隊瑞鶴乗員として、あ号作戦に参加。F6F戦闘機2機を撃墜したが、被弾して戦死した。総撃墜機数11機。最終階級は少尉。参考:日本海軍戦闘機隊
<山本英輔>:海軍兵学校第24期卒。明治42年、海軍軍令部参謀だった際に航空研究着手を提言し、陸軍と協同で臨時軍用気球研究会を創設、次いで海軍航空術研究会を設置した。昭和2年、初代航空本部長となった。昭和4年11月11日、第1艦隊司令長官となった。昭和6年12月1日、第1艦隊司令長官を退いた。昭和37年7月27日、86歳で死去した。参考:日本海軍艦隊総覧
<山本権兵衛>:嘉永5年(1852年)、鹿児島生まれ。薩英戦争では12歳ながら後方で砲弾運びを手伝っている。戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いに参加。明治2年、海軍に入隊。海軍兵学校2期卒。明治11年5月から明治12年4月、扶桑に乗艦。その後、海軍兵学校碇泊練習艦の砲艦乾行で教官を務めた。明治13年10月7日、第5回遠洋練習航海を翌年に控えた龍驤に乗艦。しかし乾行での勤務時代に遠洋練習航海に外国人教師を乗艦させる必要は無いという建議を海軍兵学校長に提出しており、これを海軍省に伝えた兵学校長が辞任に追い込まれる事態が発生し、10月28日に龍驤を追われて乾行に戻され、明治14年に一旦非職にまで追いやられている。明治24年、高千穂艦長から海軍大臣官房主事となり、海軍部内大改革に着手。制度改革に加えて明治26年には将官8名と佐官・尉官89名を予備役編入で淘汰するという荒療治だったため、山県枢密院議長をトップとする海軍制度調査委員会が設置されて審査が行われる程だった。公平無私であると判定されたものの、かつて自身を非職に追いやった龍驤艦長らが対象に含まれている。朝鮮半島情勢が悪化し、日清戦争も近づいたある日、陸軍参謀次長川上操六中将と共に政府に呼ばれ、所見を説明することになった。主戦論を主張する川上参謀次長が作戦計画及び動員準備に始まって敵前上陸の話にまで雄弁を振るったのに対し、山本大佐は唐突に「陸軍に役に立つ工兵隊はあるのか」と発言。「あるならそれを使って九州の呼子から対馬、対馬から釜山に橋を架けたら造作も無く陸軍を送れるから、是非そうしたらいい」と続け、伊藤総理以下その場にいる全員の目が点になった。そこで改めて詳説に入り、強襲上陸作戦時の制海権の重要性、陸海軍協同作戦の史実、海軍戦時任務、前進根拠地や後方輸送の重要性などを説き、優勢な清国海軍をそのままにして敵前上陸を豪語するのは暴虎馮河であると斬り捨て、海軍の諸計画についても詳しく説明した。これに川上参謀次長も深く感心し、陸軍参謀本部に呼ばれて再度海軍の立場を説明、海軍軍備を強化して日清戦争に臨むこととなった。日清戦争終結・三国干渉を受けて六六艦隊案を立案。明治31年5月、中将に昇任。11月、海軍大臣となった。日露戦争が近づくと、連合艦隊司令長官に序列通りの日高壮之丞でなく東郷平八郎を抜擢。将官800名を詳細に分析研究し、鎮守府・艦隊司令長官クラスに対露戦のレポートを提出させ、強気の楽観的対露開戦論が並ぶ中でただ1通だけ日露海軍戦力とその配置から根拠地に至るまで綿密に検討して勝利の確率を導いたものを見い出した結果の人事だった。大正2年2月、総理大臣に就任。大正3年1月に発覚したシーメンス事件の責任を取り、3月に総辞職した。大正12年9月2日、総理大臣に就任。大正13年1月、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、総辞職した。昭和8年12月9日に死去した。参考:月刊世界の艦船9,'13増刊、2,'23、山本五十六と米内光政
