目次に戻る   トップページに戻る

 

<ミ08船団>:ミ船団を参照。

<ミアウリス>:D-211(駆逐艦)を参照。

<ミアウリス級>:アレン・M・サムナー級駆逐艦(ギリシャ海軍)を参照。

<ミーアキャット>:スコーピオン・シリーズ(偵察戦車)を参照。

<ミーコン>:マスキング・ビーコン(妨害装置)を参照。

ミーティア・エンジン>:イギリスの戦車用液冷12気筒ガソリンエンジンMeteor。航空機用マーリン・エンジンのスーパーチャージャーを外し、回転数を落としたものである。ロールスロイス社が開発し、巡航戦車Mk.[/A27Mクロムウェル、センチュリオンに搭載された。参考:British and American tanks of World War Two、ウォーマシンレポート11、月刊PANZER7,05

 <ミーティアWA>:出力600馬力(毎分2550回転)。参考:ウォーマシンレポート11British and American tanks of World War Two

 <ミーティアWB>:60度V型12気筒液冷4サイクルガソリンエンジンで、オーバーヘッドバルブ方式。圧縮比7:1、総排気量27リットル、出力650馬力。参考:ウォーマシンレポート11

 <ミーティアWC>:出力675馬力。参考:ウォーマシンレポート11

ミーティア戦闘機シリーズ>:イギリス空軍ジェット戦闘機Meteor。グロスター社が開発し、当初はサンダーボルトという名称が付く予定だったが、P-47と被るため、この名称に変更された。第2次大戦に参加した唯一の連合軍ジェット機である。インターセプターとして高速性を第一に考え、主翼にエンジンを埋め込んだような配置としている。初飛行は194335日で、ドイツに遅れをとったが、部隊配備は19447月、部隊編成は同月12日で、世界初の実戦配備ジェット機となった。初出撃は727日のV-1迎撃(Me262初目撃より2日遅い)だったが、機関砲故障で撃墜できず、最初の戦果は194484日のV-1で、この時も機関砲が故障したため、翼端で引っかけて落とした(僚機は機関砲で撃墜している)。ヨーロッパ本土に送られたのはF.Mk.3が配備されてからで、1945120日にベルギーに展開したが、鹵獲されるのを恐れてドイツ支配域での飛行は禁止された。3月にはオランダにも配備されたが、結局終戦までジェット機同士の空戦は起きずじまいだった。朝鮮戦争には第77飛行隊のミーティアF.Mk[/T.MkZが参加、当初は爆撃機の護衛に使用されたが迎撃機なので任務に向かず、MiG-15の迎撃阻止に戦術を切り替え、1952年からは地上攻撃を行うようになり、戦争中に計4836ソーティをこなし、MiG-15戦闘機6機を撃墜、車両1500両を破壊したが、被撃墜・未帰還も32機に達した。3500機以上が生産され、フランス、オランダ、イスラエル、スウェーデン、ベルギー、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、マレーシア、カナダ、デンマーク、エジプト、ニュージーランドなどに輸出もされ、標的曳航機などとして21世紀まで(イギリス空軍では1980年代まで)延々使用されている。参考:月刊JWings6,013,036,093,'23、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊丸9,03、航空情報8,12

 <ミーティアF.MkT>:最初の生産型。機体は機首・前脚、コクピット周辺部胴体、中央胴体・主翼内翼・エンジンナセル、外翼、胴体尾部・尾翼の5つのモジュールで構成される。主翼は直線翼で、主翼半ばにエンジンを装備しており、前方主桁が圧縮機前方を横切っていて、エアインテイクから入った空気は主桁の上下を通って燃焼室に入る。後方主桁は排気ダクトが通る部分が円状になっていて、強度も高かった。排気ノズルは主翼後縁ラインよりも少し下に出ている。ジェット排気で焼けないよう、水平尾翼は垂直尾翼の半ばから出ていて、その部分でラダーが上下に分割されている。キャノピーは横開き。降着装置は三車輪式で、前輪にはブレーキが無い。エンジンが出力不足で、最大速度は656kmしか出なかったが、急降下の加速性能は段違いだった。最初の1機はXP-59と交換されてアメリカに渡った。全長12.57m、全幅13.11m、全高3.96m、全備重量5.350トン(6.257トン?)。エンジンはロールスロイスW2B遠心式ターボジェット(推力0.726トン)双発、最大速度656km、 実用上昇限度12190m、航続距離2150km。固定武装は20mm機関砲イスパノMk.Uが4門(機首左右に上下1門ずつ)。3インチ(76.2mm)ロケット弾16発を搭載できる。乗員1名。19447月初めから20機がイギリス空軍に納入され、うち6機はアメリカに送られ、残る14機が航空研究所中央実験飛行隊でテストや訓練に使用され、その後第616飛行隊に配備されて訓練、戦術確立、Fi-103飛行爆弾迎撃に使用された。Me262に対するアメリカ護衛戦闘機戦術を開発するためアグレッサーとしても使われており、その結果レシプロ戦闘機ではジェット機が爆撃機に対して行う高速降下攻撃を防ぐことが不可能で、着陸時を狙うか、出撃できないように飛行場自体を破壊するしかないということが判明した。参考:月刊JWings3,037,206,09、月刊航空情報8,12、ジェット戦闘機、第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊丸9,03

 <ミーティアF.MkU>:エンジンをデハビランド社製ゴブリンに換装したタイプ。1機のみ生産された。参考:ジェット戦闘機

 <ミーティアF.MkV>:2番目の量産型。胴体下面に増槽を装着可能とし、キャノピーを後方スライド式に変更、主翼上下にエアブレーキを搭載している。後にエンジンをダーヴェントT(W2B/37。推力0.907トン)に換装し、最大速度が765kmとなった。210機が生産され、194412月から引き渡された。開発に際しては風洞実験をやり直しており、エンジンナセルが短くて高速時に乱流を発生させることが判明、最終15機はエンジンナセルを延長している。1945416日から出撃したが、Me262とのジェット機同士の空戦は行われていない。参考:月刊JWings8,02、月刊航空情報8,12、ジェット戦闘機、連合軍の傑作兵器駄作兵器

 <ミーティアF.MkW>:全幅を0.86m短縮、エンジンナセルを長くして推力1587kgのダーヴェントXエンジンを搭載し、機体強度を10Gに耐えられるよう強化、燃料搭載量を増やし、コクピットを与圧化した実用型で、1945717日に初飛行した。後期型は翼端を切断したタイプとなっている。戦後、オランダやエジプト、アルゼンチンなどに輸出された。エジプトのものはスエズ動乱で地上攻撃に使用されている。参考:月刊JWings3,03、月刊丸9,03

 <ミーティアF.MkY>:後退翼型。計画のみ。参考:月刊航空情報8,12

 <ミーティアF.Mk[>:機体長を延伸して燃料搭載量を増し、エンジンをダーウェントMk.[に換装、尾翼形状を直線の多いものに変更して水平・垂直尾翼接合部にフィレットを追加し、コクピットを与圧化してバブルキャノピーを装備したもの。主翼上面にスピードブレーキを持つ。射出座席はマーチンベイカー社製。全長13.58m、全幅11.32m、全高3.96m、自重4.846トン、最大離陸重量7.122トン、総重量8.66トン。エンジンはロールスロイス社製ダーウェントMk.[ターボジェット(推力1.587トン)双発、最大速度953km、最大上昇限度13410m、航続距離1580km(増槽無しで1111km)。武装は20mmイスパノスイザ機関砲(195発)4門で、機首左右に2門ずつ装備する。500kg爆弾2発やロケット弾の搭載が可能。乗員1名。スエズ動乱ではイスラエル空軍が地上攻撃用に使用した。参考:月刊JWings3,03、月刊航空情報8,12、週刊エアクラフトNo.41、月刊航空ファン3,17

 <ミーティアF.Mk9>:全長13.22m、全幅11.29m。エンジンはロールスロイス社製ダーウェント8双発で、最大速度957km、航続距離1110km。武装は20mm機関砲4門。参考:月刊JWings6,01

 <ミーティアNF.Mk11>:夜間戦闘機型。機首を前に伸ばしてレーダーを搭載、機関砲を主翼付け根に移し、複座としてキャノピーを枠の多いものに交換している。参考:月刊JWings3,03

 <ミーティアNF.Mk12>:夜間戦闘機型。参考:月刊航空情報8,12

 <ミーティアNF.Mk13>:夜間戦闘機型。参考:月刊JWings3,03

 <ミーティアNF.Mk14>:夜間戦闘機型。参考:月刊航空情報8,12

<ミーティア戦闘機ファミリー>

 <ミーティアFR.MkX>:戦闘偵察機型で、1機のみ試作された。参考:月刊航空情報8,12

 <ミーティアFR.Mk9>:戦闘偵察機型。参考:月刊JWings3,03

 <ミーティアT.MkZ>:ミーティアF.MkWの複座練習機型。参考:月刊航空情報8,12、月刊丸9,03

 <ミーティア(ターボプロップ型)>:ミーティアF.MkTにトレント・ターボプロップエンジン(出力750軸馬力+推力450kg)を搭載した試験機。19459月に初飛行して世界初のターボプロップ機になった。参考:月刊航空情報8,12

 <ミーティア・プローンパイロット>:Meteor Prone Pilot。腹這いの方がGに耐えられるので、ミーティアF.Mk[の機首を延長して腹這い用コクピットを追加(通常のコクピットも残されていて、腹這いパイロットの様子を見守る)してみた実験機で、アームストロング・ホイットワースが改造を担当した。射出座席の装備が不可能なので、コクピットの下から落ちるタイプの緊急脱出装置が備えられている。参考:月刊航空情報8,12、月刊JWings3,03

<ミーティア戦闘機・海外シリーズ>

 <ミーティアF.Mk8(オーストラリア空軍)>:オーストラリア空軍戦闘機。1951年初めに岩国基地の第77飛行隊がP-51Dから機種転換し、朝鮮戦争に派遣された。最初はB-29の護衛に付いたものの、1951729日に8機がMiG-15戦闘機30機と遭遇、2機が撃墜されてしまった。その後もMiG-15相手に計32機を喪失したため、高空哨戒任務や地上攻撃任務(ドロップタンク2本に152mmロケット弾4発または500ポンド爆弾2発を装備)に切り替えられた。参考:世界の傑作機No.39、月刊JWings3,03、週刊エアクラフトNo.41

ミーティア空対空ミサイル・シリーズ>:マトラBAEダイナミックス社(後にMBDA社)を中心にイギリス、フランス、ギリシャ、イタリア、スペイン、スウェーデンが共同開発した長距離アクティブ・レーダー・ホーミング式空対空ミサイルMeteor。スカイフラッシュ空対空ミサイルの後継となるEF2000ユーロファイター戦闘機用BVRAAMとしてイギリス国防省が1996年にSR(A)1239として要求を出し、レイセオン社提案のFMRAAMFuture Medium Range Air-to-Air Missile。デュアル・パルス・ロケット型AIM-120)に勝って20005月に採用された。参考:月刊JWings11,'24、軍用機ウェポン・ハンドブック、月刊軍事研究6,14

ミーティア>:ヴァリアブル・フロー・ダクテッドロケット・ラムジェット(流量可変式ダクテッドロケット・ラムジェット)により巡航速度を調節することで長射程を実現している。弾体下部左右にエアインテイク及びダクトがハの字型で取り付けられていて、滑空飛行時にはトンネル効果で揚力を発生することにより、この部分の空気抵抗を相殺する。後部には4枚の全遊動式デルタ翼安定フィンを持つ。終末誘導段階では保有する高い運動エネルギーを機動性能に転換して相手を追尾するため、ノーエスケープゾーン(回避不可範囲)がAIM-120の3倍に達し、80km先から回避機動に入った目標も逃がさないとされる。中間誘導は発射母機からのデータリンクと慣性誘導、終末誘導はARHで、ミサイル先端のレドームにはKuバンドのAD4Aシーカー(MICA EMと同じ)が収められており、ルックダウン・シュートダウン能力を持つ。弾頭は指向性爆風破片榴弾。全長3.65m、直径0.178m、翼スパン0.56m、発射重量185kg。推進はダクテッドロケット・ラムジェット(固体燃料ロケット+ボロン粉末主材固体燃料ラムジェット)、巡航速度マッハ2.5-4、最大速度マッハ4以上、有効射程60-80km以上、最大射程100km以上(50-60海里。150km?)。信管は近接+衝撃で、サーブ社製。エジェクターラック専用で、レールランチャーは使えない。F-35のウェポンベイに収容できるフィン縮小型も開発することになった。JAS-39からの発射試験は2006年、タイフーンでの搭載試験は2007年、タイフーンでの発射試験は2012年、ラファールでの発射試験は2014年から実施中。2011年から配備し、JAS39グリペンが2013年、タイフーンが2015年から運用する予定だったが、2016711日に漸くIOCを獲得した。肝心のシーカーの性能がイマイチで、三菱電機のAAM-4用シーカー技術と組み合わせる計画があるらしく、日本とイギリスが防衛装備移転三原則に基づいて技術移転交渉を行っている。参考:軍用機ウェポン・ハンドブック、月刊軍事研究6,1410,142,096,0110,111,12、月刊JWings11,'243,2012,109,1310,14、月刊航空ファン1,18

 <JNAAM>:Joint New Air-to-Air Missileの略。F-35のウェポンベイに収容できるタイプで、フィンを小型化し、エアインテイク形状を変更する。これのシーカーも日本との共同開発版になるようで、2017年度までで共同研究を終了、2018年度からミサイルの試作を開始すると小野寺防衛大臣が20171124日の定例記者会見で発表し、1214日の防衛相・イギリス国防大臣会談でも合意した。参考:月刊軍事研究8,16、月刊JWings2,183,18

<ミーティア海外シリーズ>

 <Rb101>:スウェーデン空軍空対空ミサイル。JAS39MS20で運用可能になった。参考:月刊航空ファン6,18

<ミード>:DD-602(駆逐艦)を参照。

ミート・グラインダー>:太平洋戦争時の硫黄島戦において、南地区主陣地第二線陣地群にアメリカ軍が付けた渾名。第2飛行場南東の二段岩陣地(382高地)、海軍司令部跡台地西側陣地(円形劇場)、玉名山頂一帯(ターキー・ノブ)、海軍司令部跡台地東側陣地(ミナミ・ビレッジ)からなる。それぞれが地下トンネル連絡網(有線電話、地下通路、待避壕)で結ばれ、382高地とターキー・ノブにある厚さ1.2mの強化コンクリートで固められた観測陣地からの正確な目標観測情報に基づき、玉名山北東の地下洞窟野砲陣地に据えられた15cm中迫撃砲、81mm迫撃砲、15cm榴弾砲、75mm野砲、32cm臼砲などから的確な火力支援を受けることができた。更に25mm連装対空機銃、7cm高射砲、47mm速射砲、トーチカ化した戦車も配備されて直射火力として使用された。地形も複雑で、戦車や支援火器が入れず、火炎放射器の支援下にトーチカを1つ1つ爆薬で封鎖していくことが必要で、多大な損害を出す結果となった。アメリカ第4海兵師団がここを制圧するのに2週間かかり、4075名が死傷した。参考:月刊軍事研究8,02

<ミートボール>:FLOLS(着艦誘導装置)を参照。

ミーナ・ジェライス>:ブラジル海軍ミーナ・ジェライス級戦艦Minas Gerais1910年竣工。1931-37年、大改装を受けた。1952年に除籍された。参考:近代戦艦史、月刊世界の艦船4,17

<ミーナ・ジェライス>:A-11(空母)を参照。

ミーナ・ジェライス級>:ブラジル海軍ド級戦艦Minas Gerais級。アルゼンチンに対抗するため、ド級戦艦が出現した直後にイギリスに発注したもので、ドレッドノートの前後部の砲塔を背負い式にしたような外見となっている。中央両舷の主砲は前後にずれているが、反対舷への射撃はできない。第2・第5砲塔には上面に測距儀を搭載する。船型は平甲板型で、艦首に衝角を持つ。全長165.5m、幅25.3m、吃水7.6m、常備排水量19281トン。主機はレシプロ蒸気機関2基、石炭専焼缶18基、出力23500馬力、2軸推進、速力21ノット。兵装は45口径30.5cm連装砲6基、12cm単装砲22門、4.7cm単装砲4門。装甲厚は水線部229mm、甲板52mm。乗員900名。ミーナ・ジェライスとサン・パウロの2隻が1910年に竣工した。1931-37年にミーナ・ジェライスのみが改装を受け、缶を重油専焼缶6基に変更し、煙突を1本に統一、出力30000馬力・速力23ノットとなった。また、射撃指揮装置や対空火器を増設している。乗員は1087-1113名となった。参考:近代戦艦史、月刊世界の艦船4,17

ミーナ・ジェライス級>:ブラジル海軍空母Minas Gerais級。イギリス海軍コロッサス級軽空母ヴェンジャンスを購入したものである。全長212m、満載排水量19890トン。ミーナ・ジェライスが1957年に就役した。1989年の標準搭載機はS-2E対潜哨戒機7-8機、ASH-3H対潜ヘリ8機。参考:月刊世界の艦船8,11、ミリタリー・バランス1989-1990

ミーロルグ>:ノルウェーの対ドイツ地下軍事組織。イギリスに亡命した国王・政府の指示を受けてサボタージュ・破壊活動を行った他、イギリス軍コマンドーと協力しての重要施設破壊活動にも従事した。19432月、ヴェモルクの重水工場施設を攻撃し、ドイツの原爆開発を遅らせる結果となった。参考:月刊軍事研究8,02

<みうら>:LST-4151(輸送艦)を参照。

三浦型>:日本海軍800トン型救難船。全長49.0m、最大幅9.5m、吃水3.4m、排水量883トン。機関出力2200馬力、速力11ノット。兵装は25ミリ機銃2丁、爆雷6個。昭和19年に三浦と弓張、昭和20年に花島が建造された。全て太平洋戦争を生き延びている。参考:小艦艇入門

みうら型>:海上自衛隊輸送艦。実際には戦車揚陸艦である。あつみ型を拡大して戦術輸送にも使用できる兵装を積んだもので、主機はそのままだが艦首形状を鋭くして速力を14ノットに維持しており、アメリカ海軍LSTよりも居住性が良い。LCM(機動揚陸艇)2隻を搭載するため、艦橋構造前方の上甲板スペースが喰われ、更に容量80トン(30トン?)のガントリークレーン(アームを両舷に展開してLCMを吊り降ろす)を装備した。このために物資搭載能力が図体に比べて低くなった他、クレーンの吊り上げ能力と高さの関係で、荷物を積んだLCMの収容はできず、空のLCMを海面に降ろしてからLCM収容部の真下にあるハッチを開いて物資を取り出して積まないといけない。また、船体動揺も激しくなったため、就役後にビルジキールを付けた。上部構造物は船体後方にあり、前部に艦橋、中央に煙突、後部にLCVPの搭載スペース(両舷ボート・ダビットに1隻ずつ)がある。業務輸送のみならず作戦輸送も考慮しており、艦橋にはスプリンター防御が施されていて、艦橋上部指揮所にはOPS-14対空レーダーとOPS-18対水上レーダーを搭載。対空レーダーは海上自衛隊の輸送艦艇として初めて装備しており、防空能力が向上した。艦尾部にはプロペラガードと錨があり、後部揚錨機はサイリスター・レオナード方式を採用、ビーチングからの離脱能力を向上させた。全長98m、幅14m、深さ7.6m、吃水3m、基準排水量2000トン、満載排水量3200トン。主機は川崎MAN社製V8V22/30ATLディーゼル2基2軸4400馬力、速力14ノット。兵装は艦首の68式3インチ50口径連装速射砲1基+72式射撃指揮装置1型B(2・3番艦は予算の関係でMk.63)、艦尾の40mm連装機関砲1基+Mk.51射撃方位盤1基。搭載量は着岸・離脱可能状態では物資500トン。上甲板にトラック類、車両甲板に74式戦車10両を搭載できる。乗員115名。隊員200名を収容可能。石川島播磨重工東京工場で建造されてLST-4151みうら、LST-4152おじか、LST-4153さつまの3隻が1975-77年に就役し、2000-02年に除籍された。参考:月刊PANZER7,04、月刊世界の艦船11,'17増刊、12,149,961,79増刊、5,02増刊、1,02、自衛隊装備年鑑1996、海上自衛隊全艦艇史

三重海軍航空隊>:日本海軍航空隊で、三重県一志郡にある。飛行予科練習生教育を行った。参考:陸海軍学校と教育

三重地三姉妹>:三重地方協力本部のマスコットキャラ。長女が三重地美海(みう)一等海尉、次女が美陸(みり)三等陸曹、三女が美空(みく)二等空士である。参考:朝雲

<ミオソティス>:K65(コルベット)を参照。

<ミオン>:K269(フリゲート)を参照。

ミオン>:イギリス海軍マンレイ級通船Meon。参考:月刊世界の艦船5,83

<ミカ>:MICAシリーズ(ミサイル)を参照。

御影丸>:武庫汽船貨物船Mikage maru。元はオーストララシアン・ユナイテッド・スチーム・ナビゲーション社のパルーで、明治3011月に竣工し、数社を渡り歩いた後、大正11年に奥田榮吉氏が購入して御影丸に改称し、大正15年に武庫汽船に移籍した。垂線間長96.16m、幅12.22m、深さ6.74m、満載吃水6.21m、総トン数2761トン、重量トン数3750トン。主機は三連成レシプロ蒸気機関1基1軸1470馬力、航海速力10ノット、最大速力12ノット。太平洋戦争中は船舶運営会の運航で日本軍部隊を輸送した。昭和191024日、モマ06船団の一員として門司からマニラに向かう途中、済州島西端南西45kmSS-246クローカーの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船1,23

三笠>:日本海軍前弩級戦艦Mikasa。明治30年度計画で第4号甲鉄艦として建造された。艦首水線下に衝角を持つ。船体中央に煙突が2本タンデムに並び、その前後にマストが1本ずつ立っている。装甲板は当時最新のクルップ甲鈑である。缶室は前部マストから第2煙突にかけての船底部に前後3区画に分けて配置され、その後ろに機械室が続く。全長131.67m、水線幅23.23m、平均吃水8.28m、常備排水量15140トン(うち機関重量1355トン)。主機は直立型3気筒3段膨張式レシプロ蒸気機関(シリンダー口径は高圧787mm、中圧1270mm、低圧2038mm、行程1219mm)2基、主缶はベルヴィール式大管式石炭専焼水管缶26基、出力15000馬力、2軸推進、速力18ノット。発電容量144kW(+増設発電機16kW)、供給電圧80V。兵装はアームストロング社製40口径30.5cm連装砲2基(艦前後。常用射距離6000m、最大射程12000m)、アームストロング社製40口径15.2cm単装速射砲(イギリス海軍QF 6in.Mk1と同じもの)14門、40口径7.6cm単装速射砲、47mm単装速射砲、45cm魚雷水中発射管4門(5門?)。水線部装甲厚229mm(クルップ・セメンテッド鋼鈑)。乗員859名。明治32124日起工。明治33118日、ヴィッカーズ社バロー・イン・ファーネス工場で進水。明治35110日、艤装工事を終え工場を出港。112日、公試準備のためポーツマスに入港。31日竣工、日本海軍に引き渡された。313日、プリマスを出港。518日、横須賀に到着し、舞鶴鎮守府第1予備艦となった。横須賀造船廠で整備修理を行い、識別のため煙突に白帯3条を描き込んでいる。623日、横須賀を出港し、母港の舞鶴に向かった。721日、常備艦隊に編入された。明治361228日、連合艦隊編成に伴い、旗艦となった。明治3767日から81日、旅順港外に機雷を12回敷設した。810日、黄海海戦に参加。1336、後部マスト付け根に30.5cm砲を被弾、大穴が開いたが、マストは倒れずに旗艦任務を続けることができた。明治38527-28日、日本海海戦に参加。30.5-15.2cm砲弾29発を被弾し、死傷者31名を出した。露天艦橋で指揮を執る東郷長官は無傷だった。715日、敷島に連合艦隊旗艦を譲った。829日、敷島の後を継いで連合艦隊旗艦となった。9110030、佐世保に停泊中に乗員数名が発光信号用工業アルコールを洗面器に入れて弾薬通路に運び、水と混ぜてピカと呼ばれるアルコール飲料を造ろうとした(日露戦争中からちょくちょく作っていたらしい)。まずメチルアルコールを抜こうとして点火し、薄めるために水を加えたところ、洗面器からアルコールが甲板上にこぼれ、発火してしまった。慌てて上衣で叩き消そうとしたが、洗面器をひっくり返してしまったため、通路全体が火に包まれ、後部15.2cm砲火薬庫に引火して大火災となり、更に後部30.5cm砲火薬庫に達して大爆発を起こした。これにより後部左舷水線下に大穴が開き、浸水して着底、死者339名(251名?)を出す大惨事になり、同日敷島に連合艦隊旗艦を譲った。明治3988日、第4回浮揚作業で浮揚されて修理に入った。明治41420日、第1艦隊に編入されて第1艦隊旗艦となった。424日、爆発事故の修理を完了。108日、グレート・ホワイト・フリートの寄港前に行う大演習に備えて連合艦隊が編成され、連合艦隊旗艦となった。1017日、横浜沖でグレート・ホワイト・フリートを出迎えた。1025日、グレート・ホワイト・フリートの出港を見送った後で連合艦隊対抗演習に参加。1118日、大演習観艦式に参加。1120日、連合艦隊旗艦任務を退いた。大正710月、ウラジオストク及び北樺太方面の警備を開始。大正101月、日本陸軍が北樺太への補給支援のため用船したロシア砕氷船バイカルがアレクサンドロフスク沖から漂流して行方不明になったため、捜索救援に出動し、80海里ほど南に流されているのを発見した。91日、一等海防艦に艦種変更された。9160637、テルネ湾からウラジオストクに向かう途中にウンコブスカゴ列島アスコルド水道で座礁した。左舷前部ビルジキール付近に亀裂が入って浸水したため、離礁後にウラジオストク海軍工廠に向かい、101-22日に修理を行った。113日、ウラジオストク及び北樺太方面の警備任務を終えて舞鶴に帰港。1112日、ワシントン条約で廃艦が決定した。その後横須賀に回航され、除籍待ちの係留状態になった。大正1291日、関東大震災が発生。ウラジオストクでの座礁事故後に応急修理だけ行っていた前部艦底に孔が開いて浸水し、沈没を防ぐため横須賀湾外に曳航されて擱座状態にされた。920日、除籍された。海軍では当初一部だけを記念に残す予定だったが、民間では完全保存で盛り上がり、大正13224日に三笠紀念保存会創立準備委員会が発足。ワシントン条約の特例として条約署名各国から保存が認められ、大正141月に閣議でも保存が決定された。6月、保存のための工事を開始。横須賀海軍工廠の排水ポンプを総動員して浮揚作業を行い、1022日に擱座状態にされた場所から陸岸寄りの岩礁上に固定された。大正151110日、保存工事が完了。1112日、摂政宮殿下(後の昭和天皇)御臨席で三笠保存記念式を実施。横須賀の白浜海岸で記念艦三笠としての展示が始まった。ワシントン軍縮条約の規定に従い、兵装は副砲1門を残してダミーに換装され、実物の主砲塔は2基とも昭和9年から付近の広場で展示されている。太平洋戦争終戦後の1945年(昭和20年)830日(20日?)、横須賀に上陸したアメリカ軍に接収され、アメリカ海軍の管理下に置かれた。早速ニミッツ元帥が視察したところ、艦内が略奪に遭っていたため、直ちに歩哨を配置するよう命じている。1947年になると横須賀市が市立美術博物館として転用する申請を出したが、アメリカ海軍が却下。しぶとく申請し続けたところ、1948年に入って許可が下りる見込みが立ったため、砲・上部構造物・マスト・煙突などを撤去するという条件で使用申請を出した湘南振興株式会社に使用の仮承認を出し、4月に船体のみの残骸状態で遊園地三笠園となった。1951年春、船体中央部上構01甲板にダンスホールが新設された。19546月、大蔵省が三笠を国有財産(帝国海軍雑種財産)と再確認した。1955924日付ニッポン・タイムズ(大正12-13年に保存機運を盛り上げた新聞・雑誌社の1つであるジャパン・タイムズ&メールの後身)にFlagship Mikasa Then and Nowという読者投稿が掲載され、927日の横須賀開港祭で元横須賀工廠長・三笠艤装員山梨勝之進海軍大将がアメリカ極東海軍司令官ウィリアム・キャラハン中将に投稿を見せたのがきっかけで、復元保存の機運が出てきた。19584月、三笠保存会設立準備会が発足。114日、三笠保存会が設立されて復元のための募金活動が始まり、日本各地に残存していた三笠の装備品をかき集めて記念艦三笠展を開催、19595月には日本相撲協会が三笠復元基金募集興行を行い、1億6000万円を集めることに成功。政府予算9800万円とアメリカ海軍LST売却代金2400万円も加えて1959107日に復元工事に着手した。浦賀船渠が船体防水工事、上構・煙突・マスト・30.5cm連装砲塔復元、日本製鋼所が15.2cm単装砲・7.6cm単装砲製作、石川島播磨重工が内装を担当している。猿島沖で甘糟産業汽船が解体していたチリ海軍戦艦アルミランテ・ラトーレから手摺りや舷窓などの寄贈があり、操舵室と司令塔の速力通信機(エンジン・テレグラフ)がスペイン語表記になっているのもこのためである。1961520日、復元工事を完工。防衛省・海上自衛隊が国有財産として所有し、管理運営を三笠保存会に委託する方式となった。527日、復元記念式典が行われ、イギリス海軍記念艦ヴィクトリー、アメリカ海軍記念艦コンスティテューションと並ぶ世界3大記念艦に名を連ねた。19926月、現存する世界唯一の前弩級戦艦としてイギリスの世界船舶基金財団から海事遺産賞を受賞した。2009527日、日本海海戦104周年記念式典(1962年初開催、第48回)を実施。1918年にスイスのユリス・ナルダン社が製造して天賞堂が納入した船舶時計のユリス・ナルダン社による修復が終わり、天賞堂から財団法人三笠保存会に手渡されて中央展示室に保管された。洋上慰霊祭もDE-234とねの艦上で行われている。201131日、イギリスの画家アンソニー・ソーンダーズ氏の「対馬海戦」(連合艦隊を先導する三笠が描かれている)が、BAEシステムズ社北東アジア支配人及び在日イギリス大使館一等書記官らにより、東郷神社に奉納された。527日、復元50周年記念式典を実施。2015年、アメリカから返還された特務艦朝日の軍艦旗を収蔵した。2017428日、日本遺産の構成文化財として追加指定された。921日、艦上で日本遺産認定証授与式が行われた。2018527日、日本海海戦記念式典が行われ、小野寺防衛大臣らが祝辞を述べた。2020527日、日本海海戦115周年で満艦飾を実施。新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、記念式典は行われなかった。2021720日、ベン・ウォレス英国防大臣が艦を訪問した。参考:月刊世界の艦船7,'215,'2512,107,119,174,188,1110,112,139,13増刊、1,177,1712,178,188,'2010,'21MAMOR vol.91、朝雲

三方ヶ原飛行場>:日本陸軍の飛行場。大正8年、フランスから招聘した航空術練習爆撃班が駐屯した。大正11年、陸軍航空部定期郵便連絡飛行の中間着陸地に指定された。昭和13年、第7航空教育隊が創設された。参考:月刊航空ファン12,16

味方識別機>:IFFの自衛隊用語。

<味方識別機>:自衛隊の機器。タレスジャパン製。参考:月刊軍事研究6,17

<味方識別機(87式自走高射機関砲用)>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究4,17

<味方識別機(93式近距離地対空誘導弾用)>:自衛隊の機器。日本電気製。参考:月刊軍事研究12,18

<味方識別装置>:自衛隊の機器。タレスジャパン製。参考:月刊軍事研究9,18

<味方識別装置用器材>:自衛隊の機器。03式中距離地対空誘導弾用がある。東洋無線システムまたはネットコムセック製。参考:月刊軍事研究6,12

三日月(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦17番艦。明治29716日竣工。大正元年828日に三等駆逐艦に類別変更された。昭和341日に除籍され、昭和376日に廃駆逐艦第2号となり、昭和5721日に海没した。参考:日本駆逐艦史

三日月(2代目)>:日本海軍睦月型駆逐艦10番艦Mikazuki。昭和257日竣工、第32号駆逐艦という名称で一等駆逐艦に類別された。昭和381日、三日月に改称。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は第3航空戦隊に所属していた。昭和1765日、ミッドウェイ海戦に参加。昭和1875日、クラ湾夜戦に参加。712-13日、コロンバンガラ島沖海戦に参加。728日、グロセスター岬付近でアメリカ陸軍機の爆撃を受けて沈没し、1015日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、連合艦隊巡洋艦、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧

三日月翼>:Crescent wing。翼端に向かうほど後退角が少なくなる翼型のことで、イギリスのハンドレイ・ページ社が開発してビクター爆撃機に採用した。後退角が大きくなるほど翼端失速が起こりやすくなり、翼にかかる捩れ力も大きくなって構造も頑丈にしなければならず重量がかさむという欠点があり、これらを解決するための工夫である。後退角が浅くなると臨界マッハ数が減少するが、その分は翼端の翼厚比を小さくすることで相殺している。主要部材を三日月状に折り曲げて作らねばならず製作が面倒で、大して重量減にもならなかったらしく、ビクター爆撃機以外には使われなかった。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings4,07

ミカド>:ドイツのEMT社が開発した無尾翼マイクロUAVMikado(帝)。全長400mm、翼スパン600mm。動力は電動モーター。小型CCDカメラを搭載している。滞空時間60分、航続距離5km。参考:月刊軍事研究1,04

三川軍一>:みかわぐんいち。明治21年(1888年)829日、広島県生まれ。明治43年、海軍兵学校38期卒。海軍大学校(航海)卒業後、大正7年から3年間フランスに駐在し、帰国すると海軍大学校(甲)に入校し、大正13年に卒業、軍事参議官副官となった。昭和3年にフランスに派遣され、昭和4年には国際連盟海軍代表随員となり、昭和5年には大佐に昇任してフランス大使館付武官を2年間務めた。帰国後は早鞆艦長、青葉艦長、鳥海艦長、霧島艦長を経て昭和11121日から昭和121115日まで第2艦隊参謀長に任じられた。太平洋戦争開戦時は第1艦隊第3戦隊司令官で、南雲第1航空艦隊司令長官に真珠湾再攻撃を具申している。昭和17714日、第8艦隊司令長官となった。昭和1841日、航海学校長に就任。93日、第2南遣艦隊司令長官となった。昭和19618日、第2南遣艦隊司令長官を退き、南西方面艦隊兼第13航空艦隊司令長官となった。815日、第3南遣艦隊司令長官を兼任。111日待命、昭和205月に予備役に入った。1981225日、92歳で死去した。参考:日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船2,19

三河史料館>:陸上自衛隊豊川駐屯地にある史料館。館内にはニイタカヤマノボレの電文といった日本軍の資料や、警察予備隊、自衛隊の資料が展示してあり、屋外には74式戦車、UH-1ヘリ、榴弾砲などがある。駐屯地開放時または事前予約で見学可能。所在地は愛知県豊川市穂ノ原1-1。開館時間は0900-1600。休館日は土日祝日。参考:MAMOR Vol.42

みかんの助>:和歌山地方協力本部のマスコットキャラ、陸自版。2023429-30日、和歌山県田辺市のオオクワパビリオンシティ田辺店で和歌山地本が行った警察との共同市街地広報に協力した。参考:朝雲

右舷側装置>:海上自衛隊用語で、潜水艦の戦闘関連装置のこと。戦闘指揮装置、ソナー操作装置、目標情報解析装置、魚雷発射コンソールなどが潜水艦の右舷側に集中しているため、こう呼ばれる。ちなみに左舷側には機関系操作装置、潜航・浮上関連装置、機材管制関連コンソールなどがある。参考:月刊世界の艦船2,23

ミグエル・デ・セルヴァンテス>:スペイン海軍アルフォンソ級軽巡洋艦Miguel de Cervantes(ドン・キホーテの著者)。1931年竣工。1940年代前半に近代化改装を受け、1・5番主砲を連装化し、3番主砲を撤去してカタパルトを設置した。また、魚雷発射管2基を外し、8.8cm連装高角砲4基と20mm4連装機関砲5基を搭載している。後部マストは三脚マストからポールマストに変更した。1964年に除籍されて解体された。参考:月刊世界の艦船10,13、近代巡洋艦史

ミグエル・マルヴァー級>:フィリピン海軍哨戒艇Miguel Malver級。兵装は76mm砲1門。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

ミクスチャー・コントロール・レバー>:Mixture control lever。単にミクスチャー・レバー(Mixture lever)ともいう。レシプロエンジンの混合比を調整するためのレバーのこと。低回転低出力時や離陸などで高速回転する時には混合比を高め、巡航状態の中出力では混合比を下げて燃焼効率や燃費を上げる必要があるため、これを調節する目的で装備される。飛行状態に応じて自動的に混合比を調節する機構も設けられているが、離陸時には自動調節範囲を超えて混合比を高める必要があるし、巡航中には自動調節範囲を超えて混合比を下げても飛行に支障が無い場合もあるので、こういった際の微調整にも使われる。通常はリッチ、リーン、カットオフの3段階が設けられている。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊JWings5,11

<ミクスチャー・レバー>:ミクスチャー・コントロール・レバーを参照。

ミグ設計局>:MiG設計局を参照。

三国飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

<ミグノネッテ>:K38(コルベット)を参照。

<みくま>:DE-217(護衛艦)を参照。

三隈>:日本海軍最上型軽巡洋艦2番艦Mikuma。昭和61224日起工、昭和10829日竣工。昭和141230日、主砲を20.3cm砲に換装。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制も兵力部署も第7戦隊に所属していた。昭和1731日、バタビア沖海戦に参加。45日、セイロン島攻撃に参加。昭和1765日、ミッドウェイ海戦に参加、帰路に最上と衝突。67日、艦上機の爆撃により左舷後部機械室から火災を発生、航行不能となり、沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、連合艦隊巡洋艦、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

<みくら>:MSC-612(掃海艇)を参照。

御蔵>:日本海軍御蔵型海防艦Mikura。昭和181031日竣工、第2海上護衛隊に編入された。125日から横須賀−サイパンの船団護衛に就いた。1218日、小笠原群島の北方150海里で雷撃を受けて損傷した。昭和19718日、第1海上護衛隊に移った。817日からヒ71船団の護衛に参加。923日、馬公付近で爆撃を受けて中破した。昭和20326日、東シナ海に於いて、第33号海防艦、第59号海防艦と共同でSS-237トリガーを撃沈した。328日、宮崎県青島沖でSS-410レッドフィンの雷撃(航空機の爆撃?)を受けて沈没した。参考:月刊丸7,14、第2次大戦日本海軍作戦年誌、小艦艇入門、輸送船入門、アメリカ潜水艦史

御蔵型>:日本海軍海防艦Mikura型。当初は乙型海防艦と呼ばれていたが、太平洋戦争後期には甲型海防艦に変更されている。択捉型の対潜強化型で、爆雷投射器を増やすと共に、九三式水中聴音機と九三式水中探信儀を装備した。単艦式掃海具(パラベーン)も艦尾両舷に1基ずつ積んでおり、爆雷投下軌条の邪魔にならないよう、外舷側に張り出しを設けて支柱を立て、その上に載せてある。主砲は高角砲にし、前部マスト中段フラットに二二号電探を搭載した。南方作戦用のため、暖房用の缶は積んでいない。工数57000。水線長77.5m、垂線間長72.5m、最大幅9.1m、型深さ5.3m、吃水3.05m、メタセンタ高さ0.81m、基準排水量940トン、公試排水量1020トン。主機はディーゼル、出力4200馬力、速力19.5ノット、燃料搭載量120トン。兵装は四五口径十年式一二サンチ単装高角砲E型改一1門(前甲板)、十年式45口径12サンチ連装高角砲A型改三1基(後甲板)、三式八サンチ対潜迫撃砲1門(艦橋前部)、25mm連装機銃2基(艦橋両舷)、九四式爆雷投射機2基(後甲板タンデム)、爆雷投下軌条2条(後甲板艦尾両舷)、九五式爆雷120個。6メートルカッター2隻、6メートル内火艇1隻を搭載した。昭和18-19年に御蔵、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、草垣の8隻が竣工した。パラベーンは昭和20年に撤去された。参考:小艦艇入門、月刊世界の艦船5,1211,'24、月刊丸7,14、月刊モデルアート9,15増刊

ミクロネシア>:ミクロネシアのパシフィック級哨戒艇。2013105日、オーストラリア海軍国際観艦式に参加。参考:月刊軍事研究2,15

<ミゲル・キース>:ESB-5(遠征機動基地艦)またはT-ESB-5(遠征機動基地艦)を参照。

ミゲル・マルヴァール>:フィリピン海軍ミゲル・マルヴァール級フリゲート1番艦Miguel Malvar20231122日、現代重工蔚山造船所で起工。2024618日進水。参考:月刊世界の艦船9,24

<ミゲル・マルヴァール級>:フィリピン海軍フリゲートMiguel Malvar級。202112月に現代重工業に発注した。全長118.4m、幅14.9m、満載排水量3200トン。主機はCODAD方式、巡航速力15ノット、最大速力25ノット、航続距離4500海里。兵装はMICA艦対空ミサイル用16セルVLS1基、76mm単装砲1門、324mm短魚雷3連装発射管2基、遠隔操作式35mm機関砲ギョクデニズ1基、艦対艦ミサイル発射筒8基。1番艦ミゲル・マルヴァールなどを建造中。参考:月刊世界の艦船9,24

<ミゲル・マルバー>:PS19(コルベット)を参照。

ミゲル・マルバー級>:フィリピン海軍パトロール・コルベットMiguel Malvar級。第2次大戦中に就役したアメリカ海軍アドミラブル級哨戒艇を1970年代に購入したものである。満載排水量905トン。兵装は40mm連装機関砲など。PS19PS20PS22PS23PS28PS31PS32の7隻が就役した。参考:JShips Vol.20

見越し射撃>:リード射撃ともいう。移動目標に対して射撃する時に、測距と測的を継続して相手の移動先(未来位置)を予想・計算し、そこに砲弾が正確に到達するよう弾道計算を行い、照準をつけることである。未来位置の計算法には目標の運動を直角座標に分解してそれぞれの座標軸方向の速度を求めて未来位置を算出する線速度方式と、目標を追尾する照準器の運動角速度から目標の未来位置を算出する角速度方式があり、前者の方が計算は複雑だが正確なため、コンピュータの発達と共に前者が採用されるようになった。線速度方式には座標軸の基準が3種類あり、艦載FCSでは艦首基準または北基準のいずれかになるが、後者の方が自艦運動を気にする必要が無く精度も良い。砲弾を発射してから命中するまでに相手が変針・変速すると当たらないので、多数の砲弾を周辺にばらまいて多少逃げても当たるようにする、レーザー砲などで命中までの時間を短くする、誘導砲弾やミサイルを使って発射後も相手を追いかけられるようにする、といった手段を講じる。参考:丸スペシャルNo.75、コンバット・バイブル2、GUN用語事典、月刊世界の艦船4,17

<見越し衝突攻撃>:リード・コリジョン攻撃を参照。

<見越し旋回>:リード・ターンを参照。

<ミサイリア>:F6D-1(戦闘機)を参照。

ミサイル>:Missile。誘導装置と推進装置を持つ弾薬で、厳密にはGuided missileだが、単にミサイルで済ませるようになった。ちなみにロシア語ではラケータ、ドイツ語ではラケーテで、ミサイルもロケットも同じ語を使う。自衛隊では誘導弾だが、一般ではカタカナ語のミサイルを使うことが多い。飛翔コースで巡航ミサイル、弾道ミサイル、目標で対空ミサイル、対地ミサイル、対戦車ミサイル、対艦ミサイル、対潜ミサイル、使用目的で戦術ミサイル、戦略ミサイル、弾頭の種類で核ミサイルなどに分類され、それぞれ発射母体、射程、誘導方式などで更に細分される。推進装置を持つので砲弾より射程が長く、誘導装置が用意されているので特攻兵器のように人命を犠牲にしなくても高い命中率を誇るが、装置の分だけ値段が高い。対空ミサイルの場合、一般的な命中率は1発あたり80%で、同一目標に2発を発射すれば96%、3発なら99.2%、4発なら99.8%になるが、費用対効果を考えて1目標に対して2発、高脅威度目標なら3発を指向することが多い。第2次大戦中に必要な技術が揃い始めて開発され、ドイツ国防軍がFi-103対地巡航ミサイルとA-4弾道ミサイルを実用化した。参考:月刊世界の艦船11,17、月刊JWings4,02、月刊軍事研究6,93別冊

ミサイル運搬車>:U-FU2FNAP。航空自衛隊のペトリオットシステム用予備ミサイル運搬トラックで、ランチャー4基を搭載できる。全長9.41m、全幅2.49m、全高3.04m、車重11.25トン、最大積載量9.25トン。エンジンはF17Eディーゼル(V型8気筒17238cc340馬力)で、トランスミッションは常時咬合式前進5段・後進1段、最大速度95km、燃料タンク容量300リットル。乗員3名。参考:自衛隊装備年鑑1996

ミサイル艦

 <ミサイル艦(アメリカ海軍)>:エリア・ディフェンス用長射程艦対空ミサイルを装備した艦のこと。基本的に艦隊は空母艦上機の制空権下で行動するので、主な防衛対象は航空機というより対艦ミサイルである。経空脅威が限定されるので、艦対空ミサイルを装備するのは限られた艦となり、ミサイル艦として特別に艦種を設けることとなった。コルベット以下の小型艦では、対艦ミサイルを装備していればミサイル艦(ミサイル・コルベット、ミサイル艇、ミサイル哨戒艇など)と呼ばれる。参考:月刊世界の艦船5,86

 <ミサイル艦(オランダ海軍)>:1975-76年、トロンプ級ミサイル・フリゲート2隻が就役。その後ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク級ミサイル・フリゲートが就役した。参考:月刊世界の艦船5,86

 <ミサイル艦(ソ連/ロシア海軍)>:長射程艦対艦ミサイル(P35P500P700)を搭載する艦のこと。アメリカ空母艦上機の制空権下で行動しなければならないので、全艦が重厚な対空兵装を備えているのが基本であり、エリア・ディフェンス艦をミサイル艦としてわざわざ区別する必要は無く、西側のミサイル艦に相当する艦種は単に駆逐艦だったり、大型対潜艦だったりする。参考:月刊世界の艦船5,86

ミサイル艦(フランス海軍)>:1960年代に艦隊護衛艦を改造したデュプティ・トアール級ミサイル駆逐艦が就役。次いでクレマンソー級空母護衛のためシュフラン級ミサイル・フリゲートを建造した。その後、暫く間を置いてカサール級ミサイル・コルベットが就役した。参考:月刊世界の艦船5,86

ミサイル関連技術輸出規制>:MTCRMissile Technology Control Regime)と略す。核弾頭を搭載可能なミサイルの輸出を制限するために制定されたもので、射程300km以上、弾頭重量500kg以上のミサイルの輸出を禁じている。1993年には生物・化学弾頭を搭載可能なミサイルの輸出禁止も追加された。参加国は29ヵ国だが、非公式・自発的な集まりであり、中国や北朝鮮などミサイル輸出国の多くが参加していない。参考:月刊軍事研究7,99、月刊世界の艦船2,18

<ミサイル・キャッチャー>:AN/FLR-9(電波傍受施設)を参照。

ミサイル駆逐艦>:Missile Destroyers。駆逐艦クラスのミサイル艦のこと。参考:月刊世界の艦船5,86

ミサイル駆逐艦(アメリカ海軍)>:艦種記号はDDG。エリア・ディフェンス・ミサイルを搭載し、艦隊防空を主任務とする駆逐艦のこと。127mm両用砲では高性能化する航空機に対抗できなくなり、1951年から駆逐艦へのエリア・ディフェンス・ミサイル搭載計画がスタートし、1957年にギアリング級駆逐艦DD-712ジャイアットがテリア搭載改装を受けてアメリカ海軍初のミサイル駆逐艦となったが、システムのサイズが艦に合わず、クーンツ級を新造した。その後は3000トン級なら搭載できるターターを開発し、1960-64年にチャールズ・F・アダムス級23隻が竣工、フォレスト・シャーマン級の4隻とミッチャー級の2隻が搭載改装を受けている。これらはミサイル・フリゲートの分類だったが、1975630日にNATO基準に合わせて駆逐艦級の排水量を持つタイプがミサイル駆逐艦に艦種変更された。1981-82年、キッド級4隻が就役。巡洋艦クラスのイージス駆逐艦アーレイ・バーク級に至った。その後継となる筈だったズムウォルト級は3隻の建造に止まり、2016年から就役中。参考:月刊世界の艦船6,165,86

ミサイル駆逐艦(イギリス海軍)>:1962-70年、シースラグ搭載のカウンティ級が竣工。その後空母艦隊護衛用としてブリストル級1隻が1973年に竣工。1975-85年、42型ミサイル駆逐艦14隻が就役。2009-13年、45型ミサイル駆逐艦6隻が就役。参考:月刊世界の艦船12,'215,86

ミサイル駆逐艦(イタリア海軍)>:1963-64年、ターター装備のインパヴィド級が就役。1972年、ターター装備のオーダチェ級が就役。1993年、スタンダードSM-1MR装備のデ・ラ・ペンヌ級が就役。参考:月刊世界の艦船5,86

<ミサイル駆逐艦(海上自衛隊)>:ミサイル護衛艦を参照。

ミサイル駆逐艦(フランス海軍)>:1961-65年、シュルクーフ級艦隊護衛艦にターターを積んだデュプティ・トアール級4隻が就役。参考:月刊世界の艦船5,86

<ミサイル警戒装置用整備器材>:自衛隊の機器。住友商事が受注している。参考:月刊軍事研究3,15

ミサイル警報装置>:Missile Warning SetMWSと略す。Missile Approach Warning SystemMAWS)とも呼ばれる。自機に向かってくるミサイルを識別して警報を出したり、防御手段を自動的に作動させたりする装置で、ロケット噴射炎から放出される波長3-5ミクロンの赤外線、大気との摩擦熱から放出される8-12ミクロンの赤外線、ロケット噴射炎から放出される紫外線、レーザー誘導式ミサイルの誘導用レーザーを検知する。特に波長3-5ミクロンの赤外線は環境ノイズが多く、識別アルゴリズムが貧弱だとやたら誤作動する(特に地上に近くなる離着陸時)のが欠点で、日本の道路の水銀灯に反応して警報を鳴らすこともあるという。参考:月刊軍事研究5,175,09、月刊JWings11,03

<ミサイル警報装置用整備用器材>:自衛隊の機器。住友商事が受注している。参考:月刊軍事研究10,10

<ミサイル講習>:ミサイル戦技集合訓練を参照。

ミサイル護衛艦>:海上自衛隊の艦種で、ミサイル駆逐艦にあたる。艦種記号はDDG。予算上の艦種は甲W型警備艦と呼ばれる。エリア・ディフェンス用ミサイルを装備し、護衛隊群の艦隊防空と弾道ミサイル防衛を主任務とする。また、通常の護衛艦と同じく、対潜戦、対水上戦、対地支援能力も有する。初のミサイル護衛艦は1次防のあまつかぜ型で、ターター・システムを中核とするアナログ式エリア・ディフェンス・システムを装備した。次に3次防でWESを中核とするデジタル式エリア・ディフェンス・システムを装備したたちかぜ型3隻が1976-83年に就役。3番艦はハープーンも発射可能となり、CDSを装備した完全システム艦である。1986-88年にはたかぜ型2隻が就役、ヘリも運用できるようになった。しかしバックファイア1個飛行隊のミサイル飽和攻撃には対抗できず、イージスシステムによる強力な艦隊防空を行うことになり、1993-98年にこんごう型イージス護衛艦4隻が就役した。19935月の北朝鮮によるノドン1号発射、19988月のテポドン1号発射を受け、こんごう型にBMD能力を付加し、更に2007-08年就役のあたご型イージス艦2隻にも付加した。2020-21年、まや型イージス護衛艦2隻が就役し、ミサイル護衛艦8隻が全てイージス護衛艦になった。参考:艦船メカニズム図鑑、月刊世界の艦船8,141,141,025,863,108,11増刊、12,115,21

<ミサイル射撃評価装置>:自衛隊の機器。明星電気製。参考:月刊軍事研究9,14

<ミサイル射撃評価装置用受信装置>:自衛隊の機器。明星電気製。参考:月刊軍事研究9,14

ミサイル巡洋艦

ミサイル巡洋艦(アメリカ海軍)>:艦種記号はCG(通常動力)/CGN(原子力)。エリア・ディフェンス・ミサイルを搭載し、艦隊防空を主任務とする巡洋艦のこと。1955-56年、バルチモア級重巡にテリアを搭載したボストン級ミサイル重巡(艦種記号CAG)が就役した。1959-60年にはクリーブランド級軽巡3隻にテリア、3隻にターターを積んでいる(艦種記号CLG)。新造艦はミサイル・フリゲートの分類だったが、1975630日にNATO基準に合わせて巡洋艦級の排水量を持つタイプ(レイヒ級、ベルナップ級、オルバニー級、カリフォルニア級など)がミサイル巡洋艦に艦種変更され、艦種記号CAG/CLGCGに統一された。その後ロングビーチ級原子力ミサイル巡洋艦(1961年就役)やヴァージニア級原子力ミサイル巡洋艦が建造され、イージス巡洋艦タイコンデロガ級(1983-9427隻竣工)に進んだが、後継のCGXは開発中止になっている。参考:月刊世界の艦船5,866,16

ミサイル巡洋艦(ソ連/ロシア海軍)>:ミサイルはロシア語ではロケットなので、正確にはロケット巡洋艦である。長射程艦対艦ミサイルを搭載する巡洋艦のこと。いくら長射程といっても空母艦上機の戦闘行動半径には敵わないので、長射程艦対空ミサイルも同時に装備し、経空脅威を排除しつつ射点につく。キンダ級、クレスタT級(1967-69年4隻竣工)、クレスタU級(1969-7710隻竣工)、キーロフ級、スラヴァ級(1982-89年3隻竣工)を建造した。参考:月刊世界の艦船5,8612,18

ミサイル戦技集合訓練>:航空自衛隊の戦闘機による空対空ミサイル射撃訓練、別名ミサイル講習またはAAMミーティング。1年に1回行われ、開催基地に戦闘機が集結、空中標的(J/AQM-2など)に対してテレメトリー弾や実弾を発射する。空中標的を運用できる機体は限られており、訓練参加機も参加パイロットの数だけ持ってくると多すぎるため、各部隊から1-2機くらいずつ持ってきてパイロットが回し乗りする。2021年は小松基地で行われ、機体は空中標的搭載機が第23飛行隊F-15DJ戦闘機2機、訓練参加機が第201・第203・第304・第305飛行隊F-15J戦闘機1機ずつと第306飛行隊F-15J戦闘機2機で、713-14日に小松基地に到着し、715-27日に慣熟飛行を実施、728日から8月に訓練を行った。参考:月刊JWings12,2010,21

<ミサイル潜水艦>:潜水艦を参照。

ミサイル艇>:魚雷艇の魚雷の代わりに対艦ミサイルを積んだもの。世界初のミサイル艇はソ連のコマール型で、P6魚雷艇にP15対艦ミサイルを積んでいた。西側では1967年のエイラート撃沈事件を受けて本格的な建造に着手、1990年には世界各国で1000隻以上が現役(うち7割が東側諸国)であった。対艦ミサイルのみを搭載する50トンクラスの小型艇から、沿岸防衛用に76mm砲や対潜兵器、果てはヘリまで搭載できる1000トン弱の準コルベット級のものまで多種多様である。一撃離脱戦法が主眼であるため、高速性能を発揮できるよう、強力な主機を搭載する。冷戦終結で非対称戦への対応が求められるようになると、単能のミサイル艇では任務をこなせなくなり、哨戒艇やコルベットに押されて建造が止まっている。参考:月刊丸12,92、月刊軍事研究6,16

 <ミサイル艇(海上自衛隊)>:海上自衛隊の艦種で、艦種記号はPG。魚雷艇の後継として53中業でミサイル艇の検討が始まり、荒れる日本海でも行動できる小型艇体の開発に水槽試験などでの十分な検証が必要であることが指摘された。また、56中業で大蔵省に説明を行った際、ミサイル艇の建造費自体は護衛艦などより安いが、支援陸上施設の建造運用に多額の費用が要るとの指摘がなされた。中業では日本近海航路での民間高速艇運用所見や、ペガサス級ミサイル艇など海外の小型高速ミサイル艇の情報を収集して検討を行い、全体構想の報告書を完成させたが、この時は建造には至らなかった。199068日、区分・自衛艦−大分類・警備艦−中分類・哨戒艦艇の下の種別として艦種が設けられた。艦種記号はPG、艦番号は821以降である。1993-95年、ミサイル艇1号型3隻が就役。2002-04年、北朝鮮工作船への対応も考慮したはやぶさ型ミサイル艇6隻が就役。参考:月刊世界の艦船11,'17増刊、海上自衛隊全艦艇史、月刊軍事研究9,18

<ミサイル艇1号>:PG-821を参照。

ミサイル艇1号型>:海上自衛隊のミサイル艇で、イタリアのフィンカンティエーリ社の技術(イタリア海軍スパルヴィエロ級ミサイル艇のもの)を導入して住友重機械浦賀工場で1991年度から建造された。魚雷艇11号型の後継であり、ミサイル艇の建造計画自体は1972年の4次防からあったのだが、小型単能(対着上陸のみ)の割りに値段が高い、冬の日本海での行動が制約されるなどの意見で延び延びになり、要求性能も纏まらず予算の当ても無く、魚雷艇の穴埋めという理由が付いて漸く制式化されることになった。船型は全没水ハイドロフォイル型、船体はアルミ合金製で、航空機部品を多数流用して重量を軽減している。全長21.8m(水中翼航走時)、全幅7m、深さ3.5m、吃水3.7m(水中翼航走時)/1.4m(艇体航走時)、基準排水量50トン、満載排水量60トン。主機は水中翼航走用石川島播磨重工製LM500ガスタービン1基(5000馬力。4000馬力?)または艇体航走用いすゞマリン社製6BD1TC型6気筒直列4サイクルディーゼル1基(180馬力)、推進は荏原300CDWウォータージェット1基(水中翼航走)またはプロペラ1軸(艇体航走)、水中翼航走時最大速力46ノット、艇体航走時速力8ノット。兵装は砲塔化した遠隔操作式JM61-RFS(多分赤外線追尾装置搭載)1基(前甲板)、90式艦対艦誘導弾連装発射筒2基(艦尾両舷)。OPS-19航海用レーダー、OPS-9捜索用レーダー、ESMNOLR-6とみられる)、リンク11、チャフ6連装発射機2基(艦橋前方両舷)も搭載する。乗員11名。100km先の敵艦を攻撃できるが、陸上施設(大型トラック2台からなる移動支援施設)、P-3C、護衛艦の協力が要る。18隻を建造して3個地方隊に1隊6隻ずつを配備する予定だったが、汎用性欠如、航続力不足、凌波性不足(波の高い冬の日本海では使えないらしい)、陸上支援車両との協同が必要で単独運用不能などの理由から、住友重機械工業浦賀工場でPG-821ミサイル艇1号、PG-822ミサイル艇2号、PG-823ミサイル艇3号の3隻(02PG04PG)が建造されるに止まり、1993-95年に竣工した。全て大湊地方隊の所属で、北海道の余市に配備されている。1隻あたりの価格は82.5億円(1990年度予算)。2008-10年に除籍された。参考:自衛隊装備年鑑1996、海上自衛隊全艦艇史、月刊丸12,921,10別冊、月刊軍事研究1,003,027,11、月刊JWings1,99、月刊世界の艦船11,'17増刊、1,951,043,10

<ミサイル艇2号>:PG-822を参照。

<ミサイル艇3号>:PG-823を参照。

<ミサイル艇4号型>:はやぶさ級を参照。

ミサイル艇隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊のミサイル艇部隊。佐世保・舞鶴・大湊地方隊に3隻編成2個ずつ計18隻配備する予定だったが、1個ずつに減らし、ミサイル艇1号型が退役した後は2隻編成1個ずつになった。参考:月刊世界の艦船1,21

<ミサイル搭載護衛艦>:ミサイル護衛艦を参照。

<ミサイル ドーリU型>:自衛隊の機器。大川工業製。参考:月刊軍事研究6,17

ミサイル・フリゲート(アメリカ海軍)>:アメリカ海軍の艦種。1960年前後にエリア・ディフェンス・ミサイルを装備した大型艦隊防空艦の艦種として制定され(艦種記号はDLG)、クーンツ級(1959-6110隻竣工)、レイヒ級(1962-64年9隻竣工)、ベインブリッジ級(1962年1隻竣工)、ベルナップ級(1964-67年9隻竣工)、トラクスタン級(1967年1隻竣工)、カリフォルニア級(1974-75年2隻竣工)などが分類された。1975630日、NATO分類に準じた再編が行われ、従来のミサイル・フリゲートはミサイル巡洋艦とミサイル駆逐艦に再分類され、排水量の小さい従来のミサイル護衛艦がこの艦種となり、艦種記号もFFGに変更された。ブルク級やオリヴァー・ハザード・ペリー級がミサイル・フリゲートに艦種変更されている。これらの退役で一旦途絶えたが、沿海戦闘艦LCSの代替としてコンステレーション級ミサイル・フリゲートを作ることになった。参考:アメリカ護衛艦史、月刊世界の艦船5,866,162,2112,22

ミサイル防衛>:略してMD(Missile Defense)BMD(弾道ミサイル防衛)、TMD(戦域ミサイル防衛)、NMD(国家ミサイル防衛)を一纏めにしてこういう。参考:月刊軍事研究10,03

<ミサイル防衛局>:MDAを参照。

ミサイル了解覚書>:1979年、米韓で締結された覚書。アメリカがミサイル開発に関する技術と部品を支援するが、韓国は射程180km以上のミサイルは開発も保有もしないという内容だった。199511月に韓・米非拡散実務協議体が発足し、この覚書に換わる新たな合意が得られた。参考:月刊軍事研究3,02

ミサイル連続発射>:2006519日、防衛庁は5月初めから北朝鮮がテポドン2号の発射準備を行っていると発表。差し迫った段階には無いとした。520日、アメリカ国務省報道官がミサイル発射を自制するようコメント。522日、テポドン2号の発射準備がほぼ終わったと報道された。オブザベーション・アイランドが佐世保に入港。524日、高知県の宿毛港にBSP装備LRS&Tイージス艦DDG-59ラッセンが入港。佐世保にはCVN-72エイブラハム・リンカーンが入港した。525日、オブザベーション・アイランドが佐世保を出港。526日、DDG-176ちょうかいが佐世保を出港。527日、DDG-59ラッセンが宿毛港を出港。61日、北朝鮮は米朝直接会談を要求、応じない場合にはミサイル発射を警告した。6月初旬、アラスカとカリフォルニアのGBIが実戦モードに切り替えられた。68日、CV-63キティーホーク、CG-63カウペンス、DDG-54カーティス・ウィルバー、DDG-56ジョン・S・マッケーン、DDG-59ラッセンが横須賀を出港。東南アジア共同対テロ演習ヴァリアント・シールドに参加するものと思われたが、カーティス・ウィルバーとジョン・S・マッケーンはキティーホーク空母打撃群と離れ、日本海で弾道ミサイル監視任務に就いていたようである。中旬、烏山のU-2Sがブロック20に更新された。612日、数週間以内に発射試験が行われるというアメリカ政府高官の話が伝えられた。613日、日本の官房長官は発射が差し迫っていないと発表。615日、アメリカ政府当局は北朝鮮が数日以内にテポドン2号の発射実験を行える体制を整えたと述べた。同日、5月下旬から嘉手納基地に展開していたRC-135Sコブラボールが離陸、以降連日飛行した。嘉手納基地には他にRC-135W(赤外線観測装置搭載)、WC-135WEP-3Eも展開しており、佐世保からはT-AGM-23オブザベーション・アイランドが日本海に展開した。616日、アメリカ政府は北朝鮮への外交工作が効果無しと発表。発射台周辺にミサイル燃料タンクがあることが明らかとなった。韓国大統領はミサイル発射後も北朝鮮への食糧支援継続を表明。DDG-62フィッツジェラルドが横須賀を出港。617日、アメリカ国務省報道官はミサイル発射実験を6カ国協議の共同声明に反する挑発的行動と非難。弾道ミサイル発射台周辺に十数個のミサイル燃料タンクがあることを韓国政府高官が発表。麻生外相と駐日アメリカ大使は、北朝鮮に対し挑発行為を止めて6カ国協議に戻ることを求めることで一致。618日にも発射があるとみて情報収集を進めることとした。618日、FPS-XXガメラレーダーが実戦モードに切り替えられたと報じられた。619日、アメリカ空軍烏山基地にパトリオットPAC-3が配備されていると報道された。620日、韓国政府がテポドン2号を人工衛星発射用と判断していることが報じられた。韓国国家情報院は、テポドン2号の必要燃料65トンに対し、周囲の燃料タンクが15トン分しか無いことから、燃料は未注入であると国会で報告した。北朝鮮国連次席大使がアメリカとの直接対話を要求。621日、金大中前大統領が27日から予定していた北朝鮮訪問を中止。韓国統一相はミサイル発射の場合、北への食料・肥料支援は困難になると発表。ブッシュ大統領は発射中止を要求し、アメリカ国務省副報道官はアメリカと北朝鮮の直接対話の可能性を否定した。622日、ロシア外務省は北朝鮮駐露大使を呼び、発射中止を要求。アメリカ軍がFTM-10ステラー・プレデター試験を開始、CG-67シャイローがSM-3による中距離弾道ミサイル迎撃実験に成功。DDG-174きりしまも標的ミサイルのレーダー追尾に成功した。623日、北朝鮮祖国平和統一委員会はリムパック2006を行った場合、強力な自衛的措置で対抗すると警告。アメリカが青森の航空自衛隊車力分屯基地にFBXRTレーダーを搬入。624日、韓国民団は朝鮮総連との和解を白紙に戻した。625日、金大中氏が訪朝を中止すると表明。626日、車力分屯基地のFBXRTレーダーが稼働を開始。628日、DDG-59ラッセンが横須賀に帰港。630日、DDG-174きりしまはリムパック参加を中止して日本に向かった。71日、北朝鮮でのミサイル発射準備にイラン革命防衛隊幹部10人が参加していると報道された。CV-63キティーホークが演習を終え、小樽に寄港。72日、北朝鮮がリムパックを非難、先制攻撃には核攻撃をもって対抗すると声明を発表。74日、北朝鮮がロシア沿海州沖の海域を5-11日にかけて航行禁止にするという無線を流し、自衛隊がこれを傍受、警戒にあたっていた。アメリカ軍は日本海にDDG-54カーティス・ウィルバー、DDG-62フィッツジェラルド、T-AGM-23オブザベーション・アイランド、日本近海にDDG-56ジョン・S・マッケーンを展開、FBXRTレーダーがテスト運用状態にあった。海上自衛隊はDDG-173こんごうを日本海側、DDG-176ちょうかいを太平洋側に置き、FPS-XXガメラレーダーを稼働させ、YS-11EL及びEP-3を飛行させていた。750333、旗対嶺(元山の南西)から1発目のミサイル(スカッドC)が発射され、500km飛翔して5分後に日本海に落下した。0404、旗対嶺から2発目のミサイル(ノドン)が発射され、620km飛翔して10分後に日本海に落下した。0400過ぎにRC-135Sコブラボールが離陸したが、夜間観測能力が無く、着弾周辺域への到達には2時間かかるため、4発目以降しか観測できなかったとみられる。0501、3発目のミサイル(テポドン2号)が舞水端里から発射され、約40秒加速した後にトラブルを起こして失速(1段目と2段目の切り離しが上手くいかなかった。接合部分が折れて発射台近傍に落下したという説もある)、500km飛行して2分後に日本海(展開していたDDG-173こんごうの数十キロ西側といわれる。北朝鮮沿岸から数十キロにしか到達しなかったという説もある)に落下した。これは背振山のJ/FPS-3レーダーも探知していた。0712、4発目のミサイル(スカッドC)が発射され、550km飛翔して5分後に日本海に落下した。0730、日本で国家安全保障会議が開始された。0731、5発目のミサイル(スカッドC)が発射され、500km飛翔して5分後に日本海に落下した。0820、旗対嶺から6発目のミサイル(スカッドERまたはノドン)が発射され、600km飛翔して7分後に日本海に落下した。1100、韓国で安保担当相会議が開始されたが、対応が遅いとして叩かれた。更に国家情報院のトップは海外出張中、合同参謀本部議長は出張予定、漁船や航空機にも警報が出ないとさんざんだった。1720、7発目のミサイル(スカッドERまたはノドン)が発射され、600km飛翔して7分後に日本海に落下した。7発のミサイルの中にはBM-25が含まれている可能性もあり、ロフテッド弾道やデプレスト弾道などもテストしたらしい。北朝鮮は発射をロシアにのみ直前に通告していた。発射後、小樽からCV-63キティーホークとCG-63カウペンスが、横須賀からDDG-59ラッセンが出港し、日本海に展開。北朝鮮にプレッシャーを与えた。SSN-770ツーソンが佐世保に寄港、すぐに出港しているが、ミサイル実験との関連は不明。77日、GBIは実験モードに戻り、DDG-54カーティス・ウィルバーとDDG-62フィッツジェラルドも横須賀に帰港した。713日、釜山で南北閣僚級会談が実施されたが、韓国がミサイル発射に憂慮を示し、50万トンの米穀支援を拒否して決裂した。参考:月刊軍事研究8,069,0612,10、月刊世界の艦船10,06

美崎丸>:日本海軍一般徴用船(雑用船)Misaki maru。大元は明治4010月に竣工したバレル&サン社の貨物船で、その後オーストラリアに渡り、大正13年に松岡汽船が購入して美崎丸になり、太平洋戦争勃発で陸軍に徴用され、その後船舶運営会を経て海軍の一般徴用船になった。垂線間長114.6m、幅15.91m、深さ8.53m、吃水7.15m、総トン数4422トン、重量トン数7375トン。主機は三連成レシプロ蒸気機関1基11500馬力、航海速力10ノット、最大速力12ノット。昭和191115日、マニラから海南島楡林に向かう途中、仏印バタンガン岬東400kmSS-316バーベルの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船8,19

