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伊1(初代)>:日本海軍巡潜一型潜水艦、伊号第1潜水艦。大正15310日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第7潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和161231日、ハワイのヒロ埠頭を砲撃。昭和172月下旬から南方侵攻及びインド洋通商破壊作戦に参加。4月以降はガダルカナル・ニューギニア方面で作戦任務に就いた。昭和18129日、ガダルカナル島カミンボ沖で哨戒艇・魚雷艇の攻撃を受けた。雷撃により潜航不能となり、浮上砲撃で敵に命中弾を与えたものの、魚雷艇が横付けして来たため、先任将校が飛び移って敵兵を軍刀で切り倒したという。この後先任将校は艦に戻り、沈没を免れるため浅瀬に座礁させて乗員を脱出させたが、この際に暗号書類の処分が不十分で、艦内に残した古い暗号書及び陸地に埋めた戦略常務用暗号書Dをアメリカに奪われてしまった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ラバウル航空戦、続潜水艦気質よもやま物語、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T

伊1(2代目)>:日本海軍巡潜甲型改二潜水艦、伊号第1潜水艦。昭和19610日進水。未完成のまま終戦を迎えた。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊2>:日本海軍巡潜一型潜水艦、伊号第2潜水艦。大正15724日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第7潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和161231日、マウイ島を砲撃。昭和172月下旬から南方侵攻及びインド洋通商破壊作戦に参加。4月以降はガダルカナル・ニューギニア方面で作戦任務に就いた。昭和18910日、横須賀の吉倉防波堤に衝突して損傷した。昭和1947日、ラバウル北方でDD-465ソーフレイの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は54日、ニューアイルランド方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊3>:日本海軍巡潜一型潜水艦、伊号第3潜水艦。大正151130日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第7潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和161231日、マウイ島を砲撃。昭和172月下旬から南方侵攻及びインド洋通商破壊作戦に参加。4月以降はガダルカナル・ニューギニア方面で作戦任務に就いた。昭和17129日、ガダルカナル輸送作戦中にガダルカナル島のカミンボ沖でアメリカ海軍魚雷艇59号の攻撃を受けて沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊4>:日本海軍巡潜一型潜水艦、伊号第4潜水艦。昭和41224日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第8潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和172月下旬から南方侵攻及びインド洋通商破壊作戦に参加。4月以降はガダルカナル・ニューギニア方面で作戦任務に就いた。929日、ソロモン方面で攻撃貨物輸送艦AKA-9アルヘナを雷撃して損傷させた。1220日、ニューブリテン付近でSS-194シードラゴンの雷撃を受け沈没した。日本海軍は昭和1815日に消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊5>:日本海軍巡潜一型改潜水艦、伊号第5潜水艦。昭和7731日竣工。昭和85月、射出機を搭載する改装を受けた。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第8潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和17228日、ケンダリー付近で座礁した。55日、クェゼリンから450海里の地点で友軍の誤爆を受け、損傷した。昭和19719日、トラックから内地に向かう途中、サイパン東方200海里でDE-38ワイマンの攻撃を受けて沈没した。日本海軍も同日沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊6>:日本海軍巡潜二型潜水艦、伊号第6潜水艦。昭和10515日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊第8潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ方面で作戦に就いていた。昭和17111日、オアフ島南西500海里でCV-3サラトガに魚雷2本(1本?)を命中させ、大破させた。昭和19130日、ニューブリテン島のイボキ北岸で触礁した。630日、サイパン東方で空母らしきものを攻撃したとの通信を最後に消息不明となり、沈没認定された。714日、マリアナでアメリカ駆逐艦の攻撃を受け沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、第2次大戦のアメリカ軍艦、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊7>:日本海軍巡潜三型潜水艦、伊号第7潜水艦。昭和12331日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第6艦隊第2潜水戦隊直轄艦、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第2潜水部隊に所属し、ハワイ周辺で作戦に就いた。昭和161021日、佐伯湾で伊166と衝突。1217日、搭載機により真珠湾の偵察を行った。昭和171111日、搭載機でバニコロを偵察。昭和18216日から20日、補給物資を搭載し、221日に横須賀を出港、キスカに向かった。51日、キスカに入港し、物資を揚陸。54日、アッツ島北海湾に入港して物資を揚陸。58日、幌筵に帰投。512日、横須賀に帰港。513日、補給物資を搭載し、514日正午に横須賀を出港した。アッツ島に補給物資を揚陸する予定だったが、アメリカ軍に占領されたため行えず、一旦幌筵に集結した後キスカに向かい、補給物資を降ろして60名を収容、幌筵に帰投した。527日、第2次撤収のためキスカに入港。613日、第3次撤収でキスカから収容した100名を乗せて幌筵に帰投した。615日、第4次撤収のため幌筵を出撃。霧のため予定より1日遅れの6211430にキスカ島七夕岬南方10海里で浮上したところ、霧の中からDD-354モナガンのレーダー射撃を受けて砲弾2発が艦橋を破壊、メインバラストタンクにも浸水した上、第7潜水隊司令、艦長、航海長が死亡した。先任将校が臨時に指揮を執り、1515に旭岬南端へ擱座させ、沈没は何とか免れた。その後応急修理を実施。6221445に離礁し、1830に応急修理を終了、潜入は不能だが水上全力航行ができるようになった。2000、横須賀に向け出発したが、再びDD-354モナガンと砲戦になり、先任将校と機関長が戦死、砲術長が指揮を執って戦闘を継続し、2300に南水道二子岩に擱座した。630日、生存者は第5警備隊指揮下となり、艦は624日から75日まで5回に分けて爆破処分され、沈没した。遺体の収容は悪天候でできなかった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸3,90、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊8>:日本海軍巡潜三型潜水艦、伊号第8潜水艦。昭和131215日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第6艦隊第3潜水戦隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属で、ハワイ周辺で作戦に就いた。昭和1727日、シアトルを偵察した。827日、佐伯湾で磐谷丸と衝突した。112日、エフアテ島を搭載機で偵察した。昭和18年、Uボート(呂501)を回航するための要員をドイツまで運ぶことになった。艦長は5月に大佐に昇進し、転出する予定だったが、昭和177月から艦長の任に就いていて艦を熟知していたため、兵科・機関科の中少佐大尉定員には上級者を配員できるという内令を適応し、大佐の階級で艦長に留まらせた。海軍関係者6名、回航要員50名、兵器や図面などを積み込み、第2回遣独潜水艦として61日に呉を出港。この時、艦首発射管室及び予備魚雷格納室を居住区に改造し、逆探装置を装備した。610日、シンガポールに寄港。キニーネや生ゴム、錫などを積み込み、622日にペナンに入港。準備を終え、627日にインド洋に向け出港した。71日と76日にインド洋上で伊10から給油を受け、711日に喜望峰はるか沖の暴風圏内に突入。左舷飛行機格納筒付近の上構側板が剥がれてしまったため、嵐の中でロープを巻き付けて穴を塞いだ。724日、ドイツ側と連絡を取ることに成功。820日、大西洋アゾレス諸島西でU-161と合流し、821日に新型の逆探装置を受け取ると早速装備した。830日、3隻のドイツ水雷艇、ドイツ空軍直衛機と会合し、機雷原突破船の先導を受けて831日にブレスト港に到着した。105日、駐独海軍武官ら14名、魚雷艇用エンジン、レーダー、エリコン4連装20mm機関砲、航海用甲板時計など56品目の物資を積み込んでブレストを出港。武官の最上級者は少将であったが、乗艦直後に艦長の統制に全面的に従うと宣言した。118日、アフリカ沖で大型客船を発見し、攻撃しようとしたが、中立国船舶だったため中止した、。1110日、喜望峰沖420海里を通ってインド洋に向かった。1118日、第8潜水戦隊司令部からマラッカ海峡に敵潜がいる恐れがあるためシンガポールに向かうよう指示され、敵の連絡飛行場のあるココス島の150海里沖を迂回してスンダ海峡に向かった。122日、スンダ海峡を突破してジャワ海に入った。125日、シンガポールに到着、駐在武官らを降ろした。1210日、セレター軍港を出港して呉に向かった。途中、マニラ沖に潜水艦を発見したとの情報が入ったため、予想行動圏を避けて航行。バシー海峡は夜を待って通過、1221日、呉に帰港し、高速魚雷艇用エンジン、逆探、20mm機関砲などを降ろした。艦長は昭和181月に第11潜水戦隊専任参謀となった。昭和193月から10月まで、インド洋方面で作戦に就いた。昭和203302308、沖縄中城湾南東50海里でDD-560モリソンとDD-646ストックトンの爆雷攻撃を受け、浮上砲戦の後に沈没した。日本海軍は415日、沖縄方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,099,149,12増刊、日本海軍艦隊総覧、日本海軍艦隊総覧

伊9>:日本海軍巡潜甲型潜水艦、伊号第9潜水艦。昭和16213日竣工。128日、太平洋戦争開戦時は建制上は第1潜水戦隊、兵力部署では先遣部隊第1潜水部隊に所属し、ハワイ周辺で任務に就いていた。昭和17224日、真珠湾を搭載機で偵察。114日、ヌーメアを搭載機で偵察した。昭和18614日、キスカ島付近でDD-607フレイジアの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は615日、キスカ付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊10>:日本海軍巡潜甲型潜水艦、伊号第10潜水艦。昭和161031日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第2潜水戦隊直轄艦、兵力部署では連合艦隊先遣部隊要地偵察隊に所属し、ハワイ周辺で任務に就いた。昭和173月、第8潜水戦隊甲先遣支隊に配属、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。925日、ガダルカナル島の東10海里で爆雷攻撃を受けて小破した。昭和19217日、トラック空襲で損傷した。624日、サイパン東岸で第6艦隊司令部員の収容を行おうとするも失敗。74日、サイパン島付近でDD-551デビッド・W・テイラーとDE-185リドルの攻撃を受け沈没した。日本海軍はサイパン北東で消息不明になったとして72日に沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊11>:日本海軍巡潜甲型潜水艦、伊号第11潜水艦。昭和17516日竣工、第3潜水戦隊旗艦となった。昭和181221日、フナフチ島偵察のためトラックを出港。1231日、フナフチの潜航偵察を行い、戦艦など有力部隊が停泊中であると打電した。昭和19111日、第6艦隊司令部はフナフチの航空偵察を2月上旬に延期し、エリス・サモア方面の敵艦船を攻撃せよと下命した。その後消息不明となり、320日にエリス・サモア諸島付近で沈没・乗員全員戦死と認定された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,01、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊12>:日本海軍巡潜甲型改一潜水艦、伊号第12潜水艦。昭和19525日竣工。昭和1910月から12月中旬にハワイ及びアメリカ西海岸で作戦に就き、商船1隻を撃沈。帰投中にアメリカ駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は昭和20115日から連絡が途絶えたのを受け、131日にマーシャル方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊13>:日本海軍巡潜甲型改二潜水艦、伊号第13潜水艦。昭和191216日竣工。昭和206月初め、パナマ運河攻撃作戦準備のため七尾湾に入った。620日、パナマ運河攻撃作戦が中止され、代わりに光作戦(トラック環礁への彩雲輸送)に参加することになり、晴嵐と要員を降ろして七尾湾を出港、舞鶴に向かった。622日、舞鶴に入港。72日、舞鶴を出港。74日、大湊に入港。711日、彩雲2機を搭載して光作戦のため大湊を出撃したが、以降連絡がとれなくなった。716日、本州東方海域でアメリカ航空機と駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。81日にマリアナで沈没認定された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、月刊世界の艦船9,13増刊、日本海軍艦隊総覧

伊14>:日本海軍巡潜甲型改二潜水艦、伊号第14潜水艦。昭和20314日竣工。6月初め、パナマ運河攻撃作戦準備のため七尾湾に入った。620日、パナマ運河攻撃作戦が中止され、代わりに光作戦(トラック環礁への彩雲輸送)に参加することになり、晴嵐と要員を降ろして七尾湾を出港、舞鶴に向かった。622日、舞鶴に入港。72日、舞鶴を出港。74日、大湊に入港。717日、彩雲2機を搭載して大湊を出港、光作戦を完遂した。そのままトラック環礁で待機となり、終戦を迎えた。818日、大湊に向け出港。8271000頃、東京の北東遥か沖を水上航行中にアメリカ艦上機に発見され、DD-576マーレーとDD-659ダッシールに捕獲された。828日夜、人質として士官1名と下士官・兵40名がDE-739バンガストに移乗。8291000、相模湾の連合軍泊地に到着し、同じく捕獲された伊400の左舷側に接舷した。929日、横須賀を出港してハワイ(アメリカ本土?)に回航された。調査後の昭和21528日、ハワイ近海で海没処分とされた。参考:月刊世界の艦船10,118,12、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、歴史群像4,18、日本海軍艦隊総覧

伊15(初代)>:日本海軍巡潜乙型潜水艦1番艦、伊号第15潜水艦。昭和15930日竣工。10月中旬、能力試験を終えて横須賀に帰港。このテストで重油が外殻頂板の60カ所以上から漏れ出していると判明し、海軍配備全潜水艦の緊急油密・気圧テストが実施され、重油漏洩防止装置の開発が促進されることとなった。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制では第1潜水戦隊第1潜水隊、兵力部署では先遣部隊第1潜水部隊に所属していた。昭和17112日、アメリカのレーダーに探知され、ソロモン東方で駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1110日にガダルカナル島南東海面で消息不明になったとし、125日にソロモン北東で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本潜水艦物語、月刊世界の艦船9,149,13増刊、歴史群像6,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊15(2代目)>:日本海軍巡潜甲型改二潜水艦、伊号第15潜水艦。昭和19412日進水。未完成のまま終戦を迎えた。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊16>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第16潜水艦。昭和15330日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第1潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊特別攻撃隊に所属していた。昭和1842日、ショートランドで伊20潜水艦と衝突した。1216日、ラバウルで爆撃を受けて小破した。昭和19519日、ブーゲンビル島付近でDE-635イングランドの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は625日、ソロモン方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、帝国海軍太平洋作戦史T、アメリカ護衛艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧

伊17>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第17潜水艦。昭和16124日竣工。128日、太平洋戦争開戦時は建制では第1潜水戦隊第1潜水隊、兵力部署では先遣部隊第1潜水部隊に所属していた。昭和17221日、サンディエゴ沖に到達。223日、カルフォルニア州のエルウッド精油所を砲撃した。海岸から4000mの所に陣取り、1910-1945に上甲板弾薬収納庫の14cm砲即応弾17発を撃ち込み、擬装用潜望鏡を残して撤収。ただ不発弾が多く、桟橋とポンプ小屋を破壊したに止まり、不発弾処理中に砲弾が爆発して重傷を負った海軍兵がパープルハートを授与されている。製油所に駐屯していた兵士や対空監視哨が砲撃に気付いて報告したが、モントレーからサンディエゴに投下管制を敷いて沿岸沿いの国道101号線を封鎖したのは2000、哨戒機が捜索を開始したのは2200になってからだった。伊17はブランコ岬まで北上し、輸送船と油槽船を1隻ずつ撃破、その後横須賀に帰投した。1013日、エスピリサントを搭載機で偵察した。昭和18819日、ヌーメア沖40海里でニュージーランド海軍艦艇トウイ及び哨戒機の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1024日、オーストラリア方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,149,12増刊、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊18>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第18潜水艦。昭和16131日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第2潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊特別攻撃隊に所属していた。昭和17125日、ミッドウェイ島を砲撃した。昭和173月、第8潜水戦隊甲先遣支隊に配属、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。昭和18211日、ガダルカナル島南東でCL-50ヘレナ、DD-445フレッチャーの攻撃を受け沈没した。参考:激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、帝国海軍太平洋作戦史T、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧

伊19>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第19潜水艦。昭和16428日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第2潜水隊、兵力部署では機動部隊哨戒隊に所属し、真珠湾攻撃に参加。昭和1715日、搭載機により真珠湾の夜間偵察を実施。915日、雷撃によりCV-7ワスプを撃沈、BB-55ノース・カロライナとDD-415オブライエンを損傷させた。1019日、ヌーメアを搭載機で偵察した。1030日、ヌーメアを搭載機で偵察した。昭和181117日、搭載機によりハワイを偵察。その後ギルバート諸島方面に向かったが、1119日に消息不明となり、昭和1922日にギルバート諸島で沈没したと認定された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊20>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第20潜水艦。昭和15926日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第2潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊特別攻撃隊に所属していた。昭和17111-12日、サモアのパゴパゴを砲撃。昭和173月、第8潜水戦隊甲先遣支隊に配属、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。123日、甲標的甲型第8号をガダルカナルに向け発進させた。甲標的は泊地で雷撃をかけたが外れ、乗員2名はカミンボ沖で艇を自沈させてガダルカナルに上陸した。昭和1842日、ショートランドで伊16潜水艦と衝突した。830日から連絡が途絶えたため、日本海軍は1118日にニューヘブライズ諸島方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,143,17、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊21(初代)>:伊121(潜水艦)を参照。

伊21(2代目)>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第21潜水艦。昭和16715日竣工。1119日、横須賀を出港。1126日、単冠湾を出撃。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第3潜水隊、兵力部署では機動部隊哨戒隊に所属し、真珠湾攻撃に参加。搭載機による戦果偵察を行う予定だったが、敵空母の追跡を命じられた。結局追い付けずに終わり、その後は通商破壊作戦を行い、タンカー2隻を撃破した。昭和172月下旬、呉に帰港。3月、第8潜水戦隊丙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。519日、搭載機によりフィジーのスバ港を偵察した。524日、ニュージーランドのオークランド港を偵察。529日深夜から530日未明、甲標的によるシドニー湾攻撃を控えて夜間偵察を実施。65日、ミッドウェイ海戦に参加。68日、ニューキャッスルを砲撃。1027日、ソロモン東方でDD-356ポーターを雷撃して撃沈した。1119日、ギルバート方面に向かった。1127日から連絡が途絶え、1224日、ギルバート方面タラワ島付近で消息不明になったとして日本海軍から沈没認定された。参考:激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像12,09、潜水艦気質よもやま物語、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊22(初代)>:伊122(潜水艦)を参照。

伊22(2代目)>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第22潜水艦。昭和16310日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第3潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊特別攻撃隊に所属していた。1216日、ジョンストン島を砲撃。昭和173月、第8潜水戦隊丙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。65日、ミッドウェイ海戦に参加。105日以降、ソロモン群島東方で行動中に連絡が取れなくなった。日本海軍は1112日、ソロモン群島東方で消息不明になったとして沈没認定した。参考:激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊23(初代)>:伊123(潜水艦)を参照。

伊23(2代目)>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第23潜水艦。昭和16927日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第3潜水隊、兵力部署では機動部隊哨戒隊に所属し、真珠湾攻撃に参加。昭和1721日(131日?)、クェゼリン泊地でアメリカ海軍機動部隊の空襲を受けて艦尾を中破した。214日から行方不明となり、日本海軍は228日にハワイ南方で行方不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、潜水艦気質よもやま物語、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊24(初代)>:伊124(潜水艦)を参照。

伊24(2代目)>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第24潜水艦。昭和161031日竣工。128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第4潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊特別攻撃隊に所属していた。昭和17125日、ミッドウェイ島を砲撃。昭和173月、第8潜水戦隊丙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。67日、シドニーを砲撃。昭和18611日、アッツ島付近でアメリカ海軍駆潜艇第487号の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は同日、キスカ方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:激闘太平洋戦記、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊25>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第25潜水艦。昭和161015日竣工。11211415、横須賀を出撃。1600、三直哨戒配備を開始。1125日、真珠湾攻撃に向かうと任務の説明が行われた。艦尾の軍艦旗を降ろし、艦名を塗り潰した。11290600、日付変更線を越えた。1240200、敵地に近づいてきたため、昼間潜航を開始。126日、潜望鏡でアメリカ偵察機編隊8機らしきものを発見したため、深度30mに退避。127日、オアフ島付近の指定配備地点に到着した。128日、太平洋戦争開戦は建制では第1潜水戦隊第4潜水隊、兵力部署では先遣部隊第1潜水部隊に所属していた。128日夜明け前、無音潜航を開始。0815、聴音機に戦闘音が入り始め、やがて直接艦内に爆発音が響くようになった。脱出してくるであろう敵艦の待ち伏せ攻撃を行う予定だったが、付近に敵艦の音響は聴取されなかった。1210日夜、ハワイ南西D地点に急行せよという命令を受信し、水上航行で急行したが、直後に哨戒機の爆撃を受けた。その後大型巡洋艦2隻とレキシントン型空母、駆逐艦1隻が真珠湾を脱出したという報を受け、急行しようとしたが、哨戒機の爆撃を受けたため潜航してかわした。1211日午後、スコールに紛れて第2戦速の水上航行により哨戒機を振り切り、真珠湾から脱出する空母の追跡及び通商破壊のためアメリカ西海岸に向かった。1212日、ハワイの東400海里付近に到達し、昼間潜航を開始。1217日、シアトル基地から600海里に達した。12180000頃(日本時間)、アメリカ西海岸の通商破壊と1225日の西海岸要港砲撃、112日頃のクェゼリン帰投命令を受信した。12200445、サンフランシスコ沖30海里で漂泊警戒中に商船の右舷舷窓から漏れる光を発見。4番発射管の魚雷を発射し、右舷に命中させて撃沈した。その後、パナマ運河を通過したアメリカ艦隊をサンフランシスコ港沖で捕捉殲滅すべしという命令を受け、南下した。1225日、潜航中に駆逐艦と思われる音源を探知し、潜望鏡で確認、攻撃態勢に入ろうとしたが、振り切られた。西海岸要港砲撃は延期となり、結局中止されている。1226日、クェゼリン泊地に回航せよの命令によりサンフランシスコ港を離れた。600海里ほど西に進んだところで昼間も水上航行に移り、大掃除など越年準備を開始。1231日、特別に洗面器3杯の真水が配給され、乗員は出撃以来初の水浴(といっても体を拭くだけだが)を行った。聴音室と探信儀室には月桂冠が1本ずつ、御神酒として供えられた。艦はトビウオの群れに突っ込み、上甲板に大量のトビウオが打ち上げられたため、ザルで回収して元旦の御馳走にしている。昭和1712日、ハワイから空母1隻と大巡2隻が脱出したのを確認、D地点に向かい追跡撃滅せよとの命令を受け、指定地点に向かった。130530(日本時間)、哨戒機を発見したため、一旦潜航。1100に水上航行に移ったところ、艦橋に鳥が飛来し、見張り員の頭を小突いたため、見張り員が手を伸ばしたら偶然捕獲してしまった。神武天皇東征の際の金の鳶に倣い、艦のマスコットとすることにし、洗面所に入れた。14日、やはり狭いところに閉じ込めるのはかわいそうだということで鳥を艦橋に連れ出したが、飛び立とうとはしなかった。その後敵機6機を発見して潜航したため、さすがに何処かに飛び去ったようである。16日、敵艦隊はハワイとクェゼリン泊地の中間にあるジョンストン島の東250海里付近を航行するとの情報が入った。0700(日本時間。現地では深夜)、敵の探照灯らしき光芒を発見。第1潜水戦隊各艦にも無電を打ち、光芒の見えた方向に向け水上航行で接近した。181600、敵艦が無線交信しているのを方探でキャッチ。すぐに探知できなくなったが、190345に見張り員が左10度にラングレー型空母らしき艦影を発見。潜航して魚雷戦に移った。一旦見失いかけたが、0600に漂泊で飛行機を揚収しているのを発見、距離2000mで魚雷4本を放ち、3本を命中させた。護衛駆逐艦による反撃を避けるため深々度に潜り、聴音したが、敵航行音は聴取されず、単艦で航行中の敵空母を撃沈したと判定した。1500、浮上して第一戦速でクェゼリンに向かった。1101300、A海面に敵空母遊弋中という電報が入り、クェゼリンに帰投しつつ空母を捜索することになった。その後味方の哨戒圏に入り、艦名と日の丸を艦橋両舷に再記入し、軍艦旗を掲げた。111日、クェゼリン泊地に帰投した。整備のため飛行機格納筒の前扉を開けようとしたところ、内部で揮発油が漏れていて圧力が上昇しており、勢いよく開いた扉に跳ね飛ばされて乗員1名が死亡、1名が重傷を負った。131日明け方、泊地が敵機の空襲を受けたため、急速潜航したが、不意を打たれたためか前方35度に傾斜したまま海底沈座する羽目になった。空襲が去って浮上したところ、上甲板に積んでおいた生鮮食料品とビールが全て流出しており、乗員は大いに悔しがった。敵機を出撃させたとみられる主力艦3隻の情報を得たため、すぐに出撃して二戦速で探し回ったが、発見できなかった。27日、オーストラリア方面を偵察するためクェゼリンを抜錨した。29日、赤道を通過。214日、シドニー港に接近し、輸送船と思われる音源を聴取した。217日、艦載機でシドニーの偵察を行った。しかし予定時間を過ぎても帰ってこないため、発煙筒を発射。それを見つけた機は無事に帰投した。天測のずれが原因で、航空偵察の結果、甲巡1隻、駆逐艦2隻、潜水艦5隻、商船数隻が在泊しているのを確認した。218日、偵察のためメルボルンに向かった。220日、メルボルンまで160海里、オーストラリア大陸まで50海里の地点に到達。しかし波が高いため収まるのを待ち、226日にオーストラリア大陸から20海里の地点で艦載機を発艦させてメルボルンを偵察し、大型巡洋艦1隻、軽巡5隻、商船20数隻が停泊しているのを確認した。33日、ニュージーランドのウェリントン港に向け昼間水上航行を開始。34日、敵哨戒圏内に入った。36日夜、輸送船計4隻を発見したが、任務が偵察なので見逃した。夜半に陸上2kmまで接近して艦載機を発艦させようとしたが、強風でカタパルト射出ができず、水上発射しようとしたがデリックで吊り上げ中に風に煽られて主翼が艦橋にぶつかり破損、偵察は中止した。38日、ウェリントン港に5海里まで接近し、主翼を補修した艦載機で偵察を実施。商船2隻が停泊していたが、軍艦はいなかった。312日、陸から5海里の地点で潜航中に駆逐艦に発見され、爆雷攻撃を受けたが、軽微な損傷で済んだ。夜、オークランド島付近から艦載機を発進させ、オークランド港の偵察を実施。商船4隻のみで、軍艦はいなかった。その後は海上交通破壊作戦に移り、商船と思われる船影を発見して水上雷撃したが、方位盤が左に4度ずれており、命中しなかった。また、商船ではなく特設砲艦であり、砲による反撃を受けたが、命中は無かった。316日、重巡1隻と2万トン級商船1隻を発見し、攻撃しようとしたが、潜望鏡を発見されたらしく、逃げられた。319日、フィジー島スバ港の航空偵察を実施。偵察中に機が探照灯の照射を受けたが、でたらめの発光信号を送って難を逃れた。327日、トラック環礁まで1200海里の地点に到達し、艦名と日の丸を艦橋に記入して軍艦旗を掲揚した。その後トラック環礁を経由して横須賀に帰投することになり、44日、横須賀に入港。乗員には半舷上陸と32時間の休暇が与えられ、更に5日間の熱海休養が2度許可された。5111330、横須賀を出撃して北に向かった。517日、シベリア東の日付変更線を越えた。519日、ダッチハーバー南400海里に到達。520日、昼間潜航を開始。528日、アラスカのコジャック港偵察を行うことになり、霧の中で艦載機の発艦準備を開始したが、その最中に距離2000mで戦艦を発見。反転退避しつつ艦載機の発艦を急いだが、カタパルト故障で射出できなくなり、艦載機を一旦収容して最大速力で45分間航行、逃げ切った。カタパルトを修理して2000に艦載機を射出。港内に重巡3隻、駆逐艦8隻、商船6隻を発見した。偵察を終えて潜航に移った40分後、駆逐艦2隻の音源を探知。爆雷防御の号令をかけて深さ60mに潜ったが、発見されなかったらしく、爆雷攻撃は受けなかった。その後、シアトルに向け南下。途中、重巡と商船1隻ずつと思われる音源を探知し、魚雷戦用意・発射雷数6本の号令がかかったが、潜望鏡で敵の姿は見えず、艦載機で索敵しても発見できなかった。その翌日には哨戒機6機から爆撃を受けたが、急速潜航でやり過ごした。651200、音源を探知したため潜望鏡で確認すると、12000トン級商船だったため、1400(現地時間では夜)に魚雷2本を撃ち込んで撃沈した。ミッドウェイ海戦後、「一次攻撃は成功せるも有力なる敵機動部隊現れ遂にその目的を達する能わず作戦計画を変更せり」の第一報が入った。次いで「我空母大破四、小破一、伊68潜はヨークタウン型空母を撃沈せり」の第二報が入り、611日には艦隊旗艦から「空母4隻撃沈されたり」の電報を受け、艦内は悲憤に包まれた。612日、大型商船を発見。魚雷1本を命中させて大破させた。613日、8000トン級商船に魚雷2本を命中させた。更に油槽船1隻に魚雷を命中させ、浮上砲戦で14cm砲弾8発を撃ち込んでとどめを刺した。621日、アメリカ本土のアストリア沖に到達。623日、夜間に浮上してアストリア軍港内に侵入し、アストリア市街とみられる灯火に向け14cm砲弾17発(上甲板弾薬収納庫の即応弾全弾。20発説あり)を発射した。しかし実際にはコロンビア川を遡る必要があるアストリア軍港には侵入しておらず、太平洋上からコロンビア河口のスティーブンス沿岸要塞周辺を砲撃したもので、直接の被害は与えられなかったが、慌てて駆け出した守備兵が転んだりトラックにぶつかったりして負傷している。要塞からの反撃は無かった。その後、ダッチハーバーに向かった。625日、敵爆撃機6機を発見し、急速潜航で退避した。630日、伊5潜水艦と哨区を交替した。夜、横須賀に帰投せよとの電報を受け取った。78日、飛行機格納筒に白の識別ラインを記入し、日の丸を描いたキャンバスを両舷に取り付け、軍艦旗を掲げた。79日、艦内大掃除を実施。乗員には3升の真水が配給され、洗面所で入浴となった。711日、横須賀に帰投。815日、アメリカ本土爆撃のため横須賀港を出港。99日、アメリカ本土爆撃を実施。艦載機の帰投を待つ間に艦影を発見したため、揚収後に追跡したが、敵機3機の爆撃を受けて電信室の電線引き込み口が損傷、浸水して数名が負傷した。応急修理を行って北上し、コロンビア川の下流に入ったが、潜航中に浅瀬に乗り上げてしまい、何とか抜け出した。その後ハワイとサンフランシスコの間の航路を遮断せよという無電が入り、南下したが、D地区の作戦を取りやめB作戦を遂行せよという電報が入り、再度アメリカ本土爆撃を行うことになった。その翌日、商船に魚雷1本を命中させて撃沈した。929日、アメリカ本土爆撃を実施。次いで海上交通破壊作戦に移った。930日、商船に魚雷2本を命中させて撃沈した。106日、シアトル沖で17000トン級大型油槽船に至近距離での水上魚雷戦を仕掛け、魚雷1本を命中させて撃沈した。艦長は休息法を適用して乗員を3名ずつ艦橋に上げ、敵船の沈み行く様子を見せた。その後、商船を発見して雷撃したが、荒天と魚雷不調のため命中しなかった。この商船は実際には特設艦船だったらしく、直後に爆雷による反撃を受けたが、損傷は無かった。1010日、内地に帰還せよとの無電が入った。1012日、水上航行中に敵戦艦らしき艦影を視認。急速潜航して確認したところ、潜水艦2隻が単縦陣で航行していたため、艦に残っていた1本の魚雷を発射して1隻に命中させた。敵潜水艦は搭載していた魚雷が誘爆して轟沈、爆圧で本艦も揺さぶられた。残る1隻は威嚇砲撃をしながら去っていった。沈めたのは敵とはいえ同じ潜水艦ということで、艦内には普段と違った空気が流れていたという。後に、この時沈めたのはソ連の潜水艦L16であることが判明した。1018日、内地が近づいたため、塗粧作業を行い、艦名を記入、舷灯を設置して軍艦旗を掲げた。1024日、横須賀港に帰港。昭和1818日夕方、潜望鏡深度で潜航中に海上に集団漂流者を発見したため、急速浮上して救助にあたった。漂流していたのは2日前に乗船を沈められた日本陸軍兵で、117名を艦内に収容し、水上航行でラバウルに向かった。ラバウルまで60海里ほどの所で右舷に2条の雷跡を発見、1本が命中したが、不発のため難を逃れ、この魚雷が刺さったままでラバウルに入港した。916日、連絡が途絶えた。1024日、日本海軍がエスピリサント方面ニューヘブリデス諸島付近で沈没したと認定した。参考:潜水艦気質よもやま物語、続潜水艦気質よもやま物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,149,12増刊、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊26>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第26潜水艦。昭和16116日竣工。1119日、横須賀を出港。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第1潜水戦隊第4潜水隊、兵力部署では連合艦隊先遣部隊要地偵察隊に所属していた。昭和1767日、シアトル沖で貨物船コースト・トレーダーを砲雷撃で撃沈した。621日(20日?)、カナダのバンクーバー島にある無線羅針局併設エステヴァン岬灯台を砲撃。上甲板弾薬収納庫の即応弾17発(30発?)を撃ち込んだが、命中しなかった。831日、ガダルカナル島の南東260海里で空母サラトガを雷撃し、大破させた。1113日、エスピリツ・サントに離脱中のCL-52ジュノーを雷撃して撃沈した。昭和1978日、グアム島陸岸に接触した。1031日、レイテ島沖でアメリカ艦船の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1121日、フィリピン東方で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦のアメリカ軍艦、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、潜水艦気質よもやま物語、月刊世界の艦船9,149,12増刊、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊27>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第27潜水艦。昭和17224日竣工。3月、第8潜水戦隊乙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。昭和19213日、インド洋でイギリス駆逐艦G69パラディンとG56ペタードの攻撃を受け、パラディンの衝撃を受けて沈没した。日本海軍はインド洋方面で消息不明になったとして515日に沈没認定した。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊28>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第28潜水艦。昭和1726日竣工。3月、第8潜水戦隊乙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。517日、トラック南方でSS-199トートグの雷撃を受けて沈没した。それまでにインド洋通商破壊作戦で1584227トンを撃沈している。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊29>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第29潜水艦。昭和17227日竣工。3月、第8潜水戦隊乙先遣支隊に配属され、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。523日、搭載機でシドニーを偵察した。昭和18428日、インド洋洋上でドイツ潜水艦U-180からチャンドラ・ボースを収容した。この際、大時化で接舷できず、手旗信号も通じなかったため、ドイツ水兵が泳いで伊29を訪れ、軍医とドイツ語で話して漸く意思の疎通に成功している。ボースと副官はゴムボートで移乗した。115日、第4回遣独潜水艦として呉を出港。1114日、シンガポールに入港。駐独海軍武官16名とドイツ向けの物資を搭載、伊8潜水艦が装備していた逆探装置を装備して1216日にシンガポールのセレター軍港を出港した。伊34がペナン港外で待ち伏せ攻撃を受けたため、ペナンには寄らずにドイツに向かっている。1223日、インド洋でドイツ油槽船から補給を受けた。イギリスの目を逃れるため、喜望峰の600海里沖を回り込んで北大西洋に入った。昭和19213日、アゾレス諸島南でドイツの潜水艦と邂逅し、ドイツ海軍中尉1名と下士官2名を搭乗させた。艦内には黒パンやジャガイモを積んでおらず、米を糊のようになるまで煮て鶏のシチューを混ぜたりと工夫して提供した。潜航が長引くとドイツ中尉が一番先に体調不良を訴えるため、艦内汚染度のバロメーターとして利用したという。310日、ドイツ駆逐艦4隻と邂逅。護衛機7機もつき、水上航行でロリアンに向かった。311070021日?)、ロリアン港に到着。416日、関係者18名(14名?)、Me262Me163・イソタ魚雷艇の資料などを搭載し、新型の逆探装置を装備してロリアンを出港。714日、シンガポールに入港し、ドイツからの人員及び資料を降ろして呉に向かった。726日、バシー海峡でSS-276ソーフィッシュの雷撃を受け沈没し、艦橋当直員2名のみが救助された。参考:激闘太平洋戦記、続潜水艦気質よもやま物語、月刊丸6,019,03、月刊世界の艦船9,12増刊、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊30>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第30潜水艦。昭和17228日竣工。3月、第8潜水戦隊甲先遣支隊に配属、甲標的による第2次特別攻撃任務に就いた。411日、呉を出港してペナンに向かった。422日、ペナンを出港し、甲先遣支隊(インド洋作戦部隊)としてアラビア海及びアフリカ東岸で偵察・通商破壊作戦任務に従事。618日、マダガスカル島サントマリー岬南東250海里で特設巡洋艦報国丸から補給を受け、ドイツに引き渡す空母・魚雷設計図、雲母、生ゴムなどを積んで第1回遣独潜水艦としてフランスのロリアン軍港に向かった。この際、酸素魚雷を秘匿するため、九五式魚雷を降ろして八九式魚雷を搭載している。82日、中部大西洋でイギリス軍機の攻撃を受け、上甲板の一部を破損した。86日、ロリアン沖でドイツ海軍駆潜艇と合流し、ロリアンに到着した。乗員は上陸してパリへと向かい、立ち寄ったシャンゼリゼのレストランではBGMに軍艦マーチが流れたらしい。その後は潜水艦乗員休養地のシャトーネフへと案内されている。停泊中に騒音が大きすぎるとドイツ側から指摘されたため、主機や補機の台座に防振ゴムを設置するなどの改良を施し、大西洋の海面色に紛れやすいよう灰色に塗装し直した。823日、ウルツブルグ・レーダー、レーダー設計図及び日本人技術者1名、潜水艦用魚雷方位盤、20mm4連装機銃、エニグマ暗号機などを積み込んでロリアンを出港。108日、ペナンに到着、整備補給を行った。1010日、ペナンを出港。そのまま内地に向かう予定だったが、エニグマ暗号機の入手を急いだ兵備局長が独断でシンガポールへの寄港を命令。1013日、シンガポールに寄港し、エニグマ暗号機10台を降ろして内地に向かうため出港したが、東に3海里の地点でイギリス軍の敷設した機雷に接触して沈没した。佐世保工廠から300名が派遣されて沈没7日目に輸送物資の引き揚げが行われ、13名の遺体と共に大部分を回収したものの、ウルツブルグ・レーダーは破壊されて利用できなくなっていた。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、月刊世界の艦船9,12増刊、第2次大戦日本海軍作戦年誌、海軍技術研究所、丸エキストラ版No.71、日本海軍艦隊総覧

伊31>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第31潜水艦。昭和17530日竣工。114日、スバを搭載機で偵察した。1111日、搭載機でバコバコを偵察した。昭和18513日、キスカ島への輸送作戦を行い、キスカを出港。514日、キスカ方面で水上艦の攻撃を受けて沈没。同日、日本海軍はアッツ島付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ラバウル航空戦、日本海軍艦隊総覧

伊32>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第32潜水艦。昭和17426日竣工。昭和19323日、ウォッゼ島付近で機動部隊を発見したと無線交信したが、直後にDE-36マンラブと駆潜艇PC-1135の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は同日、マーシャル西方で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊33>:日本海軍巡潜乙型潜水艦14番艦、伊号第33潜水艦。昭和17610日竣工。926日、トラック環礁で工作船浦上丸から修理を受けていたところ、事故により沈没して33名が死亡した。昭和171219日に浮揚され、呉に曳航されて修理を実施。昭和195月末に完工した。61日、呉工廠を出港し、単艦訓練に入った。6130840、瀬戸内海伊予灘の由利島南方で訓練中に沈没し、102名が死亡した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,11、続潜水艦気質よもやま物語、月刊丸6,01

伊33沈没事故(1回目)>:昭和17926日、伊33はソロモン南方海域での襲撃任務を終えてトラックに帰投。故障した6番魚雷発射管の修理を行うため、特設工作艦浦上丸の右舷に接舷し、艦長と先任将校は打ち合わせのため浦上丸に移った。浦上丸からは技手と工員が伊33に移乗して修理に入ったが、海面にうねりがあったため艦首が波を被り、作業が難航。技手からアップトリムにして艦首を海面から露出させるよう依頼があり、掌水雷長は後部メインタンクに注水して艦首を0.3mほど持ち上げた。海面から十分に露出した1番・2番魚雷発射管から技手が中に入って修理に入ったが、浦上丸と伊33を繋ぐ舫い索のうち、後ろ数本のみに荷重がかかる形になったため、暫くして舫い綱が破断。艦尾側が海面下に沈み、後部兵員室ハッチから浸水して0920に水深36mの海底に沈没した。技手は魚雷発射管から脱出したが、艦内にいた航海長以下32名と、事故発生直後に艦内に飛び込んだ掌水雷長の計33名が死亡した。伊33の引き揚げは一度は失敗したが、二度目で成功し、昭和171219日に完全浮揚されて呉工廠に曳航され、修理を受けている。参考:月刊丸6,01、月刊世界の艦船8,14

伊33沈没事故(2回目)>:昭和1961日、伊33潜水艦は沈没事故の修理を終えて呉工廠を出港し、第11潜水戦隊への配備に備えて単艦訓練に入った。612日、愛媛県郡中港に入港。613日早朝、郡中港を出港して訓練に入った。0805、伊予灘の由利島南方で急速潜航訓練を開始したが、修理に使用したまま外し忘れた長さ150mm・直径50mmの円材が左舷吸気筒(荒天通風筒)頭部弁に詰まって閉まらなくなってしまい、機関室に浸水して0840に水深61mの海底に沈没した。発令所にも浸水したため、司令塔と発令所の間のハッチを閉鎖。艦長は司令塔内の乗員に脱出を命じ(自分は残った)、信号長を皮切りに15名が脱出したが、生きて海面に上ったのは2名のみであった。艦内に残った他の乗員は浮上に全力を尽くしたが、艤装不良が多く不可能で、1645には電動機室内の31名は皇居遙拝・君が代斉唱・万歳三唱を行っている。その後も浸水を防ぐ作業などを続けるも、艦内の102名(94名?101名?)全員が死亡した。戦後の昭和27年に売却され、北星船舶工業が引き揚げ作業を担当し、水中移動の後、昭和28621日に興居島手洗海岸沖で浮揚作業に成功した。7月から艦内調査が行われ、浸水を免れた魚雷発射管室からは殆ど損傷の無い13名の遺体が収容されている。89日に解体作業が行われる尾道の日立造船因島工場三庄ドックに入った。812日、本艦の修理に携わっていた元海軍技術大佐1名と少佐2名が調査のため前部魚雷発射管室に入ったが、浮揚後1ヶ月も経って完全に換気されている筈なのにガス中毒で死亡している。818日から解体作業が行われた。参考:月刊世界の艦船8,14、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,11、続潜水艦気質よもやま物語、月刊丸6,01

伊34>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第34潜水艦。昭和17831日竣工。昭和181013日(915日?)、第3回遣独潜水艦として呉を出港。1022日、シンガポールに入港し、生ゴムやタングステンといったドイツ向け物資を搭載、バラスト代わりにスズも積載している。1111日、シンガポールを出港してペナンに向かった。1113日朝、マラッカ海峡(ペナン島ムカ岬灯台の南南西1.8km)でP339トーラスの雷撃により沈没した。生存者14名。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、月刊世界の艦船9,12増刊、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊35>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第35潜水艦。昭和17831日竣工。121日、伊36と共に、第51通信隊20名を同乗させ大湊を出港。127日、キスカに到着し、第51通信隊を降ろした。昭和181123日、ギルバート方面に向かう途中、DD-602ミード及びDD-607フレジャーの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は昭和19110日、ギルバート方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,01、日本海軍艦隊総覧

伊36>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第36潜水艦。昭和17930日竣工。121日、伊35と共に、第51通信隊20名を同乗させ大湊を出港。127日、キスカに到着し、第51通信隊を降ろした。昭和191118日、第1次玄作戦に参加。昭和201月、第2次玄作戦に参加。4月、沖縄に向け回天特攻天武隊を発進させた。6月、マリアナに向け回天特攻轟隊を発進させた。628日、マリアナ付近で爆雷攻撃を受けて小破した。811日、呉で爆撃を受けて損傷した。終戦時は小破状態だった。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船6,01、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊37>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第37潜水艦。昭和18310日竣工。昭和194290700、ペナンを出港してシンガポールのドックに向かった。1000、ペナン南方20海里で艦左舷前方に触雷して左メインバラストタンク排水弁2カ所が破損、深度17mの海底に沈座した。事前に離艦して対空警戒にあたっていた零式小型水上偵察機が司令部に通報したため、救難艇が派遣され、1400に救難艇が潜水艦の位置通報信号灯に電源を繋ぎ、タンクを排水して1800に浮上、4300400にペナンに引き返した。53日に潜水夫による調査が行われ、トリムタンクも破損しているなど損傷が思った以上に大きいとのことでシンガポールで修理を受けることになった。1200、駆潜艇と共にペナンを出港。551200、シンガポールに入港し、調査の結果、修理には3ヶ月を要すると判明した。81日、修理が終わったためドックを出てセレター軍港に入港。85日、第8潜水戦隊司令部から呉への帰投命令が出され、ついでに閉鎖されるペナン水上機基地の要員を便乗させることになった。また、内地では物資が不足しているため、シンガポールでありったけの燃料や弾薬も詰め込んでいくことにした。89日、ペナン水上機基地整備員20名を同乗させた。8100700、セレター軍港を出港。0900、軍港を見張っている敵潜水艦を警戒して戦闘配備を下命。816日、敵潜5-6隻が常時哨戒していると予想されるバシー海峡に入ったため、1時間潜航・30分浮上航行を繰り返し、丸1日かけてバシー海峡を通過した。以降も敵潜のレーダーを警戒し、昼間は浮上航行、夜間は潜航を行って8230400に豊後水道に到達、呉軍港に入った。825日、佐世保に回航され、回天搭載改装を開始。113日、大津島で回天4基を搭載し、第1次玄作戦に参加する菊水隊をコッソル水道に輸送するため大津島を出撃。1119日、パラオに向かう途中、パラオの北20海里でDE-439コンクリンとDE440マッコイ・レイノルズの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は126日、パラオ付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊38>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第38潜水艦。昭和18131日竣工。昭和191112日、パラオの東でDD-449ニコラスの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は126日、フィリピンの東で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊39>:日本海軍巡潜乙型潜水艦、伊号第39潜水艦。昭和18422日竣工。1126日、タラワ方面でDD-446ラドフォードの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は昭和19220日、ギルバート方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊40>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第40潜水艦。昭和18731日竣工。1126日、ギルバート諸島でアメリカ駆逐艦の攻撃を受け沈没した。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊41>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第41潜水艦。昭和18918日竣工。昭和19113日、ルソン島の東でCL-96リノを雷撃して損傷させた。1118日、フィリピンの東で護衛空母アンツィオ艦上機及びDE-415ローレンス・C・テイラーの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は122日、フィリピン方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊42>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第42潜水艦。昭和18113日竣工。昭和19323日、パラオからラバウルに向かう途中、SS-282タニーの雷撃により沈没した。日本海軍は427日、アドミラルティ付近で消息不明となったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊43>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第43潜水艦。昭和18115日竣工。昭和19215日、トラック北方でSS-309アスプロの雷撃により沈没した。日本海軍は48日にトラック方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊44>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第44潜水艦。昭和19131日竣工。昭和203月、沖縄付近で回天を発進させた。4172320、南大東島の北北西60海里でCVL-29の艦上爆撃機3機、DD-532ヒーヤマン、DD-534マッコード、DD-687ウールマン、DD-691メルツ、DD-730コレットの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は52日、沖縄付近で行方不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸6,01、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊45>:日本海軍巡潜乙型改一潜水艦、伊号第45潜水艦。昭和181228日竣工。昭和191028日、フィリピンの東でDD-380グリッドリー及びDD-388ヘルムの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1121日、フィリピンの東で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊46>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第46潜水艦。昭和19229日竣工。42日、水無瀬燈台付近の水中で呂46潜水艦と接触事故を起こした。1024日、フィリピンの東でDE-403リチャード・M・ローウェルの攻撃を受けて沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊47>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第47潜水艦。昭和19710日竣工。1118日、第1次玄作戦に参加。1225日、第2次玄作戦のため回天4基を載せて大津島基地を出撃。1230日黎明、グアム西540kmで潜航に移ろうとした際、人の乗った筏を発見。不時着水したB-29の乗員と思って近づいたところ、グアムから1週間前に脱出して漂流していた海軍陸戦隊5名と海軍軍属3名だった。艦が生還できる保証は無いため、食料と水だけ与えてフィリピンに向かわせようとしたが、回天乗員の進言で艦に収容している。1120415、回天4基を発進させた。4月、沖縄に向け回天特攻天武隊を発進させた。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊48>:日本海軍巡潜丙型潜水艦、伊号第48潜水艦。昭和1995日竣工。昭和20123日、第2次玄作戦に参加したが、ウルシー付近でDE-438コーベジェ、DE-439コンクリン、DE-162レヴィの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は121日にウルシー付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊51>:日本海軍海大一型潜水艦、伊号第51潜水艦。大正104月起工、1129日進水、大正13620日に第44潜水艦という名称で竣工。111日、伊51に改称された。昭和3年、訓練用潜水艦に転用された。昭和6年、ディーゼル2基と推進軸2軸を撤去し、装備実験任務にも就くようになった。昭和14年末、予備役に編入された。昭和1541日、除籍された。その後は佐伯湾内に繋留され、太平洋戦争中は航空隊の爆撃標的として使用されている。終戦時は佐伯湾中浦村沖合で沈没状態だった。参考:日本潜水艦物語、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊52(初代)>:日本海軍海大二型潜水艦、伊号第52潜水艦。大正11214日、第51潜水艦として起工。612日進水、大正13111日に伊52に改称された。大正14520日竣工。第17潜水隊に配備され、艦隊随伴型潜水艦として使用された。昭和3年、呉防備戦隊に編入され、防備艦及び訓練艦として使用された。昭和10年、舞鶴の機関学校に配備され、訓練潜水艦となった。昭和14年、艦籍が舞鶴に移された。昭和16年、艦籍が呉に移され、潜水学校の訓練・実験潜水艦として使用された。昭和17520日、伊152に改称された。81日に除籍となり、以降は潜水学校で繋留訓練艦として使用され、終戦時は潜水学校平生分校にあった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、日本海軍艦隊総覧

伊52(2代目)>:日本海軍丙型改潜水艦、伊号第52潜水艦。昭和181228日竣工。昭和193月末、第5回遣独潜水艦として呉を出港。423日、関係者14名、金の延べ棒2トンを含むドイツ軍向け物資を搭載してシンガポールを出港。623日、アゾレス島北方の洋上でドイツ潜水艦と合流し、ロリアンに向かったが、625日(24日?)にACV-9ボークの艦上機による爆撃で沈没した。日本海軍は82日、ビスケー湾方面で消息不明になったとして沈没認定した。戦後に潜水調査が行われたが、金の延べ棒は見つかっていない。参考:激闘太平洋戦記、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸6,01、月刊世界の艦船9,12増刊、日本海軍艦隊総覧

<伊53(初代)>:伊153(潜水艦)を参照。

伊53(2代目)>:日本海軍丙型改潜水艦、伊号第53潜水艦。昭和19220日竣工。急速潜航の特訓を行い、乗員艦内収容時間6秒9の記録を立てた。この訓練時に突入成績がトップだった福本一曹は、プロ野球盗塁記録を打ち立てた福本豊選手の父親であるという。昭和191113日、南鳥島の南48海里で爆雷攻撃を受けて損傷した。昭和201月、第2次玄作戦に参加。330日、山口県小祝島付近で触雷して航行不能になった。721日、沖縄でAPA-200マラソンを雷撃して損傷させた。724日、ルソン島北東で回天特攻多聞隊を発進させ、DE-682アンダーヒルを撃沈した。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、特別攻撃隊、歴史群像10,084,16

<伊54(初代)>:伊154(潜水艦)を参照。

伊54(2代目)>:日本海軍巡潜乙型改二潜水艦、伊号第54潜水艦。昭和19331日竣工。715日、マリアナ西方で運砲筒と衝突した。1028日、フィリピンの東でDE-404エバーソールを撃沈した。同日、DE-634ホワイトハーストの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1120日、フィリピン東方で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

<伊55(初代)>:伊155(潜水艦)を参照。

伊55(2代目)>:日本海軍巡潜丙型改潜水艦、伊号第55潜水艦。昭和19420日竣工。715日、テニアン島西方30海里でアメリカ海軍護衛駆逐艦の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は同日テニアン付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

<伊56(初代)>:伊156(潜水艦)を参照。

伊56(2代目)>:日本海軍巡潜乙型改二潜水艦、伊号第56潜水艦。昭和1968日竣工。昭和201月、第2次玄作戦に参加したが、攻撃を断念した。3月、沖縄付近で回天を発進させた。45日、沖縄西方でDD-475ハドソンの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は52日、沖縄付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

<伊57>:伊157(潜水艦)を参照。

<伊58(初代)>:伊158(潜水艦)を参照。

伊58(2代目)>:日本海軍巡潜乙型改二潜水艦、伊号第58潜水艦。昭和1997日竣工。昭和201月、第2次玄作戦に参加。7月、沖縄に向け回天特攻多聞隊を発進させた。729日、重巡インディアナポリスを撃沈。昭和214月1日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊60>:日本海軍海大三型b潜水艦、伊号第60潜水艦。昭和2年起工、昭和41224日竣工。昭和14年、伊63と衝突事故を起こした。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第5潜水戦隊に配備されていた。昭和17117日、スンダ海峡でイギリス駆逐艦F85ジュピターの攻撃を受けて沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊61>:日本海軍海大四型潜水艦、伊号第61潜水艦。昭和446日竣工。昭和16102日、夜間訓練のため灯火管制をかけて航行していたところ、壱岐水道で特設砲艦木曾丸と衝突して沈没、引き揚げられて解体された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,01、日本海軍艦隊総覧

<伊62>:伊162(潜水艦)を参照。

伊63>:日本海軍海大三型b潜水艦、伊号第63潜水艦。大正15年起工、昭和31220日竣工。昭和1422日、豊後水道で伊60と衝突事故を起こして沈没し、81名が死亡した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船6,83、日本海軍艦隊総覧

伊63沈没事故>:連合艦隊が訓練を行っていた昭和1422日、第28潜水隊は豊後水道水ノ子灯台北方で主力艦部隊に対する夜間襲撃教練を行う予定としており、所属潜水艦は所定の配備点に向かっていた。視程は5kmで、海面には風による白波が立つ状況だった。0550、伊63潜水艦は予定時刻よりも早く水ノ子灯台北西6海里の配備点に到着し、北東に艦首を向け、舷灯と艦尾灯だけを点けて漂泊、乗員は順番に艦外で一服、艦長は艦内に下り、当直士官が潜航に備えた準備を行っていた。伊60潜水艦は昼間の訓練で機関不調となり、点検修理を行ったため配備点に向かう時間が遅れてしまった。航海長は海図に配備点を記入したが、間違えて伊63の予定位置を付けてしまい、艦長も当直士官も気付かなかった。伊60は間違った配備点目掛けて航行し、見張り員が前方に2つの白灯を発見した。報告を受けた伊60の当直士官は前方に小型漁船2隻がいると判断し、右側が明るかったためそちらの方が近くにいると考えたが、目測でまだ距離があったため、そのまま前進した。実際にはこの明るい方の白灯が伊63の艦尾灯だった。その後、伊60は少し右に針路を変え、前方の船舶をやり過ごそうとしたが、今度は右の白灯の更に右側に弱い緑色灯を発見。もう1隻の小型船が前方から右舷を見せてすれ違ってくるものと考えたが、この緑色灯は伊63の右舷灯で、伊60の右舷後部に突入する態勢になっていた。1805、伊63の見張員が南東方向から接近してくる赤と緑の舷灯を発見。伊63に向かって真っ直ぐ進んでくることは確実だが、報告を受けた伊63の当直士官はこちらも灯火を点けているので避けてくれるものと思い、処置は執らなかった。しかしその後も直進してくるため、当直士官が信号灯で誰何をかけたところ、伊60であると返答が返ってきた。伊63の当直士官は続けて自艦の艦名を応答し、右に回避するよう信号を送ったが、伊60の方では艦名は受信できたものの、その後の回避要請は信号灯が強すぎて内容を判別できなかった。伊60の当直士官は相変わらず白色灯を2隻の小型漁船のものと考えており、伊63は緑の右舷灯をこちらに見せながら反航してくるという判断を継続、左右どちらに転舵してもぶつかる恐れがあるので、速力は12ノットに落としたものの、針路はそのままにして漁船と伊63の間を通過しようとしたが、実際には伊63の艦尾灯と右舷灯の間に突進していた。伊63の当直士官は衝突回避のため一旦前進を命じたが、すぐ停止に変更。異変に気付いた伊63艦長が艦橋に上がると、右舷側の目の前に伊63がおり、すぐに両舷前進一杯、面舵一杯、サイレン吹鳴を下命。伊60の見張り員は漸く直前の潜水艦に気付き、サイレンも聞こえたため、伊60の当直士官は面舵一杯を命じたが間に合わず、伊63艦長が防水扉閉めを叫んだ瞬間に伊60が伊63の右舷中央部に衝突した。伊63は破孔から一気に浸水して水雷長以下81名を乗せたまま水深97mの海底に沈没した。安全潜航深度は60mで、海面上には空気や油が浮かび、船体は圧壊して生存者は無しと判断された。艦橋にいた艦長らは海に放り出されたため奇跡的に助かっている。伊63捜索のため海軍は西村式豆潜2隻を運送船金龍丸に乗せて現場に急派し、1ヶ月後に伊63の位置を確認することに成功した。伊63は昭和151月に引き揚げられて遺体が収容された。参考:月刊世界の艦船6,01、月刊丸6,01、日本潜水艦物語

<伊64>:伊164(潜水艦)を参照。

<伊65>:伊165(潜水艦)を参照。

<伊66>:伊166(潜水艦)を参照。

伊67>:日本海軍海大五型潜水艦、伊号第67潜水艦。昭和4年起工、昭和788日竣工。昭和15829日、演習中に南鳥島沖で行方不明となり、喪失認定された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

<伊68>:伊168(潜水艦)を参照。

<伊69>:伊169(潜水艦)を参照。

伊70>:日本海軍海大六型a潜水艦、伊号第70潜水艦。昭和10119日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第12潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。1210日、ハワイ付近でCV-6エンタープライズの艦上機による攻撃を受けて沈没した。同日、日本海軍も喪失認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊71>:伊171(潜水艦)を参照。

<伊72>:伊172(潜水艦)を参照。

伊73>:日本海軍海大六型a潜水艦、伊号第73潜水艦。昭和1217日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第20潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。昭和17129日、真珠湾付近でDD-393ジャービス、エリオット、トレバー、ロングの攻撃を受けて戦没した。日本海軍の沈没認定は127日。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

<伊74>:伊174(潜水艦)を参照。

<伊75>:伊175(潜水艦)を参照。

伊121>:日本海軍機潜型潜水艦、伊号第121潜水艦。昭和2331日、伊21(伊号第21潜水艦)として竣工した。昭和1361日、伊121に改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第13潜水隊に所属していた。昭和1891日以降は内地に留まっている。昭和21430日、若狭湾でアメリカ軍により処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

伊122>:日本海軍機潜型潜水艦、伊号第122潜水艦。昭和21028日、伊22(伊号第22潜水艦)として竣工した。昭和1361日、伊122に改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第13潜水隊に所属していた。昭和2069日、舞鶴から七尾に回航途中、石川県珠洲岬沖(禄剛岬灯台の西南西6海里)でSS-305スケートの雷撃を受けて大破し、610日に沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸6,01、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

伊123>:日本海軍機潜型潜水艦、伊号第123潜水艦。昭和3428日、伊23(伊号第23潜水艦)として竣工した。昭和1361日、伊123に改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第9潜水隊に所属していた。昭和17828日、ガダルカナル島のインデスペンサブル海峡で、敷設駆逐艦ガンブルの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は91日、ガダルカナル方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、日本潜水艦物語、帝国海軍太平洋作戦史T

伊124>:日本海軍機潜型潜水艦、伊号第124潜水艦。昭和31210日竣工。伊24(伊号第24潜水艦)として竣工した。昭和1361日、伊124に改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第9潜水隊に所属していた。昭和17120日、オーストラリアのポートダーウィン沖80kmで、DD-219エドソルとオーストラリア海軍艦艇3隻の攻撃により沈没し、乗員全員が戦死した。水深50mの比較的浅いところで沈んだため、アメリカ海軍は潜水夫を動員し、暗号書を引き揚げて利用した。2014913日、DDG-171はたかぜ乗員がオーストラリアのダーウィン市フォートヒルワーフで日豪共同慰霊式を実施。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、ラバウル航空戦、朝雲、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

<伊152>:伊52潜水艦(初代)を参照。

伊153>:日本海軍海大三型a潜水艦1番艦、伊号第153潜水艦。第64潜水艦として起工した。大正13111日、伊53(伊号第53潜水艦)に改称された。昭和2330日竣工、第2潜水隊に編入された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第18潜水隊に配備されていた。昭和173月、呉防備戦隊に編入された。昭和1758日、伊予灘で潜水母艦長鯨と接触事故を起こした。520日、伊153に改称された。昭和1810月、予備艦に編入され、練習潜水艦となった。昭和20730日、舞鶴で爆撃を受けて損傷した。終戦時は予備艦として潜水学校に繋留されていた。昭和23年に解体された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,83、帝国海軍太平洋作戦史T

伊154>:日本海軍海大三型a潜水艦2番艦、伊号第154潜水艦。第77潜水艦として起工した。大正13111日、伊54(伊号第54潜水艦)に改称された。昭和21215日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第18潜水隊に配備されていた。昭和173月、呉防備戦隊に編入され、練習潜水艦となった。520日、伊154に改称された。昭和1810月、予備艦に編入された。昭和215月、伊予灘でアメリカ軍が海没処分した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

伊155>:日本海軍海大三型a潜水艦3番艦、伊号第155潜水艦。第78潜水艦として起工した。大正13111日、伊55(伊号第55潜水艦)に改称された。昭和295日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第18潜水隊に配備されていた。昭和173月、呉防備戦隊に編入され、練習潜水艦となった。520日、伊155に改称された。昭和1955日、兜島付近で特務艦速吸と衝突した。昭和207月、予備艦に編入された。昭和215月、伊予灘でアメリカ軍が海没処分した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

伊156>:日本海軍海大三型b潜水艦伊号第156潜水艦。大正15年に伊56(伊号第56潜水艦)として起工。昭和4331日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第19潜水隊に配備されていた。昭和17520日、伊156に艦名変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。7月、呉鎮守府防備艦となり、訓練に使用された。昭和185月中旬、作戦用潜水艦に復帰。6月下旬、呉防備戦隊に配備され、訓練に使用された。昭和20年、回天輸送艦に改造され、4月から任務に従事。7月初めには回天搭載艦として前線任務に就いた。終戦時には呉で本土決戦に備え訓練中だった。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船6,83、帝国海軍太平洋作戦史T

伊157>:日本海軍海大三型b潜水艦伊号第157潜水艦。昭和2年に伊57(伊号第57潜水艦)として起工。昭和41224日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第19潜水隊に配備されていた。昭和17520日、伊157に艦名変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。7月、呉鎮守府防備艦となり、訓練に使用された。昭和185月中旬、作戦用潜水艦に復帰。616日、キスカへの輸送作戦の途中にアムチトカ付近で座礁した。6月下旬、呉防備隊となり、訓練に使用された。昭和20年、回天輸送艦に改造され、4月から任務に従事。7月初めには回天搭載艦として前線任務に就いた。終戦時には呉で本土決戦に備え訓練中だった。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ海軍により海没処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船12,15、帝国海軍太平洋作戦史T

伊158>:日本海軍海大三型a潜水艦4番艦、伊号第158潜水艦。昭和3515日竣工、伊58(伊号第58潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第4潜水戦隊第19潜水隊に配備されていた。昭和17520日、伊158に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。7月、呉防備戦隊に編入され、練習潜水艦となった。昭和20317日、神戸三菱造船所で爆撃を受けて損傷した。4月、回天輸送艦として前線に復帰。昭和20815日の終戦時には呉で訓練中だった。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国海軍太平洋作戦史T

伊159>:日本海軍海大三型b潜水艦、伊号第159潜水艦。昭和2年に伊59(伊号第59潜水艦)として起工。昭和5331日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第5潜水戦隊に配備されていた。昭和17520日、伊159に艦名変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。7月、呉鎮守府防備艦となり、訓練に使用された。昭和185月中旬、作戦用潜水艦に復帰。6月下旬、呉防備隊に転属し、訓練に使用された。昭和20年、回天輸送艦に改造され、4月から任務に従事。7月初めには回天搭載艦として前線任務に就いた。昭和20811日、呉で爆撃を受けて損傷した。終戦時には呉で本土決戦に備え訓練中だった。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊162>:日本海軍海大四型潜水艦、伊号第162潜水艦。昭和5424日竣工、伊62(伊号第62潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第29潜水隊所属だった。南方作戦終了後は第5潜水戦隊に所属。昭和17520日、伊162に名称変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。710日、南西方面艦隊に転属。昭和18214日、小スンダ列島付近で連合軍潜水艦と交戦し、損傷した。昭和193月末、呉防備戦隊に転属となり、訓練任務に就いた。昭和20年、回天輸送艦に改造された。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国海軍太平洋作戦史T

伊164>:日本海軍海大四型潜水艦、伊号第164潜水艦。昭和5830日竣工、伊64(伊号第64潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第29潜水隊所属だった。南方作戦終了後は第5潜水戦隊に所属。昭和17517日、ミッドウェイ周辺に向かう途中、九州南西でSS-201トライトンの雷撃を受けて沈没した。520日、伊164に名称変更された。525日、南方海域で消息不明になったとして日本海軍が沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国海軍太平洋作戦史T

伊165>:日本海軍海大五型潜水艦、伊号第165潜水艦。昭和4年に伊65(伊号第65潜水艦)として起工、昭和7121日竣工。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第30潜水隊所属で、南方作戦に参加。1210日、マレー沖海戦に参加。昭和17520日、伊165に艦名変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和18年、長期修理に入り、改装を実施。昭和195月、ビアク島への輸送作戦時に爆雷攻撃を受け、沈没は免れたものの船体に大ダメージを負い、10月に内地に帰投した。その後回天母艦に改装され、昭和206月、マリアナに向け回天特攻轟隊を発進させた。627日、マリアナ東方でアメリカ海軍基地哨戒爆撃機の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は729日、マリアナ東方で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、歴史群像4,16、帝国海軍太平洋作戦史T

伊166>:日本海軍海大五型潜水艦、伊号第166潜水艦。昭和4年に伊66(伊号第66潜水艦)として起工、昭和71110日竣工。昭和161021日、佐伯湾で伊7と衝突。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第30潜水隊所属で、南方作戦に参加。昭和17520日、伊166に艦名変更された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和18年、長期修理に入り、改装を実施。昭和19717日、インド洋で作戦行動中にマラッカ海峡でP321テレマカスの雷撃を受け、沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

伊168>:日本海軍海大六型a潜水艦1番艦、伊号第168潜水艦。昭和9731日、伊68(伊号第68号潜水艦)として竣工した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第12潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。昭和1712日、ミッドウェイ付近で爆撃により小破した。昭和17520日、伊168に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。67日、CV-5ヨークタウンとDD-412ハンマンを雷撃により撃沈した。昭和18727日、アドミラルティ諸島沖でSS-277スキャンプの雷撃により沈没した。日本海軍は910日、ビスマルク諸島付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,149,13増刊、帝国海軍太平洋作戦史T

伊169>:日本海軍海大六型a潜水艦、伊号第169潜水艦。昭和10928日竣工、伊69(伊号第69潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第12潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。太平洋戦争開戦直後、真珠湾付近でアメリカ軍の防潜網に絡まったが、2日掛けて脱出した。昭和1729日、ミッドウェイ島を砲撃。211日、ミッドウェイ島を砲撃。この際航空機による反撃を受けた。520日、伊169に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和1944日、トラック夏島トロマン山の南南西2.8kmの地点でハッチ閉鎖が上手くいかず浸水、沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、小艦艇入門、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊169沈没事故>:昭和19440900、トラック環礁に空襲警報が発令され、伊169は沈座するため潜入した。この時、艦長と乗員21名が荷物積み込みなどのため艦外にいた。B-24爆撃機36機による空襲が去り、空襲警報が解除されて沈座やめ浮上せよの水中信号が送られたが、伊169は浮上せず、付近の海面には艦内から放出されたとみられる廃油の帯が漂うのみであった。事故と判断した第6艦隊司令部は全員脱出せよの通信を送ったが、脱出者は無かったため、潜水夫を派遣。伊169が深度43mの海底に艦尾を突き刺すような形でほぼ横倒しになっていることが判明し、ハンマーで船体を叩いたところ、船体前後から内壁を叩き返してくる音が返ってきたが、司令塔、発令所、機械室からは応答が無かった。救難浮標は外されており、艦内との連絡手段を確保するため、潜水艦の近くに小型聴音機を降ろし、艦内からモールス信号をハンマーで叩いてもらうことにした。モールス信号のできる信号員、電信員、聴音員がいる艦首側に小型聴音機を降ろし、水中信号でその旨を伝えたところ、返信が届いたため、通信を開始。「全員脱出せよとの命令だが艦を見捨てることはできないので、浮上させて再起奉公できるよう全力を挙げる」との信号が届いた。また、「中央は浸水、後部にも生存者ある模様。外部よりメインタンクに高圧空気を送れば浮上可能、バルブを開くからこれに繋げ」との信号も入ったため、メインタンクへの送気作業が開始された。第6艦隊司令部では潜水艦をもう1隻潜らせ、伊169を横抱きにして浮上させるとの案が出たが、艦体側面のメインタンクが損傷して共倒れになる可能性もあり、没になった。夜になっても浮上に向けた作業が続けられていたが、空襲警報が出たため、沈没位置を示すロープに繋留した通船を残して救助艦は分散退避した。この空襲で陸上に多大な損害が出たため、送気作業が継続できなくなり断念。最後の手段として、潜水夫がワイヤーロープを艦体に括り付け、クレーン船で引き揚げることになった。45日夜明け頃に引き揚げが開始され、1メートルほど艦首が上昇、艦内からは「勇気百倍す」との信号が送られてきたが、空襲がかけられたため一時作業を中断した。空襲警報解除後に作業を再開したが、ロープが外れて失敗。艦内からは「眠たくなるも互いに揺り動かして寝せず」の信号が送られてきた。夜になり再び作業を再開。艦首が3メートル持ち上がったが、来襲したスコールによりクレーン船が煽られた拍子にワイヤーロープが切断されてしまい、伊169を浮上させる手段は全て失われてしまった。洋上ではただ艦内のハンマー音を聞くしかなく、「疲労酷し、脱出は無理」という微かな信号を最後に意味のあるハンマー音は無くなり、やがて何も聞こえなくなった。48日、伊169乗員の遺体収容が開始されたが、当時の潜水技術で水深43mの海底での長時間作業は相当な困難を伴った。信号長は記念軍艦旗と寄せ書きの書かれた日の丸をたすき掛けにし、司令塔から艦橋に通じるラッタルに両脚を踏ん張り、ハッチを両手で支えたままの姿で絶命しているのが発見された。恐らく司令塔が満水になって内外圧差が消失すると同時にハッチを開けようとするも、水圧に耐えられず死亡したとみられ、時計は0905を指して止まっていた。遺体安置所でこの姿を見た第6艦隊参謀らも強い感動を受け、涙を流して合掌したという。掌水雷長は防暑服ズボンの内側に遺書を括り付けており、沈没後の艦内状況が詳細に記載されていて、乗員全員が最後まで沈着に持ち場を守って浮上のため努力したことが綴られていた。ダイバーズロックからは要望書を持った3名の遺体が発見され、伝令として脱出しようとしたが注水による水圧に耐えられなかったとみられる。他にも収容された遺体は荼毘に付された。沈没原因は荒天通風筒の閉め遅れとされたが、他にもハッチの閉鎖漏れがあったかもしれない。艦内に残され収容できないままの遺体も多数あったが、トラック環礁にアメリカ軍が上陸した場合に伊169を鹵獲されると機密漏洩の恐れがあるとのことで、第6艦隊司令部撤収後に艦を爆破処分することになり、トラックに残った第85潜水艦基地隊により伊169は完全に爆破された。筈だったが、昭和472月、当時第6艦隊司令部に分隊長として勤務していた元大尉の子息が、アメリカ勤務中に「スキンダイバー」という雑誌で伊169の海底写真を発見。元大尉は洋書出版株式会社からこれを取り寄せ、伊169救出作業に従事し、小型聴音機での通信作業を行っていた元兵曹長にこれを送った。元兵曹長が記事を熟読したところ、爆破されたのは艦の一部のみであることが判明。どうやら第85潜水艦基地隊司令が遺体の無い室のみを爆破して済ませるよう命じたようである。沈没場所も分かっており、潜水技術の進歩で技術的にも可能であることから、元兵曹長は遺骨収集活動に乗り出すことになった。知り合いや県議会議員、県援護課に当たったが芳しい返事は得られなかったため、国会議員に手紙を書いたところ、昭和4751日に前向きな返信が届いた。厚生省からも書簡や電話連絡があり、昭和48110日に遺骨収集実施のスクープ記事が出た。これを受けて当時の伊169乗員としてただ1名の生存者である元少尉から元兵曹長に連絡があり、所有していた乗員名簿から遺族へと連絡することが可能となった。ちなみに事故時に伊169に乗っていなかった艦長は伊8で沖縄戦に出撃して戦死し、他の20名は伊5で内地に帰国する途中で乗艦を撃沈されて戦死している。32日、トラック行政支庁が太平洋地域旅行協議会の東京会議に出席するため来日。その際、1年前(昭和472月)に撮影した「沈黙の戦士」という映画を持ち込み、ここに撮影されている伊169の状況を確認するため、厚生省、引き揚げ委員、元兵曹長ら関係者に上映した。艦は左に45度傾斜、艦首を水深40m、艦尾を水深45mに位置させて着底しており、艦の前半部と司令塔が破壊されていたが、後半部は無事で、ハッチの隙間から艦内に入ることが可能であり、艦内には大量の砂泥と共に遺骨が残されていた。トラック行政支庁では遺骨収集の際にカッターによる切断や爆破を行わないよう要望していたが、この映画を見た結果、その必要は無いと判断され、昭和486月から現地調査を開始。93日から遺骨収集を行うことになった。艦内から遺骨や遺品が覗いているのは忍びないということで、何も残さないよう徹底的に収集している。緑青をふいた時鐘や、使用可能状態の寒暖計なども回収された。遺族からは参加の要望が多数寄せられたが、危険性が高いため遺骨収集への直接の参加は避け、遺族慰霊団という形をとることにした。921日、遺族慰霊団、厚生省担当者、トラック島民らも参加して現地で火葬が行われた。922日、トラック行政支庁長や局長らも参加してトラック島地方行政事務所屋上で慰霊祭を行い、その後沈没現場で洋上慰霊祭を実施した。924日、遺族慰霊団が帰国。925日、厚生省で慰霊祭が行われ、遺族は靖國神社と千鳥ヶ淵墓苑を参拝。昭和49511日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で常陸宮両殿下、首相、閣僚の臨席のもと、納骨式を挙行。ただ1名の生存者である元少尉は慰霊碑を建立した。碑には遺骨収集に尽力した元兵曹長の筆による「一蓮托生」の文字が刻まれている。トラック島行政支庁長は遺骨収集終了後に伊169のハッチを封鎖。乗員が命をかけて艦を守り続けたことは国の平和と同胞を守ろうとしたことであり、平和の象徴であるから、神聖なる墓場として何人たりともどんな理由があっても立ち入りを禁止すると確約した。74名の乗員を30年間守り通した伊169は、トラック環礁の紺碧の海底に今もその身を横たえて静かに眠る。参考:続潜水艦気質よもやま物語