<山本留蔵>:大正11年、北海道生まれ。昭和14年、海軍に入隊し、昭和15年11月に丙種飛行予科練習生となり、土浦航空隊に入った。昭和16年11月、大分航空隊で飛行練習生課程を修了し、千歳航空隊に配属された。昭和17年6月、第2航空隊に転属となり、本土に帰還。8月、ラバウルに進出。9月12日に2機を撃墜して初戦果を挙げた。昭和18年6月5日、ショートランド上空でF4U戦闘機1機を撃墜、艦爆5機を共同撃墜した。7月、厚木航空隊に転属して本土に帰還。11月、一飛曹に昇進。昭和19年2月、第203航空隊に配属された。6月24日、哨戒任務のため離陸した直後に墜落し、戦死した。公認撃墜機数11機。最終階級は飛曹長。参考:日本海軍戦闘機隊
<やまゆき>:DD-129(護衛艦)またはTV-3519(練習艦)を参照。
<やまゆり>:LSSL-437(警備艇)を参照。
<ヤマル>:ソ連アルクティカ級原子力砕氷艦5番艦Yamal。進水時はオクチャブルスカヤ・レヴォリューツォア(Oktyabrskaya Revolutsiya)という名称だったが、この名前に変更され、1992年に竣工した。1993年から北極観光を行っている。参考:月刊世界の艦船3,’00、月刊軍事研究11,’18
<ヤムク級>:ヤルムーク級を参照。
<彌生(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦3番艦。明治38年9月23日竣工、軍艦(駆逐艦)に類別された。明治38年12月12日に駆逐艦に類別変更され、大正元年8月28日に三等駆逐艦に変更された。大正13年12月1日除籍、大正15年6月16日廃船となり、8月10日に標的艦として海没した。参考:日本駆逐艦史
<彌生(2代目)>:日本海軍睦月型駆逐艦3番艦。大正15年8月28日竣工、第23号駆逐艦という名称で一等駆逐艦に類別された。昭和3年8月1日、弥生と改称された。昭和16年11月29日、トラックを出港。12月3日、ルオットに到着。12月8日、太平洋戦争開戦時は建制でも兵力部署でも第30駆逐隊に所属しており、1515にウェーク島攻略のためルオット島を出撃。12月11日、ウェーク島攻略戦で沿岸砲台の射撃を受けて小破。昭和17年5月4日、MO作戦の上陸部隊を乗せた輸送船12隻を護衛してラバウルを出港。5月6日、第6水雷戦隊所属で珊瑚海海戦に参加。9月11日、ラビ攻略中に爆撃を受けて東ニューギニア沖で沈没し、10月20日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、月刊コンバットマガジン7,’06、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,’83、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T
<ヤラ>:オーストラリア海軍ヒューオン級掃海艇Yarra。2015年11月、オーストラリア海軍Fleet Concentration Period演習に参加。参考:月刊世界の艦船11,’00、2,’16
<ヤララト級哨戒艇>:パキスタン海軍哨戒艇。設計には中国が協力している。全長39m、排水量188トン。兵装はC802艦対艦ミサイルなど。2番艦シュヤートなどが就役した。参考:JShips vol.48
<ヤルガヴァ>:ラトビア海軍スクルンダ級哨戒艇4番艇Jelgava、艇番号P-08。参考:月刊世界の艦船9,’14、月刊軍事研究3,’12
<ヤルス>:RS-24(ICBM)を参照。
<ヤルスM>:15P165M(ICBM)を参照。