ミサグ・シリーズ>:イラン国産の携帯地対空ミサイルMisagh。ヒズボラにも供与された。参考:月刊軍事研究11,114,07

 <ミサグ1>:赤外線誘導式で、使い捨てランチャーチューブ、グリップと一体化された発射ユニット、取り外し式のバッテリーと冷却ユニットを持ち、9K32のほぼコピーらしい。ミサイル後部に折り畳みフィン4枚があり、その後縁が姿勢制御用の動翼となっている。ランチャー含むシステム総重量16.9kg。ミサイル本体は全長1.48m、直径71mm、重量1.42kg。最大速度毎秒600m。参考:月刊軍事研究11,11、月刊PANZER7,00

 <ミサグ2>:最大水平射程5km、最大射高4km。誘導はパッシブ赤外線。参考:月刊軍事研究11,119,09

<ミサク1>:QW-1海外シリーズ(携帯地対空ミサイル)を参照。

<ミサク2>:QW-18海外シリーズ(携帯地対空ミサイル)を参照。

<みさご>:PC-307(駆潜艇)を参照。

<三沢・烏山・群山・嘉手納暫定訓練システムポッド>:AN/ASQ-T503を参照。

三沢海軍航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17210日、飛行予科練習生教育部隊として、青森県上北郡の三沢飛行場で新編された。定数は陸攻常用27機・補用9機である。410日、外戦部隊に改編され、第26航空戦隊の隷下に入った。418日、木更津飛行場で訓練と哨戒任務に就いていた際、日本本土奇襲攻撃があり、一式陸攻に魚雷を積んで出撃したが、敵機動部隊は発見できなかった。7月、サイパンに進出して訓練に入った。87日、ガダルカナルにアメリカ軍が上陸したため、第2中隊9機が雷装でラバウルに向かった。88日、第2中隊9機が雷装でツラギ沖に出撃したが、6機が撃墜され、1機が不時着した。第1中隊・第3中隊計18機がラバウルに到着。890630、第1中隊9機と第3中隊8機が雷装で離陸を開始し、ガダルカナル沖のアメリカ機動部隊に向かった。残る第3中隊1機は魚雷を補充するためサイパンに向かっている。0800過ぎ、アメリカ機動部隊がパウブ島方面にいるとのことで攻撃部隊が変針し、1030頃にDD-393ジャービスに魚雷2本を命中させて撃沈した。第3中隊長機含む2機が撃墜され、1機が不時着している。810日、11機でシーラーク水道に出撃したが、敵を発見できず、そのまま帰投した。823日、15機でツラギ在泊艦船攻撃・友軍糧食投下のため出撃したが、悪天候で引き返した。824日、友軍糧食投下のため出撃したが、悪天候で引き返した。8260600過ぎ、各機に250kg爆弾1発・60kg爆弾8発ずつを搭載してブナカナウを出撃。台南航空隊零戦12機、木更津航空隊陸攻8機と合流し、1015にガダルカナル飛行場を爆撃した。指揮官機がF4F戦闘機の迎撃で被弾し、ブカ島に不時着したが、残りは1350にブナカナウに帰投している。912日、陸攻11機でガダルカナル島爆撃に出撃。対空砲火で2機が撃墜された。111日、第705航空隊に改称された。参考:月刊丸9,20、陸海軍学校と教育、月刊航空ファン7,19

三沢管制隊>:航空自衛隊の管制隊で、航空保安管制群の隷下にあり、三沢基地に置かれている。自衛隊機だけでなく、在日米軍機や民間機も担当し、八戸飛行場と大湊飛行場の進入管制・ターミナルレーダー管制も行う。195710月、三沢管制分遣隊として新編され、19596月に三沢管制隊に改編された。19717月、アメリカ空軍から管制業務を移管された。19933月、隷下に移動管制班が新編された。20033月、移動管制班が移動管制隊に拡大改編され、百里基地に移った。200710月、無事故管制180万回を達成。参考:三沢基地ホームページ、月刊JWings4,168,1410,16

三沢気象隊>:航空自衛隊の気象隊で、三沢基地に置かれている。1987325日、秋田分屯基地に秋田気象班が新編された。2016713-15日、加茂分屯基地で災害派遣に伴う野外での機動展開を想定した実動訓練を実施。CH-47Jヘリによる空中機動展開と陸路機動展開を行い、問題点などを検証した。参考:月刊JWings8,14、朝雲

三沢基地>:在日米空海軍と航空自衛隊と民間が共用している基地で、空自唯一の日米共用航空作戦基地であり、在日米海軍名称はNAF Misawa(三沢海軍航空施設)。総面積1600万平方メートルで、中央に長さ3048m・幅46mの滑走路(ランウェイ10/28)がある。北には天ヶ森射爆場が隣接している。所在地は青森県三沢市大字三沢字後久保125-7。三沢空港ターミナルから徒歩。JR東北本線三沢駅から徒歩で30分。元は1942年(昭和17年)に開設された日本海軍三沢海軍航空隊の三沢飛行場で、19459月にアメリカが接収して陸軍航空軍用飛行場として施設部隊が整備を行い、1946年にアメリカ空軍第39航空師団が配置された。1952年、民間の三沢空港が開港した。624日、F-84G戦闘機装備第31戦闘護衛航空団が展開した。10月、F-84G装備第27戦闘護衛航空団が展開した。195881日、航空総隊北部航空方面隊司令部が創設され、アメリカ軍と自衛隊と民間の共用となった。1961年、北部航空施設隊が配備された。7月、北部航空警戒管制団が配置され、航空警戒管制権をアメリカ軍から引き継いだ。1968年、第39航空師団が解散し、115日に第475戦術戦闘航空団が創設された。隷下に第356戦術戦闘航空隊と第67戦術戦闘航空隊を置き、どちらもF-4C戦闘機を装備する。北部航空方面隊支援飛行班が新編された。1970年、アメリカ陸軍安全保障庁三沢分遣隊が新編された。1971年、第475戦術戦闘航空団が解散してアメリカの実戦部隊が無くなり、第6112航空基地団が配属された。121日、空自第81航空隊、第3飛行隊が八戸基地から移動してきた。1972年、アメリカ海軍が三沢海軍航空施設を開設。1976年、北部航空音楽隊が配置された。1978331日、空自第3航空団と第8飛行隊が小牧基地から移動してきた。第81航空隊が解隊され、第3飛行隊が第3航空団隷下に移った。1127-30日、日米共同訓練を実施。19793月、第6高射群が新編された。198471日、第6112航空基地団が第432戦術戦闘航空団に改編された。198542日、F-16戦闘機(整備訓練用F-16A/B戦闘機3機)が初配備された。1986年、安全保障庁三沢分遣隊が第750軍事情報大隊に改編された。45日、警戒航空隊が編成された。1989年、自衛隊三沢病院が開設された。331日、空自三沢ヘリコプター空輸隊が創設された。1991年、第432戦術戦闘航空団が第432戦闘航空団に改称された。3月、第6高射群指揮所運用隊が大湊分屯基地から移駐した。199210月、三沢信号情報作戦センターが創設され、アメリカ空軍第301諜報中隊900名、アメリカ海軍三沢保全群700名、アメリカ海兵隊海兵支援大隊E中隊80名、アメリカ陸軍第750軍事諜報分遣隊80名が配置された。1994101日、第432戦闘航空団がF-16CJブロック50DJブロック50に機種変更し、第35戦闘航空団に改称された。1999325日、警戒航空隊が浜松基地に移った。2000年、第750軍事諜報分遣隊が第403軍事情報分遣隊に改称された。2001年、アメリカ海兵隊海兵支援大隊E中隊が配備から外れた。2003年夏、三沢信号情報作戦センターが三沢安全保全作戦センターに改称された。2004-05年、第35戦闘航空団がF-16CMブロック50DMブロック50に機種変更した。2005年、EP-3Eが嘉手納にしか行かなくなったため、三沢で運用にあたっていた第1艦隊航空偵察飛行隊分遣隊が解隊された。2005331日、第601飛行隊第1飛行班が飛行警戒監視隊に改編された。9月、三沢海軍保全群が三沢海軍情報作戦コマンドに改称された。ロシアや北朝鮮を監視する情報部隊も配属されており、2008年末現在、アメリカ陸軍情報保安コマンド隷下の第403軍事情報分遣隊、アメリカ空軍航空情報局隷下の第373情報群第301情報隊、同第373情報支援隊、アメリカ海軍三沢海軍情報作戦コマンドが三沢暗号作戦センターで任務に就いている。2009年、第403軍事情報分遣隊が第708軍事情報分遣隊に改称された。1月、アメリカ空軍第373情報群が第373情報監視偵察群に改称された。34日、ホームビジット&食文化交流を実施。東北町の住民78人とアメリカ軍人・家族34人が参加し、基地見学、米軍家族住宅訪問、郷土料理製作などを行った。2010年、第5/第7艦隊哨戒偵察部隊司令部が厚木基地に移った。2011311日の東日本大震災で314日まで停電を起こしたため、嘉手納基地から派遣された第18民生建設中隊要員50名以上が復旧作業にあたった。八戸にある関連施設は津波に襲われ、航空燃料陸揚げ施設などが小破、3カ所の地下送油ポンプ施設のうち1カ所が浸水して作動不能になり、10日間にわたり航空燃料を送油できなくなった。アメリカ空軍・海軍将兵は八戸市内で救援活動を行った。1015日、第10回北部航空方面隊司令官杯三沢基地綱引き大会を実施。空自、アメリカ海軍、アメリカ空軍から20チームが参加し、北部防空管制群チームハニーが4連覇を飾った。123-10日、PACAFによる作戦即応体制検閲が行われた。12月末、F-2用格納庫(単独棟)2基、F-2整備用格納庫(2連棟)2基、待機所2棟、駐機場、誘導路などのF-2用施設(2008年度着工)が完成した。20127月から20132月、VAQ-132EA-18G電子戦機5機が展開した。201310月、第5/第7艦隊哨戒偵察部隊司令部が置かれた。20143月、VAQ-132EA-18G電子戦機5機が半年間の予定で展開を開始。420日、飛行警戒監視隊が廃止され、飛行警戒監視群と第601飛行隊が新編された。524日・28日、グローバルホーク1機ずつが到着し、グアムの台風を避けるため展開を開始(10月まで)。要員40名や発進帰投装置LREも運び込まれた。66日、RQ-4Bが初ミッションを実施。濃霧で民間・軍用有人機のフライトがキャンセルされる中、自動離着陸システムにより問題無く任務をこなした。ちなみに離着陸時の安全確保のため、航空局にフライトプランが提出され、三沢飛行場ATISからは付近の航空機に注意が促されており、いつ飛んでいつ帰ってくるかは公開情報である。もちろん偵察飛行コースは機密だが、通常の軍民航空機よりも遥か上空にいるので、ぶつかることは無い。7月、空軍第373情報偵察監視群第301情報隊が解隊された。718日、日米合同上級下士官昇任式を実施。28名がマスターサージャント・一等空曹に昇任し、第35戦闘航空団副司令官と北部航空方面隊司令部管理監察官から記念品が贈呈された。87日、高校生25人の基地研修を支援した。926日、北部航空方面隊司令官と第3航空団司令がロッキード・マーチン社インストラクターの説明を受け、F-35デモンストレーターを体験した。10月、陸軍第708軍事情報分遣隊が解隊された。1015日、AN/FLR-9「象の檻」の撤去解体開始式典を実施。201527日、三沢基地准曹会が第13回北空司令官杯綱引き大会を実施。空自から11チーム、在日米軍から6チームが参加し、北部航空施設隊チームが優勝した。411日、三沢市が主催して日米交流イベントの第28回ジャパンデーを実施。56団体が参加し、3000人が来場した。512日、斉藤航空幕僚長が第4航空団第21飛行隊F-2B戦闘機(東日本大震災罹災修復初号機)の後部座席に搭乗して第3航空団第8飛行隊の訓練を視察。72-8日、グローバルホーク・ブロック30と同ブロック40が2機ずつ到着し、展開を開始した。2機は11月、もう2機は12月下旬まで配備される予定。8月、VAQ-135と交代してVAQ-132EA-18G電子戦機5機が配備された。20159月までに在日米軍情報部隊を500名減らす予定。1010日、自衛隊記念日中央行事の体験飛行を実施。121-18日、第18航空団F-15が訓練移転(共同訓練)を実施。オハイオ州空軍第121空中給油航空団KC-135R、アメリカ空軍第552航空管制航空団E-3C、空自第2航空団F-15、第3航空団F-2などが参加した。2016213日、VAQ-132が本国に帰投。227-28日、VAQ-209EA-18G電子戦機が2機ずつ飛来し、VAQ-138到着までの繋ぎとして展開を開始した。3月、VP-5P-8で展開を開始。41日、VAQ-138EA-18G電子戦機3機が到着した。729日、第8飛行隊が築城基地に移った。103日、VAQ-138と交代してVAQ-135が配備された。1017日から116日、ガーディアンノース16が開催された。1024日、イギリス空軍C-17A輸送機1機が飛来。1026日、イギリス空軍第99飛行隊C-17A輸送機1機が飛来。2016213日、VAQ-132が展開を終えて帰国。227-28日、VAQ-209が一時配備を開始。41日、VAQ-138EA-18G電子戦機3機が着陸し、展開を開始。42日、日米交流イベントの第29回ジャパンデーを開催。611日、アメリカ空軍下士官クラブで隊員と家族350人が参加して日米下士官交流会ダイニング・アウトを実施。77日、在日米軍三沢基地司令官兼第35戦闘航空団司令官の交代に伴う指揮権交代式を実施。719日から812日、滑走路工事に伴い、VAQ-138EA-18G電子戦機5機と人員190名が青森県の三沢飛行場からグアム島などへの訓練移転(単独訓練)を実施。727日、学生・生徒25名を対象とする山形地本の東北地区三自衛隊研修に協力した。10月初め、VAQ-135が展開を開始。108日、周辺住民160人にC-1輸送機による体験飛行を実施。20173月末、VAQ-135と交替してVAQ-132が展開を開始。510日から75日まで、滑走路工事に伴い、F-2戦闘機15機とT-4練習機数機を百里基地に、T-4練習機7機を松島基地に、E-2C早期警戒機最大4機を千歳基地に展開させて移動訓練を行った。グローバルホークの台風避難も横田基地になる。626日、滑走路工事を終えて運用を再開。77-14日、米軍再編に係る嘉手納飛行場から三沢基地への訓練移転(共同訓練)を実施。第3航空団F-2戦闘機4機、第2航空団F-15戦闘機2機、警戒航空隊E-767早期警戒管制機1機、北部航空警戒管制団、アメリカ空軍第18航空団F-15C戦闘機6機、E-3早期警戒管制機1機、人員160名が参加し、三沢東方空域と秋田西方空域で戦闘機戦闘訓練を実施した。95日、オーストラリア空軍本部長が訪問し、北部航空方面隊司令官と会談した。925日、第3飛行隊F-2A戦闘機1機がアラート機交代のため牽引されていた際、A5誘導路アーミングエリアで燃料漏れを起こした。12月、F-35Aの訓練用施設や関連施設の工事を完了。121日、第3航空団が臨時F-35A飛行隊の編成完結式を実施。F-35Aに先んじてT-4が配備されている。1214日、米韓合同演習ヴィジラントエース18に参加後、烏山基地からエルメンドルフ・リチャードソン統合基地に向かっていた第90戦闘飛行隊F-22A戦闘機2機がトラブルを起こしたらしく三沢基地に着陸した。修理の後、1218日に離陸している。2018124-25日、VAQ-134EA-18G電子戦機5機が展開を終えてアメリカに向かった。1260930頃、第3飛行隊F-2A戦闘機がスクランブル発進した。1101F-35A戦闘機1機(F-35AX-6)が着陸し、臨時F-35A飛行隊に配備された。220日、第35戦闘航空団F-16CM戦闘機が三沢基地離陸直後にエンジン火災を発生。緊急着陸時に炎上するのを防ぐため、緊急時対応手順に従い青森県小川原湖上空で増槽2本を投棄してから三沢基地に帰投した。増槽は湖に落ち、シジミ漁シーズンだったが人的被害は出ていない。増槽と流出燃料の回収のため、221日から大湊地方隊を中心とする災害派遣部隊が活動している。224日、F-35A配備記念式典が行われた。36日、VAQ-209EA-18G電子戦機5機が展開し、一時配備を開始した。59-24日、米軍再編に係る岩国飛行場から三沢基地への訓練移転(共同訓練)を実施。第12海兵航空群VMFA-121F-35B戦闘機8機、人員140名、第3航空団F-2戦闘機4機、F-35A戦闘機1機(F-35AX-6)、第2航空団F-15戦闘機4機、警戒航空隊E-767早期警戒管制機1機、北部航空警戒管制団、第6高射群、第3高射群が参加し、三沢東方空域、秋田西方空域、三沢対地射爆撃場で戦闘機戦闘訓練や空対地射爆撃訓練などを行った。514日、VAQ-138EA-18G電子戦機5機が飛来(うち1機は燃料トラブルで付き添いの1機と共に百里基地に緊急着陸、点検給油後に飛来)し、一時配備を開始。東北防衛局新規採用職員の研修に協力した。515日、F-35AX-7が到着し、臨時F-35A飛行隊に配備された。VAQ-209EA-18G電子戦機5機が一時配備を終えアメリカに帰国。528日、F-35AX-1/-2/-3/-4/-5がルーク空軍基地からパールハーバー・ヒッカム統合基地を経由して到着し、臨時F-35A飛行隊に配備された。61日、第9偵察航空団第69偵察群第348偵察飛行隊第1分遣隊のRQ-4Bブロック40グローバルホークがアンダーセン空軍基地から飛来し、台風避けの展開を開始した。101日まで5-6機が展開する予定である。63日、RQ-4Bブロック40無人偵察機1機が飛来。68日、F-35AX-8が到着し、臨時F-35A飛行隊に配備された。69日夜、RQ-40Bグローバルホークが今期初ミッションを実施。820-23日、第353特殊作戦群Y分遣隊のCV-22B特殊作戦機が飛来。R130レンジでの12.7mm機銃M2実射訓練を行ったらしい。10月、VAW-138が一時配備を終えて帰国。101日からRQ-4Bがグアムに帰投を開始。101日にブロック30が1機、2日にブロック40が1機、3日にブロック30が2機とブロック40が1機離陸していった。他にもう1機展開していたらしいが帰投日時は不明。1020日、自衛隊記念日行事の体験飛行を実施。

20192121046頃、35戦闘航空団F-16戦闘機が着陸時にオーバーランして立ち往生、滑走路が1205頃まで閉鎖された。第13戦闘飛行隊F-16D戦闘機1機と第14戦闘飛行隊F-16C戦闘機2機が横田基地にダイバートし、民間機2機が欠航している。3月下旬、VAQ-132が半年間の予定で一時配備を開始。326日、臨時F-35A飛行隊が第302飛行隊に改編された。42日、T-4練習機が離陸後に右エンジンから異音と振動を生じたため、引き返して緊急着陸した。調査の結果、エンジン内部が損傷し、エンジン部品が折損しており、メーカーが更に調査したところ、部品交換が必要と判明。T-4全機を飛行停止処分にしてパーツを換装し、安全確認の終わった機体から飛行を再開した。79日、毎年夏に行っている日本近海での沿岸哨戒のため、アメリカ沿岸警備隊HC-130Hが展開を開始した。813日、VMFA-121所属F-35B戦闘機4機が飛来し、814日にローカルフライトを行い、815日に岩国に戻った。9月、VP-10VP-8と交替してローテーション配備された。10月、VAQ-138が一時配備を開始。1031247頃、日本航空エンブラエル1702163便(ジェイエア運航)が着陸しようとした際、待機指示を受けていたF-2A戦闘機が滑走路内に進入した。管制官はF-2A戦闘機に滑走路からの離脱、2163便に着陸許可取り消しを指示し、F-2A戦闘機は滑走路から離脱、2163便は着陸をやり直して1302に着陸した。夜に国土交通省が重大インシデントに認定、運輸安全委員会による調査を開始している。1017日、嘉手納基地周辺自治体首長らで構成される三市町連絡協議会が基地を視察した。

2020224-28日、令和元年度日米共同統合防空ミサイル防衛訓練に参加。319日、第3飛行隊壮行行事を実施。その際、第302飛行隊F-35A戦闘機4機がミッシングマン・フォーメーションを行った。315日、河野防衛大臣の視察を受けた。325日、第3飛行隊が百里基地に移った。329日、VAQ-209所属EA-18G電子戦機4機が到着し、VAQ-138と交代した。5月、VP-1VP-10と交代してローテーション配備された。528日、三沢基地業務群施設隊消防小隊が航空機火災対処訓練を実施。613日、VAQ-209と交代するVAQ-131所属EA-18G電子戦機5機が飛来。621日、基地准曹会が有志80人から募金を集め、志乃武神社に鳥居を奉納した。622日、日米合同エレファント・ウォークが行われ、航空自衛隊第302飛行隊F-35A戦闘機12機、アメリカ空軍第35戦闘航空団F-16CM戦闘機12機、第353特殊作戦群MC-130J特殊作戦機2機、アメリカ海軍C-12軽輸送連絡機1機、VAQ-209所属EA-18G電子戦機2機、VP-1所属P-8A哨戒機1機が滑走路に並び、三沢ヘリコプター隊CH-47J輸送ヘリが空自・アメリカ空軍カメラマンを乗せて空撮を行った。同日、飛行教導群F-15DJ戦闘機6機が飛来。721日、山崎統幕長と在日米軍司令官シュナイダー空軍中将が基地を視察し、第302飛行隊F-35A戦闘機を視察、運用状況を確認した。93日、給養小隊が三沢商業高校生徒7人に空上げの調理技術指導を行った。1028日昼、第57航空団第77兵器飛行隊B-1B爆撃機1機が飛来し、2時間後に離陸した。1029日、キーン・ソード21に参加するアメリカ空軍第7爆撃航空団第489爆撃群B-1B爆撃機1機と第57航空団第77兵器飛行隊B-1B爆撃機1機(前日と同機)が飛来し、補給後に離陸した。11月、VAQ-131がアメリカに帰還し、VAQ-135が代わりに展開した。1116-27日、飛行教導群F-15戦闘機8機が展開し、第302飛行隊F-35A戦闘機と異機種戦闘訓練を実施。1215日、第301飛行隊が百里基地から移駐して第3航空団の隷下に入り、第301飛行隊新編記念式典が行われた。

2021129日、新成人隊員71名の成人祝賀行事を実施。318日、臨時偵察航空隊が新編された。413日、VMFA-121所属F-35B戦闘機が移動訓練のため午前と午後に1機ずつ飛来した。415日、VAQ-132所属EA-18G電子戦機5機が飛来し、VAQ-135と交代してローテーション配備された。515日、アメリカ海軍VUP-19所属MQ-4C無人偵察機1機がグアムから飛来し、台風避けの一時展開を開始した。2機で5ヶ月くらい展開する模様。526日、アメリカ空軍第319運用群第4偵察飛行隊所属RQ-4Bブロック40無人偵察機1機がグアムから飛来し、台風避けの一時展開を開始した。6機で5ヶ月くらい展開する予定。714-24日、第36海兵航空群MV-22B輸送機が米軍再編に係る訓練移転(回転翼機、ティルト・ローター機などの沖縄県外への訓練移転)を実施。8月、VMFA-121所属F-35B戦闘機7機が移動訓練を実施。831日と91日、空自F-35A整備担当員とアメリカ空軍エドワーズ空軍基地・アイルソン空軍基地F-35A整備担当員が日米F-35担当整備員交流を実施。10月、VP-47VAQ-138が暫定配備され、VP-10VAQ-132が帰国した。1012日、アメリカ海軍VUP-19所属MQ-4C無人偵察機が一時展開を終えグアムに戻った。11301800頃、三沢基地所属F-16戦闘機がエンジントラブルで青森空港に緊急着陸したが、その際に緊急投棄した増槽2本が青森県深浦町の山中と、町役場付近の一般道路上で発見された。これを受け、121日に日本政府がアメリカ政府に再発防止を申し入れ、123日には岸防衛相がオースティン国防長官との電話会談で事故及び再発防止策無しのF-16飛行再発に関して遺憾の意を伝えている。1221日、令和3年度合格者三沢基地見学を実施。

2022513日、ビバリー・サンライズ22-04演習の一環として日米合同エレファント・ウォークが行われ、第301飛行隊F-35A戦闘機6機、第302飛行隊F-35A戦闘機6機、第601飛行隊E-2D早期警戒機2機、第35戦闘航空団第13戦闘飛行隊F-16CM戦闘機5機、F-16DM戦闘機2機、第14戦闘飛行隊F-16CM戦闘機9機、VAQ-138所属EA-18G電子戦機1機、VP-8所属P-8A哨戒機1機、三沢ベースフライト所属UC-12F輸送機1機の計33機が参加した。第3航空団司令兼三沢基地司令、アメリカ海軍三沢基地隊司令官、アメリカ空軍第35戦闘航空団司令官が視察し、三沢ヘリコプター空輸隊CH-47J輸送ヘリに空自カメラマン3名とアメリカ軍カメラマン2名が搭乗して上空から撮影、日米共同広報活動を行っている。630日、アメリカ空軍第35戦闘航空団司令官兼アメリカ軍三沢基地司令官に着任したマイケル・P・リチャード大佐の指揮権交代式を実施。7月、VAQ-209が一時配備された。7191000頃、着陸したEA-18G電子戦機のタイヤがパンクした。滑走路が4時間閉鎖され、F-35A戦闘機9機が千歳基地にダイバートし、720日に7機、721日に2機が帰投している。726日、NASA所属WB-57Fが飛来し、成層圏での化学物質収集任務に就いた。929日、フィンランド国防軍司令官キヴィネン陸軍大将が基地を訪問し、北部航空方面隊司令官及び第3航空団司令と会談、部隊を視察した。1010日、VAQ-131VAQ-209と交代して一時配備された。1215日、偵察航空隊が再編された。

2023316日、第6高射群が廃止され、北部高射群が新編された。4月、VAQ-131VAQ-135に交代した。VP-26がローテーション配備された。520日、隊員24名がアメリカ軍施設内で日米交流桜オリンピックのドッジボール大会に参加。79日、機首にF-15戦闘機と同形状のレドーム、胴体前部下面にセンサー窓付きフェアリングを装着したレイセオン・エアクラフト社有B727-223(Adv)テストベッド機が離陸し、嘉手納基地に向かった。711日、ノーザン・エッジ23-2に参加する第7爆撃航空団第28爆撃航空隊B-1B爆撃機2機が飛来。821日、VAQ-132所属EA-18G電子戦機3機が到着。822日、VAQ-132所属EA-18G電子戦機3機が到着し、VAQ-135と交代した。101日、自衛隊記念日行事の一環として、CH-47J輸送ヘリ体験飛行を実施。

20242月、VAQ-132と交代してVAQ-138が展開した。6月、VAQ-138と交代してVAQ-134が展開した。85日、日伊共同訓練ライジング・サン24に参加するイタリア空軍第6航空連隊第102飛行隊F-35A戦闘機1機、第32航空連隊第12飛行隊F-35A戦闘機3機、第37航空連隊第18飛行隊F-2000A戦闘機1機、第51航空連隊第132飛行隊F-2000A戦闘機1機、第14航空連隊第8飛行隊KC-767A空中給油輸送機3機、第46航空旅団C-130J輸送機1機、第14航空連隊第71飛行隊G550早期警戒機1機が飛来。89日、イタリア空軍機全機が離陸してフィリピンのクラーク基地に向かったが、F-35A戦闘機1機に不具合があり、F-35A戦闘機4機とKC-767A空中給油機2機が小牧基地に緊急着陸、1泊して再度クラーク基地に向かった。

参考:三沢基地ホームページ、月刊JWings4,054,113,176,10別冊付録、4,145,146,147,148,149,141,154,159,1511,153,167,1612,161,178,173,188,186,197,1910,1912,195,206,207,'209,'201,'212,'213,216,'217,'218,'2110,'2111,'2112,'211,'222,'223,'228,'229,'2210,'2211,'221,'233,'236,'238,'2310,'2311,'2310,'2411,'24、月刊軍事研究12,084,096,111,155,155,17、月刊航空ファン6,112,121,155,166,1612,164,176,179,1711,1712,172,183,185,187,188,189,'1811,1812,185,1911,19、世界の傑作機No.104、月刊航空情報9,173,184,18、朝雲

 <三沢基地(2007年度)>:アメリカ空軍第35戦闘航空団第13・第14戦闘飛行隊(F-16CJ/DJ)、アメリカ海軍哨戒飛行隊三沢分遣隊(P-3C)、第1艦隊航空偵察飛行隊分遣隊(EP-3E)、三沢ベースフライト(UC-12)、航空自衛隊北部航空方面隊司令部、第3航空団第3飛行隊(F-2AF-2BT-4)、同第8飛行隊(F-4EJ改、T-4)、北空支援飛行班(T-4)、警戒航空隊飛行警戒監視隊(E-2C)、航空救難団三沢ヘリコプター空輸隊(CH-47J)、第6高射群、北部航空施設隊、北部航空音楽隊、自衛隊三沢病院が所在している。参考:月刊JWings6,07

 <三沢基地(2012年度)>:アメリカ空軍第13戦闘飛行隊(F-16C/D)、第14戦闘飛行隊(F-16C/D)、アメリカ海軍三沢航空基地飛行隊(UC-12F)、アメリカ海軍第53/第72任務部隊司令部、第2/第10哨戒偵察航空団の1個飛行隊(P-3C)、航空自衛隊北部航空方面隊司令部、第3航空団、第3飛行隊(F-2A/BT-4)、第8飛行隊(F-2A/BT-4)、北部航空方面隊支援飛行班(T-4)、飛行警戒監視隊(E-2C)、三沢ヘリコプター空輸隊(CH-47J)、北部航空警戒管制団、第6高射群、北部航空施設隊、北部航空音楽隊、三沢管制隊、三沢気象隊、自衛隊三沢病院が所在している。参考:月刊JWings2,13別冊付録、月刊世界の艦船3,12

 <三沢基地(2015年度)>:アメリカ空軍の管理部隊は第35戦闘航空団。第13・第14戦闘飛行隊(F-16CJ/DJ。定数18機ずつ)、第35整備隊、第35航空機整備隊、三沢安全保障作戦センター、アメリカ空軍第373情報監視偵察群、アメリカ海軍三沢海軍情報作戦コマンド、アメリカ陸軍第709軍事情報分遣隊などが所在している。航空自衛隊は北部航空方面隊司令部、北部航空方面隊支援飛行班、第3航空団司令部、第3航空団整備補給群、第3航空団基地業務群、第3飛行隊、第8飛行隊、飛行警戒監視群、第601飛行隊、北部航空警戒管制団本部、北部航空警戒管制団整備隊、第6高射群本部、第6高射群整備補給隊、北部航空施設隊第1作業隊、三沢ヘリコプター空輸隊、三沢管制隊、三沢気象隊、北部航空音楽隊、三沢地方警務隊、自衛隊三沢病院が所在している。F-2E-2Cは掩体運用される。参考:月刊軍事研究5,15、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空情報5,18

 <三沢基地(2020年)>:アメリカ空軍は第35戦闘航空団第13戦闘飛行隊(F-16CM/DM)、同第14戦闘飛行隊(F-16CM/DM)、アメリカ海軍は三沢航空基地飛行隊(UC-12F)、電子攻撃飛行隊VAQ1個(EA-18G。ローテーション配備)、航空自衛隊は第3航空団、第3航空団第3飛行隊(F-2A/BT-4)、同第302飛行隊(F-35AT-4)、同北部支援飛行班(T-4)、警戒航空隊飛行警戒監視群第601飛行隊(E-2C/D)、航空救難団三沢ヘリコプター空輸隊(CH-47J)などが所在している。参考:月刊JWings3,20

三沢航空科学館>:航空自衛隊三沢基地の北にある青森県立の航空科学館で、三沢空港にも隣接している。青森県や三沢基地ゆかりの航空機が展示されており、F-16AF-104JF-1F-4EJ改、T-33AT-2(通常塗装及びブルー塗装)、T-3P-3CYS-11LR-1S-51AOH-6D、奈良原式2号機(国産機で初めて飛んだ機体)などが屋外・屋内に並んでいる。開館時間は1000-1800、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は翌日)と1229日から13日。入館料は一般500円、高校生300円、中学生以下無料。20069月、OH-6D(記番号31184)の展示を開始。200931日、F-4EJ改(元第3航空団第8飛行隊所属、第375号機)の展示を開始。エンジンは外されているが、第3航空団修理隊工作小隊が製作したノズルが装着されている。2010320日、零戦五二型レプリカの展示を開始。2011311日の東日本大震災で、淋代海岸に設置されていたミス・ビードル号のレプリカが津波で流出・喪失した。2012417日、零戦二一型レプリカの展示を開始。520日、零戦五二型レプリカの展示を終了。2015623日、OH-6Dの機体を新しいもの(記番号32170)に交換した。2017111日、彩雲の垂直尾翼(テニアン島でアメリカ軍が捕獲、調査後に元アメリカ海兵隊員が譲り受け、没後にネットオークションに出されていたのを日本人が入手し、それを借りた)の展示を開始。2021529日、青森地本三沢募集案内所が管内で自衛隊広報を実施。参考:月刊航空情報10,05、月刊丸2,08付録、月刊航空ファン7,117,171,18、月刊JWings9,15、朝雲

三沢対地射爆撃場>:別名天ヶ森射爆撃場またはR-130。アメリカ軍と航空自衛隊の訓練場で、三沢基地の北にあって太平洋に面しており、面積は766万平方メートル。20mm機関砲の訓練弾や訓練爆弾による対地攻撃訓練が行えるが、実弾投下はできない。場内には管制塔が2基立っており、空自の場合は射場幹部を配置して監視統制にあたる。上空は三沢対地訓練区域となっていて、三沢特別管制区(PCAPositive Control Area)が設定されており、高度2000-23000フィート(609.6-7010.4m)を飛行する航空機は三沢管制隊または札幌航空交通管制部の管制を受ける。1952年にアメリカ軍の射爆撃訓練場としてRipsaw Training Rangeという名称で開設され、1969年から空自と共用になった。名称は2001年に墜落したF-16の引き上げ作業中に殉職したアメリカ海軍ダイバーの名前をとり、2003年にDraughon Training Range(ドロウン訓練射場)に変更されている。2013年、統合可搬式電子戦訓練射場システムが配備された。参考:月刊軍事研究4,10、月刊JWings3,186,057,14、月刊航空ファン1,20

ミサワタンク>:朝鮮戦争時にP-80が使用した750ガロン(2839リットル)落下増槽の通称。P-80を運用できる飛行場が韓国には無かったため、日本の板付基地から出撃していたが、北朝鮮上空では十数分しか滞空できないという欠点があり、対地攻撃兵装を積むと往復するのがやっとという状態だった。そのため、三沢基地に駐留していた49FBWのクルーが既存の165ガロン(625リットル)落下増槽を2つに切って間に別の増槽を挟むというアイディアを思いつき、製作したのが本増槽である。これにより、対地攻撃でも滞空時間を40分前後取ることができるようになった。参考:月刊航空ファン7,99

三沢飛行場>:日本海軍の飛行場。戦後は三沢基地になった。参考:月刊JWings11,18

三沢ヘリコプター空輸隊>:航空自衛隊のヘリコプター空輸隊。1988425日にCH-47J準備室三沢現地班として発足し、1989331日に三沢基地で新編され、航空救難団の隷下に入った。ただランプ地区で遺跡が発見されて発掘調査のため工事が遅れ、41日から826日まで千歳基地で訓練を行っている。51日、特別便の運航を開始。1990413日、局地連絡便の運航を開始。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。1810、岩手県陸前高田市でCH-47Jにより12人(11人?)を救助した。3120940、山田町などで救助活動を実施。CH-47Jによる空中消火活動を10回にわたり行い、CH-47Jで被災者30人を救助。1036、山田町でCH-47Jにより43人を救助。その後も大槌町で14人、大槌町で38人、鵜住居町で9人を救出している。313日、CH-47Jにより岩手県釜石市片岸町で2人、鵜住居町で36人、根浜海岸で8人、箱崎町で10人を救出。3140845CH-47Jで湊中学校の被災者41人を救出した。3150700-1620、大槌トンネル付近でCH-47Jにより消火活動を行った。3181617CH-47Jで庄内空港や松島に患者を輸送。3211732CH-47Jで松島に救援物資を輸送。3231137CH-47Jで救援物資を松島に輸送。324日、救援物資の輸送任務を実施。3261352CH-47Jで救援物資を松島と山田に輸送。3271338CH-47Jで救援物資を千歳から松島に輸送。3311138CH-47Jにより八雲から三沢に救援物資を輸送した。花巻にも空輸している。421238、救援物資を三沢に輸送。1335、救援物資を三沢に輸送。2014427-29日、盛岡市玉山区付近で発生した火災の災害派遣に参加。2015120日、岩手県大船渡市三陸町の山林火災の災害派遣に参加し、CH-47ヘリ1機で消火活動を行った。2171346、岩手県沖を震源とするマグニチュード5.7・最大震度5強の地震が発生したため、CH-47Jヘリ1機で情報収集を実施。428日、秋田県大仙市で発生した山林火災の災害派遣にCH-47Jヘリ1機で参加。201615日、初訓練飛行を実施。414日・16日に発生した熊本地震の災害派遣に参加。201715日、初訓練飛行を実施。58-15日、釜石市で発生した山林火災の災害派遣に参加。201896日に発生した北海道胆振東部地震の災害派遣に参加。2019527日、北海道雄武町で発生した山林火災の災害派遣に参加。2020622日、三沢基地で行われた日米合同エレファント・ウォークCH-47Jで空撮した。202115日、CH-47J輸送ヘリ1機で訓練始めを実施。202215日、初飛行訓練を実施。324日、アメリカ海軍三沢航空基地隊先任伍長が希望し、北部航空方面隊准曹士先任が企画した日米下士官交流の三沢ヘリ空輸隊研修に協力。北部航空方面隊司令部、第3航空団、三沢ヘリコプター隊、アメリカ海軍三沢航空基地隊、アメリカ空軍第35戦闘航空団から13名が参加し、CH-47J輸送ヘリ機動飛行訓練でヘリに同乗、天ヶ森射爆撃場でスリング懸吊・ホイスト懸吊・傾斜地離着陸訓練を研修した。59日に青森県十和田市で発生した山林火災の災害派遣で連絡員1名を現地活動拠点に派遣した。参考:航空救難団ホームページ、三沢基地ホームページ、月刊JWings6,117,138,145,157,159,'20MAMOR vol.52vol.151、月刊航空ファン6,111,157,168,18、朝雲

 <三沢ヘリコプター空輸隊(2005年)>:航空救難団隷下で、三沢基地に置かれている。CH-47J輸送ヘリを装備する。参考:月刊JWings7,24

 <三沢ヘリコプター空輸隊(2015年)>:航空救難団隷下で、三沢基地に置かれている。隊長、准曹士先任、安全班、総括班、飛行班、整備小隊からなり、CH-47Jを装備する。参考:三沢基地ホームページ、月刊航空ファン4,16

 <三沢ヘリコプター空輸隊(2020年)>:航空救難団隷下で、三沢基地にある。CH-47Jを装備する。参考:月刊JWings6,20

ミシェコ・ブローリャイ>:森の兄弟、の意。第2次大戦後のソ連による再占領に抵抗したリトアニアのパルチザンのこと。10万人を数えたといわれるが、ソ連の武力と家族・協力者への報復の前に1962年までに運動は収束した。参考:月刊PANZER6,01、月刊軍事研究2,02

<ミジェット>:MiG-15UTI(練習機)を参照。

<ミジェット作戦>:ブート作戦を参照。

ミジェットマン>:アメリカ空軍計画ICBMLGM-118ピースキーパーが高額すぎて数を揃えられないため、移動式発射機を使える小型ICBMとして計画されたもので、LGM-30のニックネームであるミニットマンをもじって命名された。単弾頭で、推進は2段式ロケット。計画のみに終わった。参考:核兵器図鑑

ミシェル>:ドイツ海軍特設巡洋艦。19423月、ラ・パリスに向かうため、第5水雷艇隊の護衛を受けてドーバー海峡を突破。第2次大戦中に17121994トンを撃沈した。参考:写真集ドイツの巡洋艦

<ミシガン>:BB-27(サウス・カロライナ級戦艦)またはSSBN-727(戦略原潜)を参照。

<ミシシッピー>:BB-41(戦艦)またはCGN-40(巡洋艦)またはSSN-782(原潜)を参照。

ミシシネワ>:アメリカ海軍給油艦。19441120日、ウルシー環礁で回天特別攻撃隊菊水隊の攻撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<ミジップマン>:ミッドシップマンを参照。

見島>:日本海軍二等海防艦Mishima。元はロシア海軍海防戦艦アドミラル・セニャウィンで、日露戦争の戦利艦として明治386月に日本海軍艦籍に編入、二等海防艦に類別された。大正7年、シベリア出兵に備えて耐氷構造を追加。大正82月、ウラジオストクに展開。大正114月、潜水艦母艇に類別変更された。昭和1010月に除籍された。参考:月刊丸6,14

三島事件>:19701125日、作家の三島由紀夫と、彼が私設軍隊と称して1968年に結成した盾の会の会員4人が市ヶ谷駐屯地に侵入、東部方面総監を監禁した他、自衛隊員8名に斬りつけて負傷させた。その後本館前に自衛隊員1000名を集めてベランダから垂れ幕を垂らし、決起を促す演説を行い、檄文をばらまいた。しかし下級幹部や曹士隊員は猛烈なヤジを飛ばして演説を中断させ、垂れ幕を引きずり降ろそうとした(刺激するなと高級幹部が止めた)。これをみて反応が無いと判断した三島由紀夫は総監室で割腹自殺し、介錯を行った隊員も自決した。盾の会は何度か富士演習場で野営を行い、高度な野外訓練を受けており、1218日に東部方面総監が辞任している。ただ、野外訓練に付き合わされた自衛隊員は、盾の会のメンバーを見て体力も知識も規律も無い人達だと呆れていたという。参考:月刊軍事研究8,95、日本の戦力

見島分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地で、第17警戒隊が駐屯している。所在地は山口県萩市見島1518-1で、萩市北北西沖45kmにある見島の最高峰いくらげ山山頂(標高182m)にある。19552月に航空自衛隊が展開し、アメリカ軍との共同使用を開始した。19607月、航空自衛隊に全面移管された。20101025日、見島保育園親子遠足の基地訪問を受け入れた。2011729日、夏休み合宿のため山口県を訪れていた福島県の小学生を招き、ブルーインパルスの訓練飛行見学や、カレー試食、広報グッズプレゼントなどを行った。2012730日から84日、東日本大震災で被災した福島県の小中学生の合宿を支援し、82日にはブルーインパルスが飛行訓練を行った。参考:月刊JWings6,10別冊付録、10,1111,12、朝雲、月刊軍事研究9,11

ミシャプ>:Mishap(事故)。アメリカ軍では損害程度別にクラス分けされる。アメリカ空軍では2013年から2017年にかけ有人機事故が4割増加、アメリカ海軍ではクラスCミシャプが2012会計年度の10万飛行時間あたり9.86件から2017会計年度には20.25件に倍増、アメリカ海兵隊ではクラスAミシャプが2008年の10万飛行時間あたり2件から2017年には5回以上に倍増しており、軍事費削減による訓練・整備不足や航空関連要員経験不足などが原因に挙げられている。参考:月刊JWings3,17、月刊航空ファン7,18、月刊軍事研究12,18

 <クラスAミシャプ>:総額200万ドル以上の損害または死亡・終身全身障害を引き起こしたもの。参考:月刊JWings3,17

 <クラスBミシャプ>:総額50-200万ドルの損害または終身全身障害または3人以上が入院したもの。参考:月刊JWings3,17

 <クラスCミシャプ>:総額5-50万ドルの損害または作業員が1日以上従事できなくなったもの。参考:月刊JWings3,17、月刊航空ファン7,18

 <クラスDミシャプ>:クラスC未満。参考:月刊JWings1,20

三宿地区>:三宿駐屯地、自衛隊中央病院、防衛装備庁電子装備研究所、同先進技術推進センターが所在する地区のこと。三宿駐屯地司令が三宿駐屯地に関する業務と自衛隊中央病院の施設外周警備、衛生学校長が自衛隊中央病院に勤務する隊員の給養と男性自衛官の宿泊、自衛隊中央病院に対する給電、給排水、送汽、防衛装備庁電子装備研究所・先進技術推進センターに対する給電、給排水、自衛隊中央病院長が自衛隊中央病院に関し駐屯地訓令第5・第10条に規定する業務に準ずる業務、三宿駐屯地に係る被服の洗濯と修理、三宿駐屯地所在部隊等に勤務する女性自衛官の宿泊、防衛装備庁電子装備研究所長が電子装備研究所と先進技術推進センターの施設管理運営に関する業務を担当する。参考:三宿地区における駐屯地業務等に関する訓令

三宿駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は東京都世田谷区池尻1-2-24。医学情報史料館の彰古館がある。19557月、陸自衛生学校が久里浜から移駐したのに合わせて開設された。9月に技術研究本部、11月に自衛隊中央病院が併設されており、これらを合わせて三宿地区と呼ばれる。2001年、部隊医学実験隊が新編された。20074月、防衛省初の省内託児所である秀学会キッズガーデン三宿保育園が開設された。2011311日、東日本大震災で庁舎の給水管が破裂した。201748日、省内託児所が地域型保育事業に移行し、Jキッズピース三宿保育園として開園した。2018327日、対特殊武器衛生隊が朝霞駐屯地から移駐した。202019日、衛生科技術競技会を実施。16チームが筆記試験や第一線救護を行い、第1師団第32普通科連隊本部管理中隊衛生小隊が優勝した。2022624日から71日、フィジー軍医療従事者8名に対する能力構築支援事業に協力した。2023520日、駐屯地曹友会が、朝霞駐屯地曹友会及び十条駐屯地曹友会と共に、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の清掃ボランティア活動を実施。参考:MAMOR vol.76vol.91JGround Vol.23、朝雲、月刊軍事研究6,18

 <三宿駐屯地(2015年)>:衛生学校、衛生教導隊、自衛隊中央病院などが所在している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

ミシン>:日本陸軍用語で、縫工兵の通称。参考:帝国陸海軍事典

<ミズーリ>:BB-63(戦艦)またはSSN-780(原潜)を参照。

<ミスール>:AK47海外シリーズ(突撃銃)を参照。

水甲板>:日本海軍用語で、飲料水や雑用水を管理する下士官の通称。ゴキ悪くなると大変で、付け届けをしないと水が出なくなる。参考:月刊丸9,03

水際陣地>:敵上陸部隊が上陸しているところを攻撃できるよう、水際に作られた陣地のこと。遮蔽物の無い沿岸を突撃してくる敵に対して攻撃を行えるのが利点である。しかし自軍陣地の秘匿が難しく、太平洋戦争ではアメリカ軍の艦砲射撃と爆撃の前に粉砕されてしまった。参考:月刊軍事研究11,06

<水処理型再生可能ジェット燃料>:HRJを参照。

ミスティ>:アメリカのステルス電子光学画像衛星MistyKH-11衛星がベースらしく、軌道に投入された後、地表に向けて巨大な円錐状のレーダー波反射バルーンを展開し、レーダーによる探知を防ぐらしい。重量13トン。1990年に初号機が打ち上げられた。1999522日に2号機がタイタン4Bで打ち上げられ、高度800km・傾斜角65度の軌道に投入された。20126月に3号機が打ち上げられたともいわれるが、詳細不明。参考:月刊軍事研究10,14

ミスティFAC>:ベトナム戦争でアメリカ空軍が行ったFAC(A)で、F-100FF-4Dといったジェット機を使用して航空阻止攻撃の指示を行った。敵地深くの任務であり、地上部隊との連携は行っていない。参考:月刊航空ファン2,02

<ミスティック>:DSRV-1(深海救難艇)またはM-55ゲオフィージカ(高々度観測機)を参照。

<ミスティックA>:M-17ストラトスフェーラ(高々度観測機)を参照。

ミスティック型>:アメリカ海軍深海救難艇(DSRVMystic型。小型の潜水艦形状をしており、空輸が可能である。全長15m、直径2.4m、水上排水量30トン、水中排水量38トン。主機は電池式電動モーター1基、シュラウド付プロペラ1軸推進、最大速力4.2ノット、運用潜航深度670m、救出可能深度1524m、最大潜航深度1670m。乗員4名、救出人員24名。DSRV-1ミスティックとDSRV-2アヴァロンの2隻が就役し、1977年後半から運用された。参考:現代の潜水艦、月刊世界の艦船9,12増刊

ミステール・シリーズ>:フランス空軍単発ジェット戦闘機MD452 MystèreMD450ウーラガンの後継としてダッソー社が開発し、1951223日に初飛行、1953年から量産された。参考:月刊JWings5,03

 <ミステールT>:原型初号機。ウーラガンの主翼を30度の後退角付きとし、垂直尾翼を大型化した。参考:月刊JWings5,03

 <ミステールUA>:原型2・3号機。エンジンをイスパノ・スイザ製テイ250(推力2.85トン)1基に換装し、武装を強化している。参考:月刊JWings5,03、月刊軍事研究1,15

 <ミステールU先行量産型>:1951年に15機が発注された。最初の4機はテイ250エンジン、後はスネクマ製アター101軸流式ジェットエンジンを搭載しており、うち2機はアフターバーナー付きのアター101F-2A/B時推力3.8トン)を搭載していた。参考:月刊JWings5,03

 <ミステールUC>:量産型。エンジンはアター・ターボジェット。1953年から生産され、150機を配備した。参考:月刊JWings5,03

 <ミステールVN>:ミステールUの複座夜間戦闘機型。試作のみ。参考:月刊JWings5,03

 <ミステールWA>:ミステールUCの改良型で、1952年に試作機が完成し、928日に初飛行した。胴体を延長して胴体断面を楕円形とし、主翼後退角を38度に変更、遷音速での飛行に最適な形状としている。ピトー管は機首から右主翼端に移された。1954年から生産され、最初の50機はテイ250エンジンを搭載、その後の371機はスネクマ製ベルドン・エンジン(推力3.5トン)を搭載して完成した。全長12.85m、全幅11.1m、全高4.6m、自重5.88トン、最大重量9.1トン。エンジンはベルドン350(推力3.5トン)1基、最大速度1120km、航続距離は増槽4個で1690km。固定武装は30mm機関砲2門。爆弾搭載量0.9トン。インドに110機、イスラエルに60機が輸出されている。参考:月刊JWings5,03、月刊軍事研究1,15

 <ミステールWB>:F-86Hのような尖ったエアインテイクを採用し、コーンに機関砲用の射撃統制レーダーを搭載、エンジンをエイボンRA7に換えたもの。全長12.9m、全幅11.1m、総重量7.4トン。最大速度マッハ1.1。固定武装は20mm機関砲4門。乗員1名。19531216日に初飛行し、ヨーロッパ製初の超音速機となったが、試作のみで終わった。参考:月刊JWings5,03、月刊丸9,03

 <ミステールWN>:夜間・全天候迎撃機型。エアインテイクを機首下面に移し、索敵レーダーを搭載、30mm機関砲2門と空対空ロケット弾52発を装備し、コクピットをタンデム複座にした。1954年に初飛行したが、その時既に財政上の理由から採用中止が決まっていた。参考:月刊JWings5,03

 <シュペル・ミステールB2>:主翼後退角を45度に増加し、ドッグトゥースを新設、機首のエアインテイク形状を洗練してノーズ先端に射撃統制レーダーを搭載している。ピトー管を機首に戻し、機首前方下面の30mm機関砲2門の後方に68mm空対空ロケット弾35発収容の引き込み式ランチャーを装備した。全長13.4m、全幅11.1m、総重量8.43トン。エンジンはアター101G(推力3.46トン)単発、最大速度マッハ1.25195532日に初飛行し、180機が生産され、イスラエルに輸出もされた。参考:月刊JWings5,033,'23、月刊丸9,03

<ミステール海外シリーズ>

 <ミステールW(インド空軍)>:インド空軍戦闘機。105機を導入し、1957年から配備、1973年に退役した。参考:月刊JWings4,23

<ミステール22>:エタンダールU(戦闘機)を参照。

<ミステール24>:エタンダールWシリーズ(戦闘機)を参照。

<ミステール・デルタ>:ミラージュT(試作戦闘機)を参照。

ミステル・シリーズ>:ドイツ空軍親子式特殊攻撃機Mistel(宿り木)。19437月からベートーベン計画の名称で開発された無人飛行爆弾である。無人化したJu88の機首を3800kgの成型炸薬(貫通力7m)と延長信管に変更、前部・後部に連結支柱を設けて親機にくっつけている。切り離し速度は380kmと遅い。親機はBf109Fw190の他、Fw56DF230という組み合わせなども作られた。水上艦、ダム、トーチカなどを破壊するのが主任務だが、戦況的にこれらの目標の破壊はできず、橋頭堡攻撃などに使用された。オーバーロード作戦で初出撃し、大型艦を狙おうとしたが、射程外を遊弋していたため、戦果は無かった。敵制空権下に大型機を低速でほぼ真っ直ぐ飛ばすため、殆ど戦果は挙げられなかったが、19453月にはオーデル河にかかる橋に向けて発射され、橋梁4つを破壊した。1944年末にはソ連の軍需工場に150機を突っ込ませるアゼンハマー作戦が計画されたが、19453月に出撃基地がソ連に占領されたため、中止となっている。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ドイツ編、JWings8,04、月刊ミリタリーエアクラフト4,02、図解世界の軍用機史、月刊航空ファン8,18

ミステル1>:Bf109F/GJu88A-4を組み合わせたもの。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ドイツ編、JWings8,04、月刊ミリタリーエアクラフト4,02

ミステル2>:親機をFw190A-8またはF-8、子機をJu88Gとしたもの。親機の武装は全て外され、コクピット内に子機制御機材が搭載されている。離陸重量が増えたため、Ju88Gの胴体下面に投下式第3補助車輪が付けられた。子機の信管は長短2種があり、装甲が厚い目標には長い方を使う。1945年初めまでに125機が製作された。参考:フォッケウルフFw190A/F/Gシリーズ

ミステル3C>:ミステル2の子機をJu88G-10に変更したもの。親機は胴体下にETC504ラックを装着、大型増槽を装備する。10機以上が製作されたとみられる。参考:フォッケウルフFw190A/F/Gシリーズ

ミステル3B>:ミステル2及び3Cの先導機で、別名FuhrungsmaschineFw190A-8/F-8/F-9Ju88H-4を組み合わせており、Ju88H-4の機首にマイクロ波レーダーを、コクピット後方にMG131機銃を装備、乗員3名が乗り込む。Fw190も機首にのみMG131機銃を装備し、緊急時には援護戦闘機としての役目を果たす。試作してテスト中に終戦を迎えた。参考:フォッケウルフFw190A/F/Gシリーズ

ミステルS>:通常の機首を装着したタイプで、出撃する時以外はこの形態である。SはSchulung(訓練)の頭文字で、ミステル2がこの状態ならミステルS2、ミステル3CならミステルS3Cとなる。出撃時には1日かけて機首を交換する。参考:フォッケウルフFw190A/F/Gシリーズ

ミステルS3A>:Ju88A-4A-6を子機としたタイプで、通常機首を持つ訓練専用型であり、爆装してミステル3Aとして出撃することは無かったようだ。戦後にファーンボロー航空ショーで展示されたことがある。参考:フォッケウルフFw190A/F/Gシリーズ

<ミスト>:Ts-25(侵攻グライダー)を参照。

<ミストラル>:DH100FB53(戦闘機)またはH03(シムーン級駆逐艦)またはL-9013(強襲揚陸艦)またはS-73(潜水艦)を参照。

ミストラル>:フランス海軍ブーラスク級駆逐艦Mistral1927年竣工。1940年にブリマスでイギリス海軍に接収され、シムーン級駆逐艦H03ミストラルとなった。第2次大戦終結後にフランスに返還。1950年に解体された。参考:第2次大戦のフランス軍艦

ミストラル対空ミサイル・シリーズ>:フランス陸海空軍近距離対空ミサイルMistral。マトラ社が開発した。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊世界の艦船1,'15増刊、11,17

ミストラル1>:1989年に就役した。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊

ミストラル1(ヘリ搭載型)>:全長1.81m、直径0.09m、翼スパン0.18m、重量17kg、弾頭重量3kg。固体ロケット推進で、飛翔速度マッハ1.75、射程6km。誘導は赤外線パッシブである。参考:軍用機ウェポン・ハンドブック、艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊軍事研究7,95

 <ミストラル1(艦載型)>:全長1.8m、直径0.09m、重量17kg、炸薬重量3kg。推進は固体燃料ロケットで、最大速度マッハ2.5、射程6km。誘導は赤外線パッシブ。遠隔操作式6連装発射機サドラル(Systeme dAuto-Defense Raprochee Anti-aerien Legere)、遠隔操作式4連装発射機テトラル(TETRAL)、人力操作式連装発射機シンバド(Système Integré de Mistral Bimunition pour lAuto-Défense)、シンバドの遠隔操作型であるシンバドRC、人力操作式4-6連装発射機ラマ(LAnce-Missiles dAutodefense)の5種類の発射機が用意されている。2018年末、対テロ戦で小型水上艇と交戦する想定でのテストに投入され、シンバドRCから発射されて3km先のセミリジッド艇に命中した。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊世界の艦船1,'15増刊、5,914,19

ミストラル2>:ミストラル1の改良型で、発射機をそのまま利用できる。ミサイルを軽量化し、空力学的改良を行っており、ロケットモーターも交換して最大速度がマッハ2.6に上がった。シーカーも更新し、デジタル演算機を搭載しており、高度3000mで飛来する目標を最大6km先で360度交戦できる。全長1.86m、直径0.09m、重量18.7kg、弾頭重量3kgHE、タングステンボール入り)。推進は固体燃料ロケットで、最大速度マッハ2.5。最大射程5-6km、最大射高3km。誘導は2波長式パッシブ赤外線誘導式、信管はレーザー近接と着発。1997年に制式化された。参考:月刊PANZER12,00、月刊軍事研究1,075,01、月刊世界の艦船1,'15増刊

ミストラル級>:フランス海軍強襲揚陸艦Mistral級。ウラガン級ドック型揚陸艦の後継で、フランスでの艦種は指揮・戦力投入艦BPCBâtiment de Projection et de Commandement)、後に両用作戦用ヘリ空母PHAである。船体構造は商船規格を採用し、艤装なども軍民共用技術を多用してコスト削減を図っており、商船構造部分はポーランドの造船所で安く建造、フードル級よりもコストを30%抑えた。船体は舷側ナックルラインより下を下方に向かって内側に傾斜させ、アイランド側面の一部と船体側面を面一にし、タワーマストを採用しているが、艦首、船体側後面、アイランド側面が垂直にそそり立っているため、ステルス性をどの程度考慮したのかは不明である。全通飛行甲板を持ち、長さ199m、最大幅32m、面積5200平方メートル、ヘリ用発着スポット6カ所(うち1カ所が大型機用)とエレベーター2基(容量13トン。アイランド後方に車両用、艦尾中央に航空機兼車両用)があり、ヘリコプター7機(6機?)の同時発着艦を行える。アイランドは右舷に寄せられており、頂部に2本のタワーマストとその後ろに煙突(細い排気管を纏め、後ろに折り曲げてある)を持つ。後部船体内のヘリ格納庫は床が第3甲板・天井が第1甲板(飛行甲板)、床面積1800平方メートルで、NH-90ヘリ16機または戦闘車両230両(車両甲板と傾斜通路で繋がっている)を収容できる。車両甲板はヘリ格納庫の下で、第6甲板と第3甲板の間を第4.2甲板くらいの高さで仕切った2層構造になっており、下層は後半部がウェル・ドックになっていて、その分だけ狭く、上下層はスロープで繋がれていて、床面積計2650平方メートル、主力戦車13両または戦闘車両60両を収容可能である。下層車両甲板後方(床が第6.5甲板くらい、天井が第4.2甲板くらい)がウェル・ドックで、全長57.5m120m?)・幅15.4m・面積885平方メートルあり、CTM型揚陸艇なら4隻、EDA-R型双胴揚陸艇なら2隻、EDA-S型双胴揚陸艇なら4隻、LCAC/L-CAT/LCUなら2隻収容できる。EDA-S型双胴揚陸艇2隻とEDA-R型双胴揚陸艇1隻を混載することも可能。搭載する海兵隊員と車両を揚陸するのにかかる時間は2時間以内。新造艇として2011年からL9092型揚陸艇も配備している。ウェル・ドック内左舷側には車両甲板と通じるランプを持つ。艦内には指揮設備も用意されていて、SIC21艦隊指揮ネットワークシステムが装備されている他、69床の医療用ベッドと、野戦病院モジュールを搭載する。戦術情報システムはタレス社製SENIT-9。前部マストトップにタレス社製MRR-3D-NG三次元対空・対水上レーダーを装備する。通信システムはシラキュースV軍事衛星通信システムで、核戦争下でも確実な通信を可能とする。EOMS NG電子光学センサー、リンク11、リンク14も装備。艦首はバルバス・バウで、バウ・スラスター1基とフィン・スタビライザーを持つ。全長199m、全幅32m、吃水6.2m、満載排水量21500-21947トン。主機はフランス初の統合電気推進で、ディーゼル・エレクトリック方式、バルチラ社製16V32ディーゼル発電機(出力5.2MW)3基+18V200ディーゼル発電機(出力5.2MW)1基、発電出力合計20.8MW、推進はアジマス・ポッド・プロペラ2基(推力を360度全方向に指向可能)、推進出力19040馬力(20400馬力?)、最大速力18.8ノット、航続距離11000海里(15ノット)。自衛用にマトラ社製ミストラル赤外線誘導ミサイル6連装発射機シンバッド2基、30mm機関砲2門、12.7mm機銃4丁を装備する。乗員160名(うち士官20名)。兵員450名(常用)/900名(緊急時最大)、ヘリコプター16機(常用。NH90SA330AS-532/AS-665クーガー、ティグル)または装甲車両60両(50両?VAB装甲車100両?)または(及び?)ルクレール戦車13両(1個中隊)を輸送可能。搭載ヘリは陸軍の輸送/攻撃/観測ヘリが主体で、海軍は捜索救難ヘリを積む。貨物搭載量1200トン。水泳用プールを搭載することもでき、避難民のレクリエーション用にも活かされている。2006-12年に1番艦L-9013ミストラル、2番艦L-9014トンネール、3番艦L-9015ディズミュドが就役した。カムコプターS100無人ヘリの運用能力を追加する予定で、まず2019年にL-9015ディズミュドが改修を終えている。参考:月刊世界の艦船9,029,122,145,168,165,177,176,054,107,1110,113,143,2112,'21、月刊軍事研究9,1310,089,041,057,088,093,106,105,11THE MILITARY BALANCE 2016

<ミストラル級・海外シリーズ>

 <ミストラル級(エジプト海軍)>:エジプト海軍強襲揚陸艦で、1番艦の艦名からガマル・アブデル・ナセル(Gamal Abdel Nasser)級ともいう。ロシア向けに建造して宙に浮いた2隻をSWATH型揚陸艇2隻とLCM型揚陸艇4隻ごと購入することにし、20151010日に契約を結んだ。艦橋はロシア版のまま1層である。電測装備はフランス製で、タレス社製MRR-3D-NGなどを搭載する。電子戦装置はロシア製で、5P28ポベディーテリECM装置などを積む。兵装はエジプトに回航してからロシア製短距離艦対空ミサイルとロシア製艦対艦ミサイルを積む予定としており、それまでの繋ぎとしてアメリカ陸軍アヴェンジャー自走地対空ミサイルのミサイルターレットを装備する。艦載ヘリとしてKa-52をロシアから50機ほど購入予定。搭載艇はCTM NG型中型揚陸艇4隻を購入したが、2019年現在、EDA-R双胴揚陸艇の方は未取得である。全長199m、満載排水量21000-21947トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式、速力19ノット。乗員177名。兵員450名、Ka-52K攻撃ヘリ14機、Ka-29TB輸送ヘリ4機、Ka-27P対潜ヘリ4機、CTM-NG揚陸艇4隻、装甲車両60両を搭載可能。1番艦の艦番号1010ガマル・アブデル・ナセルと2番艦の艦番号1020アンワル・エル・サダトが2016年に竣工した。能力を持て余し気味なのか、エジプト回航後はあまり動きが無く、2019年現在でもロシア製兵装は積んでおらず、2番艦はアベンジャー自走地対空ミサイルの自走車両を飛行甲板上前後に置いた状態で済ませている。参考:月刊世界の艦船8,1612,'2012,'237,'161,1612,1611,173,1910,19、月刊軍事研究3,16

 <ミストラル級(ロシア海軍)>:201028日にフランス国防省が1隻のロシア売却と追加3隻の建造を発表した。北洋艦隊と太平洋艦隊(北方領土防衛用)への配備を検討していて、氷海での行動に備え吃水線付近の船体を強化、融氷システム用発電機などを搭載する。また、ヘリコプターはKa-52KKa-27MKa-29Kなど計30機を搭載する予定で、それに合わせて甲板と格納庫を拡大し、高さも上げるらしい。揚陸艇は12061級ムレナ型エアクッション揚陸艇を搭載する予定だったが、ドック・ウエルの高さが足りないため、11770級セルナ型高速LCU21820級デュゴン型大型LCUを搭載する。艦橋は2層から1層に減らした。アメリカやバルト三国などは西側技術の流出を懸念し、当初武装やレーダー、SIC-21艦隊指揮システム、SENIT-9戦闘管理システムを外して船体のみを売却することにしていたが、一部はそのまま引き渡されるようで、戦闘管理システムはロシア製のものに変更する予定だが、レーダーはタレス社製MRR-3D-NGのままである。兵装はギブカやAK-630を装備予定。全長199m、満載排水量21000トン。主機はディーゼル・エレクトリック方式で、速力19ノット。海軍歩兵450名を搭載可能。ロシア造船企業のUSCがフランスとの独占交渉に不満を訴えたため、ロシア国防省は2010820日に国際入札を検討していると表明し、最初の2隻は20116月に17億ドルで契約され、船体ブロックの40%をロシアの造船所で作った後、フランスのサン・ナゼール造船所で最終組み立てを行うことになった。この2隻は南クリル諸島(北方領土)防衛のため太平洋艦隊に配備されるようで、ウラジオストク港に大型艦用埠頭を増設する。1番艦ウラジオストクは2014年、2番艦セヴァストーポリは2015年に引き渡される予定。更に2隻が2011年度中に契約されてロシア国内で建造(ロシア作業量80%、フランス作業量20%)される予定だが、ロシア海軍の運用想定に合わない、低温行動力が低い、高価といった批判に晒されており、更に調達を推進していたセルジューコフ国防相が汚職で失脚してしまい、建造開始の決定が1-2番艦の運用実績が判明する2016年以降に延期されたらしい。乗艦予定の400名は2014630日にフランスのサン・ナゼール造船所に到着し、訓練が始まっている。201493日、ウクライナ情勢悪化を受けてフランスのオランド大統領が11月までの1番艦売却見合わせを発表したが、元から引き渡し期限が11月なので、只のパフォーマンスかもしれない。1125日、オランド大統領が、ウクライナでの停戦遵守及びロシア・ウクライナ両国の政治的合意が得られるまで、輸出を停止すると発表した。今度は本気で、フランスで運用訓練中のロシア海軍人400名は1218日にロシアへの帰国を余儀無くされた。ロシアは購入を断念し、201586日までにフランスが9億5000万ユーロの賠償金を支払って契約は破棄された。2隻はロシア製装備品を外した上で20163月にエジプトに転売されることとなった。20151123日、ロシア製装備品の撤去を完了した。ロシアでは代わりにネフスキー設計局がプリボイ汎用揚陸艦の開発を進めている。参考:月刊世界の艦船9,104,1012,102,142,115,119,1112,1110,124,139,133,149,1411,144,1511,1512,'152,'168,16、月刊軍事研究6,1112,12、月刊JWings3,15、月刊航空ファン10,15

<ミストラル級ファミリー>

 <ミストラル140>:ミストラル級をベースにした輸出型で、満載排水量14000トンクラスである。船体レイアウトはミストラル級と共通で、全通型飛行甲板や医療設備を持ち、三次元捜索レーダー1基と航海・精密進入レーダー2基を搭載する。戦闘管理システムはSENIT8の派生型で、自衛用近距離兵器を中心に装備する。参考:月刊軍事研究1,09

 <ミストラル160>:ミストラル140の満載排水量16000トン型。参考:月刊軍事研究1,09

 <ミストラル250>:ミストラル140の満載排水量25000トン型。参考:月刊軍事研究1,09

<みずとり>:PC-311(駆潜艇)を参照。

みずとり型>:海上自衛隊駆潜艇、計画番号K103A。うみたか型の機関形式違いバージョンで、小型のディーゼルを装備したので排水量が小さくなった。推進軸直結ではなく減速装置を噛ませている。電子装備はOPS-16対水上レーダーとOLR-4B電子戦装置(PC-313以降はNOLR-1)で、ソナーはAN/SQS-11Aである。PC-319-320は司令部施設を持っており、甲板室が延長された。全長60m、最大幅7.1m、深さ4.4m、吃水2.3m、基準排水量420トン(PC-316430トン、PC-319440トン)、満載排水量480トン(PC-316495トン、PC-319490トン)。主機は川崎MANV8V22/3016気筒V型4サイクルディーゼル2基2軸3800馬力、速力20ノット。兵装は40mm連装機関砲1基(前甲板砲座上)、短魚雷落射機(PC-316以降は3連装短魚雷発射管)2基、ヘッジホッグ1基(艦橋前方)、爆雷投下軌条1条。乗員80名。1960-66年にPC-311みずとり、PC-312やまどり、PC-313おおとり、PC-314かささぎ、PC-315はつかり、PC-316うみどり、PC-319しらとり、PC-320ひよどりの8隻が就役した。後にPC-313はフィンスタビライザーのテストに使用され、PC-320はひよどり型迎賓艇に改造された。1985-99年に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊丸5,07、月刊世界の艦船11,'17増刊、5,02増刊、8,11増刊、丸スペシャルNo.78

ミスピリオン級>:アメリカ海軍給油艦Mispillion級。全長196.3m、満載排水量35091トン。T-AO-107パサンプシックなどが就役した。参考:月刊世界の艦船12,16

