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<ワーウルヴス>:VMFA-122(飛行隊)を参照。

<ワーリック>:AKA-89(攻撃貨物輸送艦)を参照。

<ワールド・ウォッチャーズ>:VQ-1(飛行隊)を参照。

ワールドカップサッカー(2002年、日韓共同開催)>:テロ対策のため、日本では競技場上空を飛行制限空域に定めてAWACS及び地上レーダーで監視、不審機は警察のヘリなどで対処することとした。韓国は試合時間帯の競技場上空を飛行禁止区域とし、在韓米軍と共に監視。競技場にはミストラル携帯式対空ミサイルを配置し、ナイキやホークを装備する空軍部隊を待機させ、試合開始前後にわたりF-16で警戒飛行を行った。参考:月刊JWings6,02

<ワールド・フェイマス・ゴールデン・ドラゴンズ>:VFA-192(飛行隊)を参照。

<ワールド・レコーダーズ>:VAP-61(重写真偵察飛行隊)またはVCP-61(混成写真偵察飛行隊)を参照。

<ワーレン>:APA-53(攻撃輸送艦)を参照。

<ワイ>:K371(フリゲート)を参照。

<淮安>:509(コルベット)を参照。

<ワイアンドト>:AKA-92(攻撃貨物輸送艦)を参照。

<ワイオミング>:BB-32(戦艦)またはSSBN-742(戦略原潜)を参照。

ワイオミング級戦艦>:アメリカ海軍ド級戦艦Wyoming級。船体は平甲板型で、艦首から艦尾に達するシアを持つ。30.5cm連装砲塔を2基ずつ背負い式に3群に分けて搭載しており、全長が前クラスのフロリダ級より12.3m延長された。全長171.3m、幅28.4m、吃水8.7m、常備排水量26000トン、基準排水量26100トン。主機はパーソンズ式高低圧並列式直結蒸気タービン4基、主缶はバブコック&ウィルコックス式混焼缶12基、出力28000馬力、4軸推進、速力20.5ノット。兵装は49.1口径30.5cmMk7連装砲塔6基(最大仰角15度、最大射程24900m)、12.7cm単装砲21門、53.3cm魚雷発射管2門。装甲厚は水線部279mm、甲板51mm。乗員1063名。1909年度計画で2隻が建造され、1912年にBB-32ワイオミングとBB-33アーカンソーの2隻が竣工した。1918年までに波を被りまくっていた舷側ケースメート式12.7cm単装砲5基を撤去、第2煙突脇の探照灯を廃止して7.6cm単装高角砲2基を搭載した。1919年に前部マストのフラットを複雑にし、1921年に羅針艦橋を閉囲式に改め、その天井部と2・3・5番砲塔に測距儀を搭載、羅針艦橋上方に戦闘艦橋を設けた。1925-27年に改装を実施。主缶を重油専焼に変更して煙突を1本に統合、後部マストを籠マストから三脚マストにして3番砲塔前方から5番砲塔前方に移した。3番砲塔上にカタパルトを装備し、水上機3基を搭載。バルジを設置した結果、幅が32.3mに、常備排水量が29000トンになった。1942年にも改装を行い、前部マストも三脚式にし、艦橋を大型化、ケースメート式の副砲を全て撤去して両舷第1甲板の3門ずつのみ残し、艦橋下・中央部・5番砲塔脇の計8箇所にボフォース40mm4連装機銃を装備して対空兵装を強化した。参考:近代戦艦史、月刊世界の艦船1,041,124,17、第2次大戦のアメリカ軍艦、月刊丸11,09

<ワイカト>:F-55(フリゲート)を参照。

<ワイカト級>:リアンダー級フリゲート(ニュージーランド海軍)を参照。

<ワイス>:APD-135(高速輸送艦)またはDE-378(ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦)またはDE-719(ラッデロウ級護衛駆逐艦)を参照。

<ワイズマン>:DE-667(護衛駆逐艦)を参照。

ワイダイ>:ウェストランド社の無人ヘリコプターで、イギリス国防省のスーパーバイザー計画としてウィスプ無人ヘリをベースに完成した。しかしコストなどの問題で1976年に予算が打ち切られ、自主開発に切り替えている。参考:スパイ機

<ワイテク>:DD-848(駆逐艦)を参照。

ワイドカット燃料>:軽揮発油・重揮発油の混合油と、灯油(ケロシン)を半々で混ぜた燃料のこと。灯油とガソリン(ナフサ)を混ぜたものはワイドカットガソリンと呼ばれる。参考:月刊JWings10,09別冊付録、月刊軍事研究11,16

ワイド・トゥ・デルタ・ループ>:ブルーインパルス曲技飛行の1つ、Wide to Delta Loop。5機が幅広の傘型隊形(1辺210m)で会場後方から進入し、会場正面で宙返りをしながら機体間隔を1辺40mまで縮めていく。参考:月刊JWings7,126,096,10別冊付録

<ワイド・バトル・フォーメーション>:コンバット・スプレッド(飛行隊形)を参照。

<ワイドマウス・ベイ>:K615(フリゲート)を参照。

<ワイド・マット>:JY-27(レーダー)を参照。

<淮南>:540(フリゲート)または123(ミサイル駆逐艦)を参照。

<ワイバーン>:D66(護衛艦)を参照。

ワイバーン・シリーズ>:イギリス海軍艦上戦闘雷撃機Wyvern1943年からウエストランド社で設計され、試作機は1946年末に初飛行した。試作中にターボプロップエンジンに積み替え、初のターボプロップ戦闘機となっている。1958年に全機退役した。参考:月刊JWings7,051,074,20、月刊航空ファン5,13

 <ワイバーンT.F.1>:3500馬力のピストンエンジンを搭載した原型機。エンジンはロールスロイス22液冷H型24気筒レシプロ(3500馬力)単発で、プロペラは二重反転の計8翅、最大速度700km。固定武装は20mm機関砲4門。20インチ(508mm)魚雷1本、60ポンドロケット弾8発を搭載できる。参考:月刊丸8,87

 <ワイバーンT.F.2>:エンジンを4000馬力級のターボプロップに換装した生産型。1953年に就役し、87機が生産された。参考:月刊丸8,87

 <ワイバーンS.4>:実用型。1953年から部隊配備され、1956年に空母イーグルに搭載されてスエズ動乱に参加した。参考:月刊JWings7,05

<ワイバーンズ>:HS-12(ヘリコプター飛行隊)を参照。

<ワイフェルス>:DE-6(護衛駆逐艦)を参照。

<ワイブルCFAR>:CFAR(定誤警報率)を参照。

<淮北>:541(フリゲート)を参照。

<ワイマン>:DE-38(護衛駆逐艦)を参照。

<ワイヤレスTOW>:BGM-71シリーズ(対戦車ミサイル)を参照。

<淮陽>:FF937(フリゲート)を参照。

ワイラウェイ>:オーストラリア軍の練習機Wirraway。コモンウェルス社がライセンス生産したNA-33高等練習機で、太平洋戦争では戦闘機不足から迎撃任務にも使用された。194212月には零戦を撃墜している。全長8.5m、全幅13.1m、全備重量1800kg。エンジンはプラット&ホイットニー社製R-1340600馬力)単発で、最大速度338km。乗員2名。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊PANZER3,12

ワイルドウィーズル>:アメリカ空軍のSEAD機に付けられる愛称で、野イタチのこと。敵レーダー手の気を引く行動を取ってレーダーを照射させ、対レーダーミサイルで叩き潰すことから、死んだふりが上手くずるがしこい野イタチと名付けられた。非公式モットーはYou Gotta Be Shittin MeYGBSM)。参考:アメリカ空軍の第一線機、月刊JWings2,19

<ワイルドウィーズルT>:F-100戦闘機ファミリーを参照。

<ワイルドウィーズルU>:F-105FワイルドウィーズルU(SEAD機)を参照。

<ワイルドウィーズルV>:F-105FワイルドウィーズルV(SEAD機)を参照。

<ワイルドウィーズルW>:F-4CワイルドウィーズルW(SEAD機)を参照。

<ワイルドウィーズルX>:F-4GワイルドウィーズルX(SEAD機)を参照。

<ワイルドキャッツ>:VFA-131(飛行隊)を参照。

ワイルドキャッツ>:陸上自衛隊第6師団第6飛行隊の臨時アクロバットチーム。使用機はOH-6D。参考:月刊JWings1,03

<ワイルドキャット>:AW159シリーズ(ヘリ)またはF4Fシリーズ(戦闘機)またはフクス装輪装甲車ファミリーを参照。

ワイルドキャット>:IMI、タトラ、ゾーフが自社開発した市街戦用4×4輪装甲車。車体下部はV字型をしており、防御レベルは耐地雷で2a-3B、車体防御はレベル3(7.62mm徹甲弾防御可)である。装甲強化型のキットBではレベル4(14.5mm徹甲弾防御可)となり、スラットアーマーを追加したキットCではRPG-7にも耐えられる。兵員室前方左にランプ式のドア(右開きの小さなドアも付いている)があり、側面に3ヵ所ずつ、側面斜め上に3ヵ所ずつ、後方に2ヵ所の防弾ガラス窓を持ち、十分な視界を提供する。座席はフローティング方式で、地雷などの衝撃が直接伝わらないようになっている。ランフラットタイヤ、空気圧調整装置を標準装備しており、NBC防護装置、周辺監視用ビデオカメラ、エアコンなどをオプションで搭載できる。戦闘重量15トン。エンジンはカミンズ社製ディーゼル(325馬力)、トランスミッションはアリソン社製6速オートマチックで、最大速度104km、航続距離700km。兵装は操縦席上部の12.7mm機銃装備遠隔操作武装ステーション。乗員3名(操縦手、銃手、車長)+乗車兵員8名。参考:月刊軍事研究9,08

ワイルドキャット改>:ドイツのクラウスマッファイ社が開発中の対空砲塔。砲塔前部にダッチ・シグナール社製ミラドール射撃管制装置を搭載し、レーザー測距、赤外線暗視、目標追跡を行う。砲塔後部にはガリレオ社製二次元捜索レーダーがあって、18km以内の目標を探知し、ミラドールに諸元を送る。またスウェーデンのエリクソン・マイクロウェーブ・システムズ社製HARD三次元レーダーシステムなどに換装することもできる。砲塔両側にマウザー30mmMk30-2カノン砲を1丁ずつ装備し、撃ちっ放し式の地対空ミサイル2発ずつを装着する。カノン砲はリンクレス給弾式で、フランジブルAPDSなどの各種弾薬を使用可能。プラットフォームはレオパルト1やBMP-3など各種装軌・装輪車両を想定している。参考:月刊軍事研究10,98

<ワイルド・グース>:U45(スループ)を参照。

<ワイルドスワン>:D62(護衛艦)を参照。

ワイルド・ダック級>:イギリス海軍繋留・救助・防材用船Wild Duck級。就役年によって3タイプに分かれる。参考:月刊世界の艦船5,83

 <ワイルド・ダック級A型>:1964年に2隻が就役した。参考:月刊世界の艦船5,83

 <ワイルド・ダック級B型>:1966年にP195ゴールデンアイなど2隻が就役した。艦首に200トンウインチ、艦橋直前にデリックを持ち、ケーブル・繋留ブイ・港湾防御材設置や維持整備を行うのが主任務で、艦尾にも錨がある。自衛用に40mm機関砲1門を搭載可能。参考:月刊世界の艦船5,83

 <ワイルド・ダック級C型>:1973年に2隻が就役した。参考:月刊世界の艦船5,83

<ワイルマン>:DE-22(護衛駆逐艦)を参照。

<ワイレイ>:DD-597(駆逐艦)を参照。

若草一一型>:日本海軍初歩滑空練習機、MXJ1。九三式中間練習機が担当していた初歩練習の一部を、ガソリンや金属資源を消費しない木製グライダーで行うというコンセプトで、昭和17年に十七試初歩練習用滑空機として日本小型飛行機と美津野グライダーに試作が発注され、前者が民間滑空機コンテスト入賞作をベースに開発したものが採用されて昭和19年に制式化された。機体は全木製で、主翼は支柱付き単葉。地上のウインチかゴムカタパルトで離陸する。全長6.24m、全幅10.82m、全備重量185kg。滑空比10-12。乗員1名。500機強が生産された。参考:月刊丸3,18別冊、4,99

ワカクラ>:ニュージーランド海軍モア級哨戒艇Wakakura。参考:月刊世界の艦船11,00

<わかさ>:AGS-5104(海洋観測艦)を参照。

若桜>:日本海軍松型駆逐艦37番艦。昭和20115日に起工したが、511日に建造中止となった。参考:日本駆逐艦史

<わかしお>:SS-522(はやしお型潜水艦)またはSS-587(はるしお型潜水艦)を参照。

若獅子神社>:静岡県富士宮市にある神社で、少年戦車兵学校跡に建立された。サイパンの海岸から発掘された九七式中戦車が展示されている。参考:朝雲

<わかたか>:PC-317(駆潜艇)またはPG-825(ミサイル艇)を参照。

<若鷹>:T-33A練習機(航空自衛隊)を参照。

若鷹>:日本海軍初鷹型敷設艦Wakataka、計画番号H-12b。昭和15年起工、昭和161130日竣工。128日の太平洋戦争開戦時は第3艦隊第2根拠地隊所属で、リンガエン上陸作戦に参加した。昭和1716日からタラカン、バリクパパンで船団護衛を実施。310日、第2南遣艦隊第22特別根拠地隊に転属し、蘭印方面で船団護衛を行った。821日、第8艦隊第8根拠地隊に編入され、ラバウルに展開。9月、ラバウルやショートランドに九六式防潜網を設置した。1229日、第2南遣艦隊第25特別根拠地隊に転属、アンボン周辺で船団護衛を行った。昭和18325日、アンボン沖で爆撃を受けて損傷した。825日、ニューギニアのソロンで爆弾の至近弾を受けた。1012日、第934航空隊の水上偵察機と共にセレベス島北東でSS-289カペリンを撃沈した。昭和19915日から厳島の曳航を実施。1017日、厳島を曳航中にジャワ海バウエアン島付近で潜水艦の雷撃を受けて中破した。1018日からスラバヤで修理を実施。昭和2038日、修理を完了。327日、ジャワ島カンゲアン島の南5海里でイギリス海軍潜水艦の雷撃により艦橋直前で船体を切断され、大破した。42日にスラバヤにドックインして簡易艦首を装着し、終戦時はスラバヤの第102工作部で修理中であり、中破状態だった。戦後はインドネシアの独立派に接収されそうになったが、脱出して内地に帰還、引き揚げ船として昭和21年まで使用され、31日に除籍された。昭和221017日にシンガポールでイギリス軍に引き渡され、マレー連邦海軍宿泊兼練習艦ラブルナム(Laburnum)となった。昭和43年、シンガポール海軍所属となった。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、帝国陸海軍事典、写真集日本の小艦艇、日本海軍艦隊総覧、敷設艦 工作艦 給油艦 病院船

わかたか>:海上自衛隊ちよづる型掃海艇20番艇。元は駆潜特務艇第196号である。195281日に海上保安庁から移管され、掃海船MS-83となった。195471日に掃海艇に類別変更された。195641日、特務艇特務8号に類別変更された。1961331日に特務雑船YAS-31に区分変更された。1965331日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史

若竹>:日本海軍若竹型駆逐艦1番艦Wakatake。大正11930日竣工、第2駆逐艦という名称で二等駆逐艦に類別された。大正13424日、第2号駆逐艦に改称された。昭和381日、若竹に改称された。昭和611月、第2遣外艦隊に編入され、旅順に進出。昭和19330日、パラオ在泊中にアメリカ海軍第58機動部隊の空襲を受けて沈没し、510日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌

若竹型>:日本海軍二等駆逐艦Wakatake型、基本計画番号F37C。神風型一等駆逐艦の小型化バージョンで、峯風型の小型版である樅型に高速旋回時に船体傾斜が大きくなるという欠点があったので、幅を0.15m・吃水を0.10m増大して解決した。代わりに速力が0.5ノット低下している。艦橋前側面には銅系金属製固定ブルワークを設けた。全長88.4m、水線幅8.1m、吃水2.5m、基準排水量820トン。主機は衝動型ブラウン・カーチス式(朝顔、早苗、早蕨は反動型パーソンズ式、夕顔は衝動型ツェリー式)オール・ギヤード・タービン2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(蒸気圧力18.3気圧、飽和温度)3基、出力21500馬力、2軸推進、速力35.5ノット、航続距離は14ノットで3000海里。兵装は三年式45口径12サンチ単装砲3門、6.5ミリ単装機銃2丁、十年式五十三サンチ二連装水上発射管(夕顔、刈萱は★十年式五十三サンチ二連装水上発射管)2基。乗員110名。23隻を建造予定だったが、ワシントン条約に伴う計画変更で若竹、呉竹、早苗、早蕨、朝顔、夕顔、芙蓉、刈萱の8隻が大正11-13年に就役した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船12,105,118,17

若月>:日本海軍秋月型駆逐艦6番艦。昭和18531日竣工。112日、ブーゲンビル島沖海戦に参加。116日、ブーゲンビル島付近で爆撃を受けて小破した。1111日、ラバウルで空襲を受けて損傷した。1221日、浦賀で修理中に缶室で火災が起きた。昭和191020日、比島沖海戦に参加。1111日、第3次多号作戦(オルモック輸送)に従事中、オルモック湾で艦上機の攻撃を受けて沈没し、昭和20110日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌

<わかば>:DE-261(護衛艦)を参照。

若葉(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦24番艦。明治39517日(228日?)竣工。大正元年828日に三等駆逐艦に類別変更された。第1次大戦では第5駆逐隊第2水雷戦隊に所属、青島方面での掃海任務に従事した。大正13121日に掃海艇に転籍した。昭和341日に除籍され、昭和4131日に廃船となった。参考:日本駆逐艦史、月刊丸1,77

若葉(2代目)>:日本海軍初春型駆逐艦3番艦Wakaba。昭和91031日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には第21駆逐隊に所属していた。昭和176月、アッツ島攻略作戦に参加。101日、北方部隊に編入された。1011日、キスカ島への弾薬輸送任務のため横須賀を出港、任務を遂行した。昭和18327日、アッツ島沖海戦に参加。330日、幌延海峡で駆逐艦雷と衝突して小破した。77日、キスカ島撤退作戦に参加。726日、キスカ島撤退作戦に向かう途中、アッツ島南方700海里で接触事故を起こし、艦隊随伴が困難となったために引き返した。10月、佐世保での修理を完了。昭和191024日、スルー海でアメリカ艦上機の攻撃を受けて沈没し、1210日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸1,77、ラバウル航空戦、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧

わかば型>:海上自衛隊護衛艦。元は松型駆逐艦の梨で、山口県沖で沈んでいたのを1954930日に引き揚げて再生したものである。1953年に大蔵省が魚礁用として地元漁協に払い下げ、北星船舶工業が引き揚げたが、被弾箇所以外は損傷が少ないので自衛艦として再生できると北星船舶工業が防衛庁に売り込んだため、政治問題となった挙げ句、大蔵省が払い下げ契約を解消して防衛庁に移管、19555月(9月?)から復旧工事を実施し、1956年に竣工した。船体と機関部の大部分を再利用し、艦橋と上部構造を作り直して兵装無しで就役、主に高角測定レーダーなどの試験任務に従事した。船型は船首楼型で、復旧工事の際に舷窓を廃止している。レーダー・リレーを搭載しており、P-2Vのレーダーデータを受信してSPA-8レーダー指示器に表示させることができる。機関部は前から前部缶室・右舷軸機械室・後部缶室・左舷軸機械室のシフト配置で、主機と主缶は梨だった時のものをそのまま使っており、9年間海水に浸かっていても整備だけで使用に耐えた。全長100m、最大幅9.4m、深さ5.8m、吃水3.1m、基準排水量1250トン、満載排水量1670トン。主機は艦本式高低圧型蒸気タービン2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(30気圧、350度)2基、出力15000馬力、2軸推進、速力26ノット。乗員175名。DE-261わかばが就役した。1957年に前部マストを三脚から四脚格子状に換装し、SPS-5対水上レーダー、SPS-12対空レーダー、OLR-4電子戦装置、ODR-2方位測定器などを搭載、76mm連装速射砲1基、ヘッジホッグ1基、爆雷投射機(K砲)4基、爆雷投下軌条2条を装備し、吃水が3.3mになった。19592月、艦橋上にSPS-8B高角測定レーダーを搭載、AN/SPS-12と組み合わせて対空目標の三次元測定が行えるようにし、レーダー・ピケット艦のテストベッド艦となった。基準排水量は1521トンに増えている。1960年にAN/SQS-11Aソナーを追加。1963年に実用実験隊所属となり、これに際して試作ソナーに換装し、6553センチ連装水上発射管を搭載した。1967年、SPS-8B高角測定レーダーを撤去した。1971年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊、8,11増刊、9,966,112,14、丸スペシャルNo.76No.78、日本の防衛戦力Part7

若松幸禧>:わかまつゆきよし。日本陸軍エース。明治44年、鹿児島県生まれ。昭和5年、陸軍飛行第3連隊に入隊し、昭和711月に操縦学生課程を修了、所沢及び熊谷陸軍飛行学校で助教となり、昭和135月に航空士官学校に入学、年末に卒業して航空兵少尉となった。昭和149月、飛行第64戦隊に配属された。12月、中尉に昇進。昭和15年末、明野飛行学校甲種学生となり、昭和164月に飛行第85戦隊に所属、昭和178月に大尉に昇進した。昭和18年夏から広東で戦闘任務に就いた。724日、桂林侵攻でP-40戦闘機2機を撃墜。820日、2機を撃墜。味方からは赤鼻または赤達磨隊長、在支米空軍からは赤鼻のエースというニックネームを付けられ、賞金首までかけられていたという。12月上旬、武漢防衛のため移動。1219日、武昌第2飛行場付近で戦死した。総撃墜機数18機以上(うち半数近くがP-51)。最終階級は中佐。参考:日本陸軍戦闘機隊

若宮>:日本海軍若宮型運送船/航空母艦(実際は水上機母艦)。元は日露戦争中の明治38112日に利敵行為の疑いで鹵獲したイギリス貨物船レシントン(Lethington)である。明治38214日、沖ノ島丸と改称された。91日、若宮丸と改称された。明治4032日、日本郵船に貸与された。明治4539日、運送船に類別され、海軍艦籍に編入された。322日、日本郵船から返還された。明治45年、佐世保工廠で砲塔運搬用艦艇に改造された。大正29月にファルマン式水上機2機、カーチス式水上機1機を臨時搭載して演習に参加。大正3823日、前後上甲板に格納庫とデリックを設置して水上機4機(常用2機+補用2機)を運用できるようにする改造が終了、第1次大戦に参加し、95日から青島戦に従事、初日に2機が出撃して偵察を行い、巡洋艦エムデンが青島を脱出していることを掴み、砲台の爆撃も行った。これが世界最初の水上機母艦実戦使用である。大正461日、二等海防艦に分類され、若宮と改称された。大正941日、航空母艦に類別され、618日に日本初の艦上発進に成功(着陸は陸の飛行場だった)。昭和641日に除籍され、昭和7年に日宇で解体された。参考:日本航空母艦史、日本海軍特務艦船史、図解日本の空母、月刊世界の艦船11,00、月刊丸4,99、月刊世界の艦船12,10

若宮>:日本海軍択捉型海防艦Wakamiya。昭和18810日竣工、呉鎮守府部隊に編入された。830日、第1海上護衛隊に移り、ヒ二一船団の護衛を開始。1120日、門司を出港し、高雄に向かった。1123日、舟山島の南70海里でSS-211ガジョンの雷撃を受けて沈没した。生存者は4名だけだった。参考:月刊丸7,14、第2次大戦日本海軍作戦年誌

若宮型運送艦>:日本海軍運送船Wakamiya型。元は日露戦争時に拿捕したイギリス貨物船レシントンで、沖ノ島丸と命名したが二等海防艦沖島と紛らわしいので若宮丸に改称し、更に若宮に名称変更したものである。垂線間長111.25m、最大幅14.68m、吃水5.78m、常備排水量5895トン。主機は直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械1基、主缶は石炭専焼円缶3基、出力1591馬力、1軸推進、速力10ノット、石炭搭載量851トン。兵装は一号40口径8cm単装砲2門。若宮が就役した。後に航空機運用設備を設け、二等海防艦を経て航空母艦に類別された。参考:日本海軍特務艦船史

若宮型航空母艦>:日本海軍航空母艦(実際は水上機母艦)。元は若宮型運送船で、砲塔運搬用ハッチが航空機の運用に適していたので水上機3機の搭載艤装を施し、更に第1次大戦参戦に合わせて本格的な水上機母艦としたものである。垂線間長111.25m、最大幅14.68m、平均吃水5.78m、常備排水量5895トン。主機は直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機械1基、主缶は石炭専焼円缶3基で、1軸推進、出力1591馬力、速力10ノット、石炭搭載量851トン。兵装は7.6cm単装砲2門、4.7cm単装高角砲2門。搭載機数は常用2機、補用2機。乗員234名。若宮が就役した。参考:日本航空母艦史