<ヤルタ協定>:第2次大戦時の1945年2月4-11日にクリミア半島ヤルタ島のリヴァディア宮殿で行われた米英ソ首脳会談で決定された協定で、ソ連の対日参戦について定めた。ヨーロッパ戦線での戦闘が終結してから2-3ヶ月後にソ連が参戦することとし、その条件は蒙古人民共和国の現状維持、日露戦争で失われた利権の回復(南樺太返還、大連港の利権擁護・国際化、旅順港租借、東清鉄道と南満州鉄道の経営参加)、千島列島引き渡し、中国国民政府との友好同盟条約締結である。実際には友好同盟条約締結がなされないまま1945年8月8日にソ連は参戦した。参考:朝鮮戦争(上)、月刊丸9,’03
<ヤルドリム>:B611海外シリーズ(弾道ミサイル)を参照。
<ヤルバイ・クドゥレト・ギュンギョル>:A595(補給艦)を参照。
<ヤルムーク>:F-271(コルベット)を参照。
<ヤルムーク級>:パキスタン海軍コルベットYarmook級。ヤムク級またはヤームーク級かも。ダーメンOPV2300型で、オランダのダーメン造船所に2隻を発注し、ルーマニアのガラヅ造船所(ダーメン造船所傘下)で建造した。6.5mRHIB、11.5mRHIB、特殊作戦用ISOコンテナ2個を搭載できる。全長91.3m、幅14.4m、吃水4m、満載排水量2300トン。主機はCODAD方式、キャタピラー3516ディーゼル4基、出力13724馬力、最大速力22ノット、航続距離6000海里(12ノット)。兵装は遠隔操作式30mm機関砲1門(後日装備)、艦対艦ミサイル(後日装備)、ファランクス1基(上構後端上面)、小口径機銃。中型ヘリ1機とUAVを搭載可能。乗員138名。1番艦F-271ヤルムークと2番艦F-272タブークが2020年に就役した。参考:月刊世界の艦船2,'22、10,'20、5,’20、2,’21、1,’23
<ヤルムーク軍団>:第2戦車軍団(イラク)を参照。
<ヤレーナ>:ヤベルク(射撃指揮装置)を参照。
<ヤロスラブ・ムドゥリィ>:ロシア海軍ネウストラシムイ級フリゲート2番艦Yaroslav Mudry(Mudryy?)、艦番号727(2020年には777)。1988年起工、1991年進水、2009年7月(3月?)就役。2014年10月、パキスタンのカラチに寄港。アラビア海でパキスタンとの合同演習アラビアン・モンスーン2014に参加した。2020年1月20-21日、アデン湾で、補給艦エリニヤ、航洋曳船ヴィクトール・コネツイーと共に、ソマリア沖海賊対処第35次水上部隊DD-102はるさめとの海賊対処共同訓練(戦術運動、通信、立入検査、小火器射撃、クロスデッキ)に参加。2022年7月31日、サンクト・ペテルブルグでロシア海軍記念日祝賀行事に参加。参考:月刊軍事研究10,’09、4,’17、月刊世界の艦船6,’15、4,’20、10,’22
<柔い>:日本海軍のスラングで、かわいいこと。女性の場合は若いこともこう言う。参考:続日本海軍よもやま物語
<八幡丸>:雲鷹(空母)を参照。
<ヤン・ヴァン・ブラケル>:F825(フリゲート)を参照。
<ヤンキー>:UH-1Y(汎用ヘリ)を参照。
<ヤンキーT型>:667A型(原潜)を参照。
<ヤンキーU型>:667AM型(原潜)を参照。
<ヤンキー・エンジン>:J30シリーズ(ジェットエンジン)を参照。
<ヤンキー・ノッチ型>:667AR/AT型(原潜)を参照。
<ヤンク>:YANK。第2次大戦中にアメリカ陸軍が将兵向けに発行していたグラフ雑誌である。参考:世界の傑作機No.52
<ヤング>:DD-580(駆逐艦)を参照。
<ヤング・エンデヴァー>:オーストラリア海軍帆走練習艦Young Endeavour。オーストラリア建国200周年(1988年)を記念してイギリスが寄贈したもので、イギリスのブルック・ヨット社が建造した。マスト2本のブリガンティンである。全長44m、幅7.8m、満載排水量243トン。主機は帆+ディーゼル2基2軸334馬力、速力10ノット(ディーゼルのみ)/14.5ノット(帆+ディーゼル)、航続距離はディーゼル航行8ノットで2880海里。乗員33名(うち練習生24名)。1987年6月進水、1988年1月就役。2014年12月22日、男性練習生と女性練習生を12名ずつ乗せてシドニーを出港。2015年12月22日、世界一周航海を終えてフリーマントルに帰港。参考:月刊世界の艦船3,’16
