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第100師団(日本陸軍)>:日本陸軍師団。昭和196月、独立混成第30旅団を改編して名古屋で編成された。通称拠師団。6月中旬、第14の隷下に入った。昭和19年後半、第35の隷下にあった。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦、太平洋海戦史

第100歩兵大隊(アメリカ陸軍)>:アメリカ陸軍の日系人部隊。太平洋戦争開戦後にハワイ州兵部隊から全日系人が追放されたが、彼らの戦争に貢献したいという要望は強く、まず補助的な任務を与えられた。その結果、優れた軍務成績を上げたため、真珠湾攻撃以前に現役だった日系米兵を独立部隊に編成することになり、19425月に陸軍参謀総長がハワイ臨時大隊として編成を許可、1400名が選ばれてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイに送られ、第100歩兵大隊として編成された。ただし100名は後に日本語解読担当として陸軍情報部に転属となっている。隷下には他の歩兵大隊よりも2個多い6個中隊が配属されており、独立部隊として補給部隊や衛生中隊も隷下に置いていた。モットーは「リメンバー・パール・ハーバー」である。19434-6月、訓練の仕上げとしてルイジアナで大機動演習を実施。92日、北アフリカのオランに送られ、第34歩兵師団第133歩兵連隊隷下となった。919日、第34歩兵師団第131連隊隷下としてイタリア半島のナポリ南東に上陸し、前進を開始した。929日、ドイツ国防軍待ち伏せ攻撃を受けた。この時、シゲオ・タカタ軍曹が敵機関銃の位置を探るためにわざと撃たれ、致命傷を受けながらも敵の位置を教えて制圧に寄与、殊勲十字章を授与されている。113日、ヴォルトゥルノ渡河作戦でバンザイを叫びながら銃剣突撃を実施、防御するドイツ国防軍を蹴散らした。1111日までに士官3名と下士官・兵75名が戦死、士官18名と下士官・兵239名が負傷し、シルバースター勲章19個を受章、後方で再編成に入った。完結後はグスタフ・ライン突破作戦に参加し、19441月中旬までにカシーノ外周の3つの山を占領した。124日、カシーノを占領するためラピド川の渡河に向かったが、モンテ・カシーノから撃ち下ろされる阻止放火で損害が続出し、B中隊187名のうち173名が戦死傷するなど損耗が大きく、125日に予備に編入された。28日、再び前線に配備され、モンテ・カシーノ中腹から攻撃をかけて高地を確保したが、両翼が付いて行けずに孤立しかかり、後退を余儀無くされた。218日、前線に戻されて攻撃に参加し、重要拠点を占領したが、定数40名の小隊が5名になるなど兵力の殆どを消耗し、後方に下がって再編成に入った。3月、前線に復帰し、イタリア半島アンツィオ海岸に上陸、橋頭堡の防衛戦を行った。5月、敵軍情報を得るための捕虜捕獲作戦を実施し、キム・ヨンウク中尉がアーヴィン・アカホシ上等兵らと共に白昼堂々敵中に潜入してドイツ兵を捕らえることに成功した。これにより、キム・ヨンウク中尉は大尉に昇進し、アーヴィン・アカホシ上等兵と共に殊勲十字章を受章している。5月末からローマに向け進撃を開始し、連合軍の先鋒を勤めたが、ローマまで10kmのところで停止を命じられ、一番乗りは果たせなかった。その直後、第442連隊戦闘団指揮下に入ることになり、本来なら第1歩兵大隊に改称される筈だったが、これまでの戦果を鑑みて第100歩兵大隊という名称のままで配属されている。参考:月刊軍事研究5,0912,10

第101化学防護隊>:陸上自衛隊唯一の独立化学部隊。1970年に第301化学発煙中隊を改称して大宮駐屯地で新編された。編成当初は化学学校の隷下で、教導部隊を兼務していた。定数150名で、60式装甲車ベースの化学防護車3両と、大型トラックベースの除染車を装備する。1995320日の地下鉄サリン事件で除染を行い、1999930日のJCO臨界事故でも出動した。2001年、実戦部隊となり、東部方面隊直轄になった。2006年現在、人員150名で、隊本部、情報小隊(小隊本部、4個偵察班、1個気象班)、除染小隊(小隊本部、4個除染班)、対焼夷小隊、発煙小隊(発煙器3型装備)からなる。20061127日、サリンレスキュー2007に参加。20073月の改編で第101特殊武器防護隊となり、中央即応集団の隷下に入った。参考:月刊軍事研究12,06、月刊PANZER12,99、月刊丸2,07、スピアヘッドNo.16No.12

第101空挺師団>:アメリカ陸軍空挺師団で、正式名称は第101空挺師団(空中強襲)、ニックネームはスクリーミング・イーグルス(Screaming Eagles)。1942816日に新編された。19689月に空挺師団から空中機動師団に改編され、1974104日に完全ヘリコプター化されて第101空挺師団(空中強襲)となった。第82空挺師団よりもヘリの装備数がかなり多く、まさに空中強襲(Air Assault)師団である。1991年、湾岸戦争に参加。199710月、第159航空旅団が新編され、第101航空旅団に攻撃ヘリ、第159航空旅団に支援ヘリが配備された。2004年、第101・第159航空旅団が第101・第159戦闘航空旅団に改編され、両旅団が同様の編成となった。2015年、第101戦闘航空旅団第101航空連隊の隷下にMQ-1C無人機運用部隊のB中隊が新編された。5月、第159戦闘航空旅団が解隊された。1221900頃、通常訓練中のAH-64Dヘリ1機がフォート・キャンベル南12マイルに墜落し、乗員2名が死亡した。参考:月刊軍事研究1,178,048,02、月刊航空ファン2,16

 <第101空挺師団(1989年)>:旅団司令部3個、空中強襲大隊9個、砲兵大隊3個、航空旅団(司令部大隊1個、攻撃大隊4個、強襲大隊2個、輸送大隊1個)などからなる。参考:ミリタリー・バランス1989-1990

 <第101空挺師団(デザート・シールド作戦時)>:第1-3戦闘旅団、第101航空旅団、第320野戦砲兵連隊、第4野戦防空砲兵連隊第4大隊、第326戦闘工兵大隊で構成された。1990811日に先遣隊が湾岸地域に到着し、10月までに全兵力がサウジアラビアに展開、空中機動予備としてアン・ヌアイリス付近の縦深防御陣地前方地区左翼に配置された。参考:月刊グランドパワー3,95

 <第101空挺師団(デザート・セイバー作戦時)>:兵力は17132名で、AH-64攻撃ヘリ37機、AH-1F攻撃ヘリ36機、UH-60輸送ヘリ130機、UH-1輸送ヘリ36機、EH-60電子戦ヘリ8機、OH-58C/D偵察ヘリ63機、CH-47D輸送ヘリ48機、M102榴弾砲54門、M167対空機関砲、スティンガーなどを装備しており、軍団砲兵からM198榴弾砲16門を増強されていた。隷下部隊は師団司令部、第1旅団(オールウェイズ・ファースト)、第2旅団(ストライク)、第3旅団(ラッカサン)、第101航空旅団、第44防空連隊第2大隊、第326工兵大隊、第501通信大隊、第311軍事情報大隊、師団支援群で、軍団砲兵第18野戦砲兵旅団の増強を受けていた。任務は、ヘリボーン作戦により前進作戦基地コブラ(国境から150km北)を確保し、輸送部隊シタドルが陸路でコブラに必要な物資を輸送した上で、国境から250km北にあるサマワとナシリアの間で高速道路8号線を制圧し、クウェート戦域軍の補給路を遮断してイラク大統領警護隊をイラク南東地域に拘束、東に進出してバスラ東を制圧すること。220日、第101航空旅団により強行偵察を行い、塹壕や監視所を破壊して476名を捕虜にした。2240300AH-64A及びOH-58編隊がヘリボーン誘導のため離陸したが、濃霧のためOH-58が墜落してしまい、作戦開始予定時刻を0520から遅らせることにした。その間、軍団砲兵のM198榴弾砲及びMLRSが輸送部隊前進路に攻撃準備射撃を実施。0727UH-60A67機、CH-47ヘリ30機、UH-1ヘリ10機が、第1旅団第327空挺歩兵連隊第1大隊、M102榴弾砲6門、TOW搭載HMMWVKLR250偵察バイクを搭載し、AH-64AAH-1の護衛の下、ヘリボーンを開始した。ヘリ部隊は高度6mを時速213kmで飛行し、0800、作戦前線基地コブラ北部に設定されたLZに強行着陸。LZ付近に敵はおらず、第1大隊は付近の掃討を開始した。1000前、敵陣地を発見したため、航空攻撃と砲撃を加えて降伏を迫ったが、イラク兵士は白旗を掲げるフリをして攻撃してきたため、再びヘリのロケット弾斉射を喰らわせて士気を喪失させ、339名の捕虜を得た。1039、作戦前線基地コブラとして15km×12kmの地域を確保。50機のCH-47D250機のUH-60が到着し、兵員2050名、TOW搭載HMMWV50両、2個砲兵中隊を吐き出した。1500、シタドル輸送部隊がコブラに到着。20万ガロン(757.1キロリットル)の燃料や弾薬、資材を運び込んだ。224日中に第1旅団と第2旅団がほぼコブラに空輸されたが、翌日に高速道路8号線に向かう筈の第3旅団は何故かサウジアラビア領内に止まっていた。この日に高速道路8号線を行き来するイラク軍車両に対しては、コブラからAH-64が出撃して攻撃を行っている。225日早朝、コブラから約282km北のタリル空軍基地付近の作戦地域イーグルに向けてヘリボーンを開始。第3旅団をUH-60ヘリ66機による125ソーティで輸送し、さしたる抵抗も無くイーグルに陣地を構築、高速道路8号線を遮断してクウェートへの補給路を断った。226日、砂嵐が酷く、ヘリの飛行が阻害されたため、補給物資輸送と高速道路8号線沿いの戦力強化に集中。前線作戦基地コブラに1438.3キロリットルの燃料を運送し、路上輸送用の幹線を開設した。また、バスラ攻撃のためコブラの東200kmに前進作戦基地バイパーを設定、ヘリボーンを行い、1000までに確保した。1200、バイパーから飛び立ったAH-64Aアパッチがバスラ道路にいるイラク軍車両を壊滅させて封鎖、クウェートからの退路を完全に遮断した。227日、クウェートに閉じこめられたイラク軍に対して攻撃ヘリによる制圧を実施。228日、全作戦を終了。参考:月刊軍事研究12,081,098,091,17、月刊グランドパワー4,95

 <第101空挺師団(イラク戦争時)>:総兵力18000名。ヘリ256機(定数266機)、105mm榴弾砲54門、155mm榴弾砲6門、車両5000両を擁する。第101航空旅団(攻撃ヘリ大隊3個・AH-64D攻撃ヘリ72機、偵察大隊1個・OH-58D偵察ヘリ32機、強襲ヘリ大隊1個・UH-60L汎用ヘリ24機)、第159航空旅団(強襲ヘリ大隊3個・UH-60L汎用ヘリ90機、航空大隊1個・CH-47D輸送ヘリ48機)、空挺歩兵旅団3個(対戦車中隊TOW対戦車ミサイル搭載HMMWV装備)、師団砲兵(第320野戦砲兵連隊。105mm榴弾砲大隊3個、155mm榴弾砲中隊1個)、師団支援群、軍団支援群、その他直轄部隊(防空大隊通信大隊工兵大隊など)からなる。参考:月刊軍事研究8,041,17

 <第101空挺師団(2013年)>:第18空挺軍団隷下で、司令部はケンタッキー州フォート・キャンベルにある。隷下に第1歩兵旅団戦闘団、第2歩兵旅団戦闘団、第3歩兵旅団戦闘団、第4歩兵旅団戦闘団、第101戦闘航空旅団、第159戦闘航空旅団、第101継戦旅団を置く。参考:月刊軍事研究7,12

 <第101空挺師団(2015年)>:第18空挺軍団隷下で、司令部はケンタッキー州フォート・キャンベルにある。司令部/司令部大隊、第1歩兵旅団戦闘団、第2歩兵旅団戦闘団、第3歩兵旅団戦闘団、第101戦闘航空旅団、第101師団砲兵(本部)、第101継戦旅団からなる。第101戦闘航空旅団は第17騎兵連隊第2大隊(AH-64Eヘリ8機ずつ装備のA中隊、B中隊、C中隊、RQ-7B無人機12機装備の無人機中隊)、第101航空連隊第1大隊(AH-64Eヘリ8機ずつ装備のA中隊、B中隊、C中隊。第101航空連隊B中隊のMQ-1Cを運用可能)、同第5大隊(UH-60Mヘリ10機ずつ装備のA中隊、B中隊、C中隊)、同第6大隊(A2C2S搭載UH-60Mヘリ8機装備のA中隊、CH-47Fヘリ12機装備のB中隊、HH-60Mヘリ15機装備のC中隊)、第101航空連隊B中隊(MQ-1C無人機12機)、第96航空支援大隊(本部/本部付支援中隊、配分中隊、ネットワーク通信中隊、航空整備中隊)を隷下に置き、AH-64Eヘリ48機、UH-60Mヘリ30機、A2C2S搭載UH-60Mヘリ8機、HH-60Mヘリ15機、CH-47Fヘリ12機、MQ-1C無人機12機、RQ-7B無人機12機を配備する。参考:月刊軍事研究1,175,16

第101建設隊>:陸上自衛隊の施設科部隊。国鉄から払い下げられた蒸気機関車や貨車を装備し、鉄道輸送や補給処貨物引込線の保守点検を行うのが主任務である。19602月、津田沼の日本陸軍鉄道連隊跡地(習志野の国電駅前)で第1施設団の隷下に新編された。隊員数120名。9600型貨物用蒸気機関車(重量60トン)を配備したが、小編成ではジープで牽引した。1963年、38豪雪に災害派遣された。1964年、新潟地震に災害派遣された。道路網の発達により、レールを破壊されると使えなくなる鉄道より大型トラックの方が輸送に有利になってきたため、19664月に解隊された。参考:日本の防衛戦力Part7、スピアヘッドNo.5、朝雲

<第101号型輸送艦>:二等輸送艦シリーズを参照。

第101航空戦隊>:日本海軍航空戦隊。航空輸送を担当する部隊で、各鎮守府の輸送部隊を統合して昭和199月に新編された。隷下に第1001海軍航空隊と第1081海軍航空隊を置き、本土から台湾・フィリピンへの航空輸送に入った。参考:月刊航空ファン1,20

第101航空隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の航空隊。196191日、館山航空基地で新編され、第21航空群の隷下に入った。1973220日、第121飛行隊が新編された。1991930日、第121飛行隊がSH-60J哨戒ヘリの配備を開始。20051031日、第121飛行隊がSH-60K哨戒ヘリの配備を開始。2008326日、第21航空隊に統合されて廃止された。参考:館山航空基地ホームページ、月刊JWings1,24

第101航空隊(1978年)>:第21航空群隷下で、司令部は館山にある。HSS-2対潜ヘリ、HSS-2A対潜ヘリを配備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

第101師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和196月、独立混成第31旅団から改編された。参考:帝国陸海軍事典

<第101事務所>:海軍化兵戦部を参照。

<第101戦闘飛行隊>:VF-101を参照。

第101掃海隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の掃海隊。浅海域での掃海を主任務とする。19861216日、掃海母艇MSC-633うとねが編入され、掃海母艇MSC-621おおつが除籍された。1998323日、第1掃海隊群隷下に再編された。1999513日、MCL-723やくしまが配備された。2000313日、上級部隊の改編で掃海隊群の隷下に移った。200234日、MCL-724ははじまが編入された。MCL-722にいじまが除籍された。2004216日、MCL-725かみしまが編入された。MCL-723やくしまが除籍された。200628日、MCL-726おぎしまが編入された。MCL-724ははじまが除籍された。20081217日、MCL-725かみしまが除籍され、MCL-727さくしまが編入された。2010226日、MCL-728いえしまが編入された。MCL-726おぎしまが除籍された。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。2013321日、MCL-727さくしまが除籍された。MCL-729まえじまが第44掃海隊から編入された。2014516日、MCL-730くめじまが第42掃海隊から編入され、MCL-728いえしまが除籍された。2017327日、MCL-731ゆげしまが第45掃海隊から編入され、MCL-729まえじまが除籍された。2018327日、MCL-732ながしまが第45掃海隊から編入され、MCL-730くめじまが除籍された。2020101日、呉で解隊行事が行われて解隊された。所属のMCL-731ゆげしまMCL-732ながしまは除籍されている。参考:月刊世界の艦船2,871,79増刊、8,'245,137,146,1712,'20MAMOR vol.52、朝雲

 <第101掃海隊(1961年9月)>:第1掃海隊群隷下で、呉に置かれている。みほ、掃海艇1号、掃海艇2号、掃海艇3号、掃海艇4号、掃海艇5号、掃海艇6号を配備する。参考:月刊世界の艦船3,19

 <第101掃海隊(1978年)>:呉地方隊隷下で、MSC-609こうづ、MSB-707掃海艇7号、MSB-708掃海艇8号、MSB-709掃海艇9号、MSB-710掃海艇10号、MSB-711掃海艇11号、MSB-712掃海艇12号を配備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

 <第101掃海隊(2001年度)>:掃海隊群隷下で、呉に置かれている。MCL-722にいじま、MCL-723やくしまを配備する。参考:月刊世界の艦船1,02

 <第101掃海隊(2010年)>:掃海隊群隷下で、MCL-727さくしま、MCL-728いえしまを配備する。参考:月刊軍事研究9,10

 <第101掃海隊(2015年)>:掃海隊群隷下で、呉に置かれている。MCL-729まえじま、MCL-730くめじまを配備する。参考:月刊世界の艦船6,15

 <第101掃海隊(2020年)>:掃海隊群隷下で、呉に置かれている。MCL-731ゆげしま、MCL-732ながしまを配備する。参考:月刊世界の艦船6,20

第101測量大隊>:陸上自衛隊の部隊。アメリカ陸軍第64工兵大隊(地図作業)をベースに1954年に東立川駐屯地で創設された。主任務は地形図や航空写真の測図、修正、複製、供給である。1990年頃から衛星写真処理やGPS測量を行う様になった。1995年、中央地理隊に改称された。参考:月刊軍事研究7,97、日本の防衛戦力Part1

第101特殊武器防護隊>:陸上自衛隊の化学科部隊。2007年、第101化学防護隊から改編されて中央即応集団隷下に創設された。2008年、中央特殊武器防護隊に改編された。参考:スピアヘッドNo.12No.16

第101飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。F-86Dの機種転換訓練部隊(初のF-86D部隊でもある)として195881日に第3航空団隷下に新編された。ホームベースは岐阜基地である。1959512日、小牧基地に移動した。1968101日に解隊された。参考:月刊丸12,10、月刊航空ファン1,15、月刊JWings4,11

第101飛行隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊第1混成団隷下の航空科部隊。野整備機能、管制気象機能を持ち、ミニ方面航空隊ともいえる。197231日に臨時第101飛行隊として高遊原分屯地で編成され、1121日に那覇駐屯地に移動、121日から急患空輸任務(奄美から沖永良部など、東西1000km、南北500kmの範囲の離島をカバーする)をアメリカ軍から引き継いだ。使用機はV-107HU-1BLR-1で、洋上飛行が多いため後に沖縄塗装と呼ばれることになるオリーブドラブ、ホワイト、オレンジの3色塗装を採用した。126日に初の急患空輸任務を実施。1973720日、糸満市喜屋式でUH-1Bが落着し、重傷者3名と軽傷者1名を出した。1016日に正式に第101飛行隊になった。19797月、急患空輸1000回を達成。198366日、那覇空港で離着陸訓練中にV-107が地上共振を起こして横転、炎上し、2名が重傷、1名が軽傷を負った。198411月、急患空輸2000回を達成。198910月、急患空輸3000回を達成。1990217日、夜間急患空輸のため那覇空港を離陸して宮古空港に向かっていたLR-1が墜落し、乗員3名と同乗の民間医師1人が死亡した。この時死亡した医師の両親から安全を祈願してシーサーの像が贈られており、格納庫脇に置かれている。19947月、急患空輸4000回を達成。19988月、急患空輸5000回を達成。199910月、UH-60JAの配備を開始。沖縄塗装は施されず、以降のCH-47J/JALR-2にも沖縄塗装は採用されていない。2002年、急患空輸任務従事により小泉総理大臣から国民安全功労表彰を受賞。200211月、急患空輸6000回を達成。200645日、急患空輸7000回を達成した。2007330日、急患輸送のため徳之島に向かっていたCH-47JAが悪天候で徳之島天城山頂上付近に墜落し、乗員4名全員が死亡した。この事故を受け、第101飛行隊安全啓発室と第101飛行隊資料室が設置され、部隊の歴史や事故に関する資料が展示されている(部外非公開)。また、陸自がCH-47JAを3週間ほど飛行停止にしたため、その間の緊急患者空輸は那覇ヘリコプター空輸隊が行った。2008年初め、急患輸送7400回を達成。2009328日、2007年のCH-47JA墜落事故で殉職した隊員4名の追悼式を那覇駐屯地で実施。2010326日、第15飛行隊に改編された。参考:月刊航空ファン8,105,1610,169,18、月刊軍事研究9,06、自衛隊装備年鑑1996、月刊JWings5,086,102,'23、朝雲

第101不発弾処理隊>:陸上自衛隊の不発弾処理隊で、第15旅団隷下にあり、那覇駐屯地に置かれている。全国の不発弾処理件数のうち95%を担当しており、緊急出動に備え、1個組3名が課業中は10分待機、課業外でも30分待機状態にある。元は那覇市小禄で197432日に発生した不発弾爆発事故(死傷者40人)をきっかけとして同年65日に第1混成団隷下に新編された特別不発弾処理隊で、1993年に第101不発弾処理隊に改編された。20081210日、不発弾回収を実施。浦添市前田の文化財発掘現場で迫撃砲弾3発と地雷2発、西原町の工事現場で砲弾と水際機雷を回収し、与那原町で同日12件目の迫撃砲弾を回収、処理件数30000件(1500トン)を達成した。その後は南風原町の民家建設現場で5インチ(127mm)艦砲弾を調査し(後日安全化処理)、農地で砲弾を回収している。2009114日、水道工事中にアメリカ製250kg爆弾とみられる不発弾がショベルカー掘削の衝撃で炸裂し、2名が重軽傷を負った。その後、回収要請が急増し、3週間で39回出動して1200発を回収している。121日、通学路沿いの資材置き場にあった砲弾を男子小学生が学校に持ってきてしまったため、要請を受けて回収した。20107141010、沖縄県糸満市の飲食店敷地内で国道331号拡張工事のため磁気探査中の業者が砲弾入りスチールケースを発見し通報。沖縄県警から第15旅団に出動要請があり、1110から第101不発弾処理隊の3名が調査したところ、多数のスチールケースが発見され、中に81mm迫撃砲弾62発、60mm迫撃砲弾416発、ロケット弾2発、手榴弾81発、小銃弾81発、打ち上げ表示弾1発が収容されていたため、1610までに全て回収し、県不発弾保管庫に運搬した。1017日、那覇市首里鳥堀の住宅建設現場で726日に見つかったアメリカ製8インチ(203mm)艦砲弾(信管が腐食していて除去不能)を現場で爆破処理した。砲弾は土と畳で3重に囲み、1トンの土嚢を積んで防護。爆破の瞬間には震度4以上に相当する衝撃が観測された。2011725日、沖縄県南風原町の病院敷地内でアメリカ製125kg爆弾が見つかったため、94日に半径222mを避難区域に設定(避難が困難な入院患者や付き添いの医師・看護師ら250名は病院内に止まった)して信管除去作業を行い安全化、沖縄県不発弾保管施設に運んだ。824日と99日、沖縄県立首里高校の校舎建て替え現場でアメリカ製50kg爆弾1発ずつが見つかったため、102日に信管除去作業を行い安全化、回収した。1126日、首里高校グラウンド内の校舎改築工事現場で不発弾が発見された(これまでに首里高校内ではこれを含め16発の不発弾が発見されている)。第101不発弾処理隊が調査したところ、アメリカの8インチ(203mm)艦砲弾(長さ900mm、重量118kg、弾底信管付き)であることが判明。信管が腐食していて離脱不可能であり、厚さ3mmのライナープレートや1トン土嚢で囲み、後で爆破処理を行うことになった。201234日、首里高校の8インチ(203mm)艦砲不発弾処理を実施。0730に城西小学校に現地対策本部を開設し、0900過ぎから半径200mに対して交通規制と避難を実施。0920から8名で準備作業を開始し、1234に爆破した。1400前(予定より3時間前倒し)に避難が解除された。415日、2350人を避難させて首里高校で217日に発見されたアメリカ製250kg爆弾の安全化・回収を実施。2014126日、糸満市喜屋武で前年1212日に発見されたアメリカ製2000ポンド爆弾(長さ1.8m、直径0.6m、重量1トン)の安全化作業を実施。沖縄県で2000ポンド爆弾が発見されたのは1990年以来で、処理経験のある隊員は1名しかおらず、事前に念入りなシミュレーションを行った。避難区域は半径1kmで、177世帯480人が避難し、6名で弾底部と弾頭部の信管を抜き取り、1時間で作業を終えた。130日までに前身部隊含め343151700トンの不発弾を無事故で処理した。625日、那覇駐屯地で創隊40周年記念行事を実施。2015213日、沖縄県浦添市で遺骨収集作業中に発見されたアメリカ製155mm砲弾を処理し、処理通算35000件(累計重量1720トン)を達成した。2017923日、沖縄県那覇市のホテル建設現場で83日に発見された50kg爆弾(長さ800mm、直径200mm)の不発弾安全化作業を実施。半径166m以内を封鎖して0930から住民2500人が退避、1020から交通規制をかけ、1041から隊員3名で信管除去作業を開始、1114に処理を完了した。安全化した不発弾は報道陣に公開された後、陸自トラックで保管場所に運ばれている。20199月、沖縄県内で不発弾処理6件(アメリカ製5インチ艦砲弾4発信管破壊、アメリカ製250kg爆弾など2発信管離脱)を実施した。2020612-13日、沖縄県南風原町と南城市で発見された不発弾の現地安全化(爆破処理)を行った。82日、那覇市赤嶺トンネルの工事現場で発見されたアメリカ製5インチ艦砲弾(全長44cm、直径12.7cm、重量35kg。信管残存)1発の安全化を行い、沖縄県の保管施設に運搬した。84日、糸満市新垣でアメリカ製5インチ艦砲弾の不発弾2発が発見されたため、安全化して撤去した。825-26日、中部訓練場で不発弾爆破処分を実施。5インチ艦砲弾36発や6インチ艦砲弾6発など3001.5トンを処分した。202146日、伊江島補助飛行場でアメリカ製5インチ艦砲弾など不発弾48発を導火線点火による爆破処分で処理した。62-3日、訓練を兼ねてキャンプ・シュワブで不発弾爆破処分を実施。アメリカ軍155mm砲弾など152発を爆破処分した。69日、沖縄県宜野湾市の工事現場で発見された不発弾(5インチ艦砲弾)1発の現地安全化を実施。不発弾を処理壕に移し、ディアマ処理で信管を爆破した。718日、那覇市立病院駐車場建設工事現場で発見された不発弾(アメリカ製5インチ艦砲弾)1発のディアマによる現地安全化を実施。自治体の処理壕に不発弾を移し、ディアマで信管を破壊した。729日、名護市で発見されたアメリカ製50kg爆弾の不発弾1発を信管離脱により現地安全化した。730日現在の処理実績は386491839トン。919日、沖縄県豊見城市内の畑で発見されたアメリカ製50kg爆弾の不発弾1発の現地安全化を実施。処理壕内で手動の信管離脱を行った。1028日、中部訓練場でアメリカ製5インチ艦砲弾1発を爆破処分した。周囲に風船や標的などを設置して爆風や破片の及ぶ範囲を目視できるようにし、状況を資料に纏めて部隊教育や自治体への説明に活用している。2022121日、那覇基地内で発見されたアメリカ製5インチ艦砲弾(全長44cm、直径12.7cm)の処理作業を行い、信管破壊で安全化した。124日現在の処理実績は388441843トン。130日、沖縄県西原町の工事現場で発見されたアメリカ製不発弾(250kg爆弾、信管付。全長1.19m、直径0.36m)の現地安全化を実施。半径283m以内736世帯2000人を避難させ、副隊長以下7名が手動による信管離脱を行って安全化した。324日、沖縄県宮古島市の工事現場で発見されたアメリカ製300ポンド投下爆雷の現地安全化を実施。半径200m以内400世帯700人を避難させ、7名で作業を実施、手動による信管離脱が信管変形により行えなかったため不発弾切断による炸薬除去により安全化した。宮古警備隊が通信支援を行い、宮古島市役所の対策本部では処理隊長が第15通信隊写真班が作成した映像で処理要領を説明している。831日、沖縄県中頭郡西原町で712日に発見されたアメリカ製5インチ(127mm)艦砲弾の不発弾現地処理を実施。副隊長以下8名が現場でディアマ処理(火薬で信管を弾き飛ばす)を行い、安全化した。参考:朝雲、スピアヘッドNo.16、月刊軍事研究9,14、日本の防衛戦力Part1、月刊航空ファン4,16

第101無人偵察機隊>:陸上自衛隊の無人偵察機隊。19893月、第301無線誘導機隊から改編され、静内駐屯地で創設された。201896日に発生した北海道胆振東部地震の災害派遣に参加。2020629日から73日、静内対空射場で新標的機(高速標的機、低速標的機)の初飛行訓練を実施。71日に新高速標的機、73日に新低速標的機を、飛行準備−発進−飛行−回収までプログラムに従い安全に飛行させた。参考:第7師団ホームページ、朝雲

 <第101無人偵察機隊(2020年)>:第1高射特科団の隷下にある。参考:朝雲

第101両棲偵察営>:台湾陸軍の特殊部隊で、国軍中央直轄である。1973年に成功第1・第2営、陸軍第1001・第1002連、反共救国海上突撃隊を統合して設立された。営本部(大隊本部)と5個偵察連(偵察中隊)からなり、兵力400名。外島の警戒監視、特殊作戦、対テロ任務、民生協力などを主任務としている。最小単位は12名のフロッグマン(海龍蛙兵)から構成される班で、ゴムボートで移動して任務を行う。主要装備はM2A2快速艇(重機関銃またはグレネードランチャー付き)、成功級快速艇、海龍級快速艇、57式歩槍銃、91式戦門歩槍、サイレンサー付き拳銃、GPS受信機、AN/PRC-77無線機、赤外線暗視装置、偵察用小型4輪UGV、偵捜球(野球ボール大の球形偵察装置)など。参考:月刊軍事研究4,07、ストライクアンドタクティクスマガジン5,12

第102師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和196月、独立混成第31師団を改編して熊本で編成された。通称抜師団。6月中旬、第14軍の隷下に入った。昭和19年後半、第35軍の隷下にあった。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦、太平洋海戦史

第102戦隊>:日本海軍の戦隊。昭和19121日、海防艦屋代が呉防備戦隊から転入した。参考:月刊丸7,14

<第102戦闘攻撃飛行隊>:VFA-102を参照。

第102装甲輸送隊>:陸上自衛隊の装甲輸送隊。1971325日、上富良野駐屯地で新編された。1981324日に廃止された。参考:上富良野駐屯地ホームページ

第102飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の飛行隊。F-86D戦闘機初の実戦部隊として195931日に第3航空団隷下に新編された。ホームベースは小牧基地である。824日(28日?)、昼間8時間限定でアラート任務を開始。1967121日に解隊された。参考:月刊JWings4,11、月刊丸12,10、月刊航空ファン1,15

第102飛行隊(陸上自衛隊)>:陸上自衛隊の飛行隊。第1ヘリコプター団隷下で、特殊作戦群の人員を輸送する特殊作戦ヘリ部隊である。装備機はUH-60JAOH-6Dで、木更津駐屯地に置かれている。2021125日、イオンモール木更津で行われたきさらづ防災フェスタ2021UH-60JAヘリで参加。2023117日、UH-60JAヘリ3機(編隊構成2機+陸上総隊司令官座乗空中視察機1機)で第1ヘリコプター団令和5年年頭編隊飛行に参加。参考:月刊JWings3,193,224,23

第102不発弾処理隊>:陸上自衛隊の不発弾処理隊。東部方面後方支援隊隷下で、朝霞駐屯地に駐屯している。20091171130頃、東京都世田谷区北沢のアパート解体現場で不発弾らしきものが発見され、1600過ぎに警視庁から第1師団に不発弾処理要請があり、本処理隊の隊員2名が現場に向かった。1700に現場に到着、1710から識別作業に入り、1720に安全を確認して爆弾(日本海軍60kg焼夷爆弾。長さ1m、直径0.25m、重量24kgで、信管と炸薬は入っていなかった)を撤去、1630過ぎに帰投した。3271040頃、東京都中野区立桃花小学校校庭で、下水道配管工事中に砲弾が発見されたため、警視庁中野警察署から第1師団に連絡があり、現場に出動。日本軍のものとみられる長さ35cm・直径12cmの砲弾を発見し、爆発の危険が無かったために回収した。4191215頃、茨城県小美玉市百里の畑で不発弾のようなものが発見されたため、警察から連絡が入り、現場に出動。長さ49cm・直径12cmのアメリカ製ロケット弾で、爆発の危険性があり、4300900から周辺住民を避難させて処理を開始。縦横2m・深さ3mの穴に不発弾を入れ、土などを被せて1100に爆破処理した。726日、埼玉県鳩ヶ谷市のマンション建設予定地で発見された全長1.2m・直径0.3m250kg爆弾(弾頭・弾底信管付き)を安全化して回収した。1225日、群馬県前橋市の畑で不発弾が発見されたため、県警から通報を受け出動、アメリカ製焼夷弾(長さ50cm、幅8cm)1発を回収した。翌日も同じ現場から焼夷弾が発見され、3発を回収した。2010530日、埼玉県鳩ヶ谷市の工事現場で312日に発見されたアメリカ製250kg爆弾の不発弾処理を実施。半径300m2300人を避難させて信管抜き取り作業を行い、安全化した。125日、新潟市北区西一丁目の集合住宅建設予定地で82日に発見されたMk25Mod0沈底機雷の不発弾処理を実施。半径300m1000人を避難させて信管抜き取り作業を行い、安全化した。2012112日、神奈川県横須賀市内の工事現場で不発弾(日本軍15cm砲弾)1発が見つかったため、回収した。1021日、東京都港区赤坂の工事現場で発見されたアメリカ製500ポンド焼夷弾を撤去処理した。2013217日、浜松市のJR東海浜松工場で発見された16インチ艦砲弾(全長1.6m、直径0.41m、重量860kg。昭和20729日に国鉄浜松工機部に撃ち込まれた)の実爆処理(信管が固着していて外せなかった)を実施。輸送路の両脇500m以内を含む周囲3800世帯に避難指示が出され、0830頃から工場で不発弾を積載し、0930頃に遠州灘海岸に到着、4mの穴の底に爆破用C4爆薬と共にセットして土嚢や畳で覆い、6mほど砂山を被せ、1400に爆破処理した。64日、東京都北区の建設現場で日本軍8cm高射砲弾を爆破処理した。1027日、東京都南品川の工事現場で発見された日本軍15cm砲弾(長さ55cm、直径15cm)の爆破処理を実施。119日午前、立て替え中のホテルオークラ東京の地中で長さ240mm90mm砲弾2発と85mm砲弾1発(日本軍野砲弾と推定)が発見されたため、午後に2名が緊急出動して安全性を確認、そのまま回収した。1117日、東京都北区の工事現場で発見された不発弾(アメリカ製2000ポンド爆弾。長さ1.7m、直径0.6m)の安全化・回収作業を実施。2016218日、茨城県JR石岡駅敷地内で砲弾のようなものが見つかったため、茨城県警から要請があり、1327に隊員3名が出動。日本軍のものと思われる砲弾6発(長さ500mm)を確認し、信管が付いておらず爆発の危険性は無いと判断して撤去、朝霞駐屯地に持ち帰った。2018年度の不発弾処分実績は処分回数239回、処分数17000発、処分量20トンだった。201945日、東京都江東区のマンション建設現場で不発弾が発見され、調査したところ太平洋戦争時に投下されたアメリカ製500ポンド焼夷弾(全長1.22m、直径0.43m)で弾頭・弾底信管が付いていたため、520日から処理作業を開始。530日に直径4m・深さ5mの防護壁が完成し、65日に隊員5名で安全化・撤去作業を実施、1時間半かけて信管を外し、不発弾を朝霞駐屯地に運び込んだ。朝霞演習場で処分する予定。20211020日、茨城県阿見町で発見された日本軍127mm砲弾の不発弾1発の現地爆破処理を行い、処理壕に不発弾を搬入して爆破した。1031日現在の処理実績は7685516.6トン。1128日、東京都杉並区の空き地で発見されたアメリカ製100ポンド焼夷弾1発の現地安全化を実施。半径40m20世帯50人を避難させ、不発弾を処理壕に搬入・設置し、信管離脱を行った。1210日現在の処理実績は7707518トン。参考:朝雲、スピアヘッドNo.16、月刊軍事研究5,13、月刊丸5,13

<第103号型輸送艦>:二等輸送艦シリーズを参照。

第103師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。独立混成第32旅団を改編して昭和196月に名古屋で創設された。通称駿師団。6月中旬、第14軍の隷下に入った。728日、第14方面軍の隷下に入った。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦、太平洋海戦史

第103戦隊(日本海軍)>:日本海軍の戦隊。昭和20120日に編成され、第1護衛艦隊に編入された。司令は久宗米次郎少将である。参考:第2次大戦日本海軍作戦年誌

<第103戦闘飛行隊>:VF-103を参照。

<第103飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。F-86D部隊として196031日に第3航空団隷下に新編された。ホームベースは小牧基地。1961610日、第2航空団隷下となり、千歳基地に移動した。88日、アラートを開始。1968101日に解隊された。参考:月刊JWings4,11、月刊丸12,10

第103不発弾処理隊>:陸上自衛隊の不発弾処理隊。19943月、桂駐屯地で新編された。20043月、中部方面後方支援隊の隷下に入った。2009420-21日、長池演習場で処理隊訓練を実施。11160930頃、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡発掘調査現場でアメリカ製100ポンド焼夷弾とみられる不発弾(長さ1.3m、直径0.21m、重量32kg)が発見されたため、1127日に半径100m以内を危険区域として立ち入り禁止とし、不発弾処理を行った。12240900、三重県朝日町の農地で不発弾が発見されたため、1900に隊員4名を派遣、アメリカ軍の1トン爆弾(長さ1.7m、直径0.59m)1発と確認した。信管は付いておらず、避難や交通規制を実施することなく1225日正午頃までに隊員2名で回収した。20106241600過ぎ、富山市星井町小学校グラウンド跡地で作業員が油圧ショベルで掘削中、地下3mの地中で金属製の物体を発見。掘り出したところ、白煙を上げて燃えだしたため、警察に通報した。警察から陸自に派遣要請があり、第103不発弾処理隊の隊員2名が現場で確認したところ、太平洋戦争中のアメリカ製黄燐発煙弾と判明した。625日、隊員が防爆チョッキと警備用防護盾を装備(ガスマスクは不要)して回収作業を行い、全長60cm・直径20cmの残骸を水の張ったクーラーボックスに回収した。626-27日、隊長ら3名が信管部の状況や他の不発弾の有無を確認し、地中に残ったリンをバーナーで焙って焼却した。926日、前月末に大阪市交通局森之宮検車場で発見されたアメリカ製1トン爆弾を安全化した。2011212日、前年1217日に大阪市中央区の文化財発掘調査工事現場で発見されたアメリカ製1トン爆弾の処理を実施。半径300m以内が立ち入り禁止区域に設定され、0900前から4名が安全化作業を開始、1000に弾底・弾頭信管の離脱を完了した。その後不発弾は祝園弾薬支処に運搬された。74日、名古屋市千種区の鍋屋上野浄水場で工事中に不発弾が発見されたため、隊員5名で調査したところ、全長1.2m、直径0.36mのアメリカ製250kg爆弾と判明。弾頭と弾底に信管が付いており、ライナープレートで囲んで土盛りし、保全措置を行った。717日、周囲300mを立ち入り禁止として1000から5名で処理作業を実施。報道ヘリが近づいたため10分間作業が中断されたが、1130前に信管を外して作業を完了、1146に安全化宣言が出された。不発弾は保管施設にトラックで輸送した。201324日(3日?)、大阪市北区でアメリカ製2000ポンド爆弾(全長1.8m、直径0.8m)の不発弾処理(安全化・回収)を実施。217日、神戸市東灘区甲南町の解体工事現場で121日に発見された500ポンド爆弾(AN-M64と推定)の不発弾処理を実施。住民3100人を避難させ、0929に処理を開始、1106に安全化宣言を出した。224日、大阪府八尾市で500ポンド爆弾の不発弾処理(安全化・回収)を実施。201559日、大阪市浪速区で3月に発見されたアメリカ製1トン爆弾(長さ1.8m、直径0.6m、重量1トン)の安全化を実施。半径300mを避難区域として0700までに1600世帯2200人を避難させ、南海電鉄難波駅を始発から閉鎖、0800から信管の離脱作業を開始した。特殊レンチにより信管を8分の1回転ずつ回して弾底・弾頭の順に外し、0920に信管除去を完了。爆弾はトラックで祝園弾薬支処に運んだ。2020626日、三重県菰野町の民家の納屋で不発弾1発が発見されたため、三重県警察本部から第10師団に通報があり、第103不発弾処理隊隊員2名が現場に向かい、全長30cm・直径7.5cmの信管付き日本陸軍砲弾と確認、識別の結果安全に運べると判断されたため、そのまま回収した。参考:桂駐屯地ホームページ、朝雲、スピアヘッドNo.16、月刊丸5,13

第104師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。編成地は大阪で、通称鳳師団。太平洋戦争時、隷下に歩兵第108・第137・第161連隊を置いていた。昭和19年後半、第23軍の隷下にあった。昭和20117日から一号作戦第三期作戦を開始。127日、韶關を占領。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第104不発弾処理隊>:陸上自衛隊の不発弾処理隊。19943月、西部方面武器隊隷下に目達原駐屯地で新編された。2003327日、西部方面後方支援隊隷下に移った。20095110905頃、豊後大野市千歳町の山林で不発弾が発見されたため、警察署から不発弾回収要請があり、1600頃から回収作業を開始。1930までに長さ1.35m・直径0.24mの日本軍100kg爆弾と推定される不発弾3発を回収した。翌5121000-1500にも作業を行い、更に3発を回収している。6291100過ぎ、大分県大分市にある新日鉄大分製鉄所の敷地内で不発弾が発見されたため、大分県警から回収要請が出された。1715頃から回収作業を開始し、1740頃に長さ0.70m・直径0.13mの日本軍30kg爆弾とみられる不発弾を回収した。信管は付いていなかった。8191400頃、福岡県筑紫野市の住宅造成地で防空壕跡とみられる場所から不発弾が発見されたため、警察から連絡を受けて出動、日本軍50kg爆弾18発を回収した。9月に入り同じ現場から多数の不発弾(全て日本軍50kg爆弾)が発見され、94日に76発、7-9日に46発、16-17日に211発、19日に2発を回収した。他に信管895個も発見・回収している。2011630日、宮崎空港の誘導路付近でアメリカ製50kg爆弾1発が発見されたため、安全化処理を行った。1125日、宮崎空港で信管付きのアメリカ製250kg不発爆弾が発見されたため、保全措置を実施。1280700から宮崎空港を閉鎖して処理が行われた。2013919日、鹿児島県喜界町で93日に発見された不発弾(アメリカ製250kg爆弾)の安全化・回収作業を実施。弾頭・弾底信管を外し、喜界島の指定地域で爆破処理を行い、本体は西部方面航空隊CH-47ヘリで大分弾薬支処に運んだ。1220日、大分県宇佐市院内町の民家で派遣された日本軍57mm砲弾(長さ235mm、直径57mm、重量2.25kg)を回収した。2014521日、宮崎市のマンション建設予定地の地中から不発弾が発見されたため、県警からの要請を受け調査を実施。太平洋戦争中に投下されたアメリカ製500kg爆弾(全長1.35m、直径0.5m)であり、61日に回収作業を行った。0800、半径800mに避難勧告が出され、住民7000人が避難、JR宮崎駅(現場から300m)は封鎖され、JR日豊本線も一部区間で運転をストップした。0931、作業を開始。最も危険性が高いとされる長延期信管が付いていたため、慎重に作業を行い、1019に信管を除去した。その後不発弾をクレーンで車両に回収し、1032に市長が安全宣言を出している。68日、久留米市でアメリカ製250kg焼夷弾(全長1.2m、直径0.4m)を回収した。202038日、大分市内の乙津川河川敷でアメリカ製1トン爆弾(長さ1.8m、直径0.6m)の不発弾処理を実施。半径500mを警戒区域に設定して住民3000人が避難、道路や鉄道の交通も止め、0951から弾頭・弾底部信管の取り外しを開始し、1時間後に処理を完了して安全化した。参考:朝雲、スピアヘッドNo.16、目達原駐屯地ホームページ