和歌山城生地訓練>:陸上自衛隊第3師団第37普通科連隊が1992年から実施している和歌山城清掃作戦。天守閣や石垣清掃のためにはロープ技術やラペリング技術が必要で、立派な訓練である。参考:朝雲

和歌山駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は和歌山県日高郡美浜町1138。最寄り駅はJR御坊駅。19621010日に開設された。2009527-29日、住金スチール新入社員5人の隊内生活体験入隊を支援した。201041日、給食業務がアウトソーシングに移行した。2017424-26日、第304水際障害中隊が日鉄住金テックスエンジ新入社員15人の生活体験入隊に協力した。参考:和歌山地方協力本部ホームページ、JGround Vol.23MAMOR vol.108、朝雲

 <和歌山駐屯地(2015年)>:第7施設群第304水際障害中隊、第104施設直接支援大隊第2直接支援中隊和歌山派遣隊、中部方面会計隊第418会計隊(326日から第398会計隊和歌山派遣隊)が駐屯している。参考:和歌山地方協力本部ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

枠組み合意>:19941021日にアメリカと北朝鮮の間で結ばれた合意事項。北朝鮮の黒鉛減速炉と関連施設を凍結し、代わりにアメリカが計2000MWの軽水炉を提供するもので、両国の関係改善への努力、朝鮮半島非核化、核不拡散体制強化も求めている。軽水炉プロジェクトの重要部分が完成次第、北朝鮮はIAEAが要求する全ての核査察を受け入れることになっていた。これに基づき、KEDOが設立された。参考:軍縮条約・資料集第2版、月刊軍事研究1,03

<ワグナー>:DER-539(護衛駆逐艦)を参照。

<ワグナー缶>:ヴァグナー缶を参照。

ワグナー・グループ>:ロシアの民間軍事会社。要員は民間だが、作戦指示はロシア参謀本部情報総局GRUが行っており、指揮官も元GRU特殊部隊中佐で、ウクライナ紛争やシリア内戦(シリア駐留ロシア軍司令部隷下)に投入されている。元はシリア内戦介入用として2013年に設立された民間軍事会社スラボニッチ軍団で、2014年に拡大改編されて創立された。2018412日、この会社に関連する記事を書いていた記者がエカテリンブルクの自宅アパートから転落して415日に死亡した。4110500に友人に対し、バルコニーに銃を持った男、階段にマスクを被った迷彩服の男がいると電話しており、暗殺とみられる。参考:月刊軍事研究7,18

<ワケット>:CA-6(練習機)を参照。

和号作戦>:日本陸軍南方軍第35軍第26師団と第16師団が太平洋戦争捷一号作戦で行ったレイテ島ブラウエン飛行場奪回作戦で、第4航空軍第2挺進団のブラウエン降下作戦(テ号作戦)と共に実施された。ちなみにテ号作戦ではタクロバンとドラグの両飛行場にも降下して敵航空機を破壊する予定であり、この両飛行場には地上部隊を派遣しないので空挺特攻である。昭和191261540、第2挺進団を乗せた輸送機群はアンフェレスを離陸し、レイテに向かった。ブラウエン北飛行場には第2挺進団第3連隊本部、第1中隊、作業中隊が降下して制圧し、折り返した輸送機が積んでくる筈の後続部隊の降下を待ったが、損傷と悪天候で到着しなかった。また、第26師団も山越えに時間がかかって飛行場に到達できず、代わりに第16師団と連絡が付き、127日まで飛行場を制圧していたが、アメリカ軍の反撃にあって壊滅した。アメリカ軍の記録ではブラウエン南飛行場に降下した部隊は無い。サンパブロの飛行場に降下した部隊は一時飛行場を制圧したが、反撃を受けて全員戦死した。タクロバンには4機の重爆、ドラグには9機の輸送機が部隊を満載し、強行着陸する予定だったが、飛行場に到達する前に全機撃墜されたようである。海に墜落した機の搭乗員4名が捕虜となった。ちなみにアメリカ軍の方ではブラウエン周辺の飛行場を泥濘のため使用不能として放棄していた。127日、アメリカ軍の1個師団が日本軍背後のオルモック湾イピルに上陸したため、和号作戦は中止されたが、既に参加部隊は壊滅していた。参考:激闘太平洋戦記、比島決戦

<ワゴン車>:自衛隊の車両。日産自動車製。参考:月刊軍事研究9,10

<和魂の疾風>:南スーダン派遣国際平和協力隊を参照。

ワゴン・ホイール>:バトル・オブ・ブリテン時にBf110がとった戦法で、運動性能の優れる単発戦闘機に対抗するために編み出された。数機が500m間隔で円周上を旋回し、攻撃を受けた場合には後続機が直ちに反撃を行うものである。自機の防御は可能だが、肝心の爆撃機の護衛ができないという欠点があった。参考:英独航空決戦

<ワサッチ>:AGC-9(揚陸指揮艦)を参照。

<わし>:PC-304(駆潜艇)を参照。

鷲崎>:日本海軍戸島型敷設特務艇。大正10930日竣工。戦後は復員輸送を行った後、イギリスへの賠償艦になったが、イギリスには引き渡されず、昭和221124日に佐世保で形式的な引き渡しのみ行われて払い下げられ、佐世保で解体された。参考:写真集日本の小艦艇、小艦艇入門

鷲乃湯>:イラクのサマワに派遣された陸上自衛隊が、宿営地に設営した風呂の名前。以前はサマワ温泉という名前だった。参考:月刊軍事研究3,05

輪島分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地で、第23警戒群が駐屯している。所在地は石川県輪島市河井町十部29-7。元は1955年に開設されたアメリカ軍レーダー部隊基地で、1959年にレーダー施設が移管され、1961年に東部訓練航空警戒隊第2中隊第2小隊が袖ヶ浜から移駐し分屯基地として開設され、同小隊が第23警戒群に改編された。1992年、第303基地防空隊が新編された。2005年、第303基地防空隊が廃止された。2009年度、J/FPS-3J/FPS-3改に改修した。2020617日、石川県知事からの新型コロナウイルス市中感染拡大防止に係る災害派遣要請で第14普通科連隊の隊員20名が行った自治体職員及び医療関係者140人への感染防止などの教育支援にオブザーバー参加した。参考:航空自衛隊ホームページ、MAMOR vol.146、月刊JWings6,10別冊付録、月刊軍事研究9,115,12、朝雲

輪島由雄>:明治44年、北海道生まれ。昭和711月、海軍操縦練習生を卒業し、日華事変勃発後に第12航空隊に配属された。昭和134月、第14航空隊に転属。昭和144月、霞ヶ浦航空隊教官となった。昭和155月、空曹長に昇進。昭和169月、千歳航空隊に転属、太平洋戦争時はタロア島の防空任務にあたった。昭和1721日、3機を撃墜し、初戦果を挙げた。5月、第2航空隊に転属、本土に帰還。8月、ラバウルに進出。12月、少尉に昇進して横須賀航空隊に転属、本土に帰還した。昭和1810月、第263航空隊分隊長となった。昭和19221日、テニアン基地に進出。223日、アメリカ艦載機と交戦して戦死した。公認撃墜数11機。最終階級は大尉。参考:日本海軍戦闘機隊

鷲見忠夫>:大正5年、岐阜県生まれ。昭和12年に陸軍に入隊し、歩兵として上海・南京攻略戦に参加。昭和162月、熊谷飛行学校に入学し、11月に卒業、飛行第244戦隊に配属された。昭和1912月、飛行第56戦隊に転属。昭和20313日、大阪空襲の迎撃を行い、4機を撃墜、第15方面軍司令官から個人感状を授与された。621日には武功章を授与されている。総撃墜機数はP-51戦闘機1機、B-29爆撃機5機。累計飛行時間2090時間。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

<ワシュテナウ・カウンティ>:LST-1166(戦車揚陸艦)を参照。

<ワショー・カウンティ>:LST-1165(戦車揚陸艦)を参照。

ワシリイ・チャパエフ>:ソ連海軍クレスタU型ミサイル巡洋艦Vasilly Chapayev1970611日艦籍編入、19731122日起工、19741128日進水、19761130日竣工。1224日、バルチック艦隊第12ミサイル艦師団に編入された。1977年、太平洋に回航されたが、バルチック地方出身者が太平洋に行くのを拒否したため、艦長以下乗員全員をウラジオストク出身者に入れ替えた。19792-3月、中越紛争でベトナム軍を支援。19823-12日、ベトナム、インド、モザンビーク、南イエメンなどを訪問した。1983年、ウラジオストクで定期修理を実施。1984年、北朝鮮を訪問し、1ヶ月間にわたり北朝鮮海軍641型潜水艦沈没現場を警備した。9-10月、オホーツク海でアメリカ原潜をコロス探知装置で発見した。19852月、太平洋艦隊演習に参加。3月、総合対潜訓練に参加。9月から1年間、ベトナム海域で戦闘任務に就いた。198610月、北朝鮮領海内でのソ連・北朝鮮共同揚陸部隊阻止演習に参加。199253日に除籍され、1994年にスクラップとしてインドに売却された。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、月刊世界の艦船4,093,92増刊

ワシリー・ニキーチン>:ロシア海軍プロジェクト03182小型補給艦3番艦Vasily Nikitin2017310日起工。参考:月刊世界の艦船4,17

ワシリー・ブィコフ>:ロシア海軍プロジェクト22160哨戒艦1番艦Vasilii Bykov、艦番号3682014226日起工、201812月就役。2019728日、ロシア海軍記念日海上パレードに参加。参考:月刊世界の艦船7,'1612,143,1910,19

<ワシリー・ブィコフ級>:プロジェクト22160(哨戒艦)を参照。

ワシリィ・ブブノフ>:ロシア海軍プロジェクト19910海洋観測艦Vasily Bubnov2020年起工。参考:月刊世界の艦船6,20

ワシリー・ベフ>:ロシア海軍航洋曳船Vasily Bekh。満載排水量1200トン。ウクライナ戦争中の2022617日、ウクライナ軍のハープーン対艦ミサイルを被弾して沈没した。参考:月刊世界の艦船9,22

<ワシントン>:BB-47(メリーランド級戦艦)またはBB-56(ノースカロライナ級戦艦)またはCA-11(重巡)またはSSN-787(攻撃原潜)を参照。

ワシントン軍縮条約>:1921年(大正10年)1112日からアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5ヵ国で開催された軍縮会議で協議され、192226日に締結調印され、1923817日に発効した条約。第1次大戦後もイギリス海軍が40口径18インチ(457mm)砲を試作するなど主力艦は巨大になり続けて(それに見合った防御と速力を持たせようとすると機関出力2倍の大和型戦艦くらいになる)いて、新たな脅威である航空機と潜水艦から身を守るため防空巡洋艦と駆逐艦を組み合わせた艦隊を作るとなると財政が破綻するのは目に見えており、戦後の反戦軍縮ムードと相俟って各国は無制限建艦競争を防ぎ軍事費を抑制する必要に迫られ始めていた。1921811日、アメリカのハーディング大統領がイギリス、イタリア、日本、フランスなど9カ国に太平洋権益保障、中国領土保全・門戸開放、海軍軍備制限(主に太平洋の権益上ライバルとなった日本の海軍力を抑え込む)を話し合うワシントン会議の開催を提案。7月には各国に非公式な開催提案があり、その前からアメリカはイギリスと密かに交渉を重ねて会議を有利に進める手立てを整えていた。1112日、首席全権代表としてアメリカのヒューズ国務長官、イギリスのバルフォア外相、イタリアのサンツェル前蔵相、日本の加藤友三郎海軍大臣、フランスのブリアン首相が参加し、ワシントン軍縮会議が開始された。冒頭でヒューズ国務長官は優先議題が日米英海軍軍備制限であるとし、主力艦建造計画(建造中含む。日本は戦艦陸奥も含む。イギリスは計画戦艦セント・アンドリュー級や計画巡洋戦艦インヴィンシブル級)の全廃棄と老朽艦の一部廃棄、主力艦起工10年禁止、それ以降は艦令20年以上の艦に対する代艦(最大排水量35000トン)建造のみの認可、主力艦トン数比はアメリカ50万トン、イギリス50万トン、日本30万トンという提案を行った。これに関し、アメリカのルーズベルト海軍次官、イギリスのビーティ元帥、日本の加藤ェ治中将を委員とする専門委員会が設けられて1116日に第1回分科会が開かれ、日本は対米7割以上と陸奥の廃艦対象からの除外(竣工済みの16インチ/406mm砲搭載艦は長門とBB-46メリーランドのみで、陸奥も配備できれば戦力差をトン数差より相当縮められる)を強硬に主張したが、アメリカからの返答は無かった。1121日と30日には専門家会合が開催され、対米英比率の調整を行ったが物別れに終わった。これを受けて加藤首席全権委員は日本政府と暗号外交電報で相談し、太平洋地域防備制限及び陸奥の建造認可と引き替えに対米英6割もやむなしとしている。この暗号外交電報(会議期間中延べ5000通にものぼった)はMI-8により全て解読されていたが、これを日本が知ったのはMI-8が解散となり暴露本が出版されてからのことで、後の祭りだった。121日、加藤首席全権委員の滞在するホテルをイギリスのバルフォア首席全権委員が訪れ、対米英比の解決を促したが、加藤全権は陸奥の方が問題だと返答している。122日、日米英首席全権委員が三者会談を開いたが、対米英比と陸奥の処遇(日本は完成済み、アメリカは工程98%と主張)の溝が埋まらず、物別れに終わった。加藤全権委員は日本政府と相談し、1211日に最終訓令を受諾。1212日、加藤全権は太平洋諸島の防備現状維持、陸奥の代わりの摂津廃棄、対米英6割受け入れを表明。1213-14日、日米英各国が旧式艦の廃棄と引き替えに新型主力艦を配備できることになり、日本は摂津を廃棄して陸奥を配備、アメリカはBB-28デラウエアとBB-29ノース・ダコタを廃棄してメリーランド級2隻を配備、イギリスはサンダラー、キング・ジョージX世、エイジャックス、センチュリオンを廃棄して新戦艦(ネルソン級)2隻を配備することにした。1215日、日米英が主力艦制限で合意。192226日、ワシントン軍縮条約が調印され、1923817日に発効した。主力艦・空母保有比率はアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランス・イタリアが1.75とされ、日本がアメリカと互角に戦うために最低限必要と考えられた対米7割の戦力を保持することが不可能となった。戦艦総基準排水量はアメリカ525000トン、イギリス525000トン、日本315000トン、フランス175000トン、イタリア175000トンで、個艦基準排水量35000トン以下・主砲口径16インチ/40.6cm以下(イギリス新戦艦が計画戦艦セント・アンドリュー級で予定した18インチ/45.7cm砲を積むと困るので、会議初日のヒューズ全権提案に追加した)とされた他、主力艦建造は向こう10年間停止され、海軍休日(ネイヴァル・ホリデー)と呼ばれることとなった。保有を認められたのは、アメリカがフロリダ級2隻とワイオミング級2隻のド級戦艦4隻と、ニューヨーク級2隻、オクラホマ級2隻、ペンシルベニア級2隻、テキサス級3隻、カリフォルニア級2隻、コロラド級3隻の超ド級艦14隻の計18隻(将来的にメリーランド級1隻追加で19隻)、日本が金剛型4隻、扶桑型2隻、伊勢型2隻、長門型2隻の計10隻(将来的に比叡を練習戦艦にして9隻)である。これら保有主力艦改装に関しては、排水量3000トン以内の増加、甲板防御・水中防御強化、主砲仰角増加、砲弾改良、速力増大を認めた(これらは甲板防御が薄く、主砲仰角の低いアメリカに有利である)。空母は1万トン以上が制限の対象で、総基準排水量はアメリカ135000トン、イギリス135000トン、日本81000トン、フランス60000トン、イタリア60000トン、個艦基準排水量27000トン以下、備砲8インチ・20.3cm以下、6インチ・15.2cm以上の砲を装備する場合は5インチ・12.7cm以上の砲の合計が10門以下とされた。この頃は艦上機の性能が低く、空母の価値が定まっていなかったため、空母自体を制限するというよりは、空母という名の主力艦を作れないようにしたかったらしい。これに基づき、アメリカはヨークタウン級空母2隻、レンジャー級空母1隻、ワスプ級空母1隻を新造した。赤城、加賀、レキシントン、サラトガが主力艦から空母への改造を認められたが、上記の制限だとレキシントン級に艦隊型空母として所定の性能を持たせるには排水量が足りないので、砲門数を8門以下に減らせば個艦基準排水量制限を33000トンに増やせる特例を設けている。主力艦以外の艦は補助艦として基準排水量10000トン以下・主砲8インチ/20.3cm以下の制限がかけられたが、総保有トン数の制限は無く、日本海軍が排水量・主砲制限目一杯の条約型重巡妙高型4隻と高雄型4隻や、最上型に利根型といった有力な巡洋艦を建造し、米英もこれに続いたため、今度は巡洋艦の建艦競争が始まってしまった。フランスは潜水艦シュルクーフに制限一杯の20.3cm砲を載せている。アメリカは日本の海軍力を脅威以下に抑え、門戸開放条約により中国での日本の権益に対抗できるようになった。日本の加藤全権は弱腰だと批判されたが、GDP10倍以上の差があるアメリカの海軍力を日本の1.7倍弱に抑えたともいえる。主力艦廃棄トン数はアメリカ85万トン、イギリス54万トン、日本45万トン(戦艦加賀以下建造中の主力艦と、就役中の肥前、三笠、鹿島、香取、薩摩、安藝、攝津、生駒、伊吹、鞍馬)だった。19211213日、ワシントン会議の席上で日米英仏4カ国条約が調印され、第19条の太平洋防備制限条項で各国が太平洋に持つ属領の保全(香港、フィリピン、グアム、アリューシャン、千島、小笠原、奄美大島、沖縄、台湾、澎湖諸島への根拠地・要塞新設不可。シンガポールとハワイは本国の不可分の延長として対象外。日本の内南洋は国際連盟委任統治領のため国際連盟条約に基づく軍備・根拠地・要塞制限がありワシントン条約では対象外)が決まり、用無しになった日英同盟は廃棄が決定、1923817日に廃棄された。これによりアメリカは日本と衝突した際にイギリスから挟み撃ちを喰らう危険も除去し、逆に日本は反欧米感情から国際的な孤立の度を深めている。条約発効から8年後に見直しのための軍縮会議を開くことになっており、これに基づいてロンドン軍縮会議が開催された。1934年(昭和9年)1229日、ロンドン条約失効1年前に開催された予備会議で、日本が欧米による対日不平等政策の象徴であり認められないとして条約の非延長を通告し、昭和10年末に失効した。2年後にはロンドン条約も破棄するが、日本海軍は大正以来の対米7割路線に代わる条約破棄後の新軍備を考えていた訳でも無く、対米7割の戦力に達したタイミングで太平洋戦争を開始した。参考:戦艦入門、巡洋艦入門、日本の潜水艦パーフェクトガイド、図解日本の空母、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T、ラバウル航空戦、月刊世界の艦船6,099,13増刊、4,173,156,173,'217,'21、歴史群像6,01、山本五十六と米内光政

<ワシントン・チャンバーズ>:T-AKE-11(補給艦)を参照。

<ワシントン・モニュメント作戦>:デザート・セイバー作戦を参照。

和神丸>:日本陸軍輸送船。元は大正7914日に竣工した浪速汽船の貨物船(大正12-13年に森平汽船に売却された)である。垂線間長76.2m、幅11.5m、深さ6.25m、満載吃水5.64m、総トン数1861トン、重量トン数2627トン。主機は三連成汽機1基1397馬力、航海速力9ノット、最大速力13.336ノット。昭和1410月、日本陸軍が徴用した。昭和184月、徴用が解除されて山本汽船に移され、船舶運営会が運航した。昭和20514日、瀬戸内海の宇部沖で触雷して沈没した。参考:月刊世界の艦船1,12

<ワスパートン>:P1089(哨戒艇)を参照。

ワスパダ級>:ブルネイ海軍ミサイル艇。兵装はエグゾセMM38艦対艦ミサイル発射筒2基。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

<ワスプ>:CV-7(ワスプ級空母)またはCV-18(エセックス級空母)またはLHD-1(強襲揚陸艦)またはTAVシリーズ(汎用機)を参照。

ワスプ>:南アフリカ特殊部隊旅団用に開発されたアルヴィス社製4輪軽装甲車で、就役時はホーネットと呼ばれる予定。手榴弾や対人地雷に対して防護可能な装甲床構造、エンジン・燃料タンク・バッテリーに対する小火器防御、装甲防火仕切、防弾窓ガラスを備える。車両前部はロシアのドラグノフ・PK機関銃用7.62mm×54R弾を防御でき、窓は7.62×39mmに耐える。タイヤはランフラット型235/85R16で、ブレーキは前部が空気ディスク、後部がドラム付き二重回路システム。偵察車、軽攻撃車、兵器搭載車、急速反応兵員輸送車(8名)、補給車(ペイロード8トン)として用いられる。車体後部には火力支援任務用兵器プラットフォームがあり、多連装7.62mm機銃、連装12.7mm機銃、60mm迫撃砲などを搭載できる。更に対戦車ミサイルや対空ミサイルも搭載可能となる予定。C-130輸送機1機に4両積める。全長3.6m、全幅2.26m、全高1.97m、空虚重量2500kg、ペイロード1350kg。エンジンは2.8リットルVMモトリ・デトロイト・ディーゼル(出力105kW)、トランスミッションは5速オートマチック、最大速度115km。参考:月刊軍事研究11,036,03、月刊PANZER4,03

ワスプ無人機シリーズ>:アメリカ国防総省国防高等研究計画局(DARPA)が開発した小型UAVで、生産はエアロヴァイロンメント社である。掃除機の吸引ヘッドを一回り小型にして平たくしたような本体にピーナッツより小さな白黒カメラと2翅プロペラ推進装置を取り付けてある。原型機は20028月に初飛行した。参考:月刊軍事研究10,076,12、月刊JWings8,11

 <ワスプV>:翼スパンを拡大し、垂直尾翼を追加、エンジンを内燃機から電動モーターに変更したタイプ。着陸は大迎角による失速でそのまま地面に落とすが、衝撃吸収のため主翼外翼部と垂直尾翼が外れるようになっている。全長0.38m、全幅0.723m、機体重量0.43kg。推進は電動モーターで、巡航速度40km、最大速度65km、運用高度15-300m、有効行動半径5-6km、滞空時間45分。センサーは前方/側方監視用電子光学カメラまたは高解像度EO/IRカメラ。遠隔操縦と自律飛行が可能。アメリカ空軍特殊作戦軍団に採用されて2006年初頭からポスト・イラク戦争に投入され、小隊レベルでの戦場捜索監視に使用されている。参考:月刊軍事研究11,12

 <ワスプAE>:大型化して空力学的に洗練させたタイプ。全長0.76m、全幅1.02m、機体重量1.3kg。巡航速度37km、最大速度83km、常用運用高度150m、滞空時間50分、飛行範囲5km(デジタルデータリンク追加でそれ以上に延ばせる)。センサーは高解像度電子光学カメラと赤外線カメラ。参考:月刊軍事研究11,12

ワスプ>:アメリカ空軍の対装甲全天候空対地ミサイルで、ボーイング社が開発していた。誘導はミリ波レーダーで、最初はアクティブ捜索追尾を行い、目標に近づくと目標自身が大気中のミリ波を反射して生じる電磁波をロックして命中する。参考:ザ・マーチ18

ワスプ火炎放射キャリアー・シリーズ>:イギリス陸軍火炎放射装甲車。ユニバーサル・キャリアーの改造型だが、射程が100m以内と短く、敵にそこまで近接するとユニバーサル・キャリアーの装甲では危なっかしいため、それほど使用されなかったようである。参考:月刊グランドパワー1,04、米英軍戦闘兵器カタログVol.1

 <ワスプ試作型>:車体前部左に火炎放射器(通称アディー・マーチンのドレーンパイプまたは油抜管)を搭載したもの。車体後部左右に円筒形の燃料タンクを搭載する。火炎放射器の性能が悪く、採用されなかった。代わりにロンソン火炎放射器を付けたものも試作されたが、こちらも採用されなかった。参考:月刊グランドパワー1,04、異形戦車ものしり大百科

 <ワスプMk.T>:射程74-83mの改良型火炎放射器を車体後部に搭載しており、車体後部左から前方に真っ直ぐノズルを延ばしている。燃料タンクは円筒型で、車体後部左が273リットル入り、右が182リットル入り。車体前部の機銃は外された。乗員2名。1941年から開発されて19429月から生産が開始され、1000両が量産されたが、訓練のみに使用された。一部にはシャーマンDDのような浮航機材を装着している。参考:月刊PANZER11,86、月刊グランドパワー1,04、異形戦車ものしり大百科