水船>:海上自衛隊第1種支援船、船種記号YWYard Water)。「みずぶね」と訓読みする。港務隊に配備され、停泊中(主にブイ係留中)の艦艇に真水を供給する他、補給物資の供給を行えるものもある。水タンク、ポンプ、ポンプ用動力、ホースなどを備える。渇水や風水害時には災害派遣任務もこなす。満載時には船体が沈むので、船首にブルワークを付けて解決している。参考:月刊世界の艦船1,79増刊、1,95、自衛隊装備カタログ1981MAMOR vol.85vol.160

水船(150トン型)>:日本海軍水船。全長27.4m、最大幅5.7m、吃水2.2m、排水量233トン。機関出力100馬力、速力7.5ノット。昭和15年から数隻が建造された。参考:小艦艇入門

水船2号型>:海上自衛隊水船。鋼製で、全長27m、幅5.5m、深さ2.8m、吃水2.1m、載貨重量150トン。主機はディーゼル、出力90馬力、1軸推進、速力9ノット。昭和27年度計画で1隻(YW02)が建造された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊、自衛隊装備カタログ1981

水船3号型>:海上自衛隊水船。水船2号型の量産型である。鋼製で、全長27m、幅5.5m、深さ2.8m、吃水2.1m、載貨重量150トン。主機はディーゼル、出力75馬力、1軸推進、速力8ノット。YW03-09の7隻が建造された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊、自衛隊装備カタログ1981

水船10号型>:海上自衛隊水船。鋼製で、全長23.5m、全幅5.1m、深さ2.6m、吃水2m、載貨重量100トン。主機はディーゼル、出力160馬力、1軸推進、速力8ノット。1隻(YW10)が建造された。参考:月刊世界の艦船1,951,79増刊

水船11号型>:海上自衛隊水船。鋼製で、全長36.7m、幅6.8m、深さ3.5m、吃水2.8m、載貨重量310トン。主機はディーゼル、出力360馬力、2軸推進、速力9ノット。1隻(YW11)が建造された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

水船12号型>:海上自衛隊水船。鋼製で、全長30.5m、全幅5.7m、深さ2.8m、吃水2.2m、載貨重量160トン。主機はディーゼル、出力180馬力、1軸推進、速力8ノット。YW12-16の5隻が建造された。参考:月刊世界の艦船1,951,79増刊

<水船15号>:YW15を参照。

<水船17号>:YW17を参照。

水船17号型>:海上自衛隊水船。鋼製で、全長37.7m、全幅6.8m、深さ3.6m、吃水2.7m、載貨重量310トン。主機はディーゼル、出力360馬力、2軸推進、速力9ノット。5隻が建造された。参考:月刊世界の艦船1,95

<水船25号>:YW25を参照。

水噴射装置>:Water injection system。ガソリンエンジン及びガスタービンエンジンの出力増加装置。ガソリンエンジンの場合、過給器空気入口または出口付近やシリンダー内に水を噴射することでシリンダー温度を下げ、ノッキングを防ぐ役割がある。ガスタービンエンジンの場合、空気圧縮機入口または燃焼室内に水を噴射し、エンジンに流入する気体重量を増加させることで出力を増やす。高々度飛行時に低温で水が凍り付くのを防ぐため、メタノールを混ぜることが多く、その場合は水・メタノール噴射装置とも呼ばれる。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊丸10,93

瑞穂>:日本海軍瑞穂型水上機母艦Mizuho。昭和1251日起工、昭和13516日進水、昭和14225日竣工。昭和15年末、海南島に進出。太平洋戦争開戦直前に艦尾を特殊潜航艇母艦用に改装した。昭和1611月末、佐世保に入港。補給後にパラオに向かった。124日、合戦準備の命令が下り、128日に抜錨してパラオを出撃、フィリピンに向かった。太平洋戦争開戦時は第1状態にあり、建制も兵力部署も第11航空戦隊所属で、フィリピン攻略戦に参加。昭和171月からメナドなどの攻略戦に参加。217日、チモール島攻略作戦に参加。31日、ジャワ島攻略作戦に参加。314日、作戦を終了してマカッサルに入港した。328日、横須賀に帰港して修理に入った。511800、横須賀を出港して柱島に向かったが、2315、御前崎燈台沖40海里でSS-228ドラムの雷撃を受け、520416に沈没した。士官7名、下士官・兵94名が戦死し、残りは高雄などに救助されて横須賀海兵団と海軍病院に収容された。艦長は一旦艦と共に沈んだが、何とか浮上して一命を取り留めた。520日に除籍された。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌、写真集日本の小艦艇、月刊丸2,07、海軍よもやま物語、月刊世界の艦船4,12、帝国海軍太平洋作戦史T

瑞穂型>:日本海軍水上機母艦Mizuho型。平時の第1状態では水偵のみを搭載するが、有事の第2状態では水偵半分を降ろして甲標的(特殊潜航艇)を積み、特殊潜航艇母艦になる。千歳型(水上機母艦甲)の準姉妹艦(水上機母艦乙)で、主機がディーゼルのみのため、艦橋後部のタービン用煙突は廃止された。オールディーゼルで艦内スペースに余裕があり、搭載機数は多くなったが、ディーゼルの信頼性が乏しく、計画速力27ノットに対して23ノット程度しか発揮できず、竣工当時は速力17ノットの制限が付いており、昭和15年の改装で全力発揮可能となり、昭和174月の修理で漸く本来の速力を出せるようになったが、直後に沈められてしまった。デリック支柱間には前後に天蓋を張っておらず、探照灯や機銃は左右のデリック支柱を繋ぐブリッジの上に装備した。昭和15年の改装で艦尾にハイン式着水幕を搭載したが、使用後に真水で洗浄しなければならないので、殆ど使わなかったようである。兵員居住区は梯子無しの三段ベッドで、上級者が真ん中、中級者が下、下級者が上に寝る。衣嚢棚の代わりにロッカーが用意されていた。水線長183.60m、最大幅18.80m、平均吃水7.08m、基準排水量10929トン、公試排水量12150トン。主機は艦本式一一号八型ディーゼル4基、2軸推進、出力15200馬力、速力22.0ノット、重油搭載量1200トン+補給用3348トン、航続距離は16ノットで8000海里。兵装は12.7cm連装高角砲3基(艦橋前方、艦橋左右)、25mm連装機銃10基(艦橋前後に2基ずつ、門型デリックポストのフラット上に3基ずつ)。呉式二号五型射出機4基を装備し、九四式水偵、九五式水偵計24機+補用8機を搭載する。乗員689名。瑞穂が就役した。参考:日本航空母艦史、写真集日本の小艦艇、日本海軍艦隊総覧、月刊世界の艦船11,00、海軍よもやま物語

<瑞穂埠頭>:横浜ノースドックを参照。

瑞穂丸>:日本陸軍病院船。大元はスペインのインファンタ・イサベルで、大阪商船貨客船になり、昭和127月に陸軍に徴用されて病院船になった。早速日華事変に投入され、傷病兵を中国から日本に送る任務に就いている。昭和18710227、ラバウル方面で空襲を受け、爆弾3発を投下された。日本赤十字社が赤十字国際委員会に抗議文書を送付している。参考:月刊世界の艦船11,24、日本赤十字社社史稿第5巻

水・メタノール噴射装置>:Water / methanol injection system。ガソリンエンジンやガスタービンエンジンの出力増加装置。水噴射装置の水に凍結防止のためメタノールを混ぜたもので、ガソリンエンジンではメタノールのアンチノッキング作用も出力増加に寄与する。水とメタノールを半々で混ぜることが多い。日本軍では燃料の30%程度のメタノールを噴射していた。参考:航空用語事典増補改訂版、月刊丸10,93

ミゼットマン>:アメリカ国防省がピースキーパーの代わりに計画した列車移動式ICBMMCM-134。ピースキーパー密集配備を議会に否決されたため新たに発表された。本体を小型にして列車に積めるようにし、弾頭を1発に抑えて射程はピースキーパーと同程度を確保する。全長11.6m、直径1.80m、重量11トン。射程13000km。1編成あたりミサイル2発を積み、25編成を配備する。1989511日、最初の発射テストが行われたが、第2段ロケットの故障により発射70秒後に自爆した。1990年代の配備を予定していたが、冷戦終結で開発中止になった。参考:ザ・マーチ23号、月刊軍事研究7,17、ミリタリー・バランス1989-1990

ミ船団>:日本が太平洋戦争時に運航した、ボルネオのミリと門司を往復するタンカー船団。速力によりミA船団とミB船団に分けられる。参考:月刊軍事研究12,07

ミ08船団>:貨物船・油槽船16隻と海防艦1隻、水雷艇1隻、掃海艇1隻からなる。昭和19710日に門司を出港してシンガポールに向かい、途中で1隻を喪失した。参考:輸送船入門

ミ11船団>:貨物船・油槽船18隻と駆逐艦・海防艦・掃海艇など護衛艦艇6隻からなる。昭和19712日に門司を出港してミリに向かい、途中で4隻を喪失した。参考:輸送船入門

ミ19船団>:貨物船・油槽船18隻と海防艦・水雷艇・特設砲艦6隻からなる。昭和1999日に門司を出港し、ミリに向かった。途中で2隻を喪失している。参考:輸送船入門

<ミソウラ>:APA-211(攻撃輸送艦)を参照。

溝田主一>:日本海軍省嘱託。九州出身で、スタンフォード大学を卒業し、海軍省で通訳を務めた。ロンドン会議以降、全権団の一員として活動し、山本五十六のカード相手でもあった。昭和12年の日華事変勃発を受け、山本五十六海軍次官の命により上海に出向し、揚子江を遊弋するアメリカ海軍やイギリス海軍の艦船に対する誤爆などの事態に備えることになった。その際、交渉の場としてその辺の安宿を使う訳にいかないから高級ホテルに滞在すること、特にトラブルの無い時は平日でも自由行動とすることを要求。山本海軍次官は、自由行動というのは要するに趣味のゴルフの事だろうが、暇でゴルフばかりしているのはトラブルが無いということだから、こんなに目出度いことは無い、と言って快諾した。太平洋戦争が勃発すると、対米戦争では絶対勝てないと公言していたせいか隠棲させられてしまったが、海軍省の方では完全にクビにしてしまうと後で困ると考えていたらしく給料は毎月ちゃんと支払われており、戦争が終わると早速マニラ派遣使節団に加えられてGHQ厚木進駐打ち合わせの通訳を務めた。87歳で死去した。参考:海軍こぼれ話

<ミタール・アセブ級>:オサT級ミサイル艇(ユーゴスラビア海軍)を参照。

御嶽山丸>:日本海軍特設運送船Mitakesan maru。元は鏑木汽船が発注した中型貨物船で、昭和13121日に竣工した。垂線間長110m、幅15.24m、深さ8.84m、吃水7.32m、総トン数4442トン、重量トン数6418トン。主機は川崎式2段減速蒸気タービン1基1軸3507馬力、航海速力14ノット、最大速力16.689ノット。太平洋戦争勃発直前に日本海軍に徴用された。昭和19511日、テニアンの西でSS-381サンド・ランスの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船2,15

途歩>:日本陸軍用語で、「みちあし」と読む。徒歩兵種が通常行う行軍法で、号令または号音により、指揮官以下は刀を納め、銃を各自の欲する肩に担うか掛け(必要なら中隊長が銃に関する規定を行う)、自由の歩法を採り、特別の場合以外は談話や喫煙などもできる。参考:作戦要務令

道足>:自衛隊用語で、部隊が歩調を合わせずに徒歩行進すること。参考:MAMOR vol.164

<みちしお>:SS-564(あさしお型潜水艦)またはSS-591(おやしお型潜水艦)またはTSS-3609(練習潜水艦)を参照。

満潮>:日本海軍朝潮型駆逐艦3番艦Michishio。昭和121031日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時には建制でも兵力部署でも第8駆逐隊に所属していた。昭和17218日、バリ島攻略作戦に参加。219日、バリ島沖海戦で小破(大破?)した。1114日、第3次ソロモン海戦に参加。昭和19131日、トラック環礁北西でSS-237トリガーの雷撃により大破した。1022日、比島沖海戦に参加。1025日、スリガオ海峡で艦砲射撃を受けて沈没し、昭和20110日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊丸1,07、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

みちのくALART2008>:宮城県沖を震源とするマグニチュード8.0の大地震と津波が発生したという想定で、200810月に宮城県、岩手県、三陸沿岸22市町村、自衛隊、日本赤十字社、東北電力など16000名が参加して実施された大規模震災対応訓練。道路が寸断されたことを想定して霞目飛行場からヘリコプターを東北各地に派遣する訓練や、メディア対応訓練なども行われた。参考:月刊世界の艦船6,11、月刊軍事研究4,15

みちのくALART2014>:自衛隊の東北方面震災対処訓練で、2014116-9日に実施された。陸上自衛隊東北方面隊全部隊(第6師団、第9師団、第2施設団など)、第11旅団、北部方面施設隊、北部方面航空隊、第12旅団、第1施設団、第1ヘリコプター団、空自北部航空方面隊、中部航空方面隊、航空救難団、第1輸送航空隊、第4航空団、航空機動衛生隊、海自輸送艦くにさき、第2航空群、横須賀地方隊、大湊地方隊の隊員13000名、車両1200両、航空機40機、艦艇2隻、東北6県など自治体52、関係機関72、在日米陸軍UH-60L、第3海兵機動展開部隊、VMM-262VMM-265MV-22B輸送機1機ずつの在日米軍100名、航空機6機、オーストラリア軍4名が参加し、発災から72時間の初動対応を演練項目に、東日本大震災における災害派遣活動の教訓を元にした震災対処能力・原子力災害対処能力向上などを図った。MV-22Bは物資・負傷者搬送訓練を行った他、防衛大臣を乗せてLST-4003くにさきの上空視察に協力している。当初はくにさきでMV-22Bが燃料を給油(燃料タンク車は三沢基地から在日米空軍のものを持ち込む)する予定だったが、荒天で中止になった。参考:月刊航空ファン2,15、月刊軍事研究4,15、月刊JWings10,14、朝雲

みちのくALART2018>:陸上自衛隊の災害対処訓練で、119-11日に実施された。担任官は東北方面総監で、東北方面隊など陸自15000名、海自160名、空自40名、アメリカ第3海兵遠征軍60名、東北6県の自治体などが参加し、三陸沖地震・内陸型地震に集中豪雨が複合したという想定で、東北方面区とその周辺海空域において実動訓練を行った。1110-11日にはMCAP2018プラス参加者が訓練を見学している。1111日、LST-4001おおすみから水陸機動団AAV7水陸両用車2両が発進して砂浜に上陸、降車した隊員が浜辺で孤立した負傷者を担架で開けた場所に運び、第12ヘリコプター隊UH-60JAヘリで搬送した。また、LCAC-2106も発進して浜辺に陸自大型ブルドーザーを揚陸している。参考:朝雲、月刊世界の艦船2,19

みちのくALART2020>:陸上自衛隊の災害対処訓練。20201112日に東通村で実動訓練、1216日に東通村と仙台駐屯地で図上訓練が実施され、東北方面隊、東北防衛局、自治体職員、東通原発30km県内の住民ら1200人が参加し、避難訓練や情報共有・連携要領確認訓練などを行った。参考:朝雲

みちびき>:日本の航法衛星。日本版GPS衛星とも呼ばれるが、GPSの補完・精度強化用であり、単独でGPSの代替になるものではなく、世界中をカバーしている訳でもない。準天頂軌道衛星3基と静止軌道衛星1基からなり、GPSと互換性のある測位信号を発信し、山間部やビルの谷間で生じるGPS衛星の死角やマルチパスの問題を解決する。基本サービスはGPSと同等の誤差10mだが、上位のサブメータ級サービスでは全国13カ所の監視局で電離層遅延を観測してみちびき経由の専用電波で補正することにより誤差1-2m、最上位のセンチメータ級サービスでは測位補正用L6信号を専用のアンテナと受信機で受信することにより測位誤差を6-12cm(静止体)/12-24cm(移動体)まで小さくできる。カバー範囲は準天頂軌道衛星が通る日本周辺、東南アジア(タイ、フィリピン、ベトナムなど)、オセアニア(オーストラリア、ニュージーランドなど)。ECCM機能も備えており、複数信号同時発信などにより偽信号などに対抗する。測位・補正信号を送らない隙間時間に通信を送ることができ、自治体などの緊急情報伝達や、安否確認サービスなどに使える。サブメータ級・センチメータ級サービスではGPS受信アンテナに加えて専用の補正信号電波受信アンテナを設けなければならず、電力も余計に喰うのが欠点。また、センチメータ級サービスは日本全国1300カ所の電子基準点とGPS測定誤差を補正し、その情報をL6信号に乗せてみちびき経由で送り返さないといけないので、タイムラグが十数秒もあり、固定施設でないと使えない。当初は宇宙航空研究開発機構JAXAが担当し、2010911日に技術実証試験用の1号機が打ち上げられた。テストの結果を踏まえて量産機の開発に移り、2017年には開発が内閣府に移管されている。201761日、2号機が打ち上げられた。819日、3号機が静止軌道に打ち上げられた。1010日、4号機が打ち上げられた。2018年春、部分サービスを開始。111日、4機態勢で本格運用が開始され、安倍総理も出席して記念式典が開催された。2023年度までに7機を打ち上げ、完全運用体制を整える予定。参考:月刊軍事研究3,'19、朝雲、月刊航空ファン5,186,18

三井造船>:201841日に持ち株会社制に移行する予定で、本体が三井E&Sホールディングスとなり、子会社の三井E&S造船、三井E&Sマシナリー、三井E&Sエンジニアリングが事業を行う。参考:月刊世界の艦船12,17

三井造船玉野造船所>:大元は大正時代に岡山県で創設された三井物産造船部で、太平洋戦争終結までは海防艦や駆潜艇、中型潜水艦を製造した。戦後は乙型警備艦DE-203いなづま、DD-106しきなみ、DD-110たかなみ、いすず型1隻、やまぐも/みねぐも型2隻、ちくご型7隻、DE-226いしかり、はつゆき型2隻、あさぎり型1隻、ASR-403ちはや、AS-405ちよだ、あきづき型4番艦を建造している。参考:月刊世界の艦船6,118,11増刊、1,18

三井物産マニラ支店長誘拐事件>:19861115日、三井物産マニラ支店長がゴルフ帰りにマニラ市郊外で武装した5人に誘拐された事件。直後に身代金を要求する電話が来たが、一時連絡が取れなくなり、1987116-17日に香港から脅迫状や支店長の写真、肉声テープなどが送りつけられた。2月下旬から三井物産が水面下で交渉していたらしく、331日に支店長は解放された。198711月に逮捕された日本赤軍メンバーがこの時期にフィリピン、香港、タイなどに出入国を繰り返していたことが判明、1990年代前半にはフィリピン警察がフィリピン共産党新人民軍の幹部を逮捕し、事件に関連して日本赤軍の協力を得ていたとの証言を得た。しかし幹部は後に釈放され、日本赤軍も関与を否定、フィリピン警察は最終的に地元犯罪組織の犯行として実行犯を逮捕した。20031月、フィリピン共産党が公式声明でNPA(新人民軍)による犯行であることや身代金1000万ドルを受け取ったことなどを発表。200412月に日本赤軍メンバーが関与説を流した読売新聞を名誉毀損で訴えたが、200712月に裁判は読売新聞側の勝訴で終結している。参考:月刊軍事研究7,10

<ミッカ>:DE-176(護衛駆逐艦)を参照。

水海道飛行場>:日本海軍の飛行場。参考:JWings11,18

満月>:日本海軍秋月型駆逐艦13番艦。昭和2013日に起工されたが、3月に建造中止となり、昭和23年に解体された。参考:日本駆逐艦史

ミッキーマウス作戦>:第2次大戦中の194410月、ソ連がハンガリー国境に迫ったため、ハンガリーの摂政であるヴィテーズ・ナジヴァーニャイ・ホルティ・ミクローシュ提督はソ連への講和を画策していた。ドイツ国防軍はこれを察知し、ヒトラーがオットー・スコルツェニーSS少佐に阻止作戦を下命。SS保安本部の指揮の下、ホルティ摂政の息子であるニコラス・ホルティを誘拐して講和を阻止することにした。当初はマウス作戦という名称が付けられたが、ニコラス・ホルティの渾名ニッキーに引っ掛けてミッキーマウス作戦に改称されている。1012日、第503重戦車大隊がドイツ本土のパーターボルンからハンガリーに向け出撃した。10151200、ホルティ摂政はソ連に停戦を申し入れたと発表。これを受け、ドイツ国防軍は本作戦を発動、ドナウ川の橋を制圧するなどしてブダペスト市内の交通を遮断した。翌日にはパンツァーファウスト作戦を発動、ホルティ摂政を辞任に追い込んだ。参考:武装親衛隊、グラフィックアクション44

<ミッキーマウスの耳>:EC-130EABCCC)空中戦指揮管制センターまたはT26E4(試作戦車)を参照。

御月丸>:板谷合名貨物船Mitsuki maru。元は明治32年(1899年)3月に竣工したイギリスのブリティッシュ&ホーリン汽船所有セント・ビード(Saint Bede)で、明治44年に板谷合名が購入して改称した。全長106.68m、幅14.08m、深さ8.59m、総トン数3575トン、重量トン数6065トン。主機は三連成汽機1基1軸1899馬力、航海速力8.75ノット、最大速力10ノット。明治45年、板谷商船に移籍。昭和9年、坂井汽船に売却された。昭和171220日、志摩半島大王埼沖90海里で触雷して沈没した。参考:月刊世界の艦船1,16

<ミックスマスター>:XB-42A(試作爆撃機)を参照。

<ミッジ>:Fo-139(試作機)を参照。

光島丸>:三菱商事2TL型戦時標準油槽船Mitsushima maru。総トン数10045トン。昭和1912月竣工。参考:戦時標準船入門

ミッション・コマンド>:Mission command。指揮官が部下に裁量権を与え(Decentralized execution)、自発的で臨機応変な行動を取らせる方式のこと。参考:朝雲

ミッション・シンボル>:任務達成を記念して航空機に記入するマーク。対象の任務は実戦から試験まで多岐に亘り、実に多様で、撃墜や撃沈など戦果を示すタイプもある。参考:月刊JWings6,20

ミッションストライク・カメラ>:戦果確認用カメラのこと。1枚撮りとパノラマ撮影型がある。参考:スパイ機

<ミッション・ベイ>:CVE-59(護衛空母)を参照。

<ミッションマスター>:N22Bシリーズ(輸送機)を参照。

<ミッシングマン・フォーメーション>:慰霊飛行(自衛隊)を参照。

<ミッチェル>:B-25シリーズ(爆撃機)またはDE-43(エヴァーツ級護衛駆逐艦)を参照。

<ミッチェルMk.T>:B-25シリーズ(爆撃機)を参照。

<ミッチェルMk.U>:B-25シリーズ(爆撃機)を参照。

<ミッチェルMk.V>:B-25シリーズ(爆撃機)を参照。

ミッチェル・トロフィー>:グローバルストライク・チャレンジにおいて、爆撃精度部門で優れた成績を収めた部隊に授与されるトロフィー。参考:月刊航空ファン2,11

ミッチェル・パターン>:アメリカ軍が1953年に採用した迷彩塗装で、テントなどに施され、後にヘルメットカバーにも採用された。広葉樹の枝と葉を模った緑色系迷彩と、斑点模様の茶系迷彩がリバーシブルになっている。参考:月刊丸3,13

<ミッチャー>:DDG-57(ミサイル駆逐艦)を参照。

ミッチャー>:マーク・A・ミッチャー。1887年、ウィスコンシン州生まれ。アナポリス海軍兵学校に入学したが、生徒同士の集団乱闘事件に巻き込まれて一旦退学処分を受け、再入学した。1910年、海軍兵学校38期卒。席次は131名中108番だった。1915年、中尉の時にペンサコラの海軍飛行学校に入学、巡洋艦ハンチントンの水上機パイロットとなった。同年、海軍作戦部航空課に配属された。1928年からCV-3サラトガやAV-3ラングレイの副長を務め、AV-1ライトの艦長となった。1939年、海軍省航空局次長(当時の階級は大佐)となった。194110月、CV-8ホーネット艦長となり、19424月の日本本土奇襲攻撃、6月のミッドウェイ海戦に参加。194212月、少将となり、南太平洋艦隊航空部隊司令官に着任した。19434月、ソロモン諸島方面統合航空部隊司令官となり、山本長官機撃墜を指揮した。19442月、トラック環礁空襲を指揮。19446月、第58機動部隊指揮官(中将)としてマリアナ沖海戦に参加。11月、第38機動部隊指揮官(中将)として比島沖海戦に参加。19456月、海軍作戦部航空作戦担当次長に就任。太平洋戦争終結後、海軍作戦部長に推されたが、これを辞退した。1946年、大将に昇任して大西洋艦隊司令官となった。19472月、大西洋艦隊司令官の現職中に心臓発作を起こして死去した。参考:ラバウル航空戦、月刊丸12,92、月刊軍事研究4,16

ミッチャー級フリゲート>:アメリカ海軍フリゲートMitscher級。空母機動部隊直衛用大型重武装艦として建造されたもので、1953-54年に4隻が就役した。全長149.4m、基準排水量3642トン、満載排水量4855トン。主機は蒸気タービン2基、主缶(温度520℃、圧力1平方センチあたり84kg)4基、出力80000馬力、速力36.5ノット。兵装は127mm単装砲2門、76mm連装砲2基、Mk108対潜ロケット発射機2基。1960年、ソナーを換装し、後部Mk108対潜ロケット発射機を撤去してDASH運用設備を設けた。ミッチャーとジョン・S・マッケーンの2隻は1966年から改装を受け、19673月に艦種がミサイル駆逐艦となった。他の2隻はフリゲートのままで1974年までに退役した。参考:月刊世界の艦船9,965,8612,'21、月刊軍事研究5,03

ミッチャー級ミサイル駆逐艦>:76mm連装砲とMk108対潜ロケット発射機を全て撤去し、艦前部にアスロック、艦後部にターターSAM単装発射機Mk13を装備したタイプ。ミッチャーとジョン・S・マッケーンの2隻が1966年から改装に入り、19673月に艦種がミサイル駆逐艦とされ、1968-69年に改装を完了した。参考:月刊世界の艦船9,965,86、月刊軍事研究5,03

<ミッドウェイ>:CV-41(空母)またはCVE-63(護衛空母)を参照。

ミッドウェイ海戦>:太平洋戦争時、日本軍がMI作戦を開始し、昭和173月に日本軍の飛行艇2機がハワイのオアフ島を爆撃。中部太平洋で日本軍が攻勢に出る前兆と捉えたアメリカ軍情報部(OP-20-Gハイポ支局)は太平洋艦隊ニミッツ提督に通報、目標地点は「AF」であるということを無線傍受と暗号解読により把握していた。51日に日本海軍は暗号の乱数表を変更する予定だったが、延期したため、作戦内容がアメリカ側に筒抜けになってしまった。53日、ニミッツ提督がミッドウェイ島を視察、528日に日本軍が大攻勢に出るとして兵力と防御施設の強化を命じた。情報部は「AF」がどこなのか把握するため、ミッドウェイの海水蒸留装置が故障したという偽電報を平文で打電。日本軍はこれにひっかかり、「AFで新鮮な水が不足」という暗号電報を打電したため、これを解読され、攻撃目標がミッドウェイ島であることがばれてしまった。他の解読暗号と組み合わせてアメリカ軍は525日までには日本側の作戦概要の殆どを掴み、日本側兵力が戦艦2-4隻、空母4-5隻、重巡8-9隻、軽巡4-5隻、駆逐艦16-24隻、潜水艦20隻強であると判断。ニミッツ提督はアリューシャンには巡洋艦5隻、駆逐艦14隻、潜水艦6隻を回し、大部分の兵力をミッドウェイ島に集中させることとした。日本軍は作戦開始日を63日に延期したが、これもアメリカ側は掴んでおり、ミッドウェイ島の防衛体制を整えた。日本軍のミッドウェイ島上陸予定日時は、夜明け前に月が出る66日深夜である。アメリカ側は珊瑚海海戦でCV-2レキシントンが沈没、CV-5ヨークタウンは大破しており、CV-3サラトガはサンディエゴで修理中と空母不足が深刻であった。日本側参加部隊は、先遣部隊が第3潜水戦隊(第11潜水隊の伊174、伊175、第12潜水隊の伊168、伊169、伊171)、第5潜水戦隊(第19潜水隊の伊156、伊157、伊158、伊159、第30潜水隊の伊162、伊164、伊165、伊166、第13潜水隊の伊21、伊22、伊23)。機動部隊(指揮官南雲忠一中将)が第1航空戦隊(空母赤城、加賀)、第2航空戦隊(飛龍、蒼龍)、第10戦隊(軽巡洋艦長良、第10駆逐隊の駆逐艦秋雲、夕雲、巻雲、風雲、第17駆逐隊の駆逐艦浦風、浜風、磯風)、第8戦隊(重巡利根、筑摩)、第3戦隊(戦艦榛名、霧島)、第4駆逐隊(萩風、舞風、野分、嵐)、油槽船8隻。攻略部隊(指揮官近藤信竹中将)が第7戦隊(重巡洋艦鈴谷、熊野、最上、三隈)、第2水雷戦隊(軽巡洋艦神通、第15駆逐隊の黒潮、親潮、早潮、第16駆逐隊の初風、雪風、天津風、時津風、第18駆逐隊の霞、霰、陽炎、不知火)、第3戦隊(戦艦金剛、比叡)、第4戦隊(重巡洋艦愛宕、鳥海)、第5戦隊(重巡妙高、羽黒)、第4水雷戦隊(軽巡洋艦由良、第9駆逐隊の駆逐艦朝雲、夏雲、峯雲)、第2駆逐隊(駆逐艦村雨、夕立、春雨、五月雨)、空母瑞鳳、第11航空戦隊(水上機母艦千歳、特設水上機母艦神川丸)、駆逐艦朝潮、荒潮、三日月、哨戒艇4隻、特設掃海艇4隻、特務艦明石、佐多、鶴見、輸送船18隻、油槽船2隻で、地上部隊は陸軍一木支隊、第11・第12設営隊、第4測量隊と海軍特別陸戦隊2個大隊の計5800名。主力部隊(旗艦大和、山本五十六連合艦隊司令長官座乗)は連合艦隊直率の第1戦隊(大和、陸奥、長門)、第1艦隊司令長官隷下の第2戦隊(伊勢、日向、山城、扶桑)、第9戦隊(軽巡洋艦北上・大井)、第3水雷戦隊(軽巡洋艦川内、第11駆逐隊の吹雪、白雪、初雪、叢雲、第19駆逐隊の磯波、浦波、敷波、綾波、第24駆逐隊の海風、江風、第27駆逐隊の夕暮、白露、時雨、第20駆逐隊の天霧、朝霧、夕霧、白雲)、空母鳳翔、水上機母艦千代田、日進、駆逐艦山風、夕風、有明、特務艦鳴戸、油槽船3隻で、ミッドウェイ島占領後に反撃してくると予想されるアメリカ太平洋艦隊との決戦にも備えた万全の布陣だった。アメリカ側は、第17機動部隊(指揮官フランク・J・フレッチャー少将)の空母CV-5ヨークタウン(戦闘機25機、哨戒機19機、爆撃機18機、雷撃機13機)、重巡CA-33ポートランド、CA-34アストリア、駆逐艦DD-410ヒューズ、DD-411アンダースン、DD-412ハンマン、DD-414ラッセル、DD-417モリス、DD-433グウィン、第16機動部隊(指揮官レイモンド・A・スプルーアンス少将)の空母CV-6エンタープライズ(戦闘機27機、哨戒機19機、爆撃機19機、雷撃機14機)、CV-8ホーネット(戦闘機27機、哨戒機18機、爆撃機19機、雷撃機15機)、重巡CA-24ペンサコラ、CA-26ノーザンプトン、CA-32ニュー・オーリンズ、CA-36ミネアポリス、CA-44ヴィンセンズ、軽巡CL-51アトランタ、駆逐艦DD-349デューイ、DD-352ウォーデン、DD-354モナガン、DD-794アーウィン、DD-360フェルプス、DD-363バルチ、DD-371カニンガム、DD-397ベンナム、DD-398エレット、DD-401モーリ、DD-436モンセン、給油艦シマロン、プラット、潜水艦隊ミッドウェイ哨戒部隊の潜水艦SS-168ノーチラス、SS-169ドルフィン、SS-170カシャロット、SS-171カットルフィッシュ、SS-198タンバー、SS-202トラウト、SS-209グレイリン、SS-210グレナディア、SS-211ガジョン、SS-212ガトー、SS-214グルーパー、SS-229フライング・フィッシュ、移動哨戒部隊の潜水艦SS-167ナーワール、SS-279プランジャー、SS-237トリガー、オアフ島北部哨戒部隊の潜水艦SS-173パイク、SS-175ターポン、SS-230フィンバック、SS-215グロウラー。ミッドウェイ島を防衛するのは陸戦兵力が第6海兵防衛大隊長ハロルド・D・シャノン海兵中佐率いる海兵隊員2138名、航空要員及び管理補給要員がミッドウェイ海軍基地隊司令シリル・T・シマード海軍中佐率いる1494名で、魚雷艇11隻、航空機121機が配備されていたが、航空機のうち30機はカタリナ飛行艇、37機は旧式急降下爆撃機で、陸海軍海兵隊が入り交じっており、部隊間の連携に不安があった。55日、陸軍歩兵第28連隊に一木支隊の戦闘序列が発令された。支隊長は歩兵第28連隊長の一木清直大佐で、支隊本部、歩兵大隊、連隊砲中隊、速射砲中隊、工兵中隊、通信隊、衛生隊、輜重隊、独立速射砲第8中隊、船舶工兵中隊からなる。514日、一木支隊が駐屯地を出発。527日、南雲機動部隊が瀬戸内海を出撃し、豊後水道を経てミッドウェイに向かった。528日、攻略部隊の一部がサイパンとグアム島を出撃。空母CV-5ヨークタウンが真珠湾の乾ドックに入港、1400名が突貫工事で修理を開始した。529日、攻略部隊の残りが柱島泊地を出撃。続いて主力部隊が柱島泊地を出撃、南雲機動部隊の後方300海里を進撃した。アメリカは潜水艦哨戒部隊によりこの動きを掴んでおり、日本艦隊出撃の報を受け、同日、第16機動部隊がハワイからミッドウェイ北東海域に向け出撃。日本側もこの日にアメリカ潜水艦2隻を探知し、日本近海、ウェーク北方、トラック付近を合わせるとアメリカ潜水艦16隻を発見していたが、奇襲意図の暴露に関して特段の警戒は取られなかった。530日、第17機動部隊がハワイからミッドウェイ北東海域に向け出撃。日本の艦上偵察機の行動範囲外に位置し、ミッドウェイ島の索敵機により先に日本艦隊の正確な位置を掴んで戦闘を有利に展開させることにした。日本とアメリカの戦力差は輸送船含む艦船総数で380180、戦艦が11対0、空母が8対3(ヨークタウンは応急修理)、巡洋艦が23対8で、航空機の性能や搭乗員の練度も圧倒的に日本有利だった。531日夜、第17機動部隊がハワイとミッドウェイの中間線を通過。ここには日本海軍潜水艦が哨戒線を張っている筈だったが、開戦以来の長期哨戒に就いていたため休養が必要で、配置に付くのが61日にずれ込んだため、第17機動部隊の動向を探ることに失敗した。61日、連合艦隊は真珠湾に太平洋艦隊が残っているかどうか探るため、二式大艇による偵察(第2回K作戦)を実施することにしたが、潜水艦による燃料補給を実施する予定にしていたフレンチフリゲート礁にアメリカの駆逐艦が遊弋していたため、これを中止した。潜水艦による掃航索敵も行われず、連合艦隊は正確な敵の位置を掴めないままに作戦を実行することとなった(ソロモン方面でアメリカの活動が活発であったため、南太平洋にいると判断していた)。無線諜報ではハワイからミッドウェイ島への通信180通強のうち、72通が緊急電であると判明しており、ミッドウェイ作戦がアメリカ側にばれている可能性は高かったが、特段の警告などは行われていない。ミッドウェイへの進撃途中、濃霧のため給油艦鳴戸が第三水雷戦隊と邂逅できず、無線封鎖を破って自艦の位置を示す信号を発したが、幸運にもアメリカ側には探知されなかった。63日、ミッドウェイ島空襲を予定通りに実施することを決定。現地時間63日(東京時間4日)、大和がミッドウェイ北方海面でアメリカ空母らしき呼出符号を傍受したが、機動部隊旗艦赤城には伝えなかった。第16・第17機動部隊がポイント・ラックで会同した。0400、カタリナ飛行艇23機がミッドウェイ島を離陸、半径1100km・中心角8度の扇形で哨戒飛行を開始した。0500、アリューシャン攻略戦が開始されたが、太平洋艦隊は陽動と読んでおり、動かなかった。0630、カタリナ飛行艇の1機がミッドウェイ島から方位261度、距離1100kmの地点に戦闘艦艇及び輸送船11隻からなる日本海軍艦隊を発見。これはミッドウェイ攻略部隊の陸軍部隊とその護衛艦艇であり、太平洋艦隊のニミッツ提督も主力部隊でないと判断。1230、ミッドウェイ島からこの艦隊を攻撃するためB-17爆撃機9機が離陸。1630B-17爆撃隊が戦艦若しくは重巡5隻、他に約40隻の艦船からなる艦隊を発見し、爆弾を投下したが、日本海軍側に被害は無かった。大本営海軍部は作戦意図を察知されたとは考えず、そのまま攻略作戦を続行した。1730、ミッドウェイ島の北東500kmに位置しているアメリカ海軍機動部隊が南西に変針、ミッドウェイ島に向けて航行を開始。同日夜、カタリナ飛行艇4機がレーダーと魚雷を搭載してミッドウェイ島を離陸、日本海軍艦隊を雷撃し、油槽船あけぼの丸を小破させた。これがアメリカ海軍初の双発飛行艇による雷撃及びレーダーによる夜間雷撃成功である。64日未明、南東に向かい航行する南雲機動部隊はミッドウェイ島の北西400kmに到達、ミッドウェイ攻撃部隊が発艦準備を開始。ミッドウェイ島周囲の索敵のため、利根、筑摩から2機ずつ、榛名から1機の水上機と、赤城、加賀から1機ずつの艦攻を発艦させることにした。赤城機は真南、加賀機は南南東、利根1番機は東南東、利根2番機は真東、筑摩1番機は東北東、筑摩2番機は北東、榛名機は北北東に500km真っ直ぐ飛行し、270度変針して97km飛んで帰投する(榛名は250km270度変針後65km)コースである。第2航空戦隊司令官山口多聞少将はもっと飛ばすべきと主張したが、南雲中将はアメリカ機動部隊が近くにいるとは考えておらず、参謀長草鹿龍之介少将や航空参謀源田実中佐もこれで十分とした。0430、赤城、加賀、榛名、筑摩から偵察機が発艦。しかし利根はカタパルトが故障し、発艦が0500に遅れ、筑摩の2番機は0635にエンジン故障のため引き返した。この不具合を起こした偵察機のコース上にアメリカ機動部隊がおり、発見が遅れることとなった。ただ時間通りに発艦していたら機動部隊がコース上におらず見逃していたという説もある。偵察機の発艦と同時刻の640430(東京時間50130)、第1次攻撃隊108機(零戦、攻撃機、爆撃機36機ずつ)が発艦を開始。0445、編隊を組み終わり、ミッドウェイ島に向かった。0520CV-5ヨークタウンから爆撃機10機が発艦、索敵を開始。ほぼ同時刻、ミッドウェイ島からB-17爆撃機16機が離陸、索敵を開始。0530、カタリナ飛行艇がミッドウェイ島の方位320度、距離240kmに空母赤城を発見、26ノットでミッドウェイ島に向け航行中と警報を発した。すぐ後に別のカタリナ飛行艇が、ミッドウェイ島に向け多数の日本軍機が飛行中と打電。0600、ミッドウェイ島の航空機は全機が離陸し、日本艦隊の攻撃及び日本軍機の迎撃に向かった。アメリカ機動艦隊はミッドウェイ島の北東350kmにおり、0603に日本空母発見の報を受けた。0607、第17機動部隊を率いるフレッチャー少将は第16機動部隊を率いるスプルーアンス少将に対し、南西に前進して空母を攻撃するように命令。第16機動部隊は25ノットで前進を開始した。0630、第1次攻撃隊は空襲を開始。F2Aバッファロー27機が迎撃にあたったが、15機が撃墜され、7機が再度離陸できないほどの損傷を受けて蹴散らされた。爆撃機と攻撃機は発電所や燃料タンクを破壊、加賀と蒼龍の九七式艦攻は八十番陸用爆弾で対空砲陣地を爆撃したが、アメリカ航空戦力は全て空中にあったため撃破できず、第1次攻撃隊友永飛行隊長は0700に第2次攻撃の要ありと認む、と打電した。0700、第16機動部隊は雷撃機の攻撃範囲に到達、CV-6エンタープライズからF4F戦闘機10機、SBDドーントレス爆撃機33機、TBDデバステイター雷撃機14機が、CV-8ホーネットからF4F戦闘機10機、ドーントレス爆撃機35機、デバステイター雷撃機15機が発艦を開始した。0710頃、ミッドウェイ島から離陸したアヴェンジャー雷撃機及びB-17爆撃機合わせて10機が空母赤城を雷爆撃したが、全てかわされ、零戦によりアヴェンジャー5機とB-17爆撃機2機が撃墜された。それまで偵察機からアメリカ海軍機動部隊発見の報が無かったことから、南雲中将は付近にアメリカ機動部隊はいないものと判断し、0715、第2次攻撃隊の出撃を決断。空母赤城・加賀艦上攻撃機43機と空母飛龍・蒼龍艦上爆撃機36機の武装を対艦攻撃用から対地攻撃用に積み替える(艦攻は魚雷から陸用爆弾、艦爆は通常爆弾から陸用爆弾)ことになった。加賀の雷装脱着は飛行甲板で行うため、直掩戦闘機発艦により格納庫甲板にあった九七式艦攻を飛行甲板に出し、大急ぎで換装作業を行った。0730、帰途についていた利根の1番機から「敵艦らしき10隻見ゆ、ミッドウェイの10240マイル(444.5km)、針路150度(南西)、速力20ノット、0428(東京時間。現地時間では0728)」の警電が入ったため、南雲中将は艦種を確認するよう打電した。直後、ミッドウェイ島から離陸したSBDドーントレス爆撃機16機が爆撃を仕掛けたが、零戦により8機が撃墜され、爆弾も全て外れた。更にB-17爆撃機15機が続いたが、これも全て外れた。0800、利根の1番機が艦種は巡洋艦5隻及び駆逐艦5隻であると打電。0806、第16機動部隊の攻撃機部隊は全機発艦を終了、南西250kmに位置する日本海軍空母の攻撃に向かった。0830、利根の2番機が南雲機動部隊から210海里まで迫った敵艦隊中に空母を視認。空母は護衛部隊を伴うCV-5ヨークタウンであると打電した。この報告を受けて第2航空戦隊司令官山口多聞少将は爆装のまま護衛無しで出撃することを発光信号で具申(現装備のまま攻撃隊直ちに発進せしむを正当と認む)したが、南雲中将は第1次攻撃隊と上空直掩機の収容、第2次攻撃隊の魚雷・通常爆弾への換装を行いつつ、その間艦隊を北上させて一時待避させることとした。これを受け、各空母では飛行甲板上に並んでいた艦攻や艦爆を一旦格納庫に降ろして第1次攻撃隊と上空直掩機を収容できるようにし、陸用爆弾を機体から外し、通常爆弾や魚雷を弾庫からリフトで格納庫に上げ、投下器を魚雷用に交換し、兵装を換装した後に投下試験を行い、正常な作動を確認した後もう一度兵装取り付けを確認、再び飛行甲板上に戻すという作業に入った。兵装の換装・取り付け作業は兵器係の担当だが、爆弾と魚雷では運搬車が違っており、弾庫の位置も別々、投下器取り付けネジや孔の位置も各機バラバラで他機のものを使用すると装着できないため、非常に時間のかかる作業で、訓練では魚雷から80番(800kg爆弾)への換装で2時間半、80番から魚雷の換装に2時間かかっており、航空機整備員からパイロットまで動員して格納庫内はてんやわんやの状態で、外した陸用爆弾はそのまま格納庫に残されていた。第17機動部隊は2隻目の日本海軍空母を発見したとの報を受け、F4F戦闘機6機、SBDドーントレス爆撃機17機、TBDデバステイター雷撃機12機を出撃させ、更に索敵機を出してもう2-3隻いる筈の日本海軍空母(無線傍受により判断)の発見に努めた。0844、帰還中の利根の偵察機に対し、燃料が切れるまでそのまま敵との触接を保ち、救助機の到着を待つように指示。南雲中将は山本長官に向け、空母1、巡洋艦5、駆逐艦5からなる敵部隊を攻撃すると打電した。0900、第1次攻撃隊の収容を完了、南雲機動部隊は北東に変針し、18機の零戦が上空を直掩する中、30ノットで航行を開始した。0918CV-8ホーネットから飛び立った第8雷撃中隊TBD艦攻15機が低空で来襲。ほぼ同時に偵察機から約100機のアメリカ軍機が南雲機動部隊に向け飛行中という無電が入ったため、2隻以上の空母が付近にいると判断した南雲中将は蒼龍に偵察機を発進させ、敵空母の数を把握するように伝えた。途中で護衛戦闘機隊とはぐれていたホーネット第8雷撃中隊は、眼下に蒼龍を含む空母3隻、巡洋艦6隻、駆逐艦10隻を視認し、空母の上には航空機が並んでいて補給中らしいことを無線で母艦に伝え、距離13kmの地点で攻撃を開始した。しかし直掩の零戦に全機が撃墜され、生存者は1名しかいなかった。その15分後、CV-6エンタープライズとCV-5ヨークタウンの雷撃隊(こちらも護衛戦闘機隊とはぐれていた)が低空から攻撃を開始したが、26機のうち20機が撃墜され、魚雷も全て外れた。日本海軍空母に損害は無かったが、回避運動で艦が動揺し、兵装転換作業がますます遅れてしまった。その頃、ホーネット爆撃隊は日本海軍空母の変針に気付かず、艦隊を発見できずに引き返していたが、第6空母航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐(中佐?)直率のエンタープライズ第6爆撃中隊VB-6・第6偵察中隊VS-6は北に変針したと判断して0935に方向を転じ、1000過ぎに駆逐艦の航跡を発見、続いて雷撃隊と交戦中の空母3隻を発見した。1024VB-6中隊長ディック・ベスト大尉率いる3機が空母赤城に、マクラスキー少佐直率のVB-6VS-6の残り30機が加賀に急降下爆撃を開始。直掩の零戦は全て低空に降りており、レーダーも無く、対空監視員も雲に視界を遮られ、数丁の対空機銃による反撃も空しく、赤城の飛行甲板と中央エレベーターに爆弾(500ポンドまたは1000ポンド汎用爆弾)1発ずつが命中。加賀には艦橋付近、飛行甲板右舷後部、左舷中部、前部エレベータ−に1発ずつ計4発の爆弾(500ポンドまたは1000ポンド汎用爆弾)が命中し、艦橋付近への直撃弾で燃料車が大爆発して艦橋が吹き飛び岡田次作艦長以下幹部ほぼ全員が即死、天谷孝久飛行長が指揮を引き継いだ。更にマクスウェル・レスリー少佐(中佐?)率いるヨークタウン第3爆撃中隊VB-3所属17機がほぼ同時に上空に到達し、攻撃されていなかった蒼龍に殺到、艦前部13mm機銃群付近、1番高角砲付近、飛行甲板後部中央付近に1発ずつ計3発の1000ポンド汎用爆弾を命中させた。各空母艦上機はまだ兵装交換を終えておらず、飛行甲板を貫通した爆弾が格納庫で炸裂し、格納庫内の機体及び山積みになっていた爆弾や魚雷に引火・誘爆して3隻とも一瞬で戦闘不能になってしまった。赤城が大破して指揮機能を喪失したため、一時的に第1機動艦隊の指揮を利根座乗の第8戦隊司令官阿部弘毅少将に移し、航空戦の指揮は飛龍座乗の第2航空戦隊司令官山口多聞少将が執る事になった。1035、蒼龍が行動不能となり、駆逐艦濱風と磯風が誘爆で海に落ちた乗員の救出にあたった。蒼龍艦長は総員退避を命じ、自身は艦橋に残った。乗員は思いとどまらせようとしたが、軍刀を手に艦橋で仁王立ちする艦長を連れ戻すことは叶わなかった。1040、空母飛龍に搭乗していた第2航空戦隊司令官山口少将は、直ちに反撃を行うことにし、零戦6機と艦爆18機を発艦させた。1046、南雲中将が駆逐艦野分のボートで空母赤城から離艦、幕僚と共に将旗を長良に移したが、通信能力の限界から指揮がほぼ不可能になった。1050、山本長官に、空母3隻が炎上中で、機動部隊は一時北方に退避するとの無電が入った。このため、主力部隊は500km離れたところにいる南雲機動部隊の救出に向かうことになったが、霧のため隊形を整えるのに1時間以上かかってしまった。1125、赤城が行動不能となった。1200頃、攻撃隊を収容中のCV-5ヨークタウンのレーダーが、80kmの地点に飛龍攻撃隊をキャッチ。甲板上の航空機は空中退避し、CV-6エンタープライズとCV-8ホーネットから戦闘機28機が発艦して迎撃に向かった。飛龍攻撃隊の艦爆のうち10機が迎撃機に撃ち落とされ、2機が対空砲火に撃墜され、1機が投弾後に引き起こしが遅れて墜落したが、CV-5ヨークタウンに3発を命中させ、うち1発が煙突を貫通して缶室を粉砕、行動不能に陥らせた。1発は格納庫甲板(艦戦7-8機と艦爆10機が中にあった)で炸裂し、飛び散った炸薬が主翼に張り付いて炎上したが、翼内燃料タンクが無いため大事には至らず、整備員が主翼を切断して投棄、延焼を防いだ。飛龍には無線機が故障して打電できなかった蒼龍の偵察機が着艦、空母3隻の発見を告げたため、残る零戦6機と艦攻10機全てを攻撃に向かわせることにした。1220、山本長官はミッドウェイ攻略作戦続行を命令。1245、飛龍の第2次攻撃隊が発進。艦攻は九一式航空魚雷改三を装備していた。第1次攻撃隊は飛龍に帰還して戦果を報告、山口少将は空母1隻を大破させたと判断した。1250、山本長官はアリューシャン攻略部隊を援軍として呼び戻すことを命じ、伊168潜水艦、重巡三隈、熊野、鈴谷、最上、戦艦比叡にミッドウェイ島の砲撃を下命した。1400SS-168ノーチラスが加賀を雷撃、1本が命中したが、不発だった。CV-5ヨークタウンの損害制圧班が応急修理を終了、自力で18ノットの航行を可能とした。1430CV-5ヨークタウンのレーダーが65kmの距離で飛龍第2次攻撃隊を発見。CV-6エンタープライズとCV-8ホーネットからF4Fが迎撃に向かった他、CV-5ヨークタウンも戦闘機を発艦させた。第2次攻撃隊は第1次攻撃隊による損傷を受けていない空母を攻撃するように命じられていたが、応急修理を受けたCV-5ヨークタウンが大破しているようには見えず、これを攻撃した。隊長機は朝のミッドウェイ島攻撃時に対空砲で燃料タンクを損傷しており、片道任務を覚悟していたため、CV-5ヨークタウンに向けて雷撃を行った後、飛行甲板に突入。続く攻撃隊機が2発の魚雷をCV-5ヨークタウン左舷中央部に命中させ、1445CV-5ヨークタウンは行動不能に陥った。この頃、CV-5ヨークタウンの偵察機が空母飛龍をヨークタウンから160kmの地点に発見した。1458CV-5ヨークタウンの放棄を決定。1600CV-6エンタープライズから24機(第6偵察中隊VS-6所属10機+CV-6に収容していたヨークタウン所属11機?)、CV-8ホーネットから16機のSBDドーントレスが発艦。戦闘機は空母の防衛用に残したため、護衛無しで出撃した。1615、赤城の機関長が機関修理不能を艦長に報告、艦長は総員退避を命じた。飛龍から、航空搭乗員の報告によれば敵部隊は空母3隻、重巡5隻、駆逐艦15隻で、空母2隻の撃破に成功したとの無電が山本長官に届いた。1630、第2次攻撃隊は飛龍に帰還、戦果を報告し、山口少将は2回の攻撃で空母2隻を使用不能にしたと判断したが、実際は1隻であった。この時点で飛龍が使用できる航空機は戦闘機6機、爆撃機5機、雷撃機4機だった。アリューシャン攻略部隊から山本長官に無電が入り、部隊が合流するのは66日の午後になると伝えられた。1640、加賀の放棄を決定、天谷飛行長が総員退艦を下命し、天皇陛下の御真影は駆逐艦萩風に移された。1700、飛龍に対してSBDドーントレス爆撃機隊が攻撃を開始。敵機に対する警報は出されておらず、1000ポンド汎用爆弾4発が命中し、第3次攻撃に備えて格納庫甲板に山積みとなっていた爆弾、魚雷、燃料が誘爆、飛龍は行動不能に陥った。爆撃隊の何機かはこの損害を見て目標を護衛の榛名及び筑摩に移した。飛龍は火災発生に伴い吃水線より下のハッチを全て閉鎖、閉じ込められた機関科員の断末魔が伝声管から聞こえてきたが、艦中央部が吹き飛んで艦首と艦尾の僅かな空間に集まった生存者にはどうすることもできなかった。護衛の駆逐艦2隻が消火しようとしたが、舷側に倒したマストが邪魔で近寄れず、放水が届かなかった。空母4隻を撃破したと伝わったミッドウェイ島からは、追撃のためにB-17爆撃機4機が出撃した。1736、重巡筑摩の索敵機が南雲機動部隊から140kmの地点を東に移動するアメリカ艦隊を発見。1755、山本長官に空母飛龍が炎上中との連絡が入った。また、南雲中将から、旗艦を長良に移したこと、アメリカ機動部隊には軽空母を含む空母4隻、巡洋艦6隻、駆逐艦16隻がある模様で、明朝に再度接触を図ることが伝えられた。この頃南雲機動部隊追撃に向かったB-17爆撃機が帰還、途中で零戦の迎撃を受けたと報告した。これは飛龍の所属機で、母艦が大破したため不時着水に備えて燃料消費中だったのだが、アメリカ軍は5隻目の空母が付近にいると判断し、ミッドウェイ島から海兵隊所属の11機の急降下爆撃機が出撃したが、発見できずに帰還した。ハワイの太平洋艦隊潜水艦隊司令官は、ミッドウェイ島から半径8km以内に隷下の潜水艦を配置、日本海軍艦隊の襲来に備えた。1823、日没を迎えた。1840、加賀の火災が収まったように見えたため、消火隊員が近づいたが、炎熱が激しいため作業が出来ずに引き返した。直後に2回の爆発が起き、加賀は艦長以下乗員800名と共に沈没した。1912、駆逐艦巻雲が見守る中、空母蒼龍が沈没。1915、山本長官は全指揮官に対し、残存アメリカ艦隊の追撃とミッドウェイ占領を下命。この頃、アメリカ機動部隊は夜戦を避けて東方に退避中で、万が一ミッドウェイ島に日本艦隊が迫ってきた場合に備え、ミッドウェイ島から400km東の位置に移動することにしていた。1920、空母赤城の艦長が航海長の説得に応じ、赤城を最後に離艦して駆逐艦野分に移乗。2030、伊168潜水艦がミッドウェイ島の滑走路を砲撃したが、数発撃ち込んだところでサーチライトに照らし出され、沿岸砲と駆潜艇の反撃を受けたため、戦果無く退避した。2100、ミッドウェイ島に、ミッドウェイの西100kmにあるクレ島へ日本軍部隊が上陸したという哨戒艇からの報告が入った。上陸が近いと判断されたため、カタリナ飛行艇2機が雷装して索敵に出撃。2130、重巡筑摩の偵察機からの情報を元に、南雲中将が山本長官に向け、敵兵力は空母5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦15隻の模様で、南雲機動部隊は北西に18ノットで退避中との無電を送った。空母5隻は偵察員の見間違いだったが、それでも戦闘を継続することにした山本長官は南雲中将を機動部隊の指揮から外し、第2艦隊司令長官の近藤中将を代わりに充て、引き続きミッドウェイ島の砲撃に向かわせた。650100頃、SS-198タンバーが、ミッドウェイ島から140kmの海上に多数の未確認艦艇を発見。これは重巡最上・三隈などからなるミッドウェイ島砲撃部隊であった。アメリカ軍はこれを上陸部隊と判断、ミッドウェイの東320kmにいた機動部隊を25ノットでミッドウェイに向かわせた。同じ頃、山本長官はアメリカ空母2隻が健在で、東方に離脱中であること、主力部隊が濃霧のために予定のコースを19度外れて航行していることから、夜戦の可能性が薄れたと判断。黒島作戦主任参謀は昼間に残存部隊のみで攻撃をかけることを具申したが、軽空母2隻と艦載水上機だけでは制空権が取れず、潜水艦と航空機の波状攻撃でミッドウェイ島に到達する前に連合艦隊が壊滅してしまうため、却下された。建造中のものを含めれば日本海軍には空母8隻があり、戦艦部隊なども健在で、再戦の機会を待った方が良いとの判断である。0230、飛龍で艦長加来止男大佐が総員集合を命じ、艦橋下に集まった乗員に対して総員退艦命令が出され、乗員は副長を引率者として駆逐艦風雲に移乗、山口少将と加来艦長のみが艦橋に留まった。0440、日の出を迎えた。0455、赤城が沈没。0510、駆逐艦風雲は炎上を続ける飛龍に対し、魚雷2発を撃ち込んだ。0540、護衛駆逐艦隊司令の阿部大佐が山本長官に対して飛龍の沈没を報告。0600CV-5ヨークタウンが次第に復元しているように見えたため、同空母のバックマスター艦長は救助作業を行うこととし、フレンチフリゲート礁から掃海艇ビレオを曳航のため呼び寄せた。0626CV-5ヨークタウンの傍にいたDD-410ヒューズのレーダーが、重巡筑摩から発進した偵察機1機をキャッチ。0652、筑摩の偵察機がCV-5ヨークタウンを発見。山本長官は、伊168潜水艦に攻撃を命じた。0700、鳳翔の索敵機が炎上する飛龍の残骸と、甲板上にいる生存者の姿を確認。南雲中将は長良の水上機と駆逐艦谷風を派遣して捜索に当たらせたが、飛龍は0820頃に沈没、間に合わなかった。甲板上の生存者は、魚雷による破孔から脱出した機関室要員で、アメリカ艦艇に救助されて終戦まで捕虜となった。CV-5ヨークタウンの傍には掃海艇ビレオが到着、DD-410ヒューズからCV-5ヨークタウンに救助隊員が移乗し、飛行甲板と格納庫甲板から残骸を海に落とし、左舷の5インチ(127mm)砲4門を切断して撤去、DD-412ハンマンからポンプに動力を供給して左舷タンクから右舷タンクに水と燃料を移し、等吃水に復帰させた。0700、ミッドウェイ島の北西510kmで山本長官の主力部隊と近藤中将の攻略部隊主力が合流。1200、山本長官の主力部隊と南雲機動部隊の残存艦艇が合流。掃海艇ビレオがCV-5ヨークタウンを3ノットで曳航開始。動力を供給するDD-412ハンマンの他、駆逐艦6隻が対潜警戒のために付近を航行していた。1300、伊168潜水艦がCV-5ヨークタウンを発見。近すぎたため360度回頭した後に4本の魚雷を発射し、1本がDD-412ハンマンに命中して轟沈させ、2本がCV-5ヨークタウンの右舷を直撃してとどめを刺した。伊168は駆逐艦から爆雷60個を投下されてバッテリーが損傷したが、駆逐艦群が他の音源を発見して現場から離れたために難を逃れ、急速浮上して修理を完了し、DD-410ヒューズ、DD-433グウィン、DD-354モナガンの砲撃を逃れて再び潜航、駆逐艦の真下をくぐり抜けて脱出に成功した。アメリカ側は空母飛龍がまだ残っていると考えていたため、ミッドウェイ島からB-17を捜索に向かわせたが、既に沈没しており、代わりに飛龍捜索から帰還する駆逐艦谷風を発見。爆弾8発を投下し、至近弾により小破させた。1500、ミッドウェイ島から210km西方まで追撃の歩を進めていたアメリカ空母機動艦隊から艦上機が飛龍の捜索に出撃したが、やはり谷風しか発見できず、攻撃も戦果を挙げられずに終わった。660255、山本長官は一木大佐のミッドウェイ攻略部隊に日本への帰還を命じ、ミッドウェイ作戦に参加している全部隊が撤退を開始した。第7戦隊はミッドウェイ島の砲撃を取りやめて反転し、単縦陣で帰路についていたが、重巡熊野の監視員が前方で急速潜航する潜水艦SS-198タンバーを発見、左舷45度緊急回頭を行った。この際、最上が転針信号を受信し損なって前方の三隈に激突、最上の艦首が第1砲塔付近まで潰れて90度以上折れ曲がったため速力が12ノットに低下し、三隈も燃料タンクを損傷した。第7戦隊の残りの船はそのまま全速で退避、最上は三隈、荒潮、朝潮の護衛の下に西への航行を続けた。朝、ヨークタウンが沈没。0700SS-198タンバーは最上と三隈を確認し、ミッドウェイ島の索敵機は280km離れた海上を高速で退避する熊野と鈴谷を、400km離れた所で数隻の艦艇の姿を発見した。アメリカ軍は日本艦隊が撤退していると判断し、艦上機及びミッドウェイ島の海兵隊機により追撃させた。0805、ミッドウェイ島の海兵隊機が最上と三隈を攻撃。SBDドーントレス6機は最上を爆撃したが全て外れ、SB2Uビンディケイター6機は三隈を攻撃、指揮官機が後部砲塔に突入した。その後最上と三隈は艦上機から二波にわたる攻撃を受け、最上に5発、三隈に多数の爆弾が着弾、最上が大破し、三隈が航行不能になった。敵機襲撃の報を受け、駆逐艦荒潮と朝潮が駆けつけたところに第三波30機の艦上機が来襲、荒潮が後部砲塔に爆弾を受けて損傷した。1200、三隈が乗員1000名と共に沈没。三隈などに対する攻撃を受け、山本長官はアメリカ艦隊が近くにいると判断し、乗艦する大和、護衛の駆逐艦数隻、巡洋艦7隻、駆逐艦8隻を南に転針させ、最上が航行している方向に進撃させた。ウェーキ島の基地航空隊に配備されている50機の中型爆撃機の協力を得てアメリカ空母機動艦隊を撃滅できれば、アリューシャンから追いつく空母鳳翔と瑞鳳の支援を得て、再度のミッドウェイ攻略が可能であると考えたためである。しかし、アメリカ空母機動艦隊は400km圏内に日本のミッドウェイ攻略部隊が集結しているのを把握していたものの、ウェーク島から1100km圏内に入り込んでいて基地航空隊と共同での反撃を受けると壊滅してしまう恐れがあるとの判断から夕方には反転して給油に向かっており、発見することができなかった。67日朝、山本長官は全艦隊に日本への帰投を命じた。ミッドウェイ島からはB-17が追撃のため出撃したが、行動範囲内に日本艦隊を見つけることは出来ず、ミッドウェイ海戦は終結した。614日に日本海軍主力部隊は柱島に帰投。アメリカ側の損害は、戦死307名、空母CV-5ヨークタウンと駆逐艦DD-412ハンマンが沈没、航空機(艦上機233機+ミッドウェイ島119機)のうち179機喪失(ミッドウェイ島空襲で45機、その他航空攻撃で105機、艦船対空砲火で29機)、ミッドウェイ島の諸施設。魚雷搭載B-26爆撃機の初陣となり、第22爆撃航空隊の4機が雷装して出撃したが、零戦により2機が撃墜され、2機が孔だらけにされている。日本海軍側の損害は、戦死3500名、空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍、重巡三隈が沈没、重巡最上が大破(折れ曲がった艦首は航行の邪魔なので切断した)、駆逐艦荒潮と朝潮が中破、戦艦榛名と駆逐艦谷風、油槽船あけぼの丸が小破、航空機332機(ミッドウェイ島空襲で6機、偵察未帰還が12機、アメリカ空母攻撃で24機、空母沈没で280機、水上機10機)。沈没した空母4隻には合計262機しか収容できないが、ミッドウェイ上陸部隊用に輸送していた航空機を含んでいるためこの数字になったようである。太平洋戦争で初めて提督(山口多聞少将)が戦死した戦闘となった。大本営発表ではエンタープライズ型空母1隻とホーネット型空母1隻撃沈、飛行機120機撃墜の戦果と、空母1隻喪失、空母1隻・巡洋艦1隻大破、飛行機35機未帰還の損失を報じた。海軍軍令部は機密保持を徹底、負傷者は呉の海軍病院で1つの病棟に隔離状態とし、艦上機パイロットは鹿屋基地に送って10日ほど外出禁止状態にし、従軍カメラマンからフィルムを没収して幽閉状態にするなど敗北の事実が周囲に漏れないようにしたため、終戦までミッドウェイ海戦の詳細を知らない上級士官もいた。一方で昭和17610日に日本軍将校の出入りするマニラのナイトクラブでフィリピン人ホステスがアメリカ海軍により日本海軍が大打撃を受けたという話をしていたり、10月初めに佐世保から台湾東港に向かった海軍予備学生(兵科)2期が対潜見張り中の下士官から空母4隻喪失の話を耳打ちされたりしたというので、あまり徹底していなかったかもしれない。もちろん生存者は事実を知っており、新聞などで知った大本営発表との差違に不信感を募らせた。日本海軍は大型空母4隻を失ってしまったが、大型空母の量産計画を立てていなかったので、昭和17-18年度に竣工する予定が無かった。仕方無く商船改造の軽空母を製作すると共に、伊勢型戦艦を航空戦艦に作り替えることにした。また、パイロット121名を含む戦死者3000名、航空機喪失332機(246機?)という大損害を受け、特にベテランパイロット及び格納庫内で作業中に多数が戦死したベテラン整備員の喪失が痛手となった。蒼龍の死者は准士官以上35名、下士官・兵683名。日本軍のFS作戦は中止となった。アメリカはハワイ及びアメリカ西海岸に対する脅威を取り除くことに成功し、攻勢的守勢に転じるきっかけとなった。また、中南米諸国は中立から対日参戦に立場を変更し、インドで反英独立運動を指導していたガンジーは闘争から対話に方針を変えた。参考:ミッドウェー運命の3秒間、激闘太平洋戦記、日本海軍艦隊総覧、戦艦入門、月刊JShips Vol.20、連合艦隊巡洋艦、帝国陸海軍事典、月刊丸2,084,13、月刊世界の艦船9,13増刊、12,101,1910,'20、山本五十六と米内光政、海軍操舵員よもやま物語、日本海軍の爆弾、世界の傑作機No.155、海軍こぼれ話、軍医戦記、歴史群像4,17

ミッドウェイ級シリーズ>:アメリカ海軍空母Midway級。パナマ運河を通れないアメリカ初の軍艦で、大型空母CVBという新たな艦種記号が与えられた。参考:月刊世界の艦船4,13

ミッドウェイ級>:エセックス級を凌ぐ大型艦に多数の航空機を搭載し、重防御で固めた高速空母として1940年から設計され、基準排水量28000-45000トン、速力31.5-33ノット、搭載機数64-120機の各種案の中から最も大型のものが選定され、1942年半ばには概ね構想が固まり、8月に4隻の建造を大統領が承認した。更に太平洋戦争後半のエセックス級運用結果も順次取り入れている。任務の1つに海上交通路破壊作戦があり、敵巡洋艦との遭遇戦に備えて舷側には対203mm砲弾防御装甲、中央部舷側には片舷4区画の多層水中防御を施した。第二次大戦のノルウェー戦などにおける急降下爆撃機の脅威や、イギリス海軍装甲化空母(イラストリアス級)の影響を受け、飛行甲板にも装甲を張り、爆撃を受けても格納庫に被害が及ばないようにしている。船体は235フレーム(間隔4フィート/1.22m)で構成されており、船殻構造は横肋骨方式である。フレーム75までがA区分、75-147がB区分、148-235がC区分と分けられており、甲板は9層で、最下層の船倉甲板下は三重底となっている。抗堪性向上のため艦内を細分化したが、居住性が犠牲になった。高速性能発揮のため艦尾水線下にスケグを持つが、船体の安定性に乏しく、螺旋状の動揺が度々発生したらしい。機械室、缶室、発電機室はB区分の第4甲板から下に集めて26区画に細分、外側には片舷4列の縦隔壁(内部に燃料などを入れる)を配置して水雷防御区画としている。機械室は機関区画中央前後(間にターボ発電機室とポンプ室を挟む)の1室ずつが内舷軸を、機関区画後部両舷(間に造水機室と補機室を挟む)の1室ずつが外舷軸を担当する。2番艦のみGE製の蒸気タービンを搭載したが、故障が多発したため、早期退役となった。缶室はボイラー1基ずつを収容した12室が機関区画両舷に6室ずつ配置されている。防御力は非常に高いが、整備の際は難渋した。弾薬、爆弾、魚雷はA区分後部及びC区分前部の第3甲板から下に格納されており、格納庫までエレベーターで運搬される。格納庫は1層の開放式で、飛行甲板の1層下にあるギャラリー甲板が天井、主甲板(強度甲板、格納庫甲板)が床となっており、長さ210.9m、幅29m、高さ5.334m。高さがエセックス級と同じで、後の搭載機種の拡張性が制限された。格納庫最前部はフレーム47、最後部はフレーム204で、フレーム136に防火用スライディングドアが用意されている。飛行甲板は厚さ89mmの特殊鋼を使用して装甲化し、ギャラリー甲板と格納庫甲板にも装甲を張り、船体外板水線部付近及び船底の一部も高張力鋼装甲を使用し、装甲重量は3425トンに達する。重心上昇による復元性低下を防ぐため、吃水線から飛行甲板までの高さを15mとしてエセックス級よりも2m下げたが、荒天時に飛行甲板まで波を被ることがあり、艦上機の露天搭載時に問題となった。飛行甲板は長さ281.6m、幅34.4mで、エンクローズド・バウではなく、飛行甲板下方で船体が前後にはみ出している部分にはボフォース40mm4連装機関砲を並べて特攻機対策とした。エレベーターは16.7m×14m、能力26トンで、飛行甲板前後(内舷式)と中央左舷(外舷式)の計3基。飛行甲板前部左右にH4-1油圧式カタパルト1基ずつ、後部にMk5-0着艦制動索を持つ。ただ搭載機数に比べると運用能力が小さく、搭載136機を全機発艦させるのに6時間もかかった。飛行甲板の幅を極力狭くして重量軽減を図るため、CICをギャラリー甲板に移してアイランドを細く纏めており、これにより左右の重量バランスもある程度改善した。ただ1番艦では狭くしすぎたらしく、2番艦以降は一回り広くなっている。アイランド上面の三脚マストにSK対空レーダーとSG対水上レーダーを搭載する。アイランド後部にもポールマストを持つ。両用砲はエセックス級でアイランド前後に積んだところ、発着艦作業中に反対舷を撃てないという欠点が判明したため、船体両舷スポンソンに配置した。全長295.2m、水線長274.3m、水線幅34.5m、最大幅41.5m、吃水10.5m、深さ17.5m(船体)/25.6m(飛行甲板まで)、基準排水量47387トン(計画45000トン)、満載排水量59901トン(計画55450トン)。主機は蒸気タービン(1・3番艦はウェスティングハウス製、2番艦はGE製)4基、主缶(蒸気性状4.21MPa454℃)12基、出力215520馬力、4軸推進、最大速力33ノット、後進速力17.5ノット、燃料搭載量6003トン、航続距離15000海里(15ノット)。発電機はターボ発電機(1250kW)8基とディーゼル発電機(850kW)2基。兵装は54口径127mm単装両用砲Mk3918門(船体両舷前部スポンソン3門ずつ、後部スポンソン6門ずつ。3番艦は14門)、ボフォース40mm4連装機関砲21基、20mm単装機関砲 68門(34門?)。FCSMk37射撃指揮装置で、アイランド上に1基、アイランド直後の飛行甲板上に1基、左舷舷側に2基を装備する。装甲厚は飛行甲板88.9mm、上甲板51mm、格納庫甲板40mm、水線部左舷193-76mm、右舷178-76mm、隔壁160mm。搭載機はF4U-4戦闘機64機、SB2C艦爆64機、F6F-5N夜間戦闘機4機、F6F-5P偵察機4機。航空燃料1250トン(332000ガロン/1256757リットル)、航空用弾薬2167トンを搭載する。乗員4104名(計画時3583名)。6隻(CVB-41からCVB-44CVB-56CVB-57)が建造される予定だったが、太平洋戦争の戦局が良好に推移したため、CVB-41ミッドウェイ、CVB-42フランクリン・D・ルーズベルト、CVB-43コーラル・シーの3隻のみ1945-47年に竣工した。1940年代末に12.7cm単装両用砲を4門撤去し、40mm4連装機関砲を76mm連装砲に換装している。参考:月刊世界の艦船4,132,876,'23、歴史群像4,17