第105システム管理隊>:陸上自衛隊のシステム管理隊。20013月、中部方面隊隷下に新編された。参考:中部方面隊ホームページ

第105師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。独立混成第33旅団を改編して昭和196月に広島で編成された。通称勤師団。6月中旬、第14軍の隷下に入った。728日、第14方面軍の隷下に入った。捷一号作戦ではアメリカ軍のリンガエン上陸を受けて一部をプンカンに配置し、持久戦を行った。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦、太平洋海戦史

第105飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。F-86Dの実戦部隊として1962315日に第3航空団隷下に新編された。ホームベースは小牧基地である。1967121日に解隊された。参考:月刊JWings4,11、月刊丸12,10

第106歩兵師団(アメリカ陸軍)>:アメリカ陸軍の師団、別名ゴールデン・ライオンズ。1943年春に編成され、司令部はアメリカ本土にあり、新兵を訓練して海外展開する部隊に送るのが主任務である。19444-8月に7247名を送り出した。その後兵力不足から前線に送られることになり、新兵で欠員を埋め合わせて1020日にイギリス本土に到着。122日にル・アーブル港からヨーロッパ本土に上陸し、1210日にアルデンヌ戦線に配備され、司令部をサン・ヴィットに置いた。1216日のラインの守り作戦ではドイツ国防軍の矢面に立たされ、1222日までに師団兵力の75%12000名)を死傷または捕虜として喪失し、壊滅した。参考:月刊軍事研究2,08

第107師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和195月に満州で編成された。通称凪師団。昭和19年後半、第3方面軍の隷下にあった。終戦時、隷下に歩兵第90・第177・第178連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第108師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和195月に満州で編成された。通称祐師団。終戦時、隷下に歩兵第240・第241・第242連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第109師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。編成地は東京で、通称胆師団(小笠原兵団)。昭和19年、留守近衛第2師団から新編された。終戦時、隷下に独立混成第2旅団、歩兵第145連隊、戦車第26連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典、軍医サンよもやま物語

第109地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊。2022615日、令和3年度隊務優秀部隊として警務隊本部から表彰された。参考:朝雲

第110師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。編成地は姫路で、通称鷺師団。太平洋戦争時、隷下に歩兵第110・第139・第163連隊を置いていた。昭和19年後半、第12軍の隷下にあった。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第111航空隊>:海上自衛隊の航空隊。航空集団直轄で、主任務は航空掃海である。1974216日、航空集団隷下に下総航空基地で新編され、KV-107Aが配備された。198991日、MH-53E掃海ヘリの導入に伴い下総航空基地から岩国航空基地に移動した。1130日、MH-53Eの配備を開始。1990330日、KC-107A掃海ヘリの最後の1機が除籍された。2003年、MCH-101の導入に伴い、輸送任務も行うようになった。2009611日、運用機1機あたり3000時間以上の航空無事故達成により、海幕長から第2級賞状を授与された。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。312日、厚木航空基地に2機のMH-53Eヘリを展開して捜索輸送任務を実施。1304MCH-101で陸前高田病院から花巻空港まで人員を輸送。14321430?)、MCH-101で陸前高田病院から花巻空港まで人員を輸送。3131055、南三陸町に非常用食糧などを輸送した。315日、MCH-101AOE-424はまなから八戸に食糧15トンを空輸した。3180859MH-53Eヘリで厚木から石巻運動公園に医療品10kgと毛布1100枚を輸送した。1130MH-53Eで毛布700枚と医療品を厚木から石巻運動公園に輸送した。1302MH-53Eで厚木から石巻運動公園に毛布400枚を輸送。1519MH-53Eヘリで霞目飛行場から大島に飲料水6.5トンを空輸。1545MH-53Eで霞目飛行場から大島に飲料水6.5トンを空輸。3192037、気仙沼に生活用品など1.5トンを輸送。3211515MCH-101により八戸からDDH-181ひゅうがへ布団、被服、日用品3.2トンを輸送した。3221017、ヘリで八戸からDDH-144くらまに救援物資3.7トンを輸送。1315、ヘリで八戸からMST-464ぶんごに救援物資1.2トンを輸送。1442、ヘリでAOE-426おうみからDDH-144くらまに救援物資4トンを輸送。1800MCH-101で八戸からDDH-144くらまに救援物資3.7トン、八戸からMST-464ぶんごに救援物資1.2トン、AOE-426おうみからDDH-144くらまに救援物資0.3トンを輸送。3241619、ヘリでAOE-426おうみから気仙沼中に飲料水3.9トンを輸送。3290930MH-53Eヘリ1機で生活用品1082kgDDH-181ひゅうがに輸送した。3300909MH-53Eヘリ1機で生活用品1082kgDDH-181ひゅうがに空輸した。4121058、ヘリで伊里前小学校に水を輸送。1254、ヘリで小友中学校に水を輸送。東日本大震災ではMH-53EMCH-101126フライト(460飛行時間)を行い、MH-53E113トン、MCH-10138.2トンを輸送した。64日、広島地本に協力し、MCH-101による体験搭乗を行った。2012714-26日、平成24年度機雷戦訓練及び掃海特別訓練にMH-53EMCH-101で参加。201334日、アメリカ軍関係者の岩国基地研修を支援した。620-28日、硫黄島沖で実機雷処分訓練に参加し、MH-53Eヘリ2機を派遣した。920-28日、パシフィック・リーチ2013に参加。1118-28日、日向灘で掃海特別訓練に参加。201417日、岩国基地で平成26年初訓練を実施。38日、開隊40周年記念式典を実施。201517日、初訓練飛行を実施。2016414日と16日に発生した熊本地震の災害派遣に参加。201733日、岩国航空基地でMH-53Eヘリ除籍式を実施。2018324日、海自第1術科学校と幹部候補生学校を視察する安倍総理をMCH-101に乗せ、海上保安大学校から江田島地区まで運航した。75日からの西日本豪雨に対する災害派遣に参加。2021527日に今治市沖で発生した貨物船白虎沈没事故の災害派遣にMCH-101ヘリ1機で参加。2022730日、山口地本に協力し、MCH-101掃海輸送ヘリで募集対象者ら30人に体験搭乗を実施。広島湾甲島上空のフライトと、格納庫での機体展示説明を行った。815日、民間ヘリ捜索の災害派遣MCH-101掃海輸送ヘリ1機で参加。参考:月刊JWings12,0612,133,143,155,17、丸スペシャルNo.78MAMOR vol.52、月刊航空ファン6,117,166,18、月刊世界の艦船10,'159,138,'21、月刊JWings10,1811,'22、東日本大震災海上自衛隊災害派遣の記録、朝雲

 <第111航空隊(1978年)>:航空集団隷下で、司令部は下総にある。V-107Aを装備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

 <第111航空隊(2010年)>:航空集団隷下で、司令部は岩国航空基地にある。MH-53EMCH-101を装備する。また、しらせ飛行科(CH-101)を隷下に置く。参考:月刊航空ファン4,10

 <第111航空隊(2015年)>:航空集団隷下で、司令部は岩国航空基地にある。MH-53EMCH-101を装備する。参考:月刊航空ファン4,16

 <第111航空隊(2020年)>:航空集団隷下で、岩国航空基地にある。MCH-101を装備する。参考:月刊JWings6,20

第111師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和197月、満州で編成された。通称市師団。昭和19年後半、第3軍の隷下にあった。終戦時、隷下に歩兵第243・第244・第245連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第112師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和197月、満州で編成された。通称公師団。昭和19年後半、第3軍の隷下にあった。終戦時、隷下に歩兵第246・第247・第248連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第114師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。独立歩兵第3旅団を改編して昭和197月に弘前で編成された。通称将師団。昭和19年後半、第1軍の隷下にあった。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第115師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。独立混成第7旅団を改編して昭和197月に旭川で編成された。通称北師団。昭和19年後半、第12軍の隷下にあった。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第116師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。編制地は京都で、通称嵐師団。太平洋戦争時、隷下に歩兵第109・第120・第133連隊などを置いていた。昭和19年後半、第20軍の隷下にあった。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第117師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和197月、独立歩兵第4旅団を改編して東京で編成された。通称弘師団。昭和19年後半、第12軍の隷下にあった。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第118師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和197月、独立歩兵第9旅団を改編して京都で編成された。通称恵師団。昭和19年後半、駐蒙軍の隷下にあった。終戦時、隷下に独立歩兵大隊8個などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第119師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和1910月、満州で編成された。通称宰師団。昭和19年後半、第6軍の隷下にあった。終戦時、歩兵第253・第254・第255連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典、比島決戦

第119地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、北部方面警務隊の隷下にある。担当区域は旭川市、留萌市、稚内市、紋別市、士別市、名寄市、深川市、富良野市、空知総合振興局管内(雨竜郡)、上川総合振興局管内、留萌振興局管内、宗谷総合振興局管内、オホーツク総合振興局管内(常呂郡佐呂間町と紋別郡)。2017215-16日、北部方面警務隊競技会に参加し、識能試験で優勝した。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第120師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和1911月、満州で編成された。通称邁進師団。昭和19年後半、第3軍の隷下にあった。終戦時、歩兵第259・第260・第261連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第120地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、北部方面警務隊の隷下にある。担当区域は札幌市(札幌駐屯地の所在する区域以外)、函館市、小樽市、岩見沢市、美唄市、芦別市、江別市、赤平市、三笠市、滝川市、砂川市、歌志内市、石狩市、北斗市、石狩振興局管内、渡島総合振興局管内、日山振興局管内、後志総合振興局管内、空知総合振興局管内(空知郡南幌町、夕張郡、雨竜郡以外)。201669-10日、北海道喜茂別町で行方不明になった女性の捜索に参加。2017215-16日、北部方面警務隊競技会に参加し、鑑識競技で優勝、総合優勝も果たした。20201111-13日、北部方面警務隊鑑識競技会で優勝した。202221日・15日、倶知安派遣隊が倶知安駐屯地で、積雪期に於ける事件発生時の証拠採取能力向上を目的に、鑑識訓練を実施。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第121航空隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の航空隊。前身はDDH-141はるなの艦載ヘリHSS-2を運用していた第101航空隊第121飛行隊(19732月新編)で、DDH-142ひえいが就役してこちらのHSS-2Aヘリも運用することになったため、19741127日に第21航空群隷下の航空隊に昇格したものである。隷下に隊本部、第121飛行隊、第121列線整備隊を置いた。1991930日、SH-60Jの配備を開始。2008326日、第21航空隊に統合されて廃止された。参考:丸スペシャルNo.78、月刊世界の艦船5,15、館山航空基地ホームページ

第121航空隊(1978年)>:第21航空群隷下で、司令部は館山にある。HSS-2Aを配備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

第121航空隊(日本海軍)>:日本海軍の陸上偵察機部隊、別称は雉。昭和18101日、千葉県の香取基地で新編され、第1航空艦隊第61航空戦隊の隷下に入った。3個分隊編成、使用機は二式艦上偵察機、定数は常用9機+補用3機である。昭和191月、定数が常用18機+補用6機になった。2月、定数が常用36機+補用12機になった。ただ機体は毎月2-3機しか送られてこなかった。2月下旬にマリアナに進出する予定だったが、217-18日のトラック空襲を受け、第1分隊が二式艦上偵察機8機でテニアン島に展開。整備要員は進出ついでにテニアン島の第761航空隊に航空魚雷を届ける軽巡大淀の荷下ろしを手伝うことになり、2190430に整備兵員30名が横須賀軍港の大淀に乗艦して出撃した。222日、第1分隊二式偵察機5機がテニアン島から敵機動部隊索敵に出撃し、2機が機動部隊を発見した。昼過ぎ、大淀がサイパンに到着し、テニアン島へと航空魚雷を運び込んだ。第1分隊の8機は空襲などで早々に全機失われたが、数日で後続の10機くらいと司令部がテニアン島第1飛行場に到着している。3月、アメリカ機動部隊泊地急襲の雄作戦に備え、メジュロ環礁及びクェゼリン環礁の挺身偵察を下命された。512日、第2分隊が二式艦上偵察機8機でテニアン島に到着。521日、第2分隊がペリリュー島に派遣された。522日、第1分隊に横空から彩雲(増加試作機)3機が増派されたが、父島付近で空輸指揮官機が行方不明になり、テニアン島に到着したのは2機だった。530日、彩雲でメジュロ偵察を実施。テニアンからでは航続距離が足らないので、ナウルに進出した後、メジュロを偵察してトラックに帰投し、在泊機動部隊の撮影に成功した。610日、エニウェトク環礁偵察のため彩雲1機が出撃したが、経由地のトラック春島で着陸時にプロペラを損傷、修理に入った。611日、テニアン島が第58機動部隊の空襲を受け、合間を縫って機動部隊索敵に出撃した彩雲1機が未帰還になった。612日、テニアン第1飛行場から二式艦偵1機が早朝に出撃したが、未帰還となった。同日、トラック春島で修理を終えた彩雲1機がテニアン第1飛行場に帰還したが、613日の空襲で破壊され、テニアンの稼働機がゼロになった。724日からのテニアン戦で、アメリカ海兵隊上陸地点のすぐ傍に司令部があったため、壊滅した。参考:月刊航空ファン1,19

第121師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、満州で編成された。通称栄光師団。終戦時、歩兵第262・第263・第264連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第121地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、北部方面警務隊の隷下にある。担当区域は釧路市、帯広市、北見市、網走市、根室市、オホーツク総合振興局管内(常呂郡佐呂間町と紋別郡以外)、十勝総合振興局管内、釧路総合振興局管内、根室振興局管内。2022330日、美幌派遣隊が美幌駐屯地で飲酒運転事故防止に関する防犯教育を実施。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第122航空隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の航空隊。1981327日、第21航空群隷下に大村航空基地で新編された。1987121日、第22航空群に編入された。2008326日、第22航空隊に統合されて廃止された。参考:月刊世界の艦船8,24、朝雲

第122師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称舞鶴師団。終戦時、隷下に歩兵第265・第266・第267連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第122地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、北部方面警務隊の隷下にある。担当区域は室蘭市、夕張市、苫小牧市、千歳市、登別市、恵庭市、伊達市、北広島市、空知総合振興局管内(空知郡南幌町と夕張郡)、胆振総合振興局管内、日高振興局管内。2024826日、前年925日に東千歳駐屯地にある第7特科連隊長管理隊舎内の執務室に侵入し、同室に勤務する被害者が保管していた自宅等の鍵を窃取したとして、第7特科連隊1等陸尉を建造物侵入及び窃盗の容疑で通常逮捕した。その後被疑者を札幌区検察庁に身柄送致している。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、陸上自衛隊ホームページ

第123航空隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の航空隊。1987121日、第22航空群隷下に大村航空基地で新編された。1998320日、第124航空隊に改編され、第124航空隊が第123航空隊になった。ホームベースは館山航空基地である。2008326日、第21航空隊に統合されて廃止された。参考:朝雲、第22航空群ホームページ、月刊世界の艦船8,24

 <第123航空隊(2001年度)>:第21航空群隷下で、館山航空基地に置かれている。SH-60Jを装備する。隷下に舞鶴航空分遣隊(SH-60J)を置く。参考:月刊世界の艦船1,02

第123航空隊(2007年度、改編前)>:第21航空群隷下で、SH-60Jを装備している。舞鶴航空分遣隊を隷下に置く。参考:月刊JWings6,07

第123師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称松風師団。終戦時、歩兵第268・第269・第270連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第123地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東北方面警務隊の隷下にある。担当区域は青森県、岩手県、秋田県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第124航空隊(海上自衛隊)>:海上自衛隊の航空隊。1989317日に館山航空基地で新編され、第21航空群の隷下に入った。199442日、SH-60Jの配備を開始。1998320日、第123航空隊に改編され、第123航空隊が第124航空隊になった。ホームベースは大村航空基地である。2008326日、第22航空隊に統合されて廃止された。参考:第22航空群ホームページ、館山航空基地ホームページ、月刊世界の艦船8,24

第124師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称遠謀師団。終戦時、隷下に歩兵第271・第272・第273連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第124地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東北方面警務隊の隷下にある。担当区域は宮城県(仙台駐屯地の所在する区域以外)、山形県、福島県。20201017日から119日、令和2年度機動展開訓練(東北方面隊)に参加。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第125工場>:平壌北東部にあるミサイル生産工場で、ノドン・ミサイルのロケットを作っている。ここで製作されたロケット12基が、199911月にイランに輸出された。参考:月刊軍事研究1,05

第125師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称英機師団。終戦時、隷下に歩兵第274・第275・第276連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第125地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東部方面警務隊の隷下にある。担当区域は栃木県、群馬県、新潟県、長野県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第126師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称英断師団。終戦時、隷下に歩兵第277・第278・第279連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第126地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東部方面警務隊の隷下にある。担当区域は東京都(朝霞駐屯地と市ヶ谷駐屯地の所在する区域以外)、埼玉県(朝霞駐屯地の所在する区域以外)。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第127師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和20320日、満州で編成された。通称英邁師団。終戦時、隷下に歩兵第280・第281・第282連隊、第127師団挺身大隊、野砲兵第127連隊、第127師団工兵隊、第127師団通信隊、第127師団輜重隊、第127師団兵器勤務団、第127師団病馬廠を置いており、ソ連・満州東部国境最右翼に展開していた。参考:月刊丸8,87、帝国陸海軍事典

第127地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東部方面警務隊の隷下にある。担当区域は茨城県、千葉県。201979日、東部方面警務隊逮捕術競技会の団体戦で優勝した。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第128師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和203月、満州で編成された。通称英武師団。終戦時、隷下に歩兵第283・第284・第285連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第128地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東部方面警務隊の隷下にある。担当区域は山梨県、静岡県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第129師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、独立混成第19旅団を改編して金沢で編成された。通称振武師団。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第129地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、東部方面警務隊の隷下にある。担当区域は神奈川県。202355日、神奈川地本藤沢募集案内所が第16回子どもの日を祝う牛若まつりで行った広報に協力した。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第130師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、京都で編成された。通称鍾馗師団。終戦時、隷下に独立歩兵大隊8個などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第130地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、中部方面警務隊の隷下にある。担当区域は富山県、石川県、福井県、岐阜県、愛知県、三重県。201926-9日、愛知県と岐阜県で豚コレラの発生に伴う豚の殺処分などの支援に係る災害派遣に参加。517-20日、愛知県田原市で発生した豚コレラの災害派遣に参加。65-8日、岐阜県山県市で発生した豚コレラの災害派遣に参加。629日から72日、愛知県西尾市の豚殺処分などの支援に係る災害派遣に参加。73日、岐阜県恵那市の豚殺処分などの支援に係る災害派遣に参加。2020720-21日、中部方面警務隊競技会に参加し、鑑識競技会で優勝した。2021615日、隊務優秀部隊として警務隊本部から表彰された。1128日、福井県防衛協会が主催して福井県産業会館駐車場で行われた空自市中パレードに鯖江連絡班が参加。2022118日、愛知地本瀬戸地域事務所が豊明市立栄中学校2年生5人に行った職場体験に協力し、指紋採取体験を行った。202495日、731日に春日井駐屯地で階段下の被害者に殺意を持って重量物を投げつけたとして、第10師団第10施設大隊所属2等陸曹を殺人未遂で通常逮捕した。その後名古屋地方検察庁に身柄を送致している。108日、915日に岐阜分屯地生活隊舎1階ロビーでショルダーバッグ入り段ボール箱1個を窃取したとして、第6施設群第402施設中隊の陸士を通常逮捕した。その後岐阜地方検察庁に身柄を付送致している。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、MAMOR vol.152vol.153、朝雲、陸上自衛隊ホームページ

第131航空隊>:日本海軍航空隊。昭和19710日、第3航空艦隊隷下の陸偵・夜戦部隊として横須賀で編成された。隷下に偵察11飛行隊(定数24機)及び戦闘851飛行隊(定数24機)を置く。7月末から2-3機が硫黄島で迎撃任務に就いた。1115日、艦爆・艦攻部隊に改編され、戦闘851飛行隊は北東航空隊に転属となった。昭和201月、藤枝基地に移動。3月、戦闘901飛行隊、戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊を隷下に加え、芙蓉部隊と命名して鹿屋基地に配置した。44日から芙蓉部隊(彗星艦爆、彗星夜戦、二式艦偵。戦闘901のみ零戦夜戦も併用)による沖縄北・中・伊江島飛行場への夜間奇襲攻撃を開始。多少怪しくても使えるものは全て使うという方針から、陸用爆弾だけでなく、通常爆弾、二号対潜爆弾、二式二十五番三号爆弾、三式六番三号爆弾、八号爆弾、二十七号爆弾、二十八号爆弾、三十一号爆弾などを片っ端から積んでいった。520日、芙蓉部隊は岩川基地に移動。本土決戦に備えて戦力を温存し、終戦を迎えた。芙蓉部隊は合理的な訓練と適切な整備による反復攻撃で特攻よりも大きい成果が得られるという飛行長の美濃部正少佐の信念の下、唯一特攻を行わなかった部隊となった。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン5,132,173,17

第131師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、金沢で編成された。通称秋水師団。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第131地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、中部方面警務隊の隷下にある。担当区域は滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県(伊丹駐屯地の所在する区域以外)、奈良県、和歌山県。2020720-21日、中部方面警務隊競技会に参加し、逮捕術競技会で優勝、総合優勝を果たした。2022123日、愛知地本の冬期インターンシップに協力し、指紋検出体験を行った。京都地本京都地区隊京都募集案内所がイオンモールKYOTOで開催した広報イベントに協力し、車両展示を行った。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第132師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、大阪で編成された。通称振起師団。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第132地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、中部方面警務隊の隷下にある。担当区域は鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第133師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、熊本で編成された。通称進撃師団。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第133地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、中部方面警務隊の隷下にある。担当区域は徳島県、香川県、愛媛県、高知県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第134師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称勾玉師団。終戦時、隷下に歩兵第365、第366、第367連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第134地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、西部方面警務隊の隷下にある。担当区域は福岡県、佐賀県、長崎県、大分県。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第135師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称真心師団。終戦時、隷下に歩兵第368、第369、第370連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第135地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、西部方面警務隊の隷下にある。担当区域は熊本県(健軍駐屯地の所在する区域以外)、宮崎県、鹿児島県。20201013-18日、えびの連絡班が02鎮西に参加し、宮崎県警とも連携した警備訓練を行った。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令

第136師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称不抜師団。終戦時、隷下に歩兵第371、第372、第373連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第136地区警務隊>:陸上自衛隊の地区警務隊で、西部方面警務隊の隷下にある。担当区域は沖縄県。202018-20日、沖縄県で発生した豚コレラの災害派遣に参加。41日、第15旅団旅団レディネスチェックを受けた。参考:警務隊の組織及び運用に関する訓令、朝雲

第137師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称扶翼師団。終戦時、隷下に歩兵第374、第375、第376連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第138師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称不動師団。終戦時、隷下に歩兵第377、第378、第379連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第139師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称不屈師団。終戦時、隷下に歩兵第380、第381、第382連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第140師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、東京で編成された。通称護東師団。終戦時、隷下に歩兵第401、第402、第403、第404連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第142師団(日本陸軍)>日本陸軍の師団。昭和204月、仙台で編成された。通称護仙師団。終戦時、隷下に歩兵第405、第406、第407、第408連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第143師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、名古屋で編成された。通称護古師団。終戦時、隷下に歩兵第409、第410、第411、第412連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

<第143戦闘飛行隊>:VF-143を参照。

第144師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、大阪で編成された。通称護阪師団。終戦時、隷下に歩兵第413、第414、第415、第416連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第145師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、広島で編成された。通称護州師団。終戦時、隷下に歩兵第417、第418、第419、第420連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第146師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、熊本で編成された。通称護南師団。終戦時、隷下に歩兵第421、第422、第423、第424連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第147師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、旭川で編成された。通称護北師団。終戦時、隷下に歩兵第425、第426、第427、第428連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

<第148師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称富嶽師団。終戦時、隷下に歩兵第383、第384、第385連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第149師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、満州で編成された。通称不撓師団。終戦時、隷下に歩兵第386、第387、第388連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第149戦闘飛行隊>:アメリカ空軍戦闘飛行隊、別名レベル・ライダーズ(Rebel Roders)。194511月に解隊された第328追撃飛行隊がベースで、1946524日にヴァージニア州兵航空隊隷下のP-47飛行隊としてバードフィールド飛行場で再編された。195212月、B-26に機種変更して第149爆撃飛行隊(軽)に改編された。195811月、F-84Fに機種変更して第149戦術戦闘飛行隊に改編された。1971年、F-100D/Fに機種変更した。1982年、A-7D/Kに機種変更した。1992年、F-16C/Dに機種変更して第149戦闘飛行隊に改称された。2007916日、ラングレー空軍基地に移動。参考:月刊JWings12,12

第150連合任務部隊>:不朽の自由作戦とほぼ同時に設立された多国籍海軍部隊で、連合海上部隊の隷下にあり、CTF150と略す。アラビア海、紅海、アデン湾、オマーン湾、インド洋を担当する。アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オランダ、ドイツ、パキスタン、オーストラリア、イタリア、ニュージーランド、ポルトガル、スペイン、トルコといった国の艦艇が参加して構成されている。指揮は各国の持ち回り。任務はアフガニスタンへの武器弾薬流入阻止、テロリスト出入監視、麻薬密輸防止などである。参考:月刊軍事研究1,08、朝雲

第150師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、姫路で編成された。通称護朝師団。終戦時、隷下に歩兵第429430431432連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第151航空隊>:日本海軍の航空隊。海軍初の航空隊規模の陸上偵察機部隊である。昭和18415日、ラバウルで新編された。定数は艦上偵察機16機と輸送機2機で、二式艦上偵察機を装備予定だったが間に合わず、百式司偵二型を装備していた。416日早朝、初偵察任務に出撃。百式司偵二型でニューギニアのグッドイナフ島にアメリカ軍が設営中の飛行場を偵察した。521日、二式陸上偵察機で初出撃したが、エンジン不調で引き返した。67日、二式艦上偵察機で初出撃。ムルア島とグッドイナフ島を偵察し、グッドイナフ島の飛行場が完成しているのを確認した。夏頃の保有機は二式艦偵5機、百式司偵二型2-3機、二式陸偵2機だった。9月頃からラバウル航空戦の戦況が悪化し、敵戦闘機の性能も向上、薄暮・早朝偵察しか行えなくなった。10月、第11航空艦隊隷下でろ号作戦に参加。昭和193月、ニューギニアのフィンシュハーフェンやアドミラルティ諸島のアメリカ機動部隊泊地挺身偵察を下命された。参考:月刊航空ファン6,161,19、歴史群像8,15

第151師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、宇都宮で編成された。通称護宇師団。終戦時、隷下に歩兵第433、第434、第435、第436連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第151連合任務群>:CTG151と略す。連合海上部隊CMF隷下のソマリア沖海賊対処多国籍連合任務部隊で、2021610日に第151連合任務部隊CTF151から縮小改編された。参考:朝雲

第151連合任務部隊>:CTF151と略す。ソマリア沖海賊対処を行う多国籍連合任務部隊で、連合海上部隊の隷下にある。対テロ作戦担任第150連合任務部隊の兼務では手に負えなくなってきたため、アメリカ第5艦隊/連合海上部隊(本部はバーレーンにある)隷下部隊として200918日に創設された。アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、海上自衛隊(201312月から)、デンマーク、パキスタン、フランスが正式メンバーで、韓国、中国、トルコなどが有志として参加している。特定海域に止まって警戒監視を行うゾーンディフェンスによる海上交通防衛を主任務とする。201312月上旬から20142月下旬、海自が司令部に初の連絡官を派遣。2014828日、自衛隊初の司令部要員として三等海佐を派遣。2015531日から827日、第4護衛隊群司令(海将補)が司令官となった。自衛官が多国籍部隊司令官に就任するのはこれが初である。他に自衛官9名が司令部に派遣された。20173-6月、第4護衛隊群司令が司令官となった。201831日から627日、第3護衛隊群司令が司令官となった。62日、村川海幕長が司令部を視察した。2020220日から716日、第3護衛隊群司令(海将補)が司令官となった。他に海上自衛官16名が司令部要員として勤務している。420日、バーレーンのCTF151に勤務する海上自衛官1名が新型コロナウイルスに感染したと統幕が発表した。CTF151宿舎の清掃業者従業員が陽性になったことから検査して判明したもので、無症状であり、バーレーン国立病院に隔離されている。82日、司令官を務めていた第3護衛隊群司令が舞鶴基地で河野防衛大臣から第1級賞詞を授与された。2021610日、第151連合任務群に縮小改編された。参考:月刊軍事研究8,17MAMOR vol.87vol.93、月刊世界の艦船7,191,'21、朝雲

第152連合任務部隊>:連合海上部隊隷下の多国籍部隊で、CTF152と略す。アメリカ海軍の空母打撃群を中心とする部隊で、ペルシャ湾の北端を除くインド洋全域を担当する。指揮は基本的にアメリカが行うが、20066月から12月まではイタリア海軍の指揮官が指揮していた。任務はアフガニスタン及びイラクへの武器弾薬流入阻止、テロリスト出入監視、麻薬密輸防止などである。参考:月刊軍事研究1,08、朝雲

第152師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、金沢で編成された。通称護沢師団。終戦時、隷下に歩兵第437、第438、第439、第440連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第153航空隊>:日本海軍航空隊。昭和1911日に偵察機部隊として第23航空戦隊隷下に新編され、ケンダリーに配備された。定数は12機で、後に24機に増強されている。42日、ワクデ島に前進し、哨戒任務を実施。55日、戦闘311飛行隊が転入し、ソロンで迎撃任務に就いた。529日、ビアク飛行場攻撃に戦闘311飛行隊の4機が出撃したが、全機喪失した。62日、ビアク飛行場攻撃に戦闘311飛行隊の6機が出撃したが、3機を失い、1機が不時着となった。65日、戦闘311飛行隊の保有機が1機に減少。67日、ケンダリーに後退した。710日、第1航空艦隊隷下の夜間戦闘機・偵察機部隊に改編され、戦闘311飛行隊が第201航空隊に転出し、かわりに戦闘901飛行隊(定数は夜戦24機)が第251航空隊から転入、偵察機部隊は偵察102飛行隊のままで、フィリピンのダバオで再建を行った。夜間空襲を行うB-24に対する迎撃も行ったが、月光の性能不足で戦果は挙げられなかった。9月上旬、タクロバンに戦闘901飛行隊戦力(月光9機、零戦2機)を集中。99日、フィリピン東で月光3機による索敵を行ったが、F6Fの攻撃を受けて2機を失い、1機が不時着した。9月中旬、戦闘901飛行隊主力はルソン島ニコルス基地に展開。10月中旬のアメリカ軍レイテ島上陸に際しては魚雷艇制圧を行ったが、2ヶ月で14機を喪失した。1020日、比島沖海戦に参加。11月末、再建のためパイロットは本土に帰還。戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘851飛行隊が昭和20年初めにかけて転入したが、すぐに台湾や本土の他部隊に転出した。地上勤務者はルソン島に残り、山中でゲリラ戦を行っていたが、終戦までに大半が戦死した。参考:日本海軍戦闘機隊、比島決戦

第153師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、京都で編成された。通称護京師団。終戦時、隷下に歩兵第441、第442、第443、第444連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第154師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、広島で編成された。通称護路師団。終戦時、隷下に歩兵第445、第446、第447、第448連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

<第154戦闘飛行隊>:VF-154を参照。

第155師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、善通寺で編成された。通称護土師団。終戦時、隷下に歩兵第449、第450、第451、第452連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第156師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和202月、久留米で編成された。通称護西師団。終戦時、隷下に歩兵第453、第454、第455、第456連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第157師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、弘前で編成された。通称護弘師団。終戦時、隷下に歩兵第457、第458、第459、第460連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第158合同任務部隊>:アメリカ海兵隊遠征打撃群、イギリス海軍、オーストラリア海軍から編成される多国籍海軍部隊で、ペルシャ湾北部及びイラクの海上油田において活動を実施している。指揮は各国の持ち回り。任務は安保理決議1546に基づく警察活動である。参考:月刊軍事研究1,08

第158師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和208月、満州で編成された。通称不滅師団。終戦時、隷下に歩兵第389、第390、第391連隊などを隷下に置いていた。編成完結前に終戦を迎えたという説もある。参考:帝国陸海軍事典

第160師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、広島で編成された。通称護鮮師団。終戦時、隷下に歩兵第461、第462、第463、第464連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第160特殊作戦航空連隊>:アメリカ陸軍特殊部隊支援用航空兵力160 Special Operations Aviation RegimentAirborne)、別名ナイト・ストーカーズ(The Night Stalkers)。グリンベレーの潜入・離脱支援として新編された。MH-6JAH-6JMH-60KMH-60LMH-60LDAPMH-47DMH-47Eなど100機を超えるヘリで構成されている。2015812日、うるま市沖で訓練中のMH-60Mヘリ1機がT-AKR-313レッド・クラウドの甲板上にクラッシュ・ランディングし、7名が負傷する事故を起こした。2016972245頃、フォート・キャンベルで通常訓練中にMH-47がハード・ランディングして乗員5名が軽傷を負った。20188192200頃、UH-60Mヘリ1機がイラク北部シンジャール郡で墜落し、1名が死亡、数名が負傷した。参考:月刊軍事研究4,04、月刊JWings11,15、月刊航空ファン12,1611,18

 <第160特殊作戦航空連隊(2014年)>:陸軍特殊作戦コマンド隷下で、司令部はケンタッキー州フォート・キャンベルにある。隷下に第1大隊(強襲ヘリ大隊、フォート・キャンベル。MH-6MAH-6JAH-6MMH-60KMH-60LMH-60L DAP)、第2大隊(フォート・キャンベル。MH-60KMH-47G)、第3大隊(ジョージア州ハンター陸軍飛行場。MH-60MMH-60LMH-60L DAPMH-47G)、第4大隊(ワシントン州ルイス・マコード統合基地。MH-60LMH-47G)、特殊作戦航空訓練中隊(フォート・キャンベル。MH-6MMH-47GMH-60)、E中隊(アリゾナ州リビー陸軍飛行場。MQ-1C)を置く。参考:月刊軍事研究5,14

 <第160特殊作戦航空連隊(2017年)>:陸軍特殊作戦コマンド隷下で、ケンタッキー州フォート・キャンベルに司令部を置く。第1大隊[フォート・キャンベル。MH-6M装備A中隊(軽強襲)、AH-6M装備B中隊(軽攻撃偵察)、MH-60M DAP装備C中隊(強襲)、MH-60M DAP装備D中隊(強襲)、MH-60M装備E中隊(強襲)、MH-47G装備G中隊(重ヘリコプター)]、第2大隊[フォート・キャンベル。MH-47G装備A中隊(重ヘリコプター)、MH-47G装備B中隊(重ヘリコプター)、MH-60M装備C中隊(強襲)]、第3大隊[ハンター陸軍飛行場。MH-47G装備A中隊(重ヘリコプター)、MH-47G装備B中隊(重ヘリコプター)、MH-60M装備C中隊(強襲)]、第4大隊[ルイス・マコード統合基地。MH-47G装備A中隊(重ヘリコプター)、MH-47G装備B中隊(重ヘリコプター)、MH-60M装備C中隊(強襲)]、特殊作戦航空訓練大隊(フォート・キャンベル。司令部中隊、A中隊、B中隊。AH-6MMH-6MMH-47GMH-60L DAP)からなる。参考:月刊航空ファン4,18

第161師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、熊本で編成された。通称震天師団。終戦時、独立歩兵大隊8個などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第171航空隊>:日本海軍航空隊。昭和205月、偵察第11飛行隊が第762航空隊から転属してきた。7月、偵察第11飛行隊が大分から戸次に移動。参考:月刊航空ファン6,16

第177突撃砲大隊>:ドイツの独立突撃砲大隊。19416月に新たに編成され、8月に編成を完了、スモレンスクに展開して910日に第12軍集団隷下となった。タイフーン作戦に参加してモスクワ前面に到達。19423月、モギレフに移動して補充と装備改編(長砲身V号突撃砲に転換)が行われ、ベルゴロドに移動して6月末まで戦闘を行った。7月からは夏季攻勢に参加。スターリングラード戦に参加するが、1943131日までに大半がソ連軍の捕虜となり、40名前後の人員しか生き残れなかった。その後、第300突撃砲補充大隊の残余兵と共に第911突撃砲大隊に配属された。参考:月刊グランドパワー10,00

<第183ウラル貨車工場>:ウラル貨車工場を参照。

第184突撃砲大隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲大隊で、黄作戦で突撃砲が活躍したため、194077日に新編成された。19414月からユーゴスラビア侵攻に参加。622日からバルバロッサ作戦に参加。10月、再編成のため後方に移動。19421月、東部戦線の前線に復帰。19433月、休息のため後方に移動。6月、前線に復帰。19442月、編成はそのままで旅団に名称変更された。1945416日、ソ連によるオーデル河渡河作戦の阻止に参加したが、目的を果たせず後退、装備する突撃砲の大多数を爆破して退却。53日、連合軍に投降した。参考:月刊グランドパワー10,00

第185突撃砲大隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲大隊で、19409月に編成された。訓練の後、1941622日からバルバロッサ作戦に参加。1942年秋には再編成を行い、10.5cm突撃榴弾砲1個中隊が配備された。11月に前線での戦闘に投入され、1122日までに10.5cm突撃榴弾砲中隊は全ての配備車両を喪失してしまった。19432月、パルチザン掃討任務に参加。その後再編成を受け、19435月にツィタデレ作戦参加のため移動。ツィタデレ作戦では1日で549両の戦車、244門の野砲などを破壊する戦果を上げた。19442月、旅団に名称変更。7月、第185陸軍突撃砲旅団に改称。東部戦線で戦闘を続けたが、秋までに所属する突撃砲が2両にまで減少してしまったため、一旦ドイツ本国に帰還し、補充を受けた。カールベルグを渡河するソ連軍への攻撃が最後の戦闘で、194558日までに大半の将兵がソ連軍の捕虜となった。参考:月刊グランドパワー10,00

第189突撃砲大隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲大隊。194179日に新編され、85日からバルバロッサ作戦に参加した。19446月、旅団に改称されたが、前線復帰と共に第178戦車駆逐大隊に改称された。参考:月刊グランドパワー10,00

<第192戦闘攻撃飛行隊>:VFA-192を参照。

<第195戦闘攻撃飛行隊>:VFA-195を参照。

第199戦闘飛行隊>:アメリカ空軍戦闘飛行隊、別名クカユモク(The Kukaiumoku)。元は1946527日に解隊された第464戦闘飛行隊で、528日にハワイのベローズ飛行場でハワイ州兵航空隊第199戦闘飛行隊(P-47装備)として再編された。1954年、F-86Eに機種転換。1958年、F-86Lに機種転換。1961年、F-102Aに機種転換。1976年、F-4Cに機種転換して第199戦術戦闘飛行隊に改称された。1987年、F-15A/Bに機種転換。1992年、第199戦闘飛行隊に改称された。201072日からF-22Aを受領し、F-22A飛行隊に改編された。2014626日から81日、リムパック2014に仮想敵として参加。2015928日、アメリカ中央軍作戦域に向け出発し、中東での半年間の展開を開始した。2021312日、岩国基地にF-22A戦闘機6機で飛来し、一時展開を開始。317日、岩国基地で飛行訓練を開始し、CVW-5所属機やアメリカ海兵隊機と共同訓練を行った。322日、岩国基地に展開したF-22A戦闘機2機がVMFA-121所属F-35B戦闘機2機とエシュロン隊形を組んで岩国基地に帰投した。41日、岩国基地に展開したF-22A戦闘機4機が第302飛行隊F-35A戦闘機4機と共同訓練を実施。45日、岩国基地に展開していたF-22A戦闘機6機がDFE任務(Dynamic Force Employment Concept)を終了してハワイに向かったが、うち2機がマイナートラブルで岩国基地に引き返した。点検の後、412日に2機共ハワイに向かっている。202261日、F-22A戦闘機12機で嘉手納基地に展開。615日、F-22A戦闘機10機が嘉手納基地から岩国基地に移動。616日、F-22A戦闘機2機が嘉手納基地から岩国基地に移動。629日から84日、リムパック2022に参加。7月中旬、岩国基地のF-22A戦闘機12機がハワイに戻った。202432728日、F-22A戦闘機6機ずつで嘉手納基地に飛来し、一時配備を開始した。518-19日、在日米軍横田基地で行われた日米友好祭で、F-22A戦闘機2機(うち1機は第154戦闘航空団司令指定機)を地上展示した。参考:月刊JWings12,1210,146,'217,'218,'229,'2210,'226,'248,'24、月刊航空ファン5,16

第201教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊。T-5(過去にはSNJ-5/-6T-34AKM-2)を使用した操縦士基礎課程、操縦士基礎(共通)課程訓練、操縦士基礎(回転翼)課程、操縦士基礎(固定翼)課程の各訓練を行う。196191日、鹿屋教育航空群隷下に鹿屋航空基地で新編された。SNJ-5/-6による初級操縦教育を主任務とする。1965325日、鹿屋から小月に移駐し、小月教育航空群の隷下に入った。1989330日、T-5練習機の配備を開始。20091222日、T-5の年末航空機点検を実施。隊員と学生が担当航空機の清掃を行った。2012111日、平成24年の初飛行訓練を実施。201319日、小月航空基地で初訓練飛行を実施。2021111日、山口県宇部市の宇部市制施行100周年記念でT-5練習機3機による祝賀飛行を実施。202217日、初訓練飛行を実施。参考:月刊JWings12,063,137,131,'223,'22MAMOR vol.111、教育航空集団司令部ホームページ、朝雲、小月航空基地ホームページ

 <第201教育航空隊(1978年)>:小月教育航空群隷下で、司令部は小月にある。KM-2、メンターを配備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊、日本の防衛戦力Part3

 <第201教育航空隊(2015年)>:小月教育航空群隷下で、小月航空基地に置かれている。司令、副長、先任伍長、本部(総務班、運用班、資材班)、教育飛行隊(飛行教育班、地上教育班、教育審査掛)、列線整備隊(列線班、航空機班、装備班)、学生隊(学生班)からなる。参考:第201教育航空隊ホームページ

 <第201教育航空隊(2020年)>:小月教育航空群隷下で、T-5を装備する。参考:月刊JWings6,20

第201航空隊>:日本海軍航空隊。千歳航空隊と第752航空隊戦闘機隊をベースに、昭和17121日にマーシャル群島ルオット島で新編され、第24航空戦隊に編入された。昭和18129日、第755航空隊九六式陸攻が進出したばかりのギルバート諸島ナウル島にアメリカ海軍PBY-5飛行艇が偵察しに来たため、零戦6機でナウル島に進出し、基地防空任務に就いた。325日、ナウル島がPBYカタリナ飛行艇の爆撃を受け、零戦8機を破壊された。同月、航空機を残して人員のみ木更津に移動。その後松島飛行場で部隊再編に入り、訓練を行った。63日、零戦12機で北千島幌筵島に進出。その後南東方面に進出することになり、主力45機は雲鷹で輸送されることになった。76日に地上勤務者が横須賀を出港。78日、零戦18機で木更津を発ち、712日にラバウルに到着した。715日、雲鷹で輸送されていた45機がラバウルに到着。部隊は第21航空戦隊に編入された。716日、零戦2機をブインに派遣。717日、8機ずつをブインとブカに派遣。720日までにブインに25機を展開させた。721日、零戦15機でレンドバ攻撃に出撃。722日、日進の直衛中に敵機が襲撃してきたため、交戦して8機を撃墜し、初戦果を挙げた。以降、ブインとラバウルに部隊を二分して戦闘を行い、914日には延べ200機以上の敵機を延べ117機で迎撃し、敵戦闘機29機と爆撃機4機を撃墜し、3機を喪失した。912日、アメリカ軍がフィンシュハーヘンに上陸したため、零戦12機がラバウルからクレチン岬沖に出撃したが、迎撃を受けて4機を喪失した。10月、コロンバンガラ島の陸軍が撤退したため、敵の来襲情報が入らなくなり、空中待機を行う必要に迫られた。1022日に空襲を受けて滑走路に30ヵ所以上の穴が空き、迎撃に上がった零戦も3機が未帰還、3機が不時着となり、8機が炎上する被害を受けた。残存する9機はブカに下がり、地上要員も撤収した。更にブカやバラレも空襲を受けて使用できなくなったため、ラバウルに後退して迎撃戦を実施。10月末、第26航空戦隊に所属してろ号作戦に参加。昭和1913日、航空機を残してサイパン島に後退した。それまでの撃墜数は約450機だった。211日、零戦23機がサイパンに到着。8機がトラックに移動したが、217日のトラック大空襲で全機破壊された。218日、20機がトラックに移動したが、敵の機動部隊を発見できなかった。223日、サイパンに残っていた4機が空襲で全て破壊された。228日、トラックの零戦20機がサイパンに帰還。34日、戦闘305飛行隊及び戦闘306飛行隊を隷下に置くことになり、サイパンの部隊は戦闘305飛行隊と改称され、戦闘306飛行隊は木更津で新編されることになった。314-16日、戦闘305飛行隊はペリリュー基地に移動。330日、戦闘305飛行隊はペリリュー基地で艦上機の奇襲を受け、反撃で17機を撃墜したものの、9機が未帰還、9機が大破、2機が不時着となって航空機が全滅状態になってしまった。4-5月、戦闘305飛行隊はダバオに後退して部隊を再建することになった。戦闘306飛行隊は4月中旬から5月にセブ及びダバオ基地に進出し、5月中旬に32機がセブに集結して訓練を行った。5月中旬からセブ島のゲリラ掃討作戦に参加。6月中旬、零戦11機がヤップ島及びグアム島に進出し、あ号作戦支援を行った。7月、ヤップ島及びグアム島に進出した零戦がセブに帰還。7月中旬、解隊した第263航空隊及び第343航空隊の転入者で1個分隊を形成し、ヤップ島に進出、17機撃墜(うち9機不確実)・46機撃破の戦果を挙げて第1航空艦隊司令長官の表彰を受けた。損害は体当たりによる2名含め5名。この頃、海軍は第1航空艦隊を再編して戦闘機を第201航空隊に集中させることを決定し、戦闘305飛行隊、戦闘306飛行隊、戦闘301飛行隊、戦闘311飛行隊を隷下に置き、8月上旬に司令部がダバオに展開した。来るべきフィリピン決戦に備え、航空機主力はセブに置き、一部をマクタン島レガスピ及びニコルスに分散して訓練を行った。91日現在の零戦保有機は210機、稼働機は130機であった。8月下旬に零戦による反跳爆撃の訓練をセブ島で開始した。99日、ダバオにアメリカ艦上機が来襲したため、セブにあった150機はクラークに退避した。910日、ダバオにアメリカ軍が上陸したという連絡が入ったため、午後にクラークを発ってセブに向かったが、誤報であったため、40機をニコルスに、20機をマクタンに分散し、セブには100機余りが残った。912日、アメリカ艦上機がセブを奇襲。41機が何とか発進して迎撃にあたり、23機を撃墜したが、25機が未帰還、14機が不時着し、地上で25機が大破し、30機が損傷した。913日にも空襲を受けてセブ島の戦力はほぼ壊滅してしまい、零戦による反跳爆撃も実施できなくなった。921-22日、マニラにアメリカ艦上機が来襲したため、42機で迎撃し、27機を撃墜したが、20機が未帰還となり、地上で10機が破壊された。922日朝、15機の爆装零戦がラモン湾東のアメリカ空母を攻撃した。1015日、零戦25機で出撃し、ルソン島東のアメリカ機動部隊を銃撃した。1019日、特攻隊の編成が命じられ、20日から比島沖海戦に出撃したが、悪天候により引き返した。1021日、セブから出撃した特攻隊のうち1名が悪天候で行方不明になり、特攻隊として初の犠牲者を出した。1025日、敷島隊が特攻を実施、空母セントローを撃沈し、キトカン・ベイに大火災を発生させ、巡洋艦1隻を撃沈したと認められた。以降は部隊全体が特攻編成になり、200名以上が戦死した。昭和201月、残存搭乗員は台湾に後退した。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,158,17、比島決戦、月刊航空ファン11,19