 <ワスプMk.U>:194311月からMk.Tに代わって生産された改良型。火炎放射器を小型化して銃手席の前面に装着しており、取り回しが良くなった。ノズル下部には滴が垂れないようにガイドが付いている。射程74-83m。実戦配備され、1944729日の北フランスを皮切りに戦闘に参加した。参考:月刊グランドパワー1,04、月刊PANZER11,86

 <ワスプMk.UC>:カナダ軍の要求でMk.Uを改造したもの。燃料タンクを車外装備の容量341リットルのもの1つとしてスペースを空けてあり、兵員1名とブレン機銃または51mm迫撃砲1門を搭載できる。19446月からはイギリス軍でもこちらを生産するようになり、既存のMk..Uに対する現地改造も行われた。19448月に初使用された。参考:月刊グランドパワー1,04、異形戦車ものしり大百科、月刊PANZER11,86

<ワスプ海外シリーズ>

 <ワスプHAS Mk.1(マレーシア海軍)>:マレーシア海軍ヘリ。イギリス海軍の中古機10機を購入し、1988-2002年に配備した。参考:月刊航空ファン11,18

ワスプU>:アメリカ陸軍が試作した1名用飛行装置。小型ターボファンエンジンを推進に使用し、前後への移動は体重移動、左右への移動は左手のレバー、上下への移動は右手のスロットルで行う。緊急時には操作パネル下部に仕込まれたパラシュートが自動で開く。重量110kg。エンジンはWR-19ターボファン(推力250kg)、上昇限度3000m、飛翔時間30分。試作機2基が製作されたが、高度計や昇降計が無い、高度20m以上でスピード感覚が無くなるといった欠点があった。参考:月刊PANZER5,83

<ワスプH>:R-1340(エンジン)を参照。

<ワスプ・ウエスト>:J57シリーズ(ジェットエンジン)を参照。

ワスプ級>:アメリカ海軍空母Wasp級。レンジャー級とヨークタウン級を建造した後のワシントン条約余剰排水量14500トン一杯で建造された。ヨークタウン級を小型化したような設計で、搭載機数は確保しつつ、水線下防御を減らした分は機関をシフト配置にするなど間接防御で補い、速力は最低限で忍んだ。船体上甲板を格納庫甲板とし、格納庫の上にギャラリー・デッキを設け、その上に飛行甲板を載せている。飛行甲板は長さ221.7m、幅28.4mで、艦首尾にオーバーハングさせた。エレベーターは飛行甲板中央やや右舷寄りと後部中央の内舷式エレベーター(長さ14.6m、幅13.4m、最大荷重7.7トン)1基ずつに加え、左舷前部の格納庫開口部にはアメリカ海軍空母として初めて外舷側エレベーター(折り畳み式のT字状簡易型で、小型機の主輪を横板両端、尾輪を縦板後端に載せる)を採用した。カタパルトは油圧式のH-2で、飛行甲板前端に2基、格納庫前後に2基を装備する。飛行甲板右舷中央にアイランドがあり、アイランド後部に煙突が1本立っている。艦橋上部と煙突後方にMk33方位盤がある。格納庫は長さ159.1m、幅19.2m。機関はシフト配置で、前部機械室に左舷用蒸気タービン、中央の缶室6区画(横3区画×前後2区画)に主缶1基ずつ、後部機械室に右舷用蒸気タービンを収容する。全長226.1m、水線長210.3m、最大幅33.2m、水線幅24.6m、深さ16.8m、吃水6.1m、基準排水量14700トン、満載排水量21000トン。主機はパーソンズ式ギヤード・タービン2基、主缶はヤーロー式重油専焼水管缶(357℃、39.7気圧)6基、出力75000軸馬力、2軸推進、速力29.5ノット、重油搭載量3160トン、航続距離は20ノットで8000海里。主発電機はターボ発電機(1000kW)2基、ディーゼル発電機(850kW)2基。兵装は38口径12.7cm単装両用砲8門(両舷前後スポンソンに2門ずつ)、4連装28mm機関砲4基(アイランド前後)、12.7mm機銃24丁。装甲厚は甲板(機関室天井)32mm、司令塔38mm。搭載機数80-84機。乗員平時1889名、戦時2367名。1940年にCV-7ワスプが就役した。参考:月刊世界の艦船6,1710,'22、第2次大戦のアメリカ軍艦、丸スペシャルNo.83

ワスプ級シリーズ>:アメリカ海軍多目的型強襲揚陸艦LHD(MP)Wasp級。当初は5隻の建造に止める予定だったが、LHD-1ワスプの運用実績から8隻に増やされた。参考:月刊軍事研究7,11

ワスプ級(1−7番艦)>:イオー・ジマ級の後継で、当初はタラワ級を追加建造する予定だったが、LCACの完成の目処が立ち、タラワ級だとこれを1隻しか積めないということでドックを拡大したタイプを建造することとなり、1989年に1番艦LHD-1ワスプが就役した。船体レイアウトはタラワ級とほぼ同じで、船型はエンクローズド方式の全通甲板空母型。艦首はバルバス・バウ。アイランドは右舷に寄せられており、アイランド上の煙突2本は外舷側に傾けて設置された。アンテナマストはアイランド前後に1本ずつで、4番艦までは前後とも棒状だったが、5番艦以降は前のマストが三脚型となった。司令部や上陸部隊作戦室、統合情報センター、支援火力管制室、揚陸管制室、指揮通信などの重要区画は船体内のギャラリーデッキに配置して抗堪性を増しており、アイランドはタラワ級より一回り小さい。全通飛行甲板は長方形をしており、長さ249.6m、幅32.3m、発着スポット9箇所が設けられている。エレベーターは舷側配置の折り畳み式(パナマ運河を通る際、下に畳む)で、大きさは15.2m×13.7m、容量は34トン、左舷やや後方と右舷後部に1基ずつある。艦内は9層の甲板からなる。全通飛行甲板(第1甲板)下の第2甲板レベルがギャラリーデッキで、中央に指揮管制区画がある。船体後半部にタラワ級よりも大型の格納庫(80m×25.9m×6.4m。床が第4甲板レベル、天井が第2甲板レベル、延床面積1900平方メートル)を持ち、CH-46なら42機(28機?)、ハリアーVTOLなら20機を収容可能。ただ格納庫は主に整備の際に使用し、航空機は飛行甲板に露天繋止する。航空用燃料タンク容量は45万ガロン(170万リットル)。艦首部(艦中央前寄り?)第6-7甲板が車両甲板で、床面積2117平方メートル、艦内通路によりドックウエルや飛行甲板に移送可能。M-1戦車5両、LAV-25装甲車25両、155mm榴弾砲8門、トラック68両、補給車10両を標準搭載する。ドックウエルは格納庫の下で、床が第7甲板レベル、天井が第4甲板レベル、大きさは81.5m82.1m98.1m?)×15.2m×8.5mあり、LCACなら3隻、LCU-1610型なら2隻、LCM-6型なら12隻、8型なら6隻、AAVP-7なら40両(車両甲板の一部も使用すれば更に21両)を収容できる。長さを増やしてLCACの搭載隻数を確保したが、幅が狭いのでタラワ級よりもLCMLCUの搭載能力が少ない。艦尾のドック扉は上4分の1が上方に、下4分の3が下方に開く。貨物庫は艦前後(車両甲板の下とドックウエルの下)にあり、天井が第7甲板レベル、床が第9甲板レベル、延床面積3087平方メートルで、艦内に6基のエレベーター(7.6m×3.6m、容量5.4トン)が用意されており、飛行甲板への輸送が行える。戦闘指揮所(CDC)、揚陸作戦発令所(LFOC)、統合戦術揚陸戦データ・システム(ITAWDS)を持ち、揚陸作戦全体の指揮を執ることが可能で、海岸から50海里離れた地点から作戦を実施できる。電子装備はACDSAN/SPS-49(V)5対空レーダー、AN/SPS-52三次元レーダー(後にAN/SPS-48Eに換装)、AN/SPS-64(V)5対水上レーダー、Mk95射撃指揮装置、AN/SPN-35A夜間着艦誘導装置、AN/SPN-43B着艦指揮誘導装置、AN/SPN-47精密着艦指揮誘導装置、AN/USC-1(V)UHF通信機、AN/USC-6UHF通信機、マリサットMHF通信機、AN/USC-38(V)1EHF衛星通信装置で、後期艦はAN/USQ-119海軍戦術指揮システム、AN/URC-109統合型通信システム、AN/USQ-82多重データ通信システムを装備し、前期艦にも追加された。アイランド右舷側中央に洋上給油装置があり、僚艦への給油が可能。全長257.3m258.2m253.2m?)、水線長237.14m、全幅42.67m、水線幅32.31m、吃水8.1m、軽荷排水量28233トン、満載排水量40650-41302トン(LHD5-740358-41006トン)。主機はウェスティングハウス社製蒸気タービン2基、主缶はコンバッション・エンジニアリング製V2M-VS型(49.3気圧、483℃)2基、出力70000馬力(緊急時最大77000馬力)、固定ピッチプロペラ2軸推進、通常最大速力22ノット(緊急時最大24ノット)、燃料搭載量6200トン、航続距離は速力18ノット(19ノット?)で9500海里。発電容量14000kW。防御兵装はシースパロー8連装発射機Mk29RIM-7M/-7P)を2基、20mmCIWS3基(後にRAM21連装発射機Mk49を2基+20mmCIWSファランクスMk15を2基、25mm単装機銃Mk383-4基、12.7mm機銃4-8丁)。標準搭載機数はハリアー6機+ヘリ30機で、海兵隊VMM(Rein)1個と固有の海軍所属MH-60S捜索救難輸送ヘリ2機を積むことができ、海兵遠征隊に配備されるハリアー6機、CH-46ヘリ/MV-22輸送機12機、CH-53ヘリ4機、AH-1ヘリ4機、UH-1ヘリ4機(+海軍ヘリ2機)を丸ごと載せられる。ハリアーだけなら30機積める。乗員1077-1123名で、士官は98名。兵員1893名が乗船可能で、緊急時には200名の居住設備を追加して1個海兵遠征隊2200名全員を乗せることもできる。病院設備は手術室6室、ベッド600床(64床?)である。7番艦LHD-7イオ・ジマは後に戦闘システムをSSDS Mk2Mod3A個艦防御システムに換装した。参考:月刊軍事研究7,111,162,0211,088,117,16、アメリカ揚陸艦史、月刊世界の艦船3,194,1912,128,'154,155,142,139,024,094,04増刊、1,106,'22THE MILITARY BALANCE 2016

 <ワスプ級(マキン・アイランド)>:8番艦LHD-8マキン・アイランドは、アメリカ級強襲揚陸艦のテストベッドとしての役割も担っており、主機を高速用GELM2500ガスタービンエンジン2基と巡航用電動モーターによるガスタービン・電気推進とするなどしている。運用した結果、全航行時間の70-75%を巡航用電動モーターのみで航行し、1日あたりの燃料消費量がそれまでの35000-40000ガロン(132489-151416リットル)から15000ガロン(56781リットル)に大幅減少した。排気が増えたため、煙突は大型化し、発着艦の邪魔にならないよう外側に傾けられている。艦内電源用にディーゼル発電機を搭載しており、これで巡航用電動モーターにも電力を供給する。戦闘システムはSSDS Mk2Mod3A個艦防御システムである。全長258.2m、幅42.7m、船体幅32.3m、吃水8.1m、満載排水量42330トン。主機はCOGES方式(CODLOGの一種。巡航時ディーゼル・エレクトリック統合電気推進、高速時ガスタービン)、高速用LM2500ガスタービン2基(70000馬力)/巡航用ディーゼル発電機(艦内電源兼用。交流4160ボルト、出力4MW)6基+補助電動モーター2基(10000馬力)、ディーゼル・エレクトリック推進時巡航速力12ノット、最大速力22ノット。兵装はシースパロー8連装発射機2基、RAM21連装発射機2基、20mmCIWS2基、25mm単装機関砲3丁。乗員1123名。ヘリコプター30機とVTOL6-8機、LCAC3隻またはLCU2隻、車両1960トン、兵員1687名を搭載できる。乗員1059名。参考:月刊世界の艦船4,191,1012,124,16、月刊軍事研究2,127,16

 <ワスプ級(F−35B搭載改修)>:飛行甲板にサーミオン社製SafTrax TH604 Non-skid Coatingによる耐熱・熱遮蔽剤コーティングを行い、特に左舷艦尾寄り1115平方メートル(ゾーン4。発着艦スポット7とスポット9が含まれる)には垂直着艦時の高温排気(927℃)に耐えられる耐熱材サーミオン(Thermion)を塗布した。また、機体ハンドリングに邪魔となる器材(アンテナ、救命筏、転落防止レール、安全ネット、JP-5燃料補給ステーションなど)を移設または撤去、ALIS関連機器を搭載している。JPALSを装備し、シー・ステート5でもF-35Bの着艦が可能。ついでに艦載戦闘システムSSDSやデータリンクも改良し、CECAN/SPQ-9B対水上レーダーを装備した。全長258.2m、満載排水量41302トン。速力22ノット。LHD-1ワスプが最初に改修を終えて2011年からのF-35B開発試験を行った。2番目はLHD-2エセックスで、2016103日から改装中。参考:月刊軍事研究4,178,17、月刊世界の艦船4,184,193,'22、月刊JWings6,176,18

ワスプ級搭載例>:海兵遠征隊MEUと海軍支援エレメントNSEを搭載する。航空機は標準ではハリアー攻撃機6機、AH-1W攻撃ヘリ4機、CH-46輸送ヘリ12機、CH-53強襲ヘリ4機、UH-1N汎用ヘリ2機からなるHMM(Rein)を搭載し、NSE海上戦闘ヘリコプター飛行隊HSC所属MH-60S汎用ヘリ2機を積む。ハリアーが不要ならCH-46E輸送ヘリ20機、CH-53E強襲ヘリ10機、AH-1W攻撃ヘリ6機、UH-1N汎用ヘリ4機。ヘリボーンの場合、ハリアー攻撃機6機、CH-46E輸送ヘリ42機。装備も運ぶ場合、ハリアー攻撃機8機、CH-46E輸送ヘリ12機、CH-53E強襲ヘリ9機。防空・対潜任務の場合、ハリアー攻撃機20機、SH-60B対潜ヘリ6機。CH-46Eの後継としてMV-22B輸送機が配備されると、部隊がVMM(Rein)に更新された。また、ハリアーがF-35Bに、AH-1WAH-1Zに、UH-1NUH-1Yに更新されており、CH-53ECH-53Kになる予定。車両甲板には、1個海兵遠征隊が必要な兵器をほぼ搭載できる。M1A1戦車5両、LAV-25軽装甲車25両、M198榴弾砲8門、トラックなど80両、LVS重機動トラック10両、タンクローリー1両、給水・発電トレーラー6台、不整地用フォークリフト1台、NSEビーチ・マスター・ユニット分遣隊BMU Det.所属LARC-5水陸両用車2両といった組み合わせになる。ウェル・ドックにはNSEアサルト・クラフト・ユニット所属LCAC及びLCUを収容する。参考:月刊軍事研究7,112,028,10、月刊世界の艦船12,23

ワスプ撃沈>:太平洋戦争時の昭和179150950、日本海軍伊19潜水艦が、アメリカ海軍空母機動部隊(CV-7ワスプ、CV-8ホーネット、BB-55ノースカロライナ、巡洋艦7隻、駆逐艦13隻)に援護されたガダルカナル増援部隊をサンクリストバル島南東260kmでキャッチした。1050、伊19は潜望鏡深度に浮上し、空母ワスプを確認。1145、伊19は方位角70度・射距離900mで九五式酸素魚雷6本を2本ずつ2-3秒間隔で斉射。ワスプの右舷に3本、DD-415オブライエンに1本、戦艦ノースカロライナに1本が命中した。ワスプは給油管に引火して大火災を生じ、2100DD-486ランズダウンの雷撃で処分された。オブライエンは艦首を失い、応急修理を受けたもののサモア沖で沈没。ノースカロライナは1000トンほど浸水し、応急修理を受けた後、真珠湾で1ヶ月かけて修理した。これにより、ガダルカナルで運用できる空母が日本海軍には翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹、飛鷹の5隻あったのに対し、アメリカはホーネット1隻だけになってしまった。伊19の艦長は後に伊29の艦長となり、ドイツに派遣された折に本戦果から二級鉄十字章を受章した。参考:激闘太平洋戦記、日本海軍艦隊総覧

<ワスプ・ヘッド>:56SM(艦砲)または343型(レーダー)を参照。

<ワスプメジャー>:R-4360シリーズ(エンジン)を参照。

わたしたちの同盟−永続的パートナーシップ>:在日米軍司令部が出版し、在日米軍ホームページに掲載しているマンガで、第4号まであり、第1号は201084日に発行された。登場人物はalliance(同盟)をもじった新居あんずとUSAをもじったうさクンであり、日米同盟や在日米軍などを解説している。在日米軍司令部制作、国防省印刷局印刷・製本だが、ストーリーと作画は日本側が担当したため、アメコミとは完全に真逆の絵柄で、MC☆あくしずの隣やライトノベルの棚に置いてあっても違和感が無いと思う。参考:朝雲

渡邊鉄工所>:明治191月に福岡市で創設された。炭鉱用機械を製作していたが、明治36年から精密兵器の下請けを開始。大正104月、海軍指定工場となった。大正116月、陸軍指定工場にもなった。大正145月、海軍航空機材普通購買名簿に航空機用車輪メーカーとして登録された。大正1512月、海軍航空機機体用金属部品メーカーとして登録された。昭和4年、三式陸上初歩練習機の機体製作を受注。昭和56月、航空機部を新設。昭和64月、海軍航空機(水上機、陸上機、飛行艇)メーカーとして登録された。昭和7年、九二式艦上攻撃機、一三式水上初歩練習機、九〇式水上初歩練習機の転換生産を開始。12月、陸軍機の機体修理を行うようになった。昭和91月、九六式小型水上機の開発を開始。3月、大刀洗分工場を建設し、陸軍機の修理と部品製作をここに移した。昭和11年、十一試水上中間練習機の開発と九三式陸上中間練習機の転換生産を開始。昭和12年、十二試初歩水上練習機の開発と九三式水上中間練習機の転換生産を開始。昭和139月、航空機部が海軍管理工場に指定された。昭和146月、二式陸上中間練習機の開発と九〇式機上作業練習機・九六式四号艦上戦闘機の転換生産を開始。昭和153月、全ての工場が海軍専属管理工場となった。6月、二式陸上初歩練習機(Bu133ユングマン)の国産化開発を開始。昭和165月、練習機白菊の開発を開始。昭和17年、二式練習用戦闘機の開発と零式水上観測機・零式小型水上偵察機の転換生産を開始。9月、東海の開発を開始。昭和1810月、兵器部門が九州飛行機株式会社になった。参考:月刊丸12,11

渡辺秀夫>:日本海軍エース。大正9年、福島県生まれ。昭和12年、海軍に入隊し、昭和1611月に丙種飛行予科練習生を卒業、昭和173月に千歳航空隊に配属され、内南洋に展開した。昭和183月、第204航空隊に転属となり、ソロモン航空戦に参加。826日、B-24F4Fを1機ずつ撃墜した直後に被弾し、銃弾が後方から右目を貫通する重症を負ったが、何とか不時着した。ラバウル海軍病院に入院中、草鹿南東方面艦隊長官から軍刀を授与されている。その後本土に帰還となり、終戦を迎えた。総撃墜数26機。最終階級は飛曹長。参考:日本海軍戦闘機隊

稚内基地分遣隊>:海上自衛隊の基地分遣隊。空自稚内分屯基地・陸自稚内分屯地と同じ場所に展開している。大元は1904年(明治37年)に設置された海軍無線電信所ノシャップ通信所で、1930年には宗谷防備隊が編成された。1945年、太平洋戦争終戦でアメリカ陸軍が駐屯し、195412月に空自稚内分屯基地が開設され、1972年にアメリカ軍が撤退して空自に所管が移され、1974年に稚内基地分遣隊が創設された。2012731日、稚内市サラキトマナイ山中で昭和18年に墜落した零式水上偵察機乗員3名の慰霊祭に協力し、一帯の清掃奉仕、献花、黙祷を行った。2015726日、稚内市声問川で行われた第31回市民レガッタ大会にAとBの2チームで参加し、両チームが決勝で対決、Aチームが優勝した。20161015日、稚内市主催北のてっぺん緑化プロジェクト植樹活動に参加。2017211-12日、稚内分屯地、稚内分屯基地と協同で、2017わっかない氷雪の広場において雪像制作支援を実施。323日、大湊地方隊働き方改革推進優秀部隊として大湊地方隊から表彰された。1017日、稚内分屯地、稚内分屯基地、旭川地方協力本部と共に、稚内自衛隊協力会、稚内地区自衛官志願推進協議会、道北自衛隊家族会稚内地区会と、隊員の生活支援に関する協定を締結した。1026日、働き方改革優秀部隊として大湊地方総監から表彰された。2018714-16日、市制施行・開港70年記念行事で稚内に入港したAOE-424はまなと広報活動を実施。参考:稚内基地分遣隊ホームページ、MAMOR vol.142、朝雲

稚内分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地で、第18警戒隊が駐屯しており、対ロシア用SIGINT施設も設置されている。陸自稚内分屯地・海自稚内基地分遣隊と同じ場所にあり、所在地は北海道稚内市恵比須5-2-1。大元は1904年(明治37年)に設置された海軍無線電信所ノシャップ通信所で、1930年には宗谷防備隊が編成された。1945年、太平洋戦争終戦でアメリカ陸軍が駐屯し、195412月に北部訓練航空警戒隊第1中隊第2小隊が展開して稚内分屯基地として開設された。1956年、陸自第301沿岸監視隊が同じ場所に新編された。1961年、北部訓練航空警戒隊が第18警戒群に改編された。1972年、アメリカ軍が撤退し、空自に移管された。1974年、海自稚内基地分遣隊が同じ場所に新編された。1987年、J/FPS-2の運用を開始。2000年、第18警戒群が第18警戒隊に改編された。2017211-12日、稚内分屯地、稚内基地分遣隊と協同で、2017わっかない氷雪の広場において雪像制作支援を実施。920日、J/FPS-2の灯落とし式を実施し、運用を終了した。後継のJ/FPS-72022年に竣工して評価試験後の運用となるため、その間は第1移動警戒隊が稚内分屯基地に展開して任務にあたる。1017日、稚内分屯地、稚内基地分遣隊、旭川地方協力本部と共に、稚内自衛隊協力会、稚内地区自衛官志願推進協議会、道北自衛隊家族会稚内地区会と、隊員の生活支援に関する協定を締結した。参考:MAMOR vol.104vol.142、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、稚内基地分遣隊ホームページ、月刊JWings6,10別冊付録、月刊軍事研究9,11、月刊航空ファン12,17、朝雲

稚内分屯地>:陸上自衛隊の分屯地。空自稚内分屯基地・海自稚内基地分遣隊と同じ場所にあり、所在地は北海道稚内市恵比須5-2-1。大元は1904年(明治37年)に設置された海軍無線電信所ノシャップ通信所で、1930年には宗谷防備隊が編成された。1945年、太平洋戦争終戦でアメリカ陸軍が駐屯し、195412月に空自稚内分屯基地が開設され、19561025日に第301沿岸監視隊が同じ場所に新編されて稚内分屯地として開設された。1957年、北部方面調査隊稚内派遣隊(後の北部情報保全隊稚内情報保全派遣隊)が新編された。1960年、第382基地通信中隊稚内派遣隊(後の第301基地通信中隊稚内派遣隊)が新編された。1961年、旭川地方連絡部稚内分駐所(後の旭川地方協力本部稚内地域事務所)が新編された。1963年、第342会計隊稚内派遣隊が新編された。1982年、名寄駐屯地業務隊稚内管理班が新編された。1991年、第439会計隊が新編された。2017211-12日、稚内基地分遣隊、稚内分屯基地と協同で、2017わっかない氷雪の広場において雪像制作支援を実施。1017日、稚内基地分遣隊、稚内分屯基地、旭川地方協力本部と共に、稚内自衛隊協力会、稚内地区自衛官志願推進協議会、道北自衛隊家族会稚内地区会と、隊員の生活支援に関する協定を締結した。参考:第2師団ホームページ、稚内基地分遣隊ホームページ、JGround Vol.23MAMOR vol.104vol.142、朝雲

 <稚内分屯地(2015年)>:第301沿岸監視隊、第301基地通信中隊稚内派遣隊、北部情報保全隊稚内情報保全派遣隊、北部方面会計隊第439会計隊(326日から第342会計隊稚内派遣隊)、名寄駐屯地業務隊稚内管理班が駐屯する。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