<ヤングスタウン>:CL-94(軽巡洋艦)を参照。
<ヤングマン・フラップ>:フラップを参照。
<ヤング率>:弾性定数を参照。
<ヤンセイ>:AKA-93(攻撃貨物輸送艦)を参照。
<ヤンタル>:ロシア海軍プロジェクト22010海洋調査艦1番艦Yantar。2015年就役。9月、アメリカ東海岸からキューバ沿岸まで航行した。参考:月刊軍事研究11,’18、朝雲
<ヤンタル・シリーズ>:ソ連軍の画像偵察衛星Yantar(琥珀)。ゼニートの後継としてウクライナのユージノイェ設計局(OKB-586)で計画されたが、ミサイルの生産に忙殺されたため、1967年にOKB-1クイブィシェフ支所が引き継いだ。参考:月刊軍事研究6,’15、3,’08
<ヤンタル2K>:最初の実用型。ゼニートではカメラの焦点距離が球形回収カプセルの大きさに制限されるという欠点があったため、衛星の形状自体を円筒型レンズ筒周りに三角錐のカバーをかけたような形に変更し、三角錐の底部に展開式太陽電池パネル2枚を取り付け、三角錐中央外周にフィルム回収用カプセルを数個装着した。撮影したフィルムを適宜カプセルに収容して地上に投下することにより、衛星本体は1-2ヶ月間に渡り宇宙に止まることができる。全高6.3m、質量6.6トン。1974年5月に初めて打ち上げられたが失敗して自爆、12月に2号機が打ち上げに成功してコスモス697になった。1978年に実用段階に達している。参考:月刊軍事研究6,’15、5,’13
<ヤンタル・コメタ>:Yantar Kometa。フィルムカプセル回収式である。参考:月刊軍事研究3,’08
<ヤンタル・フェニクス>:Yantar Feniks。フィルムカプセル回収式。参考:月刊軍事研究3,’08
<ヤンタル・オクタン>:Yantar Oktan。フィルムカプセル回収式。参考:月刊軍事研究3,’08
<ヤンタル・コバルト>:Yantar Kobalt。フィルムカプセル回収式。旧式ではあるが価格が安いために2007年にも打ち上げられた。参考:月刊軍事研究3,’08
<ヤンタル・コバルトM>:フィルムカプセル回収式。参考:月刊軍事研究3,’08
<ヤンタル4KS1テリレン>:Yantar Terilen。ソ連初の電子光学式偵察衛星で、夜間撮影も可能。レニングラート光学器械合同(LOMO)が開発したCCDカメラを搭載しており、ポトク中継衛星を介して画像を地上にデータ送信できる。平均寿命250日。1982年12月にコスモス1426として初めて打ち上げられ、1990年までに15基が打ち上げられた。参考:月刊軍事研究6,’15、5,’13、3,’08
<ヤンタル4KS1Mネーマン>:Neman。テリレンの改良型で、光学赤外線カメラを装備しており、夜間撮影が可能。高度180-270kmの低軌道を周回し、静止軌道上のポトクまたはラドゥガ1通信衛星を経由して地上局にデータを送信する。平均寿命250日。1991年10月にコスモス2153として初号機が打ち上げられ、2000年までに9基が打ち上げられた。参考:月刊軍事研究3,’08、5,’13、6,’15
<ヤンタル4KS2>:ヤンタル4KS1の改良型だが、1983年に計画中止となった。参考:月刊軍事研究6,’15
<ヤンチァン>:770(ミサイル艇)を参照。
<ヤンファンアムテル>:オランダ海軍掃海艇。1942年3月9日、日本海軍駆逐艦荒潮の攻撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌
<ヤン・マンチュン>:973(駆逐艦)を参照。
<ヤンヤン級>:襄陽級(掃海艇)を参照。