第201師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、東京で編成された。通称武蔵師団。終戦時、隷下に歩兵第501、第502、第503連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第201飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘機飛行隊。1962322日、第2航空団隷下の臨時F-104訓練隊(臨時F-104飛行隊?)として小松基地に発足し、翌年に千歳基地に移動、196335日に第201飛行隊として正式に発足し、転換訓練を主任務とした。311日、学生教育を開始。410日、エンジン不調で緊急着陸しようとしたF-104Jが千歳飛行場南端から300mのところに墜落し、パイロットが死亡した。1964121日、第204飛行隊に転換訓練任務を移した。19656月、アラートを開始。第302飛行隊創設に伴い1974101日に解隊された。1986319日、第2航空団隷下のF-15J飛行隊として千歳基地で再編された。部隊マークはリアルなヒグマの横顔。2001年、コープ・ノース・グアム01に参加。2013718日、イギリス空軍第3飛行隊と姉妹飛行隊(シスター・スコードロン)の覚え書きを交わした。2014730日、幹部3名がイギリスのコニングスビー空軍基地のイギリス空軍第3飛行隊を訪問し、タイフーンFGR.4戦闘機に試乗するなどした。201516日、F-15戦闘機4機とT-4練習機1機で初飛行訓練を実施。91-3日、千歳基地を訪問したイギリス空軍第3飛行隊の隊長ら4名と部隊間交流を実施。2016312日、創隊30周年記念式典を実施。63-24日、レッドフラッグ・アラスカ2016-2に参加。201710月、飛行教導群の巡回教導を受けた。124-7日、隊員3名がイギリス空軍コニングスビー基地を訪問し、第3飛行隊と部隊間交流(EF2000体験搭乗など)を行った。2019924日から104日、武士道ガーディアン19に参加。2020824-28日、北海道周辺で在日米空軍との共同訓練に参加。F-15J/DJ戦闘機が、第203飛行隊F-15J/DJ戦闘機と共に、千歳基地に展開した第18航空団44・第67戦闘飛行隊F-15C/D戦闘機6機及び第35戦闘航空団F-16CM戦闘機6機と、戦闘訓練を行った。2022121日、T-4練習機の垂直尾翼マーキングが第203飛行隊所属機共々第2航空団ロービジ・マーキングに変更された。F-15は従来通りヒグマの横顔である。参考:月刊JWings11,1212,151,044,1110,141,183,'1812,1911,'202,'23、世界の傑作機No.104、月刊航空ファン1,156,168,'162,18、朝雲

 <第201飛行隊(1995年)>;第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第201飛行隊(2005年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第201飛行隊(2015年)>:北部航空方面隊第2航空団飛行群の隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJT-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン5,16

 <第201飛行隊(2020年)>:第2航空団隷下で、千歳基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第202教育航空隊>:海上自衛隊の計器飛行課程教育部隊。TC-90(過去にはSNJ-4B-65B-65P)により固定翼機の計器飛行課程を行っている。以前は回転翼機も担当したが、TH-135導入後は固定翼機のみになった。196191日、岩国航空基地で新編され、岩国教育航空群の隷下に入った。196391日、新編された宇都宮教育航空群の隷下に移り、宇都宮航空基地に移動。197331日、海上自衛隊航空部隊改編に伴い徳島航空基地に移動し、徳島教育航空群隷下となった。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。TC-90を使用して偵察飛行を行った。72日、京都地本による募集対象者・協力者への体験搭乗に協力。徳島航空基地でTC-90練習機2機に招待者を分乗させ、紀伊水道上空を15分間飛行した。751918に発生した和歌山県北部を震源とする震度5強の地震を受け、航空機による情報収集を行った。201216日、平成24年の初飛行訓練を実施。1022日、第202整備補給隊が海幕長から2級賞状を授与された。20134130533頃、兵庫県淡路島付近を震源とするマグニチュード6.3の地震が発生し、震度6弱を観測したため、0546から情報収集を行った。20161128日、フィリピン海軍パイロット第1期生2名にTC-90の操縦教育訓練を開始。地上教育93時間・空中教育168時間の教育を行い、2017526日に修了した。2017529日、フィリピン海軍パイロット第2期生2名にTC-90の操縦教育訓練を開始し、1020日に修了した。1016日、フィリピン海軍パイロット第3期生2名のTC-90の操縦教育訓練を開始し、2018316日に修了した。20171212日、60万基準時間無事故飛行(19645月から)を達成。20201019日、隊員自主募集の成果で徳島教育航空群司令から3級賞状を授与された。114日、19645月から201911月まで累計61万基準時間無事故飛行の功績で、岸防衛大臣からの1級賞状を伝達された。2021631150頃、TC-90練習機が徳島空港で着陸に失敗し、左主翼の一部が滑走路に接触した状態で移動不能に陥った。乗員は無事だったが、滑走路が1630頃まで閉鎖されている。202316日、徳島教育航空群の年頭訓示・初訓練に参加。TC-90練習機3機で初訓練飛行を行い、途中で無線により小松島航空基地と賀詞を交換した。参考:教育航空集団司令部ホームページ、月刊航空情報10,05、月刊JWings12,067,13、月刊航空ファン6,118,176,18MAMOR vol.111vol.135、月刊軍事研究1,17、月刊世界の艦船8,21、朝雲

 <第202教育航空隊(1978年)>:徳島教育航空群隷下で、司令部は徳島にある。B-65TC-90を配備する。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

 <第202教育航空隊(2015年)>:徳島教育航空群隷下で、徳島に置かれている。TC-90を配備する。参考:徳島教育航空群ホームページ

 <第202教育航空隊(2020年)>:徳島教育航空群隷下で、TC-90を装備する。参考:月刊JWings6,20

第202航空隊(日本海軍)>:日本海軍航空隊。昭和17111日、第3航空隊から改称されて誕生し、ラバウルからケンダリー基地に帰投した。その後は迎撃戦闘及びポート・ダーウィン攻撃を実施。昭和18年初頭、ポート・ダーウィン周辺にスピットファイア100機が展開されたため、この地域での反攻が実施されると判断し、訓練を強化した。52日、零戦27機でクーパンを出撃し、ポート・ダーウィン上空でスピットファイア33機と交戦、13機を撃墜して損失はゼロだった。817日、ラウテン飛行場から出撃してダーウィン偵察に向かった陸軍独立飛行第70中隊の一〇〇式司偵3機が未帰還となったため、陸軍から譲渡されていた一〇〇式司偵1機でラウテン飛行場を出撃、状況偵察に向かったが、1625にオーストラリア海軍スピットファイアの迎撃を受け、ケープ・フォークロイ西20海里に撃墜された。9月上旬までにスピットファイア38機を撃墜し、損失は零戦3機であった。97日、アル諸島トアールに移動。99日、零戦27機で陸攻を護衛してメラウケを攻撃したが、P-40との空戦で3機を失った。12月、パイロット20名を第204航空隊に転出させた。昭和1934日、第14航空艦隊第22航空戦隊隷下となり、戦闘301飛行隊(定数48機)、戦闘603飛行隊(定数48機)の2個飛行隊編制となった。戦闘301飛行隊はトラック春島に派遣され、5月下旬まで防空任務を実施。戦闘603飛行隊はメレヨン島でB-24迎撃にあたり、3月末にトラックに移動、戦闘301飛行隊と合流した。523-24日戦闘301飛行隊主力28機と戦闘603飛行隊主力14機はトラックを出発、61日にソロンに進出した。62日、ビアク作戦に参加。613日、ペリリューに移動。710日、改編に伴い解隊した。参考:日本海軍戦闘機隊、朝雲

第202師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、仙台で編成された。通称青葉師団。終戦時、隷下に歩兵第504、第505、第506連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第202飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘機飛行隊。1964331日、第5航空団隷下のF-104J部隊として新田原で新編された。101日、F-104J部隊として初めてアラートを開始。19821221日、臨時F-15飛行隊(19811212日新編、19821220日解隊)をベースに新田原基地で再編されて最初のF-15J飛行隊となり、教育訓練・機種転換訓練を主な任務とした。1984716日、F-15Jが初のアラート任務に就き、719日に初のスクランブル発進を実施した。2000106日、教育任務を担う第23飛行隊が創設されたため、解隊された。参考:F-15イーグル、月刊JWings11,095,1912,154,104,1111,1210,14、世界の傑作機No.104

 <第202飛行隊(1975年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第202飛行隊(1985年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第202飛行隊(1995年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

第203教育航空隊>:海上自衛隊の航空教育部隊で、P-3Cによる固定翼実用機課程教育を実施している。パイロットは第201・第202教育航空隊での航法・操縦・計器飛行訓練を終えて入隊し、5ヶ月の教育を受ける。TACOは第201教育航空隊で操縦士基礎課程訓練を終えて入隊し、18ヶ月の教育を受ける。他は第3術科学校でP-3Cの基礎知識を学んだ後に入隊し、職種別に3-8ヶ月の教育を受ける。教育内容は座学、訓練装置教育、飛行訓練などで、修了するとウイングマークが授与されてP-3C航空隊に配属される。196191日、P2V-7教育飛行隊として鹿屋教育航空群隷下に新編された。1972726日、台風避難を終えて下総航空基地から鹿屋航空基地に戻ろうとしたP2V-7対潜哨戒機が、鹿屋航空基地北側にある高隅山の山腹に激突し、乗員7名全員が殉職した。1974216日、鹿屋教育航空群から教育航空集団の隷下に移った。516日、教育航空集団から鹿屋教育航空群の隷下に移った。1987121日に廃止された。1997324日、第206教育航空隊から改称されて下総教育航空群隷下に再編された。20108月、航空士基礎課程教育を開始。12月、航空士戦術(基礎)課程教育を開始。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。201331日、第2401期実用機課程学生10名と第2304期航空士戦術課程8名の修業式を実施。614日、実用機課程(P3C操縦士課程)等の修了式を実施。201417日、初飛行訓練を実施。201519日、P-3C哨戒機3機で初訓練飛行を実施。1119日、運用機1機あたり3000基準時間以上無事故(20085月から20152月まで)の功績により、海幕長から2級賞状を授与された。201819日、P-3C哨戒機2機で教育訓練飛行を実施。86日、運用機1機あたり4500基準時間(20085月から20181月まで。累計38000時間)の航空無事故の功績により、海幕長から2級賞状を授与された。201918日、P-3C哨戒機3機で初訓練飛行を実施。202017日、P-3C哨戒機2機(+撮影機1機)で初訓練飛行を実施。202117日、P-3C哨戒機3機で初飛行訓練を実施。2022116日、海上自衛隊創設70周年記念令和4年度国際観艦式P-3C哨戒機1機で参加。202419日、P-3C哨戒機2機で令和6年初訓練飛行を実施。参考:月刊JWings12,067,133,201,'233,'24、教育航空集団司令部ホームページ、月刊航空ファン3,11MAMOR vol.52vol.99、月刊丸3,14、月刊世界の艦船4,21、朝雲

 <第203教育航空隊(1978年)>:鹿屋教育航空群隷下で、司令部は鹿屋にある。P-2JP2V-7が配備された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

 <第203教育航空隊(2015年)>:下総教育航空群隷下で、下総航空基地に置かれている。P-3Cが配備された。参考:下総航空基地ホームページ

 <第203教育航空隊(2020年)>:下総教育航空群隷下で、P-3Cを装備する。参考:月刊JWings6,20

第203航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和19220日に厚木航空隊から改称された。第51航空戦隊隷下で、定数は艦戦96機、保有機数は零戦59機、月光12機だった。厚木及び木更津基地で訓練にあたっていたが、314日に木更津の分遣隊が第302航空隊に転出した。330日、46機で千歳基地に進出、北千島の防空任務に就いた。415日、戦闘303飛行隊と戦闘304飛行隊(定数は48機ずつ)の2個飛行隊編成に改編された。4月末、零戦1個分隊と月光3機を占守島と幌筵島に派遣。5月中旬から下旬にかけて本隊も占守島に展開。626日、アメリカ艦隊の夜間砲撃で零戦8機焼失、7機大破、16機損傷の損害を受けた。6月末、可動機は占守島が零戦32機と月光1機、幌筵島が零戦19機であった。また、美幌にも数機が残っていた。811日、北千島に占守派遣隊の零戦19機を残して本隊は美幌基地に移動。92日、美幌に所在していた63機のうち、50機が百里原基地に派遣された。914日、百里原基地の部隊が美幌に帰還した。918日、戦闘303飛行隊(零戦27機)がT部隊に編入されることになり、925日に鹿児島に移動。1012日、戦闘303飛行隊は台湾沖航空戦に参加し、その後フィリピンのクラーク基地に展開した。本隊も1013日に出水基地に移動し、1014日に沖縄北飛行場から台湾沖航空戦に参加。1022日、本隊がルソン島のバンバン基地に進出。10月下旬、戦闘812飛行隊(月光24機)が編入された。11月からは特攻に加わって戦力を漸減した。1115日に改編を受け、第25航空戦隊隷下となり、戦闘303飛行隊を第201航空隊に、戦闘304飛行隊を第221航空隊に移し、戦闘812飛行隊はフィリピンに残留、本隊は1120日に再建のため笠ノ原基地に帰還し、戦闘303飛行隊と戦闘312飛行隊(定数48機ずつ)が新たに隷下に入った。12月末、第812飛行隊が壊滅。昭和20318日、保有機は戦闘303飛行隊が32機、戦闘312飛行隊が31機であった。318-19日、アメリカ艦上機が南九州を襲ったために迎撃戦に出撃、12機を撃墜して11機を失った。321日、神雷特攻隊の護衛として11機が出撃したが、特攻隊は全滅した。41日、第5航空艦隊に編入され、沖縄戦で特攻護衛に就いた。5月、第72航空戦隊に編入された。7月下旬、築城基地に下がり、隷下に戦闘303飛行隊、戦闘309飛行隊、戦闘311飛行隊、戦闘312飛行隊、戦闘313飛行隊を擁する戦闘機部隊に改編された。その後は戦力温存に努めたまま終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊

<第203飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘機飛行隊。部隊マークは2と3をバックにした熊(ヒグマ)。体と頭が白、耳と手足が黒なのでパンダと間違われるが、あくまでも熊。胴体に描かれている赤い星2つは第2航空団から来ており、BAN対策のTKB隠しではない。1964625日、第2航空団隷下のF-104J/DJ部隊として千歳基地で新編された。121日からアラート任務を開始。19781127-30日、三沢基地で日米共同訓練に参加。1983年からF-15が配備され、1984324日にF-15Jへの機種転換を終了。航空自衛隊初のシェルター運用(部隊施設も地下にある)を開始し、シークレットイーグルの非公式ニックネームを付けられた。シェルターは森の中に散在しており、隊舎からは自動車も使って移動する。1984121日、F-15Jによるアラート任務を開始。2001年、コープ・ノース・グアム01に参加。2003年、コープサンダーに参加し、航空自衛隊として初めてアラスカに展開、アメリカ空軍のKC-135Rから空中給油も受けた。2014712日、千歳基地で創隊50周年記念式典を実施。201516日、F-15戦闘機4機とT-4練習機1機で初飛行訓練を実施。727日から828日、レッドフラッグ・アラスカ15-3演習に参加。2016526日から開催された伊勢志摩サミット警備のため、少なくとも6機のF-15戦闘機を百里基地に派遣し、実弾(BVRAAMWVRAAM装備。多分機関砲も)を積んでCAPに就いた。201710月、飛行教導群の巡回教導を受けた。2019924日から104日、武士道ガーディアン19に参加。2020824-28日、北海道周辺で在日米空軍との共同訓練に参加。F-15J/DJ戦闘機が、第201飛行隊F-15J/DJ戦闘機と共に、千歳基地に展開した第18航空団44・第67戦闘飛行隊F-15C/D戦闘機6機及び第35戦闘航空団F-16CM戦闘機6機と、戦闘訓練を行った。1221日、AAM-3空対空ミサイル2発とAIM-7空対空ミサイル2発を搭載してスクランブル発進したF-15J戦闘機が着陸時に降着装置が正常に降りないトラブルがあり、非常手順で降ろして着陸、アレスティング・フックを使用して制動した。2022121日、T-4練習機の垂直尾翼マーキングが第201飛行隊所属機共々第2航空団ロービジ・マーキングに変更された。F-15は従来通りである。参考:月刊JWings4,1112,151,0410,148,161,1812,1911,'203,212,'235,'24F-15イーグル、世界の傑作機No.104、月刊航空ファン10,1410,15、朝雲

 <第203飛行隊(1975年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第203飛行隊(1985年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第203飛行隊(1995年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第203飛行隊(2005年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第203飛行隊(2015年)>:北部航空方面隊第2航空団飛行群の隷下で、千歳基地に置かれている。F-15J/DJT-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン5,16

 <第203飛行隊(2020年)>:第2航空団隷下で、千歳基地にある。F-15D/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第204教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊。196191日、教育航空集団隷下に新編された。参考:教育航空集団ホームページ

第204航空隊>:日本海軍航空隊で、第6航空隊が昭和17111日に改称されたものである。定数は艦戦60機、陸偵8機。配備されていたのはこの半分くらいで、艦戦の機種は零戦二一型と三二型が混じっていた。発足時はブイン基地に展開しており、ガダルカナル島攻撃及び船団護衛、防空任務に従事。船団護衛では日没まで護衛に就いた後、不時着水して味方駆逐艦の救助を待つという任務を行ったため、熟練パイロットと機体を次々と喪失、空戦による戦死者よりもそれ以外の方が多くなってしまった。昭和184月、い号作戦発動に伴い、ラバウルに展開。47日、12日、14日の空戦で20機を撃墜した。418日、6機で山本長官機を護衛したが、P-38の襲撃を受けて撃墜されてしまった。63日にソ作戦が発令されたのを受け、ブインに進出。防御の弱い一式陸攻に代わって零戦に30kg爆弾を積んで出撃することが考案され、67日に初出撃したが、対空砲火で損傷する機が続出し、中止された。616日、飛行隊長がルンガ沖航空戦で戦死し、一時的に士官パイロットがいなくなってしまった。その後第582航空隊と第2航空戦隊艦戦隊を吸収し、8月中旬にブインに前進。10月上旬、消耗のためラバウルに後退。10月下旬、第26航空戦隊に所属してろ号作戦に参加。昭和19126日、パイロットの一部を第253航空隊に渡し、残存12機はトラックに後退、本土からの新隊員を加えて錬成を開始した。217日、トラック空襲で保有31機をフル出動させ、30機を撃墜したが、夕方には可動機が1機になってしまい、パイロット18名が戦死、生存者は本土に帰還となり、34日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15、月刊航空ファン11,18

第204飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークはイーグルヘッド(第7航空団隷下時は赤い7つ冠羽根、第83航空隊隷下時は8つ冠羽根で上5枚が赤、下3枚が金、第9航空団隷下時はロービジ9つ冠羽根)で、戦競にミスティックイーグルのマーキングをすることでも有名だった。1964121日付で新田原基地に第5航空団隷下のF-104機種転換訓練飛行隊として誕生した。訓練用として他のF-104飛行隊よりもF-104DJを多めに配備している。196810月、アラート待機を開始した。1981年、要撃戦闘飛行隊に改編された。19841020日、F-104による対領空侵犯措置任務を終了。1985319日に解隊され、320日にF-15飛行隊として再編されて第7航空団に編入され、百里基地に移動した。2003年、空中給油訓練を実施。20093月中旬までに第302飛行隊と交替して那覇基地に配備されることになり、200918日に第一陣4機が那覇基地に降り立った。119日、那覇基地への移駐を完了し、第7航空団から第83航空隊の隷下となった。312日、第302飛行隊から那覇基地の対領空侵犯措置任務を引き継いだ。316-19日、嘉手納基地に展開していたF-22Aと共同訓練を実施。41日、正式に那覇基地に移動した。201116日、初飛行訓練を実施。沖縄本島南西域洋上で通常飛行訓練と夜間飛行訓練を行った。751033頃、東シナ海の訓練空域(那覇市北西185km)で2対1対1の対戦闘機戦闘訓練中に1番機がレーダーから消えた。墜落したとみられ、乗員の脱出は確認されなかった。1029頃に墜落機から戦闘中止という発言があり、付近の海上で白煙を視認した僚機が緊急状態宣言を行ったという。レーダーから機影が消えたのは1033頃で、1112頃に那覇の北西207kmで垂直尾翼、1139頃に同海域で尾翼とスピードブレーキの一部が発見され、1722頃に護衛艦はるゆきが垂直尾翼1枚を収容して機番号を確認した。731日、墜落機の水平尾翼の一部が和歌山県の海岸で発見された。810日、墜落現場付近の海底でエンジンの一部やセンターパイロンなどを発見、回収した。820日、墜落機のフライトデータレコーダーが回収された。操縦していた三佐の遺体は発見されず、926日に死亡認定されて1階級特別昇任し、1010日に那覇基地で葬送式が営まれた。119日、航空幕僚監部が事故原因の調査結果を発表。墜落機は6.8-6.85Gの降下旋回を行った後、降下角42度で急降下し、その後暫くして3.2G及び5.2Gで2回の引き起こし操作をしたが間に合わず海面に突入していたことから、高G機動の際に意識消失を起こしたか、突発性の疾患による意識低下を生じ、引き起こし操作が間に合わなかったことが原因であると判明した。95日、離陸後に警告灯が点灯したため、F-15Jが那覇基地に緊急着陸した。97日、天候急変で那覇空港への民間着陸便が渋滞を起こし、F-15J戦闘機2機が1時間弱の空中待機で燃料不足になりかけたため、緊急着陸に切り換えた。12191231頃、スクランブル発進しようとしたF-15J2機のうち1機(2番機)が離陸滑走中に滑走路を外れて停止し、滑走路が1時間半にわたり閉鎖された。スクランブルは中止され、1番機は嘉手納基地に着陸した。201341日、対領空侵犯措置実施回数1000回を達成。2014722日、スクランブル発進を終えたF-15J近代化改修型(AAM-5装備)が那覇基地に戻る途中でマイナートラブルを起こし、嘉手納基地に緊急着陸した。1213日、那覇基地で創隊50周年記念式典を実施。201511270749-1211、中国軍航空機11機が沖縄本島と宮古島の間を通るなど防空識別圏内に入ったため、F-15戦闘機延べ22機をスクランブル発進させた。2016131日、上級部隊の改編に伴い、第9航空団の隷下に移った。20171301319頃、F-15DJ戦闘機が訓練のため那覇基地を離陸する直前、前脚タイヤが外れて滑走路南端付近で停止した。死傷者は無く、燃料を抜いてクレーンで移動させたが、運航再開は1530前となり、民間便40便に欠航、20便に目的地変更などの影響が出た。原因は前脚の車軸に水素脆化(溶接などの際に水素が吸収されて金属が脆化する)による初期亀裂が発生し、離着陸時などの衝撃で拡大していて、離陸直前のエンジン作動確認で出力を上げた際の力に耐えきれず破断したためで、通常2400飛行時間で行っていた脚の分解点検前の530飛行時間で事故が起きており、200飛行時間おきに車軸通電試験を行う事にした。130日から319日、コープノース・グアム2017に参加。117日、F-15DJ戦闘機1機が飛行中にトラブルを起こしたらしく、沖合で燃料を投棄した後、アレスティング・フックを降ろして嘉手納基地に着陸、BAK-13バリアで制動した。フライトラインで点検後、118日に那覇基地に戻っている。202048日、スクランブル発進したF-15J戦闘機2機のうち1機が油圧トラブルを起こしたため、嘉手納基地にアレスティング・フックで着陸した。もう1機も嘉手納基地に着陸している。2021318日、那覇基地を離陸したF-15J戦闘機(AAM-5キャプティブ弾搭載)の降着装置が収容できなくなり、嘉手納基地にアレスティング・フックを使って予防着陸した。整備後の319日に離陸して那覇基地に戻っている。611-26日、レッドフラッグ・アラスカ21-2F-15J戦闘機2機とF-15DJ戦闘機1機で参加。7-8月、一部が新田原基地に展開して移動訓練に参加。202237-11日、F-15J/DJ戦闘機3機で新田原基地に展開し、BAK-12着陸拘束装置によるフックランディング訓練を行った。514日、沖縄地本の部隊研修に協力し、入隊希望者31人にF-15戦闘機見学を行った。20231010日から千歳基地で移動訓練を実施。2024530日から千歳基地でBAK-12着陸拘束装置によるフックランディング訓練を行った。参考:月刊JWings10,123,1712,156,161,045,053,096,094,119,1110,111,123,1210,143,152,167,'206,219,'2111,'216,221,'248,'24、世界の傑作機No.104、月刊航空ファン4,109,1111,112,1210,144,'164,175,172,18、朝雲、月刊丸12,11

 <第204飛行隊(1975年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第204飛行隊(1985年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第204飛行隊(1995年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第204飛行隊(2005年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第204飛行隊(2015年)>:第83航空隊隷下で、那覇基地に置かれている。F-15J/DJT-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第204飛行隊(2020年)>:第9航空団隷下で、那覇基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第205教育航空隊>:海上自衛隊の航空教育部隊。YS-11T-Aを使用した戦術航空士基礎過程を実施する。196191日、鹿屋教育航空群隷下に新編された。1974216日、下総航空基地に移動し、下総教育航空群の隷下に入った。20101022日、所属するYS-11T-A練習機2機が退役除籍された。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。3231600YS-11T-A2機で福島に生活用品4.5トンを輸送。3241517YS-11T-A2機で福島に救援物資2.3トンを輸送。戦術航空士基礎課程は2011415日で終了し、以降は第203・第211教育飛行隊に移管された。518日、YS-11T-Aのラストフライトを実施。531日、YS-11T-A練習機3機が除籍された。61日、下総基地で解隊行事を実施し、解隊された。参考:月刊JWings12,062,11、教育航空集団司令部ホームページ、朝雲、月刊丸8,11、東日本大震災海上自衛隊災害派遣の記録

 <第205教育航空隊(1978年)>:下総教育航空群隷下で、司令部は下総にある。YS-11T-AP-2Jが配備された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

第205航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和2025日に台中で編成され、第1航空艦隊隷下となった。定数は艦戦144機で、隷下に戦闘302飛行隊、戦闘315飛行隊、戦闘317飛行隊を置く。発足当初の保有機は23機で、パイロットは2名しかいなかったが、順次補充して310日にはパイロット112名、可動機20機前後となった。3月末に特攻部隊となることが決定し、大義隊と命名されて328日に石垣島と宮古島に進出、41日から爆装零戦による特攻を開始した。413日には爆装零戦28機と直掩機12機による特攻を行ったが、大半は10機以下の出撃で、6月以降は毎月1-2回程度の出撃に止まった。終戦までに32名が特攻で戦死した。参考:日本海軍戦闘機隊

第205師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、広島で編成された。通称安芸師団。終戦時、隷下に歩兵第507、第508、第509連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

<第205飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘機飛行隊。1965331日に第6航空団隷下のF-104J飛行隊として小松基地に新編された。101日、アラートを開始。19732月、小松基地の滑走路工事に伴い百里基地に移動、第7航空団隷下となった。1021日、小松基地に復帰。第306飛行隊創設に伴い、1981630日に解隊された。参考:月刊JWings4,11、世界の傑作機No.104No.39

 <第205飛行隊(1975年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

第206教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊。1987121日、下総教育航空群隷下に下総航空基地で新編され、P-3Cを装備した。1997324日、第203教育航空隊に改称された。参考:月刊航空ファン11,92、下総航空基地ホームページ、教育航空集団司令部ホームページ

第206師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、熊本で編成された。通称阿蘇師団。終戦時、隷下に歩兵第510、第511、第512連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第206飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。19651220日、第7航空団隷下のF-104J部隊として百里基地で新編された。ただ基地施設の建設が間に合わず、司令部が入間基地に仮設置されており、訓練は他の飛行隊に要員を派遣して行っていた。1967年、百里基地で本格的な飛行訓練を開始。8月、アラート任務を開始。第305飛行隊新編に伴い、1978121日に解隊された。ちなみにエンブレムは第305飛行隊に引き継がれている。参考:世界の傑作機No.104、月刊JWings4,11

 <第206飛行隊(1975年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

第207飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。1966331日、第7航空団隷下のF-104J飛行隊として百里基地で新編された。この時の保有機数は15機で、定数の18機に達するのに1年半ほどかかっている。19678月、アラートを開始。1972年、沖縄への移動が決定し、定数を25機に増やした。9月、百里基地でのアラートを終了。1110日(1日?)、那覇基地に移動。117日、保有F-104J戦闘機全機が那覇基地への移動を完了。1110日、第83航空隊の隷下となった。197311日、アラートを開始。198512月、F-104Jによる最後の対領空侵犯措置任務を実施。第302飛行隊と交代して1986319日に解隊された。参考:月刊JWings4,1110,125,19、月刊丸12,10、世界の傑作機No.104

 <第207飛行隊(1975年)>:第83航空隊隷下で、那覇基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第207飛行隊(1985年)>:第83航空隊隷下で、那覇基地に置かれている。F-104J/DJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

第209師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、金沢で編成された。通称加越師団。終戦時、隷下に歩兵第513、第514、第515連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第210航空隊>:日本海軍航空隊。昭和19915日、訓練部隊として第3航空艦隊隷下に明治基地で新編された。定数は艦戦48機、局戦48機、夜戦12機、陸偵24機、艦爆24機、艦攻24機で、甲戦飛行隊2隊、乙戦2隊、丙戦0.5隊、陸偵1隊、艦爆1隊、艦攻1隊を編成した。昭和191213日からB-29の迎撃にあたり、この日は2機を撃破した。1218日、B-29爆撃機3機(不確実1機含む)を撃墜。1231日、保有機は零戦29機、紫電31機、月光12機、練習戦闘機8機、彗星47機、九九式艦爆11機、天山18機、九七式艦攻3機であった。昭和201月、紫電を中心とした徳島派遣隊を編成、本隊は名古屋中心に防空を行った。216-17日の空襲では零戦14機が出撃して18機(不確実4機含む)を撃墜。3月、作戦部隊に変更され、3月末に南九州に展開した。戦闘機隊は零戦32機、紫電14機で第一国分基地に進出し、沖縄特攻作戦の護衛任務に就いた。戦闘機隊は4月中旬に明治基地に戻ったが、戦果6機に対して損失は10機だった。55日、戦闘機専用部隊に改編され、第53航空戦隊に編入された。定数は艦戦96機である。86日、零戦六二型26機、零戦五二型29機、零戦二一型1機、練習戦闘機2機などを保有していた。防空戦闘及び戦力温存に努め、終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊丸10,10

第211教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊で、教育航空集団直轄である。ホームベースは鹿屋航空基地。回転翼操縦士と回転翼航空士の教育が主任務で、第201教育航空隊での操縦士基礎課程を終えた回転翼操縦士要員に、OH-6D/OH-6DAまたはTH-135を使用した操縦士回転翼基礎過程、TH-135を使用した操縦士回転翼計器飛行課程、SH-60Jを使用した操縦士回転翼実用機過程の各教育を施す。1960116日に編成された館山航空隊第151飛行隊がベースで、196191日に館山航空基地で教育航空集団隷下に新編された。1974216日、鹿屋航空基地に移駐した。516日、再編された鹿屋教育航空群の隷下に入った。1987121日、鹿屋教育航空群の廃止に伴い、教育航空集団の隷下に入った。2005年、無事故飛行10万時間を達成。2009113日、OH-6D練習ヘリ1機とSH-60J哨戒ヘリ1機の除籍行事を実施。611日、運用機1機あたり7500時間以上の航空無事故達成により、海幕長から第2級賞状を授与された。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。11月、TH-135による教育訓練を開始。2012327日、無事故飛行10万時間以上の功績により、防衛大臣から一級賞状を授与された。2013424日、運用機1機あたり3000基準時間以上(累計10500基準時間以上)を無事故で達成したことにより、海幕長から2級賞状を授与された。20152120919に鹿屋航空基地を離陸して学生航法訓練に向かったOH-6DAヘリ8781号機(教官2名と学生1名が搭乗)が、1105に鹿児島県伊佐市上空で最終位置通報を行った後、燃料が切れる1220を過ぎても戻らず、行方不明になった。1306、第7航空救難区/海自第1航空群に航空救難部署を発動、SH-60J/K哨戒ヘリとUH-60J救難ヘリが捜索に向かった。1307、第6航空救難区/空自西部航空方面隊に航空救難部署を発動、U-125A救難捜索機とUH-60J救難ヘリが捜索に向かった。第8師団第24普通科連隊も加わり、空と地上から捜索にあたったが、日没により1809に上空からの捜索を中断し、濃霧のため2100に陸上からの捜索を中断した。213日朝から捜索を再開し、0918に宮崎県えびの市で空自UH-60J救難機が墜落した機体と乗員3名を発見したが、1207に全員の死亡が確認された。1125日、TH-135練習ヘリ15機全機の配備を完了し、15機教育体制確立の記念撮影を行った。20163月、海曹士航空士対潜(SH60J)課程の最後となる修業式を実施。331日、OH-6DA練習ヘリ最終号機が除籍された。46日、鹿屋航空基地の北10kmで行方不明になった飛行点検隊U-125の捜索に参加。414日・16日に発生した熊本地震の災害派遣に参加。2017313日、航空士基礎(回転翼)課程の最終履修期となる第2805期の修業式を鹿屋航空基地で実施。2018323日に改編され、TH135ヘリによる回転翼基礎課程及び計器飛行課程教育を担当することになった。41日、学生隊長が鹿屋市のジョギング大会に参加。参考:教育航空集団司令部ホームページ、月刊JWings12,062,'166,'16、館山航空基地ホームページ、MAMOR vol.70vol.52vol.111、月刊軍事研究2,16、月刊世界の艦船7,16、月刊航空ファン7,16、朝雲

 <第211教育航空隊(1978年)>:鹿屋教育航空群隷下で、司令部は鹿屋にある。B-47G-2AOH-6JHSS-2が配備された。参考:月刊世界の艦船1,79増刊

 <第211教育航空隊(2015年)>:教育航空集団隷下で、鹿屋航空基地に置かれている。OH-6DASH-60J/KTH-135を配備する。参考:月刊航空ファン4,16

 <第211教育航空隊(2020年)>:教育航空集団隷下で、鹿屋航空基地にある。TH-135を装備する。参考:月刊JWings6,20

<第211戦闘飛行隊>:VF-211を参照。

第212教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊。SH-60Kによる実用機課程を担当する。2018323日、教育航空集団隷下に鹿屋航空基地で新編された。41日、教官・整備員ら10名が鹿屋市のジョギング大会に参加。1129日、屋久島沖で墜落した第21特殊戦飛行隊CV-22B特殊戦機の捜索活動に参加。1550からSH-60Kヘリ1機で捜索救難活動を実施。参考:朝雲

 <第212教育航空隊(2020年)>:教育航空集団隷下で、鹿屋航空基地にある。SH-60Kを装備する。参考:月刊JWings6,20

第212師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、久留米で編成された。通称菊池師団。終戦時、隷下に歩兵第516、第517、第518連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

<第213戦闘飛行隊>:VF-213を参照。

第214師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、宇都宮で編成された。通称常磐師団。終戦時、隷下に歩兵第519、第520、第521連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第216師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和204月、京都で編成された。通称比叡師団。終戦時、歩兵第522、第523、第524連隊などを隷下に置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第221教育航空隊>:海上自衛隊の教育航空隊。1960116日に編成された館山航空隊教育部がベースで、196191日に館山航空基地で新編され、教育航空集団に編入された。19681130日、小月航空基地に移転した。1997324日、小月教育航空隊に改称された。参考:小月航空基地ホームページ、館山航空基地ホームページ、教育航空集団司令部ホームページ

第221航空隊>:日本海軍航空隊、通称嵐。昭和19115日、第62航空戦隊隷下に笠ノ原基地で新編された。定数は艦戦72機(うち補用18機)。2月中旬から訓練に入ったが、肝心の戦闘機は25日に漸く最初の零戦2機が配備されるなど数が揃わずに苦労した。225日から8機が霞ヶ浦に短期間展開。619日、16機が木更津に短期間展開。6月末の配備数は零戦二一型14機と五二型24機であった。710日、改編が行われ、第2航空艦隊に編入されて隷下に4個飛行隊(戦闘308、戦闘312、戦闘313、戦闘407。定数はそれぞれ48機)が配備された。戦闘407飛行隊は鹿児島基地で、他は笠ノ原基地で訓練を行い、戦闘312飛行隊は8月中旬に3回ほど台湾の新竹基地に進出して船団護衛・防空任務に就き、その後も台湾に留まった。1012日、台湾にアメリカ艦上機が来襲、戦闘312飛行隊が迎撃にあたり、23機を撃墜したが15機を喪失した。1014日、本土の飛行隊は捷一号作戦発動に伴い台中と新竹に進出。1023日、4個飛行隊60機でルソン島アンヘレス基地に移動。1024日からルソン島東の機動部隊に対して総攻撃を行い、その後もレイテ攻撃や防空などを行った。12月、戦闘303飛行隊、戦闘304飛行隊、戦闘315飛行隊、戦闘317飛行隊が加わり、6個飛行隊編成となった。1220日、戦闘308飛行隊の20機がアンヘレス基地に進出したが、1226日までに壊滅した。昭和2018日、残存パイロットは台湾に後退(戦闘第304飛行隊は115日に第252航空隊隷下に異動)し、地上勤務員は陸戦隊に転向、そのまま終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン5,17

第221師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、長野で編成された。通称天竜師団。終戦時、隷下に歩兵第316、第317、第318連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第222師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和206月、弘前で編成された。通称八甲師団。終戦時、隷下に歩兵第307、第308、第309連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第224師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、広島で編成された。通称赤穂師団。終戦時、隷下に歩兵第340、第341、第342連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第225師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和206月、大阪で編成された。通称金剛師団。終戦時、隷下に歩兵第343、第344、第345連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第229師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和206月、金沢で編成された。通称北越師団。終戦時、隷下に歩兵第334、第335、第336連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第230師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、東京で編成された。通称総武師団。終戦時、隷下に歩兵第319、第320、第321連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第231師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、広島で編成された。通称大国師団。終戦時、隷下に歩兵第346、第347、第348連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第234師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、東京で編成された。通称利根師団。終戦時、隷下に歩兵第322、第323、第324連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第247突撃砲中隊>:ドイツ陸軍の独立突撃砲中隊で、1943年初めに第911突撃砲大隊第1中隊を改編して創設された。910日にコルシカ島に移動して対パルチザン戦闘を行い、104日にイタリアに移動して月末に解隊され、乗員と装備は第902突撃砲大隊に組み込まれた。参考:月刊グランドパワー10,00

第251航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和17111日に台南航空隊から改称された。定数は艦戦60機、陸偵8機、輸送機4機である。11月中旬、ラバウルから本土に帰還。年末から豊橋基地で再建に入った。昭和1851日、ラバウル進出が命令され、地上要員は57日に、飛行隊(零戦58機、陸偵7機)は510日にラバウルに到着した。514日、オロ湾攻撃に零戦32機で出撃。P-38及びP-40戦闘機13機(不確実5機含む)を撃墜した。521日、月光2機が初陣を飾り、B-17爆撃機2機を撃墜した。63日にソ作戦が発令されたのを受け、ブカ島に進出。67日、零戦36機で出撃し、ルッセル島上空で23機(不確実5機含む)を撃墜した。610日、月光1機が出撃し、2機(不確実1機含む)を撃墜した。611日夜、月光が1機を撃墜した。612日、零戦32機で出撃し、ルッセル島上空で11機を撃墜した。613日夜、月光が1機を撃墜した。615日夜、月光が2機を撃墜した。616日、ルンガ沖の艦船を30機で攻撃し、10機を撃墜したが、7機を喪失した。630日、レンドバにアメリカ軍が上陸したため24機で出撃、8機を失った。夜には月光が出撃し、1機を撃墜した。7月上旬、月光部隊に本土からの増援機が加わり、空襲の激しくなったバラレ島に進出した。91日、夜間戦闘機隊に改編されることになり、それまでの搭乗員は第201航空隊や第253航空隊に転出した。定数は夜間戦闘機24機で、夜間にバラレに進出して哨戒を実施、昼間はラバウルに帰投した。10月、ラバウルに後退。10月末から第25航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。昭和192月、主力はトラック楓島基地に展開したが、トラック空襲で月光9機を破壊されて壊滅した。41日に戦闘901飛行隊を再建したものの、定数24機に対して6機しか配属されていなかった。5月、ラバウルに残っていた2-3機がトラックの主力と合流。710日の改編で解隊され、戦闘901飛行隊は第153航空隊に編入され、フィリピンに向かった。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15、月刊航空ファン11,18