<ワッズワース>:DD-516(駆逐艦)またはFFG-9(フリゲート)を参照。

<ワッセナー協定>:通常兵器及び両用技術・製品の輸出規制に関するワッセナー協定を参照。

ワッチ>:海上自衛隊用語で、当直のこと。水上艦では2-3時間交替、潜水艦では停泊中は3-4時間交替(3・4ワッチ)、出港後は6時間交替(6ワッチ)である。参考:現代の潜水艦

<ワッツ>:DD-567(駆逐艦)を参照。

和手>:日本海軍用語で、日本手ぬぐいのこと。参考:海軍よもやま物語

ワディントン国際エアショー>:Royal Air Force Waddington International Air Show。イギリスのリンカーンシャー州ワディントン基地で行われる航空ショーである。2014年は75-6に開催され、ヨーロッパ各国から100機弱の航空機が参加した。2015年は基地の滑走路工事のため開催されない。参考:月刊航空ファン10,14

<ワトキンス>:T-AKR-315(輸送艦)を参照。

<ワトソン>:DD-482(フレッチャー級駆逐艦)またはT-AKR-310(輸送艦)を参照。

ワトソン級大型中速輸送艦>:アメリカ海軍大型中速車両輸送艦(LMSRLarge Medium Speed Roll-on/Roll-off)、Watson級。貨物搭載スペースは甲板7層393000平方フィート(36511平方メートル)・13260トンで、上甲板前後に112トンクレーンが2基ずつ並列で並んでおり(55トンクレーン1基ずつ?)、各甲板の2カ所のハッチを開いて貨物を搭載する。艦尾ランプ(戦車2両が同時に通過できる)と2カ所のサイドランプを備え、M-1A2戦車58両、M-2/M-3/M109など48両、大型トラック50両、中型トラック234両、小型車両600両を含む1000両以上の車両を96時間で積載/降車できる。全長289.63m、幅32.27m、吃水10.37m、満載排水量62968-63649トン。主機はGEマリーン製LM2500ガスタービン2基2軸64000馬力、最大速力24ノット、航続距離は24ノットで22000km、乗員は民間人26-45人、海軍要員50名。T-AKR-310ワトソン、T-AKR-311シスラー、T-AKR-312ダール、T-AKR-313レッド・クラウド、T-AKR-314チャールトン、T-AKR-315ワトキンス、T-AKR-316ポメロイ、T-AKR-317ソーダーマンの8隻が1998-2002年に就役した。参考:月刊軍事研究3,165,031,00、月刊世界の艦船5,143,006,01

<ワドレイ>:DD-689(駆逐艦)を参照。

<ワドン>:L45(護衛駆逐艦)を参照。

ワピティ>:イギリス空軍機。ペッターズ社ウエストランド航空機工場が開発し、1927年に初飛行した。エンジンは単発、主翼は複葉、コクピットはタンデム複座。輸出向け含め565機が生産された。参考:月刊JWings4,20

<ワヒディン・スディロフソド>:991(病院船)を参照。

ワヒディン・スディロフソド級>:インドネシア海軍病院船Wahidin Soedirohusodo級、計画名称は医療支援船BRSBantu Rumah Sakit)。ドクター・スハルソ級揚陸艦がベースである。艦番号991ワヒディン・スディロフソドが202117日に進水した。参考:月刊世界の艦船4,21

詫間飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

<ワフー>:SS-238(ガトー級潜水艦)またはSS-516(テンチ級潜水艦)またはSS-565(タング級潜水艦)またはSSN-806(ヴァージニア級原潜)を参照。

<ワブル・プレート>:スオッシュ・プレートを参照。

和平使命2005>:ロシア側名称は平和の使命20052005818-25日に、SCOの枠組みの下でロシアと中国が合同で行った軍事演習である。民族対立の激化した地域に、国連の要請に基づいて軍を派遣、兵力引き離しを行うという想定で行われた。台湾なども睨んだものとみられ、当初は中国が浙江省での開催を望んだが、ロシアが反対して山東省遼東半島で実施されている。参加兵力は中国側8000名、ロシア側1800名で、陸海空軍と空挺軍が参加しており、制空権・制海権の奪取、強襲上陸、敵飛行場制圧を想定し、Tu-95/Tu-22M爆撃機、強襲揚陸部隊、潜水艦も参加した。ロシアのA-50による警戒管制、039A型宋級潜水艦からの対艦ミサイル水中発射、轟炸6型からのYJ-63テレビ誘導ミサイル投下なども行っている。SCOの他の加盟諸国は観戦に招待された。参考:月刊軍事研究11,054,0710,074,131,17、月刊JWings11,05

和平使命2007>:上海協力機構が200789日から17日まで実施した共同演習で、イラン、パキスタン、インド、モンゴルがオブザーバーとして参加した。西側軍事関係者の観戦は認められなかったが、西側記者の取材は認められた。演習場はウラル山脈南東部のチェリャビンスク州第255演習場、参加兵力は4000名で、ロシア軍ボルガ・ウラル軍管区2000名(第34自動車化狙撃師団隷下の戦術軍大隊1個、砲兵中隊1個、内務省国内軍第23特殊任務支隊1個、空軍の第4航空防空集団軍攻撃機中隊1個、第61航空集団軍輸送機部隊1個、第5航空防空集団軍戦術武装ヘリ中隊1個、同輸送ヘリ中隊2個、空挺軍の第31独立親衛空挺旅団空挺中隊1個。Su-25攻撃機9機、Il-76輸送機6機、Mi-24攻撃ヘリ13機、Mi-8輸送ヘリ18機、BMD-2空挺戦闘車12両、BTR-80BMP-22S1を含む。これらと別に支援要員2700名を展開。ロシア連邦軍参謀本部情報総局特殊任務部隊スペツナズ、連邦保安庁人質救出部隊アルファが参加していたらしい)、中国軍1600名(新疆軍区第8機械化旅団とみられる軽型機械化歩兵部隊、第4自動車化歩兵師団とみられる装甲歩兵部隊、第3陸軍航空連隊所属の輸送ヘリ、北京軍区第38集団軍第8陸軍航空連隊所属の攻撃ヘリ、南京軍区空軍第28師団の戦闘爆撃機、湖北省に所在する空軍第13師団の輸送機、空軍第15軍の空挺部隊120名、JH-7A8機、Il-76輸送機6機、WZ-9G16機、Mi-17輸送ヘリ16機、ZBD-03空挺戦闘車、92式装甲車の25mm機関砲搭載型、100mm突撃砲、92A式装輪装甲車を含む)、カザフスタン200名(第37独立空挺旅団など)、タジキスタン120名(空挺突撃中隊1個)、キルギス30名(山岳特殊作戦分隊1個)、ウズベキスタン20名(参謀のみ)。統裁官は各国合わせて6名で、ロシアは地上軍副総司令官、中国は軍副総参謀長を出席させている。中国軍機が海外に派遣されるのは朝鮮戦争以来である。恐怖主義(テロ)、分裂主義(分離独立派)、極端主義(過激派)を対象とした訓練とされ、チェチェンや東トルキスタンの分離独立運動を念頭に置いているとされるが、持ち込んだ兵器が大げさすぎる(当初はJ-10戦闘機や99式主力旦克の参加も中国メディアで報道されていた)ため、オブザーバー含め内外に軍事力を誇示する目的もあるとみられる。中国部隊は83日までに空路や鉄道で現地に到着、他国も86日までに到着し、89日に統裁部は新疆ウイグル自治区に移動して開幕式を実施した。続いて軍総参謀長による会議が行われ、戦略協議を実施。N国の国際テロリストに支援されたテロ集団がA国で政府に対抗しているというシナリオで演習が開始された。811日、チェリャビンスクで作戦計画の策定が行われ、813日に最終的なリハーサルを実施。815日、各国の国防相が現地入りし、816日には各国首脳も到着した。8171300から実動演習を開始。ロシア軍のUAVSu-25攻撃機、Mi-24攻撃ヘリ、中国軍のJH-7AWZ-9Gがテロリストに占拠された「パシナ町」(仮設建築物30棟からなる)を偵察。レーダー及び通信施設を攻撃機、攻撃ヘリ、自走砲の砲爆撃で破壊し、電子対抗分隊により通信を遮断した。パシナ町西側で防備を固めるテロ集団に対し、中国軍がWZ-9G攻撃ヘリと92式歩兵戦闘車20両で突入。ロシア軍のMi-24攻撃ヘリ、Mi-8輸送ヘリで輸送されたロシア軍特殊部隊員とキルギスの特殊部隊員20名、BTR-80で輸送されたロシア内務省部隊及びカザフスタン特殊分隊は町の周囲を封鎖した。途中、人質を取って町から脱出したテロリストを、中国軍のWZ-9G及びMi-17それぞれ4機ずつからなるヘリボーン部隊で輸送された特殊部隊が先回りして待ち伏せ制圧、人質を救出した。N国北部の国際テロ組織がA国への増援を企図したため、ロシアのBMP-2に分乗したタジキスタンの特殊部隊と中国の92式歩兵戦闘車及び92式装甲車部隊が航空支援の下にこれを殲滅。パシナ町からの脱出を図る残存テロリストを輸送機による空挺降下部隊により制圧し、1500に演習を終了した。参考:月刊軍事研究10,079,072,13

和平使命2009>:中国とロシアの2国間対テロ演習で、2009722-27日に中国とロシアで実施された。中国から1300名、ロシアから1300名が参加し、ロシアで指揮要員の会合、中国で実動演習を行っている。参考:月刊軍事研究1,17

和平使命2010>:201099-25日にカザフスタンのマドゥイブラク演習場で行われた、上海協力機構の対テロ演習。中国(兵員1000名以上、殲撃10型、轟炸6型)、ロシア(兵員1000名以上、装甲車130両、車両100両、航空機10機以上、火器1300)、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタンから兵員5000名以上が参加した。参考:月刊軍事研究1,111,17

和平使命2012>:上海協力機構の対テロ演習で、20126月にタジキスタンで実施された。中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンから兵員2000名(5000名以上?)が参加している。参考:月刊軍事研究8,121,17

和平使命2013>:中国とロシアの2国間演習で、2013年にチェリャビンスク州チェバルクリ演習場で実施された。ロシアから900名、中国から600名が参加し、ロシア中央軍管区と中国瀋陽軍区が合同司令部を編成、25000名規模の兵力を動かす図上演習を実施している。参考:月刊軍事研究1,17

和平使命2014>:上海協力機構の対テロ演習で、ウズベキスタン以外の加盟国から7000名が参加し、2014924-29日に内蒙古自治州で実施された。軽飛行機、戦車、ミサイルなどで武装した2000人のテロリストが架空の都市を占領したという想定で、奪回殲滅作戦を行っている。参考:月刊軍事研究1,17

和平使命2016>:上海協力機構の対テロ演習で、ウズベキスタン以外が参加して2016915-21日にキルギスタンで実施された。アフガニスタン情勢悪化に伴う中央アジアの不安定化を想定し、Tu-22M3による爆撃訓練や山岳戦演習を行っている。参考:月刊軍事研究1,17

<和平方舟>:866(病院船)を参照。

<和平方舟型病院船>:920(病院船)を参照。

>:日本海軍樅型駆逐艦20番艦。大正101219日竣工、二等駆逐艦に類別された。昭和2824日、美保関事件で軽巡洋艦神通に衝突され沈没し、22名が救助されたが、艦長以下91名が死亡した。915日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、連合艦隊巡洋艦、月刊世界の艦船9,13増刊

<ワラビー>:ラム中戦車ファミリーを参照。

ワラムンガ>:FFH152(フリゲート)を参照。

わらわし隊>:日華事変時に吉本興業と朝日新聞社が編成した前線慰問団で、名称は陸軍戦闘機隊の通称である荒鷲隊のシャレである。前線慰問なので昭和167月からは戦死者も出ている。参考:歴史群像4,18

<ワラン>:M113海外シリーズ(装甲兵員輸送車)を参照。

ワリャーグ>:ロシア海軍防護巡洋艦Varyag(ヴァイキングの意)。全長129.6m、常備排水量6500トン。主機はレシプロ2基2軸21000馬力、速力23.2ノット。兵装は15.2cm単装砲12門、7.5cm単装砲12門、4.7cm単装砲8門、3.7cm単装砲2門、38.1cm魚雷発射管6門。190112日竣工。190429日、仁川沖で日本海軍艦隊と交戦して大破、自沈した。後に日本海軍が浮揚し、巡洋艦宗谷として配備した。1916年、ロシアが買い戻して再就役。その後イギリスで抑留され、1925年にアイリッシュ・コースト沖で海難事故に遭い全損した。その後ドイツの解体業者に売却されている。参考:月刊世界の艦船9,11、ソ連/ロシア巡洋艦建造史

ワリャーグ>:ソ連海軍68bis-ZIF型巡洋艦Varyag(ヴァイキングの意)。195425日起工、195665日進水。進捗率40%で建造中止となり、スクラップにされた。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史参考:近代巡洋艦史

ワリャーグ>:ソ連海軍キンダ級巡洋艦4番艦Varyag(ヴァイキングの意)。196185日艦籍編入、1013日起工、196347日進水、1965720日竣工。923日、北洋艦隊に編入された。1966521日、ウラジオストク近海でブレジネフ総書記と金日成書記が艦上秘密会談を行った。923日、太平洋艦隊に転属。19681月、プエブロ号拿捕事件を受け、北朝鮮近海に展開した。19722月、ソマリアを訪問。19755月から19817月、ウラジオストクで大規模近代化改装を実施。198110月、ベトナムを訪問。1989311日、予備役に編入された。1990419日に除籍され、1991年以降に解体された。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、月刊軍事研究11,98、近代巡洋艦史

ワリャーグ>:ソ連海軍11641型ミサイル巡洋艦Varyag(ヴァイキングの意)。1988111日艦籍編入。建造中止となり、1990104日に除籍された。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史

ワリャーグ>:ソ連海軍アドミラル・クズネツォフ級空母2番艦、プロジェクト11436 Varyag(ヴァイキングの意)。1985126日、リガ(Riga。ラトビアの首都)という名称で起工。1988126日進水、19908月にワリャーグに改称された。ソ連崩壊で造船所がウクライナ所属になったのと財政難で1991年に工事が中断され、未完成(工事進捗率67.8%)のまま1992年に放棄され(1993年前半に工事進捗率70-80%で放棄?)、1998年にウクライナからマカオの企業にレジャー施設として2000万ドルで売却された。その後中国政府が接収して復帰工事を開始、2012925日に遼寧として就役させた。参考:月刊JWings5,0210,1212,12、月刊軍事研究8,074,999,093,1210,12、月刊世界の艦船1,024,103,104,111,128,112,12、月刊航空ファン2,1211,11

ワリャーグ>:ロシア海軍スラヴァ級ミサイル巡洋艦Varyag(ヴァイキングの意)。元はチェルヴォナ・ウクライナで、19951215日に改称された。19962月、近衛軍軍艦旗を掲揚。10月、ミサイル発射訓練を国防大臣が視察。19972月、仁川を訪問。3月、太平洋艦隊演習に参加。9月、ミサイル発射訓練成功で海軍総司令官から表彰され、功績艦となった。1999928日、対馬の東南東40kmを航行するのを護衛艦DD-152やまぎりが確認した。10月、上海を訪問。2002年、太平洋艦隊旗艦となった。1013日、海上自衛隊創設50周年記念国際観艦式に参加。横須賀で一般公開も行われて10000人以上が見学に殺到、艦長が「日本人が艦を乗っ取るため白兵戦を挑んでくるんじゃないかね」と冗談を飛ばす程だったという。2004年、仁川を訪問。26日、対馬東方30kmを航行中しているのをDD-129やまゆきが発見した。2005年、インドネシア、マレーシア、ブルネイ、中国を訪問。2008105-9日、韓国海軍創立60周年記念国際観艦式に参加。20094月、青島を訪問し、中国人民解放軍海軍創設60周年記念観艦式に参加した。416日、ソルム型航洋曳船MB-99と共に下対馬南南東25kmを南西に航行するのをDE-234とねが確認した。426日、ソルム型航洋曳船MB-99と共に上対馬南東38kmを航行するのをDE-234とねが確認した。10300600頃、ドゥブナ級給油艦ペチェンガ民間救難曳船フォーティ・クリロフと共に、下対馬南南東26kmを南西に航行するのを、DD-104きりさめが確認した。その後これらは対馬海峡を南下している。11300700頃、東南アジア諸国訪問から帰投中、ドゥブナ級給油艦ペチェンガバクラザン型救難曳船フォーティ・クリロフと共に下対馬の南東28kmを航行するのをDE-232せんだいが確認した。2010518-19日、ピョートル・ヴェーリキーと訓練を実施。66日、竜飛崎の西南西50kmを北東に航行するのをDE-233ちくまが確認した。その後ヴォストーク2010演習に参加し、620-25日にサンフランシスコを親善訪問した。712日ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、バクラザン型救難曳船フォーティ・クリロフと共に尻屋崎の北北東30kmを航行するのをDE-233ちくまが確認した。1170100頃、上対馬の東50kmを南西に航行するのを第1航空群P-3Cが確認した。2011990100-1000頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストリイウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフグリシャV型警備艦ホルムスクグリシャX型警備艦ソヴェツカヤ・ガヴァニタランタルV型ミサイル艇R-11、同R-14、同R-18、同R-19、同R-24、同R-298ロプーチャT型揚陸艦BDK-98ロプーチャU型揚陸艦ペレスウェートアリゲーターW型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフドゥブナ級補給艦イルクートエルブラス型潜水艦救難艦1隻、イングル型救難曳船1隻、カツンU型救難艦1隻、オビ型病院船1隻と共に宗谷岬の西200kmを東に航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。2000-2200時には宗谷海峡を通過している。921日、ドゥブナ級補給艦イルクートソルム型航洋曳船MB-61と共に宗谷岬の東北東200kmを航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。925-29日、ドゥブナ級補給艦イルクートソルム型航洋曳船MB-61と共に舞鶴を訪問。927日と29日、DD-108あけぼのDE-228ちくま、MSC-680ながしまと共に日露共同捜索救難訓練を実施した。101日、ドゥブナ級補給艦イルクートソルム型航洋曳船MB-61と共に上対馬の東70kmの対馬海峡を南に航行するのを第1航空群P-3Cが確認した。1013-15日、グアム近傍のフィリピン海で米ロ共同対テロ訓練に参加。1129日、ドゥブナ級補給艦イルクートと共に尻屋崎の東350kmを航行するのをDD-154あまぎりが確認した。2012418日、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・ヴィノグラードフ、同マーシャル・シャポシニコフゴーリン型航洋曳船と共に、上対馬の北東130kmを航行するのをDD-128はるゆきが確認した。4291000、長崎県下対馬の南西180kmをウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・ヴィノグラードフ、マーシャル・シャポシニコフと共に北に航行するのを、第4航空群P-3CDD-132あさゆきが確認した。710600-1800ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストリイウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフグリシャX型警備艦メテル、同ウスト・イムリスク、同コレーツロプーチャT型揚陸艦BDK-98、同オスラビアロプーチャU型揚陸艦ペレスウェートアリゲーターW型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフナヌチュカV型ミサイル艇イネイ、同ラズリーフタランタルV型ミサイル艇R-14、同R-18、同R-19フィニク級測量艦GS-47、同GS-84、同GS-296、同GS-404ビヤ級測量艦GS-200カメンカ級測量艦GS-211モマ級測量艦アンタークティダユグ級海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフカシタン級設標艦KIL-168と共に、宗谷岬の西160kmを東に航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。78日、ソブレメンヌイ級駆逐艦ビストリイ、ウダロイ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、グリシャX型警備艦メテル、同ウスト・イムリスク、同コレーツ、改アルタイ級補給艦イリム、フィニク級測量艦GS-84、モマ級測量艦アンタークティダ、ユグ級海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフ、ゴーリン級航洋曳船SB-522と共に宗谷岬の北東60kmを西に航行するのを第2航空群P-3Cが発見した。10141500頃、宗谷岬の西160kmを東に航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。その後宗谷海峡を抜けている。10201100頃に宗谷岬の北東300kmを西に航行するのを第2航空群P-3Cが確認した。その後宗谷海峡を通って日本海に抜けた。2013713-14日、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフグリシャX型警備艦ウスト・イリムスク、同メテル、同ステリャークタランタルU型ミサイル艇R-79タランタルV型ミサイル艇R-11、同R-14、同R-18、同R-19、同R-20ソーニャ型掃海艇BT-256、同艇番号553ロプーチャT型揚陸艦オスラビアアリゲーターW型揚陸艦ニコライ・ヴィルコフドゥブナ級補給艦イルクートフィニク型測量艦GS-397ユグ型海洋観測艦ヴィーツェ・アドミラル・ヴォロンツォフオビ型病院船イルティシュゴーリン型航洋曳船SB-522ソルム型航洋曳船MB-99中国海軍051C型ミサイル駆逐艦116石家荘、同115瀋陽054A級フリゲート538煙台、同546塩城福清型補給艦881洪澤湖と共に宗谷海峡を東に航行するのを、第2航空群P-3Cが確認した。その後ロシア艦のみでオホーツク海に於いて軍事演習を行い、719-20日に宗谷海峡を西に進んでいる。814日、ウダロイ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・ヴィノグラードフ、ソブレメンヌイ級駆逐艦ビストリイ、タランタルV型ミサイル艇R-20、同R-22と共に、宗谷岬の北北西60kmを南東に航行するのを、第2航空群P-3Cが確認した。その後宗谷海峡を東に進んでいる。20141211400頃、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、下対馬南西350kmを北に航行するのを、第1航空群P-3Cが確認した。125日、ウラジオストクに帰投した。5160100頃、ソブレメンヌイ級駆逐艦ビストリイ、ウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、ロプーチャT級揚陸艦アドミラル・ニヴェルスキー、改アルタイ級補給艦イリム、ネフテガズ級航洋曳船カラルと共に、上対馬北東140kmを南西に航行するのをDD-132あさゆきが確認した。その後対馬海峡を南下している。520-26日、東シナ海で海上連合2014に参加。529日、ソブレメンヌイ級駆逐艦ビストリイ、ウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、ロプーチャT級揚陸艦アドミラル・ニヴェルスキー、改アルタイ級補給艦イリム、ネフテガズ級航洋曳船カラルと共に、対馬海峡を北上するのをDD-132あさゆきが確認した。61日、ウラジオストクに帰港。8200700頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、同アドミラル・ヴィノグラードフグリシャX型警備艦ソビエツカヤ・ガバニグリシャV型警備艦ホルムスクと共に、宗谷岬の北西90-120kmを北東に航行するのをDD-114すずなみと第2航空群P-3Cが確認した。102日、グリシャV型警備艦ホルムスクユグ型海洋観測艦マーシャル・ゲロバニと共に、宗谷岬北東80kmを航行するのをDE-231おおよどが確認した。10251300頃、ウダロイ級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、バクラザン型救難曳船フォーティ・クリロフと共に、上対馬の北東220kmを南西に航行するのを第4航空群P-3Cが確認した。その後対馬海峡を南下して太平洋に抜けている。12112300頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、バクラザン型救難曳船フォーティ・クリロフと共に、下対馬南西110kmを北東に航行するのを、第1航空群P-3Cが確認した。2015790700頃、宗谷岬北東60kmを西に航行するのをPG-827くまたかと第2航空群P-3Cが発見した。その後宗谷海峡を西に進んでいる。820-28日、海上連合2015(U)に参加。8311800頃、宗谷岬西南西200kmを北東に航行するのを、第2航空群P-3Cが確認した。その後宗谷海峡を東に進み、オホーツク海に入っている。92日、サハリン南部コルサコフ沖で第2次大戦戦勝70周年記念観艦式に参加。9271130頃、宗谷岬北北東45kmを西に航行するのを、第2航空群P-3Cが確認した。その後宗谷海峡を西に向かっている。112日、インド海軍との共同演習インドラネイビー2015に参加するため、ウラジオストクを出港。1141030頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に、上対馬北東75kmを南西に航行するのを、PG-826おおたかと第1航空群P-3Cが確認した。その後対馬海峡を南下して東シナ海に入っている。119-20日、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイ、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマ、イングル級救難曳船アラタウと共に、南西諸島周辺を往復航行したり錨泊したりし、一部は日本の接続水域内で行動しているのを、ATS-4202くろべ、ATS-4203てんりゅう、第5航空群P-3Cが確認した。1120日午前に海域を離れて南下している。127-12日、ベンガル湾でインド海軍との共同演習インドラネイビー2015に参加。20166121100頃、下対馬南南西55kmを東北東に航行するのを、PG-826おおたかと第1航空群P-3Cが確認した。その後対馬海峡を北上し、615日に宗谷海峡を東に抜けた。2017420930頃、ドゥブナ級補給艦ペチェンガと共に、北海道松前半島白神岬西220kmを南東に航行するのを、第2航空群P-3Cが確認した。その後津軽海峡を通って太平洋に向かっている。461730頃、ドゥブナ級補給艦ペチェンガと共に、種子島北東100kmを航行するのを、第1航空群P-3CMST-464ぶんご、MSC-683つのしま、PG-829しらたかが確認した。その後大隅海峡を西に抜けて東シナ海に入っている。512日、シンガポール海軍国際観艦式参加艦と親善訓練に参加。515日、シンガポール海軍国際観艦式に参加。62日、香港に寄港。6101300頃、ドゥブナ級補給艦ペチェンガと共に、五島列島福江島西100kmを北東に航行するのを、DDH-181ひゅうがが確認した。その後対馬海峡を北上し、東シナ海から日本海に入っている。6250900頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイウダロイT級駆逐艦アドミラル・ヴィノグラードフと共に礼文島北西80kmを北東に航行するのを、第2航空群P-3CDD-152やまぎり、DD-153ゆうぎり、PG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を東に進んでいる。73-4日、太平洋艦隊の大規模演習に参加。751500-1700頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストリイ、グリシャX型警備艦コレーツ、タランタルV型ミサイル艇2隻、ナヌチュカV型ミサイル艇ラズリフ、ロプーチャT型揚陸艦オスラビヤ、ロプーチャU型揚陸艦ペレスウェートと共に宗谷岬北北東40kmを西に航行するのを、第2航空群P-3CPG-827くまたか、DD-156せとぎりが確認した。その後宗谷海峡を西に抜けて日本海に向かっている。918-26日、海上連合2017に参加。9241100-1900頃、ウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツイゴール・ベロウソフ級潜水艦救難艦イゴ−ル・ベロウソフ051C級ミサイル駆逐艦116石家荘054A級フリゲート576大慶福池型補給艦960東平湖と共に宗谷岬西160kmを北東に航行するのを第4航空群P-1哨戒機DD-155はまぎりPG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を東に抜けている。10141900頃、宗谷岬北東60kmを西に航行するのを、第2航空群P-3CPG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を西に進み日本海に入っている。20184月、太平洋艦隊春季大演習に参加。912130頃から921600頃、バルザム級情報収集艦プリバルティカイーゴリ・ベロウソフ級潜水艦救難艦イーゴリ・ベロウソフソーニャ級沿岸掃海艇艇番号553、同593、同BT256ロプーチャU級戦車揚陸艦ペレスウェートウダロイT級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、同アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイプロジェクト20381型ステレグシュチイ級フリゲートソブエルシェンヌイグリシャX型警備艦メテル、同MPK221、同ウスト・イリムスク、同コレーツタランタルV級ミサイル艇7隻、バクラザン級救難曳船1隻、改アルタイ級補給艦1隻、トプリボ級給油艦1隻、カシュタン級設標艦1隻、オビ級病院船1隻と共に、宗谷岬北東210kmを西に航行するのを、DD-103ゆうだちPG-825わかたか第2航空群P-3Cが確認した。その後これらは宗谷海峡を西に進み、日本海に向かっている。9140530頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストリイウダロイT級駆逐艦アドミラル・トリブツ、同アドミラル・ヴィノグラードフと共に、宗谷岬北50kmを南東に航行するのを、PG-827くまたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を東に進んでいる。9181500頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフと共に、宗谷岬北60kmを南西に航行するのを、DD-155はまぎりとPG-827くまたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を西に進み、日本海に入っている。101日、ウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共にウラジオストクを出港。104-7日、駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ補給艦ボリス・ブトマと共に函館港に寄港し、港町埠頭に接岸、76日の一般公開では雨模様ながら715人が乗艦した。1092200頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、上対馬北東55kmを南西に航行するのを、第4航空群P-1哨戒機PG-826おおたかが確認した。その後これらは対馬海峡を南下している。その後済州島を訪問し、1021日に青島基地に入港。1025日、駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、補給艦ボリス・ブトマと共に、中国海軍との合同戦術訓練(編隊航行訓練、通信訓練)を実施。116日、駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、補給艦ボリス・ブトマと共に、東シナ海で防空訓練と捜索救難訓練を実施。20191160800頃、ウダロイ級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、下対馬南西115kmを北東に航行するのを、MSC-685とよしま第1航空群P-3Cが確認した。その後これらは対馬海峡を北上し、日本海に向かっている。4261000頃、ロプーチャT級戦車揚陸艦オスラビアと共に上対馬北東180kmを南西に航行するのを第4航空群P-1が確認した。その後これらは対馬海峡を南下して東シナ海に向かい、中露海軍共同演習海上協力2019に参加している。551100頃、下対馬南西220kmを北東に航行するのを、DDG-173こんごうDD-158うみぎりが確認した。その後対馬海峡を北上して日本海に向かっている。8150500頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイウダロイT級駆逐艦アドミラル・トリブツと共に、宗谷岬北北西30kmを東に航行するのを、PG-825わかたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を東に進み、オホーツク海に向かっている。9171000頃、ウダロイT級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフと共に宗谷岬北東65kmを西に航行するのをMSC-687いずしまが確認した。その後これらは宗谷海峡を西に進み、日本海に向かっている。1071200頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフドゥブナ級補給艦1隻と共に、上対馬北東60kmを南西に航行するのを、PG-829しらたかが確認した。その後これらは対馬海峡を南西に航行し、東シナ海に向かっている。12161400頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフドゥブナ級補給艦1隻と共に、下対馬南西240kmを北東に航行するのを、第1航空群P-1AMS-4303あまくさが確認した。その後これらは対馬海峡を北上し、日本海に向かっている。20203261100頃、ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦ビストルイウダロイT級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフ、同マーシャル・シャポシニコフグリシャX型警備艦メテル、同ソビエツカヤ・ガヴァニタランタルV級ミサイル艇R14、同R18、同R19、同R20、同R24、同R297マーシャル・ネデリン級ミサイル観測支援艦1隻、改アルタイ級補給艦2隻、オホーツク級航洋曳船1隻、アムール級工作艦1隻、オビ級病院船イルティシュと共に、宗谷岬北西95kmを東に航行するのを、第2航空群P-3CPG-825わかたかが確認した。その後これらは太平洋艦隊演習に参加するため宗谷海峡を東に進んでいる。9141000頃、ウダロイT級駆逐艦アドミラル・パンテレーエフステレグシュチイ級フリゲートソヴェルシェンヌイ、同グロームキイマーシャル・ネデリン級ミサイル観測支援艦マーシャル・クリロフアムール級工作艦PM-59と共に、宗谷岬東北東160kmを西に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機PG-827くまたかが確認した。その後これらは宗谷海峡を西に進み、日本海に向かっている。1160900頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフドゥブナ級補給艦ペチェンガと共に、上対馬北東50kmを南西に航行するのを、PG-826おおたか第4航空群P-1哨戒機が確認した。その後これらは対馬海峡を南西に進み、東シナ海に向かっている。12250900頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・パンテレーエフドゥブナ級補給艦ペチェンガと共に、宮古島南東100kmを北に航行するのを、AOE-424はまなMSC-601ひらしまMSC-603たかしま第1航空群P-1哨戒機第5航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらは沖縄本島と宮古島の間を北上し、対馬海峡を北東に進み、日本海に向かっている。