伊171>:日本海軍海大六型a潜水艦、伊171潜水艦。昭和101224日竣工、伊71(伊号第71潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第20潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。1222日、ジョンストン島を砲撃。昭和17520日、伊171に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和1921日、ブカ島の西でDD-472ゲスト、DD-475ハドソンの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は312日にブカ島西方で消息不明として沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊172>:日本海軍海大六型a潜水艦、伊号第172潜水艦。昭和1217日竣工、伊72(伊号第72潜水艦)として就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第20潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。昭和17123日、ハワイ沖で給油艦ネッチェスを雷撃で撃沈した。昭和17520日、伊172に改称された。1110日、サンクリストバル島付近で掃海駆逐艦サウザードの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1127日、ガダルカナル島方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊174>:日本海軍海大六b型潜水艦、伊号第174潜水艦。昭和9年に伊74(伊号第74潜水艦)として起工され、昭和13815日に就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第11潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。1224日、パラミラ島を砲撃。昭和17520日、伊174に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和19410日、アメリカ海軍機動部隊の攻撃に備えトラック南方に向かったが、そのまま連絡が取れなくなり、413日に日本海軍は消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊175>:日本海軍海大六b型潜水艦、伊号第175潜水艦。昭和9年に伊75(伊号第75潜水艦)として起工され、昭和131218日に就役した。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制上は第3潜水戦隊第11潜水隊所属、兵力部署では連合艦隊先遣部隊第3潜水部隊所属だった。1215日、マウイ島を砲撃。昭和17520日、伊175に改称された。65日、ミッドウェイ海戦に参加。1120日、トラック竹島南方で日新丸と衝突した。昭和181124日、ギルバート付近でACV-56リスカム・ベイを撃沈した。昭和19217日、ウォッゼ島付近でDD-449ニコラスの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は316日にクェゼリン方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、帝国海軍太平洋作戦史T、日本海軍艦隊総覧

伊176>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第176潜水艦。昭和1784日竣工。1020日、CA-27チェスターを雷撃して損傷させた。昭和18318日、ラエ沖で物資揚陸中に空襲を受け、急速潜航しようとしたが機銃掃射を艦橋に喰らい2名が戦死、艦長が胸に重傷を負い(機銃弾が心臓の1mm手前で止まっていたらしい)、艦は小破した。725日、ビスマルク諸島付近で爆撃を受けて小破した。昭和19516日、トラックを出撃してブカ島に向かったが、ブカ島付近でDD-554フランクス、DD-555ハッガードの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は611日、ソロモン方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,17、日本海軍艦隊総覧

伊177>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第177潜水艦。昭和171228日竣工。昭和181012日、ラバウルで爆撃を受けて小破した。昭和19103日、パラオ北西でDE-183サミュエル・S・マイルズの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1118日、パラオ方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊178>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第178潜水艦。昭和171226日竣工。昭和1864日、トラック環礁を出撃し、オーストラリア東方に向かった。84日(74日?)、オーストラリア東方で消息不明になったとして沈没認定された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ラバウル航空戦、日本海軍艦隊総覧

伊179>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第19潜水艦。昭和18618日竣工。714日、伊予灘で訓練中の事故により沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ラバウル航空戦、日本海軍艦隊総覧

伊180>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第180潜水艦。昭和18115日竣工。昭和19427日、アリューシャン付近でDE-18ギルモアの攻撃により沈没した。日本海軍は520日、アラスカのコジャック島付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊181>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第181潜水艦。昭和18524日竣工。昭和19116日、ニューギニアのガリ島付近でアメリカ海軍駆逐艦・魚雷艇と交戦し、沈没した。日本海軍の沈没認定は昭和1931日。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊182>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第182潜水艦。昭和18510日竣工。93日、ニューヘブライズ諸島方面で、DD-398エレットの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は1022日、エスピリサント方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊183>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第183潜水艦。昭和18103日竣工。106日、江田島で訓練中に機械室に浸水して沈没した。107日、引き揚げられて修理に入った。昭和194月下旬、修理が完了し、トラックに向け呉を出港したが、428日に四国南方でSS-266ポーギーの砲撃を受けて沈没した。日本海軍は528日に中部太平洋方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船2,13、月刊丸6,01

伊183沈没事故>:昭和18106日、3日前に竣工したばかりの伊183潜水艦は呉を出港。1040頃に広島湾で試験潜航を開始したが、機関室に繋がる吸気筒の頭部弁を閉鎖するバルブを右に回して閉める筈が、伝令の機関兵が間違えて左に回したのに気付かず、そのまま潜っていったため、機関室に大量の海水が入り込み、その後方の管制盤室や後部兵員室も満水となり、尻餅をつく形で安多田島東北東2km・水深25mの海底に沈座した。潜望鏡で艦首の方を確認すると、海面から突出していたため、艦前部にいた生存者は艦長を含め前部魚雷発射管から脱出し、近くの漁船に救助された。また、妙な態勢を取っている潜水艦に気付いた航行船舶が呉鎮守府に通報しており、第11潜水戦隊司令らが内火艇に乗って現場に到着した。2000頃、呉工廠の作業員らが救難作業を開始した。潜水員が艦後部を叩いたところ、中から返答があり、生存者を確認。船体にワイヤーを掛けて引き揚げることにしたが、途中で切れるなど手間取り、1070200頃に再浮揚に成功した。艦内から生存者3名が救出されたが、16名の遺体も収容されている。これ以降、バルブの回転軸に全開・全閉位置を示す指標を付けて再発防止が図られた。伊183潜水艦の修理には5ヶ月かかっている。参考:月刊丸6,01

伊184>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第184潜水艦。昭和181015日竣工。昭和19619日、サイパン南東でACV-27スワニーの艦上機の攻撃を受けて沈没した。日本海軍は712日、サイパン付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊185>:日本海軍海大七型潜水艦、伊号第185潜水艦。昭和18923日竣工。昭和19622日、サイパンの北西40海里でDD-586ニューコブと掃海駆逐艦チャンドラーの攻撃により沈没した。日本海軍は712日、サイパン方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊201>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第201潜水艦。昭和193月起工、昭和2022日竣工。終戦時は呉にあった。太平洋戦争終結後、ハワイに回航されてアメリカ軍の調査を受け、海没処分となった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、日本海軍艦隊総覧

伊202>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第202潜水艦。昭和20214日就役。220日、呉で電池室の火災事故を起こした。730日、舞鶴で爆撃を受けて損傷した。終戦時には呉にあった。太平洋戦争終結後、イギリスで調査される筈だったが、ソ連が引き渡し要求をしてきたため、昭和2145日に佐世保向後岬沖でアメリカ軍に処分(デッド・ダック作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像4,18、日本海軍艦隊総覧

伊203>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第203潜水艦。昭和20529日竣工。太平洋戦争終結後、ハワイに回航されてアメリカ軍の調査を受け、海没処分となった。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊204>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第204潜水艦。昭和191216日進水。昭和20622日、引き渡し直前に呉港内で空襲を受けて沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊205>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第205潜水艦。昭和20215日に進水したが、建造中止となった。728日に倉橋島で空襲を受けている。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊206>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第206潜水艦。昭和20326日に進水したが、建造中止となった。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊207>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第207潜水艦。昭和191227日に起工したが、建造中止となった。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊208>:日本海軍潜高型潜水艦、伊号第208潜水艦。昭和20217日に起工したが、建造中止となった。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊351>:日本海軍潜補型潜水艦、伊号第351潜水艦。昭和1851日起工、昭和19224日進水、昭和20128日竣工、海軍に引き渡された。5月、シンガポールと日本の間の航空燃料輸送を行った。622日、第631航空隊の整備員を乗せて佐世保を出港、シンガポールに向かった。711日、ガソリンを積んでシンガポールを出港。714日、南シナ海でSS-222ブルーフィッシュの雷撃を受け沈没した。731日、日本海軍は南シナ海で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本潜水艦物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、日本海軍艦隊総覧

<伊351型>:潜補型潜水艦を参照。

伊352>:日本海軍潜補型潜水艦、伊号第352潜水艦。昭和18118日起工、昭和19423日進水。昭和206月末に引き渡される予定だったが、直前の622日に呉工廠岸壁で爆撃を受けて沈没した。参考:日本潜水艦物語、日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊353>:日本海軍潜補型潜水艦、伊号第353潜水艦。昭和193月起工、昭和1912月進水、昭和209月引き渡しを予定していたが、昭和181015日に建造中止が決定した。参考:日本潜水艦物語

伊361>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第361潜水艦。昭和19525日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和205月、沖縄に向け回天特攻轟隊を発進させた。530日、沖縄東方でACV-57アンツィオの艦上機の爆撃を受けて沈没した。日本海軍は623日、沖縄方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊362>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第362潜水艦。昭和19523日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和20118日、カロリン諸島方面でDE-32フレミングの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は315日、カロリン諸島方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌

伊363>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第363潜水艦。昭和1978日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和208月、沖縄に向け回天特攻多聞隊を発進させた。1029日、アメリカ軍に引き渡すため呉から佐世保に向かう途中、宮崎沖で触雷して沈没し、35名が死亡した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像4,114,16、日本海軍艦隊総覧

伊364>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第362潜水艦。昭和19614日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和19915日、本州の東でSS-400シーデビルの雷撃により沈没した。日本海軍は1031日、内南洋方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊365>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第365潜水艦。昭和1981日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和191128日、トラックから内地に向かっていたが、東京湾の南でSS-397スカッパードフィッシュの雷撃により沈没した。日本海軍は1210日、小笠原方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊366>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第366潜水艦。昭和1983日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和2056日、山口県光沖で触雷して小破した。7-8月、沖縄に向け回天特攻多聞隊を発進させた。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊367>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第367潜水艦。昭和19815日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和205月、沖縄に向け回天特攻振武隊を発進させた。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により処分(ローズ・エンド作戦)された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド、歴史群像4,16、日本海軍艦隊総覧

伊368>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第368潜水艦。昭和19825日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和20226日、硫黄島付近で回天特攻隊千早隊5基を出撃させた。227日、護衛空母アンツィオの艦上機による攻撃を受けて沈没した。日本海軍は314日、硫黄島付近で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊369>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第369潜水艦。昭和19109日就役、第7潜水戦隊に配属された。終戦後、アメリカ軍により海没処分されたとみられる。参考:日本海軍艦隊総覧、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊370>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第370潜水艦。昭和1994日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和20221日、回天特攻隊千早隊を搭載して大津島を出港。226日、硫黄島付近で回天特攻隊千早隊5基を出撃させた後、DE-307フィネガンの攻撃を受けて沈没した。日本海軍は314日、硫黄島方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本潜水艦物語、日本海軍艦隊総覧

伊371>:日本海軍潜丁型潜水艦、伊号第371潜水艦。昭和19102日就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和20131日、トラックへの輸送任務を終えて横須賀に向かった。その後の消息が途絶えたため、日本海軍は昭和20312日、南洋諸島で消息不明になったとして沈没認定した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌

伊372>:日本海軍潜輸大型潜水艦、伊号第372潜水艦。昭和19210日起工、118日竣工・就役、第7潜水戦隊に配属された。昭和20718日、横須賀でアメリカ艦載機の爆撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船10,'15、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊373>:日本海軍潜丁改型潜水艦、伊号第373潜水艦。昭和19815日起工、昭和20414日竣工。89日、輸送任務のため佐世保を出港し、台湾に向かった。813日、東シナ海でSS-404スパイクフィッシュの雷撃を受け、魚雷2本を被雷して沈没した。日本海軍は814日、東シナ海方面で消息不明になったとして沈没認定した。参考:月刊世界の艦船10,'15、日本潜水艦物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊374>:日本海軍潜丁改型潜水艦、伊号第374潜水艦。昭和191024日起工。昭和20417日、工程40%で建造中止となった。参考:月刊世界の艦船10,'15、日本潜水艦物語、日本の潜水艦パーフェクトガイド

伊400>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第400潜水艦。昭和181月起工、昭和191230日竣工。319日、呉で空襲を受けて小破した。6月初め、パナマ運河攻撃作戦準備のため七尾湾に入った。713日、舞鶴に入港。720日、嵐作戦要員を乗せ舞鶴を出港。721日、大湊に入港。723日、嵐作戦のため大湊を出港。817日に嵐作戦でウルシーを奇襲する予定だったが、816日夜に第6艦隊司令長官の命令を受けて中止された。817日未明にウルシー南東を発って呉に向かったが、途中で大湊に行き先を変更した。827日、仙台の東200海里でDD-744ブルーとDD-728マンスフィールドに捕捉されてDD-744ブルーの乗員により拿捕され、相模湾に向かった。828日、DE-741ウィーバーから潜水艦乗員20名で構成された捕獲隊が移乗。8290900頃、相模湾の連合軍泊地に到着。1000、連合軍に捕獲された伊14が左舷に接舷。929日、横須賀を出港してハワイ(アメリカ本土?)に回航され、技術調査の後、昭和2164日に実艦的としてハワイ付近で海没処分された。20128月、ハワイ大学海底研究所がオアフ島南西沖に沈む本艦を発見した。2016年、ハワイ大学海底研究所が遠隔操作式無人潜水艇のロボット・アームで時鐘を回収した。参考:月刊丸6,01、月刊世界の艦船8,129,13増刊、12,16、日本の潜水艦パーフェクトガイド、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本潜水艦物語、歴史群像4,18、日本海軍艦隊総覧

<伊400型>:潜特型(潜水艦)を参照。

伊401>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第401潜水艦。昭和2018日竣工。6月初め、パナマ運河攻撃作戦準備のため七尾湾に入った。713日、舞鶴に入港。720日、嵐作戦要員を乗せ舞鶴を出港。721日、大湊に入港。723日、嵐作戦のため大湊を出港。終戦で作戦を中止して日本に引き返し、アメリカ軍に捕獲された。8310800、横須賀で軍艦旗を降ろし降伏した。929日、横須賀を出港してハワイ(アメリカ本土?)に回航され、技術調査の後、昭和21531日に実艦的としてハワイ付近で海没処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、月刊丸6,01、日本潜水艦物語、月刊世界の艦船9,13増刊、歴史群像4,18、日本海軍艦隊総覧

伊402>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第402潜水艦。昭和20725日(24日?)竣工。811日、呉で爆撃を受けて燃料タンクに穴が開いた。815日の終戦時は呉に停泊しており、10-11月に佐世保に回航された。昭和2141日、長崎県五島列島沖でアメリカ軍により海没処分された(ローズ・エンド作戦)。平成27714-17日、テレビ番組の企画に協力した測量船海洋がR2Sonic社製Sonic2024マルチビーム測深機で福江島の東南東35km・水深200mの海底に沈んでいる潜水艦24隻のエコーを探知。その後TELEDYNE GAVIA社製自律型無人潜水機GAVIAによる艦影スキャニングとSEAMOR Marine社製遠隔操作水中ロボットによるビデオ撮影を行い、航空機格納筒、14cm単装砲、カタパルトなどを確認して本艦を特定した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船3,1410,15、月刊軍事研究10,15、日本海軍艦隊総覧、朝雲

伊403>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第403潜水艦。起工されたが、工事中止となった。参考:丸エキストラ版No.71

伊404>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第404潜水艦。昭和1977日進水。その後空襲が激しくなり、工事を中止して近くの島に避難したが、爆撃を受けて728日に呉で沈没した。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本海軍艦隊総覧

伊405>:日本海軍潜特型潜水艦、伊号第405潜水艦。未完成のまま終戦となった(起工されなかった?)。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、丸エキストラ版No.71

伊501>:日本海軍潜水艦、伊号第501潜水艦。元はドイツ海軍UボートU-181である。全長87.58m、最大幅7.5m、公試時吃水5.35m、基準排水量1616トン、水中排水量1840トン(1852トン?)。主機はMAN社製ディーゼル2基で、水上出力5400馬力、水中出力1000馬力、2軸推進、最大速力は水上19.2ノット、水中6.9ノット、燃料搭載量441トン、航続距離は水上10ノットで31500海里/12ノットで23700海里、水中4ノットで57海里。兵装は533mm魚雷発射管6門(艦首4門・艦尾2門。魚雷24本)、45口径10.5cm単装砲1門、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲1基。日独作戦協定に基づいてインド洋で行動していたが、補給のためシンガポールにドックインしていたところ、昭和2057日にドイツ軍が降伏しため、日本に接収された。715日、日本海軍艦籍に編入。昭和21212日、イギリス海軍によりシンガポールで海没処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、Uボート入門、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧

伊502>:日本海軍潜水艦、伊号第502潜水艦。元はドイツ海軍UボートU-862である。諸元は伊501と同じ。日独作戦協定に基づいてインド洋で行動していたが、補給のためシンガポールにドックインしていたところ、昭和2057日にドイツ軍が降伏しため、日本に接収された。715日、日本海軍艦籍に編入。昭和21214日(12日?13日?)、マラッカ海峡でイギリス軍により海没処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、Uボート入門、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ナチスUボート

伊503>:日本海軍潜水艦。元はイタリア海軍カッペリーニ級潜水艦コマンダンテ・カッペリーニで、昭和18年にシンガポールで日独占領地間の輸送任務に就いていたのをイタリア降伏時に日本が接収してドイツ海軍に譲渡、UIT24となり、これを日本で整備中にドイツが降伏したため510日に日本が再接収したものである。全長73.1m、幅8.15m、公試時吃水5.12m、基準排水量1060トン、水上排水量951トン、水中排水量1313トン。主機はフィアット型ディーゼル2基で、水上出力3000馬力、水中出力1300馬力、2軸推進、最大速力は水上17.4ノット、水中8ノット、燃料搭載量108トン、航続距離は水上9.4ノットで7500海里/9ノットで9500海里、水中4ノットで80海里。兵装は533mm魚雷発射管8門(艦首4門、艦尾4門。魚雷12本)、45口径10.5cm単装砲2門。昭和20715日、日本海軍の艦籍に編入された。昭和21416日、紀伊水道でアメリカ軍により処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ナチスUボート、日本海軍艦隊総覧

伊504>:日本海軍潜水艦。元々はイタリア海軍マルコーニ級潜水艦6番艦ルイージ・トレリで、日独占領地間の輸送任務に就いていた。イタリア降伏時にシンガポールにあり、日本が接収してドイツ海軍に譲渡、UIT25となり、これを日本で整備中にドイツが降伏したため日本が再接収したものである。全長76.04m、最大幅7.91m、公試時吃水4.72m、基準排水量1191トン、水上排水量1036トン、水中排水量1489トン。主機はトシ型ディーゼル2基、水上出力3600馬力、水中出力1240馬力、2軸推進、最大速力は水上18ノット、水中8ノット、航続距離は水上9ノットで9500海里/8ノットで10500海里、水中3ノットで110海里。兵装は533mm魚雷発射管8門(艦首4門、艦尾4門。魚雷12本)。昭和20715日、日本海軍の艦籍に編入された。昭和21416日、紀伊水道でアメリカ軍により処分された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、第2次大戦日本海軍作戦年誌、ナチスUボート、日本海軍艦隊総覧

伊505>:日本海軍潜水艦で、ドイツ海軍]B型潜水艦U-219をスラバヤで接収したものである。接収時には機雷搭載部を貨物輸送用に改造しており、砲は外されて機銃のみ装備していた。全長89.8m、最大幅9.2m、吃水4.71m、基準排水量1763トン、水上排水量1800トン、水中排水量2177トン。主機はゲルマニア型ディーゼル2基、水上出力4800馬力、水中出力1100馬力、2軸推進、最大速力は水上17ノット、水中7ノット、燃料搭載量368トン、航続距離は水上12ノットで14550海里/10ノットで18450海里、水中4ノットで93海里。兵装は艦尾の533mm魚雷発射管2門(魚雷15本)、機雷敷設筒30本(機雷66個)、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2基。昭和20715日に日本海軍の艦籍に編入され、第2南遣艦隊所属となったが、兵器の規格が日本と違うので運用できず、実戦投入されずに終戦を迎えた。昭和22年、スラバヤで解体された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、日本海軍艦隊総覧

伊506>:日本海軍潜水艦。元はドイツ海軍Uボート\D1U-195で、日本海軍がスラバヤで接収したものである。接収時には貨物輸送用に改造されていたようだ。全長87.58m、最大幅7.5m、公試時吃水5.35m、基準排水量1610トン、水上排水量1800トン、水中排水量1799トン。主機はゲルマニア型ディーゼル2基、水上出力3000馬力、水中出力1000馬力、2軸推進、最大速力は水上18.3ノット(15.8ノット?)、水中6.9ノット、燃料搭載量203トン、航続距離は水上12ノットで9900海里/10ノットで12750海里、水中4ノットで115海里。兵装は37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲2基。昭和20715日に日本海軍の艦籍に編入され、第2南遣艦隊所属となったが、兵器の規格が日本と違うので運用できず、実戦投入されずに終戦を迎えた。昭和22年にスラバヤで解体された。参考:日本の潜水艦パーフェクトガイド、日本潜水艦物語、Uボート入門、ナチスUボート、日本海軍艦隊総覧

イア・ドラン渓谷の戦い>:ベトナム戦争中の19651114日、北ベトナム軍を掃討するため、アメリカ第1騎兵師団第7騎兵連隊第1大隊がUH-1Dヘリ16機に分乗し、イア・ドラン渓谷に向かった。計340名をヘリボーンで輸送し、掃討を開始したが、周囲には予想を遙かに上回る4000名以上の北ベトナム軍が配置されていた。第1大隊は敵中に孤立して危機に陥ったが、UH-1ヘリからの空輸とUH-1ガンシップ型の火力支援を受けて2日間凌ぎ、代わりの第2大隊も3日間に渡り北ベトナム軍の攻勢を防ぎきり、何とかヘリでの撤退に成功した。アメリカ軍の死者は305名、負傷者は524名で、北ベトナム側には数倍の損害が出たとされる。参考:月刊丸12,11

慰安所

慰安所(日本海軍)>:シベリア出兵で日本兵が現地の女性と関係を持った結果、兵数72000名のうち性病で治療を受けた者が2000名に達し、戦傷者とほぼ同数であった。隠していた者を含めれば恐らく数倍に達すると推測され、海軍は検診に努めると共に、衛生管理を行った慰安所を軍部隊のある場所に整備した。日本人の慰安婦には篤志看護婦という名称を付けたらしい。港の近くでは民間業者が運営するものも多かった。上陸する度に、「行かずに済むなら行かず、行かざるを得ないなら万全の処置をせよ」という事前注意があり、コンドーム3個ずつが全員に配布された。また、「一般婦女子には絶対に手を出すな。出せば軍法会議で犯罪者となり、故郷の親兄弟に顔向けも出来ず、自殺しか無くなる。だから絶対いかん」と念を押された。性病についての講義(衛生講話)も部隊で度々あり、遊ぶなとは言わないが後始末を良くしろ、用具を必ず使え、海軍の名を汚すなと言い渡された。参考:続潜水艦気質よもやま物語

慰安所(日本陸軍)>:シベリア出兵時の性病続出の反省から衛生管理の行き届いた慰安所の設置を開始。直接ではないが内地や朝鮮で慰安婦集めも行い、昭和13年頃からは中国大陸でも整備した。また、陸軍娯楽所規則という設置規則も作られた。入場者は慰安所外出証を所持した軍人と軍属のみで、受付で料金2円を払って入場券と突撃一番1個を受け取り、指定された番号の部屋に入る。時間は30分以内で、終わったら直ちに退室する。室内では飲酒禁止であり、突撃一番を使用しなければならない。ただあまりに味気無かったのか、民間業者に任せるようになり、陸軍は事後の性病検診だけを担当した。外地では外出許可が出ると週番下士官に突撃一番を渡された兵が一斉に慰安所に向かうので、外で順番に並んでベルトコンベア式(?)の性欲処理となる。帰隊後は医務室で洗浄を受けた。参考:続海軍よもやま物語、新兵サンよもやま物語

イアン・フレミング>:007シリーズの作者。第2次大戦時にイギリス海軍情報長官の部下としてアメリカ諜報機関OSSの設立及び活動に関わっていた。また、兄のピーター・フレミングはイギリスの対日工作担当であるD部の指揮官であった。参考:月刊軍事研究7,10

<イアン・リチャード・グリード>:グリード(イギリス空軍エース)を参照。

<イーヴァル・ヒュイトフェルト>:F361(フリゲート)を参照。

イーヴァル・ヒュイトフェルト級>:デンマーク海軍防空フリゲートIvar Huitfeldt級。ニールス・ユール級コルベットの後継で、フレキシブル支援艦もしくは戦闘支援艦という名称が付いていて、コンテナ型モジュールを搭載することによりNATO指揮艦を含む多任務に投入できる。船体はアプサロン級と同じスタンフレックスSF3500型で、甲板はアプサロン級より1層少ない。船型はステルス性を考慮し、中央船楼幅は船体と一致させた。司令部スペースやコンテナ収容スペース(20フィートコンテナ4個収容)もあり、NATO指揮艦としての運用や長期海外展開も可能である。マストはタワー式で、前部マスト頂部前後左右にAPARの平面アンテナ、後部マスト頂部にSMART-Lの矩形アンテナを装備する。ソナーはASO-94ハルソナー。艦載戦闘システムはデンマーク国産のCフレックス(C-flex)で、コンピュータやコンソールはCOTSを使用している。対空戦闘システムはタレス・ネーデルランド社製NAAWS。全長138.7m、幅19.8m、吃水6.3m、満載排水量6645トン(5944トン?)。主機はCODAD方式で、MTU社製MTU20V8000M70ディーゼル4基2軸44000馬力、最大速力28ノット、航続距離は15ノット(18ノット?)で9000海里。兵装は脱着可能なモジュール式で、62口径127mm単装砲Mk45Mod4を1門(前甲板A砲塔に搭載可)、62口径76mm速射砲1-2門(前甲板A砲塔及び艦橋直前甲板室上B砲塔に搭載可)、SM-2MRブロックVA用Mk41VLS4基32セル(上構中央)、ESSMMk56VLS2基24セル、ハープーン・ブロックU4連装発射筒2基、ハープーン用8セルVLS2基、35mm機関砲ミレニアム1-2門(艦橋直前甲板室上B砲塔及びヘリ格納庫上面に搭載可)、スティンガー、324mm3連装短魚雷発射管2基(MU90短魚雷)などから適宜選択する。ただし2018年現在、SM-2ブロックVAは実装備に至っていない。自衛装備はESM装置、チャフ・フレア12連装発射機4基、チャフ・フレア6連装発射機2基。後甲板はヘリ甲板で、格納庫もあり、中型ヘリなら1機、リンクスなら2機を搭載でき、UAVの運用も可能。乗員101名(作戦35名、機関20名、航海15名、武器15名、補給15名)。65名分の予備居住施設を持つ。F361イーヴァル・ヒュイトフェルト、F362ピータ・ヴィレモース、F363ニールス・ユールの3隻が2012-14年に就役した。参考:月刊軍事研究12,10、月刊世界の艦船3,1610,175,188,133,144,104,1210,111,'15増刊、JShips VOL.44、朝雲

イーカー・トロフィー>:グローバルストライク・チャレンジにおいて、B-1の運用成績が優れていた部隊に送られるトロフィー。参考:月刊航空ファン2,11

イーガー・メース>:アメリカとクウェートの合同演習で、199283-19日に実施された。CV-62インディペンデンス、LHA-1タラワ、LPD-5オグデン、アメリカ陸軍第1機甲師団、第5特殊部隊、アメリカ海兵隊11MEU、クウェート軍、サウジアラビア軍、UAE軍から20000名弱が参加し、シュワイク港への強襲上陸などを行っている。891400頃、AH-1Wがイラク・クウェート国境から8マイル南に墜落して乗員2名が死亡した。8162030頃、LHA-1タラワを発艦したAV-8Bがクウェート市北西50マイルに墜落し、乗員1名が死亡した。参考:月刊航空ファン11,92

イーガー・ライオン演習>:多国間演習Exercise Eager Lion。参考:月刊JWings9,14

イーガー・ライオン2014演習>:ヨルダンで2014525日から68日に行われた。アメリカ中央軍から兵員12000名、LHD-3キアサージ揚陸即応群、LHD-5バターン揚陸即応群、VMFA-312F/A-18C)、第35戦闘航空団第13戦闘飛行隊(F-16C)、ヨルダン空軍からF-16A/B、トルコ空軍からF-4Eなどが参加した。参考:月刊JWings9,14

 <イーガー・ライオン2015演習>:2015517-18日、第2爆撃航空団B-52H爆撃機2機がルイジアナ州バークデイル空軍基地からヨルダンまで無着陸で往復し、通常兵器を低空飛行で投下した。参考:月刊航空ファン8,15

イークェア>:ロッキード社が開発していた偵察用RPVで、航空機用ポッドやスタンダードミサイルの弾頭に収容して射出され、偵察、目標捕捉、レーザー照射などを行う。1970年にアメリカ空軍からの予算が停止された。参考:スパイ機

<イーグル>:94(空母、初代)またはAAM-N-10(ミサイル)またはF-15シリーズ(戦闘機)またはH-76(ヘリ)またはR05(空母、2代目)またはXP-75シリーズ(試作機)を参照。

イーグル・シリーズ>:スイスのモワグ社製4×4軽装甲車Eagle1990年初頭にスイス国防省がスイス陸軍向けとして開発を依頼したもので、HMMWVの駆動系を利用して製作されている。参考:月刊軍事研究4,079,0410,03

 <イーグルT>:1993年(95年?)から量産開始。射距離30mでの7.62mm通常弾、射距離100mでの7.62mm徹甲弾に耐えられる装甲を備えており、破片飛散防止用の複合材製ライナーが張ってある。車体上面のMBK2ターレット(重量320kg)には暗視装置・ビデオカメラ(俯仰角マイナス12度からプラス15度)と7.62mm遠隔操作機銃(俯仰角マイナス12度からプラス20度、装弾数400発)、発煙弾発射機6基が統合された偵察用サイトを装備する。タイヤはランフラット式で、タイヤ圧中央制御装置も搭載。NBC防護装置を標準装備している。重量3.9トン、戦闘重量5.1トン、ペイロード1.2トン。エンジンはGM社製タイプ6.5 1NAディーゼル(160馬力)、トランスミッションは4L80(4速)で、最大速度125km、航続距離340km。乗員は車長、操縦手、無線手、監視装置オペレーターの4名。154両(156両?)がスイス陸軍に採用された他、デンマーク軍もPKO用に36両を調達した。参考:月刊軍事研究4,079,0410,033,978,11

 <イーグルU>:HMMWVECVシャシーを利用したタイプ。防弾ガラスを厚くするなど装甲を改良した上でエンジンを190馬力に強化し、ペイロードが400kg200kg?)増加している。MBK2ターレットをルーフ上に装備しており、シーメンス社とライカ社が開発したFORIT(前方監視用熱線映像装置)を搭載する。人間サイズで探知能力6km、認識能力2km、識別距離1km。同キューポラに自衛用として7.5mmSIGMG51機銃を装備している。1997年(1998年?)から生産開始され、175両がスイス陸軍に引き渡された。参考:月刊軍事研究9,0410,034,07

イーグルV>:スイス陸軍が砲兵観測車として採用したもので、2001年から生産を開始した。HMMWVECVUシャシーにモワグ社の装甲ボディを搭載し、車体上部にドイツ・STNアトラス社製BAA伸縮性観測機材(テレスコープ式FLIR、デジタルマップなどを搭載。伸長時3.2m、有効距離10km)を装備する。昼夜問わず観測が可能で、GPS地上航法装置を備え、7km先の目標を停止時は15秒、移動中は30秒で観測できる。車体後部が一段高くなり、偵察員の視界は良好。標定された目標はハネウェルTALIN4000レーザージャイロ式航法装置で確定され、単独で誤差18mGPSと組み合わせれば誤差10mで位置を測定できる。戦闘重量5.8トン、ペイロード0.7トン。航続距離400km120両が生産された。参考:月刊PANZER5,01、月刊軍事研究9,0410,034,07

 <イーグルW>:モワグ社がプライベートベンチャーとして開発したもので、HMMWVの車幅が広すぎたため、シャシーをデューロV多目的トラックベースに換え、車幅を2.16mに抑えている。地雷防御のため底面装甲を強化した。防御はレベルTからVまであり、T(7.62mm通常弾防御)では自重5000kgでペイロード2600kg、V(射距離30m7.62mmドラグノフ用徹甲弾防御)は自重6000kgでペイロード1600kg。対地雷防御はレベル2aTNT6kgの爆発から乗員を守る)で、レベルVに上げることも可能。全長5.37m4.09m?)、全幅2.16m、全高2m。エンジンはカミナISBeターボディーゼル(250馬力、6気筒、5900cc)、トランスミッションはアリソン2500SP(5速)で、最大速度120km、航続距離480km。乗員5名。デンマーク陸軍がイーグルTの代替として90両を発注、2007年中に納入を完了する。また、ドイツ軍がアフガニスタン作戦に投入するため198両の採用を20087月に決定した。参考:月刊軍事研究10,0311,163,044,079,08、月刊PANZER3,04

 <イーグル(新型)>:2010年のユーロサトリで公開されたタイプ。イーグルWよりも防御力を強化させつつ軽量化を図っており、更なる装甲強化に備えてエンジンも改良、タイヤも大直径の365/80R20に変更した。ラーグ社製の格子状装甲サイド・プローロッソを装着可能。戦闘重量10トン、ペイロード3トン。参考:月刊軍事研究10,10

 <イーグルX(6×6輪)>:イーグルX(4×4輪)を6輪駆動に変更したタイプ。ペイロード6トン。歩兵14名を乗せられる。参考:月刊軍事研究10,12

イーグルMk2>:コルトカナダ社が開発したグレネードランチャーで、フランス国家警察が採用した。治安用なのでボディはイエローに塗られている。参考:月刊軍事研究12,07

イーグルアイ>:F-15HUD脇に非公式に装備されているライフル・スコープ。参考:F-15イーグル

イーグルアイ>:南アフリカのデネル社が開発した双眼鏡。レーザーレンジファインダー、レーザーポインター、GPS、デジタルカメラ、ボイスレコーダーが統合されており、無線でその情報を送れる。レーザーの有効距離は20kmに達する。参考:月刊軍事研究1,04

<イーグル・アイズ>:RVAH-14(偵察攻撃飛行隊)を参照。

イーグルアイ・シリーズ>:ベル社が開発したティルト・ローター型無人機Eagle eye。アメリカ海軍の垂直離陸無人機(Vertical Takeoff-UAV)計画に基づいて開発され、アメリカ沿岸警備隊もテストしたが、結局どちらにも採用されなかった。参考:世界航空機年鑑2018-2019、月刊軍事研究10,121,04

TR911X>:8分の1スケールモデルで、スケールド・コンポジッツ社が設計を担当した。エンジンはアリソン250、巡航速度370km、実用上昇限度4450m、航続距離580km。初号機は199836日(19933月?)に初飛行し、19988月(19934月?)から洋上テストを行ったが、墜落して失われ、2号機でテストが継続された。海軍では採用されず、沿岸警備隊がテストを継続した。参考:世界航空機年鑑2018-2019、月刊軍事研究10,12

TR918>:フルスケールモデルで、20062月に初飛行した。沿岸警備隊ではこれの発展型を導入する予定だったが、2007年に計画中止になった。参考:月刊軍事研究10,12

HV911>:沿岸警備隊が少数試験運用したタイプ。TR911Xの小拡大型であるTR916を導入したものである。全長5.56m、ローター直径3.05m、全幅7.37m、全高1.88m、最大離陸重量1293kg。エンジンはプラット&ホイットニー社製207D641軸馬力)双発、最大速度380km360km?)、上昇限度6096m、行動半径204km、哨戒時間3時間、滞空時間6時間。ペイロードは91kgで、SAFIREVFLIRRDR-1700洋上監視レーダーなどを搭載する。参考:月刊軍事研究10,1210,06、世界航空機年鑑2018-2019

イーグル級(初代)>:イギリス海軍空母Eagle級。元はチリ戦艦アルミランテ・コクレーンで、第1次大戦勃発により工事が中断していたのを1917年(1918年?)に購入、空母に改造したものである。世界で初めてアイランドを装備した空母であり、2層の格納庫を持つ。全長203.4m、幅28.3m、吃水7.3m、基準排水量22600トン。主機は蒸気タービンで、出力50000馬力、速力24ノット。兵装は15.2cm単装砲9門、10.2cm単装砲4門。搭載機数21機。艦番号94イーグルが1924年に就役した。参考:第2次大戦のイギリス軍艦、近代戦艦史

イーグル級(2代目)>:イギリス海軍空母Eagle級。元は第二次大戦時に起工されたオーディシャス級空母オーディシャスで、終戦後にイーグルに改称された。艦番号R05イーグルが195110月に竣工した。参考:月刊世界の艦船2,14

 <イーグル級・第1次改装>:1954-55年に実施された。飛行甲板を開度5.5度のアングルド・デッキとし、スチーム・カタパルトとミラー式着艦装置を追加している。全長245m、満載排水量53390トン。主機は蒸気タービン4基4軸152000馬力、速力31ノット。兵装は11.4cm連装両用砲8基、40mm6連装機関砲8基、40mm連装機関砲2基、40mm単装機関砲9門。搭載機数60機。参考:月刊世界の艦船2,1411,15

 <イーグル級・第2次改装>:1959-64年に実施された。飛行甲板の装甲を強化し、アングルド・デッキ開度を8.5度に変更、三次元レーダーを装備している。参考:月刊世界の艦船2,14

 <イーグル級・第3次改装>:1966-67年に実施された。発着艦装置を改良してファントム戦闘機を運用出来るようにしている。参考:月刊世界の艦船2,14

イーグル・クロウ作戦>:19804月に行われた、イランのアメリカ大使館員救出作戦。空母ニミッツの初陣である。1979114日、テヘランのアメリカ大使館を反米デモを行っていたイランの学生が占拠し、アメリカ人職員63人を人質に取って立て籠もった。イラン外務省にいたレイジェン代理大使と大使館員2人も拘束され、イラン学生はパーレビ国王(アメリカに亡命)の身柄引き渡しを要求した。アメリカ政府はイランと人質解放交渉を開始。119日、カーター大統領が救出作戦の検討を指示。1119日に女性など3人、1120日に10人が解放されたが、イスラム革命評議会はウィーン条約を無視して救出行動を起こさず、拘束が1年以上に及んだため、アメリカは軍による救出作戦を行うこととした。当初は大型救難ヘリコプターHH-53を使用する予定だったが、ローターを折り畳むことができないため、空母に載せて運搬するとソ連の衛星にばれてしまう。そこでRH-53D掃海ヘリをかわりに使用し、海兵隊員をパイロットとして再教育した。まずヘリを砂漠の真ん中「デザート・ワン」まで飛ばし、そこで給油を行って救出隊員を乗せたMC-130Eと共に離陸、テヘラン南方の待機地点「ハイドサイト」に着陸。翌日夜、陸路大使館に向かい、デルタフォースがアメリカ大使館を、レンジャー特別突撃部隊がイラン外務省を襲撃して人質を救出し、近くのサッカー場で「ハイドサイト」を離陸したRH-53Dと落ち合ってテヘランを離脱、別働隊が確保した空港に強行着陸したC-141に移ってヘリを爆破し、脱出する手筈だった。アメリカ軍はヘリ13機に慣性航法装置とオメガ航法装置を搭載して夜間盲目飛行ができるようにし、アメリカ中西部砂漠地帯で3ヶ月間の訓練を行った。412日、作戦決行日を424-25日にしたいと統合任務部隊が提案。416日、統合参謀本部が作戦を承認し、カーター大統領も承認した。424日、アル・マシラ基地からMC-130E3機とEC-130E3機が離陸、空母ニミッツからRH-53D8機が発艦し、カビール砂漠に設けた給油点デザート・ワンに向かった。途中でヘリ2機がトラブルを起こし、ローターブレード故障を起こした6番ヘリが不時着、乗員は8番ヘリに収容され、砂嵐で計器故障を起こした5番ヘリが空母ニミッツに戻った。残りはデザート・ワンに辿り着いたものの、2番ヘリのオイルポンプが破壊されており、ヘリが足りなくなった上に民間人の乗ったバスが近くを通ったため、作戦中止を決断。引き返すための給油を実施することにした。3番ヘリが給油中に、タンカーの燃料が切れたため、別のタンカーへと移動を開始、4番ヘリが道を譲ろうとしたところ、闇夜で操縦を誤ってEC-130Eの胴体を切断してしまった。これにより両機は爆発炎上、8名(7名?)の死者を出し、更に2機のRH-53Dにも燃え移って全損、弾薬が誘爆して破片によりヘリ1機が損傷した。これに先立つ331日から41日、ブランドX(後の空軍特別戦術部隊)と呼ばれる空軍特殊部隊がイーグル・ワンの地質状況を調べるために投入され、採取した土壌サンプルから堅い場所と判断したのだが、作戦開始前に嵐が吹き荒れて柔らかい砂に覆われてしまい、これが離陸時に巻き上がって視界が塞がれ、事故が起こったらしい。残る部隊は発見されるのを恐れ直ちに離脱を決定、残ったヘリも全て破壊し、遺体を残したまま輸送機で帰投した。その後も人質は拘束され続け、解放されたのは大統領がカーターからレーガンに代わった後、1981120日のことである(1人は19807月に病気で解放された)。これによりアメリカは完全にイランと断交した。参考:月刊JWings1,02、月刊軍事研究5,035,044,037,97、世紀の失敗物語、歴史群像10,06、月刊世界の艦船8,82増刊

<イーグルス>:VA-115(攻撃飛行隊)またはVFA-115(戦闘攻撃飛行隊)を参照。

<イーグルスキャン方式>:フェイズド・アレイ・レーダーを参照。

<イーグル・パッシブ/アクティブ警戒生存システム>:EPAWSS(電子戦装置)を参照。

<イーグル・ビュー>:T-AGSE-3(支援艦)を参照。

イーグル・ファイア>:トルコのアセルサン社が開発した小型艦艇用ミサイルランチャー。最大4発(左右2発ずつ)のミサイルを搭載でき、目標追尾装置と安定化装置を持つ。参考:月刊軍事研究8,09

イーグル・フライト>:アメリカ軍がベトナム戦争中に編成したヘリコプターチームで、UH-1B輸送型7機、UH-1Bガンシップ型5機、負傷兵収容用ヘリ1機からなる。各基地で常時待機し、ゲリラ出現の情報が入ると直ちに発進する。参考:兵器最先端5

イーグル・ヘッド>:Kar98k小銃に装着する礼装用銃剣で、柄の端が鷲の頭のような形になっているため、こう呼ばれる。参考:世界の軍用銃

イーグル・ボート>:アメリカ海軍駆潜艇Eagle Boat。第1次大戦でUボートに対抗するためフォード社が大戦末期に開発したもので、フォード自動車工場などで生産され、終戦後の1918-19年に60隻が竣工した。デトロイトのフォード自動車工場は海に面していないため、一旦五大湖に進水させ、川や運河を下って大西洋に出している。基準排水量430トン、常備排水量500トン。速力18ノット。兵装は10.2cm単装砲2門、7.6cm単装高角砲1基、爆雷投下軌条2条、爆雷12個。乗員60名。第2次大戦でも8隻が使用された。参考:小艦艇入門、月刊世界の艦船3,07

<イーグル・ボマー>:B-29B(爆撃機)を参照。

<イーグル・レーダー>:AN/APQ-7(レーダー)を参照。

<イーグレット>:L75(スループ)またはT-46A(練習機)を参照。

イーグレット級>:イギリス海軍護衛スループ、Egret級。ビッターン級の対空護衛能力強化型である。全長89.2m、幅11.4m、吃水2.5m、基準排水量1200トン。主機は蒸気タービンで、出力3600馬力、速力19.3ノット。兵装は10.2cm連装高角砲4基、12.7mm4連装機銃1基。L61オークランド、L75イーグレット、L86ペリカンの3隻が1938-39年に竣工した。参考:第2次大戦のイギリス軍艦

イーグレット撃沈>:第2次大戦時の1943827日、ドイツ空軍第100爆撃航空団第U飛行隊のDo217E-5爆撃機がHs293空対艦ミサイル1発ずつを搭載してビスケー湾に向かい、イギリス海軍第Tエスコートグループ5隻を攻撃した。1400頃、エスコートグループに所属するL75イーグレットはDo217E-5爆撃機の7機編隊を3個確認。うち1個編隊にL75イーグレットは対空砲火を浴びせたが、Do217E-5は対空砲の射程外からミサイルを発射。5発は目標を外れ、1発はエリコン20mm機関砲を喰らって吹き飛んだが、1発が後部弾薬庫に命中、搭載していた弾薬が誘爆してL75イーグレットは轟沈した。生存者は28名だった。他にコルベットのロザーとカナダ駆逐艦アサバスカンが大破、世界初の対艦ミサイルによる戦果となった。参考:世界の傑作機No.145

<イーサン・アレン>:SSBN-608(潜水艦)を参照。

イーサン・アレン級>:アメリカ海軍戦略原潜Ethan Allen級。アメリカ海軍初の完全新規設計戦略原潜で、ジョージ・ワシントン級の欠点をスレッシャー級の運用経験で補っており、船体形状の洗練化や機関系の静粛化を進めた。原案の段階では原子炉を2基積んだり、2軸推進にしたりと様々なタイプが検討されたが、建造期間短縮と予算圧縮で原子炉1基1軸推進の最も小さい艦型を採用している。艦首上面に大型ソナー・フェアリングがある。潜舵はセイル・プレーン。魚雷射撃指揮装置はMk112。搭載ソナーはAN/BQR-7AN/BQS-4。全長125.1m、幅10.1m、吃水8.4m、水上排水量6946トン、水中排水量7884トン。主機は原子力蒸気タービン方式、S5W原子炉1基・2段減速歯車付GE式高低圧2胴型蒸気タービン2基、出力15000馬力、7翅プロペラ(直径4.3m)1軸推進、水上速力16ノット、水中速力21ノット。安全潜航深度396m。兵装はポラリスA-2発射筒16基、533mm魚雷発射管4門(艦首。魚雷12本)。乗員110名。1961-63年にSSBN-608イーサン・アレン、SSBN-609サム・ヒューストン、SSBN-610トーマス・A・エジソン、SSBN-611ジョン・マーシャル、SSBN-618トーマス・ジェファーソンの5隻が就役した。1974-76年、SLBMをポラリスA-3に換装した。SALT条約締結で全艦SSNに艦種変更されて1986年に3隻が除籍され、残るSSN-609/-611は特殊任務潜水艦に改造されて1991-92年に除籍された。参考:アメリカ潜水艦史、月刊世界の艦船6,132,10、月刊軍事研究9,122,10、ザ・マーチ17

イージー>:Eを表すアメリカ軍符丁で、朝鮮戦争まで使用された。

イージーエイト>:M4中戦車HVSSサスペンション装備車は、接尾記号E8が付くので、こう呼ばれる。M4A3E8が有名だが、他のE8も同じニックネームである。参考:月刊PANZER10,01

<イージスBMD>:イージス弾道ミサイル防衛改修計画を参照。

イージスBMDプログラム>:イージス弾道ミサイル防衛改修計画のソフトウェア改修。当初はアーレイ・バーク級に探知させてタイコンデロガ級に迎撃させる予定で、それぞれBMD3.0E3.0.1.2を搭載させたが、後にアーレイ・バーク級も迎撃を担当することになり、BMD3.6を搭載した。20098月末現在、CG-70がイージスBMD4.0.1を、17隻がイージスBMD3.6.1を装備している。以降も順次開発を継続し、BMD能力強化が進行中。参考:月刊世界の艦船9,09、月刊航空情報11,09、月刊軍事研究10,18

イージスBMD3.0E>:最初に実用化されたタイプで、LRS&T能力のみを有するイージス・システム。短距離弾道ミサイルから大陸間弾道弾までに対応できる探知・追尾能力を持つが、スタンダード3は当時まだ実戦配備前だったこともあり運用できない。SPY-1Dはじめ各システムを弾道ミサイル探知・追尾用に改修している。弾道ミサイル追尾時には予想飛翔コースにセクター捜索を行うことで探知距離を1200km以上に延伸するが、これにレーダーの全能力を集中するので航空機や巡航ミサイルの脅威に対応できなくなるため、DSP衛星からデータを受け取るまでは通常対空モードにセットしておくか、他のイージス艦の護衛を受ける必要がある。DDG-53DDG-54DDG-56DDG-59DDG-60DDG-62DDG-63DDG-65DDG-69DDG-70DDG-77が搭載改修を受けた。この11隻は全て太平洋艦隊所属で、4隻が横須賀に前方展開している。参考:日米イージス艦とミサイル防衛、月刊世界の艦船10,069,092,18、月刊軍事研究6,15

イージスBMD3.0>:SM-3ブロックTの実戦配備に伴い2005年に実用化されたタイプで、LRS&T能力とSM-3ブロックT運用能力を持ち、弾道ミサイルを迎撃できる。ただし弾道ミサイル迎撃中は他の対空戦は行えない。ハードウェアとしてはSM-3の発射位置を検出するGPSセンサー、SM-3への位置情報入力装置、VLSへのデータ供給用光ファイバー回線、耐熱性強化型VLSなどを導入したとみられる。参考:月刊世界の艦船2,18、月刊軍事研究10,18

イージスBMD3.0.1.2>:弾道ミサイル防衛機能と対空・対潜・対水上戦闘機能を統合したタイプで、弾道ミサイルや航空機、巡航ミサイルなどに同時に対処できる。2005年のFTM04-1/-2で能力確認試験が行われた。参考:日米イージス艦とミサイル防衛、月刊世界の艦船9,092,18、月刊軍事研究6,16

イージスBMD3.6>:LRS&T能力、SM-3ブロックTA運用能力、MIL-STD-3011を持つイージス・システムで、CIC内に補助プロセッサ(Adjunct Processor)と呼ばれるラック1台分の処理装置を追加して情報処理能力を強化しており、弾道ミサイル及び通常の航空目標や巡航ミサイルに同時対処できる。SM-3ブロックTAへの目標情報アップデート用データリンクを追加した。他のイージス艦から目標情報を入手する限定的なランチ・オン・リモート能力も持つ。2006年春、タイコンデロガ級イージス巡洋艦CG-67シャイローが初搭載した。アーレイ・バーク級イージス駆逐艦ではDDG-73ディケイターが初めて搭載した。能力実証試験として2006-07年にFTM-10ステラ・プレデター/-11/-11E4/-12/-13とパシフィック・ブリッツが実施されている。参考:日米イージス艦とミサイル防衛、月刊軍事研究11,076,1610,18、月刊世界の艦船2,18

イージスBMD3.6J>:BMD3.6のこんごう型向け。BMD3.6の改修に準ずるが、早期警戒情報用通信システムにIBSIntegrated Broadcast Service)ではなくS-TADIL-Jを使う。コンピュータがAN/UYK-43で、能力の限界からイージスシステム・ベースライン5.2と同時に動かすことができず、対空戦か弾道ミサイル防衛かどちらかしか行えない。2006-10年に能力実証試験JFTM-1/-2/-3/-4が行われた。参考:月刊軍事研究6,16、月刊世界の艦船9,096,162,18

イージスBMD3.6.1>:イージスBMD3.6の能力に加え、SM-2ブロックWによる大気圏内ターミナルフェーズ迎撃・短距離弾道弾迎撃も行えるもの。AN/TPY-2FBRTSTSS衛星からの目標情報によるランチ・オン・リモートも可能となった。能力実証試験として2008-09年にFTM-14/-15/-17、ステラ・ダガースが実施されている。2012年のFTI-01でもテストを行った。参考:月刊軍事研究6,16、月刊航空情報11,09

イージスBMD3.6.1.1>:イージスBMD3.6.1のコンピュータプログラム改良型。参考:月刊航空情報3,10

イージスBMD3.6.2>:2013910日にFTO-01試験が行われた。参考:月刊軍事研究6,16

<イージスBMD3.6.3>:SM-3ブロックTA/TBを運用できるようにしたもの。参考:月刊軍事研究8,18

イージスBMD4.0>:第2世代イージスBMDとも呼ばれる。参考:月刊軍事研究6,16

イージスBMD4.0E>:イージスBMD4.0シリーズの試験型。参考:月刊軍事研究6,16

イージスBMD4.0.1>:BSPBMD Signal Processor)によりSPY-1の送信ビーム生成能力とシグナル処理機能を強化して解像度と目標探知識別能力を高め、単一ビームでより多くの目標を追尾できるようにし、SM-3ブロックTBの運用を可能としたもの。複雑な分離弾頭の迎撃や、自艦以外のセンサーで得た情報を元にした弾道ミサイルの迎撃(ランチ・オン・リモート)が行える。2011-12年にFTM-16E2/-16E2a/FTM-18試験を実施した。参考:月刊軍事研究6,166,1212,1210,18、月刊航空情報11,09、月刊世界の艦船4,111,16

イージスBMD4.0.2>:FTM-16E2の失敗に基づく改良を加えたもので、ついでにランチ・オン・リモート能力を強化した。2013年にFTM-19/-20/-21/-22試験を実施した。参考:月刊軍事研究6,1611,18

イージスBMD4.0.3>:長距離目標識別追尾能力を強化したもの。参考:月刊軍事研究10,18

イージスBMD4.1>:イージスシステムBMD5シリーズへの改修を受けないイージス艦が装備するイージスBMD。コンピュータはAN/UYK-43のままで、ソフトウェアと信号処理器だけ改良する。SM-3ブロックTBによる大気圏外弾道ミサイル迎撃と、SM-6デュアルTによる大気圏内弾道ミサイル迎撃が可能。コンピュータの能力が変わらないので、BMDと対空戦を両方同時にこなすことはできない。イージスBMD5シリーズへの改修より費用は4割、改修期間は3割で済み、アメリカ海軍イージス艦アメリカのうち20隻くらいはこのレベルに止まるといわれる。参考:月刊世界の艦船6,16、月刊軍事研究10,18

イージスBMD4.2>:AN/SPY-1のアンテナをAESAにして能力強化を図るタイプ。2023年度から運用する予定。参考:月刊軍事研究10,18

イージスBMD5.0>:コンピュータを民生ベース(COTS)に変更し、BMDと通常戦闘で同一のプログラムを使用できるようにしたもの。シグナル・プロセッサMMSP(多任務信号処理装置Multi Mission Signal Processor)が追加されており、受信機が信号処理機能を統合され、BMDと通常対空戦闘を同時にこなすことが出来る。弾道ミサイル対応用の追加コンピュータシステムを搭載する必要が無いので、従来艦からの改装も容易である。ネットワークを介して目標情報を取得し、ミサイルで迎撃するランチ・オン・リモート能力を持つ。弾道ミサイル迎撃に使用するミサイルはSM-3ブロックTA/TBである。2012年から搭載が始まっており、あたご型にも適用される予定。参考:月刊世界の艦船4,11、月刊軍事研究3,146,1212,1211,17、月刊航空情報11,09

イージスBMD5.0(CU)>:SM-3ブロックTA/TB、SM-2ブロックWに加え、スタンダードSM-6SBTインクリメント1ミサイルを運用できるバージョンで、CUCapability Upgrade(能力向上)の略。同時に空中に置くことが出来るSM-3の数も増える。2014-15年にFTM-25試験とFTO-02E2a試験を実施した。参考:月刊軍事研究3,146,1611,18

イージスBMD5.1>:SM-3ブロックUA運用能力を持たせたもので、イージスBMD5.0からはソフトウェア更新だけで導入できる。目標発見から撃破までを他艦などからのネットワーク情報に完全に頼るエンゲージ・オン・リモート能力も追加した。2018年から運用を開始する予定。参考:月刊世界の艦船4,11、月刊航空情報11,09、月刊軍事研究6,16

イージスBMD5.2>:SM-6またはPAC-3の艦上型を装備するとみられ、これらのミサイルによる洋上での終末段階迎撃能力を持つ。参考:月刊航空情報11,09

イージスBMD6.0>:アーレイ・バーク級フライトVに搭載予定のAMDRを使用するバージョンらしい。ついでにイージス・システム全体のオーバーホールも行う。参考:月刊軍事研究10,186,16

イージス・アショア>:Aegis Ashore Missile Defense SystemAAMDS)、陸上型イージス。ロッキード・マーチン社が開発した、地上発射型SM-3による弾道ミサイル防衛システムである。システムは艦載イージスシステムからトマホーク(運用可能にするとINF条約違反になる)やSM-2など弾道ミサイル防衛に関係無い機能を省いたもので、イージスBMDシステム(イージスシステム・ベースライン9B/イージスBMDブロック5.0CU)、SPY-1レーダー装備の組み立て式4階建てビル(デッキハウスDeckhouse)、Mk41垂直発射機(8セル3基)、スタンダードSM-3ミサイルなどで構成される。デッキハウスはタイコンデロガ級イージス巡洋艦の前部上構に似ており、4階(03レベル)がAN/SPY-1D(V)レーダー収容部で外壁四周に八角型アンテナが貼り付けられていて、天井にはAN/SPG-62イルミネーターのアンテナがある。弾道ミサイル飛来方向が限定されているならアンテナは2面でも可。3階(02レベル)がコンピュータ室。2階(01レベル)がCICで、弾道ミサイル防衛専門のためコンソール数はイージス艦よりも少なくなっている。1階(メインレベル)が電源装置である。デッキハウス内部の機器類はREURemovable Equipment Unit)と呼ばれるパレット化システムとなっており、改修や移設が容易。デッキハウスとVLSは離して設置されており、ルーマニアでは536mAAMDTCでは5600m離れている。アメリカ海軍に所属するシステムで、運用もアメリカ海軍将兵(と民間人)が担当する。運用要員数11名(作戦士官、射撃管制員、暗号員など)で、3チームにより24時間稼動させる。システム1基の価格は800億円らしい。実験施設AAMDTCはカウアイ島のPMRFレンジに設けられた。欧州ミサイル防衛構想の一環としてルーマニアのデヴェセル基地(内のアメリカ海軍支援施設デヴェセル。イージスBMD5.0CU相当のイージスBMDアショア5.0+スタンダードSM-3ブロックTB)に20151218日に主要コンポーネントを配置、技術検証を行っており、2016512日からアメリカ第6艦隊が初期運用を開始した。2018年にはポーランドのレジコボ基地(イージスBMD5.1相当のイージスBMDアショア5.1+スタンダードSM-3ブロックUA)に配備される予定で、デヴェセルのものもイージスBMDアショア5.1に換装してスタンダードSM-3ブロックUAを運用可能とする。参考:月刊軍事研究2,119,1410,144,156,1512,156,'169,1711,17月刊世界の艦船6,154,158,169,16、月刊JWings11,17、月刊航空情報3,10、、月刊航空ファン11,17

<イージス・アショア海外シリーズ>

 <イージス・アショア(自衛隊)>:2017年に入り、北朝鮮の動向が不穏の度合いを増しているため、2017817日に小野寺防衛大臣がマティス国防長官と会談して導入への協力を要請し、1219日の閣議で2基のFMS導入を決定、陸自専門部隊(1基あたり要員100名)で2023年度から運用することになった。2ヵ所に設置してSM-3ブロック2Aにより全土をカバーし、ロフテッド軌道や同時多数発射にも対応できる性能を持たせ、連続運用を可能とする予定。取得費は2基で2679億円+VLS代+施設整備費、要員教育費31億円、維持運用費は30年間で1954億円+電気代+燃料費と見込んでいる。2018年度予算案において秋田県の新屋演習場と山口県むつみ演習場の地質・測量調査経費を計上した。ロフテッド軌道の弾道ミサイルや巡航ミサイルにも対処できるよう、レーダーをAN/SPY-6、イージスシステムをベースライン10、ミサイルをSM-6にしてNIFC-CAも加える案が出ている。201839日、搭載するレーダー等の構成品について、複数の選択肢(ロッキード・マーチン社製AN/SPY-1D(V)LRDR、レイセオン社製AN/SPY-6)から最適なものを選ぶため、選定手続きの開始を発表した。アメリカ政府などと調整してアメリカから提案書を受け取り、的確公正な評価を経て決定する予定。61日、配備予定地を新屋演習場とむつみ演習場に決めた。612日、搭載レーダーとしてロッキード・マーチン社製LMSSRLockeed Martin Solid State RadarLRDR改、探知距離1000km)とレイセオン社製AN/SPY-6の提案書を受領した。730日、搭載レーダーがロッキード・マーチン社製LMSSRに決定した。ベースのLRDRはイージス・システムとのマッチング試験を済ませていて運用に問題は無さそうだが、LMSSRとイージス・システムとのマッチングを完成させる費用は日本で負担する必要があり、取得費が増大した。FMS契約を結んでから6年後に1基目が配備される予定である。参考:月刊軍事研究11,173,185,18、月刊世界の艦船2,185,187,1810,18、月刊航空ファン6,183,184,188,1810,18、月刊JWings11,18、朝雲

イージス艦>:イージスシステムを搭載している艦。具体的には、アメリカのタイコンデロガ級、アーレイ・バーク級、海上自衛隊のこんごう型、あたご型、まや型、スペインのアルバロ・デ・バサン級、ノルウェーのフリチョフ・ナンセン級、韓国のKDX-3級、オーストラリアのSEA4000級である。参考:日米イージス艦とミサイル防衛

 <イージス艦(アメリカ海軍)>:イージスBMD対応のBMD艦と、非対応のCEC艦があり、イージスシステム・ベースライン9で両者を統合してIAMD(統合防空ミサイル防衛Integrated Air and Missile Defence)艦にする予定。参考:月刊軍事研究2,14

<イージス艦訓練指導役務>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究9,18

<イージス艦要員国内教育用電子計算機>:自衛隊の機器。リコー製。参考:月刊軍事研究9,15

イージス・システム>:アメリカ海軍艦載戦闘システムAegis System。イージスはギリシャ神話のゼウスがアテナに授けた神の盾のことである。19641月に開始されたASMS196912月に名称変更されたもので、制式名称はイージス戦闘システム(Aegis Combat System)であり、スタンダード艦対空ミサイルの関連システムにはイージス武器システム(Aegis Weapon SystemMk7という名称が付いている。ソ連の対艦ミサイル飽和攻撃(1975年には爆撃機・大型哨戒機1200機に1800発の大型対艦ミサイルを積んでおり、これが25%出撃しただけで450発のミサイルが機動部隊に襲いかかる)に対処するため、複数目標を同時撃墜することが可能なシステムとして開発された。1973年に多機能レーダーSPY-1が目標追尾に成功、1975年に試験艦ノートンサウンドに搭載されてテストされ、6日間で70回の空襲を弾き返し、19789月に量産型システムの契約が達成された。Sバンド多機能レーダーSPY-1、戦闘指揮・決定を行うCDSCommand and Decision System)、武器管制を行うWCSWeapon Control System)、WCSの指令を受けてミサイルを管制する射撃指揮装置、ミサイル発射機、スタンダード・ミサイル、全システムの状態評価・保守整備管制を行うORTSなどから構成される。最大探知距離500kmで、200の目標を探知し、20目標を追尾してスタンダード・ミサイルで同時攻撃できる。更にハープーン、トマホーク、アスロックも統合管制して、空陸海潜全てに対処可能。大きくはベースライン別の改修が行われているが、細かい改良は現場からの意見を元に適宜実施される。冷戦終結後の弾道ミサイル拡散を受け、弾道ミサイル対処用のイージスBMDが新たに追加された。参考:月刊軍事研究5,035,029,149,18、日米イージス艦とミサイル防衛、月刊世界の艦船3,92増刊、9,168,82増刊、8,14

 <ベースライン1>:多機能レーダーAN/SPY-1A、戦闘指揮決定システムCDSCommand and Decision System Mk1、武器管制システムWCSWeapon Control System Mk1、イージス・ディスプレイ・システムADSAegis Display System Mk1、自己診断システムORTSOperational Test and Readiness System Mk1、旋回式連装ミサイル発射機Mk26、イルミネーターSPG-62、射撃指揮装置FCSFire Control System Mk99、管制コンピュータAN/UYK-732ビット・256000ワーズ)、小型コンピュータAN/UYK-2016ビット)、戦術表示装置AN/UYA-4などからなるシステム。SPY-1Aレーダーで探知した対空目標は戦闘指揮決定システム(AN/UYK-7コンピュータ4台とUYQ-21コンソール8基で構成)に送られ、UPX-29IFFで敵味方識別を行った後脅威度判定がなされる。脅威目標に対しては武器管制システム(AN/UYK-7コンピュータ4台とUYQ-21コンソール10基で構成)が武器の割り当てと射撃諸元の計算を行い、全自動、半自動、手動のいずれかでミサイルや砲といった兵装の射撃を行う。発射されたスタンダード・ミサイルはSPY-1Aレーダーの中間誘導を受け、飛翔終末では射撃指揮装置Mk99のイルミネーターSPG-62により誘導されて目標に命中する。16-18目標との同時交戦が可能とされる。水上目標データは戦闘指揮決定システムを経て武器管制システムに送られ、敵味方識別と脅威度判定が行われ、ハープーン発射管制装置SWG-1に射撃諸元が送られ、ハープーン4連装発射機Mk141に発射諸元が送られて発射指令が出される。近接目標の場合はMk86射撃指揮装置及びSPQ-9Aトラック・ワイル・スキャン・レーダーを介して127mm砲の射撃を行う。SLQ-32からの電子情報は指揮・決定システムに送られる。水中目標はSQQ-89(V)対潜戦闘システムで対処する。SQS-53バウソナーやSQR-49曳航ソナーで探知したり、LAMPSTまたはLAMPSVで探知してSQQ-28で処理されたりした水中目標データは水中攻撃指揮装置Mk116AN/UYK-7コンピュータを使用)で処理され、垂直発射式アスロックまたは3連装短魚雷発射管にデータが送られて発射される。また、SLQ-25対潜デコイも運用できる。乗員はイージス・ディスプレイ・システム(1メートル四方のスクリーン4枚、ステータス表示画面、キーボードなどから構成される)またはUYQ-21表示装置によりマシンと交信する。自己診断システムMk1は常に(戦闘行動中も邪魔をしない範囲でチェックし続ける)システムの数百カ所のテストポイントをチェックし、不具合があると自動的に試験監視コンソールに表示する。ハンズ・オフまたはオートマチック・スペシャルと呼ばれるモードが用意されており、脅威探知から目標攻撃、命中後の評価までを完全自動で実施可能。他にオートマチック、セミオートマチック、カジュアルティ(応急操作)というモードがある。タイコンデロガ級巡洋艦CG47-51に搭載されていて、CG-47/-48LAMPSTとLN-66航海レーダーを構成要素に持つMod0CG-49以降はLAMPSVとSPS-64航海レーダーを持つMod1である。参考:月刊軍事研究2,026,93別冊、10,18、艦載兵器ハンドブック改訂第2版、日米イージス艦とミサイル防衛、月刊世界の艦船3,92増刊、10,11、ザ・マーチ5号

 <ベースライン2>:ミサイル発射機をMk41垂直発射機としたもの。トマホーク兵器制御システム(TWCS)を搭載しており、トマホークも運用可能である。一部AN/UYK-7の代わりにAN/UYK-43B戦術コンピュータ(32ビット)を、AN/UYK-20の代わりにAN/UYK-4416ビット)を使用する。タイコンデロガ級巡洋艦CG52-58に搭載された。CG-55まではMod2で、CG-56以降はAN/SQQ-89を構成要素に加えたMod3である。参考:月刊軍事研究2,026,93別冊、艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊世界の艦船3,92増刊

 <ベースライン3>:レーダーをAN/SPY-1Bとしたもので、Mod4にあたる。戦術コンピュータはAN/UYK-4332ビット)となり、戦術表示装置はAN/UYQ-21(一部AN/UYA-70)となった。タイコンデロガ級巡洋艦CG59-64に搭載された。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊軍事研究2,026,93別冊

 <ベースライン4>:レーダーをAN/SPY-1B(V)に換装、管制コンピュータをAN/UYK-43/-44とし、大画面のイージス・ディスプレイ・システムAN/UYQ-21AN/UYQ-70?)を導入したタイプで、AN/SQS-53Cソナーも統合した。戦闘システムのプログラムは400万行ある。タイコンデロガ級巡洋艦CG65-73に搭載された(Mod5)。また、アーレイ・バーク級駆逐艦DDG51-56にも搭載されているが、こちらのレーダーはSPY-1Dとなっていて、Mod6にあたる。参考:月刊軍事研究2,0210,18、艦載兵器ハンドブック改訂第2版、日米イージス艦とミサイル防衛

 <ベースライン5>:SM-2ブロックV/Wを発射可能としたもの。JTIDS/リンク16を搭載し、戦闘方向探知器、戦術作図機能、AN/SLQ-32A(V)3電子戦装置、先進型トマホーク武器管制システムも統合している。アーレイ・バーク級駆逐艦DDG57-78に搭載された。戦闘システムのプログラムは650万行に増え、能力が強化されている。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊軍事研究2,025,15、日米イージス艦とミサイル防衛、JShips Vol.20、月刊世界の艦船10,11

 <ベースライン6>:イージス・ディスプレイ・システムMk6導入によるディスプレイの性能向上、サーバーからディスプレイへのLANによる伝送速度向上、シースパローESSM搭載などを行ったもの。コンソールの一部にCOTSAN/UYQ-70)を採用し、戦闘指揮所・艦橋・レーダー室・ソナー指揮室それぞれにワークステーションを配置して分散処理方式により計算能力(AN/UYK-43換算で120基分)と抗堪性を高め、戦域弾道ミサイル防衛能力、共同交戦機能(CEC)、戦術情報処理コンピュータの統合化も施行している。アーレイ・バーク級駆逐艦フライトUAのDDG79-90に搭載された。DDG-88からはレーダーをAN/SPY-1D(V)としている。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊軍事研究5,152,025,029,18、月刊世界の艦船10,11

 <ベースライン6.3>:RIM-162Aを運用可能としたもの。参考:月刊軍事研究9,14

 <ベースライン7.1>:アーレイ・バーク級駆逐艦フライトUAのDDG91-102に搭載されているバージョンで、COTSの段階からCR0とも呼ばれる。管制コンピュータを全てUYQ-70COTSマイクロプロセッサ(能力はAN/UYK-43換算で270基分)とし、レーダーを沿岸クラッター対処能力を持つSPY-1D(V)に換装、SM-2ブロックVB/WAを運用可能とした。参考:月刊軍事研究5,125,02、月刊世界の艦船9,1610,11

 <ベースライン7.2>:アーレイ・バーク級駆逐艦フライトUAのDDG103-112に搭載されているバージョンで、COTSの段階からCR1とも呼ばれる。オープン・アーキテクチャを一部に導入している。参考:月刊軍事研究5,12

 <ベースライン8>:ベースライン2搭載タイコンデロガ級の近代化改修の際に搭載されたバージョンで、COTSの段階からCR2とも呼ばれる。AN/SPQ-9Bレーダー、CECMk45Mod4艦砲、ESSM、ファランクス・ブロックTBに対応している。コンピュータをAN/UYK-7/-20からAN/UYQ-70に換装した。ソフトウェアはACBAdvanced Capability Build、発達能力建設)08である。参考:月刊軍事研究5,15、月刊世界の艦船9,16

 <ベースライン9>:弾道ミサイル防衛と対航空機防御を単一システムで行えるバージョン(Integrated Air and Missile Defence / IAMD、統合防空ミサイル防衛)で、システム名称は海軍統合火器管制対空システム(Navy Integrated Fire Control-Counter AirNIFC-CA)、ソフトウェア名称は多任務シグナル処理装置(Multi-Mission Signal ProcessorMMSP)である。ハードウェアCOTS段階はオープン・アーキテクチャー完全準拠のCR3SPY-1Dから2本のレーダー波を出して走査を行い、弾道ミサイルと航空機を同時に探知追尾できる。使用するミサイルは対弾道ミサイルがSM-3(大気圏内ならSM-6インクリメント1/デュアル1も使える)、対航空機がSM-2SM-6で、ESSMも装備する。CECも当然積み、NIFFC-CA能力も持つ。多数のベースライン9装備艦が存在すると出来ることが多すぎて運用統制が難しくなるので、イージス巡洋艦の一部(CG-67シャイローなど)にDWES(重点分散化交戦スキーム)と呼ばれるアルゴリズムを積み、どの艦が何をどのタイミングで迎撃するか調整を行う。20168月、日本と韓国(KDX-3用)への提供が決定した。参考:月刊世界の艦船8,1312,152,169,1611,16、月刊軍事研究3,141,151,17、月刊JWings9,'15

 <ベースライン9A>:イージスBMDを抜いたタイプで、イージス巡洋艦用。CG-62チャンセラーズ・ビルで20133-4月に実験が行われ、CG-59プリンストン、CG-60ノルマンディ、CG-61モントレイ、CG-62チャンセラーズビル、CG-63カウペンス、CG-64ゲティスバーグに搭載され、順次追加改修が続けられている。NIFC-CAを中核とする防空任務に特化しており、搭載艦はエアドミナンスCGと通称され、22隻全てに搭載する予定。参考:月刊軍事研究3,138,18、月刊世界の艦船9,168,13、月刊航空ファン10,14

 <ベースライン9A0>:初期型。参考:月刊軍事研究8,18

 <ベースライン9A2>:ベースライン9C2に準じた改修を施したタイプ。参考:月刊軍事研究8,18

 <ベースライン9B>:イージスBMD5.0に対応するタイプ。CG-65チョシン、CG-66ヒュー・シティ、CG-71ケープ・セントジョージに搭載される予定だったが、予算オーバーで開発中止になった。その後イージス・アショア用のベースライン9Eがこの名称に変更されている。参考:月刊軍事研究3,135,1512,15

 <ベースライン9B1>:イージスBMD5.0(CU)に対応し、SM-3ブロックTA/TBの運用が可能。NIFC-CAには非対応である。ルーマニアのイージス・アショアに搭載された。参考:月刊軍事研究8,183,139,18

 <ベースライン9B2>:SM-3ブロックUAを運用可能としたもの。SM-6は運用できない。ポーランドのイージス・アショアに搭載された。参考:月刊軍事研究8,189,18

 <ベースライン9C>:イージス駆逐艦用で、イージスBMD5.0/5.0(CU)とセットで搭載され、適用艦はIAMD DDG(統合防空ミサイル防衛DDG)と呼ばれる。コンピュータにオープン・アーキテクチャーを適用し、銅線を光ファイバーに換装、400トンほど軽量化することに成功した。20139月からDDG-53ジョン・ポール・ジョーンズに装備しての洋上公試が行われており、フライトTのDDG-51/-52/-53/-57/-61/-65/-69と、フライトUAのDDG-79からDDG-112に搭載される予定。フライトTの残りとフライトUの計21隻は予算の関係で搭載が見送られた。後にフライトUA追加建造分DDG-113以降のベースライン9Dも本名称に変更された。参考:月刊軍事研究3,133,145,15、月刊世界の艦船9,168,13、月刊航空ファン10,14