 <ミッドウェイ級・第1次近代化改装>:SCB110改装。艦上機のジェット化(A-3の運用開始)とアングルドデッキの発明に伴い実施されたものである。艦首をエンクローズド化してハリケーン・バウとし、飛行甲板をアングルドデッキに変更してエレベーター(17.1m×13.4m、容量34トン)の位置を飛行甲板前部中央と左舷アングルドデッキ前端及び右舷アイランド後方に変更、カタパルトをスチーム式のC11にして前部に2基・アングルドデッキに1基搭載し、ブライドル・リトリーバー(艦首のみ)とジェット・ブラスト・デフレクターを設置、艦橋を拡大してレーダーをAN/SPS-8AN/SPS-12に更新している。アレスティングギアはMk7が5基(バリケード含む)で、ミラー式着艦装置を装備した。改装直前の兵装は127mm単装両用砲10門、76mm連装砲20基だったが、127mm砲はそのまま(右舷前部3基、後部3基、左舷前部2基、後部2基)で、76mm連装砲は9基を撤去して11基とし、20mm機関砲は全て外した。全長297.85m、水線幅36.9m、飛行甲板最大幅59m63m?)、軽荷排水量44950トン、満載排水量62614トン。航空用燃料容量はJP-52271キロリットル、ガソリンが1346キロリットル。航空用弾薬搭載量は2850トン。最大速力30.6ノット。乗員4060名。19543月からCVA-4219559月からCVA-41が工事を実施した。CVA-42のみアイランド上のマストを三脚からポールマストに変更している。参考:月刊世界の艦船4,132,87、月刊丸4,99、世界の傑作機No.118

 <ミッドウェイ級・第1次近代化改装(CVA−43)>:CVA-43は前2艦の実績を盛り込んで改装内容が多少変化していて、SCB110A改装と呼ばれる。アングルドデッキの長さを202.4m、左舷開度を10度として大きく左舷に張り出すようにし、飛行甲板前部中央のエレベーターを右舷艦橋前部に移して3基全てを舷側エレベーターとした。左舷エレベーターの位置もアングルドデッキ前端から少し後方に移している。アイランド上のマストはポールマストに変更した。兵装は127mm単装両用砲6門のみとし、新設した右舷前後と左舷後部のスポンソンに2基ずつ装備する。航空用燃料容量を1-2番艦より増加させたが、その分自艦用燃料が減った。飛行甲板最大幅70.5m、軽荷排水量45100トン、満載排水量62600トン。航続距離は20ノットで9500海里。乗員4375名。1957年から工事を行った。参考:月刊世界の艦船4,13

 <ミッドウェイ級・第2次近代化改装>:SCB-101.66改装。飛行甲板を拡張し、サギング・ホギングに対応するため伸縮接手を設置、エレベーターを強化(19.2m×15.9m、能力49.9トン)して飛行甲板前部中央のものをアイランド前方に移動し、航空機用ガソリンタンクを廃止してJP-5燃料容量を1.4倍に増加、アングルドデッキのカタパルトを廃止して飛行甲板前部のC13カタパルト2基のみとし、艦橋構造を変更、アイランドのMk37方位盤を撤去し、NTDSSINSAN/SPS-43を搭載した。全長297.8m、飛行甲板長さ296.3m、アングルドデッキ長198.4m、水線幅36.9m、飛行甲板最大幅78.8m、満載排水量64714トン。航空燃料搭載量3449トン。兵装は127mm単装両用砲3門。乗員4686名。費用(20億ドルで、見積もりの2.4倍以上)と期間(予定を2年超過)がかさんだため、CVA-41ミッドウェイのみに実施され、CVA-42に対するSCB-103/68改装はキャンセルされ、CVA-43に対しても実施されなかった。参考:月刊世界の艦船4,132,87

ミッドウェイ級第3次近代化改装>:ESRA86ともいう。CV-41ミッドウェイが受けた改修で、600隻艦隊構想に必要な空母15隻態勢を整えるべく、1986年頃だった退役予定を10年遅らせるため、艦齢延長工事を施したものである。また、F/A-18を搭載するために浮力を増す必要があり、度重なる改装で重量が増したため満載時には吃水線と主甲板との距離が殆ど無くなってしまったことから、吃水を浅くする必要もあって、舷側に浮力タンクと魚雷防御用バルジを兼ねるSTS鋼材製ブリスターを装着することにした。ブリスターはフレーム41からフレーム212までの主甲板より下の部分に取り付けられており、85個のブロックに分かれている。短期間で仕上げるため、工事は横須賀の艦船修理施設(SRF)である6号ドックで行うことになり、アメリカの造船技術では限界があるため日本に発注、住友重機械工業が受注し、三菱重工、IHI、三井造船、日立造船、日本鋼管がブリスターの製作を手伝った。素材はアメリカ本土から運び込まれた計4000トンの80HT鋼、STS防弾甲板材、SS普通鋼を使用している。他に通信機器強化、F/A-18着艦のための後部飛行甲板強化、カタパルト整備点検、飛行甲板再塗装、居住設備改良、洋上補給装置改修、ブリスターへの注排水管設置などを行った。度重なる改装で艦内配置の工夫が限界を迎え、兵器運搬用エレベーター用兵器搬入口が食堂にある(食事をしている兵士の横を銃弾や爆弾が通る)といった妙なレイアウトが生じている。船体幅43m、吃水10.5m、満載排水量67500トン。兵装はシースパロー8連装発射機2基、20mmCIWS2基。搭載機数はF/A-18戦闘攻撃機36機、A-6E攻撃機14機、E-2C早期警戒機4機、SH-3H/SH-60Fヘリ6機。乗員4430名。19864月から1128日に工事が行われ、復元性は改善したが、動揺周期が10秒前後と短くなりすぎて荒天時に酷いローリングが生じるようになり、4ヶ月で12機が着艦時に破損したため、1987年に再度改修したが、1988年には24度まで傾いた。結局、根本的な解決は図られぬままに退役した。参考:月刊世界の艦船2,874,132,24、世紀の失敗物語、月刊丸2,12別冊付録

ミッドウェイ島>:北西ハワイ諸島の北西端にある直径10km未満の小さな環礁で、厳密にはミッドウェイ島という島は無く、長さ2kmのイースタン島と、長さ3.2kmのサンド島、その間の小さいスピット島からなり、アメリカ政府直轄の離島領土となっている。1859年に発見され、1867年にアメリカ領土となり、同年にアメリカ海軍が礁湖を浚渫して停泊施設を設けた。1903年にアメリカ海軍管理下となり、1904年、サンド島に海底電線通信所が設置され、海兵隊員が常駐を開始、1930年代半ばにはパンアメリカン航空により水上機基地が置かれ、更にイースタン島に3本の滑走路(幅90m)が設置され、一大軍事基地となった。ミッドウェイ海戦後はサンド島に2400m滑走路(ミッドウェイ海戦で戦死した海兵隊少佐に因みヘンダーソン飛行場と名付けられた)が増設され、潜水艦基地も建設されて通商破壊拠点になった。太平洋戦争後はサンド島に軍事機能を集約。1978年、ベトナム戦争終結と潜水艦の原子力化により、基地機能を縮小。1987年、全島が国立野生生物保護区(パパハナウモクアケア米国家海洋史跡の一部)に指定された。1993年、アメリカ海軍が航空基地を閉鎖。1996年、アメリカ海軍が撤収して軍事基地が無くなり、管理権がアメリカ内務省魚類野生生物局に移されることに決定、19983月に手続きが完了した。その後はサンド島に関係者数十名のみが居住していて、イースタン島は無人島になった。滑走路は残されており、旅客機の緊急着陸地として使用される。参考:月刊世界の艦船10,12、ミッドウェー運命の3秒間、月刊丸10,10、歴史群像4,11

密度高度>:Density altitude。計器指示高度に、標準大気状態の気温(15℃)と実際の海面上の気温の差による補正を加えたもの。より正確になるが、実際の高度変化による圧力・温度変化は標準大気表のものとは異なるので、真高度と一致はしない。参考:航空機設計法

ミッドコース・フェーズ>:弾道ミサイルが加速を終え、大気圏外で慣性飛行している状態で、約20分間。最大到達高度は300km-1000km超で、弾頭の飛翔速度は弾道頂部で最も遅くなる。ここで囮を放出されると、大気が無いので風船でも本体と同じ速度で飛ぶため、識別が難しい。参考:日米イージス艦とミサイル防衛、月刊軍事研究10,037,08、月刊JWings12,03

ミッドシップマン>:Midshipman。海軍士官候補生のアメリカ・イギリス名称。16世紀に誕生したイギリス国立海軍士官学校で、戦闘時に乗船勤務の実習員を伝令代わりに使うため艦の中央に配置したので、この名が付いた。日本海軍ではミジップマンといい、少尉候補生を指す。参考:月刊軍事研究1,05、月刊世界の艦船9,13増刊

<ミッドナイトイーグル>:第304飛行隊を参照。

ミッドナイト・ホークス>:フィンランド空軍アクロバットチーム。ホーク練習機4機編隊+ソロ1機の構成である。参考:月刊JWings9,18

ミツバチ>:アメリカの防衛先進局が地雷探知用に使用を研究中の昆虫。重量27mgの超小型無線タグを付け、タグから発生される電波をモニターすることで地中の地雷から発せられる微少な電磁波をキャッチする。参考:月刊PANZER10,99

三菱A型乗用車>:大正6年に三菱造船所が試作した乗用車。フィアット社製乗用車がベースで、日本陸軍がシベリア出兵に投入する指揮官車として採用した。不整地踏破能力に乏しく、路外走行はほぼ不可能だったらしい。参考:月刊丸7,14

三菱イスパノスイザ水冷V型8気筒>:大正8年に三菱内燃機がフランスのイスパノスイザから製造権を購入して国産化した300馬力エンジン。各列4気筒の銅製シリンダーを鋳造アルミで包み、内外表面にホーロウを引いて軽量化を図っている。後に12気筒450馬力型、650馬力型なども製作された。参考:月刊丸9,97

三菱式双発輸送機>:日本海軍輸送機、略符号L4M1。日本陸軍一〇〇式輸送機一型が移管されたもので、少数をテストしたが、制式化には至らなかった。全長16.1m、全幅22.6m、自重5582kg、ペイロード2558kg。エンジンはハ−5双発、最大速度470km、航続距離1500km。乗員4名+搭乗兵員11名。参考:月刊丸3,'18別冊

三菱重工>:大元は明治17年に岩崎彌太郎が創設した長崎造船所で、その後三菱造船に改称している。大正7年、航空機の生産を開始。昭和2年、三菱内燃機時代に火災事故を起こしたヴィッカーズ10トン戦車の修理を実施したのをきっかけとして戦車製造に着手した。昭和3年に八九式中戦車を量産するため大井製作所を建設。昭和8年、九五式軽戦車の生産を開始。昭和9年、三菱造船に重機、航空機、鉄道製作会社を加えて三菱重工業株式会社へと社名変更した。航空機部門は名古屋航空機製作所となっている。九四式軽装甲車の生産を開始。昭和12年の九七式中戦車量産の際には丸子工場を建設し、月産40両の能力で120両を生産して軍から表彰された。太平洋戦争終結までに生産した戦車の数は、日本軍保有数の約70%に達した。昭和1-20年に航空機17131機を生産した。財閥解体で1950年に西日本重工業、中日本重工業、東日本重工業に分割され、1952年にそれぞれ三菱造船、新三菱重工、三菱日本重工と改称した。1964年、三菱造船、新三菱重工、三菱日本重工が合併して再び三菱重工になった。2010721日、船舶・海洋事業を再編し、商船建造を長崎と下関に集約、神戸造船所を潜水艦などの建造に特化することを発表した。201811日、艤装主体船の建造などを行う子会社の三菱造船と、大型船や海洋鉄構構造物の製造などを行う子会社の三菱重工海洋鉄構を設立した。202071日、小牧南工場F-35整備拠点(リージョナル・デポ)の運用を開始。参考:機甲入門、月刊軍事研究9,10、月刊丸6,14、月刊JWings11,159,'20、首都防空網と空都多摩、月刊世界の艦船2,18

三菱重工大江時計台航空史料室>:三菱重工大江工場にある航空史料室。三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所資料室を大江工場の旧事務本館(通称時計台)に移設したもので、2020131日から一般公開された。零戦五二型甲、金星一型、火星二二型、キ二〇〇の復元実物、航空機模型、設計図などの文献資料が展示されている。所在地は愛知県名古屋市港区大江町2-15。一般公開日は営業日の月水金。見学は高校生以上が対象でウェブサイトからの完全事前予約制、撮影はエントランスのみ、駐車場無し。参考:月刊JWings4,20

三菱重工神戸造船所>:太平洋戦争中はK型戦時標準鉱石運搬船を建造した。財閥解体で新三菱重工神戸造船所となったが、1964年の合併で三菱重工神戸造船所に戻った。以降は潜水艦建造に特化しており、SS-561おおしおなどを建造している。参考:月刊世界の艦船6,118,11増刊、戦時標準船入門

三菱重工下関造船所>:太平洋戦争中はE型戦時標準貨物船を建造した。1953年度計画の魚雷艇3号・4号から自衛艦の建造を開始。各種舟艇の他、はやぶさ型ミサイル艇、海洋観測艦AGS-5102ふたみ、AGS-5105にちなん、敷設艦ARC-482むろとを建造した。参考:月刊世界の艦船8,11増刊、戦時標準船入門

三菱重工長崎造船所>:第3ドック(1905年竣工)、ジャイアント・カンチレバークレーン(1909年竣工)、旧木型場、占勝閣(1904年竣工)が明治日本の産業革命遺産に登録されている。太平洋戦争中はA型戦時標準貨物船12隻、TL型戦時標準油槽船24隻、TM型戦時標準油槽船を建造した。財閥解体で三菱造船長崎造船所となったが、1964年の親会社合併で三菱重工長崎造船所に戻った。ミサイル護衛艦の殆どを担当しており、護衛艦DDG-163あまつかぜ、たかつき型2隻、DDH-141はるな、たちかぜ型3隻、はつゆき型2隻、あさぎり型1隻、はたかぜ型2隻、こんごう型1-3番艦、たかなみ型2・4番艦、あたご型2隻、あきづき型1-3番艦を建造した。参考:月刊世界の艦船6,118,11増刊、戦時標準船入門

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所資料室>:三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所小牧南工場にある航空資料室で、零戦五二型甲(1980年にヤップ島で発見)、秋水(復元機)、秋水の燃料を貯蔵する常滑焼のビン、MU2風洞模型、FS-T2改用データポッド、J55ジープなどが展示されていた。20175月末から休館に入った。史料を整理するなどして展示拡大を図ることになり、三菱重工大江工場の旧事務本館に移設され、三菱重工大江時計台航空史料室になった。参考:月刊丸2,08付録、月刊航空ファン6,17、月刊JWings4,20、朝雲

三菱重工広島造船所>:A型戦時標準貨物船を建造するため新設された造船所で、総トン数6000トン級の建造船台を3基備える。昭和1812月、第1船台が竣工。1212日に第1船台で久川丸が起工。太平洋戦争終結までに2A型戦時標準貨物船7隻が竣工した。参考:戦時標準船入門

三菱重工本社爆破事件>:1974830日、東アジア反日武装戦線のメンバーが三菱重工本社ビル正面玄関前にペール缶爆弾2個と時限装置を仕掛けて昼過ぎに爆破させた事件。爆風により大量の窓ガラスが割れて落下、8人が死亡し、380人が負傷した。6ヶ月後に犯人5人が逮捕された。参考:月刊軍事研究8,95

三菱重工マリタイムシステムズ>:三井E&S造船艦艇・官公庁部門を継承して2021101日に発足した。参考:月刊世界の艦船3,22

三菱重工横浜造船所>:太平洋戦争中はTM型戦時標準油槽船を建造した。1980326日に竣工した民間油槽船タブリーズを最後に新造船事業から撤退して198211月から金沢工場(中小型原動機製品)や本牧工場(修繕船、鉄構、化工機など)への移転と解体作業に入り、19833月末に終了した。跡地はみなとみらい21地区に再開発されている。残存部門は新生産体制に移行して横浜製作所に改称された。参考:月刊世界の艦船6,83、戦時標準船入門

三菱重工横浜製作所>:三菱重工横浜造船所から改称して誕生した。艦艇修理のみを行っており、建造はしていない。参考:月刊世界の艦船8,11増刊、6,83

三菱重工若松造船所>:E型戦時標準貨物船を建造するため新設された造船所。年産100隻が目標で、総トン数1000トン級の建造船台1基を備え、日本初の横滑り進水方式を採用した。作業員2690人のうち囚人が2020人だった。昭和184月に稼働状態となった。参考:戦時標準船入門

三菱スペースジェット・シリーズ>:三菱航空機の計画リージョナル・ジェット機Mitsubishi SpaceJetMRJシリーズから2019613日に改称された。ついでに客室設計などに細部改修を加えている。2019617-18日、パリ航空宇宙ショーで飛行試験3号機を展示した。202010月、事実上の開発凍結を発表した。202327日、三菱重工が、2022年度第3四半期決算説明会で、FAA形式証明の取得難航、新型コロナウイルス感染拡大による航空需要落ち込み、北米航空会社・パイロット間労使協定スコープ・クローズによる北米市場での優位性低下などを理由に、開発中止を発表した。参考:月刊航空ファン8,199,19、月刊JWings4,23

 <スペースジェットM90>:SpaceJet M90MRJ90の新名称である。参考:月刊航空ファン8,19

 <スペースジェットM100>:SpaceJet M100MRJ70に準じる仕様だが、76席3クラスならアメリカのスコープ条項(航空会社とパイロット組合の最大離陸重量及び座席数に関する制限合意)に適合するよう改修を加え、アメリカのマーケットを狙い撃ちした。胴体を1.1m延長、オーバーヘッド・ビンを拡大して全乗客が小型スーツケースを収容可能とし、手荷物室容積を640立方フィートから480立方フィート(13.6立方メートル)に減らしている。何なら手荷物室を廃止可能。全長34.5m、全幅27.8m、全高10.3m、最大離陸重量39トン(76席3クラス)/42トン、最大着陸重量36.2トン。エンジンはプラット&ホイットニー社製ピュアパワーPW1200Gシリーズ(推力78.2kN)双発、最大運用マッハ数0.78、最大運用高度11900m、燃料容量12100リットル、航続距離1910海里。客席は65-76席(3クラス)/84席(単一クラス)/88席(最大)。参考:月刊航空ファン10,199,198,19

 <スペースジェットM200>:SpaceJet M200100席以上のクラスで、MRJ100Xの新名称である。参考:月刊航空ファン9,19

三菱スペシャル>:三菱重工での定期整備(IRAN)から戻ったばかりで、パネルなどの塗装修正が行われていない機体に軍事マニアが付けた愛称。参考:月刊航空情報2,10

三菱石油水島精油所重油流出事故>:19741218日、岡山県倉敷市にある三菱石油水島精油所で容量38000キロリットルのC重油タンクの底が割れ、大量の重油が流れ出した。工場での流出防止作業が間に合わず、重油は高さ1.5mの防油堤を超えて瀬戸内海に流出。7500-9500キロリットルが海上を漂流し、1220日には兵庫、香川、徳島沿岸に漂着、1222日には鳴門海峡から紀伊水道を抜け、1223日には和歌山県にまで達した。地元住民が回収にあたったが、とても追いつかないため、1228日の閣議で自治相と防衛庁長官が話し合った結果、自衛隊を出動させることが決定。1229日に岡山、香川、徳島の各知事から災害派遣要請が行われ、日本原駐屯地から岡山県へ、善通寺駐屯地から香川・徳島県へと隊員が派遣された。年末年始の特別休暇に入っていたが、駐屯地近くに住む隊員は休暇返上で駆けつけている。1231日まで第1次派遣、197517-11日に第2次派遣が行われ、120日からの第3次派遣では米子駐屯地、山口駐屯地、海田市駐屯地など第13師団の各部隊も動員、前進指揮所を三軒屋に設けて重油除去を行った。また、海上自衛隊も徳島基地の隊員と呉地方隊の特務艦艇を派遣した。自衛隊の延べ派遣人数は2万名で、車輌3500両、航空機78機、船舶52隻が参加した。官民合わせて延べ25万人が回収を行い、漁船、巡視船、自衛艦など延べ42600隻以上と航空機延べ318機が参加している。参考:月刊軍事研究3,97

三菱造船>:1950年に三菱重工が財閥解体により3つに分割されたが、このうちの西日本重工業が1952年に改称したもの。三菱造船長崎造船所を擁する。1964年に再び三菱重工となった。201811日、艤装主体船の建造などを行う三菱重工造船事業子会社として再設立された。参考:月刊世界の艦船6,112,18

三菱造船長崎造船所>:三菱重工の財閥解体に伴い、三菱長崎造船所が三菱造船の所属となったもの。DD-101はるかぜ、DD-103あやなみ、DD-107むらさめ(初代)、DD-161あきづき(初代)、いすず型1隻を建造した。親会社の統合で、三菱重工長崎造船所に戻った。参考:月刊世界の艦船6,11

三菱電機>:1921年(大正10年)、三菱造船電機製作所が独立して創設された。自衛隊向けのレーダーやミサイルを開発生産しており、子会社の三菱電機特機システムで維持整備も行っている。20221125日、03式中距離地対空弓道弾(改善型)の技術開発により、防衛基盤整備協会から令和4年度防衛基盤整備協会賞を贈呈された。参考:月刊JWings11,17、朝雲

三菱電機過大請求事件>:三菱電機が防衛省への納入装備品に対して過大請求を行っていた事件。2011年秋頃に防衛省に対して工数が敵性に計上されていないとの情報が入り、20121月から防衛省が調査を開始。昭和40年代から作業時間を水増しする方法で過大請求を行っていたことが判明し、会計資料が残っていた2001年度以降に総額248億円(プラス関連会社の三菱スペースソフトウェアが9億、三菱プレシジョンが10億円、三菱電機特機システムが14億円)の過大請求が明らかとなった。参考:朝雲

三菱長崎造船所>:創設は江戸時代末期に遡る。明治32年に海軍省から受注を受け、海軍艦艇の建造を開始した。太平洋戦争終結までに戦艦武蔵、日向、巡洋戦艦霧島、巡洋艦6隻、駆逐艦20隻、海防艦31隻を建造した。戦後は三菱重工の財閥解体で1950年に三菱造船長崎造船所となった。参考:月刊世界の艦船5,116,11

三菱日本重工>:1950年に三菱重工が財閥解体により3つに分割されたが、このうちの東日本重工業が1952年に改称したもの。1964年に再び三菱重工となった。参考:月刊世界の艦船6,11

<ミッフリン>:APA-207(攻撃輸送艦)を参照。

密閉操縦>:ハッチを開けず、ペリスコープやビジョンブロックで外を見て操縦すること。参考:スピアヘッドNo.14

三矢協定>:大正135月、鴨緑江で国境視察中の朝鮮総督らが対岸から銃撃される事件が発生。これを受けて大正146月、朝鮮総督府警務局長と奉天省警務処長との間で結ばれた取り締まり協定(不逞鮮人の取締方に関する朝鮮総督府奉天省間の協定)の通称がこれで、名称の由来は警務局長の名字である。奉天省側が取り締まりを行い、日本側は越境治安作戦を行わず犯罪者引き渡しのみを受け、代わりに賞金を払うというものであった。賞金は逮捕した者にも支払われたため、賞金目当てに無実の罪を着せられる朝鮮人が続出した。当初は秘密協定だったが、満州国成立により破棄され、公表された。参考:月刊軍事研究6,09

三矢研究>:昭和38年度統合防衛図上研究実施計画のことで、三矢は38と三自衛隊を毛利元就の三本の矢の故事にあてたものである。1963613-22日に統幕(統裁官は統幕事務局長の田中義男陸将、参加者は統幕と各幕から佐官48名)が実施した机上演習で、朝鮮半島に紛争が起きたと仮定し、日米共同防衛体制(国家総動員体制を含む)をシミュレートした。これが中国と北朝鮮を仮想敵国にした臨戦態勢研究であると1965210日の衆院予算委員会で社会党に批判され、防衛庁が3ヶ月かけて単なる研究だと首相を納得させたものの、政府は914日に関係者の処分(秘密保全不適切)を発表した。参考:日本の戦力、月刊軍事研究3,128,12

<ミデア>:AKA-31(攻撃貨物輸送艦)を参照。

水戸北飛行場>:日本陸軍の飛行場。太平洋戦争末期に茨城県那珂郡戸田村に開設された。参考:首都防空網と空都多摩

水戸対地射爆場>:在日米軍の射爆撃場。横田基地に近く、1964513日に板付基地からF-105戦術戦闘飛行隊3個が移駐し、89日からベトナム戦争への派遣が始まると、対地攻撃訓練に頻用された。更にアメリカ本土からベトナムに派遣される部隊が横田基地にいる間の訓練にも使用されている。1966725日、北10kmのところで東海発電所の原発(現・第2東海原子力発電所)が運転を開始したが、相変わらずアメリカ軍機による射爆訓練が続き、原発近くを誤爆する事故も発生した。1971年にアメリカ軍による使用は終了したが、227件の事故が起きて22人が死亡した。1973年に返還されて東海村の日立海浜公園になっている。参考:月刊軍事研究7,16、月刊JWings3,23

水戸飛行場>:日本陸軍の飛行場。昭和12年、茨城県那珂郡前渡村に開設された。昭和192月、軍機保護法施行規則に基づく陸軍大臣所管の機密飛行場に指定された。参考:首都防空網と空都多摩

水戸丸>:日本郵船貨物船Mito maru。垂線間長135.64m、幅17.68m、深さ10.36m、吃水8.13m、総トン数7061トン、重量トン数10434トン。主機は三連成汽機2基2軸5300馬力、航海速力12ノット、最大速力15.03ノット。太平洋戦争で陸軍に徴用された。昭和19416日、ハルマヘラ島ワシレ湾からアンボンに向け航行していたところ、アンボン北北西165kmSS-263パドルの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船2,18

水戸南飛行場>:日本陸軍の飛行場。昭和15年、茨城県東茨城郡酒内村に開設された。参考:首都防空網と空都多摩

ミトライェーズ>:ブドウ弾銃。1870年の普仏戦争でフランス軍が使用したモンティニー多銃身銃のことである。金属製の保弾板に収めた37発の弾丸を一斉発射するもので、前線歩兵の火力支援として用いられたが、プロイセン軍の砲兵弾幕射撃の前にアウトレンジされて粉砕されてしまった。参考:月刊軍事研究11,02

みどり一号>:日本陸軍が昭和6年に制式化した化学兵器で、臭化ベンジルを主成分とする催涙ガスである。参考:戦場写真で見る日本軍実戦兵器

みどり二号>:日本陸軍が昭和6年に制式化した化学兵器で、塩化アセトフェノンを使用した催涙ガスである。参考:戦場写真で見る日本軍実戦兵器

緑十字飛行>:太平洋戦争で日本がポツダム宣言を受諾した後に行われた連絡飛行の通称。戦闘終結のために各地の日本軍部隊と連合国軍が連絡を取って終戦処理に入る必要があったが、陸上・海上交通は時間がかかる上に壊滅状態で、空路を使うしか無かった。連合軍最高司令部の承認を得て、昭和208170930に竹田宮恒徳王を乗せたMC-20、朝香宮鳩彦王を乗せたMC-20、閑院宮春仁王を乗せた一〇〇式重爆が東京を離陸。この時は識別のため4メートルの赤い吹き流しを曳いており、それぞれ新京の関東軍司令部及び奉天の第3方面司令部、南京の支那派遣軍総司令部、サイゴンの南方軍寺内元帥及びシンガポールの海軍福留中将に、天皇陛下の名代として降伏の経緯を説明した。819日、連合国の要請に基づき、日本政府代表団(降伏全権団)をマニラに派遣することになった。日本海軍が運航を担当し、まず羽田飛行場から海軍木更津基地に飛び、次に伊江島に向かった。連合軍最高司令部では零式輸送機を使う指示を出していたが、航続距離が短く、給油のために降りた飛行場で不測の事態が起きる恐れもあるため、武装を外した一式大型陸上輸送機(1号機)と一式陸攻(2号機)を用意して木更津から伊江島までノンストップで飛べるようにしている。連合軍指示に基づき機体全体を白塗りにし、胴体両側面、垂直尾翼両側面、主翼上下面に緑十字を描いた。伊江島でC-54に乗り換えてマニラに向かい、820日に伊江島に帰国。東京に帰る途中で1号機が燃料切れを起こし、天竜川河口に不時着している(乗員乗客は無事)。8240800、連合国最高司令官要求事項第3号1(イ)に基づき、軍民とも日本国内での飛行が禁止された。その2日前の822日に大本営が降伏条項伝達を目的とする非武装連絡機の限定飛行を承認するよう求め、823日に連合軍最高司令部から緊急の必要に応じて最小限度の飛行は許可されていたが、825日には日本の東海岸、伊勢湾、駿河湾、相模湾の北限界線を繋ぐ線から南2海里以上の海上が飛行禁止区域となり、826日には北緯37度・東経138度以南の四角地域(関東平野一帯)も飛べなくなった。825日、海軍機としては零式輸送機、一式陸攻、白菊練習機を使用し、機体は白塗りで、胴体両側と主翼上面に緑十字を描き、500m先から容易に視認できる赤色吹き流しを曳航すると決められた。827日、陸軍機は緑十字記入と赤色吹き流しの曳航を行い、機体の白色塗装は逐次実施とすることになった。どうやら白色塗料が足りなかったらしい。829日、南方方面軍降伏に際して陸軍参謀1名を司令部偵察機でサイゴンから台湾を経由してフィリピンに派遣し、フィリピンのアメリカ軍司令官と連絡を取ることになった。この機の塗装は翼又は胴体に白帯を記入し、中に大きく緑十字を描くよう指定されている。910000以降から陸軍機が連絡飛行を開始。92日、大本営陸軍部参謀1名を所沢から京城・新京に派遣することにし、京城行きのみ許可が下りた。この機も翼又は胴体に白帯を記入し、中に大きく緑十字を描くよう指定されている。94-5日、白地の胴体両側と主翼上下に緑十字を描いたMC-20輸送機3機が銀行券3億円分を乗せて羽田と京城を往復。99日、陸軍第2軍がモロタイ島で連合国陸軍南西太平洋方面司令官のオーストラリア陸軍トーマス・ブレメイ将軍に降伏。軍司令官豊嶋房太郎中将は輸送機不足でオーストラリア空軍C-47輸送機に乗り込み、随伴員が緑十字塗装の一〇〇式重爆と九七式重爆に分乗した。99-13日と15-20日、白地の胴体両側と主翼上下に緑十字を描いた九七式飛行艇が台湾紙幣を乗せて横浜と台湾を往復した。910日、ボルネオ守備担当第37軍司令官を乗せた独立第10飛行団司令部飛行班一式双発高等練習機が北ボルネオのラブアンに到着。塗料が無かったのか白塗装では無く、主翼の日の丸の内側と、後部胴体側面の日の丸に重ねて緑十字を記入していた。913日、東京と主要都市間の4航路の連絡航空便を運航する許可が下りた。使用機はDC-3MC-20、白菊、双発高等練習機(一式高等練習機?)で、白地に緑十字の塗装を行う。915日、ブーゲンビル島トリポイルから緑十字塗装の零戦二二型がニュージーランド空軍パイロットの操縦で離陸し、ブーゲンビル島のニュージーランド空軍ピバ基地まで運ばれた(その後ニュージーランドに海路で運ばれオークランド戦争記念博物館に展示)。918日、ラバウルのブナカナウ飛行場から緑十字塗装の零戦3機と一〇〇式司偵1機が離陸し、コルセア戦闘機6機の護衛でジャキノット湾に到着、連合軍に接収された。109日、東京−主要都市間航路は運休が命じられ、1010日からアメリカ極東空軍がアメリカ軍機で運航することになった(194726日まで実施)。1014日、ラバウルから第105航空基地隊九七式艦攻1機が離陸し、コルセア戦闘機4機の護衛でジャノキット湾に到着して連合軍に接収されたが、緑十字塗装はされていなかった。参考:月刊航空ファン8,179,17、月刊丸3,'18別冊

<緑のたぬき>:防衛記念章(自衛隊)を参照。

緑本>:陸上自衛隊の新入隊員必携の通称。参考:スピアヘッドNo.13

<ミドルトン>:L74(駆逐艦)またはM34(ハント級掃海艇)を参照。

<ミトロファン・モスカレンコ>:020(イワン・ロゴフ級揚陸艦)を参照。

ミトロファン・モスカレンコ>:ロシア海軍プロジェクト23900揚陸艦Mitrofan Moskalenko2020720起工。参考:月刊世界の艦船10,20

<ミナーヴァ>:F45(リアンダー級フリゲート)を参照。

ミナーヴァ級>:イギリス海軍沿岸敷設艇Minerva級。元は第1次大戦中に建造された砲艦で、1921年に敷設艇に改造された。全長54m、基準排水量535トン。速力10ノット。機雷52個を搭載する。3隻が改造された。参考:第2次大戦のイギリス軍艦

<みなせ>:MSC-627(掃海艇)を参照。

水無月(初代)>:日本海軍神風型駆逐艦27番艦。明治40214日竣工。大正元年828日、三等駆逐艦に類別変更された。大正13121日に掃海艇に転籍となった。昭和381日に第10号掃海艇と改称。昭和561日に除籍され、廃駆逐艦第10号となった。昭和572日に廃船となり、昭和6528日に売却され、高知県沿岸で魚礁となった。参考:日本駆逐艦史

水無月(2代目)>:日本海軍睦月型駆逐艦6番艦。昭和2322日竣工、第28号駆逐艦という名称で一等駆逐艦に類別された。昭和381日、水無月と改称された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第22駆逐隊に所属していた。昭和1837日、スルミで座礁した。712-13日、コロンバンガラ島沖夜戦に参加。720日、ショートランドで爆撃を受けて小破した。102日、コロンバンガラ沖で駆逐艦と交戦して小破した。1012日、ラバウルで爆撃を受け、至近弾により小破した。昭和1966日、ボルネオのタラカン島北東でSS-257ハーダーの雷撃を受け沈没し、810日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

南アフリカ海軍>:1970-71年、ダフネ級潜水艦3隻が引き渡された。2006-07年、MEKO A200SAN級フリゲート4隻が就役。20102月、ドイツ海軍と共同演習を実施。11月、将来構想を発表し、潜水艦3隻、フリゲート4隻、哨戒艦3隻、哨戒艇6隻、揚陸艦3隻、戦闘補給艦2隻を主力とするとした。参考:月刊世界の艦船4,11

 <南アフリカ海軍(1977年)>:現役兵力5500名(うち徴兵1400名)、予備役10500名。ダフネ級潜水艦3隻、駆逐艦1隻、対潜フリゲート3隻、護衛掃海艦1隻、沿岸掃海艇6隻、フォード級哨戒艇2隻を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <南アフリカ海軍(1989年)>:現役兵力6500名(うち徴兵1500名、海兵隊900名)。ケープタウンに西部司令部、ダーバンに東部司令部、サイモンズタウンに基地がある。ダフネ級潜水艦3隻、サール4型ミサイル艇9隻、トン級沿岸掃討艇1隻、トン級沿岸掃海艇3隻、ウムキムクル級沿岸掃討艇4隻、潜水支援艦1隻、洋上給油修理艦2隻、測量艦1隻を保有する。海兵隊は旅団司令部1個、地方港湾・基地防衛部隊9個、両用戦中隊1個からなり、81mm迫撃砲と小艇30隻を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南アフリカ海軍(1997年)>:現役兵力5500名。打撃戦隊1個(サール4型ミサイル艇9隻、沿岸高速哨戒艇3隻)、潜水艦戦隊1個(ダフネ改級潜水艦3隻)、機雷戦戦隊1個(トン級機雷掃海艦4隻、リバー級掃海艇4隻)、洋上給油工作艦2隻、測量艦1隻、潜水支援艦1隻、南極支援艦1隻からなる。参考:月刊軍事研究7,97

南アフリカ海軍(2015年)>:現役兵力7650名、予備役850名。艦隊司令部と海軍基地がサイモンズタウン、海軍ステーションがダーバンとポート・エリザベスにある。209/1400M型潜水艦3隻、MEKO A200型フリゲート4隻、サール4型哨戒艇3隻、その他哨戒艇3隻、リバー級掃海艇2隻、リマ級LCU6隻、兵站支援船8隻を保有する。海兵即応部隊は海兵哨戒群1個、ダイビング群1個、海兵乗艦群1個、支援群1個からなる。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

南アフリカ空軍>:SAAFSouth African Air Force)と略す。1967年、Sa321L輸送ヘリの配備を開始。1969年、C.160Z輸送機が初飛行。1986年からチータ戦闘機を生産。2003年、AH-2A攻撃ヘリとホークMk128練習機の配備を開始。2008年、JAS39戦闘機の引き渡しが開始された。参考:月刊JWings12,03、月刊軍事研究10,10THE MILITARY BALANCE 2016

 <南アフリカ空軍(1977年)>:現役兵力8500名(うち徴兵3000名)、予備役25000名。キャンベラB1.Mk12爆撃機6機、キャンベラT.Mk4爆撃機3機、バッカニアS50攻撃機9機、ミラージュF1A戦闘機32機、ミラージュVCZ/BZ/RZ戦闘機27機、ミラージュF1CZ迎撃機16機、シャックルトンMR.Mk3哨戒機7機、ピアッジオP166S哨戒機19機、C-130B輸送機7機、L-100-20輸送機1機、L-100-30輸送機15機、C-160Z輸送機9機、C-47輸送機30機、DC-4輸送機5機、バイカウント781輸送機1機、HS125輸送機7機、スウェリンジェン・マーリンIVA輸送機7機、アルエートVヘリ40機、SA330ヘリ25機、SA321Lシュペルフルロン15機、ワスプ11機、セスナ185A/D/E連絡機22機、AM3Cボスボク連絡機40機、C4Mクードゥー連絡機20機、ミラージュVEZ/DZ/D2Z練習機29機、F-86練習機12機、MB326インパラT150機、インパラU22機、バンパイア練習機30機を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <南アフリカ空軍(1989年)>:現役兵力11000名(うち徴兵4000名)。キャンベラB1.Mk12爆撃機5機、キャンベラT.Mk4爆撃機2機、バッカニアS50攻撃機5機、ミラージュF1AZ戦闘機29機、ミラージュF1CZ戦闘機14機、ミラージュVCZ/BZ戦闘機16機、チータ戦闘機27機、インパラU92機、ミラージュVRZ偵察機4機、ミラージュVR2Z偵察機3機、B707電子情報収集/空中給油機4機、C-47洋上哨戒機8機、P-166S洋上哨戒機19機、ワスプHAS-1対潜ヘリ8機、SA-316対潜ヘリ6機、C-130B輸送機7機、C-160Z輸送機9機、HS-125要人輸送機4機、バイカウント781輸送機1機、C-47輸送機19機、DC-4輸送機4機、SA-321ヘリ14機、SA-330ヘリ65機、SA316汎用ヘリ57機、AM-3C連絡機34機、C-4M連絡機35機、セスナ185連絡機10機、T-6G練習機130機、インパラT練習機120機、C-47練習機12機、SE3130練習ヘリ30機、SA316練習ヘリ7機、メテオールP1無人機、スカウト無人機、アームスコア・シーカー無人機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南アフリカ空軍(1997年)>:現役兵力10500名。作戦機は244機で、周辺国(アンゴラ、ジンバブエ、ザンビア、モザンビーク)の計228機を上回る。攻撃戦闘飛行隊4個(インパラU75機、ミラージュF1AZ29機、チータC/D38機)、給油/電子戦飛行隊1個(B707-320が4機)、洋上哨戒飛行隊1個(C-4TP8機、C-212が5機)、輸送飛行隊3個(C-130B7機、HS-125-400B3機、CH-47ヘリ19機)、ヘリコプター飛行隊4個(SA-316ヘリ63機、SA-330C/H/L63機、BK-11710機)からなる。参考:月刊軍事研究7,97

南アフリカ空軍(2015年)>:現役兵力10650名、予備役850名。司令部はプレトリアにあり、4個作戦群に分かれる。指揮管制組織は航空宇宙管制セクター2個、機動開発航空団1個、空軍コマンドポスト1個からなる。レーダー航空管制セクターはプレトリアとフートスプレイトにある。JAS-39C戦闘機17機、JAS-39D戦闘機9機、C-130B輸送機2機、C-130BZ輸送機5機、ビーチ200Cキングエア輸送機3機、ビーチ300キングエア輸送機1機、C-47TP洋上輸送機3機、C-212-200輸送機2機、C-212-300輸送機1機、セスナ208輸送機10機、セスナ550輸送機2機、PC-12輸送機1機、B737BBJ要人輸送機1機、ファルコン50要人輸送機2機、ファルコン900要人輸送機1機、ホークMk120練習機24機、PC-7MkU練習機35機、AH-2攻撃ヘリ11機、スーパーリンクス300汎用ヘリ4機、オリックス汎用ヘリ36機、AW109汎用ヘリ27機、BK-117汎用ヘリ8機、IRIS-T空対空ミサイル、GBU-12/BペイブウェイUレーザー誘導爆弾を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

南アフリカ国防軍>:SANDFSouth African National Defence Force)と略す。アパルトヘイト政策下では白人男性にのみ徴兵制を敷いており、人口比率の低い白人が戦死することを極力避けるため、後方兵站車両に至るまで徹底的に装甲化されている。衛生隊は統合医療軍として独立軍種になっており、装甲救急車を完備して車内で負傷者を手当てする(そうしないと肉食動物に喰われることがある)。侵攻作戦中に車両が故障で動けなくなると命取りになるため、兵器の各部を簡単に交換整備可能としている。自然環境の関係で、車両には乗員に十分な水を供給すると共に武器などに付いた細かい砂を洗い落とすための大容量水タンクを備える。1977年、国連から武器禁輸制裁を受けた。19945月、マンデラ政権が誕生し、国際社会に復帰。国防軍はSouth Africa Defence ForceからSouth Africa National Defence Forceに改称し、白人に対する徴兵制が廃止されて全人種を対象とした志願制(女性兵士も後方任務に就く)に切り替わり、国内のゲリラ組織(武装組織であるMKAPLA、旧ホームランド諸国のシスカイ、トンランシスカイ、ヴェンダなど)は解体されて国防軍に組み込まれた。しかし長期間の国際的孤立から国内産業に競争力が無く、資源もソ連崩壊による放出で価格が落ちてしまい、産業が育たないため失業率が50%を超えている。このため治安は回復せず、1995年度には国防予算の11%を費やして治安任務に軍を投入した。また、独自の発展を遂げてきた国防産業に活路を見出している。1994年、国防予算は1989年の半分以下となった。1999年、初めて国連ミッションに参加し、コンゴ民主共和国に要員を派遣した。2001-09年、プレトリアに不安定性が拡大する恐れ上がるとして、カリキュラム作戦を発動してブルンジに介入。2011年、活動の重点を地域平和維持活動から国境警備に移すと表明した。Copper作戦でモザンビーク海峡に、トリトン作戦でコモロ諸島に展開。2013年、Vimbezela作戦で中央アフリカ共和国に介入。参考:月刊軍事研究7,978,957,959,111,17THE MILITARY BALANCE 2016

 <南アフリカ国防軍(1989年)>:陸海空軍、医療部隊(8000名)からなる。兵力103000名(うち徴兵64000名)、予備役425000名。ホームランドも独自の兵力を有する。ボプタツワナは兵力3100名。軍管区6個、歩兵大隊1個、空挺・特殊部隊1個、独立歩兵中隊グループ2-3個、偵察飛行小隊1個、軽輸送飛行小隊1個、ヘリ飛行小隊1個からなる。バッファロー装甲兵員輸送車、81mm迫撃砲、P-68輸送機2機、C-212-200輸送機2機、AS-355ヘリ1機、BK117ヘリ2機、SA316ヘリ2機を保有する。シスカイは兵力1000名。歩兵大隊1個、空挺・特殊部隊中隊1個からなる。BN-2輸送機2機、SC-7-3Mスカイバン輸送機2機、IAI-1124要人輸送機1機、BK117ヘリ3機、Bo105ヘリ1機を保有する。トランスカイは兵力2000名。軽歩兵・対ゲリラ戦大隊1個、特殊部隊連隊1個、航空団からなる。C-212輸送機2機、BK117ヘリ2機を保有する。ヴェンダは兵力1500名。歩兵大隊2個、工兵隊、航空団からなる。バッファロー装甲兵員輸送車、81mm迫撃砲、BK117ヘリ2機、SA316Bヘリ1機を保有する。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <南アフリカ国防軍(1997年)>:トップは国防軍総司令官で、国防軍参謀総長が補佐する。隷下に陸海空軍、衛生部隊、司令部付部隊、査察総監、監理部長、従軍牧師総監、動員部長、通信部長、人事部、情報部、作戦部、兵站部、経理部を置く。参考:月刊軍事研究7,97

 <南アフリカ国防軍(2015年)>:現役総兵力67200名(陸軍40600名、海軍7650名、空軍10650名、医療部隊8300名)、予備役15050名(陸軍12250名、海軍850名、空軍850名、医療予備役部隊1100名)。コンドルE偵察衛星1基を保有する。コンゴ民主共和国にMONUSCO/ミストラル作戦要員1326名、歩兵大隊1個、攻撃ヘリ飛行隊1個、ヘリ飛行隊1個、工兵中隊1個、オブザーバー7名、モザンビーク海峡にフリゲート1隻、スーダンにUNAMID/コルダイト作戦要員798名、歩兵大隊1個、オブザーバー10名を派遣している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

南アフリカ偵察車シリーズ>:南アフリカ軍が独自に開発した装輪装甲車で、イギリス・アメリカから輸入できなかったために製作された。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkT>:フォードの民間用4×2輪3トントラックのシャシーに厚さ12-6mmの装甲車体を取り付け、ヴィッカーズ7.7mm機銃1丁装備の銃塔を搭載したもの。車体側面にもヴィッカーズ7.7mm機銃1丁が付いている。全長4.87m、全幅1.98m、全高2.41m、全備重量6トン。エンジンは8気筒液冷ガソリン(95馬力)で、最大速度80km、航続距離320km。乗員4名。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkU>:4輪駆動にしたもの。後期型では車体を溶接にするなどの改修を受けた。また、北アフリカ戦に投入されたものは、銃塔前面の武装をボーイズ対戦車ライフルとブレン機銃に換え、銃塔上部にブレン及びヴィッカーズ7.7mm機銃1丁ずつを装備した。南アフリカに549両が引き渡された他、イギリス軍向けにも338両が引き渡されている。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkV>:ホイールベースを16.5インチ(419mm)短縮し、車体前面装甲板を開閉式から固定式にし、銃塔の形状を円筒から角張ったものに換えたタイプ。後期生産車では車体前面のグリルが無くなり、車体後面乗降ドアが小型の1枚式になるなどの細部変更が加えられた。1941-42年に2630両が生産された。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkW>:車体を新型にして機関室を車体後部に移し、砲塔も2ポンド砲装備の新型にしたタイプ。後期型では7.62mm同軸機銃M1919A4が追加された。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkWF>:駆動系をカナダ・フォード社製F60Lのものと交換し、エンジンを車体前部に移したもの。参考:世界の軍用車両(4)

 <南アフリカ偵察車MkY>:シャシーを8×8輪に換え、砲塔を6ポンド砲と連装機銃搭載の新型にしたもの。2両が試作された。参考:世界の軍用車両(4)

南アフリカ陸軍>:想定戦場の大部分がサバンナ地帯で、周辺国の装備する戦力は旧式ソ連戦車が主なので、装輪装甲車による一撃離脱・高速包囲と空挺部隊による後方遮断を得意戦法としている。1961年、エランドMk1装甲車を導入。1975年、C4M連絡軽輸送機40機の配備を開始。1978年からオリファント戦車とブッフェル装甲兵員輸送車を配備。1982年からヴァルキリ自走ロケットランチャーを配備。1988年、G6自走榴弾砲の量産を開始。1990年、ローイカット装甲車の運用を開始。参考:月刊軍事研究7,95、世界AFV年鑑2002-2003

 <南アフリカ陸軍(1977年)>:兵力41000名(うち徴兵34000名、女性2100名)、予備役130000名。1個軍団、2個師団(平時は司令部のみ。戦時動員で編成を完結)、1個機甲旅団、1個機械化旅団、4個自動車科旅団、2個空挺大隊、8個野砲連隊、2個中型砲兵連隊、9個軽高射砲連隊、9個野戦工兵中隊、5個通信連隊からなる。センチュリオン戦車150両、コメット戦車20両、M41軽戦車、AML60/90エランド装甲車1600両、フェレット/M3AIなど偵察車230両、サラセン/レイテル装甲兵員輸送車280両、ヒポウ/ライノなど軽装甲兵員輸送車500両、25ポンド自走榴弾砲、105mm自走榴弾砲、25ポンド/105mm5.5インチ(140mm)/155mm榴弾砲、81mm/120mm迫撃砲、17ポンド/90mm対戦車砲、105mm無反動砲、SS11/エンタック対戦車ミサイル、20mm高射機関砲204GK35mm連装高射機関砲K3670口径40mm高射機関砲、3.7インチ(94mm)高射砲、クロタル地対空ミサイル18基、タイガーキャット地対空ミサイル54基を配備する。参考:軍事力バランス78年版

 <南アフリカ陸軍(1989年)>:現役兵力77500名。空挺旅団1個、特殊部隊偵察中隊5個、大統領親衛隊、地域コマンド11個、歩兵大隊7個、訓練部隊(全部隊が戦闘能力を有する。機甲大隊2個、歩兵大隊9個、砲兵連隊2個、高射砲連隊1個、工兵連隊1個)からなる。予備役部隊は軍団司令部1個、師団2個、独立自動車化歩兵旅団1個、砲兵連隊2-3個、装甲偵察連隊2個、歩兵大隊16個、砲兵連隊2個、防空連隊2個、工兵連隊3個からなる。郷土防衛部隊として歩兵大隊最大150個を置く。センチュリオン/オリファント2B戦車250両、エランド偵察車(90mm砲または60mm迫撃砲搭載)1600両、ローイカット偵察車、ラテル歩兵戦闘車1500両、バッファロー/ブルドッグ/ヒッポ/キャスパー/リノ/ハイエナ/リンクス装甲兵員輸送車1500両、25ポンド砲30門、5.5インチ(140mm)砲G-275門、155mmG-540門、155mm自走砲G-610両、122mm自走ロケット砲バルキリ22120両、127mmロケット砲バルキリ5、81mm迫撃砲4000門、120mm迫撃砲120門以上、SS-11対戦車ミサイル、エンタック対戦車ミサイルランチャー120基、84mm無反動砲、106mm無反動砲、6ポンド砲、17ポンド砲、90mm対戦車砲M6720mm自走高射機関砲、35mm連装高射機関砲K6355基、70口径40mm高射機関砲25門、3.7インチ(94mm)高射砲15門、カクタス地対空ミサイル20基、タイガーキャット地対空ミサイル54基を保有する。鹵獲した9M32/9K33/9K31/9K35/9K34地対空ミサイルとZU-23-2高射機関砲も使用しているとみられる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南アフリカ陸軍(1997年)>:兵力55000名で、戦車・装甲車5300両を装備しており、周辺国(アンゴラ、ジンバブエ、ザンビア、モザンビーク)合計の1200両を質量共に大きく上回る。地域コマンド司令部10個、機甲師団1個、機械化師団2個、空挺旅団2個、砲兵連隊2個、高射砲連隊2個、工兵連隊3個、通信連隊1個、通信隊3個、特殊/偵察部隊1個、訓練/待機部隊、歩兵中隊郷土防衛部隊250個からなる。参考:月刊軍事研究7,97

南アフリカ陸軍(2015年)>:現役兵力40600名、予備役12250名。連隊は実際には大隊規模である。混成正規・予備役師団3個(機械化、自動車化、非常事態1個ずつ)に旅団12個(機甲1個、機械化1個、自動車化7個、空挺1個、降下1個、上陸1個)を配する再編成を計画中。旅団司令部2個、特殊作戦連隊2個、機甲偵察連隊1個、戦車連隊1個、機械化歩兵大隊2個、自動車化歩兵大隊8個、軽歩兵大隊1個、空挺大隊1個、空中機動大隊1個、水陸両用大隊1個、砲兵連隊1個、防空砲兵連隊1個、工兵連隊1個、通信連隊3個、工兵支援連隊1個、建設連隊1個からなる。予備役部隊は機甲偵察連隊3個、戦車連隊4個、機械化歩兵大隊6個、自動車化歩兵大隊14個、軽歩兵大隊3個(自動車化歩兵大隊に再編中)、空挺大隊1個、空中機動大隊1個、水陸両用大隊1個、砲兵連隊7個、防空連隊5個、工兵連隊2個からなる。オリファント2戦車24両、オリファント1B戦車133両(全て保管中)、ローイカット76偵察車50両(+保管中126両)、ラテル-20/-60/-90歩兵戦闘車534両、キャスパー装甲車370両、マンバ装甲車440両、155mm自走砲G-6を2両(+保管中41両)、155mmG-5を6門(+保管中66門)、127mm多連装ロケット砲ヴァルキリMkU6両(+保管中19両)、127mm多連装ロケット砲ヴァルキリMkT26両、81mm迫撃砲1190門(キャスパー自走迫撃砲含む)、120mm迫撃砲36門、ZT-3対戦車ミサイル、ミランADT/ER対戦車ミサイル、106mm無反動砲M40A1(一部自走化)、スターストリーク携帯地対空ミサイル、23mm自走高射機関砲ズムラク36両(全て保管中)、40mm高射機関砲GDF-00240基、ESR220Thutlwaレーダー4基、ペイジ・レーダー2基、Gemsbok装甲回収車、レグアン戦車橋、バルチャー無人機4機以下を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

南イエメン海軍>:

南イエメン海軍(1977年)>:兵力300名。ソイ級駆潜艇2隻、P6級魚雷艇2隻、ハン級掃海艇3隻、小型哨戒艇6隻、ポルノクヌイ級上陸用舟艇2隻を配備する。参考:軍事力バランス78年版

南イエメン海軍(1989年)>:兵力1000名。アデン、ペリム島、アル・ムカラに基地がある。オサU級ミサイル艇6隻、P-6級魚雷艇2隻、ズック級内海高速哨戒艇2隻、ロプーチャ級戦車揚陸艦1隻、ポルノクヌイ級中型揚陸艦4隻を保有する。ただし稼働状況は不詳。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南イエメン空軍

 <南イエメン空軍(1977年)>:兵力2000名。Il-28爆撃機6機、MiG-21戦闘機12機、MiG-17戦闘機15機、Il-14輸送機4機、An-24輸送機3機、C-47輸送機、Mi-8ヘリ8機、Mi-4ヘリ、MiG-15UTI練習機3機を配備する。参考:軍事力バランス78年版

南イエメン空軍(1980年)>:MiG-21PF/MF55機、Su-2030機、MiG-17F40機、MiG-15UTI練習機2機、Il-2812機、ストライクマスターMk.81を4機、ジェット・プロポストT.52を4機、An-24を8機、Il-14を4機、C-47輸送機4機、Mi-8を8機、Mi-4を6機保有している。参考:ザ・マーチ18

南イエメン空軍(1989年)>:兵力2500名。Il-28爆撃機5機、MiG-17戦闘機25機、MiG-21戦闘機42機、Su-20攻撃機25機、MiG-23BN戦闘機15機、An-12輸送機2機、An-24輸送機6機、An-26輸送機2機、Il-14輸送機4機、Mi-24攻撃ヘリ12機、Mi-8汎用ヘリ30機、Mi-4汎用ヘリ4機、Ka-26ヘリ2機、MiG-15UTI練習機3機、MiG-21U練習機2機、S-75/S-125/2K12地対空ミサイルを保有する。ただし稼働状況は不詳。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南イエメン軍(1989年)>:現役総兵力27500名、予備役45000名。キューバ軍500名が駐留している。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南イエメン陸軍>:

南イエメン陸軍(1977年)>:兵力19000名。歩兵旅団10個、機甲大隊2個、砲兵旅団1個、通信隊1個、訓練大隊1個からなる。T-34/T-54中戦車200両、サラディン装甲車10両、フェレット偵察車10両、25ポンド砲、105mm/122mm/130mm榴弾砲、迫撃砲、122mm無反動砲、23mm自走高射機関砲、37mm/57mm/85mm高射砲、9M32地対空ミサイルを装備する。参考:軍事力バランス78年版

南イエメン陸軍(1989年)>:現役兵力24000名(うち徴兵18000名)、予備役45000名。機甲旅団1個、機械化旅団3個、歩兵連隊9個、砲兵旅団3個、砲兵大隊10個、地対地ミサイル旅団2個からなるT-34/T-54/T-55/T-62戦車480両、BRDM-2偵察車130両、BMP-1歩兵戦闘車150両、BTR-40/-60/-152装甲兵員輸送車325両、122mmM-193840門、122mmD-30120門、130mmM-4665門、130mm沿岸砲SM-4-136門、BM-21140両、BM-1415両、82mm/160mm迫撃砲、120mm迫撃砲M-4350門、フロッグ7発射機12基、スカッドB発射機6基、9M14対戦車ミサイル、BRDM-2自走対戦車ミサイル36両、82mm無反動砲B-1020門、107mm無反動砲B-1185mm対戦車砲D-44100mm対戦車砲40門、23mm高射機関砲ZU-23ZSU-23-4自走高射機関砲、37mm高射機関砲M-193930門、57mm高射砲S-6085mm高射砲KS-1220門、9M32/9K31地対空ミサイルを保有する。ただし稼働状況は不詳。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

南恵庭駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。広報史料館には日本軍の制服や階級章、自衛隊カンボジア国際貢献の写真などが展示されている。所在地は北海道恵庭市恵南63JR恵庭駅・恵み野駅からバスで10分。駐屯地創立記念行事ではシャトルバスも出る。19943月、第1施設群第301坑道中隊が新編された。20083月、北部方面施設隊が新編された。200919日、新成人8名の成人祝賀行事を実施。201018日、新成人12名の祝賀行事を実施。2012110日、新成人11名が雪中フラッグを実施。目標や抱負を書いた旗を雪上に立て、全力疾走してヘッドスライディングで奪取した。2013111日、新成人8名の門出を祝う祝賀行事と会食を実施。77日、自衛隊協力者に対するヘリ体験搭乗を実施。2014131日、ジブチ共和国派遣隊員壮行会を実施。1012日、駐屯地と第73戦車連隊の自衛隊協力者24人にヘリ体験搭乗を実施。2015113日、新成人11名の成人祝賀行事を実施。511-20日、春の全国交通安全運動に協力した。201618日、新成人33名の祝賀行事を実施。2017213-20日、隊員13名が恵庭クロスカントリースキー大会を支援し、コース整備や給水・通信業務を行った。選手としても出場し、20kmリレー自衛隊の部で第105施設器材隊架橋中隊Aが優勝している。327日、第3施設団が新編された。第301坑道中隊が上富良野駐屯地に移った。49日、平成28年度駐屯地モニター任期終了式と平成29年度駐屯地モニター委託式を実施。201833日、駐屯地モニターや協力団体21人にUH-1J多用途ヘリ体験搭乗を実施。2020829日、駐屯地モニターら6人に第1回訓練見学を実施。第14施設群が北海道大演習場(島松地区)に構築した師団指揮所用掩蓋掩壕などの防御陣地を公開した。202282日、北海道防衛局入省2-3年目職員の部隊研修に協力し、非常用糧食喫食、90式戦車体験試乗、施設器材見学などを行った。参考:JGround Vol.23MAMOR vol.91、朝雲、陸上自衛隊ホームページ

 <南恵庭駐屯地(2015年)>:第7師団第73戦車連隊、第7後方支援連隊第2整備大隊第3戦車直接支援中隊、北部方面施設隊、第101施設直接支援大隊、北部方面会計隊第326会計隊(326日から第323会計隊南恵庭派遣隊)、南恵庭駐屯地業務隊が駐屯している。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

南恵庭駐屯地業務隊>:陸上自衛隊の駐屯地業務隊。2018117日、第3施設団改編に伴う施設整備と補給支援任務の完遂の功績で、陸幕長から2級賞状が授与された。参考:朝雲

南オセチア紛争>:南オセチア自治州はグルジア北部中央に位置し、オセット人60%、グルジア人40%で構成されている。ソ連崩壊によるグルジア共和国独立後、オセット人は国境を接するロシアの北オセチアへの編入を訴え、グルジア軍と衝突を繰り返していた。2003年以降、グルジア共和国には欧米諸国の軍事援助が行われており、ウクライナの余剰兵器やイスラエルの無人偵察機などを導入、アメリカから軍事訓練も受けていたが、志願兵はともかく、徴兵で集められた兵士は中隊以上での演習すら行ったことがない状態だった。2008年、グルジア軍の総兵力は21500名(徴兵6000名)で、うち2000名がイラクに派遣されていた。陸軍は4個歩兵旅団と1個砲兵旅団、1個独立軽歩兵大隊、1個独立戦車大隊、1個独立防空大隊、1個独立偵察大隊からなり、兵力16600名、主要装備はMi-24攻撃ヘリ3機、Mi-2汎用ヘリ2機、Mi-8汎用ヘリ2機、UH-1H汎用ヘリ8機、T-72T-80T-54/55など戦車86両、装甲車180両、野砲・大口径迫撃砲110門である。また、リンクス装輪式自走多連装ロケット砲、RM-70自走40連装ロケット砲、DANA自走砲、S-125地対空ミサイル、ブーク1MSA-11)地対空ミサイル、トールM1地対空ミサイル、グロム携SAM、コブラ軽装甲車なども配備していた。空軍はSu-25攻撃機7ないし9機、L-59練習機9機、An-12輸送機4機を装備しており、兵力は1400名。また、イスラエル製のヘルメス450(5機)及びスカイラークUAV(数十機)が引き渡されていた。海軍はギリシャ製ミサイル艇1隻、マトカ級ミサイル艇1隻、ギリシャ製哨戒艇1隻、ズーク級哨戒艇1隻、アエティ哨戒艇1隻、イェフゲンヤ級掃海艇4隻、ポイント級掃海艇1隻、ヴィドラ級揚陸艇2隻を保有し、兵力は530名である。20081月、グルジアがNATOに対して加盟行動計画の発出を要求。これは認められなかったが、ロシア側は危機感を強めたものとみられる。421日、アブハジア上空でグルジア軍のヘルメス450が撃墜された。グルジアはロシア空軍によるものと非難し、国連監視団もロシア空軍によるものとしたが、ロシア側はこれを否定し、グルジアがUAVを侵入させた方が問題であるとした。5月以降、グルジアがSu-25UAVをアブハジア上空に飛行させた。同月、ロシアはアブハジアに工兵部隊を派遣し、2ヶ月かけて鉄道を修復した。51日、グルジアがアブハジアに軍を投入したとして、ロシア軍がアブアジア駐留兵力を増強。6月、アブハジア政府がグルジア政府と断交。78日、ロシア軍がグルジア国境を侵犯して4機の軍用機を飛行させ、威嚇示威行動を行った。715日、グルジアが1500名規模の軍事演習を開始。728日(15日?)から82日まで、ロシア軍北カフカス軍管区で軍事演習カフカス088000名規模)が行われた。グルジアの不穏な動きを察知しての行動と見られている。86日、南オセチア自治州でグルジア軍と独立派武装組織との戦闘が始まり、87日にはグルジア軍が大規模な砲撃を行い、アパートなどが破壊されて12人の死者と20人以上の負傷者を出した。南オセチアの州都ツンヒバリ周辺にはグルジア軍部隊が集結したが、ロシア側はこの動きを探知できなかったようである。ロシアは和平特使を送って調停に乗り出したが、880000頃、グルジア軍7500名が南オセチア自治州の州都ツヒンバリを攻撃。南オセチア独立派及び平和維持部隊として駐留していたロシア軍500名(更にスペツナズなどが密かに増強されていたとされる)と交戦状態に入った。グルジア軍の攻撃準備射撃でツヒンバリ市街は破壊され、数百人から1000人以上の市民が死亡したとされる。ロシア軍は隣接する北カフカス軍管区の陸海空戦力を投入。この時メドベージェフ大統領は休暇中、プーチン首相は北京オリンピック開会式に出席中で、グルジア情勢は国防相が上に伝えず、軍当局のみの判断で軍事介入に動いたとみられる。主力はチェチェン紛争に対処するため1995年に創設された北カフカス軍第58軍で、装備は旧式のものが多かったが、チェチェンの実戦経験があり、演習を終えたばかりで練度も高かった。他にモスクワ軍管区の第98空挺師団、第45情報連隊(スペツナズ部隊)、北部軍管区の第76親衛師団の一部が輸送機により急派された。第58軍の兵力は70000名で、戦車609両、歩兵戦闘車を含む装甲車2000両、野砲125門、多連装ロケット弾発射機190両、高射砲450門を装備しており、北カフカス軍管区の固定翼機120機とヘリ70機の支援を受けていた。ロシア側(北オセチア共和国)から南オセチアに通ずる道路はロキ・トンネルしか無かったが、グルジア軍はここを封鎖できなかったため、ロシア軍は急速な兵力展開と増派を続けた。戦車はT-72が主力で、T-80とスラットアーマー似の追加装甲を付けたT-62T-90も使用されたという説あり)も使用され、BMD-1/BMD-2空挺戦闘車、BMP-1/BMP-2歩兵戦闘車、BTR-80(スラットアーマー似の追加装甲を二重に装備した)/MT-LB/BTR-D装甲兵員輸送車、2S3/2S9自走砲、2S6自走対空システム、多連装ロケットランチャー、トチカ弾道ミサイル(少なくとも15発を発射)などを投入した。また、派遣直前にはロシア軍がグルジア大統領府などにボットネット(ネットワークシステムにウイルスで汚染された複数のネットワーク化コンピュータを送り込む)によるサイバー攻撃をかけ、インターネット上には突如フォーラムが出現、グルジア政府機関のサーバー一覧を表示してDDoS攻撃を呼びかけた。政府機関のサーバーは軒並みダウンしてしまったが、グルジア軍の方はIT化が進んでおらず、コンピュータを中核とする自動防空システムすら存在していなかったため、作戦に支障は無かったようだ。ロシア軍は重装備と軍事基盤の破壊に重点を置き、グルジア軍部隊基地、軍港、滑走路、整備工場、指揮所、補給施設などを徹底的に攻撃した。グルジアのサーカシビリ大統領は国家総動員令を出して抵抗したが、ロシア軍の攻撃機が首都トビリシ近郊まで飛来して爆撃を加えた。国連安保理では即時停戦を求める声明案の検討に入ったが、ロシアの反対にあって纏まらなかった。代わりにEU議長国のフランスがアメリカ、EU、欧州安全保障協力会議の合同代表団をグルジアに送ることになった。89日、ロシア攻撃機は黒海沿いの港湾都市ポチ及びトビリシの空軍基地を爆撃。810日、ロシア黒海艦隊(スラヴァ級巡洋艦モスクワ、カシン級駆逐艦スメトリヴィ、数隻の小型艦艇)はポチ港を封鎖してEUの支援物資を阻止。グルジア軍はミサイル艇4隻を出したが、スメトリヴィが1-2隻を撃沈して追い返した。ロシアはサーカシビリ大統領の停戦申し入れを拒否したが、フランスの仲介を受け入れた。ロシア軍はアブハジア自治共和国に平和維持軍として展開していた空挺部隊を進撃させ、更にアブハジアの黒海沿岸地域に揚陸艦から兵力を上陸させ、ポチの東側にあるセナキまで進出。グルジア軍はアブハジア自治共和国内にあるグルジアの飛び地だったコドリ渓谷から撤退。812日、ロシア軍はグルジア中部のゴリを制圧。ゴリにはクラスター弾頭を付けたイスカンデルM戦術弾道ミサイル2発が撃ち込まれた。ポチ港に停泊していたグルジア海軍船舶少なくとも6隻にロシア軍が爆薬を仕掛けて破壊、グルジア海軍艦艇は戦力をほぼ失った。アメリカのブッシュ大統領がロシアの軍事介入を非難。ロシアは国連安保理での即時停戦決議案を拒否。ロシア大統領は軍事作戦終了を決定、クレムリンでフランスのサルコジ大統領と会談し、6項目の和平案に合意した。グルジアの首都トビリシで反ロシア市民集会が開催され、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ラトビア、エストニア首脳も参加。グルジアがハーグの国際司法裁判所に国連人種差別撤廃条約違反でロシアを提訴した。813日、アメリカのC-17輸送機が128万ドル相当の医薬品を積んでトビリシ空港に着陸。ウクライナがセバストポリ軍港のロシア軍に対し、移動72時間前に通告を義務づけることを決定。814日、グルジア議会がCIS脱会を全会一致で承認。国連難民高等弁務官事務所はこの紛争による難民と国内避難民が11万人以上に達していると発表。815日、ロシア軍が首都トビリシから45kmの地点まで侵攻。フランスのサルコジ大統領とライス国務長官の説得を受け、グルジアが6項目の和平案(武力行使の停止、軍事行動の完全停止、人道支援保障、グルジア軍の常駐地への撤退、ロシア軍の戦闘開始以前のラインへの撤退、南オセチアとアブハジア自治州の安全保障及び安定手段に関する国際的議論の開始)に署名。翌16日にロシアが署名し、停戦となったが、ロシア平和維持部隊の撤退をロシア参謀本部が拒否した。817日、ロシアのメドベージェフ大統領が翌日からの軍撤退を表明。一連の戦闘でグルジア人やオセット人を中心に20万人が難民化したという。ロシア軍はRBK-250爆弾とイスカンデルM、グルジア軍はM85子爆弾を搭載したグラドラル160多連装ロケットランチャー及びMkWLAR160ロケット弾といったクラスター弾を使用したが、両国ともクラスター弾禁止条約には調印していない。ロシア軍はTu-22M3爆撃機(Tu-22M3R偵察機?)1機(乗員はアクツビンスク駐留の第929飛行実験センター所属)とSu-25攻撃機3機が撃墜されたと発表した。また、ロシア軍はグルジア軍航空機を地上で破壊することには成功したが、防空レーダーや地対空ミサイルを破壊することには失敗しており、SEAD能力の低さを露呈する結果になった。精密誘導兵器による攻撃能力も不十分であった。更に、グルジア軍がロシア兵器を使用していたためロシア軍の同士討ちが多発し、地上部隊と航空部隊も上手く連携が取れず、砲兵観測機器の不足で目標の発見識別にも難渋したらしい。グルジア軍のECMでロシア軍は通信ができなくなり、司令部では携帯電話で連絡を取り合っていたといい、ロシア軍地上部隊は現在位置を知らせるためにスモークを焚くこともあり、自らの位置を暴露しかねない状況であった。国際宇宙ステーションからロシア人宇宙飛行士がグルジア周辺の写真を撮影していたとのことだが、使用したのが手持ちの800mm望遠レンズなので、戦闘情報用としては殆ど役に立たなかったものと思われる。グルジアでは対ロシア感情が悪化し、国名をロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変更するよう各国に要請(ちなみに自国言語による正式国名はサカルトヴェロ)、日本も20154月に法律改正でジョージアに変えた。参考:月刊軍事研究12,0810,082,093,094,098,135,14、朝雲