2021551600頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフステレグシュチイ級フリゲートソブエルシェンヌイ、同グロームキイと共に、対馬北東220kmを南に航行するのを、PG-826おおたか第4航空群P-1哨戒機が確認した。その後これらは対馬海峡を南下し、東シナ海に向かっている。741400頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフ、同アドミラル・パンテレーエフステレグシュチイ級フリゲートソブエルシェンヌイ、同グロームキイ、同アルダー・ツィデンジャポフマーシャル・ネデリン級ミサイル観測支援艦マーシャル・クリロフと共に、沖縄本島の南東150kmを北西に航行するのを、第1航空群P-1哨戒機第5航空群P-3C哨戒機MSC-601ひらしまMSC-691ししじまPG-829しらたかが確認した。その後これらは沖縄本島と宮古島の間を北上し、対馬海峡を北東に抜け、日本海に向かっている。9192300頃、宗谷岬西北西145kmを東に航行するのを、PG-827くまたかと第2航空群P-3C哨戒機が確認した。その後宗谷海峡を東に進んでいる。9291300頃、宗谷岬北東270kmを南西に航行するのを、第2航空群P-3C哨戒機PG-825わかたかが確認した。その後宗谷海峡を西に進み、日本海に向かっている。12291500頃、ウダロイT級駆逐艦アドミラル・トリブツボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、対馬北北東430kmを南西に航行するのを、第1航空群P-1哨戒機第4航空群P-1哨戒機DD-119あさひPG-829しらたかが確認した。その後これらは対馬海峡を南西に進み、東シナ海に向かっている。

202211131400頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦アドミラル・トリブツイングル級救難曳船1隻、ドゥブナ級補給艦1隻、ボリス・チリキン級補給艦ボリス・ブトマと共に、与那国島80kmを北東に航行するのを、AOE-422とわだ第5航空群P-3C哨戒機が確認した。その後これらは与那国島と西表島の間を北東に進み、東シナ海に向かっている。12201700頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフステレグシュチイ級フリゲートソブエルシェンヌイ、同アルダー・チデヌサポフと共に、対馬北東80kmを南西に航行するのを、PG-829しらたか第4航空群P-1哨戒機が確認した。その後これらは1221日にかけて対馬海峡を南西に進み、東シナ海に向かっている。12271700頃、ウダロイT級ミサイル駆逐艦マーシャル・シャポシニコフステレグシュチイ級フリゲートソブエルシェンヌイ、同アルダー・チデヌサポフと共に、長崎県男女群島北西140kmを北東に航行するのを、DD-106さみだれMSC-685とよしま第4航空群P-1哨戒機が確認した。その後これらは1228日にかけて対馬海峡を北東に進み、日本海に向かっている。

参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、月刊世界の艦船9,093,053,102,108,109,101,1111,1112,111,123,129,1210,124,1310,1311,134,148,141,153,1510,'1512,152,169,166,178,179,1710,1712,171,183,187,1812,181,1911,193,2012,'203,'214,'217,'219,'2110,'2112,'213,'23JShips Vol.46、朝雲

ワルキューレ計画>:ヒトラー暗殺成功後に発動される筈だった、ベルリン制圧計画。実際は暗殺未遂に終わり、失敗した。参考:月刊軍事研究7,04

ワルサー社>:ドイツの銃器メーカーで、1886年にカール・ワルサーが設立した。第2次大戦後に会社がソ連の領土になったので、息子のフリッツ・ワルサーは西側に脱出し、ドナウ川沿いにワルサー社を再建した。1990年代後半に他社の傘下となり、スミス&ウェッソン社とも提携している。参考:GUN用語事典

<ワルシャワ>:271(カシン改型駆逐艦)または275(ワルシャワ級駆逐艦)を参照。

<ワルシャワ型>:コトリン級・海外シリーズ(駆逐艦)を参照。

ワルシャワ条約>:アルバニア人民共和国、ブルガリア人民共和国、ハンガリー人民共和国、ドイツ民主主義共和国、ポーランド人民共和国、ルーマニア人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦並びにチェコスロバキア共和国間の友好、協力及び相互援助条約の通称、Warsaw pact11条からなり、1955514日にワルシャワで署名され、66日に発効した。ドイツ民主主義共和国(東ドイツ)の加盟は正確には1955920日の主権回復後である。締約国は、国連憲章に従い、その国際関係で武力による威嚇又は武力行使を慎み、国際紛争を平和的手段により解決する。また共通の利益に関する全ての重要な国際問題について相互に協議する。締約国に対する武力攻撃の危険が生じた時は、共同防衛の確保と平和・安全の維持のため、速やかに相互協議を行う。締約国が武力攻撃を受けた場合、国連憲章第51条に規定された個別・集団的自衛権の行使として、武力行使を含む必要な全ての手段をとる。全ヨーロッパ諸国が加わる集団安全保障体制が樹立され、それに関する全ヨーロッパ条約が締結された場合、その発効の日から本条約の効力は失われる。有効期限は20年で、執行年の1年前にポーランドに対して申し入れを行わなければ自動的に10年間延長される。1956年、ハンガリー動乱。1968年、プラハの春を弾圧。ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論)を発表。9月、プラハ事件をきっかけにアルバニアが脱退した。1980年、ポーランドで独立自主管理労組の連帯が発足。1985年に延長議定書が批准された。1986年、ソ連のゴルバチョフ書記長がブレジネフ路線を転換。1989425日、ハンガリー駐留ソ連軍が帰国を開始。613日、ソ連がブレジネフ・ドクトリンの放棄を明言。199171日、解散議定書が署名された。参考:軍縮条約・資料集第2版、月刊PANZER5,79、歴史群像12,09、月刊航空ファン7,99

ワルシャワ条約機構>:ワルシャワ条約に基づく多国間軍事同盟機構、WTOと略す。政治諮問委員会は加盟諸国共産党第一書記、国家元首、外務大臣、国防大臣で構成され、統合書記局(ソ連代表が局長、各国代表1名ずつが局員)と常設委員会を有する。19917月に解散した。参考:軍事力バランス78年版、月刊航空ファン7,99

ワルシャワ条約軍>:ワルシャワ条約第5条に基づき、1956321日に統合最高司令部がモスクワに設置された。統合最高司令部は総司令官と軍事評議会(総参謀長と各国常駐代表からなる)で構成され、総司令官と総参謀長はソ連軍人が充てられる。戦時指揮権はソ連国防軍最高司令部にあり、ソ連国防軍最高司令部−ワルシャワ条約軍統合最高司令部−各国国防大臣という序列になっている。そのため、ソ連軍の指示が無いとワルシャワ条約軍総司令部は各国軍に対して指揮を執ることができず、平時のワルシャワ条約軍総司令部は在欧ソ連地上軍/戦術空軍/戦略ロケット軍の一部しか指揮下に置いていない。1961年秋、核戦争による西ヨーロッパ侵攻作戦を想定した嵐演習を実施。東ドイツに北から順に沿岸方面軍・ポーランド軍、東ドイツ軍、第2中央方面軍、第1中央方面軍、チェコスロバキアに西方方面軍、南西方面軍・チェコスロバキア軍を並べ、沿岸方面軍・ポーランド軍はデンマークに上陸してバルト海の制海権を確保し、第2中央方面軍はハノーファーからエッセン、第1中央方面軍はデュッセルドルフ、西方方面軍はボンからアーヘン、南西方面軍はニュルンベルクへと突破し西ドイツを制圧、ライン川を越えてベルギー方面からフランスへとなだれ込むというシナリオだったが、ワルシャワ条約加盟国がロシア語を使えないので通訳無しでは会話も成り立たずメモすら理解できない、通信器材が貧弱で連携が取れない、野戦軍司令官が核兵器を威力の大きい大砲の弾扱いして目の前の敵に対して使いまくる(第2中央方面軍と西部方面軍は初日で9割を使い果たした)ので西ドイツを占領してフランスのNATO軍予備とぶつかる頃には核兵器が底をついている、核兵器がヨーロッパのみに使われる前提で米ソ間での全面核戦争を想定していない、アメリカ戦略航空コマンドには現状で対抗手段が無いのでシナリオ上は曖昧にしている、ポーランド軍とチェコスロバキア軍が未だ配備されていない核兵器まで使ってイギリス軍とアメリカ軍に真っ向勝負を挑み撃破するという無茶な想定がある、といった問題があった。また、ソ連軍医療部門からは、NATO軍による核兵器を含む反撃でワルシャワ条約軍第2波を中心に全兵力の50%が死傷し、組織的医療を施すのは不可能、一般市民に至っては放っておくしかないという結論が出されている。1969年、ソ連を除く各国国防相はソ連国防相と共に国防相会議を構成することになった。19891月、ソ連以外のワルシャワ条約軍の兵力と、ウラルより西のソ連軍兵力の詳細を公表した。参考:月刊PANZER5,798,18、軍事力バランス78年版、ミリタリー・バランス1989-1990

ワルシャワ条約軍(1979年)>:主力はソ連地上軍と東ドイツ陸軍。トップは総司令部で、ソ連国防省や政治諮問委員会(ワルシャワ条約機構最高機関)の指示を受ける。各国国防相は最高軍事機関の国防相会議を構成する。また、総司令部と各国軍総司令官で構成される軍事評議会があり、軍政事項を担当する。総司令部の下に各国作戦連絡将校による参謀本部があり、総司令官と総参謀長にはソ連軍将官が任命される。総司令部の指揮下には在中欧ソ連軍、在東欧ソ連軍、ポーランド軍、チェコスロバキア軍、ハンガリー軍、ルーマニア軍、ブルガリア軍、東ドイツ軍が置かれている。最大の戦術単位は機械化歩兵軍で、他に戦車軍、自動車化狙撃師団、戦車師団、空挺師団、水陸両用突撃師団(ポーランドのみ)が編成される。西側との正面には在欧ソ連地上軍31個師団(うち戦車師団は16個)が配置されており、東ドイツにある軍集団に10個自動車化狙撃師団と10個戦車師団、ポーランドにある北部軍集団司令部に2個戦車師団、チェコスロバキアにある中央軍集団に3個自動車化狙撃師団と2個戦車師団、ハンガリーにある南部軍集団に2個自動車化狙撃師団と2個戦車師団が置かれていて、有事の場合には各国軍と共同で方面軍(北部軍集団とポーランド軍が北部方面軍、中央軍集団とチェコスロバキア軍が南西方面軍)や戦域軍(南部軍集団とハンガリー軍とソ連カルパト方面軍がドナウ戦域軍)を編成する。参考:月刊PANZER5,79

ワルシャワ条約軍(1989年)>:総現役兵力2855000名(うちヨーロッパ配置2317000名)、予備役4658000名(うちヨーロッパ配置3908000名)。平時充足師団153と3分の2個(うちヨーロッパ配置114個)、戦時師団数289と3分の1個(うちヨーロッパ配置220と3分の2個)、主力戦車78200両(うちヨーロッパ配備58500両)、歩兵戦闘車34400両(うちヨーロッパ配備24700両)、装甲兵員輸送車68100両(うちヨーロッパ配備49300両)、火砲・多連装ロケット砲67100基(うちヨーロッパ配備49600基)、対戦車誘導兵器16300基(うちヨーロッパ配備11500基)、高射砲13800基(うちヨーロッパ配備11300基)、地対空ミサイル15700基(うちヨーロッパ配備11300基)、武装ヘリ2400機(うちヨーロッパ配備1515機)、爆撃機455機(Tu-16Tu-22Tu-22Mのみで、長距離戦略爆撃機は除く。うちヨーロッパ配備285機)、攻撃機3400機(うちヨーロッパ配備2510機)、戦闘機5440機(うちヨーロッパ配備4240機)、海軍爆撃機355機(うちヨーロッパ・大西洋配備260機)、海軍戦闘機・攻撃機215機(うちヨーロッパ・大西洋配備100機)、対潜哨戒機195機(うちヨーロッパ・大西洋配備120機)、対潜ヘリ290機(うちヨーロッパ・大西洋配備200機)。潜水艦289隻(うちヨーロッパ・大西洋配備191隻)、空母4隻(うちヨーロッパ・大西洋配備2隻)、戦艦・巡洋艦37隻(うちヨーロッパ・大西洋配備26隻)、駆逐艦・フリゲート252隻(ヨーロッパ・大西洋配備183隻)、両用戦艦艇113隻(うちヨーロッパ・大西洋配備87隻)。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

ワルシャワ蜂起>:第2次世界大戦中の194481日、ソ連軍がポーランドに入ったのを受け、ロンドンのポーランド亡命政府と連携するポーランド国内軍(パルチザン)3万名がワルシャワで一斉蜂起し、ドイツ国防軍と戦闘状態に入った。しかしソ連は7月に独自のポーランド国民解放委員会を立ち上げており、ポーランド国内軍に支援物資を空中投下しようとする英米機へのソ連領内の飛行場使用許可を9月半ばまで下ろさないなど、ポーランド国内軍への支援を妨害。ポーランド第1軍がワルシャワへの突入を図ったが、ドイツ国防軍に阻止され、10月には鎮圧された。ヒトラーの鎮圧命令を受けたヒムラーはディルレワンガーSS少将率いるSS囚人部隊、カミンスキー旅団、2000名以上の警察軍を投入して制圧を行ったが、残虐すぎる行動内容が総統本営にまで達したため、ヒトラーが引き揚げ命令を出している。参考:歴史群像4,18、武装親衛隊

<ワルス>:DE-601(護衛駆逐艦)を参照。

ワルスター>:イギリス海軍駆逐艦。194541日、沖縄付近で特攻隊と基地航空隊の攻撃を受けて損傷した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<ワルター・B・コブ>:DE-596(護衛駆逐艦)を参照。

<ワルター・S・ゴーカ>:DE-604(護衛駆逐艦)を参照。

ワルター機関>:第2次大戦次にドイツのヘルムート・ヴァルター博士が開発したAIPで、ドイツ語読みだとヴァルター機関(Walter-turbine)。80%-90%の高濃度過酸化水素(ドイツ海軍秘匿名アウロル)を触媒で分解すると、450℃の高温蒸気と酸素が発生するため、そこに燃料油(軽油)を混合して燃焼させ2000℃の燃焼ガスを造り、水で冷却して88%水蒸気・12%二酸化炭素からなる530℃の気体とし、タービンを駆動させるもので、クローズド・サイクル・スチームタービン方式とも呼ばれる。排気はコンデンサーで水と二酸化炭素に分けられ、水は冷却水として再利用、二酸化炭素は海水に溶解して排出するので気泡が出ない。ドイツ軍が各種Uボートへ搭載したのは上記の2000℃(960℃?)の高温燃焼ガスを発生させる高温ワルター機関だが、使用する触媒により蒸気温度に差があり、もっと低い温度で済ませる低温ワルター機関もある。過酸化水素は腐食性が強いため、塩化ビニルの袋に入れられて艦底部の非耐圧区画に置かれており、消費されるに伴って海水が入り、重量バランスをとるようになっている。ゴム化合物で被覆し、安定剤を入れた特殊タンクに過酸化水素を入れ、重量バランスタンクは別に設けていたという説もある。軽油の10-25倍の過酸化水素が必要な他、二酸化炭素をポンプ排出方式としたため、大深度潜航ができず、ポンプ駆動に電力を奪われるために推進力が低下するという欠点があった。過酸化水素タンク、過酸化水素分解装置、ボイラー、タービンが要るので容積を喰うという短所もある。魚雷用(こちらの過酸化水素の秘匿名はインゴリン)にも開発が進められていたが、実戦使用はされなかった。燃料油の燃焼蒸気をボイラーに送って水を沸騰させ、この蒸気でタービンを回す間接式ワルター機関も考案されたが、実用化には至っていない。燃料の過酸化水素はロケット酸化剤のT液として陸空軍も大量に必要としており、実用化されても燃料不足の懸念があった。第2次大戦後には資料が連合国に渡り、アメリカ・イギリス・ソ連で開発が継続されたが、原子力潜水艦が完成したため、中止された。魚雷用機関としても採用されたが、過酸化水素による爆発事故が相次ぎ、一般的にはならなかった。参考:Uボート入門、月刊丸4,07、月刊軍事研究4,002,015,16、月刊世界の艦船9,12増刊、2,15、ナチスUボート

ワルター・ホルツアプヘル>:ドイツ海軍実験艦。魚雷実験艦で、艦尾にクレーンと4連装魚雷発射管を持つ。1940年竣工。戦後はイギリス海軍に引き渡され、ダイバー母艦ディープウォーターとなった。参考:写真集ドイツの巡洋艦

<ワルデグレイブ>:K579(フリゲート)を参照。

<ワルド・カウンティ>:LST-1163(戦車揚陸艦)を参照。

ワルドロン>:アメリカ海軍駆逐艦。1945217日、硫黄島の沿岸砲により損傷した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<ワルポール>:D41(護衛艦)を参照。

<ワルラス>:S-802(潜水艦)を参照。

ワルラス級>:オランダ海軍潜水艦Walrus級。船体は涙滴型で、新型の高張力鋼を使用して潜航深度を増加させている。ソナーは艦首のTSM-2272、側面のDUUX-5、曳航式の2026型。潜望鏡は捜索用がピルキントン社製CK24、攻撃用がピルキントン社製CH74。艦尾にX舵を搭載。全長67.7m、全幅8.4m、吃水7m、基準排水量1900トン、水上排水量2465トン、水中排水量2800-2845トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、ディーゼル発電機3基・電動モーター1基1軸6910馬力、水上速力12ノット、水中速力20ノット。潜航深度300m。兵装は533mm魚雷発射管4門(Mk48魚雷20本または機雷40個)。UGM-84Cハープーンの運用能力もあるが、搭載されていない。乗員52名(54名?)。S-802ワルラス、S-803ゼーレーヴ、S-808ドルフィン、S-810ブルインヴィスの4隻が1990-94年に就役した。1996年にシュノーケル排気拡散装置が試験され、後に全艦に装備され、セイル上部後面にそれを収容する張り出しが付いた。機雷回避ソナーを搭載する改修工事を行っており、まずS-8102009年に搭載工事を終えている。20135月に寿命延伸工事(2025年まで運用)を行うことが決定し、CCD方式AIPも搭載するという噂がある。参考:世界の潜水艦ハンドブック改訂第2版、現代の潜水艦、月刊軍事研究10,134,10、月刊世界の艦船9,101,'15増刊