 <ベースライン9C1>:別名イージスシステムTI-12ACB-12TIは技術挿入段階の略で、ハードウェアの改修を、ACBAdvanced Capability Build(発達能力建設)で、ソフトウェアの改修を示す。後ろの数字は配備予定の西暦の下2桁である。SM-2ブロックW、SM-6デュアルT、SM-3ブロックTA/TBを運用可能。参考:月刊軍事研究8,183,13

 <ベースライン9C2>:別名イージスシステムTI-12/ACB-16。エンゲージ・オン・リモート能力を持つと共に、イージスBMD5.1を搭載し、SM-3ブロック2Aの運用や、SM-6デュアルUによるターミナルフェーズの弾道ミサイルの洋上迎撃を行えるようになる。AN/SPQ-9B対水上レーダーを潜望鏡探知レーダーとしても使えるようにし、多層防御センサーとしてシステムに統合する。戦闘システムは水上センサー調整AWSPとの統合を図り、IFFモード5/5Sを採用し、CANESJTT-MGCCS-MCDLCDLMSなどによりC5I能力を向上させ、エンゲージ・オン・リモート能力を持たせる。電子戦能力はSEWIPブロックU/V。DDG-53ジョン・ポール・ジョーンズでテストを行っており、2016年に配備予定だったが2018年に遅れる見込み。アーレイ・バーク級フライトUAイージス駆逐艦DDG-116トーマス・ハドナー以降が搭載する予定である。参考:月刊軍事研究8,183,13

 <ベースライン9D>:新造イージス駆逐艦に最初から積むタイプで、イージスBMD5.0/5.1とセットで搭載される。AN/UYQ-70には三面ディスプレイ式共通表示装置CDSCommon Display System)や共通処理システムCPSCommon Processing System)を追加し、AN/UYK-43換算で2500台分の処理能力を持たせる。フライトUA追加建造分DDG-113以降が装備する予定だったが、ベースライン9Cに内容統合・名称統一された。参考:月刊軍事研究3,1312,15、月刊航空ファン10,14

 <ベースライン9E>:イージス・アショア用で、SM-3ブロックTを運用する。後にベースライン9Bに改称された。参考:月刊軍事研究3,135,1512,15

 <ベースライン10>:別名イージスシステムTI-16/ACM-20。イージスシステム・ベースライン9C2TI-16/ACB-16)の後継としてアーレイ・バーク級フライトVイージス駆逐艦DDG-124ハーベイ・C・バーナムJr.以降に2020年に配備予定のバージョンで、新型レーダーAN/SPY-6(V)1AMDRに対応する。参考:月刊軍事研究3,13

<イージス・システム海外シリーズ>

 <イージスシステム・ベースラインK2>:韓国海軍KDX-3向け。イージスシステム・ベースライン9C2の韓国向けで、FMSにより導入する。参考:月刊世界の艦船2,19

<イージス装置及び関連FMS機能性能改善機材の整備>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究7,18

<イージス装置等に関わる技術支援>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究10,18

イージス弾道ミサイル防衛改修計画>:Aegis BMDBMD計画に基づいて、イージス・システムに弾道ミサイル対応能力を持たせる計画で、スタンダードSM-3搭載運用改修、イージスBMDプログラム適用、イージス艦へのBMD器材(衛星通信型リンク16STADIL-J、統合戦術ターミナルJTTVLS-GPS融合装置VGI、耐熱化Mk41VLS)搭載改修からなり、2年ごとのブロックで能力向上を行うものである。湾岸戦争でCG-53モービル・ベイがAN/SPY-1レーダーで飛翔するスカッド弾道ミサイルを探知したことが、イージスシステムへの対弾道ミサイル付与のきっかけになった。BMD計画がヨーロッパに拡大したのを受け、ブロック2010の次はヨーロッパ段階的向上化構想EPAAに組み込まれた。参考:月刊軍事研究1,056,156,16、月刊世界の艦船2,18

 <イージス弾道ミサイル防衛ブロック2004>:イージス巡洋艦・駆逐艦にイージスBMD3.0Eを適用して対ICBM用の長距離捜索追尾(LRS&T)能力を付加し、イージス巡洋艦にイージスBMD3.0.1.2を適用して対SRBM/IRBM用のSM-3を装備させるものである。具体的には、2004年末までに太平洋艦隊所属のイージス駆逐艦5隻(DDG-62フィッツジェラルド、DDG-54カーティス・ウィルバー、DDG-56ジョン・S・マッケーン、DDG-60ポール・ハミルトン、DDG-63ステザム)にLRS&T能力を付与、2006年末までに10隻のイージス駆逐艦と3隻のイージス巡洋艦(CG-70レイク・エリーなど)にLRS&T能力を付与、イージス巡洋艦3隻にはSM-3も装備させる。これに伴い、2002年にグローリー・ブースト試験、FM-42003年にFM-5/-6、パシフィック・エクスプローラー試験、2005年にFTM04-1/-2が行われた。参考:月刊軍事研究1,055,1210,18

 <イージス弾道ミサイル防衛ブロック2006>:レーダー目標識別能力を向上させるテストを重点的に実施した。参考:月刊軍事研究5,121,05

 <イージス弾道ミサイル防衛ブロック2008>:ブロック2006のテスト結果を基に完全な目標識別能力を持つレーダーを搭載し、イージス艦同士での指揮管制ネットワークを向上させた。参考:月刊軍事研究5,121,05

 <イージス弾道ミサイル防衛ブロック2010>:あらゆる弾道ミサイルの脅威に完全対処可能なシステムを完成させる予定。参考:月刊軍事研究1,05

イージス・ロボットT>:韓国のドーダム・システムズ社が開発した遠隔操作ターレット。K2小銃に倍率30倍のCCDカメラと非冷却式赤外線暗視装置を組み合わせたもので、探知距離は昼間2km、夜間1.2km(改修すれば最大昼間3km、夜間2km)である。値段は1基1100万円。ポスト・イラク戦争に投入されており、北朝鮮の国境監視用にも使用される予定。参考:月刊軍事研究7,07

イースタン・ストーム作戦>:アメリカ海兵隊が不朽の自由作戦において20111026日からカジャキ県で行った、IED施設掃討作戦Operation Eastern Storm。第8連隊戦闘団第6海兵連隊第1海兵大隊と第3戦闘工兵大隊が参加、先頭を行くABV強襲突破車がM58導爆索でIEDを施設ごと吹き飛ばし、後続の兵員が付近を掃討した。参考:月刊軍事研究10,12

イーストウェイ級>:イギリス海軍ドック型揚陸艦Eastway級。船体の9割近くがドックとなっており、航洋能力の低い戦車揚陸艇や小型揚陸艇・上陸用舟艇を上陸地点近傍まで輸送するため開発された。また、これらの船舶の前線でのドック修理用にも使用されている。全長139.5m、軽荷排水量4270トン。速力16ノット。兵装は7.6cm単装砲1門、2ポンド砲4門など。アメリカで7隻が建造され、イギリスに引き渡された。参考:第2次大戦のイギリス軍艦

<イーストランド>:APA-163(攻撃輸送艦)を参照。

<イーストン>:L09(駆逐艦)を参照。

イーゼル>:フランス海軍マルヌ級一等通報艦Yser。参考:第2次大戦のフランス軍艦

<イーシャン>:WZ551装甲車ファミリーを参照。

イーチアド級>:ブルネイ海軍41m級哨戒艇Ijhtihad級。機密度が高く、諸元などの詳細は不明。ドイツのリュールセン造船所で建造され、20103月に1番艦イーチアドと2番艦ベルカトがブルネイに回航された。参考:月刊世界の艦船9,10

<イーチャン>:564(フリゲート)を参照。

<イーチョン>:062(潜水艦)を参照。

飯塚駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。史料館には駐屯地の沿革や部隊の活動が展示されている。敷地面積1442000平方メートル。所在地は福岡県飯塚市大字津島282JR新飯塚駅からバス30分、タクシー15分。創立記念行事ではシャトルバスが出る。1963年の筑豊地区炭鉱閉山を受け自衛隊の誘致が決まり、19641217日に第5施設団が建設工事を開始、1966221日に開設され、第114特科大隊、第2施設群第108施設大隊、第394基地通信隊、第422会計隊、飯塚駐屯地業務隊が駐屯した。412日、駐屯地開庁式を実施。1970年、東千歳駐屯地から第116特科大隊が移駐した。1971325日、第116特科大隊が第3高射特科群に改編され、第114特科大隊が廃止された。19738月、第108施設大隊が第2施設群に拡大改編された。81日、第2高射団が新編された。19757月、飯塚駐屯地音楽部を設置した。1976820日、第2高射団が第2高射特科団に改称された。1978年、第304無線誘導機隊が北熊本駐屯地から移駐した。200916日、新成人隊員64名の成人式を実施。20103月、西部方面情報隊西部方面無人偵察機隊が新編された。201461-4日、駐屯地音楽隊が市民と自衛隊と音楽の夕べで中学・高校吹奏楽部と合同演奏会を実施。121日、駐屯地音楽隊が小倉南警察署の年末特別警戒出発式とパレードに参加。2016101日、創立50周年記念行事を実施。102日、飯塚市昭和通りで創立50周年記念市中パレードを実施。201833日、第4師団40普通科連隊が若松市民会館で開催した小倉駐屯地定期演奏会を駐屯地音楽隊員が支援した。参考:飯塚駐屯地ホームページ、JGround Vol.23MAMOR vol.91、朝雲、第5施設団ホームページ、月刊PANZER6,18

 <飯塚駐屯地(2015年)>:第2高射特科団本部/本部付隊、第3高射特科群、第102高射直接支援大隊、第2施設群、第103施設直接支援大隊第1直接支援中隊、西部方面情報隊西部方面無人偵察機隊、第304無線誘導機隊、第304基地通信中隊飯塚派遣隊、西部方面会計隊第422会計隊(326日から第366会計隊飯塚派遣隊)、第134地区警務隊飯塚連絡班、飯塚駐屯地業務隊、福岡地方協力本部筑豊援護センターが駐屯している。参考:飯塚駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

飯塚駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。1966221日に新編された。2014128日、生活環境向上の功績により、陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。参考:飯塚駐屯地ホームページ、朝雲

<イーディス>:A177(曳船)を参照。

イーデントン級>:アメリカ海軍救難艦Edenton級。建造はイギリスで行われた。排水量5万トンクラスの艦船を曳航でき、大型クレーン、消火設備、再圧タンクなどの潜水支援設備を持つ。深度260mまでの沈船引き揚げが可能。全長86.1m、満載排水量2929トン(3200トン?)。主機はディーゼルで、速力16ノット。兵装は20mm単装機銃2門。ATS-2ボーフォート、ATS-3ブランズウィックなど3隻が1971-1972年に就役した。1996年に退役した後、2隻が韓国海軍に引き渡された。参考:月刊軍事研究5,05、月刊世界の艦船2,877,13

<イーデントン級・海外シリーズ>

 <イーデントン級(韓国海軍)>:ピョンタク(Pyongtaek)級ともいう。1996年にアメリカからATS-2ATS-3の2隻が引き渡され、ASR-27平沢とASR-28光陽になった。後部デリックを大型クレーンに換装している。全長86.1m、全幅15.2m、吃水4.6m、満載排水量2976トン。主機はディーゼル4基2軸6000馬力、速力16ノット。乗員129名。参考:月刊世界の艦船7,13

<イートン>:DD-510(駆逐艦)を参照。

飯野重工舞鶴造船所>:舞鶴海軍工廠の建艦設備を太平洋戦争終戦後に飯野産業が取得して設立した飯野産業舞鶴造船所を1953年に改称したもの。DD-112まきなみを建造した。1963年に親会社が舞鶴重工となったため、舞鶴重工舞鶴造船所になった。参考:月刊世界の艦船6,11

<イーピン>:552(フリゲート)を参照。

<イーブンロード>:K300(フリゲート)を参照。

<イーヤン>:FF-938(フリゲート)を参照。

<イーリー>:768(コルベット)を参照。

<イール>:SS-354(潜水艦)を参照。

<イーロン>:翼龍(無人攻撃機)を参照。

<イーン・アル・ガザラ級>:ナヌチュカ級コルベット(リビア海軍)を参照。

イヴァノヴェッツ>:ロシア海軍タランタルV型ミサイル艇Ivanovets20167180700頃、タランタルV型ミサイル艇R-11と共に宗谷岬西北西160kmを東に航行するのを第2航空群P-3CPG-825わかたかが発見した。その後宗谷海峡を東に通峡している。8121400、タランタルV型ミサイル艇R-11と共に宗谷岬北北東35kmを西に航行するのを第2航空群P-3Cが発見した。その後宗谷海峡を西に進んでいる。参考:月刊世界の艦船10,1611,16

イヴァロ・カタパルト>:ジャングル内に仕掛けられるブービートラップの1つ。ワイヤーに引っかかると、ゴムにくくりつけられたスパイク付き丸太の押さえが外れ、水平回転して襲いかかってくる。参考:コンバット・バイブル2

イヴィス1>:エジプトのダーティー・ボム開発計画。参考:歴史群像12,03

<イヴェストン>:M1151(トン級機雷掃討艇)を参照。

<イェーガーグルッペ>:フクス装甲車ファミリーを参照。

<イェーガーファウスト>:SG500(ロケットランチャー)を参照。

イェータ・レヨン>:スウェーデン海軍トレ・クロノール級巡洋艦Gota Lejon1947年竣工。1950年代前半に近代化改装を行った。1950年代後期に改装を受け、新型レーダーを装備し、対空兵装を更新した。参考:近代巡洋艦史

<イェーテボリ>:K21(コルベット)を参照。

イェーテボリ級>:スウェーデン海軍ミサイルコルベットGöteborg級。ストックホルム級の後継で、6隻を建造する予定だったが、2隻はキャンセルされている。レーダーはシー・ジラフ150HC、ソナーはSS304。全長57m、全幅8m、満載排水量435トン。主機はMTU社製ディーゼル3基、推進はウォータージェットで、速力30ノット。兵装はRBS15Mk2対艦ミサイル連装発射筒4基、ボフォース57mmMk2が1門、ボフォース40mm機関砲1門、400mm短魚雷発射管4門(Tp431短魚雷)、サーブ・エルマLLS-920対潜臼砲4基。K21イェーテボリ、K22ヤヴラ、K23カルマル、K24スンズヴァールが竣工した。後に船体の凹凸を減らしてステルス性を向上させ、57mm砲をMk3に換装し、ECMを新型にするなどの改良を受けている。冷戦終結で対艦任務の可能性が低くなったため、ミサイル搭載数を3基(RBS15Mk2を4基?)に減らし、ボートを搭載した。また、地中海などでの国際協力任務に対応できるよう、エンジン冷却装置とエアコンを追加した。参考:月刊軍事研究10,087,99、月刊世界の艦船2,1011,141,'15増刊、THE MILITARY BALANCE 2016

イエジキ特別蜂起部隊>:イエジ・ストシャウコフスキが第2次大戦時にポーランドで立ち上げたレジスタンス部隊で、イエジキはイエジの子供達の意。イエジはシベリアのポーランド孤児で、ロシア内戦時にシベリアを脱出してウラジオストクに逃れ、日本赤十字社のシベリヤ孤児救済事業で192211月にポーランドに送還された。ドイツ軍の白作戦発動時はポーランド軍予備少尉だったが、国外脱出の道は選ばず、ワルシャワで孤児教育を行いつつ、自らが1928年に設立した日本との交流団体である極東青年会幹部を集めて密かにレジスタンス組織である本部隊を結成した。ドイツ軍との戦闘で660人強が戦死した。イエジは何とか生き残って終戦を迎え、1983年には来日して孤児救済事業時に孤児宿舎となっていた大阪公民病院看護婦寄宿舎(来日当時は大阪市立大学医学部附属病院)を訪問している。参考:赤十字の旗なにわに百年

<いえしま>:MCL-728(掃海管制艇)またはMSC-673(掃海艇)を参照。

いえしま型>:海上自衛隊の掃海管制艇。元はうわじま型掃海艇で、掃海・掃討装置を撤去して自航式掃海具SAMの誘導装置を搭載し、後部舷側に防舷材を取り付けてSAMを2隻横抱きできるようにしたものである。全長58.0m、幅9.4m、深さ4.2m、吃水2.9m、基準排水量490トン、満載排水量570トン。主機はディーゼル2基2軸1800馬力、速力14ノット。兵装は20mm多銃身機銃1丁で、SAM管制装置を持つ。乗員28名。MCL-728いえしま、MCL-729まえじま、MCL-730くめじま、MCL-731ゆげしまが改造され、2010年から就役した。参考:月刊世界の艦船1,141,161,111,151,18JShips VOL.70

伊江島補助飛行場>:在日米海兵隊の訓練施設で、沖縄の伊江島にある。面積802万平方メートルで、1500×50m・ランウェイ04/22の滑走路と400×30m・ランウェイ05/23のハリアー・パッドを持つ。2000年から読谷補助飛行場のパラシュート降下訓練が移転している。北西に平行して訓練用滑走路コーラル・ランウェイ(コーラル離着陸場帯)があり、更に北西にはLHD飛行甲板を模した発着艦訓練施設(LHDデッキ着陸帯。201811月完成)がある。参考:月刊軍事研究4,10、月刊JWings11,182,19

<イェズ>:9K40(艦対空ミサイルシステム)を参照。

イェフ級>:フィンランド軍高速揚陸艇。ウィスコ級の後継で、フィンランドのマリン・アルテック社製ウォーターキャットM18をベースとしている。船体はアルミニウム、上部構造物は複合材製。船体中央から後ろが兵員・貨物収容スペースで、エアコンが完備されており、冬のフィンランドでも居住性を維持する。全長19.9m、幅4.3m、排水量32トン。主機はスカニアD116 007ディーゼル(900馬力)2基、推進はロールスロイス社製40A3ウォータージェット2基、最大速力は軽荷時40ノット以上(46ノットらしい)、満載時35ノット。兵装は操舵室天井の12.7mm機銃NSVまたは40mm自動てき弾発射機と7.62mm機銃PKM装備遠隔操作銃塔。兵員25名を搭載可能。20145月に1番艇が引き渡されてテストに供され、201563日に正式に就役、12隻が配備された。参考:JShips VOL.70

イエメン>:サウジアラビアの南側、アラビア半島南端にあり、面積5280000平方キロ。第1次大戦後にトルコの支配を離れた北部がイエメン王国として独立した。1962年、イエメン王国でクーデターが起こって王政から共和制に移行したが、サウジアラビアに逃げた王政派と共和制派との間で内戦に発展。イギリスの植民地だった南側は1967年に南イエメン人民共和国として独立したが、権力争いで大統領が追放され、1969年に国名もイエメン人民民主共和国と変わり、親ソ国となった。1974年、北イエメンで無血クーデターが発生。1977年、北イエメン軍事評議会議長が暗殺され、1978年には後継の大統領がイエメン人民民主共和国特使との会談中にアタッシェケース爆弾で爆殺され、南北イエメンが断交した。1986年、イエメン人民民主共和国の党政治局会議に大統領親衛隊が乱入して前大統領らを殺害、内戦となり、当時の現職大統領が国外逃亡した。19905月、南北イエメンが統合してイエメン共和国となった。湾岸戦争ではイラクを支持したため、サウジアラビアが外交官やイエメン人労働者を追放、送金が止まって経済危機に陥った。1994年、内戦に突入し、旧北側が勝利。20001012日、アデン港でコール自爆テロ事件が発生。2002年からアメリカとの協力関係を深めた。2007年から外国人に対する襲撃事件が発生。2003年からサウジアラビアと協力してイラン系武装勢力のアッシャバーブ・アルミモンに対する掃討作戦を行っている。20091月、イエメンとサウジアラビアの武装勢力が合流し、アラビア半島のアルカイダを設立。200911月、JICAの日本人技師が誘拐された。2011年、アラブの春の影響を受けてサレハ大統領が退陣して国外に亡命。以降はイエメン政府(ハーディ暫定大統領派)、サレハ大統領派、南部独立派、各地部族、アラビア半島のアルカイダなどが争って内戦状態に陥った。その中でイエメン北部シーア派指導者フセイン・フーシが立ち上げたフーシ派(フセイン・フーシはイエメン政府により2004年に殺害されたため、弟のアブドルマリク・フーシが後を継いだ)がサレハ大統領派の一部を取り込んで勢力を拡大し、イランの協力も得て20149月に首都サヌアに進出。20151月、フーシ派がクーデターで政権を奪取し、ハーディ暫定大統領はイエメン南部のアデンに逃げた。3月、フーシ派がアデンに侵攻、ハーデイ暫定大統領はサウジアラビアに脱出して武力介入を要請した。326日、スンニ派各国(UAE、エジプト、カタール、クウェート、サウジアラビア、スーダン、パキスタン、モロッコ、ヨルダンなど)が、サウジアラビアを中心として空軍部隊により介入という名の無差別爆撃を開始、イエメンの首都サヌアにあるフーシ拠点を爆撃した。728日、UAE陸軍BMP-3歩兵戦闘車とルクレール戦車回収車がイエメンに展開していることが確認された。C-17でアデン国際空港に空輸したらしい。83日にはUAEがルクレール戦車(AZUR市街戦キット装備車含む)、G6自走榴弾砲など1個戦車大隊クラスの地上部隊を上陸させ、フーシ派が押さえていた南部の港湾都市アデンとアル・アナド空軍基地を制圧した。94日、アラビア半島のアルカイダが支援するアンサール・アル・シャリアがトチカ短距離弾道ミサイルをUAEの前進基地(イエメンのマリブ県に設置)に発射し、施設や車両を破壊した。98日、UAEがマリブ県の前進基地にパトリオットを配備した。201616日、イエメンの首都サヌアでイラン大使館がサウジアラビア軍機による爆撃を受けたとイランが発表。サウジアラビアは否定している。104日、フーシ派が救国政府の樹立宣言を行った。108日、サヌアの葬儀場が爆撃を受けて155人が死亡した。109日、紅海のアメリカ海軍駆逐艦にフーシ派がミサイルを発射したが、外れた。1012日、紅海のアメリカ海軍駆逐艦にフーシ派がミサイルを発射したが、外れた。1013日、アメリカ軍がフーシ派のレーダーを巡航ミサイルで破壊した。1119日、アメリカの仲介でスンニ派各国が48時間の停戦を表明したが、すぐ破られた。2017328日、イエメン反政府勢力がキング・ハリド空軍基地にカーヘルM2弾道ミサイル4発を発射したが、サウジアラビア空軍がパトリオット6発以上を発射して撃墜、被害は出なかった(反政府勢力側は被害を与えたと発表している)。913日、サウジアラビア空軍タイフーン戦闘機がイエメンで墜落し、乗員1名が死亡した。101日、サヌア上空を飛行中のMQ-9が墜落した。アメリカ空軍で原因を調査中だが、フーシが撃墜を発表している。2018418日、フーシ派アンサール・アッラーが爆発物を満載したアサフ1無人機をイエメンの紅海沿岸からアル・ムカのUAE軍パトリオット中隊に向け発射したが、対空部隊に撃墜された。サウジアラビアには介入以来625日までにフーシ派からの弾道ミサイル155発が撃ち込まれ、リヤドで市民1人が死亡している。参考:月刊軍事研究3,106,151,'163,164,'165,162,'179,1710,18、月刊JWings6,153,1612,173,18MAMOR vol.139

イェリニャ攻防>:イェリニャはバルバロッサ作戦におけるドイツ中央軍集団の第1目標の1つ。同じく第1目標のスモレンスクから東北東に75kmの位置にある高台にある。1941716日、第2機甲集団第10機甲師団と同集団SS自動車化歩兵師団ダス・ライヒが攻略作戦を開始。パルチザンの攻撃に苦しみながらも720日にイェリニャに到達したが、ここで兵力が尽き、ドイツ軍は防衛戦に入った。この突出部を叩くためにソ連軍は人海戦術を仕掛け、ドイツ軍は730日から83日にイェリニャ南翼のソ連軍を叩き出したが、まだソ連軍は押し寄せ続けた。しかも350km先にあるモスクワへの攻撃命令はキエフ攻略が優先されたために延期され、1ヶ月以上ソ連の攻撃に耐え続ける羽目になった。モスクワ攻略のタイフーン作戦が失敗に終わった後も要衝としてドイツ軍は防衛を続け、ソ連軍がここを解放したのは1943916日だった。参考:月刊PANZER1,04

イエルヴ>:ノルウェー海軍ストルム級高速攻撃艇。1966年就役。退役後にラトビア海軍に譲渡されてズィベンスとなった。参考:週刊ワールドウェポン17、月刊軍事研究3,12

イエローケーキ>:ウラン鉱石から製錬された酸化ウランまたはリン酸塩ウランを粉末にした後、圧力を加えて煉瓦型に成型したもの。ウラン2350.7%程度含まれる。参考:軍事分析湾岸戦争

イエロー・サン・シリーズ>:イギリス初の水素爆弾。参考:核兵器事典

イエロー・サンMk1>:Yellow Sun Mk1。全長6.4m、全幅1.22mで、弾頭威力はメガトン級。1958年から10発が配備された。参考:核兵器事典

イエロー・サンMk2>:イエロー・サンMk1の爆弾ケースにアメリカ製のW28核弾頭(イギリス名称はレッド・スノー)を挿入したもの。150発が生産され、1961-72年に配備された。参考:核兵器事典

イエロー・ジャージ>:アメリカ軍のデッキクルーのうち、フライト・オフィサー(飛行甲板統括係)、エアクラフト・ハンドリング・オフィサー(艦載機運用係)、プレーン・ディレクター(カタパルトへの艦載機誘導係)、アレスティング・ギア・オフィサー(カタパルト射出準備係)、シューター(射出指示係)が着用するライフ・プリザーバー・ベストMk1で、黄色をしている。参考:月刊JWings1,02

<イエロージャケッツ>:VAQ-138(電子戦飛行隊)を参照。

<イエローナイフ>:M704(多目的警備艦)を参照。

<イエローファイター>:菅野直(日本海軍エース)を参照。

<いおう>:MSC-631(掃海艇)を参照。

伊王>:日本海軍海防艦。昭和20715日、八戸港外でアメリカ艦上機の攻撃を受けて損傷した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<イオージマ>:CV-46(空母)またはLHD-7(ワスプ級LHD)またはLPH-2(イオージマ級LPH)を参照。

硫黄島基地隊>:航空自衛隊の基地隊。2015312日、平成26年度体力測定T練成成果の部で1位、練度向上の部で3位となり、空幕長から表彰された。2016310日、硫黄島航空基地に緊急着陸した韓国チェジュ航空B737の故障エンジン交換作業を実施。20181220-22日、防衛医科大学校3学年生の硫黄島研修に協力した。参考:月刊JWings8,14、朝雲

 <硫黄島基地隊(2015年)>:中部航空方面隊隷下で、硫黄島分屯基地に置かれている。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015

イオージマ級>:アメリカ海軍強襲揚陸艦(LPHIwo Jima級、基本計画番号SCB-1571-4番艦)/SCB-157A5-7番艦)。最初から強襲揚陸ヘリを運用する空母型揚陸艦として設計された、世界初の強襲揚陸艦である。主任務は海兵隊1個大隊の兵員と装備を大型ヘリで内陸部に揚陸させることで、揚陸艇は搭載していない。当初は軽荷排水量10000トン・満載排水量17000トン、2軸推進、公試速力21.5ノットとする予定だったが、予算が削られたため荒天時発着艦用スタビライザーを廃止、推進を1軸とし、格納庫を低くするなどの変更を加えた。船体は幅と乾舷が大きい商船型として艦内容積を広く取ると共に建造費を節減している。空母型の全通飛行甲板を採用しており、強度甲板は飛行甲板で、艦内スペースを確保するため乾舷は高い。艦首はエンクローズド・バウで、両舷の主錨は重量約10トンのストックレス・アンカーであり、錨鎖長は320m。飛行甲板は長さ183.7m・幅31.7mで、カタパルトなどの発着艦設備は無くヘリ発着スポットのみを持ち、CH-46なら7機、CH-53なら4機を飛行甲板に駐機でき、これらを同時に発着艦させることができる。アイランドは右側にあり、左舷中央と右舷アイランド後方に1基ずつ折り畳み式エレベーター(15.2m×10.3m、容量22.6トン。LPH-7ガダルカナル、LPH-9グアム、LPH-10トリポリは20トン)を持つ。飛行甲板の真下にギャラリー・デッキがあり、前方区画はCIC、ヘリ管制センター、支援兵力調整センター(揚陸部隊支援のための艦砲射撃や航空攻撃を指揮管制する)といった指揮中枢になっている。船体内にはほぼ全長にわたるヘリコプター格納庫(高さ6.1m)、その後方に車両区画(4300平方フィート・399.5平方メートル)、格納庫下に貨物区画(39400平方フィート・3660.4平方メートル)、兵員区画が設けられている。ヘリコプター格納庫にはCH-46E19機またはCH-53E11機格納する。新造時の搭載ヘリはCH-37CUH-34ヘリ計25機だった。兵員区画には海兵隊1個大隊を収容でき、司令部機能、医療施設(負傷者収容スペース300名分以上、ベッド155床。手術室、レントゲン室、調薬室、研究室)も備えられている。燃料搭載量はヘリコプター用JP-5405000ガロン、車両用が6500ガロンで、両舷に2カ所ずつ洋上燃料受給ステーションを持つ。アイランドは右舷側にあり、前方の艦橋は2段重ねで、上が航海艦橋、下が戦闘艦橋となっている。後方には煙突が1本立っていて、その下に航空管制所がある。電子兵装はアイランド上にAN/SPS-10対水上レーダー、AN/SPS-40対空レーダー、AN/SPS-58A低空警戒レーダー、AN/SPN-6着艦誘導レーダー、AN/URN-20タカンがあり、艦橋右舷側にAN/WLR-6ESMを装着したアームが突き出していて、他にAN/SPS-62AN/SPN-35A(アイランド直後のドーム内)、衛星通信用OE-82、射撃用レーダーAN/SPG-52AAN/SPG-50Mk63射撃指揮装置などを搭載している。揚陸艇は収容していないため、ヘリで運べない重火器や車両は他の揚陸艦に搭載せねばならず、荒天などでヘリが発着艦できないと何もできなくなる。あまりに使い勝手が悪かったせいか、最終艦のLPH-12では小型揚陸艇LCVPを船体後部両舷に1隻ずつ搭載した。LPH-11-12はアイランド前部のMk33連装砲にシールドが付いている。全長183.5m、水線長180.4m、最大幅31.7m、水線幅25.6m、吃水7.9m、軽荷排水量10700トン、基準排水量17000トン、満載排水量18000-18825トン。主機はウエスティングハウス(LPH-10はド・ラヴァル、LPH-12GE)ギヤード・タービン1基、主缶はコンバッション・エンジニアリング缶(LPH-9はバブコック&ウィルコックス缶)2基、出力22000馬力、1軸推進、最大速力23ノット、航続距離は20ノットで10000海里。兵装は76mm連装砲Mk33が4基(右舷アイランド前方右舷2基背負い式、艦尾両舷1基ずつ)。40mm礼砲2門を持つ。乗員528名(士官48名、下士官・兵480名。計685-686名?)、輸送兵員数2090名(1個海兵大隊。士官190名、下士官1900名)。1961-70年にLPH-2-3-7-9から-12の7隻が竣工した。1970-74年、アイランド前部と左舷後方の76mm連装砲Mk33を撤去してシースパロー8連装発射機Mk25Mod1を1基ずつ搭載、射撃指揮装置もMk115Mod0を2基とMk63Mod23/28/29に換装した。1980年代の近代化改装で砲とシースパロー発射機を撤去してバルカンファランクスMk15を2基搭載している。LPH-121996年に機雷戦指揮艦に改造され、他は1992-98年に退役した。参考:アメリカ揚陸艦史、丸スペシャルNo.90、月刊軍事研究2,02、月刊世界の艦船5,9112,13

硫黄島救難飛行隊>:海上自衛隊の救難飛行隊。2008年、硫黄島航空分遣隊に改編された。参考:厚木航空基地ホームページ

硫黄島航空基地>:アメリカ軍及び自衛隊の共用基地で、全長2650m、幅60m、ランウェイ07/25のアスファルト舗装滑走路と全長2650m・幅30mの平行誘導路が用意されていて、管制は海自が担当する。近くに代替飛行場が無いため、緊急着陸に備えて滑走路だけでなく誘導路にもアレスティング・ワイヤーを張れるようにしてある。また、航続距離の短い航空機だと天候悪化などで硫黄島に着陸できなくなった場合に不時着水するしかなくなるため、硫黄島手前にゴー・ノーゴー・ポイント(Go/ No Go Point)を設定しておき、天候が悪くなりそうならその時点で引き返すか、空中給油機を待つ。19456月からアメリカ軍が元山飛行場を大幅に拡張して大型滑走路を建設した。19686月、小笠原諸島返還に伴い日本に返還され、海自硫黄島航空基地分遣隊が発足。19841月、航空自衛隊硫黄島基地隊が創設された。日本本土基地周辺の騒音問題で1993年(1991年?)からFCLPが開始されており、滑走路の長さ236m・幅30mの部分には空母と同じラインが引かれていて、LSOシャック(密閉式の屋台みたいな外見で、冷房付き)とFLOLSも装備されている。また、FCLP用として12機分の駐機スポット、3機分の支援機スポット、格納庫、ホット・ピット(エンジンをかけたまま給油が行える施設)が用意されている。FCLP用施設の整備費用167億円は日本が負担した。ただしホームベースからかなり離れているため、あくまでも暫定的な施設に過ぎず、岩国から185km以内にある別の場所への移設を日本政府と交渉中である。20076月、「いおうとう」に発音が変更された。2011311日、東日本大震災で断層の亀裂が確認された。201259-17日、FCLPが実施された。201458-19日、連日1100−翌0300の時間帯でFCLPを実施。201552-18日、FCLPが実施された。201634日、韓国チェジュ航空の仁川発サイパン行きB737型機(乗員乗客131人)が硫黄島南550kmでエンジントラブルを起こしたため、緊急着陸した。第73航空隊硫黄島航空分遣隊UH-60Jが事故に備えて即時待機している。2100前、チェジュ航空代替航空機が到着して乗客らはサイパンに向かった。故障機はエンジン1機の交換が必要となり、310日にエンジンが到着、海自硫黄島航空基地隊、第73航空隊硫黄島航空分遣隊、空自硫黄島基地隊が交換作業を行い、硫黄島航空基地隊はチェジュ航空整備員らの給養・宿泊支援も行った。3111530、エンジン交換を終えたチェジュ航空B737が離陸した。20181024-26日、平成30年度日米最先任下士官等会同を実施。参考:月刊JWings6,0811,'18、月刊軍事研究7,084,109,'15、朝雲

硫黄島航空基地(2007年度、改編前)>:航空自衛隊硫黄島基地隊、海上自衛隊第4航空群硫黄島救難飛行隊(SH-60J)が所在している。参考:月刊JWings6,07

硫黄島航空基地(2012年度)>:第73航空隊硫黄島航空分遣隊(UH-60J)などが所在している。参考:月刊JWings2,13別冊付録

硫黄島航空基地隊>:海上自衛隊の航空基地隊。硫黄島航空基地機能維持、気象観測(海自で唯一火山観測やラジオゾンデによる高層気象観測を実施)、飛来航空機支援、訓練支援などを行う。硫黄島の発送電設備や雨水浄水装置は自衛隊が保有しているので、それも管理している。19924月、硫黄島航空基地分遣隊から改編されて創設された。2009212-26日、平成20年度第4次硫黄島戦没者遺骨収集を支援した。2010129日、新型のドップラー式気象レーダーが配備され、落成式を実施した。2015315日、新しいターミナルレーダー情報処理システムの完成披露式を実施。20161月、無事故管制40万回(197510月以来)を達成。310日、硫黄島航空基地に緊急着陸した韓国チェジュ航空B737の故障エンジン交換作業と、チェジュ航空整備員らの給養・宿泊支援を実施。参考:厚木航空基地ホームページ、朝雲、MAMOR vol.123vol.114

硫黄島航空基地隊(2007年度、改編前)>:第4航空群隷下で、硫黄島救難飛行隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,07

硫黄島航空基地隊(2010年)>:第4航空群隷下で、硫黄島航空基地に置かれている。隷下に南鳥島航空派遣隊を置く。参考:月刊航空ファン4,10

硫黄島航空基地隊(2015年)>:第4航空群隷下で、硫黄島航空基地に置かれている。南鳥島航空派遣隊を隷下に置く。参考:月刊航空ファン4,16

硫黄島航空基地分遣隊>:海上自衛隊の航空基地分遣隊。1968年、小笠原諸島返還に伴い、第4航空群隷下に硫黄島で新編された。197510月、飛行場管制業務を開始。19924月、硫黄島航空基地隊に改編された。参考:厚木航空基地ホームページ、日本の防衛戦力Part3

硫黄島航空基地分遣隊(1978年)>:第4航空群隷下で、司令部は硫黄島にある。南鳥島航空派遣隊を隷下に置く。参考:月刊世界の艦船1,79増刊、日本の防衛戦力Part3

硫黄島航空分遣隊>:海上自衛隊の航空分遣隊。2008326日、硫黄島救難飛行隊から改編され、第73航空隊隷下に硫黄島航空基地で創設された。2013620-28日、硫黄島航空分遣隊のUH-60Jヘリ1機が硫黄島沖で実機雷処分訓練に参加。201512日、硫黄島の西208kmを航行していたクルーズ客船飛鳥Uで急患が発生したため、1445に第4管区海上保安本部長から航空集団司令部に災害派遣要請が出た。硫黄島航空分遣隊UH-60Jが離陸し、呼吸困難を訴える女性と右大腿骨を骨折した男性を収容、1815に硫黄島航空基地に着陸して第3管区保安本部に引き渡した。5302024頃、小笠原諸島西方沖を震源とするマグニチュード8.5の地震が発生し、最大震度5強を観測したため、UH-60Jヘリ1機を情報収集にあたらせた。201634日、硫黄島航空基地に韓国チェジュ航空B737が緊急着陸することになったため、UH-60Jヘリを即時待機させた。310日、硫黄島航空基地に緊急着陸した韓国チェジュ航空B737の故障エンジン交換作業を実施。1230日、硫黄島南東370kmの船舶から硫黄島に急患輸送を行った。2017510日、硫黄島北東330kmでマグロ延縄漁船第8勝栄丸の男性乗員が高さ5mから転落して内臓損傷の恐れが出たため、海上保安庁に救助要請があり、1010に第3管区海上保安本部長から航空集団司令官へ災害派遣要請が出された。UH-60Jヘリ1機で現場に向かい、漁船から負傷者を収容、硫黄島航空基地で海保機に引き渡した。201842日、第73航空隊の解隊に伴い、第21航空隊の隷下に移った。1028日、フランス業務管理センターから硫黄島東方190kmで台湾籍漁船が406MHzの遭難警報を発信していると第3管区海上保安本部に連絡があり、ガルフストリームを向かわせたところ、1422に左舷側に横転した漁船と、船腹上で手を振る乗員8人を確認したため、1540に第3管区海上保安本部長から第21航空群司令に災害派遣要請が出された。第21航空群が発令した応急出動機部署によりUH-60Jヘリ2機を1551に離陸させ、1645からヘリ・レスキュー・スイマー2名を降下させて救助活動を行い、日没後の1815に乗員8人全員を収容、1907に硫黄島航空基地に搬送して海保に引き継ぎ、1920に撤収要請が出された。参考:第73航空隊ホームページ、月刊JWings8,156,18、月刊航空ファン1,19、朝雲

 <硫黄島航空分遣隊(2015年)>:第73航空隊の隷下で、UH-60Jを装備する。参考:月刊航空ファン4,16

硫黄島戦>:硫黄島(日本軍名称は「いおうとう」、アメリカ軍名称は「Iwo Jima」)は長径(北東−南西方向)8.3km、短径4kmの島で、小笠原諸島では唯一平坦な部分が多く(南東端に摺鉢山がある程度)、長い滑走路を確保でき、日本軍が南西部に千島飛行場、中央に元山(もとやま)飛行場を建設、北東部に北飛行場を設営中だった。アメリカ軍が小笠原諸島攻略作戦を検討し始めたのは昭和189月、具体化したのは昭和196月頃。父島(本土から1000km)だと日本軍爆撃機に襲撃される可能性があったため、本土から1250km離れていてマリアナ諸島(サイパンから硫黄島まで630海里)と東京(硫黄島まで690海里)のほぼ中間にあり、アメリカ陸軍航空軍第20航空軍がマリアナ諸島に配備しているB-29の不時着や、護衛戦闘機P-51Dの発進に利用できる硫黄島が選ばれ、昭和1910月に正式決定された。作戦秘匿名はデタッチメント(孤立)。戦力は兵力22万名(うち上陸部隊は第3・第4・第5海兵師団75144名)、参加艦艇800隻(上陸部隊は護衛空母12隻、戦艦8隻、巡洋艦19隻、駆逐艦44隻、輸送船43隻、LST63隻、LSM31隻など485隻)、航空機延べ4000機以上(正規空母11隻、軽空母6隻、護衛空母18隻に1700機を搭載)、戦車150両、砲168門である。ただし重砲と戦車予備兵力が不足していたのが弱点であった。昭和19522日、日本陸軍第31軍の戦闘序列が変更され、小笠原陸軍部隊を第109師団に統一した。529日に師団長兼小笠原地区集団長として栗林陸軍中将が親補され、68日に硫黄島に着任、海軍根拠地隊も指揮した。626日、小笠原地区集団を大本営直轄に変更、小笠原兵団に改称した。サイパン奪回部隊の一部も防衛部隊に加わり、日本軍守備隊は21152名(陸軍13500名、海軍第27航空戦隊7300名)となって、1平方キロメートルあたり1個中隊の歩兵戦力を持つ日本軍史上最大密度の島嶼防衛兵力が整備された。水際撃滅作戦ではなく、地下陣地に潜って艦砲射撃と航空攻撃をやり過ごし、地上部隊だけを相手にする作戦を採用。当初は上陸してきたアメリカ軍を平坦な飛行場で迎え撃ち、集中砲撃で消耗させたところを逆襲する予定だったが、9月に逆襲を取り消し、主陣地前で敵を拘束して砲撃を浴びせ、突破された時には戦車隊を基幹とする予備隊が速やかに穴を塞ぎ、主陣地前面で敵を殲滅することにした。水源が無く、火山島のため毒ガスと高温多湿(40-50℃、湿度80%)に悩まされつつも水際陣地、主陣地、複廓陣地の3層防御を敷き、深さ10-20m、総延長18km28km?)の地下防御陣地による立体要塞(これでも資材不足などで予定の4割しか完成していなかった)と直接・間接2段構えの縦深火力網を構成し、特に元山飛行場の防衛に重点を置き、アメリカ軍上陸後、ここに3列の速射砲部隊と更に1列の戦車トーチカを配置して待ち伏せた。また飛行場を挟んで2つの砲兵隊を配置し、三八式十二糎榴弾砲10門、75mm野砲・山砲19門、九六式十五糎中迫撃砲17門、九八式臼砲12門(40発ずつ)、試製四式二十糎・四十糎噴進砲40門(と海軍30門。50発ずつ)を集中配備した。総砲門数は220門で、速射砲も76門を配備しており、火力密度も史上最高であったが、弾薬が0.6会戦分しか用意できなかった。機甲兵力は戦車第26連隊(九七式中戦車改・九七式中戦車11両、九五式軽戦車12両)で、第1中隊主力を二段岩拠点、第1中隊の一部と砲兵小隊1個を南地区、第2中隊と砲兵小隊1個を西地区に配置し、第3中隊は予備とした。医務科壕にはレントゲン撮像装置を配置している。アメリカ軍の上陸準備攻撃は昭和196月の艦上機による空襲から始まった。615日、マリアナ侵攻を前にアメリカ機動部隊が空襲を掛け、日本軍は硫黄島航空戦力の大半を喪失した。代わりに横須賀航空隊と第27航空戦隊からなる八幡空襲部隊の硫黄島への展開を決定。あ号作戦に伴うものだったが、展開前にマリアナ沖海戦で敗れたため、硫黄島派遣隊と改称して展開を進めた。620日から横須賀航空隊や第252航空隊戦闘第302飛行隊などが硫黄島千鳥飛行場に進出。624日、アメリカVF-1/-2/-50所属F6F-3が硫黄島を襲撃し、横須賀航空隊、第252航空隊戦闘第302飛行隊、第301航空隊戦闘第601飛行隊が零戦で迎撃したものの、大損害を受けた。73日、空襲警報を受け0700に第252航空隊戦闘第302飛行隊零戦13機が出撃したが、会敵しなかった。1430、空襲警報を受け第252航空隊戦闘第302飛行隊零戦28機、第301航空隊戦闘第601飛行隊零戦31機、横須賀航空隊零戦が出撃したが、態勢を整える前にF6Fに襲撃され、戦闘第302飛行隊は零戦10機、戦闘第601飛行隊は零戦17機を失う大損害を受けた。74日、空襲警報を受け0430に第252航空隊戦闘第302飛行隊が零戦17機で出撃、途中でCVL-28キャボットを発艦したVF-31所属F6F戦闘機を見付けて半数が交戦に向かい、残りは第301航空隊第601飛行隊と会同してCV-18ワスプを発艦したVF-14所属F6F戦闘機と空戦を行った。8月、第252航空隊戦闘302飛行隊の主力が館山に帰投し、一部が分遣隊として残った。810日、アメリカ第7航空軍第30爆撃群B-24J爆撃機がサイパンから硫黄島への爆撃を開始。814日、第30爆撃群B-24J爆撃機38機が硫黄島を空襲。第252航空隊戦闘第302飛行隊が零戦11機で0900に出撃し、撃墜1機、不確実撃墜1機、撃破1機を記録した。819日、第252航空隊戦闘第302飛行隊の主力は館山基地に戻り、戦力の3分の1程が第252航空隊直轄として硫黄島に残った。831日、機動部隊が硫黄島を空襲。112日、陸軍爆撃機が硫黄島を出撃してマリアナのアメリカ軍基地を空襲した。115日、第73爆撃航空団B-29爆撃機36機のうち24機が飛行場や波止場に投弾。B-29による初の硫黄島爆撃で、最後の9機編隊に対して第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊の零戦五二型5機が九九式三番三号爆弾を積んで迎撃に向かったが、高度8200mを飛行していたため三号爆弾を使えず、前下方攻撃を仕掛けたものの戦果は得られなかった。118日、B-29爆撃機6機が来襲したのをレーダーでキャッチし、第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊の零戦五二型5機で迎撃したが、飛行高度が高すぎて戦果を得られなかった。11181000過ぎ、アメリカ海軍PB4Y-1哨戒機2機が陸軍航空軍第318戦闘航空群P-38J戦闘機5機の護衛を受けて偵察しにきたため、第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊の零戦4機で迎撃したが、戦果は無かった。1127日昼過ぎ、第11爆撃航空群B-24爆撃機24機と護衛の第318戦闘航空群P-38戦闘機12機が来襲したのをレーダーでキャッチし、第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊の零戦3機で迎撃、高度6500mで九九式三番三号爆弾を投下して機銃戦に移ったが、戦果は無く、零戦1機が未帰還となった。1530過ぎ、東京から戻る第73爆撃航空団B-29爆撃機5機が硫黄島の西を通過したため、第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊の零戦2機が攻撃に向かったが、捕捉できなかった。その後第30爆撃航空群B-24爆撃機15機が来襲したため、零戦1機が九九式三番三号爆弾を投下している。121日、第10飛行師団飛行第23戦隊の一式戦闘機三型12機が元山飛行場に到着。128日、B-24爆撃機がP-38戦闘機28機の護衛を受けて来襲したため、零戦3機で迎撃に向かったが、P-38戦闘機8機との乱戦になって2機が未帰還になった。1224日、アメリカ艦隊が硫黄島を砲撃。1227日、アメリカ艦隊が硫黄島を砲撃。1230日、保有機全てを喪失した飛行第23戦隊が四式重爆で印旛飛行場に帰投。昭和20119日、飛行第23戦隊の一式戦闘機三型6機(予定では12機だった)が元山飛行場に到着。第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊から九九式三番三号爆弾の使用法を教授され、1機あたり2発を搭載してB-24に対する迎撃戦を行った。210日、アメリカ第58任務部隊の空母16隻、軽空母11隻、戦艦14隻、巡洋戦艦1隻、巡洋艦20隻、駆逐艦96隻がウルシー環礁を出撃した。211日、飛行第23戦隊と第252航空隊戦闘第302飛行隊分遣隊が四式重爆と一式陸攻で硫黄島を離れた。215日、硫黄島の海軍部隊は陸戦編制に移行し、硫黄島警備隊は陸軍の指揮下に入り、南方諸島航空隊は陸戦隊に編成替えとなった。216-17日に第58任務部隊は艦上機による中島飛行機太田製作所及び武蔵製作所に対する空襲を実施、両工場に壊滅的な被害を与えた。217日から戦艦6隻、重巡4隻、軽巡1隻、砲艦数十隻など100隻以上の艦艇による本格的な艦砲射撃が開始され、山頂4分の1が吹き飛ばされて擂鉢山が変形した。上陸準備砲爆撃は74日間続けられ、それまで太平洋戦線で使用した全弾量に匹敵する砲爆弾の雨を降らせている。219日(D-day0640、戦艦・巡洋艦による準備砲撃が開始され、5分後にはLCIR)のロケット砲も加わった。0730、砲艇も射撃を開始。0805、艦砲射撃を中断、航空攻撃を開始。0825、再び艦砲射撃が開始された。0830、上陸部隊に全軍突撃が下命された。0857に艦砲射撃が島の奥に移動した直後の09021031000名からなる揚陸群の第一波が、硫黄島南東部の擂鉢山山麓から南波止場にかけての砂浜に上陸した。日本軍守備隊は第1波9000名が上陸を完了し、物資が海岸に集中し始めた0930から一斉砲火を浴びせかけ、正午には四式噴進弾を一斉射撃して海岸線の海兵隊員を吹き飛ばした。上陸地点南部の擂鉢山山麓は、日本軍が上陸を予想していなかったのと、配備されていた部隊が艦砲射撃に耐えかねて砲門を開いてしまい逆襲で壊滅していたことから反撃できず、海兵隊は硫黄島西海岸まで進出し、摺鉢山を孤立させたが、北部では側面から速射砲陣地の射撃を受け、担当した第25海兵連隊の損害は1420名に達した。それでも前日にローソク岩付近の魚雷貯蔵庫を付近の陣地ごと艦砲射撃で粉砕していたこともあり、予定の半分弱の距離を前進した。D-dayの海兵隊の損害は戦死501名、負傷後戦死47名、負傷1755名にのぼり、アメリカ軍全体では2500名が死亡したが、3万名の兵力と200両の戦車の揚陸に成功、日本軍の水際防御陣地はほぼ壊滅し、摺鉢山地区隊が孤立した。220日、摺鉢山守備隊の主陣地第二線に対して海兵隊の攻撃が開始された。しかし午前中は戦車の支援が受けられず、殆ど前進できずに経過。1100、漸く戦車隊が到着し、M3自走75mm砲4両と37mm対戦車砲12門からなる火器中隊も進出し、洞窟陣地とトーチカに対して直接射撃を実施。1700までに180m前進し、第二線を蹂躙した。摺鉢山守備隊は重火器の殆どを失い、兵力を半減して地下陣地に押し込められた。北東に向かう主攻部隊はD-day進出予定ラインを目標に前進を開始し、第1飛行場(千島飛行場)を制圧。続けて第2飛行場(元山飛行場)に向かったが、戦車第26連隊の戦車12両と陣地帯に阻止された。221日、海兵隊は摺鉢山に三方から前進。強風と豪雨の中、187名の戦死傷者を出し2両の戦車を失いながら摺鉢山を包囲した。主攻部隊は戦車を先頭に進撃するも、速射砲と高射機関砲、重機関銃の集中射撃に遭って出血を強いられ、第2飛行場前面の主陣地第一線で釘付けになった。海岸堡に第4海兵師団第21連隊が上陸。222日、天候悪化のため、主攻部隊は士気の低下を避け部隊を交替。戦車を前面に立てて進撃した。日本軍の速射砲第12大隊が海兵隊の戦車1個中隊と激戦となり、戦車数両を破壊したものの速射砲部隊は壊滅した。他の戦域でも先頭に立つアメリカ軍戦車に射撃が集中、アメリカ戦車隊は大損害(攻撃3日間で全戦車98両のうち25%が破壊)を被りながらも果敢に前進した。223日、アメリカ軍が摺鉢山を制圧し、1020、山頂に星条旗が翻った(後に見栄えの良い大きなものに交換された)。摺鉢山には少なくともコンクリートトーチカ165個、砲台・強化掩蔽壕15個、洞窟200個が作られており、アメリカ軍は馬乗り戦法で制圧していった。夜に摺鉢山守備隊の残存兵300名が包囲突破を試みたが失敗し、25名のみが北に逃れた。第2飛行場前面では、両翼で漸く第1日目の予定前進距離に到達したものの、正面では730m手前で阻止されていた。この日までの日本軍死傷者は6000名、アメリカ軍死傷者は7800名。第4海兵師団は100m進むのに平均300名の損害を出しており、第5海兵師団は22-23日の攻撃で900名の損害を出しながら100mしか前進できなかった。224日、第9海兵連隊が上陸。艦砲射撃と航空攻撃の後、戦車45両以上を主力とする第4海兵師団第21連隊が西側から飛行場に突入。しかし航空魚雷まで使用した地雷原と、速射砲・高射砲・野砲のつるべ撃ちにあって撃退された。正午頃に東側から再度攻撃を開始し、第2飛行場の東側大半を制圧した。225日、準備砲爆撃の後、第2飛行場西端に攻撃を開始。たちまち6両のシャーマンが速射砲で側面を射抜かれて擱座した。そのうちの1両「エートボール」は擱座したまま砲塔を動かして援護射撃を実施、速射砲1門と機関銃座4つを破砕した。また、援護のシャーマンにより残り3門の速射砲も沈黙させたが、更に3両の損害が出た。夜までに飛行場の3分の2を制圧。また、第2飛行場西の主陣地第二線陣地「ミート・グラインダー」に攻撃を開始したが、500名の死傷者を出して僅かに前進したのみだった。226日、第2飛行場北の2つの高地に向け進撃開始。硫黄島西海岸では、海に浮かぶアムタンクから陸上に支援射撃を実施した。227日、戦車11両を失いながらも第2飛行場北の高地を制圧。第2飛行場も占領し、漸く日本軍守備隊主陣地第一線を制圧した。守備隊の兵力及び弾薬は半分以下に損耗。228日、第2飛行場の北、建設中の第3飛行場(北飛行場)の西にある大阪山陣地(362A高地)の麓まで進出。戦車第26連隊が洞窟陣地を出て反撃を実施したが阻止され、中戦車2両と軽戦車8両を撃破された。31日、戦車第26連隊が前日に引き続き突撃をかけたが、逆襲を受け壊滅し、残存戦車はトーチカとして使用、乗員は歩兵に組み込まれた。32日、アメリカ軍が大阪山陣地を制圧。33-4日、第3飛行場北の天山陣地(362B高地)に攻撃を開始。更に「ミート・グラインダー」の382高地と、ターキー・ノブに設置されていた監視所をやっとのことで制圧した。35日、アメリカ軍は再編成と補給のため、攻撃を休止した。36日、「ミート・グラインダー」の残敵掃討を開始。37日、第3飛行場東の東山陣地(362C高地)を制圧。39日、アメリカ軍が「ミート・グラインダー」の残存陣地をほぼ壊滅させた。司令部に合流するため脱出を図った硫黄島守備隊主力の混成第2旅団残存部隊500名は捕捉殲滅された。310日、海兵隊は東海岸に到達し、日本軍は北と東に二分された。313日、362B高地を制圧。314日、362C高地南の円陣「クッシュマンズ・ポケット」を制圧。アメリカ軍は硫黄島全島制圧宣言を出した。315日、アメリカ軍が玉名山を占領。316日、北部の日本軍は海岸付近に追い込まれた。硫黄島守備隊栗林師団長が大本営に向け訣別電を打電。戦況の逼迫にたまらなくなった木更津の第3航空艦隊司令部通信室の暗号士が、暗号書を焼却していたため平文で「硫黄島海軍部隊頑張れ」と打電。3170000、栗林中将隷下部隊の残存将兵がアメリカ軍陣地にバンザイ突撃。硫黄島から木更津の第3航空艦隊司令部通信室に「帝国海軍万歳、勝利を確信す」との電文が届いたが、これが木更津への最後の通信となった。318日、大本営に以下の訣別電が入電。「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭カシムルモノアリ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ縦ヒ魂魄トナルモ誓ッテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披歴スルト共ニ只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永ヘニ御別レ申シ上グ」。321日、東部の日本軍守備隊残存兵を指揮していた戦車第26連隊長の西竹一中佐が自決。大本営は「『全員壮烈なる総攻撃を敢行す』と打電あり、爾後通信絶ゆ」と発表した。3260500、栗林兵団の残存兵400名が最後の総反撃(アメリカ海兵隊戦史によれば、バンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を目的とした優秀な作戦)を行うも撃退され、日本軍の組織的抵抗は終結した(ごく一部が終戦まで戦闘を継続)。日本軍守備隊の損害は戦死20129名、捕虜1023名(1019名?)。アメリカ軍の損害は死者6821名、負傷者2186名で、うち海兵隊の損害は戦死4554名、戦傷死1331名、行方不明46名、負傷17272名であった。アメリカの攻撃部隊指揮官は、栗林中将が最も勇敢な指揮官であったと評している。アメリカ軍は化学兵器の使用も考慮したが、報復を恐れて使わなかった。未だ島には放棄されたM4戦車、日本海軍14cm砲(大阪山にある。砲身に弾丸が食い込んだまま)、トーチカが残っており、年間数千発の不発弾も掘り出されている。海軍南砲台群のコンクリート・トーチカには初弾必中、冷静沈着といった文字が残されている。本土に近い島の北東部、最後の拠点の1つである天山壕の真上には天山慰霊碑が建造されており、天井部分には穴が空いていて、水不足に苦しんだ将兵の魂が雨水で喉を潤せる構造となっている。慰霊祭が始まると雨が降り出すことも多いという。東海岸の金剛岩付近には第26戦車連隊長西竹一大佐の碑が建てられている。北東部には北観音、マリア観音(アメリカ兵が壊した観音像の代わりとしてアメリカ側が建立)、愛馬の碑、平和記念の碑などがある。擂鉢山頂上には日米双方の碑が建てられた。1985年、硫黄島戦に参加した日米将兵が一堂に会し、初めて日米合同慰霊祭が行われ(以降毎年実施)、南海岸に日米再開記念碑が建立された。戦闘に参加したアービン・デイ米海兵隊員が戦地から持ち帰った日章旗が海軍高射砲部隊に所属していて戦死した滝口恒雄上等水兵のものであることが判明し、1998616日にアメリカから滝口上等水兵の妻宛てに郵送で返還されてきたため、713日に新潟県護国神社で返還式が行われた。2009212-26日、平成20年度第4次硫黄島戦没者遺骨収集を実施。14柱を収容した。20111129日から127日、厚生労働省が平成23年度硫黄島遺骨帰還事業を実施、初めて自衛隊OBも参加し、155柱を収容した。2013313日、硫黄島で第14回日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式を実施。日・米硫黄島協会、アメリカ第3-5海兵師団協会が主催し、政府関係者、退役軍人、遺族ら270人が参列した。参考:月刊軍事研究4,025,026,027,028,0212,034,077,08、激闘太平洋戦記、軍事用語の基礎知識、激闘!太平洋戦争地上戦、太平洋海戦史、日本戦車隊戦史、月刊世界の艦船1,0210,13、歴史群像12,10、月刊航空ファン2,175,17、護衛空母入門、朝雲、MAMOR Vol.76、軍医サンよもやま物語

硫黄島飛行場>:日本海軍の飛行場。昭和14年、東京府小笠原村に開設された。参考:首都防空網と空都多摩

硫黄島分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地。硫黄島基地隊が置かれている。所在地は東京都小笠原村硫黄島。参考:月刊JWings6,10別冊付録、8,14

五百島>:日本海軍海防艦。元は中国の軽巡洋艦寧海で、昭和12年に鹵獲したものである。昭和19919日、八丈島の北西でSS-235シャッドの雷撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門

庵崎貯油所>:在日米軍の貯油所で、佐世保港の出口付近にあり、面積は23万平方メートル。元は日本海軍軍需部庵崎施設の貯油所で、19459月にアメリカ陸軍に接収された。19655月、海上自衛隊が施設の一部を共同使用するようになった。1971年(1946年?)、アメリカ海軍に移管された。2009610日、DDH-144くらまが接岸し、燃料搭載作業を実施。護衛艦として初めて岸壁に接岸しての燃料補給を行った。参考:月刊軍事研究4,10、朝雲

イオン交換樹脂法>:ウラン濃縮法の1つ。吸着剤を入れた反応塔に酸化剤、ウラン溶液、還元剤を順番に流すと、ウラン235が還元剤の側に集まるので、これを回収して濃縮する。設備は簡単だが、濃縮率に限界があるという欠点があり、原子力発電用燃料にしか使えない。参考:アメリカの核兵器

<威海>:590(コルベット)を参照。

伊賀上野飛行場>:日本海軍の飛行場。太平洋戦争末期に工場で完成した一式陸攻を受領し、試験飛行を行って各地の部隊に届けていた。兵舎が無いため、搭乗員は伊賀上野城天守閣、整備員は付近の学校や公民館などを間借りした。空挺部隊の奇襲に備えて三八式歩兵銃を装備した突撃隊が編成されている。農耕隊も編成されており、付近の空き地で野菜の栽培も行った。参考:続日本海軍よもやま物語

医学研究委員会>:CMRと略す。アメリカ科学研究開発局の下部機関で、国防に関する医学研究を司る。近代戦に必要な医学的技術を分析し、被弾確率の大きい胸腹部を確実に守る防弾ベストや、創傷及び不衛生から来る感染症を駆逐するペニシリンなどの開発を推進させた。参考:歴史群像6,02

威嚇弾>:日本海軍の閃光弾で、昭和206月に制式化された。花火業者を動員して開発され、四寸玉花火を航空機に搭載した発射筒から打ち出し、150mくらいの所で炸裂させて夜間に出撃してくる敵戦闘機パイロットの目を眩ませる。甲、乙、丙、丁の4種類があり、実戦使用されて結構有効だったらしい。参考:日本海軍の爆弾

<いかづち>:DD-107(護衛艦、2代目)またはDE-202(護衛艦、初代)を参照。

<雷>:第265航空隊(日本海軍航空隊)を参照。

雷(初代)>:日本海軍雷型駆逐艦1番艦Ikazuchi。明治32223日に水雷艇(駆逐艇)として就役。明治33622日、軍艦(駆逐艦)に類別変更。明治381212日、駆逐艦に類別変更。大正元年828日、三等駆逐艦に類別変更。大正21010日、事故により沈没した。大正2115日に除籍され、大正3429日に売却された。参考:日本駆逐艦史

雷(2代目)>:日本海軍暁型(2代目)駆逐艦3番艦Ikazuchi。昭和7815日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には第6駆逐隊に所属していた。昭和17120日、ダバオ沖で仙台丸と衝突して損傷した。1113日、第3次ソロモン海戦で被弾損傷した。昭和18327日、アッツ島沖海戦に参加。330日、幌延海峡で駆逐艦若葉と衝突して小破した。昭和19413日、グアム西方60海里でSS-257ハーダーの雷撃を受けて沈没し、414日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14

雷型>:日本海軍初の駆逐艦(建造当初は水雷艇に分類)。明治27年(1894年)にイギリス海軍が駆逐艦を建造したのをみて明治29年に発注した。明治33年頃にイギリスで建造されたB型駆逐艦とほぼ同型であり、建造はイギリスのヤーロー造船所で行われ、完成後に日本まで回航された。煙突は4本。垂線間長67.2m、全幅6.3m、平均吃水1.5m、常備排水量345トン。主機は直立式4気筒3連成レシプロ蒸気機械2基、主缶はヤーロー式石炭専焼水管缶(圧力17.6気圧、飽和温度)4基、出力6000馬力、2軸推進、最大速力31ノット。兵装は安式十二斤速射砲1基(艦尾)、保式六斤速射砲5基(前部艦橋指揮所上部・両舷、船体中部両舷)、45サンチ単装魚雷発射管2門。乗員60名。明治32-33年に雷、電、曙、漣、朧、霓の6隻が就役し、北清事変・日露戦争に参加した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船5,11

いかづち型>:海上自衛隊護衛艦(乙型警備艦)。あけぼの型とほぼ同時期に開発されているが、主機関を比較のため国産高出力中速ディーゼルにしている点、艦橋後部で甲板室が途切れている点が異なる。あけぼの型より機関区画が短くなった分だけ船体を短縮しており、煙突も1本しか無い。ディーゼルエンジンは航行用と発電用を前後の機関室に1基ずつ搭載しており、それぞれで推進軸1軸ずつを駆動する。両機関室の間には停泊用ディーゼル発電機を置いた。ディーゼルは蒸気タービンよりも振動が大きいため、主船体の軟鋼使用割合を増やして板厚も厚くし、上構のアルミ合金使用割合を減らしている。艦橋構造はアルミ合金として重心を低下させた。応急甲板は上甲板である。レーダーはOPS-2対空レーダーとOPS-3対水上レーダー。ソナーはQHBと攻撃ソナーで、艦底にソナードームを2つ持つ。Mk51射撃指揮装置3基を装備する。建造最終段階でDE-203いなづまに最小限の司令部設備を設けることになり、隊司令室などが追加された。全長87.5m、全幅8.7m、深さ5.4m、吃水3.1m、基準排水量1070トン、満載排水量1400トン。主機は直列6気筒トランク・ピストン型中速2サイクルディーゼル(DE-202が三菱造船製9UET44/55型、DE-203が三井B&W950VBU-60型)2基2軸12000馬力、主機回転数はDE-202が毎分380回転、DE-203が毎分350回転、速力25ノット、燃料搭載量160トン、航続距離は16ノットで5900海里。兵装は5476mm単装砲2門(前後甲板)、ボフォース40mm連装機関砲Mk1が2基(上構前後端)、ヘッジホッグ1基、K砲8基、爆雷投下軌条2条。乗員153名(DE-203いなづまは162名)。DE-202いかづち、DE-203いなづまが1956年に竣工した。1958年度に改装工事を実施、砲側レーダー(31番砲に装備)付き76mm速射砲Mk34を搭載し、1番40mm連装機銃と爆雷兵装の半数を撤去(爆雷兵装はそのまま?)、Mk51FCS2基を外してMk63FCS1基を装備している。ソナーはSQS-11ASQR-4に換装した。両艦とも1983330日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、艦船メカニズム図鑑、月刊世界の艦船11,'17増刊、4,131,173,106,111,14、丸スペシャルNo.78

五十嵐留作>:日本陸軍エース。大正9年、新潟県生まれ。昭和14年、陸軍満州独立守備隊に入隊。昭和16年、航空兵となり、昭和1711月に下士官操縦学生を卒業し、昭和1812月に飛行第50戦隊に配属され、ビルマ戦線に配置された。P-38戦闘機相手に撃墜を重ねてP-38撃墜王と呼ばれ、空挺攻撃などにも参加したが、617日にインパール上空でスピットファイアの攻撃を受けて戦死した。同日付で第5飛行師団長から賞詞が授与されている。総撃墜機数16機、不確実4機。最終階級は曹長。参考:日本陸軍戦闘機隊

>:Anchor。停泊時に用いる錘で、停泊中の船の船首を風上に向ける働きもあり、横風で転覆する恐れも無くなる。無桿錨(ストックレス・アンカー)と有桿錨(ストック・アンカー)があり、後者は更に十字錨、片爪錨、NDS(自衛隊規格)、ダンホース、菌形錨に分類される。艦首にあるのはバウ・アンカー(Bow Anchor)、艦尾にあるのはスターン・アンカー(Stern Anchor)と呼ぶ。錨の爪が海底に食い込むことに加え、錨鎖と海底の間に摩擦も生じるので、停泊に必要な大きな抵抗力が生じる。錨が外れて船が走り出してしまう(走錨)と、摩擦係数が急減するため、止まらなくなる。錨鎖が短くて海底に届かない場合は、重量物に木材やブイなど浮くものを取り付け、それと船を舫い綱で繋ぐ(シーアンカー)と、風や潮に流されるのは防げないが、船首が風上を向くので転覆はしない。参考:図解雑学 船のしくみ、米海軍サバイバルマニュアル、月刊JWings2,00、陸海軍学校と教育、日本の防衛戦力Part3

 <錨(海上自衛隊)>:護衛艦では艦首に主錨2基、中央または後部に副錨1基を装備する。主錨用錨鎖車はDDが2基、DEでは1基。参考:月刊世界の艦船11,13

<イカリア級>:LST-1級戦車揚陸艦(ギリシャ海軍)を参照。

錨甲板>:錨を取り扱う甲板。艦首にある。参考:月刊JWings2,00

<イカルス>:D03(駆逐艦)を参照。

医官>:医師の国家資格を持つ幹部自衛官。防衛医科大学校を卒業し、幹部候補生学校で初級幹部課程を受講、2年間の初任実務研修を経て三自衛隊の衛生部門に配属され、医療、環境衛生、防疫、健康管理指導などを行うと共に、初級幹部自衛官に必要な教育も受ける。その後は医学の専門分野を2-4年間学んで専門医の資格を取り、衛生部門で勤務したり、防衛医科大学校医学研究科で研究を行ったりする。患者は自衛官であり、症例が偏るので、民間病院での研修も行って技量を維持する。参考:月刊JWings6,14MAMOR vol.83vol.136

 <医官(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊衛生科幹部自衛官で、医師の国家資格を持ち、診療や健康管理を主任務とする。医務官(隊付の医官)は方面隊司令部に1名(1等陸佐)、師団または旅団の司令部に1名(2-3等陸佐)が配属されている。参考:MAMOR vol.120、朝雲

壱岐>:日本海軍択捉型海防艦Iki。昭和18531日竣工、呉鎮守府部隊に編入された。620日からパラオへの船団護衛に就いた。昭和19216日から門司−シンガポールの船団護衛に就いた。410日、第1海上護衛隊に移った。513日、ヒ63船団の護衛に就き、門司港を出港。520日、マニラを出港し、シンガポールに向かった。5240220、ボルネオ西方のアンベラン諸島付近でSS-270レイトンの魚雷2本を右艦尾及び艦橋右前部に受けて沈没した。船団部隊指揮官含め158名が戦死し、18名が択捉に救助された。ヒ63船団に損害は無く、無事シンガポールに到着した。参考:月刊丸7,143,90、第2次大戦日本海軍作戦年誌

<域外調達>:OSPを参照。

<遺棄化学兵器発掘・回収事業>:中国遺棄化学兵器発・回収事業を参照。

壱岐警備所>:海上自衛隊の警備所で、対馬防備隊の隷下にある。2016315日、YF-2155交通船2155号が配備された。参考:月刊世界の艦船7,16、朝雲

イキケ級>:チリ海軍ミサイル艇。イスラエルのサール級を導入したものである。兵装はガブリエル艦対艦ミサイル発射筒4基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<異機種間空中戦訓練>:DACTを参照。