第252航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和17920日に元山航空隊戦闘機隊が改称されて第22航空戦隊隷下に館山飛行場で創設された。定数は艦戦60機である。1030日、大鷹に搭乗して木更津から出発。119日、ラバウルに到着。1111日、ガダルカナル攻撃のため零戦11機で出撃し、1機を撃墜した。1112日、零戦12機で出撃し、8機を撃墜した。1113日、零戦6機で比叡の護衛に就いたが、帰途で悪天候に襲われ、全機がレカタ湾に不時着水した。1114日、第38師団輸送船団の護衛に就き、14機を撃墜したが、飛行隊長が未帰還となった。昭和18131日までに撃墜145機(不確実36機含む)のスコアをあげ、21日に内南洋への転属が決定し、3月までに順次移動を実施、ルオットに本部を置き、ウエークに2個分隊を、タロアとナウルに1個分隊を置いた。91日の南鳥島空襲を受け、ウェーク島からの哨戒索敵部隊(第755航空隊九六式陸攻二三型)護衛のため零戦16機を進出させた。919日、アメリカ機動部隊がギルバート諸島に来襲したため、零戦12機でタラワに進出し、B-24の迎撃にあたった。924日、タラワの零戦がタロアに撤収した。106日、ウエーク島にアメリカ艦上機100機が来襲したため、零戦26機で迎撃し、14機を撃墜したが、16機を喪失した。タロアの分隊が零戦6機で応援に駆けつけたが、途中でF6Fに奇襲攻撃を受け、3機が行方不明となった。ウエーク島の人員は数日後にルオットに後退。1121日にギルバート諸島にアメリカ軍が上陸したため、1124日にタロアから60kg爆弾2個を搭載した零戦19機で出撃、マキン島に向かった。しかしF6F戦闘機30機の迎撃を受け、10機を撃墜(不確実5機)したものの9機を撃墜された。1125日、零戦24機でマキン島に向かったが、F6F戦闘機の迎撃で6機を喪失した。残存する30機はタロアに集結し、B-24の迎撃任務を昭和191月まで実施、50機を撃墜した。昭和19130日、マーシャル諸島マロエラップにアメリカ艦上機延べ90機が来襲したため、残存する零戦11機で迎撃したが、1機が未帰還、3機が不時着で失われ、戻った7機も全て爆撃と艦砲射撃で使用不能となり、25日に飛行艇及び陸攻に救出されてトラックに収容され、木更津基地に帰還した。220日、北海道・千島担当予定の第12航空艦隊第27航空戦隊に編入され、館山基地で訓練を開始した。定数は艦戦48機である。3月末、館山から三沢に移動。41日、空地分離に伴い、飛行機隊が戦闘第302飛行隊(定数48機)となった。主力は三沢基地に移動。5月初旬の稼働機は零戦55機だった。6月、あ号作戦発動により、決戦予備兵力に指定された。616日、横須賀航空隊と第27航空戦隊からなる八幡空襲部隊の主力戦闘機部隊として硫黄島に展開することになり、館山基地に戻った。618日までに硫黄島に展開する予定だったが、零戦五二型の数が揃わず、その間にマリアナ沖海戦敗北で八幡空襲部隊としての任務は解除になったが、硫黄島派遣隊として引き続き硫黄島への展開準備を続けた。621日、零戦25機で第752航空隊一式陸攻3機の誘導を受け硫黄島に向かい、途中で2機が不調により引き返し、残る23機が硫黄島千鳥飛行場に到着した。624日、アメリカ海軍VF-1/-2/-50所属F6F-3艦上戦闘機が硫黄島に来襲したため、所在の全力で迎撃を行い、19機を撃墜したが、飛行隊長機含む7機(10機?)を喪失した。625日、第2次派遣隊零戦16機が硫黄島千鳥飛行場に進出。630日、第3次派遣隊零戦13機が硫黄島に進出。73-4日、アメリカF6F艦上戦闘機が硫黄島に来襲したため、迎撃して13機を撃墜したが、11機(14機?)を喪失した。710日、隷下部隊が戦闘第302飛行隊、戦闘第315飛行隊、戦闘第316飛行隊、戦闘第317飛行隊の4個飛行隊(1個飛行隊定数48機)となり、第3航空艦隊直属となった。814日、硫黄島で戦闘第302飛行隊がB-24J爆撃機1機を撃墜。819日に戦闘第302飛行隊の主力は館山基地に後退し、戦闘第302飛行隊分遣隊が硫黄島防空にあたった。その後第252航空隊は茂原基地に移り、戦力補充に入っている。戦力が整うと捷号作戦に投入されることになり、フィリピンへの移動が決まった。1019日、戦闘第302飛行隊がフィリピンへの中継基地となる第2国分基地に移動。1022日、捷一号作戦発動に伴いフィリピンのクラーク基地に進出。1024日、艦戦26機で総攻撃に参加したが、F6F戦闘機の奇襲攻撃を受けて11機を喪失した。その後は特攻隊を含む他部隊への転出が多くなった。1128日、第1御盾特別攻撃隊を編成し、サイパンに片道攻撃を実施。残った隊員は再建のため本土に帰還した。昭和20115日、戦闘第304飛行隊が第221航空隊から隷下に入り、館山基地で戦力回復を図った。2月には茂原基地に本部を置き、隷下の戦闘第304飛行隊(館山基地)、戦闘第308飛行隊、戦闘第311飛行隊、戦闘第313飛行隊、戦闘第316飛行隊が茂原及び館山基地で訓練を行っていた。211日、硫黄島の戦闘第302飛行隊分遣隊が帰還。216日、アメリカ艦上機が来襲したため、戦闘第308飛行隊及び戦闘第311飛行隊が延べ45機で迎撃にあたり、24機を撃墜(不確実10機含む)したが、9機を喪失した。217日、225日にも出撃したが、損失も大きく、保有機数39機・稼働数23機まで戦力が減少した。3月、戦闘第308飛行隊が第601航空隊に転出した。313日、戦闘第304飛行隊が館山基地から茂原基地に移駐。3月末、沖縄戦天一号作戦に備え、戦闘第304飛行隊(330日に宮崎県富高基地に移動)、戦闘第313飛行隊、戦闘第316飛行隊(零戦48機ずつ装備)、攻撃第3飛行隊(彗星48機装備。宮崎県富高基地)の半数を富高基地や国分基地などに派遣、第601航空隊の指揮下に置いた。特攻隊として戦闘304・戦闘313・攻撃第3飛行隊からなる第3御盾隊第252部隊が編成されている。41日から17日まで菊水作戦に参加、零戦15機と彗星5機を喪失した。45日、司令部が富高基地から第1国分基地に移動。425日、戦闘第316飛行隊と交替して戦闘第304飛行隊が茂原に移動。特攻志願のパイロット3名のみ第1国分基地に残されたが、そのうち1名がたまたま練習航空隊時代に飛行長だった佐官に会い、事情を知ったその佐官の、空母搭乗員として訓練したのに特攻で死ぬのはもったいない、という取り計らいで、間も無く3名とも館山へと転勤した。その後司令部も関東地区に戻り、戦闘第304飛行隊を郡山に、戦闘第316飛行隊を茂原に配置、本土決戦に備えて戦力を温存した。7月初め、戦闘第304飛行隊が茂原、戦闘第316飛行隊が郡山に移動。8150530、艦上機を迎撃するため戦闘第304飛行隊が零戦3隊で出撃。イギリス空母10インディファテイガブルのシーファイアLV、CVL-24ベローウッドのVF-31所属F6F-5などと交戦し、帰投すると終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊、館山航空基地ホームページ、月刊航空ファン2,175,17

第253航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、鹿屋海軍航空隊の艦戦隊をベースに新編された。定数は艦戦48機、陸偵4機であり、第21航空戦隊隷下である。本隊はカビエンにあり、ラバウルやブカなどに分遣隊を派遣していた。昭和185月中旬、サイパン島に退いたが、それまでに110機を撃墜し、30名強のパイロットが戦死した。7月上旬、1個中隊がブインに派遣された。91日、第21航空戦隊が解隊されたため、第25航空戦隊に編入され、逐次ラバウルのトベラ飛行場に進出し、東部ニューギニア及び北部ソロモンで空戦を行った。10月末から第25航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。昭和192月中旬、可動機が20機強に減少。217-18日のトラック空襲によりラバウルからトラックに後退することになり、220日に23機でトラックに向かい、9機がラバウルに残った。41日、戦闘309飛行隊及び戦闘310飛行隊の2個飛行隊編制となった。430日、トラックにアメリカ艦上機が来襲し、20機が未帰還となり、可動機が5機に減少した。616日の可動機は零戦13機であった。619日、グアムに進出するため13機でトラックを出発したが、着陸寸前にF6Fの奇襲を受け、5機が撃墜され、8機が地上撃破され、全損してしまった。生存者は輸送機や潜水艦で本土に戻った。710日に解隊し、トラックに残っていた零戦7機は東カロリン航空隊に編入され、ラバウルに残っていた部隊は南東方面艦隊司令部付となった。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15

第254航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和18101日に海南警備府隷下に編成され、海南島三亜に進出した。定数は艦戦24機、艦攻4機、輸送機1機である。海南島及び香港の防空、南支方面のシーレーン防衛が主任務で、B-24B-25の迎撃に当たった。昭和19年からはP-38P-40の護衛が付くようになったため、護衛戦闘機隊基地である南寧に対して爆装零戦による攻撃をかけることになり、45日に三亜航空隊及び海口航空隊の爆装零戦隊23機を零戦9機で護衛して出撃。P-40戦闘機9機を空中戦で撃墜し、P-40戦闘機3機とB-25爆撃機2機を地上撃破したと判定されたが、P-40の反撃で零戦9機を撃墜されたため、爆装零戦による攻撃は中止となった。昭和191013日、零戦16機で台南に進出。1014日、F6F戦闘機3機を撃墜。1016日、F6F戦闘機2機を撃墜。1027日、零戦9機でフィリピンのニコルス基地に進出。1028日、マルコット基地に移動し、レイテ付近で戦闘任務に就いた。1112日、可動機が1-2機に減少し、フィリピン進出部隊は台南に戻った。昭和2011日に解隊され、第901航空隊に吸収された。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン3,20

第256航空隊>:日本海軍航空隊。昭和1921日、支那方面艦隊隷下に竜華飛行場で創設された。定数は艦戦24機、艦攻8機で、若年搭乗員の延長教育、上海防空、対潜哨戒、船団護衛を主任務とする。創設時の可動機は零戦15機、九七式艦攻5機、練習戦闘機少数であった。1013日、零戦10機が台湾に増援に向かったが、8機が悪天候で引き返し、2機が台中に着陸した。1015日、零戦9機が台南に進出。1027日、台湾の零戦6機が第254航空隊に転出し、フィリピンに向かった。その後更に第201航空隊に転出し、第256航空隊隊長も加わったが、生存パイロットが3名になったため1117日に原隊復帰して上海に戻った。1215日に解隊され、第951航空隊に統合された。参考:日本海軍戦闘機隊

第261航空隊>:日本海軍航空隊、通称虎。昭和1861日、鹿児島基地で編成され、71日に第1航空艦隊に編入された。定数は零戦36機で、すぐに72機に増勢となった。昭和19219日、香取基地に移動を開始。222日、68機で硫黄島に展開した。226日までにサイパンへの集結を完了。330日、32機でサイパンを出撃したが、敵を発見できず、ペリリューに着陸した。331日、ペリリューがアメリカ艦上機部隊の急襲を受け、18機(不確実3機含む)を撃墜したものの20機が未帰還となり、8機が地上撃破された。生存者はサイパンに引き揚げ、再建に入った。423日、27機がメレヨンに前進し、B-24爆撃機4機を撃墜、うち2機は体当たりで墜とした。再びサイパンに引き返し、5月中旬には保有42機・可動34機となった。62日、サイパンを出発し、66日にハルマヘラ島に進出。612日、12機がビアク攻撃に向かったが、全機未帰還となり、残りはグアム及びヤップに展開した。621日、グアムには2機を残すのみとなり、数名が715日まで残存してサイパン攻撃を行った他は陸攻や潜水艦で脱出した。710日に解隊され、パイロットは第201航空隊などに転出した。参考:日本海軍戦闘機隊

第263航空隊>:日本海軍航空隊で、通称は豹。昭和18101日、元山で編成され、第1航空艦隊に編入された。定数は零戦36機で、後に72機に増やされている。松山航空基地で錬成を開始したが、不十分のまま昭和19220日に香取基地を発進し、221日にテニアン島に到着した。223日、テニアン島がアメリカ機動部隊の空襲を受け、11機が未帰還となり、6機が地上で撃破され、壊滅した。生存者は松山に帰還し、艦戦49機を揃えて3月中旬までにマリアナに展開。330日、25機でペリリュー島に移動。331日、18機が出撃したが、未帰還15機、大破炎上3機の損害を出して壊滅し、生存者はサイパンに帰還した。その後本土から飛行機を輸送してグアムに展開。525日、ペリリューに移動し、その後ワシレに展開した。615日、30機がグアムに復帰、618日までサイパン沖の艦船攻撃と防空を行ったが、20機以上を失って壊滅した。6月末、本土からの補充機が届いて可動機が10機強となり、グアムに復帰。78日、可動機6機でペリリューに向かったが、奇襲攻撃を受けて5機を失った。710日に解隊され、ペリリューの8機はダバオに向かい、第201航空隊に吸収された。参考:日本海軍戦闘機隊

第265航空隊>:日本海軍航空隊、通称狼または雷。昭和181115日に鹿児島基地で編成され、第1航空艦隊に編入された。定数は零戦36機で、後に72機に増やされている。笠ノ原基地で訓練を行い、昭和191月に台湾の新竹基地に移った。51-2日、零戦32機でサイパンに移動、5月上旬から大型機の迎撃任務に就いた。61日、サイパンの部隊はハルマヘラ島への移動を開始、65日にカウ基地に到着した。611日、マリアナ空襲でサイパンに残っていた12機が全滅した。614-17日、カウ基地の部隊はペリリュー島に移動。あ号作戦を前に本土から16機が合流し、部隊主力はヤップとグアドブス、一部はグアムに展開した。一部は硫黄島で615日にアメリカ艦上機迎撃を行い、壊滅したようである。7月上旬に残存機はダバオに後退、710日に解隊され、パイロットの大部分は第201航空隊に吸収された。参考:日本海軍戦闘機隊

第281航空隊>:日本海軍航空隊。昭和18220日に舞鶴基地で編成され、31日に横須賀鎮守府隷下に館山基地で開隊した。定数は零戦48機である。昭和18518日、第12航空艦隊第27航空戦隊隷下となって523日に北千島の幌筵基地に進出した。アッツ島沖ではアメリカ艦船への陸攻による攻撃が実施されていたが、航続距離の関係で戦闘機隊は随伴が困難だった。8月末、可動機は零戦二一型20機であった。910日、館山から25機が増派された。101日、可動機は42機であった。11月、零戦16機を第204航空隊に分遣することになり、1114日にラバウルに進出した。残りは1124日に第24航空戦隊に編入され、マーシャルに進出することになった。1127日に第1陣21機が木更津を、121-2日に第2陣18機が館山を出発し、1210日までにルオットに進出した。しかし第1陣到着後の125日にルオットが大空襲を受けて10機を喪失している。1214-25日、零戦13機がマーシャル群島ミレ島に派遣された。昭和19130-31日、ルオットが空襲を受けて保有機の大部分を地上で撃破された。要員は全員が陸上守備隊に転向し、21日に上陸したアメリカ軍と戦闘を行い、26日までに玉砕した。参考:日本海軍戦闘機隊

第301映像写真中隊>:陸上自衛隊の記録写真・映像撮影専門部隊で、通信団の隷下にあり、市ヶ谷駐屯地に置かれている。主任務は最高司令部(防衛大臣/防衛庁長官、防衛省、統合幕僚監部、陸上幕僚監部など)の命により、映像や地上写真の撮影、編集、配布、保管を実施することと、有事の際に戦闘状況下でも撮影任務を遂行できるような訓練を行うこと。隊員数80名で、中隊本部、写真小隊、映像小隊からなる。写真小隊に写真班長、写真陸曹、写真手、映像小隊に映像班長、映像陸曹、映像手がおり、活動記録、広報、識別写真、計測写真・映像などの撮影を行う。撮影編集器材は市販のもので、写真スタジオ、映像スタジオ、編集室3室、写真処理室などを備える。全国の部隊から事前に依頼を受けることが多いが、緊急で撮影に赴くこともあり、ジュラルミンケース1個に撮影機材を詰め込んだ応急カメラセットが用意されている。東日本大震災ではシェルターに編集印刷機材を設置して8名が常駐した。海外派遣や海外演習に同行し、1ヶ月以上の撮影を行うこともある。元は19549月に新編された第301写真中隊で、19601月に通信団の隷下に入り、20003月に第301映像写真中隊に改編された。2022113-5日、隊員1名が、西部方面音楽隊35名、第4師団第4音楽隊4名、第8師団第8音楽隊3名、第15旅団15音楽隊7名、中部方面音楽隊1名と共に、オマーン軍楽祭に参加。2023329日、長年にわたる自衛隊の活動記録・情報発信等の功績により、首相官邸で内閣総理大臣特別賞状を授与された。参考:月刊JWings1,16MAMOR vol.81、朝雲

第301沿岸監視隊>:陸上自衛隊の沿岸監視隊で、稚内分屯地に駐屯している。19661025日、稚内分屯地で新編された。1968年、稚内分屯地で第301沿岸監視隊派遣隊が編成を完結し、1216日に礼文分屯地に移駐した。2016911日、稚内市中央アーケード街で実施された職業体験わくわくワークフェス2016で防弾チョッキと背のうを展示した。2017118日、内閣総理大臣特別賞状が授与された。201896日に発生した北海道胆振東部地震の災害派遣に参加。201912120109頃に発生した北海道宗谷地方北部を震源とする最大震度5弱の地震で情報収集にあたった。参考:朝雲、名寄駐屯地ホームページ

第301化学発煙中隊>:陸上自衛隊の煙幕展張部隊。1956年、化学教育隊隷下に富士駐屯地で新編された。民生協力として、埼玉県の桑畑や茶畑の霜対策発煙作業を行っていた。1957年、化学教育隊が化学学校となって大宮駐屯地に移動したため、本中隊も大宮に移駐。1970年、第101化学防護隊に改編された。参考:スピアヘッドNo.16、月刊軍事研究12,067,95

第301航空隊>:日本海軍航空隊。昭和18115日、横須賀鎮守府隷下に開隊した。局地戦闘機雷電を装備してラバウルに展開する予定となり、内地で訓練を開始、昭和1921日に第26航空戦隊に編入された。220日、第22航空戦隊に編入された。34日、隷下戦闘機隊が戦闘316飛行隊(定数は夜戦用零戦48機)と戦闘601飛行隊(定数は局地戦闘機48機)の2個となった。55日、トラック楓島に進出する予定になったが、527日に渾作戦が発動されたため、オーストラリア北方に展開することになり、529日に零戦20機と雷電49機で館山に移動した。62日、戦闘316飛行隊の18機が硫黄島経由でテニアン島に向かった。611日、テニアン島空襲で10機が迎撃を行ったが、逆襲されて壊滅した。戦闘316飛行隊の残り19機は硫黄島に前進。618日、戦闘316飛行隊の18機がアメリカ艦上機の迎撃にあたったが、16機が未帰還、1機が不時着となり壊滅した。あ号作戦発令により、戦闘第601飛行隊は硫黄島に前進することになったが、悪天候で雷電の航続距離に不安があったため零戦に乗り換えて621日に9機が硫黄島に到着。624日、硫黄島に来襲したアメリカVF-1/-2/-50所属F6F-3艦上戦闘機を戦闘第601飛行隊が零戦9機で迎撃したが、4機を失った。625日、零戦31機が硫黄島に進出。731430、空襲警報を受け戦闘第601飛行隊が零戦31機で迎撃戦を行ったが、17機を失った。74日早朝、CV-18ワスプから発艦したVF-14所属F6F戦闘機に対して可動機全力で迎撃戦を行ったが、3機が空中戦で失われ、残りも艦砲射撃で地上撃破されてしまい、パイロットは輸送機で本土に戻った。710日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン5,17

第301戦闘飛行隊>:アメリカ空軍戦闘飛行隊、別名レッド・テイル・デビルス(Red Tail Devils)。194274日、第332追撃グループ隷下の第301追撃飛行隊としてタスケギー陸軍飛行場で創設された。1944年から地中海に派遣された。194510月、解隊された。19477月、ロックボーン陸軍航空基地でP-47飛行隊として再編された。1949年、解隊された。201049日、ホロマン空軍基地で空軍予備役軍団第44戦闘航空群隷下のF-22A飛行隊として再編された。参考:月刊JWings12,12

第301飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークは筑波山の蝦蟇で、首には所属航空団のナンバーと同じ数の星(第7航空団時代は7個、第5航空団時代は5個、第3航空団時代は3個)を付けたマフラーを巻いている。元は197281日に百里基地で第7航空団隷下に新編された臨時F-4EJ飛行隊である。1973225日(5日?)、実用機転換操縦課程教育を開始。51日、R121訓練空域で空中戦闘訓練中にF-4EJ4号機(ノックダウン生産2号機)が空中爆発して墜落し、捜索の結果前席の一等空尉は遺体が発見されたが、後席の飛行隊長は行方不明のままで死亡認定(1985年に遺骨の一部とGスーツが漁網にかかって引き揚げられた)され、2名が殉職となった。715日、飛行訓練を再開。930日、F-4EJ運用試験を終了。1016日付で初のF-4EJ飛行隊としてこの名称に変更され、第7航空団隷下に入った。主任務は機種転換教育である。毎年50名以上を育成したが、F-4EJには1機あたりパイロットが2名必要なので常に不足気味であり、他部隊でも機種転換講習を行っていた。1974年末、F-4EJ戦技課程教育を開始。19781031日、対領空侵犯措置任務を開始し、実戦飛行隊となった。19831015日、創隊10周年記念行事を実施。1985226日(27日?)、新田原基地に移動した。32日、第5航空団隷下となった。1986616日、F-4EJ戦闘機にトラブルが発生したため新田原基地に戻ろうとしたところ、九州航空交通管制センターから高度を上げる許可が出ず燃料を浪費するうちに天候不良で築城基地にダイバートすることになり、燃料が足らず築城基地手前5海里で乗員が緊急脱出、機体は墜落した。1991418日、1機目のF-4EJ改が配備され、機種改変を開始。66日、T-33AからT-4への機種更新を開始。19923月、F-4EJ改への機種改変を終了(ただし以降もF-4EJ数機を運用)。19931112日、創隊20周年記念行事を実施。20031025日、創隊30周年記念行事を実施。20071031日のF-2Bの事故と112日のアメリカ空軍F-15Cの事故による飛行停止処分でF-4EJ改しか防空に使える機体が無くなったため、第302飛行隊と共にF-15J/DJの点検が終わるまで日本の防空識別圏全域を担任した。2013215日、第154F-4EJ機種転換操縦課程を終了。同じ頃にF-4EJ戦技課程教育も終了した。20131012日、部隊創設40周年記念式典を実施。2015821日から93日、米軍再編に係る嘉手納飛行場から築城基地への共同訓練移転にF-4EJ改4機で参加。2016102日、新田原基地で百里基地への異動に向けた壮行行事を実施。105日、F-4EJ改5機が百里基地に移動。106日、F-4EJ改4機が百里基地に移動。1031日、F-4EJ改が百里基地への移動を完了し、第7航空団の隷下に入った。201777-21日、米軍再編に係る岩国飛行場から百里基地への訓練移転(共同訓練)にF-4EJ改で参加。93日、北朝鮮による第6回核実験を受け、機上集塵器2型装備T-4練習機を飛行させた。201979-11日、飛行教導群F-15DJ戦闘機による巡回教導訓練を受けた。202017日、飛行始めを実施。421日、小松基地でゲートガードになる予定のF-4EJ戦闘機1機を小松基地までフェリーした。99日、F-2に不具合が発生したらしく一部の機体が飛行停止となったため、代わりに百里基地からのアラート任務に就いた。11月、防衛装備庁長官官房装備官尾崎空将(1973年に殉職した臨時F-4EJ飛行隊長の息子)がF-4EJ改の後席に搭乗して操縦士資格維持のための年間飛行を実施。1120日、第301飛行隊壮行会を実施。F-4EJ改3機による対地射爆撃訓練や航過飛行、殉職者追悼、写真撮影などを行った。121日、空自浜松広報館に展示されるF-4EJ改戦闘機1機を浜松基地にフェリーした。125日、茨城空港エアポートミニフェスにF-4EJ改特別塗装機2機を展示。1210日、F-4EJ改のラストフライトを実施。1214日、第7航空団が実施した、第301飛行隊の移動に伴う部隊改編行事に参加し、団司令に隊旗を返還した。1215日、百里基地から三沢基地に移動して第3航空団の隷下に入り、F-35A戦闘機に機種改変、三沢基地で第301飛行隊新編記念行事に参加し、隊旗が授与された。

2021614日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-19AX-21)で第302飛行隊F-35A戦闘機4機と共に築城基地に飛来し、2週間に亘り移動訓練(対戦闘機戦闘訓練など)を実施。726日から85日、第302飛行隊と共にF-35A戦闘機(F-35AX-21など)計6機で築城基地に展開し、飛行教導群との移動訓練に参加。98日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-9/-19)が第302飛行隊F-35A戦闘機2機と共に百里基地に展開。99日、関東東方海空域で日英米蘭加共同訓練パシフィック・クラウン21-4Pacific Crown 21-4)に参加。F-35A戦闘機2機(F-35AX-9/-19)が、第302飛行隊F-35A戦闘機2機(F-35AX-14/-20)及びE-767早期警戒管制機と共に、DDH-182いせDDH-183いずもSH-60J/K哨戒ヘリMCH-101掃海輸送ヘリイギリス海軍空母R08クイーン・エリザベス空母打撃群CSG21空母R08クイーン・エリザベス、搭載イギリスF-35B戦闘機、アメリカF-35B戦闘機駆逐艦D36ディフェンダーフリゲートF805エフェルトセン補給艦A136タイドスプリング補給艦A387フォート・ヴィクトリア)、カナダ海軍フリゲートFFH338ウィニペグと、戦術運動・通信着艦・写真撮影の各訓練を行った。午後、F-35A戦闘機2機(F-35AX-9/-19)が三沢基地に戻った。118-26日、第302飛行隊と共にF-35A戦闘機計8機で小松基地に展開し、移動訓練を実施。1281218頃、F-35A戦闘機1機が日本海上空で訓練飛行中に不具合が発生し、函館空港に緊急着陸、滑走路が一時閉鎖された。コンピュータ不具合によるもので、交換して12100940頃に函館空港を離陸し、三沢基地に戻っている。

2022228日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-21など)が新田原基地を経由して那覇基地に向かった。513日、F-35A戦闘機6機(F-35AX-3/-7/-15/-21/-25/-29)で三沢基地日米共同エレファント・ウォークに参加。

2023622日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-25F-35AX-33)が小松基地に展開し、626日から機外搭載AIM-9X空対空ミサイルによる実弾射撃訓練を行った。823日から915日、武士道ガーディアン23に参加し、オーストラリア空軍第75飛行隊と姉妹飛行隊になった。119-20日、第302飛行隊と共にF-35A戦闘機計6機(F-35AX-37など)で新田原基地に展開し、自衛隊統合演習に参加。

参考:月刊JWings12,'201,044,111,141,1612,161,1710,1711,174,1910,191,'212,'213,219,'2111,'2112,'211,'222,'223,'225,'228,'222,'24、月刊丸12,10、月刊軍事研究10,17、朝雲

 <第301飛行隊(1975年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第301飛行隊(1985年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第301飛行隊(1995年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-4EJ改戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第301飛行隊(2005年)>:第5航空団隷下で、新田原基地に置かれている。F-4EJ改戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第301飛行隊(2015年)>:第5航空団飛行群隷下で、新田原基地に置かれている。F-4EJ改、T-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第301飛行隊(2020年)>:第7航空団隷下で、百里基地にある。F-4EJ改、T-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第302沿岸監視隊>:陸上自衛隊の沿岸監視隊。標津分屯地に置かれている。2017118日、内閣総理大臣特別賞状が授与された。201896日に発生した北海道胆振東部地震の災害派遣に参加。参考:朝雲

第302基地防空隊>:航空自衛隊の基地防空隊。19923月、佐渡分屯基地で新編された。20043月に解隊された。参考:佐渡分屯基地ホームページ

第302航空隊>:日本海軍航空隊。昭和1931日、横須賀鎮守府隷下に木更津基地で新編された。主任務は東京防空で、隊長は小園安名中佐、定数は局地戦闘機48機と夜間戦闘機24機であり、雷電隊と司令部を横須賀、月光隊を木更津に配置して訓練を行った。雷電は配備が間に合わなかったため、第301航空隊の雷電を借りている。3月下旬、司令部は横須賀に置いたまま、航空機部隊は厚木基地に移動。厚木基地の飛行場を整備し、主滑走路両側に予備滑走路を数本設けるなど緊急発進態勢を整えた。55日、司令部が厚木基地に移動。絶対国防圏崩壊で機動部隊が本土空襲を行う可能性が出てきたため、航続距離の長い零戦に月光の誘導を付けて夜間攻撃をかけ、空母飛行甲板上に並んでいる発艦直前の攻撃隊を機銃掃射して爆弾や魚雷を誘爆させ、大損害を与える計画を立てて訓練を行った。614日に機動部隊接近の報が入り、0200に月光1機と零戦1機からなる編隊を2個出撃させて夜間索敵を行ったが、機動部隊の姿は無く、悪天候で機位を失った零戦1機が千葉県の山中に墜落した。サイパンとテニアンにB-29が展開すると、関東に来襲すると見込まれるB-29の迎撃訓練を重点的に行い、零戦や雷電にも斜め銃を装備して準備を整えた。8月から10月まで月光1個分隊が北九州に派遣され、B-29相手に奮戦した。11月、八丈島に月光3機が派遣され、父島のレーダーと連動した迎撃戦を試したが、あまり有効でなく、厚木基地に帰投した。111日、第1飛行隊(雷電2個分隊と零戦1個分隊からなる)、第2飛行隊(月光2個分隊と夜戦型銀河1個分隊からなる)、第3飛行隊(彗星夜戦2個分隊からなる)を隷下に置き、可動機は零戦27機、月光15機、雷電10機、彗星6機、銀河2機であった。また、正式に隷下に置いてはいなかったが、二式艦偵一二型装備の陸偵隊も配置されていた。B-29迎撃では九九式三番三号爆弾を銀河(爆弾倉内4発)、二式艦偵(主翼下計2発)、斜め銃未装備彗星夜戦(主翼下計2発)に搭載する。銀河には二式二十五番三号爆弾も積めるが、速度性能と上昇力が落ちるので断念した。この日、進級申渡式が始まる直前に空襲警報が鳴り、空を見上げるとB-29が偵察に来ていたため慌てて迎撃したが、高々度に上昇するのに30分かかったため失敗。112日からは零戦3機を1日3交替で空中待機させ、横須賀鎮守府防空指揮所からのスクランブル指令に基づき直ちに迎撃に向かわせることにした。1124日、B-29迎撃のため二式艦偵が九九式三番三号爆弾を積んで出撃。来襲高度が9100-9200mと高く、九九式三番三号爆弾の運用法も確立されておらず、投弾できなかった。1127日、銀河1機、月光10機、零戦5機、彗星3機でB-29の迎撃にあたり、B-29を1機撃墜したが、銀河1機が神奈川県丹沢・蛭ヶ岳山頂付近に墜落した。12月、陸偵隊が解散した。123日、延べ74機でB-29を迎撃し、9機(不確実3機含む)を撃墜、8機を撃破した。昭和20123日、名古屋を空襲したB-29に夜戦型銀河が出撃、爆撃を終えて帰投中のところを遠州灘沖で追尾し、九九式三番三号爆弾4発を投下、1機を撃墜した。4月上旬から5月上旬まで零戦と雷電の半数を南九州に派遣し、沖縄戦とB-29迎撃にあたった。鹿屋基地には第352空と第332空の雷電も展開しており、九九式三番三号爆弾を積んでいたが、第302空の雷電は搭載していない。42日、夜戦型銀河の20mm斜め銃でB-29数機を撃破。512-22日頃まで、月光12機と彗星8機を伊丹基地に派遣し、防空を行った。厚木基地では引き続き関東地区の防空にあたっていたが、護衛のP-51による損害が増大し、5月以降は可動機が10機前後まで減少した。524日、夜戦型銀河がB-29爆撃機1機を撃墜。526日、夜戦型銀河がB-29爆撃機1機を撃墜。529日、横浜に爆撃に向かうB-29編隊を迎撃したが、初めて護衛に就いたP-51戦闘機の奇襲を喰らい、彗星夜戦隊分隊長が戦死、雷電隊分隊長が負傷するなどの損害を受けた。以降はB-29が地方都市に目標を変更、京浜地区は硫黄島からのP-51が銃爆撃を加えるようになったため、彗星夜戦や月光はもちろんのこと、可動十数機の零戦や雷電ではとても対抗できず、実質的に機能喪失に陥ってしまった。8月、残存機のうち少数を地下格納庫に隠し、残りは小松と前橋に移動させた。815日朝、雷電4機と零戦8機で出撃し、F6F戦闘機6機と交戦、1機を撃墜したが、4機を喪失した。通算撃墜数は300機だった。その直後に終戦となったが、厚木航空隊抗命事件が発生。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像10,11、月刊丸8,'15別冊、4,13、月刊世界の艦船9,13増刊、月刊航空ファン2,17、朝雲

第302戦闘飛行隊>:アメリカ空軍の戦闘飛行隊、別名サン・デビルズ(Sun Devils)またはヘリオンズ(Helions、乱暴者)。元はHH-3ヘリ装備の第302特殊作戦飛行隊で、198771日にF-16に機種転換して空軍予備役軍団第944戦闘航空群第302戦術戦闘飛行隊に改編され、1992年に第302戦闘飛行隊に改称された。2007101日、第477戦闘航空群隷下となりエルメンドルフ・リチャードソン統合基地に移動、F-22Aに機種転換した。参考:月刊JWings12,129,15

第302地対艦ミサイル中隊>:陸上自衛隊の地対艦ミサイル中隊。2020326日、第5地対艦ミサイル連隊隷下に宮古島駐屯地で新編された。12式地対艦ミサイルを装備する。41日、宮古島駐屯地で第15旅団旅団レディネスチェックを受けた。参考:朝雲

第302飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークは尾白鷲で、青い羽根が3、白い尾が0、黄色い爪が2を象っている。空自の内規には国籍マークより部隊マークを小さく記入するというのがあるが、これは例外で、垂直尾翼に大きく描かれている。1974718日に臨時F-4EJ飛行隊として千歳基地の第2航空団隷下に新編され、101日に第302飛行隊に改称されて正式に発足した。初のF-4EJ実戦飛行隊であり、定数はF-4EJ戦闘機18機。1975111日、対領空侵犯措置(アラート任務)を開始。197696日、MiG-25の函館空港強行着陸の際にホットスクランブルを行ったが、目標を見失った。19781127日から5日間、三沢基地で日米共同訓練に参加。19851126日(25日?)に那覇基地の第83航空隊隷下となり、1129日に那覇基地に移駐した。1987129日に沖縄上空を領空侵犯したTu-16に対し、航空自衛隊創立以来初の警告射撃を行った19926月、F-4EJ改への機種更新を開始。727日から87日、コープ・ノース92-4に参加。19943月、F-4EJ改への機種更新を完了。2001625日、千歳基地に展開して島松射爆場でロケット弾発射訓練を実施していた編隊長機が、ロケット弾発射後に上昇しつつ右旋回をかけたところ、突然20mmバルカン砲が作動して200発が発射され、場外の北広島市リハビリ施設駐車場などに着弾した。人的被害は無かった。トリガーと連動したガンカメラは作動しておらず、パイロットの誤操作は否定され、配線不具合により操縦桿を動かした際に誤電流が流れバルカン砲が発射されたとみられる。200410月から20053月まで、アメリカ空軍嘉手納基地でアラート待機を実施。20071031日のF-2Bの事故と112日のアメリカ空軍F-15Cの事故による飛行停止処分でF-4EJ改しか防空に使える機体が無くなり、中部防衛区域で飛べる戦闘機が皆無になったため、115-21日にF-4EJ改戦闘機8機を百里基地に派遣してアラート任務に就いた。20091月上旬から3月末にかけて、第204飛行隊と交替して百里基地に移動することになった。2009312日、那覇基地における対領空侵犯措置を第204飛行隊に譲った。313日、百里基地に全ての機体を移動した。326日、第7航空団隷下となり、正式に百里基地に移った。この時点では第301飛行隊と共に空自最古の戦闘機を扱う部隊だが、後継のF-35Aが真っ先に実戦配備される予定で、パイロットも若手中心に揃えてあるらしい(多分これらのパイロットは臨時F-35A飛行隊編成と共にそちらに異動)。623日、戦闘能力点検(要撃戦闘、対戦闘機戦闘、兵装変換、再発進準備、弾薬組み立てなど)に合格して中部航空方面隊司令官から対領空侵犯措置任務を付与され、624日から任務に就いた。929日、F-4EJ改に搭載されていたAIM-7ミサイルの後部安定翼1枚が飛行中に落下した。201537日、創隊40周年記念行事を実施。161350、北朝鮮による第4回核実験を受け、機上集塵器2型搭載T-4練習機1機を離陸させた。99日、北朝鮮の5回目の核実験を受け、機上集塵器2型搭載T-4練習機2機を小松基地に展開し、放射性物質収集にあたった。201777-21日、米軍再編に係る岩国飛行場から百里基地への訓練移転(共同訓練)にF-4EJ改戦闘機で参加。10181145頃、F-4EJ改1機が飛行訓練に向かうためタキシング中に左主脚が折れ、翼下増槽が地面に擦れて漏れた燃料に引火した。乗員2名が脱出して無事、火災は基地消防隊が20分後に消火し、民間機への影響は無かった。第7航空団F-4EJ改全機の緊急点検を行い、終了次第飛行を再開している。201932日、百里基地で部隊移動記念式典を実施。第302飛行隊長が第302飛行隊旗を臨時F-35A飛行隊長(日本人初のF-35Aパイロットである中野義人空佐)に手渡した。319日、F-4EJ改のラストフライトを実施。326日に解隊され、保有機と要員の大半を第301飛行隊に移管、三沢基地の臨時F-35A飛行隊が新生第302飛行隊となり、三沢基地で第302飛行隊新編行事(改編や再編ではない)が行われ、第3航空団隷下に入った。装備機はF-35A戦闘機12機。飛行隊長は臨時F-35A飛行隊長から引き続いて中野義人二等空佐である。部隊マークは臨時F-35A飛行隊では雷神(T-4にのみ記入。F-35Aはノーマーク)だったが、ロービジのオジロワシに戻った(202032日にF-35Aに初描き込み)。201941日、初の飛行訓練を実施。F-35AX-6/-7/-8/-10/-12が参加した。491927頃、F-35AX-5が三沢基地東135kmの太平洋上で墜落した。2020312日、F-35AX-3/-4/-8/-16三沢基地ミッシングマン・フォーメーション予行訓練を実施。315日、河野防衛大臣が部隊を視察し、F-35A戦闘機のコクピットに座った。319日、F-35AX-8/-11/-15/-18三沢基地ミッシングマン・フォーメーションを実施。610日、F-35A戦闘機2機(AX-13/-14)で小松基地に着陸し、掩体に入った。小松基地でのフライトは行わなかったが、三沢基地の地上要員もKC-767で小松基地に到着しており、小松基地に展開する際の手順や注意点などを確認したものとみられ、612日に第303飛行隊用掩体内でエンジンを始動して三沢基地に戻った。622日、三沢基地で行われた日米合同エレファント・ウォークF-35A戦闘機12機で参加。721日、三沢基地を視察した山崎統幕長と在日米軍司令官シュナイダー空軍中将がF-35A戦闘機を視察、運用状況を確認した。831日、三沢基地を離陸して飛行訓練中のF-35AX-13にトラブルが発生したらしく、千歳基地に着陸した。9月、F-35A戦闘機2機(F-35AX-9など)で小松基地に展開し、ミサイル戦技集合訓練に参加。1020日、F-35A戦闘機2機が太平洋上でアメリカ海軍LHA-6アメリカとの共同訓練(各種戦術訓練)に参加。1116-27日、飛行教導群と異機種戦闘訓練を実施。

202141日、三沢西方の日本海上でアメリカ空軍との共同訓練に参加し、F-35A戦闘機4機が、第154航空団199戦闘飛行隊F-22A戦闘機4機(岩国基地に一時展開中)、KC-135空中給油機2機、F-16戦闘機1機と、各種戦術訓練を行った。614日、F-35A戦闘機4機(F-35AX-18AX-20AX-22AX-24)で第301飛行隊F-35A戦闘機2機と共に築城基地に展開し、2週間に亘り移動訓練(対戦闘機戦闘訓練など)を行った。726日から85日、第301飛行隊と共にF-35A戦闘機計6機で築城基地に展開し、飛行教導群との移動訓練に参加。98日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-14/-20が第301飛行隊F-35A戦闘機2機と共に百里基地に展開。99日、関東東方海空域で日英米蘭加共同訓練パシフィック・クラウン21-4Pacific Crown 21-4)に参加。F-35A戦闘機2機(F-35AX-14/-20)が、301飛行隊F-35A戦闘機2機(F-35AX-9/-19)、E-767早期警戒管制機と共に、DDH-182いせDDH-183いずもSH-60J/K哨戒ヘリMCH-101掃海輸送ヘリイギリス海軍空母R08クイーン・エリザベス空母打撃群CSG21空母R08クイーン・エリザベス、搭載イギリスF-35B戦闘機、アメリカF-35B戦闘機駆逐艦D36ディフェンダーフリゲートF805エフェルトセン補給艦A136タイドスプリング補給艦A387フォート・ヴィクトリア)、カナダ海軍フリゲートFFH338ウィニペグと、戦術運動・通信着艦・写真撮影の各訓練を行った。午後、F-35A戦闘機2機(F-35AX-14/-20)が三沢基地に戻った。9272000頃、三沢基地がランウェイクローズしたため、F-35A戦闘機2機が千歳基地に着陸した。928日に三沢基地に戻っている。118-26日、301飛行隊と共にF-35A戦闘機計8機(F-35AX-22F-35AX-23など)で小松基地に展開し、移動訓練を実施。

2022228日、F-35A戦闘機2機(F-35AX-24など)が新田原基地を経由して那覇基地に向かった。513日、F-35A戦闘機6機(F-35AX-12/-18/-20/-23/-26/-30)で三沢基地日米共同エレファント・ウォークに参加。

2023622日、F-35A戦闘機1機(F-35AX-27)が小松基地に展開し、626日から機外搭載AIM-9X空対空ミサイルによる実弾射撃訓練を行った。119-20日、301飛行隊と共にF-35A戦闘機計6機で新田原基地に展開し、自衛隊統合演習に参加。

参考:月刊JWings12,'206,161,042,053,096,0912,104,115,1512,1610,174,195,196,197,'198,199,1910,195,206,208,'209,'2011,'2012,'201,'212,'216,'219,'2111,'2112,'211,'222,'225,'228,'229,'232,'24、月刊航空ファン6,1011,924,171,186,19、月刊軍事研究2,155,15、朝雲

 <第302飛行隊(1975年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24、月刊軍事研究10,75

 <第302飛行隊(1985年)>:第2航空団隷下で、千歳基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第302飛行隊(1995年)>:第83航空隊隷下で、那覇基地に置かれている。F-4EJ改戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第302飛行隊(2005年)>:第83航空隊隷下で、那覇基地に置かれている。F-4EJ/EJ改戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第302飛行隊(2015年)>:中部航空方面隊第7航空団飛行群の隷下で、百里基地に置かれている。F-4EJ改、T-4を配備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第302飛行隊(2020年)>:第3航空団隷下で、三沢基地にある。F-35AT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第302保安警務中隊>:陸上自衛隊の警務科部隊。東部方面警務隊隷下で、隊員数140名、中隊本部と3個小隊からなり、小隊長は指揮刀を装備している。普段は警務隊としての任務を行っているが、国賓に対する栄誉礼及び儀仗任務が付与されていて、天皇などの皇族、国賓・各国参謀総長などの外国高官、内閣総理大臣、防衛大臣に対しては、制服を特別儀じょう服装に着替えて小銃と銃剣を装備、儀仗隊長は儀礼刀を帯び、陸自中央音楽隊と共に特別儀仗隊を編成し、栄誉礼・特別儀仗を行う。防衛副大臣、防衛大臣政務官、防衛事務次官、各幕僚長には、制服と小銃(甲武装)で儀仗隊長は拳銃または小銃を装備し、通常儀仗を実施する。国葬の際には棺の警衛を行う。毎年10名くらいが補充され、殆どの要員は自衛官候補生・一般陸曹候補生の志願だが、隊員選定基準は厳格で、身長(170-180cm)、体重(60-75kg)、骨格(正常)、容姿(端正)、体力(検定6級以上)、視力(0.6以上、コンタクトレンズ可)に加え、式典中に粗相は許されないので、てんかん症や脳貧血といった疾患や勤務態度もチェックされる。自衛官・一般陸曹候補生課程前期・後期教育を修了すると本中隊に配属されるが、更に儀じょう教育隊で7週間の儀仗集中訓練を行って審査に合格しないと特別儀仗隊員にはなれない。儀仗に使用するのは儀じょう銃(20194月に7.62mm小銃M1ガーランドから更新)で、捧げ銃の時の地面から小銃上帯までの高さは第1小隊163cm、第2小隊162cm、第3小隊161cmと決まっており、感覚だけでミリメートル単位の誤差に収める練度が要求される。大元は19549月に豊島分屯地で創設された警務隊保安中隊で、19559月に芝浦分屯地に移り、19579月に特別儀仗任務を付与された。19592月、第302保安中隊に改称された。19601月、防衛庁直轄から東部方面総監直轄となり、市ヶ谷駐屯地に移駐した。196449日、国立西洋美術館で世界初の海外展示を行ったミロのヴィーナス像(ルーブル美術館所蔵)を警護した。20083月、第302保安警務中隊に改称され、東部方面警務隊の隷下に入った。2020917日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた駐日ローマ教皇庁大使の告別式で特別儀仗を実施した。2021326日、吉田陸幕長の着任行事で栄誉礼を実施。2022817日、井野防衛副大臣着任で特別儀仗を行い、儀仗通算3000回を達成した。1118-19日、自衛隊音楽まつりに参加。202335日、防衛省A棟講堂で儀仗3000回記念行事を実施。1021日、自衛隊殉職隊員追悼式で捧げ銃を実施。1116-18日、令和5年度自衛隊音楽まつりに参加。参考:MAMOR vol.152、朝雲

第303師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、名古屋で編成された。通称高師師団。終戦時、隷下に歩兵第337、第338、第339連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第303飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークは第4飛行隊のコールサインだったドラゴンである。第4飛行隊が前身で、19761026日、F-4EJ装備の飛行隊として第6航空団隷下に小松基地で新編された。1977617日、対領空侵犯措置任務を開始。1987613日、創設10周年記念行事を実施。121日、F-15J/DJへ機種転換した(F-4EJ改は装備せずF-4EJから直接)。1998321日、F-15改編10周年記念行事を実施。2000年、コープ・ノース・グアム00に参加。200733日、創設30周年記念行事が行われた。2016526日から開催された伊勢志摩サミット警備のため、実弾(BVRAAMWVRAAM装備。多分機関砲も)を積んでCAPに就いた。2017年、小松基地での掩体運用を開始。225日、創設40周年記念式典を実施。2019101-4日、米軍再編に係る航空機の訓練移転小松基地に展開したアメリカ空軍第35戦闘航空団14戦闘飛行隊F-16CM戦闘機6機と日米共同訓練を行った。20209月、小松基地ミサイル戦技集合訓練に参加。20221027日、F-15J戦闘機2機が小松基地アレスティング・フックを使用しての着陸訓練を実施。116日、海上自衛隊創設70周年記念令和4年度国際観艦式F-15J戦闘機3機で参加。参考:月刊JWings6,165,1912,'201,0412,155,077,138,165,173,1812,1912,'201,'23、月刊航空ファン2,18