<我に追いつくグラマンなし>:彩雲一一型(艦上偵察機)を参照。

ワロ>:セネガル海軍ワロ級外洋哨戒艦1番艦ワロ(Walo)。202010月起工、2022411日進水。202362日に引き渡された。参考:月刊世界の艦船9,23

ワロ級>:セネガル海軍外洋哨戒艦OPV-58SWalo級。201911月、フランスのピリウ造船所に3隻を発注した。全長62.2m、排水量600トン。速力21ノット、航続距離4500海里(12ノット)。乗員24名(+便乗者24名)。1番艦ワロ、2番艦ニアミ、3番艦カヨルが2023年から竣工した。参考:月刊世界の艦船9,23

<ワロニエ>:SS28装甲擲弾兵師団を参照。

<ワンエー>:彗星一一型(艦爆)を参照。

湾岸協力会議>:略称GCCGulf Cooperation Council)。サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、UAE、オマーンの6カ国がイラン・イラク戦争中の1981523日に立ち上げた国際組織である。6カ国合わせてもイラクの人口に満たない国々が自国共同防衛のために設立したが、防衛構想の見解不一致や、ソ連が発足当初から西側寄りと非難するなど問題も多かった。同年、湾岸統合防衛軍を創設することを議決。2014年末、統合コマンドの創設を決定。20153月、加盟国がイエメンで軍事作戦を開始。参考:軍事分析湾岸戦争、THE MILITARY BALANCE 2016

湾岸戦争>:アメリカ軍名称Persian Gulf War19902月、イラクのフセイン大統領が、イスラエルとアメリカと親米アラブ諸国、OPEC割り当て以上の原油生産を続けるクウェートとUAEに対して非難声明を発表。3月、イラクのフセイン大統領が軍参謀本部にクウェート国境地帯への集結計画の作成を命じた。イラクの長射程スカッドミサイルがイスラエルとシリアに向けて配備されているという情報があり、アメリカのKH-11衛星がイラク西部への定期監視を開始したとみられる。5月、バグダッドでアラブ首脳会議が行われた際、フセイン大統領がクウェートに対し150億ドルの資金援助とクウェート領土3分の1の割譲を要求、クウェートのジャビル首長が拒否すると、3ヶ月後になれば分かる、と応えたという。CIAはイラクがクウェートに関心を向けているという情報を掴み、情報収集対象をソ連からイラクに移した。7月までにKH-11衛星4基とラクロス1基がクウェート国境上を通過するように軌道変更された。7月中旬、フセイン大統領が共和国親衛隊司令官にクウェート侵攻準備を開始するように命じた。715日、イラクのアジズ外相がアラブ連盟事務局長に対し、クウェートがルメイラ油田(イラクとクウェートに跨がっている)から石油を盗掘した、OPECの割当を上回る原油生産で価格を下落させた、イラク領内に各種施設を建設して主権を侵害した、などとする覚書(言いがかり?)をアラブ連盟に提出。716日、共和国親衛隊がバグダットからクウェート国境へと南下を開始。手持ちの戦車輸送車3000両をフル稼働して急速に戦力を輸送した。717日の第22回革命記念日に、イラクのフセイン大統領が、クウェートとUAEはアメリカと結託して原油を過剰生産しているという演説を行った。アメリカの偵察衛星がイラク軍の集結行動を探知。718日、クウェートはイラクの覚え書きに反論し、イラクが領土侵犯をしているという書簡をアラブ連盟に提出。719日、共和国親衛隊3個戦車師団35000名がクウェート国境に集結。721日、アメリカ偵察衛星はイラク軍がクウェート国境に集結していることを探知し、DIAはウォッチコンを4から3に上げた。723日、クウェートが全軍非常警戒態勢を発令。724日、クウェートは攻撃意志が無いことを示すため、警戒レベルを落とし、非常警戒態勢を解除した。アメリカ偵察衛星は、戦車輸送車を含むイラク軍が数万人規模でクウェート国境に集結していることを探知し、DIAはウォッチコンを3から2に引き上げ、アメリカ国防総省とクウェート当局に対してハムラビ・メディナ師団がクウェート国境に集結していると警告し、ブッシュ大統領に衛星写真を見せた。725日、イラク駐在アメリカ大使はフセイン大統領と会見、イラク・クウェート問題に対して口を挟まないと発言したとされるが、真偽は未だに不明。アメリカ中央軍はイラク軍によるクウェート侵攻を阻止させるための準備行動を考案。国防総省が大統領に軍事行動実行許可を要請したが、外交交渉中であるとして却下された。アメリカ情報機関では「戦争の警告」という題名の内部文書が作成され、イラク軍がクウェートを侵略する確率は60%以上とされた。726日、アメリカの両院は対イラク経済制裁法案を可決。727日、アメリカ偵察衛星が、クウェート国境付近に展開するイラク軍の兵站支援行動をキャッチ。NSAはイラン・イラク戦争以来稼働を停止していたイラク軍レーダー施設が再稼働したことを確認した。728日、ブッシュ大統領とCIA長官、CIA作戦本部長、CIA近東専門家、衛星画像分析官2名、警戒警報担当国家情報官がデイリー・ブリーフィングを実施。情報機関側はイラク・クウェート情勢が予断を許さない状況であると伝えたが、フセイン大統領に侵攻の意図があるかどうか、いつどれくらいの規模の侵攻になるのかといった情報が掴みきれておらず、ブッシュ大統領は侵攻に懐疑的で、情報機関側も侵攻は限定的に止まるという見方が大勢だった。731日までにイラク軍はクウェート国境に共和国親衛隊全師団(兵力14万名、戦車1100両、装甲車610両、野砲610両)を集結していたが、イラク軍は意図を隠すため、通信は全て有線または伝令を使用、戦闘部隊への弾薬供給も最低限以下に抑えており、アメリカ国務省情報調査局INRは単なる脅しと判断、アメリカ情報機関内でもクウェート侵攻に対する意見が割れていた。731日から81日にサウジアラビアでイラク・クウェート間の交渉が持たれたが、纏まる筈も無かった。731日、アメリカの偵察衛星が攻撃隊形に移行したイラク軍と、クウェート近郊の飛行場に移動したイラク軍攻撃機及び攻撃ヘリを探知。アメリカはウォッチコンを2から1に上げ、情報機関はイラクによる侵攻の可能性を少なくとも70%とし、CIA長官は国家安全保障問題担当補佐官へのブリーフィングで24時間以内にイラクがクウェートを侵攻すると伝えた。チェイニー国防長官はブッシュ大統領に対し、フセイン大統領への警告を行うよう進言することにしたが、警告が発せられる前にイラク軍はクウェートに対して侵攻を開始した。81日、共和国親衛隊が進撃隊形を取ってクウェート国境から5km以内の地点まで南下。アメリカ中央軍はクウェート侵攻が行われると判断したが、補給の問題からルメイラ油田周辺など限定的な作戦に止まるとみた。共和国親衛隊の配置は、東側のサフワン空軍基地周辺にハムラビ戦車師団及びタワカルナ機械化師団、西側のルメイラ油田周辺にメディナ戦車師団、それらの後方にアル・ファウ、バグダッド、ネブカドネザル、アトナン歩兵師団で、ハムラビ戦車師団とタワカルナ機械化師団が国道6号線沿いに南下して一気に首都を制圧、メディナ戦車師団はクウェート西側を押さえてサウジアラビアとの連絡線を遮断し、後方の4個歩兵師団がクウェート各所の占領に当たる手筈だった。第8特殊部隊師団はヘリボーン及び強襲上陸によりクウェート政府首脳及び航空基地の確保を命じられた。イラク空軍は2個攻撃飛行隊(Su-20/22)、1個地上攻撃飛行隊(Su-25)、1個戦闘飛行隊(ミラージュF1)、2個戦闘爆撃飛行隊(MiG-23BN)、B727電子戦機がイラク南部に展開しており、制空権確保、航空基地制圧、通信妨害・ECMにあたった。81日深夜、フセイン大統領がクウェート侵攻作戦開始を下命した。イラク時間820030、イラク軍工兵隊が国境線沿いの障害物の撤去を開始。0100、共和国親衛隊の3個師団がクウェートに侵攻。ハムラビ戦車師団はアブダリ税関所を越え、ジャハラ市を目指して南下し、タワカルナ機械化師団が後に続き、その西側からメディナ戦車師団がルメイラ油田方面から南下した。0130、特殊部隊先遣隊がクウェート市中央部にヘリボーン降下を開始、主力部隊の降下ポイント確保などを行った。0500過ぎ、クウェートの首脳陣がダスマン宮殿を脱出し、サウジアラビアに向かった。この頃、イラク空軍が攻撃機によりクウェートに爆撃を実施。その後Mi-24攻撃ヘリ30機及びMi-8/17輸送ヘリ50機からなるヘリボーン部隊がクウェート市に到達、海岸からは揚陸艇やボートから特殊部隊(106mm無反動砲・14.5mm機銃搭載ピックアップトラック装備)が上陸し、市内重要目標の占領に向かった。特殊部隊はダスマン宮殿に到着したものの、警備隊が居ただけで首脳陣は脱出しており、残っていたジャビル首長の弟を射殺した。0530、ハムラビ戦車師団先鋒と特殊部隊がクウェート市で連絡を付けたが、ブリッジの戦いでクウェート軍の反撃にあった主力の進出はそれよりも遅れた。クウェート市内におけるクウェート軍の組織的抵抗は正午過ぎには排除された。クウェート市は1900までに占領され、ハムラビ、タワカルナ、メディナの各師団はサウジアラビアとの国境沿いに前進。後方から進撃する4個歩兵師団がクウェート全土を48時間以内に制圧した。クウェート軍の改良ホークによりSu-22戦闘機1機とMiG-23BN戦闘機1機、ヘリコプター21機が撃墜され、クウェート空軍のミラージュF1によりヘリコプター13機、A-4攻撃機によりヘリコプター3機が撃墜されたという。イラク革命評議会は、クウェート内の革命家の要請に呼応したものであると声明を発表。アメリカのブッシュ大統領は直ちにイラクの行動を強く非難する声明を発表し、在米イラク・クウェート資産を凍結し、イラクへの経済制裁を発動、空母インディペンデンスを基幹とする戦闘群をオマーン湾に移動させた。ソ連もイラク軍即時撤退を要求し、武器供与を停止する声明を出した。欧州政治協力会議もイラク軍の即時無条件撤退を求めた。日本はイラク軍の撤退を直ちに要請。また、国連緊急安保理において、イラクの即時無条件撤退を求める決議(国連安保理決議660)が採択された。83日、クウェート政府首脳がサウジアラビアのタイフに亡命政府を設置。米ソがイラクを非難する共同声明を発表。イギリスが軽空母インヴィンシブルとフリゲート2隻をペルシャ湾に派遣。緊急アラブ諸国外相会議でイラク非難の声明が出された。85日、イラク軍はクウェート・サウジアラビア国境に進出。アメリカのチェイニー国防長官がサウジアラビアに向かった。86日、チェイニー国防長官がファハド国王と会談。サウジアラビア防衛のためのアメリカ軍派遣と、任務完了時点での即時撤退を申し入れて了承され、その夜にはアメリカ軍に出動命令が出た。イギリス・フランスもペルシャ湾に軍艦を増派。中国がイラクの撤退を要求、武器禁輸措置を表明。国連安保理で安保理決議661が採択され、イラクの経済制裁が決定。イラクはクウェートに145000名の兵力を配置。ヨルダンはアメリカ軍のサウジ駐留に反対の声明を出した。イラクがクウェート在住のアメリカ・イギリス・ドイツ人の一部を拘束。87日、デザート・シールド作戦が発動された。日本がイラク・クウェートからの石油輸入禁止、輸出禁止などの制裁を実施。88日、イラクがクウェートの併合(19番目の州とした)を発表、在クウェート大使館の閉鎖と外交特権の剥奪を通告。イギリス空海軍の派遣を決定。ヨルダンはクウェート併合に反対する声明を発表。89日、国連安保理が安保理決議662でクウェート併合の無効を宣言。第82空挺師団の尖兵がサウジアラビアに到着。F-15C戦闘機が空中戦闘哨戒を開始。フランスが地上部隊派遣を発表。トルコがアメリカの基地使用要請に同意。イスラエルはイラクとヨルダンが共同して自国を攻撃する可能性があるとみて全面警戒態勢に入った。810日、フランスが空母クレマンソーの派遣を決定。緊急アラブ諸国首脳会議でイラク非難決議が採択されたが、加盟国21カ国中賛成は12カ国だけだった。811日、サウジアラビア上空に侵入したイラク軍偵察機にサウジアラビア軍が地対空ミサイルを発射したが、外れた。イギリス空軍が多国籍軍に参加するため出発。812日、トルコが首相に宣戦権限と国外派兵権限を付与。イラクが撤退条件としてイスラエルの占領地からの撤退、アメリカ軍のサウジアラビアからの撤退、対イラク経済制裁解除を示した。アラブ諸国ではイラク支持のデモが起こったが、アメリカとイスラエルは直ちに拒否。813日、フランスがアメリカの海上封鎖を準交戦措置として批判。814日、イギリスがペルシャ湾での臨検を開始。815日、イラクが1975年のアルジェ協定を受け入れてイランとの和解を発表、イランも受け入れた。サウジアラビア上空に侵入したイラク軍機とアメリカ空軍F-15戦闘機が空戦を行ったが、イラク軍機が離脱していった。816日、西ドイツの艦隊がクレタ島に向け出発。トルコがイラク国境に1万名の機械化歩兵師団を派遣。817日、イラク・クウェート内の西側諸国の国民約1万人が人間の盾として軍事施設に強制収容された。対機甲兵力として第101空挺師団のアパッチ攻撃ヘリ部隊が到着開始。818日、イラク・クウェートからの第三国国民の出国を要求する安保理決議663を採択。各国がイラクの在留外国人人質(人間の盾)に抗議。823日、イスラエルが臨戦態勢に入った。825日、国連安保理決議664を採択、状況が必要とする処置を要請したという声明が出され、限定武力行使を認めた。バグダッドでイラク当局に日本人が連行された。クウェートの日本大使館のライフラインが切断された。オーストリア大統領がフセイン大統領と会談、在留オーストリア人全員が出国。828日、クウェートをイラクの19番目の州とするという声明を発表。829日、日本が中東への物資輸送用航空機・船舶のチャーター費用負担、民間レベルの医療チーム派遣、水の確保などに関係する資材提供、紛争周辺国への経済援助を発表。アメリカがサウジにF-15などの売却を決定。830日、イラクは多国籍軍の攻撃を受けた場合にサウジ・イスラエルへのミサイル攻撃を実施すると警告。女性・子供の「人間の盾」の解放を発表。831日、緊急アラブ諸国外相会議が開催されたが、21カ国中13カ国しか参加しなかった。92日、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が本部をダマスカスからバグダッドに移し、PLOのイラク支持が明確となった。しかしこれによりPLOへの湾岸産油国からの資金供給が停止した。95日、フセイン大統領がイスラエル攻撃に言及。913-14日、イラクはフランス・オランダなどの在クウェート大使公邸に侵入して人員を連行。916日、国連は外国人即時解放を要求。アメリカ空軍参謀総長がイラクに対する航空攻撃を言明したとの報道がなされた。917日、アメリカ空軍参謀総長が解任された。924日、フランスのミッテラン大統領がパレスチナ問題とリンクした和平提案を行った。1021日、フセイン大統領はフランス人の人質全員の解放を指示。1029日、第三国国民の解放とイラクの損害賠償責任、国連事務総長による仲介を決議。フランス人人質267人が出国。11月初め、トルコにイラク人兵士130名が亡命。大半が栄養失調であったらしい。113日、中曽根元首相がイラクを訪問。117日、日本人74人がイラクを出国。1111日、モロッコのハッサン国王が緊急アラブ諸国会議を呼びかけたが、エジプトとシリアが開催困難と表明し、開かれなかった。1112日、中国外相とフセイン大統領が会談。イラクは対話による平和的解決の用意があると発表したが、それ以上の進展は無し。1118日、イラクは条件付きで向こう3ヶ月間に人質全員の解放を発表。1129日、国連安保理で、イラクが1991115日までにクウェートから撤退しない場合、全ての必要な手段をとる権限をクウェート政府と協力する加盟国に付与するという決議(安保理決議678)が採択された。12月初旬、イラクはバスラ西から3発のアル・フセインまたはアル・アッバスの発射訓練を実施。126日、イスラエルのレビ外相が、多国籍軍が軍事力を行使しない場合はイスラエル単独で軍事行動を行う可能性を示唆。フセイン大統領は外国人人質の解放を議会に要請。127日、イラク国民議会は外国人人質の全員解放を決議。129日、イスラエル全部隊が厳戒態勢に入った。19911月、クウェート配備のイラク軍が50万名を突破。13日、イラク政府が戦争準備のため首都機能を他の場所に移すと通告。19日、アメリカのべーカー国務長官とイラクのアジズ外相がジュネーブで会談したが、物別れに終わった。111日、暫定的なデザート・ストーム作戦開始命令が出された。112日、国連のデクエヤル事務総長がフセイン大統領と会談するが、成果無し。アメリカ議会下院が、ブッシュ大統領の武力行使決定を支持する決議を採択。114-15日、国連でイラク撤退への会議が続けられたが、イラク軍の動きは無かった。117日、デザート・ストーム作戦開始。アルジェリアのみがイラクを支持し、戦争を非難。イスラエル・サウジアラビアが厳戒態勢に入った。118日、イラク軍がアル・フセインをイスラエルに8発、サウジに1発発射。イスラエルは反撃を自制した。1月中旬、トロイ作戦開始。120日頃、イラクがクウェート沿岸の石油積み出し基地とミーナ・アル・アフマディ精油所を破壊、ペルシャ湾に原油を流出させた。120-21日、先進7カ国蔵相会議で戦費を日本・ドイツが中心となって負担することに決定。122日、アメリカとの協議で日本が90億ドル(1.2兆円)の戦費負担を決定。一応アメリカ軍戦費1日5億ドル×90日の2割という名目だったが、特に根拠は無い。123日深夜、防衛庁長官の口頭命令(翌日文書で発出)に基づき、空自が避難民発生時に備えてC-130H輸送機5機と隊員250名のカイロ及びヨルダンへの派遣準備を開始。空自、外務省、警察庁の各職員からなる現地調査団がカイロとアンマンで調査を行ったが、結局派遣はされなかった。避難民として想定していたのはクウェートやイラクなどの避難民だったが、もし現地日本人が救助を求めてきたら、当然救出する心積もりだったようである。126日、GBU-15によりミーナ・アル・アフマディ精油所の原油ポンプを破壊し、原油流出を止めた。しかし700-800万バレルの原油が流れ出しており、ペルシャ湾の完全な環境回復には数十年かかるといわれている。129-31日、カフジの戦いが勃発。23日、地上戦準備のため、多国籍軍が前方集結地への移動を開始。25日、日本が官民合わせて30km分のオイルフェンスを現地に送った。215日、イラクがイスラエルのアラブ領土からの撤退を条件に安保理決議660を受け入れる用意があると表明。多国籍軍は無条件撤退を要求。216日、モロッコが親イラク側の立場を取った。218日、イラクのアジズ外相とソ連のゴルバチョフ大統領がモスクワで会談し、イラクは条件付き撤退を表明。多国籍軍側は引き続き無条件撤退を要求。221日、多国籍軍地上部隊が前線集結を完了。ブッシュ大統領とゴルバチョフ大統領が電話会談。2315、イラクの撤退期限を23日正午とすることをブッシュ大統領とパウエル統合参謀議長が同意。222日、フセイン大統領は国営放送で戦闘の継続を表明したが、アジズ外相はゴルバチョフ大統領との会談で安保理決議の効力停止・経済制裁解除を条件に撤退に同意。アメリカのブッシュ大統領は条件付きでは認められないとして拒絶、アメリカ東部時間223日正午までにイラク軍が撤退を開始することを要求した。224日、デザート・セイバー作戦開始。228日、戦闘停止が宣言され、クウェートは独立を回復した。31日、第1歩兵師団がサフワンを占領。32日、アメリカ中央軍が本土やヨーロッパへの帰投を開始。ルメイラ油田の戦い。33日、サフワン飛行場で停戦会談を実施。空港には第1歩兵師団のM-1A1M-2A2AH-64が並び、A-10Aが上空を旋回していた。34日、油田消火作戦を開始。36日、ドイツの掃海部隊が湾岸地域に向け出発。320日、第36戦術戦闘航空団(36TFW)のF-15C1機がAIM-9によりSu-22を1機撃墜。322日、36TFWF-15C1機がAIM-9によりSu-22を1機撃墜。36TFWF-15Cが空戦機動によりPC-9を1機撃墜した。411日、イラクがクウェートからの撤兵などを定めた国連安保理決議を受け入れて正式に停戦となった。199212日、アメリカ中央軍が全兵員・装備を元の配備先に全て戻し終わった。イラク軍は約100発のスカッドB改造型弾道ミサイル(アル・フセインまたはアル・アッバス)を発射、5発は直後に空中分解し、10発は多国籍軍機により撃墜され、41発がサウジアラビアに、38発がイスラエルに、バーレーンとカタールに1発ずつが着弾した。当初はパトリオットにより相当数が撃墜されたと発表されたが、実際は殆ど効果が無かった。多国籍軍は最終的に42カ国で構成された。アメリカ軍は陸軍28万名(総員76.1万名のうち37%)、海兵隊9万名(総員19.5万名のうち46%)、作戦機1950機(全作戦機2600機の75%)、主力戦車2500両(全戦車6000両の42%)、空母7隻(全空母15隻の47%)、両用戦艦艇35隻(全両用戦艦艇64隻の55%)を湾岸地域に展開。アメリカ軍戦死者147名(陸軍97名、海軍6名、海兵隊24名、空軍20名。うち同士討ち35名。陸軍98名・計148名説有り)、戦闘外の死者235名(陸軍126名、海軍50名、海兵隊44名、空軍15名)、負傷者467名(陸軍364名、海軍9名、海兵隊85名、空軍9名。陸軍354名、海軍12名、海兵隊92名、空軍9名?うち同士討ち72名)、捕虜23名。アメリカ軍の戦費は611億ドルで、うち360億ドルをペルシャ湾岸諸国、130億ドルを日本、70億ドルをドイツが拠出した。多国籍軍発表では、イラク軍の損害は死傷者2-5万名、捕虜86743名、戦車2633両(爆撃で1388両、地上戦で1245両)、装甲車1668両(爆撃929両、地上戦739両)、火砲2196門(爆撃1152門、地上戦1044門)、航空機撃墜42機、地上破壊81機、艦艇25隻。アメリカ軍が投下した爆弾は88500トン・227648発で、うち7.7%にあたる17644発がPGMMLRSがアメリカ軍に189両、イギリス第1機甲師団第39王立重砲兵連隊に12両配備されており、前者が17000発以上、後者が2500発以上のロケット弾をイラク軍に叩き込み、子爆弾1300万発をばらまいた。アメリカ軍はM900劣化ウラン弾2314発を用意して5042.14トンを使用、M829劣化ウラン弾141248発を用意して670035.85トンを発射、M829A1劣化ウラン弾89473発を用意して234812.56トンを使用した。多国籍軍航空部隊は92517回出撃した。空対空任務のために出撃した戦闘機は延べ14500機、うち戦闘機撃破などに使用されたのは延べ3819機。撃墜された多国籍軍機は38機(うちアメリカ軍27機)。A-10攻撃機は2個航空団A-10A攻撃機130機とOA-10A観測機20機が8755ソーティをこなし、マーベリック5013発、通常爆弾・クラスター爆弾23927発を投下、戦車987両、装甲兵員輸送車500両、その他装甲車249両、トラック1106両、砲兵陣地926ヵ所、対空陣地50ヵ所、地対空ミサイル陣地9ヵ所、レーダーサイト96ヵ所、指揮所など28ヵ所、塹壕72ヵ所、スカッドTEL51両、地対地ロケット発射機11両、燃料タンク8ヵ所、航空機地上撃破10機、ヘリ2機撃墜の戦果を挙げ、損失はA-10A攻撃機4機とOA-10A観測機2機だった。トーネードIDSはイラク飛行場上空に低空侵入しての滑走路破壊任務に就き、対空砲火を浴びて6機(7機?)が撃墜されている。AH-64A攻撃ヘリはAGM-1142876発発射し、戦車・装甲車800両以上、ソフトスキン500両以上、陣地60ヵ所以上、航空機10機、ヘリ14機を破壊、被撃墜損失は1機だった。U-2Rはサウジアラビアのジェッダ、TR-1Aはタイフに展開し、リヤドにシニアブレード地上ステーションを設置、19908月から19912月までに計564ミッションをこなし、4561.6時間飛行した。イラク空軍は610回出撃。多国籍軍艦艇の損害はトリポリとプリンストンの触雷のみ。アイオワ級戦艦2隻は83回の艦砲射撃で16インチ(406mm)砲弾1102982トンを発射した。うち弾着観測付きの地上砲撃は52回あり、37回で戦闘損害評価が得られていて、目標の完全−中程度破壊が30%、軽度損傷が40%という結果だった。また、点目標破壊率は28%に止まった。アメリカ軍はプロスタント560名、カトリック115名、ユダヤ教6名の従軍僧侶を派遣し、聖書30万冊以上と説教テープ15万本を配布した。多国籍軍の心理戦として、MC-130HC-130からビラを撒いたり、F-16B-52からMk129リーフレット爆弾を投下したりした他、UH-1Nや地上局から拡声器でプロパガンダ放送を行ったり、EC-130Eを使用したりした。また、ボイス・オブ・ザ・ガルフと呼ばれる多国籍軍向けラジオ放送を行い、イラク側にも流した。イラク軍側もイラク放送がバクダッド・ブルース、バクダッド・ベティ、イラク・ジャックと呼ばれる多国籍軍向け心理戦放送を行った。湾岸戦争開始直前にイランに避難してそのまま保管されていたイラクの作戦機約140機は、1990年代半ばからイラン空軍に編入された(Il-76AEWが1機、Su-25が7機、ミラージュF124機など)が、MiG-291999年にイラクに返還された。戦後、アメリカは世界の警察官としての役割を確固たるものとし、イスラエルはアメリカに貸しを作った。イラクではクルド人が反乱を起こし、バスラやカルバラ・ナジャフでもシーア派が蜂起、18州のうち14州を制圧したが、砂漠ではゲリラ戦ができず、イラク軍の苛烈な鎮圧を受け、大量の処刑が行われて20万人ともいわれる大量の犠牲者が出た。これに対して世界の反応は薄く、クルド人難民に対する人道支援しか行われなかった。イラクを支持したPLOはクウェートとサウジアラビアとの関係が悪化して大打撃を被り、イスラエルとの和平プロセスに入らざるを得なくなった。サウジアラビアはイラクの侵攻を防ぐためにアメリカの駐屯を認めたため、他のアラブ諸国との間に微妙な影響を与えることとなった。日本では自衛隊海外派遣、中国では軍の近代化のきっかけとなっている。19914月、国連安保理決議675を採択、また安保理決議687により、核開発に関する査察が開始され、弾道ミサイルや化学兵器の査察・破壊も行った。426日、海自掃海部隊が湾岸の夜明け作戦参加のため湾岸地域に向け出発。2001225-26日、クウェート政府が解放10周年記念式典を開催。日本からは海部元総理と落合元ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官が招待された。参考:軍事分析湾岸戦争、月刊エアワールド10,03、月刊軍事研究4,083,0312,021,004,073,9911,086,092,107,124,142,164,1611,18、月刊PANZER1,01、月刊世界の艦船5,917,19、ペルシャ湾の軍艦旗、MAMOR vol.144