南樺太侵攻>:明治8年、日本とロシアが樺太・千島交換条約を締結して日本が樺太を放棄。明治3810月、ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南が日本の領土となった。昭和145月、日本陸軍は南樺太上敷香にソ連との国境地帯を防衛するため樺太混成旅団(兵力12000名)を設置。昭和183月、南樺太が内務省直轄となり、内地に編入された。昭和1911月、スターリンが日本を侵略国とみなすと演説し、南樺太との国境地帯に兵力を集中し始めた。昭和202月、樺太混成旅団が第88師団に改編された。321日、第5方面軍が第88師団に対し、アメリカ軍の宗谷海峡突破を防ぐため、南樺太南部を中心に防衛線を敷くよう下命。北部に歩兵第125連隊、南部に歩兵第25・第306連隊を配置した。しかしソ連軍の動きが不穏の度を増したため、第88師団では第5方面軍に北方集中を3回具申、83日夕方に第5方面軍の許可を得た。86-7日、第88師団(兵力30000名)は部隊長を豊原の師団司令部に集めて対ソ態勢への転換を指示。南部に集中していた物資を北部へと輸送し、ソ連国境近くの古屯(ポベジノ)駅へと集結させた。88日、大本営から積極的戦闘禁止命令が届いた。89日、積極的戦闘禁止命令が解除された。この命令は最前線の歩兵第125連隊には届かなかったが、ソ連参戦の報を受け、国境南方80-92kmで対アメリカ用陣地構築中の主力部隊を国境へと北上させた。811日、ソ連軍が国境を突破。樺太南端大泊(コルサコフ)を824日開始予定の北海道留萌上陸作戦の拠点とすべく南進を開始した。国境近くの半田には日本陸軍と警察からなる100名ほどの部隊しか配置されていなかったが、ソ連1個軍団35000名を一昼夜に亘り拘束し、812日午後になって漸くソ連軍は国境から17km南の古屯へと進撃を再開した。第88師団は古屯付近のツンドラ地帯が深さ1-4mの湿地となっていたためそちらには防備を敷かず、古屯駅北西の八方山付近に歩兵第125連隊を置いて専ら北樺太から繋がる中央軍道付近を防衛していたが、ソ連陸軍第179狙撃連隊は樹木を伐採して古屯北東のツンドラ地帯に丸太道を造り一気に進撃、古屯駅を日本軍の物資共々占領した。第88師団は古屯奪回作戦を実施したが、輜重兵第2大隊と第301特設警備工兵隊、豊原地区第7特設警備隊、憲兵古屯分遣隊、1個警察分隊しか配備されておらず、しかも輜重兵第2大隊の装備は軽機関銃1丁と小銃20丁の他は木で作った模擬銃に銃剣を括り付けただけの槍で、第7特設警備隊には敷香中学校や青年学校の生徒が含まれており、とても戦力にならず、撃退されてしまった。813日、増援の第1大隊主力が到着。配備されていた連隊砲(四一式山砲)1門を古屯兵舎正門衛兵所横に設置し、古屯市街地に通じる東軍道及び栗山道を射撃できるようにした。第179狙撃連隊はT-34/76戦車を進撃させてきたが、直接照準射撃で砲塔と車体の隙間を狙って擱座させた。その脇を進むT-34/76も同じように擱座させると道が塞がれてそれ以上戦車が進めなくなるため、その隙に砲を隠して整備を行い、ソ連軍が擱座戦車をどかして進撃しようとするとすぐに反撃して擱座させた。この戦法で812日に2両、13日に3両、14日に7両を撃破した。815日、ソ連軍は連隊砲陣地の南側を防衛する速射砲分隊を攻撃。九四式三十七粍速射砲ではT-34/76に歯が立たず、付近の2個小隊共々蹴散らされ、山砲陣地は南側からの攻撃に晒されたが、夕方までに戦車13両を擱座させて進撃を阻止した。816日、大本営が停戦命令を発出。歩兵第129連隊第1大隊連隊砲部隊は昼までに四一式山砲で戦車9両を撃破したが、第1大隊長が戦死したとの報を受け、第1大隊壊滅により連隊砲陣地が包囲される恐れが出てきたため、連隊砲部隊は砲を分解して八方山に後退した。ソ連軍は八方山に陣を敷く日本軍に気付かず、主陣地は幌美峠とみて南下を開始、歩兵第129連隊は818日夕方にソ連軍への側背攻撃をかけることにした。ソ連軍が南樺太北西部の塔路町に上陸し、隣の恵須取市街に侵攻。防衛にあたった特設警備中隊と国民義勇戦闘隊はソ連軍を食い止めつつ住民を上恵須取へと後退させ、ソ連軍の前線をトラックで突破して取り残された女性対空監視要員を救出し、最後に上恵須取へと脱出した。炭鉱病院勤務の女性看護師も最後に脱出していったが、夜の山道を逃げ切るのは不可能と判断し、避難途中で毒薬の瓶が割れたため残りを23人で分けて自殺を図り、6人が死亡した。上恵須取からは鉄道の駅に続く道が東方向と南方向に2本出ていて、住民は徒歩で避難したものの、ソ連軍機の機銃掃射を浴びて死傷者が続出、赤軍に捕まればどうなるかは尼港事件で実証済みだったため、付いていけなくなった子供や老人や傷病者はその場に残すか自殺するか家族が手を掛けるか、それができなければ一家心中の道を選ぶしか無かった。8170300、第88師団からの自衛戦闘命令が歩兵第129連隊に届いた。818日、アメリカがソ連の北海道分割要求を拒否。ソ連は引き続き北海道上陸作戦準備を進め、南樺太での南進を続けた。0200、歩兵第129連隊に第88師団からの戦闘行動中止命令が届いた。実際には前日の自衛戦闘継続命令と順番が入れ替わってしまっていたが、歩兵第129連隊はソ連軍と停戦協定を結び、武装解除された。8200540頃、眞岡(ホルムスク)にソ連軍が到達。電話交換台のある眞岡郵便局には幌泊監視哨が眞岡方面に向かうソ連軍艦4-5隻を発見したとの報が入り、電話交換手が関係各所へと緊急連絡を入れた。0700からソ連軍が眞岡に上陸を開始。配置されていた歩兵第25連隊第1大隊は第5方面軍からの指示で軍旗を奉焼し、ソ連軍との不慮の交戦を避けるため市街地から撤収しており、上陸したソ連軍は眞岡市内の民間人1000人を殺害して暴行略奪を加え、歩兵第25連隊第1大隊が停戦交渉の軍使として派遣した副官らを射殺した。眞岡郵便局長は郵便局の宿泊所でソ連兵の銃撃により負傷し、眞岡郵便局職員はソ連兵を目視できる状況まで業務を続け、1階では一番奥の部屋に隠れたが、女性職員だけで業務していた2階では12人が服毒自殺を図り9人が死亡した。軍使の射殺を受け、歩兵第25連隊長が隷下部隊に衛戍勤務令第12・第13条に基づく自衛のための武器使用を許可。第1大隊は眞岡の東にある荒貝沢で陣地構築に入り、眞岡からの避難民を豊原へと誘導した。821日、ソ連軍が荒貝沢に攻撃を開始。急造陣地では阻止できず、歩兵第25連隊からは豊原へと続く街道の要衝である熊笹峠への後退を指示されていたが、第1大隊は別方向に離脱した。歩兵第25連隊では代わりに歩兵砲大隊に歩兵2個中隊を付けて熊笹峠に配置し、1930からソ連陸軍1個旅団10000名と激戦に入った。豊原・眞岡線の宝台駅付近にもソ連海軍歩兵5000名が到達し、防衛にあたっていた歩兵第25連隊第3大隊の1個中隊と交戦を開始。822日、樺太からの避難民を乗せた引揚船3隻がソ連潜水艦に撃沈された。豊原駅前広場がソ連軍機の爆撃を受け、避難民多数が死傷した。午後、スターリンが北海道占領作戦の中止命令を発出。1400、歩兵第25連隊歩兵砲大隊が熊笹峠から後退。夕方、ソ連軍と第88師団が停戦協定を締結し、歩兵第25連隊本部に停戦命令が届いた。連隊本部では主計中尉を軍使とし、護衛を付けてソ連軍に向かわせたが、射殺された。夜、歩兵第25連隊第3大隊の1個中隊が宝台駅付近から後退。歩兵第25連隊では連隊副官がソ連軍と交渉したところ、連隊長との交渉を要求してきたため、連隊長自ら停戦交渉にあたり、8230700頃から武装解除が始まった。823日、ソ連軍先遣隊が豊原に到達。夜、最後の疎開船宗谷丸と春日丸が大泊を出港し、稚内に向かった。825日、ソ連軍が大泊(コルサコフ)を占領し、出迎えた海軍武官府主計大尉を射殺した。南樺太防衛戦では第88師団のうち4000名以上が死傷、北海道への引き揚げ船3隻が沈められたり白旗や赤十字マークを無視した無差別攻撃を受けたりして民間人3700人以上が死亡したが、住民76000人が北海道に避難するための貴重な時間を稼ぐことに成功し、ソ連が北海道上陸作戦の拠点と考えていた大泊の占領を遅延させて作戦を頓挫させた。眞岡郵便局の悲劇は氷雪の門という題名で映画化され、文部省や日本PTA全国協議会などの推薦を受けて前売り券70万枚を販売したが、ソ連の圧力で配給停止となり、製作から36年後の2010年に漸く公開された。参考:月刊丸8,'15別冊、10,10、歴史群像8,17、朝雲

南関東防衛局>:防衛省地方防衛局。神奈川、静岡、山梨を管轄する。2016126日、神奈川県民ホールで第27回防衛問題セミナーを実施。我が国の安全保障環境への対応と沖縄基地負担の軽減に向けてをテーマに、元防衛大臣・現防衛大臣政策参与の拓殖大学森本敏特任教授が講演を行った。520日、地元町内会、自治体、横須賀警察署、NPOガーディアン・エンジェルス、アメリカ海軍横須賀基地、海自横須賀地方隊と共に、横須賀市繁華街の第237回夜間巡回パトロールに参加。528日、神奈川県綾瀬市光陵公園野球場で開催された日米共催の光・食・文化の祭典〜アヤセ・ベースサイド・フェスティバルに参加。712日、キャンプ富士の司令官交代式に局長以下5名が参加。916日、地元町内会、自治体、横須賀警察署、NPOガーディアン・エンジェルス、アメリカ海軍横須賀基地、海自横須賀地方隊と共に、横須賀市繁華街の夜間巡回パトロールに参加。1113日から129日、御殿場市内繁華街などで夜間巡回パトロールを実施。2017116日、NTTコミュニケーション常勤監査役を部外講師に招き、ワークライフバランスと女性が輝く社会の実現に向けた施策の一環として部外講話を実施。131日、平成28年度南関東防衛施設地方審議会を実施。終了後、委員がCVN-76ロナルド・レーガンや在日米海軍司令部を視察した。328日、DDH-184かがの建造に関して特に功績のあったジャパンマリンユナイテッド協力会50社に感謝状を贈呈した。2018年年末、山梨県南アルプス市で「のぞいてみよう!自衛隊の仕事と生活」をテーマに第34回防衛問題セミナーを実施。2019211日、横須賀市と共催で日米交流スポーツフェスティバルin横須賀を開催。アメリカ海軍横須賀基地司令部の協力で同基地体育館を借り、横須賀市内小学生と横須賀海軍施設サリヴァンズ小学校の児童計81人が大縄飛び、追いかけ玉入れ、綱引き、ペア探しゲーム、クイズなどを行った。202021日、浜松市福祉交流センターで、「多彩なフィールドで活躍する若手自衛官たち」をテーマとする第38回防衛セミナーを開催。2022120日と29日、北関東防衛局と合同で、オンライン防衛問題セミナーを開催。2023105日、横浜市民文化会館関内ホールで第42回防衛問題セミナーを実施。参考:朝雲

南機関>:日本軍の秘密工作機関。大本営直轄の特務機関で、ビルマ独立運動を影で支援することにより、援蒋ルートのビルマルート封鎖を狙った。昭和1621日に設立され、ビルマ通の陸軍参謀本部第2部第8課鈴木敬司大佐を指揮官とし、陸軍将校5名と海軍将校5名が配属されたが、8月に要員は陸軍のみで構成されるようになった。要員の半数以上は中野学校卒業生である。本部はバンコクにあり、民家に南方企業調査会タイ国本部という看板を掛けて偽装してあった。設立よりも前、ビルマ独立運動を行いイギリス当局から目を付けられて昭和15814日に厦門に脱出していたタキン党(正式には我らのビルマ協会)のアウンサン書記長を憲兵隊に保護させ、昭和151112日に鈴木敬司大佐が東京で面会して協力を取り付け、面田紋字(名字はビルマの漢字表記である緬甸からとった)という偽名で活動させた。まずは独立運動メンバー30人(後のビルマ大統領ネ・ウィンを含む)をビルマから脱出させ、武装蜂起に備えて海南島の三亜や台湾でゲリラ戦や諜報活動の訓練を施している。しかし太平洋戦争が近づくと、日本軍はビルマへの直接侵攻を決定、昭和161030日に日本陸軍参謀本部から作戦の一時停止が伝えられた。これは独立運動メンバーに対する裏切りであるとして南機関要員が猛烈に反発し、122日にメンバーの一部を独断でビルマへの潜入を実施させて成功に導いた。太平洋戦争が始まると、鈴木大佐は南方軍総司令部に対してビルマ侵攻部隊へのビルマ人部隊編入を要請。1223日、南機関は第15軍の隷下となり、1228日にビルマ独立義勇軍をバンコクで編成した。その後、ビルマ独立義勇軍と共に第55師団などによるビルマ制圧作戦に参加し、主要都市を占領する度にビルマ独立義勇軍を主体としてビルマ独立を宣言するよう南方軍に強く迫ったが、日本陸軍にその気は無く、昭和1764日に日本はビルマ全土を軍政統治下に置いた。611日に南機関も解隊され、鈴木大佐が近衛師団付に転出、他の要員は第15軍司令部参謀部防諜部門となっている。昭和1881日に軍政の終了とビルマ独立が宣言されたが形ばかりで、昭和20327日にはビルマ国民軍が日本軍への攻撃を開始したが、アウンサン国防相は南機関をビルマ独立に尽力した組織として特別に扱い、元南機関要員への攻撃は避けるよう下命した。終戦後の食糧不足で日本がビルマから米を緊急輸入した際、鈴木敬司元大佐が交渉に当たっている。昭和5614日、ビルマ政府は南機関の生存者鈴木敬司元大佐以下7名に対し、最高栄誉称である「オンサンの旗」を授与し、ネ・ウィン大統領が直接勲章を手渡した。参考:歴史群像10,18、太平洋戦争情報戦

南十字星>:フランス軍が主催する統合多国間訓練で、2002年から隔年開催されている。参考:朝雲

 <南十字星14>:2014825日から95日、フランス領ニューカレドニアで実施され、人道支援・災害救援活動を想定した訓練を行った。参加したのはフランス、アメリカ、オーストラリア、カナダ、日本(初参加。統幕から3名、陸自から1名)、トンガ、ニュージーランド、バヌアツ、パプアニューギニア。参考:朝雲

 <南十字星16>:20161113-15日にフランス領ニューカレドニアで実施され、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、チリ、トンガ、日本(第12旅団第12後方支援隊など陸自衛生隊員5名)、ニュージーランド、バヌアツ、パプアニューギニア、フィジー、フランスの12カ国が参加、国際緊急援助活動での島嶼における人道支援・災害救援を想定した多国間調整訓練を行った。参考:朝雲

<南十字星統合飛行探査試験>:SCIFiRE(極超音速巡航ミサイル開発計画)を参照。

南スーダン軍>:

 <南スーダン軍(2015年)>:現役総兵力18500名。軍司令部3個、歩兵師団8個、工兵軍団1個からなる。T-55戦車数両、T-72AV戦車80両、タイフーン装輪装甲兵員輸送車、クーガー装甲車、マンバ装甲車、122mm自走砲2S1152mm自走砲2S3130mmM-46数門、122mm多連装ロケットBM-2163107mm多連装ロケット、82mm迫撃砲、見た感じ55120mm迫撃砲、紅箭73対戦車ミサイル、9K115対戦車ミサイル、73mm無反動砲SPG-99K32/9K310携帯地対空ミサイル、14.5mm対空機銃ZPU-423mm高射機関砲ZU-23-265式/7437mm高射機関砲、ビーチ1900輸送機1機、Mi-24攻撃ヘリ4機以上、Mi-17汎用ヘリ9機、Mi-172要人輸送ヘリ1機、AW109汎用ヘリ2機を保有する。オーストラリア軍UNMISS要員17名とオブザーバ−1名、バングラデシュ軍UNMISS要員482名、工兵中隊1個、河川中隊1個、オブザーバー6名、ベニン軍UNMISS要員2名とオブザーバー1名、ブータン軍UNMISS要員2名、ボリビア軍UNMISS要員3名とオブザーバー3名、ブラジル軍UNMISS要員4名とオブザーバー5名、カンボジア軍UNMISS要員147名、野戦病院1個、オブザーバー4名、カナダ軍UNMISS要員5名とオブザーバー5名、中国軍UNMISS要員1052名、歩兵大隊1個、工兵中隊1個、野戦病院1個、オブザーバー3名、デンマーク軍UNMISS要員11名とオブザーバー3名、エジプト軍UNMISS要員1名とオブザーバ−3名、エルサルバドル軍UNMISS要員1名とオブザーバー2名、エチオピア軍UNMISS要員1263名、歩兵大隊3個、オブザーバー10名、フィジー軍UNMISS要員4名とオブザーバー2名、ドイツ連邦軍UNMISS要員7名とオブザーバー11名、ガーナ軍UNMISSS要員312名、歩兵大隊1個、オブザーバー8名、グアテマラ軍UNMISS要員4名とオブザーバー2名、ギニア軍UNMISS要員1名とオブザーバー1名、インド軍UNMISS要員2283名、歩兵大隊2個、工兵中隊1個、野戦病院1個、オブザーバー11名、インドネシア軍UNMISS要員1名とオブザーバ−3名、自衛隊UNMISS要員272名、施設科中隊1個、ヨルダン軍UNMISS要員4名とオブザーバー3名、ケニア軍UNMISS要員742名、歩兵大隊1個、オブザーバー12名、韓国軍UNMISS要員273名、工兵中隊1個、オブザーバー2名、キルギスタン軍UNMISS要員2名とオブザーバ−1名、マリ軍UNMISSオブザーバー3名、モルドバ軍UNMISSオブザーバー3名、モンゴル軍UNMISS要員863名、歩兵大隊1個、オブザーバー7名、ミャンマー軍UNMISS要員2名、ナミビア軍UNMISS要員3名とオブザーバー1名、ネパール軍UNMISS要員1576名、歩兵大隊2個、オブザーバー12名、オランダ軍UNMISS要員6名とオブザーバー4名、ニュージーランド軍UNMISS要員6名とオブザーバー4名、ナイジェリア軍UNMISS要員2名とオブザーバー3名、ノルウェー軍UNMISS要員12名とオブザーバー5名、パプアニューギニア軍UNMISSオブザーバー2名、パラグアイ軍UNMISSオブザーバー2名、ペルー軍UNMISS要員2名とオブザーバー2名、ポーランド軍UNMISSオブザーバー2名、ルーマニア軍UNMISS要員2名とオブザーバー5名、ロシア軍UNMISS要員4名とオブザーバー2名、ルワンダ軍UNMISS要員1842名、歩兵大隊2個、オブザーバー13名、セネガル軍UNMISS要員1名とオブザーバー2名、スリランカ軍UNMISS要員174名、ヘリ飛行隊1個、野戦病院1個、オブザーバー4名、スウェーデン軍UNMISS要員1名とオブザーバー1名、スイス軍UNMISS要員2名とオブザーバ−1名、タンザニア軍UNMISS要員4名とオブザーバー4名、東ティモール軍UNMISSオブザーバ−3名、トーゴ軍UNMISS要員1名、ウガンダ軍UNMISS要員2名、ウガンダ陸軍3000名、ウクライナ軍UNMISS要員1名とオブザーバー1名、イギリス軍UNMISS要員3名、アメリカ軍UNMISS要員6名、ベトナム軍UNMISSオブザーバー2名、イエメン軍UNMISS要員6名とオブザーバー9名、ザンビア軍UNMISS要員3名とオブザーバー3名、ジンバブエ軍UNMISSオブザーバー2名が駐留している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

南スーダン派遣国際平和協力隊>:自衛隊がUNMISSに派遣する国際平和協力隊で、作戦名は和魂の疾風(わこんのかぜ)。南スーダン現地支援調整所(30名)と南スーダン派遣施設隊(540名)からなり、ODANGOJICAと連携して活動を行っている。宿営地はジュバにあり、テントにはエアコンも付けているが、気温45度を超える乾期には役に立たず、あまり使っていないらしい。後にテントの代わりに居住用コンテナが設営された。作業時間は0730-1700。酷暑による疲労を考慮して1日摂取カロリーは通常の1.5倍近い4500kcalとしている。2011921日(現地時間)、訪米中の野田総理が国連事務総長と会談して調査団派遣を表明。922日、防衛会議で司令部要員2名の派遣準備と施設部隊派遣に係る現地調査を迅速に進めるよう防衛大臣指示が出され、924日夕方に防衛省、外務省、国際平和協力本部の30人からなる現地調査団が成田から出発した。108日、日本政府はPKO部隊派遣の可否を検討するため、第2次調査団30名を派遣した。111日、日本政府は閣議で陸自施設部隊(一次隊200名規模、二次隊300名規模)の派遣準備を申し合わせ、防衛大臣が防衛省防衛会議を招集して統合幕僚長らに派遣準備指示を出した。1115日、日本政府はPKO協力法に基づいてUNMISS司令部に自衛官2名、UNMISSや南スーダン政府などとの連絡調整要員1名を派遣することを閣議決定した。1128日、司令部要員の陸上自衛隊情報幕僚1名と兵站幕僚1名が成田空港から現地に出発。UNMISS司令部に着任した。127-22日、施設部隊が派遣前準備訓練を実施。1212-19日、渡辺防衛副大臣が南スーダンを訪問し、UNMISS副特別代表との会談や、宿営予定地・周辺国の視察を行った。1220日、安全保障会議と閣議で自衛隊の参加が正式決定された。撤収などの期間を見込んで派遣期間は20121031日まで。1223日、施設部隊が補足訓練を開始。

201217日、防衛省で隊旗授与式が挙行された。要員は南スーダン派遣施設隊一次要員210名(中央即応連隊、北部方面隊など)、現地支援調整所要員30名、空自輸送隊170名で、装備は拳銃、小銃、機関銃、軽装甲機動車、トラック、ドーザーなど車両160両、輸送艦1隻、C-130H輸送機4機、KC-767空中給油輸送機1機、B747政府専用機1機。111日、現地支援調整所ウガンダ班5名が成田を出発。113日夜、防衛省がチャーターしたAn-124輸送機が陸自大型トラックや天幕などの器材を積んで成田を出発。114日、現地支援調整所要員と派遣施設隊先遣隊の計34名が成田を出発。115日、現地支援調整所要員と派遣施設隊先遣隊計34名のうち23名が南スーダンの首都ジュバに、11名がウガンダのエンテベに入った。119日、ジュバにエンテベ空港から大型トレーラーで運ばれてきた陸自車両などが到着。121日、アントノフ輸送機が油圧ショベルなどを搭載して成田を出発。124日、アントノフ輸送機がエンテベ空港に到着、降ろされた重機はトレーラーに載せられてジュバに向かった。126日、派遣施設隊の装備を乗せたC-130H輸送機1機が小牧基地を出発。128日、派遣施設隊一次隊先発隊40名が成田空港を出発。129日、先発隊がジュバの陸自宿営地に到着。130日、C-130H輸送機がジュバに到着。24日、C-130H輸送機が小牧基地に帰投。26日、UNMISS司令部に勤務する一次司令部要員1名が成田空港からウガンダに向け出国。研修を行った後、施設幕僚としてジュバの司令部に勤務する。219日、インフラ整備を実施する施設部隊主力第一波120名が羽田空港を出発。220日、主力第一波120名がウガンダのエンテベ空港に到着、空自C-130H輸送機2機に乗り換えてジュバに着いた。31日、UNMISSの要請で宿営地に隣接する警備道路と排水口の建設を開始。宿営地の整備がまだ終わっておらず、一次隊先発隊は1ヶ月も戦闘糧食U型を食べ続けていて、ビタミン不足による口内炎対策などのため栄養補助食品を送付するよう要望する事態となった。324日、施設部隊主力第二波30名が成田空港を出発。325日、施設部隊主力第二波がジュバに到着。42日、ジュバ市内で初の道路工事を開始。52-6日、南北スーダンの軍事的緊張を踏まえて内局の調査団が南スーダンに派遣され、PKO活動への影響を調査した結果、PKOの前提は崩れていないとの結論を得た。510日、防衛相、官房長官、外相が閣僚会議を開き、PKO5原則は崩れていないとの認識で一致、予定通り施設部隊の派遣を決定した。511日、防衛相が自衛隊に対し施設部隊二次隊330名(隊本部、本部付隊、施設機材小隊、施設小隊、警備小隊、警備班からなる)の行動命令を発出。513日、現地支援調整所2次要員16名が成田を出発し、514日にジュバに着いた。526日、現地支援調整所1次要員12名が帰国。現地支援調整所2次要員兵站幕僚2名が成田を出発。61日、施設隊二次隊(北部方面隊基幹)先発隊20名が成田空港を出発。63日、施設隊二次隊先発隊がジュバに到着。69日、施設隊二次隊第一波150名が新千歳空港を出発。610日、施設隊二次隊第一波がジュバに到着。611日、施設隊一次隊のうち60名が羽田空港に帰国。622日、施設隊二次隊第二波110名がジュバに向け出発。624日、施設隊一次隊の残り100名が羽田空港に帰国。626日、現地支援調整所1次要員のうち10名が成田空港に帰国。723日、司令部施設幕僚1名が成田空港を出発。726日、第1次派遣施設隊に総理大臣から特別賞状が伝達された。729日、司令部施設幕僚がジュバに到着。831日、PKO協力法に基づき、UNMISSに派遣されている自衛隊とオーストラリア軍が協力することで合意したと防衛省が発表した。オーストラリア軍がジュバの自衛隊現地支援調整所に連絡調整要員2名を配置し、情報提供や関係機関などとの連絡調整などを行う。918日、ジュバの国連難民高等弁務官事務所内に建設していた北スーダンからの帰還民を一時的に収容する施設が完成し、ウェイ・ステーション(道の駅)の愛称が付けられた。1024日、ジュバ市内で国連児童基金との共催による横断歩道塗装イベントを実施。地元小学生らが横断歩道を完成させた。1118日、現地支援調整所3次要員第一波10名が出発。1120日、施設隊第2次隊40名が成田に帰国。1121日、施設隊第3次隊(東北方面隊基幹)先発隊30名が出発。1122日、施設隊第3次先発隊がジュバに到着。1126日、第3次司令部要員の兵站幕僚1名と情報幕僚1名が成田を出発。123日、施設隊第3次隊第一波145名が出発。124日、施設隊第3次隊第一波がジュバに到着。125日、施設隊第2次隊第一波140名が帰国。現地支援調整所3次要員第二波10名と調整所長が出発。126日、現地支援調整所3次要員と所長がジュバに到着。128日、現地支援調整所2次要員第一波が帰国。1217日、第3次隊第二波150名が出発。1219日、第2次隊第二波150名が帰国。1220日、現地支援調整所2次要員第二波が帰国。

2013114日、新成人隊員の成人式を実施。119日、UNMISS司令部に施設幕僚1名を増派し、司令部要員が3名になった。131日、ジュバ市内でODA連携事業のナバリ地区道路整備開始に伴う起工式を実施。513-23日、インド歩兵部隊と共同でジュバ市孤児院のグラウンド整備を実施。526日、第4次隊(西部方面隊基幹)先発隊40名が成田空港を出発。527日、第4次隊先発隊がジュバに到着。528日、国連の要請を受け、日本政府が活動地域を東エクアトリア・西エクアトリア州にも拡大することを決定し、防衛大臣が自衛隊行動命令の一部変更を発令した。620日、第3次隊が帰国を完了し、第4次隊が現地への展開を終えた。627日、統幕長がUNMISSのオーストラリア国防軍連絡チーム要員2名に在オーストラリア日本大使館を通じて感謝状を贈呈した。7月、第4次司令部要員3名(兵站、施設、情報幕僚)を派遣。722日、ジュバ市ボロティ・スーター小学校の校庭を流れる川(登下校時に渡らなければならないが、それまで橋が一本も無かった)に架けたKIZUNA Bridgeの竣工式典を実施。723日、施設隊第3次隊長に防衛大臣から一級賞詞が授与された。831日、派遣施設隊がジュバ市内のCCCConfident Children out of Conflict)孤児院を慰問した。912日、韓国隊下士官を宿営地に招いて下士官交流を実施。916日、ジュバ市で開催された南スーダン空手協会発足イベントに参加。1015日、活動期限の1年間延長(20141031日まで)と、施設部隊の410名への増員、現地支援調整所の廃止(代わりに施設部隊に調整部門を置く)を閣議決定した。施設部隊のトップは南スーダン派遣施設隊長で、隊本部、本部付隊、対外調整班、施設小隊、施設器材小隊、警備小隊、分遣隊、警務班を隷下に置く。1121日、第4次要員がナバリ地区コミュニティ道路竣工式を実施。1122日、第5次隊(第3師団主力)先遣隊100名が中部国際空港を出発。1123日、先遣隊がジュバ国際空港に到着。1125日、第4次隊から第5次隊への交代式を実施。1130日、第5次隊主力第一波180名が伊丹空港を出発。12月、現地調整所を廃止した。12月中旬頃から政府軍と反政府勢力(前副大統領派)との戦闘が激化し、数千人の死者と数十万人の難民が発生、ジュバの国連施設には数万人の避難者が押し寄せた。第5次隊は活動地域をジュバ市から東エクアトリア・西エクアトリア州に拡大する予定だったが、情勢悪化を受け、活動地域をジュバ市の国連地区内のみとした。1217日、情勢悪化を受け、ジュバの日本隊宿営地に避難民臨時救護所を開設。1218日、第5次隊主力第二波120名が伊丹空港を出発。1221日、小郡駐屯地で第4次要員帰国行事を実施。安倍総理からPKO本部長表彰を授与された。1223日、国連の要請に基づき、弾薬10000発を現地韓国軍に無償提供(PKO協力法の物資協力)した。1224日、現地支援調整所長と第4次派遣施設隊長に防衛大臣から一級賞詞が授与された。

201415日、自衛隊宿営地周辺で断続的な射撃音を確認。第5次隊隊長は全隊員に対して防弾チョッキの着用と武器の携行を命じ、正当防衛や緊急避難に該当する場合には命を守るために撃てと下命した。110日、UNMISSの要請を受け、日本隊宿営地に設けていた避難民臨時救護所を閉所した。延べ診察数は3797人だった。116日、韓国軍に無償提供していた弾薬10000発がUNMISSを通じて返却された。韓国側の弾薬補給が間に合ったためとのことである。124日、南スーダン政府と反政府勢力との間で停戦が合意された。222日、インド歩兵大隊宿営地との間にパール・ブリッジ(Pal bridge、仲間の橋。東京裁判で日本の弁護を担当したインドのPal博士とも掛けてある)を建設した。58日、小野寺防衛大臣が南スーダン派遣施設隊を視察した。515日、UNMISSの国連事務総長特別代表から国連勲章が贈られた。519日、日豪プロジェクトの一環として実施していたジュバ大学建設施工監督の任務を完了し、式典を実施。523日、第6次隊(第5旅団主力)先発隊80名が新千歳空港から民航機で出発。524日、先発隊がジュバに到着。525日、第5次隊先発隊75名が帰国。64日、第6次隊主力第一波180名が新千歳空港を出発。66日、第5次隊主力第一波109名が帰国。615日、日本隊宿営地で第5次隊から第6次隊への指揮転移式を実施。第6次隊は国連地区外での活動を再開することになった。616日、日本隊宿営地で第6次隊の活動開始に伴う出陣式を挙行。第6次隊がジュバ市で第31国内避難民保護区域外周道の起工式を実施。618日、第6次隊主力第二波140名が新千歳空港を出発。620日、第5次隊主力第二波215名が帰国。621日、第5次隊に内閣総理大臣特別賞状と国際平和協力本部長表彰が伝達された。624日、第5次隊隊長に防衛大臣から一級賞詞と防衛功労賞が授与された。7月、第6次司令部要員2名(施設、情報幕僚)を派遣。719日、女性自衛官中心の9名がジュバ市内のCCCConfident Children out of Conflict)孤児院を訪問し、交流を行った。813日、ジュバ市内国連ハウス地区にある国内避難民保護地域(5000人が避難中)の外周道整備を完了。816日、陸幕長が日本隊宿営地を訪問し、隊員を激励した。820日、内閣府国際平和協力本部事務局長らの訪問を受けた。823日、外務省中東アフリカ局アフリカ部長の訪問を受けた。922日、オーストラリア軍連絡幹部2名の交代に伴い、離任式を実施。1014日、トンピン地区国連エプロン第2タクシーウェイ暗渠排水工事の竣工式を実施。1021日、閣議で活動期限を4ヶ月延長し、2015228日までとすることを決定した。また、国連の要請に基づき、UNMISS司令部に航空運用幕僚1名を追加派遣することとした(他に兵站、情報、施設幕僚1名ずつを派遣中)。1123日、第7次隊(第6師団主力)先発隊80名が仙台空港から民間機で出発。12月、第6次司令部要員2名(兵站、航空幕僚)を派遣し、司令部要員が4名体制になった。124日、第7次隊主力第一波160名が仙台空港を出発。1215日、ジュバで第7次要員への指揮転移式を実施。1218日、第7次隊主力第二波110名が仙台空港を出国。

1231日から201511日、ジュバ市国連トンピン地区の日本隊宿営地で年末年始行事を実施。すす払い、朝礼、小隊班対抗書き初め・たこ揚げを行った。11日昼には黒豆、エビ、昆布巻き、栗きんとん、紅白なますといったおせち料理が提供されている。117日、第7次隊がジュバ市ハイガバット地区で道路整備起工式を実施。119日、中谷防衛大臣が第7次隊を視察し、隊員を激励した。123日、第6次隊に内閣総理大臣特別賞状が防衛大臣から伝達され、第6次隊長には一級賞詞と防衛功労賞が授与された。210日、活動期間を831日まで6ヶ月間延長することを閣議決定した。314日、ジュバ市長、在南スーダン日本大使、JICA所長、ナバリ地区住民などと共に、ジュバ市ナバリ地区コミュニティ道路の清掃活動を行った。324日、中谷防衛大臣がテレビ電話で部隊を激励した。48-9日、統合幕僚長が隊員を激励した。54-8日と11-15日、ジュバ職業訓練センターの職業訓練生に車両整備教育を行う、能力構築支援さくらプロジェクトを実施し、18人が受講した。512日、熊本県山鹿市役所で南スーダンの子供達に贈るランドセルや文房具、南スーダンで披露する山鹿灯籠踊りに必要な衣装や灯籠の引き渡し式が行われ、第8次隊隊長に引き渡された。515日、さくらプロジェクト修了式をジュバの日本隊宿営地で実施。521日、第8次隊先発隊80名が成田空港から民航機で出発。6月、第7次司令部要員2名(施設、情報幕僚)を派遣。64日、第8次隊主力第一波140名が福岡空港を出発。615日、ジュバの日本隊宿営地で第7次隊から第8次隊(西部方面隊第5施設団主力350名)への指揮転移式を実施。618日、第8次隊主力第二波が福岡空港を出発。621日、第7次隊が神町駐屯地で帰国行事を実施。内閣総理大臣からの特別賞状が伝達された。625日、第7次隊隊長に1級賞詞が授与された。77日、宿営地で七夕祭りを実施。713日、第8次隊がジュバ市内で国連UNハウスと市場を結ぶ幹線道路(ジュベル−イエイロード。長さ6km、幅20m)の整備を開始。718日、第8次隊要員がアメリカ大使館主催チャリティーマラソン大会に参加し、男女とも優勝した。723-25日、統合幕僚監部主催のメディアツアーが行われ、日本の報道機関6社10人に活動を公開した。81日、第8次隊の曹友会役員など16名がジュバ市内のCCCConfident Children out of Conflict)孤児院を慰問した。87日、閣議で活動期限を2016229日まで6ヶ月間延長することを決定した。822日、第8次隊要員20名がOH孤児院を慰問。918日、南スーダン南部のマリディ近郊で石油タンクローリーが衝突事故を起こし、積み荷の石油を抜き取ろうと集まった住民のタバコの火が気化した石油に引火、大爆発により186人が死亡し、108人が重傷を負った。UNMISSからの要請で、第8次隊がバングラデシュ工兵隊やルワンダ航空隊と協力してジュバ大学附属病院への搬送などを行っている。929日から102日、施設器材小隊30名が世界食糧計画の要請による道路整備を実施。103日、ジュバ市内孤児院の子供50人を派遣隊宿営地に招き、交流行事を実施。1012日から112日、さくらプロジェクトで訓練生130人に職業能力向上(車両整備、電気整備、コンクリート施工、ITネットワーク技術、裁縫)を目的とした指導を行った。1030日、中谷防衛大臣が第8次隊隊長とテレビ電話会談を行い、隊員を激励した。11月、JICAと連携してジュバ市ロロゴ地区の道路路盤補強・橋梁敷設事業を実施。115-6日、114日にジュバ国際空港を離陸直後に墜落したアントノフ貨物機の残骸除去を実施。1120日、道路整備用マラム(赤土)搬送任務を完了してUNMISS本部からの任務達成数が300となり、宿営地で記念行事を行った。1121日、ジュバの孤児院3箇所を訪問し、熊本県山鹿市立山鹿小学校卒業生からのランドセル39個と鍵盤ハーモニカ12個を贈呈した。1122日、第9次要員(第10師団主力)先発隊100名が民航機で中部国際空港を出発。1123日、第9次要員先発隊が南スーダンに到着。12月、第7次司令部要員(兵站、航空幕僚)を派遣。122日、第9次要員主力第一波150名が名古屋空港を出発。1213日、派遣施設隊宿営地で第9次隊への指揮転移式を実施。1214日、第9次隊が活動を開始。1216日、第9次要員主力第二波100名が名古屋空港を出発。1218日、第8次要員が帰国を完了。1222日、第8次派遣施設隊長の第5施設団副長に防衛大臣から1級賞詞が授与された。

201611日、年始行事(餅つきなど)を実施。17-15日、南スーダン初の全国スポーツ大会開催に協力し、ジュバ市内ブルクグラウンドの整備を行った。116日、南スーダン全国スポーツ大会開会式で自衛太鼓の演奏を行った。118日から34日、ジュバ市内の国連UNハウスとジュバ最大の市場であるカスタムマーケットを結ぶ5kmの幹線道路整備を行った。119日、UNMISS軍事部門司令官ヨハネス・テスファマリアム陸軍中将が日本隊宿営地を訪問し、訓示を行った。130日、日本隊宿営地でUNMISS軍事部門最先任上級曹長のケニア軍マトゥース・サガシ陸軍一等准尉が主催して最先任上級曹長会合を開催。日本含む10カ国21名が参加し、相互理解を図った。29日、月末で期限が切れる活動期間を1031日まで8ヶ月間延長することを閣議決定した。229日、国連ハウス内で活動する部隊の水源確保と取水作業時間短縮のため、ジュバ市ラジャフ地域の白ナイル川河畔に新たな取水点を作ることになり、工事を開始。35日、ジュバ市ニャクロン文化センターでUNMISS主催広報イベントのワールド・フレイバーズに参加。315日、中谷防衛大臣と第9次隊長がテレビ電話会談を実施。319日、UNMISS国連事務総長特別代表、副特別代表、軍事部門司令官、各国部隊指揮官ら40人を招き、宿営地で夏祭りをテーマとする日本文化紹介行事ジャパン・コンティンジェント・デイを開催。331日、能力構築支援さくらプロジェクト受講者127人の修了式を実施。44日、ジュバ市ラジャフ地域の白ナイル川取水点が完成し、新取水点完成式を実施。430日、ジュバ市OH孤児院を慰問した。522日、第10次隊(第7師団主力)先発隊130名が民航機で新千歳空港を出発。61日、第10次隊主力第一波120名がチャーター機で新千歳空港を出発。611日、第8次司令部要員2名(施設、情報幕僚)が日本を出発。612日、第8次司令部要員2名が国連の研修を受けるウガンダに到着。派遣施設隊宿営地で第10次隊への指揮転移式を実施。613日、第10次要員が活動を開始。615日、第10次隊主力第二波100名がチャーター機で新千歳空港を出発。618日、第9次隊に内閣総理大臣特別賞状が伝達された。624日、第9次隊隊長に防衛大臣から1級賞詞が授与された。630日、東京都千代田区の中央合同庁舎で第7次司令部要員2名の帰国式を実施。75日、参議院選挙の不在者投票を実施。77日、ジュバで政府軍と副大統領派の銃撃戦が激化し、270人以上が死亡、PKO施設に数百人の市民が逃げ込む事態となった。政府軍は国連職員や外交官にも銃撃を加えている。陸自施設隊は避難民に水や食料を提供し、テントの設営などを行った。78-9日、日本の外務省が連絡室を設置して邦人国外退避準備を開始。派遣施設隊は活動範囲を縮小した。711日、政府軍がNGO職員の宿泊するホテルを襲撃して殺人、略奪、強姦などを加えたため、NGO1km先のUNMISS司令部に通報したが、救出作戦は実施されず、国連事務総長がケニア軍人のUNMISS司令官を解任、それに反発したケニア軍は兵を撤退させた。治安情勢悪化に伴い、防衛大臣が自衛隊法第84条の4「在留邦人等の輸送の準備行為」としてC-130H輸送機及び隊員の派遣を命令。夕方に第1輸送航空隊C-130H輸送機3機と隊員60名が小牧基地を離陸し、現地時間7132200過ぎ(日本時間7140400過ぎ)にジブチ空港に着陸した。同日(現地時間)、JICA職員など日本人93人がチャーター機でジュバからケニアに脱出。714日、防衛大臣から自衛隊法第100条の8の規定に基づく「在外邦人等の輸送」の実施に関する命令が発出され、1100頃(現地時間)にC-130H輸送機1機がジブチ空港を離陸、1400前にジュバに着陸し、日本大使館員4人を乗せて1730頃にジブチ空港に帰投した。722日、治安情勢が回復したことなどから、防衛大臣が撤収命令を出し、723日にC-130H輸送機3機がジブチ空港を離陸、726日に小牧基地に帰投した。822日、第10次隊に日本の子供達から応援メッセージ219通が届いた。108日、稲田防衛大臣が日本隊宿営地を視察し、隊員を激励した。同日、ジュバ近郊の幹線道路で反政府勢力とみられる武装集団がトラック4両を襲撃して市民21人が死亡したが、防衛大臣は偶発的・散発的衝突で治安情勢に大きな変化は無いとしている。825日、第11次派遣施設隊(第9師団主力)が、安全保障関連法で可能となった、いわゆる駆け付け警護と宿営地の共同防護を含む準備訓練を開始。1015日、第10次要員がジュバ市のCCC孤児院を慰問した。1022日、日本隊宿営地に各国PKO部隊先任を招いてUNMISS下士官交流会を実施。1023日、岩手山演習場で第11次要員が行っている平和安全法制に基づく新任務訓練(いわゆる駆け付け警護と宿営地の共同防護)を稲田防衛大臣が視察。1024日、ジュバ市内で開催された国連の日の祝賀イベントに参加。1025日、活動期間を2017331日まで延長することを閣議決定した。1026日、UNMISSからの依頼を受け、国連施設外での活動を再開し、ジュバ北20kmにある砂利採取場からダンプで道路整備用の砂利を国連トンピン地区まで輸送する任務を開始した。1029日、UNMISS関係者らを招いて日本隊宿営地で文化交流会を実施。武道・太鼓・書道などの演舞披露、茶道体験、和食喫食などを行った。1115日、第11次派遣施設隊に宿営地の共同防護といわゆる駆け付け警護の新任務を付与することが閣議決定された。施設器材小隊がルワンダ航空隊敷地整地を完了し、総タスク数500を達成した。1118日、稲田防衛大臣が第11次派遣施設隊に宿営地の共同防護といわゆる駆け付け警護の新任務を付与する命令を発出。1119日、稲田防衛大臣、統幕長、陸幕長、東北方面総監、第9師団長、青森県知事、岩手県知事、隊員家族ら400人が出席し、青森駐屯地体育館で第11次隊(第9師団主力350名、うち女性自衛官15名)の壮行行事を実施。1120日、第11次隊の先発隊130名が青森空港から民間機で出発。第10次隊先発隊60名が民間機で新千歳空港に帰国。1121日、第11次隊先発隊がジュバに到着。1128日、第8次司令部要員2名(兵站幕僚、航空運用幕僚)の出発式を中央合同庁舎8号館で実施。1130日、第11次隊主力第1波120名がチャーター機で青森空港を出発。122日、第10次隊主力第一波110名が帰国。123日、第8次司令部要員2名(兵站、航空運用幕僚)が日本を出発。124日、第8次司令部要員2名がウガンダに到着し、エンテベで研修に入った。第11次隊主力第2波100名がチャーター機で青森空港を出発。126日、いわゆる駆け付け警護を行った場合に一日8000円の手当を追加(通常は国際平和協力手当一日16000円)し、いわゆる駆け付け警護に従事した場合の賞恤金を最高6000万円から9000万円に引き上げる事を閣議決定した。128日、第8次司令部要員2名がジュバで任務を開始。1211日、第11次隊への指揮転移式が行われた。1212日、国連地区とジュバ市内を結ぶ幹線道路カスタムマーケット・ロードの整備を開始。0600(日本時間120000)、第11次隊が第10次隊から指揮転移を受け、平和安全法制に基づく新任務を開始した。1213日、ジュバから北40kmのマンガラに続く主要幹線道路66kmの補修を開始。1215日、稲田防衛大臣が第11次隊隊長とテレビ会談を実施。1216日、第10次隊主力第二波180名が帰国。1217日、東千歳駐屯地で第10次隊帰国行事を実施。1219日、第10次隊長に防衛大臣から一級賞詞が授与された。

201711日、ジュバ市の日本隊宿営地で年始行事を実施。油圧ショベルによる書き初めなどを行い、おせち料理やお雑煮で新年を祝った。19-16日、ジュバ大学のグラウンド整備を実施。115-16日、防衛副大臣が宿営地と活動現場を視察した。副大臣はジュバのキール大統領、第1副大統領、国防省、UNMISS事務総長特別代表代理との会談も行っている。128日、第11次隊がジュバ市内サッカー場で南スーダン政府主催南スーダン第2回ナショナル・ユニティー・デイ式典に参加。210日、3週間前倒しでジュバ−マンガラ間主要幹線道路70kmの補修を終了。211日、宿営地にインド隊を招いて文化交流を実施。222-23日、ジュバ大学のグラウンド整備を実施。32日、ジュバ大学でUNMISS司令部主催UNMISS平和フェアに参加。310日、派遣5年目を迎えることから20169月頃から今後の方針について検討してきた内容を踏まえ、国家安全保障会議で5月末での施設隊撤収の方針を決定。312日、岸田外務大臣が飢饉対策として600万ドルの食糧支援などを行うと表明。324日午前、国家安全保障会議と閣議で、陸自施設隊活動期限を5月末までとすることと、司令部要員活動期限を20182月末までとすることを決定。午後、稲田防衛大臣が派遣施設隊業務終結に係る行動命令を発出し、5月末を目途に活動を終了して帰国することになり、撤収支援隊(60名)が新編された。司令部要員4名(施設、情報、兵站、航空幕僚)は撤収せずに業務を続ける。3181000頃(現地時間。日本時間1600頃)、陸自派遣施設隊隊員5名がジュバの日本隊宿営地南1.5kmにある商店で物資を購入していたところ、スーダン共和国政府軍兵士から武器取締に関わる尋問を受け、一部の兵士の誤解から一時拘束されて日本隊宿営地北2.5kmにあるビルファムロード沿いの広場に連行されたが、日本大使館が交渉して1100頃に解放された。南スーダン政府が謝罪している。331日、ジュバと南スーダン北部コダ村を結ぶ幹線道路100kmの補修を完工。41日、第11次隊がジュバ職業訓練センターで教官・卒業生10人に発電機とエアコンの取扱や点検整備に関する職業訓練を実施。44日、国連ハウス地区で国連地雷対策サービスUNMAS主催の地雷に関する啓発および地雷除去支援のための国際デー・国連地雷対策サービス設立20周年記念行事に参加。48日、第11次隊がジュバ職業訓練センターで教官・卒業生10人に発電機とエアコンの取扱や点検整備に関する職業訓練を実施。410日、撤収支援隊50名が成田空港を出国。411日、撤収支援隊がジュバに到着。418日、ジュバの国連トンピン地区で第11次隊がUNMISSに無償譲渡する予定の資機材の操作・整備に関する教育活動を開始。419日、第11次隊第1波70名が民間機で青森空港に帰国。421日、国際女性デーに合わせ、第11次隊がジュバ大学でジェンダー護身術教育を実施。53日、第11次隊がUNMISSに無償譲渡する予定の資機材の操作・整備に関する教育活動を終了。56日、第11次隊第2波110名が民航機で青森空港に到着。514日、第11次隊第3波130名が帰国。516日、PKO法に基づき、施設隊の資機材(ブルドーザーなど重機19両、車両4両、発電機134台、居住関連コンテナ404基、天幕67張、天幕用空調機99台、貯水タンク18基、発電機用燃料タンク8基、浄水装置3基、可搬式コンプレッサー1台、生活雑排水貯水処理システム1基など取得時価格27億円)を国連に無償譲渡することを閣議決定した。523日、ジュバの施設隊宿営地で資機材の国連への引き渡し式が行われた。525日、資機材のUNMISSへの引き渡しが終了。527日、第11次隊第4陣40名が帰国して第11次隊全員が帰国を完了し、青森駐屯地で帰国行事を実施。529日、第1輸送航空隊C-130Hが施設部隊に対する最後の空輸任務を終え小牧基地に帰投。530日、防衛省で隊旗返還式が行われ、第11次隊には内閣総理大臣特別賞状と国際平和協力本部長賞が授与された。531日、派遣施設隊が全活動を終了し、第11次派遣施設隊隊長に稲田防衛大臣から一級賞詞が授与された。延べ派遣隊員数は3912名、活動実績は道路補修260km、側溝整備72km、用地造成50万平方メートル、施設構築97ヵ所だった。第1輸送航空隊がC-130Hによる派遣施設隊への物資空輸任務を終了。延べ飛行回数27回、総輸送重量158トンだった。撤収支援要員の26名はウガンダとケニアで8月下旬まで日本への装備品輸送・調整業務を行う。司令部要員4名は引き続き半年ごとに2名交代するサイクルで任務にあたっている。610日、第9次司令部要員2名が出国。728日、陸自が南スーダンPKO部隊の日報を保管していたのに破棄していたと発表した日報隠蔽問題で、特別防衛監察の結果が発表された。2016719日付の開示請求において、中央即応集団副司令官(国際)が日報の存在を確認していたが、開示該当文書から外れることが望ましいとの意図で開示せず、103日付の開示請求でも陸幕と中央即応集団関係職員が前回開示請求の対応を踏まえて存在する日報を開示せず、12月に陸幕運用支援・情報部長が開示請求の行われている文書であることを認識していたのに開示せず中央即応集団司令部の掲示板から文書を削除し、12月から20171月にかけては陸幕運用支援・情報部長が統幕総括官に対して日報が行政文書である可能性を認識しながら個人データとして存在すると説明したため意思疎通に混乱が生じ、統幕総括官も防衛大臣からの日報の再探索指示を陸幕等に伝えなかったため、統幕から防衛大臣に日報の存在が伝達されるのに1ヶ月を要した上、防衛省では事実関係と異なる対外説明資料を作成し、2月の対外説明方針でも陸自の日報取扱は情報公開法上適切であるというスタンスを継続した、というもので、改善策として情報公開業務の適正な実施に向けた職員への教育徹底、保存期間等の適切な表示による行政文書の状況の明確な把握、責任の明確化など行政文書管理要領の見直し、日報の保存期間満了時の措置の在り方検討などを挙げた。これを受け、稲田防衛大臣が抜本的な再発防止への具体策として、自衛隊の海外派遣部隊が作成する日報の統幕参事官による一元管理・情報公開請求への一元対応、日報保存期間の10年間への延長及び期間満了後の国立公文書館への移管、情報公開査察官のポスト新設を決定。728日付で稲田防衛大臣が辞任、黒江防衛事務次官と岡部陸上幕僚長が退任、渡辺防衛装備庁長官が退職した。89日、日報隠蔽問題再発防止策として防衛省に情報公開査察官のポストを新設した。1222日、第8次司令部要員兵站幕僚2名の帰国行事を実施。201816日、第9次司令部要員2名が日本を出発。17日、第9次司令部要員2名がウガンダに到着し、エンテベで研修に入った。216日、国家安全保障会議と閣議で、司令部要員(兵站・情報・施設・航空運用1名ずつ)派遣期間の5月末までの3ヶ月延長を決定した。518日、国家安全保障会議と閣議で、司令部要員(兵站・情報・施設・航空運用1名ずつ)派遣期間の来年5月末までの1年延長を決定した。65日、第10次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)の出発式を実施。613-14日、陸自宿営地を引き継ぐタイ陸軍に、需品学校で浄水装置の能力構築支援を実施。623日、第10次司令部要員2名が日本を出発。628日、中央合同庁舎8号館で第9次司令部要員2名(情報・施設幕僚)の帰国式を実施。621日、内閣府で司令部要員陸上自衛官2名の出発式を実施。731日、前任司令部要員2名の帰国式を実施。1219日、第11次司令部要員2名(兵站幕僚、航空幕僚)が山崎陸幕長に出国報告を実施。2019130日、第9次司令部要員2名(兵站・航空幕僚)が山崎陸幕長に帰国報告を行い、三級賞詞と防衛功労賞を授与された。517日、国家安全保障会議と閣議で司令部要員派遣期間を1年間延長し、20205月末までとした。620日、第11次司令部要員2名が湯浅陸幕長に出国報告を実施。629日、第11次司令部要員2名(情報幕僚、施設幕僚)が出国。79日、第10次司令部要員2名(施設・情報幕僚)が帰国。726日、第10次司令部要員2名(施設・情報幕僚)が陸幕長に帰国報告を行い、3級賞詞と防衛功労賞を授与された。1219日、第12次司令部要員2名(兵站・航空幕僚)が湯浅陸幕長に出国報告を実施。

2020123日、第11次司令部要員2名が帰国。26日、第11次司令部要員2名が防衛省で湯浅陸幕長に帰国報告を実施。両名に第3級賞詞が授与された。522日、国家安全保障会議と閣議で派遣期間を1年間延長し、20215月末までとした。826日、第11次司令部要員2名が帰国。827日、第12次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が日本を出発した。911日、第11次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が河野防衛大臣に帰国報告を実施。湯浅陸幕長にも帰国報告を行い、3級賞詞が授与された。施設幕僚は国連から軍事部門司令官表彰を受賞している。1013日、内閣府国際平和協力本部で第11次司令部要員の帰国式を実施。2021124日、第11次司令部要員2名(兵站幕僚、航空運用幕僚)が帰国。210日、第11次司令部要員2名が防衛省で岸防衛大臣に帰国報告を実施。521日、国家安全保障会議と閣議で派遣期間を1年間延長し、20225月末までとした。83日、第13次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が防衛省で吉田陸幕長に出国報告を実施。8月下旬、第13次司令部要員2名が出国。9月上旬、第12次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が帰国。施設幕僚は国連から軍事部門司令官表彰を受賞している。921日、第12次司令部要員2名が防衛省で吉田陸幕長に帰国報告を実施。2022214日、第12次司令部要員2名(兵站幕僚、航空運用幕僚)が吉田陸幕長に帰国報告を行い、3級賞詞と防衛功労賞を授与された。520日、UNMISS司令部への派遣期間を1年間延長して20235月末までとすることを閣議決定した。82日、第14次司令部要員2名(情報幕僚、施設幕僚)が吉田陸幕長に出国報告を行った。831日、第13次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が帰国。施設幕僚は国連から軍事部門司令官表彰を受賞している。912日、第13次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が吉田陸幕長に帰国報告を行い、3級賞詞が授与された。1221日、第14次司令部要員(兵站幕僚、航空運用幕僚)として派遣される2名が防衛省で吉田陸幕長に出国報告を実施。202323日、第13次司令部要員(兵站幕僚、航空運用幕僚)が吉田陸幕長に帰国報告を行い、3級賞詞が授与された。512日、派遣期間を20245月末まで1年間延長することを閣議決定した。88日、第15次司令部要員2名(情報幕僚、施設幕僚)が森下陸幕長に出国報告を実施。915日、第14次司令部要員2名(施設幕僚、情報幕僚)が森下陸幕長に帰国報告を実施。両名とも国連から軍事部門司令官表彰を受賞(施設幕僚は4次連続、情報幕僚は初)した。2024419日、国連の司令部要員(人事・評価・訓練担当副参謀長)公募に陸自1名が合格したこと、国連からその補佐官の派遣要請があったこと、314日の安保理決議2726号で活動期間の延長が決まったことから、人事・評価・訓練担当副参謀長(1等陸佐)と補佐官(准尉・曹級)を追加派遣し、活動期間を2024630日まで延長することを閣議決定した。621日、派遣期間を2025630日まで1年間延長することを閣議決定した。

参考:朝雲、月刊JWings3,1210,166,173,18、スピアヘッドNo.12MAMOR vol.62vol.76vol.84vol.85vol.91vol.93vol.98vol.102vol.103vol.104vol.105vol.106vol.108vol.110vol.113vol.114vol.116vol.120vol.121vol.122vol.125vol.126vol.127vol.140vol.154、月刊軍事研究10,133,143,169,161,17、月刊航空ファン10,16、防衛省ホームページ

南太平洋海戦>:連合軍呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦。太平洋戦争でのミッドウェイ海戦後に日本海軍は機動部隊として第3艦隊を編成。第1航空戦隊(空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)を主力とし、第2航空戦隊(空母隼鷹、飛鷹、龍驤)も抽出使用できるようにした。昭和171015日、ガダルカナル島砲撃作戦を実施した日本海軍艦隊(前進部隊及び機動部隊)は、以降もガダルカナル島への輸送作戦支援任務に就いていた。1017日、前進部隊が補給を行った。1019日夜、日本陸軍の第3次ガダルカナル島奪回作戦(第2師団による飛行場総攻撃)の日時が決定したため、日本海軍艦隊は敵艦隊出現に備えてガダルカナル北方で待機することになった。1020日、第3艦隊はガダルカナル島東方沖で補給を行い、ガダルカナル島の日本陸軍攻撃を援護する砲撃作戦に向かった。参加戦力は、第3艦隊司令長官南雲忠一中将率いる機動部隊本隊が第1航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、艦上機計168機)、第4駆逐隊(嵐、舞風)、第16駆逐隊(天津風、時津風、雪風、初風)、濱風、照月、機動部隊前衛部隊が第11戦隊(比叡、霧島)、第7戦隊(熊野、鈴谷)、第8戦隊(利根、筑摩)、第10戦隊(長良、第10駆逐隊駆逐艦風雲、夕雲、巻雲、秋雲)、駆逐艦野分、油槽船国洋丸、東栄丸、旭東丸、豊光丸、日朗丸、第二共栄丸、第2艦隊司令長官近藤信竹中将率いる前進部隊本隊が第4戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第5戦隊(妙高)、第2水戦(五十鈴、第15駆逐隊駆逐艦黒潮、親潮、早潮、第24駆逐隊海風、涼風、江風、第31駆逐隊長波、巻波、高波)、第2航空戦隊(隼鷹、艦上機48機)、油槽船神国丸、健洋丸、日本丸、日榮丸、栗田中将率いる前進部隊挺進攻撃隊が第3戦隊(金剛、榛名)である。日本陸軍の都合で2回ほど奪回作戦が延期されたため、北上と南下を繰り返して待機。その間に前進部隊の飛鷹が故障のためトラックに撤収した。1023日、アメリカ基地航空部隊TF63所属のPBY飛行艇がエスピリツサント北方650海里で日本海軍空母を発見。PBY雷撃隊が攻撃に向かったが、1機しか到達できず、10240100過ぎに重巡筑摩を雷撃したものの、外した。1024日、日本陸軍が第3次ガダルカナル奪回作戦を開始、日本海軍艦隊は支援のため前進部隊は1000から、機動部隊は2000から南下を始めた。同日、CV-6エンタープライズが第2次ソロモン海戦での損傷修復を終えCV-8ホーネットと合流。10250708、機動部隊警戒隊の比叡・霧島が触接中の敵飛行艇を発見。0740、機動部隊本隊も敵飛行艇を発見。通信傍受の結果、機動部隊のことが報告されてしまったと判明し、北方に退避した。アメリカ機動部隊は午後になって索敵機12機と攻撃隊29機を発艦させたが、日本海軍艦隊を発見できず、夜間着艦に失敗して7機を失った。山本連合艦隊長官にはガダルカナル島からルンガ泊地に軽巡が入泊したという情報や、ルンガ河左岸にいるアメリカ軍砲兵陣地に対して爆撃を行って欲しいという要請が入ったため、0858に前進部隊に対してガダルカナル島の敵艦またはルンガ岬付近の敵陣地に対して攻撃を行うよう命じた。1135、前進部隊はガダルカナル島北北東200海里で空母隼鷹から零戦12機、九九式艦爆12機を発艦させてガダルカナル島とルンガ河左岸を爆撃した。日本軍陸上航空部隊の哨戒機はレンネル島東方30海里に戦艦2隻、巡洋艦4隻、駆逐艦12隻からなるアメリカ艦隊が北上しているのを発見。これはガダルカナル島への来襲を警戒していた第64任務部隊(BB-56ワシントンなど)であったが、機動部隊から340海里も離れており、敵空母も含まれておらず、攻撃は諦めた。外南洋部隊は第6駆逐隊を基幹とする駆逐艦3隻をルンガ沖に送り込み、艦隊曳船セミノールと哨戒艇284号を撃沈し、ルンガ岬を砲撃した。また、軽巡由良、駆逐艦秋月、暁、雷、白露などからなる第2突撃隊を編成し、インディスペンサブル海峡に送ったが、空襲を受けて由良がSBD哨戒機の爆弾2発とB-17爆撃機の爆弾を被弾、航行不能となって駆逐艦春雨と夕立による砲雷撃で処分された。なかなかガダルカナル島近海に突入しようとしない機動部隊に業を煮やし、連合艦隊司令部から南下命令が繰り返されたため、南雲中将は1730から前進部隊、1800から機動部隊を南下させて翌日の空母決戦を決断した。機動部隊(第3艦隊)の陣形は昭和178月に策定された第3艦隊戦策に基づくもので、空母周囲に駆逐艦8隻を配置し、空母前方5000mに重巡1隻を置き、戦艦2隻、重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦7隻が空母前方50-60海里で横陣を敷いていた。空母周囲の駆逐艦8隻のうち、高角砲を装備しているのは照月のみである。深夜、日本海軍艦隊はアメリカ海軍第16・第17任務部隊(第16任務部隊指揮官トーマス・カッシン・キンケード少将率いるCV-6エンタープライズ、艦上機82機、BB-57サウス・ダコタ、CA-33ポートランド、CL-54サン・ファン、DD-356ポーター、DD-364マハン、DD-373ショウ、DD-376カッシング、DD-379ブレスト、DD-378スミス、DD-401モーリ、DD-371カニンガム及びマーレイ少将率いるCV-8ホーネット、艦上機87機、CA-26ノーザンプトン、CA-24ペンサコラ、CL-53サンディエゴ、CL-52ジューノー、駆逐艦モーリス、DD-411アンダースン、DD-410ヒューズ、駆逐艦オースティン、DD-414ラッセル、DD-599バートン)の索敵機に見つかり、PBY飛行艇による触接も受け続けた。1026日、日本海軍艦隊は0215に前衛部隊から、0245に本隊から索敵機を発進させたが、0250に瑞鶴の右舷3000mにエスピリツサント島から来襲したアメリカ哨戒機が爆弾4発を投下したため、機動部隊は反転して北上した。その後哨戒機は基地に戻ったため、アメリカ機動部隊はエンタープライズから索敵機16機を発艦させている。0445、機動部隊警戒隊が2機のアメリカ艦爆を発見、警戒隊は針路を北西(300度)に変針した。その直後の0450、翔鶴の索敵機(艦攻)がサンタクルーズ島北100海里(翔鶴の南東210海里)に空母1隻・その他15隻からなるアメリカ海軍機動部隊を発見。0525、第1次攻撃隊として翔鶴の九七式艦攻20機、瑞鶴の九九式艦爆21機、瑞鳳の零戦21機が発艦。0530、ホーネットからガダルカナル島方面にF4F艦戦8機、SBD艦爆15機、TBF艦攻6機が発艦した。0540、エンタープライズから発艦した索敵中のSBDが瑞鳳に500ポンド爆弾1発を命中させて発着艦不能とした。0600、エンタープライズからF4F艦戦8機、SBD艦爆3機、TBF艦攻8機が発艦。0610、翔鶴から第2次攻撃隊(九九式艦爆19機、零戦5機)が発艦。0615、ホーネットからF4F艦戦7機、SBD艦爆9機、TBF艦攻9機が発艦。0630、日本海軍第1次攻撃隊とホーネット第1次攻撃隊SBD艦爆15機がすれ違ったが、互いに気付かず通り過ぎた。0640、日本海軍第1次攻撃隊とエンタープライズ第1次攻撃隊13機が鉢合わせし、零戦9機がエンタープライズ攻撃隊全機を撃墜したが、零戦も4機を喪失、5機が弾切れで引き返した。0645、瑞鶴から第2次攻撃隊(九七式艦攻16機、零戦4機)が発艦。0655、第1次攻撃隊がホーネットに攻撃を開始し、250kg爆弾6発と魚雷2本を命中させ、飛行甲板を破壊すると共に航行不能にした。この際1機がホーネットの煙突をかすめて飛行甲板に、1機が前部エレベーターに突っ込んでいる。0700過ぎ、アメリカの攻撃隊が日本艦隊に到達。瑞鶴と瑞鳳の飛行甲板が被弾して着艦不能となった。0714、第2航空戦隊隼鷹から第3次攻撃隊(零戦12機、九九式艦爆17機)が発艦。0730、翔鶴が中部エレベーター左と後部飛行甲板左右に爆弾4発を喰らい、飛行甲板を貫通して下部格納庫甲板で炸裂、格納庫側壁のブロウ・オフ・パネルが用を為さなかったため飛行甲板が盛り上がって使用不能になり、格納庫も中破した。しかし敵機が前衛部隊の戦艦霧島・比叡や重巡筑摩にも向かったため攻撃が分散し、被撃沈は無かった。霧島は爆弾2発を被弾。筑摩は0728に主砲射撃指揮所に爆弾1発が命中して砲術長以下多数が戦死、同時に艦橋左舷に爆弾1発が命中し、直後に艦橋右舷後部にも爆弾1発を喰らい副長以下100名が戦死した。艦長も重傷を負ったが、額から流血しつつも生き残った航海長及び掌航海長と共に指揮を続け、退避運動を下命すると共に、全魚雷投棄を命じた。通信装置が破壊されていたため手先信号で命令を伝え、全魚雷の投棄が終わった矢先に4発目が魚雷発射管に命中、多数の死傷者が出たものの誘爆は免れている。前衛部隊は0805に南雲中将から敵方に進撃せよとの命を受けていたが、この対空戦闘により変針が遅れ、敵空母艦隊との距離が更に開いてしまった。0820、日本海軍の第2次攻撃隊がCV-6エンタープライズに攻撃を開始。エンタープライズの飛行甲板前部、前部エレベーター、右舷後部に計3発の命中弾を与えて前部エレベーターを作動不能にし、飛行甲板上でSBD艦爆1機と格納庫内でSBD艦爆3機を破壊したが、直掩戦闘機により24機が撃墜された。この時、不時着水したTBFに搭載されていた魚雷が衝撃で外れて航走し、ポーターに命中して撃沈してしまった。他にDD-378スミスが被弾損傷した艦攻1機に突入されて炎上したが、BB-57サウス・ダコタの航跡に突っ込んで消火に成功している。第3次攻撃隊はBB-57サウス・ダコタなどの対空機関砲で11機が撃墜され、0920からエンタープライズに攻撃を行ったが、至近弾1発のみで、他にサウス・ダコタの1番砲塔天蓋に250kg爆弾1発(49名負傷)、CL-54サン・ファンに爆弾2発(うち1発は爆発せず貫通した)を命中させたものの、敵へ有効なダメージを与えられなかった。第16任務部隊は後退することにし、ニューヘブライズ諸島エファテに向けて南東に退避した。1018、前進部隊指揮官は第2航空戦隊の隼鷹と駆逐艦2隻に対し、機動部隊本隊に合流するよう命令した。1106、隼鷹から第4次攻撃隊(零戦8機、九七式艦攻7機。第1航空艦隊から発艦して隼鷹に着艦したもの)が発進。1200、日本海軍艦隊は漸く南東(120度)に変針したが、速力を30ノットから20ノットに減らしてしまったため、第16任務部隊に追いつく見込みは無かった。1310、隼鷹第4次攻撃隊がホーネットを発見し、雷撃をかけた。この時ホーネットはCA-26ノーザンプトンが曳航中だったが、ノーザンプトンは攻撃隊を回避するため曳航索を切断して退避したため、ホーネットには魚雷2本(1本?)が命中し、総員退艦が命じられた。日本側は零戦5機と九七式艦攻2機が撃墜されている。続いて瑞鳳から1115に第5次攻撃隊(九九式艦爆2機、九七式艦攻6機、零戦5機)が発艦。九七式艦攻が総員退艦して無人となったホーネットに爆弾2発(800kg爆弾1発?)を命中させた。1333、隼鷹から第6次攻撃隊(第2航空戦隊第3次攻撃隊、零戦6機と九九式艦爆4機)が発艦。ホーネットに250kg爆弾1発を命中させ、それが艦底部まで達して炸裂したため、ホーネットは致命傷を負った。1027日夕方、前進部隊と前衛部隊が漂流するホーネットと、砲撃で沈めようとしているアメリカ駆逐艦2隻を発見。駆逐艦2隻が逃げていったため、ホーネットの鹵獲を試みたが、火災が激しく断念し、2014に巻雲と秋雲が魚雷でホーネットを撃沈した。伊21潜水艦はDD-356ポーターを撃沈した。1100、日本海軍艦隊はトラックに向け帰還を開始。1030日、日本海軍艦隊はトラック泊地に到着した。日本海軍側損害は翔鶴と瑞鳳が飛行甲板被弾、筑摩が大破(副長以下戦死192名、戦傷95名)、霧島、照月、秋月が損傷、アメリカ側損害はCV-8ホーネットとDD-356ポーターが沈没、CV-6エンタープライズ、BB-57サウス・ダコタ、CA-33ポートランド、CL-54サン・ファン、DD-378スミス、DD-410ヒューズが損傷。航空機損失は日本が艦上機221機中135機(92機?100機?)、アメリカが艦上機160機中74機(76機?殆どはCV-8ホーネットに積まれていたもので、空戦の損害は18機程度ともいわれる)、パイロット損失は日本が145名、アメリカが16名であり、対零戦戦術のサッチ・ウィーブやボフォース/エリコン機銃が威力を発揮した。この日はアメリカ海軍記念日だが、この海戦で一時的に稼働空母が無くなってしまったため、アメリカのラジオでは「この日ほど悲惨な海軍記念日を迎えたのは創設以来初めて」と放送された。ただ日本側も同時に行われた第2師団の飛行場攻撃が失敗したので、あまり意味の無い勝利となった。南雲中将と幕僚が連合艦隊旗艦大和で戦闘経過を報告して退出した際、最後に残っていた翔鶴艦長有馬正文大佐を山本五十六連合艦隊司令長官が呼び止め、もう少し追撃できなかったのか、と尋ねた。南雲中将に追撃を進言した有馬艦長だったが、あれが精一杯でした、と誤魔化している。アメリカはCV-6エンタープライズを応急修理で復帰させ、イギリスから空母38ヴィクトリアスの応援も得て凌いだが、日本は喪失した艦上機の穴埋めが遅れて水上部隊やガダルカナル輸送部隊の護衛ができず、ガダルカナル島からは撤退することになった。参考:激闘太平洋戦記、歴史群像10,102,05、日本海軍艦隊総覧、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,13増刊、11,'156,163,193,'21、月刊丸2,0812,108,1112,11、日本航空母艦史、太平洋海戦史、山本五十六と米内光政