 <第303飛行隊(1985年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第303飛行隊(1995年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第303飛行隊(2005年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第303飛行隊(2015年)>:中部航空方面隊第6航空団飛行群の隷下で、小松基地に置かれている。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第303飛行隊(2020年)>:中部航空方面隊隷下で、小松基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第304飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークは築城基地南の英彦山に棲むと言われる天狗で、那覇基地に移ってもそのまま使っている。マークのコンセプトは「天狗の如く山河を越え鎮西の空を飛翔する」で、天狗になるなという自戒も含んでおり、第8航空団司令が発案して1978410日に制定された。197741日に解散した第10飛行隊がベースで、同年81日に4番目のF-4EJ飛行隊として第8航空団隷下に築城基地で新編された。1978410日、対領空侵犯措置任務を開始。F-4EJ改は装備せず、19894月からF-15J/DJへの機種転換を開始、1990111日にF-4EJによる対領空侵犯措置が解除され、112日にF-15J/DJへの転換を完了した。7月、F-15J/DJによる対領空侵犯措置任務を開始。同じ基地に配置されている第6飛行隊がF-1支援戦闘機を装備していた時には、レーダー性能に優れた本飛行隊が専ら夜間スクランブル任務を担っていたため、ミッドナイトイーグルと呼ばれていた。19919月、T-33Aの後継としてT-4の配備を開始。19943月、T-33Aのラストフライトを行い、T-4が任務を引き継いだ。20024月、コープ・ノース・グアム02に参加。2008911日、対戦闘機戦闘訓練を行っていたF-15J戦闘機が電気系統の不具合を起こし、山口県見島南西沖30kmに墜落した。乗員は緊急脱出して無事だった。2015821日から93日、米軍再編に係る嘉手納飛行場から築城基地への共同訓練移転にF-15J戦闘機6機で参加。1130日、築城基地でのアラート任務を終了。年末から那覇基地への移動を開始した。2016161350、北朝鮮による第4回核実験を受け、機上集塵器2型搭載T-4練習機1機を離陸させた。131日、第9航空団の隷下に移り、ホームベースが那覇基地となった。第8航空団時代はPre-MSIP機が配備されていたが、第9航空団の隷下に入ってからは近代化改修型への機種転換を一気に進めている。38日(18日?)、那覇基地での対領空侵犯措置任務が付与された。526日から開催された伊勢志摩サミット警備のため、F-15J戦闘機7機(うち1機は第201飛行隊から借りたらしい)を浜松基地に派遣し、実弾(BVRAAMWVRAAM装備。多分機関砲弾も)を積んでCAPに就いた。2017130日から319日、コープ・ノース・グアム2017に参加。2018127日、那覇基地で創設40周年記念式典を実施。2021611-26日、レッドフラッグ・アラスカ21-2F-15J戦闘機3機で参加。1115-25日、小松基地にF-15戦闘機8機で展開し、移動訓練を実施。20231010日から千歳基地で移動訓練を実施。1017日、F-15DJ戦闘機が千歳基地でフックランデイング訓練を実施。2024530日から千歳基地でBAK-12着陸拘束装置によるフックランディング訓練を行った。参考:月刊航空ファン2,1811,152,164,'164,175,174,18、月刊JWings6,163,175,1912,'201,0412,152,114,118,164,189,211,'24

 <第304飛行隊(1985年)>:第8航空団隷下で、築城基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第304飛行隊(1995年)>:第8航空団隷下で、築城基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第304飛行隊(2005年)>:第8航空団隷下で、築城基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第304飛行隊(2015年)>:第8航空団飛行群隷下で、築城基地に置かれている。F-15J/DJT-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第304飛行隊(2020年)>:第9航空団隷下で、那覇基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第305飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。部隊マークは日の丸に偕楽園の梅。F-4EJ戦闘機5番目の飛行隊として197812月1日付で百里基地の第7航空団隷下に新編された。197991日、対領空侵犯措置任務を開始。199382日(81日?)、F-15J/DJに機種転換した。1994年、F-15J/DJによる対領空侵犯措置任務を開始。19996月、コープノース・グアム1999に参加し、空自戦闘機飛行隊初の海外演習参加となった。2001-03年、戦技競技会で3連覇。2016526日から開催された伊勢志摩サミット警備のため、実弾(BVRAAMWVRAAM装備。多分機関砲も)を積んでCAPに就いた。727日、T-4が機上集塵器2型を装着して定期の放射性浮遊塵採取を実施。831日、第5航空団の隷下に移り、新田原基地で移動完結報告式を実施。2017322日、九州西方の東シナ海上空で第9遠征爆撃飛行隊B-1B爆撃機1機と共同訓練を実施。529日、F-15戦闘機2機が九州周辺の訓練空域で第9遠征爆撃飛行隊B-1B爆撃機2機と共同訓練(編隊航法訓練)を実施。616日、新田原基地でF-15J/DJ戦闘機4機によるミッシングマン・フォーメーションを実施。620日、F-15J戦闘機2機が九州周辺で第9遠征爆撃飛行隊B-1B爆撃機2機と編隊航法訓練などを実施。201939日、部隊創設40周年記念式典を実施。612日、新田原基地でF-15J戦闘機4機によるミッシングマン・フォーメーションを実施。202097日、F-15戦闘機2機で台風10号の被害情報収集を行った。107日、新田原基地でF-15J戦闘機4機によるミッシングマン・フォーメーションを実施。1026日から115日、キーン・ソード21に参加。2021314日、F-15戦闘機2機が第23飛行隊F-15戦闘機2機と共に、宮崎県初のJリーグ開幕戦が行われたユニリーバスタジアム新富上空をダイヤモンド隊形で飛行した。202269日、F-15J/DJ戦闘機4機が新田原基地でミッシングマン・フォーメーションを実施。参考:月刊JWings6,1612,'201,045,054,1110,1410,169,176,199,1911,'201,'216,'219,'22、月刊航空ファン11,166,179,172,18、朝雲

 <第305飛行隊(1985年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第305飛行隊(1995年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第305飛行隊(2005年)>:第7航空団隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第305飛行隊(2015年)>:中部航空方面隊第7航空団飛行群の隷下で、百里基地に置かれている。F-15J/DJT-4を配備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第305飛行隊(2020年)>:第5航空団隷下で、新田原基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第306飛行隊>:航空自衛隊の要撃戦闘飛行隊。ニックネームはゴールデンイーグルス、部隊マークは石川県の県鳥のイヌワシで、小松基地に置かれている。戦技課程教育も担当する。1981630日、最後のF-4EJ飛行隊として第205飛行隊をベースに小松基地の第6航空団隷下に新編された。198246日、対領空侵犯措置を開始。198911月にF-4EJ改の受領を開始し、19903月に機種転換を終えて初のF-4EJ改飛行隊となった。1996年から人員と器材が三沢基地に移動して第8飛行隊となり、残存部隊は第6航空団隷下のF-15部隊として小松基地で再編が開始され、8月にF-15J/DJの配備を開始。1997317-18日、F-4EJ改と人員の三沢基地への移動を完了。320日、F-4EJの運用を終了。331日にF-15J/DJへの転換を完了した。2000年、コープ・ノース・グアム00に参加。200510月、F-15戦技課程を開始。20079月、F-15J近代化改修機の運用を開始。1241157頃、F-15J戦闘機が訓練後に小松基地に帰投した際、前脚と主脚を収容したままにしてしまい、モーボからの警告も間に合わず、胴体着陸した。2011917日、小松基地第2格納庫で創設30周年記念式典を実施。1070845頃、F-15J1機が小松基地へ着陸進入中に機体から発火し、直後に物体が落下した。着陸後に機体を調査すると、左翼パイロンに搭載されていた増槽の先端部分及び後方4分の1や空対空模擬ミサイルの後翼部分などが無くなっており、捜索の結果、石川県能美市山口町翠ヶ丘浄化センター付近に落下しているのが見つかった。1020日、事故調査委員会が中間公表を実施し、機体本体には原因となるような異常が無いと発表した。122日、調査結果が公表され、増槽内の配線を保護する金属製配管と配管継ぎ手を接続するナットが外れ、配線と継ぎ手が擦れて配線の被覆が剥がれてしまい、ショートして増槽内の可燃性ガスに引火したためと判明した。201386-23日、レッドフラッグ・アラスカ13-1に参加。2016210-26日、コープ・ノース・グアム16に参加。220日、アンダーセン基地オープンハウスでF-15J近代化改修機を地上展示した。2019101-4日、米軍再編に係る航空機の訓練移転小松基地に展開したアメリカ空軍第35戦闘航空団14戦闘飛行隊F-16CM戦闘機6機と日米共同訓練を行った。20209月、小松基地ミサイル戦技集合訓練に参加。2021614-25日、F-15戦闘機で新田原基地に展開。73日、創設40周年記念式典を実施。20221027日、F-15J戦闘機1機が小松基地アレスティング・フックを使用しての着陸訓練を実施。参考:月刊JWings1,043,185,1912,'204,1112,111,1211,1211,139,145,166,1612,199,'211,'23、月刊丸12,10、月刊航空ファン2,122,18、朝雲

 <第306飛行隊(1985年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-4EJ戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第306飛行隊(1995年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-4EJ改戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第306飛行隊(2005年)>:第6航空団隷下で、小松基地に置かれている。F-15J/DJ戦闘機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第306飛行隊(2015年)>:中部航空方面隊第6航空団飛行群の隷下で、小松基地に置かれている。F-15J/DJT-4を配備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第306飛行隊(2020年)>:第6航空団隷下で、小松基地にある。F-15J/DJT-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第308師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和206月、弘前で編成された。通称岩木師団。終戦時、隷下に歩兵第310、第311、第312連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第312航空隊>:日本海軍の航空隊で、秋水の実験飛行隊である。昭和198月中旬、元山航空隊の第13期海軍飛行科専修予備学生(前期)のうち16名が秋水搭乗要員として選ばれ、横空に移動、91日から空技廠軍医数名のもとで健康診断、飛行適性検査、低圧低温実験を2週間にわたり実施した。この時は部隊に何の名称も付けられていなかった。高々度で気圧低下が起きた際に腸管ガスが膨隆するのを防ぐため、食事はガスの溜まりやすい野菜を避けた白米及び肉食を中心とする特別食で、排泄物の量を軍医が測定した。低圧実験では秋水の性能に合わせ、高度10000m相当まで3分30秒で減圧を行った他、10000-12000m相当まで1分30秒で上昇し、そこから30秒で5000m相当まで降下するという想定でも実験を行った。これは、高々度で脱出した際に落下傘が開かなかった場合、携帯酸素ボンベから酸素の吸入ができないので、酸素吸入の必要が無い高度5000mまでいち早く降下し、その後落下傘を開くという手順を想定したからである。低温実験は零下25度で行われた。これらの結果、16名全員が適性ありと判断された。その後は九三中練を使用した飛行訓練を実施、9月下旬に搭乗要員は百里原航空隊で訓練を実施することとなった。101日、隊長(大尉)、搭乗要員16名、整備員25名で横須賀海軍航空隊百里原派遣隊を編成、九三中練による滑空訓練を開始した。11月、光六二型滑空機、零戦、天山が増配になり、隊長が病気のため交代、滑空機教員2名及び各機整備員が着任、滑空機による訓練が開始された。秋水帰投時に敵に襲われた際のことを考慮し、滑空機による宙返り、失速反転なども行った他、零戦の離着陸訓練も施行した。12月上旬、秋水の軽滑空機である秋草が基地に到着。初飛行では当初車輪を外して天山による曳航離陸滑走を行ったが、ピッチングを起こして滑走路を前転しかけたために一旦中止。車輪を装着して再挑戦し、離陸後に車輪の離脱に成功、高度300mで天山から離脱し、基地上空を1回旋回して着陸した。昭和201月、隊長の補佐を行う大尉1名が着任。また、秋水のエンジンの無い実機(重滑空機と称した)が到着、18日にこれを使用しての滑空に成功した。1月下旬から1月上旬にかけ、飛行長、飛行隊長、整備長の着任予定者や搭乗員24名が増派された。34日(25日?)、部隊名を海軍第312航空隊に変更、第1・第2分隊を編成し、本隊を横空に、訓練基地を霞空に置き、百里空の機材を霞空に移動した。36日、15名が練習機受領のため鹿屋基地に移動。315日に11機を受領し、霞空に帰還した。418日、光六二型滑空機での訓練中に、曳航される滑空機が誤って上昇、曳航する九三式中練を曳航索で持ち上げてしまい、九三式中練が墜落して1名が死亡した。5月上旬、これの事故原因を解明するため、再現実験を行ったが、伝声管と曳航索着脱フックの不良で曳航索の離脱に失敗、高度1000mで尾部を持ち上げられた九三式中練は滑空機を曳航したまま急降下したため、滑空機が空中分解し、1名が死亡した。5月頃から第1分隊が中練の曳航標的に対して零戦による実弾射撃訓練を開始。相対速度が秋水とB-29のそれに相似であるとみての訓練であった。また、B-29の模型とOPL照準器・機銃発射レバーをそれぞれレールの上に設置し、反対向きにそれぞれモーターで移動させ、最適射距離をシミュレートする訓練も実施した。機銃発射レバーを握るとモーターの電源が切れて停止するので、その時点で距離を判定するものである。5月中旬、整備員1名がなぜか滑走を開始した滑空機の前方に出てしまい、はねられて死亡した。6月、空襲を避けるため、基地から西に1kmほど離れた丘陵地帯の建物に移動。14期予備学生と1期予備生の搭乗員が着任。また、並列複座のカ号滑空機が配備された。中旬頃に夜間離着陸訓練を開始したが、夜間特攻隊の訓練と重なるために中止された。下旬、下士官搭乗員が着任。75-6日、秋水のエンジン試運転及び30mm機銃の試射を見学。77日、1400に秋水実機を初飛行させる予定だったが、エンジン不調のため翌日に延期することとなった。しかしパイロットの分隊長が飛行を希望したため、1700に初飛行を実施。300mの滑走で離陸し、高度10mで車輪を離脱、45度の角度で上昇したが、高度400mまで上昇したところでエンジンが停止、トラブル発生時には東京湾に不時着水する手筈で救助艇も待機していたがパイロットは飛行場に引き返しつつエンジン再起動を2回試みるも失敗、甲液を非常投棄しながら滑走路に向かったものの、着陸寸前に右主翼端が監視塔に接触し、7mの高さから飛行場手前の埋め立て地に残っていた入り江でバウンドした後、逆さまになって墜落した。燃料が切れていたためか爆発はしなかったものの、分隊長は頭蓋底骨折で意識不明となり、780200頃に死亡した。原因は、燃料満載で飛行(地上滑走とランニングの後に燃料を積み直す)する予定だったのを前日の会議で半分(3分の1?)しか搭載しないことになり、上昇時の機体傾斜及びGで燃料タンク前方の吸入口に燃料液面が届かず、燃料タンク吸入口バルブ不良も加わってエンジンに燃料が送られなくなったためだった。715日、山北試験場で二号機用エンジンがC液ポンプのトラブルで爆発を起こし、1名が死亡した。725日、設計を変更した新型燃料タンクが二号機に搭載された。729日、九三式中練が訓練中にエンジントラブルで墜落炎上し、2名が死亡した。730日夜、大島沖にアメリカ軍の上陸船団が出現したとのことで、航空用機銃及び士官用軍刀しか武器が無かったため、付近の竹林から竹を切り出して竹槍を製作したが、大島監視所が夜光虫を誤認したものだった。8月、厚木基地の地下に秋水用燃料タンクが完成。82日、2回目の試験飛行を行う予定だったが、エンジン不調で延期された。810日、柏基地で重滑空機の車輪が落下装置の整備不良により落下しないトラブルがあり、そのまま墜落、パイロットが死亡した。812日、秋水の2回目の飛行を行う予定になっていたが、エンジン不調で延期され、815日に終戦を迎えた。815日夕方、厚木基地や302空司令による檄文が書かれたビラを銀河が散布。これを受けて航空隊本部では徹夜で航空機のプロペラを外す作業を整備員に命じた。816日、赤本(軍極秘)などの重要書類を消却。夜間には航空機の気化器も外した。817日午後、九州などから逃亡機が飛来。818日、予備役の隊員に召集解除が下命され、819日に搭乗要員達は部隊を去った。参考:月刊丸1,778,95、日本海軍戦闘機隊

第312師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、久留米で編成された。通称千歳師団。終戦時、隷下に歩兵第358、第359、第360連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第316師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、京都で編成された。通称山城師団。終戦時、隷下に歩兵第349、第350、第351連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第320師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、京城で編成された。通称宣武師団。終戦時、隷下に歩兵第361、第362、第363連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第321航空隊>:日本海軍航空隊で、通称は鵄。昭和18101日に茂原航空基地で第1航空艦隊隷下に編成された。日本海軍初の夜間戦闘機部隊であり、定数は月光24機(うち補用6機)で、松山基地で訓練を開始した。昭和192月、定数が72機(うち補用18機)となった。21日、第61航空戦隊に編入された。217日のトラック空襲を受けて発令された連合艦隊命令でサイパンとテニアンに半々ずつ進出することになり、221日までに12機がテニアンに進出した。223日、マリアナにアメリカ機動部隊が来襲し、テニアンの全機が破壊されてしまった。その後補充機が到着し、31日にはテニアンに11機が展開した。しかし夜間防空が主任務の機体に250kg爆弾2発を積んで機動部隊に攻撃を掛けるという無茶な任務に駆り出され、再び全滅した。4月頃には5機がグアムに、7機がトラックに分遣されていたようである。424日、11機がテニアンに向かった。515日にはグアムに6機、テニアンに10機、香取基地に15機が展開していた。アメリカ第58任務部隊が西カロリン諸島や西ニューギニアに向かった際、早期に発見できるよう、5月中旬からペリリューに2機が分遣され、6月上旬にはペリリューに6機が分遣されていたが、69日にB-24の空襲を受けて4機が炎上した。617日、ヤップ島の分遣隊がペリリューに戻り、B-24の夜間迎撃にあたっていたが、6月下旬に可動機が4機となり、ダバオに後退した。任務の大部分は対潜哨戒や船団護衛などで、710日に解隊した。隊員はダバオ第2基地の第153航空隊戦闘第901飛行隊に転属したが、大部分がテニアン島玉砕で戦死したため、部隊履歴の詳細は不明である。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン3,13

第321師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、東京で編成された。通称磯師団。終戦時、隷下に歩兵第325、第326、第327連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第322師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、仙台で編成された。通称磐梯師団。終戦時、隷下に歩兵第313、第314、第315連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第325戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦闘航空団。元は1960325日に解隊された第325戦闘航空群(迎撃)で、19817月に兵器運用試験などを行う第325戦闘機兵器航空団として復活、19831015日に訓練部隊の第325戦術訓練航空団を経て1991101日にこの名称となった。F-15戦闘機4個飛行隊を擁しており、2002926日からF-22Aを受領、第43戦闘飛行隊の機種更新を開始した。2003年から機種転換訓練が行われている。2012年、航空教育訓練コマンドから航空戦闘コマンドに移り、訓練部隊から実戦部隊になった。20131011日、隷下の第95戦闘飛行隊がF-22A部隊に再編され、実戦態勢に就いた。20141-4月、第49戦闘航空団からF-22A戦闘機24機を受領し、第95戦闘飛行隊に配備する予定。参考:月刊JWings4,074,14、月刊軍事研究4,15

 <第325戦闘航空団(2013年)>:第9航空軍隷下で、司令部はフロリダ州チンダルにある。隷下に第325作戦群第43戦闘飛行隊(F-22A)、第95戦闘飛行隊(F-15)、第325整備群、第325医療群、第325任務支援群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第331航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和1871日、南西方面艦隊隷下に佐伯基地で編成され、零戦24機と九七式艦攻24機が配備された。815日、艦戦36機と艦攻18機で空母隼鷹に搭乗し、佐伯を出港。827日、シンガポール沖で発艦してサバン基地に到着した。91日、艦攻隊が第551航空隊に改編され、コタラジア基地に移動した。12月上旬、ビルマに前進し、カルカッタを攻撃。昭和1934日、保有機33機全機が第202航空隊に転出し、岩国基地で新規戦闘機隊(定数24機)が編成された。5月中旬、1個分隊がサバンに展開。その後ペナンに移動して訓練を行った。617日、12機でペリリューに進出。74日、ダバオに展開し、その後ペナンに戻った。91日、零戦二一型18機、五二型7機、戦爆7機を保有しており、可動機はそれぞれ16機、5機、2機であった。918日、バリクパパンに移動。10月、戦闘309飛行隊(定数48機)と攻撃253飛行隊(定数48機)に改編された。保有機は零戦35機(可動機24機)であった。昭和202月、戦闘309飛行隊はシンガポールのセレターに後退、更にジョホール基地に下がり、5月に大村基地に帰投、515日に解隊した。攻撃253飛行隊は第381航空隊に吸収された。参考:日本海軍戦闘機隊

第332航空隊>:日本海軍航空隊。昭和1981日、呉海軍航空隊岩国分遣隊と呉海軍航空隊戦闘機隊から改編され、呉鎮守府隷下の防空戦闘機隊として岩国基地で開隊した。定数は雷電局地戦闘機48機、月光夜間戦闘機12機、2座水上偵察機16機だが、開隊時の保有機は零戦45機(可動28機)、月光12機(可動2機)、雷電2機(可動0機)だった。111日、可動機は零戦27機、雷電15機、月光6機だった。116日、零戦隊主力がフィリピンに進出することになり、クラーク基地に20機が展開して第201航空隊に編入された。また、斜め銃装備の零戦8機と月光6機が厚木基地に派遣された。1215日、本隊と厚木基地の派遣隊は阪神地区(川西航空機鳴尾工場など)の防空にあたることになり、零戦9機と雷電11機が鳴尾飛行場に、月光隊が伊丹飛行場に展開、防空に関しては陸軍第11飛行師団の指揮下に入った。零戦は九九式三番三号爆弾を運用し、主翼下に2発搭載する三号爆弾の信管遅延秒時を3.5秒と4秒にずらして使用した。1222日、鳴尾上空でB-29を迎撃して1機を撃墜した。昭和2013日、大阪上空でB-29爆撃機1機を撃墜。114日、B-29爆撃機1機を不確実撃墜。25日、司令部が鳴尾飛行場に移った。44日、岩国基地の零戦3機が瀬戸内海で戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦1隻に対する仮想敵機役を務め、模擬急降下爆撃・低空雷撃を行った。416日、フィリピンで戦闘401飛行隊を指揮していた飛行隊長が雷電の事故で殉職した。423-25日、雷電部隊が鹿屋基地に進出し、512日まで南九州での迎撃戦を行って原隊復帰した。この際、九九式三番三号爆弾を雷電に積んでいる。525日、第72航空戦隊に編入された。61日、大阪に来襲したB-29を迎撃。65日、国紅来襲したB-29を迎撃。69日、川西航空機鳴尾本工場に来襲したB-29を迎撃。迎撃戦闘中に鳴尾基地が爆撃の被害を受け、滑走路が使用不能となったため、陸軍佐野飛行場に着陸した。615日、尼崎に来襲したB-2925機ないし27機で迎撃。622日、呉海軍工廠を爆撃に向かうB-29爆撃機を零戦五二丙型3機で迎撃。B-29が高知沖で編隊を組むという情報があったため、撹乱すべく九九式三番三号爆弾を投下して銃撃も加えている。1機が未帰還となった。626日、大阪の航空機工場に来襲したB-29を迎撃。護衛の第15戦闘航空群第45戦闘飛行隊P-51D戦闘機を攻撃しようとした零戦1機が後上方にいた同戦闘飛行隊の別の1個小隊4機に撃墜され、脱出したパイロットも落下傘降下中にP-51D戦闘機の猛射を喰らい戦死した。83日、第53航空戦隊に編入された。86日、B-29による西宮市街地無差別爆撃で鳴尾基地にも焼夷弾が降り注ぎ、指揮所と宿舎が全焼、周辺の掩体で零戦及び雷電計17機が全損した。815日、指揮所前で玉音放送を全員で拝聴。司令は君側の奸のなせる業として戦闘態勢維持を告げた。816日夜、敵機動部隊が出現したとのことで特攻隊を編成したが、誤報と判明して出撃は中止された。818日、雷電2機が索敵のため足摺岬沖に出撃したが、2機ともエンジン故障で不時着水し、これが最後の出撃となった。93日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊、JShips vol.48、月刊航空ファン8,192,17

第341航空隊>:日本海軍航空隊、通称獅子。昭和181115日に紫電飛行隊として第1航空艦隊隷下に松山基地で編成された。定数は36機だが、紫電の実用化が遅れたため、零戦(練成用)と九三中練(航法用)で訓練に入った。125日、笠ノ原基地に移動。昭和19112日、零戦五二型13機が硫黄島に移動。114日、残る訓練部隊は館山に移動。115日、硫黄島の部隊はアメリカ艦上機への迎撃を行ったが、零戦10機を失ってしまい、本土に引き揚げた。2月、定数が72機になった。2月中旬から紫電が到着したが、主脚などの問題点が解決できず、編隊空戦訓練は6月からになった。これにより、42日にロタ島に派遣された基地隊先遣隊250名は終戦まで待ちぼうけになり、マリアナ沖海戦に紫電を参加させる計画も流れてしまった。710日、紫電が充足したため、隷下に戦闘401飛行隊と戦闘402飛行隊(定数48機ずつ)、戦闘701飛行隊を編成し、前二者は明治基地に、後一者は横須賀基地に移動して訓練にあたった。831日、戦闘401飛行隊の紫電17機が高雄に進出。9月中旬、戦闘401飛行隊の紫電25機が高雄に進出。9月下旬、戦闘402の主力が宮崎基地に移動。101日現在の保有機は、戦闘401飛行隊が紫電32機(可動機20機)、零戦11機(可動機6機)、戦闘402飛行隊が紫電30機(可動機25機)、零戦22機(可動機18機)であった。1012日から台湾沖航空戦に参加。戦闘401飛行隊の紫電は10機を撃墜したが、14機を喪失した。戦闘402飛行隊及び戦闘701飛行隊も台湾に進出し、1023日には36機(可動機21機)を揃えて1024日に出撃したが、損害が大きく、夜には可動機が4機になってしまった。11月からフィリピン周辺で作戦に就いたが、紫電の稼働率の低さに悩まされた。12月末、可動機が8機に減少し、紫電の高速性能を活かした偵察任務に転用された。年末から特攻隊への抽出が開始された。昭和2014日、紫電13機が出撃準備を行っていたところ、P-47戦闘機2機の機銃掃射を受けて8機が炎上、パイロット4名と整備員5名が死亡した。19日、リンガエン湾に上陸したアメリカ軍に対して紫電4機で反撃したが、数日で全滅し、残存パイロットは本土に帰還、残存地上要員は陸戦隊に転向し、終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊

第343航空隊(初代)>:日本海軍航空隊、通称隼。昭和1911日、第1航空艦隊隷下に鹿児島基地で編成された。主任務は防空で、紫電を配備する予定だったが、生産が遅れたために2月末に零戦を装備することにした。327日、12機でテニアン第1飛行場に進出し、51日に全飛行隊の進出を修了した。515日、53機を保有し、可動機は42機であった。525日、37機でペリリューに進出。69日、ペリリューの部隊はパラオ島に前進。611日、アメリカ軍がマリアナに来襲したため、テニアン残留の1個中隊は8機で迎撃にあたり、その後グアムに移動した。617日、パラオの本隊は12機でヤップ島に前進。うち2機はテニアン沖で艦船を攻撃した後にロタ島に着陸し、終戦まで留まっている。その後はグアム島とヤップ島を根拠地に6月末まで迎撃任務に就いたが、損害が大きいため628日に生存者はアイライに撤収し、710日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊

第343航空隊(2代目)>:日本海軍航空隊、通称剣。日本海軍初の紫電改装備実戦部隊である。昭和191225日、各部隊から優秀なパイロットを引き抜いて第25航空戦隊隷下に愛媛県松山基地で編成された。隷下に戦闘301飛行隊、戦闘701飛行隊、戦闘407飛行隊(定数は紫電改48機ずつ)を置き、それぞれ松山、大分、出水で訓練を行った。また、彩雲装備の偵察飛行隊4個も配属され、迎撃戦に必要な事前情報を入手できるようにした。月末から戦闘301飛行隊が紫電一一型で訓練を開始。昭和201月、戦闘401飛行隊と戦闘402飛行隊が編入された。19日、戦闘第701飛行隊が紫電一一型で訓練を開始。1月末、全戦闘機部隊が松山に集結。2月、戦闘701飛行隊が紫電改での訓練を開始。3月、戦闘402飛行隊が第601航空隊に転出。戦闘401飛行隊は訓練部隊となり、徳島基地に移った。3月中旬、隷下の戦闘第301、第407、第701飛行隊に紫電改70機が配備され、16機編隊での空戦が可能となった。319日、呉を空襲したアメリカ艦上機部隊に対し、紫電改54機と紫電8機で迎撃に向かい、松山上空で機上無線機も駆使した大空戦を展開、F6Fヘルキャット及びF4Uコルセア48機、SB2C1ヘルダイバー4機を撃墜し、パイロット19名を捕虜にした(アメリカ側記録では被撃墜8機、戦死・行方不明8名)。損害は16機で、地上でも5機が炎上し、他に不時着で損傷したものもあり、稼働機が28機と半分になってしまった。搭乗員は13名が死亡した。48日(10日?)、鹿屋基地に移動。412日、菊水2号作戦に参加し、44機が離陸に入ったが2機が発進を中止、機体不調で8機が引き返し、残る34機が喜界島上空で制空戦闘を実施、F6Fヘルキャット20機とF4Uコルセア4機を撃墜した。搭乗員10名が未帰還となった。415日、F6Fに鹿屋基地を急襲され、搭乗員2名が死亡した。416日、喜界島上空で制空戦闘を実施。F6F戦闘機2機を撃墜したが、搭乗員9名が未帰還となった。418日からは第1国分基地からB-29迎撃に出撃。421日、出水上空でB-29の迎撃を実施。2名が未帰還となった。422日、都城上空でB-29の迎撃を実施。429日、大隅半島上空でB-29の迎撃を実施。53日、大村に移り、五島列島周辺海域を中心に慶良間諸島配備PBM-5飛行艇及び沖縄本島北飛行場配備PB4Y-2飛行艇の迎撃にあたった。54日、喜界島上空で制空戦闘を実施。6名が未帰還となった。55日、第5航空艦隊隷下となった。東九州上空でB-29の迎撃を実施。2機を撃墜して捕虜12名を得たが、パイロット1名が死亡した。また、大村基地を攻撃されて1名が発進直前の機内で死亡、1名が地上で戦死した。57日、東九州上空でB-29の迎撃を実施。1機を撃墜し、捕虜1名を得た。511日、B-29迎撃任務を終了。12機を撃墜し、損害は喪失3機、不時着7機、地上大破15機、搭乗員3名であった。九州西方の海上で哨戒機掃討を実施。PBM-5飛行艇2機を攻撃し、1機を撃破・不時着水させた。513日、阿久根付近でF6Fと遭遇戦になり、1機を撃墜した。514日、鹿屋上空哨戒のため12機で出撃したが、桜島上空で海兵隊戦闘機飛行隊のF4U-1DFG-1D爆装戦闘機計12機の先制攻撃を受けた。敵は爆弾とロケット弾を投棄して追尾してきたが、水メタノール噴射で増速して振り切った。515日、九州西方の海上で哨戒機掃討を実施。PBM-5飛行艇(VPB-18所属)2機発見の報告を受け1200に紫電改8機で出撃し、1機を撃墜、1機を撃破・不時着水させたが、防御砲火で1機が空中分解しパイロット1名が死亡、1機が潤滑油漏れにより不時着し、1機がコクピットを撃ち抜かれてパイロット1名が負傷した。516日、九州西方の海上で哨戒機掃討を実施。1名が未帰還となった。517日、九州西方の海上で哨戒機掃討を実施。2名が未帰還となった。528日、小型機来襲の報を受けて十数機から20機で出撃したが、初の日本本土上空侵攻のため伊江島基地から出撃したアメリカ第318戦闘機集団第19戦闘飛行隊のP-47N戦闘機10機と霧島南東で遭遇戦になり、高度200mを飛行する敵編隊に高度6000mから降下攻撃をかけたが、急上昇でかわされ、8000mの高々度に釣り上げられてしまい、3機が撃墜されて3名が未帰還となった。更に奄美大島を敵小型機北上中の報を受けて離陸した8機(その後故障で2機が引き返し6機になった)が鹿屋南方でこのP-47N編隊8機と遭遇し、2機が撃墜された。5月末までの搭乗員戦死者は50名だった。62日、鹿児島湾上空に21機が出撃し、コルセア18機を撃墜。2名が未帰還となった。63日、桜島上空哨戒でF6Fと交戦し、1名が未帰還となった。610日、P-47と交戦し、1名が未帰還となった。622日、喜界島上空で制空戦闘を実施。F4U戦闘機2機を撃墜した。4名が未帰還となった。72日、薩摩半島でF4Uの奇襲を受け、1機を撃墜したが、3名が未帰還となった。75日、沖縄本島北飛行場から出撃した第5航空軍第35戦闘群P-51戦闘機13機が大村基地に初めて来襲し、反撃のため8機が発進したが、4機が撃墜されて3名が未帰還となった。79日、大村基地をB-24が空襲したため出撃。1名が未帰還となった。724日、豊後水道上空で要撃任務のため21機が出撃し、F4UF6Fを計16機撃墜。6名が未帰還となった。81日、屋久島上空でB-24の迎撃を行い、3名が未帰還となった。第348戦闘群P-51戦闘機に対して紫電改20機で出撃したが、4機を撃墜され、戦闘第301飛行隊長菅野直大尉が戦死した。82日、九州南方で哨戒飛行を行い、1名が未帰還となった。88日、北九州八幡を空襲するため100機のP-47に護衛された245機のB-29が来襲、築城飛行場を爆撃するB-25爆撃機と護衛のP-51戦闘機24機も加わった。これに対して0730に稼動24機全力で出撃したが、P-47の反撃で9機、5AF348追撃航空群第460追撃飛行隊P-51により1機が撃墜されてパイロット9名を失った。1機がB-29に体当たりをかけて撃墜したと公認されたが、B-29生存操縦士によると対空砲によるものらしい。これが最後の組織的攻撃となった。この時P-51に撃墜される紫電改の映像がガンカメラに記録されて残っており、築上町小原山中に墜落した紫電改のプロペラブレード1翅(12.7mm機銃弾貫通孔あり)が築上町小原公民館に保存されている。812日、テスト飛行中にP-51の急襲を受けて1名が未帰還となった。819日に解隊された。半年間のスコアは170機にのぼるが、パイロット85名を失った。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊航空ファン11,178,19、月刊丸2,1210,93、月刊JWings5,081,14

第344師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、善通寺で編成された。通称剣山師団。終戦時、隷下に歩兵第352353354連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第345航空隊>:日本海軍航空隊、通称光。昭和19115日、第62航空戦隊隷下に鳴尾基地で新編された。定数は紫電72機(うち補用18機)だが、紫電の実用化が間に合わなかったため、零戦で訓練を開始した。615日、第2航空艦隊に転出した。710日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊

第351師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和206月、宇都宮で編成された。通称赤城師団。終戦時、隷下に歩兵第328329330連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第352航空隊>:日本海軍航空隊、通称草薙。昭和19810日(81日?)、大村基地で編成された。定数は局地戦闘機48機と夜間戦闘機12機で、主任務は佐世保、長崎、大村の防空である。実際には零戦、雷電、月光の3部隊を構成しており、佐世保鎮守府隷下ではあるが、防空戦闘では陸軍西部軍司令官の指揮下に入ることになっていた。820日、零戦33機と月光4機で出撃し、八幡製鉄所を爆撃した第20航空軍第20爆撃航空団B-29爆撃機1機を撃墜、1機を撃破した。1025日、甲戦隊の零戦延べ57機、乙戦隊の雷電13機、丙戦隊の月光6機で出撃し、B-29爆撃機1機を撃墜、16機を撃破した。1121日、延べ69機で出撃し、B-29爆撃機9機を撃墜した。九九式三番三号爆弾も零戦と雷電に積んで使用し、撃墜戦果は無かったが、敵編隊を分散させて攻撃を容易にする効果を確認、軍令部総長や海軍大臣などに有効性を電文で送付し、ストックが無くなったため九九式三番三号爆弾の補充に努めた。昭和2031日、戦力は零戦39機(可動機21機)、雷電39機(可動機18機)、月光8機(可動機4機)、彗星夜戦6機(可動機3機)だった。46日、菊水作戦に零戦隊が参加。4月末、雷電隊が鹿屋基地に派遣され、B-29迎撃にあたった。430日、鹿屋基地から出撃した雷電が九九式三番三号爆弾でB-29爆撃機1機を撃破した。525日、改編が実施され、第381航空隊から戦闘902飛行隊が転入した。89日、長崎に原爆が投下された直後に零戦で上空から偵察した。終戦に伴い解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊丸10,10、月刊航空ファン2,17

第352特殊作戦航空団(2018年)>:AFSOC隷下で、イギリスのミルデンホール基地に置かれている。隷下に第352特殊作戦群などを置く。参考:月刊航空ファン7,18

第352特殊作戦群>:アメリカ空軍特殊作戦部隊。イギリスのミルデンホールに配備されている。参考:月刊丸9,97

 <第352特殊作戦群(2018年)>:第352特殊作戦航空団隷下で、第7特殊作戦飛行隊(CV-22B)、第67特殊作戦飛行隊(MC-130J)からなる。参考:月刊航空ファン7,18

第353特殊作戦群>:アメリカ空軍特殊作戦部隊。元はベトナム戦争時に創設されたアメリカ太平洋空軍第553偵察航空団で、ベトナム戦後に解隊され、19894月にフィリピンのクラーク基地で第353特殊作戦群として再編された。199112月、クラーク基地からの撤退で活動を休止。19922月、嘉手納基地に移駐して活動を再開し、19939月から正式配備された。第1特殊作戦飛行隊、第17特殊作戦飛行隊、第31特殊作戦飛行隊、第320特殊戦術中隊を隷下に置く。その後第31特殊作戦飛行隊は第31救難飛行隊(空挺救難)に改編され、第18航空団隷下に移った。201769-21日、第1特殊作戦飛行隊MC-130H特殊作戦機を横田基地に展開してチーク・ジェット演習に参加。2018101日、第1分遣隊(CV-22B特殊作戦機5機)が横田基地に正式配備された。嘉手納基地に纏めていないのは沖縄の基地負担軽減のためである。201971日、横田基地の第1分遣隊が第21特殊戦飛行隊(CV-22B特殊作戦機5機。後に10機まで増やす)に改編され、CV-22B整備担当の第753特殊戦航空機整備飛行隊が新編された。124日、第1特殊作戦飛行隊MC-130Hが嘉手納を離陸してアメリカに向かい、第1特殊作戦飛行隊がMC-130Hの運用を終えた。2020年、第1特殊作戦飛行隊がMC-130Jに機種改変した。第17特殊戦飛行隊が廃止された。622日、三沢基地で行われた日米合同エレファント・ウォークMC-130J特殊作戦機2機で参加。2021714日、第353特殊戦航空団に改編された。参考:月刊丸9,97、月刊航空ファン9,173,20、月刊JWings12,189,195,208,209,'2112,2111,22

 <第353特殊作戦群(2009年)>:アメリカ空軍特殊作戦コマンド隷下で、嘉手納基地に配置されている。隷下に第1特殊作戦飛行隊(MC-130H)、第17特殊作戦飛行隊(MC-130PMC-130Hに空中給油を行う)、第320特殊戦術隊(戦闘管制チームと空挺救難隊員からなる)、第353作戦支援隊、第353整備隊を置く。参考:月刊軍事研究10,09

 <第353特殊作戦群(2018年)>:AFSOC隷下で、嘉手納基地に置かれている。隷下に第1特殊作戦飛行隊(MC-130H)、第17特殊作戦飛行隊(MC-130J)、第1分遣隊(CV-22B。横田基地)を置く。参考:月刊航空ファン7,18

第353特殊作戦航空団>:アメリカ空軍の特殊作戦航空団。2021714日、第353特殊作戦群から改編されて嘉手納基地で創設された。隷下に第1特殊作戦飛行隊(MC-130J)と第21特殊作戦飛行隊(CV-22B。横田基地)を置く。2023127日、航空団司令らが第1特殊作戦飛行隊MC-130J特殊作戦輸送機で小牧基地を訪問し、空自第1輸送航空隊とパートナーシップを締結した。228日から33日、日米共同訓練コープ・エンジェル23に参加。MC-130J特殊戦輸送機、CV-22特殊戦輸送機、HH-60特殊戦ヘリが、海自第71航空隊US-2救難飛行艇と、四国南方及び九州南方で捜索救助訓練を行った。1023-27日、与那国島東方、宮古島東方、沖縄本島南方で、日米共同訓練レスキュー・フラッグ・オキナワに参加。MC-130J特殊作戦機が、第33救難飛行隊HH-60G特殊作戦ヘリと共に、海自第71航空隊US-2救難飛行艇空自那覇救難隊U-125A救難捜索機UH-60J救難ヘリと、捜索救助訓練(外洋でのUS-2救難飛行艇からHH-60G特殊作戦ヘリへの患者移送など)を行った。参考:月刊JWings4,2212,2111,224,231,24

第354師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和205月、長野で編成された。通称武甲師団。終戦時、隷下に歩兵第331、第332、第333連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第354戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦闘航空団。1991年、アラスカ州アイルソン空軍基地に配備された。隷下に第18仮想敵飛行隊を置き、レッドフラッグ・アラスカではホスト・ユニットを務める。20191010日、隷下にF-35A戦闘機装備予定の第356戦闘飛行隊が再編された。あと2個編成してF-35A戦闘機計54機を配備する予定。2020421日、太平洋航空軍PACAF初のF-35A戦闘機2機(F-35AF-236AF-237)が第356戦闘飛行隊に配備された。625日、F-35A戦闘機3機(F-35AF-242AF-243ともう1機)が第356戦闘飛行隊に配備された。この時点での配備総数は6機である。730日、F-35A戦闘機3機が配備された。シリアルナンバー18-5354F-35AF-245は第354戦闘航空団団司令機、シリアルナンバー18-5355F-35AF-246は第355戦闘飛行隊隊長機、シリアルナンバー18-5356F-35AF-247は第356戦闘飛行隊隊長機となっている。1217日(18日?)、第355戦闘飛行隊がF-35A飛行隊として再編された。2021118日から228日、第356戦闘飛行隊F-35A戦闘機と第18仮想敵飛行隊F-16C戦闘機がコープ・ノース21に参加。512日、第355戦闘飛行隊にF-35A戦闘機2機が追加配備された。1019日、第355戦闘飛行隊にF-35A戦闘機4機が追加配備された。123日、アメリカ海軍海兵隊及び空自との連携訓練を行うため、F-35A戦闘機8機(F-35AF-272など)で岩国基地に飛来。更に4機加わり計12機で岩国基地に展開した。125日、岩国基地のF-35A戦闘機がローカルフライトを開始した。1210日、第355戦闘飛行隊にF-35A戦闘機3機(F-35AF-296など)が追加配備された。1211日、岩国基地のF-35A戦闘機12機がアラスカに向かった。2022221日、コープノース・グアム22演習を終えた第355戦闘飛行隊所属F-35A戦闘機10機(F-35AF-294など)が嘉手納基地に到着。228日、嘉手納基地のF-35A戦闘機12機(221日到着の第355戦闘飛行隊所属10機と、シンガポール・エアショー帰りの第356戦闘飛行隊所属2機)が訓練を開始。310日、青森県三沢市西の日本海上空で日米共同訓練に参加。嘉手納基地に展開中のF-35A戦闘機4機が、第3航空団F-35A戦闘機4機と、初の日米F-35A戦闘機同士での対戦闘機戦闘訓練を行った。415日、F-35戦闘機2機が配備され、2個飛行隊54機の配備を終えた。513日、アイルソン空軍基地でF-35A戦闘機配備完結式典を実施。66日、F-35A戦闘機18機で岩国基地に展開し、迅速戦闘運用ACE訓練を開始。202374-18日、ノーザン・エッジ23-2F-35A戦闘機で参加。202431日、F-35A戦闘機8機でシンガポールのパヤレバー基地に展開し、シンガポール空軍との共同訓練に参加。311-29日、タイのコラート空軍基地で行われたコープ・タイガー2024F-35A戦闘機で参加。78-12日、日米共同訓練レスキュー・フラッグ岩国に参加。MC-130J特殊作戦輸送機1機が、航空救難団U-125A救難捜索機1機・UH-60J救難ヘリ1機、海自第71航空隊US-2救難飛行艇1機と、豊後水道及び岩国基地周辺で、捜索救助訓練を行った。参考:月刊JWings7,209,2010,203,215,218,211,222,223,225,227,228,229,235,'2410,'24、朝雲