湾岸戦争症候群>:Persian Gulf Syndrome。湾岸戦争後の帰還兵が疲労感、頭痛、不眠、疼痛、記憶力減退、抑鬱など多彩な症状を訴えたものである。油田火災の煤煙、劣化ウラン弾微粉末吸引、イラクの生物・化学兵器(多国籍軍の爆撃で拡散した可能性がある)、抗化学兵器剤の臭化ピリドスチグミン、対生物兵器ワクチン、精神的ストレス、リーシュマニア症など、原因はいろいろ挙げられているが、はっきりしない。これらの症状が湾岸戦争と関係あると認められた場合、アメリカでは補償金が出るため、1994121日時点で46983名が申請を出したが、2001年時点で補償金をもらったのは472名だけである。イギリスでは湾岸戦争従軍者42000名のうち同様の症状を訴えたのは50名のみで、アラブ合同軍の兵士は1名も発症していない。参考:化学・生物兵器概論、月刊PANZER12,98

湾岸戦争まで>:中東はオスマン・トルコ興国以来その支配下にあり、この時クウェートはバスラ州の一部としてイラクと一体だった。第一次大戦以降はイギリス・フランスの植民地となったが、1932年にイラクが独立。この時、クウェートはイギリスの保護国にとどまった。1961年、クウェートが独立したが、イラクは認めなかった。1963年、一応の国境線が確定するも、イラクは手続き上の不備を指摘し続けた。1980年、イラン・イラク戦争が勃発。戦費の増大によりイラク経済が悪化したため、石油資源の豊富なクウェートに目を付けた。参考:月刊PANZER1,01

湾岸統合防衛軍>:湾岸協力会議6カ国が1981年に創設を合意した合同軍。19822月には6カ国の合同演習を施行。11月に「ソ連の脅威から湾岸の油田を守るため」、設立を正式に議決した。参考:軍事分析湾岸戦争