イギリス海軍>:Royal Navy。三軍の序列では海陸空と先頭に位置しており、Senior Serviceともいう。11世紀初めから5港市が英仏海峡の海賊対処を担任するようになり、国家間戦争の際には国王がこれらの船を乗員ごと徴発して投入した。艦砲が登場して改良が進むと、その搭載を初めから考慮して建造された艦船が造られるようになり、15世紀初め頃から国王が直接手元に置いて戦争に使用する軍艦が登場したが、戦争が終わると砲を外して商船として売却されている。16世紀のエリザベス朝時代に植民地を拡大してスペインと衝突、無敵艦隊と対決することになるが、この時はエリザベスT世の手持ちの軍艦の他に私掠船や海賊船も投入した。1660年の王政復古で近代的なイギリス王国海軍の歴史が始まった。1805年、トラファルガー海戦でフランスを撃破。7つの海を支配することになり、地球の全海域を区分して艦艇を配備し、海賊の取り締まりなどを行った。1889年、世界第2位・第3位の海軍国であるフランスとロシアの連合勢力に対抗できるだけの兵力を整備する方針(二国標準)を決定。1892年、世界初の近代戦艦であるロイヤル・サブリン級前弩級戦艦が就役開始。1894年、世界初の駆逐艦であるA級駆逐艦が就役開始。1901年、ヴィッカーズ社にホランド型潜水艇5隻を発注。1904年の英仏協商と1905年の日露戦争を受け、第1仮想敵国をドイツに変更し、ドイツ海軍の1.6倍の戦力を配備することとした。艦艇の配置も地中海艦隊から本国艦隊へと軸足を移している。1906年、世界初の弩級戦艦ドレッドノートが就役。1908年、世界初の巡洋戦艦インヴィンシブル級が就役。19095月、海軍硬式飛行船第1号の設計・製作を民間会社に発注した。1910621日、将校が自費でパイロットライセンスを取得した。1911年、航空分遣隊と王国艦隊補助部隊を創設。フィッシャー提督がイギリスド級戦艦の主砲は全てドイツを向いていると発言。20世紀に入ってからアメリカとドイツの連合兵力に対抗できるだけの兵力を備えるのを目標としていたが、国力的に無理があったので、1912年にドイツの軍備をイギリスの6割以内に抑え込むのを目標とし、ドイツが主力艦3隻を作ると対抗して5隻を建造した(クイーン・エリザベス級など、同一クラスが5隻建造になっている)。19147月、海軍航空隊が独立。1915年、Pボート級哨戒艇が竣工開始。1918年、海軍航空隊が空軍に統合され、自前の航空部隊が無くなった。第1次大戦後の軍縮条約で、アメリカと同等の勢力まで削減された。1939年、海軍航空隊が復活した。第2次大戦では大西洋の戦いで奮闘。1940年、フルマー艦戦を配備。1941年、シーハリケーン艦戦を配備。19411024日、東洋艦隊を新編。1942年、シーファイア艦戦を配備。1943年、ロック級フリゲートが就役開始。ファイアフライ艦戦を配備。終戦時には創設以来最大の海軍戦力を備え、駆逐艦・潜水艦以上の艦艇500隻を保有していたが、これでもアメリカ太平洋艦隊(1200隻。更に1945年末までに1300隻作る予定)の半分以下だった。194512月、軍艦や非戦闘船を鹵捕獲した際の賞金制度(船の売却益と捕虜の身代金を国王、船主、乗員で分け合っていた中世の制度の名残。第1次大戦以降は従軍将兵全員に分配していた)が廃止された。戦後は経済危機と燃料不足で艦艇の退役が一気に進み、1947年に現役艦艇が80隻に減少。1949年、シーホーク艦戦を制式化。1952年、冷戦激化で現役艦艇が123隻に増加。ラピッド級フリゲート23隻が就役開始。1953年、ワイバーン艦上機が就役。1956-58年、ホイットビー級フリゲート6隻とブラックウッド級フリゲート12隻が竣工。1958-61年、ポーパス級哨戒潜水艦8隻が就役。1959年、空母ハーミーズが竣工。1960年代までに海外植民地が殆ど独立、正規空母の段階的廃止を経て、ほぼヨーロッパ向け海軍となった。とはいっても米ソに比べれば規模が小さいというだけで、貫禄の世界第三位である。1958-61年、ポーパス級哨戒潜水艦8隻が就役。1960年、本国艦隊司令部を旗艦の駆逐艦母艦タインから陸上のNATO司令部隣接区画に移し、HMSウォーリアという艦名を付けた。1960-70年、カウンティ級ミサイル駆逐艦8隻とオベロン級哨戒潜水艦14隻が就役。1960-61年、ロスシー級フリゲート9隻が竣工。1961-64年、トライバル級フリゲート7隻が就役。1961-67年、エイヴォン級揚陸艇11隻が進水。1963年、タイド級給油艦1隻が竣工。リアンダー級フリゲート26隻が竣工開始。1964-68年、サー・ランスロット級補給揚陸艦6隻が就役。1964年、海軍本部(政府の省扱い)が廃止されて国防省に統合された。1965-67年、フィアレス級強襲艦2隻が竣工。1966-67年、ヴァリアント級SSN2隻が就役。1967年、エンガディン級ヘリコプター支援艦1隻が就役。1967-69年、レゾリューション級SSBN4隻が就役。1967年、地中海艦隊などの在外艦隊を廃止し、太平洋・地中海を担当する西方艦隊と、スエズ以東を担当する東方艦隊に統合した。エンガディン級ヘリ支援艦1隻が就役。19684月、ファントムFG.Mk1艦上戦闘機の導入を開始。1969年(19711031日?)、東方艦隊を廃止してスエズ以東から撤退、西方艦隊を単に艦隊とした。1969年、シーキングHAS.1対潜ヘリの配備を開始。1969-74年、ローヴァー級給油艦5隻が竣工。1970年、王国海上補助部隊を創設。1972年、アブディール級掃海支援艦1隻が就役。1972-73年、ヴェンチャラー級掃海艇2隻が就役。1973年、ブリストル級ミサイル駆逐艦1隻、ウィルトン級実験掃海艦1隻が就役。1973-81年、スイフトシュア級SSN6隻が就役。1974年、21型フリゲート8隻が就役開始。1975年から42型ミサイル駆逐艦が就役。1978年、正規空母と巡洋艦が全て退役。1979年、22型フリゲート14隻、アップルリーフ級給油艦3隻、シーハリアーFRS.1の配備を開始。1980-85年、インビンシブル級空母3隻が就役。1980-89年、ハント級掃海艇13隻が竣工。1983-91年、トラファルガー級攻撃原潜7隻が就役。1987年、サー・ガラハド級戦車揚陸艦1隻が就役。1989-2008年、サンダウン級掃海艇9隻が就役。1990年代に将来空母CVF建造計画を開始。1991-2002年、23型フリゲート16隻が就役。1993-94年、フォート・ヴィクトリア級艦隊補給艦2隻が就役。1993-99年、ヴァンガード級SSBNが就役。1999年、マーリンHM.Mk1ヘリの配備を開始。2000年、ハリアー運用部隊の第800・第801飛行隊が空軍ストライク・コマンド合同ハリアー部隊の隷下に入った。2001年、CVFの搭載機にF-35を選択。2003年、アルビオン級ドック型揚陸艦2隻とリバー級外洋哨戒艦が就役開始。2006-07年、ベイ級ドック型揚陸艦4隻が就役。2006年、FSC計画により26型フリゲートの設計を開始。シーハリアーFA2の退役に伴い、タイフーンF2に機種転換した空軍第3飛行隊のハリアーGR7/GR9を第800飛行隊で運用するようになった(機体自体は空軍所属)。20073月、第800飛行隊と第801飛行隊が海軍攻撃航空団(Naval Strike Wing)に統合された。2009年の揚陸戦力はアルビオン級ドック型揚陸艦2隻、オーシャン級強襲揚陸艦1隻、ベイ級ドック型補助揚陸艦4隻、サー・ベディバー級揚陸艦1隻、LCU13隻、LCVP34隻。2009-13年、45型デアリング級駆逐艦6隻が就役。20104月、海軍攻撃航空団が第800飛行隊に改称され、空軍統合攻撃航空団の隷下に入った。2011年、プロテクター級氷海警備艦1隻が就役。2011319日からエラミー作戦に参加。4月、第800飛行隊が解隊された。2013年、マーリンHM.Mk2ヘリの配備を開始。2015年、戦略国防・安全保障評価で26型フリゲートを13隻から8隻に減らし、代わりに31E型フリゲート5隻を建造することにした。61日、旗艦がL15ブルワークから揚陸艦オーシャンに代わった。2017年、クイーン・エリザベス級空母2隻とタイド級艦隊給油艦4隻が就役開始。324日、リンクスHMA.8が退役した。2020年から現役潜水艦11隻全てをスコットランドのクライド基地に配備し、潜水艦乗員訓練学校も開校させる予定。参考:第2次大戦のイギリス軍艦、月刊世界の艦船5,835,862,1311,153,165,1712,17、月刊軍事研究3,0912,093,104,107,113,16、世界大海戦史考、月刊航空ファン5,116,115,18、歴史群像6,16、月刊JWings3,18

イギリス海軍(第2次大戦開戦時)>:本国艦隊(旗艦はネルソン。第2戦艦艦隊のネルソン、ロドネイ、ロイヤル・オーク、ロイヤル・サブリン、ラミリーズ、巡洋戦艦戦隊のフッド、レパルス、空母アーク・ロイヤル、フューリアス、第18巡洋艦戦隊の軽巡4隻、第12巡洋艦戦隊の軽巡6隻、第7巡洋艦戦隊の軽巡4隻、駆逐艦戦隊司令部の軽巡1隻、駆逐艦母艦1隻、第6駆逐艦戦隊の駆逐艦8隻、第8駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、第2潜水艦戦隊の潜水艦14隻、潜水艦母艦1隻、第6潜水艦戦隊の潜水艦17隻、潜水艦母艦1隻、防空巡洋艦1隻、ローサイス管区の護衛艦8隻、第15駆逐艦戦隊の駆逐艦6隻、ノア管区第19駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、ポーツマス管区の駆逐艦4隻、第12駆逐艦戦隊の駆逐艦6隻、第16駆逐艦戦隊の駆逐艦8隻、ウェスタン・アプローチ管区第11駆逐艦戦隊の駆逐艦10隻、第17駆逐艦戦隊の駆逐艦8隻、在ハンバー部隊の軽巡2隻、第7駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、海峡部隊の戦艦レゾリューション、リベンジ、空母カレイジャス、ハーミーズ、軽巡2隻、防空巡洋艦1隻、第18駆逐艦戦隊の駆逐艦5隻)、地中海艦隊(護衛艦4隻、第1戦艦艦隊のウォースパイト、バーラム、マレーヤ、空母グローリアス、第1巡洋艦戦隊の重巡3隻、第3巡洋艦戦隊の軽巡2隻、防空巡洋艦1隻、駆逐艦戦隊司令部の軽巡1隻、駆逐艦母艦1隻、第1駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、第2駆逐艦戦隊の駆逐艦5隻、第3駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、第4駆逐艦戦隊の駆逐艦8隻、第1潜水艦艦隊の潜水艦10隻、潜水艦母艦1隻)、アメリカ・西インド艦隊(護衛艦2隻、第8巡洋艦戦隊の重巡2隻、軽巡2隻)、東インド艦隊(護衛艦2隻、第4巡洋艦戦隊の軽巡3隻、インド海軍の護衛艦5隻)、シナ艦隊(空母イーグル、護衛艦5隻、第5巡洋艦戦隊の重巡3隻、軽巡1隻、第12駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻、第4潜水艦戦隊の潜水艦15隻、駆逐艦1隻、潜水艦母艦1隻、香港防衛の駆逐艦5隻)、北大西洋部隊(軽巡2隻、潜水艦2隻、第13駆逐艦戦隊の駆逐艦9隻)、南大西洋部隊(水上機母艦アルバトロス、護衛艦4隻、潜水艦2隻、第6巡洋艦戦隊の軽巡1隻、第9巡洋艦戦隊の軽巡4隻、南米隊の重巡2隻、軽巡1隻、第2駆逐艦戦隊及び第4駆逐隊の駆逐艦4隻)、カナダ海軍(駆逐艦6隻)、オーストラリア海軍(重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦5隻、護衛艦2隻)、ニュージーランド戦隊(軽巡2隻、護衛艦2隻)から構成されていた。他に訓練部隊として練習巡洋艦1隻と第5潜水艦戦隊の潜水艦8隻と潜水艦母艦1隻、予備として空母アーガス、水上機母艦ペガサス、軽巡2隻、敷設巡洋艦1隻、駆逐艦5隻がおり、戦艦クイーン・エリザベス、ヴァリアント、巡洋戦艦レナウン、重巡3隻、防空巡洋艦3隻、駆逐艦14隻、護衛艦1隻が修理中であった。本国周辺は4管区に分割して防備を行っており、開戦直前に5管区に増やされている。海軍大臣(ファースト・ロード)はチャーチルで、第1-5海軍卿(武官)と政務・財務次官、事務次官、民事卿、商船造修管理監(文官)と共に海軍協議委員会を組織していた。参考:第2次大戦のイギリス軍艦

イギリス海軍(1977年)>:兵力76700名(海兵隊員7700名含む。うち女性3950名)、正規予備役30600名(海兵隊含む)、志願予備役6700名(海兵隊含む)。ポラリスA3弾道ミサイル16発搭載戦略原潜4隻、攻撃原潜9隻、攻撃型通常動力潜水艦18隻、空母1隻、対潜空母2隻、強襲艦2隻、巡洋艦2隻、カウンティ級駆逐艦7隻、82型駆逐艦1隻、42型駆逐艦3隻、フリゲート57隻、沿岸掃海艇38隻、内海掃海艇5隻、沿岸哨戒艇5隻、海防艇4隻、沖合哨戒艇2隻、調査船12隻、氷海哨戒船1隻、王室ヨット1隻、補給支援艦6隻、上陸用兵站艦6隻、上陸用舟艇41隻、ホバークラフト2隻、バッカニアS2攻撃機14機、ファントムFG1戦闘機12機、ガネットAEW3早期警戒機7機、シーキング対潜ヘリ29機、ウェセックス5ヘリ16機、ウェセックスHAS1ヘリ4機を装備する。参考:軍事力バランス78年版

イギリス海軍(1981年)>:兵力75000名。レゾリューション級原潜4隻、スイフトシュア級原潜6隻、ヴァリアント級原潜2隻、チャーチル級原潜3隻、ドレッドノート級原潜1隻、オベロン級潜水艦13隻、ポーパス級潜水艦3隻、インヴィンシブル級空母1隻、ハーミーズ級空母1隻、ブリストル級巡洋艦1隻、カウンティ級駆逐艦5隻、ブロードソード級駆逐艦3隻、シェフィールド級駆逐艦8隻、アマゾン級フリゲート8隻、リアンダー級フリゲート26隻、ロスシー級フリゲート9隻、ソールズベリー級フリゲート1隻、ホイットビー級フリゲート1隻、フィアレス級揚陸艦2隻、サー・ランスロット級補給揚陸艦6隻、アーデン級補給揚陸艦2隻、LCM914隻、LCM7型2隻、エイボン級揚陸艇12隻、アブディール級掃海支援艦1隻、ハント級沿岸掃海掃討艇2隻、ウィルトン級沿岸掃海掃討艇1隻、トン級機雷掃討艇14隻、トン級沿岸掃海艇16隻、ヴェンチュラー級掃海艇2隻、リー級掃海艇1隻、ハム級掃海艇3隻、エンデュアランス級氷海警備艦1隻、スピーディ級哨戒艇1隻、キャッスル級哨戒艇2隻、アイランド級哨戒艇7隻、バード級哨戒艇4隻、トン級哨戒艇5隻、フォード級哨戒艇2隻、シミター級高速練習艇3隻、ヘラルド級測量艦1隻、ヘクラ級測量艦3隻、ブルドッグ級沿岸測量艦4隻、オル級給油艦3隻、タイド級給油艦2隻、アップルリーフ級給油艦2隻、ローヴァー級給油艦5隻、補助給油艦2隻、沿岸給油艦1隻、フォート・グランジ級補給艦2隻、リソース級補給艦2隻、ライネス級給糧艦2隻、バッカス級輸送艦1隻、ホバークラフト5隻を配備していた。航空兵力は固定翼機87機、回転翼機400機。参考:月刊世界の艦船8,82増刊

イギリス海軍(1983年)>:最高指揮官兼海軍大元帥(Lord High Admiral)は国王だが、国防の最高責任者は首相で、首相が国防対外政策委員会を主催する。実際に国防に関して国王と議会に責任を負っているのは国防省の国防評議会で、議長は国防大臣であり、評議員を海陸空軍各政務次官、国防・海陸空軍参謀総長らが務めている。国防評議会海軍部会が海軍の管理担当で、議長は国防大臣、評議員には海軍参謀総長兼第1軍事委員、人事局長兼第2軍事員、海軍監査官、海軍補給輸送局長兼副監査官などが並ぶ。海軍参謀総長の隷下に海軍本国総隊、海兵隊、海軍航空隊、艦隊が置かれていて、海軍本国総隊司令部(ポーツマス)は港湾・物資補給基地・潜水艦基地の海上防衛や、船舶運航統制を行い、艦隊司令長官が全艦艇を指揮する。揚陸艦は王国艦隊補助部隊(RFA)隊員、揚陸艇は海兵隊員が運用する。艦隊は第1戦隊(駆逐隊1個、フリゲート隊2個)、第2戦隊(駆逐隊1個、フリゲート隊2個)、第3戦隊(空母2隻、軽巡1隻、強襲艦1隻、氷海哨戒艦1隻)、潜水部隊(4個潜水隊)、掃海部隊(3個掃海隊、漁業保護隊)で構成され、平時にはGRIUKラインの対潜哨戒を行っており、有事には任務に合わせた機動部隊や対潜部隊を組み直す。艦隊司令長官はNATO東大西洋部隊司令官とNATO海峡連合軍司令長官を兼務、潜水部隊司令官はNATO東大西洋潜水部隊司令官を兼ねており、ヨーロッパ有事が迫った際には氷海哨戒艦以外の第1-3戦隊、全潜水部隊、掃海部隊の10隻がNATO軍の指揮下に入る。兵員は海兵隊を含め74200名(うち女性3800名)で、全て志願者。レゾリューション級原潜4隻、スイフトシュア級原潜6隻、ヴァリアント級原潜5隻、オベロン級潜水艦13隻、ポーパス級潜水艦3隻、インヴィンシブル級空母2隻、ハーミーズ級空母1隻、ブリストル級巡洋艦1隻、カウンティ級駆逐艦3隻、ブロードソード級駆逐艦4隻、シェフィールド級駆逐艦9隻、アマゾン級フリゲート6隻、リアンダー級フリゲート24隻、トライバル級フリゲート2隻、ロスシー級フリゲート9隻、ホイットビー級フリゲート1隻、フィアレス級揚陸艦2隻、サー・ランスロット級補給揚陸艦5隻、アーデン級補給揚陸艦2隻、LCM914隻、LCM7型2隻、エイボン級揚陸艇11隻、エンガディン級ヘリコプター支援艦1隻、アブディール級掃海支援艦1隻、ハント級沿岸掃海掃討艇9隻、ウィルトン級沿岸掃海掃討艇1隻、トン級機雷掃討艇14隻、トン級沿岸掃海艇16隻、ヴェンチュラー級掃海艇2隻、ハム級掃海艇3隻、ヘッド級工作艦2隻、ブリタニア級王室ヨット1隻、エンデュアランス級氷海警備艦1隻、シーフォース・クランズマン級水中作業支援艦1隻、チャレンジャー級水中作業支援艦1隻、ピーコック級哨戒艦5隻、キャッスル級哨戒艇2隻、アイランド級哨戒艇7隻、バード級哨戒艇4隻、トン級哨戒艇5隻、フォード級哨戒艇2隻、ヘラルド級測量艦1隻、ヘクラ級測量艦3隻、ブルドッグ級沿岸測量艦4隻、E級内水測量艇3隻、ハム級内水測量艇2隻、オル級給油艦3隻、タイド級給油艦1隻、アップルリーフ級給油艦3隻、ローヴァー級給油艦5隻、ペアリーフ級補助給油艦1隻、プラムリーフ級補助給油艦1隻、フォート・グランジ級補給艦2隻、リソース級補給艦2隻、ライネス級給糧艦2隻、マンダリン級防材敷設船2隻、ガーガニー級防材敷設船2隻、グーサンダー級防材敷設船2隻、キン級防材敷設船4隻、ニュートン級試験艦1隻、ホワイトヘッド級試験艦1隻、オーリキュラ級試験艦1隻、クリスタル級試験艦1隻、トーネード級魚雷揚収艇4隻、トレント級魚雷揚収艇2隻、オスプレイ級魚雷揚収艇1隻、エンデバー級魚雷揚収艇1隻、セント・マーガレッツ級電纜敷設船1隻、ウェイクフル級標的船1隻、スロスク級給兵船3隻、オイルプレス級油船6隻、ウォーター級水船7隻、ロイスターラー級航洋曳船3隻、タイフーン級航洋曳船1隻、コンフィアンス級航洋曳船5隻、バスター級航洋曳船1隻、アデプト級港内曳船4隻、ドッグ級港内曳船19隻、ガール級港内曳船8隻、改ガール級港内曳船8隻、トライトン級港内曳船12隻、フェリシティ級港内曳船8隻、ドルウェン級通船1隻、インセクト級通船7隻、ロイヤル級通船10隻、クロヴェリィ級通船27隻、アバードヴェイ級通船14隻、マンレイ級通船8隻、ハム級通船4隻、61フィート型通船4隻、45フィート型通船5隻、トレヴォース級通船1隻、オリヴァー・ツイスト級通船3隻、サンドリンガム級交通船1隻、ダチェット級水中作業母船1隻、アイアンブリッジ級水中作業母船5隻、アイルス級タンク清掃船1隻、マグネット級消磁船2隻、BH.7型ホバークラフト1隻を配備していた。参考:月刊世界の艦船5,83

イギリス海軍(1989年)>:兵力64650名(海兵隊、航空隊含む。うちイギリス本土以外400名)、イギリス艦隊補助部隊2350名(文官)、イギリス海事補助業務部隊2900名(文官)、イギリス艦隊予備役24700名、イギリス海軍予備役5600名、イギリス海軍補助業務部隊3200名、海兵隊正規予備役2400名、海兵隊志願・補助予備役1300名。ノースウッドに艦隊司令部、海峡連合軍司令部、東部太平洋海域司令部、デボンポートとロサイスに司令部、ファスレーン、ポートランド、ポーツマス、ジブラルタル、香港に基地がある。イギリス海軍予備役は司令部部隊6個、海上訓練センター11個、通信訓練センター12個、機雷対策戦隊1個からなり、機雷対策艦艇10隻と内海哨戒艇19隻を配備する。イギリス海軍補助業務部隊は72個部隊を擁し、港湾司令部勤務や哨戒などを主任務とする。レゾリューション級戦略原潜4隻、トラファルガー級原潜5隻、スイフトシュア級原潜6隻、ヴァリアント級原潜2隻、チャーチル級原潜3隻、オベロン級潜水艦11隻、インヴィンシブル級空母2隻(+保管中1隻)、42型駆逐艦12隻、ブリストル級駆逐艦1隻、22型フリゲートバッチ3を3隻、22型フリゲートバッチ1/210隻、21型フリゲート6隻、リアンダー級バッチ2/3A12隻、リアンダー級バッチ3Bを2隻、訓練フリゲート1隻、エンデュアランス級哨戒艇1隻、センチネル級哨戒艇1隻、キャッスル級哨戒艇2隻、ジャージー級哨戒艇7隻、ピーコック級哨戒艇3隻、キングフィッシャー級内海哨戒艇5隻、マンリー級内海哨戒艇4隻、小型哨戒艇21隻、ブレコン級掃海艦13隻、サンダウン級掃討艇1隻、ウエーブニイ級掃海艦12隻(うち11隻は海軍予備役で運用)、トン級掃討艇9隻、トン級掃海艇3隻、フィアレス級強襲艦2隻、サー・ガラハド級揚陸艦1隻、サー・ランスロット級揚陸艦4隻、汎用揚陸艇15隻、車両兵員揚陸艇17隻、オルウェン級給油艦3隻、タイド級給油艦(初代)1隻、グリーン・ローバー級給油艦5隻、爆薬貯蔵艦4隻、工作艦2隻、タンカー5隻、輸送艦1隻、曳船3隻、航空機訓練艦1隻、練習船1隻、海底探査艇1隻、試験・調査船3隻、王室ヨット1隻、水路調査船7隻を保有する。艦隊航空隊はシーハリアー飛行隊3個、対潜ヘリ飛行隊7個、対潜・攻撃ヘリ飛行隊2個、空中早期警戒ヘリ飛行隊1個、コマンドー支援ヘリ飛行隊3個、捜索救難ヘリ飛行隊1個、訓練飛行隊3個などで構成され、シーハリアーFRS142機、T-4N練習機2機、T-4A練習機2機、キャンベラT18/22支援機10機(うち7機保管中)、ハンターT7/GA11/PR11支援・練習機26機、HS-125要人輸送機2機、ファルコン20支援機8機、ジェットストリームT2練習機15機、ジェットストリームT3練習機4機、シーヘロン連絡機4機、ヘロン連絡機1機、シーデボン連絡機2機(うち1機保管中)、チップマンク練習機14機、シーキングHAS5対潜ヘリ56機、シーキングHAS5練習ヘリ20機、シーキングHC4ヘリ34機、シーキングAEW2早期警戒ヘリ10機、リンクスHAS2ヘリ55機、リンクスHAS3ヘリ23機、ガゼルHT2/3練習ヘリ22機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イギリス海軍(2013年)>:兵力30010名(海兵隊含む)、予備役26500名、志願予備役2600名。空母イラストリアス、45型ミサイル駆逐艦6隻、23型フリゲート13隻、ヴァンガード級原潜4隻、アスチュート級原潜2隻、トラファルガー級原潜5隻、氷海警備艦1隻、哨戒艦4隻、哨戒艇2隻、哨戒練習艇16隻、揚陸ヘリコプター母艦オーシャン、アルビオン級ドック型輸送揚陸艦2隻、ベイ級ドック型揚陸艦3隻、ハント級機雷掃討艇8隻、サンダウン級機雷掃討艇7隻、測量艦3隻、補給艦3隻(フォート・ヴィクトリア、フォート・オースチン、フォート・ロザリー)、ウェーブ・ナイト級給油艦2隻、ブラック・ローバー級給油艦2隻、給油艦オレンジリーフ、工作艦1隻、傷病兵収容艦アーガス、車両輸送艦6隻、陸上固定翼機19機、艦載ヘリ349機を装備する。参考:月刊世界の艦船3,14

イギリス海軍(2015年)>:現役兵力32500名、志願予備役3100名。ヴァンガード級戦略原潜4隻、UGM-133AトライデントD-5SLBM48基(弾頭160発以下)、トラファルガー級原潜4隻、アスチュート級原潜2隻、45型ミサイル駆逐艦6隻、23型フリゲート13隻、リバー級哨戒艦4隻、アーチャー級訓練哨戒艇16隻、シミター級哨戒艇2隻、ハント級掃海艇4隻、改ハント級掃海艇4隻、サンダウン級掃海艇8隻(うち1隻は訓練用)、アルビオン級揚陸艦2隻、オーシャン級揚陸艦1隻、兵站支援船10隻を保有する。艦隊補助部隊(RFA)はベイ級揚陸艦3隻、兵站支援船16隻を保有する。海軍航空隊は兵力5000名。ビーチ350ERキングエア軽輸送機4機、G-115練習機5機、ホークT1練習機12機、ワイルドキャットHMA2対潜ヘリ20機、リンクスHMA8対潜ヘリ25機、マーリンHM2対潜ヘリ30機、シーキングAEW7早期警戒ヘリ9機、シーキングHU5輸送ヘリ12機、シースキュア空対艦ミサイルを保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス海兵隊>:世界最古の海兵隊で、1664年(1665年?)の第2次英蘭戦争で兵力1200名の海上歩兵連隊として登場した。1755年に海軍隷下の正式な組織となった。1864年には下関に上陸して長州藩の沿岸砲台を占領している。20世紀に入って第1次大戦、第2次世界大戦に参加。1940年のダンケルク撤退を受け、海兵隊の主任務が艦の治安維持・防衛や陸戦から、強襲上陸及び特殊作戦に変更され、コマンドー部隊へと改編された。戦後はノルウェー沖からアルゼンチン沖までを行動範囲に収めている。1966年、ブローパイプMANPADSの配備を開始。1982年、ノルウェーでの寒冷地訓練を終えた直後にフォークランド紛争に参加。この戦訓を基に、1984年に揚陸部隊の第539アサルト・スコードロンが創設された。2005年、BvS10関節式車両の配備を開始。2010年、ISTAR専門部隊として第30コマンドー情報収集群が創設された。参考:月刊丸12,90、月刊軍事研究1,14

 <イギリス海兵隊(1977年)>:兵力7700名。奇襲攻撃旅団(奇襲攻撃隊群4個、軽ヘリコプター中隊1個、支援部隊)1個、独立奇襲攻撃中隊群1個(マルタ島)、分遣隊1個(フォークランド諸島)からなる。120mm無反動砲、SS-11対戦車ミサイル、スカウト・ヘリ、ガゼル・ヘリを装備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イギリス海兵隊(1989年)>:兵力7700名、正規予備役2400名、志願・補助予備役1300名。1個コマンドー旅団、1個山岳寒冷地作戦隊、1個強襲隊、特殊ボート隊(上陸に先立ち偵察や破壊工作を行う)からなる。装備はミラン、ジャベリン、ブローパイプといった個人携行ミサイルと、SA-341ヘリ8機、リンクスAH-1ヘリ6機など。参考:ミリタリー・バランス1989-1990、月刊丸12,90

イギリス海兵隊(2009年)>:イギリス統合緊急展開部隊第3コマンドー旅団と、艦隊護衛群からなる。第3コマンドー旅団は兵力7500名で、隷下に第40・第42・第45コマンドー(兵力700名、大隊規模)、コマンドー兵站連隊、海兵隊軍楽隊、ストーンハウス基地警備部隊(120名)、SBS、第1アサルトグループなどを置き、BvS10バイキング、WK450UAV、リンクスAH.Mk7ヘリ6機、シーキングHC.Mk4ヘリ37機、CH-47ヘリを保有する。揚陸部隊は第539アサルト・スコードロン(100名)で、LCACLCVPRRCを装備していて、大型の揚陸艦は海軍の保有である。また、第3コマンドー旅団隷下の陸軍部隊として、第29王立砲兵隊コマンドー連隊(L118榴弾砲装備)、第59・第131工兵中隊がある。艦隊護衛群は艦艇に乗り込んで警備を行うのが主任務で、3個小銃中隊500名から構成される。予備役は600名。参考:月刊軍事研究3,09

イギリス海兵隊(2015年)>:現役兵力7050名。第3コマンドー旅団(海兵大隊3個、ISR群1個、兵站連隊1個。陸軍の砲兵連隊1個と工兵連隊1個も隷属)、艦隊護衛群1個からなる。BvS-10装甲車118両、BvS-10Mk2装甲車24両、105mm軽砲L11818門、81mm迫撃砲32門、ジャベリン対戦車ミサイル、アイランド級哨戒艇2隻、LCU10隻、LCVP23隻、グリフォン2400TD4隻、HVM地対空ミサイル、アーサー(マンバ)対砲レーダー4基を装備する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス海兵隊コマンドー訓練センター>:CTCRMCommando Training Centre Royal Marines)と略す。イギリス海兵隊の訓練施設で、デボン州エクセター郊外のリンプストンにある。徴募兵の選別、新兵訓練(32週間)、下士官・将校訓練、専門教育を主任務とする。参考:月刊軍事研究1,14

イギリス空軍>:Royal Air Force(RAF)。世界初の空軍で、第1次大戦時のドイツ軍によるロンドン空襲を受け、イギリス陸軍飛行軍団(Royal Flying Corps)のヒュー・トレンチャード大佐が海軍航空隊(Royal Naval Air Service)との統合で航空兵力専門部隊の創設を主張したのをきっかけに、191841日に正式発足した。敵機はヨーロッパ大陸からイギリスに20分間で到達でき、これを阻止する防御戦闘を主体にすると常に戦闘空中哨戒を行わねばならないため、敵航空基地に先制攻撃を仕掛けて航空戦力を潰しておくのを最重要戦略と位置づけ、戦闘機中隊1個と爆撃機中隊2個をセットで配備することにした。装備機はソッピース・キャメル戦闘機、S.E.5a戦闘機、DH9爆撃機などである。また、敵の動向をいち早くキャッチするための情報戦も重要な戦略として定められた。1929年、ブルドッグ戦闘機の配備を開始。19315月、フューリー複葉戦闘機の配備を開始。1934年、ドイツの航空機生産数が急増し、イギリスの倍以上(ドイツ1968機、イギリス740機)となったのを掴み、航空生産増強計画を立案。1934-39年のA計画、1935-37年のC計画、1936-39年のF計画、1938-40年のL計画で第一線部隊配備航空機数の増強目標を立てたが、航空機の急速な発展に追いつけず全金属製単葉機への切り替えや強力なエンジンの開発生産が遅れ、1938年まで航空機生産数がドイツの3-6割という状態が続いた。19352月、レーダーの実験を開始。5月、グロスター戦闘機の配備を開始。1936年、アンソン多用途機を配備、ソードフィッシュ艦攻を配備。1937年、バトル軽爆撃機とストランレア飛行艇が就役。12月からハリケーン戦闘機を配備。1938年、スクア艦爆を配備。3月、ハンプデン爆撃機を配備。8月からスピットファイア戦闘機を配備。10月からウェリントン爆撃機を配備。1939年、海軍に航空隊が再編されたため、艦上機や艦載機などがそちらに移った。9月からボンベイ爆撃輸送機を配備。1940年、マスタングT戦闘機を採用。マンチェスター爆撃機を配備。アメリカからフォートレスT爆撃機20機を受領。1月、ボーフォート雷撃機が就役。6月、ホワールウインド双発戦闘機が就役。8月からボーファイター戦闘機を配備。11月からハリファックス爆撃機を配備。1941年、スターリング爆撃機を配備。7月からタイフーン戦闘機を配備。12月、ランカスター爆撃機を配備。1942年、パイロット・航空搭乗員養成計画が軌道に乗り始め、年間11000名のパイロットと17000名の搭乗員を養成できるようになった。自治領空軍でも養成を行い、19455月にはイギリス連邦及び自治領でパイロットと航空搭乗員合わせて108万名を擁していた。19433月、輸送航空コマンドを新編した。19447月、ミーティア戦闘機を配備。11月、シーオッター水上機が就役。1946年、DH100ジェット戦闘機の配備を開始。5月からホーネット戦闘機を配備。19515月、キャンベラ爆撃機が就役。1952年、DH112ジェット戦闘機、ネプチューンMR.1対潜哨戒機の配備を開始。19552月、バリアント爆撃機が就役。1956年、ジャベリン戦闘機の配備を開始。バルカン爆撃機が就役。1957年、ヴィクター爆撃機の配備を開始。19606月、ライトニング戦闘機の配備を開始。1966年、ハーキュリーズC.1輸送機が初飛行。VC-10空中給油輸送機の運用を開始。ブローパイプMANPADSの配備を開始。1967年、輸送航空コマンドを航空支援コマンドに改編した。チヌークHC.1輸送ヘリを発注。1969年からハリアーGR.3とニムロッド対潜哨戒機を配備。1970年、ホーク練習機、SA330輸送ヘリを配備。1977年、シーキングHAS.Mk3ヘリの配備を開始。1980年、ハーキュリーズC.3輸送機が初飛行。2000年、ストライク・コマンド隷下に空海軍合同ハリアー飛行隊の合同ハリアー部隊(Joint Force Harrier)を新編し、隷下に空軍第1・第3・第4飛行隊(実戦部隊)、空軍第20飛行隊(転換訓練部隊)、海軍第800・第801飛行隊を入れた。20015月、C-17A輸送機の引き渡しが始まった。2003630日、タイフーン戦闘機の引き渡しが開始された。20074月、航空支援コマンドを航空コマンドに統合。20082月、オスロ宣言に基づいてBL755クラスター爆弾3650個と子爆弾536550発の廃棄を決定したが、これにより近接航空支援用の兵器がブリムストーンしか無くなってしまった。20104月、合同ハリアー部隊を統合攻撃航空団(Joint Strike Wing)に改称した。隷下部隊は空軍第1飛行隊と海軍第800飛行隊である。913日、ボイジャーKC.2空中給油輸送機が初飛行。2011319日からエラミー作戦に参加。4月、第1飛行隊が解隊された。2013115日、UAEのアル・ミナド基地に第906遠征航空団を編成。タイフーン1個分遣隊とE-3D早期警戒管制機1機が展開し、アフガン派遣部隊の中継と護衛、ペルシャ湾での多国籍軍演習支援、イランへの軍事プレゼンス発揮といった任務を行う。1112日、RC-135W信号情報収集機の初号機を配備。201411月、アトラスC.Mk1輸送機の引き渡しが始まった。2015720-31日、インド空軍との共同演習インドラダヌシュWに参加。20161017日から116日、日米共同訓練ガーディアン・ノース16にタイフーンFGR.4戦闘機4機で参加。114-11日、烏山基地で行われた米英韓合同訓練インヴィンシブル・シールドにタイフーンFGR.4戦闘機4機で参加。201765-16日、タクティカル・ウェポン・ミート2017に参加。8月までタイフーンFGR.4戦闘機4機をルーマニアのコンスタンツァ基地に展開させてリアシュアランス作戦に参加。夏、中南米を襲ったハリケーン・イルマの被災地への救援物資輸送作戦ルーマン作戦(Operation Ruman)を実施。アトラス輸送機2機とC-130J輸送機で1500トンを空輸した。2018115日、領空に接近したTu-160爆撃機2機に対し、タイフーンFGR.4戦闘機がスクランブル発進した。41日、創立100周年を迎えた。710日、イギリス空軍創設100周年記念フライパスをロンドンで実施。11月、マルチドメイン作戦コマンド隷下に第11集団を再編した。参考:英独航空決戦、月刊軍事研究6,0811,17、スパイ機、月刊丸4,99、月刊航空ファン6,112,179,1711,174,1811,182,19、歴史群像10,11、月刊JWings4,1311,151,174,189,186,19、月刊世界の艦船3,14

 <イギリス空軍(1977年)>:兵力87200名(うち女性4750名)、正規予備役33300名、志願予備役300名。バルカンB2爆撃機50機、バッカニアS2攻撃機56機、ハリアーGR3攻撃機48機、ジャギュアGR1攻撃機72機、ライトニングF6迎撃機24機、ファントムFG1/FGR2戦闘機84機、バルカンSR2偵察機10機、ジャギュアGR1偵察機24機、キャンベラPR7/9偵察機24機、シャクルトン早期警戒機12機、ニムロッドMR1哨戒機43機、ニムロッドSR1電子戦機3機、キャンベラB6電子戦機4機、ヴィクターK2空中給油機24機、VC-10輸送機11機、C-130輸送機45機、ピューマHC1ヘリ26機、ウェセックスHC2ヘリ45機、ホワールウインドHAR10ヘリ10機、ブラッドハウンド地対空ミサイル2個中隊、レイピア地対空ミサイル5個中隊、70口径40mm高射機関砲2個中隊、タイガーキャット地対空ミサイル1個小隊が配備されている。参考:軍事力バランス78年版

 <イギリス空軍(1989年)>:兵力91450名、正規予備役34100名、志願・補助予備役1600名。核攻撃飛行隊11個、攻撃飛行隊5個、戦闘飛行隊9個、偵察飛行隊3個、洋上哨戒飛行隊4個、空中早期警戒飛行隊1個、電子戦飛行隊2個、空中給油飛行隊3個、輸送飛行隊5個、通信飛行隊2個、王室飛行小隊、較正飛行隊2個、転換訓練部隊11個、兵装転換部隊1個、戦術兵器部隊2個、訓練部隊、戦術ヘリ飛行隊5個、捜索救難ヘリ飛行隊2個、訓練ヘリ部隊、ブラッドハウンド2中隊2個からなる。トーネードGR1攻撃機108機、トーネードGR1偵察機12機、トーネードGR1転換訓練機21機、トーネードGR1(三国共同訓練飛行隊所属機)20機、トーネードGR1(保管中)51機、トーネードF2/3戦闘機48機、トーネードF2/3転換訓練機18機、トーネードF2/3(保管中)59機、バッカニア攻撃機25機、バッカニア転換訓練機9機、バッカニア(保管中)25機、ジャギュア戦闘攻撃機48機、ジャギュア偵察機24機、ジャギュア転換訓練機15機、ジャギュア(保管中)55機、ハリアー攻撃機36機、ハリアー転換訓練機15機、ハリアー(保管中)18機、ファントムFG1戦闘機18機、ファントムF3戦闘機12機、ファントムFGR2戦闘機42機、ファントムFGR2転換訓練機18機、ファントム(保管中)55機、ホークT1練習機117機、キャンベラB2練習機5機、キャンベラT4練習機9機、キャンベラPR7偵察機4機、キャンベラPR9偵察機5機、キャンベラT17電子戦機12機、キャンベラTT18標的曳航機9機、キャンベラE15較正機4機、ニムロッドR1電子戦機3機、ニムロッドMR2哨戒機34機(+保管中2機)、シャックルトンAEW2早期警戒機6機(+保管中5機)、ヴィクター空中給油機14機、トライスターK1空中給油輸送機4機、トライスターKC1空中給油輸送機2機、トライスターC2輸送機3機、VC-10C1輸送機13機、VC-10K2空中給油機5機、VC-10K3空中給油機4機、ハーキュリーズC1転換訓練機8機、ハーキュリーズC1K空中給油輸送機6機、ハーキュリーズC1P空中給油輸送機16機、ハーキュリーズC3P輸送機30機、アンドーバーE3/E3A較正機6機、アンドーバー通信機6機、HS-125T1練習機19機、HS-125CC1/CC2/CC3通信機12機、BAe-146通信機2機、BAC145ジェットプロボスト練習機144機、ジェットストリームT1練習機11機、チーフテン通信機3機、ブルドッグT1練習機122機、チップマンクT10練習機65機、HS-125ドミニーT1練習機、ウェセックス輸送ヘリ28機、ウェセックスHC2捜索救難ヘリ18機、ウェセックス転換訓練機4機、ウェセックス要人輸送ヘリ2機、ウェセックス練習ヘリ12機、チヌークHC1輸送ヘリ27機、CH-47転換訓練ヘリ5機、SA330HC1輸送ヘリ26機、SA330転換訓練ヘリ5機、シーキングHAR3捜索救難ヘリ19機、SA-341連絡・練習ヘリ22機、ブラッドハウンド地対空ミサイル64基を保有する。イギリス空軍連隊は航空団司令部5個、軽機甲中隊5個、軽歩兵兵器中隊1個、地対空ミサイル中隊6個からなり、スコーピオン軽戦車36両、スパータン装甲兵員輸送車90両、レイピア地対空ミサイル72基を装備する。予備役部隊のイギリス補助空軍連隊は野戦防衛中隊6個と軽高射砲中隊1個からなり、エリコン35mm連装機関砲とスカイガードを12基装備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イギリス空軍(2015年)>:年間飛行時間210時間(高速ジェット機)/290時間(輸送機)/240時間(支援ヘリ)/90時間(シーキング)。タイフーン戦闘飛行隊2個、タイフーン戦闘攻撃飛行隊3個、トーネード戦闘攻撃飛行隊3個、センチネルR1飛行隊1個、シャドーR1飛行隊1個、RC-135W飛行隊1個、E-3D飛行隊1個、グリフィンHAR-2捜索救難ヘリ飛行隊1個、ボイジャー空中給油輸送飛行隊2個、司令部輸送飛行隊1個、A400M輸送飛行隊1個、C-17A輸送飛行隊1個、C-130輸送飛行隊3個、訓練飛行隊13個、MQ-9A無人機飛行隊2個、イギリス空軍連隊(作戦用戦術生残中隊3個、保安中隊7個、CBRN中隊1個)からなる。F-35B戦闘機3機(試験中)、トーネードGR4/GR4A戦闘機76機、タイフーンFGR4/T3戦闘機115機(+保管中トランシェ3を15機以上)、センチネルR1偵察機5機、シャドーR1偵察機6機、RC-135W電子情報収集機2機、E-3D早期警戒管制機6機、ボイジャーKC2/3空中給油輸送機12機、A400M輸送機6機、C-17A輸送機8機、C-130J輸送機10機、C-130J-30輸送機14機、ビーチ200キングエア輸送機5機(リース中)、ビーチ200GTキングエア輸送機2機(リース中)、BN-2AアイランダーCC2輸送機3機、Bae-146CC2/C3要人輸送機4機、EMB-312ツカノT1練習機39機(保管中43機以上)、G-115Eチューター練習機101機、ホークT2練習機28機、ホークT1/1A/1W練習機32機(+保管中40機)、AW139ヘリ1機、ベル412EPグリフィンHAR-2ヘリ4機、AW109Eヘリ2機、AW109SPヘリ1機、MQ-9A無人機10機、AIM-9L/9L/I空対空ミサイル、ASRAAM空対空ミサイル、AIM-120B/C5空対空ミサイル、ブリムストーン/デュアルモード・ブリムストーン空対地ミサイル、ストーム・シャドー空中発射巡航ミサイル、ペイブウェイU誘導爆弾、GBU-10ペイブウェイU誘導爆弾、エンハンスド・ペイブウェイU/V誘導爆弾、GBU-24ペイブウェイW誘導爆弾、BMEWS用レーダー1基(フィリングデイルス・ムーアに所在)を保有する。三軍防衛ヘリ学校にはベル412EPグリフィンHT1汎用ヘリ11機、AS350B訓練ヘリ25機、AW109E訓練ヘリ2機が配備されている。イギリス空軍補助部隊は保安中隊5個、情報中隊2個、医療中隊1個、空中機動中隊1個、司令部増強中隊1個、C-130予備役乗員部隊1個からなる。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス空軍婦人部隊>:WRAFWomens Royal Air Force)と略す。191841日、イギリス空軍の発足と同時に組織された女性部隊で、第1次大戦において前線勤務以外の任務を行った。192041日に解散となったが、延べ32000名がイギリス、フランス、ドイツで任務を実施している。参考:英独航空決戦

イギリス空軍婦人補助部隊>:WAAFWomens Auxiliary Air Force)と略す。193962日に創設されたイギリス空軍女性部隊で、第2次大戦時にレーダー操作、航空管制、写真偵察、情報処理、無線傍受、自動車運転、タイピング、輸送機による負傷兵後送などの任務に就いた。19446月のピーク時には174000名を擁していた。参考:英独航空決戦、月刊航空ファン2,18

イギリス軍>:19347月、チェンバレン蔵相が防衛委員会の勧告を破棄して陸海軍予算を削り、空軍を防衛委員会勧告による52個飛行隊から80個飛行隊に増強する指示を出した。1964年、三軍国防計画の調整や効率化を図るため、海軍本部などを廃止して国防省が設立された。200911月、50年にわたり未確認飛行物体の情報を受け付けていた未確認飛行物体デスク(UFOデスク)を閉鎖。寄せられたUFO情報(最多は映画「未知との遭遇」が公開された1978年の750件)を調査した結果、いずれも宇宙人の存在やイギリスへの脅威となるものでは無く、防衛の目的に寄与していないと判断したためである。20101019日、国家安全保障戦略と軍事費削減計画(4年間で4000億円)を発表。現役兵102000名から82000名への削減、予備役兵15000名から30000名への倍増、ドイツ駐留軍の廃止、ニムロッドMRA4開発中止、センチネルR1退役、空母削減(予備役のインヴィンシブルとハリアー80機の即時退役)、戦略原潜調達延期などを決めた。ただニムロッドMRA4開発中止に伴う違約金支払いが膨大になる恐れがあり、軍事費削減に寄与できないかもしれない。112日、フランスと防衛協力協定を調印。201111月、サイバー防衛戦略を策定し、同年中にサイバー防衛作戦群(Defence Cyber Operations Group)を創設した。20124月、サイバー防衛作戦群が統合軍コマンドの隷下に入った。727日からのロンドンオリンピック支援のため、タイフーン戦闘機4機、ピューマ汎用ヘリ、揚陸ヘリ母艦オーシャン、地対空ミサイルなどを展開した。警備要員は13500名を予定していたが、10000人の警備員を派遣する筈のイギリスの民間警備会社G4S社が実際には4000人程度しか要員を確保できず、5分の面接で新人を採用するなど水増しに近いことまで行っており、結局平時としては最大規模となる18000名以上の将兵を派遣する羽目になった。2013年、統合軍サイバー群(統合サイバー予備役含む)が新編された。2014930日から対イスラム国シェーダー作戦を実施。2015年、情報作戦及びサイバー作戦を担当する第77旅団を新編下。11月、戦略防衛・安全保障見直しSDSRStrategic Defence and Security Review)を実施。特殊部隊の強化と即応打撃旅団2個の新編を掲げると共に、リーパー無人攻撃機10機の後継となる空軍用新型UAVをプロテクター計画の名称で導入することとした(後にCPBに決定)。また、アジア太平洋地域への影響力行使を継続し、アジアにおける最も緊密な安全保障パートナーとして日本を挙げた。参考:月刊PANZER12,10、月刊世界の艦船1,113,125,83、月刊軍事研究6,11、月刊航空ファン1,15MAMOR vol.111、朝雲、THE MILITARY BALANCE 2016

 <イギリス軍(1989年)>:海陸空軍からなる。総兵力311650名、予備役325000名。BMEWS弾道ミサイル早期警戒ステーションがファイリングデイルズに設置されている。南極に氷状観測船1隻(夏のみ)、アセンション島にハーキュリーズC1K分遣隊、ベリーズに陸軍1200名、歩兵大隊1個、装甲偵察中隊1個、野砲兵中隊1個、工兵中隊1個、SA341BガゼルAH-1ヘリ3機、空軍300名、ハリアーGR3攻撃機4機、SA330ヘリ4機、レイピア防空分遣隊1個、ブルネイに陸軍900名、グルカ歩兵大隊1個、ヘリ3機、カナダに陸軍訓練・連絡部隊、空軍トーネード分遣隊、キプロスに陸軍2300名、歩兵大隊1個、歩兵中隊2個、装甲偵察中隊1個、工兵支援中隊1個、ヘリ飛行小隊1個、空軍1600名、ウェセックス飛行隊1個、ファントム・トーネード分遣隊、空軍連隊軽機甲中隊1個、海軍・海兵隊20名、フォークランド諸島に1600名、陸軍歩兵大隊グループ1個、工兵中隊1-4個、海軍駆逐艦・フリゲート1隻、哨戒・支援補助艦艇2隻、空軍ファントム飛行小隊1個、ハーキュリーズC1K輸送機6機、シーキングHAR3ヘリ3機、CH-47ヘリ6機、空軍連隊レイピア中隊1個、西ドイツに陸軍ライン軍55700名、軍団司令部1個、機甲師団3個、歩兵旅団1個、ベルリン歩兵旅団、空軍11000名、トーネード飛行隊7個、ハリアー飛行隊2個、ファントムFGR2飛行隊2個、トーネード偵察飛行隊1個、アンドーバー通信飛行隊1個、SA330ヘリ飛行隊1個、CH-47ヘリ飛行隊1個、空軍連隊航空団司令部2個、レイピア中隊4個、軽機甲中隊1個、ジブラルタルに陸軍700名、歩兵大隊1個、ジブラルタル連隊、工兵チーム1個、砲兵観測部隊1個、海軍・海兵隊700名、内海哨戒艇2隻、海兵隊分遣隊、エグゾセ地対艦ミサイル連装発射機2基、基地部隊、空軍連隊400名、ジャギュア分遣隊、香港に陸軍5900名、グルカ歩兵旅団、スカウトAH1ヘリ飛行隊1個10機、小型揚陸艇3隻、その他艦船3隻、海軍・海兵隊700名、ピーコック級沿岸哨戒艇3隻、空軍連隊300名、ウェセックスHC-2ヘリ中隊1個10機、インド洋に駆逐艦・フリゲート3隻、支援艦船1隻、ディエゴ・ガルシアに海軍分遣隊1個、海兵隊分遣隊1個、西インド諸島に駆逐艦・フリゲート1隻を配置し、30カ国に550名の軍事顧問団を派遣している。国連キプロス平和維持軍UNFICYP700名、歩兵大隊1個、装甲偵察中隊1個、ヘリ飛行小隊1個、工兵部隊、補給支援部隊、エジプトのシナイ多国籍軍に管理支援要員38名、国連ナミビア独立移管援助グループUNTAGに陸軍通信要員175名を派出する。アメリカ海軍2500名、アメリカ空軍25400名、空軍司令部1個、作戦機・訓練機292機、西ドイツ・イタリアとの三国共同トーネード訓練飛行隊が駐留している。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イギリス軍(2015年)>:現役総兵力154700名(陸軍88300名、海軍32500名、空軍33900名)、予備役84000名(通常予備役51000名、志願予備役33000名)。イギリス特殊部隊は三軍の部隊を含む。三軍ヘリ部隊は統合ヘリコプター・コマンドで運用する。サイバー戦部隊としてサイバー防衛作戦グループにサイバーユニット2個を擁する。NATO-4B通信衛星1基、スカイネット4通信衛星3基、スカイネット5通信衛星5基を保有する。アフガニスタンにレゾリュート・サポート要員450名、歩兵大隊1個、アルバニアにOSCE要員2名、アラビア海・アデン湾にCTF-150のフリゲート1隻、アルメニア・アゼルバイジャンにOSCE要員1名、アセンション島に20名、北大西洋・カリブ海にLSD1隻、南大西洋にフリゲート1隻、支援船1隻、バーレーンに20名、BAe-146を1機、ベリーズに10名、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにアルテア作戦要員31名とOSCE要員1名、インド洋イギリス・テリトリーに海兵隊分遣隊1個40名、ブルネイに2000名、グルカ軽歩兵大隊1個、ジャングル訓練センター、ヘリ飛行隊1個、ベル212ヘリ3機、カナダに280名、訓練ユニット2個、ガゼルAH1ヘリ飛行隊1個、キプロスに2800名、歩兵大隊2個、捜索救難ヘリ飛行隊1個、ベル412ヘリ4機、レーダー1基、シェーダー作戦でトーネードGR4攻撃機8機、センチネルR1偵察機1機、ボイジャーKC3空中給油輸送機1機、C-130J輸送機1機、チヌークHC4ヘリ4機、UNFICYP要員276名、歩兵中隊1個、コンゴ民主共和国にMONUSCO要員5名、エジプトに多国籍軍監視団(MFO)要員1名、フォークランド島に1010名、増強歩兵中隊1個、レイピア防空分遣隊1個、掃海艇1隻、タイフーンFGR4戦闘機4機、C-130J輸送飛行隊1個、ドイツに9920名、機甲歩兵旅団1個、ジブラルタルに410名(ジブラルタル連隊175名含む)、哨戒艇2隻、イラクにシェーダー作戦要員275名(訓練チーム)、ケニアに訓練チーム200名、クウェートに訓練チーム40名、シェーダー作戦用MQ-9A無人機、マリにEUTMマリ要員26名とMINUSMA要員2名、地中海にEU NAVFOR MEDのフリゲート1隻、モルドバにOSCE要員2名、ネパールにグルカ訓練組織280名、オランダに120名、北海にSNMCMG1の掃海艇1隻、オマーンに70名、ペルシャ湾にCTF-152のミサイル駆逐艦1隻、掃海艇4隻、LSD1隻、カタールにシェーダー作戦用RC-135W電子偵察機1機、セルビアにKFOR要員1名、コソボにOSCE容易に13名、シエラレオネにグリトロック作戦要員27名、南スーダンにUNMISS要員3名、ウガンダにEUTMソマリア要員5名、ウクライナにOSCE要員29名とオービタル作戦要員75名(訓練チーム)、UAEC-17A/C-130J輸送飛行隊1個、アメリカに630名を派遣している。USEUCOM9550名、F-15C/D戦闘機24機、F-15E戦闘機23機、OC-135/RC-135KC-135R空中給油機15機、HH-60G戦闘捜索救難ヘリ8機、特殊作戦群1個(CV-22B特殊作戦機5機、MC-130J特殊作戦機5機)、USSTRATCOMAN/FPS-132早期警戒レーダー1基、宇宙追跡レーダー1基が駐屯している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス国際戦略研究所アジア安全保障会議>:シャングリラ・ホテルで行われるので、シャングリラ会合(The Shangri-la Dialogue)ともいう。アジア太平洋地域の安全保障の枠組みを創設すべく設置された会議で、イギリス国際戦略研究所が主催し、2002年から毎年シンガポールで開催されている。20136月の会合では防衛大臣がスピーチを行った。2014530日から61日、第13回を実施。安倍総理大臣と小野寺防衛大臣がスピーチを行った。また、防衛大臣、アメリカ国防長官、韓国国防部長官が日米韓防衛相会談を行い、北朝鮮情勢・核ミサイル脅威、相互防衛協力などを協議、共同声明を発表した。第14回は20155月に開催され、中谷防衛大臣が中国による南シナ海での岩礁埋め立てに深刻な懸念を表明した。また、日米豪防衛相会談、日韓防衛相会談(4年ぶり)、日米韓防衛相会談を行った。カーター国防長官との会談ではサイバー空間での日米協力強化に関する共同声明を発表している。防衛審議官は中国の副参謀総長と会談し、東シナ海での不測事態を避けるのに必要な海空連絡メカニズムの運用を早期に開始すること、友好関係構築に向けて防衛交流・協力を促進することで一致した。201664日、シンガポールで開催され、中谷防衛大臣が南シナ海情勢に強い懸念を表明し、北朝鮮の核ミサイル開発を非難、法の支配の貫徹を呼びかけた。日米韓防衛相会談も行われ、パシフィック・ドラゴン2016演習の実施を決定している。201763日、シンガポールで開催され、稲田防衛大臣が北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の海洋進出に強い懸念を表明し、ルールに基づく秩序の遵守を訴えた。日米韓防衛相会談も行われ、北朝鮮の核・ミサイル開発が世界の安全保障に対する喫緊の脅威であるとの認識で一致し、完全・検証可能・不可逆的な核・弾道ミサイル開発放棄、挑発行為停止、国際的な義務の順守を求める共同声明を発表した。稲田防衛大臣はアメリカ、韓国、シンガポール、フランス、マレーシア、ニュージーランドの国防相と個別の会談も行っている。201862日、40カ国の国防相や軍幹部らが出席してシンガポールで開催された。小野寺防衛大臣は北朝鮮への圧力維持を訴え、会合後に日米豪・日米韓・日比・日英・日仏・日独防衛相会談を行い、中国軍事科学院副院長の何雷陸軍中将と20分間の立ち話で海空連絡メカニズムについての適切な運用を確認している。参考:MAMOR vol.90vol.83、朝雲

イギリス近衛連隊軍楽隊>:イギリスの軍楽隊。赤い服に黒い毛皮の背の高い帽子という近衛兵の制服で演奏を行う。バッキンガム宮殿前庭の衛兵交代式の演奏を担当する。参考:MAMOR vol.118

イギリス自由軍団>:武装親衛隊のイギリス人兵士部隊、別名セントジョージ。イギリス軍捕虜からなる部隊で、要員は100名もおらず、対外宣伝に使われた。参考:武装親衛隊

イギリス統合ヘリコプター・コマンド>:海軍、陸軍、空軍ヘリ部隊を運用する三軍統合組織である。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス統合ヘリコプター・コマンド(2015年)>:陸軍第16空中強襲旅団、BN-2/ガゼルAH1航空連隊1個、ワイルドキャットAH1ヘリ連隊1個、ワイルドキャットAH1ヘリ連隊1個、リンクスAH9Aヘリ中隊1個、AS365N3/ガゼルAH1ヘリ中隊1個、リンクスAH9A試験ヘリ中隊1個、訓練ヘリ連隊1個、ベル212ヘリ隊1個(ブルネイ)、ガゼルAH1ヘリ隊1個(カナダ)、陸軍予備役空挺大隊1個、ヘリ連隊1個(人員のみ)、海軍ワイルドキャットAH1軽攻撃ヘリ中隊1個、マーリン輸送ヘリ中隊2個、空軍チヌーク中隊3個、ピューマHC2中隊2個、転換訓練中隊1個からなる。105mm軽砲L11818門、BN-2T-4Sディフェンダー軽輸送機9機、BN-2アイランダーAL1軽輸送機4機、AH-64D攻撃ヘリ50機、AS365N3汎用ヘリ5機、ワイルドキャットAH1汎用ヘリ29機、リンクスAH9A汎用ヘリ21機、ガゼルAH1汎用ヘリ34機、チヌークHC4/4A輸送ヘリ38機、チヌークHC3輸送ヘリ8機、チヌークHC6輸送ヘリ12基、マーリンHC3/3A/3i輸送ヘリ25機、ピューマHC2輸送ヘリ23機、AS350B輸送ヘリ9機、ベル212輸送ヘリ8機を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス特殊部隊(2015年)>:海陸空軍ユニットを含む。SAS特殊部隊連隊1個、SBS特殊部隊連隊1個、特殊偵察連隊1個、特殊部隊戦闘群(空挺大隊1個基幹)1個、航空団(陸軍航空中隊3個、空軍輸送中隊1個、空軍ヘリ中隊1個含む)1個、通信連隊1個からなる。予備役部隊はSAS特殊部隊連隊2個からなる。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

<イギリス馬力>:馬力を参照。

イギリス本土空襲(第1次大戦)>:第1次大戦時にドイツ軍はゴータGWやツェッペリン飛行船により夜間長距離爆撃を敢行、航空機延べ435機と飛行船延べ208機により300トンの爆弾を投下した。これによりイギリス側に死者1300人、負傷者3000人の損害が生じ、軍需工業の生産力は一時的に6分の1に低下したとされる。これに対し、イギリス軍は高射砲とサーチライトに誘導された戦闘機による夜間迎撃を行った。参考:月刊軍事研究8,01

イギリス陸軍>:British Army1888年、No.1小銃を制式化。1911年、工兵隊に航空大隊が創設された。1915年、152mm榴弾砲MkTを配備。1916年、S.E.5a戦闘機を配備。3月、No.2MkT軽機関銃の量産を開始。19172月、94mm山砲MkTを採用。4月、Mk.W菱形戦車を配備。1918年、飛行軍団が空軍として独立した。ホイペットA戦車、Mk.C型中戦車、ランチェスター装甲車(初代)、Mk\装甲運搬車を配備。1923年、MkT中戦車、MkU中戦車の量産を開始。1018日、王立戦車軍団が創設された。1928年、ランチェスター装甲車(2代目)を配備。1929年、Mk.U軽戦車を採用。1931年、No.4小銃を採用。1935年、Mk.X軽戦車を制式化。1936年、CS9/LAC軽偵察装甲車を制式化。1938年、51mm軽迫撃砲MkTを採用。114mmカノン砲MkTを配備。3.7インチ高射砲MkTの量産を開始。1939年、ダイムラー・スカウトカーの配備を開始。1940年、バレンタイン歩兵戦車の配備を開始。1941年、モーリス軽偵察車の量産を開始。4.5インチ砲MkUの配備を開始。6月、スチュアート軽戦車の配備を開始。7月、SASを新編した。1942年、M3中戦車、M4中戦車、ダイムラー装甲戦闘車の配備を開始。MkT重迫の生産を開始。9月、プリースト自走砲を配備。年末、A27L巡航戦車の配備を開始。1943年、セクストン自走砲、MkY高射砲を配備。1月、A27M巡航戦車の量産を開始。1950年、フェレット軽装甲車を採用。195212月、FV603サラセン装甲兵員輸送車の量産を開始。1958年、ブラッドハウンド地対空ミサイルの配備を開始。FV601サラディン装輪偵察車の量産を開始。1963年、チーフテン戦車の配備を開始。ビジラント対戦車ミサイルを制式化。FV432装甲車の量産を開始。1964年、FV433自走砲の量産を開始。1965年、M107自走砲とM109自走砲の導入を開始。1966年、ブローパイプMANPADSの配備を開始。1972年、フォックス軽装甲車の量産を開始。1973年、L118榴弾砲を制式採用。1983年、AT-105装甲兵員輸送車を採用。レイピア自走地対空ミサイルを配備。冷戦終結後は通常戦力削減条約(CFE条約)に基づいて一気に削減し、質の向上で補うことにした。また、ARRCを主導することで大陸へのプレゼンスを保った。ボスニア紛争でIFORに派兵した時には本国に展開する1個師団と1個旅団を送り出したため、一時期本土に実戦部隊がいなくなった。1982年、チャレンジャー1を採用。1987年、ウォーリア歩兵戦闘車の配備を開始。1992年、AS90自走榴弾砲の配備を開始。1994年、チャレンジャー2の配備を開始。1996年、野戦軍、統合ヘリコプター・コマンド、地域群を統括する常設統合司令部(Permanent Joint HeadQuartersPJHQ)を創設し、国防省の統合作戦運用機能を移管した。1997年、スターストリーク携SAMの配備を開始。2011年、フォックスハウンド装甲車を採用。2014年、アフガニスタン全面撤収などを受けて再編計画を開始。常備兵を2018年までに20000名減らして82000名とし、予備役を倍の30000名に増やす。ただ2014年の予備役増員予定数がたったの20名で、退役ペースに追いつかないため、年齢制限を引き上げた。参考:月刊軍事研究7,953,16、歴史群像12,09、朝雲

 <イギリス陸軍(1977年)>:兵力175250名(うち女性5800名)、正規予備役110000名、国防義勇軍+志願予備役60100名。機甲連隊14個、機甲偵察連隊5個、歩兵大隊47個、空挺大隊3個、グルカ大隊5個、SAS部隊1個、ランス地対地ミサイル連隊1個、レイピア防空ミサイル連隊3個、重歩兵連隊1個、野戦連隊13個、誘導兵器連隊1個、奇襲攻撃連隊1個、駐屯砲兵連隊1個、工兵連隊10個、陸軍航空連隊6個を基幹とし、イギリス本土の他、西ドイツ(イギリス・ライン軍団55000名、ベルリン野戦部隊3000名)、ブルネイ(グルカ大隊1個)、香港(7500名)、キプロス(UNFICYP要員)、オマーン(工兵分遣隊、訓練部隊)、ジブラルタル(歩兵大隊1個)、ベリーゼ(増強歩兵大隊グループ1個)に兵力を派遣している。チーフテン戦車910両、スコーピオン軽戦車271両、サラディン装甲車243両、シミター290両、FV438/FV712装甲車178両、フェレット1804両、フォックス125両、FV432兵員装甲輸送車2338両、FV603サラセン600両、スパータン60両、105mm榴弾砲/軽砲92門、アボット155両、M109自走榴弾砲50両、M107カノン砲31両、M110自走榴弾砲16両、ランス、カールグスタフ、120mm無反動砲、ビジラント対戦車ミサイル、スイングファイア、FV102ストライカー、70口径40mm高射機関砲、ブローパイプ、レイピア、ブラインドファイア、サンダーバード、ビーバー軽飛行機30機、スカウト113機、アルエートU8機、スー118機、ガゼル145機を保有する。参考:軍事力バランス78年版

 <イギリス陸軍(1989年)>:兵力155500名(うちグルカ兵7600名などイギリス本国以外の入隊者8900名)、予備役255200名(正規173100名、地域陸軍72800名、郷土警備隊3000名、アルスター防衛連隊6300名)。軍団司令部1個、軍団司令部直轄部隊(砲兵旅団1個、装甲偵察連隊2個、工兵連隊4個)、機甲師団3個、歩兵師団1個、機械化旅団2個、空挺旅団1個、歩兵旅団3個、歩兵旅団(訓練・管理任務)9個、工兵旅団司令部3個からなる。地域陸軍部隊は装甲偵察連隊2個、軽偵察連隊3個、歩兵大隊41個、特殊任務連隊2個、野砲兵連隊2個、砲兵偵察連隊1個、防空連隊4個、工兵連隊8個、飛行隊1個からなる。郷土警備隊は中隊43個からなる。アルスター防衛連隊は大隊9個からなり、北アイルランドで治安維持を行う。チャレンジャー1戦車420両、チーフテン戦車870両(うち保管中400両)、スコーピオン軽戦車271両、シミター偵察車290両、フォックス偵察車200両、ウォーリアー歩兵戦闘車200両、FV432(と派生型)2338両、FV603サラセン60両、FV601サラディン12両、スパータン500両、AT-105サクソン527両、105mm牽引砲L-118150門、155mm榴弾砲FH-7079門、105mm自走砲アボットを159両、155mm自走榴弾砲M-109/A2/A3110両、175mm自走カノン砲M10736門、203mm自走榴弾砲M-11016門、MLRS4両(テスト用)、81mm迫撃砲500門、ランス自走発射機14基(うち保管中2基)、ミラン対戦車ミサイル1100基(うちFV103スパータン車載72基)、スイングファイア48両、ブローパイプ地対空ミサイル、ジャベリン地対空ミサイル12基、レイピア地対空ミサイル120基(うち自走式50基)、BN-2航空機5機、DHC-2航空機7機、チップマンク練習機21機、スカウト・ヘリ30機、SA-341ヘリ159機、リンクスAH-1/-7/-9ヘリ120機、A-109ヘリ4機、アーデンス級揚陸艇2隻、アロマンチェス級補給艇9隻、エーボン級揚陸艇4隻、車両兵員揚陸艇、曳船3隻、支援艇28隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イギリス陸軍(1997年)>:兵力11万名。主要戦闘組織は第1機甲師団、第3機械化歩兵師団、在ドイツ英国支援軍団、第24空中機動旅団で、第1機甲師団と在ドイツ英国支援軍団はドイツに駐留しており、イギリスにいる部隊もARRCの増援部隊として指定されている。チャレンジャー1戦車426両、チャレンジャー2戦車30両、チーフテン戦車400両以上(全て保管状態)、シミター偵察車300両、ウォリアー789両(派生型含む)、FV432装甲車1709両、スパータン装甲車628両、AT105サクソン装輪装甲車664両、AS90自走榴弾砲179両、MLRS64両、FH70牽引式榴弾砲71門、L118軽榴弾砲180門、センチュリオンAVRE、チーフテンAVRE、チーフテン装甲回収車、チーフテンAVLBCET戦闘工兵トラクター、アードバーグ地雷処理車、スターバースト携SAM380基、レイピア対空ミサイル70基(自走式・牽引式合計)、スターストリーク自走対空ミサイル135両、リンクス攻撃ヘリ143機、ピューマ輸送ヘリ、CH-47チヌーク輸送ヘリを保有する。参考:月刊軍事研究7,95

 <イギリス陸軍(2015年)>:現役兵力88300名(うちグルカ兵2700名)、志願予備役27500名。軍団司令部1個、第3機甲師団(機甲歩兵旅団3個、兵站旅団1個)、第1軽歩兵師団(第4歩兵旅団、第7歩兵旅団、第11歩兵旅団、第38歩兵旅団、第42歩兵旅団、第51歩兵旅団、第160歩兵旅団、兵站旅団1個)、歩兵大隊2個(在ロンドン)、軽歩兵大隊1個(グルカ兵部隊。ブルネイ)、訓練戦闘団1個、砲兵旅団1個、防空連隊2個、工兵旅団1個、工兵連隊1個、ISR旅団1個、憲兵旅団1個、通信旅団2個、第77戦闘支援旅団、兵站旅団1個、医療旅団1個からなる。陸軍予備役は兵力24100名。偵察連隊3個、機甲連隊1個、軽歩兵大隊13個、UAV連隊1個、砲兵連隊2個、STA連隊1個、多連装ロケット連隊1個、防空連隊1個、工兵連隊5個、工兵隊3個、EOD隊3個、情報大隊4個、通信連隊4個、兵站連隊11個、整備連隊6個、医療連隊3個、野戦病院10個、支援グループ(メディア対応)1個からなる。現役・予備役ヘリ部隊は統合ヘリコプターコマンドで運用される。チャレンジャー2戦車227両、ジャッカル偵察車200両、ジャッカル2偵察車110両、ジャッカル2A偵察車130両、シミター偵察車200両、TPZ-1フクスNBC偵察車8両、ウォリアー歩兵戦闘車400両、ブルドッグMk3装甲車880両、FV103スパータン装甲車275両、ウォートホッグ装甲車105両、フォックスハウンド装甲車400両、マスティフ(6×6)装甲車420両、リッジバック装甲車170両、AS90自走砲89両、105mm軽砲L11890門、MLRS35両、81mm迫撃砲360門、エグゼクター自走スパイクNLOS対戦車ミサイル14両、ジャベリン対戦車ミサイル、FV4333ストーマ-自走地対空ミサイル60両、レイピアFSC牽引式地対空ミサイル14基、スターストリーク携帯地対空ミサイル、テリア装甲工兵車60両、トロージャン装甲工兵車33両、CRARRV装甲回収車80両、サムソン装甲回収車35両、ウォーリアARRV装甲回収車40両、アードヴァーク地雷原処理車64両、M139地雷散布装置30基、M3戦車橋27基、タイタン架橋車両33基、ジラフG-AMB防空レーダー6基、マンバ・レーダー5基、MSTARレーダー139基、LCVP6隻、ウォッチキーパー無人機8機(+保管中21機以上)を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イギリス連邦航空要員訓練計画>:第2次大戦勃発を受けてイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが立ち上げた航空要員育成計画British Commonwealth Air Training PlanBCATP)。イギリス本土はドイツの脅威に晒されて新人パイロットの訓練どころでは無いため、戦線から遠く安全で、天候が安定しており、広大な土地もあるカナダにイギリス連邦全体のパイロット訓練施設を設けるもので、19391217日にリバーデール合意の名称で各国が署名した。パイロットのみならず、航法、偵察、通信、爆撃、射撃といった航空要員全てが対象で、年間に育成する要員はイギリス22000名、カナダ13000名、オーストラリア11000名、ニュージーランド3300名にも及ぶ。全体経費22億ドルのうちカナダ政府が16億ドルを負担し、2500フィート滑走路3本を三角形に配した訓練用飛行場など施設231ヵ所、建造物8300棟(うちハンガー700棟)、送水施設120ヵ所に上下水道を建設、高圧送電線2000マイルと地下送電線500マイル以上を敷設し、燃料2800万ガロンを手配して104000人の要員で運用、130000名以上の航空要員を育て上げた。第2次大戦終戦で訓練プログラムは終了したが、建造された航空施設や育成された航空産業は戦後もカナダを支えている。参考:月刊航空ファン12,17

イグアナFV4シリーズ>:ベルギーのサビエ・インターナショナル社が開発した4×4輪軽装甲車で、ブラジル用に自社開発したものである。参考:月刊軍事研究5,07

イグアナFV270>:基本型。車体は全溶接鋼製で7.62mmAP弾に耐えられ、補助装甲を付ければ14.5mmAPにも抗堪できる。7.5kgの対戦車地雷を踏んでも基本構造は破壊されない。マルチリンク・油気圧併用懸架装置を持ち、オプションで調整可能スプリング・緩衝特性装置を追加できる。その他NBC防護装置、ウォータージェット、前部装着ウインチなどもオプションで搭載可能。ペイロード2.5トン、最大戦闘重量8.5トン(9.5トン?)。エンジンはメルセデス・ベンツの218馬力(160kW)ディーゼルで、オートマチック5段変速、最大速度108km、航続距離800km。タイヤは335/80R20XZLランフラット。乗員2名(車長、操縦手)、乗車兵員6名。参考:月刊PANZER12,0211,04、月刊軍事研究12,025,07

イグアナFV270A>:浮航能力を追加したもの。戦闘重量7.5トン、乗車兵員4名。参考:月刊軍事研究5,07

イグアナFV290>:車体延長型。エアコンとNBC防護装置を標準装備している。戦闘重量9.5トン。乗員2名(車長、操縦手)、乗車兵員6名。参考:月刊軍事研究5,07

イクイノックス・フュエル・セル>:GM社が開発した電気自動車で、市販のシボレー・イクイノックスの燃料電池版である。高圧気体水素により最大出力124kWを出し、最大速度160km、航続距離320km。試作初号車が陸軍に納入され、20069月から20079月まで走行テストに賦された。参考:月刊軍事研究3,08

<育児休業等代替要員制度>:任期付自衛官を参照。

<イクシジョンCFAR>:CFAR(定誤警報率)を参照。

<イクスワース>:A318(水中作業母船)を参照。

生名>:日本海軍鵜来型海防艦(日振型海防艦)Ikuna108日間で建造され、昭和191015日竣工、呉防備戦隊に編入された。1115日、第1海上護衛隊に転出した。1130日から門司−マニラの船団護衛に就いた。125日、台湾白沙灯台沖で爆撃を受け、至近弾により損傷した。昭和2014日、台湾海峡でアメリカ海軍艦上機の爆撃を受けて小破した。410日、長崎県生月島付近でアメリカ海軍潜水艦の雷撃を受けて損傷した。66日から長崎−朝鮮南部の船団護衛に就いた。終戦時は鎮海にいた。昭和22年、運輸省に移管され、中央気象台気象観測船生名丸となった。昭和2911日、海上保安庁に移管され、塩釜海上保安部おじかとなった。以降も5月から11月にかけ、中央気象台職員を乗せて台風観測のため南方定点業務を行った。参考:月刊丸7,155,07、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門

イグナイタ>:ブリッジワイヤで電気的に粉状薬を発火し、火炎や僅かな圧力を発生して、主として発射薬などを点火するもの。点火薬筒、点火雷管ともいう。参考:火器弾薬技術ハンドブック

<イグナイタ・サーキット・テスタ>:自衛隊の機器。東通電子またはネットコムセック製。参考:月刊軍事研究11,1011,13

<イグナチオ・アレンデ級>:ノックス級フリゲート海外シリーズを参照。

<イグラ>:9K38(地対空ミサイル)を参照。

<イグラ1>:9K310(地対空ミサイル)を参照。

<イグラS>:9K338(地対空ミサイル)または9M342(地対空ミサイル)を参照。

<イクルア>:ラテル・シリーズ(装甲車)を参照。

イグルー・ホワイト作戦>:ベトナム戦争中の1966年からアメリカ軍が計画したセンサー網構築作戦で、イグルー・ホワイトはエスキモーが作るドーム型の氷の家のことである。国立サンディア研究所情報システム部で開発していた振動感知センサーを応用した空中撒布型の振動センサーや、海軍の音響センサーを改造した空中撒布型の音響センサーを製作し、海軍のOP-2E観測機からホーチミンルートを含むベトナムほぼ全土に撒布した。ただ高射砲に脆弱だったため、CH-3F-4Dが撒布するようになり、これらのセンサーからの警報はEC-121R(後に無人運用可能なQU-22B)が中継し、AC-130F-4が探知地点に爆撃を加えた。経費は30億ドルに達したが、それに見合う戦果を挙げている。参考:月刊軍事研究12,08

<イケ>:九二式五頓牽引車シリーズを参照。

イ号一型無線誘導爆弾シリーズ>:Hs293誘導爆弾に影響され、日本陸軍(陸軍参謀本部と海軍軍令部の両方?)が昭和18年に東京大学第二工学部の糸川助教授に依頼して開発させた空対艦ミサイルで、糸川助教授の頭文字を取ってイ号にしたらしい。試作は昭和197月から三菱重工と川崎航空機で行われた。参考:日本海軍の爆弾、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・日本篇