第355師団(日本陸軍)>:日本陸軍の師団。昭和207月、姫路で編成された。通称那智師団。終戦時、隷下に歩兵第355、第356、第357連隊などを置いていた。参考:帝国陸海軍事典

第355戦闘航空団(2013年)>:第12航空軍隷下で、司令部はアリゾナ州デービス・モンサン統合基地にある。隷下に第355作戦群第354戦闘飛行隊(A-10A)、同第357戦闘飛行隊(A-10A)、同第358戦闘飛行隊(A-10A)、同第355訓練飛行隊、同第355作戦支援群、第355整備群、第355医療群、第355任務支援群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第361航空隊>:日本海軍航空隊、通称晃。昭和19315日、第62航空戦隊隷下に鹿児島基地で創設された。隷下に戦闘407飛行隊(定数は局地戦闘機48機)を置く。紫電を装備する予定だったが、配備が間に合わなかったため零戦で訓練を開始。710日に解隊され、戦闘407飛行隊は第221航空隊に移った。参考:日本海軍戦闘機隊

第366戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦闘航空団。202374-18日、ノーザン・エッジ23-2F-15E戦闘機で参加。参考:月刊JWings9,23、月刊軍事研究7,13

第366戦闘航空団(2013年)>:第12航空軍隷下で、司令部はアイダホ州マウンテンホームにある。隷下に第366作戦群第389戦闘飛行隊(F-15E)、同第391戦闘飛行隊(F-15E)、同第428戦闘飛行隊(F-15SG。シンガポール空軍要員訓練部隊)、同第390電子戦闘飛行隊(EA-18G/EA-6B)、第366任務支援群、第366医療群、第366整備群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第374空輸航空団>:アメリカ空軍の航空団。199241日、第374戦術空輸航空団と第475基地航空団を統合して横田基地で新編された。隷下に第21空輸飛行隊と第345空輸飛行隊を置き、使用機はC-130E/H輸送機である。199371日、第345空輸飛行隊が解隊された。101日、第21空輸飛行隊が隷下を外れ、第36空輸飛行隊が隷下に入った。1990年代、使用機がC-130Eに統一された。20024月、第459空輸飛行隊C-21A輸送機がコープ・ノース・グアム02に参加。2006年、C-130Hの配備を開始。2007年、第374兵站即応隊、第374施設隊、第374憲兵隊、第36空輸飛行隊、第374整備群などから隊員980名がイラク及びクウェートに派遣された。917日、最後のC-130Eが横田基地を離れた。9-12月、第459空輸飛行隊のC-12J連絡輸送機、パイロット13名、整備員4名が不朽の自由作戦フィリピン版に派遣され、80ソーティで人員900名、物資90000ポンド(40.8トン)を輸送した。2008年、第374憲兵隊の9名が半年間バグダッドで交通統制やパトロールを行った。10月から20092月まで、第36空輸飛行隊と第374整備群の40名がイラクで空輸を行った。201311月、ダマヤン作戦に参加。201512月、クリスマス・ドロップ作戦に参加。2016年、第36空輸飛行隊がC-130J-30への機種更新準備を開始。2017331000頃、横田基地エプロンで整備を行っていた第36空輸飛行隊C-130H輸送機で燃料漏れが発生した。燃料100ガロン(378.5リットル)が漏出したが、回収処理されて環境などへの影響は出ていない。36日、第36空輸飛行隊用C-130J-30輸送機1番機が横田に到着。91日、第36空輸飛行隊C-130J-30輸送機が静岡県総合防災訓練に参加。93日、第459空輸飛行隊UH-1Nヘリが東京都・調布市合同防災訓練に参加。122日、韓国で実施中のヴィジラント・エース18演習を支援して横田に帰投した第36空輸飛行隊C-130J-30輸送機のフレア・ディスペンサーの一部が無くなっているのが見つかった。どこで無くしたのかは不明。1016日、C-130Hサヨナラセレモニーが行われ、最後のC-130H輸送機2機(第36空輸飛行隊所属)がアメリカに帰国し、C-130J/J-30への改編を終えた。126-16日、クリスマス・ドロップ作戦に参加。1221日、第36空輸飛行隊向けC-130J-30輸送機2機(8機目と9機目)が横田に到着した。20182281130頃、第4エンジンにトラブルが発生した第36空輸飛行隊C-130J輸送機が予防着陸した。421日午後、第36空輸飛行隊C-130J-30輸送機1機が横田基地に到着。427日午後、C-130J-30輸送機2機が横田基地に到着し、429日に第36空輸飛行隊に引き渡され、14機全機の配備を完了した。54日、第36空輸飛行隊が輸送任務中の2機と離陸直前にアボートした1機を除く11機で飛行訓練サムライ・サージを実施。撮影機のUH-1NC-12Jも加わり、編隊航過と模擬空挺降下訓練を行っている。1029日から118日、キーン・ソード19に参加。114日、築城基地にC-130J輸送機2機で展開し、第1空挺団70名を乗せて日出生台演習場にパラシュート降下させた。1129日、第36空輸飛行隊がC-130J-30輸送機配備14機中11機で編隊飛行訓練サムライ・サージを実施。20秒間隔で離陸すると北関東周辺で編隊航法訓練に入り、横田基地上空に戻って物量投下訓練を行い、伊豆半島から富士山周辺を回って着陸し、11機がトレイル隊形でエプロンに戻ってリバース(後進)で駐機位置に入った。12191600頃、第36空輸飛行隊C-130J-30輸送機が東富士演習場で物資投下訓練を行っていた際、投下物資に装着されていたパラシュートが外れて富士裾野工業団地付近に落下した。2019716-17日、第1空挺団のアメリカ空軍輸送機からの空挺降下訓練にC-130J輸送機2機で参加した。2020221-23日、令和元年度日米共同統合防災訓練に参加。824-28日に北海道周辺で行われた空自と在日米空軍との共同訓練で、C-130J-30による輸送支援を行った。824日から910日、令和2年度北部方面隊実動演習C-130J-30輸送機2機で参加。第1空挺団をパラシュート降下させる予定だったが、悪天候で中止になっている。915日、海自厚木航空基地C-130J輸送機2機で展開し、第1空挺団240名を乗せて離陸、習志野演習場上空340mから空挺降下訓練を行った。2022113日、令和4第1空挺団降下訓練始めにC-130J-30輸送機で参加。419-21日、第1空挺団との共同空挺降下訓練にC-130J-30輸送機数機で参加。726日から85日、ガルーダ・シールド22に参加。93日、東京都総合防災訓練に第459空輸飛行隊UH-1Nヘリが参加。1023日、第374運用群隷下に第319遠征偵察飛行隊が新編された。装備機はMQ-9A無人偵察機8機である。1121日、第319遠征偵察飛行隊が鹿屋航空基地に1年間の期限付きで正式に展開を開始。2023216日から312日、アイアンフィスト23に参加。929日、第374施設中隊7名が中央特殊武器防護隊を研修し、CBRN対処の知見を得た。1013日、第319遠征偵察飛行隊が嘉手納基地への移駐式を行った。202417日、第1空挺団令和6年降下訓練始めにC-130J-30輸送機3機で参加。参考:月刊軍事研究10,09、月刊JWings3,182,145,1711,'177,181,192,195,2011,'204,'227,'2211,'226,'231,'243,'24、月刊航空ファン2,1610,165,171,182,185,186,187,182,193,1910,19、朝雲

 <第374空輸航空団(2009年)>:第5航空群隷下で、第374作戦群(第36空輸飛行隊、第459空輸飛行隊、第374作戦支援隊)、第374整備群(第374航空機整備隊、第374整備作戦隊、第374整備隊)、第374任務支援群(第374業務隊、第374施設隊、第374通信隊、第374憲兵隊、第374契約隊、第374兵站即応隊)、第374医療隊(第374医療支援隊、第374医療活動隊、第374航空宇宙医療隊、第374歯科隊、第374外科活動隊)を隷下に置く。要員3500名以上。第36空輸飛行隊の定数はC-130H14機、第459空輸飛行隊の定数はUH-1Nヘリ4機、C-12J連絡輸送機4機。参考:月刊軍事研究10,09

第381航空隊>:日本海軍航空隊。昭和18101日、第23航空戦隊隷下に創設され、セレベス島ケンダリーに配置された。定数は戦闘爆撃機36機である。昭和1941日、戦闘602飛行隊(定数は爆装戦闘機48機)、戦闘902飛行隊(定数は夜戦24機)、戦闘311飛行隊(定数は甲戦48機)を隷下に置く戦闘機隊に改編された。4月中旬の段階で、戦闘902飛行隊には月光2機しか配備されていなかった。55日、戦闘311飛行隊が第153航空隊に転属した。91日の保有機数は戦闘602飛行隊がバリクパパンに零戦40機(可動機31機)、ケンダリーに零戦32機(同15機)、雷電9機(同7機)、月光2機(同2機)、戦闘902飛行隊がバリクパパンに月光8機(同5機)、スラバヤに月光2機(同2機)であった。9月以降のメナド空襲及びバリクパパン空襲に対して迎撃戦を行い、三号爆弾を使用するなどしてB-24爆撃機19機とP-38P-47戦闘機6機を撃墜した。1010日からは敵に護衛戦闘機が付くようになったため、月光は昼間迎撃が困難となり、夜間爆撃に投入されるようになった。昭和203月中旬から戦闘602飛行隊の主力はシンガポールに、戦闘902飛行隊はクーパンに移動して船団護衛を行い、バリクパパンには零戦10機と月光2-3機が残って防空任務にあたった。410日、全機がバタビアに移動し、本土に帰還した。第11・第12・第13航空隊の航空機を加えて再編され、定数を戦闘機24機、陸攻12機、艦攻12機、中練24機として特攻に投入されることになり、スマトラに移動する準備をしていたが、終戦となった。参考:日本海軍戦闘機隊

第388戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦闘航空団。201511月、第34戦闘飛行隊に最初のF-35A戦闘機が配備された。20168月、初度作戦能力IOCを達成した。2017621日、第34戦闘飛行隊にF-35A戦闘機2機が配備され、F-35A戦闘機24機全ての配備を終えた。その後は第4戦闘飛行隊への配備を進めている。更に第421戦闘飛行隊にも201812月から配備し、計78機を揃える予定。201711月、F-35A戦闘機12機で嘉手納基地に展開。20183月、ブロック3Fに更新したF-35A戦闘機の受領を開始。5月、嘉手納基地への展開を終えて本土に帰投した。813日、F-35A戦闘機2機がユタ試験訓練場で同団初の機関砲実射訓練を実施。武器システム評価プログラムの一環として地上標的を掃射した。201911月、第34戦闘飛行隊がF-35即時派遣部隊として中東に派遣された。1217日、78機目のF-35A戦闘機が到着し、隷下第4・第34・第421戦闘飛行隊(各24機ずつ+予備6機)への配備を完了した。202016日、F-35A戦闘機3個飛行隊78機の運用能力を完備して完全戦闘能力FWCを達成した。同日、第419戦闘航空団第466戦闘飛行隊と共に、ユタ州ヒル空軍基地でコンバット・パワー演習を実施。滑走路に52機を並べてエレファント・ウォークを行った。329日、イスラエル空軍F-35I戦闘機などとの共同演習エンデュアリング・ライトニングに参加。430日、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者のため、ユタ州各地でF-35A戦闘機によるフライオーバーを行った。57日、第34戦闘飛行隊F-35即時派遣部隊が中東から戻った。520日、第421戦闘飛行隊がUAEのアル・ダフラ基地に展開。68日、訓練を終えてヒル空軍基地に着陸したF-35Aの降着装置が引き込まれる事故が発生した。乗員は無事。74日、F-35Aデモチーム(2020年から担任)として初の展示飛行を実施。8月、第4戦闘飛行隊がF-35A戦闘機でレッドフラッグ・アラスカに参加。1012日、UAEに展開している第421遠征戦闘飛行隊がイスラエル空軍第116飛行隊F-35I戦闘機との共同訓練エンデュアリング・ライトニングVに参加。1026日、UAEに展開していた第421戦闘飛行隊がヒル空軍基地に帰投。2021510日、F-35A戦闘機4機でフランスのモン・ド・マルサン基地に展開。517-28日、フランスに展開したF-35A戦闘機4機がイギリス空軍タイフーン戦闘機やフランス空軍ラファール戦闘機との共同演習アトランティック・トライデント21に参加。参考:月刊JWings9,176,1811,183,204,206,207,208,'209,201,'218,'21、月刊航空ファン7,18

第388戦闘航空団(2013年)>:第12航空軍隷下で、司令部はユタ州ヒルにある。隷下に第388作戦群第4戦闘飛行隊(F-16)、同第421戦闘飛行隊(F-16)、第388整備群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第393突撃砲中隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲中隊。創隊された後、194211月にヴォロネジのB軍集団に派遣された。19432月、ドン・バシンで壊滅。参考:月刊グランドパワー10,00

第400戦闘航空団>:ドイツ空軍の戦闘機部隊で、ホームベースはブランディス基地。1944年半ばにMe163が1個中隊分配備された。824日、Me163が初出撃し、B-17爆撃機4機を撃墜した。ただ機体に問題が多く、1個中隊以上の稼働機を揃えることができず、B-17爆撃機編隊がブランディス基地周辺を避けて飛行するようになると出番が無くなった。9月にはC液生産工場が爆撃を受けた上に悪天候が続いて出撃が難しくなり、1945年に入るとMe163の生産工場も爆撃で壊滅して稼働機が無くなり、Me163の戦果は数機に留まっている。参考:月刊JWings10,09

第401飛行隊>:航空自衛隊の輸送機飛行隊。主任務は基地間輸送や災害派遣・国際緊急援助活動での輸送で、C-130H配備後はKC-767が配備されるまで国外運航のほぼ全てを担任していた。KC-130H配備後は主任務に空中給油も加えている。1968101日、輸送航空隊から改称され、美保基地で創設された。装備機はC-46Dである。196912月、YS-11輸送機の運用を開始。19733月、C-1輸送機の配備を開始。1978331日、第1輸送航空隊の隷下に入り、小牧基地に移った。19843月、C-130H輸送機の配備を開始。19929月、カンボジアPKOに参加。21世紀に入り、アメリカ空軍の操縦教官が日米相互教育訓練目的で配置されるようになった。200312月からイラク人道復興支援活動に参加。2009725日から84日、C-130H輸送機2機で国外運航訓練を実施。運航経路は小牧、那覇、カンボジアのシュムリアップ、インドのムンバイ、ラオスのルアンババン、那覇、小牧である。20121028日、平成24年度近畿府県合同防災訓練に参加。C-130H輸送機に機動衛生ユニットを搭載して神戸空港まで輸送した。20141019日、和歌山県南紀白浜空港で実施された平成26年度緊急消防援助隊近畿ブロック合同訓練にC-130H輸送機で参加。南紀白浜空港旧滑走路の上空100mからパラシュート付き支援物資を投下した。201529-20日、コブラゴールド15C-130H輸送機1機で参加。713日、C-130H輸送機でソマリア海賊対処部隊への定期輸送を行った帰りにベトナムのタンソンニャット空港に寄り、飛行隊長ら14名がベトナム軍防空師団及び空軍師団と交流した。2016210-26日、コープ・ノース・グアム16に参加。828日、南海トラフ地震による津波を想定した広域連携防災訓練に参加。KC-130H空中給油輸送機でDMATや救援物資を小牧基地から静岡空港に輸送した。2017130日から319日、コープノース・グアム2017に参加。93日に北朝鮮が第6回核実験を行ったのを受け、95日に希ガス収集装置搭載KC-130Hが能登半島沖の日本海で大気収集任務に就いた。106日、緊急消防援助隊北海道東北ブロック訓練に参加し、C-130Hに札幌市消防局の指揮車を搭載して千歳空港から山形空港に輸送した。1214日、C-130H輸送機1機で航空機動衛生隊の新田原基地から伊丹空港までの災害派遣(長距離間患者搬送)に協力した。2019319-22日、隊員20名とC-130H輸送機1機をベトナムのノイバイ国際空港とマレーシアのコタキナバル国際空港に派遣し、飛行経路、航空交通管制、離着陸特性、駐機要領などを確認、ベトナム防空・空軍と部隊間交流を行った。527日から629日、C-130H輸送機2機でレッドフラッグ・アラスカ19-2に参加。73-5日、小牧基地を訪問したカナダ空軍第429輸送飛行隊CC-177輸送機1機・指揮官以下7名と部隊間交流を実施。1016日、ベトナムのダナン基地にC-130H輸送機で展開し、ベトナム空軍・防空軍第372空軍師団との部隊間交流を実施。1018-22日、西ベンガル州アルジャン・シン空軍基地で行われた日印共同訓練シンユウ・マイトゥリ19に参加し、編隊飛行、物量投下、不整地離着陸の各訓練を行った。

2020126日から39日、コブラゴールド20C-130H輸送機で参加。116日、乗員5名全員を女性自衛官で編成したC-130H輸送機が小松基地初のクイーンズ・フライトを実施。2022211日、南海レスキュー03C-130H輸送機で参加。94日、静岡県総合防災訓練に参加し、C-130H輸送機が静岡空港上空で救援物資投下訓練を行った。1110-19日、キーン・ソード23に参加。124-13日、クリスマス・ドロップ22C-130H輸送機で参加。2023620日、C-130H輸送機1機が小牧基地から紋別空港に飛来し(目的は不明)、1時間ほどで八戸航空基地に向かった。202417日、第1空挺団令和6年降下訓練始めにC-2輸送機1機で参加。213日、C-130H輸送機が美保基地物料投下訓練場で物料投下訓練を実施。38日、アメリカ空軍第374空輸航空団第36空輸飛行隊が横田基地で行ったフライ・ガールズ2024に協力し、C-130H輸送機を展示した。

参考:月刊JWings10,191,137,131,155,1611,161,183,186,205,'2211,'222,'233,'239,'233,'245,'24、月刊航空ファン4,165,1711,179,19MAMOR vol.154vol.156、朝雲

 <第401飛行隊(1975年)>:輸送航空団隷下で、美保基地に置かれている。C-46輸送機、YS-11輸送機を装備する。参考:月刊軍事研究10,75、月刊JWings7,24

 <第401飛行隊(1985年)>:第1輸送航空隊隷下で、小牧基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11輸送機、C-130H輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第401飛行隊(1995年)>:第1輸送航空隊隷下で、小牧基地に置かれている。C-130H輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第401飛行隊(2005年)>:第1輸送航空隊隷下で、小牧基地に置かれている。C-130H輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第401飛行隊(2015年)>:第1輸送航空隊飛行群隷下で、小牧基地に置かれている。C-130HKC-130Hを装備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第401飛行隊(2020年)>:第1輸送航空隊隷下で、小牧基地にある。C-130HKC-130Hを装備する。参考:月刊JWings6,20

第402飛行隊>:航空自衛隊の輸送機飛行隊。1968101日、輸送航空団入間飛行隊隷下に入間基地で新編された。1978331日、第2輸送航空隊の隷下に入った。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。313日、DMATと患者をC-1輸送機で小牧基地に輸送した。201322日、安倍総理大臣を乗せて羽田から沖縄まで往復した。2016423日、U-4多用途支援機2機が羽田空港と熊本空港を往復。112日、U-4にガーディアンノース16を視察する稲田防衛大臣を乗せて三沢基地に着陸。20171214日、U-4でベトナムのダナン国際空港を訪れ、ベトナム防空・空軍と部隊間交流を実施。2018621日、大阪北部地震で被災地を視察する安倍首相ら政府関係者をU-4C-1に乗せ、羽田空港と伊丹空港を往復した。622日、イージス・アショア配備に関して秋田県庁を訪問する小野寺防衛大臣をU-4に乗せ、秋田空港に運航した。914日、安倍総理の京都遊説に合わせ、U-4を伊丹空港に待機(公務ではないのでU-4で関西入りはせず、緊急事態に備えての待機)させた。915日、安倍総理の佐賀遊説に合わせ、U-4を伊丹空港から佐賀空港に移して待機させた。2019317-21日、隊員10名とU-4多用途支援機1機をベトナムのタンソンニャット国際空港、スリランカのマッタラ・ラージャパクサ国際空港、ブルネイのブルネイ国際空港に派遣し、スリランカ空軍と部隊間交流を行った。722-25日、副司令以下20名とC-1輸送機1機でフィリピンへの国外運航訓練を実施。722日にマバラカットのクラーク国際空港、723日にセブ島ベニト・エブエン空軍基地に着陸し、フィリピン空軍と部隊間交流を行い、クラーク国際空港経由で725日に入間基地に帰投した。2021217日、最初のC-2輸送機が入間基地に到着した。2022211日、南海レスキュー03C-1輸送機で参加。78日、安部元総理殺害事件が発生したため、山形県で遊説中の岸田総理が首相官邸に戻ることになり、神町駐屯地からUH-1Jヘリで松島基地に到着した岸田総理を、待機していたU-4多用途支援機で羽田空港まで輸送、陸自UH-1Jヘリに引き継いだ。2022820日から98日、ピッチ・ブラック2022演習C-2輸送機で参加。116日、海上自衛隊創設70周年記念令和4年度国際観艦式C-2輸送機1機で参加。

参考:月刊航空ファン6,1112,18、月刊JWings10,194,137,137,161,174,189,1812,185,'215,'2210,'2211,'221,'23、朝雲

 <第402飛行隊(1975年)>:入間航空隊隷下で、入間基地に置かれている。C-1輸送機、C-46輸送機、YS-11輸送機を装備する。参考:月刊軍事研究10,75

 <第402飛行隊(1985年)>:第2輸送航空隊隷下で、入間基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第402飛行隊(1995年)>:第2輸送航空隊隷下で、入間基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第402飛行隊(2005年)>:第2輸送航空隊隷下で、入間基地に置かれている。C-1輸送機、U-4多用途機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第402飛行隊(2015年)>:第2輸送航空隊飛行群隷下で、入間基地に置かれている。C-1U-4を装備する。参考:月刊航空ファン4,16

 <第402飛行隊(2020年)>:第2輸送航空隊隷下で、入間基地にある。C-1U-4を装備する。参考:月刊JWings6,20

第403飛行隊>:航空自衛隊の輸送機飛行隊。元は1961年に美保基地で新編された飛行教育隊で、1978331日に改称され、第3輸送航空隊の隷下に入った。装備機はYS-11P輸送機とYS-11NT航法練習機で、輸送任務に加え、搭乗員教育任務も担当した。19793月、C-1輸送機が配備された。20101011日、入間基地でYS-11輸送機2機による平成22年度自衛隊記念日中央行事体験飛行を実施。20121028日、平成24年度近畿府県合同防災訓練に参加。20134140708、安倍首相を乗せたU-4が離陸。その後、首相は空自訓練視察を行った。2015622日、美保基地でYS-11P輸送機(527日付けで用廃)の用途廃止セレモニーを実施。1024日、A400Mで美保基地を訪問したイギリス空軍第70飛行隊と交流や意見交換を行った。2016429日、熊本地震で現地を視察する在日米軍司令官兼第5航空軍司令官ジョン・ドーラン中将とキャロライン・ケネディ駐日大使をC-1で熊本空港に運んだ。1022日、C-1が美保基地でKC-46A配備に向けた騒音測定に参加。2017328日、C-2輸送機量産型3機が配備された。528日、美保基地航空祭でYS-11Pの最終飛行展示を実施。529日、YS-11Pのラストフライト(美保基地から小松基地まで飛行)を実施。690640頃、美保基地で模擬離陸訓練を行っていたC-2がタキシーウェイを右折して滑走路に入ろうとした際、ブレーキとステアリングが効かなくなり、滑走路を横切って草地に突っ込み、滑走路を南側に数十メートル逸脱した。一時閉鎖された空港は0938に再開されたが、全日空の3便が運航を取り止めている。原因は慣性航法装置作動前に機長が機体を動かしたため、飛行システムが機体が高速移動していると勘違いして保護機能を作動させ、手動入力をブロックしてしまい機体操作ができなくなったためで、再発防止策として、事故内容の操作手順書への追記、慣性基準装置と関連システム/機体操作に関する通常・緊急手順/緊急事態発生時の対処要領の教育徹底を行うこととし、75日に飛行自粛を解除してフライトを再開した。118-17日、C-2初の国外運航訓練を実施。タイ、ジブチ、UAE、シンガポールを巡り、118日にタイのウタパオ海軍基地でタイ空軍第106飛行隊、1116日にシンガポールのパヤレバー空軍基地でシンガポール空軍第122飛行隊と部隊間交流を行い、1112-13日にはドバイ航空ショーでC-2を地上展示した。1125日から121日、C-2で国外運航訓練を実施。1128日にニュージーランドのクライストチャーチ国際空港でニュージーランド空軍第40飛行隊、1129日にオーストラリアのリッチモンド空軍基地でオーストラリア空軍第84航空団と部隊間交流を行った。2018131日、C-2で初の航空輸送任務を実施。硫黄島戦没者遺骨収集に係る遺骨収集団員の輸送等の支援を行い、0730頃に美保基地を離陸して入間基地で遺骨収集団40名や資器材を積み込み、0955に入間基地を離陸して硫黄島まで輸送、美保基地に直接帰投した。32日、5機目のC-2207号機)が配備された。312-19日、C-2輸送機1機と隊員15名が国外運航訓練を実施。パールハーバー・ヒッカム統合基地、カリフォルニア州トラビス空軍基地、イリノイ州スコット空軍基地、アンダーセン空軍基地を巡った。324日、海自第1術科学校と幹部候補生学校の視察を終えた安倍総理をC-2に乗せ、岩国航空基地から羽田空港まで運航した。330日、美保基地で創立40周年記念行事を実施。331日、C-1の運用を終了。44日、配備されていたC-1輸送機2機が入間基地に移動して第2輸送航空隊第402飛行隊に配備された。47-8日、瀬戸大橋開通30周年記念式典で展示飛行を行うため小松基地に展開したブルーインパルスの輸送支援を実施。77日、C-2輸送機1機が第3輸送航空隊飛行群司令以下15名を乗せて美保基地を離陸し、カナダのグリーンウッド基地を経由して711日にイギリスのフェアフォード基地に到着、713-15日にエアタトゥーで地上展示された。716日にフェアフォード基地を離陸し、カナダのグリーンウッド基地とアメリカを経由して719日に美保基地に帰投している。84日、大規模地震時医療活動訓練に参加。C-2輸送機にDMATを乗せて千歳基地と高松空港を往復した。91-9日、C-2輸送機1機で平成30年度在外邦人等保護措置訓練に参加。96日に発生した北海道胆振東部地震の災害派遣に参加。2019113日、第1空挺団平成31年降下訓練始めにC-2輸送機で参加。226日から31日、オーストラリアのアヴァロン空港でアヴァロン2019トレードショーに参加。31-3日、アヴァロン空港でオーストラリアン・インターナショナル・エアショー2019に参加し、展示飛行や機内公開を行った。69-26日、C-2輸送機2機で国外運航訓練を実施。1機は69日にカンボジアのシェムリアップ、610日にUAEのアブダビ、611日にフランスのパリを訪問し、フランス空軍第1・61輸送航空隊創設75周年記念行事とパリ国際航空宇宙ショーに参加、逆ルートで626日に帰投し、もう1機は69日にカンボジアのシェムリアップ、610日にUAEのアブダビ空軍基地を訪問し、UAE空軍との部隊間交流を実施して615日に帰投した。77日、高尾山分屯基地祭でC-2輸送機による航過飛行を行った。727日、米子がいな祭に参加し、C-2輸送機で航過飛行を行った。106日、鳥取砂丘コナン空港フェスタ2019C-2輸送機を展示・公開した。1013日、米子駐屯地創設69周年記念行事の観閲行進にC-2輸送機で参加。1117-21日、C-2輸送機でドバイ航空ショーに参加。イギリス空軍やブラジル空軍などと部隊間交流を行っている。2020514日、海自厚木航空基地にC-2輸送機1機で飛来し、海自向け貨物を降ろして美保基地に戻った。

2021102日、鳥取砂丘コナン空港フェスタ2021C-2輸送機を展示した。2022113日、令和4第1空挺団降下訓練始めにC-2輸送機で参加。211日、南海レスキュー03C-2輸送機で参加。310日、ロシアの侵略を受けたウクライナに提供する防衛装備品を乗せたC-2輸送機1機が美保基地を離陸。マレーシア、インド、トルコを経由し、315日にポーランドのジェシェフに到着した。316日、ウクライナへの輸送任務を終えたC-2輸送機が美保基地に帰投。318日、C-2輸送機1機でアメリカ空軍MQ-9無人偵察機一時配備計画の日米調査員を鹿屋航空基地に運んだ。

参考:月刊JWings10,191,137,138,149,'151,'167,161,179,172,185,186,1810,1811,184,195,1912,191,202,208,'201,'224,'225,226,'22、月刊航空ファン6,178,174,186,1810,18、月刊航空情報4,18、朝雲

 <第403飛行隊(1985年)>:第3輸送航空隊隷下で、美保基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11P/NT輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第403飛行隊(1995年)>:第3輸送航空隊隷下で、美保基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11P/NT輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第403飛行隊(2005年)>:第3輸送航空隊隷下で、美保基地に置かれている。C-1輸送機、YS-11P/NT輸送機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第403飛行隊(2015年)>:第3輸送航空隊飛行群隷下で、美保基地に置かれている。C-1YS-11Pを装備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第403飛行隊(2020年)>:第3輸送航空隊隷下で、美保基地にある。C-2を装備する。参考:月刊JWings6,20

第404飛行隊>:航空自衛隊の空中給油輸送機飛行隊。ホームベースは小牧基地。使用機はKC-767である。航空機整備員は所属しておらず、第1輸送航空隊整備補給群検査隊第2小隊が担っている。2009326日、第1輸送航空隊隷下に新編された。725日から84日、KC-767空中給油輸送機1機が国外運航訓練に参加。運航経路は小牧、インドネシアのハリム、タイのドンムアン、小牧である。201018日、KC-767最終号機(4号機)が配備された。2月、KC-767の運用試験を終了。41日、KC-767の実運用を開始した。201114日、初飛行訓練を実施。311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。315日、福島空港にパンを輸送し、初の実任務をこなした。201274日、入間基地和太鼓部入間修武太鼓チーム26名を乗せて小牧基地を離陸。75日、イギリスのフェアフォード基地に到着。76-8日、エアタトゥーにKC-767空中給油輸送機を展示。79日、入間修武太鼓チームを乗せてフェアフォード基地を離陸。711日、小牧基地に帰投した。2013225日から31日まで、KC-767による国外運航訓練を実施。小牧を出発し、オーストラリア・アバロン、バングラデシュ・ダッカ、ブルネイ・ダルスリブガワンを巡って小牧に戻った。その間の226日、オーストラリアのアバロン空港でオーストラリア国際航空宇宙ショーに参加して地上展示を行った。102日、ソマリア海賊対処航空部隊の貨物を積んだKC-767がジブチに到着。2014711-13日、エアタトゥーにKC-767空中給油輸送機1機を派遣した。2015223-28日、オーストラリアン・インターナショナル・エアショー2015KC-767空中給油輸送機1機で参加。317日、KC-767による隊員研修である訓練部内広報の同乗者数が500名に到達。2016210-26日、コープ・ノース・グアム16に参加。63-24日、レッドフラッグ・アラスカ2016-2に参加。75-13日、エアタトゥーにKC-767空中給油輸送機1機と隊員15名を派遣。917日、在日米空軍横田基地日米友好祭2016に参加するオーストラリア空軍KC-30A部隊と防衛交流を実施。1022日、KC-767が美保基地でKC-46A配備に向けた騒音測定に参加。2017130日から319日、コープノース・グアム2017に参加。223日、KC-767空中給油輸送機1機がニュージーランドに向け離陸。224日、ニュージーランドのアハケア空軍基地に到着。225-26日、ニュージーランド空軍主催エア・タトゥーでKC-767を地上展示した。ニュージーランド空軍第70飛行隊A400M輸送機部隊との交流も行っている。227日、オーストラリアのアヴァロン空港に到着。228日と31日、アヴァロン・エアショーでKC-767を地上展示した。228日、ニュージーランド空軍第40飛行隊と部隊間交流を実施。31日、オーストラリア空軍第33飛行隊と部隊間交流を実施。32日、KC-767が帰国した。710日、KC-767空中給油輸送機1機がイギリスに向かった。711-12日、イギリス空軍ブライズ・ノートン基地でイギリス空軍空中給油輸送機部隊と編隊飛行訓練を含む部隊間交流を行った。これが空自初のイギリスでの飛行訓練である。712日、ブライズ・ノートン基地で開催されたイギリス空軍第101飛行隊創設100周年記念行事に参加。714-16日、KC-767空中給油輸送機1機でエアタトゥーに参加。719日、日本に帰国した。94日、航空幕僚長とオーストラリア空軍本部長が、第404飛行隊とオーストラリア空軍第33飛行隊とのシスター・スコードロン関係締結書に署名した。925日から102日、ジブチなどで平成29年度在外邦人等保護措置訓練に参加。ジブチからエジプトやエチオピアなどに展開する長距離空中輸送訓練を行った。2018119日、KC-767空中給油輸送機1機がタイのドンムアン空軍基地に到着し、タイ空軍C-130部隊と部隊間交流を行った。2019527日から629日、KC-767空中給油輸送機1機でレッドフラッグ・アラスカ19-2に参加。930日から101日、武士道ガーディアン19で来日したオーストラリア空軍第33飛行隊KC-30A空中給油輸送機及び指揮官以下18名と小牧基地で部隊間交流(相互ブリーフィング、意見交換、相互装備品見学)を実施。2020629日、KC-767輸送機のラムエアタービン作動試験を実施。202238日、ロシアの侵略を受けたウクライナに提供する防衛装備品を乗せたKC-767空中給油輸送機1機が小牧基地を離陸。311日、KC-767空中給油輸送機がポーランドのジェシェフに到着。313日、KC-767空中給油輸送機が小牧基地に帰投。820日から98日、ピッチ・ブラック2022演習KC-767空中給油輸送機1機で参加。参考:月刊JWings6,0910,096,106,111,149,145,155,1612,161,175,1710,174,1812,199,'206,'2211,'22、朝雲、月刊航空ファン5,139,165,179,179,19

 <第404飛行隊(2015年)>:第1輸送航空隊飛行群隷下で、小牧基地に置かれている。KC-767を装備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第404飛行隊(2020年)>:第1輸送航空隊隷下で、小牧基地にある。KC-767を装備する。参考:月刊JWings6,20

第405飛行隊>:航空自衛隊の空中給油輸送機飛行隊。KC-46A空中給油輸送機の運用部隊である。20201215日、第3輸送航空隊隷下に美保基地で新編され、編成完結式を実施、第3輸送航空隊司令から隊長に部隊旗が授与された。20213月から3ヶ月間、アメリカ空軍アルタス空軍基地でパイロット6名とブームオペレーター6名が訓練を受け、フライト8回をこなし、第56空中給油飛行隊の教官による審査に合格、訓練を完了した。1029日、初号機が美保基地に到着して配備された。ちなみにフェリーフライトしたのはアメリカ側要員で、横田基地からC-12J軽輸送機が迎えに来ている。126日、空自機としての飛行試験を開始。202216日、初号機が年始飛行を実施。224日、2号機が美保基地に到着して配備された。919日、千歳基地で訓練を実施。1020日、新田原基地で訓練を実施。1025日、岐阜基地で訓練を実施。2024228日、3号機が美保基地に到着して配備された。315日、4号機が美保基地に到着して配備された。参考:月刊JWings5,219,211,227,221,237,'24、朝雲

第424重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。1941212日、第501重戦車大隊から名称変更された。1945113日、ソ連の攻勢に反撃を開始したが、リゾフで待ち伏せ攻撃に遭って壊滅。残余兵はX号戦車2両、W号戦車3両、ナスホルン2両、ヘッツァー数両を受領してオーダー河沿いに戦闘を行い、1月末にドイツ本土に帰還した。211日に解隊され、要員は第512重戦車駆逐大隊配属となったが、第3中隊のみ第500戦車補充・訓練大隊の戦車を受領して4月まで戦闘を継続し、ヘクスターで降伏した。参考:月刊グランドパワー3,02

第432航空団(2013年)>:第12航空軍隷下で、司令部はネブラスカ州クリーチにある。隷下に第432作戦群(MQ-1/MQ-9)、第732作戦群(MQ-1/MQ-9)、第432整備群、第799航空基地群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第432戦術戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦術戦闘航空団。198471日、三沢基地で再編された。198561日、隷下に第13戦術戦闘飛行隊(ニックネームはパンサーズ)が新編された。198711日、隷下に第14戦術戦闘飛行隊(ニックネームはサムライズ)が新編された。装備機はF-16C/Dブロック30である。1987年初頭、第13戦術戦闘飛行隊がF-16C/Dブロック30に機種改変した。1991年、第432戦闘航空団に改称された。参考:月刊JWings9,20

第432戦闘航空団>:アメリカ空軍の戦闘航空団。テイルコードはMJ(ミサワ・ジャパンの略)。1991年、第432戦術戦闘航空団から改編されて三沢基地で誕生した。隷下に第13戦闘飛行隊(ニックネームはパンサーズ)と第14戦闘飛行隊(ニックネームはサムライズ)を置き、使用機はF-16C/Dブロック30である。1992123日、三沢基地を離陸したF-16C戦闘機がKC-10と空中給油時に接触して東京沖1160kmの太平洋上に墜落する事故が起き、パイロットが緊急脱出した。厚木基地を離陸した第71航空群US-1A救難飛行艇が救助に成功している。1994101日、第35戦闘航空団に改編された。参考:月刊JWings9,20、月刊軍事研究3,19

第441軍事情報大隊>:アメリカ陸軍第500軍事情報旅団の分遣隊で、キャンプ座間に駐屯し、ハーディ・バラックスを拠点にHUMINTを行っている。20089-10月にはインターネット上で日本人HUMINT活動要員の求人を行った。10-11月にはノースドックでの日本人HUMINT活動要員の求人を行っており、勤務先は第441軍事情報大隊太平洋連絡分遣隊横浜分遣班である。参考:月刊軍事研究7,09

第442連隊戦闘団>:アメリカ陸軍が第2次大戦時に編成した日系二世米兵志願者部隊で、19432月に創設が発表された。モットーは「一か八か、当たって砕けろ(Go For Broke)」である。兵力はアメリカ本土から3000名、ハワイから1500名を集める予定だったが、本土では日系人が収容所送りになっていたため、志願者は1256名、採用者は800名に過ぎず、ハワイで10000名が志願して2600名が採用され、定数の4000名を満たした。5月、キャンプ・シェルビーに到着して1ヶ月の訓練を受けた。19446月、イタリア半島のアンツィオに上陸し、ローマ付近で第100歩兵大隊と合流した。隷下部隊は歩兵大隊3個(第100、第2、第3)、第522野戦砲兵大隊、第232戦闘工兵中隊、対戦車中隊、砲中隊、衛生分遣隊、支援中隊、本部中隊、軍楽隊であった。次いでチヴィタベッキアに移動し、リヴォルノ攻略作戦に参加。624日、ベルベデーレを占領した。8月、アルノ川渡河作戦に参加。ドイツ軍は本連隊戦闘団を精鋭部隊と認識しており、投入方面が主攻であると判断していたことから、各師団を転々としてドイツ軍の目を欺いた。91日、アルノ川の渡河を終了したが、兵力の25%を損耗していた。その後南フランスのアンヴィル作戦に回されることになり、927日にマルセイユに向けて出港した。1013日に第36歩兵師団隷下となってドイツ・フランス国境付近に展開。1015日からブリュイエールに攻撃を開始し、1019日までに周辺の高地を全て制圧した。1020日、師団長命令で第100大隊が予備に回され、前線から11kmも離れたビフォンティーヌの占領を命じられた。制圧した高地を放棄することになり、ブリュイエールが再度ドイツ軍の砲撃を受けるとして抗議したが受け入れられず、第100大隊はビフォンティーヌ攻略に移り、一時ドイツ軍に包囲されたものの、1023日に第3大隊が連絡を付け、攻略を完了した。その後ベルモンに後退して補給に入ったが、その間に第36歩兵師団第141歩兵連隊第1大隊の275名がベルモンの東で700名のドイツ軍に包囲され、第141歩兵連隊第2・第3大隊が救出に向かったが、ドイツ軍に阻止された。そのため、1025日、第442連隊戦闘団に第141歩兵連隊第1大隊救出命令が出された。第36歩兵師団長からはいかなる犠牲を払っても大隊を救出せよと訓示があったが、300名弱のアメリカ兵士の救出に2800名の日系二世兵士の命をかけるあたりに当時の第442連隊戦闘団の置かれていた状況が伺える。1026日、第2大隊が出撃。1027日、第100大隊と第3大隊が出撃。第100大隊は地雷原を迂回して進撃、第2大隊は左側面の617高地を占領し、第3大隊は白兵戦で正面突破をかけ、10301400に漸く第3大隊が第141歩兵連隊第1大隊と連絡を付けた。第141歩兵連隊第1大隊は64名が死亡して211名となっていたが、第442連隊戦闘団は800名の死傷者を出していた。1944119日、補充のために前線から後退。1111日、第1次大戦休戦記念日で第36歩兵師団長による閲兵を受けた際、兵士の数が少なすぎるので師団長から叱責されたが、連隊長代理(連隊長は負傷して入院していた)はここにいる兵士(1400名)以外は棺桶か病院の中だと怒鳴り返した。1119日には第36師団隷下から離れ、南フランスで休養と再編成に入った。12月、フランスのリビエラとアルプスのパトロール任務に就いた。1945328日、再編を終了してイタリアに向かい、第92歩兵師団の隷下となってゴシックラインの突破にあたることになった。第522野戦砲兵大隊は第7軍の隷下に入ってライン渡河作戦に参加しており、渡河後にダッハウでユダヤ人強制収容所を発見している。430500、ゴシックライン突破作戦命令が下され、450500から戦闘を開始、その日のうちに突破を終了した。この戦闘で戦死したサダオ・ムネモリ上等兵には名誉勲章が与えられた。417日までにドイツ軍主力を包囲。6月、太平洋戦線に向かうため訓練を開始。7月からピサに移動して捕虜の警備を実施。太平洋戦線に配属される前に太平洋戦争が終わった。延べ死傷者数は9486名、死傷率は314%にのぼった。短い作戦期間の間に大きな戦果を挙げたが、正当な評価を得られず凱旋パレードの開催も無いままヨーロッパに1年ほど留まった後、1946719日に漸くワシントンで大統領の閲兵を受け、大統領部隊感状を授与された。8月に解隊されたが、現在でも陸軍予備役部隊(第442歩兵連隊第100大隊)に名前が残っている。2000年、イタリアのトスカーナ地方にあるピエトラサンタに、地元の寄付金でサダオ・ムネモリ上等兵の銅像が建てられた。2000年、偏見により戦績が不当に低く評価されているとして20名に名誉勲章が授与され、第2次世界大戦での受章は大統領部隊感状7回、名誉勲章21名(第3歩兵師団39名の次に多い受章部隊である)、殊勲十字章52名、銀星章568名(複数受章28名)、勲功章22名、兵士章15名、パープルハート9486個などに上った。2000621日の名誉勲章授章式では、クリントン大統領が「国家が正しく扱わなかった人達にこれ程まで仕えてもらったことは、かつて無いことである」と賛辞を送った。201010月、元兵士に議会黄金勲章を授与することが決定し、2011112日に連邦議会議事堂で伝達式が行われた。2009年に上院歳出委員長となったダニエル・イノウエ上院議員(2012年死去)も本部隊出身で、ゴシックライン突破戦において右腕切断の重傷を負い名誉勲章を授与されている。スミソニアン博物館、キャンプ・メイプリー内の軍博物館や、空母ホーネット博物館などに資料が展示されている。参考:月刊軍事研究5,098,14、月刊PANZER1,11、朝雲

第460宇宙航空団(アメリカ空軍)>:アメリカ空軍の宇宙航空団。弾道ミサイル早期警戒衛星などを運用する。参考:月刊軍事研究4,16

第460宇宙航空団(2007年)>:第14航空軍隷下で、DSP衛星を使用した弾道ミサイル警戒を主任務とする。参考:月刊軍事研究12,07

第460宇宙航空団(2015年)>:第14航空軍隷下で、コロラド州シュリーバー空軍基地に置かれている。参考:月刊軍事研究4,16

第492特殊作戦航空団>:アメリカ空軍の特殊作戦航空団492SOW20175月、空軍特殊作戦航空戦センターAFSOAWCを改編して創設され、空軍特殊作戦軍団AFSOCの隷下に入った。参考:月刊航空ファン7,18

 <第492特殊作戦航空団(2018年)>:AFSOCの隷下で、ハールバート・フィールドに置かれている。隷下に第5特殊作戦群(AC-130UMC-130HU-28A)、第18飛行隊(CV-22BMC-130H)、第19特殊作戦群(AC-130UMC-130H/WU-28A)、第371特殊作戦戦闘訓練飛行隊、第551特殊作戦群(AC-130H/WMC-130JCV-22B)、第6特殊作戦群(デューク・フィールド。C-145ADHC-6Mi-17)、第524特殊作戦群(デューク・フィールド。C-146A)を置く。参考:月刊航空ファン7,18