<南太平洋非核地帯条約>:ラロトンガ条約を参照。

南隆明>:日本陸軍エース。大正3年、石川県生まれ。昭和126月、熊谷陸軍飛行学校に入学、昭和135月に明野飛行学校を修了し、飛行第11戦隊所属となり、ハルビンに配置された。昭和146月、ノモンハン事件に参加。627日、タムスク攻撃で3機を撃墜。停戦後はハルビンに帰還し、飛行第1戦隊所属となった。太平洋戦争開戦後はマレー攻略戦に参加し、昭和17年末に大刀洗飛行学校助教となった。終戦時、京城分教場に配置されていた。総撃墜数14機。最終階級は准尉。参考:日本陸軍戦闘機隊

南鳥島空襲>:太平洋戦争中の昭和1891日、第755航空隊陸攻や第802航空隊大艇の哨戒線をくぐり抜けてアメリカ機動部隊が南鳥島を空襲。0320-1140に艦上機延べ165機が5次に亘り攻撃を仕掛け、地上の航空機全てが破壊され、地上施設も大損害を受けた。参考:月刊航空ファン11,19

南鳥島航空基地>:海上自衛隊の航空基地。南鳥島飛行場の滑走路は長さ1371m、幅45m、ランウェイ05/23201497日、南鳥島北端に座礁した鮪延縄漁船の船員5人を保護した。参考:月刊JWings11,1411,18

南鳥島航空派遣隊>:海上自衛隊の航空派遣隊。南鳥島航空基地の施設や滑走路の維持管理、飛来する航空機の支援を行う。1968年、アメリカから小笠原諸島が返還されるのと同時に南鳥島航空基地で第4航空群隷下に創設された。20069月、台風12号が南鳥島を直撃し、隊舎や滑走路などほぼ全ての施設が被害を受けた。LST-4002しもきたや空自C-130H輸送機の支援を受けて復旧工事を行い、20093月末に完工した。20181113日、こうのとり7号が放出して太平洋上で回収した小型カプセルを民間機で南鳥島飛行場から茨城空港に運ぶ際、航空機発着や関係者支援を実施。後にJAXAから感謝状を贈呈された。2020711日、河野防衛大臣の視察を受けた。参考:MAMOR vol.87、日本の防衛戦力Part3、月刊JWings10,'20、朝雲

 <南鳥島航空派遣隊(2015年)>:硫黄島航空基地隊隷下で、南鳥島航空基地に置かれている。参考:月刊航空ファン4,16

南那覇駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。自衛隊那覇病院が空自から陸自に移管されたのを受け、同病院所在地として開設された。駐屯地司令は病院長の兼任である。参考:朝雲

南の盾2006>:ロシア軍が2006年に実施した演習。沿ウラル=ヴォルガ軍管区、ロシア空軍、ロシア空挺軍から20000名が参加し、予備役4000名も動員、ソ連崩壊から2006年までで最大規模の演習となった。参考:月刊軍事研究10,10

<ミナミ・ビレッジ>:ミート・グラインダーを参照。

南別府駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は大分県別府市大字別府3088-24。参考:JGround Vol.23

 <南別府駐屯地(2015年)>:自衛隊別府病院が置かれている。参考:陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

<南ベトナム解放戦線>:ベトナム南部解放民族戦線を参照。

南ベトナム空軍>:VNAFと略す。1961年、T-28D軽攻撃機が供与された。1963年、U-17観測機の供与が始まった。19674月、F-5A戦闘機17機とF-5B戦闘機2機が移管された。1969年、A-37B攻撃機の供与が開始された。1972年、CH-47Aヘリの供与が始まった。1973年、C-130A輸送機の運用を開始。3月、F-5E戦闘機の導入を開始。ベトナム戦争終結・南ベトナム崩壊でF-5E戦闘機22機、F-5A戦闘機3機、F-5B戦闘機1機、A-37B攻撃機27機、A-1H攻撃機11機、RF-5A偵察機1機、U-17観測機14機、UH-1Hヘリ53機がタイに脱出した。トンキン湾のアメリカ艦艇にUH-1Hヘリ50機が着艦または付近に不時着水、CH-47Aヘリ2機が着艦、1機が不時着水している。参考:月刊航空ファン9,185,1811,18、月刊JWings5,19

南与座分屯地>:陸上自衛隊の分屯地。所在地は沖縄県島尻郡八重瀬町字安里5691973416日に開設された。19975月、新隊舎の落成式を実施。2014326日、第6高射特科群第326中隊が第15旅団第15高射特科連隊第4高射中隊に改編された。2017710日、第5高射群がPAC-3機動展開訓練を実施。2018623日、小野寺防衛大臣の視察を受けた。参考:第15高射特科連隊ホームページ、JGround Vol.23、月刊航空ファン9,17、朝雲

 <南与座分屯地(2015年)>:第15旅団第15高射特科連隊第4高射中隊、第15後方支援隊高射直接支援中隊第4直接支援小隊が駐屯している。参考:第15高射特科連隊ホームページ、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

南義美>:日本海軍エース。大正4年、香川県生まれ。昭和8年、日本海軍に入隊し、昭和1011月に操縦訓練生を卒業、大村航空隊に配属された。昭和127月、第13航空隊に配属された。後に第12航空隊に転属となり、上海戦線に出動。920日、第3次南京空襲で初陣を飾った。昭和13531日、漢口攻撃で1機を撃墜した後に12機に包囲され、弾丸が尽きたために体当たりを行い、揚子江岸に不時着して救助されている。昭和139月、本土に帰還。佐伯航空隊、大分航空隊、飛龍航空隊、瑞鳳航空隊所属となり、昭和1610月に翔鶴航空隊所属となり、真珠湾攻撃、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加。昭和176月、大村航空隊に転属した。飛曹長に昇進し、昭和192月に第601航空隊に転属した。619日、大鳳に搭乗してマリアナ沖海戦に参加。本土に帰還して第653航空隊に転属し、1024-25日に比島沖海戦に参加。1125日、神風特攻隊笠置隊としてフィリピン東方に出撃して戦死、二階級特進で大尉となった。公認総撃墜数15機。参考:日本海軍戦闘機隊

南レバノン侵攻>:2006712日、20名程度のヒズボラがレバノン国境からイスラエルに侵入し、HMMWV2両とメルカヴァ戦車1両を破壊してイスラエル兵士7名(8名?)を殺害、2名を誘拐した。人質交換としてレバノン人の政治犯の釈放を求めたが、イスラエルのオルメルト首相はこれを戦争行為としてレバノン政府を非難、報復攻撃を宣言してリタニ川にかかる3箇所の橋を爆撃した。また、イスラエルは国連にも訴えたが、事務総長はレバノン侵攻を非難した。713日、イスラエル北部にヒズボラからのロケット弾100発以上が着弾し、死者2人、負傷者120人以上の被害が出た。これに対し、イスラエル軍はレバノン南部に侵攻を開始。ヒズボラ本部ビル、ヒズボラ党首の自宅、ベイルート国際空港、ラヤク空軍基地、クラヤート基地などを爆撃し、ヒズボラ発表で44人の死者が出た。この日、小泉首相がイスラエルを訪問しており、自制を求めたが、イスラエルは戦闘を継続する決意を示した。714日夜、レバノン沖で港湾封鎖を行っていたイスラエル海軍コルベットのハニトがヒズボラの発射したヌーア対艦ミサイルシステムからのC802を被弾して大破。民間船1隻も巻き添えを食らい、沈没した(軽微な被害だったという説もある)。715日、700発のロケット弾がイスラエル北部に着弾し、500人の負傷者が出た。イスラエルはレバノンに大量のチラシを撒布し、ヒズボラ施設に近づかないよう警告、引き続き空襲を行った。アラブ18カ国の外相がエジプトのカイロで会議を開き、緊急協議を行った。シリアがヒズボラの行動を全面的に支持する一方、サウジアラビアやエジプトはヒズボラを非難した。716日、イスラエルのハイファなどにシリア製ラード3を含むロケット弾が着弾、8人が死亡。イラン大統領がヒズボラの全面支持を発表し、レバノンにイラン軍を派遣して支援していることを明らかにした。717日、イスラエル軍が予備役の一部を召集。イスラエル軍特殊部隊がレバノン領内に侵入。イスラエル軍砲兵隊がレバノンに砲撃を開始。国連事務総長と英仏が国際部隊派遣を提案したが、イスラエルは拒否。719日、イスラエル軍がレバノン領に侵攻。720日、レバノンの首相がヒズボラをイランとシリアの手先として非難。国連安保理が緊急会合を実施。721日、イスラエル軍が数千名単位で予備役を非常召集。レバノン南部の村民に、午後までの退避を警告。722日、プーマ工兵戦闘車1両、アチザリット重装甲車(工兵搭乗)1両、メルカヴァMkU/V/W戦車2-3両、アチザリット重装甲車またはナクパドン重装甲車6両、ミフレチェット重装甲車、D9R装甲ブルドーザーを最小単位とするイスラエル部隊がレバノン領に侵攻を開始。ヒズボラは民家と地下陣地を組み合わせた対戦車ポケットを作り上げており、タンデム弾頭のRPG-7やメティスM、コルネットEといった対戦車ミサイルを浴びせかけた。アメリカがイスラエルへの誘導爆弾提供を表明。レバノン国防相は、これ以上侵攻を継続すればレバノン正規軍との戦闘になると警告。サウジアラビアのイスラム指導者が、ヒズボラ支援はイスラム法違反であると宣言。723日、ベイルートのヒズボラ地区を視察した国連代表が、イスラエルによる大規模攻撃は人道法違反であるとして非難した。イスラエルの首相は、ヒズボラの武装解除に強い権限を持つ部隊なら派遣を受け入れると表明。724日、アラブとEU諸国が多国籍軍レバノン駐留を提案したが、レバノンのイスラム教指導者は多国籍軍は占領軍であるとして、駐留した場合は攻撃すると述べた。ヒズボラ、ハマス、パレスチナ自治政府、イラン軍がイランで会合を開き、イスラエルに対する攻撃を強化することで一致した。この日までにイスラエルに撃ち込まれたロケット弾は1100発、イスラエル死者37人、レバノン死者381人。725日、国連レバノン暫定軍UNIFIL基地をイスラエル軍が14回にわたり攻撃、4名が死亡。726日、ローマで関係国会議が開かれたが、シリアとイランは招待されず、結論は出なかった。イラン大統領がレバノン即時停戦を呼びかけ、ヒズボラへの軍事支援は否定した。レバノンのパレスチナ難民キャンプにいるファタハの指導者がヒズボラに参戦する意志を表明した。この日までに国連施設10ヵ所が146回にわたり攻撃を受けた。727日、イスラエルに撃ち込まれたロケット弾が1500発を超えた。国連安保理でイスラエルによる国連監視部隊の攻撃を非難。イスラエルの攻撃で死亡した国連軍兵士が、ヒズボラにより国連軍が盾に利用されていると通信していたことが判明した。アルカイダのザワヒリが全イスラム教徒に参戦を命令。729日、イスラエルは国連事務次長が提唱した3日間の人道停戦を拒否。730日、レバノン南部のカナで、イスラエル軍の爆撃により民間人57人が死亡。後の調査で死者数は30人弱、負傷した子供の報道写真もヤラセ疑惑が出たが、メディアは一斉にイスラエルを非難した。国連安保理も深い遺憾の意を表明し、停戦の議長声明案を全会一致で採択した。ベイルートで数千名のデモ隊が爆撃に抗議し、一部が暴徒化、国連施設を破壊した。イスラエルは731日朝から48時間の爆撃停止を表明、カナからは150発以上のロケット弾が発射されており、予め避難を呼びかけていたが、ヒズボラが民間人を盾に取ったと発表した。731日、イスラエル政府は停戦前にヒズボラを制圧するため、地上作戦拡大を決定。81日、EUが即時停戦を求める声明を決議。イスラエルは更に予備役を召集。82日、イスラエル軍は爆撃を再開。ヒズボラも攻撃を再開し、ロケット弾200発を撃ち込んだ。イスラエル軍特殊部隊がレバノン東部のベカー高原にあるヒズボラの根拠地を強襲。83日、イスラエルがベイルート市内を爆撃。ヒズボラのロケット弾により民間人8人が死亡、92人が負傷。イラン大統領がイスラエル殲滅のためには停戦の必要があると表明。ヒズボラはベイルート爆撃に対してテルアビブ報復攻撃を警告、イスラエルが攻撃を停止すればヒズボラも停止すると述べた。84日、イスラエル軍がベイルート北の道路や橋を破壊、シリアからの武器輸送路を絶ったが、国連の人道支援物資も輸送不能となった。この日までのイスラエル軍死者は74名、レバノン死者は727人。85日、イラン製のカイバル1と見られるロケット弾が国境から75km離れたハデラに着弾。アメリカとフランスがレバノンでの停戦とヒズボラの武装解除を求める安保理決議案で合意。86日、イスラエル軍兵士の集合場所にヒズボラのロケット弾が直撃、12名が死亡。カナからロケット弾が発射され、民間人3人が死亡したため、イスラエル軍がカナを爆撃した。87日、レバノン軍が南レバノンへの展開を表明。ヒズボラ武装解除に繋がるとしてイスラエル政府も歓迎。88日、イスラエルの死者が100人を超えた。レバノン南部のガジエで葬列に爆弾が直撃、14人が死亡。89日、イスラエルは地上作戦拡大を決定。パレスチナ人難民キャンプに艦砲射撃を実施した。810日、国連安保理決議案で関係各国が合意した。ヒズボラの武装解除は外されたため、イスラエルは強い不満を示した。812日、国連安保理でレバノン停戦を求める決議を採択。813日、イスラエルが停戦決議受け入れを表明。イスラエルには250発のロケット弾が撃ち込まれた。8140800、停戦が発効した。819日未明、イスラエル軍特殊部隊がレバノン政府軍に変装してベカー高原を急襲したが、アラビア語に訛りがなかったために正体がばれ、撤退している。イスラエルはヒズボラの解体(イランから核兵器が持ち込まれるのを防ぐ)という目的を果たせずに終わった。2008716日、ドイツ情報機関による極秘仲介のもと、ヒズボラは紛争のきっかけとなった2名のイスラエル兵の遺体を返還し、イスラエルはヒズボラ捕虜を解放した。イスラエルはヒズボラの対戦車ポケットでRPG-7-29、ラード、トゥーファン(TOWのイラン版)、メティスM、コルネットEの集中射撃を浴び、メルカヴァMkUD/MkUや重装甲兵員輸送車が10両単位で擱座した。使用された対戦車弾頭の90%がタンデム式であったという。戦車の損傷は52両で、うち50両がミサイルにより損傷し、22両が装甲を貫通され、5両が大破して再生不能となり、乗員23名が死亡した。メルカヴァMkV/Wは被弾したものの撃破はされなかったようである。装甲兵員輸送車はアチザリットを含め1300両が投入されたが、180-200両が損傷を受けた。空軍は移動式のロケットランチャーを捜索したが、大半は固定式の短距離ロケット弾で、地中に埋めるなどして巧妙にカモフラージュされ、発見が困難だった。また、予備ロケット弾は家屋や農場の地下に隠してあった他、協力者の地元農民がロケット弾の射撃を行ったこともあったという。ヒズボラが撃ち込んだロケット弾は3500-4000発とされる。レバノン国境付近にあるキリヤットシェモナには950発が撃ち込まれたが、シェルターに避難するなどして死者はゼロであった。これに対し、国境から27km離れていて攻撃を受けた経験の無いハイファには80発のロケット弾が撃ち込まれて12人が死亡した。イスラエル側の損害は将兵が戦死者117名、民間人が死者39人(プラス心臓発作3名)、負傷者2675人(プラスPTSD1985人)で、イスラエル北部住民の半分に当たる50万人が自主的に避難し、戦費は6330億円であった。ヒズボラ側は政府軍兵士34名、ゲリラ530人、市民743人が死亡、レバノン南部の陣地帯は壊滅的な打撃を受けてしまった。更に15000軒の家屋と80本の橋梁、94本の道路が破壊され、36億ドルの直接損害が生じ、間接被害も加えると損害額は150億ドルに達し、レバノン内戦後15年かけて復興してきたレバノン南部が再び瓦礫の山に帰してしまった。ヒズボラは勝利を宣言しているが、レバノン国民を犠牲にして得たものだと非難するアラブ諸国もある。レバノン政府は家を破壊された世帯に4000ドルの支給を決定したが、ヒズボラが10000ドルを配布したのを知り、額を45000ドルに引き上げた。しかし支給が滞っているため、南レバノンの住民はヒズボラ支持に傾いている。アメリカはレバノン在留の自国民救出のため揚陸艦LHD-7イオー・ジマ、LPD-13ナッシュビル、LPD-14トレントン、LSD-41ホイッドビー・アイランド、チャーターした客船オリエント・クイーン(イージス駆逐艦の護衛付き)などを派遣し、脱出を希望した14000人を720-26日にキプロス島へと輸送した。参考:月刊軍事研究10,0611,065,077,089,08、月刊世界の艦船10,06、月刊PANZER5,10

ミニAWACS>:戦闘機編隊が編隊内データリンクを使用して空中警戒管制システムを構築すること。F-14MiG-31Su-27などが実施でき、イラン・イラク戦争でイランが活用したといわれる。参考:月刊航空情報11,09

ミニP>:海上自衛隊第203教育航空隊対潜戦展示チーム。2007年に編成され、20091011日の下総航空基地開設50周年記念行事で初展示を行った。ミニバイクに張りぼてを被せたミニP3機(3両?)、イージス護衛艦アトラス、敵潜水艦で構成され、アトラスを攻撃した敵潜水艦をミニPが撃破するシナリオで寸劇を披露する。2013106日には土浦駐屯地開設記念行事で出張展示を行った。参考:朝雲、月刊JWings1,14

<ミニ・ウージー>:ウージー・シリーズ(サブマシンガン)を参照。

ミニェー弾>:1846年にフランスのミニェー歩兵大尉が開発した椎の実型の実弾。ライフリングが切られた前装銃のミニェー銃とペアで使用する。装填しやすくするため銃身内径よりも直径を小さくし、弾丸底部を丸くえぐって栓を嵌め込んだもので、発射時のガス圧で栓が押し込こまれて底部が拡張、ライフリングに喰い込む。フランス陸軍で1849年に採用された他、アメリカの南北戦争で使用された。参考:月刊軍事研究11,027,15GUN用語事典、世界の軍用銃

<ミニ・オランダ坂>:オランダ坂を参照。

ミニガン>:GAU-2シリーズ(ガトリング砲)またはM134(ガトリング砲)を参照。

<醜いアヒルの子>:GPA(水陸両用ジープ)またはXF4H-1(戦闘機)または戦時標準設計船またはリバティー・シップを参照。

ミニサーベイヤー>:千葉大学が開発している災害調査用小型無人回転翼機。市販のラジコンを流用した遠隔操作や、完全自律航法が可能である。東日本大震災で使用された。参考:月刊軍事研究2,13

 <MS−6>:回転翼を6個持つタイプ。全長770mm、全高350mm、機体重量1.691kg。連続飛行時間15分。参考:月刊軍事研究2,13

 <MS−12>:回転翼を12個持つタイプ。参考:月刊軍事研究2,13

ミニシュライク>:イギリスのBDL社が開発した起爆薬。アメリカ軍がMk155導爆索用にテストした。参考:月刊軍事研究7,95

<ミニショベル>:自衛隊の車両。日立建機製。参考:月刊軍事研究12,12

<ミニストロ・センテノ級>:アレン・M・サムナー級駆逐艦(チリ海軍)を参照。

ミニストロ・ツェンターノ>:チリ海軍リアンダー級フリゲートMinistro Zenteno。元はイギリス海軍リアンダー級フリゲートのアキリーズで、1990年に就役した。参考:月刊世界の艦船9,96

ミニ・タイフーン>:ラファエル社の艦船用近接防御兵器Mini Typhoon。タイフーン機関砲システムの小口径版で、7.62mmミニガンや12.7mm機銃を光学・赤外線サイト及びレーザー測距機と組み合わせたものである。俯仰角はマイナス20度からプラス60度、全周旋回可能。精度0.5ミルの安定化装置を持つ。総重量150kg程度。アメリカ海軍にMk49Mod0として採用された他、イギリス、カナダ、オーストラリアも購入した。参考:月刊軍事研究9,07、月刊世界の艦船1,'15増刊

<ミニ・タイフーン海外シリーズ>

 <Mk49Mod0>:アメリカ海軍近接防御兵器、別名ROSAMRemote Operated Small Arms Mount)。参考:月刊軍事研究9,09、月刊世界の艦船1,21

<ミニチュア空中発射デコイ>:ADM-160を参照。

<ミニットマン・シリーズ>:LGM-30シリーズ(ICBM)を参照。

ミニ・テレコプターU>:MTCUと略す。ドルニエ社が19813月からテストを実施した無人ヘリコプターで、戦場偵察、目標捕捉、射撃指揮、地雷探知、NBC汚染地域マッピング、通信ジャミング、デコイ役などに使用できる。ローターは二重反転式で直径3.2m、重量190kg、ペイロード60kg。エンジンはヒルト製レシプロ(40馬力)で、繋留飛行高度60m、作戦航続時間2時間。TVカメラ、目標自動追尾式FLIR、レーザー捕捉装置、赤外線撮像装置、ECM、囮発信装置などの搭載が可能。参考:スパイ機

<ミニ・ニューク>:B61-11(核爆弾)または中性子爆弾を参照。

ミニ・ニューク>:小型核弾頭のこと。アメリカでは1960年代から開発されており、W54弾頭として実用化された。アメリシウムやカリフォルニウムといった超ウラン元素を使用して小型化していて、威力もキロトン未満である。1993年に5キロトン以下の核弾頭生産を禁止した国防歳出権限法スプラット・ファース条項が制定されたが、テロ組織及びならず者国家に対抗する名目でブッシュ政権が2003年末に廃止要請し、研究が解禁された。ただし開発は禁止されたままである。参考:核兵器事典、アメリカの核兵器

ミニ・ハーピー>:IAIが開発した自爆型UAVで、IMDEX ASIA 2019に展示した。主任務はSEADで、EO/IRセンサー・ターレットとマイクロ波パッシブ・レーダー・シーカーを備えており、UAVからデータリンクで送られてくる映像などのデータを基にオペレーターが操縦し、マイクロ波発信源に突入させる。最大離陸重量45kg、弾頭重量8kgHEAT)。推進は電動モーターで、最大航続距離100km、最大航続時間2時間。参考:月刊JWings8,19、月刊航空ファン5,19

ミニ・フレイル>:アメリカ軍の対人地雷処理用UGV。市販のジョン・デール小型ディーゼル・クローラー車をベースにしている。全長2m、全幅1m、重量1トンの車両で、前方にチェーンホイールを取り付け、地面を叩いて地雷を誘爆させる。ボスニアでチーム・パンサーと共にフィールド・テストされて大きな成果を上げた。参考:月刊軍事研究1,03

ミニボス>:アメリカ海軍航空管制士官補(Air Officer Assistant)の通称Mini Boss。空母の発着艦管制所でエアボスを補佐し、フライト・オペレーションを行う。参考:月刊軍事研究4,16、月刊世界の艦船2,22

<ミニミ>:MINIMIシリーズ(分隊支援火器)を参照。

<ミニ・モスキート>:Kh-31シリーズ(対艦ミサイル)を参照。

ミニモン1>:イスラエルのミプロライト社が開発した小銃用暗視装置。レンズ直径18mm、重量360g。駆動時間は単三アルカリ電池で20時間、リチウム電池で30時間。イスラエル軍がタボール用に採用した。参考:月刊軍事研究2,10

ミニャッタ>:イタリア海軍の人間魚雷(実際には人間水雷)。ラファエレ・ロッセッチ造船少佐が3年かけて開発したもので、泳いで港内に侵入し機雷を仕掛ける研究をしていたラファエレ・パオルッチ軍医中尉も共同開発者に加わった。形状は魚雷であるが、上に潜水服を着た乗員2名が跨がり、水上に頭だけ出して操舵、敵艦に接近する。敵艦に到達すると、175kgの炸薬が入った弾頭2つを本体から切り離して艦底に設置、時限式信管を付けて離脱する。全長7.6m、重量1.2トン。推進は205気圧の圧縮空気を使用する圧縮空気エンジン(または人力)で、速力3ノット、航続距離16km19181031日にポーラ軍港で戦艦フィリブス・ウニーティスを撃沈した。参考:歴史群像2,05、日本潜水艦物語

<ミニ油圧ショベル(MINUSTAH用)>:自衛隊の車両。船山製。参考:月刊軍事研究7,11

<ミニ油圧ショベル(UNMISS用)>:自衛隊の車両。日立建機製。参考:月刊軍事研究8,13

<ミネアポリス>:CA-36(重巡洋艦)を参照。

<ミネアポリス・セント・ポール>:LCS-21(沿海戦闘艦)またはSSN-708(原潜)を参照。

峯岡山分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地。所在地は千葉県南房総市丸山平塚峯岡西牧乙2-564。大元は19553月にアメリカ空軍が開設したレーダー施設で、19607月に自衛隊に移管され、19617月に空自駐屯部隊が第44警戒群に改称された。19644月、陸自から空自に移管されたのを機に分屯基地として開設され、第1高射群指揮所運用隊が新編された。19923月、指揮所運用隊が入間基地に移り、指揮所運用隊峯岡山派遣班が駐屯するようになった。2000年、第44警戒群が第44警戒隊に改編された。2023316日、第1高射群指揮所運用隊嶺岡山派遣班が中部高射群第1指揮所運用隊嶺岡山派遣班に改称された。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊JWings6,10別冊付録、6,'24、月刊軍事研究9,11

 <峯岡山分屯基地(2015年)>:第44警戒隊、第1高射群指揮所運用隊峯岡山派遣班が所在する。参考:峯岡山分屯基地ホームページ、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

峯風>:日本海軍峯風型駆逐艦1番艦。大正9529日竣工、一等駆逐艦に類別された。12月、主機が故障した。大正108月、主機改修を開始。大正116月、主機が故障した。昭和1758日、長崎県男女群島南南西85海里で潜水艦の雷撃を受け沈没した大洋丸の乗員救助を実施。821日、トラックで座礁した。昭和19210日、台湾東方でSS-266ポーギーの雷撃を受けて沈没し、331日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、輸送船入門、月刊世界の艦船7,17

峯風型>:日本海軍一等駆逐艦。初の国産駆逐艦で、大正6-7年計画で建造された。日米の30ノット級計画巡洋戦艦(天城型とレキシントン級)に合わせて速力を重視しており、凌波性向上のためフレアをきつくすると共に、長くした船首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、ここに魚雷発射管を設置して甲板を越えてきた波を受け止めるようにしている。船首楼甲板に青波が打ち込んできた際の対応策として舷側に丸みを付け、艦橋も船体中心部に移動して波の直撃を避けた。砲は全て一段高い位置に配置し、防楯を装着してある。一号機雷を運用する関係上、スプーン・バウを採用し、艦首水線下の傾斜をきつくした。5500トン型軽巡を旗艦とする水雷戦隊に所属するため、速力を重視しており、島風は公試で40.698ノットを発揮した。ただ各艦とも公試時から就役直後にかけてタービン翼が折れるなど主機故障が多発しており、改修を余儀無くされている。全長102.6m、水線幅8.9m、吃水2.9m、基準排水量1215トン。主機は三菱パーソンズ式オール・ギヤード・タービン(衝動型高圧タービンと、後進タービン付きパーソンズ式反動型低圧タービンで構成)2基、主缶はロ号艦本式重油専焼水管缶(蒸気圧力18.3気圧、55.6℃の加熱器付き)4基、出力38500馬力、2軸推進、速力39ノット、航続距離3600海里(14ノット)。舵は釣合舵で、面積5平方メートル。兵装は三年式45口径12サンチ単装砲4門(艦首、前後煙突の間、後部煙突直後、艦尾)、6.5mm単装機銃2丁、六年式五三サンチ二連装水上発射管3基(1番砲の後ろに1基、3番砲の後ろに2基タンデムに配置)、一号機雷16個。乗員148名。峯風、澤風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、汐風、秋風、夕風、太刀風、帆風の12隻が大正9-10年に就役した。夕風以降の3隻は、2番・3番魚雷発射管を後部煙突後方にタンデムに配置、3番・4番砲をその後ろにタンデムに配置した。参考:日本駆逐艦史、月刊世界の艦船5,117,117,17、海軍操舵員よもやま物語

<みねぐも>:DD-116(護衛艦)またはTV-3509(練習艦)を参照。

峯雲>:日本海軍朝潮型駆逐艦8番艦Minegumo。昭和13430日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和16128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第9駆逐隊に所属していた。昭和17227日、スラバヤ沖海戦で被弾損傷した。65日、ミッドウェイ海戦に参加。811日、柱島を出撃。817日、トラックに到着。821日、トラックを出撃してガダルカナルに向かった。824日、第2次ソロモン海戦に参加。105日、ガダルカナル島輸送の途中で爆撃を受けて損傷した。昭和1835日、ブラケット水道海戦において、ソロモン諸島のクラ湾で巡洋艦3隻・駆逐艦7隻の攻撃を受けて沈没し、41日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、第2次大戦日本海軍作戦年誌、月刊世界の艦船9,14、日本海軍艦隊総覧、帝国海軍太平洋作戦史T

みねぐも型護衛艦>:海上自衛隊護衛艦DDK。二次防と三次防で建造された。やまぐものアスロックを外してDASH運用設備を追加したものである。船型は遮浪甲板型で、艦首にはナックルが付けられた。艦後部にDASH格納庫・魚雷庫と飛行甲板を設置すべく、煙突は一本に纏めてスペースを確保し、32番砲は後部上構上(DASH格納庫前方)に持ち上げている。ソナーはOQS-3バウソナー、対空レーダーはOPS-11B、対水上レーダーはOPS-17ESMNOLR-1BFCSは主方位盤がMk56、副方位盤がMk63(測距レーダー付き)で、DD-117なつぐも以降は主方位盤として72GFCS-1を搭載した。DASH運用時には主方位盤をDASH追尾に使用するため、能力に劣るMk63を砲管制に回さねばならないという欠点がある。DD-118むらくもはAN/SQS-35(J)VDSを装備し、艦尾にオーバーハングを付け、主機による振動対策として艦橋と煙突を1mほど分離、航海艦橋上面前部にスリット付き遮風ブルワークを設置して防空指揮所とした。全長114mDD-118115m)、全幅11.8m、深さ7.9m、吃水3.9mDD-1184m)、基準排水量2100トン(DD-1182150トン)。主機は三井1228V3BU-38Vディーゼル4基+1628V3BU-38Vディーゼル2基(DD-117は三菱12UEV30/40ディーゼル6基。12UEV30/40N?)2軸26500馬力、速力28ノット(DD-116/-11727ノット?)/27ノット(DD-11828ノット?)。主発電機はディーゼル(400kW)2基、補助発電機はディーゼル(200kW)1基。兵装は6876mm連装速射砲(むらくもはオットー・メララ社製76mm単装速射砲)2基(前甲板、後部上構上)、ボフォース4連装対潜ロケット発射機1基(艦橋前方の上構上)、3連装短魚雷発射管2基(後部上構直前両舷)、DASH2機。乗員210名(DD-118220名)。DD-116みねぐも、DD-117なつぐも、DD-118むらくもが1968-70年に竣工した。全艦とも、DASH運用設備は1978年ないし1982年に撤去して飛行甲板にアスロックを設置、船体強化のため外舷部に全長の7割にわたる鋼製ベルトを片舷2本ずつ装着している。DD-118むらくもは1975年に後部FCSMk63からFCS2型(テスト版)に換装し、アスロック装備の際に後部76mm砲をオットー・メララ社製76mm単装速射砲に換え、FCS2型・76mm単装速射砲テスト終了後はFCS221を搭載し、1985年に艦隊旗艦用の司令部設備を新設した。1995年以降、練習艦に変更された。参考:海上自衛隊全艦艇史、艦船メカニズム図鑑、月刊世界の艦船11,'17増刊、7,'2312,131,953,92増刊、1,79増刊、5,02増刊、3,106,111,17、自衛隊装備年鑑1996、自衛隊装備カタログ1981、丸スペシャルNO.78

みねぐも型練習艦>:海上自衛隊練習艦。元はみねぐも型護衛艦で、実習員講堂、海図室、婦人自衛官居住区を設けて練習艦に改造してある。全長114m、全幅11.8m、深さ7.9m、吃水3.9m、基準排水量2100トン(TV-35112150トン)。主機はディーゼル6基(TV-3509は三井1228V3BU-38VTV-3510は三菱12UEV30/40)2軸26500馬力、速力28ノット(TV-351127ノット)。兵装は76mm連装砲2門(TV-3511は連装砲と単装砲1門ずつ)、ボフォース対潜ロケット4連装発射機1基、アスロック8連装発射機1基、3連装短魚雷発射管2基(TV-3511VDS装置一式)。乗員156名で、うち実習生が36名。1995年にTV-3509みねぐもとTV-3510なつぐも、1998年にTV-3511むらくもが艦種変更された。1999-2000年に除籍された。参考:月刊JWings1,99、自衛隊装備年鑑1996、月刊世界の艦船5,18

ミネ公>:日本陸軍用語で、三年兵の蔑称。参考:新兵サンよもやま物語

<ミネソタ>:BB-22(戦艦)またはSSN-783(原潜)を参照。

ミネベア>:1951年、超小型ボールベアリングメーカーとして創業した。20171月、ミツミ電機と経営統合してミネベアミツミ株式会社になった。参考:朝雲

ミネベアミツミ>:20171月、ミネベアとミツミ電機が経営統合して設立された。参考:朝雲

<みねゆき>:DD-124(護衛艦)を参照。

<ミネラルME>:MR-331(艦載戦闘システム)を参照。

ミネルヴァ級>:イタリア海軍コルベットMinerva級。主任務はEEZの警備や有事の海上作戦である。AN/SQS-58ソナーを搭載する。全長86.6m、幅10.5m、吃水3.2m、満載排水量1285トン。主機はディーゼル、出力11000馬力、2軸推進、速力24ノット。兵装はアスピーデ8連装発射機アルバトロス1基、76mm単装砲1門、324mm3連装短魚雷発射管2基。19871986?)-91年にウラニア、ダナイデなど8隻が就役した。ダナイデなど4隻が2015-16年に除籍され、兵装を全撤去して25mm単装機関砲1門を搭載し、巡視船として2017年までにバングラデシュ沿岸警備隊に引き渡された。参考:月刊世界の艦船3,92増刊、3,051,'15増刊、6,1611,17THE MILITARY BALANCE 2016

ミネルブ>:フランス海軍ミネルブ級潜水艦Minerve1936年竣工。19405月、シェルブールで修理中のところをドイツ国防軍進駐直前に脱出、プリマスでイギリス軍に接収され、次いで自由フランス軍に引き渡された。1945年に沈没した。参考:第2次大戦のフランス軍艦

ミネルブ>:フランス海軍ダフネ級潜水艦Minerve1968127日、乗員52名を乗せてツーロンを出港したが、そのまま行方不明になった。2019722日、ツーロンから45km離れた水深2400mの海底で発見されたとフランス国防相が発表した。参考:月刊世界の艦船10,19

ミネルブ級>:フランス海軍潜水艦Minerve級。以前の630トン型潜水艦の建造経験に基づいてフランス海軍が設計を纏めたので、海軍標準型とも呼ばれる。全長68.1m、幅5.6m、吃水3.7m、水上排水量662トン。主機はディーゼルと電動モーターで、出力1800馬力、速力14.3ノット。兵装は55cm魚雷発射管6門、40cm魚雷発射管3門、7.5cm単装砲1門。ミネルブ、ジュノン、ヴェニス、イリス、セレス、パラスが1936-39年に竣工した。参考:第2次大戦のフランス軍艦

箕面>:日本海軍箕面型敷設艦Mino。昭和2085日竣工、海上護衛司令部に編入された。直後に終戦を迎え、呉で健在だった。105日に除籍された。戦後は特別輸送艦として復員輸送に使用された後、昭和221-4月に解体された。参考:帝国陸海軍事典、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇

箕面型>:日本海軍敷設艦Mino型。正式な艦種は特設敷設艦だったらしい。本土決戦に備えて2D型戦時標準貨物船を敷設艦に改造したもので、プロトタイプとして浪速船渠で建造中の東亜海運2D型戦時標準貨物船永城丸を特設敷設艦に改造している。後甲板を追加して居住区を作り、船倉を機雷庫に換装し、水密防壁を設置、船尾に2カ所の敷設口を設けた。機雷敷設軌条は機雷庫内部両舷に2条ずつ用意されていて、露天甲板には無い。五式一号水中聴音機を搭載した初の艦で、一三号電探も装備する。運送艦としても使用できるよう、デリックなどは残された。全長91.7m、水線長86.25m、最大幅13.42m、吃水5.85m、基準排水量3224トン、公試排水量5200トン。主機は甲一二型単式蒸気タービン1基、主缶は二号石炭専焼円缶1基、出力1200馬力、1軸推進、速力11.0ノット。兵装は一〇年式四五口径一二サンチ単装高角砲1門、九六式25mm3連装機銃2基、九六式25mm連装機銃2基、九六式25mm単装機銃4丁、機雷敷設軌条4条、六号機雷380個、三式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条1条、爆雷24個。終戦直前に箕面が完成したが、実戦には参加しなかった。2番艦1822号艦は昭和2021日に起工されたが、鋼材不足で4月に工事が止まり、戦後に工事が再開されて昭和2367日に民間船として竣工し、乾進丸となった。参考:日本海軍特務艦船史、小艦艇入門、写真集日本の小艦艇、敷設艦 工作艦 給油艦 病院船、日本海軍艦隊総覧

ミノターブルM>:ロシアの水上艦用VDS。ステレグシュチイ級に搭載されている。参考:月刊世界の艦船1,'15増刊

ミノトールV>:アメリカ軍が開発検討中の長距離弾道ミサイルで、LGM-118ピースキーパーの1-3段目に通常弾頭を搭載したものである。固定サイロでなく、TELから発射可能。射程は数千kmに達する。参考:月刊軍事研究8,05

ミハイ・コガルニチャヌ級>:ポーランド海軍河用砲艦Mihail Kogălniceanu級。全長52m、満載排水量584トン。主機はディーゼル、速力18ノット。兵装は100mm単装砲2門(戦車砲を艦載化。前後甲板1門ずつ)、30mm連装機関砲2基、14.5mm連装機銃2基。2番艦艦番号46イオン・C・ブラティアヌなど3隻が就役した。参考:月刊世界の艦船4,19

ミハイル・クトゥーゾフ>:ソ連海軍スヴェルドルフ級巡洋艦Mikhail Kutuzov1951223日起工、19521129日進水、19541230日竣工。1955131日、黒海艦隊に配属された。19565-6月、ユーゴスラビアとアルバニアを訪問。19578-9月、アルバニアを訪問。19648-9月、ブルガリアとユーゴスラビアを訪問。19676月、エジプト軍援護作戦を実施。19688-12月、エジプト軍援護作戦を実施。19703-7月、シリア軍援護作戦を実施。198612月から19896月、68A型への改装工事を受け、予備役に入ってセヴァストポリ海軍基地で保存された。19961226日、ロシア海軍歴史センターになったが、資金不足で程無く閉館になった。200011月から20011月に大改修を受け、200183日に記念艦(黒海艦隊博物館分館)となり、ノヴォロシースクで保存されている。参考:ソ連/ロシア巡洋艦建造史、近代巡洋艦史、月刊世界の艦船6,09

<ミハイル・フルンゼ>:ポルタワ(戦艦)を参照。

ミハイル・ルドゥニツキー>:ロシア海軍ミハイル・ルドゥニツキー級救難艦Mikhail Rudnitsky20205月、955A型戦略原潜クニャージ・ウラジミールの公試を支援した。参考:月刊世界の艦船8,20

ミハイル・ルドゥニツキー級>:ロシア海軍救難艦Mikhail Rudnitsky級。艦橋前方に作業甲板があり、レスキューチェンバーを搭載しているようだ。全長130.3m、満載排水量10700トン。速力16ノット。参考:月刊世界の艦船2,10

<ミハエル・ヴィットマン>:ヴィットマン(戦車エース)を参照。

美浜事件>:19901028日、福井県美浜町久々子の海岸に、木造小型船が漂着した事件。付近の林の中には水中スクーターが見つかり、2人の水死体や金日成主席の写真入り手帳などが漂着した。小型船はベニヤ製で、全長8.95m、幅2.54m、深さ0.9m260馬力エンジンを3基搭載し、45ノットを発揮できる。参考:月刊世界の艦船9,02

三原山大噴火>:19861115日、伊豆大島三原山が噴火を開始。1121日午後に大噴火を起こし、全島民に避難命令が出された。これを支援するためLST-4101あつみ、DDH-142ひえい、DD-122はつゆき、AS-405ちよだなど海上自衛隊12隻、巡視船せっつなど海上保安庁23隻、東海汽船6隻が出動して島民の輸送にあたり、1122日朝までに島民10300人と観光客2000人(うちLST-4101あつみが810人、東海汽船が7400人を輸送)を本州に避難させた。1122日にはLST-4101あつみがポンプ車などを搭載して再び伊豆大島に向かい、消防警察隊の宿泊支援活動を行った。1987622日、昭和天皇が被災地を訪問。ちょうど自衛隊法施行令の改正で自衛隊ヘリを利用できる国賓等の範囲に天皇と皇族が明記されたため、下田外ヶ丘ヘリポートから大島空港まで陸自シュペルピューマはと号に搭乗された。これが昭和天皇初のヘリ御搭乗である。参考:月刊世界の艦船2,87、朝雲

見張員(海上自衛隊)>:海上自衛隊の科員。見張りという任務を管掌しているのは第2分隊航海科だが、見張員は第1分隊砲雷科の科員が交代で勤める。参考:MAMOR vol.148

見張用電探>:日本海軍用語で、早期警戒・捜索レーダーのこと。参考:レーダシステムの基礎理論

ミヒュル>:ドイツ海軍特設巡洋艦。194239日、キールを出港。イギリス海峡を突破してラ・パリスに入港した。320日、南太平洋に出撃。419日、搭載していた高速魚雷艇で商船を撃沈した。10月、インド洋に移動。12月中旬、南大西洋に移動。19432月、ドイツに帰投する予定だったが、危険なため、日本に向かうことになった。32日、神戸に入港。521日、日本を出港し、バタビアで補給を受け、インド洋で作戦任務に就いた。9月、太平洋方面に移動。1017日、日本に戻る途中でSS-175ターポンの雷撃を受け沈没した。総戦果は17121000トンであった。参考:写真集ドイツの巡洋艦

壬生飛行場>:日本陸軍の飛行場。昭和17年、栃木県下都賀郡南犬飼村で開設された。参考:首都防空網と空都多摩

<ミフレチェット>:ナグマホン・シリーズ(装甲兵員輸送車)を参照。

<みほ>:MST-472(掃海母艇)を参照。

美保海軍航空隊>:日本海軍航空隊で、鳥取県西伯郡にある。飛行予科練習生教育を行う。参考:陸海軍学校と教育

みほ型>:海上自衛隊特務艇。元は掃海母艇なさみと共にアメリカから供与された小型貨物船である。艦橋前の第2船倉を居住区に変更し、その上部に甲板室を設けて士官室、調理室、食堂を配置している。当初は特務艇として輸送任務に就き、1959年から掃海母艇として使用された。全長54m、最大幅9.8m、深さ4.4m、吃水2.4m、基準排水量700トン、満載排水量780トン。主機はディーゼル2基2軸1000馬力、速力12ノット。乗員20名。MST-472みほが1955年に就役した。参考:月刊世界の艦船11,'17増刊、海上自衛隊全艦艇史

美保海軍航空基地>:日本海軍の航空基地。昭和143月に建設が始まり、昭和1810月に開設された。太平洋戦争終結後に連合軍が接収し、返還後は航空自衛隊美保基地となった。参考:美保基地ホームページ

美保管制隊>:航空自衛隊の管制隊。航空保安管制群の隷下にあり、美保基地に置かれている。美保基地/米子鬼太郎空港に加え、出雲縁結び空港の航空保安管制業務も担当する。2017726日、管制140万回を達成。2024220-21日に実施された令和5年度航空保安管制競技会の航空管制部門で優勝した。参考:月刊JWings4,168,145,'24、朝雲

美保気象隊>:航空自衛隊の気象隊。美保基地に置かれている。参考:月刊JWings8,14

美保基地>:航空自衛隊の航空基地。米子鬼太郎空港との共用で、飛行場と滑走路の管理運営や管制業務は空自が担当する。陸自美保分屯地と海上保安庁美保航空基地に隣接している。滑走路は2500×45m、ランウェイ07/25。敷地が広く、南側に草地があるため、物資投下訓練場が設けられていて、不整地離着陸訓練も行える。所在地は鳥取県境港市小篠津町2258。最寄り駅はJR境線米子空港駅。C-1輸送機とYS-11輸送機が展示されている。大元は1943年(昭和18年)10月に開設された美保海軍航空基地で、太平洋戦争終結で連合軍に接収され、イギリス軍とインド軍が進駐した。19556月に臨時美保派遣隊が新編され、19589月に日本政府に返還されて101日に美保基地が設置された。輸送航空団、輸送航空団輸送航空隊(臨時美保派遣隊から改編)、飛行点検隊飛行隊が新編されている。1961年、教育飛行隊が新編された。1968101日、輸送航空隊が第401飛行隊に改称された。19696月、民間(米子空港)との共用となった。1978331日、第3輸送航空隊が新編され、教育飛行隊が第403飛行隊に改編され、第401飛行隊が小牧基地に移った。198510月、第7移動警戒隊が新編された。1989316日、輸送航空団が解隊された。1995年、第41教育飛行隊が新編された。19963月(1997年?)、滑走路が2000mに延伸された。20091217日、滑走路が2000mから2500mに延伸され、共用開始式が実施された。20121217日、基地除雪隊(隊長は基地業務群司令。指揮班、機械力除雪小隊、人力除雪小隊からなり、58名・車両16両を有する)の編成完結式を実施。2013421日、基地准曹会会員や隊員家族ら70名が春の大山一斉清掃に参加。69日、境港一斉清掃に参加。201437日、第7移動警戒隊が解隊された。1215日、基地除雪隊編成完結式を実施。除雪車やブルドーザーなどの車両行進を行った。2015131日、陸自CH-47Jヘリを配備する予定となり、騒音測定のためCH-47J1機で試験飛行を行った。817-21日、岡山地本が行った大学生対象のインターンシップに協力した。1016日、YS-11NTの用途廃止に伴う退役式典を実施。1020-23日、XC-2輸送機が一時乗り入れし、修理整備のシミュレーションを行った。1023-25日、イギリス空軍第70飛行隊A400MアトラスC.1輸送機が親善訪問した。201681-5日、岡山地本が行った大学生8人に対するインターシップに協力した。1022日、KC-46A配備に向けた騒音測定のため、第404飛行隊KC-767が飛来し、第403飛行隊C-1との騒音比較などが行われた。2017127日、第1整備格納庫と燃料系統整備格納庫の落成式を実施。両方ともC-2用である。328日、第403飛行隊にC-2が配備された。690640頃、模擬離陸訓練中の第403飛行隊C-2輸送機が滑走路を南側に数十メートル逸脱した。一時閉鎖された空港は0938に再開されたが、全日空の3便が運航を取り止めている。C-2は飛行自粛に入り、75日からフライトを再開した。923日、C-1輸送機体験搭乗を実施。926日、秋の全国交通安全運動の一環として、鳥取県警交通機動隊白バイ隊員2人を教官に迎えて自動二輪の実技講習を実施。KC-46Aが配備される予定で、2018年度から格納庫や駐機場の整備が始まる。201833日、幹部会と准曹会の有志及び家族108人が、弓ヶ浜半島海浜清掃を実施。517日、ニュージーランド空軍司令官デイヴィーズ少将が訪問した。526日、南地区航空機展示場(C-1YS-11Pを展示)オープニングセレモニーと美保基地開庁60周年記念式典を実施。922日、鳥取地本が平成30年度一般曹候補生採用試験と3-4月入隊の自衛官候補生採用試験を実施。1211-14日、平成30年度在外邦人等保護措置訓練(国内)が行われた。2019224日、西空一斉広報の日を実施。C-2輸送機見学・体験タクシー、警備小隊・管制隊・気象隊見学、体験喫食などを行った。78-11日、第1回プロフェッショナル・エアマンシップ・プログラムが行われた。202097日、美保基地で展示機となる予定のF-4EJ改が翌日にフェリーされるのに備え、C-2輸送機で百里基地から先遣クルーと用途廃止用資器材を美保基地に輸送した。98日、美保基地で展示機になる予定のF-4EJ改(439号機)が着陸した。美保基地初の戦闘機着陸のため、万が一に備えて機動バリアを運び込み、一時的に設置している。F-4EJ改は美保基地での用途廃止作業完了後、2021年から展示される予定。1117日、鳥取地本による大山町立大山中学校2年生9人の職場体験学習に協力し、C-2機内見学や警備犬訓練展示を行った。1215日、第405飛行隊が新編された。202117日、F-4EJ改の展示開始記念式典を実施。76-7日、大山町立名和中学校と大山中学校の生徒8人の職場体験学習を支援した。824日、鳥取県婦人防衛協力会がアフガニスタン近隣国に派遣されたC-2輸送機部隊を慰問し、出雲大社の安全祈願お守りと慰問品のスポーツドリンクを贈った。1029日、第41教育飛行隊浜松基地に移った。2022828日、美保基地OPEN BASEを実施。参考:美保基地ホームページ、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊JWings10,196,10別冊付録、1,'161,179,179,1911,205,2112,'21、月刊航空ファン1,154,165,1611,164,178,178,18、月刊世界の艦船2,19、朝雲、MAMOR vol.134

美保基地(2007年度)>:第3輸送航空隊第403飛行隊C-1YS-11NTYS-11P)、同第41教育飛行隊T-400)などが所在している。参考:月刊JWings6,07

美保基地(2015年)>:第3輸送航空隊司令部、同飛行群本部、同整備補給群、同基地業務群、第403飛行隊、第41教育飛行隊、美保管制隊、美保気象隊、美保地方警務隊が置かれている。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊JWings8,14

美保基地(2020年)>:第3輸送航空隊第403飛行隊(C-2)、同第41教育飛行隊(T-400)、陸自中部方面ヘリコプター隊第3飛行隊(CH-47J)などが所在している。1215日、第3輸送航空隊第405飛行隊が新編された。参考:月刊JWings3,205,21

美保地方警務隊>:航空自衛隊の地方警務隊。美保基地に置かれている。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015

美保関事件>:昭和2824日、連合艦隊が美保関北東沖で夜間演習を実施。甲軍艦隊に乙軍艦隊が夜間無灯火襲撃をかけるというシナリオで、乙軍艦隊は第5戦隊(加古、古鷹、神通、那珂)と第2水雷戦隊(夕張、第22・第26・第27・第29・第30駆逐隊)で構成されていた。2200、乙軍艦隊が美保湾を出撃。2306、神通が左30度に甲軍艦隊を発見し、探照灯を照射。神通と那珂が襲撃にかかったが、甲軍の龍田から逆に探照灯の照射を受けたため、一旦離脱し、右に大回頭して再度甲軍の後方へと触接することにした。ところが回頭した先に第27駆逐隊がおり、2319に神通が第27駆逐隊2番艦駆逐艦蕨の艦橋付近右舷に45度の角度で突っ込んでしまい、蕨は真っ二つになって沈没、神通は1番砲前方の上甲板以下の船体をもぎ取られた。蕨の後ろを航行していた葦はこれを見て右に舵を切ったが、神通に続く那珂が左に避けたため、2320に那珂が葦の左舷後部付近に80度の角度で衝突、葦は3番砲後部で船体がちぎれ、那珂は艦首を大破し、死者119名(蕨91名、葦28名)を出す大事故となった。傍にいた連合艦隊旗艦長門では高橋三吉参謀長が危ないから長門だけで舞鶴に帰ろうと言い出したが、加藤ェ治連合艦隊司令長官は日米戦は始まっている、どんな犠牲が出ても訓練は続けろと下命した(加藤長官も同意したが、大川内伝七参謀が死傷者多数の中で司令長官だけ先に帰るとは何事かと気色ばんで諌めたという説もある)。横須賀鎮守府で軍法会議が開かれ、不用意な大回頭と回頭中の見張り不足、探照灯の眩惑に対する措置不十分などが原因とされて神通の艦長が業務上過失、艦船覆没、業務上過失致死で起訴された。判決日の前日にあたる1226日、神通の艦長が自決した。他に第27駆逐隊司令が隷下艦の誘導不十分で謹慎・予備役編入の処分を受けている。参考:月刊世界の艦船9,13増刊、9,10、日本海軍艦隊総覧

美保分屯地>:陸上自衛隊の分屯地で、米子駐屯地の分屯。空自美保基地内にあり、CH-47JAヘリ4機を配備し、日本海沿岸地域の大規模災害等対処能力を強化する。2018327日に開設され、CH-47JAヘリ2機が配備された。47日、中部方面ヘリコプター隊第3飛行隊と中部方面管制気象隊第4派遣隊の編成完結式を実施。829日、三朝町自衛隊家族会が鳥取地本倉吉地域事務所の支援を受け部隊研修を行った。20201117日、鳥取地本による大山町立大山中学校2年生9人の職場体験学習に協力し、CH-47ヘリ格納庫搬出見学や気象観測装置組み立て見学を行った。参考:月刊航空ファン6,1811,16、朝雲

 <美保分屯地(2018年3月27日開設時)>:隊員数80名。中部方面ヘリコプター隊第3飛行隊、中部方面管制気象隊第4派遣隊、米子駐屯地業務隊派遣班などが置かれている。参考:月刊JWings6,18、月刊航空ファン6,18

<ミミ>:ボフォース・ロケット・システムを参照。

<美々津丸>:MS-41(掃海艇)を参照。

<ミモザ>:K11(コルベット)を参照。

ミモザ>:フランス海軍フラワー級コルベットMimosa194269日、北大西洋で船団護衛任務中にドイツ潜水艦の雷撃を受けて沈没した。参考:第2次大戦のフランス軍艦

宮浦丸>:日本陸軍輸送船。元は大正8122日に竣工した三菱商事の貨物船で、大正12年に近海郵船に売却、昭和14年から日本郵船の所属となった。垂線間長76.2m、幅11.5m、深さ6.25m、満載吃水5.71m、総トン数1856トン、重量トン数2652トン。主機は三連成汽機1基1397馬力、航海速力8ノット、最大速力12.944ノット。日華事変勃発で日本陸軍に徴用され、太平洋戦争開戦後も輸送任務を続けた。昭和19520日、モルッカ諸島アンボンからガソリンを積んでハルマヘラに向かう途中、ハルマヘラ島の北5kmのモロタイ海峡でSS-242ブルーギルの雷撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船1,12

みやぎ自衛隊まさむね君>:宮城地方協力本部のマスコットキャラ。伊達政宗がモチーフで、右目に眼帯(刀の鍔でなく単純な丸)をしているが、鉄帽の前立はオリジナルの弦月というよりも直立した三日月状になっている。陸海空の3パターンが存在する。参考:朝雲

<みやけ>:MSC-632(掃海艇)を参照。

三宅>:日本海軍御蔵型海防艦Miyake。昭和181130日竣工、第1海上護衛隊に編入された。1221日から門司−シンガポールの船団護衛に就いた。昭和19321日、連合艦隊付属になった。415日から横須賀−サイパンの船団護衛に就いた。96日から呉−シンガポールの船団護衛に就いた。昭和2013日、高雄西方でアメリカ艦上機の攻撃を受けて損傷した。19日、台湾の高雄港でアメリカ機動部隊艦上機の攻撃を受けて損傷した。211日、海南島西方で爆撃を受けて中破した。昭和20821日(22日?)、門司付近で触雷して航行不能になった。参考:月刊丸7,14、第2次大戦日本海軍作戦年誌

宮古>:日本海軍通報艦。排水量1772トン。参考:小艦艇入門

宮古警備隊>:陸上自衛隊の警備隊。2019326日、宮古島駐屯地で第15旅団隷下に新編された。隊員数380名。隊本部/本部中隊、普通科中隊、後方支援隊からなる。471100、宮古島駐屯地で隊旗授与式が行われ、岩屋防衛大臣から隊旗が授与された。419-20日、沖縄県宮古島市の海岸に漂着した油状物体除去の災害派遣120名で参加。これが初災害派遣である。510-16日、普通科中隊が第15旅団第1次旅団九州転地訓練に参加。これが初の九州への転地訓練である。91日、令和元年度離島統合防災訓練RIDEXに参加。2020611-14日、佐多射場で第15旅団の対舟艇・小火器射撃訓練に参加し、初の対舟艇実弾射撃を行った。714-16日、日出生台演習場方面隊施設集合訓練に参加。2021129日から宮古島市で新型コロナウイルス医療支援にあたる第15旅団医療支援隊看護班の後方支援を行った。416日、第15旅団が沖縄県豊見城市の河川で行った旅団漕舟訓練に参加。2022320日、沖縄県宮古島市でアメリカ製300ポンド投下爆雷の現地安全化を行った第101不発弾処理隊の通信支援を実施。424日、沖縄県石垣市で市民防災訓練に参加。参考:朝雲、月刊JWings6,19、月刊航空ファン6,19MAMOR vol.150

宮古警備隊新編準備隊>:陸上自衛隊の部隊。20193月に宮古島駐屯地で新編される宮古警備隊の準備を行うのが主任務で、201849日に那覇駐屯地で編成完結式が行われた。隊員数36名。参考:朝雲

宮古島駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。所在地は宮古島市上野野原137の1。千代田カントリークラブ跡地で、空自宮古島分屯基地の西南西1km、宮古空港南東2kmにある。敷地面積22ヘクタール。隊庁舎4棟、体育館、厚生施設、警衛所、車両整備場、給油所、グラウンド、倉庫などがあり、隣接する敷地に隊員と家族が住む官舎6棟が建てられている。第15旅団宮古警備隊(普通科、地対艦ミサイル、地対空ミサイル)隊員700-800名が駐屯する予定で、弾薬庫や訓練場は大福牧場を使う予定だったが、地下水源があり汚染の可能性があるとのことで地元が反対し没になり、回収不発弾庫として使用している保良鉱山の一角を弾薬庫に流用する予定で、長さ300mの覆道射場も作る。2019326日に開設され、岩屋防衛大臣が参加して開庁式を実施、第15旅団宮古警備隊、西部方面会計隊第444会計隊、西部方面システム通信隊第332基地通信中隊宮古島派遣隊、西部方面警務隊第136地区警務隊宮古島派遣隊の計380名が配置された。47日、宮古島市内で宮古島駐屯地開設祝賀会を実施。2020326日、第302地対艦ミサイル中隊(12式地対艦ミサイル装備)が新編され、第7高射特科群本部と第346高射中隊(03式中距離地対空ミサイル装備)が竹松駐屯地から移駐した。88日、河野防衛大臣が視察して訓示を行い、新設部隊を労った。1122日、宮古地区自衛隊家族会10人が沖縄地本の宮古島出張所の支援で部隊研修を実施。2023618日、曹友会が陸軍挺身隊慰霊碑清掃活動に参加。924日、木原防衛大臣が初度視察を実施。第302地対艦ミサイル中隊、第101直接支援大隊第4小隊、第322基地通信中隊宮古派遣隊の隊員計38名が伊良部島佐和田の浜で海岸清掃を実施。参考:月刊軍事研究4,183,18、朝雲、月刊JWings6,19、月刊航空ファン6,19

宮古島分屯基地>:航空自衛隊の分屯基地。第53警戒隊が駐屯しており、作戦情報隊電波情報収集群の地上電波測定装置も置かれている。所在地は沖縄県宮古島市上野野原。大元は1944年(昭和19年)に日本軍先島集団司令部が展開してレーダーを2基設置した場所で、太平洋戦争終結後はアメリカ軍がレーダーを設置、197210月に空自宮古島分遣隊が新編され、12月に分屯基地が開設された。19732月、第53警戒群が新編された。20033月、第53警戒群が第53警戒隊に改編された。20115月、北澤防衛大臣が歴代防衛大臣として初めて視察した。201947日、岩屋防衛大臣が視察し、第53警戒隊及び作戦情報隊第4収集隊に訓示を行った。202089日、河野防衛大臣が視察して訓示を行い、隊員を激励した。1122日、宮古地区自衛隊家族会10人が沖縄地本の宮古島出張所の支援で部隊研修を実施。2023618日、准曹会が陸軍挺身隊慰霊碑清掃活動に参加。参考:宮古島分屯基地ホームページ、航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊JWings6,10別冊付録、朝雲、月刊軍事研究9,112,18

みやこどり>:海上自衛隊ちよづる型掃海艇12番艇。元は駆潜特務艇第93号である。195281日に海上保安庁から移管され、掃海船MS-12となった。195471日に掃海艇に類別変更された。195641日、特務雑船特務5号に区分変更された。1957331日、特務雑船YAS-07に区分変更された。1958631日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史

都城駐屯地>:陸上自衛隊の駐屯地。郷土館にはイラクや口蹄疫災害派遣などの資料が展示されている。所在地は宮崎県都城市久保原町1街区12号。JR五十市駅から徒歩10分弱。JR西都城駅からバス10分。元は明治43年に開設された陸軍歩兵連隊駐屯地である。1951年、第12普通科連隊第2大隊が駐屯を開始。1962年、第43普通科連隊が新編された。2011121-25日、第5次予備自衛官招集訓練を実施。2016116日、隊員4名が都城市選挙管理委員会主催の「わけもんの主張」に参加。44日、高ノ峰射撃場で小火器射撃評価システム運用開始式を実施し、早速最初の射撃訓練を行った。78日、平成28年前期郷土会を実施。2017111日、新成人隊員69名の成人行事を実施。121日、都城市選挙管理委員会主催の「わけもんの主張」に隊員3名が参加。131日、幹部候補生着隊行事を実施。322日、グラウンドで幹部昇任者6名の幹部任官式を実施。87日、第7次派遣海賊対処行動支援隊57名の帰国行事を実施。923日、駐屯地音楽部が宮崎市民文化ホールで第8師団音楽隊巡回演奏会に参加。2018117日、新成人隊員36名の成人行事を実施。317日、第43普通科連隊が対戦車中隊廃止行事を実施。121日、熊本地本の宮崎地区部隊研修に協力した。202118日、新成人隊員49名の成人行事を実施。227日、都城訓練場で航空機体験搭乗を実施。70人がUH-1Jヘリで体験飛行を行った。321日、都城市都島公園で殉職自衛官慰霊祭を実施。2022111日、新成人隊員59名の成人行事を実施。202379日、都城六月灯・おかげ祭りに駐屯地司令以下80名で参加。参考:JGround Vol.23MAMOR vol.110vol.91、朝雲

 <都城駐屯地(2015年)>:第8師団第43普通科連隊、第9施設群第376施設中隊、西部方面会計隊第373会計隊(326日から第364会計隊都城派遣隊)、都城駐屯地業務隊、都城募集事務所が駐屯している。参考:MAMOR vol.110、陸上自衛隊パーフェクトガイド2015

都城西飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

都城東飛行場>:日本陸軍の飛行場。参考:月刊JWings11,18

宮崎勇>:日本海軍エース。大正8年、香川県生まれ。昭和11年、海軍に入隊し、艦隊勤務の後に昭和1611月丙種飛行予科練習生を卒業、横須賀航空隊に配属された。昭和1710月、第252航空隊に転属となり、119日にラバウルに進出。1112日、F4F戦闘機1機を撃墜した。昭和182月、マーシャル群島に転出。11月末からマロエラップ島に展開。昭和192月、本土に帰還した。昭和20年1月、第343航空隊戦闘301飛行隊に転属となり、西日本の防空任務を実施、終戦を迎えた。総撃墜数13機。最終階級は少尉。2013410日、92歳で死去した。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン5,13

宮崎海軍航空隊>:日本海軍航空隊。陸攻の練習航空隊で、従来その任務に就いていた台湾の新竹航空隊が在支米軍の空襲を受ける可能性が高まったため、本土に新たな練習部隊を作ることになり、昭和18101日から開隊準備に入り、12月に新竹航空隊から部隊が移動、昭和1911日に開隊式が行われた。117日、飛行作業を開始。6月末からB-29による九州爆撃が始まり、訓練に支障を来すようになったため、松島海軍航空隊に移動することになり、81日に九六式陸攻17機、83日に九六式陸攻19機が松島に移った。参考:月刊航空ファン3,20