 <イ号一型甲>:三菱開発バージョンで、キ−147という仮名称が付いた。重量800kgのタ弾にロケットと誘導装置を搭載してある。弾体はトタン製で、弾体の上にパイロンを介して燃料タンクが載っており、主翼は木製でパイロンに付いている。垂直尾翼は水平尾翼端に1枚ずつ装着されていて、こちらも全て木製。発射母機は四式重爆で、目標手前11km・高度700-900mで発射され、母機により無線誘導されて命中する。命中時に発射母機は目標から4kmの地点にある。昭和1910月に試作バージョンが完成し、テストが行われたが、射程が短すぎて敵戦闘機に迎撃される恐れが高く、15機が完成したが使用されなかった。全長5.77m、全幅3.6m、全高1.055m、発射重量1400kg。エンジンは特呂一号三型(推力240kg)1基で、投下時母機速度360km、最大速度550km、ロケット燃焼時間75秒。参考:月刊丸8,95、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・日本篇、日本海軍の爆弾

 <イ号一型乙>:川崎開発バージョンで、キ−148という仮名称が付いた。甲よりやや小型で、弾頭は300kgタ弾を使用、キ−102乙に搭載される。発射・誘導法は甲型とほぼ同じ。昭和1910月末から九九式双軽に搭載されてテストが行われたが、投下後に左回頭するクセがあり、暮れに行われたテストでは熱海の旅館玉ノ井の女湯に突っ込んでしまい、エロ爆弾という渾名を頂戴した(客2人と仲居2人が死亡している)。原因は主翼と尾翼の取り付け角にあると判明、修正して再テストした結果、戦艦・正規空母クラスに75%の命中率があると判定されたが、発射前・誘導中に撃墜される恐れが高く、昭和207月までに150発ほど完成したところで計画中止となった。全長4.09m、全幅2.6m、発射重量680kg。エンジンは特呂一号二型(推力150kg)1基で、最大速度550km、ロケット燃焼時間80秒。参考:月刊丸8,958,13、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・日本篇、日本海軍の爆弾

 <イ号一型丙>:ロケット推進の滑走台から発射される無動力型で、敵艦の音響を辿って命中する。計画のみ。参考:月刊丸5,13

イ号艦政本部式缶>:日本海軍の艦船用ボイラーで、イ号艦本式缶と略す。明治33年に完成し、当初は単に艦政本部式缶(艦本式缶)だったが、ロ号の登場後にこの名称になった。小管式三胴水管缶で、ヤーロー水管缶の水管を直管から曲管に変更したものである。上部中央に蒸気缶、下部左右に水缶があり、蒸気缶と水缶の間を多数の水管で繋いでいる。左右水缶の間に丸い重油噴燃口や四角い石炭焚口を持つ。水缶断面は楕円形のままで、破裂の危険があった。また、溝蝕(グルービング)も発生したため、ロ号艦本式缶が開発されることになった。参考:月刊丸11,093,14、月刊世界の艦船5,1110,11

イ号甲型水上機>:日本海軍初の実用機で、モーリス・ファルマン1912年型水上機を輸入したものである。当初はモ式小型水上機と呼ばれていた。主翼は複葉で、双フロート式、エンジンは座席の後ろに付いており、プロペラはプッシャー式。全長10.14m、全幅15.5m、全備重量855kg。エンジンはルノー発動機(70馬力)、最大速度85km、航続時間3時間。乗員2名。青島攻略戦に4機が参加した。参考:月刊丸12,92、日本航空母艦史

伊号高速艇シリーズ>:日本陸軍の高速輸送艇で、蟻輸送用に横浜ヨットで開発され、昭和189月に試作初号艇が完成した。昭和19-20年に宇品陸軍工廠、横浜ヨット、日本造船、前田造船などで60隻が建造され、30隻で高速輸送大隊(兵員1000名、6個中隊)を編成し、沖縄、八丈島、昭南方面に投入された。参考:月刊丸8,95

伊号高速艇>:V字船型の合板船体で、前部に船倉、後部に機関室を持ち、後甲板には小発を搭載できる。船倉には水密ゴム袋に収容した貨物40トンを収め、目的地付近で水中に投下したり、小発に乗せて揚陸したりする。全長33m、幅5.4m、常備排水量80トン。主機は八九式八百馬力水冷航空ガソリン機関3基、速力25ノット、航続距離1000海里。兵装は20mm機関砲1-2門。参考:月刊丸8,95

伊号高速艇U型>:主機を空冷エンジンに変更し、兵装を37mm機関砲と爆雷投下器に換装したもの。速力が19ノットに落ちた。参考:月刊丸8,95

い号作戦>:日本海軍が太平洋戦争時に行ったソロモン・ニューギニア方面における航空攻勢作戦で、大本営には諮らず、連合艦隊が独自で行ったものである。昭和18年に入り、連合軍は航空兵力を1ヶ月に50-100機ずつ増強しており、付近の海上兵力も徐々に北上しつつあり、魚雷艇部隊がサラモア付近に出没し、日本軍は海上輸送に支障を来していて、3月には八一号作戦の輸送船団が壊滅。これを打開するため第3艦隊とラバウル基地第11航空艦隊の航空兵力を結集し、4月上旬に行われた。参加兵力は第11航空艦隊第21・第26航空戦隊(保有機は零戦90機、陸攻45機、艦爆20機)、第3艦隊第1・第2航空戦隊(保有機は零戦103機、艦爆54機、艦攻27機)で、南東方面艦隊司令部と第11航空艦隊司令部はラバウル東飛行場、第11航空艦隊一式陸攻はラバウル西飛行場、第1航空戦隊零戦と第26航空戦隊はブイン、第2航空戦隊零戦はブーゲンビル島バラレ、第21航空戦隊はカビエンに展開していた。作戦はガダルカナル島周辺を攻撃するX作戦、ニューギニア東部南岸ポートモレスビーを攻撃するY作戦、ニューギニア東端オロ湾方面ラビを攻撃するY1作戦、ニューギニア東部北岸ブナを攻撃するY2作戦に分けて実施することになり、当初はX作戦を41日から開始する予定だったが、天候不良で47日に延期された。関連部隊指揮官は基地航空部隊の草鹿中将、南東方面海上部隊の大河内中将、第3艦隊司令長官の小澤中将で、ハンモックナンバーもこの順だが、主力の一翼を担う艦上機部隊の指揮を小澤中将が執れない事態に陥るため、山本五十六連合艦隊長官が自ら作戦指揮官となり、全部隊を統合指揮する形式を取って指揮権の問題を解決している。零戦は制空隊と直掩隊に分け制空隊が敵戦闘機を制圧した後に直掩隊の護衛の下で爆撃隊を進入させることとし、艦爆は対艦攻撃、陸攻は航空基地攻撃に割り当てた。43日、山本五十六連合艦隊長官、宇垣纏参謀長、黒島先任参謀らが陣頭指揮を執るためトラック泊地の武蔵を離れ、飛行艇2機に分乗してラバウルに向かい、1340に到着した。47日、X作戦を実施。第253航空隊(零戦21機)、第204航空隊(零戦27機)、瑞鶴飛行隊(零戦30機、九九式艦爆17機)、第582航空隊(零戦26機、九九式艦爆18機)、飛鷹飛行隊(零戦30機、九九式艦爆17機)、隼鷹飛行隊(零戦24機、九九式艦爆17機)の零戦158機と九九式艦爆69機がガダルカナル島周辺に出撃し、フロリダ沖海戦で駆逐艦1隻、コルベット1隻、大型油槽船1隻を撃沈、戦闘機7機を撃墜した。未帰還は零戦12機、九九式艦爆9機。アメリカの作戦予定を10日ほど遅延させる効果があったが、追撃をかける余力は無く、戦果は限定的だった。411日、Y2作戦を実施。南部ポートモレスビー方面に瑞鳳飛行隊(零戦15機)、瑞鶴飛行隊(零戦27機、九九式艦爆13機)、飛鷹飛行隊(零戦30機、九九式艦爆8機)の零戦72機と九九式艦爆21機が出撃、オロ湾及びハーベー港を攻撃し、輸送艦3隻を撃沈(輸送船1隻撃沈、1隻大破、掃海艇1隻損傷?)した。未帰還は零戦2機、九九式艦爆4機。412日、Y作戦を実施。瑞鶴飛行隊(零戦55機)、第751航空隊(零戦32機、一式陸攻17機)、第704航空隊(零戦44機、陸攻27機)の零戦131機と陸攻44機でポートモレスビーを攻撃し、飛行場を破壊、空戦で2機を撃墜し、地上で4機を破壊、15機に損傷を与えた。未帰還は零戦2機、陸攻6機。414日、Y1作戦を実施。第705航空隊(零戦56機、一式陸攻37機)、瑞鶴飛行隊(零戦75機、九九式艦爆23機)の零戦131機と陸攻37機、艦爆23機で、ミルン湾とラビ飛行場を攻撃、輸送艦数隻を撃沈(1隻撃沈、1隻損傷?)し、航空機3機とラビ東飛行場を破壊した。未帰還は零戦2機(1機と不時着3機?)、陸攻3機、艦爆3機。416日、第3艦隊によるY2作戦を行う予定だったが、索敵で敵を発見できなかったため中止となり、航空機の損害が予想よりも多かったためか、作戦自体も終了となった。日本軍参加兵力は述べ682機で、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、輸送船25隻を撃沈、134機を撃墜し、42機が未帰還、7機が大破・不時着となった。第3艦隊はガダルカナル作戦で損耗した航空機及びパイロットを補充したばかりで、零戦103機、艦爆54機、艦攻27機を投入したが、零戦14機、艦爆16機が失われ、零戦6機と艦爆17機が被弾する損害を被ってしまい、特に艦爆隊の被害が大きく、第1航空戦隊は内地に帰還せざるを得なくなった。連合軍の作戦を遅延させた隙にソロモン・ニューギニア方面の航空基地を増備し、態勢を強化する予定だったが、海軍設営隊の人力工事では無理があり、戦局の挽回はできなかった。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、歴史群像8,15、ラバウル航空戦、日本海軍艦隊総覧、山本五十六と米内光政

<亥号車>:伐開機を参照。

<い号庄田丸>:MS-36(掃海艇)を参照。

い号装置>:日本陸軍が開発した有線遠隔操縦式鉄条網破壊装置で、い号兵器ともいう。有線(イウセン)の頭文字をとってこの名称が付いたが、調弁時の秘匿名称は「やい号器材」、陸軍兵器本廠の倉庫にしまう時の名称は試製小作業機であり、昭和1482日には秘匿名称に「九八式やい号器材」と年式が付いた。部隊での通称は「亀の子」。爆弾三勇士の事案を受け、肉弾戦法による陣地突破は人的損耗が大きく効果も薄いため、科学研究所第1部で研究を行った結果、爆破装置を搭載した無人車両を地上障害物に突っ込ませることにしたものである。昭和7年に開発を開始し、最初は無線遠隔式装輪車として開発されたが、モーター用発電機を搭載する必要があり、どうしても大型化してしまうので、操縦用ケーブルと電源ケーブルを用意して有線操縦にすることにし、昭和9年には駆動も装軌式に変更した。昭和12年に試作を完了し、昭和13年から第1次整備を開始、昭和15年に815日に関東軍直属の独立工兵第27連隊が創設されて配備された。装置は発電車(被牽引車ともいう)1両、電動車甲4両、電動車乙2両、一号作業機4機、二号作業機2機、三号作業機2機、操縦器甲3基、操縦器乙2組、四芯電纜36個、分電器2個、巻線機3個、装甲操縦車、付属器材一式で構成され、トラック1台に載せられる。電動車の上に1号作業機、2号作業機、3号作業機のどれかを搭載し、発電車から電力を送って操縦器甲/乙で操縦する。電動車の上には発煙筒も装備でき(電動車甲なら大発煙筒2個)、大あか筒を搭載すればあか剤の散布も可能である。爆破作業の他、対戦車壕の架橋や、物資運搬にも使用された。1個小隊は3個操縦分隊と1個発電分隊で構成され、1つの目標(二重鉄条網で防護されたトーチカなど)を3個操縦分隊の共同作業で破壊する。実戦では使用されず、内地で終戦を迎え、器材は爆破・焼却処分もしくは川に投棄処分とした。参考:工兵入門、月刊PANZER2,053,05

 <操縦器甲>:直接操縦用。重量32kg。参考:工兵入門

 <操縦器乙>:有線遠隔操縦用。本体、携帯操縦器、13心小型電纜、絡車、絡車軸から構成される。本体と携帯操縦器を電纜で繋いで遠隔操縦を行う。重量41kg。参考:工兵入門

 <電動車甲>:車体は防水軽合金製で、操縦用ケーブルを接続する接続器を持つ。作業機を1台搭載できる。下部転輪は片側4枚、2枚1組でボギーに取り付けられている。前方に誘導輪、後方に起動輪があり、上部転輪は2枚で、誘導輪と第1転輪の間に履帯ガイド用の転輪が1枚付く。履帯はゴム製。全長1.8m、全幅0.7m、全高0.5m、重量130kg。推進は電動モーター(1馬力、毎分4000回転)2基で、600ボルト直流電動により駆動し、最大速度毎秒5m。参考:工兵入門

 <電動車乙>:電動車甲より一回り大型で、上部転輪が3枚に増えた。作業機2台を搭載することができ、これを順次作動させるために継電器乙がセットされている。偵察兵1名が腹這いに乗ることも可能で、重量200kgの防楯(フェンダー付きクローズドトップ上部車体)を装着し、前面3カ所の視察孔(視察スリット付きの上開き蓋で塞ぐことが可能)または潜望鏡式眼鏡を使用して視界を得る。全長2.5m、全幅1m、全高0.6m、重量290kg。推進は電動モーター(2馬力)2基で、最大速度毎秒5m。参考:工兵入門

 <一号作業機>:鉄条網爆破管を鉄条網に挿入する器材で、作業用電動機、鋼索、絡車、導管などで構成される。電動車の上に載せ、鋼索の一端を絡車に、もう一端を導管を通して爆破管後端に繋げば準備完了。遠隔操作で電動車を前進させ、鉄条網の直前で停止させて操縦器のスイッチを回すと、作業用電動機が作動して鋼索が絡車に巻き取られ、爆破管が導管を通って前進し、鉄条網に挿入される。爆破管が導管を完全に通り抜けると導火索が作動し、電動車が自動的に後退、危険域から離脱したあたりで爆破管が炸裂し、鉄条網を爆破する。全長1.38m、全幅0.323m、全高0.3186m、重量35kg。参考:工兵入門

 <二号作業機>:掩蓋火点やトーチカ銃眼を爆破するための器材。台の前方に爆薬を入れた箱、後方に押し棒とモーターを内蔵したケースがあり、電動車甲の上に装着する。目標直前で電動車を停めて作動させると、押し棒が爆薬を前に押して電動車の前方に落下、導火索に点火され、電動車は自動的に後退を開始する。電動車が安全域に達したあたりで爆薬が炸裂、目標を破壊する。全長1.084m、全幅0.31m、重量40kg。参考:工兵入門

 <三号作業機>:二号作業機の爆薬重量を300kgに大幅増量したもので、電動車乙に搭載する。参考:工兵入門

 <架橋機>:軽合金製の梯子で、電動車甲の上に搭載する。そのまま幅2.5mまでの豪の中に突入し、歩兵が渡れる橋を形成する。参考:工兵入門

 <発電車>:九七式軽装甲車の砲塔を外して車内に直流発電機(800V15kW)を積んだもので、装置に電力を供給する。車体前部に機関室、中央左に操縦室、後部に発電機室がある。操縦室前面には視察スリット付きの上開きクラッペが装着されていて、上面には視察スリット付きの円錐台形視察塔が付く。右前部フェンダー上に排気管がある。下部転輪は片側4枚、起動輪は前方、誘導輪は接地式で後方にあり、上部転輪2枚を持つ。発電機は走行用エンジンで駆動するため、走行中は発電できない。電動車甲なら3両、乙なら2両を同時に駆動できる。参考:工兵入門

 <被牽引車>:装軌式無動力トレーラー上にツルハシ、シャベル、各種機材を収容する背の高い箱を搭載したもの。下部転輪は2枚で、1本のボギーに接続され、板バネで緩衝されている。全長3.22m、全幅1.64m、全高2.053m、重量1.4トン。参考:工兵入門

 <分電器>:分電筐ともいう。発電車の電力を3つに分配するもので、分岐開閉器3個などからなる。参考:工兵入門

<イコーライザー>:GAU-12/U(ガトリング砲)を参照。

<イゴール・シコルスキー>:シコルスキーを参照。

イゴール・ベロウソフ>:ロシア海軍イゴール・ベロウソフ級潜水艦救難艦1番艦Igor Belousov20121031日進水、201512月就役。20168310930、久米島西北西50kmを北北東に航行するのを、第5航空群P-3Cが発見した。918-26日、海上連合2017に参加。9241100-1900頃、スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリヤーグウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ051C級ミサイル駆逐艦116石家荘054A級フリゲート576大慶福池型補給艦960東平湖と共に宗谷岬西160kmを北東に航行するのを第4航空群P-1哨戒機DD-155はまぎりPG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を東に抜けている。参考:月刊世界の艦船1,133,1411,1612,17、朝雲

イゴール・ベロウソフ級>:ロシア海軍潜水艦救難艦Igor Belousov級。全長105.1m、幅17.2m、吃水8.1m、満載排水量5385トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式で、速力15ノット。潜水救難艇(潜航深度700m)1隻、ヘリコプター1機、イギリス製遠隔操作ビークル(ソナー、音響追尾装置、カメラ装備)、特殊深海潜水具を搭載する。4隻を建造して各艦隊に1隻ずつ配備する予定であり、1番艦イゴール・ベロウソフは201512月に就役した。参考:月刊世界の艦船1,13

イコノス>:アメリカのスペース・イメージング社が運用している画像観測衛星で、正式な発音はアイコノス。1999924日にアセナU4段式固体燃料ロケットで打ち上げられた。軌道は高度681km・傾斜角98.1度の太陽同期軌道で、1日に14.7周(98分で1周)し、再帰周期(元の軌道に戻る周期)は約3日。世界初の解像度1m級民間衛星である。全長1.7m、胴体幅1.7mで、胴体中央に口径0.787mの変形カセグレン式反射望遠カメラを搭載する。胴体上端に1m×1.6mの折り畳み式太陽電池パネルを持つ。重量726kg。フォーカル・プレーン・ユニットは分解能0.82mの白黒CCDリニア・センサーと、分解能3.3mのマルチスペクトラル(赤、青、緑、近赤外線)リニア・フォトダイオード・センサーを搭載しており、地上光をデジタル信号に変換する。このデータは4分の1に圧縮されてメモリーに録画され、地上ステーション近傍を通過した時に毎秒3億ビットで電送される。プラスマイナス26度まで衛星の姿勢を傾けられるので、隣接軌道から同一目標を斜め上から撮影できる。標準サイズは13km×13kmで、パノラマサイズでは11km×1000kmの撮影が可能。GPSとスター・トラッカーにより、精度は水平2m、垂直3m以内で、2400分の1のデジタル精密3D地図を作製できる。マルチスペクトラルセンサーにより、海洋・河川の汚染状況や農作物の出来まで分かる。設計寿命は5年。ウェブサイトから好きな画像を1枚10ドルで購入できる他、1枚6500ドルで撮影場所を指定してのオーダーもできる。参考:月刊軍事研究1,00

生駒>:日本海軍一等巡洋艦。大正元年828日、巡洋戦艦に類別変更された。参考:月刊世界の艦船9,13増刊

生駒>:日本海軍雲龍型空母。昭和1875日起工。昭和19119日、進捗率60%で工事中止となった。一応1117日に進水し、その後小豆島の池田湾に移されている。昭和20319日、アメリカ海軍機動部隊艦上機の空襲を受けて被弾した。昭和2164日から三井玉野製作所で解体された。昭和22310日、解体を完了した。参考:日本航空母艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船4,12

生駒山丸>:三井物産貨物船Ikomasan maru。垂線間長92.96m、幅13.34m、深さ8.31m、満載吃水7.07m、総トン数3178トン、重量トン数5059トン。主機は三連成レシプロ蒸気機械1基1軸2128馬力、航海速力9.75ノット、最大速力12.7ノット。大正58月竣工。昭和13年、五州汽船に売船された。太平洋戦争で日本陸軍に徴用された。昭和18年、明治海運に移籍した。昭和20317日、基驍ゥら香港に向かう途中、台湾海峡でSS-413スポットとアメリカ軍機の攻撃を受け損傷し、馬祖列島南竿島沖に擱座した。326日、修理中に空襲を受けて被弾し、放棄された。参考:月刊世界の艦船10,18

<イコン>:KH-12(偵察衛星)を参照。

イサーク・スウェールス>:オランダ海軍ヴァン・スペイク級フリゲートIsaac Sweers。後にインドネシア海軍に引き渡され、カレル・サトゥイトゥブンとなった。参考:月刊世界の艦船9,96

<イサーク・ペラル>:S-81(潜水艦)を参照。

<イザード>:DD-589(駆逐艦)を参照。

イザール>:ドイツ海軍イザール級潜水母艦。第2次大戦後にソ連に譲渡され、ニーマンとなった。参考:グラフィックアクション44

イザール級>:ドイツ海軍潜水母艦。全長103.5m、幅13.8m、平均吃水5.03m、基準排水量3850トン。機関出力1900馬力、速力14ノット。兵装は8.8cm高射砲1門、37mm機関砲4門、20mm機関砲16門。1938年に2隻が商船から改造された。参考:写真集ドイツの巡洋艦

イサ基地>:バーレーン本島南部にある空軍基地で、19906月の創設時はシェイク・イサ基地だったが、2009年に改称された。当初は外貨獲得も兼ねて本国のみならずペルシャ湾岸各国のジェット転換訓練を一手に引き受ける計画があり、シミュレーター施設なども完備していたが、訓練空域が狭いという欠点があり、目論見が外れた。参考:月刊航空ファン5,11

諫早飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

<イザベラ級>:LSM-1級中型揚陸艦(フィリピン海軍)を参照。

<イザベル>:A183(曳船)を参照。

イサベル島沖海戦>:太平洋戦争でのガダルカナル島撤退時に行われた一連の海戦で、連合軍呼称は無い。昭和17年末、日本軍はガダルカナル島からの撤収を決定。敵制空権・制海権下での撤退になるため、駆逐艦1隻あたり500名を乗せて強行突破することにし、第17軍、第2師団、第38師団などが日時を検討、21日の第1次撤収で第38師団、第17軍直轄部隊の一部、海軍部隊、戦傷者、24日の第2次撤収で第2師団と軍直轄部隊主力、27日の第3次撤収で残余部隊を収容することにした。上空援護は第204航空隊、第252航空隊、第582航空隊が担当する。昭和18129-30日、レンネル島沖海戦で日本海軍がアメリカ海軍水上部隊の北上阻止に成功。ガダルカナル周辺海域でのアメリカ艦隊牽制・制圧のため、山本五十六連合艦隊司令長官は第2艦隊にガダルカナル北方700海里への進出を命じ、1310900に第2艦隊がトラックを出撃した。21日、ショートランド泊地に第1次撤退作戦用の駆逐艦が入港。旗艦は巻波で、警戒隊一番隊は舞風、江風、黒潮、二番隊は白雪、文月、三番隊は皐月、長月からなり、一番隊と二番隊はエスペランスに向かう輸送隊の第10駆逐隊(風雲、巻雲、夕雲、秋雲)と第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)を、三番隊はカミンボに向かう輸送隊の第16駆逐隊(時津風、雪風)と第8駆逐隊(大潮、荒潮)を護衛する。0600、ショートランド泊地に空襲警報が出され、ブインとバラレから零戦43機が出撃。0620B-17爆撃機9機とP-38戦闘機12機がショートランド泊地に来襲。B-17爆撃機4機を撃墜し、零戦1機が被弾して着陸に失敗大破したものの駆逐艦に被害は無かった。空戦終了頃、陸軍偵察機がサボ島北にアメリカ巡洋艦3隻、駆逐艦1隻、輸送船1隻を発見。ブインから艦爆15機と零戦40機が出撃し、駆逐艦デハーベンを撃沈、DD-449ニコラスを至近弾で損傷させ、敵戦闘機8機を撃墜した。日本軍側の損害は零戦3機、艦爆3機、艦攻2機未帰還だった。ショートランドを出撃した駆逐艦部隊は1620にバヌング島付近で連合軍航空部隊の爆撃を受け、駆逐艦巻波が航行不能となった(中破した?)。1800、警戒隊が輸送隊と離れ先行。2000、警戒隊三番隊がカミンボ泊地に到着。2045、警戒隊一・二番隊がエスペランス泊地付近でアメリカ魚雷艇2隻を発見し、うち1隻を江風が砲撃して撃沈した。2100、エスペランス泊地に輸送隊が到着。先ほど逃げたアメリカ魚雷艇1隻を発見したため、風雲が砲撃で撃退した。輸送隊はガダルカナル島守備隊の収容に入ったが、巻雲が触雷して沈没している。2200、カミンボ泊地に輸送隊が到着し、第38師団の収容に入った。2320、輸送隊がエスペランス泊地での収容を終了。220000、輸送隊がエスペランス泊地とカミンボ泊地を出港。0446、エスペランス隊とカミンボ隊が合流し、警戒航行序列で北上した。0550、アメリカ艦爆・艦攻20機強が空襲をかけてきたが、損害は無かった。1000、ブーゲンビル島エレベンタに到着。陸軍5164名と海軍250名を上陸させた。24日早朝、ガダルカナル南方を哨戒中の陸攻がツラギ南東390海里を東北東に航行する空母1隻、戦艦2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻を発見。ブガ島から零戦17機と第751航空隊陸攻9機が出撃したが、敵機動部隊が攻撃圏外のレンネル島南東200海里付近に止まったため、引き返した。0930、損傷艦の代わりに朝雲と五月雨を加えた第2次撤退作戦用の駆逐艦20隻がショートランドを出撃。エスペランスに警戒隊1番隊白雪、黒潮、2番隊朝雲、五月雨、3番隊舞風、江風、輸送隊第10駆逐隊(風雲、夕雲、秋雲)、輸送隊第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、カミンボに警戒隊4番隊皐月、長月、文月、輸送隊第16駆逐隊(時津風、雪風)、輸送隊第8駆逐隊(大潮、荒潮)が向かった。1350頃、アメリカ艦上戦闘機31機とSBD艦爆・TBF艦攻33機が2時間にわたる空襲をかけ、直掩の零戦17機が10機を撃墜したが、零戦1機被撃墜、1機不時着、3機小破の損害を受けた。駆逐艦舞風が至近弾で航行不能となっている(駆逐艦江風、黒潮、不知火、舞風が損傷?)。2000、エスペランスとカミンボに警戒隊が到着。2100、エスペランスとカミンボに輸送隊が到着し、第17軍司令部や第2師団司令部を含む陸軍4458名と海軍519名を収容して2330に撤収した。25日未明、ガダルカナル西でエスペランス隊とカミンボ隊が合流。1100、ブーゲンビル島エレベンタに到着して撤収を終えた。27日、ショートランド泊地に第3次撤退作戦に参加する駆逐艦18隻が入港。第1連隊は1番隊白雪、黒潮、2番隊朝雲、五月雨、3番隊時津風、雪風、皐月、文月からなり、1番隊と2番隊は警戒隊としてエスペランス岬とラッセル島を結ぶ線の南を警戒し、3番隊は輸送隊としてカミンボから将兵を撤収させる。第2連隊は夕雲、風雲、秋雲、長月、谷風、浦風、浜風、磯風、大潮、荒潮からなり、第1連隊警戒線より北を警戒し、ラッセル島の支援上陸部隊を撤収させる。270910、ショートランドを出撃。ソロモン諸島外側を通って目的地に向かった。1540SBD艦爆15機が来襲したが、護衛の零戦32機が気付かず、磯風が前部砲塔と艦尾に直撃弾を受けて舵が故障、火災を起こした。2100、駆逐艦が目的地に到着。2200にカミンボから陸軍2224名、海軍25名、ラッセル島から陸軍352名、海軍38名の収容を完了し、280800頃にエベレンタに到着、作戦を終了した。参考:日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸1,'15増刊

<依佐美送信所>:日本海軍の潜水艦通信用VLF無線施設。ハワイでは深度15-17m、アメリカ西岸では深度14-16mで受信できた。太平洋戦争終結後はアメリカ海軍が接収して使用している。参考:月刊世界の艦船9,12増刊

<蔚山>:951(フリゲート)を参照。

蔚山級>:韓国海軍フリゲート、ウルサン(Ulsan)級。韓国水上戦闘艦として初めて艦対艦ミサイルを搭載した艦である。船型は平甲板型で、前後に長い上部構造物を持ち、復元性を考慮して上部構造物はアルミ合金製とした。船体内スペースの問題からか、上構最前部の甲板室上に76mm砲があり、直後の1段高いところに連装機関砲を装備する。その後ろが航海艦橋で、後部にタワー型前部マストを持つ。その後ろの01甲板レベルにタワー型後部マストが立っていて、更に後ろに煙突、ハープーン4連装発射筒、短魚雷発射管と並び、上構最後尾中央に連装機関砲を搭載している。後甲板中央には76mm砲があり、ヘリ甲板など航空装備は無い。センサーはシグナール社製DA05対空レーダー、シグナール社製ZW06対水上レーダー(5番艦以降はマルコーニ社製S1810対水上レーダー)、WM28/ST1802射撃指揮レーダー、PHS-32ソナーを装備。全長102m、全幅11.5m、吃水3.5m、基準排水量1600トン、満載排水量2180トン。主機はCODOG方式、LM2500ガスタービン2基・MTUディーゼル2基2軸53640馬力、最大速力34ノット。兵装はOTOメララ社製76mm単装速射砲2基(艦橋前方甲板室上、後甲板)、エマーソン30mm連装機関砲EX-74が4基(艦橋直前、艦橋直後両舷、上構最後部)、RGM-84C/Dハープーン4連装発射筒Mk141が2基(煙突後方両舷に内舷向き)、Mk46短魚雷3連装発射管2基(ハープーン発射筒後方両舷)、爆雷投下軌条2条。5番艦以降は対空機関砲を40mm連装対空機関砲コンパクト40(艦橋直前、上構最後部甲板室上両舷の計3基)に換え、上部構造物最後部に甲板室を追加、FCSやレーダーを改良している。このため、満載排水量が2337トンに増えた。1980-93年に艦番号951ウルサン、952ソウル、953チュンナム、955マサン、956キョンブク、957チョンナム、958チェジュ、959プサン、961チョンジュの9隻が就役した。兵装を詰め込みすぎてトップヘビーになったため、後にバラストを搭載するなどの改修を行っている。参考:月刊世界の艦船9,174,097,139,013,92増刊、1,'15増刊、月刊軍事研究5,054,08

<イサンドルワナ>:F-146(フリゲート)を参照。

<伊爾14>:Il-14海外シリーズ(輸送機)を参照。

<伊爾18>:Il-18海外シリーズ(輸送機)を参照。

<イシァク>:I-16(戦闘機)を参照。

イジイ>:トルコのアセルサン社が開発した4×4輪UGV。自律走行でき、ルーフに小火器と熱線暗視装置を装備する。主任務は偵察監視、飛行場・国境警備。参考:月刊軍事研究8,09

石井静夫>:日本海軍エース。大正9年、福島県生まれ。昭和12年、海軍に入隊。昭和156月、操縦練習生を卒業し、昭和164月に第12航空隊に配属された。522日、成都攻撃でSB爆撃機1機を撃墜。第12航空隊では計3機を撃墜し、10月、台南航空隊に転属となった。太平洋戦争勃発後はフィリピン攻略戦及び蘭印攻略戦に参加。昭和174月、大村航空隊に配属された。9月、隼鷹戦闘機隊に配属されて南東方面に出撃。昭和181月、ウエワク船団の護衛に就き、B-24を2機撃墜した。9月、第204航空隊に転属となった。923日、アメリカ戦闘機4機を単機で、1機を共同で撃墜した。1024日、ラバウル上空で戦死した。公認総撃墜数は29機。最終階級は飛曹長。参考:日本海軍戦闘機隊

石井武夫>:日本陸軍エース。愛知県生まれ。昭和118月、所沢陸軍飛行学校に入学し、昭和121月に卒業、明野陸軍飛行学校で訓練の上、飛行第1連隊配属となった。ノモンハン事件では18機を撃墜したが、821日のタムスク攻撃で左腕と右腰に被弾して重傷を負い、2年以上入院した。その後は熊谷飛行学校や大刀洗飛行学校で太平洋戦争終戦まで教育にあたった。総撃墜数18機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

<石井部隊>:731部隊を参照。

<イジェクタ・ラック浮遊電圧測定用器材>:自衛隊の機器。ジェイ・アール・シー特機製。参考:月刊軍事研究5,16

石岡飛行場>:日本海軍の飛行場。昭和11年、新治郡園部村で用地買収を行った。参考:首都防空網と空都多摩

石垣>:日本海軍占守型海防艦4番艦Ishigaki。昭和16215日竣工。第2次大戦初期、まだ中立国だったソ連の貨物船をドイツの依頼で臨検し、アメリカから禁輸品を密輸していないかどうかチェックしたが、過剰な刺激を与えないよう、あまり真剣には行わなかったようである。昭和18108日、千島列島柏原湾で浮上中のS-44を砲撃して撃沈した。昭和19531日、千島列島松輪島西方70海里でSS-233ハーリングの雷撃を受け沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、月刊丸6,14

<石垣作戦>:封鎖突破船を参照。

<いしかり>:DE-226(護衛艦)を参照。

いしかり型>:海上自衛隊護衛艦(DE)。当初は駆潜艇などの後継となる排水量1000トン級の沿岸警備艦(PCE)として計画されたが、最終的にいすず型の後継になった。主任務は沿岸・海峡での対潜戦であり、冬の日本海の荒波に耐える全長90-100mの船体と近距離対潜戦用装備を持ち、ちょくちょく遭遇するソ連海軍ナヌチュカ級ミサイル艇に対抗でき、経空脅威はFCS221A62口径76mm単装速射砲で対処するというのがコンセプトである。凌波性と復元性を向上させドライデッキを確保するためと、ガスタービン使用実績のあるヨーロッパの同サイズ艦を参考にしたため、海上自衛隊で初めて中央船楼型を採用した。また、海上自衛隊初のガスタービン採用艦でもあり、初のハープーン・ミサイル搭載艦でもある。船体中央水線下左右にビルジキール、その後部にフィンスタビライザーを設けており、予定より少し小さめの船体でも荒天の日本海で行動できるようにした。艦首はシングル・カーベチャー式クリッパー・バウで、前甲板の乾舷が低いため、艦首のシアとフレアーはきつめにしてある。排水量の制約から上部構造(中央船楼、艦橋、煙突)やマストなどにアルミ合金を使用して軽量化を図っており、CICは護衛艦として初めて主船体内第2甲板に設けた。中央船楼前部の艦橋は2層で、その後ろに4脚ラティスマスト、更に後ろに煙突を持つ。レーダーは対空・対水上を兼ねたOPS-28-1(マスト中段)で、シースキミング式対艦ミサイル防御にも有効とされる。主砲方位盤は艦橋上面のFCS221A。ソナーはAN/SQS-36D(J)ハルソナーで、艦前部下面に装備したが、位置がちょうど艦首波破砕部で、対潜戦のため速力を上げると波の砕ける音がソナーに入りまくり、ディーゼルの水中雑音対策も不十分で、運用に支障が出ている。また、同型ソナー装備艦同士での周波数割り当てが不適切で、干渉しまくるという欠点もあった。主機のガスタービンは燃料を喰うので、CODOG方式として巡航時の燃料を節約、抗堪性や運用性を考慮して二軸推進とし、減速装置の逆転機構を省くため可変ピッチプロペラを採用している。速力13ノットまでは回転数一定でピッチ角を変更、それ以上はピッチ角最大で回転数を変化させる。主機には防振支持装置を取り付け、水中雑音に配慮した。機関室は前後に分かれていて、前方の第1機関室にはディーゼル、一次減速機1基、二次減速機2基、後方の第2機関室にはガスタービンを配置、両エンジンから出た出力軸は一次減速機で一纏めにされて二分され、2基の二次減速機で左右それぞれの推進軸に伝達される。発電機はガスタービン(400kW)3基で、第1機械室左舷前方に1号発電機、右舷前方に2号、中央船楼左舷後端に3号を配置した。電子戦装置はNOLR-6BOLR-9、チャフ・システムはMk36。艦載艇は7.9メートル型内火艇1隻で、煙突右舷の重量型ボート・ダビットに吊されている。艦橋直前両舷にハイライン・洋上給油用ポールステーション、後甲板に組み立て式ハイライン・ステーションを持つ。全長85m、幅10.6m、深さ5.9m、吃水3.5m、基準排水量1290トン、満載排水量1600トン。主機はCODOG方式、川崎ロールスロイス製オリンパスTM3Bガスタービン(22500馬力)1基と三菱6DRV35/44ディーゼル(4400馬力)1基で、出力22500馬力、可変ピッチプロペラ(最大回転数毎分340回転)2軸推進、巡航時はディーゼルを使用して18.6ノット(毎分210回転)で航行し、それ以上ではガスタービンに切り替えて最大25ノットまで出せる。兵装はオットー・メララ社製76mm単装砲1門(前甲板)、ハープーン4連装発射筒2基(ハープーン・ブロック1A。艦尾両舷)、ボフォース対潜ロケット4連装発射機1基(中央船楼最前部)、3連装短魚雷発射管2基(Mk4473式短魚雷)。乗員90名。後甲板にCIWSを後日装備する計画があったが、結局積まなかった。小型船体による凌波性不足をフィン・スタビライザーなどの工夫だけでは補いきれず、DE-226の1隻のみ三井造船玉野事業所で建造されて1981年に竣工し、2-3番艦は大型化したゆうばり型となった。2007年に除籍された。参考:月刊世界の艦船10,1411,'17増刊、1,041,951,173,006,118,82増刊、月刊JWings1,99、自衛隊装備年鑑1996、艦船メカニズム図鑑、海上自衛隊全艦艇史、自衛隊装備カタログ1981、丸スペシャルNo.78

石狩丸>:日本海軍特設運送船(給炭船)Ishikari maru。元は共立汽船石炭運搬船である。垂線間長100.58m、幅14.33m、深さ7.62m、満載吃水6.415m、総トン数3291トン、重量トン数4904トン。主機は三連成レシプロ蒸気機械1基1軸1550馬力、航海速力11.25ノット、最大速力14.7ノット。昭和1349日竣工。5月、共立汽船が親会社の北海道炭礦汽船に合併されたため、そちらに移籍した。太平洋戦争勃発で特設運送船となった。昭和17317日、父島の西6海里でSS-208グレイバックの雷撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船10,14

石川県立航空プラザ>:小松空港前にある航空博物館で、T-2ブルー、F-2Bモックアップ、銀河及び百式司偵の部品、東海の航路標識弾の他、PC-6ターボポーターなど民間機も展示されている。開館時間は0900-1700で、休館日は12/29-1/3(喫茶コーナーは毎週月曜も休)。参考:月刊丸2,08付録

石川島航空工業>:元は石川島造船所の航空部門で、昭和5年に北多摩郡立川町(立川飛行場の隣)に立川工場を建設したのに伴い改称したものである。月島工場は廃止した。昭和11年、立川飛行機に改称された。参考:首都防空網と空都多摩

石川島式小型患者輸送機>:日本陸軍の患者輸送機で、社内名称はKKY(小型患者輸送機の略)。航空本部の要求ではないのでキ番号などは付いていない。昭和78月から開発され、昭和15年までに25機が生産された。参考:月刊丸3,90

 <KKY>:エンジンはシラス・ハーメスW空冷倒立直列(120馬力)。看護者1名、担架2床、医療器具の搭載が可能。参考:月刊丸3,90

 <KKYU>:後期型で、主翼を大型化し、エンジンを神風空冷星型(150馬力)に換装したもの。参考:月刊丸3,90

<石川島式小型患者輸送機ファミリー>

 <KS一小型測量機>:鉄道省が新東海道線の測量用に採用したもので、立川飛行機により2機がKKYUから改造された。参考:月刊丸3,90

石川島自動車製作所>:石川島造船所自動車部が昭和2年に株式会社として独立したもの。イギリスのウーズレー自動車の製造ライセンスを取得して1トン・1トン半軍用トラックを生産した。後に社名を変更、東京自動車工業、ジーゼル自動車などと改称して最終的にいすゞ自動車になった。参考:機甲入門

石川島重工>:石川島造船所が1945年に改称したもので、造船所の名称は石川島重工東京工場となった。1960年に播磨造船所と合併して石川島播磨重工になった。参考:月刊世界の艦船6,11

石川島造船所>:嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭が隅田川河畔に創設した造船所で、大正8年から海軍艦船を受注した。軍が自動車の規格を緩和して新規参入を促進したのに合わせ、大正9年から軍民兼用の自動車製造に着手した。造船と自動車製造を並立させることの困難さから、自動車部は昭和2年に独立し、石川島自動車製作所となった。昭和5年、航空部門が独立し、石川島航空工業となった。太平洋戦争終結までに駆逐艦11隻、水雷艇、掃海艇、駆潜艇などを建造した。戦後は石川島重工に改称した。参考:機甲入門、月刊世界の艦船5,116,11、首都防空網と空都多摩

石川島重工東京工場>:石川島重工の有する造船所。DE-201あけぼの、DD-111おおなみ(初代)、DD-108ゆうだちを建造した。親会社の合併で1960年に石川島播磨重工東京工場となった。参考:月刊世界の艦船6,11

石川島播磨重工>:IHIと略す。石川島重工と播磨造船所が1960年に合併したものである。1995年、住友重機械と艦艇事業を統合してマリンユナイテッドを設立。200210月、海洋船舶事業部門がマリンユナイテッドと統合してIHIマリンユナイテッドとなった。参考:月刊世界の艦船6,11

石川島播磨重工東京工場>:石川島重工東京工場が親会社の合併で1960年に改称されたもの。DE-213きたかみ、たかつき型2隻、DE-216あやせ、DDH-142ひえい、DDH-143しらね、DDH-144くらま、はつゆき型3隻、あさぎり型3隻、DDG-176ちょうかい、DD-108あけぼのを建造した。20023月に閉鎖された。参考:月刊世界の艦船6,11

<イ式重爆撃機>:BR20海外シリーズを参照。

石埼>:日本海軍測天型敷設艇。昭和17228日竣工、大湊防備隊に配属され、陸奥湾哨区を哨戒した。昭和177月、キスカに進出して防潜網を敷設。9月から八戸を基地として護衛任務を実施。昭和206月、新井埼と共に宗谷海峡に九三式係留機雷を敷設した。電探は終戦まで装備しなかった。815日、横須賀に入港して終戦となった。822日、引揚船撃沈事件で沈没した泰東丸の生存者を救助した。昭和217月、大湊掃海部所属となり、掃海を行った。任務終了後、賠償艦としてアメリカに引き渡されることになって横須賀で特別保管船となり、昭和226月に佐世保に入港。930日、佐世保を出港し、101日に青島でアメリカに引き渡された。参考:写真集日本の小艦艇、小艦艇入門、月刊丸12,92

石沢幸次>:日本陸軍エース。大正3年、長野県生まれ。昭和101月、日本陸軍飛行第1連隊に入隊し、昭和126月に操縦学生として所沢飛行学校に入学、明野で更に教育を受け、昭和135月に飛行第1連隊に戻り、第2中隊に配属された。7月、飛行第24戦隊に転属。昭和14622日、ノモンハン事件で初陣を飾り、2機を撃墜した。74日、2機を撃墜したが、被弾して重傷を負った。2週間で退院して戦線に復帰、停戦までに11機を撃墜した。太平洋戦争開戦後はフィリピン攻略戦に参加、その後ハイラルに戻り、昭和177月に広東に移り、昭和185月にニューギニアに展開した。10月、内地に帰還。昭和192月、第20教育飛行隊に転属。昭和201月、飛行第105戦隊に転属し、終戦を迎えた。総撃墜機数11機以上。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

石塚徳康>:日本陸軍エース。東京生まれ。昭和102月、陸軍少年飛行兵となり熊谷飛行学校に入校、明野で戦闘機教育を受け、昭和132月に卒業し、飛行第11戦隊に配属された。昭和146月、第2次ノモンハン事件に参加。85日、川又上空でI-16戦闘機1機を撃墜後に別のI-16と空中衝突して敵地に落下傘降下、ハルハ川を渡ったところで力尽きて倒れたが、味方の斥候に発見されて帰投した。ノモンハン事件では通算12機を撃墜。太平洋戦争では飛行第11戦隊所属で南方作戦に就き、129日に被弾してジャングルに不時着、1週間後に生還した。ジャワ攻略後に病気で帰還、教育部隊に移った。終戦前に浜松から二式複戦で出撃し、B-29爆撃機1機を撃墜。狭山で終戦を迎えた。総撃墜数14機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

<医事通信>:三字信号を参照。

石原進>:日本海軍エース。大正10年、愛知県生まれ。昭和1310月、甲種飛行予科練習生として海軍に入隊。昭和164月、飛行練習生課程を卒業、第1航空隊に配属され、鹿屋に着任した。7月、漢口に進出。9月、鹿屋に帰投。10月、台南航空隊に配属された。太平洋戦争開戦後はフィリピン及び蘭印で作戦に従事。1210日、初撃墜を記録。昭和174月、本土に帰還し、徳島航空隊の教員となった。昭和186月、第582航空隊に転属となり、南東方面で作戦に就いた。その後第204航空隊に配属され、1018日にB-26を3機撃墜。112日にも3機を撃墜した。12月、第202航空隊に転属となった。昭和193月、トラックに配属された。5月末、ビアク作戦に参加。その後ヤップ島に配置され、マリアナ沖海戦に参加、618日に戦闘機4機を共同撃墜した。7月、呉航空隊に配属となり、本土に帰還。8月、第332航空隊に転属となり、終戦を迎えた。戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが、事故により殉職した。公認総撃墜数16機。最終階級は少尉(空自では三等空佐)。参考:日本海軍戦闘機隊

<イシム>:MiG-31I(衛星打ち上げ機)を参照。

<イシャーウッド>:DD-520(駆逐艦)を参照。

伊集院五郎>:嘉永5年(1852年)生まれ。明治1011月からイギリスに9年間留学。日清戦争時は軍令部第1・第2局長だった。明治33年、伊集院信管を開発。日露戦争では軍令部次長だった。明治391122日から明治41525日、第2艦隊司令長官を務めた。明治41526日、第1艦隊司令長官となった。猛訓練で鳴らし、月月火水木金金の語源を作っている。明治42121日、軍令部長となった。大正3年のシーメンス事件で軍令部長を引責辞任した。大正6年、元帥となった。大正10113日、68歳で死去した。参考:日本海軍艦隊総覧

伊集院信管>:日露戦争開戦3年前から伊集院五郎中将が開発した信管。当時の日本海軍は、触発信管により艦上の人員及び構造物を破壊して戦闘能力を削いでから魚雷でとどめを刺すという戦法をとることとしており、そのための鋭敏な瞬発信管を求めていた。しかし鋭敏すぎると取り扱いが危険になる。これを解決して日露戦争直前に採用されたのが本信管で、日本海海戦において下瀬火薬を弾頭重量の14%も詰め込んだ砲弾と組み合わせて使用され、ロシア艦隊に猛威をふるった。参考:月刊PANZER12,98

<イシューリエル>:H05(駆逐艦)を参照。

異状なし(日本軍)>:報告の最後に付ける言葉。どんな損害があろうとも、自分が死んでいなければ、「1名を除き全員名誉の戦死、その他異状なし」と最後は異状なしで締めくくる。参考:新兵サンよもやま物語、続潜水艦気質よもやま物語

イジョラ>:ロシア海軍改アルタイ級補給艦。2014102日、グリシャX型警備艦ソヴィエツカヤ・ガバニ、改アルタイ級補給艦イリムと共に、宗谷岬北東90-120kmを航行するのをDE-231おおよどが発見した。20157112330頃、宗谷岬北東を航行しているのを、ミサイル艇くまたかと第2航空群P-3Cが発見した。その後宗谷海峡を西に進んでいる。201612170030頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、ロプーチャT型揚陸艦アドミラル・ニヴェルスキー、ロプーチャU型揚陸艦ペレスウェート、アリゲーターW型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフ、ユグ型海洋観測艦マーシャル・ゲロヴァニと共に宗谷岬北北東35kmを西北西に航行するのを第2航空群P-3CPG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を西に航行し、オホーツク海から日本海に入っている。参考:月刊世界の艦船3,1510,153,17、朝雲

伊豆大島台風26号被害>:作戦名称は椿救出作戦(Operation TSUBAKI RESCUE。椿は大島町の町花)。201310160250頃、台風26号による豪雨で伊豆大島に大規模な土石流が発生し、住宅46戸が全壊、40戸が半壊し、死者35人・行方不明者4人を出す甚大な被害が発生したため、1020に東京都知事から第1師団長へ災害派遣要請が出された。1100過ぎ、第1師団第1普通科連隊のファスト・フォース10名を乗せたUH-60JAヘリ1機と、情報収集を行うUH-1ヘリ3機が離陸。1240、ファスト・フォースが現地に到着。1512、第3輸送航空隊のC-1が美保基地を離陸。出張中の大島町長を乗せて1653に大島空港に着陸した。1530、第1普通科連隊が活動を開始。1018日、輸送艦おおすみが大島沖に到着し、1530から25時間連続で物資の揚陸を行ったが、LCACのうち1隻が故障した。10190940、小野寺防衛大臣が現地で隊員を激励した。1703、天候悪化により大島町が避難勧告を発令した。1020日には東部方面総監をトップとする統合任務部隊「JTF椿」(1200名規模)が編成された。現地では再び大雨に見舞われたため、捜索は中断されている。12501450、第2輸送航空隊のC-1輸送機が大島医療センターの入院患者14人を乗せて大島空港を離陸し、木更津駐屯地に空輸した。1021日、捜索を再開。輸送艦くにさきが大島沖に到着し、おおすみから故障したLCACを受け取り、代わりのLCACを引き渡した。おおすみはその後物資を積み込むため横須賀基地に向かっている。115日、捜索を重機中心に切り替え、650名態勢に縮小した。118日、東京都知事の撤収要請を受けて防衛大臣から災害派遣終結命令が出され、1700に捜索活動を終了して撤収を開始。陸自から陸上幕僚監部、第1師団、第12旅団、第12ヘリコプター隊、第1施設団、東北方面増強派遣部隊(第6師団第44普通科連隊)、東部方面航空隊、東部方面通信群、東部方面後方支援隊、東部方面付隊、海自から第1輸送隊(輸送艦おおすみ、くにさき)、第21航空群、空自から第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊、統合幕僚監部から連絡調整要員4名が派遣され、隊員延べ20970名、車両延べ5120両、艦船延べ17隻、航空機延べ80機が参加した。1224日、統合任務部隊に防衛大臣から一級賞状が授与された。2014222日、都立大島高校生徒9人が防衛省を訪れ、桜の苗木を贈呈し、記念植樹を行った。910日、統合任務部隊に防災功労者内閣総理大臣表彰が授与された。参考:月刊軍事研究1,14、月刊世界の艦船1,14、朝雲、MAMOR vol.130

<イスカンデル−E>:ロシア軍の戦域制圧用戦術弾道ミサイルシステム、Iskander-E。米軍コードはSS-26NATOコードはストーン(Stone)。ミサイルは9M72の改良型で、固体燃料1段式、射程50-280km。本体重量3.8トン、弾頭重量0.48トンで、榴弾やクラスター弾頭を装備している。中間は慣性誘導で、終末は光学誘導、CEP10m。パトリオット・システムや、BMDシステムの撃破も目的としており、弾体にはRAMが貼り付けられ、終末段階で複雑に機動して迎撃ミサイルから逃れるらしい。また、ブースト段階でも機動を行ってABLシステムの迎撃も逃れるようにしているという。9P78Eランチャーは8輪重トラックの中央に搭載され、その左右にミサイル1発ずつが収容される。ミサイル2発を収める8輪重トラックが9T250E再装填車として追従する。その他、9S552指揮・要員車両、9S920データ転送車両、整備車両、システム支援車両が6輪トラックを車台としてシステムを構成する。アメリカが弾道ミサイル防衛システムをチェコとポーランドに配備することに対抗するため、ポーランドに近いカリーニングラード軍区への配備や、ベラルーシへの輸出を検討しているという。201427日、ロシア機械製作設計局(KBM)が輸出準備完了を発表した。2015年末、アルメニアが1個師団(ランチャー4両)を導入した。参考:ソビエト・ロシア戦闘車両大系(下)、月刊軍事研究12,049,059,087,143,17、核兵器事典

イスカンデル−K>:ロシア軍の地対地巡航ミサイルR-500。水上発射型巡航ミサイル3M14TEの地上発射型K-500をイスカンデルMと同じTELに2基搭載したものである。射程が600kmに達するという説や、ベースがRKP-553M10グラナート)潜水艦発射巡航ミサイル(射程2000-2500km)であるという説があり、INF条約違反疑惑が出ている。イスカンデルMと同じロケット旅団に混成配備するという説もある。2008年に初の発射試験が行われたとされ、地上配備型なら既にINF条約違反だが、ロシア側は潜水艦搭載型のテストであり違反していないと主張している。参考:月刊航空ファン10,14、月刊軍事研究11,144,1510,15

イスカンデル−M>:ロシア軍の作戦・戦術ロケット・コンプレクスOTRK(短距離弾道ミサイルシステム)Iskander-M、別名9K720、米軍コードはSS-26NATOコードはストーン(Stone)。1991年から開発され、1995年に発射試験に初成功、2004年に開発を完了し、2005年末に最初のミサイル旅団が就役する予定だったが、1年強遅れて20071月に就役した。ミサイル名称は9M723で、8×8輪移動式発射機9P78に2発を搭載でき、弾頭は480kg通常弾頭、クラスター弾頭(子弾10発)、燃料気化弾頭、貫徹弾頭、核弾頭である。ブースト段階及びターミナル段階でコースを大きく変えるので、迎撃が難しい。射程は400kmだが、280km500km680kmといった説も出されており、500km以上ならINF条約に引っかかる。CEPは慣性誘導/GLONASS30-50m、終末誘導装置(電子光学式というだけで詳細不明)追加で5-7m9M728巡航ミサイル2発の搭載も可能。作戦単位は旅団で、移動式発射機12両と支援車両を装備し、ロシア陸軍の諸兵科連合軍隷下に1個ずつ置かれる。2011年に西部軍管区第26ロケット旅団に初配備され、2013年からは毎年2個旅団に配備を進めており、2018年に全12個旅団への配備を終える。BMDに対抗してポーランドとリトアニアの間にあるロシアの飛び地カリーニングラードや、NATOとの境界近くに配備するらしいが、カリーニングラードへの配備は西側との政治交渉に使うためか遅らされている。東部軍管区では20166月までにユダヤ自治州ビロビジャンの第35諸兵科連合軍第107ロケット旅団、ブリヤート共和国ウラン・ウデの第36諸兵科連合軍第103独立ロケット旅団、沿海州ウスリースクの第5諸兵科連合軍第20親衛ロケット旅団に配備され、2017年には第29諸兵科連合軍第3ロケット旅団が新編された。201711月、ロシア海軍バルチック艦隊第11軍団第152ロケット旅団に配備され、カリーニングラードに配置された。1222日、ロシア国防省拡大幹部会議において、シリア内戦での使用をロシア国防相が報告した。20188月、南部軍管区の演習でARH弾頭搭載対艦ミサイル型(ベースが9M723弾道ミサイルなのか9M728巡航ミサイルなのかは不明)の洋上目標に対する試射を行ったらしい。参考:月刊軍事研究11,149,162,1710,1810,079,082,092,113,18、月刊航空ファン10,14

<イスクラ>:TS-11シリーズ(練習機)を参照。

<イスクラ作戦>:レニングラード解囲を参照。

いす号装置>:日本陸軍の遠隔操縦兵器で、いは有線(いうせん)、すは水上の略。渡河作戦時に有線遠隔操縦式小型舟艇を使用して水際障害物の破壊や煙幕展張などを行うものである。発電車、送電補助ケーブル、絡車、送電ケーブル、分電器(二股にできる)、送電補助ケーブル、操縦器、操縦ケーブル、推進艇の順に接続する。発電車などはい号装置と共通である。発電車から操縦器までは250m、操縦器から推進艇までは1500m離すことが可能。推進艇は全長10mで、爆薬115kgを搭載し、毎秒5mで水上を航行、深さ6.5mまでの水中障害物を破壊できる。参考:工兵入門

<イズジェリェ>:Izdeliye。品目という意味のロシア語。

<イズジェリェ01>:MiG-31(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ01B>:MiG-31B(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ01BM>:MiG-31BM(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ01BS>:MiG-31BS(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ01DZ>:MiG-31DZ(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ02>:MiG-25R(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02B>:MiG-25RB(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02F>:MiG-25RBF(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02K>:MiG-25RBK(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02M>:MiG-25BM(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ02S>:MiG-25RBS(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02Sh>:MiG-25RBSh(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02T>:MiG-25RBT(偵察機)を参照。

<イズジェリェ02V>:MiG-25RBV(偵察機)を参照。

<イズジェリェ05>:MiG-31M(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ5.12>:MiG1.44(試作戦闘機)を参照。

<イズジェリェ7.01>:MiG-7.01(試作戦闘機)を参照。

<イズジェリェ07>:MiG-31D(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ22>:MiG-25PU(練習機)を参照。

<イズジェリェ39>:MiG-25RU(練習機)を参照。

<イズジェリェ46>:R-40(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ48M>:Yak-141シリーズ(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ51>:MiG-25RBK(偵察機)を参照。

<イズジェリェ52>:MiG-25RBS(偵察機)を参照。

<イズジェリェ62>:R-60シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ62M>:R-60M(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ66>:MiG-25BM(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ70>:Tu-160シリーズ(爆撃機)を参照。

<イズジェリェ83>:MiG-31(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ84>:MiG-25P(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ84D>:MiG-25PD(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ84DS>:MiG-25PDS(戦闘機)を参照。

<イズジェリェ90>:オリオン(無人機)を参照。

<イズジェリェ99>:MiG-25戦闘機ファミリーを参照。

<イズジェリェ100>:T-4(試作迎撃機)を参照。

<イズジェリェ100>:T-100(重戦車)を参照。

イズジェリェ100>:1948年にソ連が開発した共通装甲車台。SU-100PSU-152GSU-152PBTR-1122K112S3などのベースになった。最大装甲厚は15mmに抑えて軽量化、機動性能を向上させている。参考:月刊PANZER6,01

イズジェリェ115>:ソ連の試作戦車で、T-29の実績をふまえて開発された。防御力強化のため、避弾経始を取り入れた厚さ40-50mmの装甲板を溶接して製作している。主砲塔は76.2mm戦車砲L-10を搭載し、車体前部左右に7.62mmDT機関銃1丁を装備する銃塔が1基ずつ設けられた。モックアップまでで開発中止となった。参考:月刊PANZER1,98

<イズジェリェ117M>:AL-41F1A(エンジン)を参照。

<イズジェリェ117S>:AL-41F1S(エンジン)を参照。

<イズジェリェ140>:R-24R(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ160>:R-24T(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ170>:R-77シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ170−1>:R-77-1(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ172>:KS-172(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ180>:R-77M(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ180BD>:K-77ME(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ190>:RVV-AE(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ201>:Yak-43(戦闘機)を参照。

イズジェリェ300>:ロシアが開発中の画像赤外線誘導式短射程空対空ミサイル、別名KM-DK-MD?)。AIM-9XブロックUを凌駕する性能を目指している。参考:月刊軍事研究10,15、世界の傑作機No.172

<イズジェリェ340>:R-23R(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ360>:R-23T(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ410>:R-33シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ470>:R-27シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ501>:RDS-1(原爆)を参照。

<イズジェリェ501M>:RDS-1M(原爆)を参照。

<イズジェリェ601>:RDS-2(原爆)を参照。

<イズジェリェ610>:R-37シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ720>:RP-25(レーダー)を参照。

<イズジェリェ740>:R-74(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ750>:R-74M(空対空ミサイル)を参照。

<イズジェリェ760>:R-74シリーズ(空対空ミサイル)を参照。

イズジェリェ810>:ロシアのヴィンペルが開発中の長射程空対空ミサイル、Izdeliye 810(製品810)。RVV-BDT-50のウェポンベイに収まるよう改修したタイプで、射程100kmクラスらしい。参考:月刊軍事研究10,'15、月刊航空情報11,10

<イズジェリェ4202>:プロジェクト4202(極超音速兵器)を参照。

<イズジェリェV>:Yak-36VTOL機)を参照。

<イズジェリェVM>:Yak-38シリーズ(VTOL機)を参照。

<いずしま>:MSC-687(掃海艇)を参照。

<いすず>:DE-211(護衛艦)を参照。

五十鈴>:日本海軍長良型軽巡洋艦Isuzu。大正12815日竣工。昭和1277日、日華事変勃発時には第1潜水戦隊に所属していた。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は第15戦隊所属で、香港攻略戦に参加した。昭和179月、第2水雷戦隊旗艦となった。1015日、ガダルカナル島砲撃作戦に参加。1026日、南太平洋海戦に参加。114日、カビエン付近で触雷して小破した。1113日(14日?)、第3次ソロモン海戦で至近弾を受けて中破、横浜の浅野ドックで修理を行った。昭和186月、中部太平洋方面の輸送任務に就いた。125日、ルオットで爆撃を受け、不発弾が船体を貫通して舵取り機のシャフトが折れた。トラックで応急修理を行い、昭和191月に横須賀に帰投、改装を受けて五十鈴型防空巡洋艦となり、艦隊防空任務に当てられることとなった。改装中に対潜掃討部隊である第31戦隊の旗艦となった。昭和19106日に改装を終えて出港。1020日、小澤艦隊に編入されて比島沖海戦に参加。艦隊のおびき寄せた敵機に対し、発射直後の高角砲弾に対空機銃弾が衝突して暴発を起こすという珍事が起こるほどの猛烈な対空射撃を浴びせ、敵機撃墜確実9機、不確実4機のスコアを残した。その後は輸送任務に就いたが、119日にコレヒドール島の西55海里でアメリカ潜水艦の雷撃を受けて舵を損傷、中破した。シンガポールで修理後の昭和2047日、チモール島からの陸軍部隊撤退任務に参加し、帰路にスンバワ島沖でSS-252ガビランとSS-328チャーの雷撃を艦橋下と左舷缶室、後部機械室に受けて沈没した。死者189名。参考:歴史群像12,03、連合艦隊巡洋艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、近代巡洋艦史、日本海軍艦隊総覧

いすず型>:海上自衛隊護衛艦(DE)。くす型の後継として一次防で建造されたDEで、ディーレイ級を元に基本計画と基本設計を防衛庁技術研究本部が行い、設計は重量ベースから空間ベースとした。船型は全通甲板2層を持つ遮浪甲板型を護衛艦として初めて採用、兵装搭載と居住性に必要な艦内スペースを確保し、艦首乾舷を高くして耐波性や復元性を向上させた。生産性を考慮して船体には軟鋼を主用し、各構造も簡略化している。艦首はクリッパー型で、小さなバルバス・バウを持つ。電子機器冷却と居住性向上のため全艦内に冷房を導入しており、科員1名あたりの居住スペースは2.4平方メートルである。上甲板の配置は前から錨甲板、前部主砲、Mk108またはボフォース(Mk108は砲室上、ボフォースは上構の前方延長部上面に搭載)、上部構造物、煙突、4連装魚雷発射管、後部マスト、後部主砲、艦尾甲板で、上構後部上面に前部マスト、煙突直後両舷にボートダビットがある。上構前上部の艦橋は両舷ウイング付閉鎖型を採用し、前面に回廊は無い。操舵はテレモーター方式から電気式に変更された。主機は軽量小型のディーゼルを採用、騒音と振動を防止するためゴムを張った。主機遠隔操縦装置を有し、主機室とは別の操縦室から操縦できる。いすずは主機室が前後に分かれており、主機を2基ずつ搭載し、流体接手を介して前後を串型に繋ぎ、後方主機を推進軸に直結(回転数毎分475回転)している。巡航時には後方主機のみを使用し、それ以上の速力で前機を併用した。もがみの主機室は構造単純化と主機大型化のため1室のみ(護衛艦として唯一の単区画機械室)で、ここに主機を2基収容して左右の推進軸と直結(回転数毎分330回転)した。きたかみとおおいは前後に分かれた主機室を持っており、ディーゼルを2基ずつ収容して流体継手を経て減速歯車(回転数330回転)に繋ぎ、前方主機室のもので右推進軸、後方主機室のもので左推進軸を駆動する。操舵装置は従来のテレモーター式から電気式に変更した。FCSMk63(測距レーダー付き)。レーダーはOPS-2対空レーダー、OPS-16対水上レーダー。ソナーは1-2番艦がAN/SQS-11AAN/SQR-4AN/SQA-4、きたかみがOQS-12OQY-2A、おおいがOQS-12OQY-2Bを搭載した。ESMNOLR-1。全長94m、全幅10.4m10.2m?)、深さ7m、吃水3.5m、基準排水量1490トン、満載排水量1750トン。主機はディーゼル(DE-211いすずが三井製1235VBU-45V中速V型12気筒ディーゼル4基、DE-212もがみが三菱9UET52/65型中速ディーゼル2基、DE-213きたかみが三菱12UEV30/40中速V型12気筒ディーゼル4基、DE-214おおいが三井B&W1228V3BU-38Vディーゼル4基)、出力16000馬力、2軸推進、速力25ノット、燃料搭載量250トン、航続距離は16ノットで6000海里。兵装は5776mm連装速射砲2基(前後甲板)、Mk108DE-212まで)またはボフォース4連装対潜ロケットランチャー(DE-213以降)1基(艦橋前方)、533mm4連装魚雷発射管1基(後部マスト前方)、短魚雷落射機(DE-212まで)または3連装短魚雷発射管(DE-213以降)2基(煙突前方両舷。使用魚雷はMk44短魚雷)、Y砲1基(後甲板主砲後方)、爆雷投下軌条1条(艦尾)。乗員185名(DE-213以降は180名)。DE-211いすず、DE-212もがみ、DE-213きたかみ、DE-214おおいの4隻が1961年と1964年に就役した。いすずともがみは1973-74年にMk108と短魚雷落射機を外してボフォース・ランチャーと3連装短魚雷発射管を搭載した。もがみ、きたかみは後に艦尾スポンソンを設け、VDSを搭載した。1991-93年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、艦船メカニズム図鑑、月刊世界の艦船11,'17増刊、6,139,961,79増刊、5,02増刊、1,173,1011,111,14、自衛隊装備カタログ1981、丸スペシャルN0.78

五十鈴型防空巡洋艦>:日本海軍防空巡洋艦。元は長良型軽巡洋艦五十鈴で、昭和191月に触雷と空襲で損傷したため、改造して艦隊防空任務に当てられることとなった。主砲の三年式四〇口径一四サンチ単装砲を撤去して八九式45口径12.7サンチ高角砲連装3基と九六式25mm3連装機銃11基、九六式25mm単装機銃5基を搭載し、主砲の射撃指揮装置も外して九四式高射装置1基と対空見張り用二一号七型電探・一三号電探、水上見張り用二二号電探を装備、魚雷発射管を酸素魚雷用の九二式61cm四連装魚雷発射管2基(魚雷16本)に積み替えた。また、対潜装備として水中探信儀、水中聴音機、爆雷投射機、爆雷投下軌条、爆雷90発を搭載した。通信用に哨信儀(赤外線信号燈)を装備している。全長162.15m、全幅14.17m、基準排水量5170トン、常備排水量5570トン。主機は技本式ギヤード蒸気タービン4基、主缶はロ号艦本式重油専焼缶10基・混焼缶2基で、出力90000馬力、4軸推進、速力36ノット(33ノット?)、航続距離は速力14ノットで5000海里。参考:歴史群像12,03、連合艦隊巡洋艦、月刊世界の艦船2,87

イスターランド>:南アフリカ・メカム社の4輪装甲車。ドイツ・ベンツ社のウニモグ410トラックのコンポーネントを利用して製作されており、7.62mm弾に対する防御力を有するとされ、V字型底板で対地雷用防御を考慮している。総重量5.2トン。エンジン出力115馬力、最大速度105km、航続距離500km。乗員3名。参考:月刊PANZER6,03

イスタンブール>:トルコ海軍ミルゲンU級フリゲート1番艦Ístanbul20177月、ファースト・スチール・カットを実施。参考:月刊世界の艦船10,17

<イスタンブール級>:ミルゲンU級(フリゲート)を参照。

イスティグラル>:クウェート海軍ミサイル艇Istiglal1983年就役。20032月から近代化改修に入り、主機の換装などを実施した。参考:JShips Vol.20

イスティグラル級>:クウェート海軍ミサイル艇。西ドイツのラーセンFPB-57級を導入したものである。兵装はエグゾセMM40艦対艦ミサイル発射筒2基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<イスパンカ>:L-166V-1E(赤外線ジャマー)を参照。

出水海軍航空隊>:日本海軍航空隊。操縦教育を行う。後に第一出水海軍航空隊と改称された。参考:陸海軍学校と教育

出水飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

泉部隊>:太平洋戦争末期に中野学校で検討されたゲリラ戦部隊。被占領後に地下に潜り、全国至る所でゲリラ活動を行うものである。泉のように湧いて出てくるということでこの名称が付けられた。参考:陸海軍学校と教育、戦時用語の基礎知識

イズムルード>:ロシア海軍プロジェクト22460哨戒艇4番艇Izumrud2013814日進水。参考:月刊世界の艦船11,13

<いずも>:DDH-183(護衛艦)を参照。

出雲>:日本海軍出雲型装甲巡洋艦1番艦Izumo。第6号一等巡洋艦として計画され、明治33925日竣工。128日、横須賀に到着。明治3612月、第2艦隊旗艦となった。日露戦争でも第2艦隊旗艦を務めている。明治37814日、蔚山沖海戦に参加。明治385月、日本海海戦に参加。日露戦争後は第1艦隊旗艦となった。その後佐世保鎮守府警備艦となり、明治429-12月にサンフランシスコのポートラ祭に参加。大正3年、第1次大戦勃発に伴い、遣米支援艦隊旗艦としてメキシコ方面に展開。その後第1特務艦隊旗艦としてインド洋に展開した後、第2特務艦隊の隷下に入って大正6814日にマルタ島に到着し、明石と交代して旗艦となった。大正71116日、一等巡洋艦日進と旗艦を交代して帰路に就いた。大正87月、横須賀に帰港。大正105月、練習艦隊に転属。91日、一等海防艦に類別変更された。大正11年度遠洋練習航海でブラジル独立100周年祭に参加。大正14年度遠洋練習航海の途中、バンクーバーで艦載艇が衝突事故により沈没して11名が死亡した。昭和3423日、遠洋練習航海のため一等海防艦八雲と共に横須賀を出港。21018海里を航海し、東南アジア、オーストラリア、ハワイの20カ所に寄港して103日に横須賀に帰港した。昭和72月、第3艦隊旗艦となり、旗艦設備搭載改装を実施。完工すると佐世保を出港して上海に展開した。昭和9年、水偵設備を設けた。昭和1277日、日華事変勃発時には第10戦隊に所属していた。支那方面艦隊が新編されるとその旗艦を務めている。814日、中国軍機の空襲を受けたが、損傷は無かった。昭和1411月、第1遣支艦隊(第3艦隊から改称)所属となった。昭和16128日の太平洋戦争開戦時は上海方面根拠地隊所属で、上海において、旧式駆逐艦蓮、河用砲艦鳥羽と共にイギリス海軍砲艦ペトレルを撃沈した。昭和1771日、海防艦から一等巡洋艦(重巡洋艦)に艦種変更された。昭和18820日、第1遣支艦隊が揚子江方面特別根拠地隊に改編されたのに伴い、所属を外れて内地に帰還、瀬戸内海で練習艦任務に就いた。昭和204月、主砲を撤去して12.7cm連装高角砲を搭載し、機銃を多数増設する改装を受けた。49日、広島県大黒神島付近で触雷して損傷した。724日(28日?)、呉の江田島高須海岸でアメリカ第38機動部隊艦上機の空襲を受けて浸水、左に転覆擱座し、そのまま終戦を迎えた。昭和22年に引き揚げられて解体された。参考:月刊世界の艦船11,135,1212,109,13増刊、第2次大戦日本海軍作戦年誌、帝国陸海軍事典、小艦艇入門、日本海軍艦隊総覧

出雲型>:日本海軍装甲巡洋艦Izumo型。明治30年、日清戦争後の艦艇整備計画第2期拡張分としてイギリスのアームストロング社エルジック造船所に発注された。装甲板はクルップ甲鈑である。垂線間長121.9m、幅20.9m、平均吃水7.4m、常備排水量9773トン。主機は直立式4気筒三連成レシプロ蒸気機関2基、主缶はベルヴィール石炭専焼缶24基、出力14500馬力、2軸推進、速力20.8ノット、石炭搭載量1402トン、航続距離は10ノットで7000海里。兵装は45口径20.3cm連装砲2基、40口径15.2cm単装砲14門、40口径7.6cm単装砲12門、47mm単装砲8門、45cm水中魚雷発射管4門。装甲厚は水線部178mm、甲板102mm、司令塔356mm。乗員648名。出雲、磐手が明治33-35年に竣工した。参考:月刊世界の艦船11,139,17