第493戦闘飛行隊>:アメリカ空軍戦闘飛行隊、ニックネームはグリム・リーパーズ。2022419日、隊長機としてF-35AF-321が配備された。参考:月刊JWings7,22

第495戦闘飛行隊>:アメリカ空軍戦闘飛行隊、ニックネームはヴァルキリーズ。2022419日、隊長機としてF-35AF-323が配備された。参考:月刊JWings7,22

第500軍事情報旅団>:アメリカ太平洋陸軍の情報部隊で、情報保全コマンド隷下にあり、太平洋地域(除朝鮮半島)の戦術・作戦・戦略情報を収集分析し、部隊防護に関する情報を評価し、防諜を行うのが主任務である。ときに中東や中央アジア方面に派遣され、中央軍隷下で活動する。司令部はキャンプ座間にあったが、2004年にハワイの第115軍事情報群が廃止されて情報活動が本旅団に一本化されたことに伴い、ハワイのスコーフィールド・バラックスに移転した。隷下部隊は第15、第205、第301、第441、第732軍事情報大隊で、第15軍事情報大隊(テキサス州フォート・フッド)はIMINTSIGINT、第301軍事情報大隊(アリゾナ州フェニックス)は予備役、第441軍事情報大隊(キャンプ座間)は防諜とHUMINT、第732軍事情報大隊(ハワイ州クニア)はSIGINTを担当する。また、キャンプ座間には通称「500部隊の図書部」と呼ばれるアジア研究分遣隊があり、旧日本軍軍人や元自衛官からなる日本人アナリスト40-80名を中心に、公開情報分析を行っている。陸上自衛隊のヒューミントとの連携を図り、陸幕第2部別班の創設時には資金の半分以上を用意し、要員を育成した。参考:月刊軍事研究4,097,09

 <第500軍事情報旅団(2016年)>:太平洋陸軍隷下で、司令部はスコーフィールド・バラックスに置かれている。隷下に第15軍事情報大隊(テキサス州フォート・フッド)、第205軍事情報大隊(フォート・シャフター)、第301軍事情報大隊(アリゾナ州フェニックス)、第441軍事情報大隊(キャンプ座間)、第715軍事情報大隊(本部はスコーフィールド・バラックス、実動部隊はクニア地域保全センター)を置く。参考:月刊軍事研究2,17

第501航空隊>:日本海軍航空隊。昭和187月、艦爆隊として編成された。10月、ラバウルに進出。10月末から第26航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。昭和191月末、消耗したためトラックに後退。2月、爆装零戦を加えることになった。217-18日のトラック空襲で11機を失い壊滅。34日、本土で再建されることになり、第26航空戦隊隷下となった。定数は艦戦48機、艦爆48機である。320日、零戦10機でペリリューに進出した。330日、アメリカ艦上機の攻撃で零戦5機が未帰還となり、零戦7機が地上で被弾、九九式艦爆9機が炎上した。4月下旬に零戦17機がダバオに進出。710日に解隊され、戦闘機パイロットは第201航空隊に編入された。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15

第501重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。北アフリカ戦で壊滅し、19439月に再編された。19446月、ソ連の大攻勢で壊滅した。7月、ティーガーB31両を受領して85日にヴァイクセル河付近に移動。812日に戦闘に参加したが、初期故障などで参戦できたのは8両のみ、しかも慣れない新型戦車での戦闘で3両を失った。813日、1両のティーガーB(指揮戦車型)がソ連の手に落ちた。822日、北に移動して戦闘を継続。8月中に14両のティーガーBを受領した第1中隊が合流したが、91日の稼働戦車は45両中26両だった。9月にキルチュに移動して戦闘を行い、第509重戦車大隊から残余のティーガーTを受領した。10月まで戦闘に参加した後、後方で休養に入り、1212日に第424重戦車大隊に名称変更された。参考:月刊グランドパワー3,02、月刊PANZER9,12

第501飛行隊>:航空自衛隊の偵察機飛行隊。偵察航空隊の隷下にある。航空偵察命令の発令に備え、パイロット、ナビゲーター、整備員は24時間365日待機している。訓練は午前と午後の2回で、夜間飛行訓練も週に2回ほど実施している。パイロットは低空を高速で飛行するのに集中するため、ナビゲーターがきちんと偵察目標や周辺の状況を把握していないと任務が果たせず、両者のコミュニケーションが重要である。1961121日、松島基地で偵察航空隊隷下に新編された。要員は75名(うちパイロット12名、幹部20名)で、使用機はRF-86F偵察機とT-33A連絡・練習機2機である。1962年、T-28B連絡・練習機1機が配備された。828日、入間基地に移動。1972年、RF-4Eが採用されたのを機に百里基地への移動が決定。1972123日、所属のRF-86Fが築城基地を離陸直後に基地の東5kmF-86Fと空中接触して墜落し、乗員全員が死亡、無事故記録が途絶えた。1974101日、百里基地に偵察航空隊百里先遣隊を新編した。123日、RF-4E偵察機の最初の2機が百里基地に到着し、百里先遣隊に配備された。1975101日、百里先遣隊が新生第501飛行隊となって百里基地に移動し、RF-86FからRF-4Eに機種改変した。RF-86Fは入間に残し、偵察航空隊入間分遣隊で運用している。1977325日、RF-86F退役に伴い、入間分遣隊が廃止された。198685-7日、台風10号の豪雨水害に対する災害派遣に参加。1991年、雲仙普賢岳噴火で写真撮影任務を実施。1992121日、RF-4EJの配備を開始。ELINT能力の無いRF-4Eと側方レーダーの無いRF-4EJを補完しながら運用している。奥尻島津波の災害派遣に参加。2000年、有珠山噴火と三宅島噴火で写真撮影任務を実施。2004年、浅間山噴火と新潟県中越地震の災害派遣に参加。2006年、能登半島地震の災害派遣に参加。2007年、新潟県中越沖地震の災害派遣に参加。2009年、中国・九州北部豪雨の災害派遣に参加。326日、改編が行われ、隷下の整備小隊が偵察航空隊偵察整備隊に移り、機体を全て百里基地に移動してきた第302飛行隊(F-4EJ改装備)の所属に変更、整備を効率化した。2010331日現在の保有機はRF-4E/EJ13機。2011311日に発生した東日本大震災の災害派遣に参加。315日までに延べ25機が偵察飛行を実施。赤外線センサーの機能を活かせる早朝を中心に任務を行った。3200900頃、RF-4偵察機2機が百里基地を離陸し、福島第一原発の偵察を行った。20161225日、那覇基地に展開したRF-4E偵察機2機が離陸。空母遼寧を偵察したらしい。202039日、RF-4E偵察機3機で最後の訓練飛行を実施。326日、偵察航空隊と共に解隊された。参考:月刊JWings4,204,1011,093,175,206,20、世界の傑作機No.39、月刊航空ファン2,112,123,131,15、月刊軍事研究5,119,11

 <第501飛行隊(1975年)>:偵察航空隊隷下で、入間基地に置かれている。RF-86F偵察機、F-86F戦闘機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊軍事研究10,75、月刊JWings7,24

 <第501飛行隊(1985年)>:偵察航空隊隷下で、百里基地に置かれている。RF-4E偵察機、T-33A練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第501飛行隊(1995年)>:偵察航空隊隷下で、百里基地に置かれている。RF-4E偵察機、RF-4EJ偵察機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第501飛行隊(2005年)>:偵察航空隊隷下で、百里基地に置かれている。RF-4E偵察機、RF-4EJ偵察機、T-4練習機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第501飛行隊(2015年)>:偵察航空隊隷下で、百里基地に置かれている。RF-4ERF-4EJT-4を装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

第502重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。1944104日にティーガーBへの改編が指示されたが、大隊はクーアラントとメーメルでソ連軍に包囲されていた。11月、第3中隊は装備を第510重戦車大隊に渡し、兵員はドイツ本国に帰還。194515日、第511重戦車大隊に改称された。参考:月刊グランドパワー3,02

第502飛行隊>:航空自衛隊の飛行隊。RQ-4B無人偵察機を運用する。20221215日、上級部隊の偵察航空隊が三沢基地で新編された。この時点ではRQ-4B無人偵察機が2機しか無く、3機目が配備されたら本飛行隊が正式発足して運用部隊になる予定。参考:月刊JWings3,234,23

第503重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。19444月、再編と休養のためドイツ本国に戻った。6月、第1中隊がティーガーB(ポルシェ砲塔)12両を受領。711日、ノルマンディー戦域に投入された。720日、第3中隊は装備を第2中隊に渡し、メイィ・ル・カン演習場に移動。731日と88日、第3中隊が計14両のティーガーBを受領。811日、第3中隊の5両が鉄道で移動したが、航空攻撃を受けて貨車が全壊し、1両がひっくり返ってしまった。クレーンで回収した後パリで下車、大隊の本隊に合流するためポントワースに向かった。しかし本隊はファレーズで包囲されかかり、重装備を捨ててセーヌ川を渡って退却した。819日、第3中隊はアメリカ軍のセーヌ川橋頭堡に反撃するため第18(空軍)野戦師団の指揮下に入り、826日から攻撃を開始。827日にアメリカ軍の突破攻撃が始まり、第3中隊は北東に後退。戦車は全て失われ、第503重戦車大隊の残余兵は本部のあるリールに終結し、オランダのマーストリヒトに移動して9月末に45両のティーガーB(ヘンシェル砲塔)を受領した。1013日、ブダペストに到着、1015日に同盟を破棄しようとしていたハンガリー威圧(パンツァーファウスト作戦)のためブダケシに移動。1016日、ソルノクの橋頭堡西のアボニィ、ツェグレンに移動。1019日、東に向けて攻撃を開始したが、1021日に反撃に遭い進撃がストップ。ティサ河の橋頭堡まで後退し、月末まで防御戦を行った。1031日にナギケロスに移動、111日から南西方面に出撃し、次いで北西方向に攻撃を行った。しかし攻撃は失敗し、大隊はブダペスト周辺に後退。1218日にバラトン湖に移動、1221日(114日説あり)にフェルントヘルンハレ重戦車大隊に改称された。参考:月刊グランドパワー3,02、ティーガー重戦車パーフェクトバイブル、月刊PANZER9,12

第505重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。装備するティーガーTは肉薄攻撃を防ぐために車体周囲に鉄条網を巻き付けた車両が多い。194479日にドイツ本国に帰還。9月までにティーガーB型45両を受領した。94日、ワルシャワ北に向け出発。104日、ソ連軍のナレフ川橋頭堡に反撃。1010日、東プロイセンに向け出発。1016日、リトアニアのヴィルパリスでソ連軍攻勢に対して反撃。116日、一時的に後方に下がる。1213日のソ連軍攻勢に対し1219日から反撃するも多勢に無勢で、ケーニッヒスベルク方面に向け後退。194525日、1日で23両を損失。415日、最後のティーガーB型を処分し、大隊は解隊した。参考:月刊グランドパワー3,02、月刊PANZER1,11

第506重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。19448-9月にティーガーB型45両を受領した。また、ベルゲパンター1両とベルゲティーガー2両が配備されていた。915日から開始されたマーケットガーデン作戦に反撃するためオランダのアーネムに派遣され、924日から戦闘に加わったが、初っぱなから1両がイギリス歩兵のピアットで破壊されてしまった。910月、ドイツ西部のアーヘンで包囲されたドイツ軍部隊の救出に向かったが、失敗。12月、ティーガーT型装備の重戦車中隊を編入。12月中旬に補充を受け、ティーガーB型47両、ティーガーT型数両、ヴィルベルヴィント4両、オストヴィント1両、ベルゲティーガー1両、ベルゲパンター3両、Sd.Kfz.251ハーフトラック12両を擁する、大隊定数以上の強力な部隊となった。1216日からアルデンヌ攻勢が始まり、本大隊も1219日から進撃を開始した。1221日からバストーニュ攻略に参加。年明けまで攻撃するが陥落せず、19452月にラインラントに戻った。216日、ティーガーT型装備の重戦車中隊が転出。35日、整備中隊がアメリカ軍の襲撃を受けて8両のティーガーB型が破壊され、大隊はライン河を渡って後退。323日、第512重戦車駆逐大隊、第654重戦車駆逐大隊と共に戦闘団を形成、レマーゲン橋頭堡から攻勢に出た連合軍に反撃を行ったが、撃退された。41日、北東のヴィンターベルクに向け移動してルール包囲網の中で戦闘を行った。46日、南西のシュマレンベルクに移動し、防御戦を実施。414日、戦車を全て失っていた大隊は解隊された。参考:月刊グランドパワー3,02

第507重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。19453月にティーガーB型21両が配備され、331日からパーダーボルン付近でアメリカ軍に攻撃をかけたが、待ち伏せにあって失敗。じわじわと東に後退し、オステローデで残っていた戦車2両を他部隊に渡した。戦車が無くなってしまったので、マグデブルグで補充予定だったが受領できず、57日に漸くヘッツァー10両を補充した。58日、ソ連に捕らえられるのを避けるためチェコのアメリカ軍地区に移動。511日、チェコのドイツ軍が降伏。512日、大隊はソ連軍に降伏した。参考:月刊グランドパワー3,02、月刊PANZER9,12

第507整備中隊壊滅>:イラク戦争中の2003323日、第3軍団第31防空砲兵旅団第52防空砲兵連隊第5防空砲兵大隊第507整備中隊が、ナシリヤに迷い込み、イラク陸軍と民兵の攻撃を受けて壊滅したもの。2003220日にクウェートに派遣されたが、中隊長はその直前に替わったばかりだった。クウェート入り後、第3歩兵師団第3前方支援大隊指揮下となった。320日、ナジャフ南の兵站支援地域「ブッシュマスター」に向けて出発するよう命令が出た。ルートはクウェート北部のキャンプ・ヴァージニアから砂漠を突っ切って高速道路8号線「ルート・ブルー」に達し、一旦国道1号線「ルート・ジャクソン」に出て制圧していないナジャフを避けた後、再びルート・ブルーに戻り、サマワ南からブッシュマスターを目指すというものだったが、中隊長はずっとルート・ブルーを通り、ナジャフ経由で進撃するものと勘違いした。3201400、中隊の車両33両・兵員64名が第3前方支援大隊の最後部で出撃した。しかしパワー不足の旧式車両が多く、柔らかい砂地に足を取られて大隊に遅れをとり始めた。2100に野営地点となる攻撃位置ドーソンに到着し、3210700に出撃。1200までの5時間で35kmしか進めず、この攻撃位置ブルで6時間休憩を取った後に、80km北西の攻撃位置リザードに向けて再出撃した。ここで鈍足の旧式車両が10時間以上遅れてしまい、到着が3221600になってしまった。このため、第3前方支援大隊についていける俊足部隊を先行させ、旧式車両18両と兵員33名が中隊長に率いられて3221930に出発した。車両はM870トレーラーを牽引したM931トラック、故障したトレーラーを牽引するレッカー車、M809系貨物トラックと、HEMTTFMTVなどに追い付きようも無いものばかりだった。3両のHMMWVは非装甲型で、自衛用の武器は29丁のM16A2、4丁のMINIMI、1丁のM2重機関銃と個人用M9拳銃のみ。3230030、ルート・ブルーに達し、漸く舗装路を走り出した。0100にはルート・ジャクソンとの交差点に達するが、中隊はそのまま直進。途中ですれ違った海兵隊は、ナシリヤ前線を突破して前進する補給隊に違和感を覚えたが、陸軍の作戦と考えて警告は発しなかった。0530、ナシリヤ市街の明かりが見えたが、油田施設のものと考え、そのまま進んだ。0600、ルート・ブルーが左に曲がっている地点に到達するも、車列は直進。ナシリヤ市街に突っ込む形になった。イラク軍検問所を通り過ぎたが、アメリカ軍トラックが入ってくるとは思わなかったらしく、攻撃は無かった。0700、ルート・ブルーの左折地点と間違えて市街地のT字路を左折。再びT字路にぶつかったため右折したが、ここで間違いに気づき、車列がUターンした。しかし1両のレッカー車が燃料切れで動けなくなり、中隊の燃料トラックも予備が無く、全車両を停止させて5ガロン(18.9リットル)缶で給油を開始。ここに至ってイラク側もアメリカ軍車列に気が付き、散発的な銃撃戦が始まった。急いで給油を終えた車列はルートを逆に辿ったが、2つ目のT字路を曲がり忘れてまたもUターン。この間に車両が3グループに分かれてしまった。最後尾が漸くUターンを開始した頃、第3グループの1両が故障して動けなくなり、イラク軍の射撃が集中。乗員1名が取り残されてイラク兵に射殺された。更に1両が砂地でスタックしたが、乗員はHMMWVにピックアップされて難を逃れた。中隊長率いる第1グループの3両は猛スピードでナシリヤを突破し、海兵隊に遭遇したため救助を要請。第2グループの5両はナシリヤ市街地の南5kmでイラク陸軍のアンブッシュにかかり、たちまち3両が破壊されて包囲されたが、壊れたHMMWV周囲に10名で防御陣地を張り、負傷者5名を出したが海兵隊到着まで耐えた。このグループは中隊唯一のM2重機関銃を持っていたが、機関部に砂が詰まって撃てなかった。第3グループの10両は、第2グループの北3kmで少なくとも2両のT-55戦車を基幹とするイラク軍に捕捉された。0720、トレーラー牽引車1両が道路上のトラック(バリケードとして設置された)を避けようとして道路脇に突っ込んで行動不能となり、2名が負傷。ここにRPGをタイヤに喰らったHMMWV1両が激突、3名が死亡し、2名が捕虜(1名はジェシカ・リンチ上等兵、もう1名は後に死亡)となった。この北400mでは5トン・レッカー1台が銃撃で破壊されて1名が死亡。このレッカーに乗っていたミラー上等兵は、近くにあった迫撃砲陣地を1名で襲撃し、9名を倒したが、捕虜になった。5トン補給トラック1両がルート・ブルーとの交差点上に達したが、銃撃で横転して乗員2名が死亡した。故障したトレーラー牽引車を引きずる重機動レッカーと、トレーラー牽引車1両は何とかルート・ブルーの交差点の南まで逃げたが、ここで力尽き、重機動レッカーの1名が死亡、1名が負傷して捕虜になった。トレーラー牽引車はT-55の砲身に突き刺されて破壊され、乗員2名が死亡。海兵隊が到着した時には、破壊された10両の車両のみが残されており、10名の死体と7名の生存者(うち5名が負傷)はイラク兵に連れ去られていた。トータルの損害は、車両15両と戦死者10名、負傷者10名(うち1名は後に死亡)だった。参考:月刊軍事研究1,05

第508重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。19442月、アンツィオ上陸作戦に対する反撃のため、第653重駆逐戦車大隊(エレファント装備)の1個中隊の配属を受けた。しかし雨で路外行動ができず、スタックする車両も続出、31日に重戦闘車両による反撃作戦は中止になった。イタリア戦線から後退するとティーガーB型への改編が決まり、19453月から訓練を開始。しかし肝心の戦車が届かず、パーダーボルン戦車団からティーガーB型3両を受領したのみで、大半が歩兵としてベルリン防衛戦に参加した。参考:月刊PANZER12,119,12

第509重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。194498日、残存戦車を第501重戦車大隊に渡してパーダーボルンに移動、11両の戦車を補充されて訓練を行った。12月、配備されていた11両の戦車が第501SS重戦車大隊に引き渡され、代わりに19451月までに45両のティーガーB型を受領した。112日、ハンガリーに向け移動。115日、SS第4装甲軍団に配属。118日、ブダペスト解囲のため出撃。しかしソ連の反攻が開始され、今度は戦線の火消しの任に就いた。35日、春の目覚め作戦の前哨戦としてヴェレンツェ湖の南を目指し攻撃に出た。36日、春の目覚め作戦開始。315日、ソ連の反撃で春の目覚め作戦が失敗。321日よりバラトン湖とヴェレンツェ湖の間で防御戦に参加。325日、燃料切れのため14両のティーガーB型を爆破。41日、再編成を受け、ティーガーB型13両(うち1両は指揮戦車)、ベルゲパンター3両、オストヴィント3両、ヴィルベルヴィント2両、Sd.Kfz.7/1が3両、Sd.Kfz.25111両という編成になった。42日からソ連との戦闘に参加。45日、SS501重戦車大隊から5両のティーガーB型を受領。47日からラフニッツ河沿いの戦闘に参加。413日、北に移動し、422日からオーストリア・チェコ国境のラーで防御戦に参加。57日、後退命令によりモルダウ河沿いに移動。58日、ソ連と最後の戦闘を行い、59日、オーストリア国境に近いチェコのカプリツェでアメリカ軍に投降した。参考:月刊グランドパワー3,02

第509爆撃航空団>:アメリカ空軍B-2爆撃機実戦航空団、略号509BW。大元はB-29を運用していた第509混成航空群509CGで、ニューハンプシャー州ピーズ基地においてFB-111Aを運用する第509爆撃航空団509BWになり、1990930日に基地閉鎖に伴ってホワイトマン空軍基地に移動、第509重爆撃航空団509BW(H)に改称されてB-2A爆撃機運用(予定)部隊となった。19919月1日、第509爆撃航空団509BWに改称された。19937月、T-38A練習機を受領し、パイロットの訓練を開始。827日、第393爆撃飛行隊(B-2AT-38A)が編成された。1996116日、第394戦闘訓練飛行隊(乗員養成担当)が編成された。199816日、第325爆撃飛行隊(B-2A)が編成された。2005923日、第325爆撃飛行隊が第13爆撃飛行隊に改称された。2019110日、パールハーバー・ヒッカム統合基地にB-2A爆撃機3機で展開を開始。827日から919日、B-2A爆撃機3機でイギリスのフェアフォード空軍基地に展開。イギリス空軍F-35B戦闘機との共同運用訓練、アイスランドのケフラビーク基地に着陸してのホットピット・リフュエリングなどを行った。参考:月刊軍事研究7,15、月刊航空ファン4,1912,19

 <第509爆撃航空団(2015年)>:ホワイトマン空軍基地に置かれている。第509運用群(第13爆撃飛行隊、第393爆撃飛行隊、第394戦闘訓練飛行隊、第509運用支援中隊)、第509整備群、第509医療群、第509任務支援群からなる。参考:月刊軍事研究7,15

第510重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。19451月、第3中隊が装備を他中隊に渡してパーダーボルンに帰国。329日、第3中隊は6両のティーガーB型を受領、フリッツラール防衛戦に参加し、間も無くカッセル周辺の戦闘に参加した。417日、第3中隊は解隊され、装備は放棄された。419日、第1・第2中隊がティーガーB型を受領するためプトロス戦車訓練学校に派遣されたが、訓練用戦車の受領に留まった。参考:月刊PANZER9,12、月刊グランドパワー3,02

第511重戦車大隊>:ドイツ国防軍の重戦車大隊。第502重戦車大隊から194515日に名称変更された。同日、ケーニッヒスベルク周辺に移動。第1中隊はヘッツァー、第2中隊はY号戦車を使用して戦闘を行った。第3中隊はティーガーB型を装備する予定だったが、3月末にずれこみ、漸く8両を受領した。その後ハルツで戦闘に参加し、419日に解隊された。参考:月刊グランドパワー3,02

第521航空隊>:日本海軍航空隊。昭和18815日ないし20日頃、豊橋で創設され、第62航空戦隊に編入された。当初は銀河と彗星を装備しており、11月から銀河のみの編成となっている。昭和194月、マリアナ方面に進出。615日、銀河10機で出撃し、8機がサイパン西方のアメリカ機動部隊を攻撃したが戦果無く全機撃墜され、残り2機のうち1機のみが泊地の小型輸送船を雷撃後にグアムに着陸した。616日、グアムに着陸した1機がサイパン西方泊地を雷撃。617日、2機が出撃してサイパン東方の空母を雷撃したが、戦果無く1機が未帰還となった。618日、8機が出撃し、7機が未帰還となった。619日、マリアナ沖海戦が開始されたが、既に稼働機は底をついており、出撃したのは1機のみだった。626日、グアムから2機が出撃し、1機がアスリート飛行場を攻撃、もう1機が貨物輸送艦マーキュリーに魚雷を命中させた(不発で軽微損傷のみ)。710日に解隊され、残存兵力は新編された攻撃第401飛行隊に移った。参考:月刊丸4,13

第522航空隊>:日本海軍航空隊。昭和1931日に新編され、銀河が配備された。710日に解隊された。参考:月刊丸4,13

第524航空隊>:日本海軍航空隊。昭和19315日に新編され、銀河が配備された。710日に解隊された。参考:月刊丸4,13

第525戦闘飛行隊>:アメリカ空軍の戦闘飛行隊で、別名ブルドッグス(Bulldogs)。基地ではちゃんとイングリッシュ・ブルドッグのフィドーを飼っている。元は199241日に解隊された第525戦術戦闘飛行隊ブルドッグスで、20071029日に第3航空団隷下のF-22A実戦飛行隊としてエルメンドルフ−リチャードソン統合基地で再編された。2016125-26日、嘉手納基地にF-22A戦闘機14機を展開した。216-21日、F-22A戦闘機2機がシンガポールエアショー2016に参加。217-19日、嘉手納基地のF-22A戦闘機のうち4機が韓国の烏山基地に展開。217日には烏山基地上空で韓国空軍F-15K戦闘機、在韓米軍第51戦闘航空団第36戦闘飛行隊F-16C戦闘機と編隊飛行を行った。224日から32日、嘉手納基地に展開したF-22A戦闘機14機が帰国。430日までフォール・イーグル2016に参加。1025日、イスラム国爆撃作戦のためUAEのアル・ダフラ基地に第525遠征戦闘飛行隊として派遣されているF-22A戦闘機2機がペルシャ湾でCVN-69ドワイト・D・アイゼンハワー空母打撃群との統合防空演習に参加。2018530日と68日、F-22A戦闘機10機と4機で嘉手納基地に展開し、TSPによる1ヶ月間の暫定配備を開始した。73日と15日、嘉手納基地に暫定配備されていたF-22A戦闘機が離陸し、エルメンドルフーリチャードソン統合基地へと帰国していった。2022114-5日、F-22A戦闘機計8機で嘉手納基地に飛来し、暫定配備を開始した。参考:月刊JWings12,129,155,'162,'23、月刊航空ファン4,165,161,178,1810,186,19

第552航空管制航空団(2013年)>:第12航空軍隷下のE-3AWACS部隊で、司令部はオクラホマ州ティンカーにある。隷下に第552作戦群、第552整備群、第552航空管制群を置く。参考:月刊軍事研究7,13

第552航空隊>:日本海軍航空隊。昭和181226日、ニューブリテン島グロスター岬に上陸したアメリカ軍を爆撃するため、九九式艦爆12機で第582航空隊九九式艦爆13機と共に出撃。両隊合わせて13機の未帰還機を出した。1227日、九九式艦爆8機で出撃し、第582航空隊九九式艦爆9機とニューブリテン島マーカス岬の敵陣地と岬沖の魚雷艇2隻を爆撃した。1機が未帰還となっている。参考:月刊丸3,'18別冊

第569陸上技術基地使用済み核燃料事故>:19822月、ロシア海軍北洋艦隊原潜の使用済み核燃料保管庫だった第569陸上技術基地のプール(使用済み核燃料棒7000本収容)の内張スチールが腐蝕し、冷却水漏れが発生した。毎時15ミリシーベルトの放射線を発する汚染水が1日150リットルほど漏れ続けたため、小麦粉をプールに投入して漏洩を防止しようとしたが失敗。次善策を考えるうちに漏れが酷くなり、9月には毎時50ミリシーベルトの汚染水が一日30-40トンも流出、周辺の土地やアンドレエフ湾を汚染し始めた。北洋艦隊は専門家14名と将兵からなる事故処理班を編成して漏洩防止措置にあたったが、ほぼ手作業だったため1989年までかかり、冷却水不足から燃料棒も破損、再臨界事故まで発生し、燃料棒のかけらを手で拾い上げるなど無茶な作業をした作業員1500名以上が50ミリシーベルト以上被曝して十数名が死亡した。参考:月刊世界の艦船6,11

第582航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和17111日に第2航空隊から改称された。定数は艦戦36機、艦爆24機である。1111日から14日までガダルカナル島輸送船の護衛に参加。以降はブナ上空の防空任務に就いた。昭和181月からはラエ船団の護衛を実施。2月はブイン・ムンダに展開してケ号作戦(ガダルカナル島撤退作戦)に参加し、21日に零戦21機と艦爆15機で出撃して零戦2機と艦爆5機を失った。210日、ガダルカナル島北部で座礁した伊1潜水艦の内部にある機密書類を始末するため、零戦14機と艦爆8機で出撃し、艦橋付近に爆弾1発を命中させた。4月からい号作戦に参加、艦戦延べ58機、艦爆18機が出撃した。418日、山本連合艦隊司令長官機撃墜を受けて艦爆6機により墜落機の捜索を実施。5月以降はガダルカナル島上空での空戦を実施し、ルッセル上空で28機、ブイン上空で17機、ルンガ沖で4機を撃墜した。67日からソ作戦に参加。630日のアメリカ軍レンドバ島上陸を受けて反撃任務を実施。81日、艦爆のみの航空隊に改編されることになり、戦闘機パイロットは第201航空隊や第204航空隊に転じた。1015日、九九式艦爆15機で出撃し、ニューギニアのオロ湾にある敵艦船を爆撃したが、14機が未帰還になった。10月末から第26航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。1226日、ニューブリテン島グロスター岬に上陸したアメリカ軍を爆撃するため、九九式艦爆13機で第552航空隊九九式艦爆12機と共に出撃。両隊合わせて13機の未帰還機を出した。1227日、九九式艦爆9機で出撃し、第552航空隊九九式艦爆8機とニューブリテン島マーカス岬の敵陣地と岬沖の魚雷艇2隻を爆撃した。3機が未帰還となっている。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15、月刊丸3,'18別冊、月刊航空ファン11,18

第586戦闘機連隊>:ソ連空軍の戦闘機部隊で、1941年秋に編成された。スターリンの命令により、構成員は全て女性とされ、パイロットだけでなく地上整備員や通信員も女性で編成されている。19425月中旬からサラトフ市郊外の飛行場に実戦配備され、夜間防空を実施。9月、Ju88爆撃機1機を撃墜して女性パイロット初の撃墜を記録した。参考:月刊JWings6,09

第588夜間爆撃機隊>:ソ連空軍の夜間爆撃機部隊で、1941年秋に編成された。第586戦闘機連隊同様の女性部隊で、Po-2爆撃機による夜間爆撃を主任務としており、ドイツ国防軍には魔女飛行隊というニックネームを付けられた。参考:月刊JWings6,09

第601空中騎兵旅団>:台湾軍の特殊部隊で、航特指揮部の隷下にある。アメリカ陸軍第101空挺師団がモデルで、首都防衛を主任務とする最精鋭部隊である。本部中隊、偵察ヘリ大隊、攻撃ヘリ大隊、2個突撃ヘリ大隊、特戦大隊(3個特戦中隊及び1個重火器中隊)、支援大隊、整備大隊から構成され、平時兵力は2100名。OH-58D偵察ヘリ16機、AH-1W攻撃ヘリ25機、UH-1H多用途ヘリ42機を擁しており、攻撃ヘリはAH-64Eに更新中。20153月末、桃園基地を訪れた女優が最高機密とされるコクピットの機器を撮影した写真数枚をSNSに掲載し、地検が捜査に乗り出す事態に発展、国防省が辞任を申し出る事態(総統が慰留した)となった。参考:月刊軍事研究4,07、朝雲

第601航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和19215日の改編で空母と飛行隊を別々に運用することになり、第1航空戦隊の飛行隊をベースとして310日に新編したものである。定数は零戦81機、彗星81機、天山54機、艦上偵察機9機で、第1航空戦隊に付属された。搭乗員は昭和1812月中旬から岩国に集結して訓練にあたっており、昭和192月に鹿屋−高雄−三亜−サイゴンを経由して航空燃料の豊富なシンガポールのセンバワン飛行場に移ることとなった。27日に高雄から三亜に向かう途中で雲に視界を阻まれ、第3艦隊司令部付艦爆隊長の彗星が僚機に接触され両機とも墜落した。2月中旬にセンバワン飛行場に到着すると、飛行時間200時間前後のパイロットは空母搭乗最低レベルの500時間を目指して陸上訓練に入った。4月、リンガ泊地に大鳳が入港すると、発着艦訓練を開始したが、飛行時間は漸く300時間くらいで、着艦訓練時に飛行甲板手前で失速して墜落する機が続出、空母後方で待機していたトンボ釣りの駆逐艦が逃げ出すほどだった。512日、リンガ泊地での訓練を終えた。515日、タウイタウイ泊地に集結。ここで空母に搭載されての洋上訓練を行う筈だったが、潜水艦が遊弋しているため外洋に出られず、発艦に合成風速の向かい風が必要な彗星は飛ぶことすらできなくなってしまった。613日、あ号作戦のため空母に搭載されてタウイタウイを出撃。4月にリンガ泊地で訓練に入った時からタウイタウイ出撃までに訓練や対潜哨戒で定数225機のうち33機を失い、搭乗員51名が死亡している。619日のマリアナ海戦で出撃。第1次攻撃隊として零戦五二型48機、彗星53機、天山27機が発進したが、護衛戦闘機の迎撃と対空砲火により零戦五二型32機、彗星41機、天山23機を撃墜されてしまった。第2次攻撃隊は艦戦4機、爆装戦闘機10機、艦攻4機で出撃したが、会敵できず、爆装戦闘機8機と艦攻1機が未帰還になった。第601航空隊司令兼大鳳飛行長の入佐俊家中佐は大鳳がガソリン漏れから大爆発を起こした時に飛行指揮所で戦死している。620日、アメリカ艦上機迎撃のため8機が出撃し、第652航空隊と共に15機を撃墜したが、戦闘後は夜間の海上への不時着水となった。戦闘終結時の残機は零戦4機、艦爆2機、艦攻1機のみだった。710日、第1航空戦隊に編入された。810日、第3艦隊直属となり、天城と雲龍に搭載される予定とされ、戦闘161飛行隊(艦戦48機)、戦闘162飛行隊(爆装戦闘機48機)、攻撃161飛行隊(艦爆隊)、攻撃262飛行隊(艦攻隊)、偵察61飛行隊を隷下に置き、大分基地で訓練を行った。10月、捷一号作戦が発動され、戦闘機隊が第3航空戦隊と共に出撃した。1024日、艦戦12機が出撃してアメリカ機動部隊攻撃隊の援護に就いた。1025日、第3航空戦隊の攻撃に現れたアメリカ軍機の迎撃のため8機が出撃し、敵12機を撃墜したが、母艦が全て沈められたため海上に不時着水し、駆逐艦に救出された。その駆逐艦もアメリカ艦隊の砲撃を受けて沈没し、戦闘機隊の乗員と航空機を全て失ってしまった。1115日に再編が行われ、第1航空戦隊隷下に再建され、定数は艦戦24機、艦爆12機、艦攻12機とされ、訓練に入った。昭和20210日、第3航空艦隊隷下となり、戦闘310飛行隊(零戦48機)、攻撃1飛行隊(艦爆48機)、攻撃254飛行隊(艦攻48機)を隷下に置いた。214日、硫黄島防衛のため香取基地への移動が命じられた。216日、霞ヶ浦上空で戦闘310飛行隊20機がF6Fと戦闘になり、4機を失った。217日、零戦7機により霞ヶ浦上空でアメリカ艦爆を攻撃し、6機を撃墜した。221日、直掩戦闘機12機及び第2御盾隊20機が出撃し、CVE-95ビスマルク・シーを撃沈、CV-3サラトガを大破させた。3月、攻撃254飛行隊が転出し、隷下部隊は戦闘308飛行隊(零戦48機)と戦闘402飛行隊(紫電48機)になった。3月下旬、沖縄戦に備えて九州への移動が命じられた。41日、零戦38機、紫電8機、彗星18機が第1国分基地への展開を終了。43日、零戦32機と紫電8機で出撃し、喜界島上空で16機(不確実5機含む)を撃墜、8機を失った。彗星も出撃したが、空母を発見できなかった。46日から菊水1号作戦に参加、特攻機の前路掃討を実施した。416日、零戦26機と紫電4機が出撃し、喜界島上空で4機を撃墜、4機を失った。爆装零戦4機も出撃し、アメリカ機動部隊を攻撃したが、全機未帰還となった。菊水1号作戦における417日までの損害は戦闘機26機、艦爆23機に達したため、百里原基地で再建に入った。6月、稼働機が零戦100機、彗星70機に回復、P-51の迎撃任務を行った。7月上旬、戦闘402飛行隊が筑波航空隊に転出し、攻撃3飛行隊(艦爆装備)が転入した。戦闘308飛行隊(50機)は奈良県の大和基地に、戦闘310飛行隊は三重県の鈴鹿基地に進出し、本土決戦に備えた。攻撃1飛行隊(100機)は百里原基地、攻撃3飛行隊(50機)は名古屋に展開したが、そのまま終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊世界の艦船9,14、月刊航空ファン2,20

第601飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の早期警戒飛行隊。198645日、E-2C早期警戒機8機を配備する早期警戒飛行隊として警戒航空隊隷下に新編された。1999325日、E-2Cを運用する第1飛行班とE-767を運用する第2飛行班に分かれ、前者は三沢基地、後者は浜松基地に展開した。20024月、第2飛行班がコープ・ノース・グアム02に参加。2005331日に解隊され、飛行警戒管制隊(浜松のE-767部隊)と飛行警戒監視隊(三沢のE-2C部隊)に分かれた。2014420日、E-2C運用部隊として飛行警戒監視群隷下に三沢基地で再編された。2016210-26日、コープノース・グアム16に参加。201715日、初飛行訓練を実施。130日から319日、コープノース・グアム2017に参加。2019329日、E-2D初号機が配備された。2020315日、河野防衛大臣が部隊とE-2C/D早期警戒機を視察した。202191日、秋田救難隊と青森県小川原湖で夏期保命訓練に参加。513日、E-2D早期警戒機2機で三沢基地日米共同エレファント・ウォークに参加。参考:月刊JWings7,057,145,166,2012,'218,'22、月刊軍事研究12,14、朝雲、月刊航空ファン1,155,172,18

 <第601飛行隊(1995年)>:警戒航空隊隷下で、三沢基地に置かれている。E-2C早期警戒機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第601飛行隊(2005年)>:警戒航空隊隷下で、第1飛行班(三沢基地。E-2C早期警戒機)と第2飛行班(浜松基地。E-767早期警戒管制機)からなる。参考:月刊JWings7,24

 <第601飛行隊(2015年)>:警戒航空隊飛行警戒監視群隷下で、三沢基地に置かれている。E-2Cを装備する。参考:月刊航空ファン4,16

 <第601飛行隊(2020年)>:警戒航空団飛行警戒監視群隷下で、三沢基地にある。E-2C/Dを装備する。参考:月刊JWings6,20

第602飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の早期警戒管制飛行隊。2014420日、飛行警戒管制隊を改編して警戒航空隊隷下に新編された。ホームベースは浜松基地で、E-767を運用する。617-28日、レッドフラッグ・アラスカ14-3演習にE-767早期警戒管制機1機で参加。2020326日、親部隊の改編に伴い、警戒航空団飛行警戒管制群の隷下に入った。2021611-26日、レッドフラッグ・アラスカ21-2E-767早期警戒管制機1機で参加。2023529日、防衛事務次官がE-767に搭乗し、訓練を視察した。参考:月刊JWings7,149,'21、警戒航空団ホームページ、朝雲

 <第602飛行隊(2015年)>:警戒航空隊隷下で、浜松基地に置かれている。E-767を装備する。参考:月刊航空ファン4,16

 <第602飛行隊(2020年)>:警戒航空団飛行警戒管制群隷下で、浜松基地にある。E-767を装備する。参考:月刊JWings6,20

第603空中騎兵旅団>:台湾の特殊部隊で、航特指揮部隷下にあり、航空訓練指揮部を中核として戦時に動員される。偵察・攻撃ヘリ大隊、2個突撃ヘリ大隊、特戦大隊、訓練ヘリ大隊から構成されており、平時の兵力は1700名、戦時の兵力は2300名。OH-58D7機、AH-1W13機、UH-1H39機、TH-67訓練ヘリ30機を装備する。参考:月刊軍事研究4,07

第603飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の早期警戒飛行隊。中国による尖閣諸島接続水域侵入・領海侵犯が増加し、20131213日には領空侵犯まで発生、飛行警戒監視隊のE-2Cを那覇基地に展開して連日任務飛行させる事態となり、専属飛行隊が必要となったため、2014420日、飛行警戒監視群隷下に新編された。ホームベースは那覇基地だが、那覇基地の整備予算が2014年度に計上されたばかりで、施設の拡充工事竣工は2015年度末となる予定。隊員も定数は150名だが、新編時には60名くらいだった。使用機はE-2Cで、飛行警戒監視隊に配備されていた13機のうち4機くらいを運用する。E-2Cも老朽化が進んでいるため、E-2Dを導入する予定である。20187171738頃、那覇基地で着陸滑走中のE-2Cの前輪と左主輪が損傷して滑走路上で停止した。那覇空港滑走路が1919まで閉鎖され、民間航空機に行き先変更などの影響が出ている。1129日、屋久島沖で墜落した第21特殊戦飛行隊CV-22B特殊戦機の捜索活動に参加。1543E-2C早期警戒機1機で捜索救難活動を実施。2022524日、来日したオーストラリア空軍副本部長メレディス少将が部隊を視察した。参考:月刊JWings7,14MAMOR vol.90、朝雲、月刊航空ファン1,1510,18

 <第603飛行隊(2015年)>:警戒航空隊飛行警戒監視群隷下で、那覇基地に置かれている。E-2Cを装備する。参考:航空自衛隊パーフェクトガイド2015、月刊航空ファン4,16

 <第603飛行隊(2020年)>:警戒航空団飛行警戒監視群隷下で、那覇基地にある。E-2Cを装備する。参考:月刊JWings6,20

第614対空大隊(自動車化)>:ドイツ陸軍の自走対空砲部隊。3個中隊編成で、各中隊は本部(第1・第3中隊はT号戦車B型1両、第2中隊はT号戦車A型1両)、第1・第2小隊(T号対空戦車4両、T号弾薬運搬車4両)、第3小隊(3トントラック2両、4連装2cmFlak38が2門)からなる。19415月に編成された。T号対空戦車24両を受領し、8月末に東部戦線に移動、ドニエプル川の橋梁防御にあたった。1942年、ブラウ作戦に参加。スターリングラード周囲で戦闘に参加し、1943年初めまでに全車が破壊され、部隊は壊滅した。参考:月刊グランドパワー10,99