湾岸の夜明け作戦>:海上自衛隊による湾岸戦争後のペルシャ湾掃海作戦Operation Gulf Dawn。命名者は海外派遣掃海部隊司令部通信幕僚依光道洋三等海佐で、1991613日に発表した。海上自衛隊初の海外派遣実任務であり、自衛官や官舎の駐車場で放火事件が多発、掃海母艦MST-462はやせ、補給艦AOE-423ときわ、掃海艇MSC-669ひこしま、MSC-668ゆりしま、MSC-670あわしま、MSC-671さくしまが出港した時は大量の反対派がシュプレヒコールを浴びせかけ、帰港時には首相が自衛艦旗を降ろして軍艦マーチを演奏しないよう意向を伝えるなど国内の無理解からくる苦労も多かったが、99日間で34個の機雷を処分し、稼働率100%、服務中の事故ゼロで帰還して海外から高い評価を受け、以降の自衛隊海外派遣の先駆けとなった。万が一殉職した場合の賞恤金は最高1700万円だったが、安すぎると国会で批判され、2700万円に上げられている。1991年の湾岸戦争に際し、アメリカを初めとする国際社会から日本に対して航空機の提供や輸送艦・掃海艇の派遣などを打診されたが、関連法など全く整備されていない状況であり、臨時国会に提出した多国籍軍後方支援を主眼とする国際平和協力法案も、自衛隊でなければ行けない所に派遣するなら不測の事態に備えて自衛用の個人携行ミサイルくらいは装備していく必要があると陸幕防衛部長が言った(この発言を聞いた防衛記者クラブの記者は気を遣ってオフレコにしようと申し出たが、防衛部長の方で自衛隊が出動するということはこれくらいの覚悟が要るということを国民に知ってもらいたいとした)事が伝えられると、政府の方にその覚悟がまだ出来ておらず野党の追及に負けて廃案になり、戦費1兆5000億円(40億ドル+追加90億ドル)を提供したのみだった。拠出額としてはサウジとクウェートに次ぐ3番目だったが、ドイツすら基本法を何とかクリアして掃海艇と補給艦の派遣を決めたにも関わらず、湾岸諸国からの原油で命脈を保っている日本が国連からの要請や安保理決議に基づく措置を無視してヒトとモノを出さないことに批判が集中。現地や国際社会では貢献とは認められず、クウェートがワシントンポスト紙に掲載した解放感謝の広告に日本の国旗は無く、他国の協力要員からは1人1万円ちょっとで人的貢献をせずに済むなら今ここで払って帰るよと嘲笑される有様であった。更に、ペルシャ湾の安全航行に関して経団連、石油連盟、船主連盟、船員組合などから不安視する声が高まったが、自衛隊を海外に派遣する根拠となる法律は一切無く、戦闘部隊により護衛を行ったりすることは不可能なため、戦闘部隊でない掃海艇を派遣し、国民の理解を得ると共に国際社会を納得させるという手段を講じることとなった。小型掃海艇では遙々ペルシャ湾まで辿り着くのに1ヶ月以上かかるので、実際に貢献できる活動をするには春までに出発させる必要があった。海自では湾岸戦争勃発直後から海幕防衛課を中心とする委員会で対応策を協議しており、10月には防衛部長をトップとするMEMiddle East)プロジェクトを立ち上げ、19912-3月には可能な人的貢献が停戦後の掃海くらいしか残らないとみて具体的な検討に入った。予想される派遣規模は掃海母艦・敷設艦1隻、補給艦1隻、掃海艇4隻(戦術単位3隻+予備1隻)、隊員500名で、掃海母艦はやせ、補給艦ときわ、掃海艇ひこしま、ゆりしま、あわしま、さくしまを選び、派遣部隊司令は第1掃海隊群司令に320日に着任したばかりの落合o一等海佐とした。掃海艇は7000海里の航海に耐えられる主機を搭載していた4隻を指定したもので、ひこしまが第1掃海隊群第14掃海隊、ゆりしまが同群第19掃海隊、あわしまとさくしまが第2掃海隊群第20掃海隊所属であり、掃海艇全体の指揮は第14掃海隊司令森田良行二等海佐が執り、後任が必要となった場合には第20掃海隊司令木津宗一二等海佐(415日着任)が引き継ぐ。早速落合海佐を東京に呼び派遣準備(スタディー)を下命し、第1掃海隊群で秘密裏に派遣準備を開始。75%くらいだった隊員充足率を100%に引き上げ(充足完了は418日、人事交替完了は420日)、掃海艦艇への秘話通信装置装着、衝撃緩衝用クッション材追加などの工事を行った。衛星通信装置インマルサットや他国艦船との共同作業に必要なGPSも出港直前に仮装備している。GPSは当初FMSで導入する予定だったが、間に合わないので急遽メーカー各社に製品をプレゼンテーションしてもらい、古野電気製GPS受信機を採用した。掃海艇や掃海母艦に積む器材は国内長期訓練時と同じくらいとし、燃料や予備パーツ3000品目、保存食半年分、生鮮食品1ヶ月分など大半の必要物資は全て補給艦に積んだ。補給艦ときわと掃海母艦はやせの医務室は厚生省に届け出を提出して診療所として使えるようにし、内科医官1名、外科医官1名、歯科医官1名、准看護師の資格を持つ衛生員17名を配置、毒を持つウミヘビ用の血清や日焼け止めなども持って行った。ときわ郵便局の開局手続きも行っている。実戦経験も無く、現地の状況も十分に把握する時間が無かったため、本を読んで参考にするなどし、水タンクや防虫剤、金属パイプ補修用テープなど必要になりそうなものは取り敢えず積み込み、万が一に備えて遺体収容袋も40枚用意した。士気を高めるため、海上幕僚長から週1回の休養日前日、巡検終了後の艦内飲酒許可を得ている。海外寄港地などでの親善用パーティ器材が必要との担当幕僚の打診に対し、第1掃海隊群司令は任務優先ということで降ろすよう伝えたが、後で在外公館や在留邦人会、アメリカ海軍はじめ外国海軍との艦上パーティ(スチール・ビーチ・パーティ)が必要となり、担当幕僚がこっそり積んでいった器材が大活躍したという。外部団体から各艦にカラオケセットが寄贈されており、隊員のストレス発散の他、洋楽も収録されていたため艦上パーティにも使用された。派遣部隊司令部は第1掃海隊群司令部に警務幕僚、広報幕僚、情報幕僚、語学幕僚各1名と掃海幕僚2名(1名は訓練幕僚から格上げ、1名は準備作業のみ手伝う予定だったが本人直訴で加員)、整備幕僚4名、医務官4名を増員した。準備期間は1ヶ月弱しか無く、全てを秘密裏に進めなければならなかったが、隊員とその家族の努力により、準備と保全は万全だった。411日、湾岸戦争が正式に停戦し、戦争状態が終わったとして内閣が掃海艇派遣の方針を決定。412日、海部総理が池田防衛庁長官に統一地方選挙後の出動準備指令発出を指示した。416日、防衛庁長官が佐久間一海上幕僚長に対し、ペルシャ湾における機雷等の除去の準備に関する長官指示を発出。423日、派遣部隊の出港準備が完了。424日、安全保障会議及び閣議で海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣することを決定、出港は26日と派遣部隊に伝達された。根拠は自衛隊法第99条(機雷等、海上における危険物の除去)だが、条文にある「海上」は当然日本近海のことでありペルシャ湾は想定していない筈で、思いっきり拡大解釈である。また、参加艦には500トンクラスのはつしま型掃海艇が含まれており、13000km先のペルシャ湾に辿り着くのには航洋性が不足していて、7日ごとに水・食糧・燃料を補給する必要があったため、スービック、シンガポール、ペナン、コロンボ、カラチ、ドバイを経由して現地に向かうことになった。掃海艇には洋上補給装置が無いため、各艇で独自の縦曳き式補給装置を製作している。掃海部隊要員の他に現地との連絡調整のため、バーレーン日本大使館とUAE日本大使館に防衛庁職員1名と海自幹部2名が派遣された。機雷処分用機銃しか持たない掃海艇を守るのは、掃海母艦はやせの76mm砲1門のみである。保険会社が死亡保険を勧誘しまくったため、動揺する隊員もいたが、艇長が戦後の掃海や特別掃海隊の経験上、上甲板にいれば吹き飛ばされても死ぬことは無いし、死ぬ確率が高ければ多額の保険金を払わなければならない保険屋は勧誘に来ない筈だから逆に大丈夫と諭している。参加艦艇揃っての事前訓練は一度も行う暇が無かった。政府から出港時に自衛艦旗の掲揚と軍艦マーチの演奏を控えるよう要求されたが、自衛艦旗は訓令で掲揚が定められているので掲揚しない方が問題であり、軍艦マーチはアメリカ第7艦隊音楽隊が代わりに演奏すると言ってきたので政府が要求を取り下げて海自音楽隊が演奏した。4260800、横須賀基地で中曽根元総理、大島内閣官房副長官、依田防衛庁事務次官、フェルナンデス在日米海軍司令官が列席して出発式典を実施。0900前、掃海艇あわしま、さくしま、補給艦ときわが横須賀港を出港した。1400、呉基地で坂本官房長官(ASEAN歴訪出発のため欠席する海部総理の代理)、江口防衛政務次官(池田防衛庁長官代理)、佐久間一海上幕僚長が列席して壮行式を実施。佐世保基地で寺島統合幕僚会議議長、アメリカ海軍佐世保基地司令官が列席して壮行会を実施。1500過ぎ、掃海母艦はやせ(第1掃海隊群司令兼ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官座乗)と掃海艇ゆりしまが呉基地を出港した。佐世保基地から掃海艇ひこしま(第14掃海隊司令座乗)が出港。隊員は計511名(はやせ196名、ときわ135名、掃海艇45名ずつ。平均32.5歳)で、隊員家族、朝鮮特別掃海隊元隊員、反対派デモ隊、陸海空自航空機、護衛艦8隻+掃海艇3隻(佐世保沖)、幹部候補生カッター(江田島沖)、巡視船、反対派チャーター漁船などの見送りを受けた。日本政府が湾岸手当や賞恤金最高限度額引き上げなどを決定。4280800前、巡視船あまみといそなみが警戒する奄美大島笠利湾に、はやせ、ゆりしま、ひこしまが投錨。0800過ぎ、はやせの左舷にゆりしま、右舷にひこしまが位置し、物資の積み替えを行った。2100過ぎ、ときわ、あわしま、さくしまが笠利湾に投錨し、ペルシャ湾掃海派遣部隊が会同した。岩国航空基地からはUS-1が飛来し、激励メッセージと新聞を入れた物量傘を投下している。429日早朝、ときわ艦上に各隊司令、艦長、艇長、司令部幕僚らが集結し、初の研究会を開催。掃海派遣部隊指揮官落合一等海佐は目的が航行船舶の安全確保であること、安全最優先で作業を実施すること、家族との密な連絡を取ることを旨とする訓辞(笠利湾の誓)を行った。ペルシャ湾の環境や掃海に関する情報はまだ入ってきておらず、現場に到着するまでを中心に話し合いをしている。0900、笠利湾を抜錨して単縦陣で航行を開始。海保巡視船の見送りを受けた。1400頃、海上幕僚長を乗せたP-3Cが激励のため上空を通過。空自F-4EJ戦闘機、次いで小牧基地司令の操縦するC-130H輸送機が見送りの航過を行った。430日、石垣島沖で海保巡視船の見送りを受けた。51日午前、掃海艇あわしまのエンジンパイプに亀裂が入った。あわしまでは修理不能だったため、蛇管ピックアップ法を応用してパイプを掃海母艦はやせに送り、修理してもらって事無きを得ている。南下するにつれて気温が急上昇、隊員の食事の嗜好も肉料理から魚・野菜系へと急変したが、掃海隊群司令部後方幕僚や補給艦ときわ幹部は予測済みであり、補給艦内に満載していたあっさり系の食材をフル活用した。54日、防衛庁ペルシャ湾現地調査団9名(外務相1名含む)が日本から現地に出発。掃海部隊はフィリピンのスービック基地に入港。フィリピン海軍軍楽隊の歓迎演奏を受けた。在フィリピン米海軍司令官の計らいにより、基地内の椰子の木には出征兵士の無事帰還を祈るイエロー・リボンが飾られていた。マニラを訪問していた海部総理からは激励の電話と、隊員511名全員にフルーツ・バスケットの差し入れ(計2トントラック2台分)が届けられた。基地の外には出る暇が無かったが、真水の供給により各艇で久しぶりの入浴を行っている。夕方に出港する際、部隊指揮官が隊員の書いた家族への手紙の数を確認したが、三百数十通しか無かったため、担当幕僚に確認すると、他は手紙の代わりにコレクトコールで電話を掛けたという返事だった。現地時間1700過ぎ、スービック基地を出港。湾口でLST-1189サン・ベルナルディノとすれ違い、見送りを受けた。56日夕方、ボルネオ沖で掃海艇あわしまが日本海軍第28号掃海艇洋上慰霊祭を実施。591115、シンガポールに入港。乗員は交代で上陸して英気を養うと共に、水中処分員は集合訓練を行い気を引き締めた。5101200、シンガポールを出港してマレーシアのペナンに向かった。浚渫工事中の五洋建設第2名古屋丸乗員が打ち振る日の丸による見送りを受けつつ、511日夕方にマラッカ海峡を通過。海自艦艇として初のマラッカ通峡で、出発前には反日感情を煽るなどと叩かれる事もあったが、実際に来てみると正反対で行き交う船舶から激励の無線も入り、各員は士気を向上させた。512日朝、ペナンに入港。補給の後、1600にペナンを出港して2400km先のコロンボに向かった。513日夕方、オーストラリア空軍P-3Cの見送りを受けた。5141530頃、インド海軍Tu-95哨戒機の見送りを受けた。2020頃、付近を航行中の日本船から国際VHF周波数で激励のメッセージを受領した。516日午後、補給艦ときわと掃海母艦はやせが掃海艇2隻ずつに蛇管ピックアップ法を応用した縦曳き洋上補給を実施。5170800前、コロンボに入港。積む予定の真水から大腸菌が検出されたため、飲料水は補給艦ときわに積んでいた日本からのものを使うこととなった。1630過ぎ、在スリランカ臨時大使や在留邦人の見送りを受けつつ、コロンボを出港してカラチに向かった。5211530頃から1時間以上、インド海軍Tu-95哨戒機の触接を受けた。5221300、パキスタン海軍連絡士官2名の乗った作業艇とパキスタン海軍軍楽隊の出迎えを受けてカラチに入港。防衛庁ペルシャ湾現地調査団要員からイギリス海軍船体磁気測定装置(UAEドバイのアル・ラシッド港に設置)使用認可などの現地情報を入手し、ペルシャ湾での最初の寄港地をバーレーンからアル・ラシッドに変更することにした。在カラチ総領事主催の夕食会ではパキスタン艦隊司令官以下20名と親善を深めた。積む予定の真水検査で大腸菌が出たため、ここでも真水は搭載できなかった。5231330、カラチを出港。525日深夜、ホルムズ海峡に達し、ペルシャ湾に入った。526日、ホルムズ海峡を通過、アル・ラシッド港外に錨泊した。上空に日本の新聞社がチャーターしたヘリが飛来し、乗っていた記者からエールが送られた。527日、UAEドバイのアル・ラシッド港に入港し、各国掃海部隊と合流、各国幹部との情報交換や交流を行った。防衛庁・海幕現地連絡官3名との打ち合わせも実施している。長期過酷任務における士気の維持に重要な食材をチェックするため、掃海派遣部隊指揮官はスーパーマーケットを巡察、醤油から納豆に至るまで完備されているのを確認して胸をなで下ろした。隊員が休養中に釣った魚も食材に加えられている。不足しがちな飲料水は当初はるばる日本からミネラルウォーターを送ってもらっていたが、UAEがミネラルウォーターの輸出国であるという情報を現地補給品調達担当者から入手し、現地調達に切り替えて輸送費を節約した。ペルシャ湾周辺に達すると洋上にも関わらずハエの大群が来襲、日本のハエと違って肉を囓り取って行く上にハエ叩きが壊れるくらい叩かないと死なず、海幕に大量のハエ叩きとハエ取り紙を要求したが、ハエ取り紙が日本国内では絶滅しかかっていて、確保に難渋したらしい。補給艦ときわにときわ郵便局が開局した。局長・局員はときわ乗員5名である。528日、巡洋艦テキサス艦長がはやせを訪問し、状況説明や情報提供を行った。日本大使館公使が掃海派遣部隊主要幹部を招いて夕食会を実施。529日、欧州国際会議を終えた中山太郎外務大臣が予定を変更してドバイに立ち寄り、空港の貴賓室で掃海派遣部隊幹部を激励した。ドバイにあるイギリスの磁気測定施設を使用し、長期航海中に地磁気の影響で掃海艇の船体が帯びた磁気が磁気機雷に反応しないレベルに収まっているかチェックする船体磁気測定を実施。22m間隔で左右に並べられた長さ1000mの磁気測定装置の真ん中を正確に6回航行する必要があり、他国海軍では何度もやり直して1隻あたり1日以上かかっていたが、正確な航行により一度もやり直さず、4隻を半日で済ませた。仮屋磁気測定所では日常の光景で、海自にしてみれば当たり前だが、他国海軍からは驚嘆の目で見られている。5310850頃、掃海艇4隻と掃海母艦はやせがドバイのアル・ラシッド港を出港し、浮遊機雷、油田放火の煤煙、砂塵をくぐり抜けつつ800km先の第7機雷危険海域MDA-7に向かった。ときわと掃海派遣部隊司令部はアル・ラシッド港に止まっている。イラク軍が敷設した機雷原に対する掃海は海自の他にアメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、サウジアラビア、ドイツ、フランス、ベルギーが40隻の掃海艇で実施しており、ペルシャ湾北部クウェート沖の北緯2830分から2950分、東経4820分から4910分までの海域を危険海域に設定、5個機雷危険海域/10個区域を設け、海域内に敷設した1200個の機雷の処分を各国が分担することになっていた。具体的には、第1・第2区域がフランスとベルギー、第3区域がオランダとドイツ、第4区域がイギリス、第7機雷危険海域(MDA-7)第5区域(ボックス5)が海自(北側)とアメリカ(南側)、第6区域がオランダとドイツ、第7区域がアメリカ、ドイツ、イタリア、第8区域(クウェート沿岸)がフランスとベルギー、第10機雷危険海域(MDA-10)第9・第10区域(ブビアン島沖)が海自(北側)とアメリカ(南側)である。MDA-7はペルシャ湾最奥部、北緯29度付近のクウェート沖で、長さ40km・幅15kmに機雷200個が敷設されており、技術的に機雷除去が困難な地域で、MDA-10は一部イランが領海と主張する海域にあって機雷除去が進んでいなかった。イラク軍の敷設した機雷の他にも、アメリカ艦上機が海上投棄した爆弾が不発弾になって大量に沈んでおり、投錨時に信管に接触して爆発する危険があった。61日、掃海派遣部隊総指揮官と幕僚5名がアブダビの強襲揚陸艦AGF-3ラ・サール上にあるアメリカ中東艦隊司令部を訪問し、アメリカ海軍からMDA-7や周辺海域の情報を入手し、連絡員として中東艦隊司令部に掃海幕僚1名を派遣した。62日、ときわがアル・ラシッド港を出港し、掃海艇部隊を追った。64日、ときわがMDA-7ボックス5に到着。アメリカ海軍掃海部隊司令部に連絡幹部として第20掃海隊司令部幕僚1名を派遣。アメリカからも連絡士官ストウフ大尉を受け入れた。1400、はやせと掃海艇4隻がクウェート東100kmに到着し、現地アメリカ海軍部隊との調整を行った。651200過ぎ、MDA-7で掃海を開始。触雷による損傷を応急修理で塞いだアメリカ海軍強襲揚陸艦トリポリから発艦したMH-53Eが午前中に航空掃海を行った海域で、感応掃海具による確認掃海を実施した。対機雷戦の手順は、まず掃海ヘリが前駆掃海を行い、次いで掃海艦艇が磁気音響複合掃海を実施、機雷掃討に移行して水中処分隊や機雷処分システムで機雷を処分する、というものである。掃海艇は複合掃海具を6ノットで曳航しつつ100ヤード(91.4m)幅で海面を往復して安全海面を広げていく。海自掃海艇には水中カメラが無いので、機雷探知ソナーで探知した目標が機雷かどうかの最終確認は全て水中処分員が目視で行う必要があり、機雷のセンサーの死角を突いて接近し、爆破装置を取り付けるという危険で困難な作業を要した。また、掃海に必要な情報分析を行うコンピュータも無く、各種センサーで得た情報はベテラン隊員が手書きで解析作業を行った。はやせはドイツ担当海域の上空哨戒や、海自掃海部隊向け荷物・書類の輸送を行うドイツのヘリコプターに対する燃料補給も開始している。66日からは0430に総員起こしの号令を掛け、0500に抜錨し、0530から機雷危険区域に入り、1930頃まで掃海・掃討を行い、2000頃にはやせに戻って補給を受け、艦内整備を行い、2130頃に泊地に戻って夕食後、2300頃に就寝という日課で機雷除去作業を実施。ときわからの補給を受ける際は就寝が翌0100を過ぎるが、総員起こしは0430である。実際の機雷を相手にするため緊張度は高かったが、夜間掃海が無いので訓練より楽だったという。当直は2時間ずつ3交代だが、触雷時に船内にいると危険なので、非番直員も全員不燃性の長袖作業服と救命胴衣、ヘルメット、防塵ゴーグルとマスクを着用し、気温40-50度で砂塵と放火された油田からの煤煙が漂う中を休憩中も露天甲板で過ごさなければならない。部隊は4日間稼働して1日間休養を取り、30日ごとに6日間の整備を行うサイクルで活動する。ときわは500海里南にあるドバイのアル・ラシッド港(往復4日かかる)で2日かけて物資と真水1500トンを積み込み、はやせと掃海艇に補給を行い、ゴミを回収する。時に浮流機雷が漂うペルシャ湾内を航行するため、艦首に見張りを3名配置して警戒航行を実施したが、万が一機雷を見逃した場合に最も危険な見張り員には先任海曹や海曹長らが「若い隊員には先があるから少しでも安全な所にいるべき」と率先して配置に付き、部下に自ら模範を示した。イラク軍の機雷原は3列線構成で、正確に一定の列線・敷設間隔を保ち、大半を触発式係維機雷が占めていたが、所々に複合感応式沈底機雷を紛れ込ませてあり、.脅威度の高い敷設を行っていた。ペルシャ湾内には大量のウミガメがおり、ソナー・エコーが機雷と紛らわしく、識別に苦労したという。ある時、深夜に国籍不明の小型艇が多数接近してくる事態が発生、被害は無かったものの、銃撃などに備えて掃海艇の機関砲座と艦橋ウイング周囲に砂嚢を積むことにし、砂漠にいくらでもあるからとドバイの支援連絡調整官に調達を要請したところ、砂といっても国王の所有物なので勝手に袋詰めできないことが判明、四苦八苦して何とか入手に成功した。66日、ときわがドバイに向かった。67日、ときわがドバイ沖に到着。派遣部隊指揮官がドバイ沖のカナダ掃海部隊旗艦ヒューロンで開催された各国海上指揮官会議(MARCAM)に出席した。日米の連携を緊密にするため、必要に応じて対機雷戦調整会議を開催することを決定。水中処分員の命がかかっていることもあり、実際にはほぼ毎日開催され、掃海作業終了後から夜半過ぎまで徹底討論(時に殴り合い寸前)を行っている。617日、MDA-7の7割で掃海作業を終了し、機雷探知ソナーによる捜索を開始。ひこしまが機雷らしき3つの陰影を探知した。1600、掃海部隊指揮官と幕僚が作戦会議を開催し、19日から機雷掃討に移行することになった。海自の訓練では係維索を切断して浮き上がってきた機雷を20mm機関砲で誘爆させる方式で、誘爆に失敗して機雷が海に沈んでも水深が深いため放置で構わなかったが、MDA-7は水深が浅く沈んだ機雷が沈底機雷になってしまう可能性が高く、他国掃海部隊と同様に水中処分員が直接機雷を確認して爆薬を仕掛けることにした。装備するS-4機雷処分具にはテレビカメラが無く、臨時にエポール試作水中テレビカメラを付けていたが、海象の荒いペルシャ湾ではあまり役に立たず、水中処分員による確認潜水を要している。防衛庁長官からは派遣部隊に対して許容危険度ディレクティブA(安全優先)が下命されており、勝手にBやC(機雷処理速度優先)へと変更は出来ず、水中処分員への作業安全性の担保が課題となった。618日、第14掃海隊司令が作業安全性確認のため自ら民間ダイバー資格で試験潜水した。各艇長は水中処分員と掃討作業の話し合いを実施、翌日に初掃討を行うひこしまでは第14掃海隊司令も加わって任務や安全性に関する入念な説明を行った。ときわにドイツ海軍シーキングMk41が着艦。アメリカ海軍以外の外国機が初めて海自艦艇に着艦した。洋上で他国軍艦艇・ヘリに対する給油を認める防衛事務次官通達に基づき、燃料補給を行っている。619日、機雷掃討に移行。0718、掃討作業を開始。0738、ひこしまが機雷探知機で海底に金属物を探知。0810、ひこしまの水中処分員が潜水作業でソ連製UDM機雷を確認。S-4機雷処分具で処分することとし、0931S-4から処分用爆雷を投下した。1001、処分用爆雷が炸裂し、UDM機雷が殉爆して高さ50mの水柱が吹き上がった。1025、水中処分員が潜水して爆破処分の成功を確認。昼、アメリカ掃海部隊指揮官がベイリー大佐からヒューイット大佐に、旗艦がLPH-10トリポリからCGN-39テキサスに交代し、日米掃海部隊幹部がはやせで昼食会を開いた。1538、ひこしまがUDM機雷を処分した。6200954、機雷缶に腐食で孔が空いて沈み、沈底機雷と化していたソ連製LUGM145係維機雷を、さくしまの水中処分員が処分用C-4爆薬を仕掛けて爆破した。1057、ゆりしまがUDM機雷をS-4機雷処分具で爆破。1151、ひこしまが機雷を処分。6211046、ひこしまが機雷を処分。さくしまとゆりしまも1発ずつを処分した。621日、はやせにドイツ海軍シーキングが着艦し、燃料補給を行った。625日、あわしまが海底に沈むLUGM145係維機雷を発見し、水中処分員が爆破した。あわしまはもう1発、ゆりしまが2発を処分している。626日、ゆりしまが2発を処分し、掃討開始以来計16個の機雷を処分した。711700、第1段作業を終了。721200過ぎ、ときわ科員食堂で指揮官、幕僚、幹部による研究会を実施。終了後は休養のためバーレーンのミナ・サルマン港に向かった。掃海部隊指揮官はアメリカ中東艦隊旗艦AGF-3ラ・サールで会議に出席している。741020、ミナ・サルマン港第6岸壁に入港。整備補給や休養に入った。75日、バーレーン日本人会に対する一般公開を実施。77日、250人ほどの現地邦人が自らの資金で隊員を現地リゾート施設バンカーズ・ガーデンに招き、飲食し放題の慰労会を開催した。湾岸戦争開戦で現地から真っ先に逃げ出した日本に対する信用を取り戻したとのことで熱烈な歓迎となったが、隊員の食欲が予想以上で、日本人会では後で臨時会費を徴収したらしい。78日、外務政務次官の激励を受けた。79日、国防三部会議員6人の激励を受けた。712日、統合幕僚会議議長の激励を受けた。そのままときわに統合幕僚会議議長を乗せ、1100-1230にミナ・サルマン港を出港してMDA-7に向かった。714日、掃海作業を再開。統合幕僚会議議長もあわしまに座乗して作業を視察した。715日、ときわが統合幕僚会議議長を乗せアブダビに向かった。7181030、アメリカ管轄区域との境界付近であわしまの水中処分員がLUGM145機雷を爆破処分した。717日、統合幕僚会議議長が任務終了の目処を9月中旬(910日プラス2-3日くらい)と発表した。720日、MDA-7の機雷除去完了を発表。イラン軍代表者の立ち会い及び掃海作業の政治的プロパガンダ非使用などを条件に、イランから領海立ち入り許可が得られた。7210500、掃海部隊は泊地を発ってドバイに向かった。7220800、ときわがドバイに入港。723日、アメリカ海軍連絡士官ストウフ大尉が派遣期限を迎えてはやせを退艦したが、掃海部隊指揮官が延長を申し入れ、726日から再度派遣された。海自連絡幹部もはやせに戻ったが、アメリカ指揮官の要請により再度派遣されている。0800、掃海艇隊がドバイに入港。隊員は艦艇や器材の整備点検に入ると共に、上陸許可も出されて自身のリフレッシュも行った。夜、指揮官・司令・艦艇長がクウェート政府主催の感謝式典に出席。725日、イラクから領海立ち入り許可が得られた。ドバイに入港していたデンマーク海軍ニールス・ユール級フリゲートのオルファート・フィッシャーの艦長から招待され、ときわ・はやせ艦長以下10名が訪問して記念品を交換した。午前、はやせで各指揮官による研究会を実施。午後、掃海艦ガーディアンで日米掃海部隊指揮官・幕僚がMDA-10での作業に関する打ち合わせを実施。726日、ときわ以外の艦艇がドバイを出港し、MDA-10に向かった。オルファート・フィッシャーとノルウェー軍艦アンデンスの兵員19名をときわに招き、曹士・下士官兵による交歓会を実施。727日夜、MDA-10東側に到着。728日、MDA-10南東側に移動し、進入路の啓開を開始。はやせにイラン海軍連絡士官の少佐2名が乗艦。729日、MDA-10での掃海作業を開始。北緯2930分より北側のイランに近い海域を担当(南側はアメリカが担当)した。MDA-10は一部イランが領海と主張する海域にあり、革命防衛隊武装ボートによる襲撃も想定されたため、掃海艇20mm機関砲座周囲に土嚢を積んでおいた。シャトル・アラブ川から流れ込む砂で視界が悪く水深も10mくらいと浅い難所で、機雷発見に相当の苦労を強いられた。また、油送パイプが付近に通っているため現場での爆破処分ができず、少量の爆薬で信管だけ破壊した後に水中アドバルーンを括り付けて機雷を浮上させ、曳航索で沖まで引っ張って爆破するという危険な手段を取らざるを得なかった。730日、掃海部隊指揮官がさくしまに座乗。機雷原敷設列線を見抜いて81日までに14個の機雷を探知した。海中の視界が悪すぎて確認潜水ではナイフを海底に刺して体を固定しつつ手で砂を払って機雷を探るしか無く、時にナイフが砂に埋もれた機雷に当たってしまい水中処分員が冷や汗をかいた。81日、アメリカ海軍掃海部隊旗艦メリルで日米合同作戦会議を開催し、翌日に機雷12個を共同処分することにした。82日、12個(さくしま4個、ひこしま4個、ゆりしま1個、あわしま3個)の機雷処分を実施。83日、ゆりしまがマンタ機雷を発見。運搬保管用のアルミニウム製トレイが底に付いたままだったため、ソナーに引っかかったもので、無能化処分を行った。無能化処分に際しては、アメリカ海軍から海自水中処分員の使用する半閉式スキューバの呼気排出音がマンタ機雷の音響信管を作動させる恐れがあるとの情報を得ていたため、全閉式スキューバを装備するアメリカ海軍EODと共同作業を実施している。ひこしまもマンタ機雷を発見し、無能化処分を行ったが、確認潜水で不十分と判明し、翌日にもう一度無能化することとした。84日、ひこしまが発見したマンタの再無能化処分を実施。810日、日米掃海部隊が共に休日となり、1730からときわ後甲板で日米親善スチールビーチパーティを開催。2200頃の終了予定が110400頃まで交歓を行った。812日、クウェートへの航路帯拡大任務QCS-305も担当することになり、ときわ、ひこしま、ゆりしまがそちらに回された。813日、あわしまがLUGM145機雷1個を処分。814日、あわしまがLUGM145機雷1個を処分。さくしまがLUGM145機雷1個を処分。815日、さくしまがQCS-305の作業に加わった。817日、QCS-3051000ヤード(914.4m)の航路拡大を完了。818日、イラン海軍連絡士官2名がはやせを退艦した。819日までに17個の機雷を処分した。819日、はやせに乗艦していたアメリカ海軍連絡士官ストウフ大尉が湾岸戦争戦役を終えて帰還することになったため、掃海部隊指揮官から感謝状を贈呈した。8201400、掃海部隊が集合し、イラン海軍バンダル・アッバーズ軍港に向け南下。822日、バンダル・アッバーズ軍港を親善訪問し、イラン海軍関係者、防衛駐在官、在イラン日本大使館公使、在留日本人会代表などの出迎えを受けた。夕方、イラン海軍軍艦後甲板で開催された艦上レセプションに参加。823日、イラン空軍輸送機2機で隊員がシラーズ空港に移動し、アレキサンダー大王の遺跡研修などを実施。掃海部隊指揮官は歯肉痛で医官から安静加療を命じられており、艦内に止まる事になったため、公用車運転手のイラン海軍水兵に帰っても良いと伝えたが、自分の仕事だからと酷暑の中で終日待機していた。1900、ときわでイラン関係者に対するレセプションを実施。824日、バンダル・アッバーズ軍港を出港し、バーレーンのミナ・サルマン港に向かった。ときわは物資搭載のためドバイに向かっている。825日、ミナ・サルマン港に入港。826日夕方、バーレーン在留邦人を招いてはやせで艦上レセプションを実施。830日午後、ミナ・サルマン港を出港。831日夜、クウェート沖でときわと掃海部隊が合流。91日、クウェート沖の船舶航行水路ボックスEの航路1000ヤード(914.4m)拡大作業を開始。92日、錨地ボックスC安全確認作業を開始。941700、クウェートのアル・シュワイク港に入港。95日、派遣部隊指揮官は国連停戦監視団司令部を表敬訪問。隊員はクウェート政府の招待で湾岸戦争の史跡を見学し、虐殺と略奪の様子を目の当たりにした。960800、サウジアラビア政府の要請に基づくアラビア石油カフジ鉱業所沖(MDA-65-10km外側)の確認掃海を行うため、アル・シュワイク港を出港し、午後から作業を開始した。この掃海作業に関しては、カフジ油田から日本に航路啓開の依頼があり、実施にサウジアラビア政府の要請が必要ということで政府間交渉に入ったものの遅々として進まず、防衛庁運用課の現地連絡官が在サウジアラビア日本大使と面会した際に要請口上書の案分調整を行って大使に直接サウジ政府とかけあってもらい、要請の発出に繋げている。97日、ときわの乗員1名が疲労による体調不良で民間機により帰国した。98日、上空を飛行するアラビア石油のヘリからカフジ鉱業所の日本人部長がスピーカーで感謝を伝えるメッセージを叫んだ。午後、確認掃海作業を終了。99日、予定していた全掃海作業を終了したが、MDA-10の外側1600m(一部がイラン領海にかかる)の確認作業を行う可能性があるとのことで、ゆりしまを派遣することにした。夕方から日米掃海部隊がときわヘリ甲板で艦上パーティ(スチールビーチ・パーティ)を行い、サウジやクウェートの人員も加わって親交を深めた。9100600、ゆりしまが派遣部隊指揮官、掃海幕僚、通信幕僚、語学幕僚を乗せてMDA-10に向かい、残りはアブダビへと南下した。1500過ぎ、ゆりしまが現場に到着し、待機に入った。2000過ぎ、イランから許可が得られずMDA-10外側での作業は実施されないことになり、防衛庁長官が任務終了を指示。911日朝、ゆりしまがアブダビに向かった。夕方、バーレーンのミナ・サルマン港に停泊中の掃海母艦はやせで、バーレーン駐在各国大使や軍関係者ら100人を招き、派遣部隊指揮官主催の謝恩レセプションを実施。ただし指揮官はゆりしまに座乗していたので、首席幕僚が代行した。912日朝、はやせがバーレーンを出港し、アブダビに向かった。913日朝、はやせがアブダビに入港。1200、ゆりしまがアブダビに入港し、派遣艦艇がアブダビに集結した。夕方、大使公邸で在UAE日本大使主催の歓迎パーティに参加。914日夕方、ときわで在UAE日本大使や日本人会120人が参加してリターンパーティを実施。915日夕方、アブダビ市内マリナガーデンで日本人会主催のパーティに参加。916日朝、アブダビを出港。1600頃、ドバイに入港。918日、はやせの乗員1名が疲労による体調不良で民間機により帰国した。922日、各級指揮官と主要幕僚がドバイ在住日本人会主催のパーティに出席。9231500、ドバイのアル・ラシッド港を出港して帰路に就いた。帰国の方法について、海幕では乗員を航空機で先に帰国させ、掃海艇を運搬船に乗せて輸送する案を考えていたが、乗員達は自ら掃海艇で帰国することを選んだ。寄港地は乗員の要望を汲んでオマーンのマスカット港(925日入港・27日出港)、スリランカのコロンボ港(104日入港・6日出港)、シンガポール港(1013日入港・15日出港)とし、フィリピンだけは派遣部隊指揮官の希望により往路で基地隊司令から無事の帰還を祈ると激励を受けたスービック基地(1021日入港、台風23号を避けるため同日に出港)としている。1018日夕方にはパラワン水道沖で太平洋戦争戦没者の洋上慰霊祭を実施した。1023日、日本の領海に入り、アメリカ海軍P-3C哨戒機による歓迎飛行を受けた。1024日、海空自機の出迎えを受けた。10271349、広島湾小黒神島沖に仮泊。総理大臣の都合上、呉帰港まで3日ほど待つことになり、1029日には入管手続きや統幕議長・海幕長・自衛艦隊司令官・防衛部長・在日米海軍司令官との懇談会が行われた。10300930、感謝のメッセージを掲げるフェリー・ボートや家族、反対派ボートと阻止する呉海上保安本部巡視船艇、呉音楽隊の軍艦マーチに迎えられて呉基地に帰投。1045、海部総理や防衛庁長官らが出席し、はやせで帰国歓迎式典を実施。1031日、統幕議長、海幕長、自衛艦隊司令官らが出席し、ペルシャ湾掃海派遣部隊解散式を実施、ペルシャ湾掃海派遣部隊が解散された。午後、ひこしまは佐世保、ときわ、あわしま、さくしまは横須賀に向かった。参加隊員数は艦艇乗組員511名、連絡幹部3名。総航程17425.5海里、延べ潜水員数364名。掃海面積3129平方キロメートル、処分機雷数34個(うちS-4処分具5個、水中処分員28個、S-4処分具で殉爆せず水中処分員が爆破1個)。事故ゼロ、規律違反ゼロ。ただし任務に慣れすぎて機雷の触覚を掴み記念撮影する水中処分員が居たので指揮官から注意されている。故障報告は315件あったが、その都度自力で整備修復し、任務稼働率は100%を達成した。医官は延べ3784件(3672件?)を診察しており、掃海作業開始後はストレスによる消化器症状を訴える隊員が一気に増加したため、治療とカウンセリングを実施。また、他国海軍乗員に対する治療や、寄港地での在留邦人健康診断なども行っている。手術は鼠径ヘルニア1件だった。海部首相から掃海派遣部隊に自衛隊初の特別賞状が授与されている。部隊指揮官・外国軍艦・船舶などから届いたメッセージ数は104通、補給艦ときわが扱った郵便数は16899通(14747通?)。日本からは千羽鶴が計20000羽以上、一般人からの激励の手紙3000通以上が送付された。アメリカ中央軍海軍部隊司令官からはイラクが敷設したLUGM-145機雷、アメリカ海軍対機雷戦部隊指揮官からは同じくUDM機雷が部隊に寄贈されている。この作戦中に掃海で処理できた機雷はゼロで、海自が日本周辺海域で行っていた掃海が現代の対機雷戦では全く役に立たないと判明し、掃討能力も深刻な不足が認識された。また最新艇を持って行ったのに、精密操艦装置・GPS・自動化掃海システム・水中カメラ付き機雷処分具が無い、ZQS-2機雷探知ソナー+S-4処分具で34個中5個しか処分できず1個は殉爆に失敗する、水中処分員用個人装具の雑音・磁気低減策が不十分など、装備も時代遅れとなっていたことが分かり、以降は掃海艇から機雷掃討艇への切り替えや、ヨーロッパ製掃討器材の導入を行った。自衛用兵装が貧弱で、ミサイル艇はおろか海賊の武装ボートに対しても不十分であり、十分な護衛の必要性も認識された。19922月末、クウェート政府とクウェート国民が読売新聞に感謝の全ページ広告を掲載し、226日には海自関係者・派遣部隊員にクウェート政府から記念メダルや記念品が贈呈された。2001428日、横須賀でペルシャ湾掃海10周年の会を開催。隊員、家族、当時の総理、防衛庁長官、統合幕僚会議議長、海上幕僚長、防衛事務次官、自衛艦隊司令官など100名以上が参加した。20111020日、横須賀基地船越地区で派遣20周年記念式典を実施。隊員やOB380名が参加した。1129日、呉市内のホテルで呉総監が主催してペルシャ湾掃海派遣20周年懇親会を実施。派遣部隊指揮官、当時の第14掃海隊司令、当時の掃海艇あわしま艇長や派遣隊員の他、呉市長、第1術科学校長、隊友会呉支部、呉水交会会員など114人が参加した。参考:ペルシャ湾の軍艦旗、月刊軍事研究10,1311,1312,131,142,143,144,1410,16、月刊丸1,10別冊、月刊世界の艦船10,'158,11増刊、12,'22、朝雲

<ワン・ゲオン>:978(駆逐艦)を参照。

<ワンジエン>:萬剣(巡航ミサイル)を参照。

ワンショットUUV>:機雷掃討用の使い捨てUUVのこと。内部の爆薬により、自身もろとも機雷を吹き飛ばす。丸ごと使い捨てになるので、遠隔操作式UUVで処分爆雷を仕掛けてUUVを回収する方式より費用は高くなるが、UUVを回収するまで爆破を待つ必要が無く時間短縮に繋がる。また、処分爆雷を仕掛けるのに失敗して遠隔操作式UUVが吹っ飛ばされ、補充のためすごすご港や掃海母艦に帰らざるを得なくなることも無い。参考:月刊世界の艦船1,19、月刊軍事研究3,09

ワンショット・ライター>:一式陸上攻撃機の連合軍側ニックネーム。

ワンストン砲台>:イギリスがドーバー海峡防御のために設置した重砲台。ドーバーのセント・マーガレットにあり、ウィーニー、プー、ブルース砲が設置された。参考:歴史群像12,03

ワンダ>:アメリカの保存ヨット。1922年竣工。第2次大戦勃発でアメリカ海軍が徴用し、特設駆潜艇として配備した。2018101-8日、サンフランシスコ艦隊週間に参加。参考:月刊世界の艦船1,19

<ワンタック>:APD-125(高速輸送艦)またはDE-692(護衛駆逐艦)を参照。

<ワンダベル>:RC-135S(偵察機)を参照。

<ワンダラー>:D74(護衛艦)を参照。

<ワンダリング・エイニー>:Mk24(機雷)を参照。

ワン・チェン>:台湾空軍が開発中のスタンドオフ・ミサイル。ターボジェットまたはターボファンエンジンを搭載しており、胴体上部に折り畳み翼があり、下部にエアインテイクが付いている。内部には子爆弾を収容しており、敵橋頭堡または空挺部隊集結地への攻撃を行う。射程200km前後。参考:月刊軍事研究10,05

ワンデラール>:ベルギー海軍ウイリンゲン級フリゲート3番艦。参考:JShips Vol.24

<ワンピー>:彗星一二型(艦爆)を参照。

ングワニ・ディフェンス・グループ>:ミルコー・マーケティング、ツルベロ・マニファクチャー、イベマなど6社が合同で設立した企業で、各社共通のマーケティングや製品共同開発などを行う。社長は元南アフリカ国防軍参謀総長。参考:月刊軍事研究1,07

ンコント>:南アフリカのケントロン社が開発した垂直発射式艦対空ミサイルで、SAHV-IRN空対空ミサイルをベースに開発された。赤外線誘導式、射程12km。ウムコントゥと同じ?参考:月刊軍事研究8,99

ンバニ>:南アフリカのデネル社が開発中の滑空誘導爆弾UMBANIMk82またはMk83に装着する誘導爆弾キットで、投下後に主翼を広げ、C/AコードGPS/INSで飛翔、最終誘導は赤外線+自動誘導装置またはセミアクティブレーザーである。最大射程120kmCEP3m。参考:月刊軍事研究1,05

 

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