宮崎儀太郎>:日本海軍エース。大正6年、高知県生まれ。昭和8年、海軍乙種飛行予科練習生に入隊し、昭和125月に飛行練習生課程を修了、佐伯航空隊に配属された。その後高雄航空隊に転属し、昭和139月に第12航空隊に配属され、中国に向かった。105日、漢口攻撃でI-16を撃墜し、初戦果を挙げた。昭和146月、横須賀航空隊の教員となった。その後高雄航空隊に転属、昭和164月に第12航空隊に配属され、漢口基地に配置された。811日、成都攻撃で1機を共同撃墜した。10月、飛曹長に昇進し、台南航空隊に配属された。128日、ルソン島攻撃で1機を撃墜。昭和174月、ラバウルに進出。61日、病をおしてモレスビー攻撃に参加したが、敵戦闘機の攻撃で乗機が空中爆発を起こし、戦死した。死後に二階級特進で飛行特務中尉となっている。総撃墜数13機。参考:日本海軍戦闘機隊

宮崎丸>:日本陸軍輸送船Miyazaki-Maru。元は日本製鉄鋼材運搬専用船である。垂線間長107.63m、幅14.93m、深さ8.08m、満載吃水6.75m、総トン数3943トン、重量トン数5301トン。主機は排気タービン付きレンツ式レシプロ1基1軸3833馬力、航海速力12.5ノット、最大速力15.493ノット。昭和151227日竣工。太平洋戦争で陸軍に徴用された。昭和1958日、八幡から室蘭に向け航行中、北海道恵山岬の北北東6kmSS-199トートグの雷撃を受けて沈没した。参考:月刊世界の艦船9,13

宮様原案>:日本陸軍用語で、陸軍学校の教官が出す質問に対し、皇族出身の学生だけが正解すること。普通の学生は良い成績を出そうと捻った答えを出し、かえって外すが、成績の関係ない皇族出身学生は素直な回答を出して正解(原案)に行き着く。参考:月刊軍事研究1,12

ミヤシチェフ試作設計局>:ソ連の航空機設計局OKB-23。ウラジーミル・ミヤシチェフを主任設計者として1951年に設立された。フルシチョフによるミサイル万能論の煽りを受けて1960年に一旦解散し、ミヤシチェフはTsAGI所長となったが、フルシチョフ失脚後の1967年に復活してミヤシチェフが再度主任設計者に就任した。ソ連崩壊でミヤシチェフ試作機械製作工場(Eksperimentaliniy Mashinostoroiteliniy Zavod imeni V. M. Myasishcheva)に改称された。その後統一航空機製造会社OAKに組み込まれている。参考:月刊JWings9,17、月刊航空ファン11,92

<みやじま>:MSC-651(はつしま級掃海艇)またはMSC-690(すがしま級掃海艇)を参照。

宮島>:海上自衛隊が給食調理に使用する巨大しゃもじの通称。しゃもじの名産地が宮島なので。参考:MAMOR vol.115vol.70

<みやと>:MSC-639(掃海艇)を参照。

宮野善治郎>:大正6年、大阪府生まれ。昭和13年に海軍兵学校を卒業し、昭和154月に飛行学生教程を修了、昭和16年に第12航空隊に配属されて中国に配備された。昭和1610月、大尉に昇進し、第3航空隊分隊長となった。昭和16128日、ルソン島で初撃墜を記録。昭和174月、第6航空隊分隊長となった。6月、隼鷹に搭乗してダッチハーバー攻撃に参加。その後ラバウルに進出し、第204航空隊分隊長を経て飛行隊長となった。日本海軍初の4機編隊戦法を編み出すなど、戦闘戦術の開発なども行っている。昭和18616日、ガダルカナル島ルンガ沖の敵船団攻撃の護衛に就いたが、戦闘中に行方不明となり、戦死認定され、二階級特進で中佐となった。単独撃墜数16機、指揮下部隊撃墜数228機。参考:日本海軍戦闘機隊

宮原式缶>:宮原二郎(後の機関中将)が明治30年(明治29年?)に考案した主缶で、大管式二胴水管缶である。給水が容易で、安価だったが、容積が大きく、巡洋艦クラス以上の大型艦でなければ搭載できなかった。参考:小艦艇入門、月刊世界の艦船10,113,24

ミャンマー海軍>:1989年、ビルマ海軍から改称された。2001-03年、アノーヤター級コルベット2隻が就役。2011年からアウン・ゼーヤ級フリゲートが就役。2013年から491型哨戒艇が竣工。2014-15年、チャンシッター級フリゲート2隻が就役。2016年、タビンシュエーティー級コルベット1隻が就役。2019年、モッタマ級ドック型輸送揚陸艦1隻が竣工。2021年、明級潜水艦1隻が就役。参考:月刊世界の艦船5,168,1710,174,'2212,'23、月刊航空ファン12,16

 <ミャンマー海軍(2015年)>:現役兵力16000名(うち海軍歩兵1個大隊800名)。チャンシッター級フリゲート1隻、アウン・ゼーヤ級フリゲート1隻、053H1型マハル・バンドーラ級フリゲート2隻、アノーヤター級コルベット2隻、紅星級ミサイル艇6隻、491型哨戒艇1隻、インドー級哨戒艇2隻、海南級哨戒艇9隻、ミャンマー級ミサイル艇4隻、哨戒艇89隻、LCU8隻、LCM10隻、兵站支援船18隻を保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

ミャンマー級>:ミャンマー海軍ミサイル哨戒艇Myanmar級。兵装はC-801艦対艦ミサイル連装発射筒2基など。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

ミャンマー空軍>:1989年、ビルマ空軍から改称された。1990年、F-7M戦闘機28機とFT-7M練習機2機を導入。1991年、W-3Aヘリを13機導入。1992年、殲教6型FT-6練習機2機を輸入。1992年からA-5C攻撃機36機を導入。1994年、F-7M戦闘機28機とFT-7M練習機2機を導入。1996年、初教6型練習機を導入。20012月にタイとの国境紛争が起こり、F-7Mではタイ空軍F-5E/F-16戦闘機に手も足も出なかったため、6月に急遽MiG-2912機発注した。200912月、MiG-29M220機導入することにした。201767日、Y-8輸送機が墜落し、搭乗していた122名が死亡した。201843日、ミャンマーのバゴー地方でF-7M戦闘機1機が墜落し、脱出したパイロットが病院で死亡した。1016日、ミンブ県でF-7M戦闘機2機が墜落し、パイロット2名と住民1人が死亡した。2022年、Su-30SME戦闘機6機の引き渡しが開始された。参考:月刊航空ファン12,16、月刊軍事研究8,11、月刊JWings3,181,193,194,23

 <ミャンマー空軍(2015年)>:現役兵力15000名。F-7戦闘機49機、FT-7戦闘機10機、MiG-29戦闘機18機、MiG-29SE戦闘機6機、MiG-29UB戦闘機5機、A-5M攻撃機22機、An-12輸送機2機、ビーチ1900D輸送機3機、セスナ180輸送機4機、セスナ550輸送機1機、F-27輸送機3機、PC-6A/B輸送機5機、FH-227要人輸送機4機、G-4スーパーガレブ練習機12機、グロブG120練習機10機以上、K-8カラコルム練習機24機以上、PC-7練習機12機、PC-9練習機9機、Mi-35P攻撃ヘリ12機、AS365汎用ヘリ3機、Mi-17汎用ヘリ11機、SA316アルエートVヘリ9機、W-3輸送ヘリ10機、ベル205輸送ヘリ12機、ベル206輸送ヘリ6機、Mi-2輸送ヘリ18機、PL-5空対空ミサイル、R-27/-73空対空ミサイルを保有する。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

ミャンマー軍>:1989年、ビルマ軍から改称された。ちなみにビルマは現地の話し言葉バマーをオランダ語表記(Birma)したもの、ミャンマーは現地の書き言葉である。その後も2011年まで永らく軍事政権が続いており、主に中国製兵器を輸入し続けている。201511月、選挙で民主化し、軍政が終了したが、議席の4分の1は軍が押さえている。2017825日深夜にアラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州の治安拠点30ヵ所以上を襲撃したのを受け、大規模掃討作戦を実施。難民がバングラデシュに流れ込んで国際問題になった。202121日、選挙の不正を口実にクーデターを起こし、フライン国軍総司令官が全権を掌握、国民民主連盟アウンサン・スー・チー最高顧問兼外相ら政権要人を拘束した。暫定統治機構を設立して早期のやり直し選挙実施を発表したが、各地で抗議デモと不服従運動が発生、参加者に対して容赦無い銃撃を加え殺害している。328日、アメリカ、イギリス、イタリア、オーストラリア、オランダ、カナダ、韓国、ギリシャ、デンマーク、ドイツ、日本(山崎統幕長)、ニュージーランドの参謀総長が、ミャンマー国軍による市民に対する暴力を止め、平和的な解決を求める共同声明を発表した。1021日、国連のブルゲナー事務総長特使(ミャンマー担当)が、ミャンマー国軍に対して国際社会が承認のシグナルを送らない事が非常に重要であると述べた。11月現在、弾圧による死者は1200人を超え、300万人が緊急人道支援を必要とする状態にあるとされる。参考:MAMOR vol.140、歴史群像10,18THE MILITARY BALANCE 2016、朝雲

 <ミャンマー軍(2015年)>:現役総兵力406000名(陸軍375000名、海軍16000名、空軍15000名)、準軍事組織107250名(人民警察軍72000名、民兵35000名、人民真珠漁業省250名)。リベリアにUNMILオブザーバー2名、南スーダンにUNMISS要員2名を派遣している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

ミャンマー・デモ事件>:2007815日、政府が燃料公定価格を5倍に値上げしたため、反発する民衆が最大都市のヤンゴンで抗議デモを行った。これが各地に飛び火し、僧侶を中心とした大規模なデモに発展。これに対して軍事政権は武力鎮圧を行い、927日には日本人ジャーナリストの長井健司氏が兵士により射殺された。デモは9月末までに鎮圧されている。参考:月刊軍事研究5,08

ミャンマー民主同盟軍>:ミャンマーの中国系少数民族コーカン族による反政府武装組織で、MNDAAと略す。中国に5年間亡命していた指導者が帰国したことで活動を活発化し、201522日からミャンマー軍との戦闘が勃発、ミャンマー軍に50名、MNDAA26人の死者が出た。ミャンマーはミャンマー北東部シャン州コーカン地区に戒厳令を敷いて緊急事態を宣言したが、他の少数民族もMNDAAに加勢して戦闘が続いている。これをきっかけに3万人の難民が中国雲南省に脱出、雲南省の一部勢力がミャンマー政府牽制のためMNDAAを支援し始めたため、ミャンマー政府が中国政府にテロリスト活動防止を求めた。中国政府も対応に乗り出さざるを得ないとみられるが、ミャンマー政府側を支援するのか、MNDAAを支援するのかは不明。313日午後、ミャンマー空軍機が雲南省の農村を誤爆し、4人が死亡、9人が負傷した。中国はミャンマーに強く抗議している。62日、ミャンマーとの国境付近で中国軍成都軍区の部隊が空陸合同実弾演習を開始した。中国国防大危機管理センターの教授は演習の目的がミャンマー政府に対する威嚇であると分析。ミャンマー外相は中国に自制を求め、ミャンマーは他国の圧力を恐れないと表明している。参考:朝雲

ミャンマー陸軍>:1989年、ビルマ陸軍から改称された。参考:月刊航空ファン12,16

 <ミャンマー陸軍(2015年)>:現役兵力375000名。14軍区、区域作戦コマンド7個、師団司令部(軍作戦司令部)20個、歩兵師団司令部10個、旅団司令部(戦術作戦司令部)34個以上、機甲旅団10個、歩兵大隊(中隊規模)100個、地域コマンド歩兵大隊(中隊規模)337個、砲兵大隊7個、独立砲兵中隊37個、防空大隊7個、戦闘工兵大隊6個、野戦工兵大隊54個、情報中隊40個、通信大隊45個からなる。T-55戦車10両、T-72S戦車50両、59D指揮戦車25両以上、69式U型戦車100両、63式軽戦車105両(うち作戦可能60両)、EE-9偵察車12両以上、フェレット偵察車45両、ハンバー・ピッグ偵察車40両、マツダ偵察車30両、BTR-3U歩兵戦闘車10両以上、MT-LB装甲車26両、85式装甲兵員輸送車250両、90式装甲兵員輸送車55両、ヒノ装輪装甲車20両、92式装輪装甲兵員輸送車30両以上、MPV装甲車10両、155mm自走砲ノラB-5230両、155mm自走砲SH-112両、105mmM-5636門、105mmM10196門、122mmD-30100門、130mmM-4616門、140mm砲、155mm砲ソルタムM-845P16門、63107mm多連装ロケット30基、122mm多連装ロケットBM-21(を保有しているという報告あり)、81122mm多連装ロケット、240mm多連装ロケットM-1985改3両以上、5382mm迫撃砲(M-37迫撃砲)、120mm迫撃砲ソルタム80門、53120mm迫撃砲(M-1943迫撃砲)、106mm無反動砲M40A184mm無反動砲カール・グスタフ1000門、105mm自走対戦車砲PTL-0224両、対戦車砲60門(6ポンド砲と17ポンド砲)、KS-1AHQ-12)自走地対空ミサイル4基、2K22ツングースカ数両、S-125ペチョラ2M地対空ミサイル、HN-5携帯地対空ミサイル(を保有しているという報告あり)、9K310携帯地対空ミサイル、8057mm自走高射機関砲12両、7437mm高射機関砲24基、40mm高射機関砲M110基、火星6号短距離弾道ミサイル数基(を保有しているという報告あり)、72式戦車回収車を保有している。参考:THE MILITARY BALANCE 2016

<ミュア>:DE-770(護衛駆逐艦)を参照。

μタフ>:オリンパス社の民生用コンパクトデジタルカメラ。水深10mや零下10度でも撮影でき、落下や加重にも強い。イギリス陸軍が記録用カメラとして856基を調達予定。参考:月刊軍事研究12,09

ミューラー>:マンフレッド・ミューラー。ドイツ空軍エース。1942年春、He219夜間戦闘機パイロットとなった。1944521日、マグダベルグ上空でイギリス空軍爆撃機と空中衝突して戦死した。最終階級は大尉。撃墜機数は65機。参考:月刊丸10,10

<ミュール>:M274(兵器運搬車)を参照。

ミュールドルフ地下工場>:ドイツが第2次大戦中に建設したMe262用地下工場。爆撃に耐えられるよう厚さ3mのアーチ状基礎コンクリートの上に2mのコンクリートを重ね、土を盛り木を植えてカモフラージュする。アーチの全長は33m、深さは32.2mあり、これを12基建設して内部に8層の工場を設けることになった。月産900機を予定しており、完成した機体は併設されている飛行場から自力で飛行し、配備先に向かうことになっていた。主契約社のポレンスキー&チョールナー社は200名の技術者を動員し、ダッハウ、メッテンハイム、ヴァルドラーガー強制収容所などから労働者がかり出され、19445月から昼夜交代で4000名ずつが建設作業を続けた。19454月、アーチ7基が完成したところで工事は中止され、1947年にアメリカ軍が120トンのTNT火薬を仕掛けて爆破、現在は第7アーチのみ残存している。1980年代末、環境汚染を防ぐために遺棄化学物質を撤去した。地元団体によるガイドツアーが行われているらしい。参考:月刊丸11,09

<ミュールハウゼン>:M1052(水中処分艇)を参照。

ミュールハウゼン級>:ドイツ海軍水中処分艇Muhlhausen級。元は試験艇ワルター・フォン・レデプールで、1995年に退役したものを1年かけて改造したものである。全長63m、満載排水量825トン。主機はディーゼルで、速力19ノット。M1052ミュールハウゼンが1996年に就役した。参考:月刊世界の艦船3,07

ミューワ>:ポーランドのPZLが開発した試作単発観測機Mewa(カモメ)。量産はされなかった。全幅13.46m、全備重量2424kg。エンジンはノームローン14M700馬力)単発、最大速度359km、実用上昇限度8500m。自衛武装は機銃3丁。乗員2名。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇

深雪>:日本海軍吹雪型駆逐艦4番艦。昭和4629日竣工、一等駆逐艦に類別された。昭和9629日に済州島南沖で雷と衝突して沈没、815日に除籍された。参考:日本駆逐艦史、日本海軍艦隊総覧

御幸丸>:海上自衛隊掃海艇Miyuki Maru。全長17.1m、総トン数61トン。195471日に編入された。195641日に除籍された。参考:海上自衛隊全艦艇史、月刊世界の艦船11,'17増刊

<ミュッケ>:フクス装甲車ファミリーを参照。

ミュラーン>:フランスの水上艦用対潜魚雷。直径324mm、弾頭重量59kg。速力40ノットまたは55ノット、射程16km。有効深度1000m。誘導はアクティブ・パッシブ音響式。参考:月刊丸3,90

ミュンヒェベルク>:ヨアヒム・ミュンヒェベルク(Joachim Muncheberg)。ドイツ空軍エース。1938年、ドイツ空軍に入隊。1940年、第26戦闘航空団第7中隊の中隊長となった。1943323日、乗機が空中分解して死亡した。撃墜機数135機。最終階級は少佐。参考:グラフィックアクション36

ミュンヘン安全保障会議>:1962年からドイツが開催している国際会議で、NATO諸国の閣僚、国会議員、国防幹部らが参加する。冷戦終結後はロシアや中東欧諸国も加わっており、2009年の第45回には日本(防衛大臣)が初参加した。参考:MAMOR vol.83

ミュンヘン一揆>:19231月、ベルサイユ条約で多大すぎる賠償金を押しつけられたドイツは支払い不能を宣言したが、これに対しフランスはルール地方を占領、ドイツはサボタージュで対抗したものの、マルクが大暴落して経済が崩壊してしまった。ヒトラーは他の右翼と共に戦闘同盟を結成し、51日のメーデーに合わせて大規模な武装デモを計画したが、武器の持ち出しができず、失敗した。しかしヒトラーは諦めず、93日にルーデンドルフ将軍を盟主とする戦闘同盟を再結成。各地で演説を行い、ドイツ政府の批判と独裁制導入などを訴えた。これに対し、バイエルン政府は926日に非常事態宣言を発令してヒトラーによる内乱を抑えようとしたが、ベルリンのドイツ政府はこの宣言を右翼革命と捉え、翌27日に全土に大統領緊急令を発して戒厳令を敷いた。この結果ドイツ政府とバイエルンとの対立が生じ、バイエルンはドイツと距離を置いて殆ど独立国に近い立場となった。こうしてヒトラーのつけいる隙が生じたのだが、バイエルン総監のカールはヒトラーの排除に乗り出したため、ヒトラーと戦闘同盟は単独で武力蜂起を起こすこととなった。これがミュンヘン一揆である。118日、ヒトラーは突撃隊員と共に州治安保全総監主催の政治集会に乱入し、バイエルン政府総監、国防軍最高司令官、警察長官を拉致。ルーデンドルフらの説得で総監らは革命に一旦同意した。しかしヒトラーが外に出ている間にルーデンドルフが政府総監らを釈放してしまったため、バイエルン州政府は翌日にナチス解散を命じた布告を発令し、ヒトラー鎮圧行動を開始した。1191130、ヒトラーらは行進を開始し、昼過ぎにオデオン広場の将軍廟に近づいたところで道路を閉鎖する武装警官隊にぶつかった。警官隊は発砲を始めたため隊列は散り散りになり、ルーデンドルフはそのまま逮捕され、ヒトラーは地面に伏せた際に肩を脱臼、2日後に逮捕された。しかしヒトラーは裁判でも口八丁で禁固5年の刑に留まり、待遇の良い刑務所内で「我が闘争」を纏め、8ヶ月で恩赦により仮釈放された。ゲーリングは腿に重傷を負ったが、オーストラリアに逃れ、1年半後にドイツに戻っている。参考:月刊軍事研究6,04、英独航空決戦

ミュンヘン・オリンピック選手村襲撃事件>:1972年のミュンヘン・オリンピックで発生したテロ事件。パレスチナゲリラ「黒い9月」メンバーが選手村でイスラエル選手団宿舎を襲撃し、コーチ1人を射殺、人質9人を取って立て籠もり、政治犯の釈放を要求した。これに対し、ドイツ連邦国境警備隊及び警察が出動したが、交渉は上手くいかず、ゲリラと人質を宿舎からバスでフュルステンフェルトブルック空軍基地に用意したヘリコプターまで輸送する手筈にし、ヘリコプターに乗り込む際にゲリラを射殺することとなった。ゲリラは5人以内とみられたため、国境警備隊は狙撃手5人を用意したが、バスからはゲリラ8人が下車した。国境警備隊はそのまま作戦を強行、一撃で5人を射殺したが、残る3人が人質の乗ったヘリに手榴弾を投げ入れたため、人質は全員殺害されてしまった。この反省から、西ドイツは対テロ専門の特殊部隊GSG9を設立することとなった。参考:月刊丸10,93、防衛技術ジャーナル1,07、月刊JWings11,20

<みょうこう>:DDG-175(イージス護衛艦)を参照。

妙高>:日本海軍妙高型重巡洋艦1番艦Myoko。大正131025日起工、昭和2年(3年?)416日進水。進水命名式は昭和天皇初の行幸だった。昭和4731日竣工、第2艦隊第4戦隊に編入された。昭和725日、第1次上海事変で兵員を上海に輸送。121日、予備艦となり、第1次改装を実施。昭和1021日、第1次改装を終了。1115日、第2艦隊第5戦隊に編入。昭和115月、第4艦隊事件に伴う補強工事を実施。121日、予備艦となり、無線・居住設備改良及び4連装13mm機銃2基の増設工事を実施。昭和12728日、日華事変を受けて第3艦隊第9戦隊に編入され、上海に向かった。1020日、第4艦隊に編入された。121日、第5艦隊旗艦となった。昭和141115日、第2遣支艦隊旗艦となった。1125日、第2次近代化改装工事に入った。昭和16410日、第2次近代化改装を終了。95日、第2艦隊第5戦隊旗艦となった。128日、太平洋戦争開戦時は建制も兵力部署も第5戦隊に所属し、フィリピン攻略戦を支援。昭和1714日(5日?)、ダバオ湾マララグ泊地でB-17の水平爆撃を2番砲塔左に受けて中破、戦死35名と負傷者約25名を出した。31日、スラバヤ沖海戦の追撃戦に参加。423日、横須賀港を出港、ポートモレスビー攻略に参加。56日、第5戦隊所属で珊瑚海海戦に参加。522日、呉に帰港。529日、ミッドウェイ作戦のため柱島を出撃。65日、ミッドウェイ海戦に参加。628日、アリューシャン作戦に参加。811日、柱島を出撃。817日、トラックに到着。821日、トラックを出撃してガダルカナルに向かった。824日、第2次ソロモン海戦に参加。1026日、南太平洋海戦に参加。114日、トラックを出港、内地に向かった。1130日、内地からトラックに到着。その後はラバウル輸送作戦及びガダルカナル島撤収作戦に参加。昭和18515日、幌筵に進出して北方哨戒任務に就いた。731日、トラックに進出。ラバウルへの兵員輸送任務に就いた。112日、ブーゲンビル島沖海戦で至近弾を受け、更に駆逐艦初風と衝突して小破(中破?)した。1224日、トラックに進出。昭和19619日、マリアナ沖海戦に参加。6月末、リンガ泊地に進出。1022日、第5戦隊旗艦として比島沖海戦に参加。1024日、シブヤン海で艦上機の雷撃を受けて損傷し、ブルネイに引き返した。シンガポールで応急修理を受けて内地に向かったが、1213日、サイゴン南西サンジャック沖でSS-320バーゴールの雷撃を受け艦尾を切断され中破、以降はシンガポールのセレター軍港に停泊。終戦時は艦尾を切断した状態だった。終戦後は通信・修理母艦、居住施設などとして使用され、昭和2178日(2日?)、マラッカ海峡でイギリス軍により海没処分された。参考:月刊丸10,93、第2次大戦日本海軍作戦年誌、連合艦隊巡洋艦、帝国陸海軍事典、歴史群像2,08、近代巡洋艦史、月刊世界の艦船9,14、帝国海軍太平洋作戦史T

妙高型>:日本海軍一等巡洋艦(重巡洋艦)。ワシントン条約締結を受け、基準一杯の10000トンの排水量(計画公試排水量11856トン、燃料と予備缶水を引くと10000トン)を持つ条約型巡洋艦ながら、条約で制限された主力艦の代用も務められる重巡として大正12年に要求が出された。兵装はなるべく強力にしようと20サンチ砲8門、12サンチ高角砲4門、魚雷発射管8門を軍令部が要求したが、設計担当の平賀少将の意見により砲を10門に増やし、魚雷発射管を撤去して兵員居住スペースを確保、水雷防御を増加させる予定とした。しかし平賀少将が外遊している間に設計主任を配置換えし、高角砲を8門、魚雷発射管を12門装備することにしたため、完成時に基準排水量が予定よりも増えた。船体は細長くして速度性能を保ち、連装砲塔5基を船体中央に集めてバイタルパートをなるべく小さくする配慮が取られた。艦首には大きなシアを持ち、上甲板は艦尾に向かって下降する波形平甲板式である。バイタルパートの舷側にはNVNC鋼板を使用しており、機関室天井の高さから水線下1.5m付近まで12度傾斜・厚さ4インチ(102mm)の鋼板で防御を施している。更に内側には弾片防御用の隔壁、その内側には浸水防止の縦隔壁も設置した。これの下端からはバルジが設けられており、内部は空洞となっているが、戦時には200トンの水防鋼管を詰め込んで魚雷の威力を軽減する。バルジの内側には二重の防御縦隔壁(厚さ29mmの高張力鋼2枚)と一層の漏水防止隔壁が設置された。水平防御は中甲板の35mmNVNC鋼板、缶室煙突開口部外周の88.5mm鋼板、煙突間の70mm鋼板である。防御装甲に割いた重量は2023トンに達した。缶室は9室あり、第1-3缶室は左右に2基ずつ、それ以外は1基ずつの計12基を収容する。缶の間には隔壁が設けられており、砲戦の際に被害を限局する効果があったが、雷撃での浸水時に艦が一方に傾斜する欠点があった。煙突は2本で、第1煙突は煙路を後方に曲げてあり、第2煙突上部と結合した結合煙突となっている。主機は缶室後方の機械室4室に1基ずつ収められており、前部主機に巡航タービンが置かれた。艦橋は7層で、第1・第2缶室からの誘導煙路の上に置かれ、基部は2番砲塔よりも高い。その上に箱形の上部構造物が載っており、後部に円錐状の構造物が建てられ、頂部が測距塔(6メートル測距儀と九四式方位盤射撃装置装備)、主砲射撃所、測的所にあてられた。その下が羅針艦橋、更に下に上部艦橋、中部艦橋(操舵室)、下部艦橋と並んでいる。艦橋背後の前部マストは単脚式、後部煙突後方の後部マストは三脚式。主砲は三年式五〇口径二〇サンチ連装砲5基で、前部に3基(ピラミッド型)、後部に2基(背負い式)が配置されている。3番砲塔は低い位置に置かれており、全力航走時に波飛沫が邪魔になると言われていたが、実戦ではそういった不都合は出なかったようである。魚雷発射管は中甲板両舷に61サンチ固定式3連装発射管を2基ずつ搭載したが、これにより居住区が圧迫されたため前部煙突両側に甲板室を増設している。更に四五口径一〇年式一二サンチ高角砲の搭載位置がずらされ、両舷中央の上甲板上に2基ずつ、甲板室上部に1基ずつを装備した。高角砲射撃指揮装置は第2煙突両舷に搭載した。全長203.759m、水線長201.625m(公試状態)、垂線間長192.481m、最大幅18.999m、水線幅17.856m(公試状態)、深さ10.973m、平均吃水6.23m(公試状態)、基準排水量10902トン(11300トン?)、公試排水量13281トン。主機は艦本式高低圧タービン4基、主缶はロ号艦本式重油専焼缶(圧力20気圧、温度300度)12基、計画出力130000馬力、公試出力138692馬力、4軸推進、計画速力35ノット、公試速力35.6ノット、重油搭載量2470トン、航続距離は14ノットで7000海里。兵装は三年式五〇口径二〇サンチ砲連装装備D型砲塔5基、四五口径一〇年式一二サンチ高角砲6基、十二年式舷側水上発射管3連装4基12門(八年式二号魚雷24本)、ルイス7.7mm機銃2丁。呉式二号一型射出機(一号一型?)1基(後部マスト後方右舷寄り)と九〇式水偵2機を搭載する。格納庫は後部マスト直後にある。探照灯はスペリー式110サンチ探照灯5基。短艇搭載数8隻。乗員792名(704名?)。妙高、那智、羽黒、足柄の4隻が昭和4年に竣工した。参考:連合艦隊巡洋艦、月刊丸2,08、近代巡洋艦史、月刊世界の艦船4,12

妙高型(第1次改装)>:昭和8-12年に実施された。船体強度を高めるため、上甲板や舷側外板部に20-25mmDS鋼板、艦底部に20-22mmDS鋼板を追加。主砲を正8インチ(203mm)とし、九八式発射遅延装置を装備。揚弾方式をせり上げ式からつるべ式に変更、被弾時の誘爆を防止した。高角砲を撤去し、艦中央部にシェルター甲板を設置、煙突両側にスポンソンを設けて八九式四〇口径一二.七サンチ連装高角砲を2基ずつ搭載。中甲板の魚雷発射管は撤去してシェルター甲板後方下部両舷に4連装発射管(次発装填装置付)を1基ずつ装備した。撤去跡は不足気味だった兵員室に改造したが、真下に機関室があったため、ものすごい暑さで、ここに居た高角砲員と飛行科兵員からは不評だったようである。カタパルトを呉式二号三型2基に変更、九五式水上偵察機2機または九四式と九五式 を1機ずつ搭載(最大4機搭載可能?)。高角砲の中間及び前部煙突後方両舷に計4基の13mm4連装機銃を装備。これらにより最上型とほぼ同等の性能となった。全長203.759m、幅18.998m、吃水6.560m、公試排水量14484トン。主機は艦本式高低圧4胴構成歯車減速式タービン4基、主缶はロ号艦本式重油専焼缶12基、出力130000軸馬力、速力35ノット、重油搭載量2470トン、航続距離は14ノットで7000海里。兵装は20.3cm連装砲5基、12.7cm連装高角砲4基、13mm4連装機銃2基、61cm4連装魚雷発射管2基。カタパルト2基と水上偵察機2機を搭載する。参考:連合艦隊巡洋艦、月刊丸5,0710,93

妙高型(第2次改装)>:昭和14-16年に実施された。バルジを15区画に分かれた大型のもの(応急注排水装置付、うち5区画は重油タンク)に交換し、内部に水密パイプを充填、炸薬250kgの魚雷に耐えられるようにした。魚雷発射管を片舷2基ずつとし、九三式六一サンチ酸素魚雷を装備。ポールマストを撤去して三脚マストを設置し、この上に魚雷発射指揮所を設けて魚雷の最大射程を発揮できるようにした。7.7mm機銃を13mm連装機銃に、13mm4連装機銃を九六式二五ミリ連装機銃に強化し、後部煙突両側に25mm連装機銃を追加。カタパルトを呉式二号五型に、搭載機を零式観測機2機と零式水上偵察機1機に変更、後部マスト後方に飛行機移動用レールを設置した。缶には強圧通風装置を追加して高圧空気を送り込めるようにし、燃費を改善、重油搭載量を300トン減らすことに成功している。全長203.759m、公試水線長201.7m、公試水線幅19.51m、平均吃水6.37m、基準排水量13000トン、公試排水量14984トン。機関出力132830馬力、速力33.88ノット、重油搭載量2214トン、航続距離は14ノットで7463海里。兵装は三年式五〇口径二〇.三サンチ連装砲5基、八九式四〇口径一二.七サンチ連装高角砲4基、九六式二五ミリ連装機銃4基、保式一三ミリ連装機銃2基、九二式六一サンチ魚雷四連装発射管4基(九三式魚雷24本)。探照灯は九二式一一〇サンチ探照灯4基。乗員891名。参考:連合艦隊巡洋艦

<明星>:九九式艦上爆撃機ファミリーを参照。

<ミラー>:DD-535(駆逐艦)またはFF-1091(ノックス級護衛艦)を参照。

ミラー・イメージング>:自分の価値観や合理性が必ず相手にも当てはまると判断して情報資料の分析を行ってしまうこと。参考:月刊軍事研究1,09

ミラージュT>:フランス空軍が1953年に出した超音速軽量戦闘機の要求(最大重量4トン、最大速度マッハ1.30.2トンの空対空ミサイル1発搭載など)に応えてダッソー社が提案した機体で、1952年初めからMD550ミステール・デルタの名称で研究していた。無尾翼デルタ機で、主翼後退角は62度、翼厚比は5.5%。エンジンはアームストロング・シドレー社製MD.30バイパー(推力0.75トン)単発で、エアインテイクは機首左右にある。機体の割に垂直尾翼がやたらと大きい。2機が発注され、1955625日に初飛行した。その後、エンジンをアフターバーナー付きのMD.30RA/B時推力0.98トン)に換装し、後部胴体下方にベントラルフィンを追加、垂直尾翼を小型化し、垂直尾翼前縁にピトー管を付け、胴体後部下面にSEPR66ロケット(推力1.53トン)を装着できるようにする改造を受け、敵に発見されても絶対に捉えられない、ということでマルセル・ダッソーがミラージュTに名称変更し、19561217日に初飛行した。翼スパン7.3m、総重量5トン。小型すぎたので要求性能が満たされず、新たにミラージュUを作ることになった。参考:月刊エアコマンド6,94、月刊JWings11,044,18

ミラージュU>:ダッソー社の試作軽量戦闘機。ミラージュTが小さすぎたので、双発にして大型化したものである。翼スパン10.48m、総重量5.686トン。ガビゾ・エンジン双発で、最大速度マッハ1.61。フランス空軍が最大速度マッハ2などの追加要求を出したため、製作途中で計画中止となり、ミラージュVが開発されることになった。参考:月刊エアコマンド6,94、月刊JWings11,044,18

ミラージュVシリーズ>:フランス空軍単発デルタ翼戦闘機MirageV。ミラージュT・Uを開発していた際にダッソー社がエリアルール・可変式エアインテイク付きの単発機として研究していたのがこれで、フランス空軍もこれを知り、軽量戦闘機ではなく多用途レーダー装備の本格的な戦闘機を開発することにし、1956年に要求を変更、本機が本格的に開発されることとなった。1958-92年に生産され、アルゼンチンやパキスタンなどに輸出もされた。参考:月刊JWings11,043,09

 <ミラージュV(試作型)>:001号機。フランスで有名な広告電話番号バルザック0001に引っ掛けて、ダッソー社ではバルザックと呼ばれた。胴体にエリアルールを採用し、機首両側に境界層分離板付きの固定式エアインテイクを持つ。主翼はミラージュUを流用して製作された。全長12.65m、翼スパン7.58m、全高4.68m。エンジンはアター101G-1(推力4.5トン)、最大速度マッハ1.52195611月(12月?)17日に初飛行した。その後、エアインテイクに手動調節式可動ショックコーン(通称スーリ、鼠の意)を追加して推力を20%増加させ、ベントラルフィンを追加、1958417日にマッハ1.65を出した。ベントラルフィン内部にSEPRロケットを搭載することもでき、この場合には最大速度マッハ1.8を記録している。後にVTOL試験機バルザックXに改造された。参考:月刊エアコマンド6,94、月刊軍事研究7,11、月刊JWings4,18

 <ミラージュVA>:先行量産型で、10機が生産された。試作型よりも機体が一回り大きくされている。主翼は降着装置を収容する前部と、525リットルインテグラルタンクとなっている後部で構成され、後退角は6034分、下反角1度、アスペクト比は1.94、翼厚比は付け根で4.5%、翼端で3.5%。前縁部にコニカルキャンバーが付けられており、翼弦方向に溝があって整流板と同じ機能を果たす。機首にスーパー・アイーダ・レーダー収容スペースを持ち、前部胴体に与圧コクピットと前輪収容部とアビオニクスとエアインテイク、中央胴体にエンジンマウントと燃料タンク4個(総燃料搭載量1020リットル)、後部胴体にドラッグシュートとSEPR84ロケット/550リットル燃料タンク内蔵ベントラルフィンがある。SEPR84ロケット(推力1.53トン、作動時間80秒)を搭載する際には、550リットル燃料タンクを外してロケット本体を積み、機関砲弾倉を外して315リットルの硝酸を積載する。つまりロケットを積むと機関砲が使えなくなるが、ロケットが必要な高々度では機関砲でドッグファイトを行えるだけの安定性が確保できないとみられており、ミサイルのみで任務を行うため、特に支障は無い。垂直尾翼は後退角63度。全長14.20m、総重量7.795トン。エンジンはアター09B(推力4.3トン)単発。1958512日(18日?)に初飛行し、1024日にロケット無しでマッハ2を達成している。後に垂直尾翼上縁がカットされて付け根にフィレットが付けられ、垂直尾翼前縁のピトー管が外され、エンジンにアフターバーナー(使用時推力6トン)が追加されてアイリド(瞼)型可変ノズルが装備され、攻撃用アビオニクスが追加された。生産5号機からDRAC35シラノ迎撃レーダー用レドームを装備し、生産8号機からレーダーを装備している。参考:月刊エアコマンド6,94、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュVC>:最初の量産型で、全天候迎撃戦闘機型。VAよりも胴体が延長されているが、翼面積はそのままである。胴体後部のSEPR841ロケット(推力1.5トン、燃焼時間80秒)を併用すると高度18000mまで7分20秒(6分10秒?)で到達できるが、配備された頃には爆撃機が低空侵入するようになっており、殆ど使われなかった。主翼前縁後退角は6034分、下反角は2度30分、翼厚比は3.5%。全長14.73m、全高4.25m、総重量7.96-9.73トン、最大重量11.8トン。エンジンはSNECMAアター09B3A/B時推力6.2トン)で、実用上昇限度17700mFCSはシラノTbisモノパルスレーダーで、R511R530といったセミアクティブレーダーホーミングミサイルを運用可能であり、AA-20無線誘導式空対空ミサイルやAIM-9サイドワインダーも搭載できた。固定武装は30mmDEFA機関砲2門(150発)。ハードポイントは胴体下と両主翼下に1カ所ずつで、1000ポンド爆弾やJL100ロケットポッド兼増槽、RP62ドロップタンク(容量1200リットル)を搭載できる。1960109日に初飛行し、1962年後半までに95機が生産されてフランス空軍に引き渡された。後にベントラルフィンに拘束フックを追加し、外翼部分に左右1カ所ずつのサイドワインダー用ハードポイントを設けている。1979年から19848月にかけ、ジブチに展開する11機に対し、VHF/UHF無線機と空調の換装、R550ミサイル搭載改修が施された。1988812日にジブチで最後の任務を終えた。輸出されたのは89機で、イスラエル向けのVCJ72機、南アフリカ向けのVCZ16機、スイス向けのVCSが1機。参考:月刊エアコマンド6,94、世界の軍用機19791982、空軍、月刊JWings11,04、月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVC2>:高々度迎撃機の試作型で、1機のみ製作された。ベースの機体はミラージュVEで、胴体を延長してアビオニクス室を拡大し、エンジンをアター9K6ターボジェットに換装、レーダーを撤去している。機首下面のドップラーレーダー用バルジは無い。ミラージュ50の元になった。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVE>:全天候戦闘爆撃機型。ベースはミラージュVCで、エンジンをアター9C3に換え、FCSをトムソンCSF社製シラノUレーダーに換装、マルコーニ社製自律航法用ドップラーレーダーを機首下面フェアリング内に追加している。これらのアビオニクスを搭載するため、VCのコクピット後部(操縦席背後)を0.3m延長してあり、その分エアインテイクの位置が後ろに移動した。航法装置は当時としては最新のもので、航路を記録した12枚のパンチカードのデータに基づいて航法データがパイロットに示される。無線封止下でも迎撃が行えるよう、地上の防空管制システムがレーダーや射撃照準器にデータを送り込むことが可能で、パイロットがサイトに表示されたデータ通りに操縦すれば自動的に接敵できる。機首にはピトー管を持ち、座席はマーチン・ベイカー社製のものをヒスパノ社でライセンス生産したRM.4射出座席である。コクピット後方はアビオニクス室で、両側に可動式ショックコーン付きの半円形エアインテイク、下方に前脚収容部を持つ。エアインテイク下面に機関砲発射口がある。前脚は後方に引き込む。アビオニクス室後方が燃料タンクになっており、その後方にエンジンが収容されている。胴体後部下面には500リットル入りコンフォーマルタンクを装着可能。主翼は低翼配置のデルタ翼で、前縁後退角6034分、下反角2度30分、翼厚比3.5%、翼面積34.85平方メートル。内翼パイロン取り付け部にあたる主翼前縁には小さな切り欠きがある。主翼後縁には内外2つのエレボンを持つ。垂直尾翼前方にはIFF用の小さなブレードアンテナがある。垂直尾翼のフィレットは内部のHFアンテナごと撤去された。垂直尾翼にはトムソンCSF社製レーダー警報受信機のアンテナが付いているが、前後にアンテナを持つ機体と、後方アンテナのみを持つ機体がある。垂直尾翼前縁中央にはUHFアンテナ、上縁にはVHFアンテナが内蔵される。垂直尾翼付け根後部はドラッグシュート収容部である。全長15.03m(ピトー管含む)、全幅8.22m、全高4.25m、自重7.05トン、総重量9.8-13.7トン。エンジンはSNECMAアター9C3(推力4.298トン、A/B6.296トン)単発+SEPR844ロケット・ブースター(推力14.71kN1.5トン、作動時間80秒)1基、最大速度マッハ2.2(高度12000m)、実用上昇限度18300m(推力14.71kNSEPR844ロケットブースター併用時は23000m)、上昇性能18000mまで7分20秒(迎撃状態、SEPR844ロケットブースターあり)、航続距離1200km、フェリー航続距離2152海里、戦闘行動半径647海里(Hi-Lo-Hi)。固定武装は30mm機関砲DEFA552125発)2門。ハードポイントは胴体下1カ所と主翼下の4カ所で、兵装ペイロードは4トン。胴体下にはAN52戦術核爆弾、AS30AS37R530E400kg通常爆弾を、主翼内舷には通常爆弾、JL-100ロケットポッド兼増槽、500リットル超音速用増槽、1300リットル増槽RP62(側面に兵装を取り付けることもできる)、1700リットル増槽RP30を、外舷にはR550空対空ミサイル、ファイアマット・チャフ/フレアディスペンサーを搭載可能。乗員1名。レーダーを空対地専門のシラノUBに換装したタイプも存在する。試作初号機は196145日に初飛行し、量産初号機(量産401号機)は1964114日に初飛行、183機がフランス空軍に配備された。参考:月刊エアコマンド6,94、世界の軍用機1979、月刊JWings12,033,094,13、月刊軍事研究12,73、空軍、世界軍用機年鑑1990-91

 <ミラージュVNG>:NGはヌーベル・ゲネラション(新世代)の略。エンジンをSNECMA製アター9K50に換装し、エアインテイク直後にカナードを追加したもので、ミラージュ2000と同じフライバイワイヤを採用している。19821221日に初飛行した。全長15.65m、全幅8.22m、全高4.5m、自重7.2トン、総重量10トン。エンジンはスネクマ社製アター9K50A/B時推力7.2トン)で、最大速度マッハ2.2、上昇限度16500m。参考:ザ・マーチ23号、世界軍用機年鑑1990-91

<ミラージュVファミリー>

 <バルザックV>:ミラージュV原型機を改造して製作されたVTOL実験機。胴体を一回り大きくし、中央にリフトエンジンとしてBR108エンジン(推力9.47kN)4基(RB108エンジン8基?)を搭載、上面に開閉式エアインテイク4個を設けている。推進はブリストル・オーフュース・ターボジェットエンジン(21.6kN)1基で行う。19621013日に初垂直離陸に成功、1963318日に初の前進飛行への遷移を実施した。1964年と1965年に事故を起こして試験中止となったが、実用化を目指してミラージュVVが製作された。参考:月刊軍事研究7,11、世界の傑作機No.162

 <ミラージュVB>:ミラージュVCの複座練習機型。パイロットをデルタ翼の独特の飛行特性に慣れさせる必要があったため単座型よりも開発を優先しており、機名のアルファベットが単座型よりも若い。ただし量産型の発注は19608月までずれこんでおり、納入されたのはVC型の方が先で、ややこしい。複座化のため胴体を延ばし、機関砲を撤去して燃料搭載量を減らしている。ドロップタンクと兵装を搭載できるが、レーダーとSEPRロケットは積めない。全長15.31m、自重6.25トン、通常運航重量9.05トン、最大重量11.8トン。エンジンはSNECMAアター9B-3単発、最大速度マッハ2.15、実用上昇限度17700m。試作機はVAがベースで、19591020日に初飛行した。量産型はミラージュVCがベースで、1962719日に初飛行した。参考:月刊エアコマンド6,94、世界の軍用機1982

 <ミラージュVB−1>:飛行試験センターでテストベッド兼テストパイロット訓練機として使用されたミラージュVBで、5機(量産231-235号機)が発注された。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVB−2(RV)>:機首先端に空中給油訓練用ダミープローブを取り付けたミラージュVBで、10機(量産241-250号機)が改造された。19677月から196810月に第328戦略空軍作戦転換部隊に引き渡され、ミラージュWの操縦士が空中給油訓練を行う際に使用された。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVBE>:ミラージュVEの複座練習機型。機首のレーダーを撤去して機首形状を平べったい形に変更し、内部にアビオニクスなどを収容、先端のピトー管の下にカメラ/ガンポートを設けた。コクピットの下方にあたる胴体下部両側にはストレーキが付いていて、内部にケーブルダクトが収容されている。垂直尾翼のフィレットは内部のHFアンテナごと外された。エンジンはアター9C3ターボジェットで、ノズルがペタル(花弁)型可変ノズルに変更されている。フランス空軍に20機が引き渡された。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVB−SV>:可変安定性テストベッド機に改修されたミラージュVB量産225号機。1975217日に初飛行し、98日にフランス機として初めて完全フライバイワイヤで飛行した。得た技術はミラージュ2000に応用された。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVD>:ミラージュVBEの輸出型名称。参考:月刊エアコマンド6,94、世界の軍用機1982

 <ミラージュVR>:戦術偵察機型で、RF-84Fの後継として開発された。レーダーを撤去して機首を整形し、内部にタイプ31光学カメラ(低高度、中高度、高々度、夜間の4タイプに調整可能)を5台まで収容する。カメラは電波高度計と連動し、対地速度と高度のデータから自動的にフレーム送り速度が決定される。夜間偵察時には自動照明弾発射機と光電感知式自動シャッターを使用する。原型はミラージュVAを改造して19611031日に初飛行し、量産型はミラージュVEを改造して196321日に初飛行した。翼面積34.85平方メートル。全長15.5m、全幅8.22m、全高4.5m、自重6.6トン、最大離陸重量13.7トン。エンジンはスネクマ・アター9Cターボジェット(A/B時推力6.2トン)単発、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度18300m、戦闘行動半径1200kmHi-Lo-Hi、増槽2個)。胴体下面に30mmDEFA552機関砲パック(125発)を2個搭載でき、ミラージュVと同じ外部兵装も装備できるが、実際に装備したことは無い。乗員1名。1988年に退役した。参考:スパイ機、月刊エアコマンド6,94、空軍

 <ミラージュVRD>:VRの改良型で、機首に収容するカメラをオメラ・タイプ40及びタイプ33に変更、機首下面にドップラーレーダーを装着し、収容バルジを追加、ジャイロ安定式照準器を搭載したもの。参考:スパイ機

 <ミラージュVV>:リフトエンジン式VTOL実用試験機型で、1961年にNATOが発出したNBNR-3aNATO基本軍事要求3号a)に応じて開発した。バルザックVを大型にし、リフトエンジンとしてロールスロイス社製RB162(推力23.4kN)8基、推進用エンジンとしてSNECMATF106ターボファン(A/B時推力74.5kNTF306?)1基を搭載している。機首、両主翼下、後部胴体に姿勢制御用ノズルが追加され、エンジンの抽出空気を噴射することでホバリング時の機体姿勢を安定化させることが可能となった。1965212日に初ホバリングを実施、1966325日に転換飛行に成功した。2号機は推進用エンジンをSNECMATF306ターボファン(A/B時推力82.4kN)1基に換装し、19666月に初飛行、9月にはマッハ2.04を記録している。1964年と1965年に初号機が墜落事故を起こしてパイロットが死亡、19661128日には2号機も事故で失われ、NBNR-3aも中止となり、実用機の開発には至らなかった。参考:月刊軍事研究7,11、世界の傑作機No.162、月刊JWings3,16

 <ミラン>:カナード翼実験機。機首部に引き込み式のカナード翼を取り付けて離着陸性能を改善するテストに使用されたもので、超音速飛行時には引き込んで抗力増大を防ぐ。STOL性能が向上して実験は成功したが、後のミラージュF1シリーズにはカナード翼は採用されず、尾翼ありの通常型式で所定の性能を達成している。参考:航空用語事典増補改訂版

<ミラージュV海外シリーズ>

 <ミラージュVCJ>:イスラエル空軍戦闘機。ミラージュVCを導入したもので、19617月から19647月に72機を輸入した。うち2機以上が機首にカメラを搭載する改修を受けている。1967-73年に実戦参加しており、1982年に19機がアルゼンチンに売却された。参考:月刊エアコマンド6,94、月刊JWings11,04

 <ミラージュVCS>:スイス空軍が兵器テスト用に導入したミラージュVCで、196212月に1機が引き渡された。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVCZ>:南アフリカ空軍戦闘機。ミラージュVCを導入したもので、16機を配備した。V3ククリ空対空ミサイルを搭載可能。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEA>:アルゼンチン空軍戦闘機。ミラージュVEを導入したもので、17機を配備した。垂直尾翼付け根にHFアンテナ入りフィレット、垂直尾翼上部左右にVORアンテナを持つ。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEBR>:ブラジル空軍戦闘機、ブラジル名称F-103E。。ミラージュVEを導入したもので、16機を配備した。垂直尾翼上部左右にVORアンテナを持つ。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEE>:スペイン空軍戦闘機、スペイン名称C.11。ミラージュVEを導入したもので、24機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEL>:レバノン空軍戦闘機。ミラージュVEを導入したもので、ドップラーレーダーが付いていない。10機が配備された。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEP>:パキスタン空軍戦闘機。ミラージュVEを導入したもので、18機を配備した。全長15.03m、全幅8.33m、全高4.5m、自重15500ポンド、最大離陸重量21100ポンド。エンジンはスネクマ製アター09C(推力13700ポンド)単発、巡航速度マッハ0.9、最大速度マッハ2、実用上昇限度17000m、航続距離3300km。固定武装は30mm機関砲2門。乗員1名。参考:月刊JWings2,20、月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEV>:ベネズエラ空軍戦闘機。ミラージュVEを導入したもので、7機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVEZ>:南アフリカ空軍戦闘機。ミラージュVEを導入したもので、17機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュVO>:オーストラリア空軍戦闘機。CA-27セイバーの後継としてミラージュVEを導入したものである。最初の2機はダッソー社からの輸入だが、単座のミラージュVO(F)/O(A)98機と複座のミラージュVO(D)16機ライセンス生産し、1965年から配備した。F/A-18Aに後を譲って1988年に退役した。参考:月刊航空ファン8,18

 <ミラージュVS>:スイス空軍戦闘機。ミラージュVEのライセンス生産版で、1967年から36機を配備した。FCSをタラン18ミサイル誘導システムに換装、テイルフックを装備し、機体構造を強化している。1983年からはISMAImproved Swiss Mirage Aircraft)を受け、カナード装着、機首下ストレーキ増設、レーダー警戒装置装備、マーチン・ベイカーMk.6ゼロゼロ射出座席搭載などを行った。F/A-18C/Dに機種転換され、全機退役した。参考:月刊JWings4,03

<ミラージュV海外ファミリー>

 <CE.11>:ミラージュVDEを参照。

 <F−103D>:ミラージュVDBRを参照。

 <ミラージュVBL>:レバノン空軍複座練習機。ミラージュVBEを輸入したもので、1968-69年に2機を導入した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVBS>:スイス空軍複座練習機。ミラージュVBを導入したもので、4機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVBZ>:南アフリカ空軍複座練習機。ミラージュVBを導入したもので、3機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVD(オーストラリア)>:オーストラリア空軍複座練習機。CAC社で製作し、16機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVD2Z>:南アフリカ空軍複座練習機。ミラージュVDを導入したもので、11機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDA>:アルゼンチン空軍複座練習機。ミラージュVDを導入したもので、4機を輸入した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDBR>:ブラジル空軍複座練習機、ブラジル名称F-103D。ミラージュVDベースで、エアインテイクのやや後方上部にカナードを追加し、アビオニクスを改修している。フランス空軍で使われなくなったミラージュVBEのうち2機が輸出された。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDE>:スペイン空軍複座練習機、スペイン名称CE.11。ミラージュVDを導入したもので、6機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDP>:パキスタン空軍複座練習機。ミラージュVDを導入したもので、5機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDV>:ベネズエラ空軍複座練習機。ミラージュVDを導入したもので、3機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVDZ>:南アフリカ空軍複座練習機。ミラージュVDを導入したもので、3機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュVRP>:パキスタン空軍偵察機。VRDと同様の装備を持つ。参考:スパイ機

 <ミラージュVRS>:スイス空軍戦術偵察機。ミラージュVSがベースで、スイス国内を飛行する軍用機の撮影を行ったり(自衛用に機関砲やサイドワインダーを携行する)、戦術偵察任務を行ったりしている。1967年から18機を配備した。1983年にカナード装着、レーダー警戒装置・ゼロゼロ射出座席装備、赤外線偵察ポッド搭載改修を受けている。参考:月刊JWings4,03、月刊エアワールド10,03

 <ミラージュVRS ISMA>:スイス空軍戦術偵察機で、ISMAImproved Swiss Mirage Aircraftの略。ミラージュVRSの改良型で、固定カナードを装着し、尾翼後端にレーダー警戒装置を追加、マーチン・ベイカーMk.10ゼロゼロ射出座席を採用している。参考:月刊航空ファン11,02

 <ミラージュVR2Z>:南アフリカ空軍偵察機型。エンジンをアター9K50(推力7200kg)に換装している。参考:スパイ機

 <ミラージュVRZ>:南アフリカ空軍偵察機。参考:スパイ機

ミラージュWシリーズ>:ダッソー社の計画戦闘機。F-4ファントムU戦闘機の向こうを張れる戦闘機を目指し、フランス空軍にも提案したが、戦闘機としてはミラージュV一本に絞る方針となり、こちらは没になった。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュW>:主翼はミラージュUとほぼ同じデルタ翼で、翼面積29平方メートル。翼スパン7.6m、最大離陸重量6.79トン。エンジンはアター9単発。乗員1名。19566月に提示された。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュWA>:ミラージュWの胴体長を延ばしたタイプ。195610月に提示された。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュWB>:ミラージュWのエンジンをデハビラント製ジャイロン・ターボジェットに変更して推力を倍に増やし、機体を大型化したタイプ。翼面積42平方メートル。翼スパン9.08m、離陸総重量10.515トン。195610月に提示された。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュWC>:エンジンはアター9のままで機体をミラージュWB並に拡大したタイプ。195610月に提示された。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュWD>:推力10トン級のターボジェットエンジンを開発して搭載し、機体を大型化したタイプ。翼面積36平方メートル。翼スパン8.4m、総重量9.02トン。195610月に提示された。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュW(最終設計案)>:195610月のフランス空軍戦略爆撃機計画と併用できるように設計変更したタイプで、エンジンを双発にして機体を大型化、コクピットをタンデム複座にした。翼面積50平方メートル。翼スパン9.94m、総重量11.4トン。乗員2名(操縦士、航法爆撃手)。195611月末に提示されたが、12月に戦闘機型は没となることが決定した。参考:月刊JWings4,18

 <ミラージュWマリーヌ>:フランス海軍向け艦上戦闘機版。こちらも没になった。参考:月刊JWings4,18

ミラージュWシリーズ>:フランス空軍初の核搭載戦略爆撃機。195610月にフランス空軍が発出したマッハ2級戦略爆撃機計画(SNECMAアター8/9エンジン双発、巡航速度マッハ1.8、航続距離1500km/うち半分は超音速飛行、全長5.5m・幅0.65m・ペイロード1トンのウェポンベイ装備、2000m以下の滑走路で運用可能、1962年量産機引き渡し)にダッソー社が応じたもので、19561128日に試作機1機が発注され、ノール社とSNCASOSO4060に勝って採用された。ダッソー社では同時期に設計していた戦闘機型と併用する事も考えていたが、フランス空軍から没にされている。フランスの基地から出発してソ連工業地帯を核攻撃し、最も近いNATO飛行場に帰還するのが主任務で、ギリギリの航続距離を設定した。後で3倍サイズの本格的な戦略爆撃機を開発する予定だったが、予算・技術的に無理と判断され、C-135F空中給油機を導入して間に合わせている。参考:週刊エアクラフトNo.84、月刊JWings4,185,03

 <ミラージュW>:原型機で、1959617日(1960220日?)に初飛行した。エンジンはアター9C9B?推力6トン)で、先の尖った垂直尾翼を持つ。全幅11.35m1960915日、1000km周回路で時速1820kmの世界記録を立てた。1機が製作された。参考:週刊エアクラフトNo.84

 <ミラージュWA>:原型機からコクピットと前部胴体を改設計してあり、垂直尾翼の翼スパンが長すぎてフラッターを起こす可能性があったため、マルセル・ダッソーの判断で先端を0.7mほど切り落とした。AN11/AN21/AN22核爆弾1発を搭載してマッハ1.8で超音速巡航、敵地攻撃を行うためだけに開発されており、ミラージュVをサイズ比1.5倍に大型化、翼面積と重量とエンジン数を2倍にしてある。ソ連軍前線に配置されているであろう濃密な防空網を高速で正面突破する必要があるため、後退角60度・低翼配置の無尾翼クリップドデルタを採用した。翼面積は78平方メートルで、主翼後縁にエレボン、前方上下にエアブレーキを持つ。機首はレドームではなく、先端から空中給油受油プローブが延びている。コクピットはタンデム複座で、後席には小さな窓しかなく、ここに位置する航法士は地形表示レーダー、トムソンCSF社製BFレーダー警戒受信機、ECMなどの操作に集中する。半円形のエアインテイクが胴体両側面に付いていて、ショックコーンが装備されている。中央胴体下面に平たい皿状レドームがあり、内部には地形表示レーダーが収容され、核兵器(60キロトン核爆弾)はそのすぐ後ろの胴体下部に半埋め込み式に搭載される。航法装置はCSF社製の高空侵入用のものが搭載されていたが、後に低空侵入用の航法爆撃システムが追加された。主翼には2箇所ずつのハードポイントが用意されており、外翼側にフィリップス・マトラ・フィマート・フレア撒布装置、内翼側に2500リットル入りドロップタンクを装備可能。垂直尾翼付け根にはドラッグシュートを持つ。全長23.49m、全幅11.85m、全高5.4m、自重14.5トン、総重量31.6トン、最大離陸重量33.475トン。エンジンはSNECMAアター9K(ミリタリー推力4.7トン、A/B時推力6.7トン)双発で、巡航速度585ノット、最大速度1260ノット(マッハ2.2)、実用上昇限度20000m、航続距離2160海里、戦闘行動半径670海里(巡航速度958km、巡航高度13125m)/4000km(増槽あり)。兵装ペイロード4トン。AN11/AN21/AN22核爆弾1発を搭載可能。主翼下にJATO6個2群を装着できる。乗員2名(3名?)。19611012日にアター9C(推力6.4トン)搭載の試作初号機(通算2機目)が初飛行した。2号機(通算3機目)は機首に空中給油プローブを設置し、エンジンをアター9Kに換装、ドップラーレーダー、コンピュータ、ECMSFENA自動操縦装置などのアビオニクスも搭載し、19626月に初飛行した。3号機(通算4号機)はアター9Kエンジン搭載の前量産型で、19631月に初飛行した。4号機(通算5号機)以降が量産型で、196611月までに計66機(原型・試作4機+量産62機)が生産され、196410月に就役して戦略空軍の9個飛行隊に配備され、各飛行隊が15分以内に1機を発進できる態勢を確立した。これを受けてフランスはNATOから離脱、独自の防衛戦略をとることになった。エンジンを主翼下に1基ずつ追加して4発にしたり、J75に強化したりする改良が計画されたが、没になっている。当初は中−高々度で核爆弾を投下していたが、1967年後半にパラシュート制動装置が導入されたため、低空投下を行うことにした。配備された機体のうち、4機はAN22とほぼ同サイズのCT52センサーポッドを搭載して戦略空軍司令センターで運用され、戦略偵察任務に使用された。後に18機がミラージュWPに改造され、1996年に爆撃機型は退役した。参考:週刊エアクラフトNo.84、月刊JWings4,18、世界の軍用機1979、空軍、月刊丸2,08、月刊軍事研究2,18

<ミラージュWファミリー>

 <ミラージュWN>:ミラージュWPを参照。

 <ミラージュWP>:侵攻偵察機バージョンで、元はミラージュWN(Nは核のこと)と呼ばれた。ASMPスタンドオフ兵器を搭載可能とし、地形表示レーダーをトムソンCSF社製ARCANAに換装して正確な航法ができるよう改良、胴体中央下面にカメラなどを搭載している。機首先端には固定式空中給油プローブが突き出ており、機首にはオメラ・ロボット弾着観測カメラ(垂直カメラなので、スタンドオフ攻撃の場合には爆撃後評価はできない)、電子機器を収容していて、機首両側にピトー管、後方右に温度センサー、下にVHFアンテナがある。コクピットはタンデム複座で、前方に操縦士、後方に航法士兼爆撃手が座る。座席はマーチンベイカー社製のものをイスパノスイザがライセンス生産したMkBM.4射出座席。後部座席には小さな窓しかないため、機首下面にペリスコープを収容したフェアリングがあり、前下方を監視できるようになっている。後席の真下あたりが前脚収容部で、前輪はダブルタイヤであり、後方に引き込まれる。コクピット後端両脇にスーリ(ハツカネズミ)と呼ばれる半円形エアインテイクが用意されていて、中に可動式ショックコーン、側面に補助エアインテイク(対気速度が低く出力が大きい場合に自動的に開く)が付く。右エアインテイクやや後方上面には小さなIFFアンテナがある。コクピット後方の中央胴体内は燃料タンクになっており、下面にはARCANA航法兼攻撃レーダーとVARAN装置を収容した円盤状フェアリングが装備され、胴体後方がエンジン収容スペースで、機体尾部上方両側に後方レーダー警戒装置アンテナが取り付けられている。中央胴体下面にはパイロンを介してASMPスタンドオフ兵器を搭載する。主翼は前縁後退角60度のクリップドデルタで、前方内側上下面にスピードブレーキ、後縁に2分割のエレボンを持ち、内部は燃料タンクになっている。主脚はダブルタイヤがタンデムに並ぶ4輪式で、脚柱は主翼前方に取り付けられており、内側に引き込まれる。翼端近くにはレーダー警戒装置アンテナがある。翼下パイロンは内外2ヵ所で、内側にドロップタンク、右舷外側にチャフ・フレアディスペンサー、左舷外側にトムソンCSF社製ECMポッドを装備する他、主翼後部にJATOポッド片舷4基ずつを装着することができる。外舷パイロンの自衛装置はフィマート赤外線対抗ポッドに交換することも可能。水平尾翼は無い。垂直尾翼内部にも燃料タンクが用意されていて、垂直尾翼付け根前方には垂直安定板と一体化したUHFアンテナ、後方にはアエラジュール社製ドラッグシュート収容部(両開きのドアから放出)があり、頂部近くの前方には人工感覚システム用ピトー管が突き出していて、頂部にVHFアンテナを内蔵する。全長23.50m、全幅11.85m、全高5.65m、自重14.5トン、最大離陸重量31.6トン、兵装ペイロード0.9トン。エンジンはスネクマ製アター9K(ミリタリー推力4.7トン、A/B時推力6.7トン)双発で、正規侵入速度マッハ1.8、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度20000m、内部燃料容量14000リットル、戦闘行動半径4000kmHi-Lo-Hi、空中給油あり)。原型機2機が製作され、初号機は198210月に完成し、198371日に軍航空試験センターに引き渡された。2号機は19835月に初飛行した。量産型は空軍工廠でミラージュWAから改造され、初号機は19852月、最終18号機は1987年半ばに軍航空試験センターに引き渡され、更にオーバーホールと改修を受けて1996年までに就役した。2005年までに全機退役予定。参考:週刊エアクラフトNo.84、月刊JWings5,03、世界軍用機年鑑1990-91、世界の軍用機1979

 <ミラージュWR>:写真偵察専用型で、WAから爆弾搭載能力を外し、胴体下に光学カメラ、赤外線ラインスキャン、側視レーダーなどを収容した偵察装備を搭載したもの。全長23.5m、全幅11.85m、全高5.4m、自重15トン、全備重量33.475トン。エンジンはスネクマ・アター9Kターボジェット(A/B時推力7トン)双発で、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度20000m、戦術行動半径1240km、フェリー航続距離4000km。WAから12機が改造された。参考:スパイ機

<ミラージュW海外シリーズ>

 <ミラージュW(イギリス空軍)>:イギリス空軍向けで、TSR-2の開発中止を受けて1965年にBAe社に対してライセンス生産を提案した。胴体を0.61m延長し、エンジンをロールスロイス社製スペイ25Rターボファン(9.53トン)双発に換装し、アビオニクスをTSR-2用のものと交換する。採用されなかった。参考:週刊エアクラフトNo.84

ミラージュ5シリーズ>:フランス空軍戦闘機Mirage5。ミラージュXだとミラージュVVと間違えるとのことで、算用数字を使っている。ミラージュVを昼間戦闘機にした廉価版で、インドやシナイ半島での戦訓に基づき有視界状態での戦闘や対地攻撃能力向上を図っており、有視界戦闘で不必要なレーダーや自律航法装置を外した。62機が発注され、1967519日に初飛行した。飛行時間1時間あたりの整備時間がF-104の半分以下、F-4の3分の1以下で済み、運用が容易という長所もあって、アルゼンチン、エジプト、ガボン、コロンビア(18機)、パキスタン(30機)、ペルー(16機)、ベルギー(106機)、リビア(110機)などに輸出された。参考:世界の軍用機1979、世界航空機年鑑2018-2019、世界軍用機年鑑1990-91、月刊JWings3,0912,0311,143,'23、月刊エアコマンド6,94、空軍

 <ミラージュ5>:ミラージュVEのFCS撤去版で、レーダーと自律航法装置を外してコクピット後方のアビオニクスを機首に移し、空いたスペースを燃料タンクにしてある。またハードポイントを9カ所に増やし、爆弾搭載量を4.2トンに増やした。全長15.56m、全幅8.22m、全高4.25m、自重7.15トン、最大離陸重量13.7トン。エンジンはSNECMAアター9K50(ミリタリー推力5トン、A/B7.2トン)、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度18300m、航続距離1260km、戦闘行動半径675海里(Hi-Lo-Hi)、350海里(Lo-Lo-Lo)。固定武装は30mm機関砲DEFA552125発)2門。乗員1名。参考:世界の軍用機1979、月刊JWings3,0912,03

 <ミラージュ5E>:ミラージュ5のエンジンをアター9K50エンジンに換装したもの。参考:世界の軍用機1979

 <ミラージュ5M>:別名エルカン。エアインテイク脇にカナードを付けるなどの改修を施したものである。エンジンはSNECMAアター9C単発で、最大速度マッハ2.2、戦闘行動半径700海里。参考:月刊丸5,07

<ミラージュ5ファミリー>

 <ミラージュ5D>:複座練習機型。

 <ミラージュ5R>:偵察機型。アブダビ、ベルギー、コロンビア、エジプト、リビアが使用している。参考:スパイ機

<ミラージュ5海外シリーズ>

 <ミラージュ5(コロンビア空軍)>:コロンビア空軍戦闘機。19723月から単座戦闘機のミラージュ5COA14機、偵察機のミラージュ5CORを2機、複座練習機のミラージュ5CODを2機配備した。20101029日までに全機退役した。参考:月刊JWings2,11

 <ミラージュ5(ベルギー空軍)>:ベルギー空軍戦闘機。19893月、第1飛行隊がラストフライトを実施。参考:月刊航空ファン5,18

 <ミラージュ5DE>:リビア空軍戦闘機。シラノUレーダーとドップラーレーダーを搭載している。32機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュ5EAD>:UAE空軍戦闘機。シラノUレーダーとドップラーレーダーを搭載している。14機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュ5PA2>:パキスタン空軍戦闘機で、機首にレーダーを持つ。18機を配備した。後にレーダーをトムソンCSF社製シラノWMに換装している。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュ5PA3>:パキスタン空軍戦闘機。機首にトムソンCSF社製アガベ・レーダーを持ち、AM39エグゾセを胴体下パイロンに搭載できる。12機を配備した。参考:月刊エアコマンド6,94

 <ミラージュ5SDE>:エジプト空軍戦闘機で、54機を配備した。垂直尾翼付け根にフィレットがあり、内部にHFアンテナを収容している。レーダー警報装置を持つ。政治的理由で、納入時にはサウジアラビア軍のマークが付いていた。参考:月刊エアコマンド6,94

<ミラージュ5海外ファミリー>

 <ミラージュ5BR>:ベルギーの戦術偵察機型。搭載するカメラはイギリス製である。参考:月刊エアコマンド6,94

ミラージュ50シリーズ>:ダッソー社が開発した戦闘機Mirage50。ミラージュ5の改良型で、エンジンをミラージュF1と同じアター9K50に換装している。ベネズエラなどで使用された。参考:月刊JWings12,063,09、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ50>:全長15.56m(ピトー管含む)、全幅8.22m、全高4.50m、自重7.05トン、空虚重量7.13トン、総重量9.8-13.5トン、最大離陸重量13.7トン。翼面積24.85平方メートル。エンジンはスネクマ製アター9K50(ドライ推力49.2kN・5トン、A/B時推力70kN7.2トン)単発、最大速度マッハ2.21270ノット。高度12200m)、実用上昇限度18300m23000m(ロケット使用時)、戦闘行動半径675海里(Hi-Lo-Hi)、フェリー航続距離3150km。固定武装は30mm機関砲DEFA552125発)2門。機外兵装搭載量4トン。ハードポイント5箇所。乗員1名。参考:世界航空機年鑑2018-2019、月刊JWings3,09、世界の軍用機1979