第617中隊>:イギリス空軍特別編成爆撃飛行隊。ダム攻撃作戦チャスタイズを行う飛行隊として、1943326日に第5航空群隷下に新編された。部隊エンブレムは決壊したダムにApres moi, le deluge(大洪水よ朕に続け。ルイ15世の言葉)の文字である。516日に19機で出撃し、8機を失いながらもアップキープ爆弾によるダム破壊作戦を成功させてダム・バスターズの愛称が付けられ、隊長にはビクトリア・クロス勲章が授与された。その後は爆撃先導任務及び精密爆撃任務に就き、狙撃中隊という愛称も冠された。自前でP-51やモスキートも運用している。トールボーイが実用化されると早速それを使用した爆撃任務に就き、194468日にソミュールの鉄道用トンネルを破壊。以降も戦艦ティルピッツを撃沈するなどの戦果を挙げた。更にグランドスラムの運用も行い、第2次大戦終結後も部隊は残された。19469月、リンカーンB.MkU爆撃機に機種転換した。19521月、キャンベラB.Mk2爆撃機に機種転換した。195512月、キャンベラB.Mk6爆撃機に機種転換した。19585月、ヴァルカンB.Mk1/Mk1A爆撃機に機種転換した。19619月、ヴァルカンB.Mk1のみを装備するようになった。1970年代のイギリス空軍再編成で他の中隊番号は100番台に改正されたが、本中隊だけはそのままの名称が付けられている。19831月、トーネードGR.1攻撃機に機種転換した。湾岸戦争ではトーネードにより爆撃任務に就いた。19944月、トーネードGR.Mk1B攻撃機に機種転換した。2002年、トーネードGR.Mk4に機種転換した。201441日(328日?)に一旦閉隊された。イギリス初のF-35B飛行隊としてF-35BK-3F-35Bロット8を4機、F-35Bロット9を6機装備し、2016年に復活予定だったが遅れ、2018418日に再編された。ニックネームはダムバスターズ(Dambusters)。機材と人員は全てアメリカのビューフォート海兵航空基地に展開していた。66日、F-35B戦闘機4機がビューフォート海兵航空基地からイギリスのマーラム基地に到着した。途中でイギリス空軍ボイジャーKC.2空中給油機から空中給油を受けている。1127日、ポイントブランク演習にF-35B戦闘機2機で参加。2019110日、IOCを達成したとイギリス国防相が発表した。ただし陸上基地部隊なので、クイーン・エリザベス級空母からは任務を行えない。521日、F-35B戦闘機6機でマーラム航空基地を出撃し、522日にキプロスのアクロチリ基地に展開、海外展開演習ライトニング・ドーンを開始した。6月、キプロスのアクロチリ基地から対イスラム国シェーダー作戦に参加し、F-35B戦闘機2機がタイフーンFGR.4戦闘機と共にイラク・シリア上空の哨戒を実施、初の実任務を行った。AIM-120CとペイブウェイWを搭載していたが、兵装は使用していない。625日、地中海東部で多国間共同訓練トライ・ライトニングに参加。アクロティリ基地から出撃し、UAEアル・ダフラ基地からのアメリカ空軍F-35A、ネバティム基地からのイスラエル空軍F-35Iと共に、ブルー・フォースを構成し、様々な機種のレッド・フォース役を相手に、防勢航空戦の訓練を行った。71日、ライトニング・ドーン演習を終了してF-35B戦闘機6機でアクロティリ基地を離陸。72日、F-35B戦闘機2機がイタリアのアメンドーラ基地に立ち寄り、アメリカ空軍F-35A戦闘機及びイタリア空軍第32航空団F-35A戦闘機と共同訓練を実施。その後イギリスに戻った。2020127日から214日、レッドフラッグ20-1演習にF-35B戦闘機5機で参加。69日、実戦部隊として初めてF-35B戦闘機4機で空母R08クイーン・エリザベス艦上に展開。623日、クイーン・エリザベス艦上での安全な運用が可能であると確認された。626日、イギリス空軍ボイジャー空中給油機と空中給油訓練を実施。7月、北海上空で、ボイジャー空中給油機と共に、アメリカ空軍F-15戦闘機、オランダ空軍第332飛行隊F-35A戦闘機、ベルギー空軍F-16戦闘機と共同訓練を実施。9月、R08クイーン・エリザベスにF-35B戦闘機8機で展開し、アメリカ海兵隊VMFA-211所属F-35B戦闘機6機と共に、空母打撃群編成に備えた事前訓練に参加。20215月、R08クイーン・エリザベスにF-35B戦闘機8機で展開し、インド太平洋方面に向かった。6月、R08クイーン・エリザベス搭載F-35B戦闘機がイタリアで同搭載VMFA-211所属F-35B戦闘機、イスラエル空軍F-35I、イタリア空軍との合同演習ファルコン・ストライク2021に、イスラエル南部で同搭載VMFA-211所属F-35B戦闘機、イギリス空軍ボイジャー空中給油輸送機、イスラエル空軍F-35I戦闘機とのトライ・ライトニング演習に参加した。68日、R08クイーン・エリザベス搭載F-35B戦闘機が地中海のイタリア領パンテレーリア島でイタリア空軍との合同急速燃料補給訓練を実施。イタリア空軍C-130J輸送機が燃料を積んで島の飛行場に展開し、F-35Bが着陸して燃料補給を行った。618日、R08クイーン・エリザベス搭載F-35B戦闘機2機がイスラム国に対するISR任務を行い、F-35B戦闘機による初実戦参加を記録した。102-3日、R08クイーン・エリザベス搭載F-35B戦闘機が沖縄南西海空域で日米英蘭加新共同訓練に参加し、アメリカ海軍F/A-18E戦闘機から初の空中給油を受けた。1117日、R08クイーン・エリザベス搭載F-35B戦闘機(F-35BK-18らしい)が地中海で発艦直後に海に落ちた。発艦滑走時の加速が足りなかったとみられ、パイロットは無事だが、機体は海没し、128日にサルベージ船で回収している。202354-19日、ノーザン・エッジ23-1に参加。202489日、イギリス空軍が第617飛行隊F-35B戦闘機をIAPのためアイスランドのキエブラヴィーク基地に派遣したと発表した。参考:歴史群像8,08、月刊JWings2,148,184,198,199,195,209,'2010,'2012,'207,'219,'211,'222,'229,'2311,'24、月刊軍事研究9,16、月刊航空ファン9,187,183,199,19

第631航空隊>:日本海軍航空隊で、昭和191215日に新編された晴嵐部隊である。配備機は瑞雲2機と晴嵐2機だったが、パイロットだけで20名を擁していたので飛行機が足らず、第634航空隊から瑞雲2機を回してもらって間に合わせた。1220日、鹿島基地に移動し、訓練を開始。昭和20113日、愛知航空機製作所に晴嵐1機を受領しに行ったところ、同日に発生した三河地震のため格納庫の分厚い扉が倒れていた。120日、第6艦隊隷下となり、潜水艦との共同訓練に便利な呉基地に移動した。この頃配備されていた晴嵐は5機で、希望の15機の3分の1しかなく、瑞雲6機を配備して間に合わせていた。同日1000、瑞雲1機が通信訓練終了後の着水前飛行に失敗して第4旋回地点付近の呉女学校校庭に墜落、乗員2名が即死した。123日、格納庫で120日の事故で死亡した2名の海軍葬を実施。その後、隊司令の有泉大佐から潜水艦艦載機での勤務経験がある高橋少尉(経験者は他に1名のみだった)に対し、パナマ運河攻撃への参加予定が告げられた。21日、配備機は晴嵐6機と瑞雲5機で、1kg演習爆弾による緩降下爆撃訓練を連日行っていた。120日の事故を受けて飛行長福永少佐は基地を瀬戸内海にある屋代島和佐海岸に移したが、砂浜での整備作業が困難なため、搭乗員は理由を付けては呉基地を拠点に訓練を行っていた。3月に入ると隊員の間でパナマ運河攻撃に参加するという噂が広まった。戦局の悪化で昼間の訓練飛行が危険になったため、薄暮飛行に切り替えつつ夜間飛行訓練に最適な飛行区域を探したが、呉基地の空域は狭すぎて危険であり、代替空域も見つからず、結局夜間訓練は中止となった。319日早朝、アメリカ艦上機が呉に向かっているとの報を受け、呉基地の晴嵐を和佐海岸に移し、砂浜に引き上げて偽装した。0800頃からアメリカ艦上機数百機が呉軍港を空襲、呉基地も機銃掃射を受けて兵舎や格納庫が焼失したり穴だらけになったりしたが、晴嵐は待避の甲斐あって無傷だった。4月、晴嵐の配備機数は12機に増えたが、相変わらず和佐基地では運用が困難で、呉基地も復旧が進まないため、完成したばかりで部隊が配備されていなかった福山基地に移転した。410日、晴嵐10機で泊地攻撃訓練を実施。第2小隊1番機が帰投時の着水に失敗して転覆し、前席パイロットが死亡した。4250900、准士官以上の隊員に対してパナマ運河攻撃作戦の説明会が開かれた。高橋少尉は暗夜に全機集合して編隊を組むのが不可能、カリブ海に進出する際に超低空でコロンビアの上空を突破するため発見される可能性が高いといった問題点を指摘、検討を要する事項となった。同日から薄暮−夜間飛行訓練を開始。51日、航空廠から来た職工が晴嵐の爆弾投下器に細工をしていることに整備員の上等兵が気付き、何をしているのか聞いたところ、爆弾が機体から離れないようにせよとの命令で工事をしているとのことだった。上等兵はこの件を搭乗員が知っているのか訝り、高橋少尉に相談。パナマ運河攻撃は特攻ではない、それ以上の戦果を挙げるよう猛訓練せよと言っておきながら、密かに特攻工作をしていることに怒りを覚えた高橋少尉は飛行長に対して厳重に抗議し、搭乗員全員にこの事が知らされた。飛行長は夜間飛行訓練に姿を見せず、訓練に長期を要する晴嵐は特攻に不向きだとする上層部の中でただ一人特攻を主張していたため、搭乗員の間では航空加俸泥棒という陰口まで叩かれていたらしい。520日、パナマ運河攻撃時の乗艦名簿が発表された。伊400は大連、伊401は呉、伊13と伊14は鎮海の燃料をかき集めて6月初めに七尾湾に集結する予定とされ、第631航空隊も大部分が舞鶴近くの誉田を経由して七尾湾内の穴水基地に移動した。七尾湾には舞鶴工廠が製作したガトゥーン閘門の実物大模型を浮かべ、10機編隊の緩降下爆撃訓練を連日実施。特攻ということで雷撃訓練は全く行われなくなった。613日、晴嵐1機を名古屋から七尾に空輸する途中、悪天候に遭遇して石川県鳳郡三井村の山中に墜落、乗員2名が死亡した。619日、富山湾上空で晴嵐3機による夜間集合訓練中に1機が行方不明となった。620日、パナマ運河攻撃作戦中止を受け、伊13と伊14が第631航空隊の搭乗員、整備員、機体を残し舞鶴に向かった。710日、伊13と伊14に搭乗する予定だった搭乗員と整備員が福山の原隊に復帰。伊400と伊401の晴嵐要員は七尾湾で引き続き嵐作戦の訓練を行っていた。723日、嵐作戦参加要員が伊400と伊401に搭載されて大湊を出港。参考:月刊丸6,01

第634航空隊>:日本海軍航空隊で、航空戦艦伊勢・日向からなる第4航空戦隊隷下の航空部隊である。昭和194月末までに乗員は基礎訓練を終了し、51日に岩国基地で正式発足した。隊司令は天谷孝久中佐。定数は彗星24機(常用18機・予備6機)、瑞雲(常用18機・予備6機)で、日向に彗星14機と瑞雲8機、伊勢に彗星8機と瑞雲14機を搭載することになり、彗星搭乗員は岩国で、瑞雲搭乗員は呉基地で訓練を実施、623日からカタパルト射出訓練、629日から伊勢・日向からの発艦・射爆訓練に入った。ただ機体の供給が追いつかず、6月末の可動数は瑞雲16機、九九式艦爆10機、彗星6機だった。710日、隼鷹搭載機を追加。810日、龍鳳の搭載機を追加、艦爆24機及び水上爆撃機(後に艦攻)24機を定数とすることになり、また戦闘163飛行隊(艦戦48機)及び戦闘167飛行隊(艦戦48機)が追加された。824日、隼鷹で初の着艦訓練を実施。1012日、台湾沖航空戦に参加するため第2航空艦隊に編入され、艦上機は鹿屋基地、水上機は指宿基地に進出。1013-14日にアメリカ機動部隊を攻撃し、台中基地に移動。1023日までに主力はルソン島のクラーク基地に移動した。1024日、ルソン島東方に出撃したが、アメリカ戦闘機の迎撃に遭い、多数を失った。その後も戦闘任務に従事したが、本来の用途である艦上航空兵力として使われることは無く、陸上基地から出撃を続け、114日には戦闘機隊の士官搭乗員全員が負傷する事態に陥り、艦爆・水上爆撃機部隊も損耗が激しく、昭和2018日に水偵部隊に改編されて第1航空艦隊隷下となり、台湾東港に移った。昭和206月、第5航空艦隊隷下となり、終戦時は北九州の玄海基地に配備されていた。参考:日本海軍戦闘機隊、月刊丸7,14

第652航空隊>:日本海軍航空隊で、第2航空戦隊所属の空母航空隊を再編して昭和19310日に新編され、引き続き第2航空戦隊に配属された。定数は艦戦81機、艦爆36機、艦攻27機だが、32日に空母航空隊が内地に引き揚げる際に航空機を全てトラックに置いてきており、乗員は3月末から岩国・佐伯・大分基地で錬成に入ったものの、航空機は41日になっても零戦二一型30機、零戦五二型13機、九九式艦爆4機しか集まらなかった。零戦二一型は戦闘爆撃機として使用する訓練を行ったが、実戦経験の無い艦攻・艦爆操縦者を転用し、ダイブブレーキの無い機体で30-40度の急降下爆撃を行ったため、離着陸訓練を含めて事故が頻発した。5月に入って零戦二一型27機、零戦五二型53機など135機が配備され、511日に佐伯湾を出港し、516日にタウイタウイに進出、マリアナ決戦に備えたが、アメリカ潜水艦が付近に出没するため、艦上での訓練を行えずに1ヶ月が経過した。615日、あ号作戦が発令され、マリアナ海戦に参加。619日、第1次攻撃隊が艦戦15機、爆装戦闘機25機、艦攻7機で出撃したが、途中で目標転換を命じられて混乱し、艦戦2機、爆戦4機、天山1機を空戦で失い、敵艦を見ないまま帰投した。次いで第2次攻撃隊第1群の零戦6機と彗星9機が出撃し、ロタ島西の空母群を攻撃したが、零戦1機と彗星5機を撃墜され、戦果は挙げられなかった。第2群は零戦20機、九九式艦爆27機、天山2機で出撃したが、敵部隊を発見できず、グアム島に着陸しようとしたところをF6F戦闘機30機に襲撃され、6機を撃墜したものの、零戦1機、九九式艦爆7機、天山1機しか残らなかった。残存兵力は艦戦19機、爆戦19機、天山8機となり、再出撃の機会を覗っていたが、夕方にアメリカ艦上機の空襲を受けた。零戦19機と爆戦7機で迎撃にあたり、F6F戦闘機2機(全て不確実)とTBF9機(うち不確実2機)を撃墜したが、11機が未帰還となり、3機は不時着水した。623日に瀬戸内海に帰投した時、可動機数は艦戦11機、艦爆5機、天山1機にまで減少していた。710日に解隊され、パイロットは大部分が第653航空隊に移った。参考:日本海軍戦闘機隊

第653航空隊>:日本海軍航空隊。昭和19215日、第3航空戦隊の空母航空隊を再編して岩国基地で創設された。定数は艦戦63機と艦攻27機である。九九式艦爆は旧式で戦力にならず、彗星は発艦滑走距離が長いため第3航空戦隊の空母では使えないため、艦戦のうち45機の零戦二一型を戦爆に改造した。511日、第3航空戦隊の空母に搭乗し、瀬戸内海から出撃。516日、タウイタウイに進出。615日、あ号作戦参加のため出撃。618日、マリアナ沖海戦で第1次攻撃隊として戦爆45機と艦戦14機が出撃したが、敵の迎撃を受けて天山2機、戦爆32機、艦戦8機が未帰還になった。残存機で第2次攻撃隊を編成したものの、他の航空隊が損傷や燃料不足で次々と第3航空戦隊の空母に緊急着艦してきたため、第2次攻撃は中止された。619日、アメリカ艦上機の攻撃を受けたため、第652航空隊と共同で20機を撃墜したが、こちらの損害も大きく、戦闘終了時の稼働機は艦戦2機、戦爆3機、艦攻6機の11機になってしまった。本土に帰投した後、戦闘164飛行隊(定数48機)、戦闘165飛行隊(定数零戦48機)、戦闘166飛行隊(定数爆装零戦五二型48機)、攻撃263飛行隊(定数艦攻48機)を隷下に置き、大分基地で訓練に入ったが、錬成が激しすぎて事故殉職が続出した。1012日、アメリカ機動部隊が台湾に来襲したため、第2航空艦隊に編入されて出撃した。しかし台湾沖航空戦で約半数の機体を失い、ルソン島バンバン基地に移った。一部のベテランパイロットは本土に残り、1020日に空母に搭乗して瀬戸内海を出撃。1024日、比島沖海戦に参加したが損害を与えられず、ルソン島に移動した。1026日、フィリピンに残存する部隊はルソン島バンバン基地に集結し、10月末にセブ島に移動、迎撃任務やタクロバン攻撃任務、船団上空哨戒任務に就いた。113日、最後の戦闘機隊士官搭乗員がタクロバン攻撃で戦死した。数日後に残存搭乗員は大分基地に引き揚げた。11月上旬、台湾経由でフィリピンに移動。1115日に解隊された。参考:日本海軍戦闘機隊

第701航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、美幌航空隊から改称されてテニアンで新編された。11月中旬、ルオットに展開して索敵哨戒を実施。1128日、ラバウルへの進出を下命された。121日、九六式陸攻二三型36機でトラック環礁を経由しブナカナウ(ラバウル西)飛行場に到着し、ラバウル航空戦に加わった。昭和18129日、レンネル島沖海戦に参加。夜間雷撃には飛行長の檜垣襄治少佐が自ら出撃し、列機を誘導するため編隊灯を点けたまま敵艦隊に突入、被弾したためそのまま敵艦に突っ込み戦死した。217日、サンクリストバル島付近で大型輸送艦8隻と護衛の駆逐艦が発見されたため、1230-1240に九六式陸攻二三型11機で出撃し、薄暮攻撃に向かった。1745にサンクリストバル島南で雷撃をかけ、駆逐艦2隻と輸送船1隻の撃沈を報じたが、実際にはアメリカ側に損害は無く、指揮官機含む5機が未帰還となった。311日、九六式陸攻二三型5機で夜間爆撃を実施。315日に解隊され、隊員と機材は第705航空隊(ラバウル)及び第755航空隊(マーシャル諸島マロエラップ環礁タロア飛行場。6機)に編入され、3機のみ内地に戻って豊橋空などに転出している。その後再編されて艦爆部隊となり、攻撃第103飛行隊と攻撃第105飛行隊を隷下に置いた。317日夜、アメリカ第58任務部隊に対する特攻が第5航空艦隊司令部から命じられたが、特攻隊は編成せず出撃全機を特攻突入攻撃と記載して戦死者を特攻戦死に充てる方針とし、飛行長は艦爆乗員に対して、爆弾を当てればいい、爆弾を当てるため目一杯降下し、後は帰れれば帰ってきていいと訓示した。3180600、攻撃第103飛行隊が第一国分基地から出撃。0700、攻撃第105飛行隊が第二国分基地から出撃。両飛行隊彗星計27機が第203航空隊戦闘第311飛行隊零戦13機の護衛で爆撃を行い、彗星19機と零戦5機が未帰還となり41名が戦死した。319日、彗星23機が出撃し、14機が未帰還となり28名が戦死した。320日、彗星17機が出撃し、7機が未帰還となり14名が戦死した。4月中旬、攻撃第105飛行隊が戦力補充・部隊再建のため鳥取の米子基地に下がった。8151600過ぎ、第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将が大分基地で彗星11機の搭乗員22名に訓示。1700-1730、攻撃第103・第105飛行隊彗星四三型(800kg爆弾1発搭載)11機が大分基地を離陸。宇垣纏中将は攻撃第103飛行隊長機の後席に座り、前の隙間に偵察員が入っていた。戻ってきたのは3機だけだった。参考:歴史群像4,11、月刊航空ファン9,197,1911,192,20

第701飛行隊(航空自衛隊)>:航空自衛隊の政府専用機運用飛行隊。運航要員の空中輸送員は特別輸送員と呼ばれ、職域や性別を問わず三等空佐から二等空尉までの幹部、空曹、空士長を対象に徴募しており、特別航空輸送隊での課程教育を修了して任務に就く。199361日、特別航空輸送隊の創設に伴い、隷下に新編された。運用機はB747政府専用機である。2017515日、羽田空港のANA訓練センターで空中輸送員5名がB777政府専用機への機種転換訓練を開始。2018925日、千歳基地でB777政府専用機によるタキシング及び滑走路上でのエンジンランナップを実施。926日、千歳基地でB777政府専用機のタッチアンドゴー訓練を実施。参考:月刊航空ファン1,15、月刊JWings8,1712,18、朝雲

 <第701飛行隊(1995年)>:特別航空輸送隊隷下で、千歳基地に置かれている。B747政府専用機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第701飛行隊(2005年)>:特別航空輸送隊隷下で、千歳基地に置かれている。B747政府専用機を装備する。参考:月刊JWings7,24

 <第701飛行隊(2015年)>:特別航空輸送隊隷下で、千歳基地に置かれている。B747政府専用機を装備する。参考:月刊航空ファン4,16、航空自衛隊パーフェクトガイド2015

 <第701飛行隊(2020年)>:特別航空輸送隊隷下で、千歳基地にある。B777政府専用機を装備する。参考:月刊JWings6,20

第702航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、第4航空隊から改称されて新編された。昭和1810月末、第25航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。参考:歴史群像8,15、月刊航空ファン7,19

第705航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、三沢海軍航空隊から改称されてラバウルで新編された。昭和18117日、一式陸攻24機でラビ飛行場を爆撃。129日、レンネル島沖海戦に参加。131日、ニュージョージア島沖の敵艦隊を攻撃するため飛行長率いる一式陸攻18機で出撃したが、途中で雨が降り出し、予想海面に敵の姿は無かった。飛行長が引き返すと打電したところ、第705航空隊司令は引き返せと伝えたが、第11航空艦隊司令部は「発長官」と付けて捜索を継続するよう下命した。結局燃料切れになるまで探し回ったが見つからず、ブナカナウには夜になって帰投、飛行長は第705航空隊司令に対し、自分を信頼しない司令部の下では働けないから即刻辞職させてもらいたい、と訴えている。22日、ルッセル島付近の敵艦隊を攻撃するため一式陸攻14機でブナカナウを出撃したが、悪天候で見つからず、帰投時には日も暮れて豪雨により視界がほぼゼロとなり、セントジョージ岬付近で指揮小隊が積雲に突っ込んでしまい、指揮小隊2番機の右プロペラが飛行長機(指揮小隊1番機)の垂直尾翼に接触。2番機は何とか体勢を立て直したが、飛行長機はそのまま戻らず、他にも未帰還機が続出し、計6機が戻らなかった。95日、ラバウルからテニアンに後退し、補充と再編成に入った。ラバウル航空戦では三沢海軍航空隊時代からの通算で搭乗員446名と地上員98名が戦死している。参考:月刊航空ファン7,199,19、月刊丸9,20

第706航空隊>:日本海軍航空隊。最後に編成された陸攻部隊である。昭和2035日に新編され、第752航空隊から攻撃704飛行隊が転属した。319日、宮城県松島基地で錬成を開始。329日、天号作戦に参加するため攻撃704飛行隊の陸攻9機が九州の宇佐基地に進出。410010、攻撃704飛行隊の一式陸攻8機が雷装して出撃、慶良間諸島のアメリカ上陸船団に夜間雷撃をかけたが、4機が撃墜された。43日、沖縄周辺のアメリカ艦隊に一式陸攻5機で黎明雷撃をかけたが、3機が未帰還になった。参考:月刊航空ファン3,13

<第721航空隊>:神雷部隊(海軍航空隊)を参照。

第722航空隊>:日本海軍航空隊で、桜花特攻隊として昭和20215日に神ノ池基地で第3航空艦隊隷下に創設された。当初は桜花一一型を装備する予定だったが、第721航空隊での運用結果が芳しくなかったため、桜花二二型を装備することにした。昭和20812日、桜花二二型の空中投下試験でパイロットが事故により死亡、そのまま終戦を迎えた。参考:日本海軍戦闘機隊

第725航空隊>:日本海軍航空隊。日本海軍で最後に発足した航空隊で、比叡山における桜花四三型乙の運用部隊として昭和2071日に新編された。肝心の運用機が完成しないまま終戦を迎えた。参考:日本海軍の爆弾

第741突撃砲中隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲中隊。19431月に志願兵により編成を終え、春から訓練を開始、夏に第742突撃砲中隊と共に北フィンランドに送られた。7月には戦闘に参加したもののソ連の攻勢を受けて装備を失い後退。12月にウクライナに送られ、1228日から戦闘に参加。防衛戦に徹するが、19444月初めに装備する突撃砲がゼロとなってしまい、418日にドイツに帰還、人員は第394突撃砲中隊配属となって北フランスに送られた。その後も名前だけ残っていたが、619日に解隊された。参考:月刊グランドパワー10,00

第742突撃砲中隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲中隊。19431月に志願兵により編成を終え、夏に第741突撃砲中隊と共に北フィンランドに送られた。7月から戦闘に参加したが、ソ連の攻勢を受けて装備を失い後退。フランスのツーロンに送られて他の部隊と合流し、解隊された。参考:月刊グランドパワー10,00

第751航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、鹿屋航空隊の陸攻隊をベースに新編された。昭和1824日午前、イサベル島沖海戦時に発見されたアメリカ機動部隊を攻撃するため、陸攻9機で出撃したが、機動部隊が攻撃圏外に止まったため引き返した。10月下旬から第25航空戦隊隷下でろ号作戦に参加。参考:日本海軍戦闘機隊、歴史群像8,15、日本海軍艦隊総覧、月刊航空ファン7,19

第752航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、第1航空隊から改称されて新編された。艦戦隊は千歳海軍航空隊に移り、本航空隊は陸攻部隊となっている。主任務は内南洋から出撃しての中部太平洋方面哨戒。12月、任務を第755航空隊に譲り、内地に帰還した。昭和19621日、硫黄島千鳥飛行場に向かう第252航空隊戦闘第302飛行隊の零戦25機を一式陸攻3機で誘導した。昭和2035日、攻撃第704飛行隊が第706航空隊に移った。参考:月刊航空ファン3,135,177,19

第753航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、高雄海軍航空隊から改称されて新編された。参考:月刊航空ファン7,19

第755航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、元山空から改称されて新編された。装備機は九六式陸攻二三型4個分隊36機と補用12機で、1215日に内南洋に進出して中部太平洋の哨戒任務に就くことになり、木更津で整備補給を行った。125日、地上要員が最上川丸でルオットに向かった。1212日、先遣隊九六式陸攻3機がルオットに向かった。1215日、木更津の料亭佐久間で准士官以上の搭乗員が出征前の宴会を開催。隊司令の中佐がかけた言葉を勘違いした特務士官が酔った勢いで殴りつける事件が発生し、殴った特務士官とその場にいた別の特務士官及び飛曹長(酔っても殴ってもいない)が転勤を命じられている。同日、先遣隊がルオット島に到着。その後全機がルオット島に進出した。昭和18120日、陸攻11機がミレ島に進出。124日、陸攻9機がマロエラップ環礁タロアに進出。128日、陸攻12機がギルバート諸島ナウル島に進出。ミレ島の11機はタロアに移動した。211日、タロアで紀元節記念「アットホーム」を開催。中隊ごとに模擬店を出し、現地住民も加わって演芸会や踊りを楽しんだ。318日、解隊された第705航空隊から九六式陸攻二三型6機が転属してきた。325日夕方、ナウル島がPBYカタリナ飛行艇の空襲を受け、陸攻6機が破壊された。タラワ南東700海里にあるエリス諸島フナフチから飛来したとみられたため、327日に第1分隊九六式陸攻二三型7機がタロアからタラワに移動。3280308(日本時間。現地時間は0508)、九六式陸攻二三型6機が60kg爆弾を積んでタラワを出撃し、フナフチに向かったが、2機がエンジン不調で引き返した。0740、フナフチから迎撃に上がってきたアメリカ海兵隊F4F戦闘機3機を発見。爆弾を捨てて退避したが、第2小隊長機が撃墜され、残る3機は1158にタラワに帰投した。同日、ナウルから九六式陸攻二三型3機が出撃し、I区(南方向扇形)の哨戒を実施。ウェーク島から九六式陸攻二三型7機が出撃し、N区(北東から西南西1-4番線。各線は700海里直進し、右90度変針して60海里飛んで戻る)の哨戒を実施。タロア島から九六式陸攻二三型5機が出撃し、L区(東方向扇形)の哨戒を実施。421日早朝、ナウル島がエリス諸島フナフチを出撃したとみられる第7航空軍B-24爆撃機22機の爆撃を受け、九六式陸攻1機が全損、5機が中破した。第22航空戦隊はフナフチ攻撃を下命し、第755航空隊は九六式陸攻二三型17機でタラワに進出。4221802、第1次攻撃隊の九六式陸攻二三型(60kg爆弾6発搭載)3機がタラワを離陸。1845、第2次攻撃隊の九六式陸攻二三型3機がタラワを離陸。1925、第3次攻撃隊の九六式陸攻二三型3機がタラワを離陸。2015、第4次攻撃隊の九六式陸攻二三型(60kg爆弾6発搭載)3機がタラワを離陸。2247、第3次攻撃隊がエリス諸島付近に到着したが、天候が悪くフナフチを見つけられず、引き返した。2332、第1次攻撃隊がフナフチを爆撃し、2カ所が炎上、石油タンクへの命中弾と判断された。4230002、第2次攻撃隊がフナフチを爆撃し、2カ所を炎上させた。0158、第4次攻撃隊がフナフチを爆撃し、滑走路付近に全弾命中した。アメリカ軍の記録ではF4F戦闘機9機とB-24爆撃機7機が全損または損傷している。423日、タラワの九六式陸攻部隊はタロアに引き揚げた。424日にフナフチがB-24の空襲を受けたが、もぬけの殻で、地上施設のみの損害で済んでいる。5月初め、ミッドウエイ島方面のアメリカ索敵線強化に対応するため、ウェーク島派遣部隊を増員した。5月半ば、第22航空戦隊に第755航空隊の一式陸攻への機種改変が通知されたが、一気に更新するため部隊を内地に引き揚げる余裕は無く、現地での逐次更新になり、しかも最初の一式陸攻3機が届いたのは87日だった。6月下旬、アメリカ軍が中部ソロモンに上陸したため、タロア及びナウルから南西に向かう索敵線を強化した。712日にギルバート諸島を爆撃したアメリカ軍機がサンタクルーズ諸島バニコロから出撃したと推定されたため、第22航空戦隊が第755航空隊にバニコロ島爆撃命令が出され、715日に九六式陸攻二三型21機をナウルに展開、早速2機でバニコロ島を偵察し、サボエ湾内に飛行艇母艦1隻と飛行艇8隻がいるのを確認した。夜になり第1次攻撃隊3機と第2次攻撃隊5機がナウルを出撃したが、悪天候で引き返した。7160400、第3次攻撃隊9機が出撃し、0852に爆撃を行ったが、飛行艇母艦は直前に脱出しており、飛行艇1機を大破させたのみに止まった。7170048、第1次攻撃隊3機がナウルを出撃。0145、第2次攻撃隊6機がナウルを出撃したが、悪天候で引き返した。0510、第1次攻撃隊がバニコロ島サボエ湾内に飛行艇母艦1隻と飛行艇11機を確認し、そのまま爆撃を実施、戦果は飛行艇母艦に対し直撃弾1発及び至近弾3発と判断された。0900、引き返した第2次攻撃隊のち3機が再出撃。0940、第3次攻撃隊5機が爆撃を行い、飛行艇母艦を損傷させた。1213、第2次攻撃隊3機が爆撃を行い、飛行艇母艦を航行不能にしたと判断した。718日、第22航空戦隊は戦果拡大のため第755航空隊にバニコロ島爆撃を下命したが、連日の戦闘で出撃可能なのは3機のみであり、薄暮索敵攻撃を行うため250kg爆弾1発ずつのみ積んで1038にナウルを離陸した。1430、サボエ湾に到着したが、飛行艇母艦は無く、重油が浮いているだけだった。その後ガダルカナル方面に向かって索敵を続けていると、1522に巡洋艦らしき艦艇1隻を確認、爆撃を行った。1535、空母1隻を発見。直後の1543(日本時間。現地時間1743)にF4F戦闘機4機の迎撃を受け、2機が撃墜された。87日、第1001航空隊がルオットに一式陸攻の最初の3機を運んできた。827日、一式陸攻5機が到着。91日、南鳥島が艦上機の爆撃を受けたため、第22航空戦隊からウェーク島から北への索敵線強化が下命され、九六式陸攻6機を追加派遣し11機体勢で哨戒に入った。また、連合艦隊からはナヌメア−フィジー−サモア−エスピリツサントからの侵攻に備えた索敵強化が下命されたため、ナウルからの哨戒も強化している。97日、ナウルから出撃してI区7番線の哨戒を行っていた九六式陸攻二三型がナヌメアで軍艦1隻と哨戒艇2隻を発見して銃撃を加えた。98日、ナウルから九六式陸攻二三型10機で出撃、1機が湾内を偵察して海防艦2隻と駆潜艇1隻を確認し、3次の昼間爆撃を仕掛けて大型海防艦に60kg爆弾12発を浴びせ、高角砲陣地を爆撃した。913日、タラワから九六式陸攻15機が5次に分かれて出撃し、フナフチ夜間爆撃を実施、5機が損傷したが全機帰投した。918日、アメリカ艦上機がタラワ、ナウル、マキン、アパママを空襲し、タラワの陸攻が全機焼失した。第22航空戦隊からの敵機動部隊索敵命令を受け、ルオットとタラワから陸攻17機が出撃したが、見つからなかった。10月、機動部隊が真珠湾から出撃したとの情報を受け、104日に一式陸攻7機でウェーク島に進出。1060400にウェーク島から250kg爆弾2発を積んで索敵のため出撃予定だったが、0300前からアメリカ第14任務部隊艦上機延べ400機の空襲が1040まで行われ、0930-1050には戦艦や駆逐艦の艦砲射撃が加わり、1400にはB-24爆撃機がとどめを刺しに来て37名が戦死、陸攻16機が炎上・7機が大破した。107日、ルオットから索敵のため出撃した陸攻がウェーク島北北東にアメリカ輸送船団を発見したと打電して未帰還となった。ウェーク島で乗機を失った搭乗員は第65警備隊の指揮下に入り、陸攻から機銃を外すなどして上陸してくるであろうアメリカ軍との戦闘に備えた。108日、搭乗員救出のためタロアからウェークに第22航空戦隊付九六式陸攻1機が到着。各ペアのメインだけ4機分計16名しか乗せられないとの事だったが、ある主偵察員がペアの副偵察員に飛行機が滑走し始めたら脇のスポンソンから飛び込めとアドバイス、それを真似て11名が飛び込み、タロアに27名が生還した。11月、ギルバート沖航空戦に参加。11月末、タロアの搭乗員が20名前後に減り、テニアンに後退した。参考:月刊航空ファン7,1911,19、歴史群像8,17

第756航空隊>:日本海軍航空隊。昭和20515日、第10方面艦隊攻撃特701飛行隊を攻撃第702飛行隊に吸収した。参考:月刊航空ファン3,20

第761航空隊>:日本海軍航空隊、別称は龍。昭和19710日、銀河を装備する攻撃第401飛行隊が隷下に新編された。1020日、比島沖海戦に参加。参考:月刊丸4,13、比島決戦、月刊航空ファン1,19

第762航空隊>:日本海軍航空隊。昭和19710日に新編され、攻撃第405飛行隊と攻撃第406飛行隊(どちらも銀河装備)を隷下に置いた。1010日、台湾東方にアメリカ機動部隊が出現したため、攻撃第405飛行隊と攻撃第406飛行隊から銀河3機ずつが出撃して索敵に向かったが、全機未帰還となった。1011日、攻撃第405飛行隊が索敵を行ったが、銀河3機が未帰還となった。1225日、攻撃第501飛行隊の銀河5機(三式八十番三十一号爆弾一型)と指揮下の陸軍四式重爆飛龍でアスリート飛行場を爆撃。昭和20124-25日、偵察第11飛行隊が香取から鹿屋に移動した。210日、第5航空艦隊隷下に入った。318-21日、九州沖航空戦に参加。318日、攻撃第262飛行隊の銀河による特攻でCV-11イントレピッドを小破させた。319日、攻撃第406の銀河がCV-13フランクリンに爆弾2発を命中させた。326日、天一号作戦に参加。5月、偵察第11飛行隊が第171航空隊に移った。参考:月刊丸4,13、月刊航空ファン6,16

<第797号艦>:改大和型(計画戦艦)を参照。

<第798号艦>:超大和型(計画戦艦)を参照。

<第799号艦>:超大和型(計画戦艦)を参照。

<第800特殊任務教導連隊>:ブランデンブルグ特殊部隊を参照。

<第800特殊任務建設教導大隊>:ブランデンブルグ特殊部隊を参照。

第801航空隊>:日本海軍航空隊。昭和20319日、アメリカ海軍第58.1任務群空母ホーネット搭載第17戦闘飛行隊F6F-5戦闘機により詫間沖の洋上にいた二式飛行艇2機が機銃掃射を受け、海面を滑走して逃れようとしたものの、両機とも炎上した。参考:月刊丸3,'18別冊

第802航空隊>:日本海軍航空隊。昭和17111日、第14航空隊から改称された。参考:月刊丸9,’20

<第810号艦型軽巡>:改阿賀野型を参照。

第815号艦型軽巡>:日本海軍がマル五計画で4隻を建造する予定だった防空巡洋艦。基準排水量5800トン。兵装は長10cm連装高角砲4基。改マル五計画には含まれず、建造中止になった。参考:近代巡洋艦史

第862航空特殊戦旅団>:台湾軍の特殊部隊で、航特指揮部の隷下にある。本部中隊、2個特戦大隊(乙型基幹編制)、1個特戦大隊(甲型即応部隊標準編制。3個特戦中隊、重火器中隊などから編成)、支援大隊、通信中隊、偵察中隊、工兵小隊、憲兵班、特殊高空突撃小隊、空降特勤隊から構成される。平時定員3200名、戦時定員8000名で、全て志願兵から構成され、主要要員は空挺降下能力を持つ。戦時動員には山地に居住する原住民から編成される2個大隊を含む。小火器の他、120mm重迫、対戦車ミサイル、携帯式地対空ミサイルなどを装備する。参考:月刊軍事研究4,07

第900突撃砲中隊>:ドイツ陸軍突撃砲中隊。1941年中頃、第900砲兵大隊第4中隊から改編されて創設された。7月に中央軍集団第9軍の隷下に入り戦闘に参加。19423月末にドイツ本国に帰還、521日に解隊された。参考:月刊グランドパワー10,00

第901航空隊>:日本海軍航空隊。シーレーン護衛専門の航空隊で、昭和181215日、海上護衛総隊隷下に館山飛行場で創設された。定数は九六式陸攻24機と九七式大艇12機で、鎮守府や基地に所属していた機体を転用している。旧式機だが、飛行安定性が高く巡航速度が遅いので船団護衛向きだった。昭和1915日、練成訓練を終えたため、各地に派遣隊を派出することが下命され、大村に九六式陸攻と九七式大艇を4機ずつ、小禄に九六式陸攻6機、東港に九七式大艇4機を展開させた。2月、高尾とマニラに派遣隊を派出した。31日、定数が九六式陸攻48機と九七式大艇32機になった。4月頃、高雄派遣隊が三式一号探知機の実戦運用試験を開始。65日、三式一号探知機搭載九六式陸攻3機を高雄からセレベス島メナドに派遣し、運用データ収集と訓練飛行を実施。洋上の高度6-10mを3時間安定して飛行する方法、潜水艦を遅延信管付250kg爆弾で爆撃する際の投下法(高度600mから30度の緩降下に入り高度200mで投下が最適)、沈没船を潜水艦に見立てての最適探知法、味方船団上空通過時の高度と感度との相関などを調査し、7月に高雄に帰投した。86日、ルソン海峡船団護衛のため、松島海軍航空隊と豊橋海軍航空隊から九六式陸攻9機ずつが増派された。815日、高雄基地で三式一号探知機装備九六式陸攻部隊の特別掃討隊を編成。5個小隊計15機で、1個小隊あたり3時間の輸送船団前路啓開を行い、4個小隊が交替で0600-1800の対潜護衛を実施、1個小隊は予備である。高度5-10m・列機間隔200mでの飛行となるので、夜間飛行は困難であり、輸送船団の航行は日の出から日没までとしてもらうことにした。1個小隊は横一列に飛んで幅600mを三式一号探知機のカバー範囲に収め、飛行方向は輸送船団の針路と垂直にとり、船団前方1000mを横切るように7500m飛行、180度折り返しながら船団前方海面を掃討していく。三式一号探知機が反応すると、電信員に警告灯とブザーで通知されると共に、ジュラルミン白粉入り目標表示弾と黄色の目標表示弾が連続投下されるので、発見機はバンクして列機に知らせる。これを見て小隊1番機が確認のためジュラルミン白粉が漂う海面の後方100m45度で横切るように通過、潜水艦を探知すると同様に目標弾が連続投下されるので、最初の目標弾2発を結ぶ線と、2回目の線の交点(余裕があれば3回目の探知も行う)に対し、1番機が確認飛行を行っている間に高度600mに上昇した2番機・3番機が遅延信管付250kg爆弾で緩降下爆撃を仕掛ける。818日、特別掃討隊がヒ71船団の護衛に就いたが、船団が協定に違反して夜間も航行を続けたため護衛艦艇と輸送船7隻を沈められてしまい、以降は夜間対潜掃討のためレーダー(三式空六号無線電信機H6)搭載九六式陸攻を配備することになった。重量の関係で1機に両方とも搭載することはできず、三式一号探知機搭載機は垂直尾翼に黄帯に挟まれた斜め赤帯、電探搭載機は黄帯に挟まれた斜め青帯を入れている。826日、タマ24船団の護衛に就いた。0916、ポリナオ岬北5海里で三式一号探知機が反応したため、もう2回確認して2番機と3番機が250kg爆弾を投下、船団護衛の海防艦3隻の爆雷攻撃に増援小隊の対潜爆撃も加え、829日に現場周辺で長さ5海里・幅3海里の重油流出を確認、対潜掃討隊の初戦果が認定された。10月、捷一号作戦に備えて主力を引き抜かれてしまい、少数での対潜護衛を余儀無くされた。10月下旬、松島海軍航空隊と豊橋海軍航空隊の増派九六式陸攻8機ずつ(1機ずつ未帰還が出た)が原隊に復帰。122日、特別掃討隊が三式一号探知機装備九六式陸攻(250kg爆弾2発搭載)3機で高雄基地を出撃し、バシー海峡で輸送船団の対潜護衛にあたった。輸送船団前路に三式一号探知機で潜水艦1隻を発見して爆撃し、重油が浮くのを確認したが、直後に船団後方の輸送船2隻を雷撃で沈められてしまった。1210日、第1海上護衛艦隊の隷下に入った。昭和202月上旬、九六式陸攻4機で仏印ニャトラン基地に進出し、南号作戦支援の対潜任務に就いた。34日、ニャトラン基地から船団護衛に向かった九六式陸攻のうち1機が行方不明になり、B-24と交戦して自爆したと判断された。4月、沖縄戦開始で主任務が偵察・索敵に変更され、一部は特攻に回された。43日、九六式陸攻3機が特攻に回され、46日に鹿屋基地に到着。着任報告で第5航空艦隊宇垣纏司令長官に戦歴を申告したところ、第951航空隊陸攻と共に特攻を解除され、夜間攻撃部隊に編入された。特別掃討隊は昭和19825日から910日に潜水艦15隻を発見して6隻を撃沈したとされ、終戦までに潜水艦16隻を撃沈したといわれるが、戦後に特別掃討隊所属の安丸少尉がアメリカ資料と突き合わせて調査した結果、実際には三式一号探知機による戦果は皆無だった。参考:月刊丸5,07、海軍技術研究所、月刊世界の艦船9,13増刊、月刊航空ファン1,203,20、館山航空基地ホームページ

第901突撃砲教導中隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲中隊。第2次大戦時にスターリングラードで包囲された第6軍の救出のため、第8教導砲兵中隊を19421215日に改称して戦闘部隊にしたものである。しかしソ連軍の攻勢を受けてスターリングラードには辿り着けず退却。19434月にユッターボグに帰還して第8教導砲兵中隊として再編成された。参考:月刊グランドパワー10,00

第903航空隊>:日本海軍航空隊。昭和191215日、館山飛行場で新編された。参考:月刊世界の艦船9,13増刊、館山航空基地ホームページ

第911突撃砲大隊>:ドイツ陸軍独立突撃砲大隊。第2次大戦スターリングラード戦で壊滅した第177突撃砲大隊と第300突撃砲補充大隊の残余兵を集めて創設された。クルスク戦に参加した後、1944217日に旅団に改編され、89日に第69戦車駆逐大隊に改編された。参考:月刊グランドパワー10,00

第931航空隊>:日本海軍の対潜航空隊。海上護衛総隊の持つ小型空母4隻に搭載されて対潜護衛任務を行う部隊で、昭和1921日に新編された。ただ本格的な運用が可能となる前に空母3隻が失われてしまい、活躍できなかった。参考:月刊世界の艦船9,13増刊

第951航空隊>:日本海軍航空隊。昭和191215日に編成された。参考:月刊世界の艦船9,13増刊

第1001航空隊>:日本海軍航空隊。鈴鹿海軍航空隊に置かれている。昭和1912月、霞ヶ浦海軍航空隊のグライダー空挺隊が隷下に入った。九六式陸攻で陸軍ク8−Uグライダーを曳航して訓練を行っており、ク8−Uも徐々に増備されて10機くらいになったため、漸く十分な訓練が行えるようになった。昭和203月、九六式陸攻+ク8−Uによる夜間訓練を開始。325日、ク8−Uに地上整備員や物資を積んで九六式陸攻により曳航し、鹿屋基地に空輸することになったが、豊後水道上空でF6F戦闘機に襲撃され、グライダーを緊急離脱、九六式陸攻は富高基地に緊急着陸し、ク8−Uは洋上に不時着水して数名が重軽傷を負った。41日、沖縄戦開始で燃料を戦闘に回す必要があり、グライダー空挺隊の空中訓練が中止され、九六式陸攻は輸送任務に回された。6月、グライダー空挺隊要員が転勤となり、空挺隊が消滅した。所属九六式陸攻は第3美幌基地の鵬部隊に回されている。参考:月刊航空ファン1,20

第1021航空隊>:日本海軍航空隊。昭和191020日、比島沖海戦に参加。参考:比島決戦

第61398部隊>:中国のサイバー攻撃専門部隊で、中央軍事委員会総参謀部第3部第2局の隷下にある。2007年に上海浦東新区に建設された12階建てビルに本部があり、要員は数百名から千名超。上海を拠点とするハッカー組織APT1Advanced Persistent Threat One)と同じものらしい。標的型メール攻撃でマルウェア添付偽装メールを送りつけ、ネットワーク内にバックドアを構築、遠隔操作機能でコンピュータを乗っ取り、アドレス帳に登録されているメールアドレスにも偽装メールを添付、アクセス権を拡大して1年かけ情報を盗みまくり、証拠を全て消して離脱する。参考:月刊軍事研究7,13

 

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