いずも型護衛艦>:海上自衛隊ヘリコプター護衛艦(DDH)。竣工時点で海自最大の護衛艦である。中国海軍潜水艦戦力の急速拡大を受け、護衛隊群の対潜戦能力強化が求められたため、多数の対潜ヘリによる継続的な対潜戦に対応し、かつ任務に応じて最適な艦とヘリ数を決定する艦−ヘリ・パッケージ運用が可能で、多任務をこなせるよう陸自CH-47ヘリやトラックも積め、統合作戦指揮能力や他機関・民間との調整能力を有し、随伴艦への洋上補給も行える艦として設計されている。ひゅうが型の拡大改良型で、ヘリ発着スポットを5カ所、搭載機数を14機に増やしてヘリ運用能力を強化した。兵装は個艦防御程度に減らされている。主船体は縦肋骨構造、8層の甲板で構成され、重要区画の水密隔壁は二重にした。艦首はエンクローズド・バウで、艦首水線下にOQQ-23バウソナーを搭載する。艦中央後ろ寄りの両舷水線下にビルジキール、後部両舷水線下にフィン・スタビライザーが1基ずつ用意され(もう1基ずつ追加可能)、マスカーとプレーリー装置(空気は主機から抽出)を装備して水中雑音に配慮した。着岸は基本的にアイランドからの視界が良い右舷横付けだが、係留区画は両舷に2ヵ所、係留装置も両舷に用意されていて、必要なら左舷係留も可能。2番艦は係留装置、作業艇収容レセス、舷梯レセスなどの舷側開口部を開閉式遮断板で塞ぐことができ、ステルス性が向上した。飛行甲板は第1甲板レベルで、長さ245m、幅38m、アイランド部クリアー幅29m。発着艦スポットは左舷に5箇所あり、右舷前部には救難ヘリなどの駐機用スペースがある(特にマーキングは無い)。発着艦はフリー・ランディング方式で、移送装置は用意されておらず、牽引機、牽引車、クレーン車、フォークリフト、高所作業車、救難作業車などを搭載している。飛行甲板には各所に散水ノズルが設置され、甲板全面に散水して消火やNBC防御を行う。飛行甲板艦首・艦尾側にある安全網は倒された状態の固定式で、飛行甲板前部右舷のポールマスト上にマスト灯が付いている。格納庫は床が第5甲板レベル、天井が第2甲板レベルの3層ぶち抜きで、前から前部エレベーター、第1格納庫、第2格納庫、後部エレベーター、航空機整備庫と並んでいて、長さ125m(前部エレベーター除く、航空機整備庫含む)、幅21m、天井高さ7.2m。第1格納庫・第2格納庫の間と、第2格納庫・航空機整備庫の間に水平スライド式防火シャッターがある。航空機整備庫はヘリ整備に使用するが、燃料給油・抜き取り作業は火災の危険性を考えて必ず飛行甲板上またはホバリング状態で行う。航空機用エレベーターは容量30トン2基で、前部エレベーター(長さ20m・幅13m)は飛行甲板中央にインボード式、後部エレベーター(長さ15m・幅14m)は右舷の艦橋後方にデッキサイド式で装備、前部エレベーターは第1格納庫前部、後部エレベーターは第2格納庫後部右舷に繋がる。後部エレベーター開口部は艦首方向にスライドする電動油圧式防水格納庫扉(ステルス性に配慮した波形形状)で閉鎖される。飛行甲板艦首側に2カ所、後部側に1カ所の貨物用エレベーターがあり、ストレッチャーを乗せることも可能。他に弾薬輸送用エレベーターが弾庫と飛行甲板を繋ぐ。格納庫の左舷側に第1・第2格納庫管制室を持ち、航空機や車両の移動、係止、応急などを指揮する。他にも格納庫左舷側に隣接して航空整備室やATAviation electronics Technician)室が用意されている。多任務に対応できるよう、車両輸送能力(艦内に3・1/2トントラック50両やペトリオットPAC3を積載可能)が付加されており、前部エレベーター前方に第1車庫、航空機整備庫後方に第2車庫、船体中央右舷側第5甲板レベルに第1格納庫後部右舷と直通した幅4m5m?)・容量30トン以上の車両用サイドランプが用意されている。CICはアイランド直下の第2甲板レベル(ギャラリー・デッキ)にあり、正面(艦首側壁面)に横長の大型スクリーン4基が並ぶ。隣には司令部作戦室(FICFlag Information Center)があり、正面(艦首側壁面)に大型スクリーン3基が並んだ部屋と、2基が並んだ部屋で構成される。前部エレベーター前方の第2甲板レベルに設けられた多目的区画には電子会議装置を装備する。他にも錨甲板(電動油圧式投揚錨機2基、重量8.8トンのAC-14型艦首第1主錨、重量5.5トンのAC-14型前部左舷第2主錨)、搭乗員待機室(36席で、前面にモニターがありブリーフィングなどに使う。ヘリが増えたのでスペース確保のためひゅうが型のアイランド内から船体内に移した)、士官室、先任伍長室、艦長室、司令公室、司令室、多目的区画、電信室、CIWS管制室、航空事務室、医療区画、便乗者用居住区、士官寝室などが第2甲板に並ぶ。多目的区画は正面に多目的表示器3基があり、100名前後を収容、統合作戦時の司令部や指揮所、大規模災害対策本部、国際援助活動指揮所などに使用できる。医療区画は集中治療室、手術室、歯科治療室、病室数室(35床分)、医療事務室、医務課倉庫、医療用ガス機器室などを備え、人道支援・災害派遣任務に対応する。有事には多目的区画を戦時治療室として使用する。船体スポンソンも第2甲板レベルで、右舷前部スポンソンにUSC-42NORC-4E、左舷前部スポンソンに12.7mm機銃座、右舷中央スポンソンに物資補給ステーション、12.7mm機銃座、チャフ発射機、投射型静止ジャマー、左舷中央スポンソンに12.7mm機銃座、チャフ発射機、投射型静止ジャマー、右舷艦尾スポンソンに20mmCIWS、左舷艦尾スポンソンにシー・ラム発射機がある。格納庫以外に第3甲板には科員居住区、士官寝室、空調室、倉庫、整備員待機室、同じく第4甲板には錨鎖庫と居住区、第5甲板には自走式デコイ、舷梯格納庫、係留装置、係船機、倉庫が用意されている。艦尾には第3甲板レベルに全幅からややはみ出す幅のスポンソンが設けられていて、左右端に自衛兵装を搭載、第2甲板レベルの後部スポンソンと繋がっている。応急甲板は第6甲板で、中央に機関操縦室兼応急指揮所がある(主機の操縦は艦橋からも可能)。他に第1-3食堂、調理室、事務室、士官寝室、科員居住区、先任海曹室、先任海曹寝室、先任海曹事務室、前部エレベーター用レセス、航空用弾薬庫などが配置される。当初食堂には別々の調理室を配置する予定だったが、味の差が士気を乱す恐れがあるということで、1つの調理室を3つの食堂が囲む構造となった。第7甲板は第1・第2機械室、航空用弾薬庫、機器室、科員居住区、冷蔵庫、舵取機室などに充てられている。舵取り機室は床、後面、両舷側を二重防水構造とし、防水区画で囲んで抗堪性を高めた。最下層の第8甲板は第1・第2機械室、補機室、発電機室、ポンプ室、各種タンク(燃料タンク、燃料兼バラストタンク、バラストタンク、真水タンク、臨時真水タンク、JP-5タンク、汚水タンクなど)、フィン・スタビライザー機器室、倉庫、航空用弾薬庫など。機関は第1・第2機械室の間に第2発電機室兼補機室を挟んだシフト配置で、第1機械室の前に第1発電機室、第2機械室の後ろに第3発電機室があり、発電機室もシフト配置になっている。機械室は天井が第6甲板、床が第8甲板で、第1機械室には1号・2号主機と減速装置1基が置かれて左舷軸、第2機械室には3号・4号主機と減速装置1基が置かれて右舷軸を担当する。主機を収容したエンクロージャーを防振架台で支持し、減速装置も防振マスなどを使用して水中雑音低減を図った。フィン・スタビライザー機器室は第2機械室両舷にあり、将来のフィン・スタビライザー追加に備えて第1機械室両舷にもスペースが用意されている。発電機室は天井が第7甲板、床が第8甲板で、第1発電機室に1号・2号主発電機、第2発電機室兼補機室に3号主発電機、補助ボイラー、横形真空二段蒸発式真水造水装置3基(造水能力毎日60トン)、空気圧縮機、ポンプ類など、第3発電機室に4号主発電機を収容している。第8甲板の下は二重底で、間に燃料タンク、清浄燃料タンク、潤滑油タンク、汚油溜めタンク、シーチェスト(海水取水口)などがある。主機出力増大に合わせてプロペラ直径もひゅうが型より大きくなった。アイランドは右舷にあり、長さ74.4・幅8.9m、後部煙突直前に少し隙間があって前後に分かれていて、5層の甲板で構成され、前方から航海艦橋・艦長休憩室(03甲板)/通信機器室・気象海象室(01甲板)、前部煙突(第1機械室排気)、臨時燃料移送装置(01甲板)、後部煙突(第2機関室と補機の排気)、航空管制所(03甲板)/発着艦員待機室(01甲板)と並ぶ。2番艦は前後煙突間にスライド式シャッターがあり、臨時燃料移送装置や前後アイランド間の隙間を覆い隠してステルス性を向上させることが可能。航空管制所の窓はひゅうが型の運用実績から縦長型に変更しており、飛行甲板の見通しが良くなった。04甲板はOPS-50(2番艦はOPS-50A)アンテナアレイ室で、前面、前部右舷、後部左舷、後面の壁面にOPS-50/-50Aアクティブ・フェイズド・アレイ・レーダー用平面アンテナが付く。煙突には排気熱低減装置を装着して赤外線放射対策を施した。航海艦橋直上のアイランド上面にタワーマスト(水線上からの高さは50m。2番艦はマストトップが1番艦より延長された)があり、上から順にORN-6Eタカン(頂部)、OPX-11IFF(円盤状アンテナ)、NOLQ-3D-1電子戦装置(ESM部)、OPS-28F対水上レーダー1基、OPS-20E航海レーダー1基、ORC-1C-3ヘリ用データリンク(マスト最下段前面フラット)、NOLQ-3D-1電子戦装置(ECM部。マスト基部両舷)を装備する。艦橋前方右舷寄りと艦橋後部01甲板にNORA-7衛星通信装置用卵形アンテナドームを持ち、NORA-1C(アイランド右舷、第1煙突頂部後方左舷フラット)、NORQ-1(第2煙突後部左舷、飛行甲板前部右舷フラット)、NORC-4B(飛行甲板前部右舷フラット、飛行甲板後部右舷フラット)、USC-42(飛行甲板前部右舷フラット、飛行甲板後部右舷フラット)、ORQ-1C-3(マスト最下段前面フラット、第2煙突前部フラット)といった他の通信アンテナも航空作業の邪魔にならないよう大部分が右舷側に設置されている。アイランドの右舷側壁面は船体右舷壁面とは連続しておらず、キャットウォーク(舷側張り出し)が設けられていて、右舷側スポンソンに洋上補給装置とヘリ用給油装置を装備した。ただ洋上補給装置周辺のスペースが狭く、作業が難しいとみられる。臨時燃料移送装置(臨時燃料タンクに艦艇用燃料3300キロリットル収容)により他艦への燃料補給が可能だが、外舷式エレベーターが相手艦にとって少々邪魔くさい。科員居住区のベッドは2段だが、必要に応じて3段にもでき、450名を追加で乗せることが可能。搭載艇格納スペースは艦後部第4甲板両舷(11m作業艇用)と艦前部第5甲板両舷(7.5mRHIB用)で、2番艦はRCSスクリーンというシャッターにより開口部を塞ぐことが出来る。係船装置は第5甲板左舷にある。ひゅうが型の経験に鑑み、4点繋留がスムーズに行えるよう工夫を加えた。艦載戦闘システムはOYQ-12で、情報処理サブシステムOYX-1NOYQ-1C艦内統合ネットワークJSWANMOFシステム端末C2TOYQ-51-2)を装備する。ヘリ航空管制はOJN-11-2航空機運用支援装置で行う。OQQ-23バウソナーは魚雷や機雷も探知できるが、曳航ソナーや曳航式魚雷デコイの繰り出し口は無く、固有の対潜兵装も持たないため、対潜戦闘指揮装置は無い。データリンクはCDLMS、リンク11、リンク16で、アメリカ海軍との共同作戦用にGCCS-Mも装備する。NBC除染用甲板散水装置を持つ。艦内電源は6600ボルトの高電圧給配電方式とし、電力ロス低減と事故時のショート防止に配慮した。一日60トンの真水を作れる造水装置を3基装備する。艦内神社はDDH-183が出雲大社。2番艦は右舷にも車両転落防止フェンスや転落防止ネットが追加された。全長248m、飛行甲板最大幅38m(舷側エレベーター部では幅51m)、水線幅29m、深さ23.5m、海面からマストトップまで50m、海面から飛行甲板まで16.4m、吃水7.1m、基準排水量19500トン、満載排水量26000トン。主機はCOGAG方式、LM2500IECガスタービン4基、出力112000馬力、5翅油圧作動可変ピッチ式スキュードプロペラ2軸推進、舵は垂直方式電動油圧式半平衡舵2枚、最大速力30ノット。主発電機はLM500-G07ガスタービン(はやぶさ型ミサイル艇の主機と同じ)4基、合計発電容量13.6メガワット。予備として440ボルトの低電圧補助発電機が搭載されている。兵装はシーラム11連装発射機2基(RIM-116ブロック2。アイランド前部01甲板スポンソンと艦尾第4甲板左舷スポンソン)、20mmCIWSファランクス・ブロックTA2基(退役護衛艦からの流用。飛行甲板右前部スポンソン、艦尾第4甲板右舷スポンソン。2番艦はファランクス・ブロックTB2基)、12.7mm機銃銃座7ヵ所(艦尾中央フラットなど)。自衛用にMk137Mod2チャフ・フレア発射機6基(アイランド前方の第2甲板レベル両舷スポンソンに3基ずつ)、OLQ-1魚雷防御装置一式(OQQ-23のシステムの一部に組み込み。第2甲板レベル両舷スポンソンの投射型静止式ジャマーFMJ2基、第5甲板両舷レセスの自走式デコイMOD4連装発射機2基)を装備する。ヘリは標準9機(SH-60K哨戒ヘリ7機+UH-60J救難ヘリ/MCH-101掃海輸送ヘリ2機)、最大14機を搭載。乗員520名(うち司令部要員50名。女性自衛官は最大90名乗艦可)、長期便乗者数450名。20mmCIWSは後にファランクス・ブロックTBに換装予定。価格は1番艦(2011413日発注)が7843080万円。ジャパン・マリンユナイテッド横浜事業所磯子工場で建造され、1番艦DDH-183いずも(22DDH)は2015325日、2番艦DDH-184かが(24DDH)は2017322日に竣工した。20174月から20183月、DDHの航空機運用能力向上に係る調査研究で、F-35BRQ-21AMQ-8Cの運用に関する調査研究が行われた。平成31年度以降に係る防衛計画の大綱で、F-35Bの運用を可能とするよう必要な措置を執ることとなった。参考:月刊世界の艦船5,178,1710,1811,'17増刊、8,'151,1711,131,146,159,1310,1310,1412,1411,1510,163,172,19、月刊JWings10,136,15、月刊軍事研究2,166,1512,1310,1310,15

<いずも型護衛艦の運用試験(SeeRAM発射データ装置)>:防衛省がアメリカ海軍省に発注している。参考:月刊軍事研究7,18

出雲駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は島根県出雲市松寄下町1142-1JR出雲市駅からバス15分。195310月に開設され、第8普通科連隊第1大隊が岡山県の水島駐屯地から、第33会計隊第2分遣隊が海田市駐屯地から移駐し、出雲駐屯地業務隊が新編された。1954年、第33会計隊第2分遣隊が第357会計隊に改編された。195712月、千僧駐屯地から第303地区施設隊が移駐した。19621月、第13師団第13特科連隊第1大隊、第13対戦車隊、第13偵察隊が新編され、第8普通科連隊第1大隊が米子駐屯地に移った。19903月、第303地区施設隊が第7施設群第349施設中隊に改編された。19993月、第304施設隊が新編された。第13対戦車隊が第13対戦車中隊に改編された。第349施設中隊が三軒屋駐屯地に、第13特科連隊第1大隊が日本原駐屯地に移った。20043月、対戦車直接支援班、第13後方支援隊第2整備中隊偵察直接支援小隊が新編された。第304施設隊整備小隊が第104施設直接支援大隊第1直接支援隊に改編された。20083月、第13対戦車中隊と対戦車直接支援班が解隊された。2012823-27日、予備自衛官5日間招集訓練を実施。2013518日、第13飛行隊UH-1の支援を受けて部隊協力者ら31人に航空機体験搭乗を実施。728-31日、島根県西部豪雨の災害派遣に参加。85-7日、第301施設小隊の隊員10名がいずも農協新人職員に対する生活体験支援を実施。917日、島根県西部豪雨に対する災害派遣の功績により、県知事から感謝状を授与された。20153月、第357会計隊が第356会計隊出雲派遣隊に改編された。68日、西日本高速道路メンテナンス中国松江保全事務所と共同で高速道路補修訓練を実施。610日、島根県治安災害連絡協議会を開催。20178月、北朝鮮軍による弾道ミサイル連射を受け、PAC3部隊が展開を開始。2018731日、北朝鮮軍による弾道ミサイル発射の恐れが当面低くなったとして、PAC3部隊が撤収した。参考:出雲駐屯地ホームページ、JGround Vol.23MAMOR vol.116、朝雲

 <出雲駐屯地(2015年)>:第13旅団第13偵察隊、第13後方支援隊第2整備中隊偵察直接支援小隊、第4施設団第304施設隊、第104施設直接支援大隊第1直接支援隊、第312基地通信中隊出雲派遣隊、中部方面会計隊第357会計隊(326日から第356会計隊出雲派遣隊)、第132地区警務隊出雲連絡班、出雲駐屯地業務隊が駐屯している。参考:出雲駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

出雲駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。195310月、出雲駐屯地創設と共に新編された。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。2018718日、駐屯地業務で優れた功績を挙げたとして、山崎陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。参考:出雲駐屯地ホームページ、MAMOR vol.52、朝雲

<イスライ>:SS35(潜水艦)を参照。

イスラエル>:1948年に独立した。四国と同じくらいの大きさで、西に地中海、南にネゲブ砂漠と紅海、北にゴラン高原があり、北でレバノン、北東でシリア、東でヨルダン、南西でエジプトと国境を接している。北部に重要な水源であるガリラヤ湖があり、水位の記事は注目度ナンバーワンである。スキーのできるゴラン高原から海抜マイナス420mの死海まで、意外と起伏に富む地域もある。ユダヤ教徒国家で、金曜の日没から土曜の日没まではシャバット(安息日)のため公共交通機関も止まり、肉と乳製品を一緒に料理してはいけない(コーシャー)のでチーズバーガーは存在せず、豚肉禁止なのでロシア系スーパー向けの豚肉は地下養豚場で飼育され(ているという噂)、ペサハと呼ばれる祭りでは小麦製品が買えなくなるが、戒律を守る程度は自由である。子だくさんで、平均すると子供が一家に7人以上いるらしい。パレスチナ自治区とは常に戦争状態で、周りが敵だらけのため、町中を武装した兵士が歩き回り、空港の荷物チェックは世界一厳しく、スーパーの駐車場でも荷物チェックが行われ、店の出入り口は金属探知器完備、全ての住居やビルには防弾ガラスと装甲板で固めたシェルターの設置が義務付けられている。テロなどによる犠牲者は、宗教上の理由で肉片全てを回収・識別して遺族に返却する必要があるため、DNA鑑定能力が非常に高く、海外の大規模災害で発生した外国人犠牲者を判別するためにイスラエル警察鑑識課が派遣されることもある。1979年、エジプトと平和条約を締結した。1994年、ヨルダンと平和条約を締結した。1993年、PLOと相互承認を行い、オスロ合意に署名した。参考:MAMOR vol.57、月刊軍事研究5,10

イスラエル海軍>:1967年からサール級ミサイル艇12隻を建造。1973年、レシェフ級ミサイル艇が竣工開始。1980年からサール4・5級ミサイル艇8隻が竣工。1999-2000年、ドルフィン級潜水艦3隻が竣工。2011315日、サール5型コルベットが対艦ミサイルなどの兵器を運搬していた貨物船ビクトリア号を地中海で拿捕した。イラン製60mm迫撃砲弾、120mm迫撃砲弾、ナスル1対艦ミサイル6発、ケルビンヒューズ社製海洋戦術レーダー2基が積み込まれており、イランがハマス向けに輸送していたものらしい。参考:月刊軍事研究9,11、月刊丸12,92

 <イスラエル海軍(1977年)>:兵力平時5000名(うち徴兵1000名)、有事6000名、海軍奇襲攻撃隊300名。レシェフ級ミサイル艇6隻、サール級ミサイル艇12隻、小型哨戒艇40隻、上陸用舟艇12隻、ウェストウィンド1124N哨戒機3機を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イスラエル海軍(1989年)>:兵力9000名(うち徴兵3000名)、予備役1000名、海軍コマンドー300名。ハイファ、アシュドド、エイラートに基地がある。ガル級潜水艦3隻、アリヤ級ミサイル艇2隻、ロマト級ミサイル艇2隻、レシェフ級ミサイル艇8隻、ミブタク/サール級ミサイル艇10隻、シムリト級水中翼ミサイル艇3隻、ドボラ級ミサイル艇1隻、スーパードボラ級高速艇4隻、ダバール級高速艇31隻、戦車揚陸艇6隻、機械化揚陸艇3隻、哨戒艇補給艦1隻、輸送艦1隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イスラエル観光バス乗っ取り事件>:1978311日、安息日の夕方にテルアビブとハイファの間にある海岸へファタハ特攻隊13人がゴムボートで上陸し、タクシーを強奪、次いで観光バス2台を占拠し、テルアビブに向かった。イスラエルは阻止線を張り、バスのタイヤを全て破壊して前進を止めたが、犯人の一部が人質に銃を乱射した上、バスに向け対戦車ロケットを発射、人質33人が死亡し、82人が負傷した。犯人は9人が殺害され、2人が逮捕された。参考:月刊軍事研究7,97

イスラエル航空宇宙軍>:19543月、フランスからミステールVを導入することにしたが、性能不足が判明したため、ミステールWA(ミステールWB?)に切り替えた。19554月、ミステールWAを12機導入。12月、ミステールWAを36機導入。19617月からミラージュVCを72機導入。1968年、A-4攻撃機の配備を開始。1969年、F-4E戦闘機、ヤスール救難ヘリの導入を開始。197611月、F-15A/B戦闘機の引き渡しが始まった。19801月、F-16戦闘機の導入を開始。1981213日、シリア領空内で偵察飛行していたRF-4E偵察機2機に対し、シリア空軍機がスクランブル発進した。単機偵察でなく2機だったのは囮役を務めていたかららしく、CAP中のF-15A戦闘機が直ちに応戦、レーダー探知距離を大きくするため高度50000フィートに上昇してシリア軍機を捉え、一気に敵機より下に潜ってロックオンしやすいルックアップ・シュートアップの態勢を取り、射距離25マイルで1発目、21マイルで2発目のAIM-7を発射し、3発目の発射直後に敵機の爆発を確認した。シリア軍側のコメントは無く、機種は不明だが、レーダーの航跡からMiG-25だったらしい。729日、シリアを偵察していたRF-4Eにシリア空軍MiG-21戦闘機2機とMiG-25戦闘機2機がスクランブル発進してきたため、CAP中のF-15A戦闘機1機が迎撃してMiG-25戦闘機が視程内に入ったところでAIM-7を発射、1発で撃墜した。その間にMiG-21戦闘機2機は離脱。残るMiG-25戦闘機は戦闘空域離脱中に視程外からF-15A戦闘機に向けR-40Rを発射したが、チャフと機動でかわされ、その間に加速して去った。1982年、アルゼンチンにミラージュVCを12機売却。831日、シリア空軍MiG-25Rが高高度高速偵察のためベイルート上空に侵入。ホーク地対空ミサイルでダメージを与えたところをF-15A戦闘機がAIM-7で仕留めた。19981月、F-15I戦闘機の導入を開始。2005年、AH-64Dの配備を開始。200796日、シリア核施設を爆撃。2010年、アイアンドームの配備を開始。815日、F-16A/Bの後継としてF-35の導入を決定、取り敢えず20機分27億ドルの予算が付いた。117日、ヒズボラやハマスがUAVの映像を傍受していることが情報部などの調査の結果明らかとなり、UAVからの通信を全て暗号化することになった。2012年にダビデズ・スリングの配備を開始する予定。2012216日、次期高等練習機としてM-346の採用を公表した。2014年から配備予定。106日、イスラエル領空に35マイルほど侵入したヒズボラの偵察用UAVを撃墜した。領内にかなり入り込まれているが、撃墜地点に民家の少ないところを選んだのか、防空システムの隙を突かれたのかは不明。2012年末、アメリカにGBU-31JDAM5175発(Mk84ベース3450発、BLU-109/Bベース1725発)、GBU-38JDAM1725発、GBU-39SDB3450発、信管35500発、スペア部品、訓練・支援器材を要求していることが判明した。2013年、度々シリアを爆撃した。C-130J-30輸送機の引き渡しが開始された。2014127日、シリア軍施設2カ所を爆撃した。シリア内戦とは無関係で、脅威になりそうな施設を破壊したかっただけのようである。レバノンがイスラエル機による領空侵犯を主張しており、レバノン経由で目標に向かったらしいが、イスラエル側は爆撃の有無を含め何も発表していない。201512月、A-4攻撃機シリーズが全機退役した。2017118日、アローV地対空ミサイルが配備された。126日、F-35I戦闘機がIOCを獲得した。2018210日、第202飛行隊所属F-16I戦闘機がシリア上空で被弾し、イスラエル領内に墜落、脱出した乗員2名のうち1名が重症を負った。49日、シリアのティヤス空軍基地を空対地ミサイルで爆撃した。シリア内戦とは関係無く、ヒズボラの武器供給拠点となっていたため攻撃したらしい。1116日、欧州F-35ユーザー・グループ作業部会を開催し、イギリス、イタリア、オランダ、デンマーク、ノルウェーが参加、F-35の運用に関する意見交換を行った。参考:月刊JWings11,105,121,133,132,156,182,193,19、月刊航空情報11,10、月刊エアコマンド6,94、月刊軍事研究6,116,17、月刊丸9,03、月刊航空ファン9,16、世界の傑作機No.172、世界航空機年鑑2018-2019

 <イスラエル航空宇宙軍(1977年)>:兵力平時21000名(うち徴兵2000名)、有事25000名。F-15戦闘機5機、F-4E戦闘機165機、ミラージュVCJ/BJ戦闘機30機、クフィール戦闘機100機、A-4E/H/M/N攻撃機235機、RF-4E偵察機12機、EV-1偵察機2機、B707輸送機10機、C-130E/H輸送機24機、C97輸送機12機、ノラトラ輸送機20機、C-47輸送機10機、KC-130H空中給油機2機、アラバ14機、Do28輸送機15機、アイランダー10機、Do27軽飛行機10機、セスナU206軽飛行機25機、ターボポーター2機、TA-4H練習機24機、マジステール練習機80機、ミステールW練習機、シュペルミステール練習機、クイーンエア練習機20機、スーパーカブ練習機20機、シュペルフルロン12機、CH-53Gヘリ28機、AH-1G攻撃ヘリ6機、AB205Aヘリ40機、AB206ヘリ25機、UH-1Dヘリ30機、S-65ヘリ15機、アルエートU/Vヘリ30機、ホーク地対空ミサイル90基(15個大隊)を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イスラエル航空宇宙軍(1980年)>:F-15AF-4E/RF-4E250機、A-4E/H/M/N280機、ミラージュVCJ50機、クフィルC2140機、シュペール・ミステールB.2SO-4050ボウターUA/N10機、E-2Cを4機、EV-1を2機、C-130E/H30機、B707-13110機、C-4710機、KC-97G10機、IAI-201アラバを14機、モデル1123ウエストウィンドを3機、Do28DCH-47Cを8機、CH-53D/G29機、CH-3C12機、SA-321K12機、アルエートU/Vを20機、ベル205A40機、UH-1D30機、ベル206を5機、ミラージュVBJを5機、マジステール練習機70機、PA-18スーパーカブを150機、モデル80クインエアを20機、Do2710機、U-206スカイワゴンを25機、PC-6Aを2機保有している。参考:ザ・マーチ18

 <イスラエル航空宇宙軍(1989年)>:兵力28000名(うち徴兵19000名)、予備役9000名。F-15A戦闘機35機、F-15B戦闘機2機、F-15C戦闘機11機、F-15D戦闘機5機、F-4E戦闘機112機(+保管中13機)、クフィールC2/C7戦闘機95機(+保管中75機)、F-16A戦闘機62機、F-16B戦闘機8機、F-16C戦闘機51機、F-16D戦闘機24機、A-4H/N攻撃機121機(+保管中14機)、RF-4E偵察機14機(+保管中10機)、E-2C早期警戒機4機、B707電子戦機6機、RU-21A電子情報収集機3機、RU-21D電子情報収集機6機、EV-1E電子戦機2機、IAI-201電子情報収集機4機、IAI-1124海上哨戒機5機、B707空中給油機5機、KC-130H空中給油機2機、B707輸送機3機、C-130H輸送機24機、IAI-201輸送機10機、IAI-1124輸送機3機、C-47輸送機20機、アイランダー連絡機4機、Do-27連絡機6機、Do-28D輸送機10機、セスナU-206C連絡機41機、セスナ172連絡機2機、セスナ180連絡機2機、クイーンエア80連絡機12機、TA-4H/J練習機27機、クフィールTC2/7練習機5機、F-4E練習機16機、マジステール/ツジット練習機80機、スーパーカブ練習機35機、セスナ152練習機6機、AH-1G/S攻撃ヘリ42機、ヒューズ500MD武装ヘリ35機、HH-65A捜索ヘリ2機、CH-53A輸送ヘリ2機、CH-53D輸送ヘリ33機、SA-321汎用ヘリ9機、UH-1D汎用ヘリ17機、ベル212汎用ヘリ58機、ベル206A汎用ヘリ40機、MIM-23ホーク/改ホーク大隊15個を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イスラエル国防軍>:元は1930年代からパレスチナで独立運動を行っていたユダヤ人ゲリラ組織で、1948年のイスラエル独立時に軍に昇格した。基本的に陸軍中心の軍隊で、その下に海上部隊と航空宇宙部隊(航空戦力を全て運用する)を隷属させており、両部隊と同レベルの陸軍司令部が出来たのは1998年のことである。陸軍部隊は北部(対シリア・レバノン)、中部(対ヨルダン)、南部(対エジプト・ガザ地区)、本土戦線(対テロ及び捜索救難)の4つのコマンドに分かれており、戦時には2-3個師団(任務に応じてそれぞれ2-3個の旅団を集めて編成される)が配属される。徴兵制(女性含む)を布いており、一生を教典研究に捧げるユダヤ教超正統派の男性と、アラブ系イスラエル人を除いて兵役に就く。設立当初は小火器と装甲化トラックしか持っておらず、パレスチナ駐留イギリス軍からあらゆる非合法手段(横流し、窃盗、詐欺など)で兵器を強奪、ユダヤ人武装集団ハマナが廃車から再生したM4戦車1両も配備した。201096日、ロシア軍との軍事協力に関する協定に署名した。シリアやヒズボラが弾道ミサイルや長射程ロケットを配備するようになったため、基地の重要施設や弾薬庫などの防御力を強化することになり、工事が終わるまで軍需品を分散格納しており、1つの基地で補給を終わらせることが出来なくなった。201112月、特殊部隊による遠距離(国外遠方)作戦部隊である縦深軍団の編成を発表。2016717日、シリアからゴラン高原にヒズボラのものとみられるUAV1機が侵入したため、パトリオット2発と空対空ミサイル1発を発射したが、全て外れ、地上に落ちたパトリオットの破片で1人が軽傷を負った。UAVはそのままシリアに戻っている。2017317日、シリア領空に侵入したイスラエル軍機4機に対してシリア軍が発射したS-200地対空ミサイルがイスラエル領内に入る恐れがあったため、アロー2ミサイルで撃墜した。参考:月刊軍事研究11,0612,1012,168,17、月刊丸12,10、月刊PANZER5,119,12

 <イスラエル国防軍(1989年)>:総兵力141000名(うち徴兵110000名)、予備役504000名。核弾頭100個程度を保有しているとみられ、航空機、ジェリコ1/2弾道ミサイル、ランスで運用するらしい。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イスラエル国防軍(2011年)>:現役176500名、予備役445000名。戦車3340両、装甲車7830両、水上艦艇72隻、戦闘機441機、攻撃ヘリ79機などを保有する。参考:MAMOR vol.57

イスラエル総領事館占拠事件>:1975428日、南アフリカのイスラエル総領事館で、24歳のイスラエル人警備員が拳銃で館員を脅し、21人を人質に取って総領事館を占拠、南アフリカ軍の軍服と脱出用ヘリ、イスラエルまでの安全を要求した上、次席総領事を射殺した。これに対して南アフリカの特殊部隊が周辺を包囲。犯人が発砲したために銃撃戦になり、人質の他、巻き込まれた通行人など37人が負傷した。特殊部隊が突入すると犯人は降伏し、逮捕された。参考:月刊軍事研究7,95

イスラエル陸軍>:第2次大戦終結直後からM2/M3ハーフトラックを購入。19486月、M4戦車を入手。1956年、M50スーパーシャーマンの改造を開始。1960年代初め、西ドイツから中古M48A1戦車改40両を導入。19628月、M51アイシャーマンの引き渡しが始まった。1965年、アメリカからM48A1/A2戦車を100両ずつ導入。1969年、M4中戦車改造160mm自走迫撃砲を配備。1976年、メルカヴァMk1の量産を開始。1983年、メルカヴァMk2の引き渡しが始まった。1984年からピューマ戦闘工兵車を運用。1989年、メルカヴァMk3の量産を開始。2004年、メルカヴァMk4を実戦配備。2008年、ナメル重装甲兵員輸送車を配備。201712月、モトローラ社製スマートフォン(5インチスクリーン、8メガピクセルカメラ付き)の配備を開始。敵に鹵獲されても情報漏洩しない特別なセキュリティが施されているらしい。参考:月刊PANZER6,146,18、月刊軍事研究5,18

イスラエル陸軍(1977年)>:兵力138000名(うち徴兵120000名)、動員時375000名。機甲旅団20個、機械化旅団9個、歩兵旅団9個、空挺旅団5個からなる。センチュリオン1000両、M48戦車650両、M60戦車810両、T-54/55戦車400両、T-62戦車150両、チャリオット中戦車、PT-76軽戦車65両、AML-60/AML-90装甲車15両、PBYラムテ装甲車、M2/M3ハーフトラック/M-113/BRDM/BTR-40/BTR-50P/OT-62/BTR-60P/BTR-152装甲兵員輸送車4000両、105mm自走砲、M109自走砲500門、175mm自走砲60門、203mm自走砲、120mm/122mm/130mm/155mm榴弾砲450門、ランス/ゼエブ地対地ミサイル、122mm/135mm/240mmロケット砲、81mm/120mm/160mm迫撃砲900門を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イスラエル陸軍(1989年)>:兵力104000名(うち徴兵88000名)、予備役494000名。軍団司令部2個、機甲師団3個、機械化歩兵旅団5個、地域歩兵師団司令部3個、ランス地対地ミサイル大隊1個、M-110自走砲大隊3個からなる。センチュリオン1080両、M-48A5戦車561両、M-60/M-60A1/M-60A3戦車1300両、T-54/-55138両、T-62戦車115両、メルカヴァT/U戦車600両、ラムタRBY/BRDM-2/M-2/M-3偵察車400両、M-113装甲兵員輸送車5900両、ナグマショット装甲兵員輸送車80両、BTR-50P装甲兵員輸送車、M-2/M-3ハーフトラック4400両、105mm牽引砲M-10170門、130mm牽引砲M-46109門、122mm牽引砲D-30100門、155mm牽引砲ソルタムM-68/M-71300門、155mm牽引砲M-839P/M-845P155mm自走砲L-33155mm自走砲M-5075門、155mm自走砲M-109A1/A2530両、175mm自走砲M-107140両、203mm自走砲M-11036両、BM-21LAR-160BM-24MAR-29081mm迫撃砲、120mm迫撃砲230門、160mm迫撃砲、ランス地対地ミサイル12基、ジェリコ1、TOW/ドラゴン/ピケット81mm/マパッツ対戦車ミサイル、82mmロケットランチャーB-300、カールグスタフ、106mm無反動砲250門、M-163自走対空機関砲、M-48自走対空ミサイル、ZU-23-2ZSU-23-4自走高射機関砲50門、37mm高射機関砲、70口径40mm高射機関砲、レッドアイを保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イスラム過激派>:サラフィー派が多く、当時のアラビア半島での乱世を生き抜くための戦闘宗教的側面を強調し、その解釈をそのまま現代に持ち込んで行動するため、現代文化の尺度を当てはめると「過激派」になる(確信犯である)。本人達にしてみれば唯一神の言葉に従い実行しただけであるから、過激という認識は無い。参考:月刊軍事研究12,14

イスラム協会派>:アフガニスタンのラバニ大統領とマスード前国防相が創設した、イスラム教スンニ派原理主義を奉ずる武装組織。タジク人が主体で、ブルハヌディン・ラバニを精神的指導者とする。ソ連軍撤退まではアメリカCIA及び同胞のスンニ派勢力から支援を受けており、ヘクマチアル派とは一貫して敵対関係にあった。共産党政権崩壊後に首都カブールを押さえて暫定政権を樹立するが、ヘクマチアル派及びドスタム派と激しい内戦を行い、その後のタリバンとの戦いで敗退、北部地域に逃れて北部同盟軍の中核となった。参考:月刊軍事研究8,01

<イスラム原理主義>:第1次大戦後、石油需要の高まりと共にアラブ諸国に巨額の富が舞い込み、それに絡む汚職・腐敗が進んだことに対し反発したイスラム教信者の一部が起こした、シャリーア(イスラム法)の全面適用を求め、アラブ諸国の世俗政権やそれを陰であおる西欧社会と対決する過激な運動。テロなどの武装闘争を繰り広げたり、イランやスーダンなどでは国家を運営したりしている。神聖な大義(聖戦)のために戦い死ぬこと(殉教)は神と信仰に対する最高の証で、異教徒の侵略者やそれと結託するものは殺害も辞さないとする。参考:月刊軍事研究8,01

イスラム国>:ISIslamic State)と略す。イラク・レバント・イスラムの国(ISILIslamic State in Iraq and the Levant)とも称し、旧名からISISIslamic State in Iraq and al-Shame、イラクとシャームのイスラム国)と略されることもある。イラク・レバント・イスラムの国のアラビア語略からダーイッシュ(Daeshal-Dawla al-Islamiya al-Iraqal-Sham)とも呼ばれる。大元はザルカウィ率いる一神教聖戦団で、200410月にイラク聖戦アルカイダ機構、2006年初めにムジャヒディン評議会と改称したが、6月のザルカウィ爆殺を受けてトップになったエジプト人イスラム過激派のアブー・アイユーブ・アル・マスリが他の武装勢力とも合流して国を作ったと主張、10月にイラクのイスラム国を自称した。首長はアブ・ウマル・アル・バグダーディで、アブー・アイユーブ・アル・マスリは戦争相に就任している。また、ムジャヒディン評議会でイスラム法委員だったアブバクル・バグダディ(本名はイブラヒム・アワド・イブラヒム・アリ・ムハンマド・アルバドリ・アルサマライ)がイスラム法委員長兼最高指導評議会委員となった。スンニ派武装勢力で、厳格なシャーリア(イスラム法)に基づく国家建設を謳い、斬首など残虐な処刑や処罰を行うのは従来通り。少年兵を強制徴募したり、女性を人身売買したりといった事も日常茶飯事で、これらもシャーリアに基づく正しい行為であると信じ、罪悪感どころか誇りにしているのでタチが悪い。動画サイトやツイッターなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)を多用し、斬首や銃殺などの残虐映像でフォロワーを釣って(ワールドカップのツイッターアカウントに生首の画像を放り込んだこともある)ネット上に拡散させ、わざと炎上させて更に目立たせるというプロパガンダ法を確立、SNS戦略で最も成功を収めるテロ組織ともいわれる。この宣伝戦略に引っかかったスンニ派スポンサーや、シリアとイラクで占領した油田・銀行、占領地の住民からの上納金(拒否すれば即処刑)、人質の身代金、遺跡盗掘による出土品密輸などにより大量の資金を獲得しており、最も豊富な資金を持つテロ組織とも呼ばれている。また、動画サイトで外国人義勇兵を募集しており、中二病的な残虐な方針が共鳴したのか世界中から数千人から数万人単位の義勇兵(2014年末現在、チュニジア3000人、サウジ2500人、モロッコ1500人、チェチェンを中心とするロシア800人、フランス700人、イギリス500人、トルコ400人、ドイツ300人、アメリカ100人など80カ国15000人とされる。大部分はイスラム系)を得た。ただ情報管理が徹底していないようで、イスラム国の戦闘員が作戦内容まで勝手にツイートしまくっており、自分で自分の首を絞めている一面もある。中東での支配地域を広げる一方、世界各地で支持者によるテロを繰り広げているが、イスラム国中枢が計画を立案するテロは少なく、イスラム国を支持する地元テロ組織が計画したり、支持者やシンパが独自に行ったりしているものが多い。本当はイスラム国支持でもイスラム過激派でも無い便乗犯もいるのでややこしい。設立時期はアメリカ軍とイラク政権の治安活動が強化された頃で、活動基盤となる地域住民からの支持も無く、戦闘員は1000人程度、暫くは活動も目立たなかったが、イラク政権によるスンニ派に偏った取り締まりにより不満の鬱積したスンニ派住民から次第に支持を取り戻し、フセイン政権時代のイラク軍幹部も取り込んでいった。2009819日、バグダッドで自動車爆弾3両や迫撃砲などによるテロを起こし、101人を殺害、563人を負傷させた。1025日、バグダッドでミニバンとバスに爆薬を積んで政府関係施設に対する自爆テロを起こし、155人を殺害、721人を負傷させた。128日、バグダッドで自動車爆弾5両により警察や政府施設を攻撃し、127人以上を殺害、440人以上を負傷させた。20104月、アメリカ軍とイラク軍によるティクリート掃討作戦でアブ・ウマル・アル・バグダーディとアブー・アイユーブ・アル・マスリが死亡し、アブバクル・バグダディが首長(最高指導者)となった。20114月に勃発したシリア内戦に乗じて根拠地と兵器を手に入れ、シリア北部で一気に勢力を拡大した。201110月、アメリカが特別手配国際テロリストに指定し、1000万ドルの賞金を掛けた。20134月、シリアのアルカイダ系イスラム過激派アル・ヌスラ戦線の一部を吸収してイラクとシャーム(シリア・レバノン地域を示す現地語)のイスラム国に改称。引き続き最高指導者を務めるアブバクル・バグダディの下で活動を過激化させ、シリア政府軍とも反政府軍とも敵対してシリア内戦が三つ巴の状況に陥った。アル・ヌスラ戦線との合併はアル・ヌスラ戦線指導者に無断で実施したため、アル・ヌスラ戦線と敵対することになり、アルカイダを破門されている。反政府側の仲間割れによる弱体化を狙ったシリア政府がイスラム国への攻撃の手を緩めたため、シリア北部や東部で勢力を拡大した。

20141月、シリアと国境を接するイラク西部を制圧。524日、ベルギーのブリュッセルにあるユダヤ博物館前でイスラム国義勇兵が銃を乱射し、4名を殺害。6月、イラン革命防衛隊陸軍特殊部隊クッズがイラクのバグダッドに現地調整本部を設け、対イスラム国作戦を開始。マリキ政権に不満を持っていたスンニ派勢力やフセイン政権残存勢力の支援を得てイラク北部のスンニ派トライアングルで蜂起し、1000人でイラクのモスルに攻め込んだ。ここには30000名のイラク軍・警察組織が配置されていたが、士気が低すぎて脱走や寝返りが頻発し、610日にモスルを制圧した。611日、イラクのティクリートを制圧。615日、イラクのタルアファルを制圧。621日、イラクのカイムにあるシリアとの国境検問所を制圧。624日、シリア政府軍がイラク領内のイスラム国拠点を爆撃した。629日、イラクとシリアに跨るイスラム国の樹立を勝手に宣言した。この際、アル・バグダーディをイスラム全体の指導者(ムハンマドの後継者であるカリフ)であると称しているが、これにはイスラム過激派含め誰も賛同していない。630日、シリア東部アル・ラッカで鹵獲兵器による軍事パレードを実施。スカッドミサイル、装甲HMMWVM198榴弾砲などが行進した。新生イラク軍の士気が低すぎて敵前逃亡が多発しまくっており、モスルでは1個師団相当の武器弾薬がイスラム国側に鹵獲されたともいわれる。7月、ロシアとイランがSu-25をイラク空軍に供与。8月、イラク北部クルド人自治区に攻勢をかけ、ヤジディ教徒の村を襲撃して虐殺に入ったため、生存者は山岳地帯への脱出を余儀無くされた。イスラム国が拘束していたアメリカ人ジャーナリストを斬首殺害し、映像をインターネットで公開した。8月、イランがイラク国内のクルド人勢力に支援を開始。87日、イスラム国によるイラク北部での少数民族虐殺を防ぐとして、アメリカのオバマ大統領が避難民への救援物資空中投下とイスラム国に対する限定爆撃作戦(1015日にOperation Inherent Resolveと命名)許可を表明した。作戦域を担当する第5艦隊にはジョージ・ブッシュ空母打撃群(CVN-77ジョージ・H・Wブッシュ、第8空母航空団、攻撃原潜、第22駆逐隊イージス駆逐艦3隻、補給艦)がおり、直ちにTF50(第50任務部隊)に組み込まれた。また、支援のためマキン・アイランド揚陸即応群(LHD-8マキン・アイランドなど揚陸艦3隻、第1海兵遠征隊)をTF51に組み込んだ。88日、ペルシャ湾に展開するCVN-77ジョージ・H・WブッシュからCVW-8/VFA-213所属のF/A-18F戦闘機2機が出撃し、イラク北部のアルビルに攻勢を掛けていたイスラム国に対して500ポンド級ペイブウェイ誘導爆弾を投下した。MQ-9も攻撃に参加したとみられる。地上軍は投入していないが、軍事顧問という名目でアメリカやイギリスの特殊部隊がクルド人自治区に1000名規模で派遣されているといわれる。818日、シリア北部の街で湯川遙菜氏を拘束した際の映像を動画サイトにアップロードした。B-1B爆撃機がイラク北部モスルのダムを破壊しようとしていたイスラム国部隊を爆撃した。819日、拘束していたアメリカ人ジャーナリストを爆撃の報復として斬首する映像をインターネットに公開した。92日、アメリカ人の人質を斬首する映像をインターネットに公開した。910日、アメリカがシリア領内への爆撃を表明。911日、サウジアラビアでアメリカのケリー国務長官と湾岸協力会議参加国外相による会談が開かれ、イスラム国対処での連携を表明した。913日、拘束していたイギリス人人道支援活動家を処刑する映像を流した。914日、オーストラリアがイラクへの爆撃参加を表明。918日、シリア北部のクルド人居住地域に対し、大規模攻勢を開始。フランス大統領がイラクへの爆撃参加に言及。フランス空軍ラファールCがRecco-NG偵察ポッドを積んでイラクのモスル付近にあるイスラム国施設の偵察を実施。919日、イスラム国に反対する高位イスラム法学者が、最高指導者アブバクル・バグダディに対し、連名で公開書簡を提出、コーランやハディースの一部を恣意的解釈することを止め、残虐行為を停止するよう呼びかけた。フランス空軍ラファールCがイラク北部モスル周辺をGBU-12レーザー誘導爆弾で爆撃した。921日、フランス軍がバグダッド近郊で近接航空支援を行い、イスラム国勢力に損害を与えた。922日、イスラム国報道官がツイッターでアメリカ、オーストラリア、カナダ、フランスを名指しして各国民の殺害を呼びかけた。アルジェリアでフランス人を人質に取り、イラクへの爆撃停止を要求する映像を流した。923日、オーストラリアのメルボルン郊外でイスラム国支持者とみられる18歳の男が警官2人をナイフで刺し、射殺された。アメリカがシリア国内のイスラム国拠点に対する爆撃を開始。アメリカ空軍F-22A(初実戦参加)、F-15EF-16B-1BMQ-1MQ-9、アメリカ海軍F/A-18C/E/F、トマホーク巡航ミサイル、サウジアラビア空軍F-15S、バーレーン空軍F-16AUAE空軍F-16U、ミラージュ2000-9、ヨルダン空軍、カタール空軍ミラージュ2000-5が参加し、シリア北部のカイム近郊とイラク北部を爆撃した。オーストラリアがUAEのアル・ミナット基地にF/A-18F戦闘機6機とE-7A早期警戒管制機1機を派遣。シリア時間0330頃、紅海のDDG-51アーレイ・バークとペルシャ湾のCG-58フィリピン・シーがトマホーク計47発を発射。ただし目標はアルカイダ系テロ組織ホラサンの施設だった。0400頃、F-22Aブロック35/インクリメント3.1UAEアル・ダフラ基地の第27遠征戦闘飛行隊所属。第95戦闘飛行隊所属?。GBU-32JDAM搭載)、F-15E(第48戦闘航空団)、F-16CB-1B爆撃機(カタールのアル・ウデイド基地の第379遠征航空団遠征爆撃飛行隊)、MQ-9無人攻撃機などがシリア北部のイスラム国関連施設を爆撃。B-1Bによる第二次ミッションでは爆撃を終えたF-22A戦闘機2機が空中給油後にそのまま護衛を務めている。0700頃、ペルシャ湾のCVN-77ジョージ・H・W・ブッシュに搭載されたCVW-8がシリア東部やシリア・イラク国境付近のイスラム国関連施設を爆撃。925日、サウジアラビアとUAEが攻撃に参加。926日、イギリス、ベルギー、デンマークの議会が作戦参加を承認。ベルギー空軍F-16AM戦闘機6機がヨルダンのアル・アズラク基地に展開。927日、ヨルダンが航空作戦に参加。88日から929日までに有志連合は爆撃により戦車10両、装甲車68両、野砲8両、テクニカル124両、ソフトスキン59両、陣地・指揮所66カ所、戦闘部隊15個、武器弾薬庫22カ所、製油施設12カ所を破壊した。930日、イギリスのトーネードGR.4戦闘機2機が爆撃を実施。10月、イラク当局がイスラム国による塩素ガスの使用を化学兵器禁止機関に通報した。101日、ベルギー空軍F-16AM戦闘機がイラク西部の偵察を実施。オーストラリアがE-7Aによる航空管制を開始。102日、オランダ議会が作戦参加を承認。デンマークがF-16戦闘機4機をクウェートのアル・アルサレム基地に展開。オーストラリアのF/A-18FISR任務を開始。103日、オーストラリアとカナダが作戦参加を決定。オランダ空軍F-16AM戦闘機8機がヨルダンのアル・アズラク基地に展開。105日、ベルギー空軍F-16AM戦闘機がイラク西部のイスラム国拠点を爆撃。オランダ空軍F-16AM戦闘機が偵察任務を開始。106日、シリア北部クルド人居住地域中心都市のコバニに侵入。警視庁公安部がイスラム国への参加を計画していた26歳の北大生を私戦予備・陰謀罪の容疑で任意事情聴取し、関係先を家宅捜索した。春に秋葉原の古書店でイスラム国メンバー募集の張り紙を見て応募したもので、元同志社大学教授のイスラム法学者の紹介を受け、23歳の千葉県在住アルバイター、同行取材のジャーナリストと共に8月に渡航する予定だったが、この時は都合で中止し、107日に1人で渡航することにしていた。関連人物も含めて特に思想信条的な背景は無く、単に加わってみたかっただけのようである。107日、オランダ空軍F-16AM戦闘機がイラクのイスラム国拠点を爆撃。108日、オーストラリア空軍F/A-18F戦闘機1機がイスラム国指揮統制センターに爆弾2発を投下。1013日、コバニの半分を制圧。88日から1013日までに有志連合はイラク領内で286ソーティ、シリア領内で147ソーティをこなし、爆弾955発を投下した。1014日、イスラム国がイラクのアンバル州の8割を制圧。オーストラリア空軍F/A-18F戦闘機4機がKC-30Aの空中給油支援を受けてイラク北部の施設を爆撃。1015日、アメリカ軍が作戦名をインヒアラント・リゾルブ(Operation Inherent Resolve)に決定したと発表。ちなみにイギリスはシェーダー(Shader)、オーストラリアはオクラ(Okra)、カナダはインパクト(Impact)、フランスはシャマル(Chammal)という作戦名である。CVN-77ジョージ・H・W・ブッシュ空母戦闘群がCVN-70カール・ヴィンソン空母戦闘群と交代。1020日、イラク北部クルド人自治区15カ所で攻勢を開始。オーストラリア空軍E-7Aが空中指揮統制支援を実施。カナダのモントリオールでイスラム国支持者がカナダ軍兵士2名を車で轢き、1名を殺害した。1022日、コバニ市主要部をクルド人民防衛隊に奪還された。118日、イラク北部のモスル近郊でアメリカ軍がイスラム国幹部の車列を爆撃し、数名を殺傷した。イスラム国首長のアル・バグダーディが重傷を負ったという説もあるが、詳細不明である。1123日、イラン空軍F-4E戦闘機がイランと国境を接するイラク東部のディヤラ県に展開するイスラム国勢力を爆撃した。アメリカなどとの連携ではなく、イランへの波及を防ぐための独自作戦とみられる。1130日、アメリカ空軍F-16戦闘機1機が基地への帰投中に墜落事故を起こし、パイロット1名が死亡した。12月、イラクのディヤラ県にあるイスラム国拠点をイラン空軍F-4戦闘機が攻撃した。1224日、シリア北部ラッカ近郊でヨルダン空軍F-16AまたはF-16AM戦闘機1機が墜落し、パイロットがイスラム国に拘束された。有志連合軍代表のアメリカ中央軍は機体トラブルによるもの、イスラム国は9K32SAMで撃墜したものとしている。1231日までにアメリカ軍航空機は4981ソーティを行い、うち1411ソーティで兵装を使用した。

201517-9日、フランス新聞社シャルリー・エブドとユダヤ系食料品店がイスラム国前身組織とイエメン過激派に接点を持つテロリストの襲撃を受け、17人が殺害された。17-18日、フランス軍ラファール戦闘機とミラージュ2000D戦闘機が45ミッションを行い、10個のイスラム国目標を無力化した。113日、空母シャルル・ドゴール、フォルバン級ミサイル駆逐艦シュヴァリエ・ポールなど3隻からなる空母機動部隊がフランスから出撃し、紅海に向かった。120日、湯川遙菜氏と後藤健二氏を人質に取り日本政府に2億ドルを要求。124日、アメリカ中央軍がフセイン政権時代の化学兵器開発製造担当者アブ・マリクを爆撃により殺害した。23日、捕虜としていたクウェート空軍F-16パイロットを処刑したと発表。25日、ヨルダン空軍が航空攻撃を再開し、F-16A/B戦闘機によりシリアのハサカーにある拠点を爆撃した。214日、デンマークのコペンハーゲンで、パレスチナ系デンマーク人が風刺漫画家らの集会を襲撃し、1人を殺害。215日、キリスト教コプト教徒のエジプト人出稼ぎ労働者21人を殺害する映像をネット上に流した。216日、エジプト空軍F-16戦闘機6機がリビアのシルトにあるイスラム国拠点を爆撃。リビア空軍がリビアのデルナにあるイスラム国拠点を爆撃。3月、アメリカが指揮偵察分野など部分的な地上部隊投入を決定。イラク政府軍とイランの支援を受けたシーア派民兵がティクリート奪還作戦を開始。作戦指揮官はイラン革命防衛隊陸軍特殊部隊クッズのソレイアニ司令官だったといわれる。318日、チュニジアでイスラム国系イスラム過激派アンサール・シャリアが博物館襲撃事件を起こした。326日、イギリス国防省がセンチネルR1偵察機2機の中東配備を発表した。41日、ティクリートから撤退。ただティクリートを制圧したシーア派民兵がスンニ派住民に暴行と掠奪を行い、イラク政府軍兵士もこれに便乗していて、住民の反政府感情を逆撫でしている状況である。48日、カナダ空軍が初参加し、CF-188A戦闘機2機がシリアのイスラム国拠点を爆撃した。415日、イラク西部アンバル州の州都ラマディに攻勢を開始。517日、ラマディを制圧した。7月、トルコが国内からのアメリカ軍機出撃を容認(ただしUAVLSRS搭載P-3Cによる偵察活動は以前から黙認していた)。720日、トルコ南部スルチでイスラム国支持者によるとみられる自爆テロが発生し、32人が死亡。トルコ軍がイスラム国(とクルド労働者党)への爆撃を開始した。728日、NATOが緊急の大使級会合でトルコへの支持を確認した。812日、トルコのインジルリク基地からアメリカ空軍F-16C戦闘機が出撃してイスラム国を爆撃。821日、イギリス空軍MQ-9がラッカでイスラム国活動家3人を殺害。97日、フランスがシリア国内でのイスラム国爆撃作戦参加を発表。98日、フランス軍がシリアの偵察を開始。930日、ロシアがシリアへの爆撃を開始。1011日、LHD-3キアサージがアラビア海に到着し、第5艦隊の隷下に入った。1031日、エジプトのシャルムエルシェイク発サンクトペテルブルク行ロシア民間機がシナイ半島上空を飛行中に墜落して乗員乗客224人全員が死亡、イスラム国シナイ州が犯行声明を出した。缶ジュースに偽装した小型爆弾を使ったらしい。1112日、レバノンのベイルートで連続爆弾テロを起こした。1113日、フランスでパリ同時多発テロを起こし、132人が死亡、349人が負傷した。1116日、フランスが戦争状態を宣言し、報復攻撃を開始。1117日、ロシアのプーチン大統領がフランスのオランド大統領と電話で会談しイスラム国作戦で軍や情報機関の連絡調整を強化することで合意した(共同作戦を行う訳では無い)。1119日、LHD-3キアサージから発艦したVMM-162(Rein)AV-8Bがイラク領内のイスラム国拠点をGBU-54誘導爆弾2発で爆撃した。12月、中国人の人質を殺害し、中国語でイスラム教徒に武装蜂起を呼びかけた。122日、イギリス議会がシリア領内の爆撃を賛成397・反対223で承認。キプロス島のトーネード6機やタイフーン4機が爆撃を開始した。カリフォルニア州の障害者福祉施設で銃乱射事件が発生、犯人はイスラム国を支持していたが、単なる恨みか妄想の果ての犯行らしい。128日、ロシア海軍636.3型潜水艦ロストフ・ナ・ドヌがカリブル巡航ミサイルでシリア領内のイスラム国拠点などを攻撃した。1229日、CVN-75ハリー・S・トルーマン空母打撃群がイスラム国への爆撃を開始。

2016112日、トルコ・イスタンブールの観光地であるスルタン・アハメット地区で自爆テロを起こし、ドイツ人11人とペルー人1人が死亡した。114日、ジャカルタでイスラム国インドネシア支部がアメリカ系カフェなどで銃撃・爆破テロを起こし、民間人4人が死亡した。219日、アメリカ軍がリビアのサブラタ郊外にあるイスラム国訓練所を爆撃した。228日、バグダッドで自爆テロや治安機関への襲撃を行い、100人以上が死亡した。37日、チュニジアのベンガルデンにリビアのイスラム国系武装勢力が侵入し、治安部隊11人と民間人7人が死亡した。武装勢力側も35人が死亡している。319日、トルコのイスタンブールで自爆テロを起こし、外国人4人が死亡した。322日、ブリュッセルの空港と地下鉄で連続自爆テロを起こし、35人が死亡した。324日、イラク政府軍とペシュメルガがモスルへの攻撃を開始。325日、イラクのイスカンダリアにあるサッカー場付近で自爆テロを起こし、29人が死亡した。46日、イラク政府軍がヒートを奪還。47日、米アフリカ軍司令官が、リビアにおけるイスラム国勢力が1年で倍増し、6000人に達したと発表。418日、カタールのアル・ウデイド基地に展開したB-52Hがイラク北部のモスルにあるイスラム国の兵器集積場などを爆撃。B-52Hによるイラク領内爆撃は湾岸戦争以来これが初である。517日、バグダッドで連続テロを起こし、101人を殺害。522日までにアメリカ中心の有志連合は12453回の爆撃作戦(イラク領内8503回、シリア領内3950回)を行い、うちアメリカ軍が9495回を占めている。6月、イラクのファルージャから撤退。69日、バグダッドで連続テロを起こし、31人を殺害。612日、イスラム国に忠誠を誓っていたとみられるイスラム過激派の男がフロリダ州オーランドの同性愛者ナイトクラブで銃の乱射事件を起こし、49人を殺害した。626日、イラク北部にあるイラク軍の掩体壕を使用したイスラム国武器庫に対し、イギリス空軍トーネードGR.4攻撃機2機がストームシャドー巡航ミサイル4発を発射、全弾直撃させて破壊した。628日、イスタンブール国際空港を襲撃して45人を殺害した。マレーシアのプチョンのバーで手榴弾により8人を負傷させた。71日、イスラム国系イスラム過激派ジャマアトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュがダッカで高給レストランを襲撃し、日本人7人を含む22人を殺害した。73日、バグダッドのカルラダ地区で爆薬積載冷凍トラックなどによる4件の連続自爆テロを起こし、324人を殺害、223人を負傷させた。77日、イラクのバラドにあるシーア派廟で自爆テロを起こし、40人を殺害。714日、フランスのニースでアルジェリア人が大型トラックで花火大会の見物客に突入し、84人を殺害。イスラム国が犯行声明を出したが、本当に犯人がイスラム国支持者だったかは不明である。718日、ドイツのバイエルン州ビュルツブルグで17歳のアフガニスタン人が列車内で乗客を斧とナイフにより襲撃し、3人が重傷を負った。723日、アフガニスタンのカブールでシーア派少数民族ハザラ人デモ隊に対して自爆テロを仕掛け、80人以上を殺害した。724日、バグダッド北部でシーア派住民に対して自爆テロを行い、15人以上を殺害。ドイツのバイエルン州アンスバッハでシリア人が野外コンサート会場近くで爆弾テロを起こし、15人が負傷した。イスラム国が犯行声明を出している。726日、フランスのルーアンでキリスト教会を襲撃し、神父を殺害。86日、ベルギーのシャルルロワでアルジェリア人が女性警察官2人を鉈で襲い、重傷を負わせた。810日、カナダのオンタリオ州でイスラム国支持者を警察が逮捕しようとしたところ、乗っていたタクシー車内で爆弾を爆発させた。817日、チェチェン人2人がモスクワの交通警察施設を斧で襲撃し、2人に重傷を負わせた。1017日、イラク政府軍がモスル制圧作戦を開始。1123日、シーア派民兵がモスル西部を制圧し、モスルがイラク政府軍側に完全包囲された。1124日、イラクのヒッラにある石油施設を自爆トラック(硝酸アンモニウム500リットルなど搭載)で攻撃し、125人を殺害、95人以上を負傷させた。126日、リビア最後の拠点だったシルトを統一政府に奪還された。

201718日、指導者のアブ・アナス・アル・イラクがアメリカ軍の航空攻撃で殺害された。118日、B-2A爆撃機2機がホワイトマン空軍基地を離陸し、リビア北部シトのイスラム国拠点を爆撃。121日、イエメン現地指揮官アブ・アニス・アル・アビがアメリカ軍無人機の航空攻撃で殺害された。124日、民間用固定翼UAVに爆発物を取り付けて爆撃する画像を公開。ただ爆発物は自由落下でろくな照準器も無く、無線妨害装置などで目標到達前に無力化され、あまり効果は無いようである。128日、アメリカのトランプ大統領が国防総省に対して30日以内にイスラム国壊滅計画を提出するよう求めた。226日、アメリカ軍がモスルの自動車爆弾工場1ヵ所をJDAMで破壊。413日、アメリカ空軍がアフガニスタンのナンガルハル州アチン地区にあるイスラム国拠点をMOABで爆撃し、戦闘員90名以上を殺害した。第2四半期のイスラム国収入は月額平均1600万ドルとみられ、2015年第2四半期(月8100万ドル)の2割に減少した。710日、イラクのアバディ首相がモスルの奪還を発表。731日、アメリカ有志連合がシリアで自動車爆弾工場1ヵ所、イラクで自動車爆弾工場3ヵ所と集積場1ヵ所を破壊した。129日、イラク軍がイラク全土をイスラム国から解放した。

2018419日、シリアのハジンにあるイスラム国拠点をイラク空軍F-16IQ戦闘機が爆撃した。816日、シリアのイスラム国拠点をイラク空軍F-16IQ戦闘機が爆撃した。

参考:月刊軍事研究10,169,1410,1411,1412,144,156,159,151,166,162,174,177,1711,174,18、月刊航空ファン1,1510,147,'1611,18、月刊JWings2,1610,1412,141,152,153,154,155,1511,152,'163,'169,1610,164,177,17、月刊世界の艦船4,153,16、朝雲

<イスラム国アフリカ県>:ボコ・ハラムを参照。

イスラム国カフカス州>:ロシアのチェチェンにあるイスラム国組織。元はカフカス首長国を自称するイスラム過激派組織で、2014年に一部が離反してイスラム国への忠誠を誓い、2015年にイスラム国から承認を受けたものである。参考:月刊軍事研究12,16

イスラム国シナイ県>:エジプトのイスラム国組織。シナイ半島のイスラム過激派組織がイスラム国との関係を強化したもので、201510月にはロシア民間機に爆弾テロを仕掛けた。参考:月刊軍事研究3,16

イスラム国リビア県>:リビアのイスラム国組織。シリアから義勇兵が送り込まれており、数千人規模とみられる。参考:月刊軍事研究3,16

<イスラム抵抗>:ヒズボラの軍事部門。

<イスラム抵抗運動>:ハマスを参照。

イスラム統一党>:アブドル・アリー・マザリ師(タリバンに暗殺された)が創設したアフガンのイスラム教シーア派原理主義武装組織。ハザラ人が主体で、イランの全面的支援を受けていた。中部バーミヤン州、中南部ガズニー州を本拠におく。参考:月刊軍事研究8,01

<イスラム部隊>:アンサル・アル・イスラムを参照。

<イスラム復古主義派>:サラフィ派を参照。

イスラム防衛戦線>:インドネシアのイスラム過激派グループ。首都ジャカルタを本拠地とし、ムハマド・リジク司令官をトップとする。アメリカ大使館前で抗議行動をしたり、飲食店を襲撃したりと首都近辺での活動を主とする他、マリク諸島の宗教抗争にも参加したとされる。参考:月刊軍事研究12,02

イスラム・マグレブのアルカイダ>:Al-Qaida in the Islamic MaghrebAQMIと略す。元は19988月にアルジェリアで創設されたイスラム武装組織サラフィスト布教戦闘集団で、幹部アブドゥル・マレク・ドゥルークデルが独断でアルカイダとの連携を取り始めて分裂状態となり、2006911日にアルカイダのザワヒリ副代表からこう名付けられた。活動地域はニジェールとマリの国境付近であり、欧米人を誘拐して地元民族長を仲介に立て、身代金をせしめるのが主な行動で、他に密輸や密入国の手伝いなども行っており、要員は300-1000人とみられる。2012年、マリ北部を拠点とするアンサール・ディーンと共同でマリ北部を実効支配した。マリ政府はフランス軍とアフリカ主導マリ国際支援ミッションに支援を要請して駆逐したが、組織の完全壊滅には至っていない。20131月、分派組織がアルジェリア人質事件を起こした。参考:月刊軍事研究12,'157,11

イスラム連合>:1975年に逮捕されていた過激イスラム法学者アブドル・サヤフが1980年に釈放された直後にペシャワールで結成したイスラム原理主義武装組織。パシュトゥーン人が主体で、ラバニ時代には政権に参加し、ヘクマチアル派と敵対した。サウジの全面支援を受けていたが、タリバンに吸収された。参考:月刊軍事研究8,01

イスラム連合(ソマリア)>:ソマリア西部とエチオピア東部のオガデン地方を本拠地とするゲリラ組織。アルカイダとの繋がりがあるとされる。参考:月刊軍事研究2,02

<イスランド・ワナ>:F146(フリゲート)を参照。

<いせ>:DDH-182(護衛艦)を参照。

伊勢>:日本海軍伊勢型超弩級戦艦1番艦Ise。大正4510日起工、大正51112日進水。大正6912日、紀伊水道で10/10全力公試実施。排水量31153トン、出力56498軸馬力、速力23.638ノットだった。1215日竣工。大正741日、第1艦隊第1戦隊に配属された。大正951日から105日、連合艦隊旗艦を務めた。121日、第1艦隊第1戦隊を退いた。大正10121日、第1艦隊第1戦隊に配属された。大正12121日、第1艦隊第1戦隊を退いた。大正14121日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和2121日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和41130日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和7121日、第1艦隊第1戦隊を退いた。昭和91115日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和10815日、第1艦隊第1戦隊を退き、近代化大改装に入った。昭和11128日、宿毛湾で大改装後の10/10全力公試を実施。排水量40699トン、出力81360軸馬力、速力25.207ノットだった。昭和123月(123日?)、大改装を完了。121日、第1艦隊第1戦隊に配属された。昭和15年、教練射撃と戦闘射撃で戦技優勝艦を獲得。射距離30000mで散布界244m、命中率19.2%を記録した。1115日、第1艦隊第2戦隊に転属。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には第1艦隊第2戦隊に所属していた。昭和1765日、ミッドウェイ海戦に参加。714日、第1艦隊第2戦隊を離れ、連合艦隊直轄艦となった。昭和18223日、航空戦艦への改装工事を開始。823日(95日?)、改装を完了。824日、航空戦艦改装後の10/10全力公試を宿毛湾で実施。排水量35350トン、出力80000軸馬力、速力25.3ノットだった。その後、第52師団歩兵第107連隊をトラックに運ぶ丁三号輸送に従事し、115日に内地に帰投。昭和1951日、第3艦隊第4航空戦隊に配属された。1020日、比島沖海戦に参加。1125日、ジョホールで座礁した。昭和2011日、南西方面艦隊第4航空戦隊に転属。昭和2026日、シンガポール港で触雷して小破した。210-20日、北号作戦に参加。211日、連合艦隊第4航空戦隊に転属。31日、連合艦隊第4航空戦隊を退いた。61日、特殊警備艦に類別変更された。724日、呉で空襲を受けて損傷、艦長含め190名が戦死した。728日、呉で空襲を受け、24日と合わせて直撃弾16発と至近弾多数により上部構造物がほぼ全壊し、3番砲塔天蓋を貫通されるなど大破、右舷15度傾斜で着底し、中甲板以下が浸水、そのまま終戦を迎えた。1120日に除籍された。昭和21109日、呉で解体を開始した。参考:月刊世界の艦船9,0212,101,123,15、第2次大戦日本海軍作戦年誌、激闘太平洋戦記、月刊丸8,957,14

伊勢型戦艦>:日本海軍超弩級戦艦Ise型。扶桑型の3-4番艦(第五号甲鉄艦、第6号甲鉄艦)となる予定だったが、起工が遅くなったのと、扶桑型に改良の余地があったので、同時期に設計されたアメリカ戦艦ネヴァダ型、ニューメキシコ型などに対抗できるよう再設計された。3・4番砲塔を第2煙突の後ろに配置して射撃指揮能力を上げると共に発射時の爆風の影響を低減し、缶室スペースを拡大した。ただし扶桑型で5番砲塔付近まであった船首楼が3番砲塔あたりまで短縮されたため、居住区が圧迫された。防御も強化され、水平防御は上甲板55mm・下甲板30mm(高張力鋼)となり、垂直防御は水線装甲帯は305mmのままだが、水線下は下甲板の防御鋼板を斜め下に曲げることで防御力を強化し、主砲前盾も1インチ(25.4mm)厚くした。これにより防御重量は9525トンとなった。更に水中防御区画を細分化し、石炭を缶室の外側に置いて防御壁がわりにした。バイタルパートは前方から前部(1番・2番)砲塔弾火薬庫、下部司令塔、第1-4缶室、中部(3番・4番)砲塔弾火薬庫、前部機械室、後部機械室、後部(5番・6番)砲塔弾火薬庫と並んでいる。主砲は四一式四五口径三六サンチ砲で、連装砲塔6基を装備。砲塔の装填可能角度は仰角5-20度で、主砲最大仰角は扶桑型の30度から25度に下げられた(それ以上の仰角で遠距離砲戦を仕掛けても、FCSが貧弱で当たらない)。砲塔装甲厚は防楯及びバーベットが305mm。副砲は五〇口径三年式十四サンチ砲に変更、小型化して操作性を改善し、砲弾も軽量化して装填を容易にすると共に、口径が1cm小さくなった分は搭載数を20門にして補い、攻撃力は落とさないようにした。装備位置は第2煙突までの両舷(9門ずつ)及び第1煙突両舷の最上甲板(1門ずつ)とし、3・4番砲塔をやや後ろに移したことによる重量バランスの変化を相殺している。ただし艦前方に集中しており、乾舷も低く、荒天時に発射不能となることがあった。舷側副砲の最大仰角は20度。日本戦艦として初めて建造当初から大口径砲(36cm砲)用の方位盤を装備しており、各砲塔に同一の射角・方位角を付与することができる。弾火薬庫は従来とは逆に弾庫を上、火薬庫を下に配置し、機雷による水線部の損傷に備えた。艦首は上部が鋭く前方に突き出た変形クリッパー型で、最上甲板は艦首付近で一段細くされている。水線下の舷側には水中固定式魚雷発射管6門があり、前部発射管室は第1砲塔付近の艦内にあった。船体舷側には魚雷防御網展張ブームがある。前檣は三脚式で、頂部に方位盤を載せた射撃指揮所があり、その下に探照灯台が2段(上部と中部。探照灯4基搭載)間を開けて設けられ、その下にキャンバス張り天井を持つ羅針艦橋があって、直前には頂部に3.5m測距儀を装備する司令塔が設けられた。前檣の支柱には煙突間に4隻配置された艦載艇を揚収するためのデリックが2基装備されている。煙突は2本で、前部檣直後とその後ろに立っており、第1煙突の方が少し高い。後部煙突基部にはブラストスクリーンが装着され、煙突間の搭載艇が3・4番砲塔の爆風で破壊されないように防御していた。後部マストは三脚式で、前部よりも背が高い。後部マストの両舷には8サンチ単装高角砲があり、マスト支柱上部に1基、中段に片舷2基ずつの探照灯を持つ。探照灯台の下には後部羅針艦橋が用意されていた。艦尾外側にスターン・ウォークがあり、舷側には魚雷防御網展張ブームを持つ。艦尾水線下両舷には53.3cm水中発射管が搭載されていた。主機はパーシャル・ギヤード・タービン型式をとっており、主タービンは直結式で、高圧タービンが外舷軸、低圧タービンが内舷軸に直結されている。巡航タービンはギヤード・タービンで、低圧タービン前方に高圧・中圧1基ずつが用意されており、1段式減速装置(伊勢はギヤ比12.172、日向は9.973)を介して内舷軸に結合されている。巡航時には蒸気を巡航タービンに流した後で高圧タービン後部段落に送り、全力時には蒸気を高圧タービン初段に直接流し込む。日向はパーソンズ式タービンを採用したため、タービン段数が伊勢の2倍以上もあり、高圧後進タービンのケーシングを前進タービンと別々に置かざるを得ず、前部機械室を伊勢より4フィート(1.22m)延長し、後部機械室を短縮した。缶室1室あたり主缶6基を収容し、2室ずつの排気が前後部煙突へとそれぞれ導かれる。欠点は、3・4番砲塔を第2煙突直後に移したため、上甲板がその前までしか造れず、乗員が増えたのに居住スペースが減ってしまったこと、設計に無駄が無さ過ぎてカッターや内火艇の搭載スペースが無くなったため、第2煙突側面にブラストスクリーンを増設して収容しなければならなかったこと、荒天時に前方の副砲が波をかぶって使用不能になること、針路安定性に問題があり操艦が難しく艦隊行動時に陣形を乱す恐れがあったこと、ジュットランド海戦の結果これでも防御力と速力が足りないと判断されたこと。全長208.16m、全幅(水線幅?)28.65m、吃水7.3m8.73m?)、基準排水量29990トン、常備排水量31260トン。主機はブラウン・カーチス式(日向はパーソンズ式)高低圧二軸並列複式(クロス・コンパウンド)部分減速蒸気タービン2組・高中圧巡航タービン2組、主缶はロ号艦本式混焼水管缶(19.3気圧、飽和温度)24基で、公称出力45000軸馬力、公試出力56000軸馬力、4軸推進、プロペラは3翅で直径3.429m、回転数毎分290回転(日向は300回転)、公試時最大速力23.6ノット(日向は24ノット)、燃料は石炭4607トンと重油1411トン、航続距離は14ノットで9680海里(9860海里、17500km?)。兵装は四五口径四一式三十六サンチ連装砲塔6基、五〇口径三年式十四サンチ砲20基、三年式四〇口径八サンチ単装高角砲4基(前檣・後檣基部に2基ずつ)、短8サンチ単装砲12門、53サンチ固定式水中発射管6門(六年式魚雷)。装甲厚は舷側305mVC甲鈑)、甲板53mmHT鋼板)+30mm、バーベット299mm、砲塔前楯305mm、砲塔側面305mm、砲塔天蓋76mm、司令塔356mm305mm?)。乗員1360名。伊勢が大正6年、日向が大正7年に竣工した。参考:月刊丸7,1411,09、戦艦入門、月刊世界の艦船3,159,0212,10、図解日本の戦艦、日本海軍艦隊総覧