 <ミラージュ50M>:ミラージュ5/50の近代化改修型。

<ミラージュ50ファミリー>

 <ミラージュ50D>:複座練習機型。

 <ミラージュ50R>:偵察機型。

ミラージュ2000シリーズ>:フランス空軍無尾翼デルタ翼戦闘機Mirage 2000。ミラージュF1Eとミラージュ5が1970年代後半のNATO市場でF-16とクフィルに負けたため、静安定性緩和とフライバイワイヤにより高い機動性を持つ戦闘機として開発され、197512月の将来戦闘機計画中止を受けて制式化が急がれ、19763月に仕様書が出され、1978310日(19821120日?)に初飛行した。制式名称が単座でも複座でも同じだったりするので、基本型(単座は2000C、複座は2000B)に搭載レーダー名を組み合わせて呼称されることが多い。19834月からフランス空軍に引き渡され、C/RDI124機、B型30機、N型75機、D型86機が配備された。200711月の生産終了までに試作機と輸出型274機を含め計611機が生産されている。参考:世界の軍用機1979、週刊ワールドウェポン17、世界航空機年鑑2018-2019、月刊JWings1,0212,0312,064,17、月刊軍事研究3,08、月刊丸12,9011,09

 <ミラージュ2000C>:基本型で、CはChasse(戦闘機)の略。ブレンデッド・ウイング・ボディを採用、胴体を細くして抵抗を減らし、CFRPを多用して軽量化を図っている。これにより自重はミラージュVEやミラージュ5よりも軽くなり、舵面の少ないカナード無し無尾翼デルタ翼機でも十分な機動性能を確保した。主翼は前縁後退角58度のデルタ翼で、翼面積はミラージュV/5よりも10%以上大きく、旋回性が向上している。アスペクト比は2.03。主翼にはほぼ全長にわたる前縁スラットが設けられ、後縁にはエルロン(外側)とフラップ・エレベータ(内側)を持つ(両方ともエレボン?)。この前縁スラットはコニカルキャンバーを深くする作用も持っており、大迎え角でも気流を安定させることが可能となっている。垂直尾翼の後退角はミラージュVよりも浅くしてあり、エリアルールの効果を増し、大迎え角での効きを良くした。エアインテイク側面上部には短いストレーキ状のボルテックスフィンが付けられ、主翼上面と垂直尾翼周囲の気流を安定化させている。これらにより着陸進入速度はミラージュ5の190ノットから150ノットに減少した。操縦装置はフライバイワイヤで、システムの電気系統は四重、油圧系統は二重(4000psi)。搭載レーダーはトムソンCSF社製RDM(ドップラー変調レーダー)である。全長14.35m、全幅9.13m、全高5.2m、自重7.5トン、総重量10.85トン、最大離陸重量16.5トン、最大総重量17トン。翼面積41平方メートル。エンジンはSNECMAM53-5ターボファン(A/B時推力95.1kN)1基、最大速度マッハ2.2、燃料搭載量機内13980リットル+1300リットル増槽1本+1700リットル増槽2本、作戦航続距離1000海里(Hi-Hi-Hi)/800海里(Hi-Lo-Hi阻止攻撃)/650海里(Hi-Lo-Hi対地攻撃)、戦闘行動半径700km。固定武装は30mm機関砲DEFA554125発)2門。R550ミサイル2発+R530ミサイル2発や、爆弾など2トンを搭載できる。乗員1名。37機が量産され、38号機以降は改良型のミラージュ2000RDIとして生産された。1994-97年に全機がミラージュ2000-5Fに改修された。参考:世界の軍用機19791982、週刊ワールドウェポン17、世界航空機年鑑2018-2019、月刊JWings12,033,094,1710,17、月刊丸11,09

 <ミラージュ2000D>:ジャギュアの後継兼ラファールまでの繋ぎとなる複座の対地攻撃機型で、ミラージュ2000Nの核攻撃能力を取り除いたものである。アンテロープ5-3D地形追随/回避レーダーを搭載しており、高度60mでの自動低空飛行が行える。1993年から86機が配備された。201919日、低空飛行訓練中にミニヨビラール付近で墜落した。参考:月刊JWings9,1212,068,'24、月刊軍事研究5,16、月刊航空ファン4,19

 <ミラージュ2000DA>:単座または複座の全天候防空型。参考:月刊JWings9,12

 <ミラージュ2000D−R2>:ミラージュ2000Dにアパッシュ運用能力を追加したタイプ。参考:月刊JWings9,12

 <ミラージュ2000D−R3>:ミラージュ2000D-R2にリンク16などを追加した改良型。参考:月刊JWings9,12

 <ミラージュ2000D(RMV)>:ミラージュ2000Dに対する改良で、Rénovation Mi-Vle(中間改修MLU)の略。2008年に提案されたが、財政難で承認は201512月となり、根拠となる軍事計画法2019-2025の公布は2018年にずれ込んだ。レーダーとアビオニクスを改修、レーザー誘導装置タイロス、MICA空対空ミサイル、CC422ガンポッド、GBU-48/Bエンハンスド・ペイブウェイU、GBU-50/Bエンハンスド・ペイブウェイU、ハンマー誘導爆弾、ATLISU目標指示ポッド(もしかしたらELINTポッドも)を搭載可能とし、2035年まで運用できるようにする。2019-24年に55機を改修する予定で、初号機は202117日に引き渡され、同年末にIOCを獲得した。参考:月刊JWings8,'24、月刊軍事研究5,16

 <ミラージュ2000N>:タンデム複座の核搭載巡航ミサイルASMP発射母機/攻撃型で、NはNuclearの略。ミラージュWの後継で、高度60m600ノットで飛行し、敵地に核ミサイルを発射するのが主任務である。ミラージュ2000Bをベースに主翼構造を強化して低空高速飛行を可能としており、アンテロープX地形追随レーダー、慣性航法装置2基、低空用電波高度計、カラーCRTにより後席航法士NOSANavigateur Officier Système dArmes)に的確な飛行コース情報を提示する。ECMも新型になった。全長14.55m、全幅9.13m、全高5.14m、空虚重量7.6トン、最大離陸重量17トン。エンジンはSNECMAM53-P2ターボファン(A/B時推力95.1kN)単発で、最大速度マッハ2.2、戦闘行動半径500海里(Lo-Lo-Lo)。乗員2名。19832月に初飛行し、85機を調達する予定で27機の追加も検討されたが、19847月から75機を生産するに止まり、1987-92年に配備されて1988年から運用された。2018621日、イストル基地で退役式典が行われ、ラファールF3仕様に後を譲ってミラージュ2000Nシリーズは退役した。参考:月刊JWings12,069,129,18、世界軍用機年鑑1990-91、月刊航空ファン11,189,18

 <ミラージュ2000N−k1>:ミラージュ2000Nの最初期型30機(24機?)。核攻撃にしか使えないタイプで、センターパイロンにASMP、主翼下に2000リットル増槽を1個ずつ搭載する。参考:月刊JWings7,14、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000N−k2>:通常兵器(Mk82通常爆弾)運用能力を追加し、自機防御装置をフル装備したタイプ。51機が新規生産され、2000N-k1にも1992年に改修が施された。参考:月刊JWings7,14、月刊航空ファン11,18、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000N−k3>:ASMP-A核巡航ミサイルやGBU-12レーザー誘導爆弾4発を搭載可能としたタイプ。参考:月刊航空ファン11,18、月刊JWings7,14

 <ミラージュ2000RDI>:C型の38-121号機で、ルックダウン能力を持つトムソンCSF/ダッソーエレクトロニーク製RDI(ドップラー・インパルス・レーダー)を搭載し、シュペル530Dによるシュートダウンを可能としている。エンジンはM53-P2に換装した。全長14.35m、全幅9.13m、全高5.2m、自重7.5トン、総重量10.85トン、最大離陸重量16.5トン、最大総重量17トン。翼面積41平方メートル。エンジンはSNECMAM53-P2ターボファン(ミリタリー推力6.56トン、A/B使用時9.7トン)1基、最大速度マッハ2.2(高度11000m)、最大維持速度マッハ2(高度11000m)/1480km(海面高度)、海面上昇率毎分15000m、燃料搭載量機内13980リットル+1300リットル増槽1本+1700リットル増槽2本、作戦航続距離1000海里(Hi-Hi-Hi)/800海里(Hi-Lo-Hi阻止攻撃)/650海里(Hi-Lo-Hi対地攻撃)、戦闘行動半径700km。固定武装は30mm機関砲DEFA554125発)2門。最大兵装搭載量6.3トンで、R550ミサイル2発+R530ミサイル2発や、爆弾などを搭載できる。乗員1名。参考:世界航空機年鑑2018-2019、週刊ワールドウェポン17、月刊軍事研究5,04

 <ミラージュ2000−5>:2000Cにダッソー社によるアップデート5を加えた近代改修型で、1986年から開発された。レーダーを強化するなどして空対空戦闘能力を改善し、MICAを運用可能としている。全長14.36m、全幅9.13m、全高5.20m、自重7.5トン、最大離陸重量15トン。兵装ペイロード6.3トン。エンジンはスネクマM53-P20ターボファン(A/B時推力98.06kN)単発で、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度16460m、航続距離1850kmHi-Hi-Hi)。固定武装は30mm機関砲DEFA554が2門。乗員1名。参考:週刊ワールドウェポン17、月刊JWings12,06、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000−5D>:ミラージュ2000-5の複座型。参考:世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000−5E>:

 <ミラージュ2000−5F>:既存のフランス空軍配備ミラージュ2000Cをミラージュ2000-5規格に改修したもの。全長14.65m、全幅9.13m、全高5.2m、自重16750ポンド、最大離陸重量38500ポンド。エンジンはスネクマ製M53-P2(推力21400ポンド)単発、巡航速度マッハ0.9、最大速度マッハ2.2、実用上昇限度18000m、航続距離3300km。固定武装は30mm機関砲2門。乗員1名。参考:月刊JWings2,20、世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000−5Mk.2>:ミラージュ2000-5の改良型。200012月に初飛行し、20034月からフランス空軍に納入された。参考:世界航空機年鑑2018-2019

<ミラージュ2000ファミリー>

 <ミラージュ2000B>:2000Cの複座練習機型で、BはBiplace(複座)の略。全長が0.2m伸びた。参考:世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000E>:2000Cの輸出型。エンジンをM53-P2に強化している。参考:世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000ED>:ミラージュ2000Eの複座練習機型。参考:世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000R>:ミラージュ2000Eの偵察機型。参考:世界航空機年鑑2018-2019

 <ミラージュ2000S>:2000Dの輸出型。

 <ミラージュ2000−9>:ミラージュ2000-5Mk.2ベースの輸出向け多用途型。トムソンCSF社製RDY-2多機能レーダー(合成開口機能あり)、地形追随飛行装置、統合多任務電子戦装置、航法用FLIRなどを搭載しており、MICA空対空ミサイルも装備可能で、対地攻撃能力も持つ。輸出市場に出された。参考:月刊JWings4,1412,0611,07、世界航空機年鑑2018-2019

<ミラージュ2000海外シリーズ>

 <ミラージュ2000(インド空軍)>:インド空軍戦闘機、別名ヴァジュラ(サンスクリット語で神雷の意)。1980年にパキスタンがF-16戦闘機の導入方針を示したため、対抗機の装備が必要になり、ミラージュF1戦闘機が候補に挙がったが、調査中にミラージュ2000の情報を入手したため、198210月にミラージュ2000H戦闘機36機とミラージュ2000TH戦闘機4機を発注した。うち30機がスネクマ製M53-5ターボファンエンジン装備、10機がM53-P2ターボファンエンジン装備で、後にM53-5M53-P2に換装している。1985年に配備が始まり、1986年と2004年に追加導入を行い、ミラージュ2000H戦闘機計46機とミラージュ2000TH戦闘機計14機を運用している。ライセンス生産も希望したが、インドと関係が深いソ連に情報が漏れる可能性から適わず、代わりにMiG-29戦闘機を導入した。2011年に近代化改修を発注し、ミラージュ2000Hをミラージュ2000Iに、ミラージュ2000THをミラージュ2000TIに改称している。20219月、フランス空軍の退役中古機24機を購入し、8機を配備、16機を部品取りに使うことになった。参考:月刊JWings4,23

 <ミラージュ2000(台湾空軍)>:台湾空軍戦闘機、台湾名は飛龍。ミラージュ2000-5D/Eベースで、対地攻撃能力を落としており、ミラージュ2000-5DI/-5EIと呼ばれる。1997年からミラージュ2000-5EI48機とミラージュ2000-5DI12機配備し、マジック2とMICA空対空ミサイルも導入した。価格は1997年時で1機あたり3億3300万フラン。参考:月刊丸9,97、月刊軍事研究6,05、月刊JWings3,'229,10

 <ミラージュ2000DAD>:UAE空軍戦闘機。ミラージュ2000Dを導入したもので、ADはアブダビの略である。4機を配備した。参考:月刊JWings11,07

 <ミラージュ2000EAD>:UAE空軍戦闘機。ミラージュ2000Eを導入したもので、15機を配備した。参考:月刊JWings11,07

 <ミラージュ2000EG>:ギリシャ空軍戦闘機。ミラージュ2000Cのギリシャ導入版である。17機を配備した。参考:月刊JWings12,20

 <ミラージュ2000H>:インド空軍戦闘機。単座型で、198210月に36機、1986年に6機、2004年に4機を発注し、計46機を導入した。19856月から配備され、一部は核爆弾搭載能力を備えている。1999年、レーザー誘導爆弾の運用を可能とし、カルギル紛争ではMiG-21MiG-27が破壊できない目標を片っ端から粉砕した。20103月、ミラージュ2000Iへの改良計画が始まった。2012年、2機が墜落して失われた。参考:月刊軍事研究6,1111,0310,09、月刊JWings4,'231,14、月刊航空ファン5,17

 <ミラージュ2000I>:インド空軍戦闘機。ミラージュ2000Hに有効探知距離70海里のRDY-2全天候合成開口レーダー、先進航法システム、HMD、新型ミッションコンピュータを導入してMICA ERASRAAMを運用可能とし、ミラージュ2000-5Mk2相当にグレードアップしたもの。2004年に計画されたが、フランスとの交渉が難航して発注は20113月にずれこみ、ダッソー社で最初の数機、HALで残りが改修を受けることとなった。試改修初号機は2013105日に初飛行し、20153月末にインド空軍へ引き渡されている。参考:月刊軍事研究6,1111,0310,09、月刊JWings4,'231,14、月刊航空ファン7,15

 <ミラージュ2000−5(インドネシア空軍)>:インドネシア空軍戦闘機。202211月、カタールから中古ミラージュ2000-5戦闘機の導入を決定したが、製造元のダッソー社は、前月にインドネシア空軍が導入を決めた同社製ラファール戦闘機の数が減らされる恐れがあるということで、202318日に売却を拒否した。その後決着が付いたらしく、614日に単座型9機と複座型3機の購入契約が結ばれている。参考:月刊JWings9,23

 <ミラージュ2000−5DDA>:カタール空軍単座戦闘機。ラファール戦闘機に後を譲って202111月から退役している。2023614日、中古の9機をインドネシア空軍に売却することになった。参考:月刊JWings3,209,23

 <ミラージュ2000−5EDA>:カタール空軍複座戦闘機。ラファール戦闘機に後を譲って202111月から退役している。2023614日、中古の3機をインドネシア空軍に売却することになった。参考:月刊JWings3,209,23

 <ミラージュ2000−5Mk.2(ギリシャ空軍)>:ギリシャ空軍戦闘機。25機を配備した。参考:月刊JWings12,20

 <ミラージュ2000−9(UAE空軍)>:UAE空軍戦闘機。ブラックシャヒーンやハッキムの運用能力を持つ。1998年(2003年?)から21機を導入した。201711月、配備42機に対するアップグレードをダッソー・アビアシオンとタレスに発注した。参考:月刊JWings4,1411,072,18

 <ミラージュ2000−9DAD>:UAE空軍戦闘機。ミラージュ2000-9複座型で、6機を導入した。参考:月刊JWings11,07

 <ミラージュ2000−9EAD>:UAE空軍戦闘機。ミラージュ2000-9単座型で、12機を導入した。参考:月刊JWings11,07

<ミラージュ2000海外ファミリー>

 <ミラージュ2000RAD>:UAE空軍偵察機。8機を導入した。参考:月刊JWings11,07

 <ミラージュ2000−9RAD>:UAE空軍偵察機。ミラージュ2000-9ベースで、2機を導入した。参考:月刊JWings11,07

 <ミラージュ2000TH>:インド空軍複座練習機。198210月に4機、1986年に4機、2004年に6機の計14機を発注し、19856月から配備された。参考:月刊JWings4,'23、月刊軍事研究6,11

 <ミラージュ2000TI>:インド空軍複座練習機。ミラージュ2000THにミラージュ2000Iと同様の改修を施したもので、試改修初号機は20153月末にインド空軍へ引き渡された。201921日、改修後のテスト飛行を行っていた1機がバンガロールで墜落し、乗員2名が死亡した。参考:月刊航空ファン7,154,19

ミラージュ4000>:シュペル・ミラージュ4000Super Mirage 4000)ともいう。ダッソー社を初めとするフランス航空業界がF-14/F-15クラスの大型戦闘機市場にアピールすべく開発した試作双発戦闘機。主任務は全天候迎撃、空対空戦闘で、対地支援も行える。ミラージュ2000をスケールアップしたもので、無尾翼デルタ翼の機体に全遊動式前方カナードを取り付けて機動性を強化した。軽量化のため炭素・ボロン複合材を多用しており、垂直尾翼にインテグラルタンクを積むなどして燃料容量をミラージュ2000の3倍近くにしてある。エンジンは双発化した。機首には直径1mのアンテナを持つレーダーを収容可能。全長18.6m、全幅11.0m、全高5.4m、総重量20-30トン。エンジンはスネクマM53-5A/B時推力9トン)双発で、最大速度マッハ2.5、燃料容量8トン。固定武装は30mm機関砲DEFAが2門。ハードポイントは5カ所。乗員1名。参考:世界の軍用機19821979

ミラージュF1シリーズ>:フランス空軍高々度迎撃戦闘機で、対地攻撃任務にも使用できる。19661223日(1967年?)に初飛行し、1973年から配備された。フランス海軍で運用していたF-8Nを参考としており、高いSTOL性による前線飛行場での運用を可能とするため、デルタ翼ではなく、通常の後退翼と水平尾翼を持つ。総生産数は720機強で、スペイン、南アフリカ、クウェート、ギリシャ、リビア、モロッコ、イラク、エクアドルに輸出された。フランス空軍では2014613日に運用を終え、714日のフランス革命記念日軍事パレードでミラージュF1CR偵察機5機が最後のフライパスを行った。2017年、保管状態にあったフランス空軍機をATACとパラマウントグループに売却することになった。参考:世界の軍用機1979、軍事分析湾岸戦争、月刊JWings12,034,1411,142,1512,17、世界の傑作機No.172

 <ミラージュF1C>:基本の全天候迎撃型。高翼の主翼は前縁後退角50度、アスペクト比2.8、テーパー比3で、ドッグトゥース付き。前縁フラップ(前縁スラット?)とダブルスロッテッドフラップを持ち、内外舷で2分割されていて、作動角に差を付けてある。これにより全機揚力係数はミラージュVの2倍に達しており、着陸滑走距離は30%も短い。横操縦は補助翼とスポイラーで行う。胴体にアルミ合金をリベットで接合して継ぎ目をシール材で覆ったインテグラルタンクを装備しており、ミラージュVに比べて機内燃料容量が1.4倍、行動半径が1.8倍に増えた。レーダーはシラノWで、ルックダウン能力を持つ。照準装置は全天候空対空攻撃能力を改善したCSF196。通信航法用にリモートセッティング要撃システム、UHF無線機2基、VOR/ILSTACANIFFSFENA505自動操縦装置などを搭載する。対地攻撃任務時にはドップラーレーダー、爆撃航法計算機、レーザー測距機、地形追随レーダーなどの装備が可能。座席はマーチンベイカー社製MkW射出座席をイスパノ社でライセンス生産したものを搭載した。前線飛行場使用時・爆撃機転用時を考慮し、前輪・主輪共にダブルタイヤを使用している。全長15.30m、全幅8.40m(翼端ミサイル無し)、9.32m(ミサイル有り)、全高4.50m、自重7.5トン、最大離陸重量16.2トン。エンジンはSNECMAアター9K-50(ミリタリー推力5トン、A/B7.2トン)1基、巡航速度マッハ0.9-0.95、最大速度マッハ2.21.9?)、実用上昇限度20000m、機内燃料容量4600リットル、航続距離1200海里(兵装2トン搭載時)/1800海里(フェリー時)、最大航続時間3時間45分、戦闘行動半径749海里(Hi-Lo-Hi)。固定武装は30mm機関砲DEFA553125発)2門。ハードポイントは5カ所で、R530対空ミサイル3発+R550対空ミサイル2発や、4トンまでの爆弾を搭載できる。乗員1名。参考:世界の軍用機19791982、月刊JWings12,0312,063,0911,14、空軍、軍事分析湾岸戦争、世界の傑作機No.172

 <ミラージュF1C200>:C型の能力向上型。

 <ミラージュF1C300>:C型のFCSを改良し、空中給油装置を搭載したもの。参考:世界軍用機年鑑1990-91

<ミラージュF1ファミリー>

 <ミラージュF1A>:輸出用の対地攻撃機型で、細く尖った機首にアイダ測距レーダー及びレーザー測距機を装備する。参考:世界の軍用機19821979

 <ミラージュF1B>:転換訓練用複座練習機型で、装備はF1Cと同じ。参考:世界の軍用機19821979

 <ミラージュF1CR>:F1C200の偵察機型で、ミラージュVR/RDの後継である。オメラ35斜角フレームカメラ1台、オメラ40パノラマカメラ1台、赤外線センサー、撮影照準記録装置を装備しており、胴体下にラファエルSLAR2000ポッドやダッソー・アロルド・ポッド、プレスト偵察ポッドなどの各種偵察ポッドを搭載できる。全長15m、全幅8.4m、全高4.5m、自重7.53トン、最大離陸重量16.2トン。エンジンはスネクマ・アター9K-50ターボジェット(A/B時推力7.2トン)単発で、最大速度マッハ2.2。兵装は30mmDEFA553機関砲(125発)2門。試作機2機を含め264機が発注され、19811120日に初飛行し、1983年末から機種転換が開始された。後に改修を受け、機首にESO航法レーダーを搭載し、SAGEM慣性航法システムを装備した。参考:スパイ機、月刊航空ファン11,02、月刊軍事研究7,12

 <ミラージュF1CT>:ミラージュF1Cの対地攻撃能力強化型で、レーダーや電子機器を改良している。ミラージュ2000配備後、主任務が対地攻撃となったために開発・採用された。参考:月刊JWings12,06

 <ミラージュF1E>:全天候戦闘攻撃機型で、リビア空軍が採用した。参考:世界の軍用機1982

<ミラージュF1海外シリーズ>

 <ミラージュF1(ATAC社)>:ATAC社の仮想敵戦闘機。フランス空軍の退役機63機を購入した。アビオニクスと電子戦装置の改良を45機以上に施す予定。2019822日にミラージュF1Bの購入後初飛行を行った。参考:月刊JWings11,19

 <ミラージュF1(アルゼンチン空軍)>:アルゼンチン空軍戦闘機。スペインの中古機を20機導入する予定。参考:月刊JWings10,13

 <ミラージュF1(スペイン空軍)>:スペイン空軍戦闘機。1975-83年にミラージュF1CE45機、ミラージュF1EE22機、ミラージュF1BEを6機導入した。1990年以降にフランス空軍からミラージュF1Cを4機、ミラージュF1Bを1機、カタール空軍からミラージュF1EDA11機、ミラージュF1DDAを2機追加購入したが、機種が多すぎて運用に難があり、単座型48機と複座型4機をミラージュF1MとミラージュF1BMに近代化改修して1997-2000年に配備した。ミラージュF1EDAは古すぎて使えず、結局全て部品取りに回されている。ユーロファイターに後を譲って退役予定であり、うち20機をアルゼンチンに引き渡す予定。参考:月刊JWings4,11

 <ミラージュF1(ドラケン・インターナショナル社)>:ドラケン・インターナショナル社の仮想敵戦闘機。スペイン空軍の退役機22機を購入した。参考:月刊JWings11,19

 <ミラージュF1AZ>:南アフリカ空軍戦闘機。ミラージュF1CZの改良型で、クリモフSMR95エンジン(MiG-29RD33を改良したもの)を搭載し、R-73Eミサイルを運用可能としている。参考:月刊JWings11,01

 <ミラージュF1CG>:ギリシャ空軍戦闘機。2003年まで使用した。参考:月刊JWings10,03

 <ミラージュF1EQ5>:イラク空軍戦闘攻撃機。エグゾセ空対艦ミサイルを搭載可能。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <ミラージュF1EQ5−200>:イラク空軍戦闘攻撃機。ミラージュF1EQに空中給油受油装置を追加したものである。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

ミラージュG>:フランスのダッソー社が開発した可変翼戦闘爆撃機。スネクマ製TF106ターボファン単発とスネクマ製アター9ターボジェット双発の2バージョンがある。19671118日に単発複座型が初飛行したが、双発の方が好ましいとして19715月に双発複座のG-4が初飛行、更に双発単座型も試作されたが、開発費がかかりすぎたため、1975年末に開発中止となった。参考:月刊JWings5,07

<ミラーズ級>:プロジェクト14310(哨戒艦)を参照。

<ミラーボール>:AN/ALQ-144(ミサイル妨害装置)を参照。

ミラー・ランディング・システム>:鏡面式着艦誘導装置。白色光源の前方に反射鏡を置き、反射鏡の左右に有色基準灯列を水平に並べたもので、パイロットが着艦コースからの上下のずれを判断するのに使用する。上にずれていると反射鏡に映し出される白色光源が有色基準灯列より上、下にずれていると下に見えるので、白色光源が有色基準灯列と同じ並びになるよう機体の位置を修正する。1951年にイギリス海軍グッドハート中佐が考案し、1953年に空母イラストリアスでテストされ、1954年にイギリス海軍、1955年にアメリカ海軍が装備を開始した。1950年代末には光学式着艦誘導装置に後を譲っている。参考:イギリス航空母艦史

<ミライ虐殺事件>:ソンミ虐殺事件を参照。

ミラク・シリーズ>:イタリアのメテオール社が開発した無人偵察機で、アンドロメダ偵察システムを構成する。参考:スパイ機

 <ミラク20>:主任務は目標捕捉、目標標定、偵察、自爆攻撃である。重量70kg。エンジン出力22馬力、速度180km、航続時間6時間。参考:スパイ機

 <ミラク70>:主任務は偵察、目標捕捉、電子戦、デコイである。重量260kg。エンジン出力70馬力、速度310km、航続時間1時間。参考:スパイ機

 <ミラク100>:重量310kg。エンジンはミクロチュルボ製ターボジェット(推力115kg)、速度950km、航続時間70分。参考:スパイ機

 <ミラク300>:重量450kg。エンジンはミクロチュルボ製ターボジェット(推力315kg)、速度マッハ0.9、航続時間170分。参考:スパイ機

 <ミラク600>:主任務は訓練評価、広域偵察、SEAD、攻撃、電子戦。重量1トン。エンジンはミクロチュルボ製ターボジェット(推力315kg)2基、速度マッハ0.9、航続時間110分。参考:スパイ機

ミラス>:イタリア海軍艦対潜ミサイルMILASMissile de Lutte-Anti-Sous marine)。1980年代にフランス海軍がマラフォンの後継として要求を出し、イタリア海軍が加わってフランスのマトラ社とイタリアのOTOメララ社が開発、1987年に採用が決定した。ただフランス海軍の方は予算不足で1998年に採用をキャンセルしたため、イタリア海軍のみの配備となっている。オトマートMk2ブロックU艦対艦ミサイルの弾頭をMU90インパクト魚雷(A244、スティング・レイ、Mk46Mk50も可)に換えたもので、発射システムもオトマートのものを使えるので、オトマート装備艦ならミラス用システムを追加する必要が無い。連装または4連装キャニスターから発射された後に高度200mまで上昇、亜音速で飛翔し、INSと指令誘導で目標に向かい、目標近くで魚雷をパラシュート投下する。全長6m、直径0.46m、発射重量800kg。推進は固体燃料ロケットブースター+ターボジェット、最大速度マッハ0.9、投射距離5-35km40km55km?)。2002年にデ・ラ・ペンヌ級改装型に初搭載された。FREMM級のイタリア対潜型も装備する。参考:艦載兵器ハンドブック改訂第2版、月刊軍事研究2,073,08、月刊世界の艦船1,'15増刊、9,'2011,175,123,05

ミラッツォ>:イタリア海軍レリチ級掃海艇3番艇Milazzo19858月竣工。参考:月刊世界の艦船10,'15

ミラドール>:オランダ海軍の戦術光電子監視システムMirador。昼夜問わず、視界不良の条件下で、水上/空中目標を自動的に三次元探知・捕捉・追跡でき、艦砲管制機能もある。炭素繊維製で重量は200kgと軽量である。360度旋回ステルス形状ターレット上に昼夜TVカメラ2基(近距離カラー・視野角4.4×3.3度と遠距離モノクロ・視野角2×1.5度。両者とも5-30万ルクスで撮像可能)、熱映像カメラ2基(中赤外線・視野角2×1.5度と7.3×5.5度、素子数384×288と遠赤外線・視野角3×2.25度と9×6.75度、素子数288×4)、アイセーフ・レーザー測距器(波長1.54ミクロン、ビーム幅1.4ミリラジアン、パルス繰り返し周波数3Hz)1基、LLLTV1基(付いていないという説もある)を装備している。俯仰角はマイナス30度からプラス120度。テレビ・赤外線共に目標自動追尾が可能で、追尾可能距離は25km。レーザー測距器の有効距離は20km2002年に引き渡され、デ・ゼーベン・プロヴィンシェン級フリゲートに搭載された。ドイツ海軍ブラウンシュヴァイク級コルベットも搭載している。参考:月刊軍事研究10,065,01、月刊世界の艦船8,1912,21

ミラドールMk2>:タレス社の電子光学センサー。ミラドールの改良型で、センサーをデジタル化して性能を向上させた。イギリス海軍31型フリゲートに搭載予定。参考:月刊世界の艦船8,1912,21

ミラボー>:フランス海軍ダントン級戦艦Mirabeau191181日竣工。191928日、黒海で視界不良のため座礁した。前部主砲塔や装甲などを外して離礁したものの、その後は前線任務を外れている。19211027日に除籍された。1928年に解撤された。参考:月刊世界の艦船7,21

ミラマー航空基地>:アメリカ海軍・海兵隊の航空基地で、サンディエゴ近郊にある。面積は9355ヘクタールで、滑走路はランウェイ06L/24R3658m)と06R/24L2438m)、10/28853m、回転翼機用)の3本。飛行場には第2次大戦時の第58任務部隊司令官の名前を取ってミッチャー・フィールドという名称が付けられている。1917118日にアメリカ陸軍がキャンプ・ケアニーとして開設したのが始まりで、1940年からアメリカ海兵隊もキャンプ・エリオット訓練基地として使用、12月の滑走路開設で第1海兵航空団のホームベースとなった。1947年、海兵隊の部隊がエルトロ海兵航空基地(MCASエルトロ)に移ったため、アメリカ海軍補助航空基地(NAAS)ミラマーとなった。その後、アメリカ海軍航空基地(NAS)ミラマーとなり、1969年にアメリカ海軍戦闘機兵器学校NFWS(通称トップガン)が開設された。197210月、F-14が海軍実動基地として初めて配備され、転換訓練を開始。1990年代にF-14の退役とE-2部隊の大西洋基地移動が決定し、替わりにMCASエルトロとMCASタスティンの部隊を統合してミラマーに移すことになり、管理権が海兵隊に移行、1999年(1993年?)にアメリカ海兵隊航空基地(MCAS)ミラマーと呼ばれるようになった。NFWS1996529日にファロンに移動している。2010年現在、第3海兵航空団隷下の第11海兵航空群、第16海兵航空群が所在している。2023414日、アメリカ海兵隊VMFA-311が再編された。参考:月刊軍事研究4,10、月刊航空ファン11,19、月刊JWings7,23

<ミラミチ>:MCB-150(掃海艇)またはMCB-163(掃海艇)を参照。

ミラルダ>:イギリス海軍ラパナ級MACシップMiralda。元は19367月に竣工したタンカーで、19441月に改造を終え竣工した。第2次大戦終結後、タンカーに戻された。参考:イギリス航空母艦史

<ミラン>:ミラージュVファミリー(カナード翼実験機)を参照。

ミラン>:フランス海軍エーグル級駆逐艦Milan1934年竣工。1942118日、カサブランカに上陸しようとしたアメリカ軍の攻撃を受けて損傷し、擱座した。参考:第2次大戦のフランス軍艦

ミラン対戦車ミサイル・シリーズ>:MBDA社(MBBとアエロスパシアルが共同設立したユーロ・ミサイル社?)が開発した対戦車ミサイルで、Missile dInfanterie Leger ANti-charの略。発射時にミサイルコンテナが反動で後方に吹き飛ぶため、後ろにいると危ない。バックブラストも飛ぶし。参考:月刊PANZER3,04

 <ミラン>:発射筒のガス発生器により毎秒75mまで加速され、ブースターが1.5秒燃焼して毎秒130mに達し、サステナーが11秒燃焼して毎秒200mで飛翔する。全長0.75m、直径0.116m、翼スパン0.265m、重量6.7kg、弾頭重量3kg、炸薬重量1.45kg。誘導はSACLOS。最大速度毎秒200m、最小射程22m、最大射程2000m、最大射程までの飛翔時間は12.5秒。参考:ザ・マーチ17

 <ミランER>:Missile dInfanterie Leger ANti-char Extended Responseの略。全長1.2m、直径0.115m、ミサイル重量12.5kg、三脚を含む全備重量20kg。射程2km。弾頭は装甲貫徹力1000mmの多目的弾頭で、厚さ3mのコンクリートを貫通することも可能である。後に着脱式の赤外線画像装置MIRA、ネットワークによる遠隔発射システムが追加された。参考:月刊軍事研究11,06、月刊グランドパワー10,94

 <ミラン/トリガットMR>:MRは中射程の略で、別名TRIGAN。ミラン3発射機の発射台を改良し、電子誘導装置を装着している。誘導は有線式で、射程2500m、弾体内の余裕を活かして3000mにも延伸できる。弾頭は高性能炸薬対戦車弾頭で、バンカーにも効果があるという。フランス軍で2004年に就役予定。参考:月刊軍事研究5,01

<ミリアス>:DDG-69(ミサイル駆逐艦)を参照。

ミリアド>:オットー・ブレダ社などが開発したCIWSMyriad25mmガトリング砲KBDを2基装備し、別の場所のFCSで管制する。初速毎秒1160-1285m、有効射程1000m、発射速度毎分10000発。1980年代末から開発され、1990年代初めに完成したが、どこにも採用されなかった。参考:月刊世界の艦船12,202,21

みりい丸>:三菱商事1TL型戦時標準油槽船。総トン数10565トン。昭和1844日起工、719日進水、94日竣工。昭和191114日、ヒ81船団の一員として伊万里湾を抜錨。参考:戦時標準船入門、輸送船入門

ミリシア>:アメリカの農場を拠点に軍事訓練を行っているマニアグループ。アメリカ全体では200団体、10万人以上のメンバーがいるとみられ、数千人規模の団体も存在する。キリスト教右派系で、白人至上主義や反ユダヤ、妊娠中絶反対運動過激派などが所属していることもあり、治安当局からテロ組織として摘発されるケースもある。参考:月刊軍事研究11,08

<ミリタリー748>:HS748シリーズ(輸送機)を参照。

ミリタリー・ウォッチ>:軍用時計。15世紀ごろから使用されており、穴の空いたバケツの中に水を入れ、反対側に付いているオモリの動きをロープに付けられた印で表示するものがラッパ手用に開発された。1500年頃にゼンマイが発明され、携帯時計も開発されたが、重さが1kgもあり、非常に高価で、普及しなかった。1675年、ヒゲゼンマイが開発され、時計の小型高性能化が進み、19世紀中頃になってアメリカで大量生産が行われるようになった。南北戦争時代には多くの将校が懐中時計を携帯しており、兵士の間にも一時流行したが、すぐに廃れてしまったという。第1次大戦では個々の兵士が懐中時計を携帯し、腕に付ける革ケースに収容するようになった。しかし出し入れが面倒なため、リストバンドを装着した腕時計が開発された。アメリカ軍では1911年に信号部隊及び砲兵部隊に腕時計を支給する命令が出ている。第2次大戦後にはプラスチック製の使い捨て軽量型や、デジタル時計も出現した。地図の縮尺や度量衡換算表、モールス信号表を裏面に刻んだものや、航空計測器を組み込んだものも開発されている。参考:ミリタリー・イラストレイテッド17

ミリタリー出力>:30分間連続して使用できる出力のこと。参考:月刊丸4,99

ミリタリー推力>:アフターバーナーを使わない最大推力のこと。参考:F-16ファイティングファルコン

<ミリタリー・プロフェッショナル・シローシーズ・インコーポレーテッド社>:MPRI社を参照。

<ミリタリー・ポリス>:憲兵を参照。

<ミリノケット>:JHSV-3(統合高速輸送艦)またはT-EPF-3(遠征用高速輸送艦)を参照。

<ミリ波>:ミリメートル波を参照。

<ミリ波・センチメートル波高速データマルチバンド衛星通信システム>:EHF/SHF-HDR-MBSCSを参照。

ミリミリ>:陸上自衛隊用語で、細かいことや細々したことを指す。参考:MAMOR vol.119

<ミリム>:BM-25(弾道ミサイル)を参照。

ミリメートル波>:波長が1-10mm、周波数が300-30GHzの電磁波で、EHFと略す。Kバンドの一部、Kaバンド、Vバンド、Wバンドがこれにあたる。直進性が高いが、大気圏内では透過率の高い波長を選んで使用しないといけないので、宇宙空間にある衛星間での通信に使用される。参考:図解・電波のしくみ、月刊軍事研究1,07

ミリメートル波レーダー>:ミリメートル波長の電磁波を使用したレーダー。ミリメートル波は常温の物体から常に放射されており、パッシブ探知が可能である。また、解像度が高く、目標識別能を高くできる他、小型のアンテナでもビームを絞れるので、ミサイルにも搭載できる。自動車の自動ブレーキシステム用センサーとしても使用されている。波長8mm3.2mm2.15mmに大気透過率の高い箇所があるのでここを利用するが、雨粒と同じくらいの大きさなので、悪天候では減衰が激しくなる。参考:月刊軍事研究8,01、クルマのすべてがわかる事典

未臨界核実験>:核兵器を解体して取り出したウランやプルトニウムを使い、臨界に達する前の物理的振る舞いを観測する実験。ロシアは1996年から、アメリカは19977月から行っている。参考:月刊軍事研究3,00

ミル>:ミリラジアンの略で、1km先の1mのものを見た時の角度。ドイツ語ではシュトルヒ、日本語では密位。本来は6283ミルで360度だが、割り算などで楽にするため6400ミル=360度と定義している。よって、正確には1ミルは0.982m0.057度(1度が17.7ミル)。相手の各部の長さが分かっている際に距離を概算することができ、2mのものが2ミルで見えたら1000m先、1ミルで見えたら2000m先にいる。腕を一杯に伸ばした際、第2指(人差し指)を立てると第2関節の幅が30ミル、第2-3指第2関節だと70ミル、第2-4指第2関節で100ミル、第2-5指第2関節で125ミル、握り拳の横幅で180ミル、指を開いて300ミルくらいになるので、目測に使用できる。参考:火器弾薬技術ハンドブック、戦車の戦う技術、月刊PANZER3,98、自衛隊装備カタログ1981

ミル>:フランス海軍潜水艦Mille。元はドイツ海軍UボートZC型潜水艦U471で、1946年に引き揚げて就役させたものである。後にQ339と改称され、196379日に売却された。参考:ナチスUボート

<ミルウォーキー>:CL-5(軽巡洋艦)またはLCS-5(沿海戦闘艦)を参照。

ミルカ型シリーズ>:ソ連海軍フリゲートMirka型。参考:月刊世界の艦船3,92増刊

 <ミルカT型>:全長82.4m、幅9.1m、吃水3m、満載排水量1150トン。主機はCODAG方式、出力37000馬力、2軸推進、速力32ノット。兵装は76mm連装砲AK-726が2基、12連装対潜ロケット発射機4基、406mm5連装魚雷発射管1基、爆雷投下軌条1条。3隻が就役した。参考:月刊世界の艦船3,92増刊

ミルカU型>:全長82.4m、幅9.1m、吃水3m、満載排水量1150トン。主機はCODAG方式、出力37000馬力、2軸推進、速力30ノット。兵装は76mm連装砲AK-726が2基、406mm5連装魚雷発射管2基(1基?)、12連装対潜ロケット発射機2基。7隻が就役した。参考:月刊世界の艦船3,92増刊、9,96

<ミルク師団>:ヒトラーユーゲント師団を参照。

ミルゲム級>:トルコ海軍の国産コルベットで、Milgemは国産艦のこと(ミルゲン、MILli GEmi National shipの略?)。アダ(Ada)級ともいう。1996年からトルコ国内艦艇技術向上を目的に計画され、設計はSTM社、戦闘システム(トルコ海軍オリヴァー・ハザード・ペリー級に搭載したジェネシスの改良型)はアセルサン社とハベルサン社の担当である。主任務は沿岸哨戒と外洋対潜戦。船体はステルス性を重視しており、船型は長船首楼型、船体中央の上構は前後に長く、幅は船体と同じにして全周(特に艦橋前面)に傾斜を付けた。マストはタワー式を採用、主砲もステルスシールドである。タレス社製SMART-S Mk2レーダー(トルコライセンス生産版)、アセルサン社製ARES-2N電波探知装置、アセルサン社製対魚雷デコイ発射機を装備する。全長99.5m、全幅14.4m、吃水3.6m、満載排水量2032-2400トン。主機はCODAG方式、巡航用MTU社製16V595TE90ディーゼル2基+高速用LM2500ガスタービン1基、出力42380馬力、2軸推進、最大速力29ノット、航続距離3500海里(15ノット)。兵装はRGM-84Cハープーンまたはアトマカ艦対艦ミサイル4連装発射筒2基、RAM21連装発射機Mk49が1基(ヘリ格納庫上)、76mm単装砲スーパーラピッド1門(前甲板)、324mm短魚雷Mk46用連装発射管Mk32が2基、12.7mm遠隔操作式機銃STAMP2丁。要所に防楯付き7.62mm機銃架を装着可能。S-70B対潜ヘリ1機を搭載可能。乗員93名。24隻を建造予定だったが6隻に減らされ、最終的に4隻になった。1番艦F-511ヘイベリアダ、2番艦F-512ブユックアダ、3番艦F-513ブルガズアダ、4番艦F-514キナリアダ2011-19年に就役した。参考:月刊軍事研究8,097,13、月刊世界の艦船9,243,1610,176,198,133,123,138,17THE MILITARY BALANCE 2016

<ミルゲム級・海外シリーズ>

 <アダ級(ウクライナ海軍)>:ウクライナ海軍コルベットAda級。トルコのRMKマリン造船所で大半を建造し、最終工程だけウクライナで行う。全長99m、満載排水量2400トン。主機はCODAG方式、速力29ノット。兵装はハープーン艦対艦ミサイル、VL MICA艦対空ミサイル、76mm単装砲スーパー・ラピッド1門、12.7mm機銃STAMPMU90短魚雷用連装発射管2基。中型ヘリ1機を搭載可能。1番艦F211ヘトマン・イヴァン・マゼーパと2番艦F212ヘトマン・イヴァン・ヴィホフスキーの2隻を2021年から建造中。参考:月刊世界の艦船6,'2411,'2212,211,2310,24

 <ミルゲム級(パキスタン海軍)>:パキスタン海軍コルベットMILGEM級、計画名PN MILGEM。全長108.2m113.2m?)、幅14.8m14.4m?)、吃水4.05m、満載排水量2955トン。主機はCODAG方式、LM2500ガスタービン、出力30800馬力・31600kW、最大速力31ノット(29ノット?)、航続距離3100海里(3500海里?)、連続行動日数15日。兵装は艦対空ミサイル用8セル垂直発射機2基、艦対艦ミサイル3連装発射筒2基、76mm単装砲1門。中型ヘリ1機を搭載可能。乗員93名+便乗者40名。2017510日にパキスタン国内で4隻を建造する仮契約を行った。代わりにMFI-395スーパー・ムシュシャク練習機52機を輸出する。20187月、トルコで2隻、パキスタンで2隻を建造する本契約を行った。1番艦ババルはトルコのイスタンブール造船所で建造され、2023923日に引き渡された。2番艦バドゥルはパキスタンのKS&EWKarachi Shipyard and Engineering Works)で20201025日、3番艦艦番号282カイバルはトルコのイスタンブール造船所で202151日に起工した。4番艦タリクはKS&EW2021615日にファースト・スチール・カットを実施し、2021115日に起工、202382日に進水した。参考:月刊世界の艦船8,'218,1710,171,219,2111,212,228,222,2311,2312,'23

ミルゲムU級>:トルコ海軍コルベットMILGEMU級。TF-100型、1番艦の艦名からイスタンブール(İstanbul)級ともいう。ミルゲム級の改良型で、船体を一回り大きくし、Mk41VLSを搭載して艦対空ミサイルをESSMに強化、艦対艦ミサイル搭載数を倍にしている。CIWSRAMでなくファランクスにし、国産のギョクデニズも積んだ。艦首はバルバス・バウで、艦首底部にYAKAMOS2020FERSAH?)ハル・ソナーを装備する。船体中央水線下にビルジキール、その後方にフィン・スタビライザーを持つ。指揮管制システムはトルコ国産のハベルサン製ADVENTで、CENK-Sフェイズド・アレイ・レーダー、HAZAR三次元対空捜索レーダー、ALPER-P航海レーダー、射撃指揮装置2基、電子光学センサー、レーザー警報、ARES2N(V2)電子戦装置、HIZIR対魚雷装置を装備する。全長113.2m、水線長105.2m、幅14.4m、吃水4.05m、満載排水量3000トン(2955トン?3305トン?)。主機はCODAG方式、巡航用MTU社製16V-TE90ディーゼル2基+高速用LM2500ガスタービン1基、2軸推進、巡航速力14ノット、最大速力29ノット以上、航続距離5700海里(14ノット)/6000海里(12ノット)。発電機はディーゼル(560kW)4基。兵装はMIDLAS垂直発射機16セル(主砲後方。ESSM艦対空ミサイル64発)、ハープーン/アトマカ艦対艦ミサイル4連装発射筒4基(タワーマストと煙突の間)、76mm単装砲スーパー・ラピッド1門(前甲板)、ファランクス1基(ヘリ格納庫上)、アセルサン製35mm連装機関砲ギョクデニズ(Gokdeniz)、アセルサン製遠隔操作式25mm単装機関砲2門、Mk46Mod5/ロケットサン社製ORKA短魚雷3連装発射管2基。上構後端がヘリ格納庫で、S-70B対潜ヘリ1機を搭載可能。1番艦F-515イスタンブール2021年に進水した。202346日に2番艦F-516イズミル、3番艦イチェル(İçel)、4番艦イズミット(İzmit)が追加発注されている。参考:月刊世界の艦船9,'232,'247,'236,194,'2110,172,214,23

ミル設計局>:ソ連/ロシアのヘリコプター設計局。ミハイル・レオンチェビッチ・ミルが194712月に第383工場をベースに創設し、1951年にトミリノに移転してミル設計局になった。1953年、第329試作設計局の別名が付いた。生産拠点の第329工場も併設されている。1967年、生産拠点がモスクワ・ヘリコプター工場に改称された。ソ連崩壊でミル・モスクワ・ヘリコプター工場(Moskovskiy Vertoletniy Zavod imeni M. L. Milya)に改称された。2007年、ロシアン・ヘリコプターズに統合された。2020年、カモフと合併し、ミル・カモフ国立ヘリコプター工学センターに改称された。参考:月刊JWings5,'231,05、ウォーマシン・レポートNo.67、月刊航空ファン11,92

<ミルス>:DE-383(護衛駆逐艦)を参照。

ミルスキ・シリーズ>:フィンランド国営航空機工場が開発した全木製戦闘機Myrsky(嵐)。国産化したフォッカーD21を基に1939年初めから開発された。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊軍事研究11,11

 <ミルスキT>:原型機で、194112月に初飛行した。機体の接着不良や安定性不良により、製作された4機全てがテスト中に墜落してしまった。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊軍事研究11,11

 <ミルスキU>:Tが失敗したため、機体を大改造したもの。全長8.35m、全幅11m、全備重量2940kg。エンジンはプラット&ホイットニー社製ツインワスプをスウェーデンで国産化したSC-3G1065馬力)単発で、最大速度530km、実用上昇限度9000m、航続距離500km。固定武装は12.7mm機銃4丁。乗員1名。1944年(1943年?)から46機(47機?)が生産されたが、機体構造の問題が解決できず、偵察機として使用された。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇、月刊軍事研究11,11

 <ミルスキV>:Uの改良型で、少数が完成した。参考:第2次世界大戦軍用機ハンドブック・ヨーロッパ篇

ミルス手榴弾>:イギリスのW・ミルスが開発した手榴弾で、1915916日に特許を取得した。参考:手榴弾・迫撃砲

 <No5手榴弾>:外側に切れ込みを入れた鋳鉄ケースの中に炸薬が入っており、ケース頂部に孔が空いていて、撃針とスプリングが入っている。スプリングはU字断面のレバーにより引き上げられており、レバーは安全ピンで固定される。ケース底部にも孔が空いていて、撃発雷管、信管、起爆薬をここからはめ込む。安全ピンを外し、レバーの握りを弛めると、スプリングによってレバーが跳ね飛ばされ、撃針が雷管に激突し、信管が作動、5秒後に起爆薬が発火する。安全ピンを外しても、レバーを握ったままなら発火しないため、安全性が高い。19155月に制式採用された。参考:手榴弾・迫撃砲

 <No23手榴弾>:No5手榴弾の改良型で、レバーを平らなものに変更し、小銃てき弾としても使用できるよう底部にネジを切ってある(銃口に差し込む14cmの棒を繋ぐ)。小銃には銃口に筒を取り付けて手榴弾をはめ込み、安全ピンを抜いても発射されるまで安全レバーが外れないようにした。小銃てき弾型の射程は80m1916年後半に採用された。実戦で小銃てき弾として使用してみると、目標手前で空中炸裂することがあったため、19176月に遅延時間が6秒に延長された。参考:手榴弾・迫撃砲

 <No23M手榴弾>:No23手榴弾をメソポタミア地方で使用できるよう、炸薬を変更し、防水機能を付けたものである。1918年に採用された。参考:手榴弾・迫撃砲

 <No36手榴弾>:No23手榴弾の改良型で、防御用手榴弾として使用する他、コップ型小銃てき弾発射機から投射できるよう底部に直径2.5インチ(63.5mm)の円盤が固定してある。コップ型発射機は口径2.5インチ(63.5mm)で、底部には射程調節用の発射ガス抜きシャッターが付く。小銃てき弾として使用した場合の最大射程は200mで、遅延時間は7秒に延びた。発射時の衝撃に耐えられるよう、小銃のハンドガードと薬室にはワイヤーを巻き付けてあり、後にEYライフルという名称が付けられている。炸薬はバラトール2オンス(56.7g)。19186月に採用された。参考:手榴弾・迫撃砲、米英軍戦闘兵器カタログVol.1

 <No36M手榴弾>:No36手榴弾にNo23M手榴弾と同じ改良を施したもので、第2次大戦後まで使用された。信管遅延秒時が7秒と遅めに設定してあったが、黄作戦でドイツ国防軍から投げ返されることがしばしばあり、4秒に短縮されている(小銃てき弾用は7秒のまま)。破片が90mも飛ぶので、投げたら味方全員伏せないと危ない。参考:米英軍戦闘兵器カタログVol.1、手榴弾・迫撃砲

<ミルスター>:MILSTAR(通信衛星)を参照。

<ミルトレーナー>:L-70(練習機)を参照。

<ミルトン・リュイス>:DE-772(護衛駆逐艦)を参照。

<ミルヒキューエ>:Uボート]W型(潜水艦)を参照。

<ミルフォイル>:K288(コルベット)またはPG-93(コルベット)を参照。

<ミルフォード>:L51(スループ)を参照。

ミルフォード>:イギリス海軍マンレイ級通船Milford。参考:月刊世界の艦船5,83

ミルブルック>:イギリス海軍マンレイ級通船Millbrook1981進水。参考:月刊世界の艦船5,83

<ミルロ>:C-101EB(練習機)を参照。

<ミルン>:G14(駆逐艦)を参照。

<ミレッジビル>:PF-94(フリゲート)を参照。

<ミレニアム>:KC-390(空中給油輸送機)を参照。

ミレニアム>:スイスのエリコン社とイギリスが共同開発した個艦防空用機関砲システムMillennium、別名MDG35またはGDM-008。ステルス砲塔に79口径35mm機関砲35/1000回転砲または79口径35mm機関砲KDGを搭載しており、砲口部に2個設置された初速測定コイルにより測定された砲口初速と、レーダーで観測された目標までの距離をAHEADコンピュータにより解析、飛翔時間を計算し、砲口制退器の先端にある感応コイルを用いてAHEAD弾のプログラム時限信管を調定する。射距離1.5-3kmでの目標撃墜を目指しており、有効射程は対水上艦で4.5km、対航空機・ヘリコプターで4km、巡航・対艦ミサイルやUAV3km。マウント重量3トン。全周旋回可能、旋回速度毎秒120度、俯仰角マイナス15度からプラス85度、俯仰速度毎秒70度。管制システムは専用のエリコン・コントラベス社製GDM-008レーダー方位盤の他、インターフェースが合えば何でも良い。ISOマウントと呼ばれるコンテナ砲架が用意されており、甲板への取り付けも容易である。デンマーク海軍アプサロン級多目的支援艦とイーヴァル・ヒュイトフェルト級フリゲートにセロス200方位盤との組み合わせ、インドネシア海軍シグマ級コルベットとベネズエラ海軍グアイケリ級哨戒艦にSTIR1.2EO Mk2との組み合わせで搭載された。参考:月刊軍事研究6,013,003,9912,09、月刊世界の艦船1,'15増刊、2,21

ミレニアムT作戦>:イギリスが第2次大戦時に行ったケルン爆撃作戦MillenniumT。イギリス空軍アーサー・ハリス中将が考案した、1000機の爆撃機による密集編隊集中爆撃戦術Thausand Planに基づき、1942530日に行われた。1050機の爆撃機が90分にわたりケルンを爆撃し、損害は40機(うち被撃墜32機)だった。参考:世界の傑作機No.157

ミレニアムU作戦>:イギリスが第2次大戦時に行ったエッセン爆撃作戦MillenniumU。ミレニアムTに続いて194261-2日に行われ、1000機が参加したが、うち350機程度は訓練部隊だったとされる。イギリス爆撃機17機が撃墜された。参考:世界の傑作機No.157

<民間機向け多次元スペクトル赤外線妨害対ミサイルシステム>:C-MUSICを参照。

<民間軍事会社>:PMCを参照。

民間航空不法行為防止条約>:正式には民間航空の安全に対する不法な行為の防止に関する条約、通称モントリオール条約。1971923日にモントリオールで署名され、1973126日に発効した。日本は1974517日に国会で承認し、612日に加入書を寄託、619日に交付し、712日に発効している。飛行中の航空機内の人に対する暴力行為(当該飛行中の航空機の安全を損なう恐れがあるものに限る)、業務中の航空機を破壊する行為、業務中の航空機に対して飛行不能な損害を与える行為、業務中の航空機に対して飛行中の安全を損なう恐れがある損害を与える行為、手段の如何を問わず業務中の航空機に上記破壊・損害を与える装置や物質を置くまたは置かれるようにする行為、航空施設を破壊・損傷したり運用妨害したりして飛行中の航空機の安全を損なわせる行為、虚偽情報の通報により飛行中の航空機の安全を損なう行為、これらの未遂、これらに加担する行為を不法かつ故意に行うことを犯罪行為と定め、各締約国が厳罰を科すように規定している。軍隊、税関、警察の役務に使用される航空機には適用されない。参考:ベーシック条約集2018

民間国土保全隊>:民主党政権下の2009年に自民党議員の一部が打ち出した構想で、失業者などを自衛隊駐屯地内の宿舎に寝泊まりさせ、職業訓練と資格取得をさせるというものである。1930年代の大恐慌の際にルーズベルト大統領が失業対策で創設した民間資源保存団が元らしい。2012年の衆議院選挙で政権交代が起き、立ち消えになった。参考:月刊軍事研究8,09

民間パイロット育成プログラム>:CPTPと略す。アメリカのルーズベルト大統領が命じた民間航空機パイロット急速育成計画で、ドイツ空軍の急拡大を危惧して1938年に開始された。当然ながら戦時に軍のパイロットにすることを考えている。参考:月刊航空ファン9,16

民間防衛>:Civil Defence。ジュネーブ条約第一追加議定書の定義は、敵対行為や災害の危険から文民である住民を保護し、敵対行為や災害の直接的影響から回復することを援助し、生存のために必要な条件を提供することを意図した人道的任務の一部又は全部を遂行することで、人道的任務として警報、立ち退き、避難所管理、灯火管制措置管理、救助、医療上役務・宗教上援助、消防、危険区域探知表示、汚染除去と類似の防護措置、応急宿泊施設と需品提供、被災地の秩序回復維持のための緊急支援、不可欠の公共施設の応急修理、死者の応急処理、生存に不可欠なものの保存のための援助、上記任務のいずれかを実施するために必要な補充活動を挙げている。これを行うための民間防衛組織は、敵に有害な行為を行った場合を除いて尊重と保護を受ける。軍が関与することも可能だが、関与する部隊は他の軍事任務に就くことはできない。近代戦において、特に空襲による後方文民の損害が増大するようになったために生じた概念で、第1次大戦中にイギリスで創設された本土防衛隊がルーツとされ、第2次大戦後には大規模災害や事故からの文民保護も含むようになった。広義にはパルチザンのような武装文民による抵抗活動も含まれるが、こちらはもちろんジュネーブ条約第一追加議定書による保護は受けられない。参考:月刊軍事研究7,11

民間防衛軍>:Home Front Command。イスラエルの民間防衛組織で、1948年の独立時に誕生し、1951年の民間防衛法で正式に組織化された。平時の任務は国民保護対策(シェルター建設、防毒マスク備蓄など)、国外への災害派遣などで、有事には消防活動、人命救助、避難誘導、NBC除染などである。大多数が兵役終了後の予備役で構成されており、平時の人員は数千人だが、有事には予備役5万人を召集する。男性は41歳(特殊技能保有者は51歳)、女性は結婚するか24歳までが予備役の対象で、年に1ヶ月の訓練期間がある。参考:月刊軍事研究7,08

民間防衛の日>:韓国で不定期に実施される、一般人向けの空襲退避訓練。突然空襲警報が鳴り、道路は全て封鎖され、電車も停止、通行人は最寄りの建物や地下に逃げ込む。外国人観光客でも外を出歩いていると警官から注意を受ける。参考:月刊軍事研究4,10

民間防空

民間防空(ドイツ、第2次大戦時)>:193110月にドイツ内務省が民間防空令を発したが、あまり遵守されず、ヒトラー政権誕生後の1933429日にゲーリングがドイツ防空同盟という民間団体を設立、同じく民間の第三帝国防空保護連盟も結成され、19356月に防空法が公布された。民間防空は個人の家庭などで行う自家防空、百貨店やホテルなどで行う拡張自家防空、指定を受けた軍需工場が行う工場防空、官公庁などで行う防空の4種類に分類されている。防空組織として警防団、防空救護隊、応急工作隊などが結成され、防火は消防署員、保安活動は警察や防空警察が行った。19392月までに消火栓と標識、消防器材、消防設備の規格化をほぼ終えている。19398月に各家庭の地下室を防空壕化する法律が出され、爆撃で出入り口が埋まっても脱出できるよう地下通路で各防空壕が連接され、いざという時には壁をハンマーで壊して地下通路に逃れられるようにした。ただ地下室転用の防空壕は耐火能力が低く、中に貯蔵していた石炭が焙られて一酸化炭素を発生させるという欠点もあり、火災による一般市民は寝る時には出来る限り服を着ておき、防空警報のサイレンで地下壕に避難する際には傍に置いた貴重品・防毒マスク・ヘルメット入りスーツケースを持って行く。交差点、バス停、市電停留所などには全長18-79mのコンクリート管を使用した一時退避用地下壕を地下1.8mに設置し、丘陵地や山地には傾斜トンネルを使用した地下壕を設けた。主要軍事工場は戦闘機や高射砲で防御され、工場経営者も消極防空を実施した。それ以外の工場は工場防空隊を組織し、自家防空もしくは特設防空を行っている。鉄道防空は鉄道管理局が担当し、重要列車には高射砲車を連結して運用、破壊された線路や操車場の復旧にはトート機関や陸軍要員も参加した。機関車や貨車の修理工場は操車場から離れたところに作られており、被害を防止した。爆撃を受けても通常の1割程度の電話通信は行えるよう、地下防空壕に補助電話交換台が設置されている。港湾防空は水上警察署と港湾消防部、警防隊が行った。参考:歴史群像10,10

民間防空(日本)>:昭和12101日施行の防空法の定義によると、「戦時または事変に際し、航空機の来襲により生ずべき危害を防止し又はこれによる被害を減ずるため陸海軍の行う防衛に即応して陸海軍以外のものの行う灯火管制、消防、防毒、避難及び救護並びにこれらに関し必要なる監視、通信及び警報」を指す。昭和20310日未明の東京大空襲で初期消火が不可能であることが身に染みたため、4-5月の東京空襲では一般市民が消火活動を放棄して避難を最優先にし、犠牲者は減っている。参考:歴史群像6,14、戦時用語の基礎知識、首都防空網と空都多摩

民間防空監視組織>:イギリスの民間防空組織Observer Corps。イギリス本土200ヵ所の監視哨で双眼鏡により敵機を捜索し、機種、機数、高度、飛行方向などの要目を作戦本部に通報するのが主任務である。バトル・オブ・ブリテンでレーダーと共に防空部隊の目となり、その功績を称えて19414月にRoyal Observer Corpsと改称された。参考:月刊航空ファン2,18

民間予備役空輸部隊>:CRAFCivil Reserve Air Fleet)と略す。有事にアメリカ空軍が民間から輸送機を徴用する代わりに、平時には民間会社に補助金を交付する契約である。1951年に制度化された。最初に徴用されたのはデザート・シールド作戦で、デザート・ストーム作戦でも続けて徴用された。3つのステージに分かれている。ステージTはMAC司令官の命令で発動され、24時間以内に最大45機を徴用する。ステージUは国防長官の命令で発動され、24時間以内に最大177機を動員する。ステージVは大統領命令で発動し、48時間以内に506機を動員できる。参考:月刊軍事研究8,0212,99

<ミン級>:明級(潜水艦)を参照。

<ミングス>:R06(駆逐艦)を参照。

<ミンゴ>:SS-261(潜水艦)を参照。

岷江>:台湾海軍FMLB-T機雷敷設艇Minjiang2019524日起工。参考:月刊世界の艦船11,20

<民国二三式小銃>:GeW98ライフル海外シリーズ(ライフル)を参照。

ミンスク>:ソ連海軍キエフ級ヘリ空母2番艦Minsk、艦番号01119721228日起工、19759月進水、1978927日(219日?)就役。1979224日、セヴァストポリを出港して太平洋に向かった。7月、極東ウラジオストクのストレロク海軍基地に入港、太平洋艦隊に編入された。19821028日、対馬海峡を通過してインド洋に向かった。19832100700頃、沖縄本島の西160kmを北上して母港ウラジオストクに向かうのを第5航空群P-2Jが確認した。1986年、北朝鮮の元山に寄港。太平洋艦隊の基地にキエフ級空母対応の専用岸壁や修理施設が無く、支援設備も不十分で、停泊中も常に主機を作動させなければならなかったため、1991年には機関のうち半分が作動不能に陥ってしまい、黒海に回航しての修理も叶わず、19925月(6月?)に退役した。1993年に除籍され、中国軍と関係の深い韓国のスクラップ業者が買い取って1998年に中国に転売した。20006月に広東でテーマパークのミンスク・ワールドとして開園、4年間で550万人を集めたが、20052月に親会社が破産して競売にかけられてしまった。売却後は揚子江に移されており、新たなテーマパークにされる予定。参考:月刊世界の艦船4,135,832,'22、月刊軍事研究9,09、世界の傑作機No.162

ミンスク>:ロシア海軍ロプーチャT型揚陸艦Minsk201166-16日、バルトップス2011演習に参加。618-26日、ドイツのキール・ウィーク2011に参加。2023913日、ウクライナ戦争ウクライナ軍ストーム・シャドウ巡航ミサイルの攻撃を受けて大破した。参考:月刊世界の艦船9,115,24

ミンスク襲撃>:第2次大戦中の1940629日、ドイツ国防軍に占領されたミンスクにD.マーリコ曹長率いる1両のT-28が突入、ドイツ軍後方部隊に襲いかかり、トラックや砲兵牽引車などを多数破壊した。T-28は東に脱出したが、ドイツ砲兵の射撃で破壊され、曹長は重傷を負って自決した。曹長は戦後、第1級祖国防衛勲章を授与されている。参考:月刊グランドパワー7,02

民生>:中国海軍民櫂級砲艦Minsheng / Mingsen19311112日竣工。1938720日、岳陽付近で日本軍機の攻撃を受け損傷し、洞庭湖畔に擱座した。11月、日本軍が捕獲し、1939年に浮揚、雑役船(工作船)飛渡瀬となった。参考:月刊世界の艦船8,21

民生安定施設整備事業>:防衛省の施設整備補助制度。防衛施設の設置や運用により生活や事業活動が阻害されると認められる場合、防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律第8条に基づき、地方公共団体が必要な施設の整備を実施する時に、費用の一部を補助するものである。参考:朝雲

民生協力(自衛隊)>:不発弾処理の他、国や地方公共団体等からの委託事業を行っている。委託できるのは自衛隊の訓練目的に適合する場合で、土木工事、通信工事、防疫事業、輸送事業、僻地での医療事業、オリンピック支援、教育訓練(航空機パイロット養成や警察・消防へのレンジャー訓練など)などに協力する。また、法令では定められていないが、国民の生活に関係する民生協力も行っており、各種行事支援、流氷観測、遺骨収集、音楽隊演奏、北海道や東北では援農班による田植えの手伝いやリンゴの受粉作業からトドの駆除に熊出没時の学童保護まで実施している。参考:日本の防衛戦力Part1、朝雲

<ミンダナオ>:PR-8(河用砲艦)を参照。

ミンデン襲撃>:湾岸戦争中の1991226日夜から27日にかけ、第7軍団第11航空旅団のアパッチ攻撃ヘリ18機が、共和国親衛隊の予備として配置されていたジハード軍団第10戦車師団集結地ミンデンを制圧した作戦。ミンデンを制圧すれば、共和国親衛隊の増強を防止でき、第7軍団がクウェートに進撃する際の足がかりにもなるため、地上部隊がタワカルナ師団と交戦中に攻撃を仕掛けることにしたが、第1歩兵師団が激戦を繰り広げているノーフォークよりも更に後方50-80kmの地点にあったため、AH-64装備の第11航空旅団を差し向けることにした。航空旅団には2個攻撃ヘリ大隊を隷下に置いていたが、1個は第3機甲師団を支援中だったため、作戦は4/229航空大隊(3個攻撃ヘリ中隊と1個業務中隊)のAH-64Aヘリ18機、OH-58C/D13機、UH-60Aヘリ3機で実施されている。2262115、前方集結地スキップを出撃。ミンデンを北部、中部、南部の3つのボックスに分け、それぞれ1個中隊6機のアパッチを派遣し、150m間隔で並べて射撃を行うことにした。高度30m以下を時速222kmで飛行し、2200にミンデンに到達。4.8km先にT-55/T-62戦車、BMP歩兵戦闘車、MT-LB装甲車、ZSU-23-4自走対空機関砲などを発見し、30分で撃破した。更に東側にも敵機甲部隊を発見したが、空軍の攻撃領内であったため、司令部に攻撃許可を取ることにした。しかしF-111FGBU-12による攻撃が予定されていたため、許可が下りず、補給のために部隊は一旦引き返した。2270200、2個攻撃ヘリ中隊が再度中部・南部ボックスに攻撃をかけ、0300まで戦闘を継続した。戦果は戦車53両、BMP歩兵戦闘車19両、MT-LB装甲車16両など。空軍との攻撃地域取り決めで進撃が制限され、車両破壊数は少ないが、第10戦車師団第17戦車旅団と同第42戦車旅団が壊滅、イラク兵は戦意を無くし、車両を捨て退却していった。参考:月刊軍事研究7,0911,99

民櫂級>:中華民国海軍砲艦Minquan / Mingcheun級。咸寧級の拡大改良型である。垂線間長64m、基準排水量460トン。主機はレシプロ蒸気機関2基2軸3600馬力、速力18ノット。兵装は12cm単装砲1門、10.2cm単装砲1門、7.6cm単装高角砲1門、4.7cm単装砲2門。民生など2隻が就役した。参考:月刊世界の艦船8,21

<ミンドロ>:CVE-120(護衛空母)を参照。

民領丸>:日本陸軍特設工作船。大元はソ連通商代表部が発注した耐氷型貨物船3隻の3番船コムソモーレツで、情勢変化などによりソ連には引き渡されないことになり、建造中に民領丸に改称された(ちなみに1番船は陸軍徴用輸送船天領丸、2番船は特務艦宗谷)。総トン数2224トン。昭和13530日竣工、辰南商船に所属した。太平洋戦争直前に陸軍に徴用された。昭和192月、合併で辰馬汽船に移籍した。27日、MO72船団に所属してダバオを出港し、マニラに向かった。214日、ルソン島サンチャゴ岬南6kmSS-249フラッシャーの雷撃を受け沈没した。参考:月刊世界の艦船6,18

 

目次に戻る   トップページに戻る