伊勢型戦艦・竣工後改装>:大正10年、主砲仰角を30度にアップ。羅針艦橋に遮風装置と通風装置を追加。前檣に魚雷指揮所を新設。中部探照灯台が一段上に移され、下部探照灯台を新設、信号用探照灯を2基追加。大正13年(日向は大正14年末)、射撃指揮装置や副砲指揮所、測的所を前檣に増設し、一三式見張り方位盤、一三式測的盤、副砲方位盤照準装置を搭載。高くなった前檣に煙が逆流しないよう、第1煙突に煤煙避けのキャップを装着。舷側の水雷防御網を撤去。砲塔上面装甲を強化。後部マストの主柱後面に示数盤2基を装備(日向の方が位置が高い)。大正14年、2番砲塔上面に飛行機滑走台を設置。昭和2年、2番砲塔に滑走台を設置し、一〇式艦戦を搭載。魚雷防御網展張用ブームを撤去。昭和3年(日向は昭和4年)、2番砲塔上面の飛行機滑走台を廃止し、5番砲塔上面に一四式水上偵察機1機を搭載、偵察・観測任務を行えるようにした。後部マスト右舷に航空機揚収用デリックを搭載。前檣に留式7.7mm機銃3丁を装備。後檣上部の探照灯を撤去、伊勢は後檣下段の探照灯のうち2基も撤去。昭和3-4年、前檣を前檣楼に変更。高所測距所、檣楼司令所、上部・下部見張り所を追加した。第2煙突の背後に探照灯台を設置、前檣楼から探照灯4基を移設した。昭和5年、前檣楼のトップマストを短縮。昭和7年、八サンチ高角砲全てと上甲板上の14cm副砲2門を外し、八九式四〇口径一二.七サンチ連装高角砲4基(前檣楼基部両舷の高角砲撤去跡、1番煙突両舷上甲板上の副砲撤去跡)を搭載。爆風避けのブルワークも設置された。九一式高射装置が前檣楼下段両側に追加され、発令所に九二式射撃盤が搭載された。前檣楼のヤードが後方に曲がり、上部見張り所を改良、ブルワークが大型化した。船体中央両舷に四〇ミリ連装機銃を1門ずつ装備。第2煙突前面に機銃台を設置し、毘式40mm連装機銃2基を搭載。後部マストのマストトップを短縮し、昇降式に変更。日向は後部マスト下段の探照灯のうち2基を撤去。昭和83月(日向)、昭和9年(伊勢)、後甲板右舷に呉式二号三型射出機を、左舷に航空機揚収用起倒式クレーンを装備。昭和9年、水中固定式魚雷発射管を全て撤去。参考:戦艦入門、図解日本の戦艦、月刊丸7,14

伊勢型戦艦・大改装>:ワシントン条約で排水量3000トン未満での改装が認められたため、日向は昭和9年から、伊勢は昭和10年から行った。主砲の最大仰角を43度にアップし、最大射程を35450mに向上させた(6番砲塔はスペースの問題で変更されなかったようである)。復座装置は空気式となり、九一式徹甲弾の運用を可能とした。砲塔測距儀が6mから8mに換装され、2・3・5番砲塔に搭載された。前檣楼頂部に基線長10mの測距儀を設置、その前方に九四式方位盤を置き、36cm砲弾が20-25kmで命中しても主要部が耐えられるように防御力を強化、機関室上部の下甲板に25mm厚の高張力鋼を2枚、弾薬庫の上部に135mm厚の高張力鋼を装着し、主砲塔上面、防楯、基部の装甲も強化した。水防区画を持っていなかったため、舷側内側に25.4mmの装甲鋼板による縦壁を追加、外板との間を重油タンクにし、艦腹に鋼管入りのバルジを装備した。最前部両舷の副砲は撤去し、残りの副砲は仰角を20度から30度にアップして最大射程を15000mに向上させた他、司令所上の副砲用測距儀も4.5m測距儀2基に換装した。前檣楼は頂部から主砲射撃所、主砲指揮所、照射指揮所、副砲指揮所、機銃指揮所、高角砲指揮所が配置され、前檣楼後面には搭載艇揚収用のデリックが追加された。後檣基部には予備指揮所が設けられ、後檣自体も中段で切断されてその上に単脚が直立する形になった。予備指揮所の両舷には主砲用予備方位盤と副砲用方位盤を装備し、前面に25mm連装機銃2基を搭載。主機を艦本式高中低圧ギヤード・タービン4基、主缶を空気予熱機付きロ号艦本式重油専焼缶(20気圧、飽和温度)8基に換えて出力を8万馬力とし、艦尾を7.62m延長して最大速力を25.3ノットに向上させた。機械室は左、中央、右の3室に変更し、左右機械室に外舷軸機1基ずつ、中央機械室に内舷軸機2基を収容、巡航タービンは左右機械室に置いて外舷軸中圧タービンと結合している。缶室は前後4段左右2列の計8室に変更、主缶1基ずつを収容した。缶室全幅を縮小した分は重油搭載スペースに充てている。機関変更により煙路と煙突は1本に統一(元の第2煙突の位置)し、煙突周囲に110cm探照灯6基と25mm連装機銃4基を設置した。後檣基部に第2指揮所を増設、後部砲塔の方位盤照準装置、方位測定室、対空見張り所、後部電信室を設けた。後檣のトップマストは伊勢では後檣後端、日向では前端に付いており、太さは伊勢の方が細い。艦尾延長によりできたスペースを利用して右舷のカタパルトを呉式二号五型射出機1基に変更し、左舷に揚収用の起倒式クレーンを装備、艦尾に水上偵察機3機を搭載した。5番砲塔上の水上機搭載施設と艦尾のスターン・ウォーク、魚雷防御網展張ブームは除かれた。四〇ミリ連装機銃は撤去し、九六式二十五ミリ連装機銃10門(前檣楼に6門、煙突周囲に4門)を装備した(日向は昭和15年ごろに実施)。日向は昭和11年、伊勢は昭和12年に完了、基準排水量が36000トンに増加した。その後も応急注排水装置の追加などの細かい改良が行われている。昭和15-16年には前檣楼頂部に防空指揮所を設置、機銃射撃指揮装置を装備した。太平洋戦争開戦時の伊勢の諸元は全長219.62m、幅33.83m、基準排水量35800トン、満載排水量40169トン。機関出力80000軸馬力、最大速力24.5ノット、重油搭載量は伊勢が5378トン、日向が4279トン、航続距離は16ノットで7900海里(計画)/11100海里(伊勢・実測)/7870海里(日向・実測)。兵装は四一式45口径35.6cm連装砲6基、三年式50口径14cm単装砲18門、八九式40口径12.7cm連装砲4基、九六式25mm連装機銃10基。昭和175月、仮称二号電波探信儀一型(二一号電探の試作型。対空・対水上兼用)が搭載され、伊勢はその状態でミッドウェイ海戦に参加している。昭和1755日の5番砲塔爆発事故を受け、日向は5番砲塔を撤去、装甲板で塞いで25mm3連装機銃4基を装備した。参考:戦艦入門、図解日本の戦艦、月刊丸7,14

伊勢型戦艦・航空戦艦大改装>:ミッドウェイ海戦戦後の空母不足に対応したもので、通称一八改装。航空戦艦と呼ばれるが、公式艦種は戦艦のままである。全通甲板を持つ本格的な空母に改造すると工事が大規模すぎて消費する時間と資材が膨大になるため、後ろ半分だけ空母にした。伊勢は昭和18223日から、日向は昭和17年末から工事に入り、資材は大和型戦艦4番艦のものを流用した。搭載航空機はカタパルトで発進させ、敵空母の飛行甲板を破壊し、回収は同伴する他の空母に任せ(水上機は自前のデリックで回収する)、その後は同伴空母の護衛や、砲戦による敵艦隊撃破に移る。主砲塔4基を外して搭載機数を増やす案もあったが、着艦できる程の飛行甲板長は確保できず、試射の目視着弾観測が不十分(6発同時着弾による観測が理想)となるなど砲戦能力も削がれるため、2基を外すことにした。5・6番砲塔を撤去して全長70m・前部幅29m・後部幅13mのコンクリート被覆飛行甲板を設置、ここに航空機13機(カタパルト上に1機ずつ、甲板両舷の軌条に5機ずつ、後端軌条上に1機)を係留し、甲板下の格納庫(全長40m、前部幅28m、後部幅11m、高さ6m)に9機(2本の軌道上に4機ずつ、後端の軌道上に1機)を収容する。搭載航空機は流星を検討したが間に合いそうになく、彗星二一型・二二型22機を予定していたが、こちらも生産が間に合わず、彗星と瑞雲一一型水上偵察機を11機ずつ搭載することにした。搭載機の運用は第634航空隊が行う。飛行甲板上には3条の運搬軌道があり、中央の軌条には2個のターンテーブルを持つ。飛行甲板後部のエレベーターは全長12.1m、前部幅12.1m、後部幅6.6m、水圧式(砲塔用動力機を流用)で最大荷重6トン、昇降にかかる時間は20秒。搭載カタパルトは一式二号射出機一一型で、4番砲塔の両舷に設置したため、3・4番砲塔は後方・低仰角での発砲ができなくなった。カタパルトを交互に使用すると1機あたり15秒の急速連続射出が可能である。彗星を射出する際には、機体を降着装置収納状態で台車に乗せて飛行甲板上の運搬軌道からカタパルトに送り、台車ごと射出する。6番砲塔用火薬庫がガソリンタンクに改造され、搭載機を3回出撃させるのに十分な76トンの燃料を搭載した。格納庫後方から艦尾までのスペースは繋留・曳航作業甲板で、後端には後部見張り所があり、その下に司令官室などがある。5番砲塔弾火薬庫は爆弾庫に改造され、3回出撃分に相当する50番通常爆弾44発、25番通常爆弾22発を収容できた。ミッドウェイ海戦で格納庫内の誘爆による被害が発生したため、爆弾搭載作業を飛行甲板で行えるよう、爆弾庫と飛行甲板を繋ぐ揚爆弾筒が用意されている。左舷後方には航空機揚収用クレーンがそのまま残された。後部マスト上に射出指揮所が設置され、主砲方位盤及び予備方位盤が九四式となり、全ての副砲及び副砲用方位盤は撤去された。後部マスト基部の副砲用方位盤撤去跡には機銃射撃装置が装備されている。後部マスト上部前方には第二方位測定室が設けられ、上部に方位測定用ループアンテナが搭載された。後部マスト及びマストトップも変更が加えられ、伊勢の方がヤードが長いなどの違いがある。舵取り機室の防御強化のため、周囲にコンクリートを充填し、上部に防御甲板を設け、予備舵取り装置を設置した。対空兵装も強化され、前檣楼下部両舷に1基ずつ、煙突基部両舷に1基ずつの12.7サンチ連装高角砲を増設、高射装置を九四式に換装し、煙突両側に1基ずつ追加(後日装備で、伊勢は比島沖海戦前、日向はあ号作戦後に設置)した。既存の対空機銃は三連装に換装、前檣楼に3基、後檣に4基、飛行甲板後端に2基を追加し、機銃射撃指揮装置も前檣と後檣に1基ずつ増設して6基とした。後檣後方に後部対空見張り所が設けられ、また、前檣楼の10m測距儀の上に二一号電探、前檣楼上部両側に二二号水上用電探2基が装備された。基準排水量35350トン。速力25.3ノット、重油搭載量は伊勢が4249トン、日向が4250トン、航続距離は16ノットで伊勢が9449海里、日向が9000海里。伊勢は昭和189月、日向は11月に完成し、更にマリアナ沖海戦後は戦訓を基に対空装備を強化し、十二サンチ二八連装対空噴進砲を飛行甲板後部両舷に3基ずつ、二五ミリ三連装機銃を前檣に9基、煙突周囲に4基、後檣に4基、2・3番砲塔天蓋に2基ずつ、飛行甲板両舷に4基ずつ(間に2基ずつの機銃射撃指揮装置搭載)、艦尾に2基搭載し、飛行甲板上に二五ミリ単装機銃11門(発艦作業時は移動させる)を装備した。また、飛行甲板後端両舷に十二サンチ二八連装対空噴進砲を3基ずつ搭載した。伊勢は二二号電探を射撃用電探に換装したが、誤差が大きくて使い物にならなかった。以上の大改装により2隻合わせて龍驤に匹敵する44機の航空機を運用(ただし発艦のみ)でき、そのまま艦隊決戦にも参加できるという便利な戦艦になる筈だったが、昭和19101日に漸く搭載航空機35機(彗星17機、瑞雲18機)が割り当てられたものの台湾沖航空戦にかり出されて全て失われ、比島沖海戦に栗田艦隊の一員として参加した時には搭載機が1機も無い状態だった。この時の伊勢の兵装は45口径35.6cm連装砲4基、40口径12.7cm連装高角砲8基、九六式25mm機銃3連装31基、単装11基、12cm28連装対空噴進砲6基で、二一号電探1基、射撃用電探(二二号電探?)2基、一三号電探2基(後部マスト)を装備していた。その後は航空機を乗せる当てが無くなりカタパルトを撤去、マニラへの輸送任務などを行った後は燃料も無く瀬戸内海に繋がれたままで、何のために飛行甲板を作ったのかよく分からない(輸送用の貨物甲板としては役に立ったが)結果になってしまった。参考:図解日本の戦艦、戦艦入門、近代戦艦史、月刊世界の艦船4,129,148,16、月刊丸7,14

移送軌条>:魚雷やヘリコプターを運ぶためのレール。参考:月刊JWings2,00

<位相差式レーザー測距器>:レーザー測距器を参照。

<位相制御アレイ・レーダー>:フェイズド・アレイ・レーダーを参照。

<位相走査方式プラナー・アレイ・レーダー>:フェイズド・アレイ・レーダーを参照。

<位相同期実験装置>:自衛隊の機器。三菱電機製。参考:月刊軍事研究12,12

磯風(初代)>:日本海軍磯風型駆逐艦1番艦。大正6228日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和1041日に除籍された。参考:日本駆逐艦史

磯風(2代目)>:日本海軍陽炎型駆逐艦12番艦Isokaze。昭和151130日竣工。昭和16128日、第17駆逐隊に所属して真珠湾攻撃に参加。昭和1745日、セイロン島攻撃に参加。65日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和1821日、イサベル島沖海戦に参加。27日、イサベル島沖海戦で爆撃を受けて損傷した。618日、瀬戸内海で翔鶴の飛行隊が投下した訓練用魚雷が艦首左舷に命中し、損傷した。817-18日、ベラ・ラベラ沖海戦で小破した。106日、ベラ・ラベラ島沖夜戦に参加。114日、カビエン付近で触雷して小破した。昭和191022日、比島沖海戦に参加。1116日、第17駆逐隊の一員として第1遊撃部隊を護衛してボルネオ島ブルネイ湾を出港し、内地に向かった。1123日、豊予海峡を通過後に大和から燃料補給を受けた。そのまま横須賀に向かう長門の護衛と、復路は呉に回航される信濃の護衛に就くことになり、2130に臼杵湾に到着して仮泊。11240555、臼杵湾を出港し、横須賀に向かった。昭和2046日、沖縄特攻作戦に出撃。47日、奄美大島北西で艦上機の攻撃を受けて航行不能となり、雪風の砲撃で処分された。525日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧、歴史群像10,18

磯風型>:日本海軍駆逐艦で、八四艦隊計画に基づいて山城型・伊勢型戦艦と共に大正4年に計画された。海風型の後継で、水槽試験で線図を決定した初の駆逐艦とされており、武装強化を行うと共に航続力を強化してある。船型は船首楼型。しかし中心線上に配置した12サンチ砲の装備位置が低かったため荒天時に波を被りやすく、またタービンが耐久性に欠けたため長時間運転時は出力7000馬力に制限せざるを得なかった。全長99.5m、水線幅8.5m、吃水2.8m、基準排水量1105トン。主機はパーソンズ式直結タービン(天津風・時津風は衝動式ブラウン・カーチス式直結タービン。いずれも高圧タービン1基が中央軸、後進タービン付き低圧タービン1基ずつが両舷軸に直結、低圧タービンに巡航タービンが減速歯車を介して連結)1組3軸、主缶はロ号艦本式水管缶5基(重油専焼3基、重油・石炭混焼2基。蒸気圧力18.3気圧、飽和温度)で、出力27000馬力、速力34ノット、航続距離は14ノットで3360海里。兵装は40口径12サンチ単装砲4門、6.5mm単装機銃2丁、45cm連装魚雷発射管3基。乗員145名。磯風、濱風、天津風、時津風の4隻が大正6年に就役した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船5,11

<いそぎく>:LSSL-416(警備船)を参照。

磯崎千利>:いそざきちとし。日本海軍エース。大正2年、愛媛県生まれ。昭和83月、海軍操縦練習生を修了し、龍驤戦闘機隊に配属された。霞ヶ浦航空隊に転属し、昭和1210月に加賀戦闘機隊に配属され、昭和14年末から第12航空隊に転属となった。昭和1511月、空曹長に昇進。昭和1610月、台南航空隊に転属。昭和174月、大村航空隊の教員となり本土に帰還した。昭和184月、少尉に進級し、第251航空隊に転属、ラバウルに配置された。616日、ルッセル島上空で初撃墜を記録。その後第204航空隊と第201航空隊で分隊長を務め、昭和193月に第302航空隊に転属、次いで第210航空隊に配属され、昭和205月に戦闘第301飛行隊分隊長となって終戦を迎えた。総撃墜数12機。最終階級は大尉。参考:日本海軍戦闘機隊

<いそしお>:SS-568(うずしお型潜水艦)またはSS-594(おやしお型潜水艦)を参照。

<いそしお型特務艦>:うずしお型特務艦を参照。

<いそなみ>:DD-104(護衛艦)を参照。

磯波(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦31番艦。明治4242日竣工。大正元年828日、三等駆逐艦に類別変更された。大正13121日、掃海艇に転籍となった。昭和381日、第7号掃海艇に改称された。昭和561日に雑役船に編入され、公称第756号と改称し、昭和1049日に廃船となった。参考:日本駆逐艦史

磯波(2代目)>:日本海軍吹雪型駆逐艦9番艦Isonami。昭和3630日竣工、第43駆逐艦という名称で一等駆逐艦に類別された。昭和381日、磯波に改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第19駆逐隊に所属していた。昭和1745日、セイロン島攻撃に参加。65日、ミッドウェイ海戦に参加。69日、ウェーキ島付近で浦波と接触事故を起こした。121日、ニューギニアのブナ沖で爆撃により小破した。128日、ニューギニアのブナ付近で爆撃を受けて小破した。昭和1849日、セレベス南東バンダ海でSS-199トートグの雷撃を受けて沈没し、81日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

<いそゆき>:DD-127(護衛艦)を参照。

イゾンツォ川の戦い>:第1次大戦時の1915524日、イタリア軍は歩兵17個師団・騎兵3個師団を配していたイゾンツォ川沿いの幅70kmでオーストリア軍に対して攻勢に出た。しかし7個師団の防御する陣地を突破できず、失敗した。718日、ワルシャワに迫るドイツ・オーストリア軍を牽制するため、30km正面に絞って攻勢をかけたが、オーストリア軍に援軍が到着して押し戻され、失敗した。9月、東部戦線でロシア軍が崩壊し、ドイツ・オーストリア軍はセルビアに向かった。これを牽制するため、イタリア軍は42個師団を投入して10月と12月に攻勢に出たが、オーストリア軍27個師団の防御を突破できなかった。19165月にはオーストリア軍のトレント攻勢を受けたが第二線陣地で食い止め、86日にイゾンツォ川沿いで逆襲に出た。しかし10km前進したところで進撃がストップ。その後も4回にわたり攻勢に出たが、それ以上進むことはできなかった。19175月、イタリア軍は32個師団でオーストリア20個師団に対し攻勢をかけたが、4km進んだのみで停止。8月、ロシアの戦線離脱がほぼ確定したため、イタリア軍は陸軍の全60個師団中52個、火砲5500門を集結してオーストリア軍に対し攻撃をかけ、トリエステ港を目指し前進を開始した。しかし支援砲兵の渡河に失敗してオーストリア軍の反撃を受け、9月中旬にはドイツ軍が大部隊の援軍を引き連れてくるという噂が流れ、イタリア軍は攻撃を中止した。この11回に渡る戦闘で、イタリア軍は100万以上の損害を出した。参考:月刊PANZER5,06

依託学生>:日本軍が民間からの将校相当官を確保するため設けていた制度。大学生や高等専門学生(こちらは依託生徒という)に手当を支払う代わりに、卒業したら直ちに入隊させて見習い(陸軍)や少尉・中尉相当官(海軍)としての教育を施し、将校相当官へと養成、定年一杯まで勤務させる(永久服役)ものである。平時の造船官や軍医はこの制度を利用した者が多かった。主計科にもこの制度があったが、海軍経理学校での育成が充実するにつれて不必要になり、大正12年度を最後に採用されなくなった(制度だけ残されている)。参考:陸海軍学校と教育、月刊世界の艦船9,13増刊

板妻駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。広報資料館には日本軍や自衛隊の資料が展示されている。所在地は静岡県御殿場市板妻40-1JR御殿場駅からバス「板妻」下車。2010102日、静岡地方追悼式を実施。98柱の冥福を祈った。20151111日、板妻駐屯地業務隊、相馬原駐屯地業務隊、大宮駐屯地業務隊、朝霞駐屯地業務隊、習志野駐屯地業務隊、武山駐屯地業務隊、高田駐屯地業務隊が参加して家族支援訓練を実施。隊員家族の安否確認などの訓練を行った。201622日と12日、第5次派遣海賊対処行動支援隊のジブチ出国行事を実施。201821日から32日、課業外の時間で駐屯地レクリエーション大会を実施。参考:JGround Vol.23MAMOR vol.91、朝雲

 <板妻駐屯地(2015年)>:第1師団第34普通科連隊、東部方面混成団第3陸曹教育隊、東部方面会計隊第420会計隊(326日廃止)、板妻駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

板妻駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2013129日、緊急登庁支援の家族会則を作成した功績により、陸幕長から2級賞状を授与された。2014128日、緊急登庁支援の実効性向上などの功績により、陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。20151111日、板妻駐屯地で家族支援訓練に参加。201635日、富士地区4個駐屯地業務隊と静岡県自衛隊父兄会による協同家族支援訓練に参加。2017528日、静岡県自衛隊家族会と共に、隊員家族の顔合わせを実施。1016日、厚生センターで緊急登庁支援訓練を実施。参考:朝雲

<板ばね>:リーフ・スプリングを参照。

伊丹駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。正門西側に装備品展示場があり(2015727日開設)、61式戦車、74式戦車、75式自走155mm榴弾砲、60式自走106mm無反動砲、1/2トントラック、73式小型トラックが展示されていて、駐屯地正門の警衛所に申し込めばいつでも見学できる。所在地は兵庫県伊丹市緑ヶ丘7-1-1。創立記念行事では阪急・JR伊丹駅からシャトルバスが出る。1954年、第3偵察中隊が今津駐屯地に移った。1962年、第3偵察隊が今津駐屯地から移駐した。19717月、隊員クラブを建設。1995117日に発生した阪神淡路大震災の災害派遣では自衛隊だけでなく警察などの拠点にもなり、2週間断水していた間は井戸で凌ぎ、それも枯れてしまったので2本目の井戸を掘っている。2009226日、隊員クラブの個室が改装完成し、こけら落としが行われた。2010326日、中部方面情報隊が新編された。2011510日、尼崎信用金庫と株式会社スギモトの新入社員76人に対する体験入隊を実施。2012124日から26日、ヤマサクラ61演習を実施。26-8日、第21回シニアレベルセミナーを実施。陸幕長やアメリカ太平洋陸軍司令官、アメリカ太平洋海兵隊司令官ら日米陸上部隊の高級幹部70名が参加した。210日から36日、関西補給処と第3師団・第13・第14旅団増援隊員が、YS61演習で使用した他部隊からの借用品の整備を行った。2016414日、宝塚音楽学校第104期生40人に隊内生活体験を実施。2017113日、新成人隊員72名の成人式を実施。410-14日、駐屯地カウンセラーの職能向上を目的としたカウンセラー集合訓練を実施。2018112日、新成人隊員55名の成人式を実施。参考:JGround Vol.23、朝雲、今津駐屯地ホームページ

 <伊丹駐屯地(2015年)>:中部方面総監部、中部方面総監部付隊、第3師団第36普通科連隊、中部方面通信群、中部方面情報隊、中部情報保全隊、中部方面警務隊、中部方面衛生隊、中部方面会計隊、中部方面音楽隊、第302通信直接支援隊、会計監査隊中部方面分遣隊、伊丹駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

伊丹駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2018718日、駐屯地業務で優れた功績を挙げたとして、山崎陸幕長から2級賞状と副賞が授与された。参考:朝雲

伊丹飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

<イタリア>:リットリオ(戦艦)を参照。

イタリア海軍>:1923年の軍用航空機法制定以来、海軍が固定翼機を持つことができなくなった。この頃には空母の必要性を認識していたが、立場的に上の空軍には勝てず、第2次大戦でも空母は保有できなかった。1935年、モンテクッコリ級軽巡2隻が竣工。1940年、Re2000セリエU戦闘機を配備。1942年、Re2000セリエV戦闘機を配備。第2次大戦後はヘリコプター搭載艦に力を入れた。1957-59年、カノーポ級フリゲート4隻が竣工。1961-62年、カルロ・ベルガミーニ級フリゲート4隻が竣工。1961年、軽巡ジュゼッペ・ガリバルディへのテリア搭載改装が完了。1963-64年、インパヴィド級ミサイル駆逐艦2隻が就役。1964年、アンドレア・ドリア級ヘリ巡洋艦2隻が竣工。1965年からディ・クリストファロ級4隻が就役。1966年、潜水艦アルフレッド・カッペリーニが就役。1968年、アルピーノ級フリゲート2隻とエンリコ・トーチ級潜水艦4隻が竣工。1969年、ヘリ巡洋艦C550ヴィットリオ・ヴェネトが竣工。1972年、オーダチェ級ミサイル駆逐艦2隻が就役。テンチ級潜水艦2隻を貸与された。1974-1983年、スパルビエロ級ミサイル艇7隻が就役。1975-78年、ストロンボリ級給油艦2隻が竣工。1977-80年、ルポ級フリゲート4隻が就役。1979-82年、1018型ナザリオ・サウロ級潜水艦4隻が就役。1980年、アンテオ級汎用救難艦1隻が就役。1982-85年、マエストラーレ級フリゲート8隻が就役。1985年、NATOで担当する西部及び中東部地中海に航空巡洋艦(ヘリ空母)機動部隊を1個ずつ展開する基本方針を発表。各部隊は航空巡洋艦(ジュゼッペ・ガリバルディまたはヴィットリオ・ヴェネト)1隻、ミサイル駆逐艦2-3隻、フリゲート5-6隻で構成される。9月、空母ジュゼッペ・ガリバルディが就役。1985-96年、レリチ級掃海艇12隻が就役。1987-91年、ミネルヴァ級コルベット8隻が就役。1987-94年、サン・ジョルジョ級ドック型輸送揚陸艦3隻が就役。1988-95年、改サウロ級潜水艦4隻が就役。1989-90年、カシオペア級哨戒艦4隻が就役。19891月、軍用航空機法が改正され、海軍が漸く固定翼機を持てるようになった。1991823日、海軍初の固定翼機であるTAV-8Bがジュゼッペ・ガリバルディに着艦した。以降は両用艦サン・ジョルジュ、ミサイル駆逐艦1隻、フリゲート4隻、補給艦からなる西部機動部隊と、ジュゼッペ・ガリバルディ、アニモソ級ミサイル駆逐艦2隻、マエストラーレまたはルポ級フリゲート4隻からなる東部機動部隊の整備を開始した。1993年、デ・ラ・ペンヌ級ミサイル駆逐艦2隻が就役。1994-96年、ルポ改級フリゲート4隻が就役。1994-97年、アルティリエーレ級フリゲート4隻が就役。2001-03年、コマンダンテ級哨戒艦6隻が就役。2006年、212A型潜水艦が就役開始。2007-09年、アンドレア・ドリア級駆逐艦2隻が就役。20083月、空母コンテ・ディ・カブールが就役。20096月、空母カブールが就役。20113月、リビア爆撃作戦に参加。6月、NFH-90対潜ヘリの配備を開始。2013年、FREMM汎用艦が就役を開始。2014年、FREMM対潜艦が就役を開始。AV-8Bプラスの後継としてF-35B22機導入する予定で、初号機は2018125日に引き渡された。ジュゼッペ・ガリバルディ後継のトリエステ級多用途揚陸艦、外洋多用途警備艦PPA6隻(+オプション4隻)、23000トン級多用途補給艦1隻を計画中。参考:月刊丸3,90、月刊JWings10,09、月刊軍事研究3,10、月刊世界の艦船3,055,865,166,'1610,17、月刊航空ファン6,114,18

 <イタリア海軍(1977年)>:兵力42000名(うち徴兵24000名、海兵隊1700名)、予備役115800名。潜水艦8隻、AB204B対潜ヘリ9機、巡洋艦1隻、ミサイル駆逐艦6隻、駆逐艦/護衛艦12隻、沿岸護衛艦8隻、外洋掃海艇4隻、沿岸掃海艇30隻、内海掃海艇10隻、ミサイル艇5隻、ミサイル水中翼艇1隻、上陸用艦艇2隻、上陸用舟艇57隻、LVTP-7SH-3Dヘリ24機、AB204/212ヘリ30機、S61ヘリ2機を保有する。参考:軍事力バランス78年版

 <イタリア海軍(1981年)>:兵力42000名。1018型サウロ級潜水艦2隻、1075型トチ級潜水艦4隻、タング級潜水艦2隻、ガピーV級潜水艦1隻、ヴィットリオ・ヴェネト級巡洋艦1隻、アンドレア・ドリア級巡洋艦2隻、オーダチェ級駆逐艦2隻、インパヴィド級駆逐艦2隻、インペツオソ級駆逐艦2隻、ルポ級フリゲート4隻、アルピーノ級フリゲート2隻、ベルガミーニ級フリゲート3隻、チェンタウロ級フリゲート3隻、ピエトロ・デ・クリストファーロ級コルベット4隻、アルバトロス級コルベット4隻、スパルビエロ級ミサイル艇4隻、フレッチア級哨戒艇2隻、ランポ級哨戒艇2隻、MS-441級哨戒艇3隻、グラド級戦車揚陸艦2隻、アンドレア・バフィーレ級輸送艦1隻、サルモネ級掃海艇4隻、アベテ級掃海掃討艇10隻、アガヴェ級掃海掃討艇15隻、アラゴスタ級内水掃海艇5隻、アミラリオ・マグナーギ級海洋観測艦1隻、ミルト級海洋観測艇2隻、ストロンボリ級補給艦2隻、固定翼機18機、回転翼機112機を保有する。参考:月刊世界の艦船8,82増刊

イタリア海軍(1989年)>:兵力52000名(うち徴兵27500名、海軍航空隊1500名、特殊部隊600名、海兵隊800名)、予備役36000名。ラスペツィアとタラントに司令部、アンコーナ、ブリンティシ、アウグスタ、メッシーナ、ラマッダレーナ、カリアリ、ナポリ、ベニスに基地がある。改サウロ級潜水艦2隻、1018型サウロ級潜水艦4隻、1075型トチ級潜水艦4隻、ジュゼッペ・ガリバルディ級空母1隻、ヴィットリオ・ヴェネト級ミサイル巡洋艦1隻、アンドレア・ドリア級ミサイル巡洋艦2隻、オーダチェ級駆逐艦2隻、インパヴィド級駆逐艦2隻、マエストラーレ級フリゲート8隻、ルポ級フリゲート4隻、アルピーノ級フリゲート2隻、ミネルヴァ級フリゲート4隻、デクリストファロ級フリゲート4隻、アルバトロス級コルベット3隻、スパルビエロ級ミサイル艇7隻、カシオペア級哨戒艦3隻、アグレッシブ級掃海艇4隻、レリチ級掃海艇4隻、アジュタント級掃討艇2隻、アガベ級掃海艇5隻、サン・ジョルジョ級ドック型揚陸艦2隻、ストロンボリ級給油工作艦2隻、曳船9隻、給水艦5隻、試験艦3隻、練習艦2隻、海洋観測艦3隻、SH-3D対潜ヘリ36機、AB-212対潜ヘリ62機、水中襲撃コマンドー群6個(襲撃作戦群2個、水中作戦群1個、特殊作戦群1個、学校1個、研究群1個)、強襲スイマー支援艇2隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イタリア海軍(2009年)>:海軍航空部隊にはAV-8Bプラスが15機、TAV-8Bが2機、A109Eが1機、AB212ASW53機、SH-3D13機、SH-3D/Hが8機、EH101-110ASWが8機、EH101-112ASUWが4機、EH101-410UTYが8機、NH90-NFHが3機、P.180AMが3機配備されている。参考:月刊JWings10,09

 <イタリア海軍(2013年)>:兵力31900名。潜水艦6隻、空母コンテ・ディ・カブール、ジュゼッペ・ガリバルディ、デ・ラ・ペンヌ級駆逐艦4隻、フリゲート12隻(ルポ改級フリゲート2隻、マエストラーレ級フリゲート4隻、カルロ・ベルガミーニ級フリゲートなど)、コルベット5隻、哨戒艦10隻、哨戒艇4隻、ドック型輸送揚陸艦3隻、揚陸艇9隻、掃海艇10隻、測量・調査艦7隻、練習艦11隻、補給艦3隻、給水艦7隻、給油給水艦7隻、輸送艦6隻、救難艦1隻、灯台補給艦5隻、航洋曳船3隻、固定翼艦載機16機、艦載ヘリ57機、固定翼陸上機22機、陸上ヘリ1機を配備する。参考:月刊世界の艦船3,14

 <イタリア海軍(2015年)>:現役兵力30400名(うち航空隊2200名、海兵隊3000名)、予備役4900名。改サウロ級潜水艦4隻、212A型潜水艦2隻、コンテ・ディ・カブール級空母1隻、ホライズン級ミサイル駆逐艦2隻、デ・ラ・ペンヌ級駆逐艦2隻、カルロ・ベルガミーニ級フリゲート4隻、ルポ改級フリゲート2隻、マエストラーレ級フリゲート8隻、ミネルヴァ級コルベット5隻、コマンダンテ・シガラ・フリゴシ級哨戒艦6隻、カシオペア級哨戒艦4隻、エスポラトーレ級哨戒艇4隻、ガエタ級掃海艇8隻、レリチ級掃海艇2隻、ジュゼッペ・ガリバルディ級揚陸艦1隻、サン・ジョルジュ級揚陸艦3隻、LCVP15隻、LCM9隻、兵站・支援船106隻、AV-8Bハリアー14機、TAV-8Bハリアー2機、P-180哨戒機3機、AW101対潜ヘリ10機、AB212対潜ヘリ12機、NH90NFH対潜ヘリ17機、AW101早期警戒ヘリ4機、AW101輸送ヘリ8機、AB212軽輸送ヘリ6機、AIM-9L/-120空対空ミサイル、AGM-65空対地ミサイル、マルテMk2/S空対艦ミサイルを保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イタリア海兵隊>:即応性が高く、特殊部隊に分類されることもある。2013年にはサン・マルコ旅団(3個連隊)、カルロット連隊(補給部隊)、突撃艇部隊1個からなる。参考:月刊丸12,90、月刊世界の艦船3,14

 <イタリア海兵隊(1989年)>:サン・マルコ・グループと称する。兵力800名。大隊1個、訓練群1個、補給群1個からなる。VCC-1装甲兵員輸送車30両、LVTP-7水陸両用装甲兵員輸送車10両、81mm迫撃砲16門、106mm無反動砲8門、ミラン対戦車ミサイル6基を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イタリア海兵隊(2015年)>:海軍隷下で、兵力3000名。海兵連隊1個、海兵連隊(乗艦)2個、上陸用舟艇群1個、保安連隊1個、兵站連隊1個からなる。VCC-1装甲兵員輸送車24両、AAVP-7水陸両用装甲車15両、AAVC-7通信車3両、AAVR-7回収車1両、81mm迫撃砲ブラント13門、120mm迫撃砲ブラント10門、ミラン対戦車ミサイル、スパイク対戦車ミサイル、FIM-92A携帯地対空ミサイルを保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

<イタリア艦隊誘導弾攻撃>:ローマ撃沈を参照。

イタリア空軍>:1923年に創設された。1934年、CR32戦闘機の配備を開始。1936年、Z.501飛行艇を採用。SM.79爆撃機を量産。1937226日、G50戦闘機が初飛行。3月、Z.1007爆撃機が初飛行。1938年、MC200戦闘機を採用。1939年、CR42戦闘機の配備を開始。1941年、MC202戦闘機が就役。19437月、Re2005戦闘機を実戦投入。9月、第2次大戦で連合軍との休戦協定を締結し、連合軍の指揮下に入った。1957年、S-2対潜哨戒機の配備を開始。1958年、G.91戦闘機を採用。1972年、アトランティック対潜哨戒機の配備を開始。1979年、MB339練習機/軽攻撃機の配備を開始。20021211日、KC-767Aの導入契約を締結。2004220日、F-2000Aユーロファイターの配備を開始。20091月、C-27J輸送機12機の納入を完了。20113月、リビア爆撃作戦に参加。20159月、T-346A練習機が就役。123日、F-35A戦闘機初号機が引き渡された。2016229日から311日、レッドフラッグ16-02演習にF-2000Aユーロファイター戦闘機8機で参加。12月、G550早期警戒機2機の引き渡しが開始された。2017113-26日、スペイン空軍との共同異機種間戦闘訓練に第4航空連隊EF2000戦闘機3機で参加。65-16日、タクティカル・ウェポン・ミート2017に参加。20171122日、アトランティック対潜哨戒機がラストフライトを行い、1123日に退役した。2019530日、フランスからギリシャに向けフェリー中の日本エアコミューター向けATR-42-600と航空交通管制機関との連絡が途絶えたため、第36航空団F-2000A戦闘機2機をスクランブル発進させて様子を確認したところ、特に異常は見られず、そのまま帰投した。連絡が取れなくなった理由は不明。今後、F-35A109機、F2000A/TF-2000A106機ほど導入する予定である。参考:月刊JWings10,096,164,178,19、月刊軍事研究1,11、月刊航空ファン6,119,173,18

 <イタリア空軍(1978年)>:兵力70000名(うち徴兵24000名)、予備役29000名。F-104G戦闘機18機、F-104S/RF-104S/F-104G戦闘機54機、G-91Y戦闘機36機、G-91R攻撃機54機、F-104S全天候戦闘機72機、F-104S/RF-104S/F-104G偵察機54機、アトランティック14機、S-2トラッカー8機、PD808電子戦機6機、C-119輸送機28機、C-130H輸送機12機、P166M連絡機50機、SIAI208M連絡機40機、PD808連絡機8機、DC-9連絡機2機、HU-1611機、AB204ヘリ15機、TF-104G練習機20機、G91T練習機75機、MB326練習機100機、P166M練習機51機、AB47練習ヘリ、AB204練習ヘリ、AB204Bヘリ40機、AB47Jヘリ65機を配備する。ナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイル8個群を持つ。参考:軍事力バランス78年版

 <イタリア空軍(1989年)>:兵力73000名(うち徴兵30000名)、予備役28000名。トーネード98機(うち10機は三カ国共同訓練飛行隊に派遣、34機は保管中)、F-104S戦闘機102機、RF-104G偵察機30機、TF-104G転換訓練機24機、F-104戦闘機(保管中)19機、G-91Y攻撃機35機、G-91R偵察機36機、G-91T練習機45機、G-91(保管中)25機、MB339攻撃機15機、MB339訓練機65機、MB339航法援助較正機5機、アトランティック18機、MB326連絡機30機、C-130輸送機10機、G222輸送機34機、G222RM航法援助較正機4機、G222VS電子戦機2機、DC-9要人輸送機2機、ガルフストリームV要人輸送機2機、ファルコン50要人輸送機2機、P-166連絡機42機、P-166M連絡機36機、P-166DL3調査機6機、PD-808電子戦機8機、PD-808航法援助較正機6機、PD-808要人輸送機8機、SF260練習機30機、SIAI-208連絡機36機、HH-3F救難ヘリ30機、SH-3D連絡ヘリ2機、AB-212救難ヘリ35機、AB-412ヘリ4基、AB-47練習ヘリ20機、ナイキ・ハーキュリーズ96基、スパダ地対空ミサイルを保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <イタリア空軍(2009年)>:兵力43000名、航空機800機。航空基地ごとに航空連隊が編成されており、その隷下に飛行隊、連絡小隊、連絡救難小隊が編成される。保有航空機はF-2000A30機以上、TF-2000Aが9機以上、F-16Aブロック15ADF25機、F-16Bブロック15が4機、トーネードIDS60機、トーネードECR15機、AMX-152機、AMX-T18機、MB.339A25機、MB.339CD28機、MB.339PAN19機、M346が3機、A319CJが3機、B767T/Tが1機、ファルコン50が2機、ファルコン900EXが5機、C-130J11機、C-130J-3010機、C-27J11機、G222RMが1機、G222TCMが2機、G222VSが1機、KC-130Jが1機、アトランティックが16機、RQ-1Bが4機、P.180AM15機、P.166DL3-APHが5機、P.166DL3-SEM210機、S.208M25機、SF.260AMが1機、G.103Aが9機、AB212AM24機、HH-3F27機、SH-3D/TSが2機、NH500MDが2機、NH500E46機。参考:月刊JWings10,09

 <イタリア空軍(2015年)>:現役兵力41900名。タイフーン戦闘飛行隊4個、AMX戦闘攻撃飛行隊2個、トーネードIDS戦闘攻撃飛行隊2個、トーネードECR電子戦飛行隊1個、AMX戦闘攻撃偵察飛行隊2個、アトランティック哨戒飛行隊1個、KC-767A空中給油輸送飛行隊1個、AB-212ICO戦闘捜索救難飛行隊1個、捜索救難ヘリ飛行隊1個、VIP輸送飛行隊2個、C-130輸送飛行隊2個、C-27J輸送飛行隊1個、P-180点検飛行隊1個、訓練飛行隊8個(アクロバットチーム1個含む)、無人機飛行隊1個、防空大隊2個からなる。タイフーン戦闘機71機、トーネードIDS攻撃機53機、AMX攻撃機63機、AMX-T練習機8機、トーネードECR電子戦機15機、アトランティック哨戒機6機、ガルフストリームVSIGINT機1機、KC-767A空中給油輸送機4機、KC-130J空中給油輸送機2機、C-130J輸送機9機、C-130J-30輸送機10機、C-27J輸送機12機、P-180輸送機15機、S-208輸送機10機、A319CJ要人輸送機3機、ファルコン50要人輸送機2機、ファルコン900イージー要人輸送機2機、ファルコン900EX要人輸送機3機、M-346練習機3機、MB-339A練習機21機、MB-339CD練習機28機、MB-339PANアクロバット機21機、SF-260EA練習機30機、HH-139A救難ヘリ/VH-139A要人輸送ヘリ10機、NH-500Dヘリ2機、NH-500Eヘリ46機、HH-101A戦闘捜索救難ヘリ1機、HH-3F捜索救難ヘリ12機、SH-3D輸送ヘリ2機、AB-212ICO戦闘捜索救難ヘリ/HH-212捜索救難ヘリ29機、MQ-9A無人機6機、RQ-1B無人機5機、スパダ牽引式防空ミサイル、AIM-9L/-120空対空ミサイル、IRIS-T空対空ミサイル、AGM-88対レーダーミサイル、SCALP EG(ストームシャドー)巡航ミサイル、エンハンスド・ペイブウェイU誘導爆弾、エンハンスド・ペイブウェイV誘導爆弾を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イタリア軍

イタリア軍(1989年)>:総兵力390000名(うち徴兵272500名)、予備役584000名。エジプトにシナイ多国籍軍90名と掃海艇3隻、国連レバノン暫定軍UNIFIL51名、国連ナミビア独立移管援助グループUNTAG94名を派遣している。ナポリにNATO南欧連合軍司令部があり、アメリカ軍が陸軍3900名、海軍5200名、空軍5800名を駐留させている。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イタリア軍(2015年)>:現役兵力174500名(陸軍102200名、海軍30400名、空軍41900名)、予備役18300名(陸軍13400名、海軍4900名)、準軍事組織182350名。統合特殊作戦コマンド隷下に陸軍第9強襲空挺連隊、第4アルピニ空挺連隊、心理戦連隊1個、特殊作戦ヘリ連隊1個、海軍特殊作戦グループ1個、潜水員グループ1個、空軍第17突撃侵攻航空団1個、憲兵隊特殊作戦グループ1個を置く。アテナ−フィダス通信衛星1基、シクラル通信衛星3基、コスモ(スカイメド)偵察衛星4基を保有する。レゾリュート・サポート作戦でアフガンに740名、山岳歩兵旅団司令部1個、AW129ヘリ、CH-47ヘリ、NH90ヘリ、UNAMAオブザーバー2名、アルバニアにOSCE要員3名、ボスニア・ヘルツェゴビナにOSCE要員7名、エジプトにMFO78名、沿岸哨戒ユニット3個、アタランタ作戦でアデン湾・インド洋にミサイル駆逐艦1隻、インヒアラント・リザルブ作戦でイラクに120名、クウェートにトーネード4機、MQ-9A無人機2機、KC-767A空中給油輸送機1機、レバノンにUNIFIL要員1188名、山岳歩兵旅団司令部1個、機械化歩兵大隊1個、ヘリ大隊1個、工兵中隊1個、通信中隊1個、マリにEUTMマリ要員15名、MINUSMA要員2名、マルタに25名、HH-212ヘリ2機、EU NAVFOR MEDで地中海に空母1隻、NATOSNMG2で地中海にミサイル・フリゲート1隻、セルビアにKFOR要員542名、偵察戦闘群司令部1個、憲兵ユニット1個、コソボにOSCE要員13名、ウガンダにEUTMソマリア要員98名、ウクライナにOSCE要員20名を派遣している。USEUCOM11360名(陸軍3900名、ストライカー旅団1個、海軍3600名、USNAVEUR司令部1個、第6艦隊司令部、洋上哨戒飛行隊1個、P-3C哨戒機9機、空軍3850名、戦闘航空団1個、F-16C/D戦闘機21機、海兵隊10名)が駐屯している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イタリア憲兵隊>:Carabinieri。国防省の組織で、軍からも司法警察からも独立している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イタリア憲兵隊(1989年)>:隊員105000名。地域警備担当の旅団9個、地域24個、グループ100個、機動防衛担当の機械化旅団1個、大隊13個、空挺大隊1個、騎兵大隊2個、航空・海上部隊からなる。M-47戦車37両、タイプ6616装甲車、M-6装甲車80両、M-8装甲車、フィアット242/18AD装甲兵員輸送車470両、M113装甲兵員輸送車240両、AB-47ヘリ23機、A109ヘリ2機、AB-205ヘリ5機、AB-206ヘリ23機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イタリア憲兵隊(2015年)>:隊員103750名。ヘリコプター群1個、機動師団1個、第2旅団、海上部隊からなる。VCC-2装甲車2両、P-180輸送機1機、AB-412ヘリ24機、AW109ヘリ19機、哨戒艇69隻を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

イタリア公安警備隊(1989年)>:イタリア内務省隷下で、隊員数80400名。機動部隊11個からなる。タイプ6616装甲車40両、P-64B固定翼機3機、P-68固定翼機5機、AB-47ヘリ1機、A109ヘリ12機、AB-206ヘリ20機、AB-212ヘリ9機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イタリア財務警察(1989年)>:イタリア財務省隷下で、隊員数53000名。地方11個、地域20個、グループ120個からなる。A109ヘリ10機、NH-500Cヘリ40機、NH-500Dヘリ16機、NH-500Mヘリ12機、内海哨戒艇68隻、小型艇300隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<イタリア第1>:SS29擲弾兵師団を参照。

イタリア本土上陸作戦>:北アフリカ戦終結後、アメリカ軍はイギリスに戦力を集中してフランスへの上陸作戦を行おうと考えたが、イギリスはイタリアを制圧して地中海を確保し、東部戦線に次ぐ第2戦線を構築することを提案。連合軍にはフランス上陸に十分な戦力が揃っておらず、まずは地中海安定化のためシチリア島を制圧することにした。1943710日、ハスキー作戦を開始。720日、ムッソリーニが失脚したため、連合軍はイタリア本土への直接侵攻を行う計画を練り始めた。725日にイタリア首相となったバドリオ元帥はイギリスと秘密交渉を持ち、ローマ近郊に15個師団、ローマに空挺1個師団の派遣を求めた。しかし第82空挺師団幹部がローマで秘密調査を行ったところ、イタリア内部の方針が統一されておらず、上陸した連合軍が反撃で壊滅しかねない事が判明。ローマ近郊に一気に上陸するのではなく、シチリア島の目と鼻の先にあるイタリア南端に上陸することにした。参加部隊は連合軍第15軍集団で、アメリカ第5軍(第3・第34・第36・第45歩兵師団、第82空挺師団、第1機甲師団、3個レンジャー大隊からなる第6軍団と、第7機甲師団、第46・第56歩兵師団、特殊任務旅団からなる第10軍団を隷下に置く)、イギリス第8軍(第1空挺師団、インド第1師団、第78歩兵師団からなる第5軍団と、カナダ第1歩兵師団、第5歩兵師団からなる第13軍団を隷下に置く)である。まずイギリス第8軍がメッシナ海峡を挟んだ向かい側に上陸(ベイタウン作戦)、継いでイギリス第1空挺師団がタラントに上陸(スラップスティック作戦)し、これらを陽動としてサレルノにアメリカ第5軍が上陸(アバランチ作戦)するという手順を取ることにした。イタリア防衛を担当するのはドイツ南方軍総司令部(総司令官はケッセルリンク空軍元帥)で、南部イタリアには第10軍が展開、隷下の第14装甲軍団(第26装甲師団、ヘルマン・ゲーリング空軍装甲師団、第3装甲てき弾兵師団、第15装甲てき弾兵師団)と第76装甲軍団(第16装甲師団、第29装甲てき弾兵師団、第1降下猟兵師団)が配置に付いていた。93日、ベイタウン作戦開始。98日にイタリアは降伏したが、ドイツ軍はアクゼ作戦を発動、イタリア全土を掌握した。99日、連合軍はスラップスティック作戦とアバランチ作戦を開始。101日、アメリカ軍がナポリを制圧。ドイツが使用不能にしていたナポリ港を1ヶ月で復帰させた。103日、連合軍はドイツ軍がテルモリ−シキレ北方−ヴォルトゥルノ川北岸に敷いたヴィクトール・ラインへの攻勢を開始。1015日、ドイツ軍は後方陣地への後退を開始し、1019日までに連合軍はヴィクトール・ラインを突破した。次いで連合軍は山間部に設けられたバルバラ・ラインへの攻撃を開始。ドイツ軍は遅滞戦闘に努め、11月初めまで粘り抜いてグスタフ・ライン(フォッサチェシア−サングロ川北岸−テレーレ−カッシーノ−ティレニア海ガリグリアノ河口)へと後退を始めた。11月のテヘラン会談で、既に苦戦の様相を呈していたイタリアに関しては、ローマまで何とか占領することになり、グスタフ・ラインへの攻撃と、グスタフ・ライン後方のアンツィオへの上陸作戦が決まった。115日、アメリカ第5軍はドイツ軍が国道6号線の通る要所であるミニャーノ渓谷を守るために敷いたベルンハルト・ラインへの攻勢を開始。しかしアメリカ第5軍はドイツ5個師団に阻止されてしまい、1115日から2週間の休養に入ることになった。イギリス第8軍は攻勢を継続し、1115日にはグスタフ・ライン前面のサングロ川に橋頭堡を築いた。1119日、ドイツ軍はグスタフ・ラインに後退を完了。1120日、連合軍はグスタフ・ラインに攻撃を開始する予定だったが、悪天候で順延となった。1128日、イギリス第8軍がグスタフ・ラインへの攻勢を開始。アペニン山脈が邪魔で包囲機動は不可能だった。122日、アメリカ第5軍がベルンハルト・ラインへの攻勢を再開。12月後半、アメリカ第6軍団はシングル作戦準備に入り、アメリカ第2軍団と交替した。1227日、イギリス軍はグスタフ・ライン後方のオルトナを占領。しかしアペニン山脈が邪魔で包囲機動は不可能だった。19441月半ば、アメリカ第5軍はベルンハルト・ラインを突破。117日、連合軍はシングル作戦をごまかすため、グスタフ・ラインに総攻撃を開始。アメリカ第2軍団、イギリス第10軍団、フランス遠征軍団がグスタフ・ライン左翼のドイツ第10軍に突入した。最左翼に配置されたイギリス第10軍団はガリグリアノ川の渡河に成功。118日、ドイツ軍は予備の第29・第90機甲てき弾兵師団を投入。120日、モンテ・カッシーノ山周辺のドイツ陣地にアメリカ第2軍団が攻撃を開始。第36歩兵師団はラピド川の渡河を試みたが、ドイツ軍の阻止砲火にあって1681名が戦死、翌日には撤退する羽目になった。121日午後、アメリカ第6軍団36000名と重装備を乗せた253隻の輸送船団がナポリを出発。122日早朝、第6軍団はシングル作戦を開始、アンツィオに上陸した。124日、最右翼に配置されたフランス遠征軍団がラピド川を渡河して前進。アメリカ第2軍団と共にカッシーノ山攻略に入った。アメリカ第34歩兵師団を先頭に、第36歩兵師団第142歩兵連隊、アルジェリア第3歩兵師団、モロッコ第2歩兵師団が攻撃を開始したが、ドイツ第44歩兵師団や第5山岳師団の頑強な抵抗にあって211日に撃退された。アメリカ第2軍団は損害を補充するため後退し、代わりにイギリス第8軍からニュージーランド第2軍団が配置されて213日から再度攻撃を開始した。215日、カッシーノ山頂にある修道院が砲兵観測所になっているとみた連合軍は、爆撃機230機と砲兵で砲爆撃を加えて瓦礫の山にしたが、実際には僧侶や避難民しかおらず、多数が死傷した。夜、インド第4歩兵師団がカッシーノ山に威力偵察を兼ねた夜襲を仕掛けたが、ドイツ第1降下猟兵師団の反撃で撃退された。216日夜、インド第4歩兵師団が再び威力偵察を行ったが、やはり撃退された。217日夜、インド第4歩兵師団は全面攻撃を行ったが、またも撃退された。218日、ニュージーランド第2師団はカッシーノ市街に入り、鉄道駅を占領していたが、ラピド川への架橋に手間取っているうちにドイツ第90装甲てき弾兵師団の反撃を受けて退却した。315日、ニュージーランド第2軍団は再度カッシーノへの攻勢を開始。ニュージーランド第2師団がカッシーノ市街に、インド第4歩兵師団がカッシーノ山に向かったが、両師団で4600名の損害を出して失敗した。これを受けて連合軍はイギリス第8軍の大半をグスタフ・ライン南翼突破にあてるダイアデム作戦を行うことになった。511日、連合軍がダイアデム作戦を開始。参考:歴史群像12,104,11、月刊丸2,07

イタリア陸軍>:1928年、CV28快速戦車を導入。1931年、L3タンケッテの配備を開始。1932年、AB611装甲車の量産を開始。1940年、L6/40軽戦車、M13/40中戦車を制式化。AB40装甲車の量産を開始。1941年、M14/41中戦車を制式化。1955年、M47戦車の運用を開始。1971年からレオパルト1A1IT/1A2IT戦車を輸入。1972年、SM.1019観測連絡機を採用。1990年、A-129攻撃ヘリの量産を開始。1991年、チェンタウロB1装甲戦闘車400両の配備を開始。1995年、C1主力戦車の量産を開始。20025月、VCC-80歩兵戦闘車の配備を開始。200712月、TTH-90汎用ヘリの導入を開始。2009年からフレシア歩兵戦闘車を配備。201410月、ICH-47Fチヌーク輸送ヘリ16機の配備を開始。参考:月刊JWings1,15、月刊PANZER7,98、世界の軍用機1982

 <イタリア陸軍(1977年)>:兵力218000名(うち徴兵163000名)、予備役550000名。3個軍団1個機甲師団3個機械化師団、1個独立機械化旅団、5個独立自動車化旅団、5個アルプス旅団、1個空挺旅団、2個水陸両用大隊、1個ミサイル旅団1個ランス大隊4個ホーク大隊からなる。M-47中戦車700両、M-60中戦車200両、レオパルト1戦車600両、タイプ6616装甲車30両、M106/M113/M548/M577装甲車4000両、105mm/155mm/203mm牽引砲1500門、M109自走榴弾砲/M107自走カノン砲369門、120mm迫撃砲、ランス地対地ミサイル、57mm/106mm無反動砲、モスキート/コブラ/SS11TOW対戦車ミサイル、40m高射機関砲、インディゴ/ホーク地対空ミサイル、L19軽飛行機40機、L21軽飛行機39機、SM1019軽飛行機80機、AB47G/Jヘリ70機、AB204Bヘリ36機、AB205Aヘリ99機、AB206A/A1ヘリ141機、CH-47Cヘリ26機を装備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イタリア陸軍(1989年)>:兵力265000名(うち徴兵215000名)、予備役52万名。野戦軍は3個軍団、1個装甲騎兵大隊、1個防空大隊、4個航空団からなる。軍団のうち1個は機甲旅団3個、機械化旅団4個、重軍団支援旅団1個を隷下に置く。もう1個は機甲旅団1個、機械化旅団4個、自動車化旅団1個、砲兵大隊1個を隷下に置く。残る1個は山岳軍団で、山岳旅団5個、砲兵大隊1個を隷下に置く。地域防衛部隊は独立機械化旅団2個、独立自動車化旅団2個、緊急介入部隊(空挺旅団)1個、自動車化旅団1個、ヘリ部隊1個、水陸両用戦連隊1個、機甲大隊1個、歩兵大隊3個、工兵大隊3個、歩兵訓練大隊29個からなる。予備役部隊は、学校からの緊急召集で編成される山岳旅団1個、機械化旅団1個、機甲旅団1個と、動員で編成される歩兵旅団1個、機甲旅団1個、歩兵旅団3個、砲兵大隊7個からなる。M-47戦車500両(うち予備役200両)、M-60A1戦車300両、レオパルト1戦車920両、M-106装甲兵員輸送車421両、M-113装甲兵員輸送車2486両、M-548装甲車211両、M-577装甲車199両、VCC-1/-2装甲車1469両、105mm360門、FH-70榴弾砲164門、M-114榴弾砲423門、M-115榴弾砲23門、M-109G/L自走砲260両、M-110A2自走砲18両、FIROS-30多連装ロケット発射機7両、MLRS2両、81mm迫撃砲1205門、120mm迫撃砲M-201950門、ランス発射機6基、TOW発射機432基、TOW搭載M113装甲車270両、ミラン発射機1000基、アピラス・ロケットランチャー500基、80mm無反動砲フォルゴレ800門、自走25mm高射機関砲SIDAM2535両、40mm高射機関砲252門、ホーク126基、スティンガー150基、SM-1019観測機59機、O-1E観測機32機、A-47G/Jヘリ22機、A-109ヘリ21機、AB-205Aヘリ92機、AB-206ヘリ137機、AB-212ヘリ14機、AB-412ヘリ11機、CH-47Cヘリ30機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イタリア陸軍(2009年)>:陸軍航空隊にはA109CM19機、A129CBT15機、AB205A-125機、AB206A/C-124機、AB21217機、AB41220機、CH-47C21機、NH90-TTHが4機、Do228-212が3機、P.180Eが3機配備されている。参考:月刊JWings10,09

イタリア陸軍(2015年)>:現役兵力102200名、予備役13400名。軍団(NRDC-IT)司令部1個、フリウーリ師団(アリエテ機械化旅団、ポッツオーロ・デル・フリウーリ騎兵旅団)、アックイ師団(ピネローロ機械化旅団、機械化擲弾兵旅団、ガリバルディ・ベルサリエーリ機械化旅団、アオスタ機械化旅団、サッサリ軽機械化旅団)、トリデンティナ山岳師団(山岳旅団2個)、フォルゴレ空挺旅団(騎兵連隊1個、パラシュート連隊3個、砲兵連隊1個、戦闘工兵連隊1個、兵站連隊1個)、航空旅団1個(航空連隊3個)、砲兵コマンド1個(砲兵連隊3個、NBC連隊1個)、防空コマンド1個(地対空ミサイル連隊2個、防空砲兵連隊1個)、工兵コマンド1個(工兵連隊2個、ポンツーン橋連隊1個、軍民協同連隊1個)、電子戦・通信コマンド1個(電子戦・ISR旅団1個、通信旅団1個)、兵站コマンド1個(兵站連隊2個、医療ユニット1個)からなる。C1戦車160両、B-1戦闘偵察車259両、VAB核生物化学偵察車14両、VCC-80歩兵戦闘車200両、VBM歩兵戦闘車155両、Bv-206装甲兵員輸送車246両、M113装甲兵員輸送車115両、プーマ装甲兵員輸送車529両、バッファロー装甲兵員輸送車6両、クーガー装甲兵員輸送車10両、AAVP-7水陸両用装甲車14両、AAVC-7水陸両用通信車1両、AAVR-7水陸両用回収車1両、155mm自走砲M109L124両、155mm自走砲PzH200068両、155mm榴弾砲FH-70163門、MLRS21両、81mm迫撃砲ブラント212門、81mm迫撃砲エクスパル58門、120mm迫撃砲ブラント183門、120mm迫撃砲RT-F1142門、スパイク対戦車ミサイル、ミラン対戦車ミサイル、80mm無反動砲フォルゴレ、Do-228軽輸送機3機、P-180軽輸送機3機、AW129CBT攻撃ヘリ43機、AB-412汎用ヘリ15機、CH-47C輸送ヘリ13機、CH-47F輸送ヘリ6機、NH90TTH輸送ヘリ31機、AW109ヘリ6機、AB-205ヘリ34機、AB-206ヘリ26機、AB-212ヘリ15機、SAMP-T地対空ミサイル16基、スカイガード/アスピーデ地対空ミサイル32基、FIM-92A携帯地対空ミサイル、25mm自走高射機関砲SIDAM64両、レオパルト1装甲工兵車40両、レオパルト1装甲回収車137両、ビーバー戦車橋64両、ミニフレイル地雷原処理車3両を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

<位置依存式ショック・アブソーバー>:ショック・アブソーバーを参照。

市岡又夫>:日本海軍エース。大正14年、岐阜県生まれ。海軍丙種飛行予科練習生となり、昭和187月に飛行練習生課程を修了、9月末に第204航空隊に配属された。1225日、ラバウルの迎撃戦で初戦果を挙げた。昭和191月末、第253航空隊に転属。419日に戦死した。公認撃墜機数11機。最終階級は一飛曹。参考:日本海軍戦闘機隊

位置角>:Angle of position。自位置に対する標的・目標の位置のこと。正面が0度、真右が90度、真後ろが180度、真左が270度である。参考:月刊JWings10,09別冊付録

市ヶ谷基地>:航空自衛隊の基地。1981210日、補給本部が新編された。1997121日、補給本部が十条基地に移駐した。2000426日、航空幕僚監部が檜町地区から移転してきた。2014527日、体育館で長縄跳び大会を実施。空幕運用支援・情報部が優勝、空幕総務部Aチームが準優勝した。201795-8日、防衛省厚生棟多目的ホールで98219点の作品を集め第29回空自市ヶ谷基地美術展を開催。20183月、第1高射群市ヶ谷分遣班が配備された。参考:月刊航空情報5,18、月刊JWings8,14、月刊航空ファン1,15、朝雲、補給本部ホームページ

 <市ヶ谷基地(2015年)>:航空幕僚監部、航空システム通信隊、航空中央業務隊、航空警務隊が所在している。参考:月刊航空情報5,18、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

市ヶ谷台ツアー>:防衛省が200061日から実施しているツアーで、防衛省敷地内にある各施設を二時間強かけて巡るものである。平日の午前と午後に1回ずつ実施され、微妙に回る場所が違う。事前予約制(9人以下は2日前まで、10人以上は2週間前まで)で、インターネットでも受け付けている。見学者は20008月に1万人、20017月に5万人、20037月に10万人、200712月に20万人、20105月に25万人を達成。201065日には10周年記念セレモニーを行った。2012824日、市ヶ谷記念館前で見学者30万人達成記念セレモニーを実施。2017322日、市ヶ谷記念艦前で見学者40万人達成記念セレモニーを実施。参考:朝雲、MAMOR vol.43vol.81vol.86

市ヶ谷駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は東京都新宿区市谷本村町5-1。面積227000平方メートルで、標高40mと小高い地点にある。明治7年に陸軍士官学校が設置され、昭和16年には陸軍省、参謀本部、大本営陸軍部が置かれた。太平洋戦争後は本館2階が極東国際軍事裁判法廷として使用され、更にアメリカ極東軍司令部などの将校宿舎として使用された後、1958年に返還されて市ヶ谷駐屯地となった。1959年、幹部学校が小平駐屯地から移駐した。1994年、東部方面総監部が朝霞駐屯地に、幹部学校が目黒駐屯地に移駐した。1999年、第32普通科連隊が大宮駐屯地に移駐した。2011422日、中央警務隊編成完結行事を実施。2015916日、偕行社がメモリアルゾーンで平成27年度市ヶ谷台慰霊祭を実施。2018327日、通信団がシステム通信団に改編された。参考:JGround Vol.23、朝雲、ストライク・アンド・タクティカルマガジン3,13、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015、陸上自衛隊幹部学校・目黒駐屯地ホームページ、月刊軍事研究6,18

 <市ヶ谷駐屯地(2015年)>:陸上幕僚監部、通信団本部、中央情報隊本部、中央業務支援隊、中央管制気象隊、警務隊本部、中央警務隊、第302保安警務中隊、情報処理隊、基礎情報隊、中央会計隊、会計監査隊、研究本部システム開発隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

市川忠一>:日本陸軍エース。大正7年、東京府生まれ。昭和112月、少年飛行兵として熊谷陸軍飛行学校に入学、昭和1211月に卒業し、飛行第9戦隊所属となった。昭和149月上旬、ノモンハン事件に参加。空戦の機会は無く、会寧に帰還。昭和1412月、航空兵曹長に昇進。昭和16年、航空審査部に転属。昭和1712月、航空士官学校に入学、昭和188月に卒業し、飛行第78戦隊所属となった。ニューギニア戦線に投入されたが、空中火災を起こして負傷、本土に帰還し、12月に飛行第244戦隊所属となった。昭和1911月から本土防衛に参加。昭和20415日、B-29爆撃機の夜間迎撃で2機を撃墜、1機を撃破し、1機に体当たりを行って落下傘降下した。64日、個人感状が授与され、大尉に昇進。終戦まで防空任務に従事した。戦後は民間航空の操縦士となったが、昭和299月に事故で死亡した。公認撃墜数10機。最終階級は大尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

位置誤差>:Position Error。対気速度計の取り付け位置により生じる誤差のこと。機体近くの気流は、機体から離れている自由気流に比べ、速度や方向が違っているため、ここに対気速度計を取り付けてしまうと誤差が生じる。機首が最も位置誤差が少なく、次いで主翼前縁だが、後者は超音速時に機首からの衝撃波を喰らう恐れがあるので注意。参考:航空用語事典増補改訂版

<一次操縦翼面>:基本三舵を参照。

一撃講和論>:連合軍に一度強烈なダメージを与え、連合国との有利な講和を図るという方針。長期にわたる消耗戦を戦うことができない日本軍が太平洋戦争で絶対国防圏を突破された時、残された道は一発に賭ける事だけだった。日露戦争でバルチック艦隊を撃滅して講和に持ち込んだ事の延長線上であり、国家総力戦を理解していたとは言い難い。参考:歴史群像12,038,17

<異中心式閉鎖器>:閉鎖器を参照。

一蓮托生>:日本海軍潜水艦乗員の合い言葉。艦長から兵まで同じ釜の飯を食べ、同じように汚れて任務に就き、武運拙く海に沈めば閻魔様の前に引き出されて地獄の旅路も全員一緒であることから。参考:潜水艦気質よもやま物語

<イッカー3兄弟>:ホタルイカのイッカー3兄弟を参照。

<いつき>:MSC-602(掃海艇)を参照。

一揆>:プッチ。国軍の一部が、正規の指揮官の下に、正規の編制を保ったまま、反政府行動を起こすこと。太平洋戦争終戦直後の厚木海軍航空隊抗命事件もこれにあたる。参考:月刊軍事研究8,95

厳島>:日本海軍厳島型海防艦Itsukushima。フランスに発注し、明治2493日に竣工した。主缶不調で回航が遅れ、明治25521日に品川に到着した。参考:月刊世界の艦船9,13増刊、7,17

厳島>:日本海軍厳島型敷設艦Itsukushima。昭和41226日竣工、敷設艦に類別された。昭和5330日から49日、東京に寄港。525-27日、東京に寄港。昭和10年に重心降下改装を施し、上部重量物を撤去、水線幅を短縮し、バルジやバラストを装着した。8cm高角砲も13mm連装機銃に換装し、探信儀、L型音響測深儀、九三式爆雷投射機を搭載された。太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第17戦隊に所属してパラオに展開していた。緒戦では米アジア艦隊に備えてフィリピンのサンベルナルジノ海峡に機雷300個を敷設した他、昭和1713日からダバオ、タラカン、バリクパパン方面で敷設・掃海任務に従事した。310日、第2南遣艦隊に転属し、蘭印方面で護衛任務に就いた。121日からクーパンとホランジアに陸戦隊を輸送。昭和181月、ホランジア航空基地設営に協力。3月、日本のタンカーを狙うアメリカ潜水艦に備え、ボルネオ島北岸のミリ泊地に機雷を敷設した。7月、オーストラリアから出撃するアメリカ潜水艦に備え、ジャワ島東のロンボク水道に機雷を敷設した。同月、イタリア特設巡洋艦カリテアをスマトラからシンガポールまで護衛。8月、イギリス極東艦隊の反撃に備え、カーニコバル諸島沖に機雷を敷設した。9月からパラオ、シンガポール、スラバヤで敷設と護衛を実施。昭和193月からダバオ・パラオ間に機雷を敷設。昭和196月、渾作戦に参加。824日、メナド付近でB-25の爆撃を受けて航行不能となった。92日、曳航されている途中にB-25の攻撃を受けて被弾した。1017日、輸送任務中にジャワ海バウエアン島の東でオランダ潜水艦ツワルドビッチの雷撃を受けて沈没した。昭和20110日に除籍された。参考:小艦艇入門、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史、写真集日本の小艦艇、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

厳島型>:日本海軍海防艦。艦名から三景艦とも呼ばれた。清国北洋水師定遠級装甲艦に対抗するのが主任務で、小型船体に32cm砲1門を装備、前甲板搭載型と後甲板搭載型1隻ずつで定遠級1隻を攻撃する。という運用法に無理があり、4番艦は建造が中止され、1-2番艦はフランスFCM社、3番艦は横須賀で建造された。船体に対して主砲が大きすぎ、舷側を射撃しようとすると船体もそちら側に傾斜してしまうため仰角が取れず、砲撃すると反動で針路が変わってしまう。日本海軍軍艦として初めて水雷防御網を装備した。常備排水量4287トン。兵装はカネー社製38口径32cm単装砲1門(1・3番艦は前甲板、2番艦は後甲板)、アームストロング社製40口径12cm速射砲、アームストロング社製47mm速射砲、36cm魚雷発射管4門。1番艦厳島、2番艦松島、3番艦橋立が明治24年から竣工した。参考:月刊世界の艦船7,17、歴史群像6,16

厳島型>:日本海軍敷設艦Itsukushima型。日本海軍が初めて最初から敷設艦として建造した艦であり、2番目のディーゼル推進水上艦でもある(1番目は初代剣埼)。敵制海権下での強行敷設が主任務で、当初は敵駆逐艦を排除できる14cm砲を備えた排水量3000トン級の大型艦になる予定だったが、予算の関係で2000トンになったため、兵装は落とさず、速力を17ノットに抑えて解決した。船型は平甲板型で、上甲板には前から前甲板、前部上構(前部に14cm砲、後端に艦橋、艦橋上面後端に前部マスト)、ボートダビット、探照灯台、煙突、14cm砲、後部ポールマスト、敷設指揮塔、14cm砲、後甲板と並ぶ。艦橋よりも後ろの中甲板はほぼ全て機雷庫になっていて、内部に機雷敷設軌条6条が敷かれており、艦尾に機雷敷設口6個があって中央の4個が後方に張り出している。ボートダビット後方から艦尾にかけての上甲板にも機雷敷設軌条が4条敷かれていて、艦内と合わせ機雷10個を同時に敷設できた。後甲板中央に最大射程1500mの試作遠距離用爆雷投射機を装備する。全長107.5m、水線長104.00m、垂線間長100m、最大幅12.75m、吃水3.22m、基準排水量1970トン、公試排水量2080トン。主機はラ式一号ディーゼル3基3軸3000馬力(外側2軸は第1次大戦時に接収したUボートからの流用、中央1軸はそれをコピーした国産という説もある)、最大速力17.0ノット、燃料搭載量400トン、航続距離は10ノットで5000海里。兵装は三年式50口径14サンチ単装砲3門(前部上構前端、煙突後方、後部マスト後方)、三年式40口径8サンチ単装高角砲2門、機雷敷設軌条艦内6条+甲板上4条、五号機雷500個または六号機雷300個、ヴィッカーズ社製遠距離爆雷投射機1基、爆雷18個。乗員221名。厳島が昭和4年に竣工した。主砲と艦橋が大型で復原性が低く、昭和10年に改善工事を受けている。太平洋戦争中に九六式25mm連装機銃と保式/九三式13mm連装機銃を計5基追加した。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、敷設艦 工作艦 給油艦 病院船

厳島丸>:日本海軍給油船Itsukushima maru。元は日本水産の捕鯨船団用タンカーで、優秀船舶建造助成施設を利用して建造された。垂線間長152.4m、幅19.81m、深さ11.28m、満載吃水8.98m、総トン数10007トン、重量トン数13399トン。主機は川崎MAND8ZU72/120型ディーゼル1基1軸11693馬力、航海速力17ノット、最大速力19.791ノット。昭和121220日竣工。太平洋戦争で日本海軍に徴用され、昭和195月に連合艦隊付属となった。10月、捷一号作戦に参加。1027日、反転帰投中にボルネオ島北方バラバク海峡でSS-320バーガルの雷撃により航行不能となり漂流。111日、ボルネオ島マルズ湾(アメリカ資料ではタウイタウイ沖)で爆撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船4,15

一札入れる>:日本海軍士官のスラングで、主計長に借用証書を渡して給料の前借りをすること。参考:日本海軍史

一茶寮事件>:元衆議院議員・経済学者の渡辺銕蔵氏が昭和192月に料亭一茶寮で発言した内容により、憲兵隊の取り締まりを受けて流言飛語で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた事件。渡辺氏は太平洋戦争開戦前から三国同盟反対・親欧米を主張し、戦時中もドイツ敗北や大本営発表の矛盾を公言していた。この日も経済団体公演後の懇親会で、アメリカが昭和18年秋までに保有した戦艦23隻(新聞報道に基づく。実際には25隻)に対して大本営発表の総撃沈数が29隻もある、ラバウル航空戦でキルレシオが1:13というのは常識の埒外だと鋭い指摘を行い、太平洋戦争には勝てないと主張したため、憲兵隊の事情聴取を受ける羽目になった。その取調中にも主張を曲げなかったため、憲兵隊は検事局に送局。憲兵隊の方では大した事件でないと判断したらしく、手錠や腰縄は付けずに帰りの切符の手配までしているが、検事局では思想犯担当検事に同様の主張を繰り返したためか裁判にかけられ、海軍刑法・臨時取締法違反で執行猶予付き有罪判決を受けた。判決理由は人心を惑わす言論をしたというもので、大本営発表の正誤については無視している。参考:月刊丸3,14

逸出圏>:大気を構成する分子や原子が、分子運動によって地球の重力圏を離れ、脱出していく領域で、高度1000kmあたり。参考:航空用語事典増補改訂版

<一神教聖戦団>:イラク聖戦アルカイダ機構を参照。

一斉撃ち方>:砲術長の号令により砲塔や砲を同じ照尺で一斉に発砲し、弾着を一括観測して修正していく方法。イギリス海軍のパーシー・スコット少将が日露戦争前に提唱した。参考:月刊丸10,93、月刊世界の艦船12,11

 <一斉打方(日本海軍)>:日露戦争後の明治40年頃に導入され、大正8年の艦砲射撃教範全面改定で正式に採用された。ただこの頃は砲塔駆動用水圧機の性能が不十分で、砲塔に装備する砲を全門同時に発射すると次弾発射準備が整うまでに相当の時間を要したため、各砲塔あたり1門ずつ発射せざるを得ず、方位盤を使用した交互撃ち方のことを一斉打方と称していた(ちなみに一斉撃ち方のことは斉発打方と称した)。昭和12年頃に漸く水圧機が改善したため、昭和13年に艦砲射撃教範が改訂され、従来の斉発打方が一斉打方に、従来の一斉打方が交互打方に改称された。参考:月刊丸7,14

一装用>:最高級、上等を示す日本陸軍用語。新品の被服もこう呼ばれ、観兵用や宮城御守衛などの際に着用する。参考:帝国陸海軍事典、軍医サンよもやま物語

一体型反応装甲>:爆発性反応装甲を複合装甲などの主装甲と一体化したもの。分厚い主装甲内部に内蔵されるため、爆薬の増量が可能。ロシアのコンタクト5がこれにあたる。参考:火器弾薬技術ハンドブック

一体型プロペラ>:プロペラ翼と付け根部分(ボス)を一体として製造したもの。参考:艦船メカニズム図鑑

<一体型履帯>:履帯を参照。

<一体構造>:インテグラル構造を参照。

<イッチェン>:K227(フリゲート)またはRPL09(揚陸艇)を参照。

一般海曹候補生>:海上自衛隊の一般曹候補生制度。横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各教育隊(女性自衛官は横須賀教育隊)での教育訓練2年9ヶ月で3等海曹への受験資格を獲得し、7年以内に大部分が3等海曹となる。参考:MAMOR vol.90、月刊JWings7,18

一般幹部候補生>:自衛隊の幹部候補生採用制度。大卒程度試験、院卒者試験、歯科試験、薬剤科試験で合格すると採用され、曹長として幹部候補生学校に入校、1年間の教育を受けて三尉(院卒者試験合格者は二尉)となる。参考:JWings5,165,18

一般空曹候補学生>:19764月に創設された。20084月に廃止され、一般空曹候補生に改定された。参考:防府南基地ホームページ

一般空曹候補生>:航空自衛隊の一般曹候補生制度。20084月に開始され、一般空曹候補学生と空曹候補士は廃止されている。一般空曹候補生課程教育を受け、修了すると概ね術科学校に進み、職種別の専門教育を受ける。参考:防府南基地ホームページ

一般空曹候補生課程>:航空自衛隊の一般空曹候補生教育。第1教育群と第2教育群(女性自衛官は第1教育群)で4ヶ月弱行われる。日課に従い共同生活を送りつつ、座学や実技を受講し、導入期点検、基地研修、行進露営訓練などの行事をこなす。題目はだいたい自衛官候補生課程と同じだが、内容は一段上で、教育期間も1週間くらい長い。参考:月刊JWings9,16

<一般工具MCH用>:自衛隊の機器。スナップオン・ツールズ製。参考:月刊軍事研究10,10

<一般工具SH−60J/K用>:自衛隊の機器。スナップオン・ツールズ製。参考:月刊軍事研究4,17

<一般車両用レーザ受信装置>:自衛隊の機器。日立国際電気製。参考:月刊軍事研究7,11

<一般車両用レーザー送信装置>:自衛隊の機器。日立国際電気製。参考:月刊軍事研究5,10

一般術科教育>:海上自衛隊の基本教育の1つ。海自幹部や曹士が素養教育を修了した後、配置される先で必要となる特技を術科学校で教育するものである。海士は教育の後に初級特技員の資格を得る。その後三曹になると中級特技課程(普通科)の教育を受けて中級特技員となり、一曹で上級特技課程(高等科)の教育を受けて上級特技員の資格を得、その部門のエキスパートになる。幹部の場合は、部門エキスパートである上級特技員の指揮を執り、その技術を最大限に活かすための知識や運用といった教育を受ける必要があり、幹部候補生学校での素養教育を修了して初任幹部になると術科学校に入校して初級幹部特技課程(任務課程)の教育を受ける。その後二尉または一尉で中級幹部特技課程、一尉または三佐で専攻幹部特技課程(専攻科)を受講する。参考:陸海軍学校と教育

一般曹候補生>:自衛隊の自衛官募集制度。18歳以上27歳未満(2018101日以降は33歳未満)の者を試験(一次の筆記と二次の口述・身体検査)で入隊させて2年9ヶ月の教育訓練を行い、選考により3曹に昇任させるものである。陸海空自のどれに入るかは志願票で予め選択可能。2018101日に防衛省令を改正し、採用年齢の上限を32歳(採用予定日の次年度4月末までに33歳にならない者)に引き上げた。参考:MAMOR vol.60vol.87、月刊JWings9,15、朝雲

一般命令第一号>:太平洋戦争での日本降伏後、連合軍の占領地域を割り当てたもので、アメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会が作成した。内容は英中ソに相談無く通告され、満州を除く中国、台湾、北緯16度より北のフランス領インドシナは蒋介石総帥、満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太はソ連極東軍総司令官、アンダマン・ニコバル諸島、ミャンマー、タイ、北緯16度より南のフランス領インドシナ、マライは東南アジア司令部連合国最高司令官、ボルネオ・ニューギニアなどの太平洋諸島はオーストラリア陸軍最高司令官、日本委任統治諸島、小笠原諸島などはアメリカ合衆国太平洋艦隊最高司令官、日本国大本営、日本本土及び隣接諸島、北緯38度線より南の朝鮮、琉球諸島、フィリピンは合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官が降伏受理を行うこととなった。ソ連は千島列島と北海道の北半分も極東軍総司令官担当に含めるよう要求し、千島列島のみ認められた。参考:朝鮮戦争(上)

一般陸曹候補生>:一般曹候補生の陸自版。男性自衛官は第109教育大隊、第110教育大隊、第113教育大隊、第117教育大隊、第118教育大隊、第119教育大隊など、女性自衛官は女性自衛官教育隊で教育を受ける。参考:月刊JWings7,18

イッレルン(初代)>:スウェーデン海軍ヴォベルン級潜水艦2番艦。1921630日進水。1943812日、座礁して沈没した。1944年にスクラップにされた。参考:月刊軍事研究1,03

イッレルン(2代目)>:スウェーデン海軍ハヤン級(3代目)潜水艦5番艦。1955年起工、19571114日進水、1959831日竣工。1970年代一杯現役に留まり、198071日に除籍された。参考:月刊軍事研究2,03

<イデオット・スティック>:FALシリーズ(突撃銃)を参照。

いて号装置>:日本陸軍の遠隔操縦器材。「い」は錨または有線(イウセン)、「て」は投擲のことで、い号装置が入っていけない複雑な地形に錨付きの鋼索を9cm臼砲で投射し、それをガイドにして爆薬を搭載した電動装置を所定地点まで進出させるものである。参考:工兵入門

出砂島射爆撃場>:「いですなしま」と読む。在日米軍の射爆撃場で、島全体が射爆撃場である。面積25万平方メートル。在日米空軍の管理下だが、海軍や海兵隊も利用しており、空対地爆撃(訓練弾・照明弾)・機銃掃射訓練が行われている。参考:月刊軍事研究4,10

伊唐>:日本海軍海防艦。昭和2081日、鳥取県美保湾口で触雷して損傷した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<イトゥール・ハグヴラ>:武勇勲章(イスラエル)を参照。

<移動加入基地局装置>:JTTC-T1を参照。

<移動加入端末装置>:JVTC-T1を参照。

移動管制隊>:航空自衛隊の管制隊。航空管制機材・無線機・車両などの整備員やベテラン管制官が所属しており、移動式ラプコン装置、移動式管制塔、移動式タカン装置を装備し、修理整備などで航空基地固有の管制装置が使えない場合や、サミットなど特別な行事で航空基地以外の場所での航空交通管制が必要となった場合に、そこに移動して器材を設置して使用可能な状態とし、それを維持整備するのが主任務である。移動先で器材の設置が終わったら、各航空基地に応じた管制プログラムを読み込ませ、飛行点検隊による点検を受けて異常が無いかを確認する。管制業務は展開先の航空基地にいる管制隊が行うが、器材整備などは引き続き移動管制隊の要員が担当する。19923月に編成された千歳管制隊移動管制班と、19933月に編成された三沢管制隊移動管制班が、2003327日に統合されて百里基地で新編された。器材はJ/TPQ-701移動式ラプコン装置、J/TSC-701移動式管制塔、J/TRN-501移動式タカン装置である。2011311日の東日本大震災を受け、316日から松島基地に展開。9月、J/TRN-502移動式タカン装置を配備。20143月、松島基地から撤収した。20159月末、J/TPQ-702移動式ラプコン装置を受領。2016620-24日、航空保安管制群本部によるJ/TPQ-702移動式ラプコン装置の態勢点検を受けた。913-15日、府中基地で航空保安管制群が行った移動式管制器材基幹要員集合訓練に隊員8名で参加。参考:月刊JWings10,169,164,16、朝雲

 <移動管制隊(2015年)>:航空保安管制群の隷下で、百里基地に置かれている。トップは隊長で、総括班(人事、補給、庶務、輸送などを担当)、管制班(設置、業務補佐などを担当)、整備班(維持整備担当。整備管理、管制器材整備、地上無線整備、車両整備、地上器材整備がある)などからなる。参考:月刊JWings10,164,16

移動気象班>:航空自衛隊中枢気象隊隷下の気象支援部隊。修理整備や災害・有事で気象機能が失われた飛行場、気象機能が整備されていない飛行場、大規模災害やイベントなどで臨時に気象支援が必要となった場所、航空救難の現場、海外派遣地域などに展開し、気象観測や気象予報などの気象支援を行うのが主任務である。移動式気象レーダー装置、携帯気象観測装置、統合気象システムJWS端末、気象庁やアメリカ軍などの気象情報を受け取る衛星通信装置、リフトテントなどを装備する。参考:MAMOR vol.128

伊藤清>:日本海軍エース。大正10年、新潟県生まれ。昭和1611月、飛行練習生を卒業し、海軍第3航空隊に配属された。昭和1744日、ポート・ダーウィン攻撃で初陣を飾り、1機を撃墜して初戦果を挙げた。9月、ラバウルに進出。11月上旬、南西方面に復帰。昭和18年初めから11月までダーウィン侵攻作戦とアラフラ海防空に参加。その後本土に戻り、大分航空隊と筑波航空隊で教官となり、終戦を迎えた。総撃墜破数30機(撃墜17機、撃破13機)。最終階級は飛曹長。参考:日本海軍戦闘機隊

移動警戒隊>:航空自衛隊の防空レーダー部隊、通称「動くレーダーサイト」。車載レーダーの運用部隊で、整備などで固定レーダーが使えない場合に代替を務めたり(中断対処)、必要に応じてレーダー覆域補完のために展開したりする。19731016日、第1移動警戒隊が新編された。1984101日、第5移動警戒隊が八雲分屯基地で新編された。198510月、第6移動警戒隊が浜松南基地、第7移動警戒隊が美保基地で新編された。1987331日、第8移動警戒隊が新編された。1988331日、第11移動警戒隊が新編された。1989年、12個隊体制となった。その後、航空方面隊に1個ずつに減勢する方針に変更。2000630日、第11移動警戒隊が廃止された。2002331日、第5移動警戒隊が廃止された。20043月、第6移動警戒隊が廃止された。20083月、第9移動警戒隊が廃止された。2010326日、第8移動警戒隊が廃止された。201437日、第7移動警戒隊が廃止され、第1-4移動警戒隊に集約された。参考:MAMOR vol.90、朝雲、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、浜松基地ホームページ、小松基地ホームページ、三沢基地ホームページ

<移動計測車用車輌>:自衛隊の車輌。日野自動車製。参考:月刊軍事研究11,15

<移動計測車用装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究3,16

<移動式二柱リフト>:自衛隊の機器。澤田産業製。参考:月刊軍事研究2,17

<移動式二十四糎加農>:九〇式二十四糎列車砲を参照。

移動式医療システム>:自衛隊の可搬式医療システムで、別名Mシステム。手術コンテナ、外来診療コンテナ、診療検査コンテナ、衛生資材コンテナ、患者収容天幕などで構成され、全てを展開すると国連医療レベルV(総合病院級)の医療を提供できる。機材はユニット式で、コンテナに収容できるため、輸送や組み立て、撤収が容易。2011年に採用され、南スーダンPKOで使用された。参考:MAMOR vol.85、朝雲

<移動式管制塔>:J/TSC-701を参照。

移動式気象レーダー装置>:航空自衛隊のドップラー気象レーダーで、MROSMobile Radar Observation System)と略す。73式大型トラック搭載のレーダーシェルター1台、73式大型トラック搭載の観測シェルター装置1台、発動発電機2台(シェルター搭載の73式大型トラックで牽引する)から構成され、CH-47C-1C-130での空中輸送も可能である。ピーク出力200kW、最大探知距離250km、高度探知範囲20km。参考:自衛隊装備年鑑1996MAMOR vol.128

<移動式タカン装置>:J/TRN-501またはJ/TRN-502を参照。

<移動式ラプコン装置>:J/TPQ-701またはJ/TPQ-702を参照。

伊東祐亨>:いとうすけゆき。斗酒なお辞せずという大酒豪で、酒は米のスープだ、日本魂の養成はこれに限ると飲みまくっていた。蛇が徹底的に大嫌いで、ロープがとぐろを巻いているのもダメなほどであり、艦長時代には索具を巻いて飾りとして甲板上に置くのを禁止する命令を出したらしい。日清戦争時は連合艦隊司令長官だった。黄海海戦で大勝利を収め、降伏して自決した敵の丁如昌提督を武士道に基づく最高の礼で弔い、世界中から絶賛されている。日露戦争時は軍令部長で、軍令部長室に寝台を持ち込み、ロシア艦隊司令長官以下主要幹部の経歴や人となりを微細にわたって調べ上げ、作戦を練った。参考:日本海軍艦隊総覧

伊藤整一>:海軍兵学校39期卒。昭和121115日から昭和131115日、第2艦隊参謀長を務めた。昭和15410日から昭和16811日、第1艦隊参謀長に就任。その後永野軍令部総長の要請で軍令部次長となった。昭和191223日、第2艦隊司令長官となった。昭和2046日、第1遊撃部隊指揮官として旗艦大和に乗艦し、沖縄特攻に出撃。47日に戦死した。55歳。参考:日本海軍艦隊総覧

移動装薬>:発射薬の燃焼圧力は音速で伝播することから、発射薬の燃焼が終了する前に弾丸が音速を超えると燃焼圧力が弾丸の加速に寄与できなくなる。これを防ぐために弾丸底部に発射薬を取り付けて一体化する事が考えられ、これを移動装薬と称する。弾丸の速度を効率的に音速以上に加速することが可能だが、極めて高い燃焼速度(砲身内を移動する間に燃焼を終了しなければならない)と砲内圧に耐えられる物性が必要である。また、腔圧の異常上昇を防ぐため、高温の発射ガスで瞬間的に燃焼しないことも求められる。参考:火薬のはなし、火器弾薬技術ハンドブック

<移動体操縦模擬装置用主計算機装置>:自衛隊の機器。三菱プレシジョン製。参考:月刊軍事研究1,12

移動弾幕射撃>:Creeping barrage。味方部隊前方の敵部隊や敵陣地に砲兵弾幕射撃を行い、部隊の前進に合わせて着弾地点を移動させていく射撃法のこと。予め決めておいた時間通りに着弾点をずらしていくが、部隊の前進が遅れて弾幕との距離が開くと効果が薄れるため、部隊と砲兵との連絡を密にして両者の前進速度を合わせる必要がある。参考:月刊軍事研究1,16

<移動端末秘匿装置>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究7,17

<移動追跡システム>:MTSを参照。

移動通信隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の通信部隊。搬送通信回線が障害を起こしたり、災害や救難で応急回線が必要になったり、前進基地などに臨時回線を引くことになったりした際に、応急・臨時回線を構成して運用するのが主任務である。19683月、下総航空基地で新編された。参考:下総航空基地ホームページ

移動通信隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の通信部隊。主任務は、指揮管理通信網の固定通信系統にトラブルが発生したり、整備などで使用不能になったりした際、移動通信器材で代替通信網を形成することと、有事や災害派遣時に、普段通信網の無い場所に行って通信回線を構築することで、移動式見通し外通信器材(移動OH)と移動式見通し内通信器材を運用する。基本的に車両で移動し、高度な器材を運用しており、任務上故障が許されないので、日頃の予防整備が欠かせない。19617月、中央航空通信群隷下に熊谷基地で創設された(部隊名はナンバー無しの移動通信隊)。1988年に1個隊が新編されて第1・第2移動通信隊の2個隊となった。1990年、第3移動通信隊が新編された。1992年、第4移動通信隊が新編された。2000年、上級部隊が航空システム通信隊移動通信群になった。2015326日(27日?)、第5移動通信隊が新編された。参考:MAMOR vol.89vol.102、航空自衛隊ホームページ、熊谷基地ホームページ、朝雲

<移動電源車(300kVA)>:自衛隊の機器。明電舎製。参考:月刊軍事研究6,'17

伊藤藤太郎>:いとうとうたろう。日本陸軍エース。大正5年、福井県生まれ。昭和10年、陸軍歩兵第36連隊に入隊し、昭和144月に下士官操縦学生として熊谷飛行学校に入学、12月に卒業して飛行第5戦隊所属となった。昭和176月、航空士官学校に入学、11月に卒業して飛行第5戦隊に帰り、昭和182月に少尉となった。7月からジャワ島マランに進出。昭和19117日、アンボンでB-24爆撃機3機を撃墜し、飛行団長から賞詞を授与された。9月、本土に帰還し、清洲飛行場に展開した。12月から名古屋に来襲するB-29の迎撃にあたり、終戦までに9機以上を撃墜、武功章を授与された。総撃墜数13機以上。最終階級は大尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

<移動目標表示機>:MTIを参照。

<移動用指揮計測車(バン型トラック)>:自衛隊の車両。日野自動車製。参考:月刊軍事研究9,14

移動用有線通信装置>:航空自衛隊の移動式通信装置。シェルター3台とケーブル1台で構成され、トラックや大型ヘリコプター、C-1輸送機などでの移動が可能である。指揮管制装置と航空基地、レーダー基地との通信を行うのが主任務で、UHFを使用して航空機との通信を行うことも可能。日本電気製。参考:自衛隊装備カタログ1981

猪頭利一>:いとうりいち。日本陸軍エース。明治44年、岡山県生まれ。昭和7年、陸軍に入隊し、砲兵となったが、昭和88月に操縦学生として所沢飛行学校に入学し、昭和93月に卒業して飛行第11大隊配属となった。昭和14624日からノモンハン事件に参加。終結後は大刀洗飛行学校の助教となった。その後肺疾患を患い、昭和25年に病死した。総撃墜機数16機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

<移動陸上目標交戦>:AMSTEを参照。

<イドラ>:F-452(フリゲート)を参照。

イドラ>:イタリアがAMRAAMをベースに開発していた艦対空ミサイル。全長4.63m、直径0.21m、翼スパン0.68m、全備重量210-220kg。固体燃料ロケット推進で、最大速度マッハ2.5、射程20km。誘導はARH。参考:月刊世界の艦船5,91

<イドラ級>:MEKOシリーズ(フリゲート)を参照。

伊奈明>:日本陸軍エース。大正4年、山梨県生まれ。昭和113月、陸軍飛行第11連隊に入隊し、昭和131月に熊谷飛行学校に入学、8月に操縦学生課程を修了し、明野で戦闘機操縦教育を受けて11月に飛行第11連隊に復帰、ハルビンに着任した。昭和145月からノモンハン事件に参加。721日、2機を撃墜した後に対空砲で主翼を撃ち抜かれ、何とか帰投した。昭和15年秋に大刀洗飛行学校助教となり本土に帰投。太平洋戦争終戦時は京城の練習飛行隊に所属していた。総撃墜機数9機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

イナーシャ・カップリング>:航空機のある1つの軸周りの運動が、他の軸周りの運動も引き起こしてしまうこと。ロール中にピッチ・ヨー運動が組み合わさってしまったりするので、機体は激しく揺さぶられ、最悪荷重限界を超えて空中分解してしまう。胴体が細長くて重く、翼幅が狭い機体(第2世代戦闘機がこんな形状である)が高速でロールしながらラダーやエレベーターを操作すると、ピッチングとヨーイングが同時に発生して操縦不能に陥り、機体がパイロットごと砕け散る。F-100スーパーセイバーがこれを起こして度々空中分解したため、翼幅延長・垂直尾翼面積増大などで解決した。F-101もこれに悩まされ、戦闘機動を制限せざるを得なかった。参考:月刊JWings11,05、月刊航空ファン11,92

イナーシャ・スターター>:慣性始動機。はずみ車を回転させ、それをプロペラシャフトに直結してエンジンを始動させる機器である。参考:海軍よもやま物語

 <イナーシャ・スターター(日本海軍)>:整備員がコクピットのパイロットに向かってスイッチ・オフと叫ぶ。パイロットはメインスイッチが断になっていることを確認し、スイッチ・オフ・圧搾と叫ぶ。シリンダー内のオイルなどを抜き取るため、整備員はプロペラを手回しする。パイロットはその間、燃料ポンプを作動させてシリンダー内にガソリンをある程度満たしておき、始動しやすいようにしておく。圧搾やめの号令でプロペラを止める。整備兵はイナーシャ・ハンドルを孔に差し込み、イナーシャ・スターターとかみ合わせて回す。回転数が毎分80-100回転くらいになったところでパイロットはコンタクト(コンタークだったり、コンタクだったりもする)と叫ぶ。整備兵はイナーシャ・ハンドルを引き抜いてコンタクトと復唱し、起動レバーを引いてプロペラシャフトとイナーシャ・スターターをかみ合わせる。するとプロペラが回り始めるので、2回転くらいしたところでパイロットがメインスイッチを入れると、点火プラグに火花が飛んでエンジンが始動する。参考:海軍よもやま物語

イナーシャ・ファイアリング・ピン>:ファイアリング・ピンの長さがブリーチブロックと同じもしくはそれより短いものをいう。イナーシャは慣性のことで、ハンマーで打撃された後に慣性のみで前進することからこう呼ばれる。参考:GUN用語事典

イナート>:Inert。炸薬やロケット推進薬が搭載されていない訓練弾のことで、青色で塗られていたり、青い帯状塗装が施されていたりする。キャプティブ弾、ダミー弾、クラスルーム爆発物処理システム訓練弾、実用爆発物処理システム訓練弾の4種がある。参考:月刊JWings3,12

稲垣式自動拳銃>:日本海軍航空搭乗員自衛用拳銃で、昭和15年初めに採用された。作動はブローバックで、撃鉄は内蔵式、撃鉄スプリングとリコイル・スプリング両者に板バネを用いている。使用弾は.32ACP弾。参考:GUN用語事典

稲木>:日本海軍海防艦。昭和20331日、福岡県部崎灯台の南東8.8海里で触雷して中破した。昭和2089日、青森県八戸港で艦上機の攻撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<稲妻部隊>:飛行第11戦隊を参照。

<いなづま>:DD-105(護衛艦、2代目)またはDE-203(護衛艦、初代)を参照。

電(初代)>:日本海軍雷型駆逐艦2番艦Inazuma。明治32425日竣工、水雷艇(駆逐艇)に分類された。明治33622日、軍艦(駆逐艦)に変更。明治381212日、駆逐艦に変更。明治421216日、事故のため沈没した。明治43915日に除籍され、同年916日に売却された。参考:日本駆逐艦史

電(2代目)>:日本海軍暁型(2代目)駆逐艦4番艦Inazuma。昭和71115日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には第6駆逐隊に所属していた。昭和171113日、第3次ソロモン海戦に参加。121日、マサブア輸送の途中で爆撃を受けて小破した。昭和18327日、アッツ島沖海戦に参加。昭和19514日、セレベス海でSS-223ボーンフィッシュの雷撃によりに沈没し、610日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14

イニシエータ>:電気または機械的エネルギーを爆発エネルギーに変換するもので、少量の感度が高い起爆薬で構成される。火薬系列の最初に置かれ、プライマーとデトネータの2種がある。参考:火器弾薬技術ハンドブック

イニシエータ>:核分裂反応を開始するために中性子を発生させる装置のこと。核分裂反応を開始する瞬間に大量の中性子を撃ち込む役目がある。初期のインプローシブ型ではアルミホイル(α線阻止用。金の薄膜も可)でくるんだポロニウム210の球をベリリウムの粉で包んだものが使用された。これはピット中心部に置いてあり、爆縮によってアルミホイルが破れてポロニウムのα線がベリリウムに達し、中性子を発生するものである。ガンバレル型では2つに分けたウランの一方にリチウム、もう一方にポロニウムが付けてあり、ウランが1つになると同時に中性子を発生する。ラジウムとベリリウムの組み合わせでも可。参考:核兵器事典、アメリカの核兵器

<犬追い曲線>:単純追跡航法コースを参照。

犬連絡(日本陸軍)>:軍用犬は地形や敵弾などの制限を受けることが少なく、能力は訓練の程度により異なるが、連絡可能距離は2km内外とする。軍用犬の連絡路や到着地点の変更はなるべく避ける。参考:作戦要務令

イネイ>:ロシア海軍ナヌチュカV型ミサイル艇Inej、艦番号4182012710600-1800スラヴァ級ミサイル巡洋艦ワリヤーグソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストリイウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・トリブツアドミラル・ヴィノグラードフグリシャX型警備艦メテル、同ウスト・イムリスク、同コレーツロプーチャT型揚陸艦BDK-98、同オスラビアロプーチャU型揚陸艦ペレスウェートアリゲーターW型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフナヌチュカV型ミサイル艇ラズリーフタランタルV型ミサイル艇R-14、同R-18、同R-19フィニク級測量艦GS-47、同GS-84、同GS-296、同GS-404ビヤ級測量艦GS-200カメンカ級測量艦GS-211モマ級測量艦アンタークティダユグ級海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフカシタン級設標艦KIL-168と共に、宗谷岬の西160kmを東に航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。20166201400頃、ナヌチュカV型ミサイル艇モロズ、同ラズリーフと共に、宗谷岬北西74kmの宗谷海峡を東に航行するのを、PG-825わかたかと第2航空群P-3Cが発見した。20176171800頃、ナヌチュカV型ミサイル艇モロズ、同ラズリーフと共に、宗谷岬北北東35kmを西に航行するのを、PG-827くまたかが発見した。その後宗谷海峡を西に進み日本海に向かっている。参考:月刊世界の艦船9,129,169,17

衣嚢>:日本海軍の下士官と兵が衣類や軍靴を入れておくための袋。キャンバス製で、長さ120-130cm、幅40cm、奥行き40cmくらい。第一種軍装2着、第二種軍装2着、事業服3着、円管服3着、袴下2着、夏用シャツ3着、冬用シャツ3着、脚絆1つ、腹巻1つ、靴下8足、毛布覆い2つ、軍靴2足、帽子2つなどが入っていて、私物も入れるため、全備重量は30kgを超える。配属される部署に自分で持って行く白い内嚢と、部署に備え付けてある黒い外嚢があり、部署では内嚢を外嚢に入れ、衣嚢棚にしまっておく。参考:海軍よもやま物語

井上成美>:いのうえしげよし。明治391124日、県立仙台第二中学校5年生から海軍兵学校第37期生徒(席次は181名中9番)として入校した。志望理由は、先に入校していた中学校の先輩が短剣を下げて見せびらかしに来たのが格好良かったから、というものだったらしい。比叡の艦長となった際、勅諭衍義という軍人勅諭の解説書を執筆し、士官に配布した。大正7-11年、スイス、ドイツ、フランスに駐在。昭和2年からイタリアに2年間駐在。昭和7年、軍務局第1課長に就任。伏見宮軍令部長を盾に権限拡大を主張する軍令部に真っ向から反対し、岩村清一海軍省副官の説得も突っぱねた。昭和141023日、支那方面艦隊参謀長兼第3艦隊参謀長となった。昭和15101日、支那方面艦隊参謀長を退いた。1115日、第3艦隊参謀長を退いた。近衛内閣時には軍務局長で、米内海軍大臣、山本海軍次官と共に日独伊三国同盟に猛反対して締結させなかった。昭和16年初め、軍令部が提出した第5次海軍軍備充実計画案を、明治の頭で考えたものだと批判し、戦艦不要・海軍の空軍化を主題とする新軍備計画論を海軍大臣に提出している。811日、第4艦隊司令長官となった。128日、太平洋戦争開戦時は第4艦隊司令長官(中将)だった。戦績は芳しくなく、嶋田海軍大臣のメモにはウエーキ・コラール海(珊瑚海)の戦機見る明なし、徳望なし、航本の実績上がらず、次官の望みなし、大将ダメ、兵学校長・鎮長官か、とある。昭和171026日、第40代海軍兵学校校長に就任。山本五十六連合艦隊司令長官の強い推薦があり、一度は辞退したが、もともと就きたい職務でもあり、教育方針の成果が見届けられるよう3-4年は続けさせて欲しいということで引き受けた。先を見通せず日本を対米戦争に突入させた国賊と呼びたいような顔が多数並んでいるとして、教育参考館にある歴代大将の額を全て外している。教官に対して教育漫語と題する講述を行い、人間は一日中張り切れるものではない、真面目な生活は笑いの無い生活とは違う、生徒には一日に一度は心の底から笑う機会を作ってやって欲しいと言い続け、士官にとって必要な自由裁量と決断力を養うことに重きを置いている。丸暗記でなく思考能力を重視し、兵器と理論を組み合わせた理兵学という新教科を作成したが、戦局悪化には勝てず、十分な教育改革には至らなかった。海軍は国家あっての海軍だが、陸軍は陸軍が国家を引っ張るという考えを持っているとして陸軍士官学校生徒との文通を禁じ、自ら精力的に授業を見学して教官に対する教育も欠かさなかった。ちなみに居眠りしている生徒を見つけると頭をつついて起こしにかかるので、生徒も油断できない。戦況が悪化する中、軍の方針とは逆に軍事学を減らして普通学を増やし、戦争の体験談を聞かせることもせず、英語を重視して辞書も英英辞典しか使わせなかったため、生徒からも反発を生んだが、表向きには第1次大戦でイギリス上流階級の見せたノブレス・オブリージュの精神を養うためと、下士官を指導するのには戦闘技術よりも幅広い教養が重要なためということで押し通した。これらが実は日本が負けた後まで視野に入れて日本再建に必要な人材を一人でも多く残しておくための処置であった、ということに皆が気付いたのは終戦後のことである。昭和18810日、海軍兵学校第74期生1名が遊泳訓練中に溺死する事故が発生、811日からは遊泳訓練中ずっと表桟橋で第二種軍装に身を包み、生徒の様子を見届けるようになった。本人は一生でも兵学校長をやっていたかったと語り、終戦を進めるため海軍省への要職復帰を求める高木惣吉教育局長にも「予備になるまで兵学校でご奉公させて貰う」と言い切ったが、戦局はそれを許さず、海軍大臣米内光政大将に請われて昭和1985日に海軍次官に着任、米内大臣の許可を得て大臣官邸階下の使用人部屋に寝泊まりし24時間海軍省に詰めると共に、高木惣吉教育局長に終戦工作を命じて太平洋戦争終結へと舵を取った。ただ舵取りが激しすぎたらしく、昭和20515日に海軍大将に昇任、航空本部長に転出している。昭和501215日、86歳で死去した。参考:海軍兵学校よもやま物語、陸海軍学校と教育、海軍こぼれ話、日本海軍艦隊総覧、海軍兵学校岩国分校物語

井上操>:日本陸軍エース。大正6年、兵庫県生まれ。昭和102月、陸軍少年飛行兵として所沢飛行学校に入学し、熊谷飛行学校、明野飛行学校で教育を受けて昭和1111月に卒業し、飛行第1連隊所属となった。昭和1312月、曹長に昇進。昭和146月下旬、ノモンハン事件に参加。627日、タムスク進攻で初陣を飾った。その後8機を撃墜したが、723日にハルハ河上空で被弾して重傷を負い、ハルビン陸軍病院に入院、12月に復帰した。昭和153月、岐阜飛行学校助教となった。昭和1611月、飛行第13戦隊に転属。昭和16年秋、二式複座戦闘機の教育を受けた。昭和184月、ウエワクに展開。昭和1910月、飛行第5戦隊に転属。1215日、脚故障で胴体着陸を試みたが、失敗して炎上、戦死した。総撃墜数16機。最終階級は少尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

衣嚢支え>:日本海軍の罰直の1つ。衣嚢を両手で頭の上に掲げ続ける。参考:海軍よもやま物語

<イノウス級>:テレボーン・パリッシュ級戦車揚陸艦(ギリシャ海軍)を参照。

イノウマ級>:ブラジル海軍フリゲート。兵装は3連装対潜魚雷発射管2基、エグゾセMM40艦対艦ミサイル発射筒4基、114mm砲1門。リンクス・ヘリ1機を搭載できる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<イノホージェツBLA>:オリオン(無人機)を参照。

茨城空港>:2010311日に開港した。2011723日から旅客ターミナルビル脇の空港公園航空広場にRF-4EJ偵察機とF-4EJ改戦闘機が1機ずつ展示されている。参考:月刊丸12,11、朝雲

<いぶき>:MSC-628(掃海艇)を参照。

伊吹>:日本海軍鞍馬型装甲巡洋艦2番艦Ibuki。明治405月起工、11月進水。主機はカーチス式単胴直結蒸気タービン、主缶は宮原式混焼缶(18.3気圧、過熱)18基で、明治428月の公試では所定の速力を発揮できなかったが、そのまま明治4211月に竣工させた。竣工後にタービンノズル及びプロペラを改良し、明治43623日の公試で21.162ノットを記録、当時の主力艦で最速を誇った(ただし計画速力は22.5ノットだった)。大正元年828日、巡洋戦艦に艦種変更された。第1次大戦ではイギリス艦隊との協同作戦、南方及びインド洋方面作戦、ANZAC軍の欧州戦線派遣部隊アルバニー船団の護衛などを実施した。ワシントン条約締結で大正12年に除籍され、大正13年に解体された。参考:月刊丸1,7711,09、月刊世界の艦船2,159,13増刊、朝雲

伊吹>:日本海軍伊吹型空母。昭和174月、伊吹型重巡として起工されたが、空母に改造されることになり、昭和185月進水、11月から空母への改造が始まった。昭和20316日、進捗率80%で工事中止とされた。昭和211122日、佐世保船舶工業で解体を開始。昭和2281日、解体を完了した。参考:日本航空母艦史

伊吹型>:日本海軍空母。元は改鈴谷型重巡洋艦として建造されていたが、ミッドウェイ海戦後に空母への改造が検討された。この時は不適として取りやめになったが、重巡として完成させても使い道が無かったらしく、昭和185月の進水後に工事が止まっていた。そこで昭和188月に再度改造が検討され、軍令部は乗り気でなかったものの艦政本部がカタパルトやRATOを使えば烈風や流星が運用できるとして押し切った。艦首はダブル・カーベチャー型で、両舷に大きなフレアを持つ。船型が小型なので飛行甲板長の確保に困難があり、前方を艦首先端部まで延ばして新型機の運用に必要な分を間に合わせた。サイズは全長205m、前端幅13m、中央幅23m、後端幅14mである。エレベーターは13m×11.4mのものが前後1基ずつ装備されている。アレスティングワイヤ9本、滑走制止装置2基を搭載(型式不明)。復原性を確保するため、格納庫は1段式とし、バルジも装着した。ミッドウェイ海戦の戦訓から爆弾は格納庫でなく飛行甲板で搭載するようにしてあり、揚爆弾筒も飛行甲板まで延びている。飛行甲板右舷側前方にアイランド式の艦橋とマストがあり、艦橋は3層で、最下層には作戦室、航海長室などがある。2層目は羅針艦橋甲板で、羅針艦橋兼操舵室、逆探室、発着艦指揮所などがあり、3層目は露天式の防空指揮所甲板で、一三号電探アンテナと二二号電探アンテナ(当初は二一号のみの予定だった)、2m測距儀、60cm信号用探照灯などを設置することとされた。艦尾には飛行甲板支柱2組が取り付けてあり、これと格納庫後端の間に短艇格納所がある。航空機用ガソリンタンクで機関スペースが減らされたため、主機は重巡時のものを半分だけ搭載した。右舷中央に斜め下向き煙突を持つ。全長205.0m、最大幅21.0m、平均吃水6.31m、基準排水量12500トン。主機は艦本式オールギヤードタービン2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶4基で、出力72000馬力、速力29ノット、重油搭載量3600トン、航続距離は18ノットで7500海里。兵装は長8cm連装砲2基(飛行甲板前部両舷に1基ずつ)、25mm三連装機銃17基、12cm28連装噴進砲4基、爆雷投下軌条2条。装甲厚は舷側100mm、甲板35mm。搭載機は烈風15機と流星12機で、うち11機を露天繋止とする予定だった。乗員1015名。伊吹が建造されたが、未完に終わった。参考:日本航空母艦史、図解日本の空母、月刊丸2,12別冊付録、月刊世界の艦船9,14

伊吹型>:日本海軍がマル急計画で改最上級として2隻の建造を予定した重巡洋艦。基準排水量12000トン。速力35ノット。兵装は20.3cm連装砲5基、12.7cm連装高角砲4基、61cm4連装魚雷発射管4基。水上偵察機3機を搭載する。昭和17年に2隻が起工されたが、1隻は直後に建造中止となり、伊吹は61cm4連装魚雷発射管5基装備の重雷装重巡に設計変更されて進水したものの、昭和18年秋に伊吹型空母へと改造されることになった。参考:近代巡洋艦史

イプシロン>:宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発した3段式固体燃料ロケット。M-Vロケットの後継として2010年度から開発され、M-VロケットやH-UA/Bロケットの技術を応用してコスト削減を図っている。名前の由来はΜ(ミュー)を横倒しにしてΕ(イプシロン)。1段目はH-UAの補助ブースター、2-3段目はM-Vロケットの上段ロケットモーターである。自律点検機能を備えており、発射場に運んでから1週間で発射準備が完了し、管制はノートパソコン2台で事足りる。打ち上げ後に異常が発生した場合、ロケットの判断で自爆させることも可能。全長24.4m、直径2.6m、全備重量91トン、ペイロード1.2トン(低軌道)。第1段推力2271kN2013822日に初号機を打ち上げる予定だったが、827日に延期され、発射直前に中止された。発射20秒前に地上管制システムがイプシロンの搭載コンピュータ起動指令を行った後、発射19秒前から地上管制システムがイプシロン姿勢データの監視に入ったが、この時点でイプシロンの搭載コンピュータが姿勢データ演算処理を始めていなかったため、異常と判断して停止したものである。原因は地上管制システムとイプシロンの間の信号伝送処理に必要な時間を考慮しておらず、イプシロン搭載コンピュータの起動が0.07秒遅れたためだった。9141400に鹿児島県の内之浦宇宙観測所から打ち上げられ、6139秒後に重量340kgの衛星を正常に分離、高度1000kmの軌道に投入した。201612202000、第2段ロケットを新規開発して衛星搭載スペースとペイロードを拡大した2号機の発射に成功。参考:月刊軍事研究11,137,133,17、月刊航空ファン2,17、月刊JWings1,17、朝雲

イプスウィッチ>:オーストラリア海軍掃海艇。1944212日、オーストラリア海軍掃海艇ラーンス、インド海軍砲艦ジャムナと共にベンガル湾で呂110潜水艦を撃沈した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

指宿飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

イブン・オウフ級>:リビア海軍戦車揚陸艦。兵員240名、戦車6両、ヘリ1機を搭載できる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イブン・カールドウン>:イラク海軍練習フリゲートIbn Khaldoun。参考:月刊世界の艦船6,83

イペリット>:マスタードガスの通称。第1次大戦中の1917712日、イープルの戦場で初めて使用されたため、地名をとってこの名が付いた。参考:図解雑学生物・化学兵器、月刊PANZER11,99

<維坊>:550054A型フリゲート)を参照。

<イポプリアルホス・グリゴロプーロス級>:LSM-1級中型揚陸艦(ギリシャ海軍)を参照。

イポプロイアルコス・ルーセン級>:ギリシャ海軍ミサイル艇Ypoploiarchos Roussen級。建造はギリシャだが、設計したのはイギリスのヴォスパー・ソーニクロフト社である。全長61.9m、満載排水量671トン。主機はディーゼルで、速力34ノット。兵装はエグゾセMM40艦対艦ミサイル4連装発射筒2基(後甲板)、76mm単装砲1門(前甲板)、RAM21連装発射機1基(艦尾)。2005年から就役中。参考:月刊世界の艦船3,14

イ・ボムソク>:韓国海軍214/1700型潜水艦8番艦イ・ボムソク(Lee Beom-seok)。2016118日進水。参考:月刊世界の艦船2,17

<イマーションフット>:塹壕足を参照。

イマーム・フセイン旅団>:イラクのシーア派テロ組織で、20057月に登場した。イラク政府や外国人に対して散発的なテロ行為を行っている。参考:月刊軍事研究10,06

今津饗庭野中演習場>:饗庭野演習場を参照。

今津駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は滋賀県高島市今津町今津平郷国有地995JR近江今津駅から歩いて25分。195210月に開設され、今津特別訓練隊が新編された。1954年、第3特車大隊が新編され、第3偵察中隊が伊丹駐屯地から移駐した。1958年、第10偵察中隊が新編された。1962年、第10戦車大隊と第13戦車大隊が新編され、第3特車大隊が第3戦車大隊に改称された。第3偵察中隊が伊丹駐屯地、第10偵察中隊が西山分屯地(後の春日井駐屯地)に移駐した。1965年、第13戦車大隊が日本原駐屯地に移駐した。78日、第3特科連隊第5大隊が姫路駐屯地から移駐した。2004年、第10後方支援連隊第2整備大隊戦車直接支援中隊が新編された。2006年、第3後方支援連隊第2整備大隊戦車直接支援隊が新編され、第3特科連隊第5大隊が廃止された。2008年、中部方面移動監視隊が新編された。2009719日、高島市安曇川三尾里子ども会の親子38人が駐屯地を見学した。115日、岐阜県内雇用協力企業主要8社が駐屯地部隊を見学した。2010年、中部方面無人偵察機隊が新編された。2011220日から36日、陸自第15普通科連隊の180名とアメリカ第3海兵後方群第9工兵支援大隊の170名が日米共同訓練(米海兵隊との実動訓練)を実施。201446日、自衛官候補生49名の入隊式を実施。93日、滋賀地方協力本部が任期制隊員等就職補導教育を実施。121日、カレーハウスCoCo壱番屋が防衛省施設での第1号店として開店した。201578日、滋賀県立彦根工業高校2年生2人のインターンシップに協力した。2016626日、駐屯地モニター行事を実施。201719日、駐屯地太鼓隊が兵庫県立芸術文化センターで平成28年度中部方面隊音楽まつりに参加。113日、成人行事を実施。88日、三重地本が企画したまるごとツアーに協力し、募集対象者34人が駐屯地を見学した。2018414-15日、長浜曳山祭を隊員38名で支援した。参考:今津駐屯地ホームページ、JGround Vol.23、朝雲

 <今津駐屯地(2015年)>:第3師団第3戦車大隊、第3後方支援連隊第2整備大隊戦車直接支援隊、第10師団第10戦車大隊、第10後方支援連隊第2整備大隊戦車直接支援隊、中部方面無人偵察機隊、中部方面移動監視隊、中部方面会計隊第351会計隊(326日から第397会計隊今津派遣隊)、今津駐屯地業務隊などが駐屯している。参考:今津駐屯地ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

今津駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2018117日、在日米軍との日米共同訓練で地元自治体の理解と協力を得た功績で、陸幕長から2級賞状が授与された。参考:朝雲

<イマム・ボンジョル>:インドネシア海軍パルヒムT型フリゲートIman Bonjol。満載排水量781トン。19841月就役。2016617日、ナトゥナ諸島沖で領海侵犯して違法操業する中国漁船に対して船体射撃を行い、1隻を拿捕した。824日、ジャカルタ西方海域で海自DD-103ゆうだち、DD-153ゆうぎりと親善訓練を実施。参考:月刊世界の艦船11,1610,16

今村信次郎>:海軍兵学校30期卒。日露戦争時は海軍中尉で、日本海海戦では戦艦三笠の艦橋で戦闘に参加した。大正14年から昭和6年、東宮武官・侍従武官を務めた。昭和6101日から昭和7101日、練習艦隊司令官を務めた。練習航海出港前、ある海軍士官が神聖なる軍艦旗の下で男女相擁してダンスをするとは何事だとケチを付けたが、わざわざ自宅から日露戦争時の勤務録と文書綴りを持ってきて、戦争中に鎮海湾で夕食後甲板において軍楽隊の演奏に合わせ舞踏することを許可するという内容の連合艦隊日日命令が出されていたことを明示し、偏狭な考えを戒めている。昭和8915日から昭和91115日、第3艦隊司令長官を務めた。昭和91115日、佐世保鎮守府司令長官に就任。昭和11年、予備役に入り、秩父宮別当となった。昭和4491日、89歳で死去した。参考:日本海軍艦隊総覧

イマンタ>:ラトビア海軍トリパルタイト級機雷掃討艇。参考:月刊軍事研究3,12

<イミディエットCAS>:近接航空支援を参照。

医務旅団>:アメリカ陸軍兵站組織の1つ。COSCOMに1個配備されている。医務兵站大隊(前方)、歯科中隊、戦闘疲労中隊(戦闘神経症)、後送患者収容大隊、獣医派遣隊、医務グループ(移動外科病院、医務後送大隊、戦闘支援病院、諸分遣隊)各1個からなる。参考:月刊軍事研究8,03

<イメージ・インテンシファイア>:微光暗視装置を参照。

イメーニ]]ZセズダKPSS>:ソ連海軍クリヴァクV型フリゲートImeni ]]Z Sezda KPSS1986年竣工。参考:月刊世界の艦船3,92増刊

イメーニL]]レチヤVCHK−KGB>:ソ連海軍クリヴァクV型フリゲートImeni L]] Letiya VCHK-KGB1988年竣工。参考:月刊世界の艦船3,92増刊

イメーニL]]レチヤ・ポグランヴォイスク>:ソ連海軍クリヴァクV型フリゲートImeni L]] Letiya Pogranvoysk1989年竣工。参考:月刊世界の艦船3,92増刊

<イモ>:C-141A(輸送機)を参照。

<イモーゲン>:D44(駆逐艦)を参照。

イモ番>:カラーマーキングなど、目立つところの無い機体の俗称。マニア間でのみ通用する。参考:月刊JWings3,04

<芋掘り機>:LVTE-1(戦闘工兵車)を参照。

芋を掘る>:日本海軍士官のスラングで、酔っぱらって暴れること。参考:帝国陸海軍事典

慰問袋>:一般人が従軍将兵に送る支援物資入り袋のこと。1898年の米西戦争でアメリカのキリスト教系婦人会が食料や被服を送ったComfort bagが始まりらしい。参考:歴史群像8,17

慰問袋(日本)>:学校、各種団体、企業で用意し、部隊へと送付する。常備薬、菓子、缶詰、煙草、歯磨き粉、日用品などが主で、送り主からの慰問文も入れられており、部隊から返事が届くことも多かった。日露戦争から開始された。参考:歴史群像8,17

イラク3邦人拉致事件>:200347日、アンマンからバグダッドにタクシーで移動していた日本人3人が、ファルージャ近郊のガソリンスタンドで給油中にサラヤ・ムジャヒディンと名乗る武装組織の襲撃を受けて拉致された事件。サラヤ・ムジャヒディンは陸上自衛隊の撤退を要求したが、日本政府はこれを拒否。地元イスラム聖職者などの呼びかけによって415日に全員が解放された。参考:月刊軍事研究7,10

イラク・イスラム軍>:イラク戦争終結後に組織されたスンニ派テロ組織。民間人を巻き込むテロはあまり起こさず、人質を取っても解放することが多いため、イラクでは多国籍軍に対するレジスタンスと見る向きも多く、活動開始から勢力を維持している。イラク新憲法の国民投票の際は、反対投票をするように呼びかけた。指導者はイスマイル・ジュブリである。参考:月刊軍事研究10,06

イラク・イスラム最高評議会>:SCIRIと略す。シーア派最高位宗教指導者の息子であるムハマド・バクル・ハキムが1980年にイラクからイランに亡命した後、ダワ党のメンバーとともに1982年に設立した組織である。イラン保守派の強力な支援を受けていたが、イランの傀儡という面が強く、ダワ党から1984年に組織上の関係を絶たれた。バドル部隊という軍事部門を持つ。参考:月刊軍事研究4,05

イラク海軍>:20109月、沿岸哨戒艇隊(35m型高速艇15隻)を新編した。20121220日、アメリカ海軍からアル・バスラ級哨戒艦2隻が引き渡された。参考:月刊世界の艦船4,113,13

 <イラク海軍(1977年)>:兵力3000名。ソイ級駆潜艇3隻、オーサ級ミサイル艇10隻、P6魚雷艇12隻、哨戒艇4隻、掃海艇2隻を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イラク海軍(1989年)>:兵力5000名。バスラとウムカスルに基地がある。ルポ級フリゲート4隻、カルドーム級フリゲート1隻、フサ・エル・フセール級ヘリ搭載コルベット2隻、フサ・エル・フセール級コルベット2隻(地中海で引き渡し待ち)、オサ級ミサイル艇8隻、P-6級魚雷艇6隻、SO-1級哨戒艇3隻、ニルヤットU級哨戒艇4隻、小型内海哨戒艇13隻、アル・ザラー級戦車揚陸艦3隻、ポルノクヌイ級中型揚陸艦3隻、ストロンボリ級洋上給油工作艦1隻(地中海で引き渡し待ち)、大統領専用ヨット2隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<易洛魁式直升機>:UH-1海外シリーズ(ヘリ)を参照。

イラク解放国民抵抗戦線>:旧フセイン派の秘密警察残党が組織したとみられるテロ組織。スペイン情報機関員殺害テロで犯行声明を出した。参考:月刊軍事研究2,04

イラク共和国>:ペルシャ湾の最奥部に位置する国で、北緯29-38度、東経39-48度にあり、面積は43.8万平方キロメートル。ペルシャ湾に接しているが、海岸線は数キロのみである。チグリス・ユーフラテス川ぞいに広がっており「イラク」とはアッシリア語で「水のある平らな土地」を指すという。東北部は最高3700mの山々が連なるクルディスタン山岳地帯である。夏は最高気温44度に達するが、湿度は低く比較的過ごしやすい。4-6月には砂嵐が多くなる。北部では冬には零下となり、チグリス川が氷結したりする。年間降水量は平野部で150mm、山岳部で400mm。人口は1990年で約2000万人、うち1000万人がシーア派、600万人がスンニ派、380万人がクルド人。参考:軍事分析湾岸戦争

イラク空軍>:1976年、MiG-23戦闘機、SA321GVヘリの配備を開始。198310月、シュペル・エタンダール5機を輸入。1990年、Su-24MK戦闘爆撃機を採用。イラク戦争で装備がほぼ消滅。2005年、UH-1ヘリ16機をヨルダンから受領し、アップグレードの後2007年に就役させた。2008314日、UH-1により医療後送任務を行い、イラク戦争終結後初の任務飛行を実施した。2009年、セスナ208B攻撃機(AGM-114ヘルファイア装備)、AT-6BテキサンU軽攻撃機、UH-1ヘリ16機、Mi-17ヘリ13機、Mi-171ヘリ4機、ベル206Bジェットレンジャー10機、OH-58Cカイオワ10機などを保有していた。ラスター95N練習機20機を配備。アメリカ軍撤退に合わせて防空能力を強化する必要性に迫られ、アメリカ空軍の支援を受けて2011年までに防空能力を確保することになり、兵力25000名・固定翼機及びヘリコプター500機・飛行隊35個(うち攻撃ヘリ飛行隊5個、支援ヘリ飛行隊5個、ヘリコプター訓練飛行隊1個)を配備する長期計画を策定した。ただパイロット不足やアメリカの介入による空軍戦力制限の恐れなどから、イラクの自力防衛が可能になるには2020年までかかるといわれる。2012年、戦闘機パイロット養成用としてチェコのL-15928機(新造24機+チェコ空軍の中古4機)を購入する契約を結んだ。ロシアからはMi-28NE攻撃ヘリ30機を導入することになった。2014626日、中古のSu-25攻撃機をロシアから導入すると発表した。Su-252003年以降飛んでおらず、パイロットもほぼいないので、ロシアなど外国のコントラクターが運用するとみられているが、詳細不明。628日に5機、71日に5機が到着したが、後者は塗装がイラン空軍類似で、国籍マークは塗り潰されていた。20157月、F-16戦闘機の配備を開始。2017951500頃、アリゾナ州空軍第162航空団F-16Dがアリゾナ州サフォード北西20マイルに墜落し、操縦していたイラク空軍訓練学生が死亡した。2018419日、シリアのハジンにあるイスラム国拠点をF-16IQ戦闘機で爆撃した。816日、シリア国内のイスラム国拠点をF-16IQ戦闘機で爆撃した。参考:月刊軍事研究12,099,105,1112,14、月刊JWings1,13、月刊航空ファン12,177,1811,18

 <イラク空軍(1977年)>:兵力25000名(うち10000名が防空要員)。Tu-16爆撃機4機、Il-28爆撃機10機、MiG-23B戦闘機90機、Su-7B攻撃機60機、MiG-17戦闘機30機、ハンターFB59/FR10戦闘爆撃機20機、MiG-21戦闘機115機、MiG-19戦闘機20機、ジェットプロボストT52COIN20機、An-2輸送機12機、An-12輸送機6機、An-24輸送機10機、Tu-124輸送機2機、Il-14輸送機13機、ヘロン2機、アイランダー2機、Mi-1ヘリ4機、Mi-4ヘリ35機、Mi-6ヘリ16機、Mi-8ヘリ30機、アルエートVヘリ40機、シュペルフルロン10機、MiG-15/21/23UTI練習機30機、Su-7U練習機、ハンターT69練習機、Yak-11練習機、L-29練習機、SA-2/SA-3地対空ミサイル、SA-6地対空ミサイル25基を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <イラク空軍(1980年)>:MiG-23B50機、Su-2020機、Su-7BM50機、MiG-21PF90機、MiG-19SF15機、MiG-17F35機、ハンターFB59/FR1050機、ミラージュF.1E/B36機、Tu-2212機、Tu-1616機、Il-2810機、An-12を6機、An-2410機、An-210機、Il-76を1機、Il-1412機、Tu-124を2機、アイランダーを2機、Mi-430機、Mi-615機、Mi-836機、Mi-10を3機、アルエートVを45機、SA342L40機、ウェセックスMk52を9機、SA330を2機、L-2918機、L-3924機、ジェットプロボストT.5210機、MiG-15UTIMiG-21UMiG-23U、ハンターT.66/T.69Su-7UIl-28U、ブラボを48機保有している。参考:ザ・マーチ18

 <イラク空軍(1989年)>:兵力40000名(うち防空部隊10000名)。Tu-22爆撃機8機、Tu-16爆撃機8機、轟炸6型D爆撃機4機、MiG-23BN戦闘機70機、ミラージュF1EQ5/EQ5-200戦闘機64機、Su-7攻撃機30機、Su-20攻撃機50機、Su-25攻撃機30機、殲撃6型戦闘機40機、MiG-25戦闘機25機、殲撃7型戦闘機80機、MiG-21戦闘機70機、ミラージュF1EQ戦闘機30機、MiG-29戦闘機18機、MiG-25偵察機8機、An-2輸送機10機、An-12輸送機6機、An-24輸送機6機、An-26輸送機2機、Il-76輸送機19機、Il-14輸送機19機、MiG-15/-17/-21/-23U練習機、Su-7U練習機、ミラージュF1BQ練習機16機、L-29練習機50機、L-39練習機40機、PC-7練習機50機、PC-9練習機15機、EMB-312練習機88機、AS-202練習機35機を配備する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イラク軍>:1921年、イギリスが治安維持のために創設した。作戦基本単位はイギリス流の旅団である。第2次大戦後はソ連から大量の武器を購入、軍事顧問団も派遣され、ソ連流の作戦・用兵術を使用した。19685月と19697月、シリアと防衛条約を締結。1972年、ソ連と友好協力条約(期間15年)を結んだ。総司令部の下に第T-第Z軍団司令部があるが、第Y軍団は軍団長が謀反の疑いでフセインに処刑されたため、欠番となっている。フセインはクーデターを恐れており、軍団を統括する方面軍組織は作られなかった。独裁下では軍将校に作戦決定権は殆ど無く、下士官への待遇が悪く、兵も訓練が行き届かず、イラン・イラク戦争では攻勢作戦を殆ど実施できず、湾岸戦争でも大敗した。20034月、イラク戦争で壊滅。2003年後半、アメリカの支援により第36コマンド大隊とイラク対テロ部隊が創設された。20057月、イラク特殊作戦部隊旅団が新編され、第36コマンド大隊が第1大隊、イラク対テロ部隊が第2大隊として編入された。2012109日、ロシアがMi-28NE攻撃ヘリ30機やパンツィールS1地対空ミサイルシステム42両など総額42億ドルの兵器供給契約を締結したと発表した。20167月、再建中の9個旅団に対してアメリカ軍が計画した訓練のうち、6割しか実施できていなかった。原因は人員徴募・確保が不十分なのと逃亡者が続出しているためで、作戦実施能力を有する旅団は半分くらい、攻勢作戦に使えるのは2個だったらしい。参考:月刊軍事研究2,106,134,151,18、軍事力バランス78年版

 <イラク軍(1989年)>:総兵力1000000名、予備役850000名。エジプトが2000人の軍事顧問と技術者を派遣している。国連イラン・イラク軍事監視団UNIMOGが駐留中。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

イラク軍情報部>:イラク軍の旧情報機関。参考:月刊軍事研究2,04

イラク軍保安局>:イラク軍情報局の一機関だが、大統領の直轄機関である。参考:月刊軍事研究2,04

イラク国民イスラム抵抗>:別名1920革命隊で、イギリスに対する反植民地闘争が始まった1920年が名前の由来である。イスラム主義を標榜し、反米テロの犯行声明を出している。攻撃対象はアメリカ軍で、公共施設、石油関連施設、イスラム教徒への攻撃は行わない。活動場所は西部のアンバール州のモスル、ラマディ、アブグレイブなど。20051月に司令官のハティム・ル・ザウバイがイラク国家保安隊に逮捕された。参考:月刊軍事研究10,062,04

イラク従軍章(アメリカ陸軍)>:Iraq Campaign MedalICM)。2003319日以降、イラクで30日以上従軍した将兵に授与される勲章で、2004年に新設された。以前にイラク従軍でGWOTEMを授与されている場合、これと差し替えとなった。参考:月刊コンバットマガジン7,06

イラク人道復興支援活動>:イラク戦争終結後、復興援助のために自衛隊をイラクに派遣して行った活動。2003726日にイラク復興支援特別措置法が制定され、129日に派遣を決定した。派遣先は政府からバグダッド周辺という意見も出たが、先崎一陸幕長が当時の武器使用基準では必ず死人が出ると反対し、穏健なシーア派地域で、近傍にアメリカ軍がおらず、退路を複数確保できるサマワを薦め、こちらが採用された。迷彩服も砂漠迷彩にはせず、陸自のグリーン系をそのまま使って日の丸も多用し、外国軍と間違われないようにしている。親近感をアピールするため、車内から通行人に手を振るスーパーうぐいす嬢作戦も実施した。12月末から空自の先遣隊がクウェートに到着、200419日に空自の本隊と陸自の先遣隊の派遣命令が出た。117日に陸自の先遣隊がクウェートに入り、119日に派遣先のサマワに入った。空自の本隊は123日にクウェートに入り、126日には陸自本隊に派遣命令が下った。25日に陸自本隊がクウェートに入り、28日に先発隊がサマワに到着、227日と32日に本隊第1波も到着した。220日には陸自車両を搭載したLST-4001おおすみと護衛のDD-101むらさめが室蘭を出港してクウェートに向かった。基本任務政策は「シルクハットポリシー」と呼ばれるもので、軍事組織としての能力と住民との友好の輪を両方とも広げていくというものである。陸自本隊がサマワに入ると、バグダッドの連合国暫定当局に出向していた日本外交官がイラクの治安情勢といった機密事項も入手できるようになり、幹部会合への参加も許可されるなど、待遇が「客人」レベルから「仲間」レベルになったという。310日には給水車が到着。320日、第2波がサマワ入り。326日、給水活動開始。327日、第3波がサマワ入り。47日、迫撃砲弾が宿営地近くに撃ち込まれ、宿営地外の活動を控えた。48日、日本人3人が人質にとられた。このため、サマワで取材中のフジテレビ5人、読売新聞2人、共同通信2人、日本電波ニュース1人をタリル空軍基地からクウェートのムハバラト空軍基地まで移送し、空自による初の邦人避難輸送を行った。413日、宿営地外の活動を再開。415日、人質3人は解放されたが、新たに2人が人質にとられた。417日、宿営地賃貸契約が結ばれた。422日、サマワのオランダ軍キャンプに迫撃砲弾が着弾。815-31日、第3次派遣隊への引き継ぎを終了。821日、宿営地北から直径100mm・長さ700mmのロケット弾1発が撃ち込まれ、宿営地近傍に着弾した。823-24日、宿営地が迫撃砲による攻撃を受けたが、敷地内への着弾は無かった。10月、香田証生氏がイラク聖戦アルカイダ機構に誘拐・殺害された。10222300頃、宿営地近傍にロケット弾1発が撃ち込まれた。10312230ごろ、宿営地にロケット弾1発が撃ち込まれ、物資保管用コンテナを貫通。死傷者は無かった。1120日、第6師団を主力とした第4次復興支援群第1波がサマワ入り。125-6日、大野防衛庁長官がサマワの宿営地などを訪問。126日までに第4次全員が宿営地入りした。任務に就くにあたり、隊員達は笑顔の訓練を行い、サマワ住民との軋轢を防ぐよう努めたという。129日、イラク復興支援特別措置法に基づく自衛隊派遣期間を1年間延長(20051214日まで)。12月中旬、第4次支援群への引き継ぎを終了。空自第5期要員がクウェート入り。1224日、空自第4期要員前段が帰国。1231日、サマワ宿営地で年越しそばを食べた。200517日、日本・イラク文化交流フェスティバルを開催、餅つきや凧揚げなどを実施。118日、空自第5期要員第2陣がクウェート入り。122日、空自第4期要員後段が帰国。123日、陸自イラク復興業務支援隊が3次隊に指揮権を移転。26日、第10師団を中心とする第5次支援群の第1波がクウェートに到着。212日、陸自第5次支援群第1波がサマワに移動。219日、第5次支援群第2波がサマワに到着。227日、第5次支援群第3波がサマワに到着。228日、指揮権が第5次支援群に委譲される。35日、陸自第4次支援群が帰国。37日、ムサンナ県の治安維持任務がオランダからイギリスに移された。314-15日、空自第6期前段要員がクウェートに出発。319日、空自第5期前段要員が帰国。空自第6期要員が展開を完了。58日、斉藤昭彦氏襲撃事件が発生。511日、陸自宿営地近くでロケット弾の発射音を聴取。宿営地北東数キロの地点に着弾したとみられる。514日、陸自第6次支援群第1波がサマワ入り。2波・3波もサマワ入りし、528日に第6次支援群に任務交代した。64日までに陸自第5次支援群が帰国を完了。621日、第4師団を中心とした第7次イラク復興支援群編成命令が下った。623日、走行中の陸自車両脇で爆発物が爆発し、高機動車(国際任務仕様)が小破。624日、イラク復興業務支援隊第4次要員出国行事。626日、イラク復興業務支援隊第4次要員がクウェート入り。74日、サマワの宿営地内に砲弾1発が着弾。712日、空自第7期前段要員が出国。第7期から女性隊員が加わった。717日、空自第6期前段要員が帰国。724日、イラク復興業務支援群第3次隊が帰国。730日、第7次イラク復興支援群第1波が出国。731日、第7次イラク復興支援群第1波がクウェートに到着。86日、第7次イラク復興支援群第2波が出国。87日、第7次イラク復興支援群第2波がクウェートに到着。811日、第7次イラク復興支援群第1波がサマワ入り。813日、第6次イラク復興支援群第1波が帰国。815日、第7次イラク復興支援群第2波がサマワ入り。819日、陸自イラク復興支援群指揮権が7次群に移譲。820日、第7次イラク復興支援群第3波がサマワ入り。第6次イラク復興支援群第2波が帰国。その後、第7次群は地元サッカー協会とムサンナ杯青少年サッカー大会を1週間に亘り開催し、交流を深めた。823日、空自派遣輸送航空隊第7期要員が拠点入りを完了。827日、第6次イラク復興支援群第3波が帰国。829日、空自派遣輸送航空隊第6期要員後段が帰国。103日、第8師団を基幹とした第8次イラク復興支援群編成命令が下った。2006219日、第9次イラク復興支援群第3波がクウェートからサマワに移動、第9次群全員が展開を終了した。226日、第8次イラク復興支援群が帰国を完了。31日、第11次イラク復興支援群の編成準備命令が下令された。38日、空自派遣輸送航空隊9期前段要員が小松基地からクウェートに出発。312日、空自第8期前段要員の15名が帰国。313日、空自第8期前段要員の90名が帰国。520日、陸自第9次イラク復興支援群第1波が帰国を開始。521日、第12旅団を主力とする陸自第10次イラク復興支援群第3波が成田空港を出発、5月末にサマワ入りし、展開を終了。528日、陸自第9次イラク復興支援群第2波が帰国。531日、サマワ市内を走行中のオーストラリア・陸自車列付近で爆発物が炸裂、オーストラリア軍車両が軽微な損傷を受けた。63日、陸自第9次イラク復興支援群第3波が帰国。625日、陸自第10次イラク復興支援群が撤収を開始。717日、陸自の全隊員がイラクを出国、宿営地はイラク陸軍第10師団第2旅団司令部として使用されることとなった。725日、第10次イラク復興支援群とイラク復興業務支援隊第5次要員が帰国した。給水量は53500トン、公共施設整備・復旧ヵ所は122ヵ所、雇用イラク人は延べ488000人。医療支援活動を行ったムサンナ県のサマワ母子病院では2002年に比べて新生児死亡が3分の1に減った。宿営地には14回にわたり砲弾が撃ち込まれた。96日、空自は初めてバグダッドへの飛行を行い、国連要員及び物資を空輸した。11月、空自第11期要員が活動を開始。20073月、空自第12期要員が活動を開始。619日、イラク特措法を2年間延長。1227日、アリアレサム飛行場で空自第14期要員が外国軍人を招いて餅つきを実施。200811日、アリアレサム飛行場で空自第14期要員が新年恒例の達磨の目入れ式(安全祈願)を実施した。1128日、政府安全保障会議で派遣部隊撤収を決定。1212日、防衛大臣から輸送活動終了命令が出された。現地時間1022、アリ・アルサレム空軍基地からアリ空港までの輸送任務を終了し、最後の輸送を完了した。1215日、撤収作業を開始し、C-130H輸送機3機と政府専用機で帰国することになった。1217日、クウェートで撤収式典を実施。アメリカ空軍第386遠征航空団司令代理から謝辞が届いた。1218日、帰国2番機が途中の飛行場で燃料トラブルを起こし、帰国が予定より遅れた。1223日、空自第16期派遣輸送航空隊本隊要員150名が政府専用機で小牧基地に帰国。1224日、第16期要員が帰国行事を実施。麻生首相、小泉元首相、浜田防衛大臣、中曽根外務大臣、石破農水大臣、中谷元防衛庁長官、ライス在日米軍司令官、斉藤統幕長、外薗空幕長らが出席して隊旗返還式が行われた。2009214日、空自イラク復興支援派遣撤収業務隊が民間機で帰国を完了。215日、小牧基地で撤収業務隊の帰国行事と隊旗返還式を実施。66カ所の診療所等補修、31カ所80kmの道路補修、36校の学校整備、53500トンの給水、277回の医療技術指導を行い、821回の任務運航で延べ46479人の人員と672.5トンの貨物を輸送した。201842日、防衛省が同年2月の国会答弁などで存在しないとしていたイラク派遣部隊日報(20041月から20069月まで14000ページ)が陸自内で見つかったと、小野寺防衛大臣が発表した。陸自研究本部教育訓練課が20173月に南スーダンPKO日報問題を受けて実施した特別防衛監察で存在を把握していたが、当時の稲田防衛大臣ら政務三役には報告していなかった。46日、空自からイラク派遣部隊日報(200436-8日の3枚)が発見されたと、小野寺防衛相が発表した。201845日に国会議員による資料要求を受けて再度探した際に見つかったもので、空幕長は探索が不十分だったと陳謝している。46日、防衛省で小野寺防衛大臣が緊急に特別訓示を行い、適切な文書管理と情報公開は法令により課せられた重要な責務であり、危機感と信頼回復への決意を全隊員が共有するよう伝達した。416日、イラク派遣部隊日報の20041月から20069月まで435日分14929ページを公開した。戦闘の文言が記載されていた部分もあったが、417日に小野寺防衛大臣が記者会見し、イラク特措法で定義する戦闘行為のことではないとしている。523日、防衛省が部隊日報に関する調査結果を公表し、組織的隠蔽は無いが、不適切な事務処理、探索指示の不徹底、情報公開に対する認識不足があったとして、事務次官、統幕長、陸幕長ら17名を処分(減給1名、戒告2名、訓戒5名、注意4名、口頭注意5名)した。参考:月刊JWings4,045,046,047,0411,041,052,053,054,055,056,057,058,059,0510,0511,0512,055,066,068,0611,066,073,09、月刊軍事研究8,052,083,084,085,122,17、月刊PANZER9,06、月刊世界の艦船3,05、朝雲、MAMOR vol.123

イラク聖戦アルカイダ機構>:イラクのスンニ派テロ組織、タンジーム・カイダット・アル・ジハード・フィー・ビラード・アル・ラフェディン。最初は一神教聖戦団という名称だったが、200410月にアルカイダへの合流を宣言してこの名前に変更された。トップはヨルダン人イスラム過激派アブ・ムサブ・ザルカウィで、構成員は200-300人だが、下部組織が広範に存在しており、イラク各地でテロ行為を起こしている。一神教聖戦団時代の20044月からイラクで自爆テロや外国人拉致・殺害を繰り返しており、要求を受け入れれば解放するが、拒否すれば首を切断して殺害、映像をウェブサイトに載せるなどしている。10月には香田証生氏を拉致殺害したが、これ以降は残虐な映像を載せなくなった。2005年夏頃からアメリカ軍による掃討作戦が激化し、テロに巻き込まれたイラク住民に反対感情(親族を殺された市民が掃討部隊を組織した)が芽生えてきたこともあり、活動が衰退してきた。これに伴い、2006年初めにムジャヒディン評議会へと改称したが、67日に指導者のザルカウィがディヤラ州バクーバ近郊のパルバルでアメリカ空軍の爆撃を受けて死亡。エジプト人アブー・アイユーブ・アル・マスリが後継者となり、10月にイラク・イスラム国と改称した。参考・月刊軍事研究9,146,0510,06

イラク戦争>:2003320日からアメリカ合同軍とイラクとの間で始まった戦争、アメリカ作戦名「イラクの自由(Iraqi Freedom)」。イギリス軍呼称はテリック作戦(operation telic)、オーストラリア軍呼称は鷹匠作戦(operation falconer)である。戦争開始時のイラク地上軍戦力は、兵力37万名、師団数23個(陸軍17個+共和国親衛隊6個。戦車6個、機械化4個、歩兵13個)、戦車2200両、装甲車3800両、野砲2300門。バグダッドの北西にハムラビ戦車師団、南東にアル・ニダ戦車師団、高速8号線のカルバラにメディナ戦車師団、高速6号線のクートにバグダッド歩兵師団の各共和国親衛隊師団を置き、バグダッドに通じる2本の幹線道路を塞いで進撃を阻止する構えだった。アメリカ合同軍のトップはアメリカ中央軍司令官で、アメリカ中央軍隷下に連合軍地上構成コマンド(陸軍第5軍団、海兵隊第1海兵遠征軍)、連合軍航空構成コマンド(イギリス空軍機も指揮する)、連合軍海上構成コマンド、連合軍特殊作戦構成コマンドを置き、戦力はアメリカ陸軍第5軍団第3歩兵師団(2万名、M1A1戦車275両)、第101空挺師団(1.8万名、AH-64D72機)、第82空挺師団(5000名)、アメリカ海兵隊第1海兵遠征軍(8.5万名、第1海兵師団、第2海兵遠征旅団、第15・第24海兵遠征隊、イギリス第1機甲師団)、三軍の特殊部隊計14000名(AFSOCMC-130E/H/P特殊作戦機26機、MH-53J/M特殊作戦ヘリ31機)で、兵力25万名、航空機1800機、艦船110隻を擁する。アメリカ海軍参加艦艇は、キティホーク空母攻撃群のCV-63CG-62CG-63DDG-56DD-975DD-985FFG-48FFG-51SSN-698、コンステレーション空母攻撃群のCV-64CG-50CG-52DDG-69DDG-76DD-992FFG-43AOE-7SSN-771